あの事件を追いかけて

2010年7月30日 (金)

『あの事件を追いかけて』無事、書店に並びはじめました

人気連載記事、「あの事件を追いかけて」+「ホテルニュージャパン」を書籍化した『あの事件を追いかけて』が、全国店頭に無事、並びはじめました!

スッキリした印象のカバーが、あなたの心に涼をはこんでくることうけあいです。

中を覗けば…さらにさらーに、涼しくなる写真満載。

お値段は、まさかの1000円!

まずはお手にとって、ご覧下さい!

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2010年7月19日 (月)

写真展「あの事件を追いかけて」終了!

Ts3g0211 神保町「北の丸tinyギャラリー」で開かれた写真展「あの事件を追いかけて」が、本日無事、終了を迎えました。

お越しいただいた皆様方、本当にありがとうございました。

ビジネス街という立地と1階・入口がガラス張りという恵まれた環境のギャラリーでこの写真展を開催することができ、ブログをお読みいただいている人のみでなく「退勤中にふらっと」立ち寄った方などもみられ、本の内容と同じように「ふだんは表に出ない人の野次馬根性をチラッとくすぐる」写真展にできたのかな、と思います!

肝心の書籍『あの事件を追いかけて』は、21日から徐々に本屋さんに並ぶ予定です。

大きな書店さんのノンフィクション棚やエッセイ棚などを覗いていただければ幸いです!

amazonでのご購入↓

あの事件を追いかけて

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2010年7月 9日 (金)

再び告知!『あの事件を追いかけて』出版記念写真展開催

お待たせしました!

人気連載、

「あの事件を追いかけて」と

「ホテルニュージャパン」

が、

『あの事件を追いかけて』(本体予価952円)

として7月中旬に発売されます!

巻頭カラーでは、ホテルニュージャパンの写真を掲載。

ブログでは見られない写真も続々!

廃墟ブームの前に撮られているため、貴重な写真であることは間違いありません。

さらに皆さんを涼しい世界にご案内するため…

出版記念写真展『あの事件を追いかけて』を開催します!!

日時:2010年7月14日(水)~7月19日

11:00~18:00(最終日16:00まで)

場所:北の丸tinyギャラリー

千代田区神保町3-11-1 03-3262-6889)

地図:http://kitanomaru-tinyg.sakura.ne.jp/access/index.html

事件現場の佇まいを、心ゆくまで味わってください。

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2010年6月18日 (金)

「あの事件を追いかけて」写真展開催!

お待たせしました!

人気連載、

「あの事件を追いかけて」と

「ホテルニュージャパン」

が、

『あの事件を追いかけて』(本体予価952円)

として7月中旬に発売されます!

巻頭カラーでは、ホテルニュージャパンの写真を掲載。

ブログでは見られない写真も続々!

廃墟ブームの前に撮られているため、貴重な写真であることは間違いありません。

さらに皆さんを涼しい世界にご案内するため…

出版記念写真展『あの事件を追いかけて』を開催します!!

日時:2010年7月14日(水)~7月19日

11:00~18:00(最終日16:00まで)

場所:北の丸tinyギャラリー

千代田区神保町3-11-1 03-3262-6889)

地図:http://kitanomaru-tinyg.sakura.ne.jp/access/index.html

事件現場の佇まいを、心ゆくまで味わってください。

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2010年6月 3日 (木)

「あの事件」のツイッター始めました

「あの事件を追いかけて」のツイッターを始めました。
 僕は取材前に現場周辺をグルグルと歩き回るようにしています。犯人は何を考えて歩いたんだろう、周辺住民にとって事件現場はどんな風な場所だったんだろう。そんなことを思いながら、地域に体をなじませていくのです。現場になじんだからといって、必ずしも取材がうまくいくわけではありません。でも、たまに見えてくる世界が変わることがあるんですよ。
 
 酒鬼薔薇聖斗の事件を取材したときには、現場となった山や首を洗った池などをグルグルと回りました。殺害現場のタンク山の獣道を突っ切れば、舗装された道路をたどるより早く目的地に着けること。住民がバーベキュー大会を開いていた公園の裏に、地元住民すらほとんど知らない池がひっそりと存在すること。福祉の充実を目指すスローガンが、町のあちこちで見られること。
 そんな町の雰囲気を感じてから取材を始めたとき、犯人の万能感や疎外感、彼と住民の気持ちのズレが少しだけわかったような気がしたのです。

 そんなグルグル歩きを携帯で記録して、つぶやいてみようと思っています。ちょうど7月初旬の出版に向けて、過去に取材した事件現場の撮影に回っていますので、試行錯誤しながら進めてみたいと思っています。
 すでに井の頭公園バラバラ事件とスチュワーデス殺人事件のつぶやきはアップしました(事件名を入れるの忘れたのですが……)。携帯を横にして撮影して送ったおかげで、写真がひっくり返ったりしていますが許してください。
 もしよければ暇つぶしにのぞいてくださいませ。
 明日は現場の撮影に行く予定です。どんどんつぶやきます!(大畑)

登録の名前:taroohata
アドレス:https://twitter.com/taroohata

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2010年4月 7日 (水)

山口組・田岡組長銃撃の現場を歩く

Img_7138  ディスコブームがにわいた1978年7月、夕立の上がったナイトクラブ「ベラミ」に、山口組・田岡一雄組長が到着した。越路吹雪や欧陽韮韮などがレコーディングしたことでも知られてる高級店だった。上岡龍太郎や浜村淳が司会を勉強したところとしても知られている。当時、ベラミのステージに立つこと自体がステータスだったという。
 奥の椅子に5~6人のホステスを引き連れて座り、「うたとリンボーダンス」のショーを鑑賞。そのショーが終わった直後、2発の銃声が響く。
 首を打たれた田岡組長は自らハンカチで傷口を押さえて立ち上がり、巻き添えをくった人を病院に運ぶように指示を出し、部下の運転する車に歩いて乗り込んだという。この不死身ぶりは後に語り草となった。
 彼を治療した関西労災病院の外科部長は、全治2週間~3週間だと記者団に説明し、「そんなに軽いのか?」の質問に次のように答えたという。
「ええ、幸い頸部の筋肉のところだったからです。もう1センチでも弾道が内側に行っていたら、大動脈神経系統をやられて即死だったかもしれません」(『雷鳴の山口組』飯干晃一著 角川書店)
 山口組のトップが銃撃されたとニュースは、瞬く間に街を駆けめぐった。狙撃から30分後には、新聞記者もベラミに押し寄せたと報じられている。しかし近隣住民は、事件に気付かなかったようだ。
 ベラミの向かいにある精肉店の女性は、「パトカーが来たのも気付かんかった。隣がベラミ専用のガレージだったから、いつも車の出入りの音がしてるし、ホステスがお客さんを送り迎えするときには、ワーワー言っているし。次の日の新聞やね、分かったのは」
 近所の住民によれば、ベラミは看板を出していなかったという。逆に言えば、それでも客が入る店だったのだろう。
 ただし近隣の店から評判のよかった店ではない。
 先述の精肉店の女店主は言う
「事件の少し前にボヤを出したんやけど、あいさつにも来ない。事件の後も何もなかった。そういう人たちだったんでしょ」
 ベラミから数軒離れた大衆食堂・篠田屋の主人も、事件に気付かなかった語る。


※ここから先の記事は…

『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2010年4月 4日 (日)

酒鬼薔薇聖斗の現場を歩く

 犯行声明で自らPhotoを酒鬼薔薇聖斗と名乗った少年Aは、「懲役13年」と題する作文で、ダンテの次のような一文を引用した。
「俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでしまった」
 もちろん、この「暗い森」は比喩だろう。一人の幼女を金づち殴って死亡させ、もう一人にナイフを突き立て重傷を負わせた事件から1ヵ月ぐらいの間に書かれた作文だけに、犯罪行為を指すものとも思われる。
 しかし少年Aの行動をたどっているうちに、彼は実際に「暗い森」に居続けたのではないかという感じるようになった。
 彼は供述調書で次のように語っている。
「『タンク山』の地理は、誰よりも僕が一番良く知っているのであり、この森の中で、僕を捕まえることは不可能だと思っていたからです」
 実際、タンク山の頂上付近にあるケーブルアンテナ施設で土師淳君の首を切り取った直後、現場に近づいてくる足音を聞きつけ、来た道とは別の方角に山を降りている。
 さして大きな山ではない。東西に370メートル、南北に200メートルほどである。しかし少年Aが選択した獣道を探し出すのは、意外なほど骨が折れた。道らしきものをたどっていくといきなり途絶え、下に降りる道を見つけ出せないままに目的地から遠ざかってしまうからだ。
 少年Aがこの森に精通していたのは間違いない。『少年A 矯正2500日全記録』(草薙厚子 著 文藝春秋)では、小学5年生の学校の記録として「“タンク山”に基地を作り、六人くらいの友達と遊んでいたが、“子供は友達と遊ぶもの”という常識に従って遊んでいたもので、心から楽しいと思った事はなかったようだ」と書かれている。『暗い森』(朝日新聞大阪社会部編 朝日新聞)にも、「中学二年の後半になると、小学校時代から一緒に悪さをしてきた友人たちの多くが、部活動や受験勉強もあって、しだいに遠ざかっていった。少年は卓球部の練習にまったく参加しなくなり、男児殺害の現場となったタンク山や、池のほとりで、一人で過ごすことが多くなった」という記述がある。少年Aが淳君を殺害したのが中学3年だから、少なくとも4年間ほどはタンク山に出入りしていたことになる。
 このタンク山について、『朝日新聞』(97年5月28日)は、「早朝や夕方には近所の人が犬の散歩に訪れ、夜間は中学、高校生がたむろすることもある。近所の主婦の話では、シンナーやだばこを吸う少年たちがよく集まる場所」とも報じている。
 タンク山の周辺は北に高校、南に小学校があり、南西から西側にかけて団地が、東側を一戸建て住宅が囲んでいる。山の中腹にある給水タンクまでは舗装された道路が付いているが、そこから一歩入ると獣道しかない森だ。住民が散歩がてら登るのはタンクのある中腹までで、その奥は大人の知らない空間が広がる。そうした場所に、実生活で行き場を失った少年Aが引きつけられたのもうなずける。

Photo_2  事件の起こった須磨区は、かなり住みやすい土地だ。タンク山の南側に住む主婦は、どれほど地域活動が活発かを説明してくれた。


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『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2010年4月 3日 (土)

梅川昭美 三菱銀行北畠支店強盗殺人事件の現場を歩く

Img_7013

 犯人の梅川昭美が猟銃を持って三菱銀行北畠支店に押し入った翌日、『読売新聞』朝刊の社会面で画期的な記者ドキュメントが掲載された。犯人や警察関係者の動きを時系列で伝えるだけではなく、新聞記者の動きそのものも短い文章で追いかけた記事だった。記者の作戦本部となった喫茶店の主人から「パッチ」(ももひき)を借りた話題なども載ったという。
 この記事の衝撃について、当時のデスクだった田村洋三氏は『ドキュメント新聞記者』(読売新聞大阪社会部 角川書店)で、次のように語っている。
「今度の事件では目が洗われる思いがした。発生の夜、早版のドキュメントを見た社会部長が、動きがないのなら、こちらの動きを書こうといったときである」
 またテレビの現場中継されるのに、警察や銀行内部の動きがわからない大衆の「隔靴掻痒感」に、この記事が応えたと分析する。さらに「大衆のテレビによる臨場感がこの記事によって増幅された、とも言える。その意味で、記者ドキュメントは、新聞が長すぎる長い間手探りしていたテレビ時代の社会面のあり方を、やっと、探りあてた気さえする」とも述べた。
 映像以上のリアリティーを現場の人間の動きから味わう。この手法は、ネット上のつぶやき「ツイッター」に近い。当時、この紙面が評判だったのも当然だろう。
 もちろんテレビも高視聴率を記録した。犯人逮捕を報じたNHK総合のニュースは39・3%、関西ローカル報道番組でも関西地区で平均視聴率33・3%を記録している。
 犯人が銀行を襲ってから42時間、国民はこの事件に釘付けとなった。
 また犯人の梅川も、メディアの目を意識していた。籠城から13時間ほどたった午前3時半にはラジオを差し入れを要求し、到着が遅いと銃を発砲している。また、午前9時半には朝刊を、その日の夕方には夕刊、翌日の朝刊も差し入れを求めている。警官が突入し、彼を撃ったときも新聞に掲載された自分の記事を読んでいたところだった。
 事件2日目の未明に、梅川が高級フランスワインである「シャトー・マルゴー」の69年ものを要求したことについて、『破滅 梅川昭美の三十年』(毎日新聞社会部編 幻冬舎)は「テレビやラジオ、新聞を通して、自分に集まる全国の目を意識した精一杯の見栄だった」と分析している。
 また犯行前日には、わざわざパーマをかけてアフロヘアにし、犯行当日もチロルハットにサングラス、黒いスーツと着込む。もともと金を奪ったらすぐに逃走するつもりだった梅川が、どうして印象に残るような格好を選択したのは定かではない。ただ30歳にもなったことを理由に、「何か一発でかいことをやらんとあかん」と口癖のように語っていたことを考えれば、犯罪こそが「晴れ舞台」、服装や髪型は舞台衣装だったのかもしれない。
 ここにメディアと犯人が競うようにボルテージを上げていく42時間もの劇場型犯罪が「上演」されたのである。
 もちろん観客であるやじ馬も熱狂した。近所でクリーニング店を営む店主は、当時のことを思い出して次のように語った。
「『銀行強盗や事件やでー』って、おばちゃんが店に飛び込んできてな。そら見に行くかって、角まで行ったらパンパンパンって音がして、こりゃ危ないわって引き返してきたからな。
 それからしばらくして警官がロープ張ってやじ馬が入れないようにしたから、外からはわからんようになったけどな。ただ、それでも見ようとしていた人たちが駐車場の金網の張り付いて見ていたの。それで金網が潰れてしまってな。地主が怒って警察に苦情行って、ロープの位置がもっと後ろに下がったがな」

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『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2010年4月 2日 (金)

津山30人殺し事件の現場を歩く

「聞いている話Img_7067_2はありますけども、お話しするようなことはありませんでな」
 津山30人殺しの現場に着いて最初に声をかけた老女は、そう言って口をつぐんだ。彼女が黒豆の選別作業を再開した途端、見えない扉が目の前で閉まったような気がした。山が色づき始めた初冬の日溜まりの中、下を向いて作業を始めた彼女にかける言葉がみつからなかった。
「こんにちは」とあいさつをすると、地元の人はほほ笑みながらあいさつを返してくれる。人懐っこい表情に、こちらもふっと緊張が解ける。ただ事件の話をした途端、住民の口は重くなってしまう。
 事件からもう71年が経過した。当時の詳細を知っている人も、ほとんどいない。それでも地域住民にとって事件はタブーのままだ。その意味で、犯人の都井睦雄はまだ「生き続けて」いる。
 いくつかの事件現場を取材したが、ここまで地域住民の口が堅かった経験はない。70年以上前の有名な事件ならばなおさらだ。記憶に残ったエピソードを、ときに笑いを交えながら語ってくれるのが通例だからだ。

Img_7040  タブー視される理由の1つは、この地方に残る夜這いの風習が事件の原因だと報じられたことだ。事件後1年をかけて事件を調査した岡山地裁の塩田未平検事も「凶行の外的原因」の1つとして「部落の一部に存する淫風」を挙げている。
 また犯人が残した3通の遺書にも4人の女性への恨み辛みが書かれていた。ただし、その4人のうち二人は都井によって殺され、残る二人のうち一人は検事調書で関係を否定している。
「離婚した理由について、あるいは自分が犯人都井睦雄と情交関係があったためのようにいわれているようだが、自分は犯人が自分のことをどう思っていたかは知らぬが、絶対に同人との間に情交関係はなく、かような理由で離婚となったものではないと信じている」(『津山三十人殺し』筑波昭 著 新潮社)
 都井が部落中の女性を追い回していたことは、生き延びた部落民の事情聴取からも間違いない。
 事件発生前に犯人のただならぬ気配を察して京都に逃げた女性も、「最近には女とさえ見れば関係をさせさせというと、世間で専ら評判になっておりました」「村中で睦雄は色気狂いである、肺病の癖に側に寄ると変なことをするから避けておれ、と皆がいい合っておりました」(同上)と語っている。
 しかし犯人と村の女性が本当に関係していたのか、正確なところはわからない。ただ当時の警察は、この事情に深く立ち入ろうとはしなかったようだ。実際、都井との関係を否定した女性の夫の供述調書には、次のようなかっこ書きを検事自らが記している。
「(その背後に隠れたる事情あるやも測られざれども、都井の事件に関しては、部落民はなるべくこれに触れざるようにしている旨、暗に自己もまた右以上に内情を吐露するを欲せざるかの如く諷示したるをもって、人情上強いて追求し得ず)」(同上)

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