歴史

2005年8月17日 (水)

「負けた」がすべてに優先する

8月15日、小誌は24時間靖国神社張り込みの愚挙を敢行した。午前0時から4時頃までは人影なし。4時前後に小誌以外に最初に来たメディアは桜テレビ(さすが)。それから幾山河ありまして雷鳴とともに終了。詳細は小誌で発表する。当ブログの読者諸賢には申し訳ないながら有料購読者を優先せねばならないので波瀾万丈の内容公開はしばしお待ちを。

さて。その終戦記念日をはさんで様々なメディアが主に日中や日韓に横たわる諸問題について取り上げている。だがすべて空しい。結論はどう考えても以下のようなことにしかなり得ない。

1)日清・日露戦争から1945年8月15日までの断続的な戦争は自衛戦争であったと同時に侵略戦争だった
帝国主義全盛期において日本が生き残るために必要だと信じて行った戦争だから自衛目的だったとはいえる。しかし攻めてこられた側には侵略でしかあり得ない。

2)1910年から45年までの韓国併合はすべて日本の極悪非道ばかりでなかったに決まっているがコリアンにとっては屈辱以外の何物でもなかった
日露開戦前夜はロシアの勢力が朝鮮半島を覆おうとしていた。これは当時の日本の戦略の根幹を揺るがす。だから乾坤一擲の勝負をしてロシアを退けて他の欧米列強と話をつけて併合にこぎ着けた。だがこの背景はコリアンにとっては関係ない。強盗同士の決闘で勝った側が強盗に入ってきたとしか思えない。

3)教科書問題は国内問題であると同時に国際問題である
4)靖国神社参拝問題は国内問題であると同時に国際問題である
だって中国や韓国が「問題だ」と言ってきた時点で論理はどうあれ国際問題になる

5)極東軍事裁判は不当であると同時に正当である
不当な点は多々あるがやらずに済ませられはしなかった。

6)主に日中戦争で中国国民に多大な被害を与えたのは反省すべきであるが反省は被害者が許してくれない限り果たせない
殺人事件の被害者遺族の多くは加害者が「心から反省」を何度表明しても反省を信じない。許されるのは死んだ人を生き返らせるか加害者が自殺してみせるかである。前者はできようもなく後者はいわば日本国を解散して領土を中韓に差し上げるに等しいがこれまたできっこない

要するに論点とされている1つ1つはどちらもそれなりの正当性があるのだから一方向に決められない。こういうことを書くと両方の陣営から批判されるか無視されるかで損なのだがそうなんだから仕方ない。

ただ一つだけはっきりしていることがある。それは先の大戦で日本が負けたという事実だ。負けた国が何をいっても無駄なことは戦勝国の経験もある日本人は知っていたはずだ。
国家の役割は「国民の生命と財産を守る」である。戦争とは「国民の生命と財産を犠牲にして国民の生命と財産を守る」という非常に矛盾した営みだ。だからこそ勝たねばならない。

この際「戦争は悪だ」という概念をあえて捨てて考える。先の大戦のうち満州事変からタンクー停戦協定まではまだ一貫性がある。だが日中戦争と太平洋戦争は勝算があっての作戦とは到底思えない。当時の指導者は「国民の生命と財産を犠牲にして国民の生命と財産を守る」どころか「国民の生命と財産を犠牲にして亡国の憂き目を国民に味合わせた」のだ。誰が何といったってボロ負けしたのは事実で指導者は万死に値する。特に東条英機の責任は断じて免れ得ない。あるいは政治的責任は東条より近衛文麿の方が大きいとも分析できる。
私が不思議でならないのは亡国を導いたダメダメ指導者に激怒する国民が意外なほど少ない点である。現在の中韓の主張を仮に不当だとしよう。だが戦後60年経ってもそうした主張がなされるのは負け戦を主導した者達の責任だ。極東軍事裁判の不当性を訴える声には了解できる点も多々ある。だが「誰も悪くなかった」はずはない。負け戦の責任が誰にもないなどという論理はありえない。「一億総懺悔」という発想もわからなくないがそれを認めれば未来永劫日本人は「一億総懺悔」し続けなければならない。

私が子どもの頃の教育は総じて「一億総懺悔」的であって強烈な不快感を覚えた。私の祖父は懺悔する立場にない。愚かな指導者によって駆り出されて殺されたのだ。先生に食ってかかる私は「右翼的」とみなされた。一方で戦前の軍歌を大音量で流している連中も大嫌いだった。そんな風潮の末に我らは負けたんだぞ。負けた時のスタイルを真似て粋がっているセンスが理解できない。先の大戦を欧米からのアジア解放戦争だったとか朝鮮への植民地支配にもいいところがあったということを唱える人にも違和感がある。そうだったか否かではなく仮にそうだったとしてもミジメな敗北によって何もかもチャラになってしまった方がずっと問題だということだ。

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2005年8月14日 (日)

8月15日までの中国戦線

一般に「先の大戦」の主舞台だった中国での出来事は伝えられていない。
「先の大戦」は

・1931年9月の柳条湖事件に発して33年5月のタンクー停戦協定に至るまでの「満州事変」
・1937年7月の盧溝橋事件に始まる「日中戦争」
・1941年12月の真珠湾攻撃からスタートの米英相手の「太平洋戦争」

に一応分類できる。ただしタンクー停戦協定から盧溝橋事件の間も単なる「停戦」の域を越えず「満州国」建国やら華北工作やら日中間の険悪なムードは持続していた。日中戦争と太平洋戦争は敗戦の1945年8月で終了とみなしていいので中国とは文字通り「十五年戦争」をやっていたと解釈していい。

この間に起きた出来事は何故か南京事件だけが突出して扱われる。後は45年8月9日のソ連軍の侵攻だ。前者は以前は日本の残虐行為の象徴であったが現在では「大虐殺」がどの程度だったかという論争に変わってきた。後者はソ連の不法(日ソ中立条約の破棄)を唱える者の根拠だった。
どちらも大切だ。だが「十五年戦争」を見渡した時にそれと同等以上の衝突や謀略、攻撃は多々ある。以下のような項目である。

1)田中メモランダム
2)西安事件の疑問
3)第二次上海事変と南京事件の経緯
4)盧溝橋での一発目は誰が放ったか
5)関東軍特種演習の本当の目的
6)重慶爆撃の全容
7)汪兆銘の真意

これらの項目は少しは知っていないと「先の大戦」の中国戦線はほとんど理解できないはずだが大半はまったく知られてないことが小誌の調べでわかっている。これは「先の大戦」の解釈の方向性がどちらであっても必要なはずだ。
一方で「識者」は十分に知っていて論じるが数は稀だ。両者のギャップは途方もなく大きい。「太平洋戦争」に比べると数段大きな差である。

小社から『8月15日からの戦争』を出版した今冨昭氏は終戦の5日後に中国で自爆した元陸軍少尉の兄の形跡を40年訪ね続けた。編集していて「なるほど」と思った部分がいくつかある。

1)中国戦線での戦死者の遺族は死に場所などにおそろしく無頓着
実は私の祖父も中国戦線で戦死したのだが母(つまり祖父の子)も「中国で死んだ」しか知らない。今冨氏も兄や姉に自爆した少尉の兄の自爆した場所を聞いたがわからず「どうして知らないままですごしてこられたのか不思議であった」の記す。
ここは靖国神社の意味と密接に関連してくる。どこでどのように死ぬのか形跡さえわからない可能性がある戦地に赴いたからこそ「靖国で会う」という虚構が現実味を帯びているとは考えられないか

2)「勝利か死か」しかない罪作りな選択肢
今冨氏の分析によると当時の出征は

・勝って死ぬ
・勝って生き残る

しかなくて

・負けて死ぬ
・負けて生きる
という選択は最初から排除されていた。敗色が濃厚になった頃には「勝って生き残る」可能性は限りなく低く「勝って死ぬ」しか残らなかった。厳密には死ねば勝ったかどうかはわからなくなる。
したがって敗色が深めれば死ぬしか選択肢がなく出征した本人も家族も死ぬことが当然となる。となれば死に場所などの細かいことは文字通り些事になる。おそろしいことだ。
8月15日の昭和天皇による敗北認定は「勝って死ぬ」しかなかった価値観にいきなり「負けて生きる」という正反対の選択肢を与えた。今冨氏の兄はそれに逆らって自爆するが多くの戦友は「負けて生きる」を選ぶ。人間として当然だが戦友は今でも今冨氏の兄にいくばくかの呵責の念を持つという。
戦時指導者の最も罪作りな点は負けるという選択を最初から除外して勝負を挑んだ点であろう。それは要所要所に錯誤を生み出し生命を究極まで軽んじる退廃を作り出した。

3)特攻は「自爆テロ」とは違う
今冨氏の兄は特別攻撃(特攻)を行う予定だった。自らの命を引き替えに敵に一撃を与える戦法である。ポイントはそれはあくまでも戦術だという点だ。だから特攻をやり遂げるために訓練も入念に行った。軍事作戦である以上は狙いは敵軍だった。
命を捨てて攻撃するという戦法を強いたのもまた戦時指導者のとんでもない誤りではある。ただあえてそこを外して考えれば戦闘行為の一環としての戦術であって民間人を巻き込んでの昨今の自爆テロとは思想が根本的に異なるとわかる。

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2005年8月 4日 (木)

女帝容認と男系至上の矛盾

天皇は男系男子または女子でも男系に限るべきだという意見が根強い。私は女系男子または女系女子の天皇でも構わないと思うのだが歴史上(正確にいえば確認された歴史上)男系しか皇位についていないのは事実だ。だから・・・・というのはわからなくもない。
しかし男系論を唱える以上は触れるべき事柄を触れていない。マスコミも報道しない。おそらく雅子皇太子妃を慮ってのことであろうが隠しておいて思いやりを装うのは偽善である。ハッキリいおう。ならば側室制度と退位はどうするのか。
歴史上の女帝は8人いるが古代の6人を除いて(「皇族で皇后」など今では考えにくい事情を含むため)江戸時代の2人を例に考えてみる

1)明正天皇の場合
父の後水尾天皇が有名な紫衣事件で「ええいっ」とちゃぶ台をひっくり返すように1629年に退位した結果として皇后(徳川和子)との間に生まれた女子が明正天皇となった。

この天皇が皇婿を得て代を継げば女系に変わったわけであるが実際には退位した後水尾上皇が側室の藤原光子との間に1633年に生まれた男子が後光明天皇として明正帝の後を継ぐ。つまりこの時点では「父帝が退位した後に側室との間に生まれた男子」によって男系が保たれたわけである

2)後桜町天皇の場合
桃園天皇が1762年に逝去した段階で皇后の藤原富子との間に生まれた男子はたった3歳。そこで故桃園天皇と兄弟姉妹に当たる後桜町天皇が1763年から70年まで女帝を務める。後桜町天皇の母は父の桜町天皇の側室である。70年に退位した後に男子が後桃園天皇として即位する。

ちなみにこの天皇は79年に急逝して跡継ぎがなかったために閑院宮家の典仁親王の6子を光格天皇として迎え入れている。ちなみに現在の皇統は光格帝を直接の出発点とする。
ところで後桜町上皇は1813年まで存命である。つまり退位が認められていなければ70年の後桃園、79年の光格両帝の即位もなかったことになる。

いうまでもないことだが男性と女性の生まれてくる確立は半々である。男系から生まれる子も同様で女子を皇籍から外していけば先細りは目に見えている。しかも不思議なことに皇室は女子の出産数が多い。江戸時代は幕府の統制が厳しくて男子が産まれても皇太子か3つの宮家の当主の座しか用意できずに仕方なく皇位の寺院の門跡になっていた。一方の女子はもらい手に事欠かない。そんなことが遺伝子に影響しているのだろうか。
1人の皇后が多産であれば男子の誕生する確率も高まるが合計特殊出生率1.29の時代である。
そこで例に挙げたように退位と側室を認めることで男系を保持してきた歴史がある。明治以降でも大正天皇の母君である柳原愛子典侍は側室だった。したがって男系男子を主張したければ

・皇太子に雅子皇太子妃以外の側室を勧める
・愛子内親王に旧皇族の男子との結婚を義務づける
・秋篠宮と故高円宮の内親王を皇籍の残して旧皇族との男子と結婚してもらい男子が誕生したらしかるべき年齢になった段階で愛子天皇に退位してもらう

などを進言しないと筋が通らない。でもそんなことを口にしたら現在の常識ではブーイングであろう。だからといって黙っていながら男系にこだわるのは卑怯者である。

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