冠婚葬祭ビジネスへの視線

2013年4月26日 (金)

これから増えるかも? 都市部の「自宅葬」

最近、葬儀業界で小耳に挟んだ話。

「東京では自宅葬がボチボチ増えているらしい」

衝撃的でした。

地方ではまだまだよく見られるものの、

都市部に済む人たちが自宅で葬儀を行っていたのは、もう20年以上も前の話。

いや、そんな歴史なんてなかったかもしれない……。

だって家が狭いんですもの。

棺の導線確保ができないんですもの。

ただ、最近は少人数で営む「家族葬」が人気。

「家が狭い」という問題は大勢の人が出入りしなければならないという発想から生まれるものであって、

その点、親族だけの葬儀であればクリアする家も多いはず。

あとは棺が入ればいいのだ。

単純に考えて、故人がいったん家に帰るような場合は

「家族葬」なら、わざわざ改めて葬儀会場へ移動するというのも

バカバカしい気がする。

だって、家に故人がいるなら

いったんは親族が、家へ集まるでしょ。

せっかく1つところへ集まった人々を移動させるなんて。

面倒でしょ。

そう気づく人がたくさん出てきても、おかしくはないのだ。

さらに、自宅葬に追い風。

最近流行の「ホームパーティーができる我が家」。

ホームパーティーができるなら、葬儀だってできるでしょ。

在宅介護や自宅での看取りへと国の方針がシフトし始めている。

自宅で看取り、自宅から送るシンプルな葬儀が

そこかしこで生まれるに違いない。(小松)

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2012年10月21日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/自由に弔われる時代がやってくる

 念のため最初にお断りすると、今回は「ビジネス」寄りの記事ではない。
 遺灰を海や山に還す「自然葬」を弔いの一つの形として提案する「葬送の自由をすすめる会」が、去る10月1日に「葬送基本法推進懇談会」を行った。
 「葬送基本法」とは同会が制定を求めるべく草案を作っているもので、現行の「墓地、埋葬等に関する法律」よりも死者を弔う方法の自由を前面にうたった法律を目指すという。
 懇談会に参加し、法案執筆者である中村裕二弁護士、宗教学者の山折哲雄氏、島田裕巳氏、そして会代表である安田睦彦会長の話を拝聴した。

 「『葬送の自由』といっても、最近は散骨も認められてるっていうじゃない。違法じゃないのであれば、どうして今更法律を作る必要があるの?」
 そう考える向きも多いかもしれない。
 確かに同会が1991年に海洋散骨を行った際、当時の法務省と厚生省は「葬送のために節度のある方法で行われる限り」認められるという見解を示した。しかし「本来、葬送の自由は公共の福祉に反しない限り自由に認められる基本権の一つである」というのが、中村弁護士の見解である。基本的人権となれば、国や行政がみだりに妨害したり干渉したりすることができない。「節度のある方法で」という、そのままの表現であれば、いつか限界がきてしまう。その人が考えうる限りでのしめやかな態度で散骨をしたとしても「節度がない」と言われたら最後、その周辺で散骨が禁止されかねない。そこにノンというのが中村弁護士だ。「節度」という言葉はとても曖昧な表現であり、とても法律の場で使えるようなものではない、というのである。

 奥山自身、自然葬を「3ステップで誰も文句のない散骨」として紹介することがある。
1、場所を見つける…無難なのは海。
2、粉骨する…そのままでは見かけた人が驚きます。
3、「弔い」として「撒く」…心を込めて、決して埋めてはなりません。

 この3番目が、我ながら引っかかるのである。「弔い」として「撒く」というのは、「節度をもって、弔いとして」「墓地じゃないところに埋めると法律に引っかかるので、あくまでも撒きましょう」ということで、現行ならこの説明でOKのはず。
 でも、と違う自分が肩をポンとたたく。
 「弔いの気持ちで散骨してるか否かって、誰がどう決めるの?」
ーー手を合わせているだけで、ただ骨が邪魔で遺棄したいだけかもしれないのだ。
 「海なら埋められないのは当然だけど、山で散骨するときも、ちょっと土で覆うことすらできないわけ?」
ーーちょっとでも土をかけたらその時点でアウト、っていうのも、なんだかヘンな気がするよね……

 そう、この「葬送のために節度のある方法で行われる限り」という表現、きわめてアバウトなのだ。客観性の全く感じられない言い方なのである。これでは散骨したくて勉強する人も「えっ、結局のところ具体的にどうすればいいの?」と頭がこんがらがってしまうに違いない。誰かに「あなたは葬送のために散骨したのではない(つまり供養ではなくただの遺棄である)」とか「全く節度のない散骨の仕方である」と責められたときに有効な反論が持てないのだ。今のままでは、自由な弔いが法で守られているとはいえないのである。

 「葬送基本法」は葬送の自由が守られるべき基本的人権であることをうたうのが目的の一つだ。かつて犯罪被害者の人権の発見により「犯罪被害者等基本法」ができたように、人権は「発見の歴史」を持っている。今また新しく、一つの人権が発見されつつある。それを見届けたい。(奥山晶子)

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2012年5月15日 (火)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/安置難民を救う「死者のホテル」りすセンター・新木場

 病院で臨終を告げられてから霊安室に移動し搬送するまで、どのくらい時間の余裕があるかご存じだろうか。
 一般的には、遺体の処置時間を含めても2時間程度。霊安室には1時間程度しかいることができない。なぜか。病院に用意されている霊安室の数が少ないためだ。中規模病院でも1~2体程度、5体以上置ける病院などほとんどない。
 だからこそ各病院では葬儀社との迅速な連絡体制を整えているのだが、そうするとどうしても葬儀社の選定は病院主導になる。古くから付き合いがあって間違いのないところ、いつでもすぐに駆けつけてくれるところ……しかしその葬儀社は、本当にどんな遺族にとってもベストな葬儀社といえるだろうか。
 いったん自宅に連れて帰り、ゆっくり相談することができる人は、葬儀社には「自宅への搬送」だけをお願いすればよいだろう。でも、誰もがそうできるわけではない。一度ある葬儀社の安置室へ運んだ遺体を別の葬儀社へ移動するのは精神的にも経済的にもたやすいことではない。
 そんな「安置難民」の悩みを払拭するのが、りすセンター・新木場。遺体の冷蔵安置を行う施設であり、30名ほどまでの葬儀であれば十分に可能な会場も整っている。今回、センター長の花田さんと職員の近藤さんにご案内いただいた。

 りすセンター・新木場は、新木場駅から車で7分程の立地にある3階建ての建物だ。1階が安置室になっており、37体を収容可能。依頼すると白い搬送車で迎えに来てくれる。遺体は吸水シーツに取り付けるバーコードで管理し、室温5℃・湿度80%に保たれた保冷室に安置される。室内には滅菌灯がついていて、マイナスイオンを発生させる装置で空気を清浄に保っていた。
 そして安置室の手前は「陰圧室」になっている。「インアツシツ」という聞き慣れない言葉に首をかしげていると、近藤さんが何かのスイッチを押した。「ゴー」という音とともに、排気口から部屋の空気が出ていくのが分かる。室内の気圧を低くすることによって排気がなされ、フィルター処理を経て外へと排出されるしくみになっているとのこと。万一、何かの菌に空気が侵されたとしても安心だ。
「温度、湿度、滅菌管理がここまでしっかりしているのは、日本では大変珍しいのではないでしょうか」と近藤さんが言う。確かにそう思う。いろんな斎場を取材してみたが、ここまでハイテクな安置室は見たことがない。
Photo  2階はお別れ会などのための会場で、パーテーションで区切られた小ぶりの部屋が3つある。パーテーションを外せば30名程度は収容できるとのことだ。部屋の手前は受付や故人の思い出コーナーなどを設けるスペースで、要望があればスクリーンを配置し、ビデオなどを流すことも可能だ。
 3階もお別れ会などの会場だが、こちらは畳。20名程度の会葬が可能だ。故人に一晩中付き添いたいという人は、この部屋で見守りができるとのこと。寝具などを使いたい場合はレンタルとなる。
「例えばご安置のあと、ご遺族はこの3階のお部屋でゆっくりと葬儀について話し合っていただく。葬儀社に見積もりを依頼する場合は、それが妥当な金額なのかということもアドバイスします」と花田さん。つまり葬儀の相談員が脇についていながら葬儀社をじっくり選べるわけで、こんな心強いことはない。これが葬儀社の安置施設だったら、自社の案内しかしないのだから。
「ご利用は私共の母体である『りすシステム』で生前契約をし、ご自分で葬儀をプロデュースして逝った方のご要望通りに祭壇や棺を手配して葬儀を執り行う、というものがほとんどです。しかし喪主となる立場の方にも、故人との最後の時間を作り出すためにこういった施設があることを知っていただきたい」と近藤さん。
 お2人とも穏やかで、こちらの質問にしっかりと答えて下さるのはもちろん、記者の感想などにも頷きながら真剣に耳を傾けて下さり、聞き上手な男性方でした。「毎月12日にはセンター内の見学会もあります。ぜひ施設内を確認するとともに、実際にお手伝いをする私たちの顔を見ていただきたいです」とのこと。自分の死後、確実にこの2人が葬儀の手伝いをしてくれると知っておけば、確かに安心だろう。

 遺体保管は一泊7,350円、面会が一回につき1,050円。会場は規模により1時間2,000円(10名程度)、3,000円(15名程度)、5,000円(30名程度)。葬儀なら準備時間を含めて3時間ほどあれば施行できる。
 遺体保管の料金は相場かやや低めなくらい、ということだが、こちらに保管ができれば最先端の設備で見守りをしてもらえる上、葬儀社社員ではないスタッフに心おきなく相談ができる。そんなところは、日本にここだけと言っていいだろう。(小松)

■連絡先…りすセンター・新木場 TEL 0120-373-959

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2012年4月22日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/「戒名料」という名前がダメなのかも

「僕は戒名なんていらないよ」

と、知り合いの40代男性が言ったので

「それでは、葬儀は仏式でなくてよいということですか?」

と質問すると、

「いや、べつに葬儀は仏式でいいんだけどね」

という答えが返ってきた。

にわかには意味が分からず、色々と話してみると、どうやら戒名がいらないわけではなく戒名料を払いたくないということのようだった。

仏式葬儀のお布施は「戒名料」と言われることが多い。自らは自覚することのできない死後の名前を買うのに、高額とうわさの料金を支払うのは納得がいかない、というわけだ。(だったら生きてるうちにつけて貰っては、という話もあるが)

ただ、お経をあげてもらうから、お経のぶんの料金は払うよ、と、知り合いはさらに言った。

なるほど、この人の頭の中では

<葬儀時に僧侶に支払う料金の内訳>

読経料…●●%

戒名料…●●%(読経料よりかなり高い)

ということになっているようだ。

きっと同じように考える人は多いだろう、と思い当たったところで、「葬式仏教」の暗い姿が見えた気がした。つまり、すでに私たちは、お経を葬儀のBGMとしか思っていないのである。仏教を葬儀の中だけに閉じこめたのは、私たちといっても過言ではないのだ。

戒名は仏弟子になったら授かるもの。葬儀時に読まれるお経の最初の部分は、宗派にもよるけれど、仏弟子になるための準備段階のようなもの。そんなに簡単な説明で済ますなと宗教者からは怒られそうだけれど、ざっくりと説明するにはこれで十分じゃないかと思う。だから、「戒名料」と「読経料」は切っても切れない。戒名を授けない宗派でもお布施の目安はそうそう変わらないことを考え合わせると、いらないから戒名の分だけ削る、というのは、とても乱暴な話なのだ、本来なら。

私は宗教者ではないが、布施を「戒名料」とか「読経料」とか「支払う」「料金」などと捉えること自体、俗っぽくて目を覆いたくなるくらい恥ずかしい。「布施」は「布施」でいいし、目安を気にすることなく信心の大きさによってお渡しすればよいと思うのだが、そうはいかないのが今の世だろうか。人目を気にしないのなんてお前だけだと言われそうだが。(小松)

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2012年3月17日 (土)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/3.11も稼働した「りすシステム」の見守りサポート

 3.11から一年。日本中の誰もが恐怖で凍り付いたあの日、懸命に会員の安否確認をはじめた団体がある。老人ホームでも医療機関でもない。NPOりすシステム。葬儀や墓などの死後に関することと、日常生活のなかで必要なサポートを行う生前事務の生前契約、万一判断力をなくした時にサポートをするための任意後見契約を活動の柱とする特定非営利活動法人だ。
 もとは「もやいの碑」という、地縁も血縁も超えた新しいスタイルの墓が発端だった。墓は後継者がいなければ買うのが困難だ。独身をつらぬき身寄りのない人、親族とのしがらみから抜け出したい女性、終の棲家を自分自身で決めたい人々にひらかれたお墓、それが「もやいの碑」。しかし、確実にそこへ弔われるには、自分の死後誰かが駆けつけて納骨までサポートしなければならない。その必要性から死後についての生前契約という思想が生まれ、誕生したのが「りすシステム」なのだ。
 身寄りのない場合、困るのは死後ばかりではない。入院した時に世話してくれる人、老人ホームに入りたいと思った時の保証人、認知症などになった時に自分の意思を代理してくれる人……りすシステムは、その全てについてサポートする。いわば家族の役割を、すっかり引き受ける存在だ。
 そんなりすシステムにとって、地震の後に会員の安否を確認するのは、離れて暮らす家族に連絡をするくらい当然のことだったかもしれない。しかし、被害のひどい東北沿岸部を管轄している北日本支部の常勤スタッフは1名。ライフラインが寸断された中を一軒ずつ車でまわり、電話が復旧すれば電話を駆使し、本部とボランティアの力を借りながら会員の無事を確認したという。それだけではない。会員が避難する避難所が閉鎖されると聞けば次の避難所まで連れて行くなど、まさに家族のようなサポートを実行したのだ。
 もちろん、被害があったのは東北ばかりではない。北海道から神奈川まで、東日本に住んでいる会員は1709名。地震の翌朝からは、本部・支部総動員体制で電話による安否確認を始めた。3週間ほどをかけ、幸いにして会員全員の無事を確認できた。
「地震のあと数日は一部の電車が計画停電などで動かなくなり、出勤できないスタッフもいましたから、少人数で対応せざるを得ませんでした。大きな余震があればまたかけ直したり、長野で大きな地震があったことを受けて連絡範囲を甲信越までのばしたりして対応しました」と語ってくれたのは、千代田区にある本部のアドバイザー、西村さん。彼自身、電車が動かなくなるのを危惧して、一週間は事務所近くのホテルに宿泊した。「家に帰ったら、次にいつ出勤できるか分かりませんからね」と口ぶりは穏やかだが、多くの人は「出勤したら、次にいつ家に帰れるか分からない」と逆のことを心配するだろう。家族になった責任感と、確固たる使命感がそうさせたに違いない。

「通常時でも『元気コール』というかたちで、週に一回などの頻度で会員に電話したり電話してもらったりという活動をしています。ただ私たちは緊急の際に素早く駆けつけるということができません。セコムと相談して会員のための特別価格を設定してもらい、一人暮らしの方におすすめしています。室内の人の動きをセンサーで確認し、一定時間動きが確認できない時にまずはセコムが対応し、同時に私どもに連絡をいただけるという仕組みです」(西村さん)
 災害の時のみならず、いつも見守ってくれ、自分のために動いてくれる存在があるというのは、大変心強いことだ。3.11の前までならあまりピンと来なかったかもしれない、この「いつも見守っている」というシステムのありがたさが、今は本当に良く分かる。

「会員は、頻繁に連絡してほしいという人から、極力そっとしておいてほしい人までさまざまです。事情に合わせてサポートしています」と西村さん。生前契約の実務を担うのが「りすシステム」、預託金を管理する「日本生前契約等決済機構」、葬儀部門の「りすネット」、地球環境に優しい葬儀を提案し地球に恩返しの森づくりをすすめる「エコ人権葬」と、関連組織は広がりつつある。「個」の時代のエンディングプランにフィットするりすシステムに、今後も注目していきたい。(奥山)

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2011年10月 9日 (日)

火葬費用返還

震災によって亡くなった方についての火葬費用は、国庫負担となりました。

自治体が次々に発表し、返還手続きを呼びかけています。

●福島県

http://www.pref.fukushima.jp/j/kasoutoriatukai.pdf

●岩手県

http://www.pref.iwate.jp/view.rbz?cd=32407

●宮城県(各自治体ごと。下記は総務省による総合的な案内)

http://www.soumu.go.jp/kanku/tohoku/madoguchi/index.html#s01_08

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2011年7月 3日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/フューネラルビジネスフェア2011に行ってきた!(後編)

 今年のフューネラルビジネスフェア、裏テーマは「カジュアル」と「老舗の底力」ではないか。そんな視点からレポートしている。前回の「カジュアル」に引きつづき、「老舗の底力」。いくら新規参入業者が多かろうと、老舗が本気を見せたらやっぱりかなわないのかも、と思わずため息が出たのが、つぎの2点だ。

 まずは日本香堂の新製品「香散華」。棺用の匂い袋だ。「散華」とは、法要のさいに僧侶が撒く花片であり、多くは蓮の花片をかたどった色紙が使われている。メンコ並に固いものから薄紙系、色とりどりの仏教画が描かれているものからシンプルな単色系まで、素材も色も様々なのだが、手のひらよりもひと回りほど小さいサイズはほぼ一定している。その「散華」をかたどった匂い袋は、色とりどりで美しい。故人へのメッセージを書くこともでき、納棺の儀式で親族が一枚ずつ持ち、最後に棺に納めるのにふさわしい華やかさがある。
 納棺の儀式では、最後に花で故人を囲むことも多いのだが、火葬は次の日。最後のお別れのときに棺を開けると、そこには一日たって萎れてしまったランや百合、菊があり、少し残念な気持ちにさせられるものだ。それに、脱臭シーツを敷いていてもやはり開けた瞬間の匂いは気になる。その二つの悩みを、この「香散華」は一気に解決してくれるのだった。色鮮やかでも紙製品なら変質しない。匂い袋を布団の上にちりばめることになるのだから、あとで棺を開けた瞬間の臭いも抑えられる。お香なら火葬になんら影響を及ぼさないというのもいい。
 さらに少し高齢の方ならわりと知っているのが「散華」。法要で撒かれたものを拾って持ち帰れば御利益があるともされているから、故人にそれを持たせられるというのは、けっこう嬉しいのではないだろうか。
「いや、我々も、作ってみたら、予想以上にきれいでビックリしましたね」
とは、案内してくれた社員さんのお言葉。しかし、誰でも思いつきそうでありながらなかなか浮かばないアイディア商品、そして思いついたとしても、これだけ上品で美しい佇まいのものを作るのは至難の業だろう。まさに老舗の底力を感じさせる商品だった。

 2点めは棺の老舗、共栄のニューウエーブ棺。わざわざ「撮影禁止」という札が立っているくらい斬新なかたちで、だから画像での紹介もできないのだが、一般の方々が一番群がっていたのがこのブースであった。昨年も、メッセージを書いた短冊を棺の蓋に並べることのできる「安曇野」などの意欲作を出していたが、今回は人生の船出を思わせるような、ヨットを模した流線型の真っ白な棺が印象的だった。字面だけ見ると、「?」と思われるかもしれない。しかし、実際はシンプルでありながら実に優美で、「ちょっと真似することはできないな」とため息が出そうな代物なのである。伝統品をきっちり、かっちり作るところは、新しい製品もやはり素晴らしい。こんな棺なら入ってもいいかも、と思わせるにじゅうぶんであった。

 ジャンルとしては返礼品や手元供養品が目立った今回のフューネラルビジネスフェア。より、業界外の人が訪れても楽しめるものになったと言える。ブックフェアやフードショーのように、スーツ以外の人でにぎわうフェアになる日も近いかもしれない。(小松)

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2011年7月 2日 (土)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/フューネラルビジネスフェア2011に行ってきた!(前編)

 年に一度の葬祭業界の祭典、フューネラル・ビジネスフェア。去る6月28日、黒いスーツばかりが目立つパシフィコ横浜で、今年も多くの新製品を目の当たりにしてきた。
 今年のテーマは「家族葬時代」。小規模な葬儀が多くなり、客単価が下がってきた葬儀の現場をどう盛り上げていくか、そんな視点から生まれた商品の数々。業界の確実な変化・進化がみとめられる。
 会場をひととおり回り終えたとき、私の頭には「カジュアル」と「老舗の底力」という2つのキーワードが浮かんでいた。

 葬儀といえば儀式。儀式といえば改まったもの。だからカジュアルとはほど遠いのが当たり前だ。しかし、今回展示にあった返礼品や手元供養などが、今までの常識から比べるとはるかにカジュアルになっていた。しかも上品さを損なわずに。
 例えば、返礼品のYAMATOが提案する、即返しとしてのエキストラバージンオリーブオイル。即返しとして思い浮かぶのは、まず、お茶である。もしくはお酒。ハンカチ。タオル。等々、伝統とはいえないまでも、どれもみな贈答品のアイコンとして日本人の頭にインプットされている品々だ。そんな中、油。しかもお中元などにありがちな食用油ではなく、オリーブオイルである。どうして返礼品にオリーブオイルを提案するのか。
「いま、じつは高齢の方の間でオリーブオイルの認知度が上がっています。動物性の油よりも植物性の油のほうが健康によいという意識からです。しかもオリーブオイルは実そのものから採れる、世界的にもめずらしい油です。オリーブのジュースといってもよく、本場の地中海地方ではかけたり焼くだけでなく、オイルで煮込み料理まで作る。健康の視点からは目の敵にされやすい油ですが、オリーブオイルなら安心して使うことができるんですよ」
 とは、オリーブオイルを案内してくれたお姉さんのお言葉。なるほど、高齢者だからこそのオリーブオイルなのだ。パッケージもお洒落で、「外国からのお土産」感を醸し出している。蓮の花が描かれた熨斗や、黒や緑の素っ気ないパッケージといった従来の香典返し観を一気にくつがえしてくれるデザインだ。

 お次は、メモリアルアートの大野屋の手元供養ブランド「Soul Jewelry」。手元供養のペンダントといえば、遺骨を納めるカロートをモチーフにした筒型や、仏教をイメージさせる荘厳な印象の極彩色が多い。しかしこのブランドの遺骨ペンダントは、ジュエリーとして「普通」なのだ。パール型、オープンハート型、涙型。とても遺骨が入っているとは思えない。日常生活で身に着けていても、「もしかして、それって……」と言われることはほぼないだろう。いい意味での「特別感のなさ」が、とってもカジュアルなのだ。

 ブースは半分仕事を忘れてジュエリーに見とれる若い女性でごった返し、デパートの宝飾品売場だと言ってもまったく疑いようもない雰囲気に包まれていた。(つづく)(小松) 

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2011年2月13日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/「明るい遺影写真展」に行ってきた

 特に急逝したときなど、遺影写真を選ぶというのは大変困難なものである。
 なんと言っても、葬儀の場で目に見える主役の顔といったら、遺影しかないのだから。
 昔のアルバム、今ならデジカメのデータを何千枚もひっくり返して、あれでもないこれでもないと言い合うことになったり、反対に「おじいちゃんは写真に撮られるの嫌いだったからなあ~」と呑気な顔で出征の時の写真を出してこられたり。
 そんなのはまだいい。
 集合写真の中から米粒みたいなサイズの顔を指さされて「これなのよう」と言われ、それを几帳面に「アスカネット」に預け、そして出来上がってきた写真のぼやけっぷりといったら、いろんな意味で涙を誘うものがある。
 アスカネット。
 遺影を扱う会社としてはきっとトップクラスのシェアを誇る、フォトサービスの会社だ。
 私が葬儀社にいた頃は、遺族から受け取った写真データをスキャンしてアスカネットに送信し、引き延ばし・着せ替え・肌色の修整などをしてもらったものを、またデータで送ってもらっていた。
 日に2~3枚しか遺影を見ない私たちなんて楽なものだ。
 年に27万枚を受け取るアスカネットの気苦労は、きっと私たちの想像を絶するものだったのだろう。プロとして誇りを持っているからこそ、「こんな写真で遺影が作れるかああっっっ!」と、ちゃぶ台をひっくり返した日もあったろう。だからこそ彼らは、次のようなサービスを始めた。
その名も、

遺影バンク。

 生前から好きな写真を遺影として登録しておけるサービスで、登録料は無料とのこと。とっておきの一枚を用意しておく方がいい、と言われても、あの大きなサイズで自分の遺影が自宅に届くなんてちょっと嫌。そんな風に考える人も多いだろうから、データとして預けておけるのは気楽なものである。しかも大切な人へのメッセージを書いておけたり、家系図を作成できたりと、エンディングノート的な機能もある。
 ただ、これに登録しているということを家族が知らないと、何の役にも立たないけれど……。

 で、このサービスができた記念に、という訳でもなかろうけれど、協同組合日本写真館協会と株式会社アスカネットが「明るい遺影写真展」を共同開催した。東京での展覧は終わり、大阪は2月17日から20日まで、TWIN21アトリウムで開催されるようだ。

 東京会場は新宿駅西口のイベントコーナーだった。北海道から沖縄まで、いずれもプロの写真家が撮った遺影が400枚、ずらっと並ぶ姿は圧巻だ。どれも「本人らしい」一枚になるように工夫が凝らされている。ソムリエであればワイングラスを傾けた仕草、農家のおばあちゃんなら農作業中の屈託ない笑顔、背景はトマト畑だ。バーのママならカウンターにいる姿、カメラマンはカメラと一緒に……。
 そんな中、目を引いたのは意外にも紋付き袴を着、日本刀を腰に差した厳格な表情のおじいちゃんであった。お仕着せに過ぎるとして昨今は敬遠の対象であった喪服姿、他の写真がラフだとぐっと引き締まって見える。やっぱりちゃんとした写真っていうのは若干意識してコスプレしたほうがサマになるのかもね、と思った。
 加えて、この遺影群は「本人らしい」をモットーとしているようだが、大部分の写真はちゃんと化粧してライトを照らされて笑顔になって、を基本としている。それって、必ずしも本人らしくない。いつも仏頂面で厳格なおじいちゃんが変に笑顔を作っても、家族は複雑だろうと思う。しわしわでしみだらけなのがおばあちゃんのチャームポイントなのに、それを修整されたらどうだろう。
 もっと細かいことを言うと、本人が思う「本人らしい顔」と、家族が思う「本人らしい顔」が同じとは限らないということだ。もし将来、「遺影バンク」に自分で預けておいた写真が家族に「イマイチだよねー」と酷評され、違うものに差し替えられたら……。悔しくて化けて出ると思う。だから、登録の存在を家族に知らせるためにも、皆と相談しながら決めよう、遺影。そうしよう。(小松)

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2010年12月 4日 (土)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/書評『無縁社会』無縁死、こわい?

9784163733807_2  今年1月以降、NHKの特番が次々と取り上げ、日本に広めたテーマ。それが「無縁社会」だ。ーーなどとしらっと言い切っているが、日常生活においてテレビを一秒も見ない小松には何のことやら。しかしネットでこの番組のことが話題になり、「孤独死が怖い」「明日の自分を見るようだ」とみなさんがおっしゃっているのは多く目にしたので、孤独死が怖いのは処理するこっちのほうだよと悪態を吐きそうになりながら買ったのが『無縁社会』(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班、文藝春秋社刊)。この厚みで1400円(税込)は安い! と喜びながら買って読んだ。引き込まれ、あっという間に読了してしまった。

 第一章は行旅死亡人の追跡について。いわゆる行き倒れとか水死とかで亡くなって、発見されても所持品等からは正体が不明な方のことである。そういう人については官報が発表し、ネットでも公開している。私自身には行方不明の身内などいないが、パラパラ繰っていくと、不謹慎なのを承知で言えば、面白い。死んでも誰も騒いでくれない人というのがいるのだ、それもたくさん。
 取材班は聞き込みを通じて1人の行旅死亡人の正体に迫ってゆく。アパートの大家からの聞き込みや資料からの特定といった捜査の手腕、どこへでもゆくフットワークの軽さなどは読んでいて惚れ惚れするほどだ。読者の方々には、ねばり強く聞き込みをすればだんだん分かってくるのなら、どうして警察は何もしないのかと思う向きもあるだろう。行旅死亡人の追跡をヤンワリとしかしないのは、それをしたところで得をする人が誰もいないからだ。生き別れになった父親が生きているという知らせは聞きたいかもしれないが、行方が分かっても亡くなっているならどうだろう。「聞かなきゃ良かった」っていう人も多いだろう。どこかで幸せにやっていると夢想しているままの方がどんなに幸せか。しかも火葬料金を支払わなければならないかもしれないし、ヤバいところから借金してるかもしれない。時には調べない勇気、好奇心を抑える勇気も必要である。

 第二章は孤独死のあと遺族から「引き取り拒否」をされる遺体について。第三~五章は頼れる人のいない単身者の老い支度についてなど、孤独な中で人生の終焉へ向かう人々についてのドキュメンタリーが続く。ネットでの反響を掲載しているのは第六章「若い世代に広がる“無縁死”の恐怖」だ。番組への感想がツイッター上に多数載せられ、その一部の人々にはインタビューをしている。30代にさしかかり、未婚の兆しが見えてきたおひとりさま女子や、「若いうちは1人の方が気楽だけれど…」とこぼす38歳の男性など、まだまだ働き盛り、死とはそれこそ無縁に見られる世代が悲痛なつぶやきを寄せている。
 「無縁死がこわい」。それは1人で苦しみながら死ぬのが怖いのか、遺体が腐り果てるまで見つけてもらえないことが怖いのか。どちらもたいした怖さではない。自分の死を悲しんでくれる人のいないことに対する恐怖。それは、自分の今日生きていることを喜ぶ人が誰もいないことに帰結する。だから、「今」怖いのだ。

 上野千鶴子の『おひとりさまの老後』(法研)では、気の合う女友達とわあきゃあ言ったり、場合によってはいっしょに住んだりしながら楽しむ老後が提案されていた。香山リカの『しがみつかない死に方』(角川新書)では、「ハッピー孤独死マニュアル」を提唱するほど、成熟社会において孤独死という事態がなんと自然で幸せかと前向きに書かれていた。でもそれはお友達が沢山いて家族からもそっぽ向かれてない裕福なシングル女性の言い分だよね。上のような根源的な不安には答えてくれないよね。と、30代無縁女子はボソボソつぶやく。その不安に真っ向から向き合えるのは、他ならぬ30代である。ちょっと前まで「コミュニケーション不全のワカモノ」と呼ばれていた、今はオトナの私たちである。暗い私たちには、暗い対処法がきっとある。ひとりずつながら、いっしょに模索していこうじゃないか。そんな風に思える本だ。

 ちなみに腐乱死体になるのこそが怖いんだというみなさん、死んだ後は誰に迷惑かけようが自分は何も感じません。生きてるうちの不安をしっかり取り除いてから、そっちの対策を立てて下さい。(小松)

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