皇室

2006年9月 8日 (金)

新宮の皇位を補佐する眞子女帝容認案

紀子妃の新宮ご出産から1日以上経って我に返ると不安がよぎる。前日に書いたように現在の男系男子を維持するには新宮がすこやかに育ち、しかるべく結婚し、相手の妃殿下が滞りなく男子を出産し、その宮がまたすこやかに育つという前提でなければ話は立ちいかない。考えてみれば猛烈な楽観論となる。
さりとて女系天皇を認めるという案は当ブログでも紹介したように問題も多く、かつ反発者も目立つ。だったらその中間を取る方法を探ってみたらどうか。

天皇家の継承が今日のように細い糸のようになった時期は何度もあった。今回のように皇位に就かない弟宮の子が天皇になった典型例が42代文武天皇である。この時期には天皇になるべき草壁親王がわずか27歳で早世し、残された文武天皇はわずか6歳で即位を余儀なくされる。ところが文武帝も25歳で世を去り、残されたのは、これまたわずか6歳の後の聖武天皇であった。

現在の皇太子と秋篠宮殿下との間は6歳ほどしか離れていない。つまり目出度く長寿をまっとうされたとしたらしたで、高齢者同士の兄弟継承となる。あまり考えたくはないが秋篠宮が先に・・・・という危険性もある。またお二方ともすでに40代。ご壮健の様子で何よりだが高円宮憲仁親王のように47歳で薨去された例もある。こればかりは人智の及ぶところではない。
そうした不測の事態に備えておかないと新宮に何もかもかぶってもらわなければならない。重荷に過ぎるであろう。そこでかつての草壁親王、文武天皇の早世で機能した女性天皇だけは皇室典範を見直して認めるようにすべきではないか。
女性天皇とは男系女子の天皇で該当者は敬宮愛子内親王、秋篠宮眞子内親王、同佳子内親王が直宮家にはいらっしゃる。草壁親王の成長を待つために母の持統女帝が即位し、文武帝の早世を受けて同じく母の元明帝が、次いで聖武天皇の成長を待つ形で文武帝の姉の元正天皇がそれぞれ即位した。歴史以上8人いる女帝のうち3人がここに集中して皇統を守ったのである。
ただし皇后であった持統、元明両女帝は同時に天智天皇の子でもあった。したがって現在の美智子皇后や雅子妃殿下が即位するのとはわけが違う。ポイントは元正天皇である。

元正女帝は文武天皇より3つ上の姉である。弟が世を去って幼い皇嗣が残された間を取り持ったばかりか724年に譲位して以後も748年に薨去するまで弟の子の治世を陰に陽に助けた。こうした存在があってこそ皇統は維持できたともいえる。
ただしこの時期は天武→持統→文武→元明→元正→聖武→孝謙・称徳女帝と続く天武系とは別に壬申の乱で敗れた形になった天智系も存在していて称徳女帝薨去の後はそちらへ引き継がれた。そうした安全装置が現在はない。戦後に皇籍離脱した旧伏見宮系が似ている。
今年初の皇室典範改正論議でも旧伏見宮系男子の皇籍復帰案が出てきたが、戦後ずっと皇族でなく生まれ育ってきた男性がいきなり皇位継承者になるのもまた違和感があるとの反論があった。そこで新宮が誕生した今、最も妥当な方法は以下の2点ではなかろうか

1)新宮以外に男子が誕生しなかった場合に備えて愛子、眞子、佳子各内親王が女性天皇になる可能性を開くべく典範を改正する
2)同時に上記3人の内親王ないし他の宮家の内親王の婿として旧伏見宮系男子を迎えて宮家が作れるように典範を改正する

そして男子の出産を待てば新宮一本かぶりでなくても男系男子は保たれる。この場合1)で選ばれた内親王もまた旧伏見宮系男子とも結婚できるようにしておいても構わない。
さて新宮の補佐ともなる1)の候補であるが文武帝の場合は姉が即位したから眞子、佳子各内親王がいいとなる。愛子様は漏れ伝わるところでは雅子妃殿下が皇籍にこだわらずにお育てしたい意向というので外してみた。他意はない。しかもどうやら眞子内親王にはかなりの人気があるらしいのだ。(ここまで編集長)

編集長に命令されここから書くことになったが、正直、皇室問題には疎い。しかし以前に再三お伝えした通り、編集長には「わかりました」と「すいません」しか発言が許されておらず、状況的に「わかりました」としか言えなかった……。つまり書くしかない。

そんな私が持つ唯一の情報は「眞子さま萌え」がネットで盛り上がっているらしいという噂だった。
で、調べてみたら、あること、あること。例えば「マコリンペン」という単語を知っているだろうか? 眞子内親王のネット上での愛称らしい。ちなみに佳子内親王は「デコポンタン」。紀宮清子(さやこ)内親王が「サーヤ」となったことは広く知られているが、まさか眞子内親王が「マコリンペン」になっていたとは。
また、眞子内親王のイラストやフラッシュなども、ネット上にはけっこう出回っている。お嬢様口調で強気のキャラクターで演じているケースが多い。

おそらくこのような現象は皇室史上初めてのことであろう。そもそもネットの普及が最近だから、当たり前といえば当たり前かもしれないが、これまでの皇室の騒がれ方とは根本的に異なる。なぜなら眞子内親王には勝手にキャラクターが付け加えられているからだ。
「美智子さま」や「サーヤ」の呼び名は常に清く正しい皇室像を喚起してきた。穏やかで高貴なイメージである。ところが「マコリンペン」は、そうした「皇室イメージ」を脱却している。その理由をコンピュータやネットの発達だけに負わせることはできないだろう。今まで以上に身近に感じられる皇室の「アイドル」の誕生を、私たちは目にしているのではなかろうか。

「開かれた皇室」という主張に抵抗感を持つ人がいるのは知っている。ましてネット界で取り上げられるなんてもってのほか、と感じる人も多いだろう。しかしネット上の盛り上がりが雑誌や新聞に取り上げられ、それがテレビなどにも取材される最近の状況を考えれば、ネット界での人気をバカにすることはできないはずだ。
浮世絵の役者絵を例に出すまでもなく、国民の人気が高まるとイラストも多く出回る。(それこそ比べるのも申し訳ないが、支持率が以上に高かった当時の小泉首相のイラストもよく目にしたもんだ……)これは、もう伝統である。

というわけで、眞子内親王がいかに人気があるのかを書いてみた。だからどうなのかを編集長に聞き忘れてしまった……。
というわけで、ここからは再び編集長に渡したい(ここまで大畑)

元正天皇の即位前は氷高皇女であった。この呼称と「マコリンペン」を並列に置いて言語学的な考察を加えると・・・・ってそんなことできるわけないだろ大畑。変なテンションで渡すんじゃない。よって今回オチはない・・・・というオチでご勘弁。(再び編集長)

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2006年4月26日 (水)

昭和天皇の陵墓を訪れた

JR高尾駅を降りて、徒歩20分の距離にある武蔵陵墓地へ向かう。

新宿から中央線中央特快で約50分。同じ東京とはいっても人ごみの慌ただしさもなければ喧騒もない。四方八方に見えるスギ山の緑が景色を豊かなものにしている。

武蔵陵墓地の入り口までは20分だが、昭和天皇のお墓である武蔵野陵(むさしののみささぎ)までは、入り口からさらに15分ほど歩く。

玉じゃりが敷かれた道を歩いたが、天気がよかったこともあってすごく気持ちがいい。道の両側は林になっていて、都市部ではまず聞くことのない類の鳥の鳴き声が聞こえてくる。

陵(みささぎ)とは、天皇、皇后、太皇太后、および皇太后のお墓のことをいう。約46万平方メートルを有するこの陵墓には、武蔵野陵(昭和天皇の陵)、武蔵野東陵(香淳皇后の陵)、多摩陵(大正天皇の陵)、多摩東陵(貞明皇后の陵)の4陵がある。

昭和が終わり、平成になりはや18年。

陵墓といえど、さすがにこれだけの月日が経てば訪れる人もいないのではないか……。「忘れられたる武蔵陵墓地」みたいな風景を想像していたが、まだ武蔵野陵に到着する前から、そうではないのだということが分かった。参道を歩く人が他にもちらほらといたからだ。

「来るのは初めてではないですよ。特に昭和天皇のところに、というわけではなくて、どちらかというと森林浴ですよ」と50代くらいの女性はいう。

Sho2_2 

他に歩いている人を見ると、ほとんどの人がウォーキングシューズを履いていた。たしかに散歩コースとしては絶好だ。

陵墓ではあるが、すれ違う人たちの雰囲気からは神妙な空気などはほとんど感じられない。 玉じゃりをザクザク鳴らし、「どっちから行くー? 昭和天皇と大正天皇ー。」という明るい声すら聞こえてきた。 

Sho4_1 武蔵野陵で参拝する。

しばらくあたりの様子を伺うと、少しずつではあるが途切れなく人がやってくることが分かった(あるいは参道が広いから少しずつやって来るように見えるのか)。

警備員によると、多い日は1000人もの人が来るという。武蔵野陵の周りには、昭和天皇が御愛好になった桜、アケボノスギなど、草木合わせて55種が植えられていて、桜を見にくる人も多いのだという。

ところで、来年から「みどりの日」(4月29日)が法改正により「昭和の日」に変更になるのを受け、八王子市は都、国と連携して遊歩道整備、記念碑配置などを実施することを今月22日に発表している。

高尾駅から武蔵陵墓地までの遊歩道整備などが進めば、ウォーキングコースとして密かな人気があるこの場所にさらに人が訪れるようになるのは必至だろう。(宮崎)

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2006年2月11日 (土)

紀子妃ご懐妊に踊る阿呆

2月6日に

だいたい125代男系が続いたという「神話」を信じるならば今後も何かがあって何とかなるはずである

と書いたら8日に紀子秋篠宮妃の懐妊が発表された。どうだオレの慧眼はと威張ってみたい気もするが、というかここまで書いて既にして威張ってもいるのだが、どうも素直に喜べない。生まれてこの方素直に喜んだ記憶がない性質なので取り立てておかしくはないのだけれど。
もどかしさを一言で表すならば「エッ、これでいいわけ?」だ。

まず125代とやらを信奉するコケむした皇国史観の持ち主が喜ぶのが腹立たしい。三笠宮寛仁親王は自らが皇族なので125代を口にするのは仕方がない。皇族でありながら「神武天皇なんてでっち上げ」という発言もまたしにくいであろう。問題は殿下に連なるような形でピーチクパーチクと125代とやらを歌う面々である。
彼らが得意満面かと思うだに小憎らしい。バカにつける薬がないのは我慢するけれども神話は史実だと荒唐無稽を唱える連中がそれみたことかと叫ぶ声が早くもあふれてきているのはウザったくて仕方がない。

その期待の原点が「紀子妃が男子を出産するかも」にあるのも面白くない。むろん新たな生命の誕生自体には諸手をあげて歓迎するが、男子でなかったら落胆するという感覚が「これでいいわけ?」につながる。男子ならば現行の皇室典範で健やかに育たれれば現世代の大半が死に絶えるまで一応「男系男子」でつながる。
でも女子が生まれる可能性も50%あるのだ。私は男だから感覚的にわからないのだが、女性はこうした社会的風土に違和感を持たないだろうか。

マスコミは表立って「男を生んでくれ」とは報じない。それがまた小憎らしい。「仮に男子の場合ならば」と触れる一方で「ここは静かに」などとわきまえたふりをする。ウソを言えウソを言えウソを言えウソを言え! あなた方が騒ぎたくて仕方ないのはわかっている。男子の出産を願っているに決まっている。キャスターだのコメンテーターだのの顔には皆そう書いてある。ならば正直にいうがいい。その点では憶面もなく紀子妃の第3子が男子であるのを期待する皇国史観軍団の方がバカだが正直だ。
要するに正直なバカと教養人の装いの偽善者が圧倒的なのだ。偽善じゃないと言うならば反問しよう。では紀子妃の第3子が女性の方が望ましい理由を1つでも挙げられるか。

世が偽善にあふれていることくらい私の年齢となれば知っていない方がおかしいが見せつけられると反吐が出る。皇室に関しては雅子皇太子妃が女子を生んだ際を思い出す。例のキャスターだのコメンテーターだのは破顔一笑で「おめでとう」「おめでとう」の大合唱だったが、その顔に「男の子だったらなあ」との嘆息が隠れていた。テレビが拾った街の声を発した人の顔にも同じものが控えていた。本心を隠してニヤーッと笑う大人の顔、顔、顔。汚物を踏むと同時に口に放り込まれた気分であった。
紀子妃の第3子が女性でも同じ顔が国中で並ぶであろう。見たくはないから家にこもっているか。あえて見るべく街に出るか。

逆に男子であったら愚かなほどに熱狂するであろう。そして「もちろん女の子でもめでたさは変わりませんが」風のメッセージを挟み込んで偽善者は体面を守る。本音は「女の子でなくてよかった」という男尊女卑むき出しなのに。そんな光景もまた反吐が出る。

これで小泉政権の屋台骨が揺らぐというのも面白くない。断っておくが私は一刻も早くこの死神のような首相には退散してもらいたいと願っているが皇室典範改正を政争の具にできなくなったのを機にレームダックに陥るのは筋が違う。小泉政権はその失政により退陣させなければ意味がない。

しかし今の時期に妊娠数週間ということは・・・・との詮索は野暮とわかれど皆がしているであろう。紀子妃は秋篠宮殿下との婚約発表の際に殿下を「初恋の相手」と言い放った。私はその時「この人は女傑だ」と恐れ入った覚えがある。大学時代に出会った殿下がいくら何でも「初恋」ではあるまい。幸運につぐ幸運でメチャクチャ政治を5年も持たせてきた小泉将軍が、まさか菊の女傑に張り倒されるとはね

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2006年2月 6日 (月)

女系天皇論議は郵政の焼き直し

日本人の知能をジェットコースターのように下降させる「小泉劇場」の次の演題はどうやら「女性・女系天皇」であるらしい。

嫌な感じだ。何やら先の演目だった「郵政民営化」を思わせる。仕立てがそっくりだからだ。
まず民間人の諮問会議に意に沿った報告案を出させる。今回の皇室典範改正は私的な諮問機関(皇室典範に関する有識者会議)であるが格好は同じだ。
内容は女性・女系天皇を認めるというもので小泉首相は今の通常国会に提出する方針を明言した上で自民党に対して採決において党議拘束をかけるとの認識を示した。
皇室典範改正案が内閣提出立法として提出しようと首相が決めれば提出できる。それは郵政民営化法案の時と同じ。そして採決に反対すれば党議拘束違反となる。これも同じ。

一方で超党派の日本会議国会議員懇談会は原則として男性・男系を守るべきと訴える。ご丁寧に同会の会長は郵政民営化法案に反対した平沼赳夫衆議院議員である。これに女性天皇はともかく女系は反対との意見を加えると自民党議員も3分の1が典範改正の反対の様子である。

私は9月の退陣を控えて小泉首相が後継指名程度の「劇」で満足するとは思えない。むしろクライマックスには日本人の原点ともいえる天皇制をみやげに持ってくるのではないのかと疑っている。というか実は密かに確信している。

もし党議拘束に反して自民の3分の1が反対したら、同様に倒閣を目指して反対しよう野党と合わせると採否が微妙となる。万一衆参いずれかで否決となれば・・・・待っているのは衆議院解散ではないのか。
大宰相たるもの解散は3回したい。そうすれば吉田茂や佐藤栄作並みとなる。小泉首相にとって勝敗など二の次だ。郵政民営化法案が参議院で否決された時にみせた彼の喜びを隠しきれない顔が忘れられない。「正義は我にあり」と叫んで戦ってみたいはずである。

女性・女系天皇容認を錦の御旗にできるかというとできるんだな。そもそも男系男子に限るとした制度自体が根本的に男尊女卑である。伝統だ何だというが、それは男尊女卑の伝統である。おっさんが群がり寄って反対を唱えるほど反発は強まるであろう。
反対派が唱える「125代続いた男系を守れ」はホコリをかぶった皇国史観を持ち出したに等しい。何度も書くが初代神武天皇から9代は存在しない。まあ存在しただろうと推察される10代以降の天皇在位も記紀などから計算すると10代崇神68年、11代垂仁99年、12代景行60年、13代成務60年とムチャクチャである。
Y染色体を守れという考え方自体がナンセンスであるのも前に書いた。仮に守るべきとしてもどの天皇のY染色体を指すのかサッパリわからない。

しかも現時点で皇太子殿下の次の世代の皇族はすべて女性であるから女性・女系を認めないと皇統は絶えるという主張は実に説得力がある。旧伏見宮系の男子を皇族に復帰させるとなると「愛子様はどうなる」「雅子様がお気の毒すぎる」となろう。首相が口に出さずとも世論は急速にそうした心情に傾こう。
女系と女性の天皇は意味が違うと論戦を挑んでも小泉劇場に慣らされた有権者には理解できまい。なにしろ英霊と戦没者を同一として語って平然としていられる首相に5割近い支持を与えている国民だ。

「男女は平等。皇太子と雅子様の間に生まれた愛子様が次の次の天皇になるのは自然。成人した愛子様が結婚なさるのも当然。その子が女系であろうと皇統を嗣ぐのがなぜおかしい」とわかりやすくライオンが吠える。
ウダウダ言う反対勢力は女の敵、皇国史観の妄執者、男女平等の価値観さえ受け入れられない差別主義者のレッテルがあっと言う間に貼られる。

さあこの論理を超越して小泉首相をギャフンといわせられるか。本当をいうと女系天皇論議はおかしい。なぜならば天皇制は制度として男尊女卑であり身分差別であるからだ。民主主義国家の日本で例外的に男尊女卑と身分差別を認めようとの出発点がある。
そこを有権者に納得させられるかというと難しい。なぜならば小泉首相によって何年もバカ教育を施されているうちに我が国には男尊女卑と身分差別の例外があるとの認識さえできない人がたくさん生まれているからである。

もう一つおかしいのはなぜ小泉首相が改まって皇室典範を改正しなければならぬのかだ。よくよく考えると彼の「治世」の最終盤に扱ってもらわねばならぬ理由はない。まだ壮年の皇太子と秋篠宮殿下が控えているのである。
だいたい125代男系が続いたという「神話」を信じるならば今後も何かがあって何とかなるはずである。その時に考えればいいではないか。大伴金村が継体天皇を連れてきたように、後の宇多天皇を臣籍から戻したように、明正天皇即位の4年後に男系男子の後の後光明天皇が生まれたように「125代」とやらは結構綱渡りをしてきた。
その時が来て「国民の総意」が男性皇太子を望むならばそのように典範を改正すればいい。そうでなければとりあえず女性皇太子でしのぐだけの改正をする。男系か女系かはさらに後の話だ。そこに至って結論が出なければ「国民の総意」で天皇制は終わるのかもしれない。「国民の総意」の「国民」とは現在の皇室典範では天皇ないしは皇太子の該当者がいなくなった世代の「国民」である。今はその時ではない。

それをまるで「今まさに直面する危機」のように演出するのが小泉マジックである。彼は郵政民営化解散の総選挙での大勝で、いわばゴルディオスの結び目を断ち切ったような快感を得たであろう。せっかく断ったのだからその果実がほしい。
あの大勝は果実ではなく断ち切ったという行為を指す。そこを間違って安易な乗りで皇室典範改正に反対すると現代のアレクサンドロスに滅ぼされるぞ。アケメネス朝みたいに。

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2006年1月23日 (月)

女帝「中継ぎ」論のウソ

史上に女帝は存在するが、その役割は先帝から後代への橋渡しをする中継ぎに過ぎなかったというのが定説である。私はこの見方に疑問を持っている。
確かに史上の女帝にはすべて中継ぎ的要素はある。だが万世一系を信じるならば、ある時点で存在した天皇は常にその前後との中継ぎ役であることからは離れられない。すべての天皇がある意味で中継ぎであり、女帝だけを取り出してそうだとする言説は妙である。

それでも女帝のすべてまたは多くが文字通りの中継ぎ役、つまり先帝の衣鉢を継いで後代が育つまで遺訓政治にひたすら徹していたというならば「中継ぎ」といっていいだろう。
ところが古代の女帝の業績を調べると遺訓政治どころか回天の偉業とさえいえる大事業をなしたり、熾烈な権力闘争を仕掛けたり、受けて立っている「本格」派が多い。なかには「大帝」の名を冠してもおかしくない人物さえいる。

◎推古天皇
【中継ぎ説の概要】
時の権力者である蘇我馬子の意に逆らった崇峻天皇を殺害した後の操り人形。推古朝とは馬子と摂政の聖徳太子(天皇の甥)による事実上の連立政権であった。

【反論】
まず天皇在位が36年にも及んでいる。こんな長期を「中継ぎ」とすること自体が言語矛盾。また父は欽明天皇で夫は敏達天皇とピカピカの血統である。主に『日本書紀』の記載では敏達帝崩御の後の2代(用明・崇峻朝)でも容易ならざる存在感を示している。
むしろ皇親政治のホープである太子と絶頂期の馬子を操った手練の持ち主と考えた方がすっきりする。
太子信仰のせいか聖徳太子の後ろ盾というイメージも強いが太子死後の数年間も皇位を守っている。
なお『隋書』にある多利思比狐(タリシヒコ)が誰を指すかの論争について。太子とする説も有力だが根拠に欠ける。「王」や古訓のアメノタラシヒコ(大王)から推理すれば推古帝その人となるが、やはりこの音を女帝に当てはめるのは変。馬子説はほぼあり得ない。
多分『隋書』筆者が「倭王は多利思比狐という」との先入観で書いた記号であり特定の個人を指してはいまい。とは思うものの万一推古帝と特定できたら・・・・という誘惑はある

◎皇極-斉明天皇
【中継ぎ説の概要】
息子の中大兄皇子(後の天智天皇)が自らの権謀術数を正当化するために利用した人のいい母親

【反論】
むしろ蘇我氏を除いた大いなる黒幕であった可能性さえある。「大織冠伝」などで多分に美化されている中大兄皇子と中臣鎌足(死後に藤原の姓を賜る)の友情による蘇我氏滅亡物語の、いわゆる「乙巳の変」も入鹿殺害現場が皇居正殿であったことを考えると何らかの関与があったと考えた方がむしろ論理的だ。
書紀の「乙巳の変」から翌年の改新の詔までの記載は潤色である。後の天智天皇を殺人犯にしないための工夫とも読めるが、それ以前に天皇の関与を否定したかったのではないか。
重祚して斉明天皇となった時には百済再興軍を筑紫国博多付近まで率いて没する。齢70にもなろうかという年齢で没しなければ海を渡った可能性さえある。猛女の可能性極めて高し。

◎持統天皇
【中継ぎ説の概要】
夫の天武大帝の補助を務めた賢夫人。後継の予定だった息子の草壁皇子が早世したために孫の軽皇子(後の文武天皇)即位まで中を継いで天武帝が成し得たかった事業を引き継いだ

【反論】
天武天皇の治世はむしろ「天武-持統連立政権」ではなかったか。夫帝存命時から「天下を定め」る位置にあったとされる。
それ以前に彼女は天智天皇の娘でもあり天武帝が壬申の乱で雌雄を決した大友皇子と同じ天智系の血筋である。書紀などにはその点が不可解なほど記載されていない。問題の「草壁皇子(皇太子)に継げなかった」説も天武帝没が686年で皇子の死が689年である説明がつかない。
694年に遷都した藤原京に至っては近年の発掘で後の平城京を上回る壮大な規模だったことが確実視されている。これほどの大偉業を指導し得た人物がどうして単なる中継ぎ役といえようか。文武天皇の即位は持統帝なくしては難しかったし上皇に退いた後も死ぬまで後見している。

◎元明天皇
【中継ぎ説の概要】
707年に文武天皇が不意に崩御し、第1皇子の首皇子(後の聖武天皇)がまだ6歳だったことから祖母の立場で成人まで中を継いだ

【反論】
元明女帝は天智天皇の子すなわち持統天皇の母違いの妹で草壁皇子の妃で文武天皇の母とピカピカの血統である。子の文武帝の在位を挟んで果たした役割は姉の持統天皇と同じであるとみていい。譲位後も上皇として没年の721年まで相当な権力を有していたのは確実である。
何しろ治世の際に平常遷都を成し遂げて奈良時代の幕を開いた天皇である。とてもバトンの受け渡しだけが役目の中継ぎとは呼べない。

◎元正天皇
【中継ぎ説の概要】
元明帝から首皇子即位までの皇子の叔母として中継ぎを託された。それが証拠に聖武天皇即位と同時に退位している。

【反論】
むしろ母の元明天皇の名代として協力して何かを果たそうとしたと考えるべきだ。元明上皇は上記のように721年まで生存し、元正帝の在位は715年から724年である。
この間に重要な事件があった。右大臣藤原不比等の死である。代わって右大臣となったのは大納言で皇親政治を標榜する皇族の長屋王だった。長屋王は元明上皇の娘で元正帝の妹である吉備内親王を妻とする。
すなわち元明-元正コンビは不比等の子より長屋王を先んじさせ藤原氏をけん制したといえる。さらに元明没後の元正朝で長屋王は太政官の事実上の最高位である左大臣まで上り詰める。
長屋王は結局729年の「長屋王の変」で自殺に追い込まれる。巻き添えを食った妹への思いもあって元正上皇は藤原の勢力に支えられた聖武朝と疎遠になるが、737年に不比等の4氏が相次いで死去すると隠然たる力を発揮する。
『続日本紀』などによると元正上皇は4氏死去後の権力者となった橘諸兄とことのほか親しくしている。諸兄自身は反藤原ではなかったが政権下に非藤原系ブレーンを抱えていた。上皇死後の748年以後の藤原仲麻呂の台頭を考えると上皇の一定の存在感が藤原氏の頭を抑えていたともいえよう

◎孝謙-称徳天皇
【中継ぎ説の概要】
天武系から天智系に皇統が入れ替わる節目を中継ぎした。藤原仲麻呂や道鏡などに操られて政治的手腕には大いに疑問符が付く。

【反論】
天武系から天智系への交代は後世から結果論として「そうなんだ」というだけであろう。
確かに孝謙天皇は母であり聖武帝皇后の藤原光明子に頭が上がらなかった。即位も、藤原仲麻呂の任用も、淳仁天皇への譲位も光明子の振り付けであろう。
そもそも光明子の立后自体、藤原氏が前述のように当時の皇室で皇后が夫帝の死後に即位する慣例を我がものにするための画策であり、概念上光明皇后が聖武崩御後に即位してもおかしくなかった。だから光明子の序列1位はわかる。
余談だが、もし光明皇后が即位していたら今の女帝女系論争も何もなかったわけだ。
ただ光明子死後、衆目の一致するところの最高権力者は孝謙上皇であった。でなければ仲麻呂を逐うことも淳仁天皇を淡路島に配流することも、称徳天皇として重祚することもできるわけがない。
悪名高い道鏡の皇位簒奪未遂事件も、見方を変えれば称徳女帝が後ろ盾だったからこそ可能性があったわけで、それは取りも直さず称徳帝の絶対的権勢を意味する。中継ぎに務まるレベルではない。

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2005年12月 6日 (火)

男系優位なら熊沢天皇もアリか

「南朝の天子を殺した北朝の天子の子孫を殺すのが大罪か」。1910年末に発生した大逆事件の首謀者に擬せられた幸徳秋水の法廷での喝破は室町時代初期の南北朝を「並立」としていた国定教科書「小学日本歴史」(1903年より制度化)の解釈を動揺させた。
当時の桂太郎首相は改訂に踏み切って「南北朝」は「吉野朝」と改められて北朝初代の光厳、2代光明、3代崇光、4代後光厳、5代後円融を正式の天皇と認めず、逆に「吉野朝」にあった後醍醐天皇の子の後村上天皇、その子の長慶天皇と後亀山天皇を正統とした。
そして北朝6代の後小松天皇に後亀山天皇が神器を渡して譲位し、後小松天皇から南北朝合一がなったとみなした。

こうした史観は時代劇「水戸黄門」の主人公である徳川光圀が『大日本史』でおおよそを規定した南朝正統論を蹈襲する。
それを引き継いだのが江戸幕末の多くの志士である。彼らは北朝を祖とする現皇統に懐疑的だったフシさえうかがえる。孝明天皇と徳川慶喜との交流に志士の多くは不快感を示し、同天皇は不慮の死を遂げた。明治幼帝を志士は「玉(ギョク・タマ)」の隠語で呼んだ。

秋水の「南朝の天子を殺した」発言は後亀山天皇の曾孫に当たる一ノ宮自天王が1457年に殺害されて神璽などを奪われた「長禄の変」を指すであろう。
後亀山天皇は南北朝合一後の条件として両統迭立を約束させたが時の権力者である足利義満が守らなかったために1410年に吉野へ出奔した。以後を後南朝史と呼び、長禄の変は掉尾にある。

志士らが「王政復古」の段階で南朝正統との観念を持っていたのは間違いがない。しかし今の皇統は明らかに北朝だ。さあどうすると「大逆」を問われた社会主義者に喝破されては為政者は身の置きどころもなかったであろう。とくに桂と彼の背後霊(長州・陸軍閥)である山県有朋にとって。
山県を天皇制への絶対的信奉者とするには留保がいる。彼の信奉は南朝正統論だった。だからこそ明治天皇にさえも時折無礼な行いをしたり、迪宮(後の昭和天皇)の婚約に反対したり(宮中某重大事件)と僭越であった。

秋水の指摘はまもなくマスコミに漏れるところとなって冒頭の通りの措置を桂内閣は決断したが、ここで決定的な錯誤を生んでしまう。
南朝正統論はそもそも光圀の独特な発想であって皇統を素直に解釈すればおかしい。南朝初代の後醍醐天皇はともかく2代後村上天皇からは政治的実権はなかった。
機略縦横の戦略家だった北畠親房が足利家の内紛を利用した機知によって形式上の南朝は続くが実態は極めて脆弱だった。後南朝史はさらにそうである。
つまり政治論的には無理筋を押したために北朝天皇が南朝を体現するとの矛盾を抱え込んだのである。それを可能にするためには両統とも元は88代後嵯峨天皇に帰着するとの遠大な引き返しを余儀なくさせられた。自天王からさかのぼって10世繰り上がるのである。
そりゃ変だとの声を封じるために思い切って「万世一系」をイデオロギーの中核に据えた。そうあるべきだとの観念が事実を覆い隠してしまったせいで天皇家に関する史実自体が全時代に渡ってフリーズしてしまったのである。

そこに咲いたあだ花が有名な「熊沢天皇」である。最初は後亀山天皇の玄孫に当たる「信雅王」(存在未確認)から数えて14代目の熊沢大然という人物が名乗り出てきてからである。大逆事件の少し前であった。
その子である寛道は敗戦後の混乱期に「熊沢天皇ブーム」を生んだ。「皇国史観による皇国史観否定」として面白がられたものだが1951年に寛道の提訴した「現天皇不適格確認」が東京地方裁判所に却下されて一挙に下火となった。
男系男子を重んじる人々の多くは万世一系を口にする。だがそのなかには南北朝正閏問題が隠されている。というよりも正閏問題を覆うために万世一系を声高に発したというが正しい。となると寛道の子孫にも天皇になる資格があるとはならないか。
むろん笑い話である。しかし万世一系とやらを真面目な顔で論じるとなると熊沢天皇もまた真剣に考えなければなるまい。
熊沢天皇は昭和天皇が全国行幸などで全国民に多大な影響力を持っているのを実証したから消えた。それは皇族に生まれて皇位に就いた者への敬慕であろう。
以前に書いたように男系を維持するならば皇籍を離れた旧皇族を皇統に戻すしかない。しかし彼らはすべて北朝3代崇光天皇から発する伏見宮系である。万世一系イデオロギーと表裏をなす南朝正統からいうと以ての外となる。それよりは熊沢天皇の子孫の方が論理的には皇位にあるべきだとなる。

バカげてないか。何もかも。

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2005年12月 2日 (金)

天皇家の男系を守る方法

「男系を守れ」との声が案外と多いのには驚いた。ならばその方法を具体的に考えてみよう。
ただし関係する人物の人権を考慮しないとの前提を付しておく。なぜならばどうしても人権侵害になるからである。もっとも人権侵害を前提にしないと男系を保てないということは男系を主張する者にはいっておく。したがって私の本意ではないことも。
なお皇室典範の改正部分は最低限で解釈によってはより広範囲の改正が必要になる点もご理解いただきたい。

1)戦後に皇籍離脱をした男系男子を皇太子殿下の次世代の皇太子とする

皇室典範9条と15条を改正して養子として迎える。最大の問題はそれで「国民の総意」が得られるかだ。現に皇族として生まれ育った内親王が何人もいるなかでの行いである。
しかも1人の男系男子を皇太子にしても解決にはならない。内親王の宮家設立を認めない現行の皇室典範のままだとしたら皇族は天皇家だけになってしまうから後が心配すぎる。といって12条を改正して内親王に宮家を継がせたからといって男系が維持できるわけでもない。
単に問題を先送りするだけだ。先送りの方法としてはドラスチックすぎるともいえよう。といいつつ、やるなら今すぐでないといけないとの矛盾がある。該当する男子は現在3人ほど。幼ないうちに皇族に復帰すればまだ何とかなる。

2)愛子内親王の結婚相手(皇婿)を戦後に皇籍離脱をした男系男子とする

皇室典範1条を改正して愛子内親王が女帝として即位し、その男子で皇統を継ごうというアイデアの持ち主が唱えそうだ。
ただ内親王の宮家設立を認めなければ皇族は天皇家だけになるとの問題からは逃れられない。愛子内親王と皇婿の間に男子が生まれなければアウトである。12条を改正して内親王の宮家を認めても女系になるという点は1)と同じ。
皇婿を皇族とするならば5条以下も手直しする必要があろう。

3)愛子内親王以外の内親王と戦後に皇籍離脱をした男系男子を結婚させて宮家とする

皇室典範12条を変える。戦後多くの宮家が皇籍を離脱させられたが、それでも天皇家以外に秩父、高松、常陸、三笠、秋篠、高円、桂の7宮家(順不同)が通算して存在したか存在している。数は決して少なくはない。それでも現在の皇太子殿下の次世代に当たる男子は生まれなかった。
何か原因があるのか単なる偶然かはわからない。だが戦後の通算7宮家と天皇家の8家をもってしてもかなわなかった男系の跡継ぎを望むならば現在の内親王すべてに3)のような手法を用いても決してやりすぎではない。むろんその部分の皇室典範は改正しなければならない。
問題はそう都合よく運ぶのかである。現在の内親王のご年齢と皇籍離脱をした男系男子の年齢とを付け合わせていくと(さすがに具体名は勘弁。いくら人権には配慮しないといってもとても書けない)かなりの無理がある。
仮にできたとしても問題は残る。そこで男子が誕生したとしても現在の皇太子殿下の次の次の世代ということになる。すると皇太子殿下の次は誰にするかがわからない。それとも幼帝を認めるか。

4)側室制度を認める
皇室典範の「嫡出」をどうとらえるか。ここでも戦後8家もありながら男系男子が続かなかったとの問題を無視できない。具体的には皇太子殿下に側室を認めたとしても、それで男子が授かるとは限らないから1)と2)のところで紹介したのと同じような問題先送りの方法にすぎない。
男系維持の方法としては3)よりも確率が低い。いくら男は何歳でも子どもを作る能力があり得るといっても現在の皇族で現実的なのは皇太子殿下を除けば秋篠宮殿下しかいない。
だったらお2人に側室を何人もつけるしかない。それこそ「国民の総意」を得るのは、ある意味1)よりも難しかろう。

1)から4)までをいろいろと組み合わせる
何が何だかわからなくなる。

1)を除くと原則的に現在の皇族を最大限尊重した方法である。それがかなわないならばいっそのこと皇室典範をガラッと変えて戦後に皇籍を離脱した宮家自体を復活させるしかあるまい。

伏見、閑院、山階、北白川、梨本、久邇、東伏見、竹田、賀陽、朝香、東久邇の旧11宮家で現在まで男系の当主が残っているのは伏見、北白川、梨本、久邇、竹田、賀陽、朝香、東久邇の8宮家。
さらに旧宮家からの男系の養子を迎えないと断絶しそうな前3家を除いた久邇、竹田、賀陽、朝香、東久邇の5宮家を復活させる。すべて伏見宮の系統であるから宗家は養子を得ても残す必要があるというならば6宮家である。

伏見宮の歴史は古い。南北朝時代の1348年に北朝3代として即位した崇光天皇を祖とし、第1皇子栄仁親王を初代とする宮家だ。約650年前にさかのぼる淵源をたどって「古すぎる」という批判がまず大きい。そこまでして男系を見つけてきてどうする、とね。
ただし伏見宮家からは15世紀初頭に102代後花園天皇が即位していて、以後118代後桃園天皇まで続いた。しかも119代光格天皇から今上天皇まで続く系統も閑院宮すなわち伏見宮系統なので102代以降125代の今上まで広い意味では伏見宮系ともいえなくもない。
何といっても伏見宮系のたくましさが頼りになる気もする。奈良時代の称徳天皇の薨去後に後を継いだ天智系と同じ役割が期待できる。
閑院宮系は光格帝即位以来、現在まで225年続いてきたわけだから私の生きているうちに「政権交代」を見てもみたい。なかには一度も皇族にならないまま人生を終えた方もいるから追号のようなことも考えなくては。祭祀の継承も難問だ。近いところでは有栖川宮廃絶の際の・・・・

・・・・って私は何でこんなマニアックなことを書いているのだ。何だか「伏見宮家を復活させよ」みたいなタイトルの文章になってしまっているぞ。系図やら史料やらを引っ張り出すと史学科生の時分に戻ってしまう。でもせっかく書いたからアップしちゃおう。おしまい。

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2005年11月 3日 (木)

女系天皇はどうして問題なのか

女系天皇を認めるかどうかで様々な議論がわき起こっている。一方で身近な問題として国民が受け止めているとも言い難い。天皇の皇位継承を考える上で一番のポイントである。

なぜかというと日本国憲法1条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあるのだから皇室典範を改正して男系ではない女系女性天皇または女系男性天皇を認めるとの「国民の総意」があれば何の問題も起きないわけだ。

世論調査の結果などを見ると公式な「国民の総意」を得る方法が実施されれば「女性天皇」までは大半が支持しそうだ。ただ「女系」となると大半が????であろう。「天皇家は初代からずっと男系だった」といわれても「ふーん」程度の認識に違いない。
ところで現実問題として「国民の総意」はいかに集約するのか。皇位の継承は皇室典範が定めていて現在の皇室典範は1つの法律であり、法律は「唯一の立法機関」である国会が改廃する。国会議員は国民の選挙で選ばれる。となると国会の審議と決定が「国民の総意」となると考えるのが合理的だ。

問題は「男系」でないと何が何でもダメなのかということだ。「男系」にこだわる人はいわゆる「万世一系」を持ち出す。ただ「一系」の方は多くの識者が指摘しているように疑問も大きい。

まず初代から9代までの天皇は実存が疑問視されている。10代以降も崇神朝と応神朝、継体天皇の出自、安閑・宣化朝と欽明朝の並立説など古代史に「一系」を揺るがす疑問が出されている。

そこまでいかなくても「一系」とは何親等までを事実上指すのかという問題もある。女帝(男系女子)から男系男子にわたった例でもある奈良時代の称徳天皇から次の光仁天皇までは8親等以上の開きがある。しかも62歳での即位だ。「曾祖父の祖父が同じでその曾孫」が親戚でないとはいわないけど・・・・

今上天皇の直接の祖先は閑院宮家出身の光格天皇(119代)であるが直系の東山天皇(113代)の曾孫に当たり直前の後桃園天皇(118代)とは7親等も離れている。
光格天皇といえば父の閑院宮典仁親王に太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうと幕府と交渉したが「君臣の別」の大義名分で押し切られた「尊号一件」の当事者でもある。先帝と大きく親等が離れていながら即位は認められた一方で単なる尊号贈与は認められない。かと思うと宇多天皇のようにいったん源氏を名乗って臣籍降下(今でいうなら皇籍離脱)した後に皇位についた例もある。融通無碍なのだ。

さらに両統迭立期を淵源とする南北朝問題がある。持明院統-北朝最後で南北朝合一時の後小松天皇(100代)と大覚寺統-南朝最後で(後南朝史はここでは除く)合一で後小松天皇に神器を譲った後亀山天皇とは共通の祖である後嵯峨天皇から数えて後小松天皇は8代後で亀山天皇は6代後である。ここに「正閏問題」がかぶってくるからややこしい。

いやいやいかに遠い親戚でも男系が守られていればいいのだ。古代史の問題は反論もあって断絶したとの確たる証拠もないと「万世一系」擁護派はいうかもしれない。では本当に男系が途絶えたことはないのか。

父は天皇ということになっているが実は・・・・という例で有名なのは鳥羽天皇1子の崇徳天皇である。彼の実の父は祖父の白河上皇(法皇)だとの説が有力だ。確かに倫理的にはともかく万世一系は途切れてはいない。ただこの話は、だからこそ表沙汰になり得たともいえるのだ。皇統に皇族以外の男性の遺伝子が紛れたことはないと絶対に言い切れるか。明治維新まで長らく「禁裏様」「内裏様」と呼ばれて密室で過ごしてきた天皇家に起こりえないことと断言できるか。証明は恐らく不可能である。

考えてみれば遺伝子(主に性染色体)で万世一系を論じるのもナンセンスか。メンデルが世に出る19世紀半ばまでに性染色体がどうこうという議論が日本で起きたとの話を私は知らない。にもかかわらず皇室はずっと前から存続していた。だからナンセンスなのである。
ナンセンスを承知で考えてもY遺伝子絶対論は不可解である。現在の内親王は当たり前だが女性だからY染色体を持たない。だからといって父親の遺伝をまったく受けてないというのは極論だ。性染色体に限っていっても女性は父母両方に由来するXX染色体を持つ。その上で性染色体だけで遺伝のすべてを語るのはバカげているとの常識がある。

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