鉄道

2006年7月11日 (火)

駅名がおかしい!? 大泉学園編

さて、駅名シリーズも第4弾まできた。今回は西部池袋線の「大泉学園」駅だ。
まだ西武池袋線が「武蔵野鉄道」という名前だった1924年に、大泉学園駅の前身、東大泉駅が開業した。「とうだい・いずみ」ではなく「ひがし・おおいずみ」です。大泉は明治からの地域名。

さて、1920年、後にコクドとなる箱根株式会社を設立し、1924年には衆議院議員に初当選していた堤康次郎は、既に買収を始めていた箱根の次に東京郊外の土地に目を向けた。今で言えば「東京郊外」といってもビル郡が立ち並んでいるが、当時は未開の地に近かったという。なぜ堤はそんな未開の地に目を向けたのか? 10万人以上が死亡、20戸以上の家屋が消失したといわれる1923年の関東大震災の後、新しい住居の土地として「郊外」が注目を集めていたのだ。
堤は、買収した土地(現在の国立、小平、大泉学園あたりの土地)を学園都市とする構想を練った。現在の一橋大学が東京商科大学という名前だった頃、初代学長だった佐野善作と堤が友人関係だったことが神田にあった大学の誘致につながった。ただ、東京商科大学は現在の大泉学園ではなく国立に移転。一橋大学と名前が変わった現在でも国立にある。
ここで不可解なことがある。東京商科大学が国立に移転したのは1930年のことで、東大泉駅の名が大泉学園駅になったのは1933年。東京商科大学の移転が国立に決定した後、「大泉学園」の名を決めているのだ。
東京商科大学の移転が決まった後も、他の大学を誘致しようとしていたのかも知れないが、かなり昔のことなので西武鉄道に問い合わせてもそのへんのことはよく分からない。なにしろ70年以上も昔のことなのだから。

バスで大泉学園駅に向かった。ネットで調べると、「大泉学園周辺は学園都市を目指していたころの名残か、整然と区画された面影を見ることができる」という記述が何点か見られたが、注意して見ていたののその名残は感じられなかった。
「大泉学園駅」なのに「大泉学園」がない、というあまりにもシンプルで且つ深い謎は解明されたが(いや、全てではないけど)、大泉学園の人々に聞くと、やっぱりいた! 5年前に引っ越してきたという子連れのオトーちゃんは「ウソ! 大泉学園っていう学校とかないの?」とシンプルに驚いた。
西武鉄道の職員によると、これまで駅名の変更については検討されたこともない(職員が知る限りでは)。学芸大学の場合は駅名変更の是非が問われた。都立大も問われていた。その結果、住民の選んだ結果が「変更はノー」だった。だけど、大泉学園の場合は、住民投票どころか、検討もナシである。これがまさしく、歴史がなせるワザというか。(ムリヤリなもっていき方だが……)
ひとつ心残りがあって、それは「俺は大泉学園に進学するぞー」的な御当地ギャグがあるかどうか、ということを調べ忘れたことだ。なんか、ありそうな気がするんです。詳細を知ってる方、情報お待ちしております。(宮崎)

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2006年6月19日 (月)

駅名がおかしい!? 二子玉川編

二子玉川園の前身・玉川第二遊園地は今から80年以上前の1922に開園した。開園当初は玉川電気鉄道の経営だったが、1939年に読売新聞と提携し名称も読売遊園に変わる。1944年に理由は定かではないが一時閉園(国内状況が遊園地どころではなかったことは容易に想像できるが)。さらにその後1954年には東急不動産の手により二子玉川園として再スタートを切った。
二子玉川園は1985年に閉園。92年からナムコ・ワンダーエッグとして50ヵ月の期間限定で開園するが、この二子玉川東地区の再開発計画が大幅に遅れたこともあり、結局2000年いっぱいまで営業は続けられた。
さて、二子玉川園の閉園後の2000年8月にようやく、二子玉川園がすでに閉園となっているとの理由から駅名が「二子玉川園」→「二子玉川」と改称された。閉園から改称までの15年間は何だったんだと思わないでもないが、とにかく駅名は変更された。(この腰の重さからすると、02年に閉園した小田急線・向ヶ丘遊園駅の改称は2017年ということになるのだろうか…。)
17日に二子玉川駅を訪れたが、駅の周りを少し歩いただけでかなり寂しい印象を受けた。理由は分かっている。数年前から計画はあったが実行されていなかった再開発がとうとう始められようとしているのだ。駅から歩いて1分の東急ハンズ入り口には大きく書かれてあった。
「この度、東急ハンズ二子玉川店は、二子玉川東地区再開発計画に伴い、6月30日を持ちまして一旦閉店させていただくことになりました」。
駅の周りの商店に聞いてまわると、ほとんどの店が6月か7月中に店じまいするという。午後6時ですでに閉店している店も多い。開発事業予定区域を示した地図があると教えてもらい、それを見て驚いたのは、あまりにも再開発区域が広かったからだ。二子玉川駅はもちろん、もと二子玉川園があった場所まですっぽりと区域を示す赤い線に含まれている。
「この辺りの建物はみんな取り壊されます。いくらか補助金が出るので、それをもらってどこかで商売を続ける、という人は多いですね」と話すのはある商店の男性店主。もしかすると駅名が変わっちゃうかも知れませんね、というと「それはイヤです。もともとの『二子玉川園』が『二子玉川』に変わっちゃったのだけでもさみしかったのに…」。やはりそうか。どこの駅に住む人にでも名前に愛着がある、というのが私の中では一般論化されつつあるのだった。(東急電鉄に問い合わせると、駅名の変更はないとのこと)
再開発区域の85%は東急電鉄が所有する土地である。しかし、残された15%は民間の地権者であり、その中には開発に反対の人ももちろんいた。「東急系の店はそりゃ、さっさと閉めるかもしれませんけど、それ以外の商店は簡単にそうはいかない。保証金が出るっていっても完全にそれで補えるわけじゃないだろうし、この年で他に移るのは想像以上に大変なんでしょうね」と商店女性店主は呟いた。出てけ、と言われても簡単に出て行く気はないそうだ。
駅の建物も含めて「ニコタマ」の風景はこれから一変する。かつてこの地域に深く根ざしていた二子玉川園跡もピカピカのビルに変わるのだろう。(宮崎)

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2006年6月12日 (月)

駅名がおかしい!? 都立大学編

Toritu 今回は東急東横線の「都立大学」駅である。1949年に開学した東京都立大学が現在の八王子南大沢にキャンパスを移したのは91年(最寄り駅は京王相模原線の南大沢駅)。移転の理由としては大学の敷地が手狭になってきたこと、建物の老朽化が進んだことがあるが、決定的だったのは多摩ニュータウンの構想上に大学の存在があったことだ。移転前、都立大はもうひとつの候補地として東京都立川市の昭和記念公園周辺を考えていたが、住居、商業、福祉、学業を含む複合都市を計画していた多摩ニュータウンとの話がうまくまとまり、最終的に新しいキャンパスを八王子に置くことにした。立川の候補地だった場所にはいまだに広大な土地が手つかずで残されているという。
さて、都立大学が移転した後も駅名の「都立大学」は変更されなかった。99年には東急電鉄が駅名変更の是非を問うアンケートを行なっている。駅に投票箱を置き、変更に賛成か反対かのいずれかを住民に投票してもらう形式で、全体の3分の2以上が「変更に賛成」の場合には変えるとされたが、「駅名変更」派は3分の2にはわずかに満たない59%で都立大学の名前はそのまま残された。
そして05年には都立の4大学を統合した「首都大学東京」が開学した。現在都立大学に在学中の学生だけでなく留学・留年などさまざまなケースがあるため2010年までは「東京都立大学」の名は残されるが、それ以降は大学名自体がなくなることになっている。
さあ、「都立大学」駅の人々はどうだろうか。都立大学がなくなっても駅名は残してほしい、そういうものなのだろうか? 前回の学芸大学の場合は、大学名は変わることなく、学芸大学駅には付属高校も残されていたから、まだ学芸大学の名が残されていても分かる部分はあった。しかし、都立大学の場合はこれから大学名がなくなり、付属高校も「桜修館」という名に変わる。(桜修館は今年開学、中高一貫教育で今の中学部1年生が高校3年になった時点で都立大学付属高校の名前はなくなる。)
都立大学に関する名前と施設があと5年で完全になくなってしまうが、住民の「駅名は変更されるべき」という声は驚くほど少なかった。地域や地元といった概念に関心のなさそうな(勝手に思っていただけだが)男子高校生からして「このままでいいと思います。いちおう馴染みがあるんで」という具合。八百屋のおじさんは「大学があろうとなかろうと住んでる人には関係ねえんだよォ」と笑う。中にはこんな視点からの意見もあった。「これからどんどんお年寄りが増えていくでしょ? 駅の名前が変わったりなんかしたら大変よ、すぐには覚えられない人もいるだろうから、迷子だらけになっちゃう」と商店店員の女性は言う。それでも、大学に関するすべてがなくなるのに名前だけ残るというのはどうなのか、ときくと「馴染みがあるとかそういうことだけではなくて、生活に障害が出ちゃまずいんじゃないかしら」と答えた。
女子高生2人組は突然のインタビューに戸惑いながらこう答えてくれた。「バス停の名前とか、お店の名前とか、そういうことを考えたら変えなくてもいい気がする。駅名を変えるといろんなことにお金がかかる、ということを学校で聞いたことがあります。」そんなに強くでもないとはいえ高校生が自治体の心配までしているのは意外だったが、「駅名が変わるとめんどくさい」という意見も含めてやはり「生活の利便性>駅名の整合性」と表すことができそうだ。複雑なところである。(宮崎)

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2006年6月 5日 (月)

駅名がおかしい!? 学芸大学編

前回取り上げたのは02年に閉鎖した向ヶ丘遊園の名前をそのまま使い続ける向ヶ丘遊園駅だったが、今回は40年以上も前に別の場所に移転している大学名がそのまま使われている「学芸大学」駅だ。
東急東横線の開通は1927年。当駅ははじめこの地域名の「碑文谷」という名前だったが、学芸大の前身である「青山師範」がその後駅名となり、52年から「学芸大学」となっている。学芸大は64年に武蔵小金井に移転した。
「学芸大がないのにこの名前なのは紛らわしい」という声を受け、99年には東急電鉄が地元目黒区の住民を対象に駅名変更の是非を問うアンケートを行ったが、住民の選択は「残す」だった。
「別に変えなくてもいいよ。変えてほしいっていうんじゃなくて別に変えなくていい」「まあ、やっぱり馴染みがあるからこのままでいい」学芸大学前の商店街で聞くと、大半はこのような「柔らかい肯定派」がほとんどだ。
それでも、たまには強烈な「支持派」もいる。不動産屋の女性は「名前は変えてほしくないです。だって、ずっと馴染んできた名前だし。学芸大学がここにはないのにおかしくないかって? いや、学芸大の付属高校はそのままあるから全然おかしくないわよ。子どものころから「青山師範」「第一師範(同じく学芸大学の前身名)」と名前が変わってきたけど、響きもいいし、いまの「学芸大学」がいちばん気に入ってるわ。」
では、現在学芸大学のある武蔵小金井駅では駅名についてどのような意見があるのか。武蔵小金井で聞いてみた。
「エ? 学芸大学駅に学芸大学ないんですか? 知らなかった。武蔵小金井が学芸大学に変われば、ちょっとおしゃれな感じにはなりますよね」中にはこんな意見もあったが、やはり「慣れた駅名なのでこのままでいい」「学芸大学駅はインテリくさくて嫌ですね」など、「このままでいい派」がほとんど。
実は、学芸大学駅の駅名については、東急鉄道が行なったアンケート以外に自治体によるアンケートも行なわれている。こんな頻繁にアンケートが行なわれているのは驚きだが、自治体によるアンケートでも圧倒的に「変更しない」が多かった。
台所用品店の男性は言う。「駅名を変えようなんてハナシはちょくちょくあるけど、まず面倒くさいですよ。このままでいいでしょう。それでも、いまだに「学芸大学はどこですか?」と聞かれることはあるんですけどね。」
学芸大学がないのに「学芸大学」。たしかに紛らわしいが、1952年から使われているこの名前は人々の生活にあまりにもしっかりと根付いてしまっているのだ。(宮崎)

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2006年5月22日 (月)

駅名がおかしい!? 『向ヶ丘遊園』編

小田急電鉄が経営していた向ヶ丘遊園が閉園したのは2002年。1927年の小田急線開通と同時に開園し、ピークの90年には実に95万人が訪れたが、そのご来園者は減少し続け、とうとう75年の歴史にピリオドが打たれた。
今から4年も前に閉園したにもかかわらず「向ヶ丘遊園」の駅名は依然そのままだ。遊園がなくなったのに、いまだにその名前が使われ続けるってどうなんだろう。
閉園後、観覧車やプールなどの各種施設はきれいに整理されてしまったが、遊園内の「ばら苑」だけはそのまま残された。Bara
ばら苑には世界中から533種、4700株のバラが集められており、1年に2度、5月と11月に一般開放される。21日に訪れたが、好天に恵まれてかなりの人が訪れていた。ばら苑園長の斎藤さんはものすごく忙しそうだった。
「今日はほんとに朝から問い合わせの電話が鳴りっぱなし。遊園がなくなってからも毎年この盛況ぶりは続いてますよ」。そう言う横でまた電話が鳴る。この日の来園は6000人を超えるという。
遊園は小田急電鉄の経営だったが、ばら苑は市民の「残してほしい」との声から川崎市が管理することになり、今では200人のボランティアが運営の手伝いをしている。
「向ヶ丘遊園」という駅名がそのまま残されていることについてどう思うかを斎藤さんにたずねた。
「いや、特に違和感はないですよ。歴史が浅いならまだしも、ずうっと使われてきた名前ですからね」
これだけ盛況なら「ばら苑」という駅名でもいいのではないかとも思ったが、「愛着があるんですよ。ずっと残してほしいんです」と言う様子からも、駅名の変更は望まれていないようだった。

向ヶ丘遊園の跡地は今後どうなるのだろうか? 実はこんな計画が進みつつある。藤子・F・不二雄の原画類などを置く展示館の建設だ。川崎市は藤子氏夫妻が長年住んだ場所だ。2010年までにオープンすることが見込まれているこの施設には、原画類の他に机や仕事道具などが展示される。
そして、藤子プロはこの施設の名称を公募する予定だという。
施設の名前を公募するんだから、ついでに新しい駅の名前も公募してもいいんじゃないのか? いや、むしろ駅名を先にどうにかすると言うべきか。それでも、ばら苑に来ていた地元のご婦人は「いや、『向ヶ丘遊園』の名前は変えてほしくない。このまま残してほしいんです。わたしが子どものころからずうっとこの名前だったんですから」と譲らない。
思っていたよりはるかに「向ヶ丘遊園」の定着度は高かった。でも、これから何十年も駅名の変更がなければ、地元の若者たちが「ところでウチらの駅名の向ヶ丘ユーエンってナニ?」と言い合う時代が来るのは必至なのだ。果たしてこれでいいのか住民さん!
どうでしょうか? 展示館も駅の名前も「ドラえもん園」で統一してみては。で、駅の出口が「ドラえ門」とかで。(宮崎)

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2005年7月27日 (水)

福知山事故の車掌が自分だったら

『JRの秘密』『車掌の本音』などの著作で知られるJR中央線現役車掌の斎藤典雄さんが小誌に連載中の記事(05年6月号)に福知山線の事故車両に「もし私が担当だったら……」と想像する部分がある。抜粋してお伝えしよう。

鳥肌が立つ。恐ろしい。イヤだ、イヤだといっても、やっぱり考える。

車掌の仕事(役割)は3つある。

①列車の後方防護
②列車の状態監視
③車内秩序維持

中でも①が最も重要で、車掌は後方防護要員であるとまでいわれている。だから、最後部に乗務しているのだ。
後方防護(列車防護)とは、事故が起きた場合、後続列車を止めること(運転士負傷の場合は対向列車も)、すなわち、併発事故(2次災害)を起こさないようにするということである。

危険と感じたら(疑わしい時は)躊躇することなく非常ブレーキで止めることと、規則でも厳しく義務づけられている。
例えば、この事故同様、普段とは違う異常なほどのスピードが出ていたとする。車掌には速度を見る義務はないが、駅への進入時とかならまだしも、運転の途中の一瞬の出来事であり、運転士に「大丈夫ですか」と問い合わせするくらいが関の山だろうと思う。変だなと感じてもあれよあれよと同じ結果になったに違いない。それで、脱線してしまった。確認したら、まず直ちに防護無線を発報する。これで近隣の列車は全て止まる仕組みだ。

そして、指令に状況を報告する。もちろん、救急車、レスキュー隊の手配等要請もする。あとは、ひたすら人命救助にあたるだけである。……と頭では分かっているが、これほどの大事故だと、正直いって分からない。想像すらできない。
何もできずに、ただ茫然と立ちすくみ、そのうちだんだんと気が遠くなり、意識を失っているかもしれない。気がついたら病院かも。

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