芸能・アイドル

2008年1月 4日 (金)

千秋離婚が示した「経済格差」の深い壁

 先月、タレントの千秋と芸人の遠藤章造が離婚した。芸能人の誰と別れようが、どうくっつこうが正直どうでもいいのだが、新聞などで報じられた離婚の理由が少し引っかかった。

 メディアが報じれている離婚原因は主に2つ。旦那の女癖の悪さと育った環境の違いだ。日本板硝子の代表取締役社長のお嬢様として育った千秋の生活ぶりが、庶民の遠藤には耐えられなかったということらしい。
 なるほど、いかにもありそうな離婚理由である。二枚目の遠藤がモテない訳もなかろうし、大人になるまで身につけた経済観念がいきなり変わることもないだろう。

 でも、千秋のキャラクターとして常に語られる「不思議ちゃん」が離婚理由として語られないのはどうしてだ?

 1つは芸能界で生き残る算段として千秋が「不思議ちゃん」を演じ続けてきたという可能性がある。となれば、実生活では「不思議」でも何でもないのだから離婚理由に挙げられるはずもない。
 実際に千秋に会ったことのない私に本当のところは分からない。しかし現在36歳。一児の母である千秋に「不思議ちゃん」を気取り続けるメリットがそれほどあるとは思えない。となれば誇張こそあれ、多かれ少なかれ彼女が変わった人物であったとは推測できる。

 つまり「不思議ちゃん」であることより経済観念からくる感覚の違いの方が、生活をともにするうえで決定的だったということだ。同じ違いでもキャラに根ざしたものより、経済に根ざしたものの方が乗り越えにくいとは、なかなか示唆に富む教訓ではなかろうか。

 じつは、以前にこれと同じような話を何例か聞いたことがある。1つは中国人の男性と結婚した女性の話だ。彼女によれば、生活習慣や文化の違いは愛で乗り越えられたが、経済の差は乗り越えられなかったそうだ。
 また高給をもらっているあるキャリアウーマンも、男性が彼女の給料の額をひどく気にするケースが多く、自然と同じような年収の人と付き合うようになったと話していた。

 経済の差は数字で表せるだけに嫉妬の種になりやすい。それだけに「違い」は「格差」となって認識されやすくなる。こういう認識が広まっているからだろうか。30~40代の高収入の男性は、同じような稼ぎのある女性を結婚相手として求める傾向にあるとの報道を目にしたことがある。

 親の経済状態が子に引き継がれる、つまり経済格差が固定化しやすいといわれる現状を考えると、結婚すら「一発逆転」にならない状況はけっこう怖くないか? 自由な選択を前提にした身分格差は、きっとこれからも強まっていくだろう。

 出版界の傍流で勝ち組とは程遠い生活をしている者として、新年早々、イヤーな気持ちになったのでした。(大畑)

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2007年4月11日 (水)

加護亜依さんはそんなに悪い子なのか

タレントの加護亜依さんがおおよそ18歳から19歳の時期、2回にわたって喫煙をしていた光景が週刊誌に報じられ、1度目で謹慎、2度目で所属事務所からの契約解除となった。

1900年成立の未成年者喫煙禁止法は第一条で未成年者の喫煙を禁じる。だから法律違反ではある。だが同法は喫煙した未成年本人の罰を定めていない。他の刑法または特別刑法にも見当たらない。すると刑罰を科すと定められていないとの一点で加護さんは「犯罪」行為をなしていない。

周知のように少年法61条は公訴を提起された少年の氏名など本人であることを推知することができるような記事又は写真の報道を禁じている。実際には公訴提起の恐れが出た時点でメディアは同法にしたがっている。だが未成年者喫煙禁止法の定めにより加護さんに公訴提起の可能性はまったくない。だから報じてもいい……そういうことなのか。
だが少年法は非行のある少年の保護を目的の1つとする。未成年の喫煙は「非行」なのか。おそらく最も近い概念は「虞犯」であろうが、そうなのか。それでいいのか。納得いく論説を私は知らない。

いずれにせよ加護さんが受けた社会的制裁は逮捕を実名で報じられるのと同等かそれ以上である。だとしたら彼女がした行為が、そうされても仕方ないほどでなければなるまい。喫煙とはそれほど悪いのか。

まず報道している側に問いたい。あなた方は加護さんのような未成年の有名人が喫煙している光景を黙認した経験が一度もないのか。後輩に囲まれている中で一服している有名高校野球選手、テレビ局の控え室でバンバン吸っている加護さんがかつて属していたアイドルユニットに似た存在を知らないとはいわせない。
加護さんは不特定多数が目撃できるような場所で吸っていたから撮られた。その点でうかつである。ただあえて「犯意」という言葉を用いるならば、うかつをもって犯意が高いとはいえない。むしろ薄いとみなすのが適当であろう。
要するにマスコミ関係者のテリトリーで行われている喫煙を、それゆえに報じず、そうでない場所だったから報じるという構図の、特に前段はおかしいといいたいのである。

次に未成年者の喫煙をことさら個人を特定して叩く意味である。道路交通法は七条で道路を通行する歩行者が信号機の表示する信号などに従う義務を科し、怠った場合は百二十一条で「二万円以下の罰金又は科料に処す」。罰則が付されている分だけ「赤信号無視」は未成年者喫煙よりも犯罪に近い。
では有名人が赤信号を渡っていたら「激写」されて該当者が謹慎だの事務所との契約解除などへ追い込まれるか。おそらく「激写」そのものにバリューがないと報道側は判断して掲載しないだろう。「その程度で悪しざまに報じても価値がない」と。もちろん報道の価値は罰の重さに比例しなくてもいい。賄賂罪の最高刑は窃盗罪のそれよりも軽いが、万引きよりもずっと大きな紙誌面が割かれる。その理由は罰の軽重以上に社会的制裁を受けるに価するからだ。
だったら加護さんは赤信号無視よりずっと重い社会的制裁を受けるべきだとなる。それが未成年者の喫煙だ。ではなぜそうなのか。喫煙に対する社会の目が厳しくなっている背景があるのは間違いない。だとすれば未成年者喫煙は信号無視よりいけない理由があるはずだ。それは何だ。私にはわからない。

赤信号無視は皆がやっているからニュース性がないが未成年者喫煙は珍しいからという点からバリューを探るのもおかしい。報道している側、それを提供されている側で未成年で喫煙した経験がないという人がどれほどいるか知りたいものだ。私は意外と法令遵守の気持ちが強く、大学に入るまで喫煙はしなかった。でも大学に入ってからは吸った。加護さんと同じ時分である。そんな人は多数いるに違いない。
高校のトイレ(「大」の方)でモウモウと煙が上がっていたので生徒指導の教師が有無をいわせず強行突破したら便器にしゃがんで一服中の同僚(教師)がいた……なんて笑い話はどこにでもあった。成人式に禁煙を誓った剛の者も珍しくなかった。私は未成年の喫煙を推奨する気なぞ毛頭ない。一方で以上のような経緯から単に喫煙していたという理由で未成年の少女を叩く風潮にも強い違和感を感じる。

国籍法は十四条で「外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない」と定めるも、実際には22歳以降も外国籍を持ち続ける日本国籍の日本人が多数いる。それを摘発したという事実を私は把握していない。それどころか誰もがペルー国籍と信じて疑わなかったフジモリ元大統領が実は日本国籍を持っていたとしてわが国は保護さえした。加護さんへの社会的制裁は明らかに行き過ぎである。

もっとも、喫煙者として……というより近年の禁煙ファシズムに対抗して喫煙を続けている私としては「加護さん。後1年我慢できなかったの?」という気もある。20歳の誕生日に記者会見して「これで堂々と吸えます」と一服したら日本中にうっ屈している愛煙家を一挙に引き寄せるアイドルになれたのにね。(編集長)

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2007年3月30日 (金)

「元モー娘。」加護が矢口になれない理由で落ち込んだ

 さて、加護亜依問題である。

 17歳でタバコを吸っていることが発覚し謹慎中だったアイドルが、18歳年上の男と温泉に行って未成年なのにまたタバコを吸ったと。で、事務所のアップフロントは契約を解除した。
 二十歳前にタバコを吸った。そりゃ確かに法律違反ではある。ただし、そんな人は山ほどいる。おそらく芸能人にも。19歳なら相手の男性も淫行条例にふれることもない。立派な交際である。例えタレントでも19歳なら恋人の1人ぐらいいてもおかしくはない。
 結局、事務所側が問題にしたのはイメージだったのだろう。もともとアイドルと芸能事務所は異性交際を禁止する契約を結んでいるものらしい。2005年に男性との交際を報じられた矢口真理さんが「モーニング娘。」を脱退させられたことからも分かるとおり、けっこう男女問題に神経を尖らせている事務所でもあるのだろう。
 
 しかし、そもそも加護さんのイメージは守るべきものだったのか!?
 まず第一に彼女のロリロリのイメージが、すでに賞味期限切れだった。小学生のようなファッションと一九歳という彼女の実年齢はかなり開きがある。
 幼さや不思議さをセールスポイントにしたタレントは年齢の壁をいずれは越えねばならない。36歳の酒井法子さんはもはや「マンモスうれピー」などとは言わない。デビュー当時に使っていた「のりピー語」は事務所が考え出した販売戦略だったが、年齢を重ね、女優としての地位を築いていくなかで霧散霧消していった。小倉優子さんが「こりん星」について語らなくなる日もきっと近いだろう。
 つまり加護さんも、もう「あいぼん」でもあるまいってことだ。

 次にモーニング娘。をはじめとするハロープロジェクト(ハロプロ)の面々に往年のアイドルのようなイメージ戦略が必要なのか、という問題である。
モーニング娘。の画期的な点はアイドルを記号化したことだった。年齢とともにアイドルとして活動しにくくなるタレントに依存するのではなく、記号化されたモーニング娘。のイメージに合わせて人を変えていく戦略。おかげでモーニング娘。として活躍できない年となれば「卒業」し、ソロや別のユニットで新たなイメージを付加されることになった。
 巨乳タレントを抱えることで有名な事務所・イエローキャブは新人を水着で売り出し、売れるにつれて服を着させるといわれる。グラビアアイドルから司会業などをこなすタレントにステップアップしていくための戦略だ。両事務所の方法とも芸能界での生き残りを目指す点は一緒だが、ハロプロの手法は量産が利く点で合理的で機械的といえる。

 こうしたハロプロの手法をおそらく消費者も受け入れていたと思う。恋人との写真をフライデーされた矢口さんがモーニング娘。を脱退後も人気を維持し、テレビなどによく出演しているのは、その証拠だろう。ファンは「モーニング娘。」というコスプレを着ている矢口さんを楽しんでいるのであって、「モーニング娘。」と完全に一体化している矢口さんを求めているわけでもない。実際、彼女が脱退させられた時、「恋人ぐらいいるだろ」という擁護の声も少なくはなかった。
 その意味で、現在のアイドルのファンは大人になったのだと思う。どうせコスプレなんだから、実態は厳密には問わないよというわけだ。キャンディーズの時代ならこうはいくまい。

 さて、ここで加護さんの今回の問題に戻る。
 「もうアイボンって年齢でもないから、喫煙やお泊まりぐらいいいんじゃない」てな雰囲気になるかと思ったら、そうでもないようなのだ。加護さんの大手ファンサイトが閉鎖されたとの報道も流れているし……。

 まあ、謹慎中ということもあったろうが、何より相手が悪かったのだろう。私と同じ歳のオヤジですから。やっぱ私も含めてオヤジが写真に写ると小汚いッス。
 しかも雪ちらつく温泉宿でしっぽり一泊。渋すぎッス。いや、同年代だけに気持ちは分かるけどね。やっぱり、この季節は温泉でしょう。草津は湯もいいしさ。ただ写真で見ると「演歌」かと。

 37歳ともなると、タレントの相手としてマイナス材料にしかならないのですね。写真を撮られたときの相手が若手俳優とかだったら、加護さんへの同情票がきっと集まったはずだから……。
 今回の騒動で改めて自分の歳を恥じた大畑でございました。まあ、タレントと知り合う可能性も皆無なんで、小汚くても誰にも迷惑かけませんけどね……。(大畑)

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2006年7月30日 (日)

萩本欽一の都合のいい立ち位置に抗議

本日ミニコミ紹介予定の宮崎から深夜0時を回ってギブアップの報が。せめてもっと早く教えてよ・・・・というわけでイレギュラーながら編集長の一席でご勘弁を

さて。萩本欽一65歳。彼は何者であろうか。

それがコメディアンというならば何もいうことはない。芸能人や有名人もまじえた2005年の茨城ゴールデンゴールズの結成も、所属選手である「極楽とんぼ」山本圭一の不祥事に基づくあれこれも一種のショーだというならば。
むしろショーであれば水際立っていた。不祥事報道の翌日に球団を「辞めることにしました」と会見して同情の声と署名運動が巻き起こり、それを起爆剤に撤回するという少々くさいが名演技である。同時期に起きたパロマの不祥事とは対照的な危機管理とさえほめてもいい。

ただしあくまでもそれはコメディアンであれば、だ。最近の報道では「萩本欽一さん」とさん付けする。芸能人に「さん付け」するのは、このような場合は一般人とみなした、つまり芸能活動とみなさない活動であると認識しているからだ。ならば何だ。文化人ってところか。
ただし萩本欽一には「萩本欽一」でもなく「萩本欽一さん」でもない呼称がある。「欽ちゃん」だ。最近の報道でもさん付けと劣らぬ頻度で用いられている。だから彼の立ち位置がわからない。手品師とも魔術師ともいわないミスターマリックと似た位置か。似てないか。まあいい。
問題は「欽ちゃん」の呼称で隠れてしまう文化人「萩本欽一さん」の行動なのかコメディアンのそれなのかを故意か無意識か彼自身が明らかにしない点にある。たぶん本人は気づいていて知らんぷりを決め込んでいるのだろう。今回はそこを追及したい。

もしも文化事業の担い手として扱われたいならば相応の責任を取る必要がある。みんなギャグなのよと笑い飛ばせはしない。逆にコメディアンならばそうとわからせる覚悟がいる。志村けんのようにね。「欽ちゃん」はいいとこどりをしている気がしてならない。

1985年コメディアン「欽ちゃん」は「充電」を名目にすべての番組を降りた。彼のテレビでの大活躍はおおむねこの辺で終わりである。以後に話題となったのは「仮装大賞」を除くと以下のようなものだ

1993~94年 「欽ちゃんのシネマジャック」を始める
1998年 長野オリンピック閉会式で司会を務める
2005年 茨城ゴールデンゴールズ結成

「欽ちゃんのシネマジャック」は欽ちゃんが「映画の楽しさを伝える」と93年は1本15分(94年は20分)を5本立てで上映する。欽ちゃん本人が製作の指揮を取り、1本約4000万円の費用を全額負担した。観覧者は映画館に見る本数分を申告して1本300円を支払う。それ以上に鑑賞したければ超過料金を事後に収めるという斬新な企図だった。
私はこの報に触れた時に「映画の楽しさを伝える」との欽ちゃんのうたい文句を素直に受けとめられなかった。コメディアンから文化人へと脱する投資のにおいをかいだのだ。
事実「欽ちゃんのシネマジャック」は93年のブルーリボン賞特別映画賞とやらを受賞したが全国60館以上の上映を目指すと打ち上げていたのに数館に止まるや、たった2年でやめてしまった。その後、彼がこのことについて公式にコメントしたとの報を寡聞にして私は知らない。

茨城ゴールデンゴールズ(GG)に至ってはチームが所属するクラブ野球という存在を国民のほとんどが知らないのを逆手に取った文化人気取りに思えてならない。
同好会レベルや企業・学校のOBなどが手弁当で作っているチームは数知れず全国に約270チームある。「草の根」といえば聞こえはいいが実情は猛烈な低レベルで全国大会の全日本クラブ野球選手権に進める程度でも高校野球の有力校よりも弱いであろう。
そもそも最高峰の全日本クラブ野球選手権すら知られていない。長らく西武ドームで開催されていたせいかチーム数も関東・東北に偏っている。ではなぜ私が知ったかというと選手権が毎日新聞社主催だからだ。しかも運の悪い?ことに私の初任地は現在のさいたま支局で西武ドームもまた埼玉県にある。
よって予選から観させられたのだがレベルは低いは客はいないは全体にマッタリしてるはで、こんな競技を主催していて紙勢が伸びるとは到底信じられなかった。事実伸びていない。
GGは05年の全日本クラブ野球選手権で準々決勝まで進出したが野茂ベースボールクラブに敗れた。その野茂ベースボールクラブは大会を制したが同年の都市対抗野球では初戦で敗退。要するにその程度の実力しかない純粋アマチュアなのである。

だから「シネマジャック」よりも敷居が低かったともいえる。しかも何だか知らないが「全日本クラブ野球選手権」と書くと、または聞くと凄そうではある。ただ実情は以上の通りなので関係者は「欽ちゃん」の登場に欣喜雀躍したであろう。
そうした計算のすべてを「欽ちゃん」は頭のなかでしている。60過ぎの爺さまにいうのも何だが小憎らしいのである。そしてマスコミのほとんどがそうした側面を突かないのもまた面白くない。だから書いてみた。(編集長)

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2006年6月26日 (月)

なぜか「ビバヒル」。その後、彼らはどうなった?

アメリカのFOX Networkで製作され、日本でも90年間から00年にかけて放送され大ヒットしたテレビドラマ、ビバリーヒルズ高校白書(『Beverly Hills 90210』が原題。「ビバリーヒルズ高校白書」は第1~3シーズン、「ビバリーヒルズ青春白書」が4~10シーズン)。
当時、私の友人にも「前のビバヒル見た?」と言い合うやつがたくさんいた。テレビドラマといえば木村拓哉と山口智子の出演していた『ロングバケーション』(フジテレビ)くらいは見てたがそんなに熱心なドラマ視聴者ではなかったから、日本のものならともかく海外のドラマに没頭する心境が分からなかった。分からなかったけどあまりにも周りの人たちがビバヒルを話題にするから、その人気ぶりだけははっきりと覚えている。先の週末、チャンネルを回しているとビバヒルの主役の2人、ブランドンとブレンダのパロディをやっていた。今でも笑いのネタにできるくらいだからその影響力は決して小さいものではない。

さて、放送が終了して6年が経つが、「ビバヒル」の役者たちは今も活躍できているんだろうか? 
「ビバヒル」のメンバーの中で今いちばん輝いているのは間違いなくヒラリー・スワンクだ。99年『ボーイズ・ドント・クライ』(キンバリー・ピアース監督)、05年には記憶に新しい『ミリオンダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド監督)で2度アカデミー主演女優賞を獲得という活躍ぶり。ビバヒルでは出演はたった1シーズンのみの出演だったのだが。
では、主要メンバーたちの現在はどうか。
主役兄妹の兄、ブランドンを演じたジェイソン・プリーストリーはビバヒル出演中にも『ラブ&デス』(リチャード・クウィートニオスキー監督/97年 主演でない)に映画出演などしていたが、02年に自動車事故で重症を負う。療養後どんな活躍をしているかは不明……かと思われたが、04年から『トゥルー・コーリング』というテレビドラマに出演していた。しかし日本でも放送されていたこのドラマはなんと、05年に低予算のため打ち切りになっていた。そしてその後のジェイソン・プリーストリーについては分かっていない。
双子の妹ブレンダ役を演じたのはシャナン・ドハーティー。10歳でテレビ出演を果たしたシャナンはビバヒル終了後、同じくビバヒル手がけたアーロン・スペリングが制作総指揮を担当する「チャームド/魔女三姉妹」(テレビドラマ)に出演。02年には『ジェイ&サイレント・ボブ 帝国への逆襲』(ケヴィン・スミス監督/01年)なるコメディに出演しているが、主役ではなかった。
こうして見るとビバヒルのフィーバーぶりからは程遠いその後になっているが、他のメンバーたちはどうなのか。これはまた次回。(宮崎)

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2005年12月20日 (火)

芸能人の「学校と芸能活動の両立」

何とか時間が取れたので更新します。

タレント、アイドル、俳優などとさまざまに呼ばれる「芸能人」は情報化社会において大きな影響を与える。最近では芸能人がお勧めというだけで本が売れる時代だ。まことに嘆かわしいが現実がそうだから仕方がない。
小泉首相は目ざとく、そうした傾向を見抜いた。自ら「何てったってアイドル」のキョンキョンをもじり、アイドル性の高い候補者を立て、くさい芝居仕立ての「小泉劇場」を演出する。テレビの効用を初めてフルに利用した首相といえるかもしれない。

芸能人を通して人は何かを理解しようとする。芸能人の子育ては一般人の子育てとは違わない。芸能人だからいきなり20歳の子どもが生まれるわけではなく赤ちゃんは赤ちゃんだ。
なのに「芸能人○○さんの子育て」との講演を打つと特に田舎では人が集まるのである。
闘病記も夫婦関係も似たようなもので一般人のそれと変わりようがないはずだ。ガン細胞は芸能人だから攻撃的になるとか手加減するといった判断はしない。なのに人々はありがたがる。バカげた話だが彼ら彼女らが象徴的存在になっているのは間違いない。

だとすると芸能人の側に立てば「普通のことをしているだけなのに特別視される」となる。これが商売上有効に働くのだから、そうではない人が気の毒がる道理はないのだが、未成年や大学生ぐらいまでの若者となると無視するわけにもいかない事情があるのを紹介したい。
15歳までは児童福祉法や労働基準法などの法規が芸能活動を制約しているが16歳以上になると事実上無防備になっているのが現実だ。つまり高校生や大学生の芸能人は「学校と芸能活動の両立」という難問を抱えている。

高校・大学に通いながら芸能活動をしている人に話を聞くたびに、彼ら彼女らは「勤労学生」なんだと痛感する。働きながら学校に通っているという点では苦学生と何ら変わりがない。だが苦学生にはあって芸能人にはない問題がいくつもある。
最大のポイントは「勤労学生」と回りが見ないことだろう。下手をすると楽しい仕事をしながら生徒・学生であること自体を疎んじる視線がある。勤労学生の授業中の居眠りには寛容でも芸能人には刺すような視線が注がれる。
他方で芸能人だからと異様に寛容になるとの正反対のベクトルが働いて、それはそれで芸能人当人にとってはつらいらしい。

さて高校と大学は義務教育ではない。したがって「学校と芸能活動の両立」ができなければ学校の方を辞めればいいとなる。それは正論なのだが実際にはどうであろうか。
現実問題としてもはや高校は義務教育に近い。大学・短大も高校生の約4割以上が通う時代である。したがって両立できねば辞めればいいと芸能活動をさせる側が開き直るような時代でもないのである。

16歳以上22歳以下の学校に通う芸能人を大ざっぱに2つにわける。
1つはすでに売れっ子になっている場合だ。その場合は所属事務所にかなりの要求ができる。実際には当人というより親が要求するケースが多い。学業に専念する時間を空けてもらうなどである。
ただ現時点で売れっ子なので仕事をセーブしてもどうしてもはずせない主役級のものはこなすしかない。帯ドラマなどなおさらである。こうした場合の収録はどうしても学校の授業時間に重なる。特に高校の場合は思い切りバッティングする。すると結局は大幅に欠席せざるを得なくなる。
この年齢で売れっ子の芸能人の多くは取材者の立場で厳しく見ても相当な努力家が多い。だからわずかな時間を生かしては必死で高校に通う。だが単位の充当にはなかなか至らない。となると結局は中退したり「特別扱い」で卒業させてもらって白い目で見られる。
もう1つはまだブレーク前の芸能人だ。彼ら彼女らは事務所のいいなりである。事務所も売りたいからドンドン仕事を放り込む。制作側もブレーク前だから容赦がない。とても学校には通えない。

先述のように高校が義務教育化している以上、18歳までの芸能人は法的な仕組みで学業優先にせざるを得ないようにすべきである。その上で芸能活動を優先させる選択をした場合には高校を辞めればよろしい。
民放はともかくNHKまで高校の授業時間帯に仕事を入れるのはとんでもない行為である。

大学の場合は高校よりは自由度が高いが必修科目に仕事がぶつかれば卒業できない点は高校と同じである。
現在、大学3年の途中から就職活動をしなければならぬ風潮が一般的だが、本来は論外である。大学の授業があるとわかっていて会社説明会を開いて恥じない大企業がのさばっているのが我が経済大国の正体なのだ。
まずこうした大企業の姿勢を厳しく取り締まるべきである。明らかにモラルに反している。それができないとせっかく大学に合格しながら通えない「勤労学生」芸能人を救う手だてがない。

該当する芸能人の、とくに真面目な人の多くが悩み、しかして表立って不満を述べる機会も自由もないとの現状を私は知った。ならば代弁しておこうと思った次第である。

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2005年12月15日 (木)

「アイ」と「ウィー」とミキティー

先般電車に乗って席に座っていたら目前で吊革にぶら下がっている20代前半とおぼしき男性が口角泡を吹かせてしゃべっていた。
「ミキティーて言えばよー。藤本美貴に決まってるのにさー。安藤美姫が何でミキティーなんだかチョーむかつくしぃ」とか何とか云々。
もう成人した大の大人が何をくだらないことを・・・・などとくだらない大人である私は無論思わない。きっと藤本美貴のファンなのだね。気持ちはわか・・・・らないけれども言わんとする論理構成?はつかめる。
藤本美貴はピンとしてやっていけるとの見方があったにも関わらず凋落の兆しがようやく顕著になったモーニング娘。のてこ入れのためにプロデューサー(女衒ともいう)のつんくが強引にメンバーにしたとか何とかいわれているアイドルさんである。

以前も書いたように私は芸能ジャーナリズムを圏外とするが「流行り廃りの旬を把握するのは編集者の基本だ」との先輩の言葉をいまだ実践していて旬であったころのモーニング娘。の名前ぐらいは押さえていた。藤本美貴加入はその最後あたりだったかなあ。なぜならば以降のメンバーを覚える努力をしていないから。

愛称は繰り返す。なあんて言葉はないのだが世代によって同じ愛称や芸名でも示す人物が違うことはよくある。それは前任者の人気が陰っていなければ起きない。私が知る限り「ひばり」や「百恵」の芸名を冠するタレントを大手プロダクションが送り込んだ例を知らない。愛称もそれに準じよう。
ただしここでは「山内百恵」の如きアダルトビデオの命名は除く。何まじめに書いてるんだか。でも飯島愛だけは例外か。その名が飯島直子のパロディだったを知る者は今や少ない。そういえば彼女も「アイ」チャンか。・・・・
元に戻そう。ということは件の若者の怒りは藤本美貴の相対的な人気凋落を嘆いてのことであろう。

世代によって思い出し方が違うことはよくある。例えば「アイ」といえば今ではもちろん宮里藍だ。短期間に福原愛から「アイ」を奪還した。でも私の世代の「アイ」は「愛と誠」の早乙女愛だったりする。
「アイ」が来れば「ウィー」となる。今の「ウィー」は当然ミシェル・ウィーである。でも我が世代の「ウィー」はスタン・ハンセンだから驚く。ハンセンの場合のウィーは名前でも愛称でもなく単なる叫び声だから凄いな。

大正-昭和初期の「たまき」といえば何たってソプラノ歌手の三浦環だったようだ。その人気の凄まじさは多くの文豪のエッセーにも残されている。
私より10歳ぐらい上の「たまき」は沢たまきらしい。「プレイガール」のオネエというと今でも血わき肉躍るそうだよ。私が思春期を迎える前に終わった番組だから実感はないが。
逆に私の少し下の世代の「たまき」は安全地帯の玉置浩二となる。
では我が世代はとなると「たまき」ではなく「タモリ」であった。無理矢理だって。いいじゃないか。学生時代から始まって今に至る「笑っていいとも!」の「いいとも!」は当初掛け言葉として流行した。
飲みに行こうかと話が進むと誰かが決まって「飲みに行ってもいいかな」と決まり文句を吐き、多勢が「いいとも」と囃すのだ。今やったら凍りつく光景である。本当はそれを見ていた二十数年前の中高年は既に凍りついていたのかもしれない。
余談だが我が世代のタモリは「笑っていいとも!」ではなく、それ以前のニッポン放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティであった。タイプはまったく異なるが「日本のWolfman Jack」といっても誉めすぎではない存在感があった。

さてこのような寒い言葉をいまだに平然と使っているのが新聞である。「イカす」「ヤング」「アベック」「ナウい」との言葉は我が世代にして既に寒かった。正確にいえば「ナウい」は前述のタモリが連発していた「ダサい」の対象語として生で通用していたが後3つは使った記憶がない。

◎毎日新聞01年2月10日
長いタイトルがナウい?「土曜ワイド劇場」や「火曜サスペンス劇場」
・・・・さすがに近頃は見かけなくなった
◎朝日新聞05年3月6日
「ハリポタ」社長、高校生に夢語る 朝日ヤングセッション
・・・・ちなみに「朝日ヤングセッション」は朝日新聞主催だから朝日の言語感覚といっていい
◎読売新聞05年10月22日
スノーボード W杯21日 ハーフパイプ 女子の今井、男子の国母がアベックV
・・・・このように「男女ともに」という意味をスポーツで使う際に新聞は鬼のように「アベック」を使う
◎読売新聞05年5月24日
イカす! パウエル氏、自動車レース・インディ500をPR
・・・・その他では最近、食用の軟体動物である「イカ」にまつわる販売PRなどの話題に「イカす」を使う新聞が多い。イカを食するのが「イカす」のだと

すべて恐ろしいことにタイトルで使われている。本文まで検索すればまだまだあるに違いない。

これらを組み合わせて一文を作ってみよう。少し要素が足りないので、これまた死語であるビフテキを加える。ビフテキとはビーフステーキの略で「銀座・末広」の造語であるとも言われている。一時はオセロゲームやセスナのような商標と同様に一般名称に置き換わるほど普及したが「ステーキ」にやがて押されてBSEでトドメを指された格好だ。

ナウいイカしたヤングのアベックがビフテキを食べに行っていいかな?いいとも!

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2005年11月12日 (土)

和泉元彌とセッチーは偉い!

プロレスの「ハッスル・マニア2005」が11月3日、横浜アリーナで開催されて狂言の和泉元彌が初めてリングに上がった。鈴木健想を「空中元彌チョップ」とやらで倒したというから驚きである。母の節子さんが率いる「セッチー鬼瓦軍団」が脇を固めたとか。健想の妻の浩子も加勢して大いに盛り上がったという。

私は元彌氏がこれをもって「墜ちた」とは決して思わない。「セッチー」こと節子さんには拍手を送りたい。

さて02年。「和泉元彌」に関わる「スキャンダル」は連日報道されていた。勝手に二十世宗家を名乗ったとか、ドタキャンだのダブルブッキングがどうだとかとあたかも社会的関心事のように騒いだ。
私はその背景に「セッチー」という「ですぎた女」をよってたかってバッシングしてやろうとのいじめの構図を感じた。ジェラシーや、それを叩く快感を隠して、もっともらしい解釈を加えて叩きに叩く構図はワイドショーの得意とするところ。「セッチー」の前には和歌山の毒物カレー入り事件の林真須美被告や「サッチー」こと野村沙知代元プロ野球監督夫人と続いていた。
たしかに林被告は当時、凶悪事件の容疑者で、その後逮捕、起訴されたので、報道する一定の価値があったのは認める。野村夫人も01年12月6日に脱税容疑で逮捕されたので、それを指弾するのがいけないとはいわないし、ニュースバリューもあるのはわかる。

しかしその間にプライバシー侵害としかいいようのないウソか誠かわからない情報を、これでもかとたれ流して視聴率が上がったという話を聞くにつれてメディアを介した集団リンチに近いのではと感じた。
このような批判はワイドショーの制作側にもある程度伝わっていたようで、野村夫人の場合には、彼女が旧新進党の国会議員の名簿搭載者として立候補しており、場合によっては繰り上げ当選の可能性がある「公人」だとの言い訳がされていが語るに落ちたとはこのこと。
野村夫人が「公人候補者」ゆえに、何時間もプライバシーも含めて批判されるべきだとしたら、文字通りの「公人」には何十時間もさいてあらゆることを批判すべきだ。小泉首相など1日中批判していないと釣り合いがとれない。

しかも「セッチー」はどこから迫っても「公人」ではなく犯罪の容疑者でもない。そのような人物がなぜバッシングされるようになったのか。
「和泉元彌」の名が広く知られるようになったのは、01年のNHK大河ドラマ「北条時宗」で主役を演じてからだ。節子さんは、主役に決まったと発表された00年末に元彌氏が務めた紅白歌合戦の発表に付き添うなどして、「あれは誰だ」と密かに注目された。
そして翌年2月に元彌氏とタレントの羽野晶紀さんとの「熱愛」が明らかとなり(後に結婚)、節子さんが猛反対しているとか、嫁としての「鬼の心得」を述べたりといった報道がさかんになされた。

ところが、肝心の「北条時宗」は大河ドラマとしては人気薄で終わり、この年から02年初めにかけては小泉・真紀子人気や米国同時多発テロ、年末の野村夫人逮捕、鈴木宗男問題など有名国会議員の不祥事と相次いで「大ネタ」があったので、「和泉元彌」話はチョコチョコ報道されるにとどまっていた。でもその間に、少しずつ、でも確実に「セッチー」の否定的なイメージは視聴者に浸透していった。そして大騒ぎとなる。
ではあの騒ぎは騒ぐだけの価値があったのかを考えよう

1)ドタキャン・ダブルブッキングがそんなに問題なのか
一般常識としてはもちろんいけないが、それで信用を落とすのはあくまでも和泉側なので、第三者がワーワー騒ぐ必要はない。それによって被害を受けた人が我慢できないならば損害賠償請求をすればいいだけのこと。それが頻発すれば報じる価値があるかもしれぬが、そんな状況ではなく、また仮に民事裁判の被告になったとしても、それを実名で報じるにあたっては慎重さが求められるのは報道の大原則である。
節子さんのマネジメントが稚拙であるとの批判もあるが、伝統芸能は狂言に限らず、能や文楽、また比較的大規模な歌舞伎でさえ、世間が思っているほどもうかる職種ではなく、小規模なマネジメントでやっている。だからプロレスにだって出るのだ。
「おめでとうございます」で知られた太神楽の海老一染之介・染太郎師匠は、あれだけの有名人でありながら、マネジメントは本人でやっていた。そのことを芸能マスコミが知らないとしたら勉強不足だし、知っていて批判をするならば、せめて伝統芸能の経営の実情ぐらいは併せて報じないとフェアではない。

2)長時間かけて報じる価値のある出来事か
たしかに元彌氏や節子さんが公人ではなく、刑事被告人になる可能性がなくても、社会に重大な影響を与える人物であり行動だと報道する側が判断すれば、独自の判断に基づく報道はあってしかるべきである。で、どんな判断があったか。視聴率が上がる以外に何かあるのか。

3)和泉流の内紛が大ニュースなのか
報道では、元彌氏が勝手に「二十世宗家」を名乗り、それを商標登録したことが問題だとされているが、別に犯罪でも不法行為でもない。和泉流に内紛があるのは事実のようだが、それは和泉流の内部でどう解釈するかというだけの話で、それ以上ではない。おそらく元彌氏と対立している側の認識もそうであろう。
だいたい狂言という伝統芸能を、ワイドショーはこれまで今回の騒動の何百分の一かでも時間をさいて紹介したことがあったか。
和泉流ということならば、1994年に当代一流の人気を誇る野村萬斎が「萬斎」を襲名したときに、「萬斎」は五世野村万蔵の隠居名であり、本来ならば現在活躍中の七世万蔵(現在は野村萬)に継ぐ資格があり、七世万蔵の弟である万作の子である今の萬斎が継ぐのはおかしいとの意見があった。
当時は狂言界の一部で深刻な話題となったはずだが、たいして騒がれなかった。当然である。騒ぐ方がおかしいのだから。その時には「セッチー」役がいなかったからワイドショーは騒がなかったのだ。

4)母親が息子の結婚に反対してはいけないのか
どのような思想をもっていようと自由だし、表現の自由も憲法で保障されている。あえていえば憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」の精神にそむいているということにでもなるか。
でも「両性の合意」によって元彌氏と晶紀さんは実際には結婚したから、それほど糾弾されるいわれはない。後は家族の、つまりプライバシーの問題である。
それに、俳優の梅宮辰夫氏がタレントである娘の結婚に反対の発言をしていた頃、ワイドショーはずいぶん好意的に取り上げた。父親が成人した娘を心配すると好意的で、母親が成人した息子を心配するのは否定的というアンバランスの裏側に「男尊女卑」という封建道徳がある。

5)マスコミの自作自演の「狂言」ではないのか
私は「狂言」(仕組んで偽る)を演じているのはマスコミ自身ではないかと疑う。節子さんを出演させて何かと話を引き出しているのも、ダブルブッキングを追い掛けて騒動に仕立てているのもマスコミ自身。
岐阜から東京までの「ダブルブッキング」で、和泉側がヘリコプターや飛行機などを約300万円かけて移動したなどと、その異常ぶりを報道したワイドショーが使用した報道用ヘリや車、殺到した「報道陣」の人件費などはいくらかかったのか。
マスコミ自身が大騒ぎして、その様子を「大騒ぎが起きている」と報道する行為は「仕組んで偽る」そのもの。この意味での「狂言」師はどうやら和泉側ではなく、ワイドショー側にいらっしゃるようだ。

かくして和泉親子はダーティイメージに消えたかに思われた。しかし男尊女卑やしっとしっと心からなるバッシングを肥やしにして「セッチー」は「鬼瓦軍団」と化して逆襲に出た。考えてみれば「ハッスル」も「空中元彌チョップ」も皆虚構(偽り)の世界だ。鈴木健想とまともに闘って勝てるわけがない。そこを舞台にして「仕組んだ」のだから和泉元彌は立派な狂言師である。

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