あの事件を追いかけて

2009年5月26日 (火)

八王子スーパー強盗殺人事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
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 なぜ?
 そう思わずにはいられない。どれほど考えても3人を殺す理由が、まったく想像できないからだ。

Photo  事件が起きたのは1995年7月30日午後9時15分ごろ。現場は北八王子駅から歩いて10分のほどのスーパー「ナンペイ大和田店」だった。閉店直後の店では、2人の高校2年生とパートをしていた47才の女性が2階の事務所で帰宅の準備を進めていた。
 パートの女性が迎えに来てほしいと友人に電話を入れたのが午後9時15分ごろ。それからわずか5分の間に、3人は銃で撃たれて命を奪われた。2人の高校生は互いの右手と左手をガムテープで縛られ、口もふさがれた状態で、後頭部から1発ずつ撃ち込まれていた。友人が後ろから撃たれ、慌てて逃げだそうとしたもう1人も後ろから撃ったという。

 一方、パートの女性は手を縛られてはいなかった。ただ顔に銃把で殴った跡が残っており、金庫の鍵を彼女に出させたうえで、金庫のダイヤルの番号を聞き出そうとして犯人が殴ったとみられている。しかし彼女は番号を知らなかった。開けられないと分かった犯人は、額の左側などに前方から彼女の頭に向けて2発の弾を撃ち込んだ。ヤケドの跡が残っていることから、額に銃を押しつけるように撃ったことも判明した。
 犯人は3人の無抵抗な女性を殺すのに4発。そして開かない金庫に向けて、もう1発発砲。結局、金庫の中の500万を拝むこともなく、わずか5分で現場を去った。
 無抵抗な3人を殺害したのは、犯行を目撃したからだろうと推測されている。

「もともと、ここらへんは何の事件もなかったんだから。事件のあったスーパーだって小さくて、誰が見たってもうかっているような店じゃないよ。強盗に入るような店じゃないよね」
 近くで農家を営む男性は、ビニールハウスのトマトを収穫しながら言った。実際、ナンペイ大和田店の普段の売上げは200~300万円といったところだった。ただ事件の数日前から特売セールがあったため、その晩の金庫には500万円入っていた。それにしても500万でしかない。3人を殺せば死刑確定。目撃情報通り複数犯なら、通常の感覚なら割に合わないと感じるはずだ。当初、警察が強盗と物取りに見せかけた怨恨の両面で捜査していたのも理解できる。
 また、先述の近所の男性は、「訪ねてきた刑事が『こんなことするのは外人だ』って言ってたよ」と教えてくれた。当時の新聞報道でも外国人の可能性が示唆されており、顔を見ただけで無抵抗の女性を銃で撃つ残忍さは、日本人の犯罪と思えない空気が95年にはあったのだろう。しかし事件から14年近くがたった今、「日本人だから無茶はしない」という根拠のない信頼は崩れ去った。
 そのような残忍さな殺人の原因の1つになっているのが、この事件当時から急速に広がった銃の存在だ。
「捜査一課の敏腕刑事だったある警部補は、銃による殺人は『冷たい殺し』だという。刺殺や絞殺は、犯人の手に被害者の体のぬくもりが残る『熱い殺し』。どんなに冷酷な犯人でも、『死』を自分の体で感じる。しかし、けん銃殺人には、その『実感』がない。発砲事件の容疑者を取り調べる時、被害者への『思い』がまるでないことに驚くという」(『毎日新聞』95年8月2日)
 実感なき殺人が凶器によって作りだされたというわけだ。そしてもっと恐ろしいことに、銃とは関係なく訳の分からない殺人を犯す日本人が増えてきている現実だ。殴り殺す「熱い殺し」ですら、そこに「実感」のない犯人たち。
 以前、精神科医に取材したときに、実感を感じられない「離人症」的な症状を訴える人が増えたと聞いた。時代を背景に人が心を病むように、時代を背景に罪を犯す人がいるのなら「実感なき殺人」が増えているのもうなづける。
 八王子スーパー強盗殺人事件は、そうした事件のはしりともいえる。周辺の治安に関係なく、特段の理由もなく、国内に出回り始めた銃で殺害した事件。これは怨恨など犯行動機から洗っていく日本の警察得意の捜査手法を楽々と飛び越えていく。
 結果として捜査は迷走を続けてきた。

 事件当夜、夜9時過ぎまでスーパーナンペイから30メートルほど離れた「北の原公園」では盆踊り大会が開かれていた。太鼓の音で悲鳴などは聞きとりにくい状況だったが、店の近所の主婦は花火のような破裂音を連続で聞いている。
 また事件直前の9時5分ごろ店の駐車場のすぐ近くで白いシャツを着た男が目撃された。さらに事件当日と数日前に、スーパーの店内をうかがっていた不審な2人組がいたことがわかっている。しかし店には防犯用ビデオカメラもなく、目撃証言は犯人逮捕に結びつかなかった。
 03年には名古屋・大阪で現金輸送車を襲撃した犯人の関係先から押収した銃の線条痕が、八王子の事件と似ていると騒がれた。無言でためらうことなく発砲するやり口も、犯人像に当てはまるといわれた。しかし、これもハズレ。
 07年には被害者のパートの女性と交際していた男性が、フィリピン人の知人に殺人を持ちかけたとして警視庁はフィリピンに捜査員を派遣している。しかし、これも犯人にはつながらなかった。
 そして現在、中国で覚せい剤所持の疑いで逮捕され死刑が確定している日本人への疑惑が深まっている。この男は過去に日本人と中国人の混じった強盗団を率いており、八王子強盗事件の当日、ナンペイで金が取れなかった腹いせに、近くで別の強盗を働いた、と仲間に話していた。その事件が実際に起こっていたことが明らかになり、捜査員はいろめきたった。今後、中国との捜査協力しだいでは、犯人があきらかになる可能性ありそうだ。

 しかし地域住民の「なぜ」の思いは、いまだに消えていない。
 ナンペイの前に住む男性は、事件当夜の暑さを思い出しながら語った。
「暑い夜でさ。でも、事件のことは何も知らないんだ。ビール飲んで寝ていたからね。それが、どんどんパトカーが集まってきて、そのうちどこで調べたのか知らないけれど、ジャンジャン自宅の電話が鳴り始めて。どこどこ新聞だの、なんとか通信だの。次の日は朝からヘリコプターが飛んで大騒ぎだった。
 驚いたよ。そんな事件が近くで起こるなんて思ってもみなかったから」
 ナンペイで買い物をしたことがあるという主婦は、事件の翌朝に飛び回っていたヘリコプターの音を覚えていた。
「驚きました。あの事件の後にも先にも、ここら辺で殺人事件が起きた記憶なんてありませんから」
 
 東京近郊の閑静な住宅街で起こったこの殺人強盗事件は、もう日本のどこも安全じゃないと、全国に向けて宣言したようなものだった。その宣言へのとまどいは、事件が14年近くたった今も続いている。(大畑)

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2009年5月12日 (火)

草なぎ剛・公然わいせつ容疑逮捕の現場を歩く

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 4月23日、SMAPの草なぎ剛さん逮捕のニュースで大騒ぎとなった。
 午前3時ごろ、六本木の東京ミッドタウンに隣接する檜町公園で、素っ裸で奇声をあげいたところを近隣住民から通報された。
Photo  現場に3人の警察官が到着したとき、彼は1人あぐらをかいて芝生に座っていたという。しかし「裸だったら何が悪い」と暴れ、公然わいせつ容疑で逮捕となった。裸なのは事実だし、保護シートにくるまれて搬送されたというから、かなり暴れたのだろう。しかし逮捕するほどの「事件」なのだろうか。まして家宅捜査にいたっては、薬物を疑ったとはいえ、そこまでするかという気がする。
 逮捕を受けて、レギュラーのテレビ番組は彼の出演シーンをカット。テレビCMも次々と放送を自粛した。いきなり穢れた存在となってしまった。

 しかし飲んで騒ぐなら、せめて1年半前までにしておけばよかったのにと思わざるを得ない。07年12月までは、通称「トラ箱」、正式名称・泥酔者保護所があったからだ。
 60年に鳥居坂保護所(港区)と日本堤(台東区)に開設。70年に三鷹(三鷹市)、52年に早稲田(新宿区)が設置された。76年の収容者は、なんと年間3万5109人だというからすごい。ところが、この年をピークにどんどん収容人数は減少。保護所も順次閉鎖され、最期に残った鳥居坂保護所の収容者が1日平均1.4人となり、先に書いた通り07年12月に閉鎖となった。
 この最後のトラ箱閉鎖を伝えた07年12月17日の『産経新聞』には、「花見や忘年会のシーズンは満員となることもあった。大暴れしていても、酔いがさめれば頭を下げて感謝して帰っていくのが日常の風景だった」という警視庁地域部関係者のコメントが載っている。
 つまり、そんなものだったのだ。

 もちろん保護室が全廃されたわけではない。地域の各警察署に保護室がもうけられているからだ。60年に局長通達で各警察署に保護室を設置するよう指示を出しており、警察庁広報部も「すべてとは言えないが、ほとんどの警察署には(保護室)が設置してある」と回答する。
 ただし、それほど活用されているわけではないらしい。09年5月2日の『毎日新聞』社説では、「留置場の容疑者らに迷惑がられるいせいか、“トラ箱”ほどには活用されていない」と書いてある。事の真偽を確かめるべく警察庁の広報に電話をすると、「そこまでは把握していない」と言いながら少なくとも否定はしなかった。
 泥酔者が嫌われるのは、一般車社会だけではないようだ。

Photo_2  草なぎさんが逮捕された檜町公園に足を運んでみた。元毛利家の下屋敷だった伝統を重んじたのだろうか、池を配した素晴らしい日本庭園と子どもも遊べる芝生が広がっていた。カップルや家族連れ、おしゃれなOLさんや外国人の親子が公園を散策している。彼が逮補された芝生の丘の上には、見上げるばかりのミッドタウンタワーが建つ。
 清潔で、高級で、安全で、誰からも非難されようもない、隙がないほどステキな空間。草なぎさん自身、このミッドタウンに住んでおり、トップアイドルだったわけだから、この住民としてふさわしい人間だったといえる。

 でも、それって幸福なのだろうか?

 自身、下戸でもあるし、酔っぱらいが好きなわけでもない。ただ息苦しさを感じてしまう。
 そもそも六本木自体、それほど美しい町ではない。2・26事件に関係した歩兵一連隊と三連隊の駐屯地が、敗戦とともに米軍に接収、兵舎が建てられた。その米軍相手の店が立ち並び始める。56年あたりから、やっと日本人相手の店ができ始めた。そこで遊び始めた若者たちが「六本木族」と呼ばれ、マスコミを賑わしたというから派手で危ない街だったのは間違いない。
 ミッドタウン自体、防衛庁の跡地である。少し繁華街から外れていることもあり、90年代には脇の道にはかなりの車が止まっていた。塀に囲まれた暗い敷地があったことにしか記憶がない。

Photo_3  逮捕現場から鳥居坂保護所にも行ってみた。ブラブラ歩いて25分。夜中に車で移動するなら、わずか数分だろう。アマンドのある六本木の交差点を越え、東京タワーに向かって歩く。ロアビルやドンキホーテを越え、首都高にぶつかったら右折。マンションにしか見えない建物だったが、看板は当時のままだった。最盛期の朝には酔いの覚めた人たちが続々と吐き出されたのだろう。

 現場を回っていて、法政大学で「法政の貧乏くささを守る会」を作った松本哉さんを思い出した。この会の説明で次のような文章がある。
「元々極めて貧乏くさかった法政大学でも、こぎれい化(=上智・青学化)が進行しており、このまま放置しておいたら極めて居心地が悪くなりそうだ! という事で、『法政の上智・青山化阻止!」をスローガンに決起し、法大当局の上智・青学化路線と全面対決しているのが、我々、法政の貧乏くささを守る会である」
 誰も反対できない美しさの中で、居心地が悪くなっていく。それって幸福なのかと、改めて感じた。(大畑)

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2009年4月12日 (日)

熊谷ホームレス殺人事件の現場を歩く

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 2002年11月、1人のホームレスが3人の中学生になぶり殺された。
 レンタルビデオ店に向かっていた2人の少年が、ホームレスの山本裕二(仮名)さんを発見。ひとしきり山本さんにちょっかいをだしてからビデオ屋に足を向けた2人は、自身と山本さんの運命を変える決定を下す。
 もう1人の友人を呼び出し、もう一度山本さんをからかおうとしたのだ。
 山本さんを虐める「遊び」に、彼らは夢中だったのだろう。そうでなければ、1時間とあけずホームレスの寝ぐらを再訪しようと思わないはずだ。事実、埼玉県警の調べに、「無抵抗でおもしろかった」(『読売新聞』02年12月21日)と少年たちは答えている。
 レンタルビデオ店から犯行現場まで、およそ700~800メートル。彼らは畑や空き地の残る地域を自転車に乗って疾走した。時間は午後8時過ぎ。その日の熊谷の最低気温は8.2度だった。吹き付けた風は、身を切る冷たさだったはずだ。
 一方、人通りのない暗い空き地で3人の中学生に囲まれた山本さんは、底知れぬ恐怖を感じたに違いない。つばを吐きかけられるなど、これまでに何度も因縁をふっかけられた相手である。持っていた傘を振り回したのは、彼の精一杯の抵抗だった。
 しかし傘が1人の少年の腕に当たったことで、少年たちの暴力は一気にエスカレートしていく。素手での暴行が始まり、それが現場に落ちていた角材での殴打に発展。その角材が折れると鉄板まで使った。また可燃性の消臭スプレーに火を付け、山本さんに吹きかけたりもしたという。
 1時間にも及ぶ暴行で、山本さんはいびきをかき始める。脳内出血によるものだろう。だが、その様子を見た少年たちは、気絶したと勝手に解釈し帰路についた。
 翌朝、山本さんは近所の住民に発見されたが、帰らぬ人となった。全身はアザだらけ、肋骨は5~6本折れていた。死因は急性硬膜下血腫。あまりにも酷い死にざまであった。

 これが新聞・雑誌などに報じられた凶行の一部始終だ。こうした行為自体、多くの人の理解を超えている。しかしさらに説明のつかない行動を、彼らはとる。
 2日後の新聞報道で山本さんの死を知ったにもかかわらず、3人のうち2人は普段通り学校に登校し続けたのだ。しかも現場に別の友人を連れていき、犯行の様子を詳しく説明したとも伝えられている。結果としてホームレス殺害の噂が校内を巡り、少年と保護者と教員の間で話し合いが行われた。
「その席で、『なんでそんなことをしたの』と問いただす保護者に対し、3人は泣きじゃくり、言葉が出なかったという。校長は、30日の記者会見で『3人は、このときになって事の重大さに気付いた様子だった』と話した」(『読売新聞』02年12月1日)
 山本さんの死亡確認から2日間。なぜ少年はまともに登校できたのだろう? 何とも言えない違和感がある。通常の感覚なら人を殺した翌日から日常生活など営めるものではない。まして犯行現場に友だちを連れて行くなど、もってのほかだ。評論家が断じる「命を軽んじる子ども」だからなのだろうか? 
 しかし、彼らが本当に「命を軽んじる子ども」なら、保護者と教員との話し合いの席で泣きい崩れた理由がわからない。『毎日新聞』(02年12月25日)は、「少年の家族は(犯人の少年を)『動物好き』『普段は手出しはしない子』などと話し、家族では別の一面を見せていたようだ」とも報道している。しかし、本当にそれは「別の一面」だったのだろうか? いや、むしろ「普段は手出しはしない子」という評価は正しいのではないのか。「普段」の生活、「普段」の相手だったら、「手出し」などしなかったのではなかろうか?
 社会学者の宮台真司氏は、『脱社会化と少年犯罪』(創出版)のなかで、次のように主張している。
「人類史上、人を殺してはいけないとルールを持った社会は、ただの1つも存在しないからです。その代わり、人類社会は2つのルールでやってきた。それは『仲間を殺すな』というルールと、『仲間のために人を殺せ』というルールです」
 賛否両論はあろう。しかし宮台氏の論を借りれば、少年の行動に説明はつく。
“ホームレスは敵だったから、仲間のために殺したのだ”と。

 殺された山本さんは、食べ物をもらうために住民の家を訪ねていた。埼玉県警の広報課は、プライバシーに係わるとの理由で詳細を明らかにしないが、月に数件、山本さんに対する苦情が熊谷署に寄せられていたことを否定しない。
 実際、犯行現場の近辺で、山本さんに対する悪評を何度も耳にした。
「だってさ、パンをあげたら『賞味期限が切れているだろ』って怒鳴られたんだろー。あと、100円あげたら、『いまどき100円じゃあ、ジュースも買えないじゃねえか』って言われたとかさ」
 近隣の小学生から聞いた噂である。このほかにも、「おにぎりの塩を抜くように要求した」、「手に持っている荷物を玄関にドサッと置き、ドアが閉まらないようにして食べ物を要求し続けた」などの噂を、複数の住民が語っている。
 と同時に「大人しい人」「穏やかな人」と山本さんを評する声もあった。
「(自宅に来たのは)秋口ですかね。(山本さんが)いっぱい服を着込んでいたのに、暑そうだと思わなかったから。ええ、別に怖くなかったですよ。『今、食べ物は何もないんですよ』って言ったら帰っていきました。家に来たのは、その一度きりでしたね」
「いつもこの道を犬連れて散歩していると、ビニールをいっぱい持って立っていましたよ。疲れないのかなと思ってね。うん。ウチの近所に来たとき、おにぎりもらっていたことがありましてね。両手で一個のおにぎりを包むように持って食べていました。大人しい人だったわよ」
 なぜこうも違う人物像が語られるのか。混乱しながら取材を進めた。
 もっとも考えられるのは、ホームレスが複数いるケースだ。
 ホームレスにとって食料の調達は、文字通り生死にかかわる大問題である。そのため食料に関する噂は、仲間うちであっという間に広まる。こうしたホームレス社会の特性を考えるなら、山本さんと同じ方法で食事にありつこうとする人が現れても不思議はない。しかも多くの住民はホームレスの容姿にさほど注意を払わない。食事をもらいに来たホームレスが、すべて山本さんとして語られても不思議はない。
 実際、近隣住民には、次のように証言する人もいた。
「『おにぎりくれ』って言われたことがあってね。へー、こんな人がまだいるんだなーと思いましたよ。戦後すぐのころには、いっぱいいたけどね。
 でも、もう1人、別のホームレスもいたわね。ジーっと何も話さないで、ただ家を見つめて、ご飯をもらうおうとしていた人が。孫なんかは、話さないホームレスの方を怖がっていましたよ」
 この地域で複数のホームレスが、家々から施しを受けて生活していた可能性は高い。そこで山本さんを完全に特定できた人物を探した。その1人が、毎日のように山本さんに接触していた熊谷市の福祉職員である。
「ほとんどしゃべらない方でした」
 山本さんの印象を、彼はこのように語った。しかし山本さんが、噂されていたような態度で物乞いをしたかについては知らなかった。
「山本さん以外にも家を回っているホームレスがいることは聞いていましたが、山本さんがどんな風に回っていたのかはわかりません。現場を見たわけではありませんので……」
 福祉職員への証言は、賞味期限の切れたパンに怒りを露にする人物に結びつかなかった。しかし犯行現場のごく近所に住んでいる老婆が、この謎を解いてくれた。
「横柄な態度でね。『ごはんくれ、パンくれ』って訪ねてきてね。『ないから』って答えたら、『じゃあ、煎餅を一枚くれ』ってね。まあ、煎餅一枚ぐらいならさ、かわいそうだからあげたの。ついでに飴も付けてあげて。そうしたら飴を玄関に放り投げて帰って行ったよ。
 しかも帰った後で見たら、門を閉めておくための針金を壊して入ってきていたんだから。いや、男の人が対応すると大人しいらしいの。人によって対応を変えるんですよ。
 ウチは1回の訪問で味を占めたのかねー。ピンポンで出ないと、ドアをガンガン手で叩くんだから。怖くて巡回の警官や民生委員にも相談したんだけどね。警察は『何もあげるないで』と言うだけだし、民生委員なんか自分から食事をあげていたぐらいだから」
 穏やかな口調に、ときおり怒りを滲ませながら、彼女は語ってくれた。
 犯行の現場は、01年9月末から山本さんが住み始めた空き地である。スーパーの袋をいくつもさげ、雨の日は傘をさし、住民ともほとんど話すことなく、彼はその空き地で立ち続けていたという。その空き地と目と鼻の先に住んでいる住民が、山本さんの顔を知らぬはずがない。
 さらに昨年の夏まで山本さんが住んでいた場所周辺で、山本さんの顔を知っているであろう近隣住民にも取材してみた。
「ベルが鳴ったのでドアをあけたら、足をガッと入れてきたんです。そうやってドアを閉められないようにして、ドアをグイグイひっぱるから、私も必死にドアを引いて、ピシャっと閉めました」
 取材に応じてくれた20台後半の主婦は、山本さんが来たときの恐怖をこのように語ってくれた。
 これでは警察に苦情がいくのも仕方がないだろう。
 また山本さんが家々を訪ねていた時間が悪い。夕食後の残りを狙ったのかもしれないが、多くは夜9時、家によっては夜10時に訪ねることもあったという。しかも一度食べ物を渡した家には、何度も通っていたという。
 こうした行動の積み重ねが、山本さんを見えないところで追いつめていった。排除の圧力が、地域でジワリと高まっていたのである。

 山本さんが熊谷市に来た時期が正確にわかっていないが、01年の春ごろには市内のあちこちで見かけたという。殺害現場の隣に住む男性は、01年の梅雨の終わりに食事をねだられたことを覚えていた。そして01年8月には、住民が通称「亀の道」と呼ぶ、遊歩道にある藤棚の下で暮らすようになった。
 そこでの事件は、9月末に起きた。
 近所の子どもから「税金払っていないヤツは、生きている価値がねぇ」とからかわれ、山本さんはおよそ800メートル離れた空き地に引っ越したのである。自身が1年2ヶ月後に殺される現場へとである。
 もし山本さんが移動しなければ、と考えてしまう。
 藤棚周辺は住宅密集地である。そこで事件が起こったなら、住民の誰かが暴行に気づいたかもしれない。また例え住民に気づかれなくても、手ごろな角材や鉄板などは落ちていなかったはずだ。それなら命だけは助かったとも思う。

 山本さんが生活していた場は、ホームレスにとって暮らしやすいとは言いがたい。水場やトイレに近いわけでもなく、雨をさえぎる屋根もない。そのうえ通常の方法では、食物を入手しにくい環境であった。
 東京近郊に住み、現金収入のないホームレスのほとんどは、店舗から出される残飯を食料としている。特にコンビニやファーストフードから出される賞味期限切れの食料は、彼らの生命線である。それゆえ店舗数の多い駅周辺が郊外より暮らしやすくなる。
 山本さんの新しい生活拠点は、駅から約3キロの距離にある。自転車を持っていなかった彼が残飯をあさるには、駅までの距離が少し長い。事実、市の福祉職員は「駅には行ったことがない」という山本さんの言葉を聞いている。
 また近隣のコンビニは賞味期限の切れた弁当など、残飯に対する管理を強めていた。
 山本さんの生活拠点(殺害現場)から3キロ四方にあるコンビニに電話を掛け、ごみの収集状況を取材してみると、驚いたことに全21店舗のうち、ホームレスがゴミをあされそうだったのは、わずか1軒であった。アルバイトしか店におらず、ゴミがどう処理されているのかわからない3店を除けば、なんと94%の店がホームレスにゴミを取られないよう措置していた。鍵付きのごみ箱や倉庫に入れる。あるいはゴミ収集業者が来るまで店内でゴミを保管する、などなど。
 そのうえ取材で回った限り、熊谷のホームレスには仕事がほとんどなかった。あまり知られていないが、都会にはホームレスの人々の仕事がわずかながらある。段ボールなどの古紙やアルミ缶の回収、風俗店のチラシ貼り、看板持ち、チケット購入のための順番待ちなどなど。
 東京や川崎でホームレスがテントを構える地域を回れば、換金業者に持ち込む前のアルミ缶を積み上げている光景にたいてい出くわすものだ。しかし熊谷で取材した何人かのホームレスは誰一人としてアルミ缶や古紙を収集していなかった。荒川の河川敷で暮らしていた男性が古い電化製品を集めていた程度である。
 つまり生計の立てにくい土地に、山本さんは住みついたことになる。ただし物乞いには比較的優しい土地だった。
「地縁が強いからでしょうか。埼玉県の北部山村には、おこじきさんを受け入れる土壌があります」と語ったのは、市の福祉職員である。確かに熊谷の高齢者の多くは、ホームレスを蔑視しない。市役所の隣にある中央公園に集う老人は、公園に住むホームレスとも一緒になって談笑していた。
「まあ、田舎なんだよね。みんなで話しているからさ、『お腹すいた』と聞けば持ち寄った食事を(ホームレスにも)あげるから」とは、公園に居た男性の弁である。
 こうした風土こそが、山本さんの生活を支えていた。そもそも物乞いは、世界では当たりの行為である。境イセキ氏が書いた『ニューヨーク底辺物語』(扶桑社)によれば、NYの物乞いは季節によっては1日100~150ドルも稼ぐという。
 日本でも終戦直後までは、物乞いなど珍しくもなかった。1937年に稲村文夫が書いた「農村乞食考」によれば、1年間に伊豆のある農家を訪ねた物乞いの数は、125人。寄付の総額は、406銭にのぼったという。こうした農家が、1ヵ月に5銭の貯金もままならない経済状況だったというのだから、どれほど物乞いに優しかったがわかるだろう。
 礫川全次氏は『浮浪と乞食の民俗学』(批評社)のなかで、「共同体に寄生し、共同体の余剰(富)を費消する乞食は、共同体の共同性、継続性を維持するためになくてはならない存在であり、必ずしも『卑劣下賤』の存在ではない。(中略)乞食に対してマイナスのイメージのみを描いてしまうのは、近代人の偏向といえるのではないか」と語っている。現在のホームレスに対するのとは違った思いが、つい半世紀ほど前の日本に存在していたのである。
 じつは熊谷にたどり着く以前から、その風土を頼りに山本さんが生きてきたのではないかという説がある。山本さんに似た風貌の男性が群馬県太田市などで目撃されており、熊谷市の福祉職員も「群馬県から南下してきた可能性も高いのでは」と指摘している。また山本さんとは特定できないものの熊谷市のすぐ北にある妻沼町の社会福祉課は、山本さんが殺される2年ほど前、食事をもらうため家々を回っていたホームレスがいたと報告している。あまりに証言が少ないものの山本さんが南下してきたと考えれば、時期と動線は符合する。

 山本さんにとって悲劇だったのは、「おこじきさんを受け入れる土壌」が熊谷全域に広がっていたわけではなかったことだ。
 まず注目したいのが、熊谷市の人口である。1971~73年の3年間は、毎年2300人以上も人口が増えている。85~91年にかけても、毎年1500~2500人もの人口が増え続けた。当然、他市に勤務する人々も増える。75年と95年を比べると、他市に勤務する人は、約2倍の1万6000人増。つまり熊谷市は年々ベッドタウン化していったのだ。
 先述したように「乞食」が「共同体の共同性、継続性を維持するためになくてはならない存在」であるとするならば、物乞いを許容するためには共同体つまり強い地縁が必要となる。見知った人だけが歩く地域社会にいるからこそ、警戒感を抱きながらも住民は異邦人に接触しようとする。地域どころか隣に住んでいる人の顔も特定できない都会ともなれば、知らない人にわざわざ話しかけたりはしない。
 この「おこじきさんを受け入れる土壌」の住民とドライな新興住宅住民が混じり合った土地で、山本さんはこれまでと同様に物乞いを始めてしまった。
「たまげたですよ。あの人が死んでしまったんで。『おばあさん、お昼食べたいんだけどお金ないから』って言うから150円あげてから数日後だもの」と淋しそうな表情で語る83歳の老女がいる一方で、「本当に怖くてイヤだった」と顔をしかめる若い主婦がいる土地。それが熊谷だった。山本さんが人によって態度を変えていたという証言とは別次元で、問題は少しずつ深刻化していたのである。
 かつての共同体で「なくてはならない存在」だった物乞いは、ベッドタウンにおいて「あってはならない存在」と変わり果てていた。もし熊谷が東京都下の住宅街だったら、そもそも食べ物を恵む人すらおらず、山本さんも早晩ねぐらを移したはずである。逆に地縁が生きている土地なら命を奪われることはなかった。
 しかし熊谷は食料と憎悪の両方を生み出していった。確かに山本さんの態度が悪いケースはあったかもしれない。とはいえ近隣の小学生から悪い噂しか出ないほどの悪人だったとも思えないのだ。「美しい」ベッドタウンから排除したいという地域住民の意識が、山本さんの評判に大きく影響したことは否めないだろう。
 そうした新興住民の敵意に反応したのが、感受性の強い思春期の少年だったとはいえないだろうか? 「動物好き」で「普段は手出しはしない子」だった少年は地域の「思い」を暴力で体現したともいえる。だからこそ少年は犯行の一部始終を友人に胸を張って説明することができたし、「事の重大さ」に気付くこともなかった。

 どんな企業に勤めていてもリストラされる危険性がある現在、ホームレスになる可能性を多くの人々が抱えている。そして恐ろしいことに、わたしも含めて多くの人はホームレスを排除したいとも思っている。つまり殺された山本さんと殺した中学生の両方が心には同居しているのだ。
 その意味で、この事件は特別な中学生が、自分と違う「人種」を叩き殺したわけではない。被害者も加害者のどちらにもなる可能性を持っているのだ。(大畑)

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2009年3月26日 (木)

マブチモーター社長宅殺人放火事件の現場を歩く

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「まれにみる凶悪犯罪。良心のかけらも反省の態度も全く認められず、矯正の可能性は皆無」として検察は小田島鐵男に死刑を求刑した。それから3ヶ月後、千葉地裁の根元裁判長は「改善更正の余地を見いだすのは困難」として求刑通りの死刑判決を言い渡した(2007年11月死刑確定)。
 死刑問題の是非はともかくとして、こうした判断に司法が傾いたのも事件の概要を知ればうなずける。

Photo_2  2002年8月5日、午後3時半ごろ小田島鐵男は守田克美とともに、小型モーターで圧倒的なシェアを誇るマブチモーターの社長宅に押し入る。2人は犯行時に外から人が入らないように内側からカギをかけたという。1階居間で社長婦人を守田被告が監視し、貴金属のある2階寝室を小田島が長女に案会させて物色。その後、持ってきたヒモで妻を絞殺。長女も目と口を粘着テープでぐるりと巻いた上で、寝室にあった社長のネクタイで絞め殺した。そのうえで持ってきたガソリンで火を付けたのである。
 守田は「家に人がいれば、初めから殺して火を付けるつもりだった」と供述しているし、小田島も「人質を生かしておいたから捕まった」と、過去に刑務所で話していたと報じられている。奪った現金は数十万円、時価総額で約970万円となる10点の貴金属だった。
 しかし、2人の犯罪はこれだけで終わったわけではない。翌月の24日には電話帳で選んだ目黒区の歯科医師を絞殺し現金40万円を奪い逃走。その事件から2ヵ月後、11月21日には金券ショップに警察と偽って押し入り、指輪など時価70万円などを奪っている。
 わずか3ヶ月の間に4人を絞殺。そのうえ下見をするなど犯行も計画的。
 救いがない。誰もがそう思うだろう。

 小田島は1943年、北海道北見市で生まれた。父親は彼が誕生する2週間前に死亡。母方の祖父母に育てられたという。4歳のときには母親の無理心中未遂に巻き込まれ、母と妹と新しい恋人が一緒に祖母宅を出て行くときには雪降る駅の改札で独り置き去りにされた。
「自分は泣いてて、ばあさんが迎えに来てくれた。雪の降ってる日だったもんで、角巻き(マフラー)にくるまれて」(『毎日新聞』07年3月23日)
 裁判では自身の幼少の記憶についてこのように語り、耳を真っ赤に染めて泣いたという。法廷で感情を乱した唯一の場面だった。
 16歳のときには、空腹から食べ物を盗み少年院に収監。17歳では指輪を盗み、20歳まで函館の少年院に服役した。その後も結婚や就職など、人並みの生活を送る時期もあったが、結局、窃盗などの罪で逮捕され塀の中と外を行ったり来たりする生活を送った。
 このままなら小田島はケチな窃盗犯として一生を終えたに違いない。しかし、彼は47歳で決定的な一歩を踏み出す。「練馬3億円強盗事件」だ。工務店の社長宅に押し入り、家族など7人を2日間にわたって監禁、拳銃とナイフで脅して3億円を奪った事件である。共犯として逮捕され、懲役12年。これまで収監されても数年でシャバに戻ってきた小田島だったが、この凶悪事件で11年間を刑務所で過ごすことになった。
 この刑務所で知り合ったのが、マブチモーター社長宅放火殺人事件の共犯者・守田である。小田島は夜になると、守田と犯罪の相談を重ねていたという。「おれももう年。今度捕まって懲役刑になったら生きて塀の外に出られない」「次やる時は火をつけて、全員皆殺しにする。東京近郊の企業を狙おう」などと語っていたとされる。目標金額は10億円。強奪したカネは折半などの取り決めもできた。
 しかし、この計画が本気だったのかは少し疑問が残る。というのも小田島はマブチモーター事件の裁判で、「守田は人生で初めての友人」と話し、「強盗計画を練ったのは『そういう話でしか仲良くなれなかった。出所しても会いたかったから』」(『毎日新聞』07年3月23日)と報じられているからだ。
 実際、小田島が守田を友人と思っていたのは間違いようだ。逮捕後に小田島と手紙をやりとりし、その様子をブログに公開しているノンフィクション作家の斎藤充功氏は、最初に接見したときの言葉として、次のような言葉を書き記している。
「はじめに、死刑判決ありきの裁判ですから、共に処刑される共犯者とは、法廷で悪様に言い合うことは避てたいと思いまして、共犯者の調書を基にした起訴事実を、総て認めたんです」(死刑囚獄中ブログ
 出所後、守田は会社に勤めたが、交通事故でクビに。60近い小田島にも仕事はなかった。そんな2人はアパートに同居し、マブチモーターに押し入ったのだ。小田島の仮出所から、わずか1ヶ月半後のことだった。

 共犯者・守田の最初の罪は、89年4月に起こした殺人だった。新宿区上落合のマンションに住むタイ人を電話コードで絞め殺した。原因は女。歌舞伎町のバーで売春を強要されていた女性から、120万円で自由になれるからどうにかしてほしいと相談され、彼女の「使用権」をタイのシンジケートから買った男性に会いに行ったのだ。彼女がどう思っていたかはともかく、守田にとって恋人だった女性の身請け交渉に行ったのである。しかし半額の60万円に値切ろうとして殺人に発展してしまう。
 彼もまた幸福な子ども時代を過ごしたわけではなかった。5歳で両親が離婚し、高校を中退したものの働きながら夜間高校を卒業。それでも20代には結婚して子どもをもうけている。子煩悩だったらしい。しかしギャンブルと女性問題で離婚。ここで何かの歯車が狂い、そのひずみは殺人で最高潮に達する。
「おれはあの時に死んだ」(『毎日新聞』06年12月6日)。最初の殺人について守田が語った言葉である。
 彼が一線を越えた現場が見たくて、マンションまで行ってみた。すでに事件から20年がたち、事件現場となった部屋には日本人が住んでいた。住民の何人かに声をかけたが、当時から住んでいた人は見つからなかった。ただ売春を管理していたタイ人が、それなりの懐具合だっただけは分かった。
Photo  白いタイル張りの5階建て、入り口はオートロック、ワンルームでも6万7000円、1LDKなら12万5000円するマンションである。立地を考えれば高いわけではない。ただ継続的な収入のない人が住めるマンションでもない。そこに守田が怒りを感じたとしても不思議はなかろう。
 ただ守田は、最初から女衒のタイ人を殺すつもりではなかった。それなら値切る必要などないからだ。どうにか交際していた女性を自由にしたいという思いが、生み出した殺人だった。少なくとも電話帳で殺す相手を適当に選ぶような無軌道さは、この犯行には見られない。

 窃盗から強盗・監禁に一歩を踏み出した男と、殺人を犯して「死んだ」男。2人にはもう守るモノすらなかった。小田島は11年間の服役中に恋人と音信不通になり、守田も一般社会への復帰に失敗した。
 発生当初、マブチモーターの事件は、恨みによる犯行だとも疑われていた。いくつもの疑問点があったからだ。白昼に2人も在宅する家に押し入った大胆さ、被害者の目や口に粘着テープを貼った残忍さ、そして死体の発見される可能性が高まるだけなのに放火した不可解さ、どれもカネだけが目的には見えない。
 捜査員が感じたこれらの違和感も、2人の自暴自棄な気持ちを考えれば多少は理解できる。なるべくなら殺さないでカネを奪いたい。罪はなるべく重くならないようにしたい。そんな思いをすべて放りだし、顔を見られたら殺せばいい、証拠があれば燃やせばいい、とやけっぱちな思いのままに犯行を重ねた結果が、3ヶ月間で4人の殺人だったといえる。

 このマブチモーターの事件は、近隣住民に与えた衝撃も大きかった。
「事件はショックだったよね。犯人が捕まらない間は怖くて。事件後は近所の人が集まると、早く捕まらないかなんて話ばかりしてたよ」
 現場と同じ町内に住む男性は、当時を思い出してそのように語った。
「馬渕さんとはあまりお付き合いはなかったんですが、奥様もお嬢様もすごく良い方だったとは聞いています。最初は火事だと聞いて、それから奥様と娘さんが亡くなったと聞いてね……。
 ともともと治安の良い場所でしたが、事件の後、空き巣が頻繁に入るようになって、私の家も慌てて二重窓にしたんですよ」
 そう語るのは、現場から数十メートル離れた家の主婦だ。
 住宅街に起こったいきなりの凶行に驚いた様子がうかがえる。

 しかし、これだけハイペースで人を殺してきた2人なのに、2002年11月を最後に強盗殺人を止めている。その要因となったのは、おそらく小田島が知り合ったフィリピン人女性だ。
「イヴの夜中の0時をすぎると、店のほとんどのフィリピーナが客の脇で、店のスタッフの目から隠れて携帯電話でフィリピンの家族に『メリークリスマス』と言いながら、声をたてずにポロポロと涙を落として泣く姿を見て、家族の生活を支えるために一人で日本に来て、健気に笑顔を絶やさずに働いている彼女達の素顔を見た思いがして胸をうたれるものを感じた。勿論、Revyも私の横で母親に電話をかけて、メリークリスマスと傍にいる私のことを話しました。でもRevy は泣かずに話している、と思った私は本気で惚れ、35才も若いRevyに溺れました」(死刑囚獄中ブログ
 小田島はこの翌年と翌々年のクリスマスと正月を彼女の実家であるフィリピンで過ごしている。
「2年続けてフィリピンのRevyの家で大勢の家族と一緒に過ごしたことが、私の生涯の中で最大で1番の幸せな想い出です」(死刑囚獄中ブログ)とは、彼のウソいつわりない気持ちだろう。そして2005年8月に小田島は子どもを授かる。ただし、その報を聞いたときはすでに塀の中だったが……。

 「死刑囚獄中ブログ」を追っていくと、小田島がRevyや子どもへの愛情から事件への反省を深めていく様子がうかがえる。
「人の命を奪っておきながら、虫がいいと非難されることは承知の上で、これからもTobyがただただ健やかに成長することを願っている。
 私と交際をし、私の子を生んだ事で、Rの人生を変えてしまった。そう考えると、どんな理不尽でも聞き届けてやりたいと切実に思う。Tobyをこの世に残して逝くことが確実な現実を思うとき、Tobyをひしと抱きしめたくなる」(2008年8月28日)
 そして1月31日、彼は深く感銘したとして次の言葉を書く。
「結局、人間が生きている間にすべき1番大切な仕事は、人を愛することなんだと、この頃しみじみ思います」
 さらに次の日には「普通の暮らしの中にある穏やかな日々にこそ、かけがえのない幸せがあるのだということを、死刑囚になって、いま、しみじみと分ってきたような気がする。
 みる人から見れば、私の人生などは、さほど不幸とはいえないものだろう。その中から、もっとも不幸な出来事だけを抽出して、その記憶を糧にして生きてきたのが、これまでの自分の生き方だったのだと思う」と書き記す。
 また、とりかえしのつかない重大犯罪を犯してしまったのだから苦しんで死のうとも決意する。やっと命の尊さを知ったのだという。

 初めての友人を得て殺人に向かい、かけがえのない子どもを授かったときには4人を殺した後だった。それが小田島にとって最大の不幸だったといえる。
 やはり愛を知らなければ愛を返せないのだろう。
 だからこそ考えてしまうのだ。「矯正の可能性は皆無」と言われた小田島と自分は、どれだけ違うのだろうかと。境遇が違えば、自分も殺人を犯してしまう可能性がないのかと。(大畑)

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2009年3月10日 (火)

川口バラバラ殺人の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
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 1999年1月19日、荒川で最初に見つかったのは左腕のひじから先だった。その後、左足や右足などの肉片が浮いているのが次々と発見される。頭部と胴体が発見されず、事件は長引くとも予想されたが、一部白骨化した左腕部分の指先から指紋を検出。99年1月9日から行方不明になっていた21歳の女性を被害者と特定し、行方不明の夜に被害者と酒を飲んでいた49歳の横田謙二を逮捕した。

 この事件が大きく報道されたのは、犯人が仮出所から1年もたっていなかったからだ。彼の最初の凶行は1978年の強盗殺人だった。知人宅にカネを無心に行き、たまたま在宅中だった父親を電気コードで絞め殺し現金を奪う。判決は無期懲役。20年間を刑務所で暮らすことになった。写経や読経に励む姿も見られ、所内での評判は悪くなかったという。
 98年3月、横田は仮出所となる。身元引受人は母親だった。翌月、経済同友会の調査では70%の会員が経済が後退していると答えていたが、横田はゴム製品の製造会社に働き口を見つけている。そのころからスナックにも通い始め、そこで後に被害者となるアルバイト女性とも知り合った。報道によれば、一流会社の会社員だとウソをつき、気前よくお金を使っていたという。
 当時の彼のアルバイト料は時給900円。1日8時間、22日間働いても稼ぎは16万円を割る。実家に支払っていた家賃などを考えると、大盤振る舞いできる賃金ではない。結果、足りない分を消費者金融から調達する。
 9月、彼は職場で注意されたことに腹を立て会社を辞める。わずか5ヶ月の短いアルバイト生活だった。ほどなく一人暮らしを始め、翌月には梱包会社に職を得る。手に職を持つわけでもない50前の男が、いきなり給与を上げられるはずもなかろう。そのうえ家賃や光熱費、借金への返済が生活を追いつめていく。しかも消費者金融への借金は仮釈放を取り消される可能性が高い重大な秘密でもあった。
 そして年が明けた1月9日、横田は「飲みに行こう。お年玉をあげる」と被害者を電話で誘う。すでに彼女はスナックを辞めていたが、2人は東武伊勢崎線西新井駅駅前の居酒屋で1時間ほど飲み、そこからタクシーで彼のアパートに向かったという。
 悲劇はアパートで「お年玉」を渡したときに起こる。2万円という金額に「これっぽっちなの」と被害者が言ったことで口論に発展。横田は彼女の首を絞めて殺した。3日間は放っておいたが、腐臭で事件が発覚するのを恐れ、風呂場で包丁を使って遺体を解体。6つの袋に分け、数日かけて自転車で荒川に捨てに行ったとされる。

2009030918140000  事件当時は開通していなかった舎人ライナーに乗り、現場のアパートへと向かった。埼玉県川口市にほど近い足立区の外れに、そのアパートはあった。
「犯人のことは誰も知らないんじゃないかね。事件があったのもテレビのニュースで知ったぐらいだから。もう契約なんかも大家さんじゃなくて不動産屋でするから、犯人を知っていれば不動産屋ぐらいでしょう。だいたいあのアパートに誰が住んでいるかは、近所の人も知らないから」
 アパートの向かいで畑仕事をしていた老女は、アパートを見ながら続けた。
「その犯人とは別に20年ぐらい前だな。警察が来てね。張り込みさせてほしいって、ウチの倉庫を借りていったよ。どこを見張っていたかは知らないけど、見える方向からすれば、やっぱり、そのアパートかねー」
 横田がこのアパートに住んだのは、わずか4ヶ月程度。地域から煙たがれていたアパートだけに、近所の住人が彼を知らないのは当然かもしれない。
 このアパートの近所で駄菓子屋を経営している男性も、犯人は知らないと首を振った。
「あのアパートは出入りが多いんだな。親子でけっこう長く住んでいる人がいるのは知っているけど、ほかは知らないなー。事件のときも、刑事がここら辺を通っているのは見たけど、人が集まって大騒ぎしていたわけでもないし……」

 犯行前の犯人の心境について、弁護人は「仮出所の取り消しに対する言いようのない恐れがあり、いつも自分の気持ちを抑えつけていた」(『読売新聞』01年7月1日)と裁判で主張した。しかし、彼はこんな生活を維持したかったのだろうか?
 生活にギリギリの賃金、地域でも孤独で、職場で親しい友人がいたとの報道もない。一緒に飲んでくれたのは、お年玉で釣った親子ほど年の離れた女性。「安すぎる」と賃金に不満を並べていたゴム製品製造会社でさえ、社長からは「まじめだったが、仕事内容分ほどではなかった」(『読売新聞』99年7月6日)と評価される仕事ぶり。20年間の刑務所暮らしから解き放たれても、自分に居場所がないという現実は日々迫っていたはずだ。
 おそらく現実から目をそらす最後の砦が被害者の女性だったのだろう。横田は最後までミエを張り続けたのではないか。被害者女性と一緒に乗ったタクシー料金も1500円近かったはずだ。渡した2万円も奮発したつもりだったのかもしれない。でも、実際にそれは「これっぽっち」の価値しかないものだった。

 一審では「治療者と治療環境に恵まれれば、性格の矯正は不可能ではない」として無期懲役、二審では「犯罪予防の見地からも極刑はやむをえない」と死刑判決を下した。弁護人は上告したが、被告自身が取り下げ02年10月に死刑が確定した。
 果たして、彼に「性格の矯正」の可能性はあったのだろうか?
 私は死刑制度に賛成する者ではないが、すぐカッとなる性格で、現実を受け入れないとなれば再犯の可能性は高かったように感じる。横田自身、極刑を望んでいたとの報道もある。彼自身、自分を止めたかったを考えるのはうがちすぎだろうか。

 遺体が解体されたアパートの一室は雨戸が閉まり、ポストにはガムテープが張られていた。玄関脇の電気メーターの針も動いてはいなかった。事件から10年間、ずっと時が止まっていたかのようだった。(大畑)

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2009年2月13日 (金)

青梅姉妹バラバラ殺人の現場を歩く

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 2001年7月27日、姉を殺し、遺体をバラバラにして運び出そうとしていた41歳の女性が逮捕された。27日の午前0時頃、彼女は知人の男性に「大変なことをした」と電話。自宅を訪れた男性が異臭に気づき通報したために発覚したという。
 犯人の妹はチェーンソーと包丁を使い、風呂場で10時間をかけて遺体をバラバラに切断。警察が現場に到着したときは、黒いポリ袋に包まれた腕のない胸から上の遺体が6畳間に置かれていたという。また腕や下半身は冷蔵庫から発見された。仲のよい姉妹との報道もあった2人だが、その同居は1年5ヵ月で殺人という形で終焉を迎えたことになる。

 殺された姉は32歳のときにお見合いで知り合った男性と結婚し、殺人現場とさほど離れていない土地に一軒家を購入した。翌年には娘を出産し、平凡で幸福な家庭を築いていた。地元のママさんバレーチームで活躍、結婚前の職業を活かして自宅のガレージをブティックに洋服を売るなど、地元でも活発な女性と評判だったらしい。
 その幸福な運命がきしみ始めるきっかけとなったのは、夫の死だった。事件の2年前となる1999年7月、40歳になる夫が脳溢血で突然倒れ、そのまま亡くなった。夫の生命保険が8000万円ほど支払われており、通常なら夫の死で住宅ローンの支払いも無くなった一軒家で静かに暮らすところだ。しかし義父母の援助で建てた自宅に住みにくさを感じた被害者は、新たに自宅を購入し、1階部分をブティックにして生活する算段を立てたのである。その新居ができるまでのつなぎとして入居したのが、殺人現場となる3LDKのマンションだった。
2009021316110000_2   青梅線小作駅から歩いて約15分に、現場となったマンションがある。東京都とはいえ、周辺にはまだ所々に畑の残っていた。近くの公園では30人近い子どもたちが駆け回り、マンションから数十メートル離れた図書館前では、幼い子どもを連れたお母さんたちが談笑していた。一戸建て住宅を買った若い夫婦が活発なコミュニティーを作っている。そんな印象を受けた。
 小学生だった娘との暮らしに変化が起こったのは、夫の死から5ヵ月後だった。10年暮らしてきた内縁の夫と暮らしていた妹が転がり込んできたのである。しかし当初、この同居はうまくいっていたらしい。バレーの練習やブティックの仕事で家に空けることが少なくなかった姉に代わり、妹が娘の世話や家事を担当したからだ。姉と違いおとなしい女性だった妹が、恋人と別れた後に活発な姉を頼った気持ちは分からなくもない。ただ、少し奇妙だったのは、妹とともに女性の居候がもう1人増えたことだ。
 彼女は妹とパソコン教室で知り合ったという。恋人の浮気で精神障害を患った彼女の話を聞いてあげてたのが犯人である妹だった。妹が姉のマンションに転がり込む前から、たびたび妹の家に泊まりに来ていた彼女は、妹と一緒に「引っ越し」してきたのである。一部では彼女と妹が恋人関係にあったと報じられた。

 小学生の娘と母親、妹とその恋人。4人の女性の同居に、さらに決定的な転機が訪れたのが、事件のちょうど1年前、2000年の7月だった。女3人でボーイズバーに出かけたときである。カジュアルなホストクラブというべき「ボーイズバー」なら、豪遊でもしない限りは値段もしれている。安いところなら1人1万円もしないで飲める。
 夫の一周忌前後にあたり、彼女たちにとっては軽い憂さ晴らしのつもりだったのだろう。しかし姉は、この遊びにはまる。連日のように通い続け、1回に10万単位のお金を使ったという。金銭を管理していた妹は、姉の散財を注意し続けた。しかしバー通いは止まらない。それどころかバーの店長と半同せい状態にまで発展、自宅に戻らない日々が続くようになった。
 そして新築の建築代の支払いにも困り、姉が父親の不動産を売ろうと言い始めたことで妹はキレる。久しぶりに返ってきた姉の首を腰ひも絞め、布団に顔を押しつけて窒息死させたのである。
 このマンション、現在の賃料は7万1000円、共益費が3000円となっている。事件の起きた7年半前に比べ、値段が下がっているといっても10万円を超えることはなかったろう。1ヵ月に20日ボーイズバーに通い、10万円ずつ使っても月200万円。家賃の10万を入れて50万で生活しても、年3000万円しか消費できない。保険金も5000万は残る。どれほどの自宅を購入したかは分からないが、小作周辺で4000万円台でかなりの家が買える。やはり姉はかなりのお金をバーにつぎ込んでいたことになるだろう。

 それにしても不思議なのは、どうしてここまで彼女がはまったかであり、妹がどうして姉を殺さなければらなかったのかである。その1つの答えは「寂しさ」だったように思う。
 現場周辺を聞き回ったが、その姉妹を詳しく知る人はいなかった。ある中年女性は「一軒家に住んでる人はマンションの人とかと付き合わないからね」と話した。実際、マンションの横に住む住民も犯人のことを知らなかった。図書館の周辺で談笑していた主婦グループも、事件そのものは知っていても被害者と犯人の姉妹については、「分からないですねー」と首をかしげた。
 家庭があって、子どもが居て、一戸建てに住む。そんな「当たり前」の生活が、この地域のコミュニティーに溶け込む「資格」なのだろう。
 姉には子どもおり、ママさんバレーの仲間だっていたはずだ。しかし夫が急死した妻は、そのコミュニティーに居続けられたのだろうか? 
 妹は内縁の夫を失い、同居していた女性は恋人の裏切りから精神のバランスを崩していた。つまり3人ともぽっかりと空いた心の穴をふさげない状態だった。
 妹は新居で暮らすのが夢だったという。その夢が壊れることに耐えられなかったのが動機の1つだと伝えられている。妹が果たしたかった夢、それはいびつな同居ながらも家族が楽しく地域に溶け込んで暮らすことだったのではないか。
 一方、同居していた女性は死体遺棄を手伝った理由について「(妹を)尊敬していたので、助けようと思った」と語っている。彼女にとっての妹の存在はそれだけ大きかったのだろう。
 妹は新居に抱いた期待で、同居女性は妹の存在で、そして姉はボーイズバーでの憂さ晴らしで、どうにか現実と自分を結びつけていた。その糸は保険金が底をつくと同時に切れ、一気に殺人事件へとつながっていった。

 姉がボーイズバーの店長の自宅に泊まり込むようになっても、子ども面倒を見続けた妹は、子どもが集うマンション近くの公園をどんな思いで眺めていたのであろうか。夕暮れの公園を見ながら、そんな感傷にとらわれた。(大畑)

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2009年1月27日 (火)

宮崎勤事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
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Img_6958  武蔵五日市駅前を通る檜原街道から500メートルほど入ったあたりだろうか。突然、駐車場が現れる。青い看板に赤い「P」の文字。ただし無人。料金は入り口のポストに入れる仕組みだ。
 向かいには広大な畑が広がり、とても需要があるとは思えない。ゆうに15台は置けようかという駐車場に、その日は2台の車が止められていた。
「近所の人が管理しているみたいですよ。まだ土地を売っているみたいだけど、買い手がつかないみたいですよ」
 駐車場の近隣に住む女性は、そう言って口をつぐんだ。

 1989年8月、この駐車場の土地一帯が時ならぬ喧噪に包まれた。空にはヘリコプターが飛び、マスコミは土地に面した道路で場所を奪い合い、警察はロープを張り巡らせてメディアを規制した。この土地に住んでいた宮崎勤の逮捕が原因だった。

 88年8月から89年6月の間に、宮崎勤は4~7歳の女児4人をいたずら目的で誘拐、殺害した。女児へのわいせつ行為をビデオに撮影したり、白骨化した遺体を自宅に持ち帰って庭で焼却して被害者宅に届けるなど、その猟奇的かつ残忍な犯行は世間の注目を集めた。
「逮捕のニュースを見たのは昼食のときでしたね。犯人が逮捕がされたと聞いて、『あーよかったなー』と思ったら、住所が五日市町の小和田でしょ。それで犯人の名前が隣の家の息子さんだったからね……。
 逮捕前に事件が報道されていたときは、こんな犯人絶対許せないと思いましたよ。でも逮捕されたら、犯人も知ってる、そのお父さんも知ってる。お母さんもおばあちゃんもおじいさんもでしょう。わたし、昼のニュースを聞いて、すぐにお隣に飛んで行きましたよ。お母さんが心配で。でも、もうマスコミが殺到していました……」
 宮崎勤の裏手に住む女性は、当時をそう述懐した。
 日常生活でけっして出会うことのないと思われた犯人が、いきなり目前に現れた衝撃。それは近隣の住民ばかりではなく、宮崎勤の家族も感じたものだったのかもしれない。
「小さい頃の勤君はおとなしくて普通のお子さんでしたよ。スーパーマンですか。首に風呂敷まいて走り回っていて。ただ、うちにも2歳下ともう少し上の子どもがいるのに、一緒に遊ぶことがなかったんです。一度遊んだとき、本を読んでずっと黙っていたと息子から聞きましたから」

 この女性がニュースを見て宮崎家に駆けつけたとき、室内では父親が記者に取り囲まれて取材を受けていたようだ。印刷業を経営するかたわら『秋川新聞』という地元タブロイド紙を作るジャーナリストだった父は、メディアに誠実に対応しようとしたのだろう。
 実際、89年8月11日の毎日新聞には、父親の次のようなコメントが掲載されている。
「信じたくない。ましてやこの家で死体をバラバラにするなんて……」
 家族の正直な感想だろう。しかしメディアに大きく取り上げたのは父親のコメントではなかった。自宅に入り込めた記者が撮影した宮崎勤の部屋だった。窓がなく、壁いっぱいに積まれたビデオとロリコン漫画。まだ、一般に「オタク」という言葉が広まっていない中、収集された大量のグッズは彼の異常性の象徴として流布されていった。
 近隣住民に取材をすると、この父親を悪く言う人にほとんど出会わなかった。祖父が村会議員、父親当人も自治体の役員を務めるなど、地元の名士とも評されていたこともあっただろうか。
 実際、彼は息子が逮捕された直後に、近所を一軒一軒訪ねて謝罪している。小和田の顔役でもあった90歳の男性は言う。
「お父さんから相談があってな。どうしたらいいもんだろうと。それで『どこに迷惑かけているか分からないから頭を下げなさい』と言ったんだよ。そうしたら小和田とその隣の地域、全部の家を一軒一軒、『うちの息子がとんでもないことをしまして』と頭を下げて回ったんだ」
 この父親も94年11月、多摩川に身を投げて自殺した。引き受けた責任の重さに耐えきれなくなったのだろう。
「捕まったときは26歳の大人でしょ。日本じゃなければ、こんなにご両親が追いかけ回されることもなかったと思いますよ。未成年なら仕方ないけど」
 心配して宮崎家を訪ねた女性のの言葉が重く響いた。
 宮崎勤自身は実況見分で訪れた自宅裏庭で、夕暮れに電気のつかない家を見て、「うちの者はどこに行ったんですか?」とたずね、「お前の事件があってがあって家にいられなくなった」という捜査員の言葉に涙を流したという。彼が捜査員に見せて最初で最後の涙だった。犯行について「夢の中のよう」と言い続けた宮崎勤にとっての、自宅の灯は唯一の現実だったのかもしれない。

 一方でメディアの熱狂は、近隣住民を現実の日常から吹き飛ばした。
 地元のタクシー運転手は当時を思い出して次のように語った。
「にぎわったもんじゃないよ。本社から表彰されたんだから、売上げがすごくて。朝行くと、連日マスコミが貸し切っていたからね」
 現場を訪れたのはメディア関係者だけではなかった。近隣住民が宮崎勤の自宅みたさに車で大挙して押し寄せ、前の道は大渋滞を引き起こした。自分の家に車で戻れない近隣住民と、怒鳴りあいのケンカまで起こったという。
 報道関係者と近所のいさかいも少なくなかった。
 先述の顔役の男性も報道関係者をしかり飛ばした一人だ。
「自分の店の隣にあった畑に勝手に入り込んで踏み荒らしたから、大根の芽が全部ダメなっちゃったんだよ。時期があるから植え直すこともできない。腹立って、『どこのどいつだ。告訴するから名前を言え』と怒鳴りつけたけれど、後ずさりするだけで名乗りもしなかったよ」
 また、多くの人が突きつけられるマイクやペンから逃れるように生活しなければならなかったようだ。宮崎家の裏に住む女性は当時を次のように語る。
「警察がロープをはっていたけれど、報道の人からどこからか入ってくるのね。藪とかに潜んでいて、ゴミ出しのときとかバッと群がってくるんだから。事件が起こる前に宮崎さんから買った土地についても、ある新聞では事件で土地を買い叩いたと書かれたんですよ。報道前に仮登記まで済んでいるのに」
 こうしたある種の熱狂の中、事件に関連することは表に出しにくい、という奇妙な現象も起こっていた。
「近所に住む親子から相談を受けたんだ。宮崎の息子が夜中に焼却炉で何か燃やしていて、庭にまいているのを見たってな。でも、警察署に行こうものなら記者が集まってくるし、だいたい滅多なことも言えないだろ。近所なんだから。だからオレから警察署長さんに伝えて、別の地域の警察署で目撃した状況を話せるように手配したんだよ」
 メディアを怒鳴りつけた顔役はそう語った。
「8月末に家族で旅行に行ったら、やっとホッとして久しぶりにぐっすり寝てしまったんですよ。何ために旅行したからわからないぐらい。とにかく落ち着けませんでしたからね」
 近所に住む女性は、当時の思い出をそう語ってくれた。

Img_6964  地元を巻き込んだ狂騒は、今ではそれこそ「夢の中」の出来事のように聞こえた。更地となった宮崎家の土地に、当時の面影はない。ただ土地の隅に転がっている大きな庭石や無残に刈り込まれたサルスベリやツゲの木が、かつて地元の名家があったことを思い起こさせる。
 08年6月、宮崎勤は死刑に処せられ、彼自身の悪夢は完全に終わった。しかし彼の残した爪痕は、まだしっかりと地元に刻みつけられていた。(大畑)

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2009年1月13日 (火)

葛飾柴又女子大生殺人放火事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
ブログでは明かされない新たな事実満載!!

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Img_6956_2  上智大学の女子学生・小林順子さんが葛飾区柴又で殺されてから12年を越えた。公訴時効まで3年を切ったことになる。昨年9月被害者の父親は、死刑に相当する凶悪事件の時効の撤廃と、殺人の時効が04年発生までが15年で05年以降が25年に分かれている状況を改善し統一してほしいと訴えた。
 すでに700件以上の情報が寄せられ、延べ4万人も捜査員を投入したにもかかわらず、いっこうに事件が解決しないことへの苛立ちが遺族にはある。

 京成線の柴又駅改札を出ると、寅さんの銅像に迎えられた。渥美清主演『男はつらいよ』の実家があることで知られる場所だからだ。取材に訪れた日、寅さんの実家がある設定になっている駅から帝釈天に続く参道は、新年の参拝客でごった返していた。
 その喧噪を避けるようにして踏切を渡り、歩くこと数分で現場となった元自宅に到着した。毎年、事件の起こった9月9日に両親や警察などが花を手向ける空き地は、人の侵入拒むように鉄パイプで囲まれていた。自宅があったことを示す唯一の痕跡は、土地の一部に残るコンクリートにタイルのみ。玄関だったのだろうか、道に面した道路際から土地の奥へと白いラインとなっていた。事件から約1年は「事件のあかし」として、遺族は娘が殺害後に放火され自宅の焼け跡を黒こげのまま残していたという。しかし解決をみることなく、取り壊さざるを得なくなってしまった。
「(事件が起こってから)もう10年にもなるかしら?」
 近所に住む女性は、私の取材にそう答えた。12年を越えたことを伝えると、「もうそんなに……」と言葉を継ぎ、「私は姪がたまたま9月9日が誕生日だから事件のあった日付まで覚えているけれど、10年を越えるとなかなか思い出せないですよね」と話した。
 事件の風化が少しずつ進んでいることは事実だろう。

 それは残忍で、奇妙な殺人事件だった。
 午後4時35分ごろ小林さん宅の2階から出火しているのを隣人が発見し119番通報。午後6時には鎮火したものの、その焼け跡から次女・順子さんの遺体が発見されたのである。
 布製の粘着テープで両手を、ストッキングで両足を縛られた上、首などを数ヵ所刺されていた。楽しみにしていた米国留学の2日前だった。
 順子さんの部屋に置かれていたリュックサックの現金13万円が残されていたこと、人目につきやすい夕方の犯行であることから物取りと考えにくいとの考えられ、当初、犯人は「顔見知り」だと推測されていた。
 実際、来客用のスリッパが焼け跡から発見されいることも、そんな読みを補強した。順子さんの母親が、すぐに解決すると思っていたと新聞記者に話したのもうなずける。
 また、事件発生の10日前には、午前0時頃、駅から自宅に順子さんが電話をか「誰かが後ろを付けてきて、道を曲がっても、次にまた曲がっても付いてきた。だから駅まで戻った」と訴えたという。そのときは母親が迎えに行ったというが、駅から自宅までわずか200メートルの距離で危ないと感じたのだから、かなりの危険を感じたのだろう。こうした情報からストーカー説が台頭した時期もあった。現在は旧札の現金1万円が盗まれていたことを理由に、盗み目的で侵入したとの見方を強めているという。しかし、いずれにしても推測の域を出ない。
「事件当日が雨じゃなければねー」とこぼしたのは、被害者宅と同じ通りに住む男性だ。
「この道(小林さん宅に面した道)の角は、いつも何時間も弓道の練習をしていた人がいたり、近所の女性が雑談していることも少なくない場所だからさ。晴れていたら、誰か見ていた可能性があったと思うんだ」
 たしかに事件当日はかなり激しい雨が降っていたという。
「ただね、この道自体は人が少ないのは確かだね。ほら、今だって人っこ一人
いないでしょ。人目がないから、あの事件の前後にも、この道で2件ほど放火があったからね。ごみが燃やされたんだったかな」
 すぐ近くには駅もあり、角を曲がった道は人通りも多い。それなのにエアポケットのように静かな道に現場が面している。この事件取材で、何度か耳にした状況だ。
 ただ、だからとって住民の命を奪われるほど危険だとは誰も思わないだろう。
 上智大学でネイティブや帰国子女と同じ程度に英語を操る才媛で、後輩からは「お姉(ねえ)」と呼ばれて慕われ、誰からも恨みを買うような女性ではないと多くの人が語る21歳の女性の人生はいきなり終止符が打たされた。
 考えてもせんないこととは思いながら、どうして死ななければならなかったのを考えざるを得なかった。(大畑)

※犯人逮捕の有力情報には家族がかけた500万円が支払われる。詳細はココ

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2008年12月23日 (火)

レッサーパンダ帽子男殺人事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
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 浅草の松屋を左に見ながら江戸通りを北に歩く。金属のこすりあわさる高い音に振り返ると、頭上の鉄橋を列車がゆっくりと進んでいた。東武伊勢崎線は隅田川を越えた直後、松屋の入った駅ビルへとほぼ直角に進路を変える。その急な方向転換の「悲鳴」だった。
 2001年4月30日午前10時半ごろ19歳の女子短大生がここを歩いていた。天候は雨。ボーイフレンドが出場するブラジリアン柔術の大会を応援するために、浅草駅から800メートル近く離れたリバーサイドスポーツセンターに向かう途中だった。
 彼女の歩いていた歩道は片側2車線の大通りに沿っている。道の両脇にはいくつもの靴屋が並び、年末にはこの一帯の店と問屋によって「花川戸はきだおれ市」が開催されることでも知られる。少なくとも取材した日曜夕方に人通りが途絶えることなどなかった。
 もちろん治安が悪い場所でもない。犯行現場近くに住む商店主は「ここらへんの治安は悪くないよ。ホームレスだって悪いことしないし」と、言葉少なに周辺の状況を説明してくれた。
 事件当日、午前10時20分ごろには駅近くの交番で道を聞いた、と被害者が携帯でボーイフレンドと話をしており、スポーツセンターにいる友人たちは彼女に身の危険が迫っていることなど思いもしなかったはずだ。しかし犯人は浅草駅周辺で、たまたま見かけた彼女に狙いを付け尾行を始めていた。
Photo  この鉄橋から200メートル先で、彼女は道幅2メートルほどの路地に連れ込まれ、背中や右胸、左腹など5ヵ所を刺されて亡くなる。
 新聞報道によれば、女性の悲鳴を聞いて外を見ると男が血を流している女性に馬乗りになっていたという。近隣住民が「何をしているんだ」とどなると、小道の先にある隅田公園の方に逃げ、トイレで手を洗おうとした。
「まだロープも張る前に現場に駆けつけたよ。女の人がお腹を真っ赤に血で染めて倒れていたな。頭を公園に向けてさ。もう全然動かなかった」
 近くに住む商店主は、当時のことをそう語った。
 これだけでも十分に怖い事件ではある。しかし世間を震撼させたのは、手口ではなく犯人の異様な服装だった。なにせ耳のついたレッサーパンダを模した帽子をかぶり、白と黒のしま模様のコートを着ていたのだから。しかも身長は180センチを超える大男。
 犯人は血の付いたコートや帽子、凶器の包丁を捨てたものの、その異様な姿は以前から浅草周辺で目撃されており、犯行後には700件もの情報が寄せられたという。ただちに似顔絵が作成され、彼は偽名で潜り込んだ建設現場からの通報で逮捕された。犯行から10日をへた5月10日のことだった。

 この事件はここから迷走を始める。じつは動機はもちろん、被害差女性にどう襲いかかったのかさえ完全には分かっていない。当時の新聞や雑誌は、「かわいいと思って声をかけようとしたら、振り返ってびっくりした顔をしたのでかっとなって殺した」とか「彼女を自分のものにしたかった」などと書かれている。後ろから近づいて振り向いた被害者を刺し、さらに小道に引きずり込んでメッタ刺しにしたというのだ。
 しかし記事の下になった警察の調書は、裁判で矛盾が指摘されている。
 当日、事件を目撃したタクシー運転手は被害者女性と犯人が一緒の傘でスポーツセンターとは逆方向に歩いていたのを目撃している。おそらく持っていた包丁で脅したのだろう。
 じつは94年にも犯人は34歳の女性にモデルガンを突きつけ、数百メートル離れた公園に連れて行き、強制わいせつなどの容疑で逮捕されている。同様の手口だと考えれば、タクシー運転手の証言の信憑性は増す。しかし、この証言は裁判で無視された。
 さらに分からないのは、殺人の動機だ。犯人は裁判で被害者を「可愛かった」「優しかった」と表現しており、殺人までには「距離」がある。
 こうした問題をより複雑にしているのは、犯人がわずらっていたと思われる自閉症だ。人の目をみて話すこともできず、難しい話になるとついていけない。記憶がないことも多い。実際、彼は知的障害のため高等養護学校に通っていた。そんな彼から原宿署は3時間で上申書や供述調書を作成したという。
 この問題について、ここでは詳しく触れるつもりはない。詳細は裁判に通い続けて綿密に取材した『自閉症裁判』(佐藤幹夫 著 洋泉社)に譲る。むしろ気になるのは、殺人と犯人との「距離」である。

 犯人が女性にいたずらをしたいと思っていたのは間違いない。この殺人事件の2時間前には犯行現場から300メートルほど離れた吾妻橋で29歳の女性に包丁を突きつけているからだ。幸い女性は傘で抵抗、大声をあげたために難を逃れた。
 この事件の被害者が抱いた犯人の印象を、前述の『自閉症裁判』は次のように書いている。
「包丁もおもちゃのように見え、人を怖がらせて喜ぶ愉快犯のようなのではないか。そうした疑いを払拭できなかった。これで(警察に)届けていいのものか、迷った。そして男の去り方があまりにも『普通』であっ気に取られたし、とにかく一刻も早く浅草を離れたかった」
 また犯人がわいせつ目的ではなく「友だちになりたかった」と調書で答えていることも、この本は紹介している。

 殺人を犯した後の行動も奇妙だった。目撃されたコートを捨て、偽名を使っていたのにもかかわらず、事件現場から近い東京駅で寝泊まりを繰り返していた。また犯行の3ヵ月前には札幌に帰る金がないと上野署に相談に訪れている。そのときもレッサーパンダの帽子をかぶり、しまのコートを着ていたというから、上野と距離的に近い浅草で事件を起こせば身元が割れる可能性が高いことは常識的には分かる。
 彼はどこまで犯罪を意識していたのだろうか?
 脅すことも、殺すことも、特別な事ではなく、ひどく彼の近くにあったような気がしてならないのだ。
 読売新聞(01年5月11日)は中学時代の彼について次のように書いている。
「クラスの中では『マコッちゃん』と呼ばれていた。元教師は『悪い方に進むことはあり得ないと思っていた。笑った顔しか思い出せない。信じたくない』と声を押し殺した」
 この記事ばかりではない。学生時代の彼について多くのメディアは「おとなしい人」だと報じた。きっと級友の多くは殺人とのギャップに驚いたことだろう。そして先述した未遂事件の被害者も、とくに慌てるふうでもなくゆっくり歩いていく彼の去り方を「普通」だと表現した。だからこそ「愉快犯」と感じ、近くの警察署に駆け込まなかったのである。ナイフをちらつかせた行為と行動のギャップに、彼女は混乱したに違いない。
 しかし犯人にとって「友だちになること」も「ナイフをちらつかせること」も、あるいは「殺人」すら同じ地平にあると考えたら、どうだろうか? つじつまが合うような気はする。

 被害者にとって不幸だったのは、そんな人物と殺人が起こりやすい環境で出会ったことなのだろう。
「休日で雨が降っていただろ。商店は開いてないよね。9時ぐらいだったらスポーツセンターに行く人がいたから、けっこう人通りが多かったと思うんだ。逆に11時にぐらいになれば、飯でも食おうかって人も出てくるんだけど。ちょうど人がいない時間だったんだね」
 近所に住む男性は当時を思い返して言った。

Photo_2  取材で探したかったのは殺人の必然性だった。19歳の若さで命を奪われたワケといってもよい。納得できる理由まで求めてはいない。ムチャクチャであってもいい、説明がほしかったのだ。しかし取っかかりすらなかった。
 犯人は犯行場所周辺に実家から転居届をだしていたと報じられている。もちろんアパートを契約していたわけではない。とにかく浅草周辺が好きだったということか? しかし、なぜ好きだったのかは分からない。
 たまたま浅草に来た女性が、たまたま居た男に殺され、そして事件はどんどん風化している。そこにこの事件の悲しみと虚しさがある。

 2005年4月1日、犯人は高裁への控訴を取り下げ、無期懲役の判決が確定した。(大畑)

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2008年12月14日 (日)

忠臣蔵吉良邸討ち入りの現場を歩く

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Img_6913  時は元禄15年(1702年)の本日、午前4時。両国に火消しに扮した47人の義士が到着した。満月になろうかという月が前夜に降った雪に反射し、四十七士の足元を照らす。冷害で米価を押し上げたというこの年の冷え込みはきつい。47人の踏みしめた雪がザクザクと硬い音を響かせた。
 現在の両国3丁目6番地、旧本所松坂町にある吉良上野介の屋敷前で隊は2つに割れる。屋敷西側、正門にて陣太鼓を叩くは、ご存じ大石内蔵助。東側裏門の大将は、内蔵助の息子、15歳の大石主税良金であった。
 内蔵助の号令一過、正門横のなまこ壁にはしごがかかり、大高源五と間十次郎が一気に越えていく。後続の義士も躊躇することなく、一気にはしごを駆け上っていく。門を制した一行はかんぬきを一気に引き抜き、大石内蔵助を頭とする表門部員を屋敷に内に招き入れた。
 これこそ四十七士による討ち入りの始まりだった。

 現在、この正門はマンションへと変わった。その持ち主である男性は、次のように語る
「『ここから毎日出かけるのはいいですねー』と忠臣蔵のファンの方に声をかけられたことはありますよ。まだ、マンション前に正門跡と説明した看板が立つまえでしたけどね。
 ただ、まあ、住んでいる場所ですし、いいと言われてもって感じではあるんですがね(笑)」
 正門から毎日出かけられたら、毎日が内蔵助気分だろうと思うのは、どうやら忠臣蔵フリークだけらしい。さもありなん。

 一方、大石主税を対象に据えた裏門隊の討ち入りは、かなり荒っぽいものだった。掛矢と呼ばれる大きな木槌を、台所役人だった三村次郎左衛門がガツンガツンと打ち付ける。門を打ち破った途端に、一同が一気に雪崩をうって屋敷内に飛び込んでいった
 このとき主税、わずかに15歳。義士としては最年少であった。ただ173センチと当時にしては大柄で、肝も太かったと伝えれられている。

 この主税大活躍の裏門は中華料理屋となっている。もちろん千客万来、打ち壊す必要もなく中に入れてくれる。
「ここが裏門で、どうかなんて考えたこともなかったねー。今日みたいなイベントがあると、昔そんなこともあったんんだなーと思うけど。すみませんねー」と頭を下げたのは、この店のおかみさん。
 まったくもってその通り。どうやら一度に飯を10杯以上食べた伝えられる主税を忍んで商売を始めたわけではなさそうだ。

 話戻って正門組。
 ハシゴで塀を乗り越えた小野寺幸右衛門が真っ先に向かったのは、正門すぐ近くにある「槍の間」。走りながら抜刀し、部屋に置かれている弓の弦を一気に切り払った。吉良には弓使いが多いという情報を得た上での行動だったという。さらに長槍14~5本も完全破壊。討ち入りからわずか1時間にして屋敷内を制圧する快挙は、この地で始まったと言っても過言ではない。

 小野寺幸右衛門大活躍の「槍の間」の現場に住む男性は、取材当日に開催されていた元禄祭りの役員が集まる酒席の中にいた。
「おいおい、大丈夫か『ヤリの間』に住んでるなんて」と仲間にからかわれながら取材に答えてくれた男性は、「はははっ。まあ、感想もへったくれもないわな」と大笑い。「家がそんな場所だって聞いたこともなかったもの」と続けた。さすがに事件発生から306年もたって、廷内の様子を現住民に取材するバカは、そうそういなかったと見える。

 廷内に入った義士は「火事だ、火事だ」と騒ぎ立て、大人数で押し入ったように偽装しながら、一気に屋敷内に突入していく。ただ、この屋敷。お屋敷に面している北側を除き、東西南はすべて塀が長屋となり、屋敷を警備する者たちが寝ていた。そこで長屋から飛び出してくる者を制圧するため、何人かが屋外に配されていた。裏門組に属していた間喜兵衛・小野寺十内も、そんな役割を担った2人。喜兵衛68歳、十内60歳という老人タッグが不幸だったのは、裏門入ってすぐ長屋から飛び出した2人の男と出くわしたことであった。
 屋敷を守ろうと長屋から出陣されては、人数の少ない義士は総崩れ必至。走り出でる2人の男を喜兵衛と十内が槍一突きで殺害する。そのとき、いまわのきわにあった男が念仏を唱えるのを、十内の耳がとらえた。
「老人の罪作りとや申すべき」
 愛妻家だった十内は、このときの気持ちを手紙にて妻・丹に書き送っている。討ち入りに参加せず、脱盟してしまった兄に絶縁状まで送ったという忠信・十内。自らの死を覚悟しての討ち入りだったが、かたきである吉良の殿様以外、同じような忠臣を殺したくはなかったのだろう。
 しかし、じつは十内、最大の「罪作り」は彼の自決後に起こる。夫の法要を済ませた丹が、十内の後を追って静かに自害したからだ。

 この泣けるドラマ、老人タッグによる殺害現場に住む男性は、「初めに切りつけた浅野内匠頭が悪い」と47士の殿様を一刀両断した。
 彼は日本全国から人が集まる討ち入りのお祭り・元禄祭の発起人だったという。12月14日にお参りに来る人々に一休みする場所を提供しようと、近所のお茶屋の協力で、自宅でお茶を出したのが事の始まりだった。
 四十七士だけではなく、討ち入りで亡くなった吉良側の忠臣を含めてお祀りしてきた地元住民だけに、命をささげるまで忠臣を追いつめてしまった主君に目がいくのかもしれない。

 さてさて十内については、さらに書き記しておくべき活躍がある。それは隣の屋敷の騒がしさに、何事かと家来とともに庭に出てきた土屋主税に対し、片岡源五右衛門、原惣右衛門とともに仇討ちであることを伝え、火を出さぬよう十分に気をつけているからと壁越しに挨拶したことだ。
 すべてを了解した隣人・土屋主税は提灯を塀の上に掲げて、中を見えやすくすると同時に、「塀を乗り越える者には矢を射よ」と家来に厳命した。

1_2    このちょっと粋な土屋家のあった場所に暮らす男性が、お祭りの実行本部のテントに居た。
「つまり賊の手助けをしたわけだな。そりゃ、共謀共同正犯だな」と笑う。この男性によれば、地元では吉良の殿様を支持する人も、赤穂浪士を指示する人もいるという。
「ただしどちらもお祀りする。それがここ両国ですからね」と微笑んだ。

 吉良邸内の屋敷内部に目を転じれば、激しい局地戦が繰り広げられていた。そのうちの一人が鳥居利右衛門。須藤与一右衛門ともに上野介を逃がすために、屋敷の北側の台所とその西側に広がる庭で敵を迎え撃つ。利右衛門は齢60ともなっていたが、屋敷北側の台所で若手の浪士に善戦。鎖帷子に阻まれ相手に致命傷こそ与えられなかったものの浪士を押しまくった。
 この状況を見かね、「いづれも退き候へ」と声を掛けてきたのが、剣術の天才・堀部安兵衛。堀内道場の四天王とも呼ばれ、24歳のときには高田馬場の決闘でも相手方3人を叩き斬った剣豪は、実戦経験にも長けた強者だった。
 庭で利右衛門と対峙する安兵衛の刀身1メートルはあろうかという大太刀が月の光を受けて暗く輝く。隙のない所作から生み出されるこん身の一撃は重く、安兵衛の腕を痺れさせた。剣を防ぐ防具を身につけていなかったことも、利右衛門には痛かった。すべてはかわしきれないだけに、皮膚が切り取られていったからだ。
 一歩一歩と間合いを詰める安兵衛の切っ先がギラリと輝き、踏み込みと同時に振り下ろされた面に、利右衛門は為す術もなかった。大太刀の重みは頭を真っ二つに叩き割った。
 討ち入り後、泉岳寺で刀をあらためた安兵衛は、この闘いで外刃がこぼれたことをぼやいたという。

 この堀部安兵衛の決闘場所に住む男性は、「堀部安兵衛が戦ったのが、俺のところだとは知らなかったよ」と驚いた様子だった。
 それはそうだろう。屋敷内の部屋の位置を正確に把握する術がないのだから!
「正門のところにも区が看板を立てたから、俺も看板でも立てるか!」と笑い、「テレビで忠臣蔵を見るときが楽しみだな」とおどけた。
 後年、堀部安兵衛決闘の地という看板が立ったら、このブログの成果だと思っていただきたい!

 さて、吉良側で活躍した人物として知られるのが、清水一学である。映画や歌舞伎などでは、庭での一学の大立ち回りを拝める。しかし実際に死亡した場所は台所だった。二刀流で善戦したとの見方もあるが、鳥居利右衛門と須藤与一右衛門が討ち死にした後、「少々闘い討死」と『大熊弥一右衛門見聞書』には書かれている。どちら本当と断じることはできない。

 この吉良側、希代のスターが亡くなった場所に住む男性は、「いやいや、それなら光栄なことですよね」と取材に応え、「でも、立替のときは何も出なかったですよ」とニコニコしながら付け加えてくれた。

 結局、1時間ほどで義士は屋敷を制圧。正門組と裏門組が屋敷の中程で出会うこととなった。しかし肝心の吉良上野介が見つからない。すでに1時間も探索していたが、まだ上野介の寝床が寝具が温かく遠くにはいってないとの予測がたっただけだった。
 すでに討ち入りから2時間近くが経過し、上杉家が兵を出して吉良邸に向かってくるのを内蔵助は心配していた。もともと抵抗する者以外は斬ることもなく、ひたすら上野介の首だけを狙っての討ち入りだけに、大望が果たせなければ義士にとっても意味がない。そのジリジリする時間のなか、62歳の吉田忠左衛門が奥座敷の裏側を再度探すよう指示を出す。さすがは年の功。この作戦が当たった。
 茶室に近い炭部屋からひそひそと声が聞こえたのである。さっそく戸を打ち破るやいなや、中から茶碗や炭、皿などが投げられた。そこで矢を打ち込むと、2人が抜刀して外に躍り出てきた。しかし、さんざん戦ってきた堀部安兵衛と矢田五郎右衛門が慌てるはずもなく、バッサリと切り捨てた。そして部屋に残る1人に間十次郎が槍で一突き。さらに脇差しを抜いた老人を武林唯七が一撃で沈めた。そこから背中の傷を確認して、吉良上野介と断定、首を切り取ったという。

 この炭部屋に住む住民にも話を聞いた。
「うちあたりが(上野介の)見つかった炭小屋のあたりだろうとは聞いていたんですよ。でも、それも最近のことですよ。元禄市のお祭りがこれだけ話題になってからですかね。
 町内みんなでお祀りしてきたという感じはありますね」

Img_6923  300年以上前の「事件現場」は観光地となり、そして死者を「お祀りする場」となっていた。地元の人にとっては、地域全体がお墓でもあるのかもしれない。
 両国駅から南に数分、吉良邸跡地では今日(12/14)も元禄市が開かれている。服や傘、討ち入りそばなど、町内会で用意した出店が地域一帯を覆う。テレビ局が取材に来るほどの活況なので、お時間があれば覗いてみてください。

 なお、屋敷内の場所の特定に関しては、当時の地図を独立変倍して現在の地図の上に貼り付けるという荒い方法で推定したので、ゆめゆめ信じませぬよう。(大畑)

【参考文献】

『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』(野口武彦 著 筑摩書房)

『なるほど!忠臣蔵』(天禄探検隊 編著 PHPエディターズグループ)

『仮名手本忠臣蔵:解釈と研究』(藤野義雄 桜楓社)

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2008年11月25日 (火)

板橋スナック密室殺人事件の現場を歩く

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Photo  事件当時、内側から鍵をかけられいた店の扉は、白く塗り替えられ今も堅く閉ざされていた。
 その扉の向こう、8畳ほどのスナックで4人の死体が見つかったのは2003年3月30日のことだった。店の経営者だった女性の夫が、午前9時35分ごろ掃除のために部屋に扉を開け、男性2人、女性2人の遺体を発見したという。
 経営者であるママは頭をドアに向けあおむけに倒れ、その横にはタクシー運転手だった男性が横向きに転がり、近くに刃渡り14.7センチのサバイバルナイフが落ちていた。さらにカウンター下に元図書館職員の男性が、そして奥のソファに近くの居酒屋に勤めていた女性がうつぶせで死んでいた。部屋は血の海だったという。
 犯人は比較的早くに割れた。
 鍵が店の内側からかかり、5本の合い鍵も夫が持っていた1本を除いてすべて店内で発見されたこと。また犯行現場である室内から出てきたら残るはずの血跡が、店の外にはまったく見あたらなかったこと。この2点から犯人が店内の4人に絞られた。
 警察が注目したのは遺体に残された傷跡だった。3人の被害者は右側の首に後ろから切られた傷が1ヵ所だついているのに、タクシー運転手だけは首の両側や左手に傷が残り、正面から切りつけた傷と鑑定されたのだ。この鑑定結果から運転手が3人を殺害した後、自殺したと断定された。

 問題は殺害の動機である。
 03年6月16日の東京新聞は、その動機について次のように書いている。
「○運転手は以前から○さん(スナックのママ)に好意を寄せており、今年1月に大島さんが同店を開店すると、連日のように来店。○さん(経営者)に再三交際を迫ったが断られていたという」(原文では○に本名が記載)
 実際、タクシー運転手の攻勢は激しかったようだ。高級日本酒などを手みやげに店に通う姿なども目撃されている。
 遺体を発見した夫と親しかった男性は言う。
「旦那さんから(ママに)プレゼントを贈る人がいるって聞いたから、危ないよって言っておいたんだけどね」
 実際、運転手の行動は、かなりエスカレートしていたようだ。03年6月12日の産経新聞には、次のような記述がある。
「同店の常連客によると、金運転手は大島さんが作った料理を客に出したり、帰る客に対し『ありがとうございました』とあいさつするなど従業員のように振る舞っていた。営業が深夜に及ぶと『帰ってくれ』と周囲の客に告げ、店の看板を片付けたうえで大島さんや数人の常連客と飲みなおす姿も見られたという」
 いっぽうでママは運転手について「嫌な感じのする人だ」と周囲にもらしていたとの報道もある。夫がプレゼントについて知っていたことを考えても、ママにとっての運転手は「お客さん」でしかなかった可能性が高い。
 同店にも行ったことがあるという近隣の女性は、「ホステスだったら独身だって言うでしょ。それが常識だよね」と殺されたママに同情を示した。
「売上げがかかっているからさ。でも、男は勝手に盛り上がっちゃったのかな」

 では、殺されたママはどんな人だったのだろうか。
 皆が口をそろえて語った人物像は「明るい人」だった。さらに近所の喫茶店のマスターは「週刊誌に載った写真よりほっそりしていて感じのいい人でした」と教えてくれた。また「キレイというよりかわいい感じかな」と表現した人もいた。
 朝日新聞の報道によれば、彼女は「自分の店を持つのが夢」で昼はスーパー、夜はスナックでパートをしながら資金を貯め、3店舗が入居していた木造2階建ての建物を購入。事件の3ヵ月前に、殺人現場となったスナックを新装開店したという。
「もともとお母さんが居酒屋をやっていたとかで、接客業には向く人だったと思うよ」
 先述した店への来訪経験のある女性が言うように、ママはお客からも好かれていたようだ。
 事件現場の隣で居酒屋を営む女性も、事件当時は旅行に行っていたので詳しいことは知らないと釘をさしつつ、店の様子だけは教えてくれた。
「隣からキャッキャと楽しそうな声がよく聞こえてきたし、ママも明るい人だったからね。店はうまくいってたんじゃないかな」
 おそらく店では皆明るい酒を飲んでいたのだろう。毎日新聞の報道によれば、事件発生の1時間前でさえカラオケで客同士が歌う声が店の前で聞こえたとされる。

 ただ少なくともママと運転手の間では、少なからず緊張が高まっていたようだ。共同通信(03年4月18日)は事件の2日前に「あの女は駄目だ」と話しているのを関係者が聞いたと報じている。
 近隣住民への取材では、ママが以前に勤めていたスナックの常連客が、そのまま新しい店に移ってきたらしいとの噂を聞いた。犯人もそのうちの1人だと。その話が本当なら運転手の片想いはかなりの長期間にわたっていたことになる。恋愛が成就すると信じるには十分な時間と飲み代だったのかもしれない。そして事件の数日前に何かが起き、運転手は怒りを溜め込んだ。
 その原因は関係者がすべて死んでしまった今となっては分からない。ただ店の近所の住民は、店近くの喫茶店でママが別の男性とたびたび待ち合わせをしていたのを目撃している。
「大きな男の人でね。なんだか日系ブラジル人だったみたい。恋人に見えたけどね。もちろん亭主とは違うよ。事件の後、男を見かけることもなくなったけどさ」
 本当に恋人だったのかは分からない。経営者としてお客さんとお茶ぐらいすることもあっただろう。ただ熱を上げていた犯人を、こうした情報が刺激した可能性はある。

 それにしても客あしらいが上手だった42歳のママが、どうして殺されてしまったのだろうか。これまた真実は分からない。ただ推測する材料はある。
 彼女の店では当初フィリピン人ホステスを雇っていたが、事件が起こる数週間前の3月中旬に辞め、事件当時、従業員はいなかったという。
 また、周辺の商店での取材では、東武東上線ときわ台駅周辺の飲食店経営の難しさを耳にした。駅前の飲み屋はできては潰れていること。まして事件のあった現場は、駅から500メートル程北に行ったところにある。住宅街らしき場所を通り抜けないとたどり着かない。
 事件現場の隣の店で「ここらへんは落ち着いていいですね」と声をかけると、「落ち着いているんじゃなくて、寂れているんだよ」と笑われた。もともとこの地域は家内工業などの小さな工場が立ち並び、その工員たちを客として成り立っていたという。しかし近年、工場は次々と姿を消し、マンションへと変わった。「マンションの人は近所で飲まないからね」と店主はつぶやいた。
 店を経営して3ヵ月、ママにとっての犯人は“太く大事な客”だったに違いない。一方、犯人はもともとタクシー会社の稼ぎ頭で年収は900万円近くあったとはいえ、事件当時は業務中に暴行を受け休業中。煮詰まりやすい環境だった。
 ただ、それにしても関係ないと思われる2人の客まで殺害した理由はわからない。そもそも人が日常を飛び越える瞬間など、どこにでも転がっているのかもしれないが……。

Photo_2  殺されたママの持ち物だった建物は、すでに別の人の所有となっていた。壁もドアも白く塗り直されてはいたがテナントが入るわけでもなく、隣のクリーニング店も数年前に店を閉め、ガラスのウインドーからは空っぽの店内がのぞいた。近くの大きな喫茶店もしばらくは自分以外客もおらず、ガランとしていた。
 地元の人が集まる商店街の灯は少しずつ弱くなり、その中で必死に生き抜こうとしたママは、店に居場所を見つけた男に殺された。

 店の扉が改めて客に開かれることがあるのだろうか? 白い扉を前に、ふっとそんなことを思った。(大畑)

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2008年11月11日 (火)

杉並一家放火殺人事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
ブログでは明かされない新たな事実満載!!

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Suginami  1986年11月8日午前4時過ぎ、伊藤正之介さんの自宅にもなっていた3階建てマンションが炎に包まれた。火は2時間後に消し止められたものの大人3人、幼児1人、計4人の絞殺死体が見つかる。殺されていたのは、出火したビルの所有者であり建設会社社長でもある69歳の男性と内縁の妻、次男の27歳の妻と2歳の娘だった。自宅の車が消えており、行方が分からないことから警察はすぐに次男を重要参考人として指名手配した。
「火事に気づかなかったんですよ。近所が騒がしくなって、外に出てみたら火事でね。うちの隣も伊藤さんの事務所と資材置き場になっていたから、こちらに放火されたら危なかったなあと思います」
 近所の女性は、当時の事件についてそう語ってくれた。
 自分の妻と娘とと父親、さらにその内縁の妻を絞殺し、灯油を部屋にばらまいて放火するという残虐な犯行にメディアは色めきたった。しかも犯人と目された次男は1500万円もの金を銀行から引き出し逃亡していた。すでに事件当日の夕刊では、伊藤さんの長男が事件の十数年前に交通事故で亡くなり、次男も半年ほど前に車を運転中に飛び出した子どもをよけようとして十数メートルの土手を転落、その事故の影響で記憶喪失に陥ったこと報じている。
 次男を後継者として期待をかけていた父親は、この交通事故に大きなショックを受けたようだ。その様子について、1986年11月8日の朝日新聞夕刊は次のように報じた。「伊藤さんは『あいつはもう元に戻らないかもしれない』『おかしくなってしまった』など古参の従業員にこぼしながら涙ぐむこともあったという。
 特に最近は『頭が痛い』と訴えることが多く、話しかけても聞いているのかいないのかわからず、ほとんど仕事にならない状態。いらだった伊藤さんが『しっかりしろ』と声を荒げることもあったという」

 派手な逃亡劇だったが、翌日の午前10時過ぎ仙台のインターチェンジで検問中の警官に彼はあっさりと捕まり、4人の殺しを自供する。子ども教育問題で妻とケンカし、カッとなって殺害。さらに1人残る子どもがふびんだと思い絞め殺した。その後、父親に自首について相談したが相手にされなかったので父親とその内縁の妻も殺した。当初、次男は犯行の動機について、このように語っていたという。4人を殺すのは貧弱な理由だが、つじつまが合わないわけではないというとこか。
 しかし起訴の段階で犯行動機は一変する。
 最初に妻と教育問題でもめていたのは事実だが、殺人のきっかけは「この子にはあなたの血なんか入っていない。別の男の子ども」という妻の一言だった。これなら2歳の我が子を絞め殺した理由もわかる。
 さらに犯行翌日の夜、父親に殺人を打ち上けたが「お前はもともとオレの子ではない。どうなろうと知ったことではない」と言われ逆上して殺害。さらに父親の子どもではないことを隠されと思い、内縁の妻も殺したという。その4日後に4人の遺体を1階の寝室に運び灯油をまいて火を付けたとされる。
 衝撃的な話だが、にわかには信じられない話でもある。しかし、このような話を作る理由がないのだ。この話によって被告は死刑の求刑から無期懲役を勝ち取ったが、供述を裁判所に提出したのは、当初の動機では弱いと当人を追求した検察である。弁護士サイドからの訴えではない。わざわざ情状酌量になるような話を、検察が作り上げるはずもない。
 ならば当人が「作った」のかというと、それも信じがたい。本気で減刑を狙うなら交通事故の後遺症があったのだから、弁護士の主張する心神喪失状態を演じればよかったはずだ。しかし彼は犯行を細部までしっかり証言した。しかも1565万円もの金を引き出したものの、火を付けた日の夕方にはほぼ全額を山林に投げ捨てている。本気で逃げる気なら逃走資金となる金を手放すわけがない。逃走というより、死に場所を探していたという方がピッタリくる行動だ。

 妻とは犯人はお見合い知り合い、結婚から10ヵ月もしないうちに出産したのは事実らしい。ずっと胸にくすぶっていた疑問が爆発したとしも不思議ではなかろう。
 では、父親の発言はどうか。殺人を告白した息子に「どうなろうと知ったことではない」と言うだろうか。
 事件当日の読売新聞が「伊藤社長は頑固すぎるほど厳しい人」との下請け業者の声を紹介しているが、近所の評判はよかった。隣に住む女性は、外の掃除をしているときにあいさつを交わす程度の付き合いだったというが、悪い印象はなかったという。また別の男性は「穏やかでまじめな人だったよ」と語る。さらに近くの商店街で花屋を営む主人も「お父さんも奥さんもいい人でね。うちも商品を買ってもらってたんですよ。だから知ってるの」と教えてくれた。
 ただ1人だけ、少し気になることを口にはした。
「まじめな人だったよ。ただ……、ただね。おめかけさんと住んでいたんだよ。まあ、死んだ人を悪く言っちゃかわいそうですよ」
 近所の評判がおおむねよかったことを伝えると、彼はおかしそうに笑った。「ツルツルのガラスだって、表面を触ればザラザラしているものさ。これ以上は勘弁してくださいよ」
 そう言い去った。
 殺されるほどではないにしろ、親子間で少なからず問題を抱えていたのかもしれない。だとするなら「会社を困らせてやろう」という理由で、犯行後に金を引き出したのもうなずける。

 真実はどこにあるかは分からない。ただ犯行の1週間ほど前の犯人の容体が、この犯行を引き寄せた一因ではあるだろう。
「さる一日には、杉並区内をおかしな様子で一人でぶらついているところを、杉並署員に保護されたが、この時も、二男は自分の名前も言えないほどの状態。同署から連絡を受けた伊藤さんが連れ帰ったという」(『読売新聞』1986年11月8日)
 過去の記憶が戻らない状態から立ち直った次男が、名前も言えないほど混乱したことは、父として社長としてショックだったに違いない。それから1週間後、昼間で一緒に働いていた長男が訪ねてきて、「子どもの父親はオレじゃない」「親子を殺した」と息子が発言したらどうだろうか。マンションの1階と2階に分かれて住んでいたため、母子の姿が見えないのも当たり前の状況。また錯乱したと思った父親が「お前など親でも子でもねぇー」という意味合いを込めて怒鳴りつけた。それが親子問題に混乱していた息子を刺激したら。さらに、その家には「おめかけさん」と近所から呼ばれていた女性がいたのである。父親と母親が20年も前に別れていたとしても、彼にとっては許せなかったのかもしれない。

 猿をはじめ幾種類かの動物では子殺しをすることが知られている。特にハーレムを維持する動物の子殺しには、他の雄の子どもを殺すことで育児中の母親を妊娠可能にする生物的な「メリット」があるという。人もまたDNAの戦略に振り回される生物であるとするなら、自分の子どもではないという不安から子殺しに向かっても不思議ではない。
 夫婦仲はよかったと報じられた犯人だったからこそ、妻の一言にキレたのだろう。そこからドミノ倒しのように、一家を皆殺しするはめになっただからやりきれない。疑いのある親子をすべて切り捨て天涯孤独となった犯人は、何を思っているのだろうか。(大畑)

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2008年10月26日 (日)

羽田女高生殺人事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
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Photo_5  京急線・穴守稲荷駅から多摩川に向かって南へと歩いていく。踏切を渡り、商店街を抜けると住宅街。どこからともなく油の匂いが流れてきた。点在する町工場からだった。

 1979年8月11日、午後2時半ごろ羽田のアパートで女子高生の遺体が発見される。引っ越し準備のために訪れていた、住んでいたアパートから歩いて数分の新居で殺害された。ふすまの張り替えの準備をしている姿を目撃されたから、わずか25分程度の間に50個所以上もナイフで刺され、あおむけに転がされいた。
「美人だったし、スタイルのよい子だったわよ。ホットパンツとか履いていて。お父さんも背が高かい人だったからね」
 被害者の親族ともつきあいのあるという女性は、被害者のことをそう語ってくれた。被害者がもの静かな美人であったことは、当時の新聞や雑誌で何度も報じられている。確かに新聞に掲載された写真も美しかった。事件の朝、友達と出かけた5泊6日の海水浴旅行から帰ってきての悲劇だった。

「夏でしょ」
 事件を知っているかとの問いに、殺害現場のすぐ近くに住む女性は「あー」と言いながら当時の状況を思い出してくれた。
「あの日、昼ぐらいから夕立みたいに雨が降ったんです。それでみんな家に居たんですよ。甲子園もあったし。事件があったアパートは人通りの多い角に建っていたから、そうじゃなければ分かったと思うんです」
 じつは事件当日も人通りが少なかったわけではない。被害者の生存が確認されている午後2時から7分過ぎまでは、現場の前の道に近所の誰かがおり、15分頃には犯人らしき人物を見た女性がその道を通過している。そして25分頃に死体が発見されている。多くの近隣住民が証言しているように治安の悪い地域ではなく、もの寂しい場所でもなかったのだ。
 ただ先述の殺害現場のすぐ近くに住む女性は、そのアパート自体によい思い出がないという。
「一度、アパートの上から男性のね、かけられたことがあるんですよ。最初ツバか何かと思ったけれど、臭くて臭くて」
 一応、何を髪にかけられたのかを確認すると、顔をしかめながら「精液ですよ」と教えくれた。アパートそのものが近隣住民から問題視されるような存在だったのかとの問いは否定したが、「独り者も多く、あまりアパートの方とは交流がなかったですね」と続けた。

 当初から事件は比較的大きく取り上げられた。美人女子高生がメッタ刺しにされたという猟奇性ゆえだろう。しかし、この事件が本当に世間の耳目を集め始めたのは、被害者女性が妊娠していたと報道されてからだった。
 妊娠9ヵ月。友達や家族さえ妊娠の事実を知らず、当人も知っていたのかも議論の対象となった。また羽田空港のレストランでかなりの時間働いていたことから、生もうとしていたとも報道された。
 一方、警察は彼女の交友関係を探るとともに、犯行直前、アパートを伺うようにして立っていたという小太りの中年男性を追っていたようだ。
 この男性を目撃した小学生の母親は、当時を思い出して語る。
「まだ低学年だったんじゃないかな。子どもが見た男がどっちに逃げたのか、何度も刑事さんが聞きに来ましたよ。それで犯人が捕まったとき、『どうもありがとう』ってチョコレートか何かを持ってきたんだったかなー」
 地元での聞き込みはかなり徹底していたようだ。特に中年男性のアリバイは手当たり次第確認していた。
 現場近くで歯科医院を開いていた男性の妻は、自分の夫が疑われていたことを笑いながら話してくれた。
「ちょうど夫が家族とともに海外旅行に行っていたんですよ。わたしは犬の世話で自宅に残ったんですけれどね。そうしたら事件のすぐ後に警察が聞きに来たんですよ。旅行っていうのもなんでしょ。だからちょっと出かけていますってね。でも、次来たの時も休診でしょ。それで疑われたんですかね(笑)。『ご主人は?』って聞かれましたから。それで言いましたよ。じつは旅行にって。でも、結局3度来ましたよ」
 現場から100メートルほど離れた場所に住む男性は、警察に疑われた怒りを話してくれた。
「刑事が話を聞きに来たからお茶まで出したのに、あとから疑われてアリバイを調べに来たんだと聞いたから腹が立ちましたよ」
 またアパート住まいの一人暮らしの住民については、大家に鍵を開けさせ勝手に部屋を捜索しているのを見たとの証言もある。

 新聞などには近くの多摩川土手に血の付いたステテコが捨てられていたなど、さまざまな情報が踊った。しかし犯人逮捕にはいたらない。そのうち奇妙な現場状況が、さまざまな憶測を生み出すことになった。被害者女性に乱暴された跡がない。下着はつけていないのにTシャツを着ている。悲鳴を聞いた人がいない。そんな情報から犯人は女性なのではないか、あるいは身内が犯人ではないかとの憶測を示したメディアさえあった。
 彼女の親族を知る住民は、「事件の後、気の毒な噂も流れてね」と口をつぐんだ。また別の女性は被害者が妊娠していたことを話題にした後、「残酷な言い方だけど亡くなってよかったんじゃないのかしら。困るでしょうしね」と笑った。一部の近隣住民の被害者への悪感情はぬぐい去られていないのかもしれない。

 メディアの暴走と難航する捜査が続いた。しかし事件発生から4ヵ月、犯人は唐突に逮捕される。現場近くに住み、9月に盗みの容疑で逮捕された24歳男性が殺しを自供したという。強制わいせつの前科があったことも警察の心証を悪くした。ただ当人によれば、小学校2~3年の女の子に100円をあげてスカートをめくろうとして、起訴猶予になった程度の事件らしいが。

 この逮捕はかなり「怪しい」逮捕だった。
 当時、この逮捕を疑問に感じ、私財を投じて被告人の無罪を証明しようとした後藤護氏は、その疑惑を『冤罪追跡日記―羽田女高生殺人事件―』(現代書館)で明らかにしている。
 凶器とされた登山用ナイフや犯行時に履いていたとされるズボンなどからも血液反応がでていないこと。主婦が不審者を目撃したとされる時間を検察が改ざんしたらしいこと。刺し傷がなく救急隊員が残したとは思えない左大腿部についていた指紋が、なぜか救急隊員のものとされていること。近隣住民が目撃した不審者と犯人の年齢が違いすぎること。また、1万9800円の窃盗事件では犯人を現場に連れて行き検証しているのに、この殺人事件では検証もしていないこと。犯人を特定できる物証がなく、自供だけが頼りの逮捕の疑惑を挙げればキリがないほどだ。

 では、なぜ犯人は殺人を認めたのか。前述の本には次のように記されている。
「窃盗のほかに放火もやっている。●●(原文本名)殺しについてはいろいろ取調べ刑事に釈明したが信用してもらえなかった。殺人を認めても認めなくても刑期は三、四年のちがいと考えた。それならいっそ警察が言う通り認め、裁判でもコトをスムーズに運んだほうが得だ、こう考えた」
 しかし彼は突然に控訴取り下げを決意し、支援者から連絡を絶つ。その理由を彼は手紙で次のように記している。
「控訴取り下げをした理由は、支援者の人があまり面会にきてくれないこと。切手を買うお金もなく文通がストップしていること。親せきが僕を助けずなにもしれくれないこと。金がないこと。体の調子が悪く体力に自信がなくなったこと。イライラしてしまうこと。以上です」(『冤罪追跡日記―羽田女高生殺人事件―』現代書館)
 13歳の時に父が病死し、5日後に母が入水自殺し、17歳上の兄の行方が知れない薄幸な男は、同じ手紙で「強姦未遂殺人は絶対にやっていません」と語りながら罪を引き受けた。かつての冤罪事件同様、検察からの説得が効いたのかもしれない。

Photo_6  犯行のあったアパートは建て替えられ、「ドリーム」と名の付くマンションに変わった。地元では冤罪の可能性があることなど、誰も知らなかった。被害者の親族を知る男性は、「いまさら掘り返す必要もないだろう。もう平和にやっているのだから」とこちらに厳しい視線を送った。身内犯行説が頭にあったのかもしれない。
 犯人と疑われた人物が闘いをやめたことで、事件は終わってしまったのだ。

 ただ最初に犯人と目された中年男性の行方は明らかになっていない。(大畑)

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2008年10月12日 (日)

秋葉原無差別殺人事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
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 今月10日、東京地検は加藤智大(ともひろ)容疑者(25)を殺人や銃刀法違反などの罪で起訴した。

 6月8日午後12時33分、彼は秋葉原の歩行者天国にブレーキもかけずにトラックで突っ込み、5人を跳ね飛ばした後、ナイフを持って走り出し12人を次々と刺す。7人が死亡した。
Img_6850 何度もメディアに取り上げられた事件現場の献花台も今はすでになく、わずかに残る痕跡は事件の目撃者を募る警察の看板だけだった。事件が起きた交差点の間の前にある電気店の男性店員も、「事件の後はずいぶんと警官が居て、人も少し減っていたようですが、もう戻りました」と話す。事件直後、各店舗が自主規制していた路上でのビラ配りも再会。メイドや巫女に扮した女性が笑顔を振りまきビラを手渡していた。
 歩行者天国は中止されたままではあるものの、事件から4ヵ月、街はすでに平静を取り戻していた。

 この事件の謎の1つは、どうして秋葉原を狙ったかだろう。
 08年6月16日の朝日新聞によれば、加藤容疑者は次のように供述したという。「リストラのためにつなぎを隠されたと思い、4トントラックで工場入り口を封鎖しようと考えた」。ところが2トントラックしか借りられず、「これでは封鎖は無理だと思い、犯行場所をアキバに変えた」。
 自身が立てたネットのスレッド(掲示板)でも、会社への怒りを露わにしていたから、最初に会社を狙おうとしたのは理解できる。しかし、そこから彼の怒りは脈絡もなく秋葉原に向けられてしまうのだ。

 すでにさまざまなメディアで報じられた通り、加藤容疑者は秋葉原に土地勘があった。現在の職場がある静岡県から月1~2回は通っていたとの報道もある。また、カラオケではアニメソングを歌い、お気に入りのアニメのセリフを丸暗記していたとも報じられた。つまりアキバ好きなオタクだったというわけだ。
 『週刊朝日』(08年6月27日)によれば、3月下旬には親しい友人3人を連れて秋葉原を案内している。同行した友人は誌上で次のように語っている。
「昼前にアキバに着き、人出の多さに僕らが呆然とするのを加藤さんが裏路地へとグイグイ引っ張ってくれた。慣れた様子でメイド喫茶に入り、メイドがケチャップでイラストを描いてくれるオムライスを『これだけは食べてほしいんだ』と3人に薦めてきて、みんなの分をおごってくれた」
 また『AERA』(08年6月23日)は、5月中旬に「サイトで知り合った女性がいる。その子は秋葉原に通っている」と、加藤容疑者が語っていたと報じた。「ところが、5月末--。普段からケータイをいじっていることが多かった彼は、二つ折りのケータイを乱暴にたたんだ後、怒ったような口調でこう言った。
 『メールが来ない。秋葉原に会いに行く』
 しかし、同僚たちは、その彼女を実際に紹介されたり、写真を見せられたりしたことはなかった」
 さらに、WEBの報道媒体「ZAKZAK」では「犯行前にメイド喫茶の女性に渡したのか、サイトでは《安い指輪なのにめちゃくちゃ喜んでくれてた》と素直な喜びを記してもいた」とも書かれている。
 これらの報道が真実なら、加藤容疑者にとって秋葉原は聖地だったはずだ。彼女やプレゼントを喜ぶメイドに会える場所でもあり、自分の趣味に合った店が立ち並ぶ場でもある。

 彼の秋葉原での足跡をたどりたくて、秋葉原のメイド喫茶を訪ねてみた。
 手がかりはイラスト付きのオムライスを出す店。しかし、すぐに無謀と思い知らされた。
「ほとんどのメイド喫茶はケチャップで飾り付けしてくれますよ。最初に何を描いてほしいのか聞いて、イラストでも文字でも。あと、月1~2回のお客さんだとメイドさんが覚えていない可能性も高いと思います。ウチも週末になると、2時間待ちぐらいですから。
 私ですか? 週1回ぐらい来てくれるご主人様だと覚えていることも多いと思うんですが……」
 そもそもメイド喫茶は、それほど客を接待するわけではない。ただ商品を運び、声をかけられれば答える程度だ。もともと内気な客が多いのだろう。メイドに声をかける人はほとんどいない。わたしが訪ねた3軒目の店ではメイドがドリンクメニューを作るコーナーに一番近い、つまりもっとも姿を観察しやすく、声をかけやすい席周辺がぽっかりと空いていたほどだ。
 2軒目はメイドとの会話がセールスポイントになっている店に行ったので、多くの客がメイドと話してはいた。ただ、それでも滞在時間は1時間まで、常連でもないか限りはメイドさんが話しかけてくれるのは、せいぜい20分ぐらいだろうか。「ご帰宅料」としての席のチャージが、平日500円、土日祝日700円なら、まあまあのサービスというべきなのだろう。
 もちろん話しかけたメイドさん全員に、加藤容疑者が訪ねたメイド喫茶の噂について訪ねたが、誰も知らなかった。ほとんどのメイドが容疑者が秋葉原に通っていたことを初めて知ったほどだ。
 ただ、あるメイドさんからは「プレゼントを送ったのが本当なら、多少は店を絞れるかもしれない」とは教えてくれた。
「プレゼントがOKなところとダメなところがあるんですよー。ダメでもメイドさん個人に渡すのはダメでも、店のメイドさん全員へのプレゼント、お菓子とかならいい店とかもあるし」
 ただ、「個人にこっそり渡したら分からないですよね」とも付け加えたが……。

 メイド喫茶を巡りながら思い出したのは、彼の立てたスレッドだった。
 自分の容姿への不満と彼女のいないつらさで埋め尽くされていた。事件の2日前には、「彼女がいない/それが全ての元凶」あるいは「彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった/希望がある奴にはわかるまい」とも書かれていた。
 恋人がほしいと本気で思っていた人にとって、秋葉原は耐えられないのではと感じた。
 秋葉原は「ごっこ」の街だ。いたるところに物語が作られている。コスプレの喫茶店も、ゲームの専門店も、アニメやフィギュアの店も売っているのはその実体ではなく「物語」。しかも安い物語でしかない。

 キャバクラが売っているのも、ある意味「物語」だろう。恋愛が始まるかもと思わせる男の妄想によって、1杯の酒の値段はどんどん上がる。だからこそ「アフター」などと呼ばれる恋愛的なシチュエーションも、業務の中に組み込まれている。
 しかしメイド喫茶で売る物語は、お客である「ご主人様」をメイドが迎えるというストーリーでしかない。だからだろう、ある老舗メイド喫茶などはディスカウントショップの上にあり、エスカレーターを降り、性器具などが並ぶアダルトコーナーの脇を通らないと入り口にたどり着けない。店周辺の環境など、誰も気に留めていないのだろう。もちろんキャバクラのように、男性をだますの意気込みもない。
 良い悪いではなく、それがアキバなのだ。

「ゲームだけじゃなくて趣味のある方が集まる街ですから、それで来ていたとは思うんですけど……」
 事件を犯した理由について、1軒目のメイドはこう答えたまま首をひねった。そこで食べたオムライスはけして美味しいとはいえない代物で、店員の短いスカートで目のやり場にも困り、どう楽しめばいいのか分からないだけに、ただただ気恥ずかしかった。しかし周りの客は黙々と食事を食べ、二言三言、メイドと言葉を交わし楽しそうにしていた。
 おそらく「趣味のある方」しか楽しめない街なのだ。

 こんな街で恋が拾える可能性は低い。アキバの物語に実際の恋愛が含まれていないからだ。となると加藤容疑者がつかまえた「彼女」という存在も怪しくなる。まして指輪を贈るなど、できるだろうか?
 彼の脳内で作り上げた「彼女ごっこ」ではないか。 

「(彼女が)欲しいんだけど、過去にいろいろあって……。人は裏切るけど、アニメとか自分で作ったキャラは裏切らない」(『AERA』08年6月23日)

 彼が事件の前日にゲームソフトを売ったのではと噂される店も、何軒が回ってみた。どこも殺風景で、ソフトだけに埋め尽くされた空間は、その趣味の者以外は荒涼とした風景に見えた。
 彼がもっと趣味に没頭していたら、社会には適応しにくかったかもしれないが、ここまで自分を追いつめることもなかっただろう。小中を通して成績優秀、スポーツ万能で女の子からも人気があり、中学時代には彼女までいたというバックグラウンドが「物語」の世界だけで生きるのを許さなかったのかもしれない。それなのに彼は独自に「彼女の物語」までこしらえた。また無差別殺人そのものも「ごっこ」の中にあったのではとも感じる。
 4月20日に「欲望に素直になっていいのでしたら、繁華街の歩行者天国にトラックで突っ込みたいです そんなことしませんけどね」とネットに書き込みをしている。少なくとも、この日までは殺人など「ネタ」の範疇だった。ところが計画は次々と実行されていく。彼が警察に「犯行予告を見た人に自分の犯行を止めてほしかった」と供述しているのもうなづける。

 犯行3日前のスレッドの書き込みが痛々しい。
「リアルが充実すればするほどネットから離れていくのは当たり前だろ」
 犯行2日前。
「人間と話すのって、いいね」
 ナイフを買ったときの記述である。
 そして事件当日、11時45分に「秋葉原についた」と書き込み、歩行者天国の始まる12時まで時間をつぶす。そのときに加藤容疑者が立ち寄った量販店に行ってみた。やや暗い照明、天井まで積み上げられた商品。ユニークな品揃えと、安さで有名な店内は大量の商品に囲まれた細い通路がまるで秘密基地のようだった。死角も多く、大きな不安を抱いている容疑者にとっては、居やすい場所だったかもしれない。ただ、もちろんここには犯行を止めてくれる人などいるはずもない。
 12時10分に「時間です」と最後のコメントを書き、12時半ごろにトラックを歩行者天国に突っ込んだ。

 ネットにあふれる独白は、ほとんど場合「ネタ」と呼ばれるウソの「物語」だ。しかし彼は自分の「物語」に縛れていく。
「予告を書き込んだことで引き下がれないと思った」
 警察での供述である。

Img_6861_3  秋葉原の「物語」にも満足できず、自分で作り上げた「物語」の彼女でも納得できず、最後は自分の「物語」から逃れることなく無差別殺人を引き起こした。
「物語」が販売されている秋葉原で、自分の「物語」を実現したことに彼なりの整合性があったとは言えまいか。
 そんな彼が警察に対して「ウソをつくつもりはない」と宣言したのは、当然のことだったかもしれない。(大畑)


※加藤容疑者が逮捕された現場

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2008年9月16日 (火)

三鷹事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
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「5歳のときだね。親父の膝の上で寝てたんだよ。そしたらバーン、バーンってスゴイ音がして。戦車が突っ込んできたのかと思ったよ。そしたら電車だったんだから!」
 1949年7月15日、9時23分。三鷹駅の西側にある電車庫から7両編成の電車が無人のまま暴走。駅構内にある一番線の車両止めを突破し脱線。そのままトイレと交番を破壊して人家に突っ込み止まった。謎の多いことで有名な「三鷹事件」である。下り電車から降りたばかりの乗客6人が死亡する痛ましい事件であった。

「線路があった側には4畳と6畳の部屋があったんだよ。ちょうど電車が押し入れと仏壇のあった場所に突っ込んだから誰もケガしなかったんだ。でも、かもいに大きな羽子板が飾ってあって、電車が衝突した振動で姉さんが寝ているところに落ちてきたんだよ。もし蚊帳を吊っていなければ、ケガしてたね」
 54歳の男性は自宅に電車が飛び込んできた様子を、そう語ってくれた。
 当時の新聞に掲載された写真を見ると、交番など跡形もなくなっている。もし、脱線する角度がわずかでも違えば、この家の住民も無事ではなかったはずだ。
 現にその家の隣に住んでいた75歳の男性は、次のように証言する。
「寝ているおばあさんの30センチ横を電車がかすめていったと聞いているよ」
 当時、高校1年で翌日の数学の試験に備えて勉強してこの男性は、2階の窓から事件を目撃している。
「ダダダダって爆音がしてね。それからスパークがバッバッと光って、途端に数メートルの埃が舞い上がって何も見えなくなったんだ。爆弾が落ちたのかと思ったよ。機銃掃射も艦砲射撃も経験しているから余計にね」
 終戦からわずかに4年、日本はまだ米国の占領下にあった。爆音なら自動車や飛行機、列車の事故より爆弾を思い浮かべる、そんな時代でもあったのだ。

 捜査の進展は早かった。事件翌日には逮捕状が執行され、その翌日には2人の共産党員が逮捕された。じつは共産党員が事件の犯人だという説はさまざまな形で広められていたふしがある。事件直後の現場で「これは共産党の仕業だ」と吹聴する人物がいただけではなく、放送まで流れていたという情報まであるのだ。
「三鷹駅前にも日本放送連盟三鷹放送所のスピーカーが設置されていたが、事件発生直後に、次のような放送を流した。『この事故は、共産党員が関係していると見られています。あくまで町民の皆さまと真相を追求していきましょう』。放送所は防犯等で警察とは普段協力関係があった」(『新盤 三鷹事件』小松良郎 著/三一書房)
 それだけではない。7月15日に三鷹で大事件が起きるという噂は、鉄道関係の上層部や警察関係で語られていたとの噂もある。実際、電車によって大破した駅前の駐在所には4人もの警察官が勤務していたが、たまたま交番を留守にしており全員が助かっている。しかも戸籍簿まで事件発生前に持ち出してだ。

 共産党に罪を押しつけるために列車を脱線させるなど、今の感覚では荒唐無稽の一語。しかし当時の日本では「バカらしい」とも言いきれない雰囲気があったらしい。
 事件が起きた年の1月に行われた衆院選で、共産党は勢力を一気に拡大した。4議席から一挙に35議席。同じ選挙で社会党が48議席であることを考えれば、この人数がどれだけインパクトがあったかがわかるだろう。しかも事件の3年前、1946年3月にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」が勃発している。米国にとって日本は東アジアの前線基地であり、ソビエトや中国に対する反共基地でもあった。それだけに日本の「赤化」だけは避けたかった。実際、事件の翌年に企業のレッド・パージも行われるようになっている。
 また当時、GHQと政府は日本経済を立て直すために、国家財政と大企業優先の政策を推し進めていた。結果として民間企業で大量の解雇が生まれ、労組との争いが起こっていた。さらに官公庁職員の首切りも行われた。国鉄の整理予定者は関係職員の6分の1という苛烈なものであった。この計画に強く反対していたのが、共産党がリーダーシップをとっていたとみなされた国鉄労組だったのだ。
 つまり日本を「赤化」させないためにも、経済政策を推進するためにも、共産党の「力」を弱める必要があったのである。実際、当時の首相だった吉田茂は、事件の翌日に共産党を批判する声明を発表している。
「虚偽とテロが彼ら(共産党)の運動方針なのである。私は国民諸君が冷静に落ち着いておられることを切に希望する。共産党主義者が鳴らす警鐘や彼らの発するバ声を割引し事態を正しく観察するならば、現下の社会不安の大部分は霧散霧消する種類のものであろう」(一部抜粋)
 この声明は共産党を三鷹事件の犯人として糾弾したわけではない。むしろ大量の解雇に反対する先鋭的な労働運動を警戒する声明として読み取れる。しかし事件の翌日、テロリストだと名指ししたのも事実である。
 7月17日の朝日新聞1面には、三鷹事件の容疑者が逮捕されたことが大きく扱われ、その下に「不安をあおる共産党」という見出しで吉田首相の声明が書かれている。タイミングよすぎるとはいえまいか。

 こうした社会背景のなかで、三鷹事件の容疑者として逮捕・起訴されたのは10人であった。9人の共産党員と1人の共産党シンパ。物的証拠もなく、ひたすら自供で積み重ねたお粗末な起訴は、東京地裁でシンパの竹内景助被告を除く9人の無罪という結果となった。特に裁判長は、9人の共同正犯・共同謀議を「空中楼閣」と断じている。
 この「空中楼閣」を積み上げるために、検察は被告をギリギリまで追い込んでいった。事件の被疑者として取り調べを受けた清水豊氏は自著『「三鷹事件」を書き遺す――冤罪の構造』(西田書店)で次のように書いている。
「二時間も三時間も机に座らされて、このAという検事が来て引き継いで、休みもしないで三時間も四時間も取り調べるというようなことはありましたから、それが毎日だから。それで帰るでしょう。飯食えないんだよ。くたびれちゃってもう。そうすると悔しいけどね、ずっと取調べが終わると見に来るんだよ。看守がね。どういう状態かって。全部報告するわけだから。そうしたら飯食わないでいたら、飯食わないことでまた責められるから、だから二つ三つ食ってトイレにぶん投げちゃったよ。(中略)『悪いことしているからお前飯食えないんだ』っていうことになるのわかりきっているから」
 あるいはこうも書いている。
「五人なら五人逮捕される中に一人がやりましたと、私はあいつとあいつと一緒にやったんだとこう言うんだから。それだから攻められちゃったよ、ものすごく、攻め込まれちゃったよ。自信がなくなってくるの、こう自分の記憶に、ほんとに」
 早くても朝から夜の9時、10時まで、遅いときには12時までの取り調べがつづく毎日。そうした異常な状況で個別に罪を認めさせ、それを突破口に他の容疑者も落としていく。それが検察のやり口だった。
 じつはこの事件で最高裁でも1人有罪となり死刑判決を受けた竹内被告にも物証はない。脅して聞き出した供述しか証拠がないのだ。それどころか事件当時、国鉄の風呂に入っているのを見たというアリバイさえある。
 ただ、彼がたのメンバーと違って、供述をクルクル変えた。最高裁までにつごう7回も変えているのだ。無罪を主張したと思ったら単独犯を主張、その次には共犯。その課程で共産党系の弁護士も解任している。
 どうしてこのような態度をとったのか、実際のところわからない。1967年1月に彼は東京拘置所で病死しており、その口を再び開くことはない。刑務所に長いこと収監されるわけでもないからと、共産党から単独犯を自供するよう頼まれたという噂もある。あるいは検察が情状酌量をエサにだましたという説もある。いずれにしても真偽は定かではない。
 ただ、『新版 三鷹事件』に書かれた彼の日記の分析は興味深い。竹内被告が自分で罪を全部かぶろうと考えていることが、文体に表れているというのだ。
「ここには戦前、戦中の修身教育がそのまま姿を現している。特攻隊が書き残した遺書を彷彿させる。戦中派は悲壮な心境になればなる程、本音を抑え、たてまえを強調しようとする時、文語体の文章を書く場合が多かった」

 そもそも竹内被告が電車を脱線させて、何の得があるというのだろう。事故によってストライキが全国化するという検察の筋書きは、あまりに陳腐すぎる。なぜなら事件当日、彼は人員整理を受け入れ、退職金を受け取ることを決意して区長を訪ねているからだ。つまり労働運動から降りているのである。そのような人物が運動のために、大それた事件を起こすことなどあるだろうか。

 ただその一方で、GHQの関与が完全に明らかになる物証もない。事件が起きてすぐに、米軍のMPが現場を封鎖したという情報もあるが、先述の75歳の男性はそれを明確に否定した。
「現場は目の前で始終窓からのぞいていたし、現場にも飛び出していったけれど米軍は見てないな」
 また、共産党の犯行だという噂が立てられていたという件についても、彼は面白いことを教えてくれた。
「武蔵境に住んでいる親類が、自宅に電車が突っ込んだと聞いて飛んできたんだよ。明治生まれで戦前・戦中の教育を受けてきたから、彼は共産党が大嫌いでね。事件現場に着いてたら、共産党員と大げんかを始めたんだ。事件で怪しいのは共産党だって。それで共産党員を警察に突き出したんだから」
 おそらく当時の中高年の人の中には、共産党がまだ非合法の団体と誤解している人がいたのだろう。だからこそ共産党犯人説は一気に広まったに違いない。

 結局、三鷹事件は戦争の影を引きずった事件だったといえる。占領も、竹内被告の犠牲的精神あるいは権力に対する従順さも、共産党に対する極端な悪感情も、人員整理の原因となった日本経済の切迫した状況も、戦争とその思想教育抜きには語れない。

Photo_2  昨年12月、三鷹駅改札の内側に商業施設がオープンした。中華などのレストランに加え、化粧品なども扱う雑貨店、マッサージ店などもある。10時半、11時まで開いている飲食店を見ていると、59年前に列車が暴走したことなどウソのようだ。
 ただ、戦争も占領も払拭した街でふっと大丈夫かとも思う。ビラを配っただけで75日間も拘置され、ネットで流布された自己責任論が大手を振って被害者を断罪する時代になっているからだ。きな臭い時代に生きている実感さえない時代は、三鷹事件のころと比べて安心なのだろうか。(大畑)

※写真:三鷹駅南口、当時とは場所が違うだろうが、まだ交番もトイレもある。

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2008年8月11日 (月)

トヨタに夫を殺されて(3)

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 もともと生産工程に物理的・時間的な余裕があれば、不良品の修理などそれほど大した問題にならない。外しておいて、あとで処理することもできるからだ。しかし生産工程の1秒のムダさえ削ってきたトヨタではイレギュラーな問題の解決がとても大変になる。それゆえ健一さんは、怒鳴られながら各部署を走り回らなければならなかった。

 しかも業務はこれだけではない。会社が業務と認めていない「自主活動」が山ほどあったからだ。(大畑)

 職場カイゼンの目標に取り組む「QC(クオリティーコントロール)サークル」、業務の改善策などを個人で提出する「創意くふう提案」、健一さんの職制だったEX(班長)の会、さらに部下と神社のお参りまで行かされる交通安全活動。健一さんはそれらのリーダーなどを任されていたうえに、トヨタ自動車労働組合の職場委員まで押しつけられていた。

 この「自主活動」に奪われる時間が半端ではない。

 通勤中の運転で危ないと感じたことを従業員は毎日「交通ヒヤリ」という書類に書き込む。その記述をまとめるのは交通安全リーダーだった健一さんの仕事だった。さらに交通安全の定期的なミーティングも実施しなければならない。創意くふう提案は毎月書く必要があり、品質管理の意識を高めるためのグループ活動「QCサークル活動」の発表のために睡眠時間を割いて自宅で書類を作成しなければならないこともあった。このQCサークル活動がどれほど面倒なものであったかは、健一さんが関連書籍を30冊近く購入していたことからも分かる。会社の製品の品質向上を目指して本まで買って勉強し、ほぼ強制的に書類の提出が科されるのに、トヨタは従業員の自主活動だと言い張ってきた。人件費を抑えるためである。

 また本来なら労働者を守るはずの労働組合まで労働強化に加担した。組合の会議は昼休みに開かれ、健一さんから貴重な休息時間と食事タイムを奪っていった。組合研修が土日に開かれれば、それも強制的に出席させられた。時に年休まで取らされてである。

 こうした諸々の業務が積み重なり、健一さんが亡くなる直前の1ヵ月間の時間外労働は155時間25分にもなったという。

 博子さんは亡くなる1週間前の三層会のことを強く記憶にとどめている。

「夫の帰りを起きて待っていたんです。会社に抗議の電話をしようと思って」

 その日、健一さんは早番で6時25分から16時10分まで働いていた。そのあとに開かれたのが、CL(チーフリーダー)とGL(グループリーダー)とEX(エキスパート)三層の会議だった。

「朝4時に起きて、めいっぱい働いてから会議に出席。それからアルコールは一滴も飲めないし、カラオケも好きじゃないのにウーロン茶でお付き合いして。会が終わったのが午前1時で、反対方向の上司を2人送って自宅に戻ってきたのが3時半でした」

 誰の目にも健一さんが過労気味だとはわかっていた。彼の上司は年賀状に「今年は早く帰れるように頑張ります」と書いていたほどだ。新年会では友人から冗談交じりではあるが、「そんなに働いたら死ぬぞ」と言われたという。そんな状態の部下を上司が運転手代わりに使ったのである。約24時間動き続けているのに。推測だが、酒を飲まない健一さんは運転手として使いやすかったのだろう。

 夫の健康が心配でならなかった博子さんが、会社に抗議の電話をしようと思ったのもうなづける。しかし結局、博子さんは電話をかけなかった。

「男の人は奥さんに電話されたくないでしょ。そりゃ、そうですよね。だからとどまったんですが、こんなことになるならちょっとね……」

 そう言って、博子さんは寂しそうに笑った。

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2008年8月 7日 (木)

トヨタに夫を殺されて(2)

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 事故でも事件でもない、何の前触れもなく起こった夫の突然死。そんな状況をすぐに受け入れられる家族はいないだろう。そこに会社が追い打ちをかける。人事が退職金の書類持ってお通夜に訪れたのだ。
「退職金がどうのと言われたとき、正直、『誰が退職するの』と思いました。自分の中ではまだ夫が死んだかどうかも納得できない状況での退職金ですから。退職って何? 別に辞めるって言ってないけど、何で会社に残してくれないんだろう。そう思いましたね。
 このとき、死んだら従業員なんていらないだって実感したんです。悔しかったですね」
 会社側としては葬式費用などを心配して、素早く対処したつもりだったらしい。しかし突然死に直面した遺族への配慮が欠けていたと言われても仕方ないだろう。なにせお通夜の晩だったのだから。
 そのうえ労働組合が、さらなる追い打ちをかける。
「組合がお見舞いって、10万だったか20万円だったか手渡したんです。『お確かめ下さい』と言われて封筒からお札を出して数えて。自分は何やっているんだろうって思いましたね」
 結局、組合も会社も遺族の気持ちに寄り添えなかった。いや、むしろ寄り添う気持ちがなかったというべきか。両者が優先したのは、遺族の気持ちではなく仕事だったのだから。夫の死を金銭に換算したように遺族が感じても仕方がない。
 じつは、ここに健一さんを追いつめたトヨタという会社の本質が見え隠れする。何にも増して会社を優先するという論理。命よりも利益を大事にする企業意識である。

 健一さんの残業が増え始めたのは、過労死する2年近く前、2000年あたりからだったという。EX(エキスパート)と呼ばれる班長に昇進したことが契機となった。ただ、それでも当初は2時間程度の残業で帰ってきていたという。しかし亡くなった前年の6月あたりから、どんどん仕事が忙しくなってくる。2人の子どもの誕生日である6月12日に合わせて取った連休が、自分の都合で取れた最後の休みとなった。
「夫が疲れているなと感じたのは、亡くなる半年前ぐらいですかね。お盆休みのときも何日か仕事に出ていて、そのとき『頭が回らない』って。いろんなことをしなければならないのに、切り替えられないって意味だと思うんですけれどね。基本的にいつもニコニコしている人だったのに、笑顔が減ったなと感じました」
 健一さんの仕事は車のボディーの品質検査業務だった。品質検査と聞くと多くの人はできあがった製品のチェックを思い浮かべるかもしれない。コンベヤーで流れてくる商品から形の悪いものを取り除くような作業だ。しかしトヨタではさまざまな工程で品質完全チェックが行われる。
 健一さんの前工程はプレスの工程、後ろが塗装・組み立て工程となっていた。ここで不具合が見つかった時に、修理する段取りを整えるのが健一さんの仕事である。ただし生産ラインは常に動いており、各ラインの従業員の動きは秒単位で決められている。そのうえトヨタ生産方式は必要以上の在庫を持たない。つまりトヨタでは、ギリギリまで切りつめられた作業時間で、決められただけの製品を製造することが強く求められている。
 そうした状況の中、健一さんは後工程から不良品のクレームを受ける度に駆けつけ、関係する前や後の工程の担当者と話し合い、ただでさえ余裕のない生産ラインに不良品の修理を押し込むよう調整を続けてきた。当然、ギリギリの製作時間しか与えられていない各部署の担当者は健一さんを怒鳴りつける。しかも時に健一さんは、トヨタでは重大犯罪ともいえるラインの停止を決断しなければならなかった。
 もともと生産工程に物理的・時間的な余裕があれば、不良品の修理などそれほど大した問題にならない。外しておいて、あとで処理することもできるからだ。しかし生産工程の1秒のムダさえ削ってきたトヨタではイレギュラーな問題の解決がとても大変になる。それゆえ健一さんは、怒鳴られながら各部署を走り回らなければならなかった。

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2008年8月 4日 (月)

トヨタに夫を殺されて(1)

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Img_6390_2 2008年5月、時間外の「QCサークル活動」(品質管理活動)に、トヨタ自動車はやっと残業代を払うことを決めた。大手メーカーではとっくに業務と認め、同じ系列の豊田自動織機ですら24年前から時間外の活動に残業代を払っていたのに、トヨタ自動車は「QCサークル活動」を従業員の自主的な活動だと言い張ってきた。
 そんなトヨタの非常識に「蟻の一穴」を開けたのは1人の女性だった。6年前にトヨタ自動車の社員だった夫・内野健一さんを過労で亡くした内野博子さんである。ただ彼女は労働組合の幹部でも闘士でもなかった。

「あー、こらこら、雄貴(ゆうき)、手を洗ってきて。ハンカチは持っているでしょ? そうそう。でも、コーラはなーし。わかった?」
 取材の始める直前、博子さんは小学1年生の長男・雄貴君にそう声をかけ微笑んだ。
「わかったよー」と返事する雄貴君にも満面の笑みがこぼれる。
 裁判闘争を繰り広げた労働基準監督署も、彼女がトヨタ自動車44年の悪癖を変える女性だとは、つゆほども思っていなかったに違いない。
 博子さんは言う。
「最初から闘う気なんてなかったんです。すんなり夫の労災が認められると思っていましたので。闘いなんだと思ったのは、裁判が始まって『集会』というのが始まったときですね。抵抗ありましたけれどね。集会かって(笑) あとから組織力の大事さは知りましたけれど。当時はみんなの前で話すのも憂うつでしたし」
 つまり当たり前に幸せな妻であり、母だったということだろう。三代トヨタ自動車に勤める子煩悩の夫がいて、かわいい娘と息子を持ち、プログラマーとしても仕事をこなす日々だったのだから。

 しかし、その幸せは彼女の母親による早朝のドアを叩く音から崩れていった。
 2002年2月9日、まだ夜明けの気配さえない冬の闇の中、博子さんは仕事中に夫が倒れたことを知らされる。
 健一さんは遅番。午後4時10分から夜中の午前1時までが勤務時間だった。しかし大量の仕事を抱えていた健一さんは定時に帰ることなどできない。午前4時20分、机で『申送帳』を書いているとき眠るようにイスから崩れ落ちたという。すぐに救急車が呼ばれ病院に搬送されたものの、病院に着いたときには心肺停止状態になっていた。過労による致死性不整脈だった。
「もし、倒れた夫を救急隊員が看ていたらと思うんです。確かに夫は救急車には乗せられました。でも、それは会社の私設救急車なんです。車に救命器具はそろっていますが、車に同乗したのは119番で呼ばれた保安課の方。救急医療ができる人は会社の『救急車』に誰もいませんでした。
 心臓に異常が起きた早い段階で心臓マッサージができていれば……」
 そう言って博子さんは目を伏せた。
 この私設救急車が病院に到着したのは、倒れてから30分後である。小さな事務所から運び出すのに手間取ったのが原因らしい。つまり生命をつなげたかもしれない貴重な時間を、トヨタの救急システムが食いつぶしたのである。もし倒れて数分後に消防署から救急隊員が到着していればと、遺族じゃなくても考えるに違いない。
 しかも健一さんが運ばれたのはトヨタ記念病院。
 トヨタ車で会社に通い、トヨタ系の生協で買い物をし、トヨタ系の住宅会社で家を建てるとも言われる企業城下町の悲劇がここにもある。糧を得るのがトヨタなら消費する場もトヨタ。命を削るほど大量の仕事を命じたのもトヨタなら、仕事によって壊れた体を治療するのもトヨタ系列なのだから。

「夫はガタイの悪くない人でした。体の弱い人なら、どこか具合が悪くなって療養に入りますよね。でも夫はギリギリまで頑張ってプツン、と。
 不思議でしょうがなかったですね。死因も分からないし、なんで死んだのかもわからない」
 そう言って博子さんは目を伏せた。

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2008年7月21日 (月)

ロボトミー殺人事件の現場を歩く(2)

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 桜庭のロボトミー手術が行われたのは1964年11月2日、逮捕されてから8ヵ月が過ぎていた。仮退院できたのは、それからさらに4ヵ月後の65年3月3日だった。この仮退院に際して藤井医師は手術の承諾書へのサインを要求したという。肝臓検査と偽って強行した手術の体裁を整えるためだ。医師の判断ひとつで監禁が続く環境で患者が逆らえるはずもなかった。

 ロボトミー手術が考案されたのは1935年である。それから約30年後に桜庭は手術を受けたわけだが、すでにロボトミー手術の限界は医師の書いた論文からも伺い知れる状況にはあった。まず「矯正」後の人格が人間味を欠き、さらに後遺症として失語症や尿失禁、てんかんなどに見舞われるケースがほとんどだったからだ。
 例えば広瀬貞雄医師が51年書いた『ロボトミー―主としてその適応に就て』(綜合医学新書)には、次のような記述がある。
「ロボトミーは、かかる症状を起し易い人の最も特徴的な性格――見方によっては相当価値のある性格傾向――を減殺することになるから、慎重にその発病の動機や環境を検討し、出来る限り精神療法的指導を怠ってはならない」
 あるいはこうも書いている。
「要するに、病苦が長年に亘り、素質的の要素が相当大きいと思われる場合に限り、最後の手段として行うべきものであると思う」
 つまり滅多やたらに手術するなということだ。ライターとして高い評価を受けている桜庭に手術をするなどは、とても「最後の手段」とは考えられない。
 特に広瀬氏が問題にしていたのは、手術によって出現する別人格だった。
「将来に対する顧慮が少なく、その日その日に興せられた仕事を忠実にするが、自ら進んで先々の計画を綿密に立てたりすることも少なく、行き当たりばったりである。自己を反省することが少なく、困った事態に直面しても、心底から深刻に考えたり、悩んだりしない」
「患者はしばしば雄念が湧いて来ない。よく眠り、夢を見ない、取越苦労もしなくなったと云い、他愛なくよく笑うが、当人は以前のような喜怒哀楽の情が湧いて来ないとしばしば訴える。一般に外からの刺戟を素直に許容し、周囲の環境から孤立するようなことはない、平日すぎる日常生活。他人と受動的に円滑に接触する。しかし何となく深みがなく、情熱に欠けている」
 一言で言えば、周りにだけ都合のよい人間になったということだ。しかも彼の統計によれば、精神障害の患者137人に手術して64人が「作業不能」だったという。「作業可能」も日常生活が送れるように人はまれという結果だったから、かなり悲惨な治療だったといえる。
 桜庭に施された手術は、この本に書かれた方法より進化したものともいわれていたが、ロボトミー手術としての問題はそのまま残していた。実際、桜庭もてんかん発作に悩まされ続け、美しい風景を見ても感動できなくなり、執筆も進まなくなった。結局、術後しばらくたってライターを廃業した。感動できる心も、向上心も、計画性も奪われたら作品を生み出せなくなって当然だろう。クリエイターの彼から手術が職を奪うことなど、素人でさえ想像がついたはずだ。
 実際、手術による連載休止が解けた『月刊プロレス&ボクシング』65年2月号に掲載した作品「世界タイトル取れぬ黒人レスラーのなげき」は、以前のようなキレがない。膨大な資料をうまくまとめているが、盛り上げどころに欠けている。文章力と構成力で一流への階段を登り始めていた桜庭は、自身の原稿の変化を痛感したに違いない。あるいは痛感することすらできなくなっていたのかもしれないが……。
 
 家族を殺された藤井医師は、どうして彼の意向を無視してまで強引に手術したのだろうか?
 可能性の1つとしてはあるのは、精神病質者に対するチングレクトミーの研究が彼の博士号のテーマだったことだ。つまり桜庭と同じ症例である。「精神病質者」とレッテルを貼られた者が入院しており、生かすも殺すも自分次第となれば、とにかく手術して研究を進めたいと考えても不思議はない。精神障害者への外科手術を進めようとしていた彼の母校である慶應大学医学部の医局の圧力もあったかもしれない。チングレクトミーが厚生省に正式に認められたからわずか7年。関係者にとっては、さらに発展が期待できる手術でもあったろう。
 あるいは本人の意思を無視することが、本人の幸福につながると考えたのかもしれない。そもそも「精神病質者」とは、生まれつきの性格異常で、当人や社会がその異常性に悩む人物を指すという曖昧なものである。桜庭で考えるなら、重なった前科が社会を悩ませたということになるだろうか。このような「異常」を取り去るのが自分の仕事だと考えたのなら、藤井氏は桜庭のライターとしての評価など考えもしなかっただろう。
 ただ、それはすでに治療行為ではない。善悪の審判と人格の改造を同時に司る「神の所業」だった。

 藤井医師と近所付き合いをしていたという82歳の男性は、自分の持つ駐車場のアスファルトを補修しながら語った。
「藤井さんは穏やかな方だったよ。挨拶はよくしていたし。でも、なかなか本性は表さなかったな。威張った感じはないけど距離があるっていうのかね」
 エリート医師のそつのないつきあいと考えればいいのかもしれない。しかし、その行動は、広瀬氏が本で指摘した「他人と受動的に円滑に接触する。しかし何となく深みがなく、情熱に欠けている」というロボトミー後の人格と被る。
 藤井医師は桜庭の異常人格を手術で取り除いたはすだった。たしかに、その一部は「成功」した。感情が平坦になり桜庭が嘆いていたことは事実なのだから。しかしタイの夕焼けに感動できない自分に傷ついた桜庭が選択したのは、結局、殺人だった。皮肉なことに、彼の犯罪は藤井医師にロボトミー手術の効果のなさを見せつけたことになる。
 藤井氏は事件後の新聞取材に「脳の切開手術をした記憶はあるが、当時のカルテが残っておらず、どのような内容の手術だったか記憶してないが、いわゆるロボトミー手術とは違う」(『毎日新聞』79年8月29日)と語っている。そんな劣悪ではなない、もっと進化した手術だったと伝えたかったのかもしれないが、その言葉は殺人事件という重大犯罪の前に虚しく響く。

 事件後、藤井氏は血の海となった自宅に2~3年住み続けたという。先述の近隣住民は言う。
「やっぱり精神科医だと思ったよ。ほら、体をノコギリで切ったりして慣れているから住めるんだよね。普通できないでしょ」
 その行為が近所から気味悪がられていたことを、藤井氏は知っていただろうか? 大きなショックを受けて動けなかっただけかもしれないが、そんな「不気味さ」を異常とするなら「矯正」の必要性だって説くことはできそうだ。
Img_6819  すでに事件のあった自宅は取り壊され、藤井氏の親戚が経営している病院の駐車場となっている。近隣のほとんどが畑だったという事件当時を知る者はほとんどいない。(大畑)

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2008年7月 7日 (月)

ロボトミー殺人事件の現場を歩く(1)

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 2008年2月、河北新報は「『自死権』は認めません」という見出しで、無期懲役で服役している男性が起こした裁判を報じた。79年に2人の女性を殺害したとした桜庭障司79歳の訴えを退けた地裁判決だった。
「男は長期の服役による身体の不調を訴え、『生きていても仕方がない』などと主張していたが、近藤幸康裁判長は『自死権が認められる憲法・法律上の根拠はない。身体状態や刑務所の処遇状況にかかわらず自死権の根拠はなく、請求は前提を欠く』と指摘した」(『河北新報』08年2月16日)
 いわゆる門前払いの判決である。法理論から考えれば当然だろう。しかし1988年3月には、3メートルの金網をよじ登り拘置所の5階屋上から飛び自殺を図った原告にとって、この判決は数奇な運命をたどった男の最後の希望を打ち砕いたような気がしてならない。
 彼の犯した殺人容疑に対する裁判で、「被告は現在も医師の殺害を願っており、矯正は到底不可能」と検察は死刑を求刑した。ところが地裁判決は「極刑を科すには一抹の躊躇を感じる」、高裁では「死刑をもって臨むことはためらいを禁じ得ない」、最高裁でも「(被告が)割り切れない気持ちを募らせたことには理解できる面もある」と、被告への同情を示し無期懲役とした。こうした裁判所の「配慮」が、さらに桜庭を追いつめているのだから皮肉である。

 1979年9月26日午後5時過ぎ、桜庭はデパート配達員を装い、円形の帽子を入れる段ボール箱を持って藤井擔(きよし)医師の家を訪ねた。対応に出た藤井氏の妻の母・深川タダ子さんを隙を見て押さえつけ、手足を手錠かけ、目と口をガムテープでふさいだ。それからしばらくして買い物から帰宅した妻の藤井道子さんも同じように縛りあげた。通常なら午後6時には帰ってくるはずの擔さんを殺害するためである。
 しかし、たまたま同僚医師の送別会に参加していた藤井医師は夜8時を過ぎても帰宅しなかった。このまま藤井医師が帰らず、縛り上げた2人を解放すれば藤井医師に近づくチャンスはなくなる。それを恐れた桜庭は2人の首と胸を刃渡り8センチのナイフで切りつけて殺し、物取りに見せかけるため、約46万円が入っていた藤井氏の給与と約35万円の残高があった妻名義の預金通帳を持って逃走したのである。
 しかしてんかんの発作を抑えるために大量に睡眠薬を服用していた桜庭は、かなりもうろうとしていたのだろう。藤井宅を出て2時間後には池袋駅の改札前で段ボールから手錠を落として職務質問を受け、そのまま西口交番まで連行。給与袋や血の付いたナイフなどが発見され、銃刀法違反の容疑で逮捕となった。
 結局、藤井医師が帰宅したのは午前4時近くであり、それから警察に通報していることを考えると、遺体発見前に容疑者が逮捕されていたことなる。

 わざわざ待ち伏せして殺す。そのために家族の口までふさぐ。そこまで桜庭の憎悪を募らせた原因が、藤井医師が事件の15年前に実施したロボトミー手術だった。そして手術の発端となったのは、なんと兄妹げんかなのだ。
 64年3月、母親のことで妹夫婦ともめ、激高した桜庭は茶ダンスや人形ケースなどを壊して暴れた。その様子に恐怖した妹の夫が警察に通報。当時35歳だった桜庭は器物破損の現行犯で逮捕されたのである。
 民事事件には原則として介入しない警察が逮捕したのだから、かなり暴れていたのだろう。しかし事件の翌日妹夫婦が告訴を取り下げたのにもかかわらず、警察は彼を釈放しなかった。それどころか1週間後に精神鑑定を行い、「精神病質」との鑑定を受けて精神病院に強制入院させたのである。こうした警察の行動に、彼の前科が関係したことは間違いない。過去に2度ほど逮捕されていたからだ。ただし、その2件が劣悪な犯行だったのかは疑問だ。

 最初の逮捕は57年。暴行、恐喝容疑だった。当時、土木工として道路工事に携わっていた桜庭は、飯場で出稼ぎ労働者をいじめている男をいさめた。気の荒い連中の多かった飯場でのこと、たちまち殴り合いとなった。しかし19歳のとき社会人ボクシング大会で優勝した実績もある桜庭が負けるはずもない。簡単にノックアウトしたのである。
 それからしばらくして桜庭は路肩の手抜き工事を発見する。正義感の強い彼は班長に抗議する。ところが班長は取り合わず、お前はクビだと脅した。これに腹を立てた桜庭は社長に直談判をする。それを受けた社長は桜庭にしこたま酒を飲ませ、5万円を握らせて同意の上で解雇した。大卒銀行員の初任給が1万3000円に満たない時代であった。かなりの金額ではある。しかし気の荒い連中を使うことになれていた社長が、事をうまく収めたとみることもできるだろう。
 この事件から2ヵ月後、桜庭は逮捕される。訴えたのは彼がノックアウトした土木工だった。この件で事情聴取された社長が金を渡したと自供し、暴行に恐喝が加わることとなった。ただ初犯ということもあり、判決は執行猶予がついた。
 次の逮捕は翌年8月。ダム工事の土木工をしていた彼は賃金不払いと不当解雇に怒り、社長に直談判した。これが恐喝にあたるとして逮捕だった。1年8ヵ月もの間、長野刑務所に収監されることになったのである。

 こうした前科も影響し、強制入院として送り込まれた先が桜ヶ丘保養院だった。そこで医師をしたいたのが、後に妻を義理の母を殺されることになる藤井医師である。脳の一部を切り取るなどして精神障害を「治療」するロボトミー手術の1つチングレクトミーが、彼の専門だった。
 爆発的な激情を抑え社会適応させるための手術として、藤井氏はこの手術を高く評価していたようだ。一方、桜庭はこの手術をかなり恐れていた。病棟で出会った若い女性がこの手術の1ヵ月後に首つり自殺をしていたからだ。手術をどうしても回避したいと考えた桜庭は藤井氏に懇願するとともに、母親にも手術の承諾書に絶対にサインしないよう手紙で頼んでいた。
 ところが藤井氏は肝臓の検査と偽って桜庭氏を手術台にあげ、ロボトミー手術を強行した。母親を病院に呼び出して熱心に説得してまで実施した手術だった。

 ここで問題になるのは、この治療に効果があるとしても桜庭に必要だったのかという問題である。
 当時、彼は売れっ子スポーツライターと活躍していた。独学で勉強し米軍の諜報機関OSIにもスカウトされた英語力、ボクサーとしての経験、作家を夢見て磨いてきた文章力。どれもがライターとしてプラスに働いていた。
 この事件を含め、ロボトミー手術にまつわる事件をルポした『ロボトミー殺人事件』(佐藤友之 著 エポック・メーカー)には、「いま評論家と呼ばれている人たちは、すべて桜庭さんの亜流みたいなものです。当時、海外の情報をきちんと紹介できる人は、他にいませんでした」という担当編集者の声が掲載されている。
 実際そうだったのだろう。当時のサラリーマンの月収の3~4倍を稼ぎ、資料の整理に2人のアルバイトを雇っていたのだから。そのうえ強制入院させられても、彼は病院で原稿を書き続けていた。編集者から厚い信頼を得ていた証拠だろう。
 鬼山豊のペンネームで書かれた原稿は今読んでも古びた感じがしない。海外の報道で取り上げられた事実を織り込み、きちんと人の心を描いている。例えばベースボール・マガジン社発行の『月刊プロレス&ボクシング』では海外レスラーの人生を小説風に仕立てた読み切りの連載が続いていたが、第二次世界大戦中を述懐するプロレスラー、ブルーノ・サンマルチノに、桜庭は次のように語らせている。
「すべては破壊の中にあった。ものも人々の心も伝統も道徳も、一切が破壊と混乱の中にあった。私は多くの仲間たちのように不健康な遊びにおちいらぬため、なにかスポーツをやる決心をしたが、貧しい労働者の私に許されるスポーツといえば、重量挙げしかなかった。それなら、いつでも自分の都合のいいときに好きなだけやれるし金もかからない。はじめはあまり楽しくもなかったが、やがて、私はこのスポーツは肉体を強くする以上に心を美しく強くすることを知った」(『月刊プロレス&ボクシング』64年8月号)
 このセリフは桜庭の人生とオーバーラップする。
 東京高等工学院付属工科学校に進学したものの貧困により退学して働くしかなかったこと。それでも「禁欲昇華」を目指してボクシングやボディービルで体を鍛えていたこと。

 この原稿は、ロボトミー手術による連載中断のわずか4号前、閉じこめられた桜ヶ丘保養院で書かれたものだった。(つづく)

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2008年6月23日 (月)

出歯亀事件の現場を歩く

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 最近あまり耳にしなくなったが、のぞきをする男を「出歯亀」という。『広辞苑』には「女湯をのぞくなど、変態的なことをする男の蔑称」とあるから、かつてはのぞき以外の変態行為をする男性にも使っていたのだろう。
 この「出歯亀」という言葉が生まれて、今年で100周年となる。というのも、この言葉の起源となった殺人事件が、今から100年前の明治41年3月22日に起こったからだ。殺害現場は東京府豊多摩郡西久保(現在の新宿区大久保)の空き地。27歳の女性が乱暴された上、濡れ手ぬぐいを口に突っ込まれ窒息死しているのが発見されたのである。近くの銭湯「藤の湯」からの帰りだった。
 この事件は新聞にも大きく報じられ、焦った警察は性犯罪の逮捕歴がある者を片端からしょっ引いて取り調べたという。事件から10日後には20人以上もの
容疑者を取り調べていたというから、かなり乱暴だ。そのうえ警察は34人もの「婦人」を臨時に雇い、おとり捜査までしたという。
 そして3月31日別件で逮捕した池田亀太郎(31)が4月4日に犯行を自供する。何度か女湯をのぞいて検挙された過去のある男だった。この池田亀太郎の仕事仲間が「出ツ歯の亀」と呼んでいたと報道されたことから、のぞきが「出歯亀」と呼ばれるようになったわけである。

 『広辞苑』にまで「(明治末の変態性欲者池田亀太郎に由来。出歯の亀太郎の意)」と書かれてしまっているが、どうやらこの出歯亀事件は免罪らしい。池田亀太郎は裁判で一貫して無実を主張し、警察から拷問を受けたとも証言した。さらに現場の足跡が彼のものではない、自白調書と死因鑑定結果の絞殺方法の食い違いなどの矛盾も弁護士側が明らかにした。しかし裁判結果は無期懲役となった。検察のメンツが勝ったわけだ。
 また「出歯亀」の起源も、「出っ歯」ではなく、「でしゃばり」だという説がある。実際、赤旗事件で市ヶ谷監獄に入獄した大杉栄は亀太郎に会い、「目立つ程の出歯でもなかったようだ」と自著に書き記している。
 亀太郎にとっては、とんだ災難というところだろう。

Img_6752  事件が発生した新宿区大久保を歩いてみた。コマ劇場からさらに北に進み、ラブホテルとホストクラブが立ち並ぶ歌舞伎町を通り過ぎ、職安通りを超えると大久保一丁目である。この職安通りあたりから景色は一変する。大久保は日本でも有数のアジアンタウンだからだ。職安通り沿いには、韓国料理のレストランや韓流スターの店などが並ぶ。韓国ドラマがブームになったころは、中年女性が大挙して押し寄せたとも聞く。
 この大久保一丁目にある大久保小学校では、全校生徒の57%が外国人だという。つまり学校では日本人がマイノリティーとなる。学校からのお便りも、ボランティアによって英語、ハングル、スペイン語、タガログ語などに変換されている。それが大久保の現実だ。街を歩く人の多くも日本語を使っていない。

 被害者が使った銭湯「藤の湯」は事件の影響で客足が遠のき廃業となったが、何かの縁を信じ大久保に唯一ある銭湯「万年湯」を訪ねてみた。受付に座る日本人女性は「わたしが嫁に来て10年。主人が3代目ですよ」と笑顔で教えてくれた。先代はもう亡くなっているとのことだが、もちろん開業して100年はたっていない。
 現在の客層については、「韓国の方とか、ほんとうにいろんなお客さんが来ますね」とも教えてくれた。ただ残念ながら「出歯亀」という言葉は知らなかった。万年湯を出て、試しに街の外国人に「出歯亀って知ってる?」と尋ねてみたが、不思議そうな顔で首を振れられただけだった。それはそうだろう。
 事件のわずか12年前に大久保村から豊多摩郡に昇格した土地が、ここまで大きな変貌を遂げるとは、当時の人は誰も思っていなかったに違いない。
 ただ出歯亀事件の痕跡を奇妙なところで見つけた。大久保の隣にある歌舞伎町が「のぞき部屋」のホットスポットなのだ。
 1980年代初頭、「のぞき部屋」は大阪で生まれた。マジックミラーの付いた個室から、女性がトップレスで踊る姿を眺める風俗として大人気となった。歌舞伎町にもかなりの数の店舗が開店したという。しかし性風俗が一気に過激化する流れを受け、のぞき部屋は個室マッサージへと業態を変えていく。しかも85年に施行された新風営法により、のぞき部屋は届け出制となり一気に店舗を縮小していった。
 インターネットで調べた限りでは、東京の歓楽街でも「のぞき部屋」はほとんど残っていない。池袋に1店舗、神田あたりに1店舗あるようだが、掲示板にお客が熱心にコメント残すような活気はない。ところが新宿には現在でも4店舗が開業している。昨年10月には人気店だった「ピンキー」が無届け営業したとして経営者が逮捕されたが、新聞には毎日20万円の利益を上げていたとあった。ネットの風俗掲示板にも、この店の復活を望む声が溢れている。かなりの固定客がいたのだろう。
 さっそく歌舞伎町ののぞき部屋を訪ねてみた。ドンキホーテの前、歌舞伎町でももっとも人通りの多いメーンロードに面したビルに店舗があることに驚かされる。
 受け付けで2000円を払い、盗撮を防止するため携帯電話やバッグを預けて15分ほどショーの開始を待つ。赤いソファが置いてある小さな待合室で男2人が待つこととなった。

 何だか気まずい。

 やっとショーの開始を告げられ、案内された部屋の扉を開けると、半畳ほどの空間に三脚の丸イスがドンと置いてある。目の前は壁は上半分がマジックミラーになっており、ミラーの枠は15センチ程度出っ張りがある。そこにティッシュが箱ごとガン! その下にはプラスチック丸いゴミ箱。見ながら処理しろということだろう。
 部屋の張り紙にはオプションのサービスが欲しい人は、マジックミラーの上のスイッチを押せと書いてあった。2000円払えば手で、3000円払えば胸をいじってよくなり、4000円払えば手が口に代わり胸もいじれるとのこと。
 そんな張り紙を読んでいるうちにショーが始まった。黒い花をあしらった白いスカートを履いた女性が、白いフェイクファーのカーペットで体をくねらせる。円形の部屋が薄暗いためマジックミラーでは色が悪い。さっそくミラー中央ののぞき穴からのぞくと、よりハッキリ女性の姿が見えた。
 色の白い、目の大きな美人だった。ただ表情がない。トップレスになっても、下半身を手を置いても、すごく静かな目がこちらを見ている。時に窓に近寄り、下半身を近づけてくるのだが、それでも大きな瞳に表情が宿ることはなかった。何だかやるせなくなった。

 おそらく池田亀太郎が現在によみがえっても、のぞき部屋の常連になることはないだろう。風俗嬢がこちらを意識している時点で、それはのぞきとは違う代物になってしまうだろうから。
 大杉栄が『自叙伝』で書いた「いつも見すぼらしい風をして背中を丸くして、にこにこ笑いながら、ちょこちょこ走りに歩いていた。そして皆んなから、『やい、出歯亀』なぞとからかわれながら、やはりにこにこ笑っていた」という池田亀太郎の印象は、こっそりのぞく気の弱い「出歯亀」の印象と合致する。そんな男が抵抗する女性の視線に耐えられるだろうか?

 マジックミラー越しに冷たい視線にさらされ、踊り子の細いパンティーを凝視しながら、なぜか池田亀太郎の冤罪を確信することとなった。(大畑)

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2008年6月 9日 (月)

愛犬家連続殺人事件の現場を歩く

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 判明しているだけで4人を殺害。骨から肉をそぎ落とし、骨はドラム缶で焼いて粉砕、肉は細切れに刻んで川に捨てるという方法で「ボディーを透明」にした関根元。彼の周りで謎の失踪を遂げた人数の多さと、死体を隠す方法の残忍さは世間に強い衝撃を与えた。
 しかし彼には特別な「物語」を持っていなかった。
 快楽のために殺したわけでもなければ、殺すほど差し迫った理由があったわけでもない。ただトラブル解決の一手段として殺しがあるだけ。法律に詳しい人が問題解決のために裁判を起こすようなものだ。

 関根元が元妻である風間博子とともに逮捕されたのは、1995年1月5日。容疑は廃棄物処理の会社員の死体遺棄だった。当時の朝日新聞は、彼の遺骨数十点が見つかり、その歯の治療跡が一致したと報じている。
 この事件の捜査は非常に難航したという。死体がないからだ。いくら関根と金銭トラブルを抱えていても、ただの行方不明者なら殺人ではない。家出人捜索願の出された10万人を超える行方不明者の1人に過ぎない。その捜査の壁を突き崩したのが、関根元が経営するペットショップ「アフリカケンネル」元役員の供述だった。彼は関根に脅され、解体場所として自宅の風呂場を提供し、遺体の運搬を手伝い、頼まれるままに死体をバラすための牛刀を研いだとされる。
「最初の脅し文句は、『お前もこうなりたいか』というものだった。さらに、『子どもは元気か』『元気が何より』と畳みかけてきた。話し口調は、普段と少しも変わらない」
 この元役員は事件の詳細を記した自著『愛犬家連続殺人』(角川書店)で、会社員の死体を前に繰り広げられた関根の脅迫をこう表現している。

 殺された理由はカネのトラブルだった。関根から大型犬のローデシアン・リッジバックの繁殖が儲かると誘われ、つがいで1100万円ものカネを先払いした。しかし値段に不信感を持った彼は、先に渡されたメス犬が逃げ出したとしてオス犬のキャンセルを申し出たのである。この「メス犬」が逃げ出したという話をウソと断定した関根は怒る。その結果が殺人だった。
 元役員が書いた本で、関根は彼を殺害した動機について次のように語っている。
「『嘘をついたからだ。この俺に嘘をついたら、あとはもう死ぬしかないんだ。お前はそんな馬鹿じゃないよな』奴はそう言って俺にニヤッと笑いかけた」
 関根元は商売が下手だったわけではない。むしろペット業界では成功者とみられていた。シベリアンハスキーを日本に最初に輸入したのも彼だし、バブル期には億単位のカネを稼いでいたともいわれる。彼の犬舎があった熊谷市万吉の住民は、羽振りがよかった様子も目にしている。
「すごいときは、この道にお客さんの車がズラッと並んだから、うん」
 ただ商売のやり方はお世辞にもキレイではなかった。
 審査員にカネを握らせドッグショーで自分の犬を優勝させる。そうした犬をチャンピオン犬だとして法外な値段で売りつけ、さらに繁殖の儲け話に誘い、子どもを買い取ると約束する。そして生まれた子どもに難癖を付けて格安で引き取り、それをまた法外な値段で売買する。
 当然のごとく客は怒るが、多少引き取り価格にいろを付けて相手が納得しないようならヤクザ登場だ。それでも相手が引き下がらないようだと、関根のいう「ボディーは透明」となる。
 この殺人から3ヵ月後の93年7月に行われた暴力団幹部とその住み込み運転手の殺害も、さらにその1ヵ月後に殺された行田市の主婦の事件も、発端はカネを巡るトラブルだった。暴力団幹部は関根の殺人をネタに脅迫して彼の土地を奪おうとしていた。行田市の主婦も多額のカネを関根にだまし取られていた。
 ただ暴力団幹部を除けば、関根元には危険を冒してまで殺す必要は感じられない。最初に殺された会社員と4番目に殺された主婦には、カネは返さないと突っぱねればよい。だが、彼は殺す。
「若い頃、どうすりゃ金が手に入るのか考えたもんだ。いくら考えても結論は一つしか出なかった。金を持っている奴から巻き上げて、そいつを消す。捕まんなきゃ、これが一番早い。だが、殺すのはいいとしても、問題は死体だ。これが悩みの種だった」(『愛犬家連続殺人』)
 関根が元役員に話した殺しの「哲学」である。つまり彼の殺しはビジネスの延長線にあったといえる。この本には「殺人を犯した翌日だというのに関根は商売のことが頭から離れないらしい」と書いてある。しかし、おそらく正確には、「商売のことが頭を離れない」のではなく「商売の一環として殺していた」のだ。
 事実、関根はやり方こそ悪辣だったが商売に熱心だった。犬舎近くに住む。老人も彼が頭を下げながらお客を迎える様子を鮮明に覚えていた。
「(関根は)よく(犬舎の)外に居てね。お客さんを見つけると、すぐに笑顔で頭下げてさ。車見つけてからお店に入るまで、3回は頭を下げてたんじゃないの。で、すぐコーヒー缶を差し出していたよ」
Img_6711  また儲かる工夫も忘れていない。近くの高速から読めるよう、ペットショップには「犬 猫 狼」と書かれた黄色の大きな看板を掲げていた。狼との雑種である狼犬を意識した看板かもしれないが、この不思議な看板に引き寄せられた客も少なくなかったという。実際、彼の犬舎近くにある大学の卒業生が、「オオカミが飼えるのかも気になるので」とネットの掲示板で問い合わせをしていた。もちろんすぐに、その看板が牧歌的なものではないと教えられることになったのだが。

Img_6700

 関根は豪胆な人物ではない。背中に彫ったライオンも痛くて色つけを断念したらしく筋堀。暴力団幹部に脅されるままに、かなりの額のお金も払ったという。逮捕されてからも、死刑を免れようと主犯を元妻になすりつけようとさえしている。ただ殺害して死体を消すことについては絶対の自信を持っていた。その自信が連続殺人を生む。
「最初は俺も怖かった。膝ががくがくして立ってさえいられなかったもんだが、要は慣れだ。何でもそうだが、一番大事なのは経験を積むことだ。最初、俺はグリスを使いながら死体を燃やしてみた。すると死体はよく燃えて、最後には白い粉になった。それでも問題は残った。臭いだ。臭いの元は肉だ。そこで、透明にする前に骨と肉をバラバラに切り離すことを思いついたんだ。単に思い付くだけじゃ駄目だ。骨を燃やすのにもコツがいる。どんなことでも、実際にやってみなけりゃコツが掴めねえ。まとめて入れちゃ駄目だ。それだと白い粉にならん。慌てず、のんびり、確実に、一本ずつやるんだよ」(『愛犬家連続殺人』)
 殺人の方法だから不気味だが、これが普通のビジネスならNHKの『プロジェクトX』に取り上げてもいいような「創意工夫」である。
 じつは犬舎の近隣住民も、逮捕前の関根を怖いとは感じていなかったようなのだ。半袖のシャツか見え隠れする入れ墨もあり、親しい近所付き合いをしていた人はほとんどいなかったが、誰の口からも「腰が低かった」という感想はあっても、「怖かった」という話は出てこない。
 今も残るアフリカケンネルの廃墟近くで草刈りをしていた老婦人は、関根の思い出を次のように語った。
「一度ね、麦を刈ってワラを燃やしたら、犬が煙がるからと文句言われたことがあったね。でも、そのあとジュース持ってきて『飲みませんか?』なんて声を掛けられたりしたからね」
 こうした印象があったからだろう。近隣住民は犬の散歩をしていた中高生の少女を娘だと勘違いしていた。実際には家庭に問題のある娘を何人も雇い入れ、彼の愛人にしていたのだが。
 ただ事件前、近隣住民が彼に恐怖を感じなかったわけではない。
「事件の2年ぐらい前かな。夜暗くなってからボンネットの上で牛だかブタだかを解体したんだよ。どこかで死んだのもらってきたんだろ。その内臓とかを山に捨てて大問題になったんだよ。
 いや、見てないけど、噂がたってみんな知っているからね」
 そう語るのは先述の老婦人だ。
 アフリカケンネルの側で畑仕事もしていた老人も次のように話す。
「なんか家畜を車の上で裁いたんだよ。それでミンチにして犬に与えたんだ。で、内臓を捨てて問題になったの。いやいや、山じゃないよ。それなら分からないから。ゴミ袋に入れてゴミの日に出したんだよ。誰かが駐在さんに言って(関根に)注意してもらったんだ」
 おそらく駐在に注意された関根は驚いたことだろう。人肉ならいざ知らず、家畜のゴミなんて普通にゴミの日に出すモノだと考えていただろうから。人をバラすのに慣れた人間が、家畜ごときに驚くはずもない。

 元役員の本によれば、関根の元妻・風間も鼻歌を歌いながら人肉を、2センチ幅のサイコロ状に刻んでいたらしい。川でよく流れるようにだ。また遺体処理の現場から浮気をするため、愛人とホテルに直行したとも書かれている。つまり関根が言う通り、死体損壊ですら慣れなのだろう。

 先述の老人は地域で耕地を整理したときの様子を教えてくれた。
「トラックやらシャベルカーやらが来てね、土を掘り返したりしたんだよ。そのとき(関根は)工事関係者全員に缶コーヒーを配っていたんだ。全員だよ。けっこうな数だったと思うよ。金も持っていたし、愛想もよかったんだ。でも、あんなことしちゃあな」
 缶コーヒーを配るのは関根流の地域活動だったようだ。その老人自身も関根から缶コーヒーをもらったことがあるという。
「どうですか?ってくれたからさ。でもね、缶のフタが空いているんだよね」
 そういって苦笑した。
「お前もドリンクを飲む時は、封を切ってあるかどうか、ちゃんと確認してから飲むんだぞ。人様の家にお邪魔したり、お茶なんか勧められたりしても、あんまり飲まねえ方がいい。他人が何を考えているかなんてわからないもんだからな」(『愛犬家連続殺人』)
 関根は元役員にこう語ったという。毒薬・硝酸ストリキニーネで何人も殺害してきた関根ならではの忠告だろう。おそらく彼は缶を開けて渡すのを習慣化していたのではあるまいか。日頃から繰り返せば、相手の警戒心も薄れる。金銭トラブルを抱えている相手に毒薬を飲ませるのは、それほど楽なことではないのだから。

 関根元は愛想のよい殺人鬼だった。そして何より研究熱心な殺人鬼だったといえる。
「食うに困った時のために、どうやって人間を透明にするのか、俺たちのやり方を見ておけ。世の中にはこういう金の稼ぎ方もあるんだ」(『愛犬家連続殺人』)という関根の言葉は、元役員への脅しだけとも思えない。新弟子に技術を教える職人のセリフのようにも聞こえる。

 彼は特別な「物語」を持っていない。狂ってもいない。ただ「ボディーを透明にする」高い技術を持ち、いざとなったら使うだけだ。その正常さこの事件の最大の怖さかもしれない。(大畑)

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2008年5月26日 (月)

玉ノ井バラバラ事件の現場を歩く

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 海軍青年将校らが犬養毅総理を殺害した五・一五事件が起きた1932年の3月、人々を震撼させる事件が起きる。「バラバラ殺人」というフレーズが初めて使われた玉ノ井バラバラ事件である。
 まだ春も浅い3月7日、玉ノ井(現在の東向島5丁目)の通称「お歯黒ドブ」から、ハトロン紙にくるまれた生首と胴体が見つかった。今やほとんど見かけなくなったが、石けんや古い本のカバーとして使われていたのがハトロン紙である。その薄紙に腐乱した生首が包まれていたのだから見つけたペンキ職人も驚いたことだろう。
 当時では珍しい死体切断事件にメディアは熱狂。人気ミステリー作家だった江戸川乱歩に犯人像を推理させていたりもした。この報道合戦のなか東京朝日新聞が生み出したキャッチコピーが先述の「バラバラ殺人」だったのだ。
 しかし事件は暗礁に乗り上げる。被害者の身元がわれなかったからである。しまいには腐乱した顔写真を警察が死体発見現場近辺に貼り付け情報を呼びかけるまでになったが、近隣住民を気味悪がらせるだけに終わった。
 結局、犯人が逮捕されたのは事件から8ヵ月ほどへた10月末。被害者は秋田県出身の千葉龍太郎。殺される1年ほど前、こじきとして10歳くらいの娘とともに浅草の道端に立っていたとき、彼にたばこやバナナを恵んだのが加害者の長谷川一太郎だった。
 一太郎は春画販売を稼業としていたがほとんど収入がなく、同居していた妹・とみは妊娠後に男から捨てられる苦境にあり、62歳の母にも職はなく、一家の生活を支えていたのは帝国大学理学部土木課で印刷工をしていた弟の長太郎だった。この貧しい一家を被害者の千葉龍太郎は言葉巧みにだます。「故郷には莫大な財産がある」とウソをつき長谷川家に入り込んだのだ。一方の長谷川一家も合法的に財産を分捕り、なおかつ妹・とみが未婚の母になるのを防ぐために千葉ととみを結婚させた。
 しかし千葉はいつまでもたっても金をもってこないし、働きもしなかった。ついに業を煮やした長谷川一家がお土産持たせて秋田に財産分与の旅に出すが、千葉は手ぶらで帰ってくる始末。そのうえ血のつながらないとみの乳飲み子を虐待死させてしまう。
 そして2月、とみと激しく口論していた千葉を一太郎はスパナで殴り倒し、弟・長太郎と協力して絞殺した。後日、台所に下に隠していた死体を母に知られないように分解し、首などを一太郎ととみで玉ノ井まで捨てに行き、腕などを長太郎の職場である帝大内に廃棄したという。
 ほとんどのバラバラ殺人がそうであるように、この事件の死体切断も猟奇的な理由によるものではなかった。被害者の手足にやけどなどの跡があり身元が判明するのを恐れたことと、運搬に便利だったことが大きな理由だったらしい。
 結局、玉ノ井は遺体の廃棄場所でしかなかったわけだが、この地が選ばれたのにもそれなりの理由があった。当時、ここは私娼窟として賑わい、「お歯黒ドブ」にいたっては望まれぬ嬰児を売春婦たちがこっそり捨てることもあったというドブ川だった。当時は雨が降れば、すぐに水があふれ出したとも伝えられる。
 この事件の4年後、永井荷風によって書かれた玉ノ井が舞台の『濹東綺譚』にも、雨上がりに「アラアラ大変だ。きいちゃん鰌(どじょう)が泳いでいるよ」と住民が声をあげるシーンが描かれている。

Img_6658  荷風が玉ノ井に通って書き上げたとされるこの小説の風情を現場で味わいつつ、バラバラ事件の話を住民に聞こうと東武伊勢崎線に乗り東向島に降り立った。しかし改札を出てすぐ目の前に迫るのは赤い看板のマクドナルド。気を取り直して線路づたいに北に歩き、いろは通りに出た。道の両側どちらも玉ノ井と呼ばれていたが、西側が戦後の赤線地帯、東側が戦前の私娼窟だったという。
 まずは死体発見現場であるお歯黒ドブにたどり着かねばならない。白髪の商店主などに話しかけたが、「どこだっけ?」と首をひねられてしまった。やっと正確な位置を把握できたのは、荷風がラビラント(迷路)と呼んだくねくねと曲がりくねった路に迷い込んで20分もしたころだろうか。

「お歯黒ドブのどこで死体が見つかったかは分からないけれど、保健所の前の路に沿って流れていて、今の水戸街道に伸びていたんですよ」と住民の女性が教えてくれた。彼女は幼いながらも終戦直後の街の賑わいを覚えているという。
「いろは通りは米兵がジープでよく走っていて、『ハロー』なんて言うとお菓子くれたんですから。当時は車も人も多くて『銀座通り』なんて呼ばれてましたよ」
 その話を聞いた彼女の母親も当時を思い出したように付け加える。
「いろは通りの東側でも米兵相手の店があったよ。大通り(水戸街道)の近くにね。お前は幼かったから覚えてないかもね」
「あー、知らなかった。キレイなお姉さんがいるなとは思ったんだけど」
 そう言って娘は笑った。
 2人と別れ、かつて「お歯黒ドブ」があったという向島保健所の前の道へと歩いた。しかし、すでに地下深く、暗渠となって隠されたドブの面影はどこにもなかった。荷風を悩ました大量の蚊も、腐ったような臭いもいない。かわりに風に乗って運ばれてきたのは、保健所を清掃にきたバンから香る洗剤の匂いだった。
Img_6681_2  この道で商店を開いている男性は、「もうね、ドブもないし、何もないよ」と、76年前の事件取材に困ったような笑みを浮かべた。

 1987年12月、玉ノ井駅は住民のたっての希望で東向島駅に改称したという。私娼窟、赤線地帯として有名だった「玉ノ井」の歴史を嫌ってのことだろう。今では風俗店が軒を並べるような場所ではなく、東京大空襲で1200人もの私娼が焼け出されたというような賑わいはない。
 唯一、当時の名残を感じさせるのが、「ぬけられます」と看板を出し、路に迷った男を客としたという裏道の一部と、たまに見かけるモルタルづくりの古い家屋だけ。しかし、その細道さえ今や厄介の種だと、住民の1人が教えてくれた。
「ここの細い路はみんな私道なの。昔は軒先までがその人の土地だったから、どこまでが自宅かなんて分からないのよ。しかも東京大空襲で焼け野原でしょ。みんな死んじゃって、その跡に勝手に家立てちゃった人も多いの。だから土地を売ろうとしたときや、新しい自宅を建てようとしたとき大騒ぎになるわけ。みんな土地のことは触れないようにしているのよ。大変なことになるから。
 それに昔、飲み屋をやっていた家の子どもさんたちも、みんなお医者さんやら弁護士やら偉くなったから、めったなこと言えないの。それもタブーなのね」
 
 荷風は『濹東綺譚』で「明治四十年代の花柳の巷で過ごした『夢』を再現的に追おうとしているのだ」と、竹盛天雄は同書の解説で書いている。すでに小説でしか再現できなかった玉ノ井の風情を70年以上をへた現地で探すのは、それこそ夢物語だったのかもしれない。
 ただ、蚊も腐臭も暗渠に閉じこめ住宅街として「健全化」した土地で、当時のデタラメな区画と人々の記憶が触れてはいけないタブーとして残っていることに不思議な想いが去来した。(大畑)

※2メートルもない細道に張り出して実を付けた目にも鮮やかな果実Img_6661_2

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2008年5月12日 (月)

セレブバラバラ事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
ブログでは明かされない新たな事実満載!!

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Img_1246_2   自宅マンションから500メートル、徒歩にしてわずかに5分。そんな空き屋に、彼女は夫の下半身を捨てた。先ごろ、東京地裁が懲役15年の判決を言い渡した「セレブバラバラ事件」である。
 三橋歌織被告は2006年12月12日午前6時ごろ、自宅である渋谷区富ヶ谷のデザイナーズマンションにおいてワインのビンで夫・祐輔さんをめった打ちにして殺害した。彼の頭には8ヵ所の挫創と亀裂骨折が刻まれていたという。

 この12日、彼女が何をしていたのかは明らかではない。ただ殺された夫の会社では無断欠勤した祐輔さんを心配し、携帯に次々と連絡を入れていた。そして殺害翌日の13日には、彼を心配した同僚が「自宅を訪ねたい」と歌織容疑者に電話をかけている。
 ドメスティック・バイオレンスで自分を苦しめた夫は死んだ。しかし死体は残る。彼女は、その当たり前の事実に恐怖した。そのうえ冬の12月とはいえ、殺害2日目にして遺体は少しずつ腐臭を放ち始める。葬式で使うドライアイスを用意していたわけではないのだ。同僚の訪問と遺体への恐怖と臭い。3つの問題が彼女を追いつめていく。
「怖くて家に帰りたくないが行く場所もない。そのときに遺体を運び出すしかないと考えた」
 裁判の被告人質問での彼女の言葉だ。だが遺体を運び出すのが容易でないことを、彼女は殺してから知る。
「遺体は予想以上に重かった。一刻も早く目の前から取り去ってしまいたかった」
 身長170センチ、「背が高く、スタイルが良くモデルのよう」と評された歌織被告だったが、180センチの大男だった夫の遺体を1人で運べるはずもない。選んだ方法は遺体の「分割」だった。
 彼女は遺体を処理するために、14日から精力的に動き始める。まず土・ブルーシート、台車、キャリーケース、ノコギリを買い込み、倒したクロゼットに土を詰め、血が流れでないようにしてから遺体を切り刻み始めたのである。頭・胴体・下半身・左腕・右手首。携帯に便利な5つのパーツが土の盛られたクロゼットに並んだ。当時、被告のノートには、「フット、ヘッド、ハンド、バラバラ、完了……」と書き残されていたという。

 15日の深夜から16日の早朝にかけて、彼女は廃棄にかかる。
 まず、胴体をゴミ袋で梱包し、キャリーケースに入れてタクシーで新宿に向かった。「よく出かけていたので土地勘はあった」と供述した場所だったが、タクシー運転手から「においますね」とキャリーケースの臭いを指摘され、慌てて車を止めて降り、西新宿の路上に投げ捨てたとされる。
 すでに殺害から5日がたとうとしていた。葬儀に詳しい友人は「湿気がなく寒い東京の12月は遺体にとって理想的な環境。でも2日目からは相当に臭い。3日目以降ともなれば耐えられない状態だったでしょう」と説明してくれた。歌織被告自身、自宅の腐臭に日々おびえていたはずだから、この運転手の指摘はかなり恐ろしかったに違いない。
 だからこそ彼女は自宅に取って帰し、下半身の運搬にかかる。しかし彼女が選んだのは、キャリーバックに入れて台車で運ぶ方法だった。
 指紋からの発覚を恐れ、左腕と右手首は生ゴミに。人物の特定につながりやすい頭部にいたっては、翌日電車に乗って町田の公園に持っていき35センチの穴を掘って埋めている。人の特定につながらない夫の体など、彼女にとって生ゴミぐらいにしか思っていなかったのかしれない。
 だからだろうか。彼女は下半身を捨てた現場について、「自宅近くだが、知らない場所だった」と供述している。つまり気の向くままに台車を走らせ、適当に捨てたわけだ。

 マンションのエントランスを出ると、方向は2つ。軽い坂を上がり、井の頭通りを沿いを歩いて行くか、坂を下り井の頭通りを横切る交差点に出るかである。すでに新宿に胴体を捨てためかなりの体力を消耗していたとすれば、彼女が坂を下ったのもうなずける。また坂を上がるなら、夜でも交通量の多い片側3車線の大通りの脇を歩くことになる。これは遺体を持つ者にとってはマイナスだろう。

 だが、次の方向選択は少し不思議だ。彼女は駅に向かう商店街はもちろん、マンションが建ち並ぶ高級住宅街も避け、さらに代々木公園の方角も避け、渋谷東急本店に向かう遊歩道へと台車を向けたのだから。
 この選択を考える上で1つヒントになるのは彼女の殺害直後感想である。
「自宅の目の前に広がる代々木公園が、とにかく真っ暗に見えた」
「代々木公園だけが真っ暗で、世界中に自分ひとりしかいないように思えた」

 精神鑑定医への証言だ。不安を象徴するのが代々木公園の暗闇ならば、そこから遠のく方向に足を向けてもおかしくはない。
 結局、彼女は井の頭通りを横切る横断歩道を渡り、コンビニエンスストアーからもれる光を避けるように歩き、遊歩道へと進む。アスファルトに削られた荷台のタイヤの音は、ここで敷き詰められた煉瓦にぶつかるゴトゴトという音に変わったはずだ。
 おそらく歌織被告はここでほっとしたことだろう。わずか数メートでも遊歩道に入れば、井の頭通りを走る車の騒音がぐっと静かになるからだ。街頭も極端に減る。
 ゴトゴトゴトゴトと音を響かせる台車の上でケースに入れた下半身が跳ねる。そのとき彼女は淡い赤やオレンジ、グレーのれんが色を見ただろうか? 

 いずれにしても死体を隠せるほどうっそうとした場所はない。しかも遊歩道に入って1分ほどの場所には、遊歩道にベランダや窓が面した古いマンションがある。深夜から早朝にかけて荷台の音を響かせながら住宅街を歩くのは、やはり怖かったに違いない。早く捨てたいと心から願ったことだろう。
 そんなときに彼女の目に飛び込んできたのが、遊歩道に面した1軒空き屋だった。二階の高さを超えるクスノキ。同じくらいに高いもみじ。すでに空き屋は壊されていたが、それらの木々はいまだにうっそうとした印象を与えている。
Img_1243  彼女は鍵の掛かっていないくぐり戸から入り込み、遺体を隠そうとした。穴を掘ることは断念したものの、敷地にあった植木鉢を被せている。それでも遺体が見つかるのは、12日後の12月28日だった。投げやりな選択のわりには、けっこう長く見つからなかったわけだ。もちろん不審者として捕まることもなかった。
 この近所に住む男性は言う。
「この遊歩道はけっこう夜も人通りが多いんだけど、2時から4時ぐらいかな。パタッと人が途切れるんだよ。だから壁にもイタズラとかされちゃうんだ。ウチも看板壊されたりしたからね。
 だいたい夜に台車を転がして歩いてたって分からないよ。ホームレスだってガラガラなんか引っ張って歩いてるしさ、『うるせー』って言う人もいないんだから。バブル期にみんあ土地売って引っ越していったから近所づきあいも少ないしね」
 じつは、ここより先に台車を転がしても、死体置き場に適した場所はみつかない。街に近づき、どんどん人に会う可能性が高まるだけだ。その意味で歌織容疑者は、捨てに行く時間と場所を的確に選んだことになる。

 プライドが高く、上昇志向の男性が好きだったと報道された歌織被告。大学時代からエステに通い、ブランド品を身につけていたという。だが、彼女はいったい誰の目を気にしていたのだろう。
 自分にも夫にも恋人がいて夫婦仲は冷え切り、近隣の住民も事件前の彼女は知らない。犯罪が行われたマンションの横に住む女性も、「(彼女のことは)事件が起きるまで知らなかったですね。1階なら顔見ることあっても、上だとマンション出るときぐらいしか顔を合わさないでしょ」と語った。

 鼻骨を折られる暴力を夫から受けたときにも実家には帰れず、友人宅に泊まることができず、シェルターで1ヵ月暮らした彼女にとって、夫を殺した後に現れた世界はまさに「世界中に自分ひとりしかいないように思えた」暗闇だったのかもしれない。(大畑)

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2008年4月30日 (水)

阿部定事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
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Img_6656  1936年5月18日、左の写真の近辺で日本でもっとも有名な猟奇事件が起こる。不倫相手を殺し、イチモツを切り取って逃げた阿部定事件である。現場は東京都荒川区尾久にあった待合茶屋「満左喜」。当時の『東京朝日新聞』の見出しには「旧主人の惨死体に血字を切刻んで 美人女中姿を消す」とある。
 犯人は芸者や娼婦としても働いた経歴を持つ30歳の美人。被害者は彼女を雇っていた料理店の旦那・石田吉蔵。1週間も待合茶屋に宿泊した末に、旦那を絞殺して陰部を切断、雑誌の表紙にくるんで身につけ、さらに現場のシーツと被害者の左太ももに「定吉二人キリ」と血文字をつづり、左腕には「定」と刃物で刻んだという。しかも18日の朝、阿部定は「水菓子を買ってきます」とタクシーに乗って出かけたて行方をくらませたのだから、当時の人々が熱狂するのも当然だろう。
 定が逮捕される20日まで「定らしい美人を見かけた」との情報が警察に殺到。そのたびに警察が付近を大捜索するため野次馬が退去して押しかけることとなった。銀座ではその騒ぎによって一時は通行止めまで起こったというから尋常ではない。
 現場近くで料亭を営んでいた93歳の女性は、当時を振り返って言う。
「そりゃ大変だったよ。警察は来るし、野次馬は来るしで、大騒ぎ。だって、アレ持って逃げちゃったんだからさ。あんな大事件、尾久の警察じゃあ、最初で最後じゃない」
 実際、新聞には事件現場を見物する人でごったがえす「満左喜」周辺の写真が掲載されている。また当時、12~13歳だったという85歳の元芸者も子どもながらに、その喧噪を覚えていた。
「ここらへんも電話があまりなくてね。新聞記者が自宅の電話を使いっぱなしで離れないのよ。うちの仕事ができなくなるぐらいにさ」

 人々を興奮のるつぼにおとしいれた阿部定事件だったが、人々が定を怖がった様子はない。むしろ同情的だった。凶悪事件にもかかわらず、どこか滑稽で、何かしら悲哀が漂う。
 こうした「雰囲気」を、この事件がまとった理由の1つは定が美人だったことだろう。子どものころから近所でも評判の美人であり、定の友人の母親も雑誌で次のように語っている。
「お定ちゃんはなかなかきりよう好しでしてね。色は白いし、鼻筋はツンと取ってゐるし、口許はしまつてゐるし、まァ強ひて難をいへば、目許が少し上り気味だつた位のもんでせう。相模屋のおかみさんも、定ちやんだけは自慢で、いろんな着物を取り換え着せ換えては、近所となりを連れて歩いたものです」
 また、定の報道を記憶していた93歳の元女将も「キレイな女だったね。小股の切れ上がったイイ女っていうのは、あういう女を指すんだよ」と述懐した。
 さらに定が開いたおにぎり屋「若竹」を訪れ、60を越えた定と話をしたという72歳の女性も「昔はさぞかしキレイだったろうな思わせる顔立ちでした」と話してくれた。

 そしてこの事件を滑稽さを際だたせたのが、イチモツを切り取るという行動だった。
「小さな風呂敷包をいやに大事さうにしてゐましたが、あれが問題の包みなのでせうか、箪笥の上に乗せられたりして何だか嫌な気持ちです」
 待合から逃げた当日、定が変装のために立ち寄った新橋の古着屋の主人が新聞記者に答えたコメントである。この「問題の包み」が指だったら、この発言から受ける印象はまったく違っていたはずだ。
 しかし人々が定に同情を感じた最大の理由は、旦那と女中の不倫という被害者と犯人の関係性にあったと思われる。また殺人現場となった「三業地」の特性が、この殺人の悲哀を深めたのである。

 そもそも三業地とは芸妓置屋、待合、料亭の営業が許可される区域を指す。つまり芸者のいる花街である。この花街で料理を提供して芸者遊びができるのが料亭。待合は酒だけしか置いておらず、料理は仕出し屋から取り、宿泊もできる施設だった。売春が行われることも多かったとされる。宿泊もできたため待合をラブホテル代わりにも使えたが、値段はかなり高い。
 事件のあった満左喜でも、定は5泊分の料金として当時の公務員の初任給とほぼ同額70円を支払っている。今なら総額20数万、1泊4万数千円を支払った計算になる。つまり三業地そのものが金に余裕のある人しか滞在できない空間だったといえる。

 先述の女将は当時を振り返って言う。
「お客さんがコセコセしてなかったからね。玉代(芸者を呼ぶ代金)が付いているのに、4人の半玉(芸妓)にお小遣い渡して、浅草まで映画見に行かせたりしていたからね。
 だいたいその日にお金をいただくことなんてなかったんだから。いちげんさんは別にして。お金持ち以外来られなかった場所だったよ」
 先述の元芸者の女性も「半玉を50人いっぺんに上げたりしてさ。いい時代だったねー。戦争が近かったっていうけど花柳界は別。みんなキレイに遊んでいた」と、嬉しそうに話した。

 今の感覚だと不思議な気もするが、定と被害者の石田も長逗留した待合でたびたび芸者をあげている。芸者と酒を用意して一騒ぎし、その後に愛し合う。そんな日々を2人は数週間も続けていた。まさに金持ち「旦那衆」の遊びである。妻の元に返したくない定の想いは、待合で長逗留できる石田との「身分差」に阻まれたといえる。現場の三業地から多くの人はそんな情報を受け取り、自分だけのものにしたくて陰部を切り取った定に喝采を送ったのである。

 実際、定は驚くほど真剣に石田にほれていた。
 ネットで公開している予審調書には、次のような定と検察官の問答が記されている。

問 何故石田の陰茎や陰嚢を切取って持出したか。
答 それは一番可愛い大事なものだからその儘にして置けば湯棺の時、お内儀さんが触るに違いないから誰にも触らせたくないのと、どうせ死骸は其処に置いて逃げなければなりませぬから石田のオチンチンがあれば石田と一緒の様な気がして淋しくないと思ったからです。

 また事件後、殺害当時に身につけていた吉蔵の下着と血で汚れた腰巻きを身につけ、留置場に入るときでさえ脱ぎたくないと騒ぎを起こしたとも伝えられている。
 一方、石田も定のことをかなり好きだったことは間違いない。
 定との関係が妻に知られてから殺されるまでの約1ヵ月。石田は多くの時間を定と過ごす。とにかく離れたくないと、ズルズルと各待合に泊まり続けてもいる。しきりに帰したくないから殺すつぶやく定であったのに、結局、最期まで石田は逃げようとしなかった。
 2人が泊まった田川という待合の女将は「石田さんも女から逃れたそうな様子なのにいくらすすめても動かない、恐ろしい女です」と語っている。この発言を掲載した『東京朝日新聞』の記事は「絡む女郎蜘蛛」と見出しを打った。しかし石田を捕らえて離さなかったのは、彼女の手練手管ではなく、まっすぐ過ぎる愛情だった。

Img_6650  現在の尾久三業地には当時を忍ばせるものなど、ほとんど残っていない。満左喜は住宅街へと変わった。阿部定事件の現場紹介の写真として、よく紹介されてきた待合いろはも、取材の数日前に更地となった。近隣住民の話では土地を手放したという。
 殺害後の定を新宿まで乗せたタクシー会社は現存こそしているが、当時2~3台だったという会社の規模からは考えられないほどの車が並び、以前の面影はない。また元三業地にもかかわらず、いまでは大学まで建設されている。
「もう20年も前から跡取りがいなくて、どんどん待合もなくなっていったよ。1人やめたら次々とね。人も来なくなったしね。もう住宅ばっかりだろ」
 現場近くに住む男性は寂しそうに語った。

 13歳で事件に遭遇し、「新聞を読んじゃいけません」と女中から叱られた記憶を持つ元芸者も、「芸に糸目をつけずに好きなだけ踊ったから、もう思い残すことはなにもないよ。あんないい時代はもうないからさ」と笑う。
 93歳の元女将は「いいお客さんが戦争でいっぱい死んでしまったしね。当時のことを知ってる人も誰もいなくなったよ」と話した。

 人も街も変わり、結局、この地で受け継がれているのは事件の記憶である。
 ただし定は調書の中で「石田と別れるのが淋しいので石田のシャツを着たりオチンチンを切ったり気違ひ染みた事をしてしまったのです。そんな事で、世間から変態のように云はれるのが口惜しう御座います」と語っている。おそらく、このように記憶されること自体、不本意なのだろう。

 彼女が経営するおにぎり屋で定と話した女性は、「死ぬときに誰にも分からないように死にたいんだ」と語ったのを強く覚えているという。
 事実、70年代初頭から彼女の行方はようとして知れない。(大畑)

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2008年4月25日 (金)

東京駅・大宮駅コインロッカーバラバラ事件

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1987年12月、東京駅八重洲口のコインロッカーから腕などの遺体が複数の袋詰めにされて見つかった。この事件は翌88年1月17日、埼玉県大宮駅のコインロッカーから胴体が見つかり、同じコインロッカーが遺棄現場だったことや両遺体が同一人物(男性)と断定されたことから一挙にヒートアップ。都県をまたいだ凶悪で特異な事件に当てはめられる「警察庁広域重要指定事件」になり得る「準指定」とされた。ちなみに直近の指定事件は87年9月の赤報隊事件だった。この事件は犯行声明で私のいた毎日新聞も(朝日と)同罪などとあったため支局そばにパトカーが常駐して警戒するなど異様な雰囲気が立ちこめていた。

「広域重要指定事件」は都道府県境をまたぐ場合に適用されるので凶悪犯罪がすべてそうなるわけではない。しかし広域で同一とおぼしき犯行がなされる以上、社会不安を招くという点で他の特捜本部事件よりもいっそうの警戒が必要である。それは報道側に立てば取りも直さず決して落としてはならない大ニュースをも意味する。

この事件で最も困難だったのはバラバラの場合に本人を特定する最も有効な部位である手首(指紋)と首が見つからなかった点である。したがってプロの犯罪ではないかと捜査当局も報道陣も当初から疑っていた。冷凍されていた痕跡も後に明らかとなってこの見方が強まる。プロの犯罪となれば誰の頭にも当然「暴力団関係者」のイメージがふくらむ。被害者が中年男性らしきもあって記者クラブでも最初のころは「きっとそうだろう」とうわさをしていた。
ところが日を追うにつれて捜査本部の調べで被害男性は「たくましくない」肉体だとわかる。別にその筋の人はたくましくなくてはならないという決まりはないし、被害者が「その筋」とは限らないから変ではないけれども暴力団同士の抗争の結果という推理は成り立ちにくくなってきた。またプロの手口としたら遺棄した場所が3日ほどで期限が切れる、つまり見つかってしまうコインロッカーというのが腑に落ちない。死後バラバラにされたのはほぼ確実で、見つかった死体から致命傷が見出せないのも困った。
非常に綿密で周到な遺棄方法だが遺棄した場所が間抜けというのはありうるのだろうか。結局のところ首や手首が見つからなければわからない点が多々あり、同時に事件の性質上どこかの駅コインロッカーで首も見つかるのではないかと憶測され、もしそうなったら大大ニュースである一方で発見されるまでは身元不明者の身体的特徴と照合するなど地道な作業にならざるを得ず、次第に捜査本部も情報ナイナイ会見が続くようになり事件は迷宮入りかとの心配が立ちこめてきた。

事件は予想外のところで解決をみる。1年以上たった89年10月、詐欺容疑で身柄を取られていた男性の押収物に被害者とおぼしき首が見つかり逮捕した広島県警などが捜査本部を設置し、首の切断面が東京・大宮の両遺体とほぼ一致するとわかるや殺人事件として捜査を開始した。広島・埼玉・東京へまたがる大事件かと沸き立ち、背後に日本一有名な広域暴力団の存在をうかがわせる傍証も出てきて「役者はそろった!」感が一時は立ちこめる。ところがその後の調べで被害男性は病死と断定された。加害者は詐欺師というお仕事がお仕事なので自らの店舗内で死去した被害男性の遺体処理に困っての犯行だったようである。

さて。事件としてはある意味で竜頭蛇尾だった東京駅・大宮駅コインロッカーバラバラ事件だが私には付随して起きたもう1つの死体遺棄事件が忘れられない。

大宮駅のコインロッカーで胴体が見つかった際、警察は当然のことながら捜査の一環として駅のロッカーすべてを調べた。つまり開けた。するとそこからほぼ白骨化した赤ん坊の遺体が見つかったのだ。この事件自体はすぐに解決する。遺体を預けていた母親が「大宮駅コインロッカーで胴体見つかる!」のニュースをテレビで知り、あわてて引き取りにきたところをお縄となったのだ。どうやら母親は産み落として失神、目覚めた後にまもなく男児が死亡していると知りロッカーへ隠した。
ただその詳報を知るに及んで驚くべき事実がわかる。最初にロッカーへ持ち込んでから発見まで実に約3年も経過していたのだ。前記のように駅のロッカーの使用期限は3日。つまり母親は約3年もの間2日か3日に1度ロッカーへ行ってお金を入れ続けていたとなる。その回数は単純計算しても360回は下らないはずだ。
何百回も我が子の遺体があるロッカーへコインを投じ続けた母親。時々ロッカーも変えていたというから人通りが少ない夜間などに訪れていたのだろう。そんな行動へ彼女を駆り立てたのは何だったのか。愛情?発覚への恐怖?習慣?どれとも言え、どれでもないような気がする。チャリンとかすかな音がすれば後3日、我が子の遺体はロッカーで眠る。その夜に母親は眠れたのだろうか。どんな心持ちでその音を聞いたのだろう。
そしてあの事件がなければ。つまり胴体の遺棄がなければ母親はその行為を続けていたに違いない。あれがなければもしかしたら今でも。となるとバラバラ事件は彼女を御用にした災厄といえる半面で救ったともいえる。それとも彼女にとってロッカー通い自体が救いだったのだろうか。それが救いであっていいのか。

胴体発見で大騒ぎしているなか県警記者クラブで先輩が「本当はこういうニュースこそ記者は追うべきだ」とぼそっともらした。その通りだと思った。(編集長)

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2008年3月31日 (月)

町田・保険金偽装殺人事件の現場を歩く

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 海で繁栄していた藻類などの植物が地上に進出して進化をとげるなか、生存競争の活路を求めて水に戻った植物の1つに浮き草がある。根無し草とバカにされるが、もっとも競争の激しい場を避け新しい環境で勝負する才が根無し草にはあったということなのだろう。

 1978年12月、クリスマスを2日後に控えた喧噪のなか「死んだはずの男」が逮捕された。
 事件は75年3月4日、人気のない東京都町田市の区画整理地で起きた。電柱に激突して炎上している車を新聞配達員が見つけ119番通報。火は消し止められたものの、焼け焦げた車から真っ黒な男性の死体が見つかる。この遺体について警察は、衣服や時計、血液型などから車の持ち主であり、消費者金融を営んでいたO(28歳)と断定した。ただ警察が単純な事故ではなく、事件として捜査を始めたのには訳があった。現場の状況があまりにも不自然だったのだ。

 まず電柱に追突しているにもかかわらずスリップ跡がなく、サイドブレーキまで引いてあった。またガソリンタンクが壊れて炎上するほど激しい衝突ではなかったことも判明。さらには後部ナンバープレートにわずかながら血痕が付着していた。
 しかも、その後の調べで「金の問題で人に会ったが、相手は三人も来てけんかした」(『毎日新聞』75年3月4日)と、Oが友人に電話を掛けていることがわかる。さらに彼は経営に失敗して多額の借金があり、金銭のトラブルが絶えなかったことも報じられた。
 当時の新聞には「激突死装った殺人?」や「殺して放火か」などの見出しが躍る。ただその後、両親を受取人としてOが多額の生命保険に加入していたことが分かり、保険金のおりにくい自殺を偽装するため他殺に見せかけたとの見方も出ていた。

 そんななかOの葬儀が済んで1週間後に、事件はひっそりと動き出す。Oの恋人だったY子(24歳)の勤務先に「おれだよ」とO本人から連絡があったのだ。ワナで車を盗まれたと話すOを信じ、事件から2ヶ月後、Y子は家族に置き手紙を残して家出する。Oの49日にしっかりと出席した後だったという。

Img_6622  その2人がひっそりと暮らし始めたのが小田原駅から海に向かって10分ほど歩いた2階建てアパート(写真参照)だった。現在でも同じ場所に建つアパートについて、地域住民は「あー、あのアパートね」と顔をしかめた。
「あのアパートの住民とは近所づきあいなんてないよ。夜逃げとかもあったし、外国人もいるし、とにかく何だか分からない人が住んでいるんだから」
 いまだに地縁が生きている地方都市に、ひょっこりと現れた忌避の地。2人はそんな場所に逃げ込んだ。現地で取材した限り、自分を殺して戸籍を失った男とその恋人は息を潜めて暮らしていたようだ。

 これだけ大きな事件の犯人なのに、近隣住民は彼らのことをまったくといいほど覚えていなかったのだから。2人が住んでいたアパートから道1本隔てた家に住む女性は、「(昭和)37年から住んでいるけど、(そんな事件も犯人も)知らない」と首をかしげた。古くから住む高齢者も多い土地だったが、犯人と同じ町内の住民なのに軒並み事件を知らない。ご近所の情報なら何でも知っていると教えられた家も訪ねたが、その女性も事件はもちろん新聞に掲載されたOの顔さえ知らなかった。「お役に立てなくてごめんなさいね」と本当に申し訳なさそうに話す口ぶりからも、ウソをついているとは思えない。

 結局、数時間取材して回ったが、彼らのことを覚えていたのはアパートの向かいで商店を営んでいる男性だけだった。しかも彼が見知っていたのはY子のみ。
「あー、あの事件ね。あのアパートに住んでいた人でしょ」
 事件の概要を説明すると、その商店主は大きくうなずいた。
「女は歩いているの見かけたことあったけど、男は近所でも誰も知らなかったよ。男が逮捕されたとき、こんな怖い人が住んでいたんだねーって話になったけど、そのときもたいして話題にはならなかったなー。
 ただオレはまだ遊んでいた時期だったからさ、バーで会ったんだよ。女は、この道の少し先にあるバーに勤めていたから」
 彼はY子を「静かでしゃべらない女」と表現した。
「横に付いて酒をついでくれたことはあるんだ。黙って酒をついでいたね。普通ならホステスは『キャーキャー』言うけど、話すわけでも歌うわけでもないんだよ。まあ、オレも近所の女だから、それほど話したくもなかったけどね(笑)
 ボインだけど、派手じゃなかったな。顔はかわいいってほどじゃねぇな。むしろ怖いっていうかキツネ顔だよ」
 24歳の普通のOLだったY子は、Oとの3年半の月日を沈黙のまま過ごしたようだ。彼女を知る商店主は、「やっぱり(酒場で)キャーキャー騒ぐような人じゃ(逃亡生活なんて)できないでしょ」と語った。

 一方、犯人のOは事件の1年後となる76年4月から近隣のゴルフ場に勤め始め、2年後の78年4月から正式な職員として採用されている。事件が起こった当時、会社の同僚が「彼は無口でおとなしい性格。店では貸出係を担当していたが、客の評判もよかった。自殺にしろ他殺にしろ全く心当たりがない」(『毎日新聞』75年3月4日)と語っているように、おそらくマジメに仕事をこなし、それが認められての正社員採用だったのだろう。逮捕時の報道でも、ゴルフ場の関係者は「Oは、酒はほとんど飲まず、車の運転もしたことがなく、不審な点はなかった」と『読売新聞』(78年12月23日)に語っている。
 ただし戸籍がなければ運転免許証を作ることもできないから、当然、車の運転はできない。ほかにも健康保険などの問題も深刻だったに違いない。その「不便さ」がOを逮捕へ導いていく。

 逃避行のほころびは、逮捕の4日前、12月18日に横浜県警にかかってきた1本の匿名電話に始まる。その年の5月に発生した殺人事件への情報提供という形で、「横浜市内のジャパン何とかという金融会社に勤めていた男が犯人ではないか。この男は戸籍をほしがっているというし」との情報が寄せられたのである。警察はこの電話から3年半前の事件にたどり着き、そこからOの恋人だったY子が不自然な失踪に注目し、小田原のアパートに踏み込む。

 逮捕後の供述によれば、Oは自分と背格好の似た作業員風の男に「家まで送ってやるよ」と声を掛けて助手席に誘い込んだという。その後、道路脇で小便をしているときに殴りつけて失神させ、自分の服や靴、時計など男に身につけ、ベンジンと灯油で車を燃やしたとされる。
 
 Oの根無し草の生活は、わずか3年半で終了した。おそらく、その最大の要因は彼の資質にある。
 そもそも自分ではけっして受け取ることのできない保険金を、殺人を犯してまでせしめようとしたのは最後の親孝行がしたかったからだという。また自らの葬儀の1週間後には恋人に電話をし、戸籍がほしいとなれば過去の素性を知る人物に連絡までしている。住まいとして選んだのも事件現場沿線の終着駅だった。
 すべてを完全に手放して生きられない男の限界が、この3年半という時間に見て取れる。つまり彼には根無し草としての才がなかったのだ。
 皮肉なことに彼が身代わりに選んだ男性は、そうした才能に恵まれていた。彼が誰だったのが、いまだに判明しないのだから。そして酒が入ってさえ、自らの素性を明かさなかったY子もまた、その手の才を備えていたかもしれない。
 結局、根無し草になれなかった男は、逮捕とともに熱望していた戸籍を取り戻すことになった。(大畑)

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2008年3月17日 (月)

駒込・幼女殺人事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
ブログでは明かされない新たな事実満載!!

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 1979年9月朝から取り調べを受けていた犯人は、午後5時過ぎに「申し訳ありません。私がやりました」と泣き崩れたという。

 事件が発生したのは逮捕の1ヵ月半ほど前となる7月28日。母親と駒込駅周辺のパチンコ店に来ていた3歳の幼女が行方不明となり、約200メートルほど離れたマンションの茂みで遺体となって発見されたのだ。母親が子どもがいないと気づいてから1時間半後の悲報だった。
 犯人はパチンコ屋の常連で被害者の子どもとも顔見知りだったらしい。彼女に声をかけて300メートルほど離れた自分のアパートに連れ込み、いたずらしようとしたところで悲鳴を上げられ、とっさに絞め殺したと自供した。しかも彼は10年前にも山口県で7歳の女の子を山林に連れ込み、同じように騒がれ絞殺していた。無期懲役の判決を受けたものの、犯行の5年ほど前に仮出所していたのだ。

 この事件の不思議さは犯行現場と死体遺棄現場の近さにある。連れ出したパチンコ店から絞殺したアパートまでが300メートル。その自室から遺棄現場までは200メートルしか離れていない。
 新聞報道によれば幼女を殺してから1時間ほど「死体を部屋に置いて始末を考えた」(『読売新聞』1979年9月10日)とのことだが、少なくとも逃げるために頭を使ったとは思えない。
 彼がこの地で幼女にイタズラしたのは初めてではない。近所では「小さい子どもにイタズラする中年男」とマークされていた。前科を考えれば、死体が発見された時点で容疑者になることは当人も分かっていたはずである。しかも前科は無期懲役。次捕まれば確実に死刑である。

 犯人が住んでいた住所に建つ古いアパートから死体遺棄現場まで歩いてみた。アパート前の細い路地を抜け、左折。右折すれば、すぐ本郷通りにぶつかる。午後9時半という時間を考えれば、まだ交通量の多いであろう本郷通りを避けたことは理解できる。

Img_6619_3  そこで寺を左に見ながら坂を下る。坂下の十字路をまっすぐ数メートル進めば、夜でも通行量の多い谷田川通りにぶつかる。ここも行けない。だからだろうか? 右に折れて10メートルほど進み、谷田川通りと斜めにぶつかる角のマンション脇の茂みに、犯人は死体を置き去りにした(写真参照)。
 近所に住む住民は当時の植木の様子について、「そういえば事件のときも今と変わりないわね。木もあまり大きくならなくて」と振り返る。写真に掲載したとおり、茂みと言っても容易に地面が見える。死体を隠すのに向いているとは思えない。事実、夜にもかかわらず遺棄から90分後に死体が発見されている。その時、死体には体温が残っていたという。

 死刑が嫌ならば、死体が発見されないようするしかない。そこまで余裕がなく、とにかく手元から見えなくしたかったならばアパートから数十メートル離れた旧古川庭園の奥に置く手もあったはずだ。アパートの荷物をまとめて逃走する時間ぐらいは稼げる。一応、石垣と柵はあるものの石垣は1メートルほど、柵も厳重ではなかった。3歳女子の平均的な体重13~15㎏を抱えていたとしても、入り込むことは難しくなかったろう。

 ところが犯人は死体を隠す努力さえせず、アパートから逃げることもせず、逮捕された。事件翌日の新聞は、近所に住む「幼児好き」を警察がリストアップしたとも報じていたから、自分への包囲網が狭まっていることは分かっていたに違いない。仕事も月10日ほどのアルバイトのみ。死刑を覚悟してまで続けたいものだったとは思えない。もちろん家族と同居していたわけでもない。
 結局、彼が事件隠蔽のためにした行動は、女の子を連れ出したパチンコ屋に出入りしないようにしたこと。犯行時に履いていたサンダルを使わないようにしていたこと。たったそれだけだった。

 犯人が死体を前に考えた「始末」とは、結局、自分のことだったのではあるまいか。欲望を止められない自分への始末を、座して待つことで手に入れたように思えてならない。
 重要参考人として警察に呼ばれたとき、彼はしばらく履いていなかったサンダルを身につけていたという。犯行現場に残された靴跡とサンダルが一致し、犯行の動かぬ証拠となった

 1999年9月死刑が執行され、彼は62歳の生涯を終えた。逮捕から20年がたっていた。

 事件現場周辺で2時間ほど声をかけまっくったが、彼を覚えている人など誰などいなかった。ただ死体発見現場の記憶だけを数人の老人が語った。それは29年の時間の重みというより、子どもの気しか引けなかった犯人の社会性を表しているような気がした。(大畑)

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2008年2月18日 (月)

金属バット事件の現場を歩く

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
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 犯行現場にほど近いトンカツ屋の女主人は、事件当日の昼に検死官が血の付いた白い手袋をカウンターにポンっと放ったのを鮮明に覚えているという。

Img_6588_2   1980年11月29日、神奈川県川崎市で起こった夫婦殺害事件は、翌日20歳の息子が逮捕され解決した。東大出の父と早稲田卒の兄を持つエリート一家で二浪の息子が金属バットで両親を殴り殺すという事件は、加熱する受験戦争を背景に世間を震撼させた。

 じつは犯人の一柳展也自身、高校まではエリートコースを歩いていた。進学校として有名な海城高校に入学。志望校も早稲田大学に置いていた。しかし高校進学してからの成績はふるわず、中の下といったところをウロウロ。現役時代には早稲田の法と商学部など5つの私立大学を受験するも全敗。一浪でも早稲田にくわえ2つの大学を受験したが不合格となった。

 犯行当日、彼はレコードを買うために父親のキャッシュカードで1万円を引き出し、父から怒られている。また母親からも「こんなことしていると、大学に合格できないわよ」となじられたという。その後、いら立ってウイスキーをあおっていた彼の自室に父親が入ってきて、「ドロボウを飼っておくわけにはいかない」と彼を蹴った。結局、これがダメ押しとなり、展也は午前2時半頃、両親を撲殺。外部の犯行に見せかける工作を施してから、翌朝、両親が死んでいると近所に駆け込んだのである。

 事件が起こった自宅は田園都市線の宮前平駅のほど近くにあった。東急が一括して開発した高級住宅街は当時、憧れ土地だった。それは事件から3年後にTBSで放映され話題となった『金曜日の妻たちへ』が、この沿線の新興住宅地を選んだことからもわかる。

 取材に訪れた金曜日の昼下がり、その一帯がいまだに「高給新興住宅街」だと知った。駅周辺を歩いている住民たちは皆おしゃれで、声を掛けてもにこやかに対応する。ただ「金属バット事件の取材だ」と告げると、誰もがにこやかな笑みのまま「全然知らないんですよ」と答え、きびすを返すのである。
「ちょうど越してきたばかりのころで、まったく覚えていないんですよ」
 そう語った高齢者の女性に「ありがとうございました」と挨拶し、数秒たってから「ところでここらへん大騒ぎだったでしょう?」と背中越しに声をかけてみた。すると、「そりゃもう、通勤客にまで取り調べしてましたからね」と振り向いて答え、一瞬しまったという顔をした。それでも、その女性はすぐに笑みを取り戻し、「でも、詳しく覚えていることは何もないんですのよ」と語り去っていった。
 面倒なことにかかわるのは、この地では禁物なのだ。
 
 こうした反応は、最初に話を聞いた二子新地の住民とは大きく違った。川崎の下町的な風土を残すその地で、古くから住む地元住民に私は丁寧に犯行現場を教えてもらったのだから。駅にしてわずか4つだが、その差は大きかった。

 それでもかなりの住民に声を掛け、やっと当時の思い出を語ってくれたのは、冒頭のとんかつ屋の女主人だった。犯行当日も店を開けていたという彼女は、犯行現場にいた展也と親戚からの昼の出前を頼まれている。
「事件があった日でしょ。ゾッとしましたね」と、彼女は当時を振り返った。その夜、展也は親戚の家に泊まり翌日には逮捕されているから、彼が自宅で食べた最後の食事は、この店のトンカツだったことになる。

 その女主人によれば、一柳家は夫婦をはじめ穏やかな気持ちのよい人だったらしい。展也が両親が死んでいると最初に知らせた隣人も、「あの日、展也君がウチに知らせに来てね」と店でしんみり話したこともあったというから、展也に極端に悪感情を抱いていたとも思えない。「一帯が同時に家を買って引っ越してきたから、隣組というか連帯感があったんですよ」と女主人の語る近所付き合いに、展也は犯行後もまだ参加していたことになる。

 犯行日、被害者夫妻は結婚記念日だった。そのため、いつもはお酒を口にしない母親からも司法解剖で少量のアルコールが検出された。おそらく結婚記念日を夫婦で祝っていたのだろう。
 夫婦仲もよく、憧れの土地に自宅を購入し、長男もエリート街道をひた走っている。そのなかで鬼っ子だったのが犯人の展也だった。彼がどんな大学を受験したのかは分からない。しかしエリートの枠組みを捨て、とりあえずどこかの大学に潜りこむぐらいは、海城出身の彼なら容易だったはずだ。しかし彼の家族に、そしておそらく彼自身にもそんな選択肢はなかった。結局、エリートの家庭に育った「鬼っ子」は、どんどんスピンアウトしていき、最後には自分をエリートの道に押し込めていた家庭を破壊した。

 そして事件を起こしたことで、彼は地域の鬼っ子にもなった。報道などで騒がれたことに嫌気がさしたのか、事件後、この土地を離れた一柳家のご近所も少なくないという。
「近所の人がタクシーで『宮前平』って言ったら、『あー、金属バットのところね』って言われて怒ってましたよ。『事件が起こって【金属バットのところ】になちゃった』って。だから、あの事件にはみんな触れたくないというかね」
 地域の声をトンカツ屋の女主人は、そう代弁してくれた。

 不倫の代名詞ともなったドラマ『金曜日の妻たちへ』は、新興の高給住宅街で暮らす家庭の抱える見えない危機をあぶり出した。まったく違う形ではあるが、一柳展也もまた「金ツマ」と同じ環境で、エリート家庭が抱える危機を表面化させた。だからこそ犯行現場一帯では、いまだに事件がタブー視されているのだろう。

 かつて惨劇があった家は取り壊され、今はしょうしゃな洋館が新築され新しい住民が住んでいる。ただ、坂の高低差を利用して作られた、地下駐車所だけは当時の写真のままだった。家の土台に当たる部分だけに、手を加えるわけにはいかなかったのだろう。住民の記憶と同様、すべてを塗り込めるわけにはいかなかったようだ。

 犯行当日に一柳家から出前を頼まれた女主人は「こんなときでもお腹が空くんだな」と思ったというが、きっと生身の人間なんてそんなものなのだろう。
 食って、寝て、生きてさえいればいいんじゃない、と片意地張らず生きていければ、展也もここまで追いつめられることもなかったはずだ。せめて住環境ぐらい気楽な場所だったらと思わずにはいられなかった。(大畑)

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2007年10月 8日 (月)

現役警官・女子大生殺人事件の現場を歩く

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Kyoudou1 「事件のあと、建物は取り壊されたと思いますよ。だってそんな、気味悪いでしょう。アパートの他の部屋にはまだ人もいたと思うから、すぐに壊されたということではなかった気がするけど。アパートを取り壊した後は荒れ地みたいになってましたよ。猫がたくさん集まって集会場になって」
 主婦は丁寧な言葉遣いで話す。どことなく総理大臣補佐官の中山恭子氏を思わせる口調である。主婦はその事件があった場所を眺めるようにして建つ家に住んでいる。
 事件は1978年の1月10日に起きた。
 午後4時過ぎ、東京都世田谷区経堂駅近くのアパート東荘の家主から、住人が死んでいると通報が入る。警視庁捜査一課と北沢署が調べたところアパート1階で女が下半身裸の状態でベッド脇に俯せになって倒れているのが発見された。首にはナイロンストッキングが巻き付けられていた。被害者は清泉大学に通う22歳の女子大生だった。
 第一発見者は経堂駅前派出所勤務の20歳の巡査。パトロール中に女性の悲鳴を聞いて駆けつけ、大家に110番通報するように頼んだという。北沢署は殺人事件として捜査本部を設置するが、本格的な捜査が行われる前、その日のうちに犯人が判る。
 第一発見者である巡査。大家に通報を頼んだ後に通常の業務に戻っていたこと、ズボンや靴下に大量の血がつき唇にも傷があったこと、決定的だったのはガラスが割れる音を聞いた時間が周辺の住民と食い違っていたことだった。署が巡査を追及したところ、女子大生にはかねてから目をつけていたこと、騒がれたので殺したことを認めて泣き崩れた。女の死因は首絞めによる窒息死だった。

 先ほどの主婦の談。
「犯人が警察の人ってわかる前に、もう『あやしい』ってことになってましたよ。ここら辺じゃ。だって、奥まったところにあるアパートから通りまで、声なんて聞こえやしないでしょ。ほら、ここにアパートがあったの」
 現在、そこはアスファルトが敷かれた駐車場になっている。ほとんど空きはなく、運転手の乗っていない乗用車が整然と並んでいる。なぜかシルバートーンが多い。通りから見て駐車上の最も奥まった場所にアパートはあったという。手前側には他の建物もあったというから、たしかに声が届くには難しいかも知れない。

 巡査は同階の他の部屋の住居者が不在であることを確認し、巡回連絡を装って女子大生の部屋のドアをノックした。巡回連絡とは外勤の警察官が管内の家庭などを訪問して住居名簿の作成や不審者の有無の確認などにあたる業務をいう。
 殺害された女子大生が引っ越して来たときから気になっていたと巡査は述べた。引っ越してきたのは彼女が殺される1年半ほど前だった。鹿児島の高校を卒業後すぐに警察官になった20歳の巡査の歳を考えれば、どちらも経堂の町に長くは住んでいなかったことになる。

Kyoudou2  駅から歩いて3分もかからない場所に、女子大生に部屋を紹介した不動産屋がある。
 紹介した男性はまだ現役で仕事を続けている。30年前の女子大生の事件について聞かせてほしいと申し出ると、ああ、あの事件ねと読んでいた新聞を折り畳んだ。
「1月にあれが起きた。私は釣りが釣りが好きで、その日は釣りに出かけてた。帰ったら奥さんが『わたしは警官があやしいと思う』なんて言ってくる。なんのことか分らなかったね」
 見た感じは初老という言葉がしっくりくる男性だが、しっかりした体格の持ち主である。思い出す時間を長くとらずに当時のことについてテンポよく話す。
「いや、あのアパート、東荘は東(あずま)荘って言うんだけどね、あのアパートはすぐには取り壊してないよ。あれがあった後、リフォームして貸し続けたんだ。状況がああなだけに、北沢署の職員さんと相談して費用を負担してもらって」
 取り壊すどころか住居人たちは誰も部屋を引き払ったりしなかったという。それどころか殺人が起きた部屋で住みたいと申し出る者も現れた。
「3人くらい来たかなあ。そういう事故のあった物件を知らせるようなネットワークみたいなのがあったんだと思うけどね。事件があった部屋だから安くなるだろうなんて言ってきたけどね、冗談じゃないって言ってやったんだ。その頃は4畳半の物件は空きがあればすぐ借り手がつくような状態でね。リフォームもしてあることだし、事件前の値段より高い家賃で出した。それでもすぐに借り手がついたよ。事件があったのが1階。その部屋と真上の2階の部屋で友達同士で入ってたっけな」
 事件のことで印象に残っていることは何か、とたずねると意外な答えが返ってきた。
「当時はやっぱりすごい世間で騒がれた事件だったんだ。あの警官が駅前の派出所に勤務してたってことももう、たくさんの人が知ってる。で、駅を通るロマンスカー(小田急電鉄の特急列車。新宿などから箱根に至る)がちょうど派出所の前あたりでいつも減速していたけど、あの殺人事件があった後はしばらく、減速するたびに、あれがあの派出所だって中の乗客が指さしてたな」
 事件後、東荘は10年ほど貸し出され続けた。建物のオーナーである女性が亡くなり、学生が選ぶ部屋も4畳半からより大きな部屋へとニーズが移ったこともあって東荘は取り壊された。
 勤務中の警察官が殺人を犯すのは警視庁始まって以来の出来事だった。当時の土田国保警視総監に減給が科せられるなど警視庁幹部複数が処分された。

 東荘があった場所、シルバーの乗用車が並ぶ駐車場にしばらく立っていた。頻繁に人が出入りする駐車場でもないらしい。近くにはどこにでもあるようなアパートが建っている。アパートのどの窓からか、アンジェラ・アキの曲が流れている。(宮崎)

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2007年10月 1日 (月)

板橋・管理人両親殺害事件の現場を歩く

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Ita1  2005年6月20日午後4時40分ごろ、東京都板橋区成増にあるマンションで爆発が起こった。
 マンションは中堅ゼネコンの社員寮として使われており、爆発が起こった半地下にある部屋にはマンションの住み込みの管理人である夫婦が倒れているのが発見された。2人は病院に運ばれはしたものの間もなく死亡した。
 2人には外傷があった。夫には首などに数箇所の刺し傷、頭部には鈍器で殴られた跡があった。捜査上で、それが8kgの鉄アレイによるものであることが判る。妻には胸などに数十箇所もの刺し傷があった。
 爆発装置としてタイマーつきの電熱器が見つかり、元栓が開けられたまま台所のガスホースは切断されていた。床には灯油も撒かれていた。2人を殺した人物は、タイマーでセットされた時間がきた瞬間に部屋に充満したガスが引火し、殺人の根拠となる傷を消せると考えた。

 夫婦を殺害したのは都立高校に通う当時15歳の彼らのひとり息子だった。3人は03年から成増の社員寮で暮らしていた。少年の父親は96年から給食業務受託会社の派遣社員として働き始め、この社員寮が3軒目だった。
 事件発覚後、行方が分からなくなっていた少年は2日後の22日、群馬県草津の温泉旅館で保護される。
 Tシャツとジーンズにスニーカーの姿で旅館にやって来た少年は台帳に偽名、自宅近くの住所を書き込んでいた。両親を殺し電熱器のタイマーをセット、板橋の家を出てからまっすぐ草津に向かったわけではなく、池袋の映画館で『バットマン・ビギンズ』を観ているが、そのときの心境はどのようなものだったのか。

 警視庁捜査一課に保護・逮捕されたあと少年は両親を殺したことをすんなり認め、取調べによれば父親にバカにされたため殺してやろうと思ったこと、母親が「死にたい」と言っているのを見て殺そうとしたことなどを述べている。

 東武東上線の成増駅はいつ訪れても活気がある。私が通った大学はこの近くにあるので何度も来たことがある。駅の建物の中にスーパーや惣菜屋が並びその客が出入りするので、人の足が途絶えない駅、という印象がある。
 駅から南のほうに15分も歩けば、事件のあった社員寮にたどり着く。寮のすぐ近くに小学校があり、下校の生徒たちが連らなって学校から家に向かう。寮や学校のまわりは取り立てて特徴はないが全体として落ち着いた住宅街で、中流またはそれ以上といった感じの家々が並ぶ。
 当然といえば当然なのだが、静かな住宅街にと溶け込むようにして今もその社員寮はある。会社の名前が記されたプレートが玄関の入り口上にある。
 少年によって爆破された管理人室は道路から向かって左側にある。が、現在は黒い鉄製の柵が取り付けられ、その場所には入っていくことができない。

Ita2  社員寮に隣り合うような位置に旅行代理店があり、店員の男性がタバコを吸っていた。
「もう2年?か。それくらい経つか。ガス爆発の音は聞いたよ。ちょっとした休憩でね、店の外に立ってタバコを吸ってたんだよ、ここで、今みたいに」
 わたしとその40歳くらいの男性が立っている位置から社員寮はだいたい20mくらい。敷地を区切る塀があるので事件の舞台となった部屋は見えないが、寮の上階で干されている洗濯物が見える。
「ものすごい音だったよ。爆発の音なんて初めて聞いたけどね。煙がすごいんだけどどこが燃えてるのかははじめ分からなかった。僕と、ここ(店)のもうひとりが事件の第一発見者といえばそうなんだよ。すぐにテレビやなにやらが飛んできてね、店のトイレをどんどん使ってったね。ヘリなんかが10機くらい飛んでたよ」
 男性は少年に会ったことがある。
「あの夫婦の息子さんは会ったことがあるよ。まあおとなしくて普通の子だったけど」
 まったくの他人ではない身として、今後少年についてなにか考えることがあるか聞いた。男性はタバコをふかしながら、はじめてじっと考え込んだ。
「罪は償うべきだし、償ってほしい、とは思う。更生っていうのか、そういう風に自分を見直したり、そういうことをしっかりしてほしいと思うね」

Itabashi2  同じように現場と隣接する戸建て住宅のある主婦は、事件の数ヶ月前にこの場所に引っ越してきた。爆発が起こったとき、この主婦も家にいた。
「音、というか振動がすごかったです。ただもう、驚きでした。引っ越してきたばかりで周りのことも知る前だったんですけど、あのご夫婦も、男の子も、どちらも、なんていうか、可哀想なことになったっていうか。面識はなかったんですが、お線香はあげさせてもらいました。引越しをしようとは思いませんでしたよ。だって、(家を)買ったばかりだったから」
 女性は、よく考えて言葉を選ぶようにしながら話してくれた。事件のことを頭の中で整理して話しているようにも見えた。
「町内会では、男の子の刑を少なくすることを求めるものか、内容はハッキリ覚えてはいないんですけど、そういう署名の運動なんかも起こってたと思います。こんなことになるなら、もっと地域で支えることがあったんじゃないか、というのがこのあたりの中でも言われたりしてました」
 今でも事件を思い出すことはあるという。どういうときにという具体的なものはないが、脈絡なく思い出すことがあるという。

 06年12月の一審判決では東京地裁が懲役14年を言い渡している。2000年の少年法改正で刑事罰適応年齢が16歳以上から14歳以上に引き下げられており、この裁判でも少年に刑事罰が課されるのか、それとも保護処分に付されるかが注目された。今年9月(先月)、東京高裁で控訴審公判が行なわれ、その場で弁護側は保護処分を求めている。12月に高裁の判断が下される。(宮崎)

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2007年9月19日 (水)

井の頭公園・バラバラ殺人事件の現場を歩く

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Ino3  1994年4月23午前11時ごろ、三鷹署に「ビニール袋に入った人の足のようなものを見つけた」と届け出があった。
 署員が駆けつけたところ、井の頭公園のゴミ箱からバラバラに切断された遺体が見つかった。最初の発見者は清掃員の女性だった。清掃員はこの日10人程度。ゴミ箱のごみを集め、園内の収集所で分別作業をしていた中、そのビニール袋が発見された。黒いビニール袋に入れられ、さらに白い袋に包まれていた。特殊なねじり方をするなどして固く結ばれていたビニール袋を破くと、中から人間の足が現れた。

 3日後、被害者が公園から100mの距離に住む建築士の男性(当時35歳)であることが分かる。バラバラになった遺体から身元が割り出されるまでにはわずか3日間だったが、犯人、殺害の動機などについては現在に至っても分かっていない。4月21日の午後11時ごろに新宿駅で知人と別れたのが、生前の被害者の最後の足取りとなっている。
 5月には三鷹署が被害者男性の顔写真つきのビラ1万枚を用意し、吉祥寺駅を中心に配布して情報提供を呼びかけた。6月の終わりには園内の池の中に遺体が捨てられている可能性があるとしてスキューバ隊が投入されての本格的な捜査までが行われている。

 遺体の処理方法が異様に洗練されていた点でも注目された事件だった。最終的に見つかっている遺体は合わせて27部位。司法解剖にあたった杏林大学の法医学者は、遺体がきれいに洗われ、すべての血液が抜かれていることに驚いている。血液をきれいに抜くにはある程度の知識が必要とされるという。さらに異様だったのは、見つかっていない頭部と胴体以外、遺体のすべてのパーツが20cmの大きさに切りそろえられていたことだった。20cmとは井の頭公園のゴミ箱に丁度の大きさで入るサイズでもあった。
 事件前日に吉祥寺駅前で被害者と見られる男が2人組の男に殴られているところや、ポリ袋を提げて歩く2人の男について目撃情報が寄せられたが犯人の特定には結びついていない。カルト教団説、快楽殺人説、さらには人違い殺人説の可能性までがまことしやかに語られたが、真相は、犯人を除いては誰ひとりとして知られていない。

 この事件の過去の記事や資料を読み進めていくにしたがって、腑に落ちないものが大きくなっていった。
 遺体をまったく同じ大きさにカットし、指紋、掌紋を削り、血をきれいに抜き取るという入念さと、井の頭公園のような場所に遺体を捨てていく神経の在りようとが反発し合って重ならない。
Ino1  井の頭公園がどのような場所かを述べておく必要がある。
 東京都武蔵野市にあり吉祥寺駅から歩いて10分ほどの距離にあり、正式名称は井の頭恩賜公園という。大正2年に日本で最初の郊外公園として計画的に整備され、中央にある井の頭池を囲む敷地はテニスコートや「三鷹の森ジブリ美術館」を含めると約38万平方メートルに及ぶ。数字だけでは想像しにくいかと思われるが、公園まわり歩くと大人の足でも優に1時間近くはかかる。休日は多くの人が集まり、レジャーシートを敷いて食事をするグループもある。親子連れがやって来て井の頭池のボートに乗る、そんな公園である。
 精緻な作業を人間の遺体にほどこすような犯人が、なぜ人が大挙して押し寄せるような公園にそれを捨てていったのか、理由が分からない。

 井の頭公園に足を運んだ。
 休日であることもあり、園内は多くの人で賑っている。吉祥寺駅から最短距離にある入り口のすぐ脇には野外ステージがある。ベンチに大勢の人が座っている。
 音楽が聞えてくる。モーツァルトの有名な弦楽曲だ。音大生かと思われる男性4人が、30人ほどの聴衆を集めている。今年1月から「井の頭アートマーケッツ」の名のもと、露天や楽器演奏、大道芸などを登録さえすれば公園内で行なうことができるようになった。これは表現や交流の場として公園を使いたい者と、その周りで暮らす近隣の立場を考えた折衷案のようである。許可制にすることであくまで適正な公園運営をするという姿勢だ。モーツァルトを通り過ぎると、今度はブルースの弾き語りの歌声が聞こえてくる。野球帽を被った初老の男性がクラシックに負けじとしゃがれ声を絞り出し、井の頭池を向いて歌う。池にはたくさんのボートが浮いている。観光地によく見られるようなアヒルボートにはカップルが乗り込んで、気ままに池の上を遊泳する。
Ino2  野外ステージから東側にかけてはアクセサリや絵葉書など様々な露天が連なる。天気がよく、多くの人が散策するように歩く。遺体が発見されたゴミ収集所は、そんな野外ステージのすぐそばにあった。コンクリートのレンガで作られた薄暗い収集所の中には、ペットボトルなどゴミを満載した袋が高く積まれていた。
 バラバラになった遺体はほとんどが池の周りに複数設置されていたゴミ箱から見つかったが、今はゴミ箱はひとつも残されていない。殺人事件があったから、ではなく園内のゴミの多さが問題となり、来園者にゴミを持ち帰ってもらうことを見込んでのことであるという。

「ああ、あれね、まだ解決してないんでしょ?」
 と公園にある管理所の職員は言った。やけに事件から距離のある物言いなので不思議に思っていると、職員の男性はこう続けた。
「もう、事件当時の人なんて残ってないよ。ほら、ここにいるのは都の役人だから、3年かそこらでみんな他に移っていくんだよ」
 ゴミ箱が取り除かれた今では、発見当時の清掃員も当然いない。
「ゴミ箱はもう置かれてないんだけどね、あの集積所にあるのは来た人が勝手に捨ててくゴミ。ものすごい量だよ」
 今となっては事件に興味がない、というわけでもないようだ。だが、その痕跡などは当然残っていない。日々やるべきことも多い。
 07年現在、この未解決事件は公訴時効まで2年を切っている。三鷹署の5名程度の小さな所帯、強行犯捜査係が他の多くの継続捜査と共にこの事件を扱う。電話では捜査の情報など聞くことはできなかったが、署員は丁寧な口調で言った。
「どんな情報でもいいので、何か知っていることがあればお願いします」
 そう思うことは節度を欠くのかもしれないが、まるでドラマの台詞のように感じた。
 事件の翌年には被害者の父親が書籍『心事の軌跡』の中で、息子を失った父親の心情、捜査員とのやりとりなどを記している。事件を風化させないでほしいという願いを込めて同書は書かれたが、公園に事件を知る人は少なく、園内のあのゴミ収集所近くにある音楽や人々の表情からも事件の記憶は読み取ることができない。(宮崎)

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2007年9月10日 (月)

岩の坂・もらい子殺し事件の現場を歩く

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 岩の坂。
 旧中山道は日本橋を起点とし、武蔵、上野、信濃を経てはるか京都に通じた。旧中山道で最も江戸に近い宿場町である板橋宿が廃れた後、岩の坂と呼ばれたスラムが明治の中ごろから昭和の初期ごろまで板橋に存在した。日本橋から10.6キロの距離である。
 突然に宿場町が廃れたのにはもちろん理由があった。明治16年に開通した中山道付近を通る鉄道が板橋宿近くには通らずに王子・赤羽方面に通ったことで、宿町は火の消えたように静かになってしまったという。それに翌年17年の板橋の大火事で宿場としての機能はほとんど失われてしまった。その苦境に面し、旅籠業者が貸し座敷に転業し、トンネルのような長屋ができはじめた。

 もともと江戸時代から、嫁入りの行列がその前を通ると必ず不幸が訪れると恐れられた縁切榎(えんきりえのき)などの存在もあり岩の坂は疎んじられる要素もあったが、悪評が決定的になったのはかの“もらい子殺し事件”が発覚し、地域の生活ぶりが伝えられてからだった。
 もらい子殺し事件とはどのようなものだったのか。
 昭和5年(1930)4月、岩の坂に住む小川きく(当時35)が、もらい子である生後一ヵ月の菊次郎を誤って乳房で窒息死させたとして近くにある永井医院にやって来た。が、その菊次郎の死因に疑いを持った医師が板橋署に届け出た。
 菊次郎はもともと別の女性が出産した子だったが、その女性の夫が失職している身分でもあり、「大事に世話するから子をひきとる」とのある女性からの誘いに応じて子を手放した。当時の新聞によれば引き取り代の18円と「着物をたくさん」も一緒に女性に渡した。
 しかし、その女性は岩の坂でも「もらい子周旋人」として名高い福田はつに10円で子どもを引き取らせている。しかも、金の一部で女ばかりでさわぎながら酒を飲んでいた。まるで下請けの原理で子どもが引き取られ、その子は数日のうちにろくに面倒も見られることなく死んだ。
 この事実が発覚後、板橋署はなんとこの村の全員検挙を断行。調査ののち、岩の坂一帯に住むもらい子(生き延びたもらい子)が300人~400人にのぼることが分かった。
 岩の坂ではもらい子を引き取るかわりに金をもらう、ということがネットワーク化されていた。少なく見積もっても30人のもらい子がなんらかの死因で亡くなっていることが分かったが、それが実際に近い数字であったのかは現在ではわからない。

 昭和のはじめごろ、板橋第三尋常小学校では貧困児童を集めての入浴を実施していたというから、その貧しさは公然と知れていた。昭和初期の岩の坂に住む人たちの職業はどのようなものだったのか。東京市(当時)板橋区役所が昭和11年に編纂した『板橋区岩の坂 ~特色ある貧民部落~』によると、職種は人夫、屑屋、納豆売り、遊芸人、ゴム靴直し、雲助、たわし売りなど。以前岩の坂で取材をした際、昔のことを知る人が「たわいもないものだけど、芸を売り物しているオバアサンなんかがいた、巣鴨あたりまで芸を売りに行ってた」と言うのを聞いた。ただ、昭和11年の時点では木賃宿は14件にまで減っていたから、70歳前後に見えたその話の主が見たものも岩の坂の末期の末期的な光景だったのだろう。

 今回、もらい子殺し事件の現場を歩こうと決めていたが、事件を調べるうちに厳然とした「現場」は存在せず、一部の住民たちのネットワークの中で生まれたもらい子殺し事件だったということが分かった。
 都営三田線の板橋本町駅から歩いて5分足らずでその一帯に至る。今日も岩の坂のなだらかな勾配の上では市井の人が通り過ぎたり自転車が駆け下りたりする。こんな言い方はおかしいかも知れないが、普通に商店街の祭りの準備も進められている。
 祭りの準備をずうずうしくも邪魔して、岩の坂について聞きたいと話しかけてみる。ここがむかしは岩の坂と呼ばれていたことを知る年配の人は簡単に見つけることができたが、もらい子殺し事件を知る人はいない。
 当時の新聞記者がドン底生活に驚いた、という町並みは跡形もない。
 ただ、もらい子が300人いたというのは事実なわけで、そのことをふと思い出してみると、坂ですれ違う老人たちがかつての“もらい子”である可能性は十分にありうるのだな、と考えたりする。無礼を承知で書けば、この一帯をしらみつぶしに探せば、どこかで得た金を使い、路地の奥まった家で女ばかりで酒をかっ食らっているところに出くわすことができそうな気さえしてくる。(宮崎)

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2007年8月13日 (月)

西巣鴨・子ども置き去り事件の現場を歩く

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Nishi  1988年7月18日の朝、東京都豊島区のあるアパートの大家から巣鴨署に「家賃が滞納になっている部屋に子どもだけが住んでいる」との届け出があった。
 巣鴨署員と福祉事務所の母子相談員が訪れた後、この「西巣鴨置き去り事件」が発覚する。母親(40歳)が同年1月から家を空けたまま行方知れずになって帰らず、長男(14歳)、長女(7歳)、次女(3歳)の3人の子どもだけがマンションの1室で暮らしていた。巣鴨署員が家の中を見てまわったところ、押入の中からは1歳ごろの赤ん坊の腐乱死体が発見された。赤ん坊は母親が家にいたころに死んだが、死亡届けも出生届けもされないまま押入に入れられていた。子どもたちは出生届も出されておらず、当然学校にも通ったことはなかった。

 母親は生活費約20万円を置いて去ったあと半年以上、このマンションに帰っていなかった。生活費は現金書留などがたまに送られてくる程度だった。
 発見された兄弟は全部で3人だったが、赤ん坊以外にもうひとり2歳の女の子がいた。女の子は4月、「おなかがすいた」と騒ぎ出したため長男と中学1年生の友人3人に殴られるなどしているうちに意識を失い、その日か次の日あたりに死んでいる。遺体は長男が埼玉県秩父市の羊山公園にある雑木林に埋めていた。

 発見されたとき、2人の女の子はキッチンで毛布にくるまって眠り、長男は電熱器でみそ汁を作っていたところだった。ガス、電話は止められていた。部屋は異常な臭気で満たされ、トイレのドアの外まで大便が転がっていたという。
 生肉や生米を食べ、電気・ガスも止められ、水風呂に入って生活していた。3歳の次女は栄養失調状態だった。
 母親は高校時代から歌手を目指していて1966年にはデビューもしている。しかし人気が出ることはなく約2年で辞めている。20歳のころ駆け落ち同然で一緒になった最初の結婚相手は事件発覚の10年ほども前に借金を作って蒸発していた。実家とも絶縁状態だった。その後はデパートで洋服の販売をしていた。
 失踪後は新しい男のもとにいて子どもを見捨てたことになるが、保護・逮捕された後、長男は「おかあさんはどうなるのだろう」と言うなどして母親をかばったという。

 発覚当時は隣人のことさえ分からない、興味がないという「大都市の病理現象」などと報道された。
 同じマンションに住みながらなぜ気付かなかったのか、という非難やいやがらせが他の住民に押し寄せられ、引っ越していった世帯もあった。その一方で子どもたちへの励ましの手紙やおもちゃ、送金も全国から相次いだ。

 この事件は04年公開の映画『誰も知らない』(是枝裕和監督)のモチーフになった事件としても知られる。
 映画の中で長男役を演じる柳楽優弥が、川沿いを歩いてコンビニに買い出しに行くシーンが頻繁に見られるが実際にはコンビニは彼らが暮らしたマンションの1階にある。
 JR大塚駅から10分も歩けばそのマンションにたどり着く。かなり車通りが激しい通りに面している。マンションの中に入るとすぐステンレス製のポストと階段がある。建物の中は薄暗く、通路のリノリウムを歩くと急速に温度が下がったのを感じた。
 置き去りにされた子どもたちがいた部屋の鉄製のドアの前に立つが、中に人はいないのか廊下には物音ひとつ届かない。現在は有限会社が部屋を使っているようである。
 1階のコンビニは事件当時から現在までずっと「ミニストップ」である。部屋の配置からするとコンビニの真上に彼らの住んだ部屋がある。当時のコンビニの店長と長男は顔見知りだった。どんな頻度で店を訪れていたのかなどは分からないが、買出しで訪れる店の店長と顔見知りであるのはなんら不自然ではないように思える。事件発覚当時の新聞記事を見ると、男の子とは顔見知りだったが子どもだけで状態で暮らしているとは知らなかった、という店長のコメントが載せられている。このコメントを読んで、本当だろうか、と私は首をひねった。置き去りにされていた期間は半年以上なのだ。半年あれば髪が伸び、洗濯機も使えない状態で衣服はよごれていったはずだ。まったく少年の置かれた境遇の「異変」に気づかなかったとは少し考えにくい。

 そのコンビニに入った。なんの変哲もない普通のコンビニだ。雑誌が置かれ、ティッシュなどの家庭用品おにぎりや惣菜が置かれ、お菓子が置いてある。ミニストップチェーンの特徴で、店内で飲食できるようにカウンターとスツールがいくつか置かれている。何組かの親子がスツールの大半を陣取っていて、幼稚園くらいの女の子たちが騒ぎながら「ハロハロ」を食べている。
 店内にひときわ元気な女性の声が聞えてきた。50歳から60歳あたりの女性で仕事には完全に慣れているようだった。話してみるとやはり開店当時から働いているという。おそらく店長の奥さんなのだろう。
「置き去り事件……。そりゃあね、覚えていますよ。どんな男の子だったかって? どんな子かって言われてもね……。普通の子ですよ、特に明るいとか暗いとかはなくて、普通の子」
 子どもたちは警察に保護された後、しばらくして長男は学校に通いだし、妹たちは擁護施設などに引き取られていった。
「男の子は(事件のあとは)もう、ここに来たことはないです。今はどこにいる、どうしている、って人づてに聞くことが前はありましたけど。もう聞くことはないです。やっぱり、気になりますよ。どうしてるのか。もういいですか。あまりもう喋らないようにしてるんです」
 気丈な感じで話しながらも女性はやんわりとそう言った。20年も前のことだからなのか、どこか懐かしんでるような印象を受けた。

 保護者遺棄などに問われた母親は、東京地裁の判決公判で「愛人と同棲するため、4人の子どもを見捨てるという無責任で自己中心的な犯行」と断じられながらも、子どもの引き取りを決めていることが判断材料とされ、執行猶予付きの懲役3年の温情判決が言い渡された。
 裁判官は公判の場でこうも言っている。「幼い子にとって、母親の存在がいかに大切なことか。早く子どもを引き取れるよう最前の努力をしなさい」。
 
 映画『誰も知らない』では、家の近くをモノレールが走っているが、実際マンションの近くを走っているのは都電荒川線である。マンションのほんの20メートルほど先には区立の保育園があり、中から聞こえてくる声がけたたましい。都電のゴトゴトとくぐもった響きや園児たちの喚声がマンションに聞えていたのかは分からない。
 夜にマンションのあたりを訪れてみると、昼には分からなかったがコンビニの光がとても強いことに気づいた。有限会社が入っているはずの部屋は暗いままだ。
 周辺には大小のマンションが立ち並んでいる。その中の1室に子どもがいようがいまいが誰が気にかけるというのか。むしろ隣人の生活を気にかけるということが異常なことに思えてくるのが都会の生活の常態であるらしい。生活はそれぞれの窓の中で完結している。(宮崎)

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2007年8月 6日 (月)

市川一家4人殺人事件の現場を歩く

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Iti1  1992年3月5日午後4時過ぎ、千葉県市川市のマンションの一室に当時19歳の少年が入っていった。カギは開いていて、少年は金を盗むために入った。
 少年は前年の91年の終わりごろから傷害や強姦など10件以上の犯罪にあたる行為を繰り返していた。すでにタガが外れていたが、2月には関わってはいけない相手にとうとうぶつかってしまう。女がらみのいざこざを起こして暴力団員から200万円用意するよう脅されていた。
 どうしても金を工面しなければならなかった。少年・関光彦が侵入した会社員・柳沢氏のマンションには適当に飛び込んだわけではなかった。前月2月にたまたま路上で見かけた柳沢氏の長女の自転車を乗っていた車で追突、その後、女子高生だった彼女を強姦している。そのとき取り上げた身分証に記されていた柳沢氏宅の住所に向かったのだ。
 侵入後、柳沢氏宅にいた柳沢氏の83歳の祖母を絞殺、次いで長女とともに帰宅した柳沢氏の妻の背中を5回突き刺して殺害、長女は殺さずに生かし、母親の死体を運ばせ、床の血を拭き取らせた。保母につきそわれて帰宅した長女の4歳の妹は別室に追いやり、関は長女を再度強姦。
 午後9時を過ぎて帰宅した柳沢氏を背中から包丁で刺し、預金通帳の在処を聞き出した。柳沢氏の会社にある通帳を取りに行くため長女を連れ出す。朝方マンションに戻ったあと、関は4歳の妹を刺し殺した。
 柳沢氏の会社で居残っていた従業員が、長女の行動について不審に思い警察に通報、警察官が駆けつけたところを逮捕された。一夜のうちに長女以外の一家4人が殺害された。
 関光彦が小学校4年のときに両親は離婚。何回かの転校、苗字の変更も経た。都内の高校に入学。1年次では進学クラスで700人中50~60番目の成績だったが、2年次になり荒れ始める。友人の女友達に近づいた他校の生徒を鉄パイプで殴ったあと退学。まだ新しい学年に上がって間もない5月だった。

 
 市川市、東西線行徳駅から15分ほどの距離にある事件の場となったマンションに向かった。
 行徳駅や隣の妙典駅や南行徳、このあたりの地図を見て違和感を覚えたのは区画があまりにもハッキリと整えられていたからだ。普通、街というものは真っ直ぐな道や曲がりくねった道が錯綜して区画は様々な形となる。が、この辺りはどの道も真っ直ぐで、区画は大半が長方形に整っている。年代は定かではないが、区画整理が行われた土地であるという。
 セミがひたすらやかましく鳴いている。駅を出て東京湾方面に歩く。行徳駅からは2、3㎞も歩けば東京湾に至る。地図で見たとおり、道が真っ直ぐに東京湾のほうに伸びている。どの道もひたすら直線に伸びているようみ見える。そして、湾の方向にはいくつもの巨大な4本足の鉄塔が建っている。
 赤と白のストライプの鉄塔に近づくようにして歩くと東京湾に近い川にたどり着く。駅から湾までの道は歩道も車道もゆったりと広く、水際までくるといっそう開けた土地のように思えてくる。白いボートがいくつも停まっている。釣りをする人たちが見える。明るい土地柄のように思えた。
 堤防を歩きながらマンションの住所を探すが、どうも位置がはっきりと分からない。ひたすらに暑い。40代くらいの恰幅の、どこか小沢一郎を思わせる風貌の男性に事件のあったマンションについて聞いた。小沢風も額に汗を浮かべている。
「ははぁ……、あの事件ね……。どこかって? ……知らない」
 こちらを真っ直ぐ見すえて言う。明らかに知っている目である。わずかな時間でどんなことを考えて応えたのか、私には知る由もない。男性から離れたすぐ後に、会話を聞いていたのか、夫婦でウォーキングしている夫の方が話しかけてきた。「一家のあの事件でしょ、あっちだよ、堤防のあの階段を下りて少し入って、右にある」。快活な口調で淡々と道順を教えてくれた。奥さんのほうは一歩引いてやりとりをじっと聞いている。明らかに、晴れた日に、明るい土地でされる会話としては似つかわしくない。
Iti2  現場のマンションの柳沢氏が入居していた8階まで上ると、通路から遠くまで景色が見渡せた。やはり鉄塔が目立つ街だ。鉄塔の下、大型マンションがいくつか並んでいる。その周りを小さな民家がうめている。
 事件のあった部屋には別の名前の表札がかかっていた。空き部屋になっていたりするのだろうか、と思っていたので少し驚いてしまった。部屋は新しい住人を迎え入れている。
 ふと声がするのでそちらを見ると、同じ階の2つ隣の部屋で、住人と工事の人があれこれ相談しながらサッシを修理している。修理が済んで工事の人が帰ってから、その部屋の住人に話を聞いた。
 部屋には品のいい印象の夫婦が住んでいた。主人に一家殺人事件のことをそれとなく聞いてみると、少し困惑しつつも、知らないわけがないじゃないかという感じで、知ってますよもちろん、と言う。驚くべきことに、当時からずっとこのマンションに住んでいるのだという。奥さんが言う。
「もちろん、あの事件はひどかったし、驚きましたよ。けれど、引っ越しをしようとかそういうことは思わなかったね。この部屋を気に入ってますからね、……まあ、そういうわけです」
 玄関から部屋の中を少しだけ見せてもらった。暑いとはいえこのマンションの多くの家が玄関の戸を開けてあるので不思議に思っていたのだが、玄関からまっすぐ突き当たりにベランダの窓があり、その窓から玄関にかけて、丁度いい風が通るのだということに気付いた。柳沢氏が住んでいた間取りとそう変わらないはずである。光が差し込んでフローリングの床が明るく光っている。

 事件から2年半後の後の94年8月に千葉地裁で関光彦に対して死刑判決が言い渡された。公判の度に足を運んだ彼の母親の前で判決は言い渡された。
 96年7月の控訴審でも被告側の控訴を東京高裁に棄却される。被告側は上告したが01年12月に死刑が確定。この国では20歳以下は「少年」扱いとなる。未成年を死刑に架すことの是非が問われ、刑の確定までは10年の歳月がかけられた。

 鉄塔が手をつなぐようにして立ち並ぶ街のもと、現場となったマンションでは多くの人が暮らす。建物の通路側には多きな公園が隣接している。セミが鳴きまくっている。夏休みで遊ぶ子どもたちの声もマンションに響いてこだましている。

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2007年7月30日 (月)

実在した貧民窟・四ッ谷鮫河橋を歩く

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Sa  明治期の東京には貧民窟が存在した。芝新網町、上野万年町、下谷山伏町、板橋岩の坂、四谷鮫河橋などが特に大規模なものだったが、小さいものまで合わせると東京全体で70にも及んだそうだ。
 今回は四谷鮫河橋付近、わずか約100平方メートル足らずの一帯に1370戸、5000人がひしめき合って暮らした場所に行った。

 鮫河橋は「さめがはし」と言う。今、地図を開いても鮫河橋は表記されていない。橋はすでに取り壊されてしまっている。鮫河橋の名の由来についてはいくつか説がある。江戸時代に日比谷あたりまでが海から続く入り江だったころ(これは事実)、四谷のこの橋にまで鮫が上ってきたことがある、というのがまずひとつ。同じく有力なのは、橋が跨いでいたのは水量が少ない川で、雨が降って増水したときにだけ使われる橋という意味で“雨が橋”と呼ばれていたのがいつの間にか“鮫が橋”になったというもの。いずれにしても定かではないという。あるいはその両方からきているのかも知れない。

 時代を問わず、ある場所での貧民窟の形成にはそこで食料を得ることができるという明確な理由がある。明治初期の鮫河橋の場合は食料の供給源として陸軍の士官学校があり、そこに隣接するようにして出来上がっている。陸軍の残飯を“残飯屋”が買い取り、それにマージンを乗せて住民に売りさばいていく。
 数少ない鮫河橋スラムに関する記述が収められた『四谷散歩』(安本直弘/みくに書房)によると、貧民窟があったのは鮫河橋坂を下った低い場所であり湿地でもあった。細民たちはそんな場所でバラックを建てて生活した。1370戸ものバラックである。
 何を糧にして暮らしていたのだろうか。『四谷散歩』によると人力車夫、土工、主婦はマッチの箱作り、たばこの紙巻きなどの内職に携わっていたという。

 四ッ谷駅を出てまっすぐ南に歩く。
 5分足らずで迎賓館を含む赤坂御所の広大な土地に至る。鮫河橋坂は赤坂御所の西側に沿うようにして走る坂で、現在新宿区と港区を分かつ境界線でもある。
 四ッ谷駅から向かうと鮫河橋坂を下ることになる。下りきった場所が貧民窟が存在していた地点である。
 ただ、それを匂わせるものは全く存在していない。おそらくバラック群があったと思われる場所には現在みなみもと町公園という公園がある。公園を道路一本はさんだ場所、最も低い場所に鮫河橋門という古びた門があるが、そこに地図上では皇宮警察という表記がされていて2人の警備員がいた。門は迎賓館に通じているようである。
 貧民窟があったことについて何か知っているかたずねようとすると、「ちょっと、その線から入って来ないで! なに、何の用?」と無意味に高圧的。それでも少しは取り合ってくれた。
「ここは鮫河橋門だけど、スラムがあったっていうのは聞いたことがないね。昔、小さな河があったっていうのは聞いたけど、それも今はもうないし……」
 警備員はこの辺りのことについてはそれほど知らないように思われた。
 いつごろにアスファルトで覆われたのかは分からないが、現在、鮫河橋の下を通っていた河は完全になくなったのではなく暗渠になっているという。そしてその小さな河にかかっていた橋もない。もともと5m足らずの板橋だった。
Sa2  貧民窟があったと思われるみなみもと町公園は半分がグラウンド、半分がベンチや遊具やモニュメントなどがありゆったりとしている。全体的にスペースにゆとりがあってこざっぱりとした公園で、木々も多く涼むのには丁度いい感じがする。
 赤坂御所と鮫河橋坂あたりは木が多く、セミの鳴き声がすごい。近くの会社にあるOLや会社員がぽつぽつ弁当を食べに来たりタバコをふかしにやって来たりする。だが、どの人にたずねてもスラムがあったことは知らない。
「10年ほどここで働いてますけど、そういう話は聞いたことないですねぇ」
 と30台くらいの会社員がじっくり考えたあと丁寧に答えてくれた。

 明治初期に貧民窟があったことは分かっている。さらにそれより前、江戸時代から「夜鷹の巣」としても有名だった場所である。ここでいう夜鷹とは私娼のことだ。通りかかる人たちに声をかけ、木材で作った粗末な仮小屋でことに及ぶ。鮫河橋あたりにいた私娼のスタイルはむしろを抱えた女だったそうだ。
 低い湿地に5000人以上の細民が暮らしていたが、どのようにして彼らがこの土地から消えていったのかは分かっていない。岩の坂や上野万年町は関東大震災でバラックが壊滅状態になったことがスラム街離散に繋がっているが、この貧民窟についていくつかの資料を残している新宿歴史博物館の資料でも、貧民靴の末期から離散の様子は分からない。
 鮫河橋付近にあった貧民窟の大きな特徴は、士官学校があったことともうひとつ、隣接するように赤坂御所があったという点だ。その場所に、江戸時期には徳川家の藩邸があり、明治期には徳川家から皇室に献上された。
 現在、赤坂御所には秋篠宮邸、三笠宮崇仁邸、寬仁親王邸があるが、明治期においても皇族の土地の目と鼻の先に貧民がたむろしているのは「きまりが悪かった」のではないかと想像する。

 ひとりの老人が通り過ぎた。貧民窟のことについてたずねると、
「いや、分からないね、分からない……。この近くに住んでるんだけども……」
 と照れた笑みを浮かべてそそくさと行ってしまった。しばらくベンチに座っていると、さっきの老人が遠くで蛇口をひねり、水浴びしているのが目に入った。クソがつくほど暑いとはいえ、シャツを脱いで上半身全部を水に浸した。もしかして公園に住んでる人なのではないか。水浴びした後に移動した先に荷物があるのでそう確信した。
 小学生がひとりで公園に遊びに来てグローブを取り出し、ひとりで壁打ちをしはじめた。ポコン、ポコン、という軟球の間の抜けた音が聞こえてくる。老人は公園の奥の影が濃いほうに移動していった。

 鮫河橋坂には皇宮警察とは別に交番があり、交番の脇に鮫河橋の「江戸名所図絵」が掲示されてあるが、もちろんここに貧民窟が存在したことについては触れられていない。
 鮫河橋スラムがどのような経緯で消えていったのかは分からないが、とりあえず公園には現代の貧民が住み着いている。(宮崎)

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2007年7月23日 (月)

18歳のライフル魔・渋谷で起こった銃撃戦の現場を歩く

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Aa 「狂うライフル魔 宵の渋谷の恐怖」
 この衝撃的な見出しが新聞に載ったのは昭和40年(1965)7月30日のこと。
 7月29日午前11時ごろ、神奈川県大和署に「猟銃を持ち歩く人がいてあぶない」との通報が入った。同署派出所の田所巡査が現場に駆けつけたところ、背が高くボサボサ頭、黒のシャツに網の目の手袋にライフルといった出で立ちの男が巡査のピストルを奪い、巡査を撃ち殺した。
 男の名を片桐操という。当時18歳である。
 片桐は巡査を撃ったあと制服も奪い、警官になりすまして通りかかった民間人の車を乗り継ぎ座間→町田→川崎→調布と移動。同日午後6時前に渋谷区北谷町にあるロイヤル銃砲火薬店に押し入った。片桐と店員は顔見知りでしばらくは凶暴なそぶりも見せずにふるまっていた。だがパトカーのサイレンが聞こえたと同時に女性店員を人質に取り、ライフルの弾を補充して銃砲店に立てこもった。
 内気で目立たない性格。知人からは「素直でおとなしい」との印象を持たれていた片桐は中学を卒業後に自動車修理工場で働いたがすぐに船舶会社に職替え。ただ、そのその職場も長くは続かずこの年の4月に辞めていた。おとなしくやさしい気質だったが、ライフルには異常な関心を持っていた。同年4月には満18歳になったのを期に貯金の3万円でライフルを買い、所持許可を取得。八王子の射撃訓練場には毎月通っていた。
 片桐についてある友人はこうも証言。
「人前に立つことは嫌いだが“オレはなんでもやる力があるんだ”という秘かな自身を持って目立たないところで腕を組んで笑っているやつだった」

 渋谷のロイヤル銃砲火薬店に片桐は立てこもり、店を取り囲んだ渋谷署員と武装した機動隊員の計600人ほどとの間で銃撃戦が起こる。片桐は150発以上を撃ちまくり、16人の重軽傷者が出た。近くを走る山手線に向かっても発泡、渋谷から池袋区間の運行がストップ。
 8時間に及ぶ市街戦の後、催眠ガスであぶり出されたところを取り押さえられた。当時の新聞によると「警察からも、報道陣からも、見物人の群れからもウズのような拍手が起こった」。

 当時18歳の少年と機動隊員が繰り広げた銃撃戦の現場に足を運んだ。
 昭和43年の住居表示変更があり、当時の北谷町は現在の渋谷区神南1丁目がそれにあたる。
 現場は渋谷駅から歩いてわずか3分の距離にある。当時ロイヤル銃砲店があった場所の近くで、50年も店を営んでいるきれいな白髪の女性に話を聞いた。小さな店舗で、現在は衣料雑貨を扱っているが以前は喫茶店だったという。
「40年も前になるんですか。まだその頃はこの辺りなんて全然店がなかったんですよ。この店がポツンとあって、あとは空き地だった。今では考えられないでしょう」
 現在、神南1丁目には目の前にマルイシティやタワーレコード、電力館をはじめ衣料雑貨店などが櫛比する。空き地だった時代というのは想像しにくい。
「あの事件、ライフル事件のこと、覚えてますよ。だって、ライフルの音がどんどん聞こえてきたんですもん。で、警察が急いで走り回ってて、危ないからシャッターを閉めて下さいって言ってきました。怖いからすぐ閉めました」
 ロイヤル砲弾店があった場所には現在、空調関係の小さな工務店が入っている。
 工務店の50歳前後と思われる女性は、35年前からその場所で営業していると言う。事件が起こったのは42年前なので、事件後7年ほどしてから移ってきたことになる。
「よくねえ、『弾を買いに来た』って言うお客さんがいましたよ。最近でも、4、5年前までは来てました。ここで商売始めたときにはまったく事件のことなんて知りませんでしたよ。でも、そういうお客さんがよく来たし、そういう話も聞くし、ここでそんなことがあったんだなあって思うようになりましたよ。砲弾を売るお店はここから移っていってまだこの近くで営業してると思いますよ」
 工務店にいたもうひとりの女性は、この話を聞きながら、ええ、そんなことがここであったの、と薄気味の悪そうな表情を浮かべた。

 砲弾店の向かいには当時から渋谷消防署がある。数年前に外装の改修工事が行われる前までは、片桐が撃ったものと見られるライフルの弾痕が消防署の壁にあったという。銃撃戦の跡は最近まで残っていたということになる。

 片桐操は昭和44年に死刑が確定、47年7月に刑が執行された。
 地裁、高裁において片桐の弁護側は心神耗弱を主張したが、本人は死刑を望んだ。地裁で片桐は「再び社会に出ることがあればまた銃を乱射しない、という自信はない」と述べた。(宮崎)

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2007年7月16日 (月)

練馬一家5人殺人事件の現場を歩く

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Neri  1983年(昭和58)6月27日、朝倉幸治郎(当時48歳)という名の不動産鑑定士が練馬区大泉学園町にある1軒の家に乗り込んだ。

 旧知の間柄とはいえ強引に家に入り、一家の母親をハンマーで撲殺、さらに1歳、小学校1年、小学校3年の子どもを次々と殺害。風呂場のバスタブにまとめて遺体を隠して家の主である白井明の帰りを待ち、帰ったところをナギナタで斬り殺した。その後、一家の死体をナギナタやノコギリでバラバラに分解。作業中に親族から連絡を受けた警察に踏み入れられ殺人容疑で逮捕された。
 長女を除く1家5人が一夜のうちに殺された。長女だけが偶然2泊3日の林間学校で家から離れていたため殺されることはなかった。

 犯人である朝倉幸治郎はかねてから「カッとするか何をするか分からない男」と言われ、実の兄弟を出刃包丁で刺したこともある一方、事件の近年では近所に住む主婦に「あいさつを欠かさない腰の低い人」とも見られていた。また、付き合いのあった人からは「筋を通さねばならない」性格とも言われた。

 白井一家が住んでいた土地624平方メートルは事件から25年前の1958年(昭和33)に白井妻の父親が地元の地主から買い取ったものだった。父親がこの土地と白井家の木造2階建ての家屋約140平方メートルを担保にして共栄信用金庫など銀行から借金。その借金を返すことができず土地は共栄信用金庫により競売にかけられていた。
 朝倉は1億600万円でこれを落札。すぐさま1億2950円の転売契約を結んで内金を受け取っていた。白井一家が立ち退かなければ転売契約不履行になり、違約金に加えて朝倉が払わなければならない銀行からの借金の利息が100万円に上る見通しだった。
 要するに、朝倉は白井家が立ち退かないことに相当な焦りを感じていた。逮捕後、動機については「建物の転売がうまくいかず、破産宣告されるのが怖かった」と述べ、また「白井に対しては骨まで粉々にしてやりたいと思っていたのですっきりした。しかし、女、子供まで巻き添えにしたのはすまないと思っている」とも述べた。
 白井側にも妻の父親からの借地権をタテにして引き渡しを拒み続けるなど落ち度はあったがその代償とはまったく釣り合わない惨事となった。

 現場は東京都練馬区大泉学園町6町目。1km圏内には陸上自衛隊朝霞駐屯地や大泉中央公園などがあるが、事件のあった家付近まで来ると国内どこにでも見ることができそうな、ごく普通の匿名的な民家が続く。若干、1件1件の敷地が広く思われたくらいだ。
 白井一家が住んでいた家を探すのに少し手間取った。行き止まりで繋がっていない道が少し多い。一軒の家を通りかかったとき、40~50歳くらいの良き父親風の人が出てきたのでたずねると、やはり一家殺人事件のことは知っていた。昔からここに住んでいる人だという。
「あの家はね、事件の後しばらくして取り壊されて駐車場になったんですよ。でも最近家が建ったんだっけなあ……。ちょっとそっち側に行ってないから。この区画の反対側だよ」
 言われたあたりを探すが駐車場は見つからない。しばらくして自転車に乗った初老の男性に話を聞いたが、この男性がはっきりと事件のことを覚えていた。口調もカクシャクたるものだ。
「こっちに来てみなよ。これがあの事件があった場所だよ」
 示された場所には見るからに新しい家が建っていた。よく見られる今どきの民家があった。
「当時はね、もっと木がワーーッとあったんだ。事件のあと、ほら、土地の権利とかそういうものが絡んでたのがあったからなのか、しばらく放って置かれてたよ。それが駐車場になって、つい何年か前にこの家が建ったんだ」
 もちろん今住んでいる人は事件を知らないだろうと言う。
 この男性が事件について明確に覚えているのは、白井明が殺される日、朝通勤時に彼に会っていたからである。
「朝、会社に行く途中、白井さんに会ったんでちょっとだけ話をしましたよ。何を話したかは覚えてない。どんな人? 温厚そうな人だったよ。次の日、会社から帰ってくるとき、ヘリが上空をバタバタ飛んでるし何となく雰囲気がいつもと違う。報道のヘリだったんだね。帰って妻に聞いて白井さんとこの事件を初めて知った。そりゃ驚いたよ。言葉もなかった」
 話を聞いてる間にも、家の中から楽しげにはしゃぐ声が聞えてきた。子どもがいるらしい。偶然、洗濯物を取り込む母親が出てきた。健康で明るそうなそうな人で、想像だが豊な家庭に思われた。

 犯人・朝倉には2001年に死刑が執行された。小泉政権下での初めての死刑執行だった。
 林間学校に行っていたため凶刃から免れた長女は現在母親になっている。1審判決は法廷で傍聴したが、最高裁での判決は育児で忙しいため来ることはなかった。(宮崎)

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2007年7月 9日 (月)

朝霞市の米軍基地「キャンプ・ドレイク」跡が公務員宿舎になる(下)

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
ただの書籍化ではありません。大幅リライトのうえ関西事件記事を加え、ニュージャパンのカラー特大写真も豊富にとりそろえています。
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33  はじめ国の公務員宿舎移設案では米軍跡地のうち15ヘクタールを用地にあてるという話もあった。しかし朝霞市の反発もあり、現時点では約3ヘクタールを使うことになっている。
 今回の計画以前の国の方針としては跡地を民間に売り渡すという案もあったが、結果的には公務員宿舎に落ち着いたということになる。

 住民の反応はどうか。かつて基地として使われていた土地で、米軍撤退後には公園として使われることになった青葉台公園でベビーカーを押した主婦2人連れに聞いた。1人は宿舎の計画を知っており、1人は知らなかった。
「あ、それ知ってますよ。なんか、公務員の宿舎ができるっていう。まあそんなに関心があるっていうわけじゃないけど、どうせ使うんならこの辺の住民が使えるようなものにしてほしいっていうのはあるかな」
「せっかく緑があるんだからもったいないっていうのはありますよ。できるならば残してほしい」
 美しい緑、というよりは鬱蒼と生い茂っていて中にあるものが見えないアヤしい雰囲気なのだが、それでも住民にとってはそれも慣れきっていて当たり前のものであるという。

 公園にほど近い商店の主人。
「今は国の土地だからね。僕らがどうこう言ってもしょうがない。ただ、できるのは公務員宿舎でしょ。建設が予定されているのは駅からかなり近い場所で立地がものすごくいい。そして新しい建物。公務員宿舎だから僕には入ることができないものであるわけ。だから、地元の人にしてみれば、あんないい場所にっていうやっかみみたいなのはあるかも知れないよね」
 なるほど、地元民ならではの意見である。さらに主人は続けた。
「グーグルアースで首都圏や朝霞の辺りを見れば分かると思いますけど、こんなに緑が残されている場所っていうのは東京近郊ではそんなに多くないんですよ。環境がどうこう言うわけじゃないけど、せっかく残っているんだから、これを切り崩すのはもったいないと思うよね」
22  改めてキャンプ・ドレイク跡のまわりを歩く。やはり広大な敷地で1周するのに30分近くはかかる。跡地に隣接する朝霞第一中学校の学生が部活のランニングで「ファイトー、ファイトー」と周りを延々と走り回っている。どうやら生徒たちは跡地の周りを走るのが日課になっているようだ。
 青葉台公園のテニスコート近くに来たとき、鉄柵の中に何か錆び付いたような金属の建物の一部と思われるもの(本日の1枚目の写真)が見えた。あれは何だったのだろう。このまま公務員宿舎の計画が進めば、あの謎の建物も消えていくことになる。25階と26階立ての高層官舎が朝霞に出現するのは遠くない。(宮崎)

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2007年7月 8日 (日)

朝霞市の米軍基地「キャンプ・ドレイク」跡が公務員宿舎になる(上)

人気シリーズ「あの事件を追いかけて」「ホテルニュージャパン 火災後の廃墟」は、2010年4月に書籍化されます。
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11  朝霞市にあるキャンプ・ドレイク跡地に国家公務員宿舎が建設されることが国、県、市の3者の間で大筋で決定した。
 06年には市民から選んだ100人のメンバーによる基地跡地利用計画市民懇談会が発足し、「自然を体験するための場所として活用」「防災の場合の避難地」などの意見が出た。また以前から市民を集めてのシンポジウムが開かれるなどあったが、それらの意見よりも朝霞市は最終的に国が提案した国家公務員宿舎移設案を選んだ形となる。国としては財政的な負担軽減のため23区内にある宿舎を郊外に移設したい方針であるという。朝霞市ははじめ公務員宿舎が近隣住宅に近すぎることなどから公務員宿舎移設に反対していたが、当初の超高層ビル構想が縮小されたこと、公園用地取得の財政負担が軽減できることなどを考慮し富岡市長曰いわく「苦渋の決断」の末、受け入れを決めたとみられる。
 計画通りであれば来年にも工事がはじまる見通しである。

 もともと米軍基地となる前のこの場所は、皇族・朝香宮鳩彦が名誉総裁を務めた「東京ゴルフクラブ」のゴルフ場閉鎖にあたり、1941年に市ヶ谷から陸軍予科士官学校が移設、また赤羽から陸軍被服廠が移設された土地だった。(「朝霞」はこの「朝香宮」にちなんでつけられた)
 1945年、敗戦直後の9月には日本軍に変わって米国第八軍第一騎兵師団の司令部、米陸軍第43師団が移駐、キャンプ・ドレイクと命名された。当然米兵たちが街に出ることもあったのでキャバレーなどができ朝霞の街の印象も変わった。1953年には在日米兵向けのラジオ放送、FEN(Far East Network/米軍極東放送)放送局がNHK第二放送から移設され、20年以上この場所を中心としてFENが運営された。
 ベトナム戦争時には野戦病院として膨大な数の傷病兵を受け入れ、多くが同キャンプ内の死体処理場へ運ばれていった。

 現在は国の所有地となっているキャンプ・ドレイク跡は朝霞駅から歩いて5分の距離にある朝霞市役所に隣り合うようにして残っている。といっても、何十年も放っておかれたのが一目でわかるほど野生的に生い茂った木々に阻まれて、中の様子はまったく分からない。
 広さは全体で16ヘクタール。広大である。それでも、米軍が撤退したあと少しずつ市が跡地を買い取ってきたという経緯があるから、米軍基地時代はさらに広かったということになる。
 それにしても、鉄柵に囲まれた基地跡地はなんともオドロオドロしい。日が沈んでからは絶対に入りたくない。廃墟マニアのウェブサイトに登場することもあるこの跡地だが、その写真も外観だけにとどまっている。
 朝霞市役所の職員によると、鉄柵の中には今でも米軍司令部があった建物の残骸があるという。
 基地跡にすぐ隣接する中学校の生徒ならば、侵入して探検してみたというタダシイ少年がいるのではないかと考えた。できるだけヤンチャそうな男子生徒2人を捕まえて、跡地に入ったことがあるかと問うてみると、
「……いや、ないっす、スイマセン。だって、立ち入り禁止なんで」
 という野心溢れない返事が返ってきた。中になにがあるのか、そういう話題もほとんど上らないのだという。もっとワイルドに生きろよ!(■明日につづく)【参考資料:『朝霞、そこは基地の街だった。(中條克俊)』】

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2007年7月 2日 (月)

唯一無二のケンカ極道・花形敬が刺された場所を歩く

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Hana 「渋谷で一番強い男」。1930年(昭和5)生まれ、戦後の混乱期を暴力でのし上がった花形敬はヤクザ者から畏敬の念をこめてこう呼ばれた。小学校の頃から他の追随を許さない腕っぷしで知られたが、いっぽうでケンカがらみで怒鳴り込んできた相手の親を感心させるほど弁が立ち、頭も切れた。
 花形敬の実像を描いた本田靖春著『疵』によると、本書執筆段階(1983年)に渋谷を根城とした石井組の組長・石井福造が学生時代に花形とケンカで対峙したときの印象を語っている。
「あいつ、縁なしの眼鏡をしていたでしょう。それをかけていると品がいいんですけど、喧嘩するときにすぐはずすんです。すると、凄い顔になる。顔見ただけでびっくりしちゃった。もの凄いんだものね」
 花形の顔には学生時代で既に大きな“疵”がいくつも刻まれていた。その道の組長にまで上り詰めた男からそうまで言われるほどの顔とはいったいどんなものだっただろうか。それはともかく、ズバ抜けてケンカが強かった。相手がナイフや銃を出してきても、花形は大胆にも常に素手で闘った。それでいて負けない。拳を交えることは現実とならなかったが、用心棒時代の力道山にもサシで睨み合って互いに一歩も引かなかったことなど逸話も数多く残している。また、格闘漫画『グラップラー刃牙』に花形をモデルにしたキャラクター「花山薫」が登場することからも、やはり型破りな強さを持つ人物像は伝説的となっている。
 花形敬は後に前述の石井の紹介で“戦後の最強愚連隊”として恐れられた安藤組(正式名は東興業)を設立した安藤昇と引き合わされる。大幹部にまで上り詰めるが、1963年(昭和38)午後11時15分、自宅近くで2人組の男に刺されて死亡。33歳だった。刺したのは東声会の組員。花形はこの時点で前科7犯、逮捕されること実に24回に上った。
 刺されたのは東洋郵船社長・横井英樹を襲撃し、殺人未遂で2年6ヵ月の刑期を終えたすぐ後だった。

 刺された当時の毎日新聞を開くと、ソフト帽を被り笑みを浮かべる花形が認められた。眼鏡をかけているが、顔を被っている“疵”はハッキリとは分からない。四角い顔は猛々しいというよりもむしろ紳士的な雰囲気な印象。

 花形敬が刺された場所に向かった。現場からの最寄り駅は二子新地。現在の住所では二子1丁目にあたる。
 刺されたのは料亭「仙寅」の前だった。当時料亭があった場所を歩くが見つからない。2人連れの女性(60~80歳くらい)に「仙寅」についてたずねた。
「ああ、仙寅ね、お店はなくなって、マンションになっていますよ」
 なるほど、間近に大きなマンションが堂々とそびえ立っている。ライオンズマンション二子玉川。竣工が平成8年、「仙寅」があった場所はマンションに様変わりしていた。つまり、花形敬が刺された場所が現在はマンションになっていたのだ。
 料亭「仙寅」は花形刺殺と無関係ではない。花形が刺された瞬間を3人が目撃していたが、その1人田口義順は「仙寅」の店員だった。後の2人は16歳の高校生。田口と高校生2人は150mほど犯人を追いかけ(ヤクザ者を追いかけるあたり、びっくりするほど勇敢な人たちである)多摩川の土手に追い詰めるが、田口は花形を刺した犯人の1人に胸を銃で撃ち抜かれている。
 花形敬を御存知ですかと女性にたずねるが、知らないようだった。ただ、「この辺りの事にならいろいろと詳しい」女性が最近までいたと言うが、その女性も最近亡くなってしまったとのこと。
 事件の舞台となった料亭は大型マンションになり、土地に関する事情を知る人間は没する。ここでも土地の記憶は日ごと更新されている。(宮崎)

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2007年6月25日 (月)

東京大気汚染訴訟問題・トヨタ東京本社前の座り込み現場に迫る

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So1  東京大気汚染訴訟公害裁判原告団が国、東京都、首都高速道路公団、トヨタはじめ自動車メーカー7社を相手取る控訴審で、22日に東京高裁は原告と被告の双方に和解を勧告した。

 高裁は和解金の支払額として12億を提示したが、原告側の「何十億」の要求額とは大きな隔たりがあるのが実際のところである。96年の第1次提訴から06年の第6次提訴まで原告のべ633人、11年もの歳月がかけれた大訴訟がいよいよ大詰めを迎えているのだ。
 被告別に見ると、東京都は02年の第1審判決で控訴せずに約6000万円の賠償金を支払っている。国としては先月5月に安倍首相が公害対策の基金から60億を都に拠出する方針であることを示した。また、それを受けて首都高速道路公団もそれまでの「払いません」から、都が提案する医療費助成制度のための財源を一部負担する姿勢へと方針を変えた。
 前置きが長くなったが、つまり22日の高裁の和解勧告まででは、自動車メーカー7社以外は原告団にそれぞれ賠償金、または負担をする姿勢を固めているのだ。

 さて、大気汚染訴訟のことは知っていても、東京大気汚染訴訟公害裁判原告団(以下、原告団)が今月6月5日からトヨタ東京本社の正面玄関前で座り込みを断行していたことを知る人は少ないのではないか。
 トヨタ東京本社は最寄り駅でいえば水道橋駅と飯田橋の間に位置する。その座り込みの現場に駆けつけた。
 JR水道橋駅から首都高速5号線沿いに3分も歩くとトヨタ東京本社の高層ビル、そしてその正面玄関前で座り込みをする人たちおよそ30人ほどが見えてきた。座り込み行動は今年3月にも行われたが、今回はなんと「エンドレス座り込み」だという。気合いが違うのである。
So2  トヨタ本社ビルに見せつけるようにして、「トヨタ・渡辺社長は正当な解決金を決断せよ」とデカデカと書かれたメッセージが「カンバン方式」で掲げられている。11年もの長い訴訟のうちに亡くなっていった原告メンバーたちの遺影もズラリと並べられており、怨みのオーラが本社ビルに向けて放たれているような雰囲気がある。
 玄関前に座り込みを続ける人たちは通行人にビラを配ったりしているが、連日の座り込みにさすがに疲労の色が濃く浮かぶ。それもそのはずで、座り込みメンバーの何人かは3日に1日の割合で本社前に設置した青いビニールテントで夜を過ごしているのだという。さらに驚くのは原告団の弁護士も寝泊まりしているという。まさに身を投げ打っての行動だ。熱意が伝わっているのか、通行人の中には「どうすれば原告団に入れますか!?」と話しかけてくる人もいるという。
 原告団事務局の大越さんに話を聞いた。
「通行人の人はけっこうビラを受け取ってくれたりします。トヨタの人はどうかって? 社員さんでなく、パートの人なんかは『ごくろうさま』と声をかけてくれたりしますよ。やっぱりトヨタに非があると分かってる部分もあるんでしょうね。社員さんは……はじめのうちは無視でしたが、日が経つにつれて会釈をしてくれる人なんかもでてきました」
 原告団から渡辺社長(トヨタ)に向けて手紙を送られたそうですが、なにか反応はありましたか?
「手紙はですね、本社ビルで確かに職員さんに渡しました。交渉の中で『社長には渡してある』ということも確かに職員さんから聞いている。ただ、まだ返事はない。安倍首相は手紙を渡したその日のうちに記者会見を開いて、この訴訟についてコメントをしてくれましたが、渡辺社長については音沙汰ナシですよ。被害の実態を見ようともしない。被害の深刻さ、健康の被害、それを伝えたのに……。遺憾ですよ」
 確実な裏付けはないが、手紙を受け取った渡辺社長は「心外だ」とも漏らしたという。
 大越さんは続ける。
「02年の地裁判決ではつまり都民の健康よりも自動車メーカーが果たす社会的な貢献度が優先されてしまいました。しかし私たちはディーゼルガスによる汚染の因果関係なども科学的なしっかりした根拠に基づいて述べ立てているんです。社会的な貢献度はあるにせよ、それを優先してに喘息を蔓延させるようなことは、あっちゃならんでしょう。汚れた空気による三疾病である慢性気管支炎、肺気腫、喘息、これらが常態化してしまう世の中になってしまいますよ」
 原告団の多くは自身が喘息などの疾病を抱えるが、大越さんはもとは病院の職員であるという。
「喘息の患者などを見ててね、こんなことはあってはいかんだろうと思いましてね……」
 表情には疲労が浮かぶが、ロクな対応をしようとしないトヨタに対する怒りは深い。

 高裁の和解勧告に対し、原告・被告はそれぞれどう対応していくのか。11年に渡る訴訟がいよいよ大詰めを迎えている。注目すべし!(宮崎)

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2007年6月18日 (月)

小平事件の現場を歩く

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Zou  増上寺は浄土宗の七大本山のひとつである。酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって開山され、1622年、「元和」という聞きなれない年号の時代に江戸貝塚(千代田区紀尾井町)から現在の所在地である港区芝公園に移されている。徳川家康が増上寺を菩提寺としたため6人の徳川将軍の墓所が設けられおり、日比谷通り沿いに堂々とした佇まいを見せる三解脱門をはじめいくつかの所蔵が国の文化財に指定されている。
 1946年8月、増上寺境内の笹ヤブで女性の遺体が2体発見される。遺体の緑川柳子という当時17歳の女性。彼女が職を斡旋してくれる男に会いに行くと言い残して外出したこと、その男の住所などを伝えておいたことから捜査は進展し、小平義雄が逮捕された。
 全部で10件以上の殺人を自