映画・テレビ

2009年6月19日 (金)

人間国宝・沈壽官の手紙公開!――『白磁の人』映画化決定記念――

 さる3月14日、山梨県の甲府にいた。
 小説『白磁の人』(江宮隆之著)の映画制作発表の為である。あれは何年前の事だったろう。長野県松本市で韓国料理店「やんちゃ坊」を営む李春浩さんの訪問を受けた。彼は初対面の僕に熱く真剣に「白磁の人」の主人公である浅川巧について語り始めた。

 浅川巧、明治24年(1891)山梨県北巨摩郡(現・北杜市高根町)に兄・伯教(のりたか)の弟として生を受けた。浅川巧は山梨県立農林学校を卒業後、キリスト教の洗礼を受け、大正3年(1914)兄を慕って、当時、日本の植民地であった朝鮮に渡ったのである。兄・伯教はその前年に朝鮮に渡り、教員として働きながら、その後精力的に朝鮮の古窯跡を調査し、後に「朝鮮白磁の神様」といわれる存在になる。父の顔を知らない弟・巧は兄の影響を強く受けて育ち、朝鮮の芸術に深く傾倒していくのである。

 巧は朝鮮総督府山林課に勤務した。当時の朝鮮の山々は、日本が持ち込んだ地籍法により、多くの土地が持ち主不在と認定され、没収の後日本政府に好意的な朝鮮人や日本からの移民に次々と下げ渡されてしまっていた。新しく地主となった人々は土地に執着がなく、すぐさま木を伐採し、売り払ってしまう。
 朝鮮半島は固い岩盤の地であり、そこに薄い表土が覆っているだけである。禿山となった朝鮮の山々はたちまち保水力を失い洪水を起こしてしまうのであった。これに心を痛めた巧は「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を考案し、朝鮮の山々の4割を復元したと言われている。その方法とは、山野に落ちている木の実を、林業試験場の畑に埋め、1年程経ってから、再度、元の山に埋め戻す方法である。これによって山の種が発芽することを突き止めたのである。
 この方法により、徐々に朝鮮の山々に緑を取り戻した。また彼は、兄の影響で始めた朝鮮芸術の世界においても、昭和4年には、「朝鮮の膳」昭和6年には「朝鮮陶磁器名考」を出版している。現在でも高く評価されている名著である。

 当時、日本は武断政治を敷いていたが、巧は日常、朝鮮人の民族衣装であるパジチョゴリを身につけ、流暢な朝鮮語を話した。そして朝鮮の言葉で彼等と交わり、貧しき者には金を与え、常に彼等と共にあった。彼は柳宗悦に宛てた手紙の中で「私ははじめ朝鮮に来た頃朝鮮に住むことに気が引けて、朝鮮人にすまない気がして何度か国に帰ることを計画しました」と述べている。感受性豊な巧は被支配民としての苦渋を味わっている朝鮮民衆に対し、前に出る事が耐えられなかったのであろう。
 巧は急性肺炎により昭和6年4月2日、若干40歳でその短すぎる生涯を閉じた。彼の死は近隣の地区に知られる事となり、応じ切れない程の数の朝鮮の人々が集った。「哀号」と泣き崩れる数多くの朝鮮の人々の中から村長によって選ばれた10名が棺を担いだ。植民地下の朝鮮に於いて、日本を憎悪する者はいても、公然と日本人の亡骸を担ぐ事など考えられない事である。

 今も巧の墓はソウルの東、忘憂里の丘にある。戦後、日本人の墓は取り除かれたが、巧の墓だけは例外的に残されたという。
 私もこの墓を訪れた事がある。そこにはハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人ここ韓国の土となる」を刻まれてあった。そして、現在でも韓国林業関係者並びに陶芸に携わる者達によって墓は守られている。

 日本があの国を支配した36年、この事実が現在の日韓関係に深い溝を作ってしまった事は間違いない。そして、その36年の間には、実に様々な事が星の数のようにあっただろう。勿論、筆舌に尽くせない程の屈辱や哀しさもあったに違いない。否、ほとんどがそうであっただろう。しかし、同時に浅川巧やその他の僅かな人々の様に暗闇の中であっても清流の様な日本人もいた事は両国の記憶に留めて置くべきだ。
 この度、この浅川巧を主人公とする映画が出来る。監督は神山征二氏、シネカノンの製作になる。難しいテーマであろう。我々はあまりにも近く、そしてあまりにも多くの事がありすぎた。しかしながら、浅川の死を受けて、当時の京城(ソウル)帝大教授、後の文武大臣の阿部能成氏はこう残している。
「官位にも学歴にも権勢にも、富貴にもよる事なくその人間の力だけで堂々と生き抜いた」と。
 以前、司馬遼太郎先生から頂いた手紙の中にも、同様の件があった。司馬先生は「自らを一個の人類に仕立て上げよ」と述べられておられた。浅川巧に学ぶ点はまさに、その事である。
 今日の日本人に最も必要な事を伝えてくれる映画になってくれる事を私も、そして李春浩さんも祈っている。(十五代 沈 壽官)

※『白磁の人』の映画製作の詳細はコチラ

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2009年6月 7日 (日)

涼宮ハルヒとTBSが示すメディアの興亡

 2009年はマスメディアとネットの勝敗が、完全に決した年になりそうだ。

 すでにご存じの方も多いと思うが、4月9日、TBSは“歴史的”な視聴率を記録した。どの時間帯でも1ケタの数字だったのはもちろんこと、その日の最高視聴率が「みのもんたの朝ズバ・2部」と再放送の「水戸黄門」の7.2%だったのだ。ゴールデンタイムの裏番組が強かったとはいえ、キー局で夕方の再放送番組にゴールデンタイムが負けるのは尋常ではない。

 一方、5月24日には神戸サンテレビジョン、テレビ埼玉、新潟テレビ21など、独立UHF局を中心としたローカル局の放映のためホテルを予約した人が続出した。TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』をチェックするためだった。じつは、このアニメ番組も大枠では再放送だ。ただ、この日に限って新作が挿入されたのである。

 もともと『涼宮ハルヒの憂鬱』は06年4~6月の深夜に独立UHF局を中心に放送されたアニメだった。原作はライトノベルの話題作だったが、この作品がここまで人気を得たのは、冒険的なアニメ制作の姿勢とメディア戦略の成功によるところが大きい。
 ポイントは限定的な情報の流布だった。そもそもUHF局放送では見られない地域が出てくる。それを全国的な人気に押し上げたのが、インターネットの動画サイト「YouTube」の「違法映像」だった。従来の著作権の観点からいえば問題だろうが、テレビで見ることができず飢餓感を煽られた層には、テレビ放映以上のインパクトを持って迎えられた。
 さらにアニメ自体も、初回に劇中の主人公が文化祭用に作ったとされる素人的な映像を放映したり、時系列を無視した順序で放送したりと、原作を読んでいない人には意味不明な代物だった。しかも、その謎を解き明かそうと公式サイトにアクセスしても詳しい解説がない。結局、原作を読んだ人がネットで解説し、その解説を読んで原作を買い求める人が増えるという循環を生み出した。こうした好循環の中で06年6月にDVDも発売され、記録的なヒットとなったのである。

 その後、07年7月には朝日新聞で「ハルヒ二期決定」と銘打たれた一面広告が掲載された。しかし一向に新作が放送されることなく、今年の4月から「再放送」が始まる。ただし「再放送」にもかかわらず、以前と放送順序が変わっているうえ、2ちゃんねるで一期の再放送と二期の新作が混ぜられるとの情報が流れた。さらに5月18日には、テレビ和歌山が番組表にサブタイトルを「誤って」表示。それが新作のタイトルであることが確認され、いち早く放送を見るために地方のホテルに宿泊する人が出た次第である。

 この『涼宮ハルヒの憂鬱』のメディア戦略には、2つの大きな特徴的がある。1つはテレビ放映がメディア戦略のサブに置かれたこと。そしてもう1つは、ネット情報を管理しようとせず、誘導しようとしたこと。
 アニメの制作費をDVDの収益によってまかなおうとする手法は、95年放送の「新世紀エヴァンゲリオン」に始まったとされる。物語の謎を解き明かそうする視聴者の欲求がヒットを生みだした構図も2作品は似ている。しかし95年当時、テレビ放映の影響力は絶対だった。動画を配信するネット環境は整っておらず、DVD発売でヒットを飛ばすにもテレビ放映が必要だった。
 そうした構造は『涼宮ハルヒの憂鬱』によって過去のものとなった。どうせ人気を得るためだけの放送なら、飢餓感を煽れるローカル局の方が適しているという考え方はある。実際、ローカル局だったからこそ今回の「ホテル宿泊」もニュースになったのだし、放送後すぐにYouTubeにアップされ、ネット上で大きな話題となったのだから。

 もう1つの特徴、情報の管理はマスメディアの根幹とかかわってくる。
 立花隆氏が田中角栄元首相の金脈疑惑が報じたとき、政治部の新聞記者は「そんなこと、みんな知っている」とつぶやいたとされる。これが情報統制とは言い切れない。裏付けが取れない、ネタにならないと切り捨てたという考え方もある。いずれにしても、マスコミの情報は一定の管理下にある。
 一方、ネットの言論にはタブーも検証もない。根も葉もない噂が一人歩きしていることも少なくない。そうした魑魅魍魎の世界に、『涼宮ハルヒの憂鬱』は「限定された情報」という形で一石を投じた。波紋は好きなように立ってくれという姿勢である。いしたにまさき氏が喝破している通り、「ネットの善意を信用」したのだろう。(詳しくは、いしたに氏のブログで!)

 これが記事広告の形で雑誌などに情報を提供したなら、カネはかかるが情報を管理できる。しかしネットで広がっていった情報は、どんな結果を生み出すか正確には予想できない。それでも既存のマスメディアより影響力の点でも使い勝手の上でも、ネットが上だという可能性を「ハルヒ」の成功は示した。

 電通の調査によれば、08年の広告費は前年比でテレビが4.4%減、新聞で12.5%減だという。制作費の削減に血眼になっているテレビ局は、広告主の機嫌を損ねるようなことは絶対にできない。そうしたメディアの状況を乗じたのかどうかはわからないが、4月末には大手企業社員がテレビ番組を評価する「優良放送番組推進会議」が発足した。今後も息を詰めて広告主を伺うテレビ番組から、若者を中心とした視聴者がどんどん離れていくに違いない。それでもマスコミはネットの善意を信じることは、なかなかできないだろう。

 大きな時代の流れを改めて感じた2つの事件だった。(大畑)

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2008年11月 5日 (水)

ノンフィクションは始めたけれど

水曜のTBSゴールデンはなかなかの鬼門である。
バラエティーとノンフィクションとライトな教養を思いつきのように取って出しする「水トク」(ちゃんと考えてタイトルを付けましょう)がやっと10%を超えた何回か以外がシングルという低視聴率を叩き出し続け7月16日の「食糧危機・日本人が飢える日」の8.5を最後に終了して、翌週から「水曜スペシャル」(ちゃんと考えてタイトルを付けましょう)はノンフィクションショクを強めて再出発したものの初回は6.9と大コケ。CXのヘキサゴン&はねるの厚い壁に到底及ばないのは当然のこととしてTXの「いい旅・夢気分」(7.5)にまで敗北してキー局最下位へと沈んだ。

結局この「水曜スペシャル」は「マグロに魅せられた男」(6.4%)「有名人壮絶介護日記」(10.1%)「熱血警察官24時」12.0%と私がかねてより強く批判している警察ヨイショ番組が何とかまあの数字を残して自然消滅したらしい。今は「地獄を見た芸能人」とか「銀座の母」のスペシャルで続いている。

で、曲がりなりにもノンフィクション風の番組は消えたかというと9時台に移って「水曜ノンフィクション」(ちゃんと考えてタイトルを付けましょう)が始まった。これが初回6.1%、2回目が何と3.6%とゴールデンにあるまじき物凄い数字を叩き出している。

最近はNHKの視聴率がよく全日、ゴールデン、プライムのいずれもで民放キーへ割り込んで2位から1位をうかがっている。正確にはNHKが伸びたというより民放全体の視聴率が下がった結果の現象だ。ではあるもののそうなってみると「NHKは何やっているのか?」と久しぶりに検討したに違いない。すると当然の結果として民放では弱いノンフィクションやドキュメンタリー、報道で数字を取っているとわかる。ならば……とやってみたのでしょう。
でもね。ロケといっても赤坂周辺というような感覚でノンフィクションは作れない。カネはともかく時間がかかるのだ。それを端折ったような番組作りでは誰も見ない。ゴールデンにノンフィクションを持ってきた勇気は買うけれど肝心の作り手に人を得ぬまま「水トク」「水曜スペシャル」を硬派にしたようなものでは却ってなえる。「マグロに魅せられた男」もオイオイだけれどまだ数字は稼げるよ
それより局員は知らないだろうけど命を張ってドキュメンタリーを作っている独立系の制作プロダクションに相談してみたらいかがか。高飛車にではなく頭を下げて。3.6%はあり得ないでしょう。

さて続く10時台の新番組「久米宏のテレビって奴は」まで5.5%とプライム帯にあるまじき低空飛行というか離陸せずというか。報ステに勝てないのはいい。爆笑レッドカーペットも仕方ない。でも「水曜ノンフィクション」「久米宏のテレビって奴は」を平均して4.6%は同時間帯のTXの2時間もの「秘境イリアンジャヤを行く」(5.6%)にさえ及ばずキー最下位では話になるまい。
「水曜ノンフィクション」はかつて「明石家さんちゃんねる」のあった時間帯。さんまへマルナゲドンでシングルを連発した。「久米宏のテレビって奴は」にもマルナゲドンの香りがする。久米さんも久々の登場だから得意の報道で勝負すればいいのに。というか関口宏と久米宏を入れ替えた方がよくないか? 関係ないのか。(編集長)

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2008年10月 8日 (水)

止めよう地デジ

地上波デジタルは本気でやるらしい。何のため、誰のためなのか全くわからない設備投資である。およそテレビに関わる者としては

①テレビ局
②番組の出演者
③視聴者
④スポンサー

あたりが当事者。そのいずれもが別段得をしない。
地デジの売りは「電波の有効利用」「高品質画像」「双方向」「マルチ編成」当たり。これらが何をもたらすのか

「電波の有効利用」は空いた周波数で何ができるかだから差し当たってテレビには関係ない。

売り物の「高品質画像」は誰がそれを求めているか謎である。丹念に追った動物ものとか世界遺産や美術紹介、開局○周年記念とか芸術祭参加作品とかいった目玉番組で奮発した豪華セットなどにはよかろう。でも「開局○周年記念とか芸術祭参加作品」は常にではない。ラインナップから推して恩恵があるとしたらNHKぐらい。
そもそも今のテレビ番組をより高い品質でみたいとする視聴者が多くいるとは思えない。バラエティーなど特にそう。ドラマはセットのアラが見えるとまずいのでコストアップにもつながりかねない。俳優さんの化粧もより入念にということになりそうだ
ワンセグは移動体でテレビが見られる仕組みでデジタル化の成功例といえよう。しかしそれは文字通りワンセグ。つまり通常のテレビ画像の3分の1程度の低品質である。それが成功したのは視聴者が画質より利便性を重んじている何よりの証拠ではないのか
お金持ちのスポンサーは高品質画像のCMを流したいかもしれないけど、これまたカネのかかる話だ。そもそも広告の効果測定はなかなかに難しく画質をあげれば客が付くといった明確な根拠をこれまで広告代理店の方から聞いたことがない。

双方向も端末であるテレビ受信機から視聴者がテレビ局へアクセスできるわけではないので本当の意味での双方向ではない。WEBカメラでお話しするような「双方向」が実現するはずもない。

マルチ編成に至っては存在自体が矛盾をはらむ。先に示した高品質画像のCMを提供してくれるスポンサーはおそらく上得意だ。したがって番組も高品質画像で流すしかない。その時点でセグメントの過半数を制してしまうからマルチにしようがない。
今程度の画像でよければ理論的にはワンセグを維持したまま3番組がマルチに作れる。正確には2番組分が空く。空いてどうだというのだ。人もカネも時間も余っていて(ありえないけど)今まで通りのメーン番組に加えて同時間帯に別の2番組を流す? それは自局で裏環境を整えているのと同じ行為にならないか。何が悲しくてしのぎを削る他局(裏)ばかりでなく自局で同時間帯を張り合わなければならないのか。
その「自局裏」が数字を取ったらどうする。メーンの広告主はきっと怒る。「いやあ裏であんな強いのをぶつけられると厳しいですよ」との言い訳が通じない。
では「自局裏」が数字を取れなければいいのか。よくない。「まったく無意味な行為をしている」と同義だからだ。
そして人もカネも時間も余ってなどいないという現実を考えればマルチ編成はほとんど意味がない。

地デジというのは要するにハード依拠の公共事業と同じだ。ソフトである番組制作への恩恵がないし、そうした配慮がもともと感じられない。費用はテレビ局に重くのしかかる。その分だけ制作へのしわ寄せが必至だ。高品質を価値あらしめるためには制作にカネをかけねばならないのに実際には逆方向となる。マルチ編成を本気でやったらテレビ局の編成さんも制作サイドも比喩ではなく本当に多数が死んでしまう。それでもやり遂げて戻ってくるのはスポンサーの苦情なのだからやりきれないことこの上ない。

今からでも遅くない。やめましょう。そのお金は制作現場につぎ込みましょう。ソフトの充実あってのハードである。地デジの電波塔である新東京タワーの開業は停波に間に合わないらしいし……ていうかこれもすごい話ですよね。
ところで新東京タワーの名称はなぜ「新東京タワー」でいけなかったのか。今ある東京タワーと紛らわしいから? いやあ、誰も間違えないと思うね。「東京スカイツリー」との新名称も定着するかしら

①「モーニング娘。」のように最初は違和感があったが次第に定着する
②「E電」のように最初の違和感を抱えたまま消え結局は新東京タワーと呼ばれる運命にある

どちらか。私は②に賭けたい。そういえばJR車掌の斎藤典雄さんの記事を編集して知ったのだけどJR東日本社内ではE電という言葉は生きているそうだ。よかった!……という話でもないか(編集長)

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2008年10月 1日 (水)

テレビ局の入構証

仕事の関係でテレビ局の入構証というのを局ごとに持っている。理由は簡単でないと局内に入れない。入れないと仕事ができないからだ。忘れると大変で一緒にお仕事をしているADの方など呼び出してもらって降りて来させ、受付でかなり面倒な手続きをしなければならない。その間に会議でも始まったら迷惑をかけてしまう。
今の入構証は以前と違ってハイテクだ。おおよそスイカやパスネットみたいなものと考えてもらえばいい。それをピッとかざすと門が開く。入構証には局名と私の名前と顔写真と所属会社などが見えるように記されている。いったん入構するとそこは別世界。めくるめく……などということは別にない。
「マスコミ」と呼ばれる組織に正社員として、または関係者として関わるようになって20年以上経つと何の驚きもない。いやそうでない人も別段すごいとは感じない光景が広がる。

新聞社の場合は基本的に社員が構成するので社員証でいい。ただし編集局は厳重である。これは20年前より厳しくなった。毎日新聞の場合は私が社員だった頃、編集局の前には警備員が一応いたけれども眠っているようだった。今はビシッとしておられる。そこをくぐり抜けると20年前はそのまま編集局へ入れたと記憶するが今はもう1つチェック機関をくぐらなければならない。
それも当然だろう。編集局の中で飛び交う情報は、それこそ全部書いたらあぜん呆然仰天のたぐいのオンパレードである。「10を取材して1を書く」の原則でいえば残りの9が渦巻いているわけである。裏が取れない、書くに値しない、書ききれないなどなど。そのなかには値しないけど下世話な興味は十分に引く情報も満載なのである。

一方でテレビ局にはそうした深刻さがあまりない。ただし私のような外部の人間が関わる量が新聞作りに比べると格段に多いので入構証が必要なのだろう。でも顔写真は効果薄な気がする。局内には「入構証を常時携帯せよ」と張り紙が貼ってあるので私は首からぶら下げている。そうしている人が圧倒的に多い。といってすれ違いさまに入構証の顔写真とご本人を素早く比較するのは神業である。多分できないしやろうとしている人を見たこともない。
おそらくそんな表面上の問題ではなく入構するまさにその際の情報確認が決定的に重要なのだろう。スイカと同じわけだからIDカードの情報はコンピュータで照合されているはずだ。そこで怪しい人物をはじこうとの算段である。ここで問題。私は怪しい人物ではないのか。答え。怪しい。ただし怪しいにしても個人情報と入構時間が記録されるので何かあれば特定される。だから大丈夫なのである。

最近時々見かけるのはタレントさんで入構証をぶら下げている方。この光景は以前はなかったよなあ。

この入構証はなくすと大変らしい。どうやら顔認証まではしていないらしく拾った人が不届き者だと入れてしまうようだからだ。あんなところに仕事もないのに入っても仕方がないと思い込んでいたのだが、どういやらそうでもないと最近気づいて厳重に管理するようになった。
というのも私の入構証を見て「すごーい」「ほしーい」という人がたくさんいると知ったからだ。見せびらかしたのかって? 違う違う。先に書いたように局内にいる時にはぶら下げておかねばならないではないですか。で、そのまま退局した後も忘れたままぶら下げていたのを「それ何?」と聞かれたのだ。
笑い事ではなさそうである。うっかり置き忘れたのを不届き者が手に入れて私の入構証で侵入したとする。そこで盗撮やら何やらを働いて去ったとする。後に発覚したら記録に残っている不届き者は「私」となってしまうのだ。
そうか。だからこそ入構は厳重になったのか。(編集長)

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2008年6月11日 (水)

毎年が元年

以前「日本をダメにする言葉」(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2008/04/post_9ab4.html)という記事を書いたら予想外に反響があって驚いた。時間がなくてやっつけで書き殴ったので努力と反響は比例しないのだと改めて意を強くした。強くしてどうする。
その筆頭にあげたのが「切り替える」だった。そこではスポーツの例で紹介したが実をいうと別の取材からインスパイアされた部分も大きい。
大新聞や民放キー局から中小零細に至るまで内需関連の企業は軒並み苦戦中である。しかもそれが何年も続いている。いったいいつが「いざなぎ超え」だったのか、そもそも「いざなぎ並」でさえなかったのではというありさまである。

仕事がらみから取材先まで、こうした内需企業のほとんどはじり貧にあえいでいる。言い換えるとドカ貧にならないよう精一杯努力している。その労力はおそらく高度成長期に費やしたのと変わらないかそれ以上であろう。みんな頑張っているのだ。
それでも年を追ってジワジワと後退する売り上げまたは利益。徐々に閑散としてくる店内。少しずつ落ちていく視聴率や読者数および広告費。それは小春日和から一転して大雪というほど極端ではない。地球は徐々に温暖化しているとされていても実感はさほどない。それよりはやや実感をともなうものの内需企業は段々に寒冷化している。

ある目標を立てる。必死で集客する。あの手この手の限りを尽くす。その結果「ある目標」にわずかに届かない。でも懸命にやった。「ある目標」には少しだけ届かなかったけれど頑張ったじゃないか諸君と慰め合う。結果を分析してみれば当然悪い部分の方が多いはずなのに、よかった点をあえて探して「今度はここをプッシュしよう」などと「成果」として収める。プロジェクト全体が複数にわたる場合は1つや2つは惨敗もある。でもまあそれはそうだったが全体としては「まとまった」「落ち着いた」といった表現で一応ホッとしたりもする。
一区切りついたところでさあ次の展望だ。あえて見出した「プッシュ」ポイントを次回に押し出してみる。ここでの「ある目標」は前の「ある目標」よりも若干低めに設定する。ただ前回に感触をつかんだポイントだから期待は大きく膨らんでもいる。そしてまた精一杯の努力を傾ける。結果はやはり「ある目標」には届かない。滑り出しが好調でワッと沸いても尻すぼみ。期待ほどに滑り出さないままやはり尻すぼみ。
前者の場合はロングテールという便利な言葉が最近あって「まだまだ工夫の余地があるはずだ」と言っているうちに本当のテールエンドに近づくと話題に出なくなる。後者の場合は最初から「落ち着いた」状態を探すようになる。
それでも目を皿のようにすれば1個所や2個所「よかった」という反響なり何なりが出ては来る。すると今度はそこを励みに新たなる「プッシュ」ポイントを築く。一区切りついたところでさえ次の展望だ。あえて見出した……から先は前に書いたとおりの繰り返し。

そんな縮小再生産を続けていくうちに民放地上波(キー局)はテレビ東京を除いても世帯視聴率平均がプライムで12%程度。全日では一桁が当たり前となってしまった。テレビ朝日は最近ではTBSを上回ることもしばしばで、それはそれで盛り上がっているようだが、その数字はNHKと変わらなかったり抜かれたりしている。この数字は10年前のテレビマンがタイムマシンでやってきたら絶句する。タイムマシンで未来へ行って進歩に絶句するのではないというのがつらい。
民放の雄をNTVと競うフジはキムタクの月9でも数字が取れなくなった。「幸せって何だっけ」が細木数子とともに去った枠はいまだ埋められず遂に古畑任三郎をゴールデンで放映し始めた。いいじゃないかって?それが再放送なんですよ。ゴールデンで再放映!

たまたまビデオリサーチの数字があるからテレビを紹介したまでで、こうしたじり貧傾向はどこにでもある。少しずつ弱っていく体力を振り絞り、最近では多くの会社が年の初めを「第二の創業」「元年」などと言い出した。それが毎年続く。毎年ある「第二の創業」と「元年」。論理矛盾していてもお構いなく「切り替える」のである。それが日本の「いざなぎ超え」の実情。もうみんな知っているけど言わないし言えないし言いたくもない。「あれ? 今年は第6の創業じゃないの」など突っ込みを入れようものならドン引きである。

ああそれなのに福田政権は何もしない。どころか悪事を働こうとしている。サミットで2050年の温室効果ガス削減目標を打ち出すそうな。あなたは今年で72歳。42年後まで生きているつもりか。114歳だぞ。原油価格急騰時に暫定税率を復活させて、「必要な道路は造る道路特定財源の一般財源化」なる一度読めばまやかしとわかるスローガンにかこつけて税制の抜本改革なる話を進めるらしい。どうせ消費税値上げ。そんなことされたら内需産業は本当に大雪だ。(編集長)

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2007年11月27日 (火)

芸能界における「天然」は伝家の宝刀か。

 テレビのクイズ系バラエティー番組を見ていると、「私は頭が悪いです」と自ら公共の電波を使って宣言している芸能人が少なからずいる。
 だいたいそういった人たちのキャッチフレーズは、「天然~」とつく。ちなみに男性の場合はつかないことが多い。圧倒的に女性用フレーズだ。
 通称・天然系は、空気が読めていない人か、明らかに頭が悪いのどちらかに分けられる(あえて断定する)。
 空気が読めない人だが、これも育ちが良くてほわっとしているせいで空気が読めない人と、「俺が、俺が」といった自己顕示欲丸出しで空気が読めていない人に分けられる。
 前者は絶対数が少ないし、そもそもそういう人は逆に頭が良かったりするかもしれないので(友人でないから確認不可能)、計算をしていると決めつけさせてもらう。
 後者は頭が悪いというよりは、ハーレムにいる女たちのように、前へ出て顔と名前を覚えてもらい上の人間の寵愛を受けねば生きていけない……主に若手芸人に多い。空気が読めずウザいと視聴者に思われたとしても、とにかく「お前、空気読め!」と突っ込まれればおいしい。 問題はそのあとで、「空気が読めない奴」から「アイツ、天然なんスよー」とランクアップした場合、計算ではなく実は頭が悪いんじゃないかという疑惑が浮かんでくる。
 「天然エピソード」を聞くと、どう考えても頭が悪いというか脳の病気なのではないか……と、笑いつつも少しその人の人格が心配になるときがある(よけいなお世話?)。
 ただ空気が読めないだけの場合は、サバイバルのための知恵。空気読めない人から天然なヤツになった場合、頭が悪い人である確率が高まる。
 次に、「天然」を売りにしている芸能人の場合。これはもう誰がなんと言おうと、頭が悪いヤツが9割。
 小学生でもわかる問題を解けない(珍回答とされる)、難しい問題が出題されても「わからない」といわず、意味不明の答えを言う。
 さすがに「頭が悪い(知能レベルが小学生並みとか……)」というキャッチフレーズを使うのが問題なのか、イメージの問題なのかはわからないが、「天然」と言えばノープロブレム、場が盛り上がってテレビ的、視聴率的にOK! という理由で「天然」を使っているのだろうか。芸能人はなんともいい仕事である。頭が悪くても「天然」で通って仕事がなくなるわけでもない。賞味期限が短いかもしれないが、一般社会ではまず社会からドロップアウト……それ以前に、社会に出られない可能性のが高い。頭が悪くてもルックスが良ければ、芸能界へ入ればお金が稼げる。なんていい商売。うらやましい。
伝家の宝刀だの天然がどうのとぐだぐだ書いてきたが、簡潔にまとめると、「芸能人は(ある意味)ズルイ!」。
 しかし、こうバカなタレントが連日現れると、視聴者のテレビ離れがますます進みそうだ。
 バカは移る。私はこれ以上頭が悪くなりたくないので、CS放送を見ることにする。なんちゃって。(奥津)

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2007年10月 7日 (日)

「死化粧師」を観る 第1回/遺体と向き合う

■「エンバーマー」。聞きなれない言葉だし身近な存在でもないが、たしかにその職業はある。正体についてはよく分からない。
「死んだら全部終い(しまい)なんじゃー」的な男気あふれる(?)生き方をしている者でも、葬祭業関係者には後々お世話になる。本人には関係なくても残された人たちには関係がある。そう考えると、葬祭業も死者に接しながらにして生き続ける人々にはたらきかける職種ともいえる。
 これから毎週日曜は元・葬祭ディレクターの小松朗子さんがドラマ『死化粧師』に関してや葬祭にまつわる事柄について書く。それは私たちが知る日常とはちょっとかけ離れた世界、かもしれない。(編集部)

       *      *      *

 本日より、テレビ東京の深夜枠で「死化粧師」がはじまる、というので見てみることにした。
「死化粧師」は、祥伝社のレディースコミック「フィールヤング」(物悲しい名前だ)で連載されている、三原ミツカズ氏のコミック。比較的太い線に彩られたゴスロリな雰囲気には根強いファンもいる。人間と人形の境界線をあやふやにさせる「DOLL」、死後天使となった子どもが登場する「たましいのふたご」など、生と死にまつわる精神の深いところを抉り取ろうとするのが三原風だ。

「死化粧師」とは一体何ぞや、といぶかる方も多かろうが、エンバーマーである主人公の間宮心十郎そのひとをさしている。エンバーマーとは、遺体修復・衛生保全を行う技術者のこと。血液を抜いて防腐液を入れ、必要とあらばパテで部分修復を施す。現実、日本にはまだあまりいない。技術取得のためには専門の学校で医学に基づいたエンバーミング(遺体衛生保全、と訳される)の理論・実践を学ばなければならないが、アメリカの専売特許のようになっており、日本には数えるほどしかない。しかも知る限りでは片手で余る。

 あ、はじまった。前フリをまだ書き終わってないのに、ドラマが始まってしまった。改めてキャストを見ても…深夜枠だからか、知ってるキャストがまったくいない。国生さゆりくらいだ。
■公式サイト:http://www.tv-tokyo.co.jp/shigeshoshi/

 今回のエンバーミング対象者は、バレリーナの詩織。交通事故で右足を失い、そのままお亡くなりに。数日後にはバレエの舞台に主役で立つことが決まっていて、優しい婚約者もいた若い子なのに。
 途方にくれて泣き喚く婚約者に、葬祭コーディネーターの小林恋路(忍成修吾)がそっと語りかける。
「詩織さんが、また天国で踊れるように、時間を元に戻せる、魔術師がいます」
 それはもちろん、エンバーマーの間宮心十郎(和田正人)のこと。
 ああ、その一言で一体おいくらまんえんの仕事をとるのかしら、と、えげつない事を考えてしまう。

 私も恋路の立場にいたことがあった。2年前まで、葬祭ディレクターをやっていたのだ。もちろん、間宮心十郎のようなエンバーマーはいないから、やれるだけのことは自分でやることになる。
 最初の頃は、遺体に触るのもイヤだった。はじめてお客の家にお邪魔して、布団に休んだ故人を見たときの感覚を今でも覚えている。怖いとは思わなかったが、驚きもしなかったが、なんというか、ショックだった。自分でも、あの感覚は一体なんだったんだろうと思い出すたびに考える。しかし1ヶ月がたち、2ヶ月がたち、仕事に慣れてくると、うっかり故人をまたがないように気をつけなければならないほど神経が麻痺していた。以前は、遠巻きに、近づかないようにと神経を張っていたのに。

 ドラマでは、心十郎がバレリーナに衣装を着せてやっている。
 同僚が、あと数日で結婚式だった故人にウェディングドレスを着せたことはあったようだが、私にそういった華やかな過去はない。
 しかし、服を着せたことなら何度かある。

 警察が変死体の検死を行うとき、そのご遺体は裸にされることがある。
「変死体」とは、なにも特別な遺体の事を指さない。自宅で亡くなった場合はすべて変死扱いとなり、自殺体と考えられた場合でも、一応検死が行われる。

 そんな事情で、たまーに病院ではなく自宅に直接来て欲しいといわれ、おうちに上がってそっと布団をめくると、一糸まとわぬ状態だったりするものだ。
 心無い警察が業務のみを果たし、そして心無い検死担当医師が看護師を伴って来ず、浴衣を着せてあげなかったりすると、こういうことになる。
 まさか、葬儀屋まで心無い仕打ちをするわけにもいかない。
 死後硬直が始まっており、腕を抜く作業が一番厳しいが、汗だくになりながら着せていく。世の中には、背中の開いた浴衣もどきもあったようだが、そんな便利なツールはないため、すべてが力作業。その代わり、着せられたときには達成感がある。遺族に感謝されて満足なのか、目標を達成することが出来て満足なのか、自分でよく分からなくなってきていたりしたものだ。

 果たして、エンバーマーの満足は、どちらから来るものなのだろう。
「エンバーミングが終わった後は、いつも、寒い…」と震えている間宮心十郎には、そういう感覚自体がないのであろうか。
 じゃあ、なんでわざわざエンバーマーになんてなったんだ?(小松朗子)

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2007年4月18日 (水)

「発掘!あるある大事典II」ねつ造問題で怒った愚かな視聴者

「発掘!あるある大事典II」のねつ造問題には驚いた。何がビックリかといって「信じていたのに!」と抗議の電話やメールが視聴者から多数寄せられた点だ。関西テレビは建前上「申し訳ありません」と答えるしかなかろうが、その実は「信じていたのか!」が本音であろう。

検証番組を見て途方もない無力感にさいなまれる。例えば「私の隣人は宇宙人だ」との妄想を抱く者がいるとする。その者が蕩々と述べる「なぜ隣人は宇宙人か」の論理そのものは整然としていて聞く側も思わず「そうかもしれない」との説得力を帯びるほどだとしよう。だったら隣人は宇宙人か。答えはノーである。
同じことだ。「食べてヤセる!!!食材X」こと納豆……という原点が「隣人は宇宙人」と同程度に妄想であるのは常識ある大人ならばわからなければならない。納豆でやせるなどありえないのだ。そんなことは納豆をしばしば食する人には常識以前であろう。

「ヤセる!!!」メカニズムは簡単だ。消費量より多く摂取すれば太る。摂取量以上に消費すればやせる。飢餓状態に陥った際に納豆しかなかったら納豆摂取は何もないより生命維持に貢献する。食べたら飢えがさらに深刻化するはずがない。誰でも知っている。
「食べてヤセる」の「ヤセる」を単なる体重減少とみなせば下剤あたりは当てはまろう。また摂取障害を引き起こす力のある毒劇物でもよろしい。「食べてヤセる」とはそうしたことだ。わからない人は愚かとしかいいようがない。

検証番組を見る限りでは納豆を「食べてヤセる」を信じたとして、その証明に失敗し、にもかかわらずそれらしく装うべくデータ変造などをやってのけたのが問題らしい。先ほどの例になぞらえば「隣人は宇宙人」を信じた上で、そうだと他者に説明する内容に無理や改変があったというわけだ。だから謝ったし視聴者は怒った。でもこの図は根本的に誤っている。「隣人は宇宙人」程度にありえない「納豆でやせる」を信じ込んだ時点で妄想に駆られたというところを。
妄想を原点とする論理はいくら精巧でも成立しない。要するに無理も改変もなく、学識経験者(これも怪しい言葉だが)が正に作り手が要望したようなコメントを発してくれたとしても、「納豆でやせる」をオーソライズできそうなデータが正真正銘取れたとしても、それ自体を疑うのが科学の、というよりまともな人間のまともな対応である。ねつ造の罪は妄想を真正と信じ込んだ罪に比べればむしろ軽い。
検証番組では局のさまざまな立場の人がもっともらしい顔をして問題点や反省を指摘していたが違うのだ。根本が妄想の産物であるテーマにいかなチェックやコンプライアンス?を加えても何の意味もない。無意味な努力めいたことを営々と積み重ねていたこと、そのものが問題の本質なのだ。

ここで疑問が生じる。こんなに下らない構図を難関のマスコミ試験を突破した社員は誰一人気づかなかったのか。気づかなかった可能性はある。そうだったら途方もないバカだ。関西テレビは目下そのように振る舞っている。バカでした。今後は気を付けます、と。
でも私は信じない。そんなはずはないのである。知っていて作ったのだ。納豆でやせるはずはないとわかっていて放映したのだ。検証番組はその点を巧みにすり抜けている。本音は「しょせんバラエティー。そんなことあるわけないとわかっていてもひまつぶしにどうぞ」だったのでしょう。でも「それを言っちゃあお仕舞いよ」だから言わなかっただけなのだ。

自分でも驚くことに私はこの「本音」を支持する。「隣人は宇宙人」と同程度にありえない前提に発しているのだから笑ってすませば終わりだった。少なくとも大人に対しては。だとしたら本物のバカはありえない前提を番組を見て「あるある」と信じ込み、そうでないと知って抗議の電話やメールを発信した視聴者なのだ。
民放地上波はタダである。「やせる」はかなりの人にとって魅力的なテーマである。すると「発掘!あるある大事典II」の内容を信じた人とはテレビがタダで自分にとって魅力的な問題を解決する情報を与えてくれると信じ込んでいる人だ。少し考えればそんなことあるわけないとわかる。それがわからないということは「少し考え」る能力さえない人が日本中にゴマンといるという何よりの証拠ともいえよう。
すなわち「食べてヤセる!!!食材X」を信じて裏切られた人はテレビ局に抗議する代わりに自分がいかに愚かだったか、考える営みをトコトン怠ってきたのか反省すべきである。

では関西テレビに問題ないかといえば1点ある。「あるわけない」とわかって作ったくせに、問題視されるや番組作りの過程に甘さや不誠実があったとすり替えた部分だ。そうされてしまうとすべての報道に同様の疑いが生じてしまって真剣に「ある」「ありうる」問題を追求している者にまで嫌な視線が注がれる。視線で済めばいいが規制を呼び込むきっかけになるから迷惑千万だ。
民放地上派に頼みがある。本気で事実を報じている番組には画面右下あたりに「報道」とクレジットしてほしい。新聞や雑誌が「広告」とすると同じ要領で。それがない番組は基本的にネタだとわかれば誰も信じないし、信じた者がバカだったとできる。そしてそうした番組自体はあってもいい。
そんなことしたらCMが入らないって? 大丈夫大丈夫。江原だ細木だの怪人物による意味不明な言説をたれ流している番組にだってスポンサーはいるのだから。(編集長)

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2006年7月 3日 (月)

なぜか「ビバヒル」。その後、彼らはどうなった? 後編

さて、ケリー役のジェニー・ガースについてはどうだろう。ケリーはブレンダ、ディランと三角関係になり、後にブランドンと恋仲になる恋多き女だ。
1972年生まれ、15歳のときに美人コンテストでタレント・エージェントにスカウトされたジェニー・ガース。その後、ロサンゼルスに移り、演技の勉強をはじめ数々のオーディションを受けた。そして、バーバラ・エデン主演の「A Brand New Life」(テレビドラマ)でエリカ役を獲得したのは17歳のとき。その後、テレビドラマの端役として出演はするものの、ぱっとする存在でもなかった。しかし、「ビバヒル」で一気にブレイク。ブランドン演じるジェイソン・プリーストリーが降板してからは主役的な存在になった。「ビバヒル」終了後は04年からNHKでも放送された「恋するマンハッタン」にバレリー・テイラー役で出演していた。今年3月には夫で俳優のピーター・ファシネリとの間に3人目の子どもができたことが報じられている。「ビバヒル」ファンは役者としてのジェニー・ガースを見たいかもしれないが、最近はどうやら女優としてではなく動物愛護団体、社会奉仕団体の活動などにいそがしいようだ。いらぬ世話かもしれないが、社会奉仕活動の現場にいきなり有名女優が入ってきてびっくりされたりしないのだろうか? 

そして、ケリー(ジェニー・ガース)と恋仲になった悪童キャラ、ディランを演じたルーク・ペリーはどうしているのだろう。調べてみると、先月から『Windfall』というテレビドラマに準主役として出演しているようだ。宝くじで当たった3億8600万ドルを共同購入仲間20人で分け合う、という妙に心惹かれるストーリー。ルーク・ペリーは労働者階級の妻子持ち役。どうもこの人はセレビィな役には割り当てられないのか…、と思ったら2001年に公開された映画『バミューダ 呪われた財宝』(ルイス・ティーグ監督)では青年実業家役でしかも主役を張っている。ルーク・ペリーは他のビバヒル出演者と比べて映画にちょくちょく出演している。1997年の『フィフス・エレメント』(リュック・ベッソン)にも出演してる(ちょい役らしいが)。2005年にも『スパーノヴァ』(ジョン・ハリソン監督)なるパニックもので主役を張っているからかなり活躍している、といっていい。

スティーブ役を演じたアイアン・ジーリングはテレビドラマのゲスト出演はいくつかあるもののメインキャラ、映画での出演はない。2003年にはアニメ版『スパーダーマン』で声優となったりしている。アンドレアを演じたガブリエル・カーテリスはテレビドラマにコンスタントに出演。
日本の視聴者をも熱中させた「ビバヒル」。こうして見てみるとその後の活躍はそれぞれ。この中から再ブレイクを最初に果たすのはだれだろうか?(宮崎)

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