文化・芸術

2009年7月15日 (水)

マイケルジャクソンは早死にだったのか

エルビス・プレスリー 42歳

ジョン・レノン 41歳

ジミ・ヘンドリックス 27歳

フレディ・マーキュリー 45歳

マーク・ボラン 29歳

キース・ムーン 32歳

ジョン・ボーナム 32歳

カート・コバーン 27歳

ジョーイ・ラモーン 49歳

男性アーティストで洋楽シーンに欠かせない者の多くは早死にしている。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビルボードの1位になったのが1955年7月8日。ここを基点にロックの歴史を考えると「まだ」54年。この間にこれだけの人が死んでいる。現在も存命で「欠かせない」男性といえば、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、デビット・ボウイ、エリック・クラプトンと数えることはできる。でもそれより多くが他界している……気がする。

そうだ。ボブ・ディランがいた。やはり彼はいろいろな意味で別格ですね(編集長)

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2009年1月14日 (水)

初笑い洋楽おバカなプロモーションビデオ

なおここでは定番のTwisted Sisters のWere not gonna take it'とAl" Yankovicの一連の作品は除外する。前者はDee Sniderのキャラクターが物凄いだけ?で内容は実に真面目だから。後者はパロディー作品として評価すべきで、言い換えれば「おバカ」自体を精密に狙った作品なので。ちなみにヤンコビックは出世作Eat Itが単純に笑えるので初心者向け。私が最高傑作だと思うのはニルバナのパロディ Smells Like Nirvana(http://jp.youtube.com/watch?v=UnuHJZMdako)。本当にグランジ(汚い)。カート・コバーンがこれを見て自殺したくなったのではないかと思えるほどに

●自己陶酔型
Steve Perry のOh Sherrie(http://jp.youtube.com/watch?v=__eI4u_tQD8
ジャーニーのボーカルがソロで放った。いきなり歌い出すところから終始ハイテンションが空回りする。この「ハイテンションが空回り」の代表作がJourney自体のSeparate Ways(http://jp.youtube.com/watch?v=sxxOyGK1pMk)であろう。メンバー全員が必死になってバカらしいドラマ仕立てを演じている。埠頭で女性を取り囲むあたりからもう目が離せない。この2本を見ただけで一日中スティーブでお腹いっぱいだ
同じく自己陶酔型の極致といえるのがLionel Richie の Hello(http://jp.youtube.com/watch?v=PDZcqBgCS74)である。このPVは全編で一つのドラマとして完結している。それが悲しいほどおかしい。廊下で歩いて歌うなライオネル。電話口で突然「ハロー」というなリッチーと突っ込みどころ満載のまま当初よりモチーフとなっている女学生の作品が実は何であったかが最後のオチになる。感動を狙ったのだろう。だが……。笑えるというより腰が抜ける。
スティーブ・ペリーと同じくフレディもソロを出すとなると力が入りすぎてしまうというのがよくわかるのがFreddy Mercury の I was born to love you(http://jp.youtube.com/watch?v=4vdJqIGyMtM)。楽曲自体は日本で特に有名だけど実は当初はクィーンでなかった。したがって発売時のフレディ名義のPVを見ないとすごさがわからない。元々自己陶酔が許されている人に歯止めがなくなったらこうなるとの見本。いきなりフレディの顔が15も出てくる。その後もソロだから当然ながらフレディフレディフレディフレディ。ブライアン・メイがなぜ必要なのか。フレディがどうしてソロでは弾けなかったのかがよくわかる。

●お金がなかったのね
今や大御所のボノやスティングにもこんな時代があったというPV。
U2のNew Years Day(http://jp.youtube.com/watch?v=zHzLWLFTPPI)はひたすら寒そう。本気で本当の雪原で撮った様子である。日が暮れた後に火を炊いてまで雪原で頑張る。馬で移動するというこの設定だとドラムのラリーがただただお気の毒。
日本を舞台にするとどうしても変なPVになってしまう。Kanye Westの Stronger(http://jp.youtube.com/watch?v=3jzSh_MLNcY)はもうお金持ちになった後だけど「カタカナがクール」という感覚が日本人にはよくわからん。「ガソバレ」はねえだろう。確か「北の家族」が映り込んでいたような。私の憧れの女性であるGwen Stefaniは「カワイイ」路線で確信犯とはいえ例えばHollaback Girl(http://jp.youtube.com/watch?v=2AU-kAnB24I)で出てくる「原宿」は何?もっともPV自体がトンデモ系で「すごい姉さんがやりたい放題」だ。ところでHollabackってどんな意味かしら。かけ声のような。
お金がなかった話に戻る。The Police のSo Lonely(http://jp.youtube.com/watch?v=inFm_DRNsQ0)は地下鉄浅草線だ!しかも「終電後にエキストラを入れて撮った」という雰囲気がまるで感じられない。つまり本気?で動いているフツーの浅草線にポリスが乗り込んで撮った風なのだ。違ったらごめんなさい。もしそうだとしたら後年の人気を考えるとありえない。スチュワート・コープランドの悪のりが笑える。

●訳知りの人は
Oasisの Don't Look Back In Anger(http://jp.youtube.com/watch?v=Wz_3ljfBass)はまぎれもない大傑作である。しかしボーカルをノエルが取っているためリアムがひたすらヒマである。プール上でドラムを叩く設定も謎。そうそうこの歌詞で出てくる「サリー」とは何を指すのか知っている人がいたら教えて下さい。
Jeff Beck&Rod Stewart のPeople Get Ready(http://jp.youtube.com/watch?v=WRq7A_5sdfY)は私情をそのままPVへ持ち込んだ作品といえよう。ギタリストとしてのベックとヴォーカリストとしてのロッドは互いに天才と認め合い、マーケットもそう認めている。ゆえになのかくっついたり離れたり。この曲は「くっつこうか」へベクトルが向いた際にできたと見られる。来いよと呼びかけるロッドはなぜか山小屋にいる。そこをベックが訪ねていくシチュエーションなのだが、何といっても滅多に見られないベックの「演技」に注目。列車(貨物車?)のなかで弾きまくるベック、農民に囲まれて弾きまくるベック、子どもにギターを教えるベック。アンプは当然ない。そしてロッドとの感動再会。抱き合ったぞ。でもロッドは最後は結局女の子と踊ってしまう。この辺が暗い結末を暗示させる

●パロディーを超えている
サタデー・ナイト・ライブのティナ・フェイがサラ・ペイリンの物まねで絶賛され、ついにペイリンご自身まで登場して全米が爆笑の渦と化したのは記憶に新しい。出るペイリンさんもすごい。このような設定がBette Midlerの Beast Of Burden(http://jp.youtube.com/watch?v=D4R9FiKE0Tk)で見られる。何しろパロられるミック・ジャガー自身が全編出演。最初の会話では恋人らしきベット演じる女性に浮気を疑われている。つまりミック自身がミックのパロディーでもあるのだ。ティナ・フェイもベットも本業は女優でいずれも高い評価を受けている。そしてストーンズの名曲をベットが歌うのだけど、その演技はソックリを超えて「いくらミックでもそこまで……」である。それを冒頭の会話で「1曲だけは聴いていくよ」と約束したミックが見ていたためにという展開だ(編集長)

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2008年12月10日 (水)

マスコミ総崩れ

わが出版界は大不況である。トーハンの今年度上半期の中間決算は赤字。大手書店グループ文教堂恒例の新年懇親会は来年中止。伝説の吉祥寺店を含む弘栄堂書店がどうやら精算の方向。月刊現代休刊、月刊プレーボーイ休刊……。暗い話を探すときりがない。

というわけで私も「出版外収入」を求めて他メディアでコソコソと仕事をしているものの、そのどれもが不況下にある。とりわけ民放がおそらく史上初の逆風を受けている。キー局の日本テレビとテレビ東京が中間決算で赤字転落。他社も含めて制作費の切りつめにやっきである。
民放地上波は長らく「広告収入=会社の収入」というものすごく単純なビジネスモデルで通してきた。その広告が今年に入って激減したのが大きい。でもだからといって制作費を削れば番組の質も働く者の士気も基本的には下がる。すると「広告出稿=視聴率」のうちの視聴率が悪化し負のスパイラルがやってこよう。別の財布を持っているNHKは今や職員が「ハッキリ言って視聴率は意識しています」と断言する時代だ。
窮余の策で増加中のパチンコ広告。さぞかし景気がいいかと思いきやこの業界も大変らしい。射幸性の高い機器が排除されて客離れが深刻なのだそうだ。でも今華々しく売り出しているパチンコ機もまた射幸性が高いものが多いらしく規制の声が上がっている。大々的なパチンコ広告を眺めている子の姿を親も放ってはおけない。そのうち激減するだろう。
すでに以前の大スポンサー消費者金融は貸金業法成立を受けて大半がビジネスモデルを失って広告どころではなくなっている。今でも時々見かけるのは「無理のない返済プランで……」と説教するたぐいばかり。無理のない返済プランが立たないから消費者金融へ駆け込むわけだからブラックジョークである。「マネーよりマナーを」などとサラ金に説教されたくない。
彼らが貸し手でなくなれば当然パチンコの原資も細るわけで共倒れは必至である。とうの昔にタバコの広告はテレビから消えた。車も売れない。スポンサーがどんどん消えていく。

とはいえ新聞に比べればまだましである。私が入社した時点で既に「再建」が社是?だった毎日新聞はもちろん厳しいだろう。もっとも広告単価が高いとされてきた朝日新聞まで中間決算で赤字となってしまった。今日(12月9日)の朝刊は広告企画で「朝日ネクスト」というのが入っている。シティ、オリックス証券、アクサ、外為どっとコムなどが出稿しており「1500兆円が日本の未来を明るくする」と題して個人金融資産を活用せよと解く。あの竹中平蔵氏のインタビュー記事の下に「外為どっとコムで、FXを始めよう!」との広告が。あ……ありえねえんじゃねえか。この「朝日ネクスト」も購読料に含まれているのか。

ならば当然ながら広告会社も不景気で業界トップの電通も思わしくない。民放が悪いのだから、歴史的に見てその生みの親である電通がそうなるのも仕方あるまい。この会社は文系学生の大人気企業である。それが昔から不思議でしょうがなかった。

以上、「出版外収入」を求めマスコミという名のサバンナを放浪する私がかつてありつけたオアシスはどんどんなくなっている。というか総崩れに等しい。本業へ戻れとの神の仰せか。でも神様。本業が飢饉で食えないから出稼ぎに来ている労働者へ「戻れ」とおっしゃるのは水野忠邦じゃないですか。(編集長)

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2008年12月 3日 (水)

キャロルキングの「マイ・リビングルーム」コンサート

08年11月21日に行ってきた。キャロルといえば名アルバム「タペストリー」(つづれおり)の大ヒットで女性シンガーシングライターの扉を開いた開拓者として歴史に名を残す。数年前から自宅の居間へお客様を招き入れ、本人がピアノ演奏しながらMy Living Roomコンサートが人気で日本でも同形式にて行われた。

間に20分の休憩をはさんで約2時間。66歳(と本人が言っていた)とは到底思えない全盛期と変わらぬ歌声で圧倒される。客層は私より年上の女性が主流。まあタペストリーが71年で、当時ティーンだったとなるとそれくらいになる。何となく大人しめだ。

セットリストはキャロルが唱った約25曲のうち「タペストリー」から10曲。いかにすぐれたアルバムだったのかわかる。

さてキャロルといえばタペストリー、タペストリーといえばキャロルというぐらい決定的な関係にある一方、ライターとしてのキャロルの歴史はさらに10年前にさかのぼる。ビルボードチャートでシュープリームスが“Will You Love Me Tomorrow”(タペストリーにも収録)でナンバーワンになったのは1961年1月末から2週。シュープリームス自身の初NO.1でもあった。
60年代前半のナンバーワンの面々を見ているとほとんどが男性だ。エルヴィス、レイ・チャールズ、フォー・シーズンズなど。64年からビートルズとストーンズが大参入して来るもやはり男。そのなかで継続してヒットを飛ばしたシュープリームス(およびダイアナ・ロス個人)はすごい。

キャロルが書いた次のトップはボビー・ビーの“Take Good Care of My Baby”(タペストリー未収録)で61年9月中旬から3週にわたってナンバーワン。翌62年8月末に“Loco-Motion”(タペストリー未収録)でキャロルのベビーシッターさんリトル・エヴァがトップ獲得後、グランド・ファンクが74年にカバーで1位を得る。63年1月にスティーブ・ローレンスが2週に渡り“Go Away Little Girl”でトップ。後にこの曲はドニー・オズモンドがカバーして71年にも3週間ナンバーワンに輝く。

というわけでキャロルは「タペストリー」以前の10代後半から20代前半にかけてすでにヒットメーカーだった。今回のコンサートでは以上の曲はすべて歌われた。

他にNO.1でなくても心に残る名作はある。ドリフターズの“Up On The Roof”(タペストリー未収録)やモンキーズの“Pleasant Valley Sunday”(同)アレサ・フランクリンの“Natural Woman”(タペストリー収録)など。これらもすべて歌われた。そういえばSMAPのことを「モンキーズのよう」と話していた。キャロルが例えると含蓄が違う。男性も歌える楽曲を提供していたという点も今さらながらすごいと思う。

キャロル自身の歌声によるNO.1は言わずと知れた“It's Too Late”で71年6月から5週連続の1位を獲得する。なおこの曲は同じタペストリーの“I Feel the Earth Move”のB面だったらしい。もちろん両方とも歌った。とくに“It's Too Late”は昨年の来日では歌わなかったので皆が息を飲んで聞いていた。
“It's Too Late”のトップを譲って一週間後、同じタペストリーから“You've Got a Friend”が1位に。ただし歌ったのはジェイムス・テイラー。これはアンコールの2曲目で皆で泣いた。さすがアメリカ国歌にしてもいいと米国人が思っている曲だけはある。

“It's Too Late”以前のチャートトップを見ていくと間違いなく「女性が1人で自作自演する」シンガー・ソングライターがほとんどいない。67年8月のボビー・ジェントリーぐらいだ。女性ソロボーカル自体も今のロックの系譜に入るのはジャニス・ジョプリンだけではないか。明らかに時代を変えた女性が年月を超えて変わらぬ声量で戻ってきた。奇跡のようなコンサートだった。(編集長)

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2008年11月13日 (木)

世界中から入館者が押し寄せる福島の小さな博物館/アウシュヴィッツ平和博物館

Photo  ポーランド政府から叙勲された日本人はまれである。彼ら国際正義の人々が今年7月から3ヶ月ほど、聖コルベ師のペン画11枚を東北で展示した。長崎時代の1枚もあった。聖コルベ師が身代わりを申し出た瞬間を再現した1枚もあった。叙勲者の1人である福島県白河市のアウシュヴィッツ平和博物館の我妻英司学芸員(44)は、原画貸し出しと原画展開催を呼びかける。

 東北の玄関・白河にあるアウシュヴィッツ平和博物館には海外からの来客もある。ニュージーランド、ポーランド、イスラエル、アメリカ、フランスなど。皆口コミで聞きつけてやってくる。共通の思いが彼らにある。それはナチスの蛮行の記憶を風化させないこと。
「今年の夏の原画展をカトリック新聞が紹介してくれまして、最近は教会関係者の入場者がぽつぽつ増えてきました」
 長野にあった200年以上前の古民家を移転させ、地元ボランティアの手も借りて、ドイツ軍の狂気を今に伝える中心人物の1人が我妻英司さんである。我妻さんがアウシュヴィッツ平和記念館に勤務するようになったのは2000年。英国で4年ほど日本語教師をして帰国してまもなくだった。当時、まだ栃木県塩谷町にあった。
 故・青木進々初代館長はデザイナーとして何度も渡欧。ポーランドでアウシュヴィッツ収容所内での実態、とくに無垢な子供たちの悲劇に触れて衝撃を受け、彼らそがその後なぜ灰にされたのか。このことを訴えるために、ポーランド政府からアウシュヴィッツの遺品を借り受けて、全国巡回展をした。この経験が今の白河にある博物館に生きた。青木進々さんは2002年に食道がんで他界したが、白河にある現在の博物館は青木館長の遺志を継承するボランティアの善意が支えている。地元白河カトリック教会高橋昌神父もその1人である。
 2005年に強制収容所から脱走した生還者をポーランドから招待して福島県各地で講演会を開いた。80歳を過ぎた元囚人はワルシャワに戻ると世界一小さな日本の博物館を大統領府に伝え、それが縁になって、アウシュヴィッツ平和博物の小渕館長以下4人の日本人はポーランド大統領からじきじきに功績男爵十字勲章をもらう栄誉に浴した。

 同館の個人サポーターは年に3000円。団体は一口3000円。入会のメリットは、無料で入館できるようになること。ニュースレターを無料購読できることである。現在の入館者は年に3000人。館内にはアンネの日記を残したアンネ関係の資料もある。青少年の教育的効果が期待できるので、今後は学校関係の団体さんにも薦めたいと吾妻さんは話し、「館を維持していくためにはまだまだ少ないサポーター会員と入館者を増やす必要があります。日本中のカトリック教会に貸し出したいのです。コルベ神父と同じ部屋にいたポーランド人画家が残した作品です。11枚の原画を見て頂きたいと願っています」と訴える。

コルベ神父原画展の貸し出しの相談はアウシュヴィッツ平和博物館 TEL 0248-28-2108 / FAX 0248-21-9068公式サイトはhttp://www.am-j.or.jp/index2.htm 全国の教会や教育機関からの支援をお待ちしている。

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2008年9月10日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷 最終回

●院政
白河上皇から、鳥羽、後白河と続く「院政」と摂関政治の関係はどう記載されているだろうか。七五年は「強烈な専制的性格」をもった院(上皇)が「摂関家を完全に圧倒した」とある。白河上皇の父である後三条天皇の政治が「摂関家をこえる天皇の権威を認識」させたことに続く、「天皇家の権威」の復活という文脈である。
八九年になると「強烈な専制的性格」といった上皇の個性の記載は消え、「摂関政治のもとでめぐまれなかった中・下級貴族、とくに荘園整理の断行を歓迎する国司たちを支持勢力にとりこ」んだ、などの結果として「摂関家の勢力はおとろえた」となる。
この変化は前回に述べた延久の荘園整理令への評価の違いから来る。八九年は整理令を「かなりの成果をあげた」とするために、「荘園との対立関係にもあった国司が歓迎」して「支持」したということになる。九八年からは「摂関家は、勢力のおとろえを院と結びつくことでもりかえそうとつとめた」と、摂関政治から院政に、オセロゲームのように権力基盤が変わったのではなく、衰えつつも摂関の権威はなお残存したという事実を重視したような記述になる。橋本義彦の主張も顧慮されたと見るべきか
とにもかくにも白河上皇という人物の存在感は強烈である。大河ドラマに取り上げられるのはいずれも歴史上の有名人物だ。そこに列する人々と同等以上の人と私は思う。どうやら学界の主流は白河上皇のパーソナリティーというより外部環境が変化しての「そして誰もいなくなった」論のようである。けど本当かなあ。以前「女系天皇はどうして問題なのか」というタイトルで書いた(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2005/11/post_00ce.html)文章から再掲すると

父は天皇ということになっているが実は・・・・という例で有名なのは鳥羽天皇1子の崇徳天皇である。彼の実の父は祖父の白河上皇(法皇)だとの説が有力だ。確かに倫理的にはともかく万世一系は途切れてはいない。ただこの話は、だからこそ表沙汰になり得たともいえるのだ。皇統に皇族以外の男性の遺伝子が紛れたことはないと絶対に言い切れるか

である。考えれば考えるほどすごい話だ。山川の教科書は個人の力量によって歴史が転換したというロジックを基本的に避けているので白河上皇に限らず英雄史観が乏しい。それはそれで一つの見識だけれども面白みを欠く要素でもある。まあ教科書は面白くなくてもいいのか。
また七五年は、摂関政治と院政の「私的な」性格についての記載がある。「摂関政治がすでに国政の私的な運営であったが、摂関は天皇の外戚とはいいながら、ほんらいは臣下であるという遠慮もあって、あまり専制的な行為はとらなかった。これにたいし院政は、上皇が天皇の父であるという立場で国政を専断するというもので、私的な性格がいっそう強くなった」とあるのだが、八九年以降は見当たらない。
この辺も意外と見逃されていないか。「家来の立場のお爺さん(外祖父)よりも元天皇(または天皇パパ、天皇ジジ)の方がおっかないから摂関政治より院政の方が強いのだ」という刷り込みが多分に残っている気がする。考えてみれば、それが当てはまるならばいつの時代でも天皇家がある限り通用する万能鍵のような理屈になってしまう
●僧兵
どのような階層で組織されたのか。七五年は「所領の荘園から徴集された農民たちが、寺内の雑務にあたっていた下級僧侶とともに」組織されたとある。八九年は「数多くの荘園から挑発した農民たちと下級の僧侶」とし、ほぼ同様の記載である。ところが九四年からは単に「下級の僧侶」だけとなり、「徴集された農民」が消えている。
ここからは私の推察。要するに「僧侶」とは何かという価値観の問題であろう。律令制に書き込まれている得度がなされていない者(私度僧)を僧と認めなければ「下級の僧侶」と分けて考えねばならない。でもこの時代は実態としてそうした区別が消えかけており北嶺(比叡山延暦寺)も律令を厳格に当てはめるならば私度僧ともいえる人物が座主に就いているのだから分ける必要がない、と
●保元の乱
構図はどう変わったか。七五年には父の鳥羽法皇に「きらわれていた崇徳上皇」らが「乱をおこし」、「朝廷方は機転を制して勝利をおさめた」とある。八九年になると「かねて皇位継承をめぐって(鳥羽)法皇と対立していた崇徳上皇」が「武士を集めた」のに対して、「後白河天皇」らが「武士を動員し、上皇方を攻撃して討ち破った」と変わる。この流れは二〇〇二年まで変わらない。
まず、弟の近衛天皇と後白河天皇の即位に崇徳上皇が好意的だったとは思えないので、「きらわれていた」と「皇位継承をめぐって対立」はさほどの違いはなく、山川らしく主観的な文言を嫌った変化とみられる。崇徳上皇が「乱をおこし」ではなく「武士を集めた」も同様の理由とみられる。問題は「後白河天皇」が八九年以降の記載のように、主導権を握っていたかどうかである。二九歳の天皇に当事者能力があったのだろうか。確かに後年の活躍?から推せば後白河帝に並々ならぬ力量があったとはいえる。とくに源頼朝との今はやりの言葉でいえば「インテリジェンス」合戦はすごかった。頼朝もまた希代の謀略家だったので息を飲むやりとりが展開された。
しかし保元の乱時点では後白河天皇側の藤原通憲という謀略に長けた学者、最近で例を探せば竹中平蔵さんみたいな人のプレゼンスが大きいのも事実。
●平氏政権は古代か中世か
七五年から八〇年までは中世の範囲に、八九年以降は古代の範囲に記載されている。これは広く知られているように平清盛による六波羅政権が多分に貴族的性格を有しているのを「清盛は武士だろう」(つまり中世)を退けているのだろう。
でも清盛はやっぱり武士でしょう。出自はもちろん、平治の乱には勝ったわけだし。なるほど平治の乱は藤原信頼を名前通り信頼してしまった源義朝の落ち度や政略は仕掛けるものの意外と失敗もする「平安の小沢一郎」後白河院のエラーなど清盛の武将としての能力以外での勝因は数えられる。とはいえ彼が武士でなければあり得なかった勝利であるのも事実だ。
もう少し引いて考えてみると清盛の祖先達、通称「桓武平氏」は戦争に弱かったという点に着目できる。将門は強かったけど結局敗死。忠常は源頼信へ戦わずして降伏。正盛に至っては源義家の家来。ただここで白河院政に食い込み、彼の新設した北面武士のトップとなる。この足がかりは子の忠盛にも引き継がれ、忠盛はさらに鳥羽院政で殿上人入りを果たし院近臣として権勢を振るう一方で宋との貿易で大もうけする。清盛も基本的にこの路線を踏襲しており「六波羅政権の貴族的性格」と切り離すより忠盛-正盛-清盛の連続性を求めれば古代に位置づけるのは妥当ではないか

これでひとまず当連載は終わらせていただきます。中世編以降は時間を見つけては進めてまとまったらアップする予定です。ごくわずかの気高き読者の皆様。ご愛読ありがとうございました(編集長)

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2008年9月 3日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷⑥

●武士の台頭
七五年には武士が台頭した理由として「地方政治の混乱によって治安がみだれると、国衙の役人や荘園の荘官は、治安維持のためにも、また支配下の土地や人民を確保するためにも、武装しなければならなかった」とある。同年には「中央も地方も治安はみだれるいっぽうで、火事・盗賊・闘争はいたるところにおこった」とあるので、武士団はこうした地方の乱れが原因で、自衛のために成立したと解釈するのが妥当だ。
八九年になると「地方行政のあり方が大きく変質していくなかで、各地に成長した有力農民は、その勢力を拡大するために武装し」たと改まる。「国司の支配下からぬけ出」すほど「勢力を拡大し」ていた「有力農民」は、国司の支配をもはや恐れなくなったと読める。事実、「武士団」は「時には国司に反抗した」とある。
失政からの自衛手段ではなく、時代の波を先取りした自主的な判断が武士団の結成につながったと解釈は大きく変わっている。この論調は以後も大きくは変わらない。
さてその頭領の座を占めた桓武平氏が根拠地にしていた「東国(関東地方)」は、その理由として七五年以来、「蝦夷征討の基地として軍事的行動がさかん」だったからとしていたが、九八年からは消えている。蝦夷征討との因果関係が疑問視されるような新説が出たのか。
●「前九年の役」「後三年の役」
九八年からは「前九年合戦」「後三年合戦」と改まっている。「変」「乱」「役」といった俗称はある角度からのものの言い方なので近年は古代史に限らず中立的な言い方が進んでいる
●奥州藤原氏
九四年からは、藤原清衡から始まるいわゆる「奥州藤原氏」の記載が増えている。本文には「奥州藤原氏は、金や馬などの産物の富によって京都の文化を移入したり、北方の地との交易を行って独自の文化を育て、繁栄をほこった」とあり、脚注には「11世紀に奥州で2度の反乱がおきたあと、奥州の藤原氏が勢力をきずくと、藤原氏を媒介にして地方の産物が都にもたらされた。藤原氏は金の力を背景に平泉を中心に繁栄し、中尊寺や毛越寺などの豪華な寺院を建立した。最近の平泉の発掘・調査では、京都と北方の文化の影響がみられ、日本海をめぐる交流や北海道からさらに北方とのつながりもあるなど、広い範囲での文化の交流があったことがあきらかになってきた」とある。
この「最近の平泉の発掘・調査」は顕著な実績をあげたと一部で評価されている。世界遺産がらみでもスポットが当たった点だ。また中央政府以外の勢力や、海外交渉に着目する近年の傾向とも合致している。
●平安文学
まず平がなや片かなの定着はいつだったのか。七五年からは「10世紀の初めにはその形もしだいにさだまってきた」とあるが、八九年からは「字形も11世紀初めにはほぼ一定し、広く使用されることになった」とある。間に一世紀の開きがある。
次に紫式部や清少納言といった「宮廷女性の文学的な活動がさかんであったのは、摂関政治のころは天皇の外戚という地位がきわめて重んじられたので、貴族の娘が后妃になると、その地位を確実にするためにも、すぐれた女性をえらんで侍女として后妃に仕えさせ、これを後援したことにもよると考えられる」と七五年は推察する。藤原彰子と紫式部、藤原定子と清少納言の関係がたやすく浮かぶであろう。ところが八九年からこの推察はいっさいカットされている。また本地垂迹説という「考えのもとにうまれた神道が両部神道である」という記載も九四年から消滅している。
●延久の荘園整理令
後三条天皇の「改革」は成果を上げたのだろうか。七五年は「成果はかならずしも十分ではなかった」とするが八九年からは「かなりの成果をあげた」と一変する。成果の証拠として「石清水八幡宮では、34ヵ所の荘園のうち、21ヵ所だけが認められ、残りの13ヵ所の権利がすべて停止された」からだと示している。
ただ荘園そのものは、同じ八九年が、整理令以後の「鳥羽上皇の時代」に「院に荘園の寄進が集中したばかりでなく、有力貴族や大寺院への荘園の寄進がひじょうに増加した」と書いているように、延久の荘園整理令をきっかけに減少傾向をたどったわけではなく、また後三条天皇の問題意識が「荘園の増加が公領を圧迫することを心配した」からだとすれば、「かならずしも十分ではなかった」とした方が妥当ではなかろうか。
後三条天皇の治世をどう判断するかはその前の北家藤原氏の隆盛、後の院政を考えるとなかなかに難しい。荘園もまた「公領を圧迫」の見地から考えれば純粋な意味での律令制の「敵」ではある。だから「減少傾向をたどったわけではな」ければ「量」として成功とは言いにくい。ところが天皇の威令を示したという見地で考えると「停止」に至ったとの事実そのものが重要といえよう。後の院政を天皇権威復活の変形バージョンと判断するかどうかで「院に荘園の寄進が集中」という「その後」と延久の荘園整理令の「成果」の判断が分かれてきそうだ。これは「質」の問題である。
余談だがこのあたりの評価を出題する入試問題は、したがって悪問といえる。(編集長)

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2008年8月27日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷⑤

この連載の日にアクセス数が急減するらしい。ちなみに前回の④では1日約1900。3000超えしていたところをいきなり2000割れ。株式市場ならば大暴落だ。白い目で見ている(ような気がする)社員達。でもこのブログはそもそも私が始めたのだ。アクセス数は気にしない!がコンセプトだったはずだ。というわけで独走連載は後2回は続ける。

●摂関政治
七五年から八〇年までは「摂関政治は、摂関家が天皇の外戚という私的な立場を利用して、律令政治における天皇の高い権威を実質的に自分のものとすることを目ざしたものであったが、摂政・関白が天皇の代理として官吏の任免権をもっていたことが、とくにその権威を大きいものとした」とあり、脚注に「関白は天皇の意向を無視することはつつしんだが、天皇の方も関白を身内の後見役として尊重し、その意見にさからわないのがふつうであった」とある。要するに公私を混同して人事権を握り、天皇さえ「その意見にさからわないのがふつう」という絶対的権力を握ったと読める。
しかし八九年になると、先の脚注は消え、「律令政治における天皇の高い権威」を「律令政治は天皇が太政官をつうじて中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとり、この形は摂関政治も同じであった」と明確に示すようになった。人事権に関しては「天皇の代理として官吏の任免権をもっていた」が「天皇とともに役人の任免権を専有していた」とある。これらの点から摂関家の絶対性は相対的に弱めた記載となっている。
九四年になると「役人の任免権に深くかかわっており、その影響力のおよぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていたから、中級・下級の官人層は摂政・関白などに隷属するようになり」とあり、その理由として脚注に「役人の地位の昇進の順序や限度は慣例として家柄・外戚関係によってほぼ一定していた。そのなかで中級官人などは律令制のもとで経済的に有利な地位とされていた地方の国司となることを求め、私領の獲得につとめた」とある。
さらに九八年からは「摂関家と結ぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていた」と院宮王臣家の主体性をより強めた表記になっている。天皇の人事権についての記述は九四年から見当たらない代わりに任免権を所持していたとはせず、「深くかかわって」とあいまいに表記する。
要するに摂関家の地位は「天皇の代理」という意味合いからは後退し、あくまでも朝廷(天皇家)の権威のもとで院宮王臣家もまじえて、とくに「中級官人」に強い影響力を持ったのが力の源ということになる。したがって、前提となる天皇の権威をどの程度に位置づけるかが問題となる。
当然ながら七五年の記述は「すでに律令政治の体制はすっかりゆるんでいたので」と実質的に機能していないと表現しているが、八九年では「朝廷の政治は先例や儀式を重んじる形式的なものとなっていて」と「すっかりゆるんで」よりは前向きな表記になり、九八年からは「しだいに先例や儀式を重んじる形式的なものとなり」とさらに前向きになっている。
摂関政治は北家藤原氏が天皇家(皇族ないしは皇親)から実質的権力を簒奪したというテンションで従来描写されていた。冷泉天皇の摂関を務めた藤原実頼に始まる「摂関常置」(道長内覧を含む)は常識的に考えて藤原頼通までだろう。この時期は冷泉帝の後継と次の円融帝の後継がほぼ交互に皇位につく一種の両統迭立であり、そこに氏長者を巡る北家内の争いが複雑に絡む。例えば藤原兼通と兼家の兄弟バトルに円融天皇が巻き込まれて冷泉統の花山天皇へ譲位を余儀なくされたというのは本当であろうか。
もちろんその側面はある。ただし逆(天皇)側を主体として考察すると兼家を嫌って北家直系とはいえない頼忠を関白に任じたのは他ならぬ円融帝自身である。その子が一条天皇として即位した時点で円融上皇は存命で、兼家は58歳で念願の摂政となる。一条帝の外祖父は兼家だから即位は円融上皇と兼家が皮肉にも利害一致した結果ともいえる。
同じようなことが一条帝における藤原道長と伊周の叔父甥バトルにもいえそうだ。一般には一条天皇と道長は蜜月関係にあり伊周が政争に敗れたとなろう。しかし伊周は事実上の左遷先である大宰府から呼び戻されており今でいう加藤紘一代議士みたいな感じで朝廷で毒を吐いている。伊周のきょうだいであった定子との間にもうけた『大鏡』絶賛の敦康親王は長男でもあり一条帝が「次に」と考えておかしくない。となると道長が内覧で留まったのは通説の「摂関になる必要がなかった」のではなく「なれなかった」ないしは「ならなかった」可能性がある。次代の三条帝との不和と合わせると十分にありえよう。教科書の記載変遷にはその辺の事情が勘案されてはいないか。
では長らく北家の摂関を絶対と見なした根拠は何か。前述『大鏡』の史料批判のあり方も関係しているように思う。『大鏡』は時に藤原氏へも厳しい指摘をしている。それが天皇家ないしは天皇自身の擁護と解釈すると逆説的に北家氏長者の権勢を立証してしまう。『大鏡』そのものが文学作品としてはメチャクチャ面白いというのも史家にとっては諸刃の剣。こうした面白さを歴史家はおおむね警戒する傾向がある。

●遣唐使廃止以降の国際関係の変化
判断は年度によって異なる。まず遣唐使の廃止の理由に関しては、七五年は遣唐大使の菅原道真が主張した「唐の疲弊と航路困難」を挙げるに止めているが、八九年には「独自の成長をとげているわが国にとって、多くの危険をおかしてまで公的な交渉をつづける必要はないと考えられたから」と踏み込んだ解釈を示している。
ところが九四年からは「独自の成長をとげている」という記載が消えている。この場合の「独自の成長」とは何だろうか。八九年から類推すると、それは「国風文化」と読める。というのも国風文化は「遣唐使が廃止され」た一方で「多年にわたって流入した大陸文化は、ほぼひと通り消化され、そのうえにたって、日本の風土や人情・嗜好にかなったものが自然につくりだされてきた」とあるからだ。この概念は七五年からほとんど変わっていない。では「独自の成長」をはずした九四年の「国風文化」の記述を読むと、ほぼ変わらない記述である。これでは矛盾する。
九四年版の記述の矛盾を問題とするのは他にも理由がある。唐以外の国際関係の扱いが大きく変化しているからだ。まず唐の後に建国された宋との関係を七五年以来、「積極的に正式な国交をひらこうとはしなかったが、宋の商船はときどき九州などへ貿易のために来航した」という表現で、いわば思い出したようにポツポツと貿易船が来るといった印象だったが、九四年からは「宋の商船はしきりに九州の博多などに貿易のために来航した」と大きくイメージが変わる表記に改まったのである。
また渤海の後に建国された遼(契丹)や朝鮮半島の高麗とも七五年以来「国交もひらかれなかった」で終わり、八九年も「交渉は不振であった」と加えられているだけだが、九四年からは一転して「私的交渉で書籍や薬品などが輸入され、11世紀後半にはかえって(交渉は)活発になった」としている。
要するに、遣唐使廃止以降も海外との交渉は盛んで、だからこそ「独自の成長」云々を消したはずなのに、国風文化の説明では「大陸からの直接の影響が減少」とあるのはおかしい。そう思っていたら、九八年でその点を再び大きく書き直してきた。「遣唐使廃止」云々の文言が消え、「それまでの大陸文化の吸収の上に立って、旧来の日本文化がより洗練され、文芸や芸術としてあたらしい姿をみせるようになった」と国風文化を定義している。九四年までは「私的交渉」としていたところも「朝廷の許可をえて中国に渡る僧もあり、宋からは書籍や工芸品・薬品が輸入されるなど、大陸との交渉は活発に行われた」とより踏み込んだ紹介をしている。
要するに、九四年からは、それまでの「遣唐使廃止」イコール「海外交渉の衰退」との図式を外交史上は崩したものの、文化史上では残してしまい、それを九八年で修正したということになる。だがそれでも、「大陸との交渉は活発に行われた」ならば「関係が大きく変化した」程度で、新しい文化の吸収ではなく、「旧来の日本文化がより洗練され」るという方向に文化が向かったのかは謎のままである。
ただ、いずれにせよもはや「遣唐使が廃止されて文化が国風化した」という素朴な暗記が意味をなさないようなのは多くの人にとって衝撃の事実ではないか。考えてみれば文化の国風化とは今にもつながる日本文化のお家芸であって、この時期をもって、またこの時代に限って「国風文化」とするのはおかしい。と同時に外来の影響をまったく受けない文化というのも考えにくい。あえていえば前回紹介した弘仁貞観文化よりは和風化したという比較論でならば、というかそれのみで成立している言葉のような気がする。近年の山川が併用している「藤原文化」の方が実態を誤解させない用語だろう。ただこの場合も「北家藤原氏が権力の中枢にいた時代の文化」と「北家藤原氏が権力の中心にいたがゆえに独自に発展した文化(女房文学など)」の意味合いが混在するからやっかいだ(編集長)

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2008年8月20日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷④

●北家藤原氏の台頭
七五年から八〇年までは藤原冬嗣から良房、基経がそれぞれ摂政、関白に就任する事実をまず挙げ、その間に起こった承和の変と応天門の変を切り離して記述している。二つの変と良房、基経の躍進は切り離せないので、これでは因果関係が読み取りにくい。そこで八九年には「良房は承和の変で伴健岑・橘逸勢ら」を「退け」、「応天門の変」では「伴善男」(脚注)らを「没落させた」と明記した。九四年からは「伴健岑・橘逸勢」の固有名詞が消え(なぜ?)ている。その後の安和の変も八〇年までは左遷された源高明が明記されておらず、八九年から明記されている。これらは「変」と藤原氏の台頭の因果関係を浮き彫りにしたいとの意図が感じられらる。
なお承和、応天門、安和の変をよく「藤原氏の他氏排斥」という表現でくくられるのを覚えてはいないだろうか。だが教科書は七五年の段階から「これらの政変は、かならずしも藤原氏北家が他氏を排斥しようとしておこしたものばかりではない」という立場を取っている。以降の教科書の記載も微妙で、八九年からは承和の変は「良房は(他氏を)しりぞけ」と、応天門の変は「良房は(他氏を)没落させた」と、安和の変は主語がないまま「源高明が左遷された」とある。これだと「藤原氏北家が他氏を排斥しようとしておこした」と読む方が妥当にも思える。なぜこうした記載になっているのか。

●藤原薬子の変
810年における薬子自身の役割は何だったのか。七五年では脚注に「嵯峨天皇が平城上皇と不和になったとき(薬子の変)」とだけあって、薬子の変は「不和」の結果とも原因とも読める。それが八九年になると「嵯峨天皇の即位後、平城上皇は寵愛する藤原薬子の言にうごかされて天皇と対立したので、天皇は兵をだして薬子を自殺させた」と薬子を明確に変の原因と規定した。ところが九四年からは再び「嵯峨天皇の即位後、奈良の平城上皇と京都の天皇との間に対立がおこり、天皇は兵をだして上皇の寵愛する藤原薬子を自殺させた」と嵯峨天皇と平城上皇と不和が原因であるという記述に戻っている。ただ九四年の記述だと、なぜわざわざ「藤原薬子を自殺させた」のかがわからない。
藤原薬子は道鏡と同じく後世面白おかしく脚色された人物である。と同時に脚色されるにふさわしい事実があったとも推測される「平城上皇は寵愛する藤原薬子」あたりの史料批判が難しいのか高校教科書で扱うには一種のタブーなのか。とくに「寵愛」の関する後世のにぎやかしは読み物として出色である(ただし大人向け)だけに避けたい気持ちが執筆者にあったのかもしれない。もっとも「薬子の変」「藤原薬子の変」との言い方は変わらないので彼女が主導者であるとの認識は間違っていないようだ。普通ならば兄の仲成と合わせて「仲成・薬子の変」と呼ぶか「平城上皇復位事件」としそうなものだから。

●菅原道真
七五年からは基経の時代からは「醍醐・村上天皇のときをのぞいては」「ほとんどつねに摂政または関白がおかれる」と北家藤原氏全盛の様子が紹介されていて、基経以後で醍醐朝の前にあった宇多天皇の時代の菅原道真の登用と失脚は本文から切り離されて脚注で説明があるのみだ。しかし八九年になると「宇多天皇は基経の死後、摂政・関白をおかず、菅原道真を登用して藤原氏をおさえようとした」と本文に明記されるようになる。また「策謀を用いて」道真が失脚した後の記述も八九年からみられる。そこには「その怨霊のたたりをおそれて北野天神としてまつられた」とあり、ほぼ同様の記載で今日に至っている。
ちなみに「菅原道真は大宰権帥へ左遷された」との記述は一貫して存在しない。前職の右大臣も大宰権帥も官位相当制で位階が従二位の位置にある者が就任しておかしくない官職だから。もちろん実質は左遷である。

●延喜・天暦の治
醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治を「天皇親政の理想的な時代」とする見方は七五年から否定的で、「事実は律令体制の崩壊が、はっきりあらわれた時代であった」としている。だが、七九年になると「醍醐天皇」は「律令政治の復興につとめ、延喜格式の編纂も行った」と、若干評価の要素も加わる。「復興」は九〇二年の「延喜の荘園整理令」をさし、これを「令制の再建をめざした」ものとしている。「延喜の荘園整理令」は八〇年までは脚注に単に「荘園整理令は九〇二年・・・・発せられたが、その実施は不徹底であった」とあるのみで、本文に太字で固有名詞を示した八九年以降の扱いよりはるかに小さい。
同時に八九年以降は「延喜の荘園整理令」などの「令制の再建をめざした」動きも三善清行の「意見封事十二箇条」などを例に「律令制の原則で財政を維持することは不可能になっていた」と結論づける。すなわち延喜・天暦の治が「崩壊」をはらんでいたという点では一貫しているが、とくに延喜の治のありようが後の土地制度史の大きな転換点となったという見方を八九年以降は強く打ち出している。

●荘園制
その転換点の最たるものが荘園制である。七五年から八〇年までの論理展開は①地方官である「国司」の政治にゆるみが出て地方政治は混乱し②「班田収授の実施」を前提とする「律令の土地制度」は私有地である「荘園」の登場で「困難になり」③荘園の開墾者は土地を徴税者でもある国司らの「干渉からまもるために」有力者に「寄進」した。これを「寄進地形荘園」という④国司もまた預けられている公領を「私有地のように」扱った(国衙領)、となる。これでは国司と荘園のあり方が一読しただけではよくわからない。
それが八九年にはかなりすっきりとした記載になる。まず前記の延喜の治の頃に露呈した「律令制の原則で財政を維持することは不可能」という状況から「国司に一定額の税の納入を請け負わせ」ることとし、「国司のはたす役割は大きくなった」。そこで国司は有力農民に「田地の耕作を請け負わせ」「租税を徴収」した。請負人を田堵という。戸籍登録者が預かる口分田から田堵の経営地へと課税対象が移り、それを担う国司のうまみは増大し、八〇年までの①の事態が訪れる。やがて自立の度合いを強めた田堵(=開発領主)と国司の対立が深まると、開発領主は有力者に土地を「寄進」した。
ここまではいいのだが、以降に国司は国司で、公領(国衙領)を「あたかもみずからの領地のように管理」し、「実務をとる在庁官人」には「開発領主があてられる場合も多くなった」とあるからややこしい。
九八年には開発領主が「在庁官人となって国衙の行政に進出するとともに、他方で国司から圧力が加えられると・・・・寄進し」とある。同じようなややこしさだ。果たして開発領主にとって国司は敵か味方か。
要するに地方制度は、律令に定められた「国・郡・里」制度から「荘園と公領(国衙領)で構成される体制に移行した」ということになる。九四年からは「荘・郡・郷などと呼ばれる荘園と公領で構成される体制に移行した」とさらにくわしくはなるのだが、かなりわかりにくい。
要するに「公」が「私」に引きずられる形で荘園化したが、その最初の頃はなお「公」の部分も残していて、それが寄進地形荘園の形成や、「不輸・不入の権」獲得を誘発したということであろう。八九年からの記述に「国司は荘園を整理しようとして、荘園領主との対立を深めるようになった」一方で、脚注に「逆に任期終了近くになると、荘園の拡大を許可して利権を得る国司もいた」という一見矛盾した記述の背景にもこうした環境があると思われる。
七五年は八世紀以来の「貴族・寺社がみずから開墾した土地を中心に買収した墾田を加えて、付近の農民や浮浪人を使って直接経営する」荘園を「自墾地系荘園」と紹介している。そして脚注に「みずからの墾田を荘園としたものを自墾地系荘園、買収した墾田を荘園としたものを既墾地系荘園として区別し、両者を総称して初期荘園あるいは墾田地系荘園とよぶ説もある」と別の説を紹介している。
ところが八九年になると、ほぼ同じ概念ながら「自墾地系荘園」「既墾地系荘園」という言葉は消滅し、本文では「初期の荘園」、脚注に「墾田地系荘園とよばれることもある」と変わる。この流れは九四年の大改訂以降も変わらない。なぜ七五年以降は「説もある」とされてきた傍流説が主流になったのだろうか。(編集長)

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2008年8月13日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷③

●高群逸枝の研究
住居の変化から家族の様子がうかがわれるというのが八九年以来の主張でもある。八九年から「家族構成は、今日と多少異なっていた」とし、当時の結婚形態が「男が女の家にかよう形をとる」などの違いを紹介しており、九四年からはその形を「妻問婚」と明記した。一方、七五年以来、平安の「貴族の結婚は男子が妻の家で生活するのがふつう」という記載があり、八九年からは藤原道長の結婚形態を例として挙げている。九四年からはその形を「招婿婚」と明示している。これらの概念は高群逸枝が一九五三年に発表した『招婿婚の研究』に即していると思われる。五三年の研究が教科書に九四年になって明記された理由は何だろうか。高群が在野の研究者だったからか。

●いわゆる「蝦夷の征討」
なるべく異民族である蝦夷を「征伐する」というトーンを抑えている。八〇年までは「阿倍比羅夫が秋田地方の蝦夷を討った」とあるが、八九年以降は「服属させた」に変わる。記述自体も増えている。八〇年までは記載されていなかった嵯峨天皇の時代の文室綿麻呂の征討が八九年からは加えられ、九四年からは「蝦夷の族長伊治砦麻呂の乱」が明記され、「俘囚」「柵子」といった概念や政策も加えられた。

●天平文化
「おもな美術作品」は記載が増えている。七五年から八〇年までにはないが、八九年からは記載されているものは、「建築」の「法隆寺夢殿」、「彫刻」の「唐招提寺金堂盧舎那仏像」「聖林寺十一面観音像」「新薬師寺十二神将像」、「工芸」の「正倉院螺鈿紫檀五弦琵琶」「東大寺大仏殿八角灯籠」である。九四年からは正倉院宝物の「銀薫炉・漆胡瓶」が「工芸」に加わった。
「法隆寺夢殿」は七五年から一貫して掲載されている「伝法堂」と東院を構成し、現在の記述も「法隆寺夢殿・伝法堂」と一対とみなしている。なのに当初載っていなかったのは、夢殿が鎌倉時代に大修築を受けたからか。有名な藤原種継暗殺事件は七五年から「長岡京」建設長官の暗殺と紹介されていたが、九四年からは消えてしまう。

●桓武天皇の治世
八九年に「雑徭を半減」が加えられて「農民の負担を軽減した」とある。ところが、九四年からは消滅する。同時に桓武朝の「律令政治の維持につとめた。しかし、平安京の造営や蝦夷の鎮定などに多くの国力を費やしたので、じゅうぶんな成果はおさめられなかった」という総括文も消滅し、「桓武天皇の改革の方針は、平城天皇、嵯峨天皇にもひきつがれた」と桓武朝単独での総括はなくなったのだ。正確にいえば八九年と九一年には総括と「ひきつがれた」が併記されているが、九四年から総括は消えている。
元来、桓武朝は勘解由使や健児の採用、班田の励行、「雑徭を半減」などの「いいところ」と、藤原緒嗣が指摘した「軍事と造作」(『日本後紀』)、つまりと「蝦夷の鎮定」と「平安京の造営」という「悪いところ」が相半ばする政権とみられ、それでもなお、「桓武」という言葉に特別な意味合いを感じてきた。八〇年までの「総括」のみの記載にはそのニュアンスが色濃くにじむ。九四年からの総括カットはこうした「相半ば」論そのものと決別したといえる。
ではどのような立場に変わったのだろうか。総括が削除された九四年からは「農村と貴族社会の変化」という新項目が設けられ、そこに「桓武天皇以後、朝廷では天皇の権力が強まり、天皇と結ぶ少数の皇族や貴族が多くの私的な土地を持ち、勢いをふるうようになった。このような特権的な皇族・貴族を院宮王臣家とよぶ」と書かれている。「院宮王臣家」とは当時聞き慣れない言葉だったがその後定着する。

●令外官
七五年から九一年までほぼ一貫して「令にきめられている以外の官職を令外官とよぶ」とし「もっとも」「とくに」「有名なもの」として嵯峨天皇の時の「蔵人頭と検非違使」を挙げている。ところが九四年からは「蔵人頭と検非違使」は本文では「令に規定された官職とは別のあたらしい官職」というに止め、「令に規定されていないあたらしい官職を令外官というが、蔵人頭や検非違使は、官職についている者のなかから天皇が特別に任命する職であった」と注釈がついている。
さて、すると「蔵人頭と検非違使」は「令外官」といっていいのか。具体的には「令に規定された官職とは別のあたらしい官職」と「令に規定されていないあたらしい官職=令外官」は同一なのかということである。八九年と九一年には、奈良時代の令外官の例として「中納言・参議・近衛府・勘解由使」さらに「内大臣」を示している。これらとの違いを考えてみたい

●桓武-嵯峨朝総括
以上のような変更は次のようにまとめることができよう。七五年から八〇年までは、桓武朝は「律令政治の再建」に力を注ぎ、平城天皇をはさんで出現した嵯峨朝は「法制の整備」を進め、律令政治を実質的なものに改めようとしたというトーンで、「ひきつがれた」論が入ってくる八〇年代後半からは桓武-嵯峨朝を連続した視点から「令制の再建」期とみなした。しかし九四年からは桓武-嵯峨朝は、「再建」ではなく「令制の改革」をめざしたと読める。それは「桓武天皇は強い権力をにぎって貴族をおさえ、積極的に政治の改革にとりくんだ」という記載でもわかる。令外官もそれまでと違うとの認識からか「天皇が特別に任命」であり、「天皇も勅旨田という田を持ち、皇族にも、天皇から田が与えられた」という新たな記載もある。そして「院宮王臣家」の登場だ。
つまり桓武-嵯峨朝は積極的に律令制を破壊したわけでは決してないが、単なる「再建」というよりは、強い天皇とそれに従う皇族・貴族という支配階層をめざした時期であるという解釈になるのではないか。

●「令義解」と「令集解」
律令の私的な解釈である「令集解」の説明は九四年に初めて脚注に出てくる。だが、それ以前から受験生は公式な解釈である「令義解」とセットで覚えさせられたものである。なのになぜ「令集解」が本文にも脚注にもなかったのか。

●天台宗と真言宗
最澄の伝えた天台宗が「密教」だと勘違いしている方も多いのではなかろうか。実際には空海の真言宗は最初から密教だが、最澄が伝えた天台宗は密教ではなく、弟子の円仁や円珍によって密教化がはかられた。
このような勘違いは教科書の記載にも関係があるのかもしれない。というのも七五年から八〇年までは「最澄や空海」「天台宗・真言宗」と両者を併記し、「密教にもとづく真言宗」の次に「天台宗は法華経の信仰を説いて、のちの思想界に大きな影響をおよぼしたが、同時に密教を取り入れて」とある。この記載は間違いではない。天台宗が「影響をおよぼした」「のち」と「同時に密教を取り入れ」たならば、最澄の天台宗は密教とはならないし、「同時に」の前の脚注に「最澄の弟子の円仁・円珍は天台宗を発展させた」と書いてもあるからだ。だが、間違えやすい記述には違いない。
そのあたりは七九年には解消されていて、「天台宗でも最澄のあと、円仁や円珍によって本格的に密教がとりいれられた」と誤解の余地がない書き方に変わっている。
真言宗と天台宗が栄えた原因について七五年からは「真言宗は現世利益にふさわしいものとして皇室や貴族のあいだにもてはやされ」、「天台宗」も「密教をとりいれて、同じく貴族の信仰をあつめた」と説明する。七九年からは天台の密教化の後の記載として「天台・真言両宗とも、加持祈祷によって現世利益をはかる仏教として」皇室や貴族のあいだにもてはやされ」たとある。ところが九四年からは「天台・真言の両宗は、元来、山中にあって厳しい修行をつみ、国家の安泰を祈るものであったが」との一文が挿入されている。
これが、それまでの記述がもとから「現世利益をはかる仏教」ではなかったと、天台・真言両宗の名誉のために加えられたのか、「元来」のあり方を逸脱した結果栄えたということを強調したいのか、どちらとも読める。

●弘仁・貞観文化
同文化の彫刻様式である「一木造」の紹介で、九四年からは「豊満で神秘的」のうち「豊満」という特長が消えている。「おもな美術作品」の「彫刻」では八九年に以前の六作品に加えて「教王護国寺講堂不動明王像」と「法華寺十一面観音像」が加えられた時点で、「豊満」はそのままで、「新薬師寺薬師如来像」が加えられた九四年からなくなっている。「新薬師寺薬師如来像」はたしかに一木造だ。だがこの仏像が他に挙げられている仏像に比べて「豊満」ではないとは見た目ではいえない。とすると一木造が豊満とする見解に問題を生じたか、「豊満」という表現が教科書にそぐわないと判断したか、あえて「豊満」というほどでもないと考えたか。九四年から図が掲載された天平時代の「薬師寺吉祥天像」の説明には「ふっくらとした顔立ち」という表記があるから、表現に問題があるならば「豊満」を「ふっくら」に変えればよかったはずだ。
また「一木造」と並ぶ弘仁・貞観彫刻の特長である「翻波式」の説明は八〇年まで「元興寺薬師如来像」の特長としてのみ記載されているが、八九年からは全体の特長として脚注に太字で示されている。
八〇年まではみられなったが八九年以降は「漢文学の隆盛」の項で「漢詩文の名手」として「嵯峨天皇、空海、小野篁、都良香、菅原道真」が、「現存する最古の説話集」として「日本霊異記」が、それぞれ脚注に追加されている。同時期の「唐風書道」に「唐様」という固有名詞を付したのも八九年からである。漢文学の記載の増加は大きな変化で、八九年には「主な著作物」として本文で触れられていない「菅家文草」「文鏡秘府論」「類聚国史」が加わる。これらはいずれも空海か菅原道真の著作であることから、八〇年代に研究が進んだ結果として掲載する必要があったのか
弘仁・貞観文化の「主な美術作品」のうち、八〇年にはみられなかったが、八九年以来掲載されているのが「教王護国寺両界曼陀羅」で、口絵(巻頭のカラー写真)まで紹介されている。九四年からは「西大寺十二天像」が加わる。「教王護国寺両界曼陀羅」は空海とゆかりの深い美術品で、先の八〇年代に研究が進んだ結果と符合する。(編集長)

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2008年8月10日 (日)

増山麗奈さん個展にて、月刊『記録』芸術デビューする

 以前紹介した「ロスジェネ」という雑誌の関連活動を追いかけて、編集委員でもある画家・増山麗奈さんの個展「SUMI KANNON」に行ってきた。赤坂見附のCOEXISTという小規模のギャラリーだ。8月6日、お邪魔したところ増山さんは絵を描いている真っ最中だった。個展のタイトル通り、炭で観音様を描いている。観音様とはいうものの、実際は麗しい3人の美女(「三美神」と名付けられていた)。美女の周りには沢山の腕、腕、腕が四方八方に伸びている。千手観音のイメージだ。描かれた腕は、ギャラリーの観客達のもの。指先でポーズを作っていたり、何か持っていたり、男だったり女だったり様々だ。感心して見ていると、「奥山さんも描かれてみませんか?」と誘っていただいた。「『記録』を持って」と。

 えっ! こ、この子を描いていただけるんですか?! と、なぜか不肖の息子を持ったお母さんのような恥じらいを見せてしまった…が、『記録』が記録されるという二度とないであろう幸運に甘えることにした。
 結果、手に『記録』(今月号)を持った私の左腕が増山さんの芸術に参加することになった。難しいのは『記録』をどのように表現するかということだ。印刷物である雑誌をそのまま貼ると、和紙に炭というスタイルの作品の中でどうしようもなく目立ってしまう。増山さんのアイディアで、部分的に雑誌を切り貼りすることになった。タイトルは切り貼り、きろくま(いつも表紙に描いてある下手くそなクマ。奥山作)は改めて描いていただく。そして今月号の記事の中から編集人の連載を選び、タイトルを貼ったところでタイムオーバーしてしまった。次の日が個展のクロージングパーティーだということなので、明日また見に来ますと言ってギャラリーを出た。

08080704  そして次の日、パーティーに参加してみると…完成してる! 記事がページいっぱいに貼られて、作品全体の雰囲気になじむよう、記事の周りが凹凸のある白で塗られている。塗ってくれたのはギャラリーに観客として来たアーティストの方で、ここにも参加型のアットホームな芸術が実現されている。ちなみにこの方の腕も、千手の一つになっている。下の写真を見て欲しい。ピンクのステッカーを貼ろうとしている腕が彼のものだ。

08080702 このステッカーは現実にある。彼の作品だ。ナイキのマークをウナギに仕立てたマークの下に、「JUST DOITE?」と書かれている。渋谷の山下公園が「ナイキ公園」として生まれ変わる計画に反対する運動のステッカーである。なぜ反対するのか、興味を持たれた方はこちらへ

08080701パーティーでは「三美神」モデルの一人、白井愛子さんと増山さんのパフォーマンスが催された。刺激的な衣装で銃を奪い合ったあと、浴衣姿で歌う白井さんに増山さんが「NO 原発」と書かれた帯を巻き付け、布をまとわせた針金を巻き付け、そして最後に傘を持たせる。緑の傘はMireyHIROKIデザインのものだ。ヒロキさん自身からプレゼントされたもので、環境に優しい素材で作られている。実は前日に奥山もギャラリーでヒロキさんに初めてお会いして、どのような思いを込めて傘を作ったかを詳しく話していただいた。その内容は大変に深いもので、こちらで紹介するには誌面が足りない思いだ(ここで「誌面」と言うのはヘンな気がするが)。今度改めて取材したい。そう、このパフォーマンスからもにじみ出ているように、増山さんは環境問題に取り組む活動家アーティストである。そして二児の母。たいへんにエネルギッシュな人だ。こうやって沢山の人の目に触れる芸術に参加させていただいたからには、何らかの形で恩返しせねばならない。こちらの個性を生かして、どのようにアプローチすればいいだろう? 色々と考えさせられた2日間であった。

08080703 最後に、作品の全体を。絵が大きすぎるのと人がギッシリあふれていたのとで、全体が撮れなかったのが残念。(奥山)

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2008年8月 6日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷②

●渡来人の表記
五世紀に大陸から渡ってきた人々を91年までは「いわゆる帰化人」と表現していたが、94年からは「渡来人」と変わり、98年からは「戦乱を逃れた多くの渡来人」と説明がついている。「帰化」という言葉の起源に「君主の徳化に帰服すること」(広辞苑)があり、「戦乱を逃れた」が理由であればふさわしくなく、また自らの希望で日本国民になったというよりも、やむを得ずという側面があったのも「帰化」という言葉をためらわせる理由であるらしい。
ただ「いわゆる帰化人」「渡来人」の例とされる王仁、阿知使主、弓月君らの伝説は『古事記』『日本書紀』を読む限り「戦乱を逃れた」という印象はない。ただこうした有名な氏以外に、数の上では多い「戦乱を逃れた」「渡来人」がいた可能性も高い。いずれにせよ、そう神経質になるほどではないと思われる。

●沖縄への言及は
一貫して増えている。旧石器人骨の「港川人」は60年代後半の発見であったにも関わらず、80年まで記載されていなかったが、91年には載っている。また弥生文化が及ばず、独自の「南島文化」(94年からは「貝塚文化」)があったと91年には記載されているが、80年まではない。同様のことが北海道の「続縄文文化」にもいえる

●天皇の称号
「大王」に代わって「天皇」の称号が用いられた時期は91年までは推古天皇の時代と推定している。しかし94年からは「天武天皇のころからとみられる」と見解を変えた。根拠となっている柿本人麻呂の「大君は神にしませば」は時代に限らず引用されている。聖徳太子伝説との関連か?

●改新の詔
かつては重要史料と扱われていた「改新の詔」はどうか。戦前には高く評価されていたが、すでに津田左右吉が疑問視していたように、後世の修飾があるのではないかという疑いが消えない。この点について75年は「『日本書紀』に記されているこの詔には、のちの令の文によって修飾されたと思われる部分もある」と指摘した上で、「新しい中央集権政治への方向がはっきりとうちだされている」と積極的に評価している。この傾向は91年まで基本的には変わらないが、94年になると「6年ごとに戸籍をつくり、班田収授を行うというのちの令の制度が、このときから行われたかどうかは疑わしい」と詔「其の三」への疑念の度合いを高め、評価も「あたらしい中央集権国家のあり方を示している」にトーンダウンさせた。
詔は真実だとする者から、『日本書紀』自体がトンデモ本だから、まったく信用できないとする者まで、幅広い議論があるなかで、「改新の詔」をでっち上げとする論はとらず、かといって646年に「改新の詔」によって劇的に律令制度が確立したとの論もとらず、700年代までに徐々に形成された律令制のスタートラインとしてとらえる記載は妥当ではないだろうか

●藤原京
持統朝の重要性を高めた大きな要因が、同朝の694年に建設された「藤原京」の研究にある。75年に「最近の発掘調査によって」「ようやく明瞭になりつつある」とし、その表現がしばらく続くが、91年には「藤原京と木簡」というコラムで詳細に紹介し、文中で「発掘調査は近年、著しく進み」とし、七〇一年の大宝律令施行までは地方の単位は「郡」ではなく「評」だったと出土した「木簡」から「確認された」とある。たしかに六四六年の「改新の詔」に「郡」とあるのに、694年建設の藤原京から出土した木簡から「評」だったという証拠が出てくれば、「改新の詔」の真贋を占う大きな成果といえよう。

●飛鳥文化
同文化の「主な美術作品」の工芸品として「法隆寺龍首水瓶<白銅造>」が七五年には載っている。ところが八〇年には<銀造>に改められ、九一年以降は消えている。同様に白鳳文化の「主な美術作品」の絵画として八〇年までは「聖徳太子像(皇室御物)」が紹介されているが、九一年からは消えている。宮内庁に聞かねば。「龍首水瓶」は東京国立博物館の説明では「銅鋳製鍍金銀」となっており、製造は「奈良時代」とある。X線調査で青銅上に金・銀メッキが施されているとわかる。東京国立博物館『MUSEUM』第457号(1989年4月)の三浦定俊らの研究か?

●薬師寺移建問題
現在の薬師寺が藤原京から移建したのか、平城京で新しく建造したのかの議論も年を追って変化する。八〇年までは「学会の問題点」であり、「どちらともきめがたい」とあるが、九一年には明快に移建説を支持した上で、薬師寺東塔と薬師寺金銅薬師三尊像は「意見がわかれている」とした。九八年になると一層踏み込んで、薬師寺東塔は「あたらしく建てられたものとみられる」で、金銅薬師三尊像だけが「意見がわかれている」とした。

●和同開珎の扱い
意外なことに「和同開珎」は七五年以来一度も「日本初」「日本最古」の貨幣という表記はない。八九年からは七〇八年に武蔵国からはじめて銅が献上されたので、朝廷はこれを祝って和銅と改元した。そして和同開珎をふくめ・・・・」という説明を付している。『日本書紀』六八三年に「今より以後、必ず銅銭を用いよ」とあり、これと七〇八年には時間差があり、かねがね「和同開珎」以前の銅銭の存在が指摘されていた。
最近の発掘で「富本銭」という和同開珎より古い銅銭が藤原京などから多く見つかり、流通貨幣としての役割を果たしていたのではないかと検討されている。だが、二〇〇二年まで「富本銭」は登場していない。

●竪穴住居
一般人はいつまで竪穴住居暮らしであったのか。七五年から八〇年までは「律令国家の成立」の「農民の負担」という項で、「住居も一般には昔ながらの竪穴住居であった」と記載されているのに対し、八九年からは「平城京の時代」の「新しい土地政策」の項で、「竪穴住居にかわって、平地式の掘立柱の住居が普及しはじめた」とより突っ込んだ記載に変わっている。九四年になると「平地式の掘立柱の住居が西日本から普及しはじめた」とさらに具体的になり、二〇〇二年まで続いている。これは平出の農家の遺跡の研究の進展か?(編集長)

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2008年7月30日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷①

一番古いのは1975年発行のもの。以後「社会」が「地歴・公民」と改められてからは『日本史B』を参照する

●旧石器時代の文化
かつては「先土器文化・無土器文化」と表記されてきた。「この時代の文化がすべて旧石器文化とは限らない」ので用いられていたようだ。今では「アジア大陸の旧石器文化に相当する文化であることはあきらか」とある。
さて80年頃までの旧石器時代の遺跡にはかの有名な「神の(汚れた?)手」藤村新一氏の発見は載っていない。91年に「座散乱木」が脚注に登場して「もっとも古い時期」とし、94年発行で「馬場壇A」が登場してを最も古い旧石器の遺跡で「ほぼ15万年前」としている。さらに98年発行では上高森が加わり、最古を同遺跡の「60万年前」とし、「原人段階のものである」とまでエスカレート?した。
ところが事件が表面化して後の2002年にはこうした遺跡がすべて消去され、もっとも古い時代に関しては「前期旧石器(約13万年以前)」の「遺跡の追求が進められている」と表現が後退した。やはり翻弄されたんだね。この期間に教わって覚えている人(あまりいないか)はご注意を。なおすでに75年の段階で明記されていた聖岳遺跡は2002年には消えている。
日本の考古学史の画期となった直良信夫発見の明石人(俗に明石原人)は91年までは地図に遺跡として掲載され、脚注に「真否については疑問視する意見もある」とある。その後94年に地図から削除され、「最近の研究では完新世のものとする意見が強い」と後退する。そうなのであろう。ただし明石人の発見はそれ自体がすでに歴史上の出来事のはずであるから別の扱いとして紹介する価値があるはずだ。
なお91年には縄文時代の交易の例として黒曜石、ひすい(硬玉)とともに「奈良県の二上山に産するサヌカイト」が紹介されていたが、94年には消えていた。

●農耕の起源
かつて「縄文時代には農耕はなく、弥生時代から始まった」というのは基本中の基本知識であった。どうやら80年代に高校生だった人までの常識である。91年には「福岡県の板付遺跡では縄文晩期の水田と水路が発見され・・・・水稲耕作の開始はこの時期にもとめられる可能性が強くなった」とあり、94年からは縄文晩期の水稲耕作開始はもはや事実と読める表現となっている。ただ縄文晩期には「弥生土器は出現していない」ので、縄文晩期を縄文とするか弥生とするかは「意見に相違がある」という。つまり将来は縄文晩期を弥生に繰り込んで「縄文時代には農耕はなく、弥生時代から始まった」の常識が結果的に復活する可能性もあるわけだ。
肝心の縄文文化と弥生文化の連続性についてはどうだろう。75年から80年にかけてはほぼ「弥生文化は、朝鮮南部で成立した文化の直接的影響のもとに成立した」との「推測」で貫かれている。中国の影響も触れられているものの、それよりも朝鮮南部の影響の方が強いとみている。91年も文章は多少違っているが、ほぼ同様の印象を与える。
ところが94年になると一変する。まず中国と朝鮮の影響度の差は論じられず、影響があったことは認めるが、同時に「あきらかに縄文文化の影響を受けている面もある」とする。また弥生人骨の一部と縄文人骨に差があることにも触れ、「弥生時代は在来の縄文人が・・・・朝鮮半島からあたらしい技術をたずさえて日本列島にやってきた少数の人々とともに、うみだした」と推理する。文意はわからなくはないが、具体的にイメージしにくい。

●古代朝鮮の国名表記
4世紀中頃の朝鮮南部の3国を、「百済」「新羅」「任那」と80年までは表現していた。91年になると「任那」は「加羅または任那」となり「小国が分立していた状態」と説明がつく。94年以降は「伽耶(加羅)」と変わり、「任那」に関しては「『日本書紀』では伽耶諸国を任那とよんでいる」との注が付く。
この変化と「任那」または「伽耶」への日本の勢力浸透状況の認識は密接な関連がある。80年までは一貫して同地を「勢力下におさめた」とするが、91年は「進出し」と表現が変わっている。94年からは「密接な関係を持っていた」と支配のイメージから次第に遠ざかっていく。

●古墳文化
世界最大級の古墳と誰もが習う仁徳天皇陵などを教科書はどう伝えているだろうか。75年から80年までは「仁徳陵と伝えられる古墳」とあるが、91年には「仁徳陵古墳(大山古墳)」となり、94年には「大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)」と優先順位が逆転し、2002年には「大仙陵古墳(現,仁徳天皇陵)」と「現」という言葉が入っている。厳密さを追う学者がそうしたい理由は明白。そこにその方が眠っているとの確証なしにその方の名前を冠していいのか、と。
ちなみに古墳は時代によって紹介されるものが微妙に異なるものの、よく読むと大きな変化が二つある。一つは「箸墓古墳」で、94年からは脚注ながら太字で「出現期の古墳のなかで最大の規模を持つ」と紹介されている。もう一つは「装飾古墳」である。この二つは八〇年までにはみられない。
箸墓古墳は九四年の調査で築造年代が、これまでの通説だった三世紀中盤から四世紀前半ではなく、さらに三世紀後半から末にさかのぼる可能性が出てきた。そうなると三世紀中盤まで生きた卑弥呼または二六六年に中国に使者を出した記録が残る二代目の壱与が葬られている可能性が出てきて、邪馬台国畿内説(94年から「近畿説」)側から、がぜん注目されることとなった。
「装飾古墳」は「古墳の地域色」という視点から紹介されている。「装飾古墳」は九州北部に集中的にみられ、その形状から大陸との関係が推察されている。
大王の全国的プレゼンス(統一国家の形成)を示す有力証拠とされる熊本県江田船山古墳出土太刀に刻まれた「ワカタケル大王」と読める銘を75年と76年は「反正天皇をさすと思われる」と記している。これは福山敏男の説である。ところが78年に埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣に同様の「ワカタケル大王」と読める銘が判明したことから事態は一変する。
岸俊男らの再検討により、2つの銘ともに反正天皇ではなく雄略天皇のとみる説が有力となった。八〇年からはさっそく「雄略天皇をさすものと思われる」と直された。(編集長)

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2008年7月23日 (水)

本が売れない

何だか最近経営が厳しい。創業以来厳しかったので「痛みに耐える」どころか「痛みに慣れる」状況でピンとこなかっただけで明らかに厳しくなっている。理由は簡単で本が売れないからだ。
出版市場は今や2兆円とみなしてよさそうだ。数年前までは3兆円市場だった気がする。ジリジリジリジリジリジリジリジリ下がり続けて3分の2ぐらいに縮小したらしい。
現在、書籍の返品率は平均4割である。上限が4割ではなく平均だ。市場は上位15~20社が売り上げの8割以上を占める。そうした大版元には小社より優秀な編集者や営業マンがいるに違いない。彼ら彼女が力を振り絞っても平均4割なのだ。
これを具体的に計算してみよう。256ページ上製四六判という平均的な書籍をイメージする。定価は1500円(税抜き)と強気にしてみよう。この値段は内容以前に買ってもらえるかどうかの瀬戸際である。もしかしたら、否きっとそれよりも高いかもしれない。
初刷りは3000部とする。これも案外と強気である。今では初刷り三桁も珍しくないのだから。
すると返品4割として全部を新刊委託すると

1500円×3000部×0.6=270000円

となる。
ところで書籍の多くは委託販売だから全額が出版社に入ってくるわけではない。最近の出版社の場合は3分の2が取り分の平均だ。また多くは新刊委託時に部戻しというのがかかる。これが平均5%。したがって3分の2=67%-5%=62%が出版社の取り分とみなしてよかろう

270000円×0.62=1674000円

ここから諸経費を引いていく。印刷、製本、搬入はどんなに頑張っても100万円ぐらいはかかる。本文レイアウトは社内のDTPでまかなうとしてカバーデザインと装丁ぐらいはプロのデザイナーに頼みたい。プロ校正もないと不安で仕方ないから頼む。デザインと校正を合わせてまあ30万円ぐらいはかかるだろう。この辺を低めに見積もって115万円としたら

1674000円-1150000円=524000円

だ。
忘れてはいけないのが著作権使用料(印税)である。本来は忘れちゃいけないどころの騒ぎではない。義務である。最近では実売部数(かつては刷り部数が主流だった)でお願いする会社が多い。また以前は10%が当たり前だったのを今や5%も珍しくない。さすがに実売の5%は気が引けるけど無理にお願いしちゃったとしよう。

270000円×0.05=135000円

ひどい。ひどすぎる低額だ。でもそれが出ていくとなると

524000円-135000円=389000円

さて。新刊委託をするに際して取次様の窓口へ持っていって言った数だけ卸してくれるかといえば大間違いだ。実際には委託注文分の2倍から3倍ぐらいでお願いする。3倍となるともう拝み倒す世界である。ということは1000部は注文を取ってこないといけない。そのために書店へのファクス送信や個店回りなどをしないと前提の「委託3000部」が達成できない。そうしたファクスサービスに10万円はかかる。それとは別に書店回りをしたとしよう。合わせて20万円ぐらいはかかる。通信費や交通費はどうしようもないので。

389000円-200000円=189000円

さてお立ち会い。ここまでの計算に社内編集者の報酬はいっさい含まれていない。営業の人件費もだ。またコピー出力代や筆者との電話打合せ代などもない。編集者は少なくとも企画を立て、数度の話し合いを重ね、プロ校以外の校正をし、さまざまな依頼を掛け、もちろん何度も読み直して構成をし直し、DTPを操り(つまりかつてのデザイナーと写植屋さんの仕事を代行し)外注さんや取次様へ出向くなどする。要するに働いている。これが1冊189000円で収まるかというと絶対に無理である。ゆえに赤字となる。
前述のようにこの数字は強気の部数と値段を前提に、出費を考え得る最低限で想定している。つまり楽観的な想定なのだ。実態はおおむねそれより悪くなる。
どうしたらいいのだろうか。廃業すべき? その通り。それが一番楽になる方法だけれども他に能があるわけでもなし。

そこで皆様。もはや本を買ってくれとは頼まない。小社の本だけを買って下さい。オチなし。ウツあり。カネもなければ死にたくもなし。林子平。(編集長)

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2008年5月 7日 (水)

ショーン・キングストンはなぜモテる

男はイケメンに限る。ブタは論外!と明言する女性と話す

私:「あり」かどうか答えて。ジャスティン・ティンバーレイクは?
女:「あり」に決まっているでしょう!
私:クリス・ブラウンは
女:あり
私:でも彼ってそんなイケメンかなあ
女:あのね。イケメンというのは顔だけではないの。総合力なの。見かけのね
私:ジャミロクワイのジェイ・ケイは
女:顔の印象がない
私:でも総合力で決めるのではなかったの
女:でも顔は不可欠
私:矛盾してるよなあ
女:何ですって!
(議論白熱につき中略)

私:話を戻そう。チリペッパーズのアンソニーは
女:あり
私:フリーは
女:ポール・ロジャースのこと?
私:違う違う。チリペッパーズのフリー
女:……ない
私:何で?才能豊かだし
女:でも「ない」の
私:ロッド・スチュワートはどうだ。イケメンの代表だけど60歳だぞ
女:あり
私:そんな理不尽な。60歳……
女:イケメンに年齢関係なし。「ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール」見た。あの時のロッドのエアギターったら……
(独白が長いので中略)

私:U2のボノはどうなのさ
女:あり
私:でも彼はどう見てもイケメンではないし……
女:また言っている。総合力だって
私:でも先に「顔は不可欠だ」と君は
女:いいの!細かいことは。大金持ちだろうし
私:チリペッパーズのフリーも大金持ちだと思う
女:混ぜっ返さないで!
私:混ぜっ返してはいない!
(けんかにて中略)

私:ええい!だったらマドンナはどうだ
女:女性じゃない
私:確認まで。女性は「ない」でいいのか
女:……「あり」かも……
私:何で? それは男性として「あり」という意味?
女:というか貴方は男でしょ。あなたは「あり」なの
私:僕はゲイじゃないから
女:ゲイならば「あり」なわけ?
私:……本題からずれた。いよいよ本題だ
(本題に入る)

私:ショーン・キングストンはどうだ!
女:……
私:明らかにブタだしイケメンではないしガキでもある
女:……
私:どうだ。「ない」だろ?
女:……「あり」にする
私:どうして!君のポリシーに明らかに反する発言だ
女:でも彼はもてると思う
私:なぜ?彼がもてるというのは我々「もてない男同盟」の感覚からすると許されないのだ
女:「もてない男同盟」にはハナから興味ないから反論になっていません
私:ではブタだという点はどうだ。その一点で語り合おう
女:そうかな。PV見た限りでは結構踊れるじゃん
私:あれが踊りか。揺れているだけでしょう。BBキングみたいに
女:それに美女とうまく絡んでいる
私:僕はあれを絡んでいるとは認めない。単なる美女と野獣だ。美女の3倍ぐらい恰幅があるじゃん
女:それもまたよし。スラム街でもボディガードしてくれそうだし。だいたいそんな歌じゃなかった
私:歌うだけなら誰でもできる
女:でも守ってくれる人かどうかは別。あなたはショーン・キングストンと闘って勝てる?
私:……自信はない
女:イケメン云々もそう。あなたのいう「もてない男同盟」にショーン以上の顔がいる?
私:「以上」と言われると……
女:要するに美女と絡んだPVで売れているということは女が認めているという意味。少なくとも帰納法的に私の主張の方が正しいのは明々白々。参ったか
私:……参りたくない

-Post Postscript-
私:カート・コバーンは
女:何言ってるの。「あり」に決まっているでしょ
私:でも死んでいる
女:死んでいても追っかけたいの。生きている「もてない男同盟」より価値があるの!
私:そ、そんな……
(編集長)

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2008年2月28日 (木)

ドリームボックス 第4回 ピアノからは逃げられない(後編)

 最近は、人生でその他のことが意外とうまく行き、視野を広げたことで、いろいろな分野の人に会うようになりました。そんな中で、いろんな生き方があることを知りました。そしてその中で自分は、なぜピアノと運命的な出会いをしてしまったのか、この道を選んでしまったのか残念な思いがあって。もっと賢ければ、視野が広ければ自分はすばらしい何者かになっていたのかもしれないと思い、何よりも今、自分の人生からピアノ=苦しみを消せるなら消したいという思いがずっと心の中にありました。

 しかし、よく考えてみると私の身に起きた良いことはすべて、会ったすばらしい人の多くもすべてピアノが運んでくれたプレゼントでした。だから、こんな人生に誰がしたの!!!(怒)なんてピアノを恨むのはやめて、ピアノとともにゆっくりやっていこうと思っています。本当に辛かったときは、自分の部屋でピアノを見るのが嫌でした。いつもそこにあるから。ちなみに、私は、どこに住んでも大きなピアノと共に暮らしていますのでピアノから逃げることはできないのです。

 ピアノが嫌になる最大の理由は、練習でも人間関係でもなく、コンサート。舞台に出ることのプレッシャーとどう向き合ってよいかわからない自分に嫌気がさしてきます。そして失敗してしまえばそれがもっと強まるわけで、しかももうこれ以上の痛みは受け止めきれない、だけど私が一番やりたいこと、一番大切なことそれは、ピアノ。だからいっそ死んでしまおう。こう思うことがよくあったのです。死ななかったのは偶然かな?

 ちなみに日本人で初めて海外留学したピアニスト久野久は、ウィーンで留学中に投身自殺をして死んでしまうのです。しかし、私は、お酒が大好きでよくお友達と飲みに行くし、私生活のほうでは、言いたいことを言って、やりたいことをやって、かなり奔放に生きてきたので、まぁ楽しすぎる人生だなと思います。だからやっぱり死ねなかったのかな(笑)

 そう、それで、今回のコンサートは、なんだか前日からうまく行く気もしていたし、緊張したけど、うまくいきました。思ったとおり。ベートーベンのソナタを弾きました。

 ピアニストは、一人で舞台に出て行かなければいけないし、ソロの場合は、楽譜も見られないので、とにかく孤独で不安と戦わなければいけないのです。とにかくどうにか乗り切ろうと思って、いろいろな願掛けをしてしまいます。

 まず、近しい友達で応援していてくれる人には、「祈っていてね、明日弾くから。お願いだからパワーを送ってね」と頼んでみたり。ちなみに、バカみたいと笑われるかもしれないけれど、私の場合、一人で海外にいるので、アメリカとか日本とかイギリスとか韓国とか、とにかくどこでも海外からパワーが飛んでくると思うと、意外となんか、こう、ワーーーって自分の中に魂が入ってくるような気がするのです。特に遠いところの友達に言うとなんだかスッキリするような、まぁ真意は、自分でも良くわからないんだけど。

Dscf1898_4  そして、その次に重要な儀式があって、ファンの人からいただいたアクセサリー、応援してくださる先輩音楽家からいただいたハンカチ、すごく仲いい友達がくれた品、ハンカチとかipodとかペンとか、両親が送ってくれた物などでも。そういうものを身に着けて行くこと。それで、楽屋では、ipodで何か聞きながら「自分はそう一人じゃないんだ!!!みんながついていてくれるじゃないかぁ。!!!!」という想いを抱き勇気を奮い立たせる。なんか書いてて頭おかしい人みたいって思ってきたけど。そう、これが本当のBrendaなのです。

 ちなみに写真は、実際に今回私が持っていったものです。(福冨ブレンダ)

福冨ブレンダさんのブログが始まりました。

http://ameblo.jp/brenda0/

日本と世界の事情を痛快に、そして日常とピアノのことを情熱的に書いてくれています!

是非ご覧あれ。

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2008年2月27日 (水)

ドリームボックス 第4回 ピアノからは逃げられない(前編)

 みなさんこんにちは。日本もずいぶんと寒かったようですが、いかがお過ごしでしょうか。
 私は、風邪こそ治ったものの7日ぐらい寝たきりの状況が続いたので、さすがに体力が落ちてしまい本当に辛いです。
 前回は、病の床からのリポートになってしまいましたので今回は、コンサートのことを書きたいと思います。

 

Dscf1902  ところで、私は、日本に住んでいたときに外資系のIT企業で総合職として営業やら、マーケティングやらの部署で働いていました。そのときは、毎月お給料日が来るのが楽しみで、早く一ヶ月が終わってまた25日にならないかなと思うと同時に、月曜が始まるとかなりブルーになって早く一週間終われ!と願いもしたものです。そんなふうにただ一度しかない人生を生きている自分が嫌でした。ひとつひとつの時間を、そして人生もかみしめながら、今日というその日を感じながら生きていたかったからです。

 だって生きているその瞬間、瞬間がすばらしければ、時間なんて止まれ!っていうふうに思うはずでしょ。早く一週間終わって週末来い!なんていうのは、最悪の生き方ですよ。

 今はと言えば、仕事がライフワークで、プライベートも仕事の延長なので週末という概念もありません。ただ、今日も仕事をしていて思ったのですがとにかく楽しい。だから、こんなんでお金をいただいてしまっていいのかなと思うことはあります。とにかく毎日毎日、ただの一日だって普通の日などありません。毎日、考えて、考えて、どうしたらいいのか悩んで、うれしいことがあれば喜びをかみしめ、悲しいことがあれば、一人ではやりきれないのでできるだけ誰かに寄り添いながら、今日一日があることに感謝して過ごしています。一週間が過ぎるたびに自分が何を成し遂げたのか自省し、一ヶ月終わるたびに、今月もこうして生きることができたと一ヶ月という期間の天寿を全うしたなと納得するのです。

 人生80年とか100年とかも天寿かもしれないけど、今日の一日も一ヶ月もその天寿の中の大切な天寿なのです。このように考えて生きられることが「私って本当に幸せ」と思える日々。先ほども書いたように幸せでないから早く過ぎろなどと思うのです。

 しかしながら、いろいろやっていて怒涛のごとく忙しいので、日々はものすごい勢いで駆け巡るし、立ち止まる時間もあまりないほどではあるのですけどね。

 そんな中で一番大切なことは、やっぱり音楽。今は、昔と違ってこれだけあれば生きていけるというようには思わなくなったので。恋愛もビジネスも人生のまたその他のことでも自分にとってプラスになりそうなことは、一緒に経験しているところです。

 昔の私は、もっと堅物でした。ピアノだけできれば、もうそれで何もいらないという気持ちが強すぎて、なにも省みようとしなかった。2003年12月18日にクラクフに越してきて、最初にしたことは、ピアノの練習、それから自分のピアノをまだ買っていなかったので、着いたその日からピアノ探し、数日で買って、その日からは「弾く」のみ。あの頃は、今では信じられないけれど一日8時間も弾いていました。

 ちょうどその時期は、クリスマス。越してきたばかりの頃は、その日がポーランドの人々にとってどれほど大切かなどということはまったく関係なく、クリスマスも、大晦日も、一人っきりで誰にも会うこともなく毎日8時間、長いときは10時間ぐらいピアノに向かっていました。そしてついにある日、上の階の人から苦情が来て、しかもその人が大家さんに訴えた内容が面白すぎて笑えました。

「下に住んでいる人は何をしてる人ですか?あの人は、出かけないんですか? ていうか、本当に、本当に毎日一日中弾いてるんですけど。頭おかしいんじゃないですか?」

 クリスマスや大晦日なんていう一年で最も楽しまなきゃいけない日にもピアノを弾き続けていた私。さすがに今では、そんなことはしませんけどね。

 その他にも上の階に住んでいた有名な女優さんがいきなりうちに来て申し訳なさそうに、「あなたのピアノのおかげでテレビの音も聞こえないし、公演前で精神統一が必要なときも静かな時間を過ごせないの」と言われてしまいました。

 私は、苦情が出るたびに生きた心地のしない日々を送り、ひどい不眠症に陥り、どうにかこの騒動がおさまらないかお酒を持って必死で謝りに行ったものです。騒音騒ぎを恐れて、おなじ建物の住人に肉じゃが配ったりチャーハン配ったりもしていました。それもこれもすべてピアノのため。

 ピアノに関しては、とにかく、すべてをなげうって取り組んできたのだけれど、結果に全然満足などしていません。しかし、これは、人生を賭けて挑戦していくべき課題、今だけではなく、これから最期の日まで挑戦は続くのです。(福冨ブレンダ)

福冨ブレンダさんのブログが始まりました。

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2008年2月20日 (水)

ヨーロッパの素敵なバレンタインデー--バラのミステリー

「ドリームボックス」連載中の福富ブレンダさんから「タイムリーな話題」として原稿をいただきました。本当は14日にアップしたかったのですが既に大畑が「バレンタインとデジタル・デバイド」なるしょうがない?原稿をあげていて、翌日というのもどうかと思っていたら予定ではソープ、葬式、人殺し、ゲームの原稿が決まっていたので(いつものことながら脈絡がないですね)本日となりました。
なお誰も知らないでしょうが本日は私(編集長)の番です。したがって適当に言い抜けてサボったのではないかと思われる人もいるかもしれないけど違います。なぜならば本日は私が書くなど誰も知らないからサボるという概念が存在しないからです。ついでに申し上げるとこうした詭弁をトートロジーといいます。
と下らないひねくれ文はここまでとして「もてない男」代表として人一倍バレンタインデーを憎み続けて45年の私も認めたディナーとバラが彩る秘密のゲームが美しいヨーロッパのバレンタインデーをどうぞ(ここまで編集長)

日本では、女性が男性にチョコレートをあげるという世界でも稀に見る不思議な習慣がありますが、チョコレートは、お菓子屋さんの戦略で始まったらしいですね。女性は、男性にお食事をおごっていただくことも多いので、その気持ちにお礼ができる絶好の機会です。
それ以外では、本命、義理とありますけど、私は、日本では、とりあえず、何か借りがある男、仕事上根回しすべき男には、義理をあげたりもしましたが、基本的に彼氏以外の男に何かをプレゼントしたり、いちいち微笑んだりするのが好きじゃなかった。

日本では、バレンタインデーに愛の告白を試みる女性も多いのかもしれませんが、だいたい菓子屋の作った金儲けの風習につられてチョコレートで愛の告白なんて安っぽいと私は思っています。
そもそもあからさまに女から男を追っかけるなんてあまりにeasy。ただ、日本人男性は、女を追っかける勢いがヨーロッパの男性に比べて断然劣っているので、日本の女達がしびれを切らして自分から追っかけてしまう精神状況もわからなくはないですけれど。

ここヨーロッパでは、バレンタインデーは、男性から女性への大切な告白の機会だったり、日ごろ示している愛をもっと示す時間だったりします。普通恋人同士は、おしゃれして特別なディナーにでかけます。また、友達以上恋人未満の人たちは、男性が女性を食事に誘ってなんとなくアピールしてみたり。しかも、バレンタインデーには、女性は男性からプレゼントをもらえるんですよ。

私は、というと、ここ何年間もこの日はデートではなくバレンタインコンサートで弾いていましたが(ちなみに人が休んでいるときこそが出番なので楽しむ人々を尻目にいつも仕事です)、でも今年はオフでした。

バレンタインデー当日。買い物に出たら街中はあふれんばかりの恋人同士。恋人同士と必ずわかるのは、手にバラの花を持っているから。プレゼントを抱える男性もちらほら。

家に帰ってきてなんとなく寂しくなってきて、ラブソングを聴きながら自家製納豆を作っていると・・・。いきなりインターホンが鳴って。なんとインターネットから注文をお届けと言うお花屋さん。いや、しかし私は、間違っているんじゃないか?と思って、すでに隣に住んでる大金持ちのお嬢のドアの前には、花瓶ごとお届けの花も届いていたし、そのお嬢さんに来た品だろうと思ったので、よく確かめたのだけど私の住所。
それで一応オートロックの中に入れたんだけど、もしかしたらバレンタインに寂しく過ごす女を狙った強盗かなんかに押し入られるのか? などなど警戒していると、本当に箱入りのバラの花が届いたのです。しかし、誰か検討がつかないし送り状にも名前なし。誰か聞いてみると「知ってるけど言えない」と・・・。
でも、箱の中にカードが入っていたので開けてみるとなんと!!!

“From a secret admirer”(秘密のファンより)

だって!

こんなおしゃれなことをしてくれるのは誰かしら・・・と考えてたのだけど。うーーーん、謎が解けない。誰なんだろう。結局、ピアノの上にお花を飾って謎解きをしながらピアノを弾きました。

とそのとき電話が鳴って。
なんと!お花屋さんから電話。

「お届けのお花があるんですけど住所どこですか?」って。

住所はごく一部の人にしか教えてないから、今度は私の住所を知らない人がお花屋さんに注文してくれたらしい。
ふーん。でも一体誰だ?と思って、誰からかわかりますか?と聞いてみると「今言えません」って。一体誰なんだよ~~~。

でも女として素直に嬉しい。ちょっとだけだけどもてた気分。好きな人にもててるといいんだけど。
でも、まさかバレンタインを装った振り込め詐欺とかじゃないよね?あとで請求書が来たりして(福富ブレンダ)

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2008年2月13日 (水)

エイミー・ワインハウスがグラミー主要3部門制覇

Winehouseとは本名なのだそうだ。その名を地で行く酔っ払い。だからリハビリ施設に行けとの忠告を拒否した歌を披露したら記録的大ヒットで「飲み」ならぬノミニー。だけでなく新人賞を入れれば主要3部門を制覇。でも“I said no, no, no”との態度まかりならんと移民局が米国ビザ発行を認めずI wont go, go, go。母国イギリスからの中継で授賞式に参加した。出来すぎてるけど面白い。

このところ主要部門独占というのが一種のバリューとなっている感があるグラミーだが、それをエイミーとしたのは一種の見識だろう。新人という点も含めて最近ではノラ・ジョーンズが似るけど彼女の場合はアメリカ人だし素行は申し分なく楽曲もアメリカ好み。対してエイミーはUKチャートの女王ではあるものの全米ではセールスとして1番というわけではない。
選者は何を気に入ったのか。ブリ張りのお騒がせが気に入った……わけはない。アルコール依存症という連想からビリー・ホリデイを見た……はずもない。
「はずもない」か? エイミーのスタイルは10代はもとよりパンク・ムーブメントで育った世代も、ビリー・ホリデイ崇拝世代もそれなりに思い入れができるオルタナティブな要素がある。歌唱はビリーよりエラフィッツに近いが。何はともあれ既存の権力に反抗的という点をとってみればグラミー好みともいえる。ビザ発行を認めなかった=不寛容なブッシュ・アメリカ=それに反抗する我がリベラルなグラミーという連想からノミニーに留めず受賞へ突き進んだのかもしれない。そういえばオバマ氏も賞をもらっていたし。

もう1つの側面はカニエ・ウエストに対する相変わらずの扱いである。「カニエでいいじゃん!」がまだ「エイミーでいいじゃん!」を上回らない現実。いつものように「ラップ部門総なめ」というありがたいのか腹立たしいのかわからない受賞となった。授賞式でのカニエは露わに不満こそ示さず、むしろ感激している風を見せていた。装っていたのかもしれない。もうかなり大人しくなってますよとアピールして次回への布石としたのか。確かに授賞式で吠えるという従来までの姿勢では事態はいつまでたっても打開できない。
それでもカニエに対するグラミーの「封じ込め」は異様に感じる。今の彼はもはや電気泥棒のブロックパーティでの帝王という位置にはいない。ナイル・ロジャース、クインシー・ジョーンズ、ベイビー・フェイスなどと比べても遜色ないプロデューサーでもある。
かえってそれがいけないのかな。いったんカニエに主要部門を認めると曲はどれも「ピーポーピーポー・ゴー!ピーポーピーポー・ドゥ!」のようにしか聞こえないアンチヒップホップの人々にとって「不良の音楽」が栄光あるグラミーを席巻するアリの一穴になると。いやカニエの存在感を考えるとゾウの一穴か。なおさら怖い。まるでパンデミックを防ぐための封じ込め作戦のようだ。

最優秀アルバム賞のハービー・ハンコックは誰もが意外だったろう。“River: The Joni Letters”は「きちんとした人々」が集まったコラボレーションだったのでエイミーの新人賞を除く主要三部門独占という事態を回避するための毒消しとして、またはカニエに「彼ならば仕方なかろう」と思わせる大御所として決まったようである。でも“River: The Joni Letters”って売れているのかしら。

商業的には抜群のジャスティン・ティンバーレイクはほどほどを与えられてバランスを取る。イケメンに厳しい私としてはこんなものでいい。それにしてもブリにふられていてよかったよね。

マルーン5は最優秀ポップパフォーマンス賞デュオ/グループを受賞。これでアダムのシャラポワショックも少しは癒えたであろう。複数受賞のアリシア・キーズは今回が常連への足がかり。彼女は年配にも人気があるので主要部門受賞もヒットが続けば夢ではない。

ロバート・プラントはアリソン・クラウスと最優秀ポップコラボレーション賞をもらった。ツェッペリンのヴォーカルとカントリー(ブルーグラス系)の売れっ子の組み合わせはコラボレーションという点で確かに面白い。でも曲を聴くとロバート・プラントの声があまり聞こえてこない。アリソンがガンガン来てロバートが時々「フワーアアア」とおなじみのハイトーンに行く気配だけ見せて行かない。行けないのだろう。でも元気で何よりである。(編集長)

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2008年2月 7日 (木)

ドリームボックス 第3回 海外で病気になると…(後編)

今回は、一人で病院に行きましたが、担当はプライドの高そうな若い男性のお医者さん。だいたい、この年代でこの性別だとその人の顔つきからどんな状況になるか想像できます。
同年代の男性医師の場合、もちろん医者だからプライドも高く、しかもやはり男性は女性よりも上でなければいけないというようなプレッシャーみたいのもあるのだと思います。言葉の問題で、女性である私に対して尊大な態度を取れないことでプライドが傷つき、女性患者より英語ができないので、そのせいで卑屈になり、攻撃的な態度をとる結果となるのでしょう。態度もぎこちないし、英語も本当にたどたどしいし。
私は、抗生物質はいらないと思っていましたけど、その理由を説明してもわかってもらえないだろうとやめました。うがいぐすりも私は「オエッ」となる方だからもらっても実行できないものの、言っても無駄と思ったので、とりあえず言われたとおりの処方箋をいただいて薬局で目減らしすることにしました。

ちなみに、私の考えでは、風邪の感染後に抗生物質を飲んでもすでに発症していれば治すのは無理で意味がないと思うのですが誰か詳しく知っていたら教えてください。

のどを診るときには口が大きく開けられませんでした。もう何日も寝たきりだったので顎関節症が悪くなって、食事をするにも苦労するほどでした。だからできなかったのですが、そのお医者さんは、「ちゃんと口を大きく開いてくれなきゃ診察できないじゃないか」とイライラ。私は、あごをマッサージしつつ何とかしようとしたけどそれでも無理。「顎関節症なので」と言いたくても英語でとっさにその言葉が出てこない。
なんでそんなことで患者の私がイライラさせられなくてはいけないのか、イライラしているのは、こっちの方だよと気分が悪くなりました。それと同時に普段はめったに感じない母国語ではない言葉での生活の不自由さを感じてしまいました。

これが、女性医師または、年配の男性医師になると対応もかわって、医師のほうにいくぶん余裕があって、相手からまず英語が完全でないということをカミングアウトしてくださるので、私の方も「私の英語も完璧ではないので、うまく説明できていなければごめんなさい」と答えます。

知っている医師のところにうかがうときは、私は、よく先にメールでどんな症状があるのか自分はどうしたいと思うのか、送ることにしています。どんなに複雑な話でも、メールであれば辞書を使いながらゆっくり書けるし、医師の側もわからない言葉があれば調べながら読むことができる。つまり私がお伝えしたいこと
が完全に伝わるはずです。
しかし、今回のような風邪などの急病は、その日のうちに病院に行きたいのであせります。私のお友達の家族には医師が多いので、これまではその方々に診ていただいていたのですが、最近は、なんだか弱っているときに知り合いの家族に診ていただくのがちょっと恥ずかしくなってきてしまって……。何しろお友達のご家族は、日ごろからホームパーティーなどでよく顔を合わせる方々ですから。
あと、最大の理由は、こちらのクリニックはほとんど予約診療なので突然電話していかにも知り合いだから今日緊急に私の診察の予定を入れてと言うような感じになってしまうのが悪い気がしてきたのです。実際に「Brendaが病気じゃすぐに診てあげなくちゃ」とクリニックの患者さんをお待たせする形で予約を入れてくださるとか、時間がなければ自宅で診ていただくことになってしまいます。しかも、お友達だとお支払いはいいですよといつも言ってくださるのでそれもとても恐縮してしまいますしね。
あまり自分の不調で人を振り回すのもどうかなと思って、最近は自分で手配できる余裕があればですが、一般の外国人診療可能のクリニックに予約なしで駆け込むことにしています。いきなり行って「予約していないんだけれど診ていただけますか?」も急ですが、こちらの方が言いやすい気がして。

ヨーロッパでもパリとかブリュッセルのような日本人の多い都市に行けば、日本人の医師かまたは日本語を話す現地人医師がいるので問題もないとは、思いますけれどね。

ポーランドは、私のように健康で英語が堪能な20代には、どうにか普通に生活可能ですが、英語の能力が中級ぐらいで年齢も中年以降になるとかなりチャレンジングな場所になりそうです。お子さんを連れてきていらっしゃる方も幾人かいらっしゃいますが、すごいチャレンジなんだろうなと思います。とくに医療の問題でリスクにさらされているなと感じます。私にもし子供がいたらここに住む勇気はありません。こういったことは、本当に深刻な問題です。

私は、ポーランドで車を運転しません。通常はいつも同じタクシーの運転手さんを直接呼び出す形にして、自分のお抱えさんとしてお願いしています。信用できない人に運転を任せたくないからです。また、長距離の車の移動は、なるべくしません。なぜなら、本気で事故が恐いから。もし遭遇して救急車で運ばれたらどうなってしまうでしょう。すごく運が悪ければ、衛生管理のなっていない病院で手術されて、B型肝炎にでもなるかもしれないし、そんなことが起きるか起きないか、誰もわからないのです。実際にポーランドで手術を受けて感染症でひどい目にあった人の話を何人か聞いていますので、本当に恐ろしいです。

私は、一年の中でずいぶんパリにいることも多いのですが、パリではまったく反対の印象を受けます。これが本当に天と地ほどの差で、パリと比べれば、ポーランドでの日本人の生活は、窮状といえるでしょう。私は、パリにつくといつもオルリー空港からエールフランスのバスで市内に向かうのですが、このときに必ずふつふつと湧き上がる想いが、「車運転したい!」です。
私は、もともと運転が好きで特に飛ばすのが大好きなのですが、ポーランドで何回かハンドルを握ったときは、道が悪くてとても飛ばすどころの話ではなかったのです。
パリに関しては、道路事情もさることながら、とにかく日本人向けのサービスは、もう飽和状態で、これではビジネスチャンスもないのではないかと思うほどあふれています。引越し屋さん、美容室、弁護士、不動産屋、インターネットカフェ、葬儀業、塾に蕎麦屋に眼鏡屋に。とにかくなんでも日本語で用がたせます。
そして周りを見渡せば日本人だらけ。パリなら英語さえできなくてもお金さえあれば生きていくことは可能でしょう。ビザの手続きも病院も日本人向けのサービスがかなり充実していますからね。

さてさて、長くなりましたがまだ調子も悪いので今日は、この辺で。
書きながら何がドリームボックスだよ(怒)!!!と自分で言いたくなるような、苦しいコンディションの私ですが早く治して元気になりたいです。抗生物質など飲まずにおいしいお野菜でと温かい御飯を食べて寝ています。みなさまは、お風邪など召されませんようご自愛くださいネ。でも、もし風邪をひいてしまったら、薬が病を癒してくれることなど絶対にありませんので、社畜になるのもいい加減にして、ここぞとばかりにいつも取れない有給をとりましょう。(福冨ブレンダ)

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2008年2月 6日 (水)

ドリームボックス 第3回 海外で病気になると…(前編)

みなさんこんにちは。福冨ブレンダです。

今回は、先日のコンサートの様子をご報告しようかなと考えていたのですが、私は、今この原稿をベットの中で書いています。なんとひどい風邪をひいてしまいました。もう5日も病の床に伏しているのです。

本当に衰弱していて英語とフランス語の読み書きもできない上に、ピアノが弾けないのが痛いです。こんなときに唯一読み書きできるのは日本語のみと病気になって気がつきました。

とにかく、ひたすら暇で、やることがないのは、いつも忙しすぎるのが理由で落ち込んでいる私には、滅多に経験できないことです。

Always look on the bright side of life.
今ロンドにいる元カレがこの曲を聴かせて励ましてくれました。
この曲は、なぜか彼の大好きな曲で、昔私が病気だったとき、悲しくて泣いているとき、よく車の中で歌ってくれました。今日は、モンティ・パイソン(Monty Python)というコメディアンの面白いビデオつきで。モンティ・パイソンは、これまであまり好きではなかったのですがこのビデオは、すごく笑えます。調べてみたらこの曲は、モンティ・パイソンのライフオブブライアンという作品のために書かれた曲なのですね。Eric Idleと言う人が書いたみたいです。知りませんでした。すごい才能がありますね。モンティ・パイソン自体は嫌いだったけどライフオブブライアンは何だか見てみたくなりました。
本当に笑えるので英語のわかる人はご覧になってみてください↓
http://youtube.com/watch?v=P_D7WtOHZd0&feature=related

そう、考え方を変えればこんなに休めるなんて最高! たまたまここ5日キャンセルできる程度の仕事しか入っていなかったのは不幸中の幸いです。こんなときは、ちょっとした翻訳の依頼をされるだけでイラついてきます。
もし、こんなコンディションの時にフライトしなければいけない予定や、ストレスのかかる仕事が入っていると本当に大変です。

私は、飛行機での移動がけっこう多い生活をしているのでこれまでもいろいろな場所で調子が悪くなり、そんなことにも慣れてきた感もあります。保険さえあればどうにでもなるものです。しかも、私の場合さっきまで超元気でお酒も飲んでたのに、突然死んだみたいに病気になるので周りの人もびっくり、私もびっくりです。
それでも、パリやクラクフでならばまだOKですけれど、プラハで病気になったときには、英語を話せるお医者さんがいるかどうか心配でかなり動揺しました。
このように出先で調子が悪くなることは結構あるので、旅行用のランジェリーケースの中には、ポカリスエットの粉がいつも入っています。これをかなり薄めて飲むだけでも、点滴すると同じような効果があるのでお勧めです。あくまでまだ何かを口から飲める状態であればですが。

だいたい、風邪とか疲労からくる病で病院に行ってもどうにもならないことがほとんど。しかし、今回は、3日間寝込んだ末にせめてもの気休めに病院へ向かおうと決意しました。

ちなみに、私は、語学については英語に堪能で、続いてポーランド語とフランス語が少しできます。病院での会話は、いつも英語です。
英語に関しては、物心つかないうちから母からのスパルタ教育を受けたので、それに耐え抜いた代償としてとりあえず、複雑な話も、難しい交渉も、恋愛の駆け引きもできる力を備えています。
英語は、私にとってとても心地の良い言葉です。もちろん話すときは、頭の中は英語で考えています。生活する中で、圧倒的に英語で話す時間が長いので、むしろ日本語を話すときも英語で考えることが多く、日本語での会話が英語の通訳みたいな話し方になってしまうことに困っています。

しかし、こんな私が、未だどうしても英会話で不自由を感じ適応できない場所があります。それが病院。何度行ってもだめです。自分の思いを伝えるのはおろか、指示にもうまく対応できないこともあります。「口で息をして」と言われているのにずっと鼻で息をしていたり……。理解していても緊張してできないとか、
言いたいことがうまく口に出ないとか。

それもそのはず、日本で日本語で話すときすら病院は本当に苦手なのですから。
緊張と恐怖感に押しつぶされそうになって「注射するかもしれない」と思うだけで頭がいっぱいになってパニック状態に陥ってしまうのです。いつもは、誰よりも気が強くついでに芯も強いBrendaなのに……。

そんなわけで、こちらの病院では、本当に大変です。
これまでもいろいろなことがありました。アレルギーになってしまったときなど血液検査をするのがすごく怖くて検査室で絶叫してしまい、ちょっと恥ずかしい思いをしました。
怖かった訳は2つで、一つは針を刺すこと自体。もう一つは私がポーランドの医療を全く信用していないので、その針がきれいか、まさかB型肝炎でも感染してしまわないか心配になってパニックに陥ったのです。

でも、そんな状況で自分の不安な気持ちをうまく説明できないし、さすがに「あなたたちのことが信用できない」とはさすがにいえなくて、つたないポーランド語で「一番細い針を使ってください」と頼むのが精一杯です。

私は、いつも外国人用のクリニックに行っているのでそういう場所での医療の質がそこまで低いとは思いませんが、こちらでは、血液検査やアレルギー検査などをする場合は、検査専門のラボラトリーか公的病院に行かなければなりません。
そこでは英語もほとんど通じません。言葉が通じない場所で、なにか針がついている注射器を見せられるとパニックはさらにひどくなっていつも日本語で絶叫していますが、あちらにしてみれば「こいつ何叫んでいるんだ?」という感じで、みんな落ち着いて笑っているか、さっさとさせろ!と怒っているかどちらかです。

ポーランド語でなだめられても相手が何を言っているか完全にはわからないのでキョトンとしちゃうし、反対になにか怒られると言葉の端々からだいたい何を言われたか理解できるので、こっちも怒りが込み上げてきて、反撃したくなるけど何も言えないので、悔しくて、家に帰ってからもあの看護師め!と思って怒りがわき上がってきます。
私も大変ですが付き添っている人も同じ。看護師さんから「こいつを落ち着かせろ」とか名前のスペルがわからないから検査のラベルにかわりに書けと命じられたりして、てんてこ舞いです。(福冨ブレンダ)

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2008年1月31日 (木)

ドリームボックス 第2回 プレッシャーとの戦い

これからいろいろと海外生活での出来事なども含め書いていきたいと思います。
今回は、2003年より渡欧して、現在はヨーロッパを中心に活動している私のピアニストとしての生活の一端をご紹介します。
実を言えば私が留学したのも、大学院で勉強したのも、起業したのも、人生がなんだか華やかになったのもすべてがピアニストになりたいという夢から派生したものであり、いわば副産物でした。しかし、この仕事は、ほんと生死をさまよいそうなぐらい大変です。

そんな訳で、私の人生をもし一言で言うとすれば!
「舞台でのプレッシャーとの戦い」

いまだ勝ったことがないような気がしますが……。

人前で演奏するプレッシャー。
この苦しみのお陰でピアノを、ある時には人間さえもやめたくなります。
Photo
でも、一応自分は舞台上でかなり華やかというか華やいだ雰囲気のピアニストだと思うのですが、なんでこんな「嘘っぱちみたいな姿」でいられるのか自分でも不思議です。

朝から昼にかけて会場に向かう時には、もしうまく行かなかったらどの方法で自決しようか真剣に考えてしまう。「このまま親より先に死んでしまっていいのだろうか……そんなことをしたら……」といつも思いつめながら会場につきます。

そして、どうせ演奏会が終われば死ぬ(かもしれない)わけだし、まぁ思いのまま玉砕してしまえばいいのだと半ば、あきらめた状態で舞台に上がり、満面の笑顔でお辞儀して、丁寧に座り、瞑想状態にはいったかのごとく弾き始めるわけです。

そしてだいたい演奏が終わると、もう最高!って感じになって。
なんであたし自殺なんて考えてたんだろう。ばっかじゃない???
みたいな気分になって、「打ち上げはどこに行こうか?」なんてことをドレスを脱ぎながら急いで考えて、友人達と主催者と飲みに行くわけです。

危ないときは、アンコールを弾いている時点で精神的な高揚もあいまって「今夜何を飲もうか」と脳裏にお酒の絵が浮かんじゃったりします。実は、お酒大好きなのです!

そんなこんなをもう何十回も繰り返して今に至っています。また明日コンサートがあるのですが、明日は、これまで感じた鬱々とした苦しみやプレッシャーなどBADエナジーすべてから解放された自分になりたいと考えています。なんだかそんなふうになるような気がしているんです。

だいたい自分が描けないような自身の姿へ実際に到達することができるわけがありません。

かつては自分のうまく行く姿さえ想像できない時期が20年以上と本当に長くあったのですが、そういうときは、現実に舞台でボロボロの無様な姿にぶちのめされます。(何に一体そこまでぶちのめされてたのだか謎ですが)

そこまで惨めな姿をさらしながらもまだ立ち向かう勇気を持つことが本当に難しかった。一つ一つのコンサートで「今日が終わりだ」とこれまで思ってきたのは、そういうボロボロになったあとに自分がまた立ち上がれるか想像しにくかったからだと思います。「終わり」とは、精神的な破綻をきたすと言うことです。いっそこれで人生を締めくくり新しい日々を歩んでいくしかないと思えればそれは幸いなことだったかもしれません。そう思うことができなかったから思いつめるしかなかった。しかし、そのつど立ち上がって前を向いて歩き始めました。自分の弱さに負けたくないという強い信念を支えとして。だからまた明日の舞台というチャンスを神様が与えてくれたのですね。きっと。

今日リハーサルで弾いていて思ったのですが、感じ方を変えるというのは難しい。

考え方はある程度変えられますが感じ方はほぼ不可能のように思います。
不快なものは不快だし、心地の良いものは心地がいい。
しかし何かをきっかけとして、考え方を根本的に変えることによって、「心地
良い」との概念自体を変えることは可能かもしれません。

これまで、自分の求める結果に基づき、効果的な結果をもたらすような
状態に自分の概念を変えるという作業にずいぶん時間を費やしてきたので、考え方が変わって、私の舞台に対する感じ方も変わったのかもしれません。何がどう変わったのか今のところ具体的にはわからないけれど、今はそれを明日確かめるのが楽しみだという気持ちでいます。

ところで今日は、リハーサル中に小さなアクシデントが。突然、コンタクトのごみを取ろうと思って出したら床に落としてしまったのです。みんなが土足で歩いた床だから汚いと思ってもうあきらめました。こんなことが本番前に起きてしまったら……とゾッとしました

ありがたいことに家はすぐ側。ホールに事情を説明して帰宅しました。どちらもクラクフの旧市街の一角にあるので歩いて5分ほどです。その他の名だたるホールもほとんどが徒歩10分以内なので本当に便利です。私は東京に住んでいるときからとにかく都心派で、いかに移動時間を短くするかに結構燃えています。そうすることで時間に余裕が生まれ生活にもゆとりが広がるからです。
だから、タクシーを使うこともしょっちゅうです。ちなみに今朝の10時30分からのレッスンは、寝坊と言う、しょうもない理由でギリギリになってしまい、10分遅刻するのは嫌だったので(もっとも歩いて10分の距離ですが)、家の側に止まっていたタクシーで行きました。すると、3分の遅刻ですみました。落ち込みそうになったので、お!7分も時間短縮Brendaちゃんすごいよ!と自分を励ましました。遅刻は本当に悪いことなので何をしてでも、5分以上は遅れないように心がけています。

私は、自分の時間管理にかなりこだわっています。東京やロンドン、ローマのような大きな街は、移動に時間をとられるのが本当にもったいない。それに比べてパリやクラクフは、小さくて移動しやすく便利です。短い距離だからこそタクシーも惜しみなく乗れますしね。ちなみに今日のタクシー代は、350円でした。これでもなんだかぼられていたように思えますが、本当に急いでいたのでBrendaお得意のタクシー運転手との喧嘩もできずじまいでその場を去りました。なお私のこれまでのぼったくりタクシー運転手達との死闘は、今後何かの機会にでも書かせていただくともりです。

東京やロンドンでは、ぼられる心配はあまりないですが、大きな街なので距離が遠くて、いつもタクシーに乗るのにとりあえずお財布の中身を確認してしまいます。

話がなんだか脱線しましたが、移動時間の短縮は、時間の余裕を生み、心の余裕を生むということをお伝えしたかったまでです。

それでは、今日はこの辺で。

次回は、コンサートのご報告も含めて書きたいと思います。

みなさんお元気で☆

●写真説明
美術館の中にあるコンサートホール。ここで黙々と一人リハーサルした

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2008年1月24日 (木)

ドリームボックス 第1回 ポーランドより自己紹介

アストラのブログをいつもごらんのみなさまこんにちは!
福冨ブレンダです。

今回から数回にわたってドリームボックスと題して私の楽しすぎる日常についていろいろと書いていきたいと思います。

自分の人生についてふと考えてみて浮かんできた言葉がこの「ドリームボックス」。私はいつも自分が自分自身の夢の中を歩いているようなそんな感覚があります。それは、実際に自分の夢が実現していく人生を送っているから。しかし、この世の中のいったい何パーセントの人が自分の夢を実現し自分にしか歩めない道を歩んでいると実感しつつ生きることができるのでしょうか?
私自身もこれまでに自分が思い描いた人生を歩めずに足踏みするしかなかった苦しい時期も経験しています。ただ私がその中で一つ強く信じている言葉があるのです。

「人生は楽しいときをどう過ごしたのかではなく苦しいときをどう過ごしたかでその後の人生が大きく変わる」

だから今もしあなたが苦しい時期を経験しているのであればそれは、逆境ではなく、人生に変革を起こすことができるか試されている時間だということを覚えておいて下さい。苦しい時期をどうにか淡々と乗り切ることも一つの手ではありますが、そこでどんな小さなことでもいいのでぜひアクションを起こしてみましょう。なんでもいいから。それがあなたの人生の方向を大きく変える小さな一歩になるはず。

私の歩んでいる道は、貴方の夢とは少し違うかもしれません、現在の日本の価値観から評価してすばらしいものと言えるかどうかもわかりません。ただ一つ言えることは、私が心に思い描きめざしてきたことの小さなことから大きなことの一つ一つを日々の中で着実に実現させているだけです。だから、日常に起こるほんの小さな出会いや困難に直面して悩むことなど一つ一つの瞬間が私にとっては夢をかなえるための一歩一歩なのです。そして、私は、自分の人生にとても満足しています。

私は、ピアノを学ぶためにポーランドに留学して、知り合いもいない新しい土地にぽつんと一人降り立ち、過酷なサバイバルライフを送ってきました。現在はポーランドでの生活が5年目に入ります。留学する直前には、東京で外資系IT企業の総合職として働き、社蓄のごとく過酷な労働に従事させられていたのです。

過酷、過酷と書きましたが、そう人生は実際には過酷なのです。苦しいときを乗り越えようと必死になっているのだけど、よく考えてみると苦しくなかったときなんてなかったんじゃないかなと思うわけです。じゃあ今は、苦しいときなのかな?と考えるとなにが何だか訳がわからなくなってきます。

それでは、今日はこのへんで。
まだまだ謎の福冨ブレンダですが、次回から私の楽しい日々についてもっと書いていきたいと思います。(福冨ブレンダ)

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2008年1月16日 (水)

年賀状は出してはいけない

私は個人として年賀状は出さない。いただいた方には心から感謝する。でも自分からは出さない。なぜならばおかしな風習だからだ。

年の初めの年賀とは、そもそも近々の家を相互訪問して新年を言祝ぐ行事である。元旦に神社へお参りして隣近所と挨拶するのも年賀といえよう。商家には独特の慣習があって江戸時代には主人の元に集まって新年を祝った。創業者の墓前で行う例もあった。さらに進んで上客を中心に挨拶回りをする習慣もあった。したがって商人にとって休日ではない。正月とは広くいえば1月いっぱい。短くとも慣習上は「7日正月」である。

本当は挨拶ないしは挨拶回りをするのが年賀であるとすれば、年賀状はその簡略版である。本人に会って挨拶するまでもないとの軽い対象への一種のアリバイ作りである。私には「君は軽い対象だ」と示す勇気はない。
何より変なのは年賀状が元旦に届かなければならないという奇習である。昨年も郵便局は必死に12月25日までに投函するよう呼びかけていた。出した側も元旦に届かないと怒る人が多いという。際立って愚かしい。いうまでもなく元旦に届くということは昨年末までに投函しているのと同義である。ということは新年の挨拶ではない。せめて元旦に書くというならばわかるが届くというのは変なのである。だから「1月1日に届くのは年賀のあり方としておかしいのではないか」というのが正しいはずだ。届かなかったのをほめるべきである。
さらにおかしいのは喪中はがき(年賀欠礼状)の存在である。おおむね「喪中につき年末年始のご挨拶ご遠慮申し上げます」旨書かれている。この文章が自分が挨拶しないというレベルならばわからなくはないが、受け取った側はさっそく「今年はこの人に出さないようにしなければ」とチェックする。出した側がそれを求めているか否かにかかわらず現実としてそうする人が多い。となると構造として「あなたは私に年賀状を出そうとお考えでしょうが喪中なのでいりません」というメッセージを発しているに等しい。

とんでもない思い上がりではなかろうか。

挨拶とは自発的になす行為である。自分が挨拶するかどうかは自分で決める。他者も同様でそうしたい人だけが行う。にもかかわらず喪中はがきは「私に年賀状を出そうと思っているでしょうけど」との先入観が存在している。挨拶をしなくていいという強制は挨拶しろという強制と強制という点で変わりがない。そこが嫌なのである。
と思っていたら1月の朝日新聞「声」欄で喪中はがきさえE-MAILで来るようになったと嘆いている投書が載っていたので驚いた。物事はいったんねじ曲がると際限ないのだと痛感した。この方はせめて喪中はがきくらいキチンとした手書きでほしいものだと暗に願っているのだ。前述のように喪中はがき自体そもそも厚かましい。厚かましいモノが手書きだろうがメールだろうが厚かましいには違いない。手書きは心がこもっていると仮定しよう。すると喪中はがきは「心のこもった厚かましい手紙」でE-MAILは「心のこもっていない厚かましいメール」となる。元来が厚かましいのだから心がこもっていない方がむしろ合理的だと思うのだが……
さらにある。ずっと出していないのでさすがに減ってきたものの私宛の年賀状はいくばくか来る。その多くが家族の写真と家族名の列記なのだ。家族ぐるみの付き合い(もっとも私は独身だが)ならばともかく、私の知人はそのうちの1人である場合が圧倒的だ。言ってみればその知人以外の家族は生きていても死んでいてもどうでもいいのである。もちろん知人にとって自らの家族は宝物であろう。でも私には関係ない。そして受取人は「関係ない」はずの私である。文章とはすべからく良し悪しを読み手が決める。なのに年賀状の多くは書き手の自己満足に終始する。なかには赤ん坊の写真をドカンと貼り付けて送ってくる人さえいる。親バカなのだろう。でも私には肉塊にしか見えない。

日本郵政の調べによると今年(つまりほぼ昨年)の年賀はがき販売枚数が約36億枚という。そんなにたくさんバカがいるのか……とまではいうまい。表現は自由だし公序良俗に反するでもなく喜び喜ばれる構図があるならば当方の主張のみを押し付けて切り捨てるまねはすべきでないからだ。でも本当にその構図はあるのか。あったとして36億枚のうち何%なのだろうか。そんなに大きな割合は占めていないと推測する。

年賀状を制度として扱うようになったのは1906年頃である。日露戦争を勝ち抜き、朝鮮を保護国化し、長春-旅順間の鉄道を手に入れて大陸への雄飛の足がかりをつかみ、紡績業を中心に産業の近代化が図られた時期だ。農村の子女が繊維産業労働者として出稼ぎに向き、寄生地主制が進んで小作へ転落する農家が激増した。都市と農村いずれもが従来と形を変え、進む工業化が会って挨拶するより手紙一枚での賀状の方が効率がいいという流れを促進したのかもしれない。
ちなみに私は会社としての年賀状は出している。これはオチではない。二重基準なのだ。どっちらけだとの読者の皆様。ぜひプロフィールにある私の立ち位置をご笑覧下さい(編集長)

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2007年12月23日 (日)

「死化粧師」を観る 第12回(最終回)/泣きながら受け入れる

 エンバーミング(遺体衛生保全)という、パソコンで変換しても絶対に一発では出てこないまれな仕事を題材にした三原ミツカズ原作のドラマ「死化粧師」も今回で最終回を迎えた。エンバーマー・間宮心十郎(和田和人)は、愛する人をエンバーミングすることでどのような成長を遂げるのか。――と、最初からヒロイン・アズキ(篠原真衣)が死ぬであろうと思ってしまっている筆者であったが、案の定お亡くなりになった。前回、トラックにひかれて傷だらけになってしまった顔はそのままで。
 発狂寸前の心十郎に、葬儀屋・恋路(忍成修吾)は「アズキさんのご両親が、エンバーミングを望んでいる」と酷な一言を投げかける。仕事熱心にもほどがあるぜ。当然、心十郎は「俺にはできない」と拒否するのだが、恋路は「親父さんを乗り越えろ」と諭した。そう、心十郎の父親もエンバーマーで、亡くなった妻、つまり心十郎の母親に、心十郎の目の前でエンバーミングを施したのだ。「お母さんと約束したんだ」と言いながら。そんなに強くなれるだろうか。でも、心十郎は父親を意識してエンバーマーになって、ずっと追いかけてきたのだ。恋路はそれを知っている。だから依頼した。
 しかし心十郎は、愛する人のエンバーミングを頑なに拒んだ。当然といえば当然だ。エンバーミングは全身の血を抜く作業だ。皮膚にメスをいれ、顔にパテを塗っていく。心を深く通わせた人が、自分の手で人ではなくなっていくのを、より深く死んでいくのをじわじわと見せつけられるのは、よほど達観しているか神経が図太くなければ耐えられないだろう。でもそれは、死を肯定していない態度だ。死を相手にしているのに、肝心なところで死を否定してしまっているのだと思う。もう言葉を発さないとしても、二度と目を開けなくても、少しでも長く人々の胸にその人を生かしめたい。死してなお生きる手助けをしたい。だから闘うのが、エンバーマーなのではないだろうか。

 私が葬儀屋だったころも、身内の葬儀は担当できないのが業界の常識のようになっていた。たいていは喪主の立場になってしまい、主役が取り仕切るというのも忙しないから、もしくは商材やサービスをちょろまかす危険性があるから、または色々知っているのをいいことに無理なことを言う可能性があるから、といった理由ももちろんあるのだが、精神が普通の状態でないときに仕事をしても絶対に手落ちがあるから、というのがまかり通った理由であった。会社として、危険な施行は避けたいのだ。
 私個人は、身内の葬儀は自分で仕切りたい。死に化粧もしてあげたい。体も拭いてあげたい。逆に、葬儀屋などに身内の体を触らせてたまるかという思いがある。しかし実際にその場に立ったとき、自分がどこまで思うとおりにできるのかについてはまったく自信が持てない。

 ドラマでは、結局心十郎がアズキにエンバーミングを施した。彼の心を動かしたのは、アズキの弟・ミツルの言葉だった。
「お願いだ。姉ちゃんを、心ちゃんの手でエンバーミングしてくれ。姉ちゃんを、なかったものにしないでくれ」
「なかったもの」とは、ミツルがふざけて持ち帰った英語のエンバーミング教本に書かれた言葉の引用だ。
「死者を、なかったものにしてはいけない」
つたない和訳だが、ひとの死から目をそらすな、受け入れてさらに生かしめろ、という意味に相違ないだろう。
 心十郎はそれを聞いて、泣きながらエンバーミングすることを選んだ。悲しんだままで受け入れる決心をしたのだ。それは、死に臨む者にとってとても大事な姿勢のように思えた。

 さて、心十郎はどのような成長を遂げたのかというと、お決まりのようだが、エンバーミングをしたあとも震えが来なくなった。寒くて「体温がほしい」と言っていたのが嘘のようだ。いや、ドラマではそれについて特に言及がなかったから、もしかしたら私の思い過ごしかもしれないが。震えが来なくなった理由については、ここでは措こう。なんだかいまさら野暮な気がするから。(小松朗子)

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2007年12月19日 (水)

新聞はでかすぎて厚すぎる

アクセス数をみていて面白いことに気づいた。新聞について書くと急減するのだ。これはすばらしい。新聞のことを書こう!

07年のアメリカ新聞界は大揺れだった。発行部数3位の新聞グループでシカゴに基盤を持つ「トリビューン」が不動産王に買収された。4位のダウ・ジョーンズはジャーナリズムのかけらもないマードックに身売り。ウォールストリートジャーナルがマードックの手に落ちたというのは驚きである。
前年の06年には2位のナイトリッダーがマクラッチーに買われている。これで業界は唯一の全国紙「USAトゥデー」を持つトップのガネットと5位のニューヨーク・タイムズに焦点が絞られてきている。
アメリカと日本の違いは発行部数である。USAトゥデーでさえ225万部。ナイトリッダーはもろもろ合わせて300万部。高級紙のニューヨーク・タイムズに至っては100~150万部。単一の題号で比較すればせいぜい日経から大きな地方紙程度の規模。日米の人口比を考えるといかにも少ない。

いや日本の全国紙の発行部数が大きすぎるのかも。読売1000万部、朝日800万部、毎日と中日新聞グループが400万部。特殊指定と再販売価格維持制度が「両輪」として機能しなければ維持できそうにない部数である。
ニューヨーク・タイムズは電子版が充実していて私は助かっている。大胆なネットへの移行をはかっているようだ。2・3・4位の新聞グループが荒波に飲まれている様子をとても平然とは見ていられまい。答えはネットしかないと業界の誰もが分かっている。しかし「紙」あっての新聞との観念はアイデンティティーに近いから輪転を止める勇気はない。かくして日本の新聞も恐る恐るネットに進出しつつも印刷は止めない。その紙代は高騰の気配にある。

新聞を読まない高校生に理由を聞くと意外と多いのが「でかすぎる」だ。ハラキリを避けるレイアウトだとちょうど真ん中で折って読むこともできない。考えてみれば全国紙の標準サイズであるブランケット判はA2より大きい。両面を広げたらA全以上である。よくよく考えるとこんなにでかい読み物は他にない。
といって半分サイズのタブロイドにすると「タブロイドになってしまう」という抵抗が起きる。日刊ゲンダイや夕刊フジと同じ大きさになれば成りまで同じに思われては堪らないとよくよく考えればどうでもいいところが気にかかる。書籍や雑誌では同じ判型で専門雑誌もあればエロ本もある。全国紙がタブロイド判になっても内容まで馬や裸を入れなければならない理由はない。紙代一挙節約となるのに、でも踏み切らないどころか議論にさえならないのは強烈な精神的抵抗線があるからだろう。でもそんなこだわりは前述高校生の「でかすぎる」の一言の前では何の説得力も持たない。
ページ数も多すぎる。80年代頃まではドンドンとページを増やすのが競争だった。一紙が増やせば他紙も追随する。もう36ページ建てにまでなってしまった。歴史上白のページを作ったことがない各紙は、したがって何らかで埋めねばならない。美意識として一行空白さえ許さないから仕様もない記事が入ってしまう。たいしたニュースがない月曜日の紙面はどこもスカスカである。だが下手に建て数を減らせば「薄い=貧弱」と批判されそうでできない。これまた作り手の被害妄想にすぎないと多分作り手自身がわかっていても踏み切れない。

でかい判型に多くのページ数となれば当然紙代がかさむ。一方で広告スペースは豊かになる。だがそれが有効なのは広告が入ればこそだ。この本山彦一が考案したビジネスモデルは今や崩壊の一歩手前である。私の会社は出版社なので新刊が出るとなれば三八ツに出稿しようかと思案しなくはない。三八ツとは一面などの下三段を八つ割にした書籍広告の定番である。
ここの実勢価格が実のところ以前では考えられないほど安くなっている。タイミングによっては驚くほど安い。それでもたいがいは見送る。安いというその値が惜しくなるほど効果がないからだ。三八ツを利用している御同業からも販促効果よりあいさつ代わりの経費と割り切っているとよく聞く。

結局何かの付加価値を見いださない限り新聞の未来は暗い。その点で得をしているのが朝日新聞だ。まず熱烈な支持者がいる。ただこの点は多少の差はあれ他紙にも通じる。朝日が強いのは熱狂的なアンチも抱えている部分だ。「左翼新聞」「どこの国の新聞だ?」「朝日の朝は北朝鮮の朝」みたいな朝日批判がネットでは至るところで垣間見える。
朝日新聞が進歩的で弱者に目配りして(だから左翼っぽい)いて反日だ……などという批判は記者クラブに一週間もいれば「シンジラレナーイ」である。そのように見せかけておけばファンとともにアンチも付いてくる。何か悪口を書くためには朝日を読まねばならない。悪口であっても何も触れられないより存在感が残る。『週刊新潮』なぞ朝日新聞の読者を増やす隠れファンではないかと思うほど。
もしこれが単なる成り行きではなく朝日新聞社のしたたかな計算に基づいているとすると……ネットで朝日罵倒を書き連ねている皆様は体よく踊らされている格好となる。(編集長)

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2007年12月16日 (日)

「死化粧師」を観る 第11回/死者の「意思」

 三原ミツカズ原作のドラマ、「死化粧師」も今回を含めてあと2回となってしまった。10月に見はじめてからはや2ヶ月。早いものだ。
 今回のドラマのテーマは、「愛する人を失ったら」。
 エンバーマー・間宮心十郎(和田和人)は、病院内で知り合いになった、今は亡き母親に似た女性のエンバーミングを依頼される。異常なまでの夫の嘆きに、「何か胸騒ぎがする」と遺体の保全を渋る心十郎に、葬儀屋の恋路(忍成修吾)は「おふくろさんに似ているからエンバーミングしたくないんだろう」とズバリ言う。そのようには思っていない、ただ胸騒ぎがするのだと心十郎は訴えるが、恋路は「遺族の意思だ」とエンバーミングを強要した。

 結果、綺麗になった妻の遺体を抱えて夫が失踪してしまう。
「だから胸騒ぎがするって言ったのに…どうして気をつけて見ていなかったんだよ!」となじる心十郎に、恋路は「エンバーミングの依頼書にはサインをいただいたし、今日が火葬であることはちゃんと打ち合わせしてある。こっちにぬかりはない」と苦しい言い訳をする。
「紙の上だけで仕事してんのか! それでいいっていうのかよ! どうしちゃったんだよ!」と、さらに激昂する心十郎に向かって恋路は怒鳴る。
「こっちは、生きてる人間山ほど相手にしなくちゃなんねえんだよ! お前みたいに、ご遺体とだけ向かい合っていればいいってもんじゃないんだ!」

 前回指摘したとおり、似た者同士のすれ違いから摩擦が起こってしまったわけだ。

 結局、故人と知り合いだった心十郎が覚えていた「海岸でプロポーズされたの」という言葉をもとに、妻を抱えて海を見ている夫が発見されたのだが、彼に帰りを促すべく発した心十郎の言葉が秀逸だった。
「奥さんの体は、奥さんのものです。あなたのものではありません」
 死者と向き合い、きちんと尊重し、会話をしている者でなければ出てこない言葉だ、と思った。

 私が葬儀を仕切っていたころ、こんな発想が出てきたことはなかった。遺族が体を洗ってあげたいといえばそうしていたし、反対にそっとしておいてほしいと言われればそのとおりにしていたし、布団はここにおいてほしい、棺を動かしてほしい、などなど、遺族の希望に添えるように仕事をこなしていた。
 要するに、故人ではなく生きている人に向けて仕事をしていたのだ。葬儀屋は、残された人々、すなわちこれから生きていく人のための職業なのだ。
 エンバーマーも、もちろん生きている人の心を安らがせるためにある。しかし、彼らは遺体ともじっくりと向き合う。それだけに、死者だからといって遺族のいいように体が扱われることに敏感になるのかもしれない。

 そういえば、死者のために考えるとコレは疑問だな、と思えることが一つだけある。それは当たり前のように仏教式で葬儀をするという点で、もちろん寺に一家の墓があって、ようはそこの檀家であるということなら不自然でもないが、菩提寺がない、墓もこれから、という人が亡くなっても簡単に「仏さん」にしてしまうのはおかしいのではと思う。仏式の葬儀というのは仏弟子になるための儀式からはじまる。生前は信仰の自由が守られているのに、死んだとたんに仏教徒にされるというのはいかがなものか。みんなもう少しその辺を、当事者意識を持って考え直してみてはどうか、とささやかに提案したい次第である。当事者意識を持つというのは簡単で、死んだら仏教徒になりたいか、と自らに問えばいいのだ。おそらく積極的にそうしたい人はそんなにいないのではあるまいか。

 さて、ドラマでは心十郎とナース・アズキ(篠原真衣)がクリスマスイブの待ち合わせ。そういえばクリスマスなんてものも世の中にはあったな、と思いながら見ていると、心十郎の目の前でアズキがトラックにひかれてしまった。横断歩道の向こう側にいる心十郎に駆け寄ろうとして周りがまったく見えていなかったらしい。
 もうだめじゃない?! と思うほど血まみれなんだが、助かるんだろうか。
 それとも最終回は、愛する人をエンバーミングして終わっちゃうんだろうか。(小松朗子)

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2007年12月 9日 (日)

「死化粧師」を観る 第10回/似たもの同士のすれ違い

 ドラマではエンバーマー・間宮心十郎(和田和人)と、ナース・アズキ(篠原真衣)が全開ラブモードになってきてしまっている今日この頃。
 エンバーマーとナース、どちらも生死に関わる職業なだけに、惹かれあうのも当然といえば当然の話なのだろう。そういえば葬儀屋時代、医師との合コンに誘われたことがあったっけ。残業続きでそんな気にもなれず、そしてそれは私だけではなかったらしく話自体がお流れになったが、とにかく同業者同士でくっつきやすいのがこの世界の特徴といえば特徴だ。なかなか理解が得られない職業柄、離婚経験率も高い気がする。

 自分が通常の職業(たとえば証券会社のOLとか)に就いている、もしくは完全に仕事を持たない主婦であると想像してほしい。旦那がいくら仕事とはいえ毎日が午前様、もしくは急の泊まりが多く、休日がまったく定まらず、故にクリスマスも盆も正月もろくなあいさつ回りができず、脱いだスーツはどんなに芳香剤をかけてもクリーニングに出しても加齢臭ではなく死臭と線香の匂いが取れないとなったら、なんだか逃げ出したくならないだろうか。男と女が逆の立場の場合もまた然り、というかそれ以上に嫌なものだろう、妻から絶えず死臭がするというのは。よほど理解があるか、もしくは身をもって大変さを知っている者しか添い遂げることができないのではないか。

 以前勤めていたところはやたら職場結婚が多く、女の子が1年や2年で結婚退職するたびに「社会人として育てるために雇ったのであって、社内見合のために雇ったのではない」と上司が愚痴っていたのを覚えている。葬儀屋が葬儀屋として一人前になるには、仕事の質にもよるが半年はかかってしまう。最初の三ヶ月は社会人としてのマナー、葬儀という特殊な場所での作法と言葉遣い、先輩への動向で流れをつかみ、あとの3ヶ月で先輩に尻をたたかれながら覚束ないやりとりで施行を仕切り、ようやっと「一人で任せても安心」な仕事人になるのだ。お給料を払ってまで一人前に仕立て上げたところを、あっという間に同じ社員にさらわれて行っては、共食いもいいところなんである。だから職場恋愛は厳禁だった。逆に言えば、それほどまでに女性も男性と変わらず大事に育てられる職業であるといえよう。まあ、営業系では大体そうなんだろうけれど。

 さて、ちょっと見ぬまにドラマでは葬儀屋・恋路(忍成修吾)とエンバーマー・心十郎が火花モードになってきている様子だ。見ようによっては発注元と下請けともとれる二人だけに、立場の上下関係がわだかまりを生むかといえばそういう話でもでもないようだ。ただ、遺族の悲しみと煩雑な忙しさとを一気に抱える恋路の辛さが、遺体とその遺族数人とを相手にしている心十郎に届かず、すれ違いが起こってしまっているような感じがする。遺族、親族、寺院、ご近所の常識や見栄がぶつかり合うなかで死者と関わらなければならない葬儀屋と、あくまでも死者と遺族を癒すことにいっしんになる使命を得たエンバーマー。どちらが尊いということもない。しかし、同業であることに慢心して双方の立場の違いを省みる気遣いを忘れてしまったら、そこから亀裂は進んでいく。(小松朗子)

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2007年12月 2日 (日)

「死化粧師」を観る 第9回/葬儀屋は儲かるか

 ドラマの冒頭、いきなり罵倒されてしまった。
 葬儀屋・恋路(忍成修吾)が遺族になじられた。
 「人の不幸を食い物にして、儲けているくせに!」
 それに対して恋路は返す言葉もない。本当に人の不幸を食い物にして儲けているからだ。
 私が勤めていた葬儀屋では、棺と言えば思い浮かぶであろう飾り気のない桐八分棺(中国製)の原価が九千円。これが単品で売るとなると七万円に跳ね上がる。普通はコース内容の一部として売り込んでしまうので単純計算で半額以下にはなるが、それでも高いと言えば高い。
 棺は保存状態が悪いと蓋が浮いてしまったりすることがあるので温度管理が難しく、また施行数が読めない業界である事を考えれば(月に何人死ぬか、なんて……まあ、大体は分かるけど)管理費込みということで納得いただけるだろうか。いただけないだろうな。
 ただ、「儲かる」からといって誰もがこぞってやりたがる職業でないことには、皆さん納得していただけるはずだ。体力、気力ともに消耗が激しく、容赦なく長時間労働が襲いかかる。同期だった子は鬱病になり、ものを食べれず10キロ痩せて別人のようになってしまった。「葬儀屋が鬱病になった」といえば、人の死に触れて落ち込んでしまったと思われ勝ちかもしれないが、原因は一般企業と変わらない。過労だ。
「葬儀屋は儲かる=お給料がいい」との図式は、一般的にはあてはまる。
 正しくは、「儲かる葬儀屋はお給料がいい」だが。競争が激しい地域では当然儲からない葬儀屋というのも生まれる。そこでは新入社員の手取りが12万だとか14万だとかささやかれる。田舎の事務員並みだ。反対に羽振りの良いところは新入社員で22万、なんていううわさもある。あくまでもうわさだ。これなら見習い期間を経て担当が持てるようになれば、あっという間に30万、40万の世界に突入するだろう。営業手当がつくからだ。
 営業手当の種類としては、社によって様々だろうが、私のいたところではコース手当(料金の高いコースで契約を取るとコースのレベルに合わせて支給)、オプション獲得手当、夜勤手当の3種類があり、残業代とあわせると手取りで25万円を超えていた。東北の片田舎、失業率がどんどん上がっていた時代における入社1年目の給料である。ボーナスは2.7ヶ月分。
 ただ、「お給料、いいんでしょうねえ」と言われるたびに私はこう答えていた。「時給にすると、たいした事ないですから」と。休みは平均で月4回。ということは8時間労働としても月216時間、一日平均4時間は残業していたからプラス月108時間、合計324時間。25万円で割ると時給換算で772円。……ダメだ、なんだかへこんできた。こんな計算、やらなきゃよかった。
 手当の対象となるオプションは、祭壇に飾る花、火葬場へ持っていく茶菓のセット、祭壇に飾る花など様々あったが、その中で私が最も苦手とするものは、湯潅の獲得であった。湯潅とは、ご遺体を洗い清める儀式のこと。昔はそれこそ遺族が一丸となってお風呂に入れる、なんてこともあったようだが、今ではどこもぬるま湯で絞ったタオルを使い手足を拭くくらいではないだろうか。私が獲得しなければならなかった湯潅は、湯潅業者が簡易式のお風呂をご自宅に持ち込んでご遺体を丸ごと洗い清めるサービスだ。単価8万円也。薦めるのがヘタなのだろうが、ご遺体を一旦裸にすることに戸惑う遺族が多く、なかなか獲得できなかった。「いいよ、このまんまで。病院で看護師さんがきれいにしてくれたし」という言葉を聞くことが、圧倒的に多かったのだ。
 今回のドラマで、エンバーマー間宮心十郎(和田和人)は珍しくエンバーミングを行わなかった。看護師・ユカリ(安倍麻美)の唯一の身内である祖父(織本順吉)が亡くなり、ずっと自身のエンバーミングに自信を持てなかった心十郎が言った台詞は「エンバーミング、させてもらっていいですか」。大切なおじいちゃんをなくしてしまった孫に、せめてもの慰めを。そう思ったのかもしれない。しかし、ユカリの返事は「ううん、このまんまでいいの。このまんまのおじいちゃんが、一番好き」。
 心十郎はユカリに気づかされ、礼を言う。「エンバーミングをする必要がない、ということもあるのだと教えられた」と。
 そう、心十郎は受注したご遺体を処置しているだけだから、その他大勢の「エンバーミングはいらない、して欲しくない」遺族の気持ちに、リアルに触れる機会がないのだろう。
 だから、もしかしたら必死でエンバーミングの仕事をとってくる恋路の苦労が分かっていないかもしれない。私が湯潅であんなに苦労したのだから、エンバーミングの受注なんてめったにないだろう。恋路の気持ちも考えて、ありがたいと思いなさいよ。ちょっと、そんな風に説教したい気持ちになった。(小松朗子)

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2007年11月25日 (日)

「死化粧師」を観る 第7回/死に沈まないために

 前回、エンバーマーとしての自信をなくしてしまった心十郎(和田和人)。
 女性エンバーマーの仁科早紀(野波麻帆)に「オレ、エンバーマー辞める」とまで言ってしまった彼だが、当然その顔は、寂しい。
 そんな心十郎は、勤務先の病院に入院している少年と知り合う。
 彼の名前は涼(馬宮輝)。肝機能障害をわずらい、長期入院をしている。
 つらい病気にもかかわらず、涼は明るく朗らか。将来、カメラマンになりたいという夢を持っており、病院の人々を次々写真に撮っている。
 そんな生きる希望に満ち溢れている涼を見ていると、心十郎の心も次第に明るくなっていく。
 そうそう、たまには死の世界から抜け出す瞬間を作らないとね。

 死の現場に立ち会う仕事をしていて一番怖いのは、死の空気にうずもれていってしまうことだ。暗くて湿った死の世界にいることが日々の前提となってしまうと、自然に思考もネガティブな方向に行く。しかも、自分ではネガティブになっていることに気がつかない。周り一帯がネガティブなので、それが普通だと思ってしまうのだ。だから必死で明るさを保とうとする。
 私が以前勤めていた葬儀屋は、冠婚葬祭の一事業を担っていたため、グループ会社として婚礼会社があった。土日など、人の足りない時はドリンクサービスとして手伝いに行くのだが、婚礼の事務所にお邪魔するといつも感じることがあった。

「なんだ、ここはお通夜か?」

 思わずそう思ってしまうほど、事務所の雰囲気は暗かった。結婚という華々しい事柄を行っているにもかかわらず、その舞台裏はこんなに重々しいのか。上司も部下も仏頂面で挨拶し、必要事項だけ報告して去っていく。それぞれが自分のディスクで黙々と仕事をして、気がつくといなくなっている。行ってきますの声もボソボソと、何を言っているのかわからない。もちろん行ってらっしゃいもない。もちろんこれは一つの現場に限った事を言っているのであり、婚礼業界がおしなべて暗いと言っているのではない。

 しかし、そのあと自分の事務所に戻って気がついた。
 いや、こっちが異常なのかも。

 他のところと比較しなければ分からないくらい、葬儀の舞台裏は明るさに満ちていた。残念ながらここには書けないほどの不謹慎な笑いと、一分一秒を争うタイトな行程を担う一種の高揚感が、事務所全体の雰囲気を異常なほど明るくしていたのだ。
 あの頃、笑い転げない日はなかった。寝不足も手伝ってか、テンションはいつも高かった。誰かが「行ってきます」と事務所を出れば「よろしくおねがいします」、誰かが「只今戻りました」と戻ってくれば、「おかえりなさい」と全員が大声で言った。それを強制されていたわけではなく、自然にみんながそうしていたのだ。
 いま、葬儀と全く関係のない仕事をしていて思うのは、「わざわざ明るくしていなくても、明るいということがあるのだ」ということだ。一言も喋らずに黙々と仕事をしていても、誰も笑っていなくても、空気が沈むということがない。そんな現場のある事を、私は葬儀を離れるまで全く知らなかった。
 きっと、葬儀の現場では、黙っていてはどんどん沈んでいってしまう事を皆が無意識のうちに知っていたのだろう、と思う。だから死の現場にはスペシャルで不謹慎な笑いが、気分を高揚させざるを得ないタイトなスケジュールが、むしろそのためにこそ用意されているのではないか、妄想に過ぎないだろうが、そこまで考えることがある。

 そんな風に考えると、今の心十郎は、「死の現場に関わっているにしては暗すぎる」といえる。
 確かにこんな状態じゃ、エンバーマーを続けるには厳しいだろう。
 涼の存在は心十郎を救う鍵となりえるのか。(小松朗子)

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2007年11月18日 (日)

「死化粧師」を観る 第7回/心傷に潰されていく

 前回、刺されてしまったエンバーマー・間宮心十郎(和田和人)。
 刺した男は、銀行強盗が銃で自殺した現場に居合わせた行員の、父親だった。
 愛する娘は、エンバーミングを施された銀行強盗の顔を偶然週刊誌で見てしまい、パニックに陥ったのだ。娘はさらに精神病棟にて療養という事態になった。
「娘をこんな風にしてしまった強盗の遺体を、めちゃめちゃにしてやりたい」
 父親は強盗の遺体が安置されている霊安室に入ってきて犯行に及び、遺体に包丁を突き刺そうとするのを思わず止めた心十郎が、もみ合いの末に刺されてしまったというわけだ。

 間違って刺されたとはいえ、自分のエンバーミングが娘さんをパニックに陥れてしまったと考えた心十郎は、父親に謝りに行く。
 父親は自分が間違えて心十郎を刺してしまった事は棚に上げ(上げていい程度のものだろうか…)なじりになじった。
「元気だった娘を返せ! 一生恨んでやるからな!」
 言われてどん底まで落ち込んでしまう心十郎。
「気にするな、お前は仕事をこなしただけだ」
 …そんな葬儀屋・恋路の言葉も今の彼には全くの無力だろう。だって、心十郎にとってエンバーミングは仕事以上のものなのだから。
 心十郎がエンバーマーになったのは、悲惨な状態だった自分の父親の遺体を見て、ショックを受けたからなのだ。
 誰かにそんな思いをさせたくない。そう思って仕事をした結果、思いがけない誰かにショックを与えてしまうとは。
 愕然とした心十郎は、エンバーミングが出来なくなってしまった。

 心傷から職業を選ぶと、その心傷に潰されやすい。
 葬儀屋に勤めていた頃、そう思うことが確かにあった。
 私はどうも遺族の立場に立った細やかな気配りというものに欠けていた。泣いている遺族をそっと励まして退場を促したり、冬場、遺体にもう一枚布団をかけてやったり(ドライアイスの保冷が効きやすくなるという利点もあるのだが)と、一旦「仕事」をおりて思いやりを示すということが、苦手だったのだ。
 上司もそれをよく理解していたので、人手が足りなくならない以上は、デリケートな家(例えば故人が若かったり、突然死だったり)を私に担当させることは避けていた。
 しかしある日、自殺者の家を担当することになった。
 本当は、気配りの行き届いた施行で定評のある同僚が担当だったのだが、「悲しみが深すぎて見ていられない」と、泣いて帰ってきたのだ。
「親戚のおじさんが突然自ら命を絶ち、その現場を仕切っていた葬儀屋が、非常に温かみにあふれた施行をしてくれたから」葬儀屋になったのだ、と話してくれた同僚だった。
 ところがいざ同じような現場に立ってみると、過去がフラッシュバックしてきて耐えられなくなってしまったのだろう。
 プラス、遺族の悲しみ方が尋常ではないことも辛かったのだろう。
「そんなときのために、色んなタイプの担当者がいるんだからね」と上司がその子を慰めていたのを覚えている。人を相手にする葬儀屋という商売は、やはり施行担当者によって得手不得手があるもので、

・人情に満ちた施行担当者
・大きい葬儀が得意な施行担当者
・小さい葬儀が得意な施行担当者
・田舎が得意な施行担当者
・孤独死、焼死など特殊な事情のある葬儀が得意な施行担当者
・とにかく段取りの良い施行担当者

 様々なタイプがあり、自分も他人も適性をよく心得て仕事していた。
 さらに、利益を追求する会社に所属しているという事実は、個人的な感情に負けそうになった時に効果的である。
「もう、こんな不愉快なクライアントを相手に仕事するのは耐えられない」
 という感情に襲われたとき、だれでも自分に「どうどう、落ち着け」とブレーキをかけると思う。
 自分が心地よくなるためにこの仕事をやっているんじゃない、会社の利益のためだ、お給料のためだ、と。
「悲しみが強すぎてこのお宅を担当できない」というのは、酷なようだが、上の例と同じ事を言っているのである。
 そんな時、大抵は、会社の仕事が円滑に進むため、ひいてはお給料のため、と辛抱することができる。
 しかし、根本的に自分の心傷を癒すために仕事をしているのならば、ダメージを受けたときに簡単に潰れてしまうのは当然だろう。自分のため以外には、仕事をしていないわけなのだから。

 エンバーマー・間宮心十郎はひとりである。チームを組むべき仲間もいなければ、所属する会社もない。
 そんな彼から、当然とも言える一言が出た。
「オレ、エンバーマーやめる」
 エンバーミングが出来なくなってしまった心十郎のかわりにと、葬儀屋・恋路が手配したもう一人のエンバーマーである女性に吐かれたこの言葉。
 この女性が、どんな形であれ、心十郎の仕事の支えになっていってくれれば。そんなふうに願い、次回を待つ。(小松朗子)

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2007年11月 4日 (日)

「死化粧師」を観る 第5回/お柩に入れてはいけないもの

 今日もテレビのある部屋の寒さに打ち震えながら、「死化粧師」を観る。早くヒーターなど買わなければいけない季節になってきている事をしみじみと感じながら観ていると、しょっぱなから、エンバーマー間宮心十郎が勤める病院の院長が倒れた! ひそかに想いを寄せていた、女医の小雪(国生さゆり)がかけよる。

 病気が再発したらしい。死を覚悟した院長は「僕が死んだら…」と、エンバーミングを希望する。一方で小雪は、院長に婚姻届を渡すことでプロポーズ。それは、最期まで希望をもって精一杯に生きて欲しいとのメッセージも込められているのだろう。結局、院長はプロポーズを受け、婚姻届にサインをした。
 自分の死期を悟ったら、死の支度をはじめるのが正しいのか、精一杯生きようとあがくのが正しいのか。
どちらがどうとも言えない。言える人などいまい。
「僕が死んだら、エンバーミングを君(心十郎)の手でして欲しい」
 という院長の気持ちと、
「死んだら、ゴミ同然だ。そう思えばこそ、生かすことに一生懸命になれる」
 という小雪の激しい思いと、どちらを支持したらよいものか。そして安倍なつみの妹は、どうして訛りキャラなのか。このドラマを観ていると、悩むことがたくさんあって大変である。

 そんなことを考えていたら、院長があっけなく死んでしまった。エンバーミングの依頼書を書かないままに死んでしまったので、心十郎がエンバーミングを行うと、死体損壊の罪に問われてしまう。
 が、小雪が動いた。
 自分のポリシーはどうあれ、院長自身の遺志を大事にしたいと言い出したのだ。
 婚姻届を出したのだから、院長と小雪は夫婦である。遺族であれば依頼書にサインが出来る。

 しかし、意外な結末が。
 婚姻届が、小雪宛にしたためられた手紙とともに院長のベッドから見つかる。
 院長はサインはしたが、届を市役所に出していなかったのだ。2人は、結婚などしていなかったのだ。手紙には「未来のない僕よりも、もっとすばらしい人とともに人生を歩んで欲しい」といった内容が書かれてあった。泣き崩れる小雪。2人の微妙なすれ違いが切ない最後だったけれど、院長先生のご葬儀には、ウェディングドレスを着た小雪が婚姻届を柩に忍ばせた。
 婚姻届。
 ならば良い。
 紙ならば良い。
 たまに、ヘンなものを入れようとする人がいる。

 ここで、柩に入れがちだが入れてはいけないものについて豆知識を少々。
まずは果物。
 リンゴが好きだったからと言ってリンゴを丸ごと一個入れてしまうのは、完全にアウト。ミカンもやめたほうがいい。グレープフルーツなんてもってのほか。水分が多くて、火葬の時間が長くなってしまう。ヘタすると炉の中で破裂なんてことも。そもそも柩に入れて欲しいと思うほど日々の果物が好きな人があろうか。お供えに頂いたもののついでに入れようとしているのでは、と思ってしまうのは乱暴に過ぎるだろうか。
 こんな時、葬儀屋は言うであろう。
「食べやすいように、一口サイズに切って、一つだけ入れて差し上げましょう」と。
 火葬時間短縮のためにも、その通りにしようではないか。

 そして枕。
 故人がまとっていたものを一緒に入れようとする方は多い。それが本当にお好きだったものなら良いのだが、枕を入れるのは単に、残しておいても困るだけだからなのでは。布団もまた然り。綿もの、カサの出るものもまた火葬時間を長引かせる。始末してしまいたいという気持ちだけが勝つのであれば、入れるのはご遠慮いただきたい。
 そんな時、葬儀屋は言うであろう。
「もしどうしてもお手元に残されたくないのであれば、私どものほうで処分いたします」と。
 そう言うまで粘ろうではないか。

 さらに本。
 文庫本程度なら良いのだが、分厚いものだと燃え残る。
 カバーだけにするなど工夫をしよう。
 なお、色味の強い花を入れると、骨に色がつく。
 色モノはほどほどに。

 最後に、柩に入れるお勧めのものを一つ。
 写真。
 写真に写っている本人が、焼かれてしまうのをイヤがらなければ、長い旅に持って行ってもらう思い出の品としては最強だろう。

 今回も終わりが近づいてきた。エンディングでは、小雪が「院長の遺志を継ぎたい。私に、お前の手伝いをさせろ」
 と心十郎に迫っている。
「死んだらゴミと同じなんだよ。だから、エンバーミングなんてやめろ」と言っていた同じ口から出た言葉である。
 いくらなんでも、どういう風の吹き回しなんだ。
 お前はキリストの弟子か?(小松朗子)

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2007年10月28日 (日)

「死化粧師」を観る 第4回/死臭についての誤解を解く

 エンバーミング(遺体衛生保全)の仕事を終えたあと、いつものように人肌恋しいと震えている間宮心十郎。だからそれなら何でエンバーマーなんかになったの? といつものように思っていると、彼に怪しく近づいてくる人影があった。
「あなたのこと、全部知ってるのよ」
 甘く囁いたのは、謎のゴスロリ美女(しかし年増)だ。彼女は死化粧師、つまりエンバーマーとしての心十郎を、ずっと追いかけていたらしい。

 なんせ「誕生日に自殺します」と、自作ホームページの掲示板に書いてしまうほどの女子高生だ。自殺したあと、化粧してもらって、お気に入りの服に着せ替えてもらって、と、うきうきしながら心十郎にプランを語る。いるんだよな、死にたがりやって…

 しかし「オレはな、自分から死ぬなんて言い出すヤツが、一番嫌いなんだよ」と、心十郎は断った。ふてくされたゴスロリだが、すでに彼女のホームページには「自殺後、死体の写真を公開します」とデカデカ書いてある。

 どんな風に死ぬつもりなんだ?
 綺麗に自殺するのって意外と難しいぞ。睡眠薬じゃ致死量が計りにくいし、ヘタすると苦しくて漏らしながらのたうちまわったりする。水死じゃすぐにブヨブヨし始める。首くくってもいろいろ漏らすし。顔はむくむし。投身なんてもってのほかだ。
 比較的綺麗なのは、練炭自殺だ。血管が収縮して顔が青白くなるから。それだって発見が遅れれば悪臭がしだす。
 どんな死体だって、ニオイから逃れやしない。残酷なことに、若くって水分の多いぷるぷるしたお年頃の方ほど臭いやすいのだ。

 よく、死臭というと加齢臭のキツイものと勘違いされやすいけれど、それはまったくの誤解である。
 じゃあどんな臭いなのか、と言われると形容が難しいけれど、死を経験したことのない人間は、まったく嗅いだことのない臭いである。それだけは言える。口臭、脇の臭い、足の臭い、衣服の臭いなど人が発する不快な臭いのうちに、死臭に似ているものはない。
まあ、「足から死臭がする」っていうのも、かなりヘコむだろうし。
 例えれば、臭いそのものとしては全く似ていないけれど、果物が熟しきってしまって腐って発する臭いにイメージが近い。甘ったるくて、ちょっと刺激のある臭いなのだ。

 以前、引っ越してきたとき、「なんだかこの家、おじいちゃんちみたいなにおいがする」と言われたことがあった。
 それは私も感じていた。しかもそのにおいは、暮らすにつれだんだん強くなってきた。「まさか、この床下におじいちゃんが…」なんて不謹慎な事を言い出したが、「いや、そういう臭いじゃない」と、即座に否定することができた。
 それくらい、嗅いだことのない人には想像が難しく、嗅ぎなれた人には一発でわかってしまうものなのだ。反対に、もし「床下に」が真実だったら、私はにおいですぐにそれと分かったであろう。

 自殺志願者は「綺麗に死にたい…」と、死に方を研究する。しかしどんなに綺麗に死を遂げても、それこそエンバーミングでもしない限り、死臭からは逃れられないのだ。
君は、かつて嗅いだことのない臭いが自分から無防備に醸し出されることについてどう思うか。それを自殺志願者に問いたい。

 くだらない事を考えているうちに、ドラマではゴスロリ自殺願望娘が実際の死体に触れてショックを覚え、改心した。ホームページも閉鎖した。間宮心十郎は、ホームページを探しても出てこない事を確認して、ふっと笑う。
のどかな最後かと思いきや…
院長が倒れた!
どうなる次週!
そういえば男のエンバーミングって見たことないぞ!(小松朗子)

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2007年10月21日 (日)

「死化粧師」を観る 第3回/「グリーフワーク」の罠

「私のお葬式に来てくれる? 誰も、来ないから」
それは孤独な女性の、遺族じみた未来の故人の言葉。
 一ヵ月後には柩に横たわっているであろう、癌に蝕まれた体から出た言葉。
 エンバーミングの生前予約を受けた、エンバーマー・間宮心十郎の表情は、さすがに複雑だった。
 死装束デザイナーを演じるIKKOの下手糞な言い回しが、余計に虚無感をあおる。なかなかうまい演出だ。

 生前予約をした女性、白川澄子は仕事人間。プリザーブド・フラワーの職人で、その厳しさ、生真面目さから他人を寄せ付けないで生きてきた。自分が癌で余命いくばくもない事を知り、せめて死ぬときは綺麗に死にたいとエンバーミングを予約した。
 間宮心十郎は沈んだ澄子の心をせめて癒してあげたいと、合コンを企画して楽しい一夜を過ごす。澄子も、心から笑ってくれる。しかし、運命には逆らえず、1ヶ月後にあっけなく澄子は亡くなってしまう。
「あなたを忘れません」
 そういいながら、エンバーミングを施す間宮。
 IKKOデザインの死装束を着せて、ありったけのお化粧で仕上げて、最後に澄子の作ったプリザーブド・フラワーを柩に添えて。

 結局、澄子の予想を裏切ってたくさんの人々が弔問に訪れた。嗚咽する仕事仲間。澄子はひとりではなかったのだ。
 生花のようなのに寿命の長いプリザーブド・フラワーのように、故人は半永久的にいきいきと人の心に住まう。そんなオチだった。

 しかし私の興味は話の大筋を圧倒的に裏切って、国生さゆり演じる女医・宵子の言葉に集中していた。
冒頭に、間宮心十郎がエンバーマーだという事を知り、宵子の口から吐かれた暴言。
「院長は許しても、私は許さない」
 はあ?!!
 院長が許すっていうか、クライアントが望んでいるのでは。
「死んでもなおメスで切り刻まれて、不自然な形にされるなんて」というのが宵子の持論らしいが、お前の意見など誰も聞いてはいない。
 医師が認めるか否かではない。決めるのは遺族だ。

 宵子の自己満足に凝り固まった観念は困ったものだが、葬議界での困った言葉に「グリーフワーク」というものがある。
 直訳するとしたら「癒しの仕事」。
 葬儀屋は葬儀を仕切るだけではなく、遺族を慰める役割がある、いや、そうすべきだという考え方のもとでつくられた言葉だ。
 この言葉を通り一遍に受け取ってしまうと、ただの自己満足に陥ることになりがちだ。
「これをしてあげたい」と思うことは、とても心地よい。人の役に立ちたいと思うことは、とても素晴らしい。でも、葬儀屋のやることはあくまでも「仕事」である。かわいいあの娘のために内緒でブランド物を買ってあげたい、という程度の話と一緒くたにしてはいけない。必ず遺族に沿うて、故人に沿うて、なにをすべきかを常に考えなければならない。ブランド物を買ってあげたいのならば、シンプルに「ブランド物は欲しいか否か」を聞き、うなずいたら買ってあげればよいのだ。まったくそれが欲しくない人にいくらつぎ込んだとて、「いや、気持ちは嬉しいけどさ…」と引かれてしまうこと必須である。
「グリーフワーク」に酔い、朝も夜もなく働いては遺族へのサプライズをせっせとこしらえていた同僚がいた。彼女は湿っぽい司会文を読みあげ、故人が好きだった曲を最後に流し、好きだった食べ物を供物に加え、アルバムからとった写真を会場のいたるところに飾った。

 結果、感動的な式にはなったが、心なしか――そう、私の考えすぎならよいのだが、彼女にお礼を言う遺族の顔が――かなり、疲れていた。
 故人の好きだった曲はバリバリのヒップホップだったし、好きだった食べ物はキットカットだったし、事情を知らない弔問客にはきっと違和感ばかりが残ったに違いない。
 とどめに気の毒だが、スタッフ一同にはシニカルな笑いが飛び交っていた。

 死はなぜか美化されやすい。葬儀屋はそれに酔いやすい。しかし、死の美しさに惑わされてはいけないのだ。顧客満足を第一に考えて行動しなければ、仕事を見失ってしまう。常に「これは仕事である」事を、自分に言い聞かせて欲しい。
 葬儀屋は卑下するような仕事ではないが、特別素晴らしい仕事でもない。その自覚が欠けている人がいま、多い気がする。葬儀屋が皆、自己満足に浸された「グリーフワーク」をはじめてしまったら、これほどウザいことはないだろう。それをちょっとだけ、心配している。(小松朗子)

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2007年10月15日 (月)

ゴキブリと向き合う

 引越しをしてすぐに彼らは私の前に現れた。10月だというのに特大のやつである。
 これまで割と築浅のマンションなりアパートなりに住んできたからそれほど会うこともなく縁遠い存在だった。ところがどうだ、築20年以上の木造に引越した途端にこれだ。
 忌み嫌われるのも頷ける。体形はまあいいとして、色、足の形、触覚の動き、見るものを引きつらせる移動時の速度、何ひとつ愛せる要素がない。
 病原を媒介することもあり不快害虫にあたるので実際に害がある。今、いろいろと対策を考えたりネットで情報を集めたりしているが、だいたいのところをまとめると、「食べ物になるものを残しておかない」「進入経路をなくす」「退治する」というのが主な対策のようだ。
 が、食べ物を絶つことについてはゴキブリはカビや人の毛髪、さらには本まで食べるらしいので事実上不可能。ならば進入経路をふさいで、せめて数を増やさないようにしようと思っている。
「退治する」について調べてみたが、たとえばあぶり出し系でいえばバルサンのような武器があるが、あれは「ただゴキブリが移動するだけ」「卵には効かないので間隔を置いて複数回やる必要あり」などといった記述が多い。
 忌避系でいえばバポナが最強のようだが、有機リンを含むので使い方によっては人体にも危険が及ぶとのこと(あくまで使い方を間違えれば、の話)。
 
 もう見たくないなあ、と思っているが、人とゴキブリの関係については少し興味がある。
 ネット上の意見&相談のページには、新築でゴキブリが出たから引っ越したいと思っている、みたいな話まで登場している。
 たしかに気味悪いが、そこまで人を恐れさせることができるものは他にそうはないのではないか。そもそもゴキブリはいつごろからここまで恐れられる存在になったのか。女の人といえど、何十年か前も同じようにこんな過剰な反応をしていたとは考えられない。
 ゴキブリがここまで忌避されるものになったのはなぜか。いま、妙に気になっている。(宮崎)

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2007年9月24日 (月)

遊園地再生事業団の『ニュータウン入口』を観た

 宮沢章夫の演劇『ニュータウン入口』を観た。遊園地再生事業団という劇団が演じている。宮沢章夫の演劇を観るのは念願だったので上演されているシアタートラムの入り口に入るずいぶん前からかなりワクワクしていた。
 私が宮沢章夫をはじめて知ったのは姉のオススメの本として『よくわからないねじ』を渡されたのがきっかけで、爆笑しながらそれを読んだし今でも便所に置いてあっていつでも手にとっている。最新の著書の『ノイズ文化論』ももちろん読んでいる。小説『サーチエンジン・システムクラッシュ』は何年か前によんだが、その年のベスト小説だと思った。
『ニュータウン入口』の題名にも惹かれた。彼の著作を読んでいて今度の演劇が「ノイズ」を取り扱うものになっているのが何となく読み取れて、現在「ノイズ」について私もたまに考えることがあったからです。
 まあ私のことはいいとして、『ニュータウン入口』だ。
 シアタートラムのステージに入ると、ステージ上には巨大な鉄骨で作られた門があって、地面がいくつかのマス目に区切られている。マス目は土が敷かれた部分と、たぶんアスファルト的なものにハッキリ分けられている。ニュータウンの中では土さえもが人工的に配された状態で存在する、という印象。
 なかなかにストーリーというか事態が込み入っていてアタマを整理するのに追われた面もあるが、楽しく観ることができた。ところどころで笑い、息をするのが憚られる緊張の場面あり。2時間20分は短く感じた。リアルタイムでビデオカメラで撮っている役者を大型スクリーンで映し出し、それとパラレルに別の場所で筋が進んでいく場面など見て、表現には限界がないんだな、と感心。
 
 ハトの存在さえネガティブに取られるニュータウンは、歪んだ場所だったのだろうか。ニュータウンにはダンスを踊る同好会のような人たちがいて、しきりに勧誘して歩いている。それはニュータウン的な気質を持つ人々を「ダンス好き」な人々としてデフォルメした存在だと受け止めた。新しくこの地にやって来た若い夫婦が、同じくこの新しい土地の分譲地を購入しようかどうか迷っている。この土地にやって来たばかりの夫婦ははじめこの異常に見えるダンス同好会をいぶかしげに見つめ、土地については「なんだか背筋がゾワゾワする」感覚を訴えるが、だんだんと取り込まれ、最後には夫婦揃ってダンスの人々に加わることになる。その180度逆を向くまでの過程が見所のポイントのひとつとなるはずだが、それもストレートで明快な経緯があるわけではない(ように見えた)。が、ノイズ的なるものであるハトが消され、場違いな記憶を持つ女の存在が夫婦から忘れられることで、夫婦は「平和な」ニュータウンに住むことを決めることをできた(できてしまった)、ということなのだろう。ニュータウンにノイズなるものはふさわしくない。

 もうひとつ重要に思える存在として、矢尻の形をした石があった。ずっと昔の人々が使っていた道具であるその石を持つと、誰もがなぜか懐かしい気分になる。だが、その石は登場人物Fがわざと埋めたねつ造の石でもある。ではなぜ、そのねつ造のために埋められた石を持つと「懐かしい気分」になるのか。それは、時間が積み重ならないはずのニュータウンに、かつて懐かしい時間があったことに対して一方的なあこがれのようなものを抱き、安心したかったからではないのか。
 ノイズを排除して生きようとする者たちと、ノイズである古い記憶を求めてしまうふたつのベクトルが重なるが、登場人物は「そんなことはもうやめよう!」と断じる。そして、これからニュータウンにも石にも取り込まれない「新しい自分」を作り出していこうとする。

 ここまで書いたが、まったくの見当違いである可能性があるので、「へぇ、こういう演劇なんだ」と思って貰っても困る。宮沢章夫と劇団・スタッフの皆様が困る。
 とりあえず、話、演出、音楽、いろんな面で引き込まれた時間であったのはたしかで、宮沢章夫ファンでなくとも見る価値は十分にあるものだと思う。おもしろいぞ!!

 演劇のウェブサイトはこちら。http://u-ench.com/newtown/今月30日まで上演しているようだが、空席があるかどうかは不明。(宮崎)

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2007年6月12日 (火)

モリサワからの挑戦状

というのは少々大げさ。株式会社モリサワの課長さんから書体見本などがドンと送られてきた。同封されていた手紙には私のブログ記事(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2005/08/post_75e7.html)を見たと告知された上で「その中でお取り上げいただきました弊社書体についてより理解を深めていただきた」いとの趣旨が書かれてあった。
上記記事のタイトルは「写研書体が使いたい!」で05年8月に書いて2年近くたった今でもアクセスが途絶えないものの1つである。そこで私は写研の書体を「文字の並びや一つ一つの文字の完成度などで他の追随を許さなかった」とした後で「あえていえばモリサワがライバルだったが基本的に写研で作ってモリサワはタイトル文字で遊びに使うといった補助的な要素が特に雑誌では強かった」と述べた。
モリサワに関する記載は他にもある。「反転攻勢をかけてきたのがモリサワだ。初期のDTPは書体にろくなものがないために商業印刷にはためらわれたがモリサワは写植時代にすでに『写研の次』の地位があった。そこで人気書体を中心に次々とDTPフォントとして売り出したのだ。値段が高いのには閉口したが(今もそう)モリサワならば読者に届けても恥ずかしくはない。今やリュウミンやじゅんといったモリサワ書体を持たない出版社はないであろう」と。

モリサワの課長さんがこの記事で「お取り上げいただきました弊社書体について」はこの辺である。「より理解を深め」よというのは理解が足りないとの示唆であろう。当事者に成り代わって推測するに「こいつは理解してないぞ!」と感じるとすれば「(写研は)他の追随を許さなかった」「『写研の次』の地位」あたりであろう。要するに写研より劣るというのはどーよとの思し召しと読んだ。

だとしたら。「より理解を深め」させたかったら、モリサワ様よ。“MORISAWA PASSPORT”使用の永久ライセンスぐらい下さいよ。年間52500円は高すぎるって。「モリサワのすべてのフォントラインナップがPC1台につき」の「PC1台につき」がせこいかどうかはともかく、写研も含めて「すべてのフォント」が欠かせないデザイナーや編集者はまずいないから。
考えてもみて下さい。写研は写植機がないと実物を打ち出せないから私の手元には例の青い表紙の見本帳があるのみである。対するモリサワが“PASSPORT”を提供してくれれば実物だ。見本帳と実物で比較すればさすがにモリサワ勝利の目も出てくる。もちろん見本帳同士でも勝ち目ありと踏まれたのであろうが、元来『写研の次』とみなしている人物に「理解を深め」させるには少々甘い戦法ではないか。
何やら“PASSPORT”を結果としてタダでずっと使わせろと要求した形となってしまったが、もちろん本意ではない(本意だったりして!)。せっかくだから見本同士を比べてみよう。

手打ちの時代から写研とモリサワに決定的な差はこれだ!というのがあったわけではない。それは今も変わらない。1つ1つを比べて優劣はつけがたいのだ。明朝は明朝らしい、ゴシック系もそれらしい強弱のあるなしや太い細いなどのメリハリが効いていると字面からはわかる。
ところが全体をザァーと見比べるとモリサワの書体から「くびれ感」(明朝系の場合)のようなインパクトが写研より伝わってこない。明朝はとくに流動性がほしいのにぼってりした感じを受ける。ありていにいうと子どもっぽいのだ。

具体的に考察しよう。まず代表的な書体である写研のLM-NKLやLM-OKL(石井細明朝)とリュウミンL-KL、MKLなどのリュウミンを比べてみる。手元にある写研の見本帳をコピーして、つまりいくぶんぼかしたらリュウミンに転じるような、そんなボンヤリ感がある。
したがって石井細明朝で心配がない画数の多い文字だと「つぶれないか?」と不安となるのだ。とくに9ポイントを下回ると「どうよ」との気がする。もちろん実際につぶれるわけではない。紙質や解像度など他の要素も大いに関係しよう。そうとわかってなお以上のような気になる弱さがある。
ゴシック系はどうだろう。写研の代表書体であるゴナとモリサワのじゅんの違いは何だろうか。単にゴナの無敵感にじゅんやBBBはかなわないという先入観かもしれないけど小社は字ビッシリ本を多く出しているせいかモリサワの方が読み手が疲れる懸念を抱いてしまう。
子どもっぽさの対極を求められる書体で説明するとわかりやすいか。写研のRAやBRAといった隷書体とモリサワの隷書101や陸隷を比べてみる。隷書は印鑑にも使える高級感、優美な美しさが最も求められるはずなのにモリサワの幼さはかなり明確というのは私だけの思い込みか。これで印鑑を作ろうとの気になる人はいるか。反対にオモチャのパッケージならば使ってみようと思いつく者はいるかもしれない。

特長ある文字としては写研のLKRM(キッラミン)のような手堅さもポップ感も出したくないという際に好もしい書体がモリサワに見当たらなかった。強いていえば「わんぱく」だが明らかにポップ系に傾いていて、それでいてしゃれているともいいにくい。写研はナカミンダというレトロ感を正しく表現しうる書体を持つもモリサワだと何か。カクミンファミリー? ちょっと及ばない。

でも素敵なのもあった。フォークと丸フォークは明らかに子どもっぽさを脱していてシャープ。これらは楽しく使えそうだ。
何となく厳しいことを書いた風になったけどモリサワがDTPに対応してくれなかったら日本の本の書体は明らかにDTP以前に比べて悪くなったに違いない。実際に私も少なくとも本文書体にモリサワ以外を使う気にはなれない。その意味でディフェクト・スタンダードであり出版文化を救った大功労企業と賞賛する思いは満々だ。
今でも時折写植で出力する機会がある。すると写研でもモリサワでもきれいなんだなあ。印画紙で見るとなおさら。とにかく力強い。ということは「写植時代の写研」と「DTP時代のモリサワ」とを上記比較考察を含めて知らず知らずやっているのかもしれない。
本当は「DTP時代の写研」と「DTP時代のモリサワ」を比べてこそ正しい評価ができるのだ。でも「DTP時代の写研」はアウトラインサービスなどの回りくどい手法以外に存在しない。私見ではアウトライン化してまで写研に似せようとは思わない。その意味でモリサワは不利な条件でも良い書体を提供しようと踏ん張っているといえよう。
今さらリュウミンやじゅんをどうこうするという話でもあるまい。それがもしあるとすれば……の話だがDTPだからこそ写植では表現できなかったコレ!というのをモリサワは追求したらどうだろうか。というか既に追求中かもしれない。だったらその夢に乗る。乗れた時に初めて写研という夢幻は消滅するに違いない。(編集長)

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2007年6月 3日 (日)

東京のイスラム・雑居ビルのモスク/イスラムとの出会いなのである!

 ようやく池袋で雑居ビルの中にあるモスクを見つけたが、インターフォンを3度押しても何の反応もない。人が出てこないばかりか物音もしない。
 思い切って鉄のドアを引いてみると、ドアはいとも簡単に開いた。けれど、中に人はいないようだった。
 20畳くらいの部屋がひとつあり、小さなキッチンとトイレがついてるようだった。カーテンが吊るされていない窓からは午後3時にふさわしい日差しが差し込んでいて部屋の中は明るい。
 その縦長の部屋の真ん中に、タタミ半畳くらいの大きさのじゅうたんが5つ6つほど並んで敷かれている。この上で礼拝をするのだとなんとなく分かった。全体としては閑散とした部屋なのだが、入り口から最も遠い部屋の隅には大きな本棚があり、コーランと思われる分厚い本が並んでいる。

 誰もいないと思い込んで勝手に上がりこんでしまうと、奥のキッチンからひょっこり人が出てきたときにバツが悪いよな、などと思いながらしばらくボーゼンとしていたが、やはり人の気配はない。
 それでも、そうしているうちにも好奇心が這い出てきたので靴を脱いで勝手に上がり込んでしまった。こんなに無防備にカギをかけないままでいいのだろうかと思われたけれど、礼拝は1日に5回も行なわれるから、いつ人が来ても勝手にここで礼拝できるよう開放されているのかもしれなかった。やはり部屋は閑散としていて、盗まれる心配のある物といえばコーランと礼拝に使うと思われるじゅうたんくらいだった。
 しばらくウロウロしていたが、ここでおもむろに人がイスラムの人がやって来て「ああ、お前は誰だ!!」などと言われたらなんて返せばいいんだろう、と急速に臆病化してこの日は帰ることにした。

 5月の半ば、もう1度ビルの4階のドアを引いた。今度は4時半ごろに訪れた。夕方から日没にかけての時間帯ならば、4回目の礼拝の時間にうまくぶつかるはずだった。
 来るのは2度目だったが、やけに静かで不思議と通路が曲がりくねったビルで、どうも勝手に緊張してしまう。
 クリーム色の鉄のドアを引くと、フロアに人が2人座っているのが見えた。
 それぞれ日本人ではない20代くらいの若い男と60歳前後と思われる初老の男で、当然のことながらバッチリと目が合ってしまった。若い方の男はメガネをかけていて多少神経質な感じがし、初老の男は全体的に柔らかい雰囲気で泰然としたものである。5メートルくらいの距離を隔てて、2人がこっちを見ている。こっちも、2人を見ている。初老の男は薄くぽかんと口が開いたままだ。名状不明、空気凍結、どことなく間の抜けた時間帯がしばらく流れて、「あ、どうしようかな」と少しばかりアセってきたとき、後ろのドアが再び開いて、若い男が入ってきた。
 私の顔を見て、印象のいい会釈をして、何事か聞き取れないあいさつをしてさっそうと部屋の中に入っていった。ここに来るのは明らかに慣れている感じである。
 ようやく初老の、イスラム風の帽子(そんな説明ってどうかと思うが)を被った男性が、何か用ですか、という意味のことを話しかけてきたので、ビルの中にあるモスクについて興味がある旨を伝えた。すると、中の3人は、なんだそれならば早く言ってくれればいいのに、というように急速にリラックスした感じになり、どうぞ中へ入ってくださいと促してくれた。

 さて、聞きたいことは少なからずあった。モスク以外のことでも、イスラム教のこと、東京でどんな生活を送っているかということ、どんな仕事をしてるのかということ、彼らから見た東京について、などなど。
 私がカクカクした落ち着きない動作で部屋に入り、適当な場所で腰を下ろすと、なんとなく周りににモソモソと彼らがやって来て車座のようになった。
「ここのモスクについてなんですけど……」と後から来た男にたずねてみると、「あ、すいません、」と彼が言う。「先にお祈りだけ済ませてしまうので……」と言い、カバンを置いてから少しばかり厳かな動作でマットの上に立ちヒザで上がった。
 トルコから来たという彼は、ホリが深くて端正な顔だちをしている。けっこうイケメンである。どうも彼ら外国人の顔を見ると、日本人というのはノペっとした能面のような顔の人種なのだな、と思わざるを得ない。ホリが深い顔は眉から目のあたりにかけてのカーブが大きく、ちょっとした陰影ができるせいなのか全体としてミステリアスな感じがする。
 マットの上で夕方のお祈りをする彼をしばらく眺めた。真剣そのものである。まわりの空気がすっと冷えていくような感じがした。額を地面にこすりつけんばかりにして熱心に祈りを捧げている彼を見ているうちに、私の知る多くの日本人が持たないような、なにか静かなものを彼らが持っていることを、このとき肌で直接的に感じ取ることができた。■つづく(宮崎)

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2006年11月13日 (月)

必修科目の履修漏れの責任は大学にある

大学のパンフレットを開いてみると国公立・私立にかかわらず「建学の精神」があって各々が独自の校風や学風を追究しているように読める。だが受験ではその違いはおろか学部・学科が違っても判を押したように同じような選択を受験生に強いている。
例えば私立ならば文系と理系に大別され、文系は英国+日本史B・世界史Bから1つ。理系ならば英数+物理・化学から1つ。これで大半がカバーできる。文系の地歴公民科目に地理・政経を選択できる場合もあるが日本史B・世界史Bより限られる。医学部や難関校では物理・化学を2教科必修にしているところがままあるが原則は崩れない。要するにこれだけやっておけば一般選抜ではたいてい戦えるのだ。

国立は5教科7科目を原則に「学力低下」とやらに歯止めをかけていると標榜するが内容は寒い。確かに大学入試センター試験で文系に数学1Aを、理系に国語を課しているのは見識であるが全体の配点は総じて小さい。数学1Aも私の時分にあった指数・対数まで組み入れた「数学1」とは比較にならぬほどやさしいし、理系に国語はいらないという私立の発想がそもそも間違っているのでほめるほどでもない。
加えて文系の理科、理系の地歴公民が加わるが、その選択は私立では必須の日本史B・世界史B、物理・化学といった「重い」科目以外から、裏返せば「軽い」科目から選ぶが常道となる。

これは出題側の大学が判断した結果である。「受験に関係ある科目」とは大学が決めている。そしてその大半は上記の如く横並びである。
かろうじて独自の見識を示しているのが慶應義塾大学や国際基督教大学など数えるほどである。片手で余る程度しかない。
例えば私が大学で学んだ古代日本史には英語はほぼ不要であるが受験科目にはある。経済系の学部に数学が不要とは到底思えないが大半の私大は日本史B・世界史Bなどと選択できるよとのアリバイ作りをしてごまかしている。上智大学はかつて外国語学部の一部を世界史のみとしたが今は日本史との選択に戻してしまった。

「建学の精神」や学部・学科にそぐわない受験科目を一律で課している理由はただ1つ。そうしないと受験生が激減してしまうからである。どぎつくいえば大半の私大は「ついでに受けてもらう」存在だから独自性など発揮したら寄りつかない。
受験料はほとんど3万5000円である。英検1級7500円と比較すればバカ高さがわかる。それでも昔はともかく今は受験料でもうかるという図式は成立せず下手すれば持ち出しだと関係者は口をそろえる。いったいどんな運営をしているんだか。
入学後も入学金・授業料も含めて異様に高い。高校は「ゆとり」以後も正職員として雇った教員が大半を担い、週5日は朝から晩まで授業が行われている。たいして大学の特に文系のカリキュラムは比較にならないほど緩くなるし驚くほど薄給の非常勤講師がかなりの講義を担当する。なのに後者の方がよほど高くつく。その上に国から多額の助成金までもらっている。
「分数ができない大学生」などと嘆くのは主に大学教員だが、嘆いている側が分数ができなくても受験できる仕組みにしていたら世話はない。その上お給料まで「分数ができない大学生」からもらっているのだ。しかも専任の場合は少なからず、である。
少子化が進めば1人で2つ以上の大学を同時に掛け持つ学生はいないから確実に市場は縮む。なのに大学・学部・学科は増える一方というのも不可解だ。

「受験に必要ない科目は学びたくない」から必修の履修漏れが起きたという。そうした論理に高校側が合わせてはならないとの反論も聞く。だがそもそもの「受験に必要」を決めている大学側がそれぞれの高等専門教育に必要な科目を選んで受験科目としないという問題はなおざりにされている気がしてならない。文学部と商学部が同じ科目・同じような配点で受験できるというのが元々おかしいのだ。当然、入学後に高校までの勉強とのミスマッチが起きる。これは偶然ではなく必然だ。
そうしないと受験生が激減するというならば、その程度の大学と自ら規定しているに等しいのだから潔く廃校してしまえばいい。ないしは大学生からいただく信じられないほど高い授業料などを適切に運営する仕組みを作ろうと考えるべきだ。
音楽と美術の試験だけで入れる文学部がなぜないのか。日本史B・世界史Bの配点を英国より重くする史学科がなぜないのか。

ちなみに私の受験時の青山学院文学部史学科はそうだった。「そこに惚れた」とたたえ合った同窓は多数いた。だが今は普通の配点に戻っている。
早稲田大学第一文学部はかつて英語・国語・小論文で受験できて一文生はその試験で突破できたのが誇りだった。しかし数年前に英国+日本史B・世界史Bの普通のパターンに変更してしまった。理由は諸説あるが一説には英国小論の組み合わせが指導しにくいとの高校側の訴えがあったという。これが大学側の関係者から「らしい」程度で聞き込んだ情報なので正しくない可能性もあるが本末転倒の発想である。(編集長)

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2006年11月 4日 (土)

『吉原 泡の園』 第4回 投げ捨て寺

Nagesute 「生れては苦界 死して浄閑寺」
 通称投げ捨て寺の新吉原慰霊塔に刻まれている言葉である。これは、江戸時代から昭和33年の売春禁止法が成立するまでの間に吉原で身よりなく死んでいった不幸な遊女や娼婦の生涯を詠った詩である。
 そもそもこの浄閑寺とは1665年江戸時代に始まった。明暦の大火(1657)後、日本橋から現在の千束に吉原が移り、それから間もなくのことだった。新しく千束に移った吉原を新吉原と呼び、以前の日本橋を旧吉原と呼んだ。
 新吉原で働く遊女は、栄養面や病気などから早死にするものが多かったそうだ。20代で死ぬものもかなりいたらしい。
 江戸時代、身売りに来た女性は戸籍も抹消され、病気になっても看病を受けることもなく、身分も分からず死ぬ。死体は犬、猫のように捨てられた。その受け入れ所として、浄閑寺に捨てていく者が増え、正門前にそっと死体を捨てていく、また、1855年の案性の大地震で亡くなった遊女400人が葬られたことなどから、投げ捨て寺と呼ばれるようになったのだった。
 死体の数は新吉原の廃止、つまり昭和33年売春禁止法成立まで実に2万5千にのぼるのだそうだ。とても信じられない。
 現在、それら不幸にも死んでいった遊女達の為に、新吉原総霊搭がたてられ、線香が絶えることがない。

 新吉原総霊搭にはいくつも風通しのような穴があり、覗いてみるといくつもの骨壷が見えるのである。
 僕がここを訪れたとき、昼間なのに薄暗く、卒塔婆がやけに多い墓場だなと思った。カメラでバシバシ写真を撮った。墓と墓に挟まれて、古い井戸の跡もある。これは本庄兄弟の井戸と呼ばれるものだ。親の仇である平井権八(歌舞伎で有名な白井権八のモデル)を追った兄が返り討ちにあい、兄の首を洗っていた弟も、襲われて命を落とす。仇討ちに失敗して悲惨な兄弟の最後の地が、この井戸だったのである。兄弟を供養する首塚もある。
 写真を撮った後で知ったことだが、ここは必ずと言っていいほど、心霊写真が撮れるという噂があるらしく、某出版社からは心霊写真が出されたという噂もある。(これに関しては関係者は全く知らないというので、噂だけだと思う。吉原近辺ブログの管理人は見た事があると言っているが)
 何も知らなかった僕は、墓場の中を縦横無尽に歩き回り、写真を撮りまくった。たまにニコニコしながら、すげーよなどと独り言もいっていた。(まったく罰があたる)。
 この寺を菩提寺とする有名人としては、アラーキーこと荒木経惟氏があげられるし、永井荷風もいる。落語家三遊亭歌笑。侠客需髪長五郎。新比翼塚の記念碑があり、江戸、明治の歴史を語るにはなくてはならない寺となる。永井荷風は、作品の中でも寺やこの界隈の出来事を書き、その取材の為に頻繁にこの寺を訪れたそうだ。僕のように、縦横無尽に墓の間を歩き回ったのだろうか。
 1人墓場の中で思いふけった。吉原の歴史とは無残な遊女の死の歴史でもあるのだと。さらに言えば、新吉原弁天池跡というものが、吉原の中にある。大正12年、関東大震災で池に逃げてきた遊女490人が溺死した。そのために大正15年に造立されたのが吉原観音である。昭和34年、吉原電話局建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名を留めるのみとなった。こうした多くの死があったことを、忘れないためにも、ぜひ、吉原の歴史と伝統は残してもらいたいものだ。
 ここ投げ捨て寺は、吉原の暗部なのだ。

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2006年10月31日 (火)

山と渓谷社がたった4500万円で買収

山と渓谷社。通称ヤマケイ。1930年に創業した超老舗がIT企業のインプレスホールディングスに06年10月買収された。インプレスは資本金4500万円を取得してヤマケイを100%子会社とする。

つまりヤマケイは4500万円で買われたのだ。

この金額に驚く。ヤマケイの売上げは年間約35億円で社員数は約60人。小社とは比較にならぬほどの「大版元」(客観的には中小)がたったの4500万円で身売りされる。4500万円を私は手元に持っていないが工面する自信ならばある。それほどの少額で別業種に渡ってしまったのだ。
一瞬「私にも一言あれば……」と思ってしまったが考えてみればヤマケイの経営が順調ならば身売りもなかったわけでインプレスは買収価格こそ4500万円だが今後の人件費、印造費、印税などなどのランニングコストのマイナスをも引き受ける体力があるからできたのだと我に返った。

でも再び首をかしげる。さはさりながらヤマケイがたった4500万円で買えたという事実は揺るがないと。あれほどの老舗がそうであるという出版界の現実を。
前世紀末から今日まで出版社がバンバンつぶれている。文字通り消えてなくなった版元も多数あるが、なかには取引先に買収されたり、事実上の編集プロダクション化をして発売を他社に委ねたりとか、社員や下手すると出入りのライターさんにまで株の一部を買ってもらってしのいでいるとか(ストックオプションなどというかわいいものではない)看板こそ同じでも経営母体がそっくり入れ替わっている会社も目立つ。
その結果、新経営陣からリストラの嵐を食らって150人以上いた社員が60人程度にまで縮小されたなどという例も聞く。

書店様の淘汰も凄いの一字だ。毎年観光される日本書店商業組合連合会編の『全国書店名簿』は年々やせ細っている。現在は外注しているのだが最近まで小社は新刊案内を書店にファクスしてきたが、最初に殺到するのは注文ではなく(涙)「閉店しました」「書店じゃありません」「毎回毎回ファクスが来て迷惑です」(小社からは1回だけなのだが)などのクレームのファクスおよび電話である。
再販売価格維持制度と委託販売制度に某かの問題があるのは明らかなのだが、この両制度があるから今程度に止まっていられるのか、制度そのものが陳腐化しているのか、悪化させているのか、好転の可能性はあるのか、しばらくは持つのか、実は「お前はもう死んでいる」状態なのか、他の方法はあるのかなどが混然一体の議論となっていてわからない。

実のところ返品のヤマを見上げていると書店で安売りでもいいからさばいてもらった方がナンボかマシじゃないかと思うことがある。ただそれが制度化してしまうとナンボで売られるかまったくわからなくなるから出版計画が立てられないとのジレンマに陥る。

通常のメーカー(出版社)→卸(取次様)→小売り(書店様)の業容になれば、つまり再販制度の下でメーカーが値付けをせず、小売りに価格決定権を与えると、おそらく小社のような本は値が付かない可能性が大だ。何しろ本は究極の多品種である。類書という概念はあるが中身はそれぞれに違っている。それらを卸や小売りがすべて吟味できるはずもない。これは取次や書店の方々を無能呼ばわりしているのではない。人間の限界を超えた作業だと言っているのだ。
となると著名人を囲っている大版元の商品中心になろう。小社のような零細も売れ筋を強く意識した商品作りに転化するしかない。現に新人・無名の作者の作品は配本不要と明言する書店様もある現状だ。
そうすればいい。売れ筋で勝負するのはどのメーカーもやっていることでアンタの主張は甘えだとの批判もあろう。だからそうだと受け入れてもいい。では品ぞろえと価格決定権を当の書店様はお望みであろうか。

現在、書店様の正味(取り分)は定価の約2割である。再販と委託販売がなくなれば、この計算自体が意味をなくす。取次様から卸値で自由に商品が手に入る態勢が仮に成立したとして何の商品をどれだけ卸から入れるかとの判断をどう決める。今の制度ならば売れない本は出版社に返せばいいのだが何もかも買い切りとなると卸値に乗せた小売値で商品をさばき、少なくともその総体がプラスにならないと書店は立ち行かない。
やはりネットを利用したモデルを考えるべきである……というところまでは出版社・取次・書店ともども暗黙の合意はしている。しかしなかなか進まない。例えば注文一つにしてもe-mailが普及して久しい現在でさえファクス注文とスリップが大半を占める。直接の営業でも書店様からバーンと番線を押してもらう商習慣は変わっていない。
袋小路である。ああ仕事そのものをブログで書くものではないな。袋小路では下げもつけられない。錯綜するギターのアンサンブルがフェードアウトしていくように終わるしかない。すいません。(編集長)

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2006年10月28日 (土)

『吉原 泡の園』第3回 「吉原周辺公園記」

 吉原ソープランド街の中、近辺には多くの公園がある。客として吉原に訪れる者は気にもしないだろう吉原近辺公園記を書くため、平日夜三度吉原に向けペダルをこいだ。
 三ノ輪交差店までくると、明らかにソープの送迎車と分かるセダンが徘徊している。コンビニの前には客らしき男が時計を気にして待っている。それを横目に吉原を目指すと、1つ目の公園に到着する。
 
「東盛公園」
広さ☆☆☆
遊具☆☆
ホームレス
トイレなし 
 昼間は親子連などで賑わい、比較的吉原から遠いので、ホームレスなどもいない様子だ。ちかくのマンションなどの住民が多く。綺麗だし感じは良い。

「吉原公園」
広さ☆☆
遊具☆
ホームレス☆☆☆
トイレあり
 吉原公園は吉原の中にあるだけあって、ホームレスが占領しているし、集めた空き缶が45リットルの袋5枚分ほど詰めて置いてあり、トイレがあるが中々行きづらい。また、道を挟んでソープランドが並んでいるので、吉原公園に行くまでにボーイに「うちの店においで~」という視線を浴び、面倒だ。たまに屋台のおでん屋、ラーメン屋が出る公園だ。

「千草公園」
遊具☆
広さ☆
ホームレス☆☆☆
トイレなし
 この千草公園が、「アストラ刊・記録・泡の底」に出てくるTさんや、夜中僕が酔っ払ってよく休んでいた公園だ。薄暗く、トイレもない。ホームレスも多いが、寮から1番近かったので、よく利用した。立ち仕事で足がよくつり、滑り台に横になって耐えていると、疲れて寝てしまったりもした。よくホームレスに財布などを取られなかったものだと、今思い返している。

「京町公園」
遊具☆☆☆
広さ☆
ホームレス☆☆
トイレあり
 夜、1番明るい公園で、近くにはローソン、旅館、情報喫茶、定職屋などがある。ボーイ時代、ここで油を売っていた。たまに風俗譲もここで休んでいる。

「花園公園」
遊具☆☆
広さ☆☆☆
ホームレス☆☆
トイレあり
 広いが、薄暗い。女性は夜あまり近づかないほうが良いかもしれない。もっとも行く人もいないだろうが。トイレは道沿いにあるので、よくタクシードライバーが利用する。

「中部町会公園」
遊具☆☆☆
広さ☆☆
ホームレス ゼロ
トイレあり
 ここはホームレスがいない。なぜならまだオープンしていない公園なのだ。柵が巡らされている。11月1日。隣りにある一葉記念館のオープンに合わせての利用となるのだろう。一葉記念館リニューアルオープンには、瀬戸内寂聴氏の特別公演がある。
 12時30分開場
 13時開演 お題(私の一葉)
 樋口一葉ゆかりの地であるここは、近くに一葉泉という銭湯もあるし、一葉煎餅というお菓子屋もある。一葉にあやかっての商売もしっかりやっているあたりが、さすが吉原という感じだ。この一葉煎餅からペダルを45回こいだ所が吉原の入り口になる。
 次回、公園記事の機会があれば、現在の立ちんぼ売春が生きている公園で、吉原にも関係の深い土地からのレポートを考えている。公園シリーズはまた機会があったらお伝えする。(關一星)

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2006年10月26日 (木)

石原慎太郎の天皇観と「あれをした青年」

石原慎太郎東京都知事が秋篠宮悠仁親王ご誕生に当たって都議会で述べた言葉は素っ気なかった。

「首都東京の知事として、都民とともに心よりお慶び申し上げます。親王のご誕生は、都民、国民が久しく待ち望んでいた慶事であり、親王殿下が秋篠宮ご一家の深い愛情に包まれながら健やかにご成長され、皇室が益々ご繁栄されることを祈念いたします」

もっと大喜びしそうなイメージを抱いていたから意外だった。だが考えてみれば彼は現在の天皇制には否定的だったからバカ騒ぎしないと変だというのは偏見だった。
私は石原知事が嫌いである。なぜならば差別主義者とさえいえる偏見を時折披歴するからだ。だからといって彼を偏見の目で見ては同類になるからいけない。
とはいえ何となく腑に落ちない。何かを忘れている。何だっけ……と実は先週末まで引っかかっていたが稲妻のように思い出した。そうだ!「あれをした青年」の件だ。

「あれをした青年」とは『文藝春秋』1959年8月号に石原が著したエッセーである。同年4月10日、東京で行われた「皇太子成婚パレード」で皇太子夫妻(現在の天皇皇后両陛下)の乗った馬車に投石して逮捕された「皇太子成婚パレード投石事件」の犯人少年が石原の宿泊地を訪ねて「僕の気持ちを聞いてもらいたい」と申し出、それを受けての一文だった。
投石した少年は石原にも警察にも、その後のメディアの取材にも一貫して犯行の動機を次のように語っていた。
皇太子夫妻が住む東宮御所が2億3千万円もの巨費を投じて新築された。ミッチーブームに引き続いたパレードのバカ騒ぎも腹が立つ。なぜならば自らの地元も含めて貧しいまま困っている国民が多数いるなかでの天皇家の振る舞いは何だ。投石後は馬車に駆け寄って退位を促す直訴をするつもりだった、と。
興味深いのは少年の言い分を紹介した後の石原自身の感想だ。「あれをした青年」の最後に石原は次のように結ぶ。

「天皇が国家の象徴などという言う言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だと言う言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだと言うことになる、と言うより問題にもされなくなる、と僕は信じる」
「彼(投石少年)の話の殆どが殆どの人間に理解されるだろうことを僕は信じる。(中略)現代では狂っている人がまともで、まともな奴がおかしいと言うことを誰もが感じているはいるのだ。その誤謬を修正する直接の行動のためには、今日では矢張り一種の狂気に近い誠実さと勇気がいると言うことも」

象徴天皇制は日本国憲法の産物で「憲法廃棄」を唱える石原知事の今日の主張と通じる。不思議なのは石原がそれを「現人神だと言う言い分と同じ程度笑止千万」としている点だ。つまり戦前の天皇のあり方もまた石原には「たわごと」だった。
そして彼の言う「もう半世紀」はほぼ過ぎ去った。だが「問題にもされなくな」ったのは「殆どの人間に理解されるだろう」と予測した「皇太子成婚パレード投石事件」の方だ。石原は投石少年を「まともな奴」「誤謬を修正する」「狂気に近い誠実さと勇気」の持ち主とたたえている。
少なくとも1960年代の石原は天皇家の慶事に投石するような者が会いたくなるような人物だった。そして石原も文章で応えた。彼が「誠実さと勇気」を少年のどこに見たのか。

石原知事の著書『「アメリカ信仰」を捨てよ』(光文社刊)で彼は天皇を「元首であると明記」して「権力を持たない権威としての天皇のあり方」を憲法上明らかにせよと述べている。この辺から石原知事を戦前回帰の国家主義者と位置づける向きもあるが、どうやらそうではないらしい。

2006年2月6日付『産経新聞』に「祭司たる天皇」と題された石原知事の天皇観がある。長文であり難解でもあるので私自身による要約を許されたい。
記事によると知事は

「天皇は神道の最高の祭司に他ならない。ならば神道もまた宗教の一つではないかという反論があろうが、私には神道は宗教というよりも日本人の心情、感性を表象する日本独特の象徴的な術だと思われる」
「その集大成が伊勢に他なるまい」
「神道は宗教の範疇を超えた日本人の価値観の表現の様式であり、民族としての自己表現の有効な一つの手立てに他ならない」
「私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ。(中略)その限りで私にとって天皇が女性であろうとなかろうと関わりないことと思われる」
「その故にも(中略)天皇陛下には是非々々とも靖国神社にお参りしていただきたい。それは『靖国』が決して政治問題などではなしに、あくまで日本の文化神髄の事柄なのだということを内外に示す決定的なよすがとなるに違いない」

と主張している。

なるほどこのロジックならば皇太子成婚パレードにも悠仁親王ご誕生にも「バカ騒ぎ」しない理由もわかる。どうやら石原知事に抱いている我が反石原陣営(そんなのがあるのか知らんが)も石原信奉者も彼の真意を読み誤っているのは共通しているようだ。

まず石原知事は神道を宗教ではないとしている。久米邦武の「祭天の古俗」に近いのだろうか。そして神道は「日本人の価値観の表現の様式」で天皇は「最高の祭司」で「集大成が伊勢(神宮)」で「天皇、皇室」は「奥まっていただきたい」。別に女性天皇でも女系でも「関わりない」というわけだ。
ちょっと待てよ。天皇は伊勢神宮の親分にでも収まっていればいいのだという主張は天皇制反対派が時に便法として使う論理だ。女系天皇反対論は「皇統125代」を信じ込む頑迷者が叫んでいるが知事は「関わりない」とまで言ってのける。
神道が宗教でないならば靖国神社も宗教ではなくなる。靖国の天皇参拝は靖国神社および崇拝者の望むところであろうが「靖国は宗教ではない」には猛反発をするであろう。

と、ということは石原知事はリベラル……なのか? こうした主張は「あれをした青年」以来ぶれていない。確かに神道は来世観が明確でないし聖書やコーランに当たる聖典(古事記と日本書紀)の内容もハチャメチャ……間違えた、人間くさい。神様山盛りだが欠点さらけまくりだ。
だから宗教の位置から「価値観」としその「感性の祭司」として「奥まって」いるように憲法1条を改正(知事は「破棄」なんだけど)した「元首」ならば表立っての天皇の権能は現憲法より下回る。そうじゃないハシャギぶりを皇室がしたら石を投げてしかるべしと。
いっちょう乗ってみるか。面白そうではある。それとも私の誤読? 今回に限っては誤読であってほしいと願う自分がいるようで……(編集長)

※注:文中に「石原」と敬称を略した部分は作家としての石原慎太郎氏を示す。論壇などで作家、例えば大江健三郎氏を「大江は」と表記するに準じたに過ぎず他意はない

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2006年8月 6日 (日)

王子製紙の北越製紙TOBを出版社として考える

仕事がら紙屋さんのことをあれこれ言うのは止めておこうと最初は黙していたが考えるところあって発言すべきと翻した。やっぱり版元とは紙の塊を作っている製造業なのだから。というわけで今回はコアな話となるのをあらかじめご勘弁。

製紙業界トップとは知っているが日々の出版活動で王子製紙の存在を痛感することはほとんどない。王子といえば包装などパッケージに使う白板紙の会社という印象があったので。ただつらつら思い起こせばそうでもないと思い当たる節が出てきた。

まず書籍紙(本文の紙)である。小社の単行本の大半は「クリームキンマリ」という北越製紙の品物をほとんど使っている。「うちも!」という御同業も多かろう。決して素晴らしい品質とまではいえないが費用対効果は高い。「この品質の割には廉価」という感覚なのだ。同系は王子ならば「OKシュークリーム」が当たるが友里征耶の言葉を借りれば「傑出したものとは思えません」。値段と品質の関係で選択すれば御同業の大半がクリームキンマリであろう。
最近は束が出る嵩高紙のブームであるが、この世界は王子のライバルである日本製紙の独壇場で「オペラウルトラ」ブランドが大人気。ただ零細版元には高い買い物だし嵩高紙なんか使ってたまるかという矜持もなくはない。
北陸が王子に吸収されてしまうとクリームキンマリも王子のものとなる。業界では覇権主義的傾向のある王子がブランドを大切に維持できるであろうか。
傍証ではあるが心配な過去がある。1993年に王子は神崎製紙を事実上吸収合併した。その神崎にはView KANZAKIという素敵な広報誌があった。小とはいえ文化や芸術を伝えようとの気風に満ちた冊子であったが合併後もそうしたDNAが受け継がれている例を寡聞にして知らない。クリームキンマリもまた「ただの一品」にされてしまわないだろうか。
また巷間伝わる王子の非効率を北陸で補うとの図式は取りも直さずクリームキンマリの値上げとなるはずだ。少なくとも論理的には。これも頭痛のタネ。

次に単行本を飾るカバーに使う特殊紙である。この世界は何といっても富士製紙だったのだが(ただし小社は特種製紙がお好み)2004年に次のような変動があった。王子のHPによると「王子特殊紙株式会社は、王子製紙株式会社・特殊紙事業本部とグループ会社であった富士製紙株式会社が統合」である。伝統ある富士の名は消えて王子に変わった。ここにも覇権のにおいをかぐ。
そもそも富士は戦前には王子と争うほどの企業規模だったが1933年に王子の株買い占めにあって軍門に下った経緯がある。王子はもう1社も買収して洋紙のシェアは8割(生産ベース)に達した。藤原銀次郎一代の大勝負だった。
33年といえば大デフレだった昭和恐慌の荒波が一段落して高橋財政による順風が吹き出したころだ。デフレ脱却の際に覇権に動く点で奇妙な符丁を聞かぬでもない。

かつて請負でよく作ったパンフレット類でも王子はなかなか思い浮かばない。あえていえばマットコート紙の「ニューエイジ」かなあ。

というわけでこの世界に入って久しい私でさえ書籍紙は北陸、カバーは名ばかりとはいえ富士が真っ先に頭に浮かんでくる。SPも冊子が中心だったせいか王子はニューエイジ
しか出てこない。
ところが2004年に富士は王子の名を冠する会社に代わり、今回のTOBが成功すれば書籍紙でも王子の存在感がいきなり増すわけだ。白板紙屋さんがとにもかくにも文化の担い手たらんと(むろん担っているなどと大言は吐かぬが)意地を張っている零細版元の懐具合まで左右してくるという現実。
反対とまでは行かないが何とはなしの不安を覚えるのは小社だけなのか。確かに利害当事者は印刷屋さんなのであろうが、そこに支払うのは版元だからねえ。(編集長)

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2006年5月16日 (火)

今度は食育!勘弁してよ

今度は食育だそうな。「早寝・早起き・朝ご飯」を全国規模で展開するんだってさ。既に野菜を食べろキャンペーンはずっと前から浸透している。喫煙に至っては今や犯罪者も同然と思っていたら遂に保険対象となってしまった。つまり喫煙者は病人なのだ。

冗談ではない!

「早寝・早起き・朝ご飯」を提唱する教育者や学者は根拠と実績を持って推進している。そのこと自体を否定する気はない。多様な意見は民主主義の基本であるからだ。私がいいたいのは新奇の説が出てくると一本かぶりで「それっきゃない」と他の好みを排除する気風である。
小泉純一郎首相が国民全体に拡大した最悪のロジックだ。人間に「それっきゃない」はないのである。認めるとしたらファシズムだ。だから私は小泉という時代を最悪とみなし小泉首相を最低と位置づけてはばからぬのである。

私のような職種で「早寝・早起き・朝ご飯」をやっていては死ぬ。文字通り物理的に死ぬ。編集者が勝手に早起きしてもすることはない。早寝したら仕事にならない。朝ご飯どころか1日中何も食べられない場合も多々ある。たいがいは「遅寝・早起き・飯任意」である。本当は「遅起き」が理想だが私の場合は経営の部分で早起きが必要である場合があるのでこうなる。よりポピュラーな姿は「ほとんど寝ずに飯任意」だ。
医師はいつも「十分な休養と栄養」を勧めるが、それができれば医者は要らぬといったは西園寺公望でありまったくもって正しい。それと同様で「早寝・早起き・朝ご飯」が仮に理想だとしても現実的に無理は無理である。
「早寝・早起き・朝ご飯」でないと脳の活動が鈍るというのも信じがたい。私は少なくとも早寝は義務教育時分からしていなかったし朝ご飯よりも一秒でも遅寝していたかった。高校生になる頃は「遅寝・遅起き」が定番となり学校に通うのが一大事であり続けた。
だからバカになったとは思わない。浴びるほど本は読んだし、触れられる限りの美術品には触れた。朝ご飯を食う時間があったら本を読んだ方が利口になるに決まっている。社会人になって以来「早寝・早起き・朝ご飯」など1日もなかったが有権者の5割いる小泉内閣支持のバカ者よりは依然として利口である。早寝するよりは徹夜で調べ物をした方が、これまた利口になるに決まっている。
体力の続く限り知的好奇心を燃やすよりさっさと寝て朝飯食った方が脳が活性化するとは到底思えない。

私は青虫ではないのだから葉っぱを食って満足するわけがない。高度成長期に幼少期を過ごした者は大金持ちを除いて皆が「肉の前には野菜などゴミ同然」だったはずだ。だから私は葉っぱなぞ目もくれない。それで大病したことは一度もない。むろん明日コロッと逝くかもしれぬが43年入院すること一度もなく生きてきたのだから肉至上でおおむねよかったのである。
肉が御法度に近かった江戸時代の平均寿命は50歳に届かず。昭和の戦後になって「肉の前には野菜などゴミ同然」となってから日本は世界一の長寿国となった。意味するは明白である。葉っぱを食って健康志向のつもりで早死にしたけれりゃどうぞ。

煙草についてはもう書き飽きたので書かない。ただし今のような風潮が強まれば強まるほど私は禁煙はしない。もっと白い目で見よ。その目が差別の目だ。石原某や小泉某が持っている魔王の目つきだ。私は決してそうはならない。人間の尊厳を賭けて拒否する。
もちろん嫌煙者の権利は最大限尊重する。禁煙ゾーンでは吸わないし間違っても人に煙を吹きかけたりはしない。考え方の異なる人の存在自体は尊重する。これは民主主義の基本だ。嫌煙者にもそれがあれば許すし傍若無人な喫煙は私とて許さない。人らしいとはそうした態度ではないのか。

仮に知的な後退があるとすれば食育がどうとかの問題ではなく多様な意見をぶつけ合う環境そのものが消えているせいだ。多様な植生は何も環境保護だけの問題ではない。ありとあらゆる植物を伐採してスギだけを植えれば花粉症を引き起こすのみである。
「それっきゃない」ムード自体が世の中から面白味や励みや好奇心や闘争心を奪うのである。「それっきゃない」と偉いさんが吠えるとそれ一色になる。モノトーンはつまらない。つまらないものは萎える。萎えれば勉強する気もなくなる。霜降り牛肉と葉っぱでは元気の出方が違う。
精神的モノカルチャーこそ学力低下というか意欲低下の最大の原因ではないか。意識もうろうの子どもをたたき起こして葉っぱの朝食を無理強いし思索と創作と読書に最適な夜の時間を死んでいるのと状況が同じ睡眠に誘い込んで学力アップだって!少なくとも我が輩の世代の親はそんなバカはしなかった。(編集長)

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2006年5月 4日 (木)

私が写研にこだわる理由と正当性

私がなぜ写研の書体について何度もグチグチ書くのか業界の方以外は理解できないであろう。その理由はただ一つ。文化財の問題だからだ。

教育基本法改正案に「日本の伝統と文化」を大切にするなんて文言を入れるそうじゃないか。起草した者どもに「日本の伝統と文化」がわかるか疑問であるが、もし本気ならば写研を何とかしろよ・・・・というぐらいの大問題なのである。

その理由を順に述べる。まず出版物は文化財である。少なくとも私はそのつもりで1冊1冊を世に送り出している。国立国会図書館には本を出すたびに寄贈する義務があるが、その返答文には「文化財として・・・・」とある。本は文化財だ。したがって使用するフォント(書体)もまた文化財の一部である。

次に出版界特有の事情がある。他の業界と大いに異なるのは製作の作法が会社を問わずに共通している傾向が高い点だ。だから昨日までA社にいた編集者がB社に移った今日からすぐに「台割」「青(藍)焼き」「ゲラ(ガレー)」「著者校」「責了」などという統一用語で仕事が始められる。かつてその一部に写研の書体およびQ数、歯送りなどの作法が含まれていた。
ここで重要なのは、こうした作法を共有するという出版界特有の事情があったからこそ写研の書体は大いなる地位と売上を得たという事実である。もし出版界がA社とB社が仕入れから納品まで別々の独自製作を行うメーカーの集合体であったならば、やはり独自の書体を持って独自に組版しよう。大新聞のように。
そうではない、いわば「神田村の作法」があったからこその写研の躍進であり、1私企業の都合で勝手に退くのは許されない。もうける時だけ村の掟を利用して、嫌になったら「私企業ですから」では倫理にもとる。

さらにある。写研の写真植字はグーテンベルグ以来の、日本でいうならば本木昌造以来の活版(凸版)文化を終わらせた責任がある。活版も十分に芸術的だったが、その工程が宿命的に生み出す硬直性と拡張性の低さゆえに写研に取って代わられたのはやむを得なかった。
私はかなりの活版愛好者でもあったが、写真植字にしかできない伸びやかさや意表を突くデザインにはかぶとを脱ぐしかなかった。かくして写研は活版を駆逐した。そしてDTP時代には対応しない。そのDTP環境で作られる誌面の美しさはハッキリいって活版に劣る。
つまり写研のDTP未対応は結果として芸術を退化させているのである。罪は重いといわざるを得ない所以である。

写研が1私企業としてDTPに能力ないしは金銭的に対応できないというのであれば喜んで手を貸す関係者は多数いるはずだ。だが私の想像する範囲では写研はDTPに対応できないのではなく、できるのにしないだけだ。
電算写植が急速に普及した時を思い出す。ワープロ専用機が台頭してきた時に写研は露骨に電算化を推奨した。まだ手書き入稿で育った世代の私は、やむなくワープロに向かってウンウンうなっていたものだ。それでワープロを打てるようになったから恨みはないのだが、写研が技術革新についていけない会社では決してないのがこの一事でもわかる。

DTPでやりたくないならば、いっそのことモリサワに著作権を売ったらどうか。元来が同根だし。モリサワがシャクならば他社でもいい。同業者でなくてもいい。新興IT企業ならばカネ持ってそうだから。でなければ文化財保護法を適用して押収してしまってはどうか。同法に該当する条文はないが、もうムリヤリだ!

DTPで困った点は2つある。1つはこの写研の頑迷とさえいえる未対応。ここがクズ書体しか作っていない会社ならば何もいわない。写研の書体は本当に美しいのだ。かつて名画を高値で競り落として死んだ時には一緒に燃やしてくれとのたまった会社社長がいたが、それに似た背徳である。確かに写研書体の著作権は写研にある。だがそれは文化財であり公共財として使われてもいたのだ。
ダイナフォントで商業印刷をする勇気は私にはない。モトヤ・・・・モトヤか。モトヤねえ・・・・。ちなみに量販店でモトヤ書体は売っていない。

もう1つはゲイツである。何でも欲しがるビル君が何でまた我が業界だけには興味をもたないのか。お陰で割高MACの天下が続く。アドビ社は絶対にもうけている。モリサワだってちょっとその金額はないだろうって値段だ。クォークも同様。
OSがバージョンアップするたびに100万円が飛んでいく。いやそれ以前にMACが壊れた瞬間に零細出版社には激震が走る。これがまた壊れてくれるわけだ。

はっきり言おう。私は写研本社にデモ行進したい気分なのだ。そのためにNPO法人ぐらい作ってもいい。募る同志!(編集長)

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2006年4月17日 (月)

写研に取材を申し込んだのだが

以前に何度か写研書体について当ブログに書き込んだ。日々の時事問題を書き連ねていてアクセスも当然ながら新しい書き込みに多いなかで、その記事だけは古びることなくアクセスされている。こういう点でアクセス解析というのは意味があるね。
そこでアクセスして下さる方への情報提供と私自身の興味と実益から06年4月10日、小誌は写研に電話で取材を申し込んだ。

質問の内容は「写植全盛期には他の追随を許さないほど発展した写研の書体だが、DTPに移行してからは、モリサワなどが対応しているにもかかわらず、写研は対応しないまま今日に至っている。DTPでも写研の書体を使いたいという声はあると思うが、いまだにDTPに移行しないのはなぜか聞きたい」ということだと取材の趣旨として伝えた。

電話で対応した女性が「少々お待ち下さい」というから5分くらい待った。その結果「社長が現在会議中なので、折り返し電話する」ということでいったん切る。
2日後の12日、電話がかかってきた。「取材などは方針として受けないようにしておりますので、今回は失礼させていただきます」とのこと。対面ではではなくせめて電話取材ならばどうかともちかけてもダメであった。
写研は不思議な会社である。帝国データバンクの情報にも入っていない。あれほどの会社だから帝国データや東京商工リサーチは対面取材を断られても決算書などから調べそうなものなのに。今回の取材拒否も不思議である。まず「取材などは方針として受けない」企業などあっていいのだろうか。零細ならばいざ知らず写真植字のリーディングカンパニーの言葉とは思えない。
「社長が現在会議中」というのも腑に落ちない。たかがいったら自虐になるが小誌ごときの取材の是非が社長を通さないと決まらないのであろうか。それともDTP関連の質問は社長以外は答えられないトップシークレットなのだろうか。

以上は写研という会社をくさして書いているのではない。むしろ逆で私は写研書体を偏愛していて使いたいのである。だから愛するあまりの質問なのだ。ならば旧来の方式で使えばいいだろうとなるのか。それだとDTPよりもコストがかかる。愛の代償に支払うコストということか。
もしかしてこの論理で写研を使い続けている人が今でもかなりいて、それゆえに写研はDTP化をせずにやっていけるということであるのか。聞きたいことはヤマほどあるが取材拒否ではどうしようもない。
写研コンバータを使うことも考えたがジャギーの問題などが大きすぎて出力してみないとわからない。しかもいかに高解像度のレーザープリンターといっても普通紙出力を版下にして商業印刷をする勇気はないから印画紙となるが今さら印画紙出力機を買うのは明らかに時代錯誤である。古手の組版屋さんが印画紙出力機を捨てたという話を一昨年に聞いてフーンそういう時代なんだと隔世の感にとらわれたほどである。だいたい今のパソコンのDTP環境とうまく連動させる自信がまったくない。

写研コンバータは著作権の侵害にならないかとの疑念もあるから使わない。コンバータ自体は写研が出しているものではないから写研書体そっくりの出力(という表現になろう)をした場合には著作権侵害で訴えられかねない。
民事の損害賠償請求となれば得べかりし利益論が問題となろうが書体こそ売れるか売れないかの根幹を握っているとの主張に立てば100%を請求することも可能だ。少なくとも私が原告ならばそのくらい吹っかけてやろうと思いつく。しかも被告があえてコンバータを使っているという事実は取りも直さず写研書体が必要不可欠と被告が考えていた何よりの証拠だという論法は説得力があるしね。

では外注といっても写研を扱う製版屋さんが激減している。以前から付き合っていた3社は3社とも止めてしまった。

ならば印刷屋さんに頼もうとしても「対応していない」との返事ばかり。大日本や凸版ならば何とかしてみせるのであろうが、この二大印刷企業はかゆいところまで手が届く素晴らしいサービスは提供してくれるものの対価が高い。一刻を争う雑誌コード付きの週刊誌や分厚い月刊誌ならばともかく単行本の世界で二大印刷企業に頼るのは少部数しか売る力のない我ら零細版元には荷が重すぎる。

書店で本を片端から開いて見ると写研の書体がみるみる減っているとわかる。ここ2・3年に顕著に感じる。もはや私のような偏愛者自体が編集の現場では少数派なのか。いやそれはあるまい。確かに若手には写研に何の愛情も感じないだろう。私が凸版に何も愛を感じないように。ただ写研世代の現役はまだ多数いるはずだし美意識も共有しているはずだ。結局はコストの問題および時間短縮の問題に行き着く。
今や中堅どころか大手まで内製化を進めている時代である。本文レイアウトのデザイナーは製版業を自動的に兼ねている。いやそれ以前に編集者が本文レイアウトのデザイナーになっている場合も多い。
写研様。なぜDTP化しないのか。理由だけでも教えて下さいよ。(編集長)

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2006年4月 7日 (金)

村上春樹の問題提起とさくら出版問題

『文藝春秋』4月号の「ある編集者の生と死」と題した村上春樹さんの一文が頭から離れない。
こうした事態について編集者として指摘したい例がいくらもある。とくに手書き時代の生原稿の扱いについては。ただこのブログは実名で書いているために読者のなかに多数いらっしゃる(らしいのだ)私が編集者として関わった書き手の皆様に妙な勘違いをされては困るという問題があって珍しく何度も書いては消す作業をしていた。そして結局書けなかった。最近更新できなかった最大の理由である。

なぜ書けないか。例えば「無名の書き手の場合」という例を私の頭のなかではXさんを想定していたとしてもYさんやZさんが「もしや私のことでは」と疑われるとか、「著名な作家の場合でも」でも同様な問題を抱えるのである。といって名指しで書くわけにもいかない。したがって村上さんの原稿はかなり勇気のある行為であると同時に彼の抑制が効きまくっている文章力なくては表現できない内容なのだ。

私が本当に書きたいのは編集者の「なくす」「忘れる」「突然発見する」「価値を見誤る」「誰にもいえない」「古いタイプ」などの問題だ。ご同業は大いにうなずいて下さるだろうが、そうでない人には皆目わからない話で、そこが表現できない自らの無能を恥じる。
とはいえ少しは書けそうだ。私の自宅に1通の手紙がある。私が関わった出版物の連載が著者の都合で突然中断することになった際に著者がよこした自筆の詫び文だ。それを今なぜ私が自宅に持っているか全然記憶がない。ここで私が頓死して親族が遺品を整理している過程で流出する恐れはないか。もしそうなったら件の筆者は私をいぶかるだろう。
もう一つ。掲載できない旨を伝え返却を申し出たところ筆者から「置いておいて下さい。そしていつか出版する気になったらお願いします」と頼まれた原稿が会社にあった。その人は後に相当有名になるがペンネームが違っていたのでしばらく気づかなかった。すると数年たって返してほしいと連絡がある。大探しして見つかったからいいようなものの以上のような経緯の原稿だったからなくしていてもおかしくなかった。

ここまでが限界。そこで我ながら卑怯な手だとも思うが03年のさくら出版問題を引いて一助としたい

村上氏も指摘しているようにこんにちはヤフオクのようなネットサービスが著作権をめぐる権利問題に直結して、出版や報道などにおいてもトラブルが続出してきた。だが2001年末に事実上倒産した出版社「さくら出版」での生原稿流出問題自体はデジタル化と直接関係はない。
 同社が出版・発行していたコミック雑誌・単行本用の漫画家の生原稿が大量に古書店に流出したことは03年に問題視された。なかには『課長 島耕作』などの人気作品で知られる弘兼憲史氏の原稿も含まれる。
 マンガの生原稿とは漫画家が描いた原稿そのものだ。それをもとに出版社は印刷用に製版・印刷して、雑誌や単行本として販売・流通させる。一方の手書きの原稿は手書き時代には編集者が朱を入れて筆者と往来し、ある程度の段階で活版や写真植字に起こして多少の手直しの上で校了となる。その違いを若干意識しつつ考察を進める

【ポイント1】生原稿の所有権は本質的に作者にある
 かつてマンガの世界は、出版社に所属する編集者が素人同然の漫画家を育てるという文化があったせいか、「買い取り」が主流だった。生原稿の所有権もろとも出版社に渡して対価を得ていた。しかし現在では、「買い取り」の契約を特別にしない限りは、生原稿の所有権は漫画家にある。出版社はそれを使用する一時的権利を漫画家から買って対価を支払う。いわゆる印税(著作権使用料)だ。
 たとえばあるコミック誌に掲載することを前提として執筆した作品は、その掲載分だけの制限を受ける。単行本の場合は特別な定めがない限り、三年間の制限を受ける。それ以降に同じ生原稿を用いた出版をする場合は、新たに印税を支払わなければならない。生原稿は再活用して新たな収入を得る可能性がある漫画家の財産であり、たとえ再利用ができなくても漫画家の所有物である。
 文章の場合も村上氏の例のように生原稿が財産を生む可能性がある以上は所有権は明快にする必要があり、あるとすれば筆者以外に考えられない。

【ポイント2】出版社からの流出は業務上横領の可能性
 所有権をもたない出版社が保管している生原稿を出版社の人間が売り飛ばしたとすれば、他人の物を許諾なしに売ったわけで、横領罪の可能性が出てくる。さくら出版の場合は出版社と作者という業務上の関係から発生しているので、業務上横領になる可能性が出てくる。
 村上氏の場合も同じで盗みというよりは横領であろう。
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【ポイント3】現行法では古書店に所有権とするのが妥当
 それでは、その生原稿を買った古書店はどうか。
 古書店が直接出版社から買ったのか、第三者に一度渡った物を買ったのかで違いはある。しかし現行法においては、民法192条の「平穏且公然ニ動産ノ占有ヲ始メタル者カ善意ニシテ且過失ナキトキハ即時ニ其動産ノ上ニ行使スル権利ヲ取得ス」の判断となるのが妥当だ。
 仮に、出版社員が古書店に生原稿を許諾なしに売ったとする。その取引はおそらく「平穏且公然」であろうし、「過失」なく進んだことだろう。問題は「善意ニシテ」が成立するかだ。
 出版社員が大量に生原稿を持ち込んだ際に、古書店が「これは漫画家の所有権を横領した行為だ」と感じつつも取引に応じた――もしそうなれば、古書店の所有権は認められない。しかし、その立証は難しい。
 出版社員が原稿を手にすること自体はむしろ自然であり、出版社員だと名乗らなければ名乗らないで悪意かどうかもわからない。
 しかも生原稿が盗品や遺失物ではなく、あったとしても横領で流れているのも問題だ。盗品や遺失物ならば、民法193条の「特則」で所有権者(筆者)が「回復ヲ請求」つまり取り返しを請求できる。しかし横領の場合、筆者が出版社に生原稿を預けっ放しにしていたまま特段の定めをしていなかったら筆者の責任も多少はあると見られてしまう。
 ただし、出版業界は出版社とクリエーターとの信頼関係で成立している部分が大きい。大家とはいえないフリーの筆者は社員編集者より弱い立場にあり、その責任を問うというのは現実問題として酷ともいえる。
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【ポイント4】古書店から買った人には明らかに所有権
 古書店への所有権移転に関しては、前述のように争う余地がある。しかし、古書店から生原稿を買った人には明らかに所有権があるとみていい。ひそかな取引をしていると疑われる店でなければ、そこでの売買は「平穏」「公然」「善意」「過失なし」であることはほぼ疑いない。生原稿を買った人から筆者が作品を取り戻すには、応分の対価を支払うしかない。
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【ポイント5】知的所有権への無関心が無策を許す
 さくら出版事件では、まず倒産した出版社側が故意に生原稿を所有者である漫画家に断らずに販売した事実を突き止め、それが横領罪に当たるかどうかを刑事で問うことから始めざるを得ない。実際に、そういう方向を漫画家は模索した。
 漫画家にかぎらずクリエーターの著作物であるコンテンツの知的所有権について、この国は先進国のなかでは例外的というくらいに遅れた分野ともいえよう。音楽作品をはじめあらゆるコンテンツがデジタル化していくなかで、大げさにいえば、ここでの対応の如何は将来の日本経済の基盤を左右しかねない問題でもあるはずだ。しかし音楽CDの輸入制限など、どうも見当違いな施策ばかりがまかり通っているようにも感じてしまう。

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2006年3月17日 (金)

表現の自由がなければ人は獣に堕す

嗚呼どうにも怒りが収まらない

国会議員の院内の発言を問題視して辞職すべきとする国民が6割もいる。一方で司法が言論を公然と弾圧する判決を下して憤慨する様子もない。なるほど小泉政権が続くわけだ。
惰民国家ニッポン。人を獣と同等の存在として扱う小泉構造改革を惰民はなぜ支持するのかがわかった。要するにヒトの格好をしていても脳ミソは獣なのだ。元が獣だから「人は獣だ」とのたまう「改革」が「わかりやすい」のだ。

人間はヒト科の獣である。と同時に人間は人間しかない「人間らしさ」を持つとヒト科は誇ってきた。「人間らしさ」とは「らしい」という抽象概念の存在そのものを指す。精神性と言い換えてもいい。
ライオンは自分の「ライオンらしさ」を追求する抽象概念を持たない。だから抽象概念や精神性はヒト科の獣か人間かを隔てる決定打である。
抽象概念および精神性はいかにして養われるか。それはヒト科とヒト科がコミュニケートすることから始まる。さまざまな表現で伝え、学び、考え、やがて発信する。その不断かつ永遠の営為がヒト科の獣を人間にするのだ。
高邁な思想からエログロなどのお下劣まで何もかもがこの「表現の自由」を絶対的な前提条件として成立する。正確にいえば「表現の自由」の自由度が高いほどコミュニケートは盛んになって抽象概念や精神性は高められるのだ。
4色オフセットで印刷したエロ本があるとしよう。そこに裸体写真が掲載されていたにしても所詮は4色分解された4つの版を組み合わせた「だまし絵」に過ぎない。それを見てエロい気分を味わえるのは抽象概念や精神性あってこそである。

我々が生きている世界の多くは抽象概念でできている。国家、政府、経済、文化、芸術、エログロ。不断のコミュニケートで考えて考えて作った文字通り「人工的」仕組みである。と同時にどの仕組みもまだ不完全である。したがってよりよい仕組みに高めるためにも高い自由度を保証した表現が必要だ。
ところが現時点の不完全な仕組みで利益を得ている者は「よりよい仕組み」をしばしば嫌悪し憎悪さえ抱く。それが自分の安楽な地位を脅かすから。だから権力の座にある者は表現の自由を制限しようとする。うるさく考えて発想する「人間」をヒト科の獣に近づけて餌付けさえすればなついてくるようにすれば己が地位は安泰だ。
だから啓蒙思想家は権力同士が牽制し合う分立構造を考案し、熱弁を振るい、印刷機の発明以後は文字で叫び、書き続けた。考えろ、考えろ、考えろと。あいつに我らを支配する正当性があるのか考えろ。あいつから自由になる権利はないのかと問いかけた。適当に餌付けされていたりムチで脅されていた大衆も聞いて、学んで、やがて声を上げた。民主主義の誕生である。

すなわち自由で民主的な精神生活を送りたければ表現の自由は絶対的に保障されなければならないし、獣に戻りたければそんな自由は必要ない。現に戦前の検閲下にあって庶民は獣の所業を強いられて多くはしたがった。
今も似たような国家をわが国は近隣に見る。それらを異常で劣等な国家と蔑んでいる。ところが蔑む当の日本人が表現の自由を削られて何とも感じていない。ならば彼の国を蔑む資格さえない。

表現とくに言論の自由は昨日述べたように国家公務員法違反、証言拒否罪などで牢屋行きの覚悟が必要なほど追い込まれている。個人情報保護法も同じ危険を背負う。
その上に刑事、民事の名誉毀損がある。刑事の名誉棄損と情報源の秘匿とのせめぎ合いは本田靖春の傑作ルポルタージュ『不当逮捕』に描かれた読売新聞の立松記者事件が有名だ。民事の名誉棄損も情報源を秘匿したままだと事実上確実に敗訴する。さらに損害賠償請求額はうなぎ上りで小社のような零細出版社などアッという間に吹っ飛んでしまう。

人類に似た存在に吏類がいると以前書いた。吏類の多くは人類そっくりに化けて不完全な権力にしがみついて蜜を吸って生きている。どうやら蜜を吸う時だけは『夕鶴』の鶴のように吏類本来の姿(どうやら醜悪らしい)に戻る必要があるとの噂だ。
醜悪な姿を人類に見られたらまずいから法を駆使して見せないようにする一方で見てしまった者を「みーたーなー」と迫って牢屋にぶち込むわけだ。

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2006年2月28日 (火)

トリノ五輪惨敗と靖国神社

小誌「靖国神社」粘着取材班からの報告によると靖国の絵馬に「トリノ五輪必勝」に類する内容が一枚も見当たらないとのこと。私は直ちに「大問題だ」とわずかばかりの取材班に檄を飛ばした。檄は少人数に飛ばすものではないが飛ばしてはみた。

その前に必勝祈願としての靖国の概観をしておこう。世間一般には英霊を顕彰する、ないしは戦没者を追悼する施設と受け止められ、事実としてそうでもある神社だが近年は各種受験の必勝祈願の絵馬や願掛けが急増している。
靖国は英霊の1人1人が「命(ミコト)」つまり祭神である。時期は戊辰戦争以来の主に対外戦争の戦死者だ。すなわち大学受験必勝祈願に来る者は「戦いの神」として崇めるわけである。

受験の神といえば菅原道真が有名だ。彼を祀るのは全国の「天満宮」である。ただし天満宮本来の目的は天神と化した道真への魂鎮めである。だが彼への怨霊を恐れる習慣が次第になくなり「天満宮」は再定義を余儀なくされた。
道真が文章博士から右大臣に出世した、つまり学者から破格の政界進出・大臣就任を果たした点(平安の竹中平蔵である)や竹田出雲の「菅原伝授手習鑑」の影響から学問の神と変貌したのだ。
靖国もまた先の大戦から60年以上の年月が経ち再定義が民衆からなされるのは歴史の必然であろう。問題は天満宮が客を靖国に取られることである。・・・・・間違えた。問題は「戦いの神」として靖国の神は参拝者必然の要請である「勝利」へと導くにふさわしいかだ。

英霊が「戦いの神」である点は疑いない。問題は勝利の神であるかだ。確かに日清・日露あたりの英霊はバシッと来る。ただ勝ったために、すなわち戦死しなかったために東郷平八郎が祀られていないのは画竜点睛を欠くが。しかし先の大戦は結果としてボロ負けであった。英霊は確かに奮闘したが総合的な結果は負けであった。これは勝利を願う参拝者にとってマイナス材料ではないのか。
ある意味で「頑張り抜いたが負けた」というのは何もせず負けるよりつらい。英霊は絵馬に込められた思いをいかにしてかなえるのであろうか。そうした権能が神道の解釈にあり得ようか。寡聞にして私は知らない。
まあファイティングスピリッツは靖国で、勝利は天満宮でと分けてもいい。八百万の多神教のわが国だからできる離れ業だ。アングロサクソンにはまねができないともいえる。

しかしトリノ五輪は趣を一変させる。受験生の願いはしょせん個人の戦いにすぎないが「日本代表」の看板を背負うオリンピック代表は「代表団」が結成されてメダルを取れば日の丸が掲げられるくらいだから御国のために戦うのである。現に数千万円ともいわれる国費だって投入されている。五輪の競技には国別対抗戦もたくさんある。ならば皇軍を送り出すのと同じであろう。
ところが国家の威信をかけての戦争であるトリノ五輪勝利を願う絵馬が一枚もないのだ。これは以下のように解釈できよう。

まずは戦後60年で国のために戦うという意識、ないしは国のために戦う集団を応援するという銃後の気概がすっかり失せてしまったとの推察ができる。だから個人の勝利には靖国に参拝するが日本代表のためには参らない。堕落といえよう。
もう一つはまったく正反対の理由からの躊躇である。すなわち日本のために外国と戦う集団の勝利祈願というレベルでは靖国はふさわしくないとの判断だ。最大の理由はやはり前の大戦でのボロ負けを思い浮かべざるを得ない。国体の精華を十全に発揮して必勝を勝ち取るには靖国よりはヤッパ東郷神社か明治神宮かな・・・・みたいなのはないか。
この姿勢を英霊に対する冒涜と読むかどうかは難しい。前者ならば堕落ではあるが冒涜ではない。後者は冒涜のようにも感じる一方でボロ負け戦争でも命を張った先達への思いやりとも解釈可能だからだ。

スポーツに靖国は関係ないとは言わせない。1932年のロサンゼルス大会の馬術大障害で金メダルを獲得した「バロン(男爵)西」こと西竹一騎兵中尉(当時)も硫黄島の戦いで戦死したので英霊として靖国に堂々と祀られているからだ。

いずれにせよトリノ五輪必勝の絵馬が1億2千万人の人口を擁するわが国の誰もが奉納しなかったのは異常ではある。そして五輪の結果は惨敗であった。
さあこの因果関係をどう説明する。英霊が参拝ゼロにお怒りになって惨敗したのか。英霊のお考えに関係なく単に弱かっただけか。前の大戦での同盟国ドイツがメダル獲得数でトップであり、開催国が途中まで同盟国だったイタリアだったのに。日独伊三国同盟に対する裏切りである。1回ぐらい助けてくれよ。
バロン西命は力を貸してくれたのか。そういえばロス大会の金も仲間2人の失速を跳ね返して米国選手を破っての金だった。さては西命は自分と同じく仲間2人が苦戦していた荒川静香選手に宿って米国選手であるコーエンを妨げてくれたのか。でも、だったらなぜ西命は絵馬も奉納されていないのに荒川を応援したのか。応援する理由がないとすれば、あれはやはり荒川の実力か。
とにかく靖国に誰一人としてトリノでの勝利を願わなかったらしいのと、日本が惨敗したのは事実である。
と、ここまで付き合って下さった気高き読者の皆様に最後に2択クイズをプレゼント

1)上記文章は筆者衷心の本音の発露である
2)上記文章は頭から尻尾まで冗談である

(奥津裕美&編集長)

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2006年2月14日 (火)

「錬金術」で「勝ち組」が嗤える訳

驚いたことに「オレは勝ち組だ」「私も勝ち組に回った」と平然と言う人々っているんですねえ。今回はそうした人々を思いきり嗤ってやる。

「勝ち組」を私が初めて知ったのは小学高学年で見たテレビであった。ブラジルへ戦前に移民した日本人や日系人が先の大戦での日本敗北を認めずに「日本は勝った」と叫んで天皇陛下万歳をしていた。日本にいれば、または復員・引き揚げをしていればGHQ占領下の焼け野原にあって嫌でも日本の敗戦を実感せねばならなかったがブラジルなど主に南米への移民はそれがなかったから「日本は勝った」と盲信し続けた可能性が高い。
さらに勝ち組は集団を作って日本の敗北を認める日系移民と衝突するなどの事件も起き、「勝ち組」は一時期社会問題ともなった。
私はここで移民の「勝ち組」自体を揶揄する気はない。彼らのことはほんのちょっとしか調べたことはないが随分な辛酸をなめていたとの背景があるからだ。そこでここでの使用は彼らの背景を切り離して純粋に「勝ち組」の言葉の定義のみを扱う。以上をご了承いただいた上で攻撃開始。

要するに「勝ち組」とは本当は負けているのを勝ったと錯覚している人々である。負け組とは事実を認める聡明さを何らかの理由で持ち合わせていた者達だ。したがって現在「勝ち組」などとうそぶいている人や、回りにそう呼ばれていい気になっている人は要するに愚か者の意味合いが濃い言葉を自身に冠せられて悦に入っている馬鹿者ということになる。
私がテレビで最初に見た「勝ち組」は自分の年齢から計算すると1970年代前半である。つまり敗戦後四半世紀も経ち、少なくとも経済的には戦前を大きく凌駕するまで成長していたのに、なお25年以上前の事実を事実と受け止められなかった人となる。どえらい勘違いをものすごく長期間抱いていた集団ともいえよう。それが「勝ち組」だ。
今とは用法が違うとの反論もあろう。だが「勝ち組」という言葉は同じである。古今異義語に収録するほど遠く隔たってもいない。少なくとも自らを勝ち組と誇っている人は本来の意味での勝ち組の意味を知らないという一点で愚かである。知っていたら恥ずかしくて「勘弁してよ」となるのがまともな素養の持ち主である。もし知っていてなお喜んでいるならば本気モードの大馬鹿といえよう。

「錬金術」も似たような言葉である。さすがに「私は錬金術の使い手だ」と自称する者は少なかろうが「ビジネスモデル」だの「スキーム」だのといった言葉に錬金術の意味合いを込める人は結構いる。そして誇りたる者も、だ。これまた大笑いの対象といえる。
錬金術の元来のいわれはGOLDの金を他の材料で作り出そうとする術にある。そしてそのことごとくは失敗した。つまり錬金術は「必ず失敗する行為」を指すのである。確かに歴史上錬金術の試みが化学を生み出したとの功績はあるが、それはあくまでも結果論に過ぎず、言葉の意味は「必ず失敗する行為」で変わらない。
カネがカネを生み出す仕組みで大もうけしているつもりのあなた。これこそ錬金術とほくそ笑むあなた。その時点であなたの失敗は約束されている。本当におめでとう。

日本は言霊の国である。その言葉に宿った霊は、それを名乗ったり意識した者に憑くであろう。その点で現在「錬金術」で「勝ち組」になったなどとされたり自認している者は悪霊に取り込まれたようなものだ。
誰が思いついて現代の現象にこの言葉を名付けたかわからぬが、まさに絶妙のネーミングである。あるいは言霊自身が自らにふさわしい人物を選択したのかも知れない。悪霊に取りつかれた方々よ。重ねて申し上げるが本当におめでとう。

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2006年2月 8日 (水)

堀江貴文と水野忠邦

堀江は叩くに(たかふみ)
もってこいの木魚だ
さあぶっ叩け、ぶっ叩け

この戯れ歌には本歌がある

水野は叩くに(ただくに)
もってこいの木魚だ
さあぶっ叩け、ぶっ叩け

1841年から43年までのいわゆる「天保改革」を主導した老中首座の水野忠邦が改革に失敗し、幕閣を追われた際に庶民から「ざまあみろ」との意を込めて歌われた。この忠邦と堀江貴文容疑者を似ていないかとの少々ムチャな推論。ご興味があらばしばしご笑覧。

10代将軍徳川家治の治世で権勢をほしいままにした老中田沼意次の失脚は史上最悪の凶作とされた「天明の飢饉」が最終的に引き起こした。全国統計はないが一部で人口が3分の1にまで減少する悪夢であった。「米がすべて」経済の江戸幕府は壊滅状態に陥ったといっていい。家治の死とほぼ同時に田沼も退場する。この辺をまず1945年の敗戦と一致するとしてみよう。

1786年に11代将軍に就いた徳川家斉の治世の冒頭は、この敗戦処理にあった。中心人物は松平忠信。世にいう寛政改革である。1787年から93年まで6年だから戦後に当てはめれば1951年までのGHQによる戦後改革の時期とほぼ一致する。彼の退場後は家斉の親政へとつながっている。
家斉の治世は1837年まで実に51年。将軍職を12代家慶に譲った後も死去した41年まで前将軍(大御所)として実権を握ってきた。合わせて55年。敗戦から21世紀までのすべての年月に相当する期間を治めてきた化け物である。
家慶はこの化け物のような父親を背後霊のようにして育った。将軍になった時点で44歳。父が死んだのがようやく48歳の時である。長い雌伏を味わった彼は父がこの世からいなくなってやっと自分の親裁を勝ち取る。そして改革を始めた。それが天保の改革だ。

雌伏が長かったことや家斉時代が太平と腐敗と大衆文化の花盛りだったこと、その結果として寛政改革の貯金をすっかり失って深刻な財政危機にあったこと、権力を握って急進改革を目指した点などで家慶は小泉首相とそっくりだ。先程来試みている戦後の時間尺とも一致する。
そして家斉時代の後半から野心むき出しで出世街道を強引にばく進したのが水野忠邦だ。唐津藩主の子ではあったが庶子であり、にも関わらず藩主の座を射止め、出世コースである浜松藩へムリヤリ転封する。転封は社名をライブドアに換えた堀江容疑者と似ていなくもない。
家斉の治世では水野忠成という田中角栄から橋本龍太郎までの旧田中派の頭目を全部合わせたような巨大利権政治家がいたが、忠邦は彼に取り入った。
ライブドアの躍進は橋本政権頃に進められた制度改革に追うところが大きい。そこにも類似点がある。

さて家慶と忠邦の構造改革は激越であった。忠邦のそれは株仲間の解散に象徴される。既存の段階的かつ封建的な商取引を解体してエンドユーザーを直接支配しようとしたのだ。日本史には欧州にみられる絶対主義体制がみられないが忠邦のしようとしたのはそれに似る。上知令は土地を封じられ安堵されるのを基盤とする封建体制への挑戦であった。
まさに既得権益に対する挑戦であり「すべてがインターネットになる」との堀江語録は株仲間の解散の目的に近い。それを47歳で忠邦は将軍の保護下で直進した。

その結果どうなったか。破壊はいたずらな市場の混乱を招き、忠邦の専横をあしざまにいう者が多発し、結局は家慶にも見放されて彼の栄華は3年で終わる。最後は石もて追われるように幕閣から追放されただけではなく減封されるは辺地への転封を食らうはの処罰を受けた。冒頭の戯れ歌はその頃の流行だ。小泉政権に持ち上げられ、世相がアンチに回るや見捨てられたホリエモンとどこか似ている。

忠邦の失敗はしょせんは既存の価値観で築かれた舞台で既存の価値観を覆そうとした矛盾にあると指摘されている。ライブドアの躍進も前述のように橋本政権以後の戦後営々と続いた保守の価値観で許された範囲内の自由で築かれてきたはずなのに、いつの間にかその範囲を超えそうだと少なくとも保守の価値観ではみなされた。一方の堀江容疑者の挑戦も先進的なようにみえて現代のアンシャンレジームの代表格とさえいえる民放地上波やプロ野球球団という方向に興味が傾いていった。

ちなみに家斉治世下の大衆文化における忌避される美意識に「野暮」があり水野忠邦はその代表格だった。今となっては「女はお金についてくる」といった堀江語録も野暮に聞こえる。だが一時期まで明らかに彼は正反対の好もしい美意識である「粋」として扱われていた。真心だ愛情だが野暮で「女はお金についてくる」は粋とね。それはいつの間にか「粋がっている」とにらまれ、最後は野暮に転落する。山東京伝ならばどう書くのかな  

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2006年1月21日 (土)

「九段の母」が見つからない

以前に述べたことだが小誌は「九段の母」を探している。といっても歌の通りのシチュエーションを求めているわけではない。

英霊の母親で靖国神社に参拝しているか参拝する意思はある人

であればインタビューをぜひしてみたいのだ。

思いつきは昨年8月15日、1963年から日本武道館で行われている「全国戦没者追悼式」で初めて戦没者の親の参列がゼロとなったとのニュースに接したからだ。
靖国の英霊は戦没者の一部分を占める。戦没者の範囲まで広げてもゼロということは「九段の母」はもっと少ないはずだ。
そして考えてみた。最も若い「九段の母」は何歳かと。1945年で20歳で生んだ子を20歳で失ったとして敗戦段階で40歳。それから60年以上経つから何と100歳以上が対象となる。

私は過去に息子が戦死した母親の取材はしたことがある。しかし「九段の母」の切り口、つまり靖国神社との関わりで聞いたことはなかった。だから「追悼式で親の参列ゼロ」の報を聞き「しまった!」と思って捜索を開始したのである。

まずは日本遺族会に聞くが担当者が「相当なお年ですよね?」と小誌の意図に驚かれた。すいません。そうなんです。そこで各都道府県の遺族会が名簿を管理していると知って東京都遺族連合会に当たると同連合会主催の拝礼式でさえ戦没者の親は姿を見せないという。
靖国神社境内にある献木に事務局連絡先が書かれていた某旧大隊に電話をすると戦友でさえここ数年で連絡をとれなくなった者が急増という状態とのこと。

仕方がないからいつもの手で開門から閉門まで居続けて片端から聞きまくる。だが「九段の子」はいても母はいない。「これは!」という出で立ちのお婆さまも聞いてみると祀られているのは夫の弟。
もう1人いたが英霊は兄で現在85歳。「九段の母」を歌って踊っていたという驚きの事実こそわかったが、やんぬるかな「九段の母」自身ではない
2人とも要するに九段世代だ。それでも十分に高齢者である。
神社の境内で営業をしている店員によると、一昨年までそれらしき人はいたというが昨年は見掛けなかった。連絡先もわからないという。

高齢者の施設などを訪ねればいいだろうと思われるかもしれないが、実は以前に取材をした際に戦死した息子のことは思い出すだけでつらいと多くに泣かれた経験があったので止めた。
思い出すだけでつらいということは靖国に来るのはもっとつらかろう。靖国を思い起こすのも苦しいに違いない。
「『誉れの家』なんて言われても内心はちっともうれしくなかった」と異口同音に話された。そうであろう。どう装うかとの身すぎ世すぎは全然別にしたとしても、人の真情というのは世代や時代が違ったからといってそうそう正反対になることはない。
したがって高齢者の施設で100歳以上の女性を教えてもらって「九段の母」であるかどうか聞くのは難しくはないが、以上のような理由で残酷な行為と採らなかった。

言い換えると、だから「九段の母」の声を今、聞いてみたいのだ。俗説ではあるが死地に赴いた兵士の最期の叫びは天皇陛下万歳ではなく「母ちゃん」だったという。英霊の悲しみを心情として最も忖度しうるは、したがって英霊の母ではなかろうか。
確かに戦友というのもあろう。だが戦後に生き残った者の多くは戦死した友に対して一種の引け目に似た感情を有する場合が多い。兄弟姉妹は母子ほどではない。
未亡人や遺児は口には出さぬが夫ないしは父の死で戦後の辛酸をなめた経験から怨みにさえ類する想いを抱くケースもある。むろん筋違いと本人は十分に知っていてなお、である。

そうなのだ。それが戦争なのだ。誰も幸福にしはしない。そして最も深い悲しみを抱えているであろう「九段の母」の世代は気づかぬうちにヒッソリとこの世から退場しつつある。

こうした悲しく、か細く、表には出さない、それでも厳然と存在した人の心を首相の靖国神社参拝に賛成している人も反対している人も汲んで発言しているのだろうか。ワッショイワッショイと軽い言葉で英霊をもてあそぶのはよすがいい。
その魂の叫びをほんの一滴もらしてもらいたいがために小誌は「九段の母」を探す。気高き読者の皆様。どうか心当たりがあったら私ないしは小社までご一報下さい。

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2006年1月14日 (土)

ニコンのフィルムカメラからの撤退

報道によるとニコンが一眼レフのフィルムカメラをやめるという。全8機種のうち6機種から撤退し、残りの2機種も新規の開発はしないという。時の流れとはいえ淋しさを禁じ得ない。
かつてニコンの一眼レフはキヤノンのそれと双璧であった。私より前の世代はペンタックスが加わるようだが。
毎日新聞に入社した際には会社の勧めるままF301を買った。まだオートフォーカスではなかったからマニュアルの操作を身に付けるのにずいぶんと苦労をしたが、それでも前世代の機械式よりはハイテクであった。

野球の取材をする時はボールがバットに当たる瞬間を狙ったつもりが現像してみるといつも振り切った後の選手の背番号が真ん真ん中に来る始末。接写リングをつけて被害者の顔写真を懸命に写したことなども思い出される。
フィルム代はさすがに会社支給だったが毎日は貧乏だから長巻きフィルムを買ってきてパトローネに巻き付けて使用していた。現像の際にも全部ではなく写した分だけを切り取って残りの先端をベロにして再利用していた。

決定的瞬間を押さえたと意気揚々と会社に引き上げて暗室に飛び込み、現像液に浸してみたら何とほとんど写っていない!ムダな努力と知りながら現像液に延々とつけて何か浮かび上がってこないかと四苦八苦し、定着させた後も印画紙に焼き付ける際に強く強く現れるようにした。
それでも見えてくるのは言うまでもなく特ダネとはほど遠い輪郭めいた模様ばかり。デスクだ三席だが暗室の外から「まだか」と怒鳴る。最後はノックをしてくる。当方は脂汗しきりである。
快適にシャッターを切っていた。正確には妙に快適だと不審がりつつ喜んでいて暗室で開けてみると恐ろしいことにフィルムを入れ忘れていたこともあったな。あの時も青かった。
まだ新聞の写真が白黒であった頃であるから自分で焼き付けまでするのが当たり前であった。技量もプロにはほど遠かったが、それを補ってくれたのがニコンの能力。もっともフィルム入れ忘れでは補いようもなかったのであるが。
そんなこんなの銀塩の記憶も社内で暗室を持つより外に出した方が安上がりになる時代となって徐々に薄れていった。実際問題として小社を興した頃に暗室を設けようとは思わなかった。現像-焼き付けの値段が劇的に下がったからである。

デジタルカメラが普及してもしばらくは一眼レフと併用していた。100万とか200万の画素数ではまだまだ銀塩にも利があったからである。ただしどのように写っているか、そもそも写っているかどうかを確認できるデジカメの利便さへ次第に引き寄せられたのは事実である。
最初にポラロイドを使ってシャカッと引き抜いていたフリーのカメラマンがデジカメに持ち替えたのもこの頃だ。画素数が300万を超えた時点でプロの世界でも劇的に広まったような覚えがある。自前のスタジオを持つプロの部屋の一角から暗室が次々に消えていった。現像終了後のフィルムを天井からぶら下げておく光景も次第に見かけなくなった。
出版に関していえばデジカメの優位性はもはや揺るがしようがない。DTPでは直接取り込めてしまうからである。いかに銀塩の方が写りがよくてもスキャンして読み込んでいては優位性が保持できない。
デジカメの能力はさらに驚異的に向上し遂にはデジタル一眼レフの登場をみた。価格も性能に反比例して信じられない勢いで下がっていく。もはやフィルムの一眼レフを使う理由はなくなりつつある。
あるとすれば愛着のみであろう。私もデジタル一眼を買おう買おうと思いつつ、まだきちんと動くF301に遠慮して購入せずにきた。しかしもはや限界である。

残念ながらフィルムの一眼レフを使い続ける理由はなくなったのだ。あらゆる意味でデジタルの方が上回る時代になってしまった。先に「まだきちんと動くF301」と書いたが、ではメーンで使っているかというと違う。このニュースを期に私もデジタル一眼に乗り換えるであろう。
不思議なものである。私は前述の通りフィルムカメラには泣かされた思い出ばかり。一方でデジタルで嫌な経験をしたことはない。なのにニコンが一眼レフのフィルムカメラを止めると聞いて感じる空しさは何であろうか。銀塩に込めた無数のカメラマンの想いを、かすかながらでも感じているからだろうか。

「カメラのドイ」という会社があった。03年に倒産したのだが、同社は「カメラ」を名乗る同業他社が家電量販店として生き残りを策するなかでフイルムカメラの販売に特化しようとした。そこにデジカメブームが風雲のように巻き起こり手を尽くす暇なく社業が傾いたという。
時代の移り変わりの激しさに改めて驚く。出版界からは以前に書いたように写研の書体が消えて久しい。写研書体とフィルムがなくても本が作れる・・・・とタイムマシンに乗って90年代前半の同業者に告げたらきっと大笑いするだろうな。

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2006年1月10日 (火)

まだやっている「成人式」

「成人式で暴れる」事件はもはや事件ではない。定番と化した年中行事である。今日(9日)も沖縄で逮捕者が出ただのグレートサスケがどうしただの・・・・・。

くだらない。幾重にもくだらない。沙汰の限り。だから止めてしまえという単純な論理的帰結に至らないのは不可解である。世にある不可解はすべてメシの種である。まずはルーツを分析することから始めてみた。

成人式が行われる「成人の日」とは「国民の祝日に関する法律」によると「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことが目的で1月第2月曜日を祝日とする。
このことは私も知っていたが、何で「成人の日」だけ成人式をやるのかが不思議でもあった。勤労感謝の日に全労働者を集める式典を自治体がやったりはしないから。

ところが歴史を調べてみるとこの疑問は因果関係が逆であることがわかる。現在の成人式のルーツは、埼玉県蕨市が敗戦の昭和20(1945)年の直後に行ったあるイベントにあった。
同市のホームページによると

「蕨市は成人式の発祥地です。終戦直後の混乱と虚脱感が大きかった昭和21年11月22日、当時の蕨町青年団が、20歳を迎えた成人者を招いて、今こそ、青年が英知と力を結集し、祖国再建の先駆者として自覚をもって行動すべき時と激励し、前途を祝しました。その趣旨と意義が高く評価され、昭和23年7月、国民の祝日として成人の日が制定されました」とある。

要するにまず成人式があって、その意図をくんで祝日が生まれたという順なのだ。

まず成人式は敗戦からの「再建の先駆者として」若者が「自覚」し「英知と力を結集」すべきであるとの客観的背景があったという点を考える。今の日本を経済成長が挫折した、ある種の敗北状態であるとすれば、若者の「英知と力」は敗戦時と同じように必要とされていると判断できなくもない。そう考えれば、成人式は意味を持つはずである。
ただ敗戦時は若者と対置される大人、とくに実力者の大失敗という状況が焼け野原、連合国軍による占領、戦争犯罪人の逮捕や公職追放などという目に見える形で存在し、否応なく若者は「再建の先駆者として自覚をもって行動す」るしかなかったのに比べて、今日はどうか。
少なくとも若者に将来の日本を委ねようという気持ちが大人の側にあるとはいえまい。そういう構想を明確に掲げた政治が行われているとも思えない。むしろ威張りくさっている。
敗戦時の若者が幸福であったとは客観的にはいえまい。少年犯罪も非常に多かった時期でもある。ただそんな時に、「バカをやっている場合か。こっちに力を貸せ」という構想だけはあったわけだ。この点は非常に重要で、「成人式でバカをやる」という心理とは正反対といえよう。

成人式が誰のために、何の目的で開かれるのかがもはや明確でないのが根源ではないか。例えば私は1982年に成人したが、成人式には行かなかった。先ほどの「誰のために、何の目的で開かれるのか」がわからなかったから。もう20年以上前からわからなかったのだ。少なくとも私には。
式典には今と変わらず自治体の首長などの演説があったが、小役人とB級タレントの説教を聞かせられるなどゴメンであった。かといって遊びのイベントを小役人に用意してほしいと望みもしなかった。「成人」といっても、成人の日は誕生日ではない。20歳は個々の誕生日に達成されるわけだから、日を決めて一斉に何ごとかを祝ってもらう必然性に至っては全く理解できなかった。

その意味で私は暴れる新成人と近いメンタリティーを有していた気がする。違うのは私がアホらしくて行かなかったのに対して、暴れる新成人は暴れに行くとはいえ、行くには行くという点であろう。行くということは何かを期待しているからだ。
それは案外、「私の存在意義を認めてほしい」ということではないか。ただ今の成人式がそれを満たしているかというと疑問である。

もちろん式典の内外で犯罪的な行為を犯すなどは愚の骨頂だし、素直に喜んでいる大半の新成人に嫌な思いを与えることは批判されねばならない。ただ、何を求めて出かけていくのかはぜひ知りたい。私には、わざと出かけて暴れる新成人も驚きだが、素直に喜んでいる新成人の方が圧倒的に多いという事実の方が、個人的にはより不可解でもあるからだ。

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2005年10月 7日 (金)

国旗・国歌論争最終解決案

国旗「日の丸」掲揚と国歌「君が代」斉唱を拒否した教職員が罰せられるとか「不当だ」と反論するとか児童・生徒にも強要するのはおかしいとか当然とか・・・・。もうそんな話は止めようよ。当の児童・生徒の教育や情操には何の役にも立たないんだから。
まず国旗・国家法が成立した以上は「日の丸」「君が代」がそうであるという点を争う余地は消えた。強要しないとの付帯決議など屁のようなものだ。条文に入れられなかった時点で敗北である。

私の考えは国旗掲揚と国歌斉唱は学校行事などにあってもいいが拒否する権利も認めるべきという朝日新聞あたりの意見と基本的には同じである。だが朝日と一緒というのは癪なので強引に別の独自の、多分いつものように誰も賛同者がいない持論を構築する。

日の丸はデザインが美しいので認めるが君が代はダサいので取り替える

どうだこれで。

日の丸がデザインとして優れているのは論争の余地さえあるまい。他の国のどれと比べてもひときわ目立つ。4色オフセットの世界で最も目立つ色は金だが次はキンアカである。Y100M100という指定になるが日の丸の赤はそれに近い。
地は金かキンアカを採らなければ墨(BK100)か紙の地色すなわち白が最も強い。キンアカでマルをデザインした時の地色にBK100を用いるのはナンセンスだから白がベストの組み合わせだ。最高のデザインである。どこの国かわからない三色旗か(私は創価学会の三色旗との区別さえできない)地域の旗をごちゃ混ぜにしたユニオンジャックよりずっといい。インパクトの強さで拮抗するのはリビアの国旗ぐらいであろう。

だから日の丸は国旗でいい。絵画やデザイン、アニメなどの分野で突出したセンスを持つ日本国民の精華である。日の丸に侵略に対する血塗られたイメージがあるだの、だったらユニオンジャックや星条旗はどうよなどといった属性の論議はどうでもよろしい。侵略の歴史も背負い込んだ上で美しいデザインを掲げるのだ。これもまた過去に対する責任の取り方であろう。

一方の国歌。こりゃダサいな。日本のデザイナーやアニメが世界に通じているのに対してポップスはまったく足下にも及ばない。あるロックギタリストを取材した時に「日本人はどうして開演から総立ちするのか。それも不思議だがもっと不気味なのは観客が一定の間隔でする手拍子である。あの音感は何か」と聞かれて実際に真似をされた。私はとっさに「それは南無阿弥陀仏でしょう」と答えた。音楽は日本人の苦手とする分野なのだ。

それでも君が代の曲の方はまあ許せる。間は抜けているがスポーツの国際試合の直前にあの曲を相手選手に聞かせれば相当のダメージ(ダウナーにする)を与えられよう。ただ歌詞は我慢がならない。言っておくが「君が代」の「君」が天皇制を意味するかどうかなどという高尚なことを指してはいない。歌詞全体の非科学性である。
いったいに日本は科学技術立国である。その国が砂がだんだん岩になるなどという歌詞を「苔のむすまで」などと歌い上げるは恥とは思わんか。右翼よ。この歌詞では天皇制は非科学の極致だという証明になるのだが、それでいいのか。

歌詞の問題は日本に限らずあるようだ。例えばドイツ国歌は以下のようである。

【1番】
ドイツ、ドイツ、すべてを超えたドイツ、
世界のすべてを超えたドイツ、
マース川からメーメル川まで
エッチ川からベルト海峡まで、
守りを固めて、つねに兄弟のようにひとつになれば――
ドイツ、ドイツ、すべてを超えたドイツ、
世界のすべてを超えたドイツ!

おいおいまずいぜ。何といっても今の版図と違っている

【2番】
ドイツの女、ドイツの誠、ドイツのワイン、ドイツの歌は、
昔のままの美しい響きを世界に伝え、
われら、生きるかぎり、
われらを気高い行為へと励ますだろう――
ドイツの女、ドイツの誠、ドイツのワイン、ドイツの歌!

意味不明の上にナンセンスである

【3番】
祖国ドイツのための
統一と権利と自由!
われらみな、それを求めて励もう、
兄弟のように、身も心もささげて!
統一と権利と自由は
幸せのいしずえ――
花ひらけ、この幸せの輝くなかで、
花ひらけ、祖国ドイツ

まあこれはいいでしょうね。

フランスのラ・マルセイエーズは広く知られているように革命歌である故の過激性が当のフランスで問題となっている

立て祖国の子らよ栄えある日は今来た
我らに向かって圧政の血なまぐさい旗が掲げられる
聞こえるだろう野に山に
敵兵どもの吠えわめく声が
彼らはすでに
我らの身に迫り我れと我が家族を狙っている
武器を取れ市民達よ
隊伍を組め
進め進め
汚れた血で
我らの田畑を潤せ

フランス語がわからなければ何を言っているかわからないからいいがフランス人は母国語だから痛いほどわかる(当たり前だが)。いくら革命歌とわかっていても子どもに教えるのは躊躇があって当然だ。

そこで結論である。

国旗「日の丸」はデザインが美しいから尊重する。掲揚もじっと見守る。侵略の歴史があったにせよ、それをも背負う。国歌「君が代」は歌詞がバカげているので曲は聞くが歌うのは止める。同様の問題はドイツやフランスも抱えているので問題はない。

ところで本心は国旗掲揚と国歌斉唱には反対の朝日人よ。お宅の社旗はいいのかね。

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2005年10月 3日 (月)

プライバシー保護の風潮を罵る

この際、世の流れに棹さして非難囂々の物言いをしよう。「あなたのプライバシーなど保護するには当たらない」だ。「あなた」には無論私自身も入る。私も含めて民草のプライバシーなど何ほどのものかといいたいのである。

ピンク映画館や風俗店で失火があったとする。その様子を写真なりビデオで収めたとしよう。失火の程度や原因によっては重要なニュースである。そこに映り込んでいた客の顔はプライバシーなのか。
最近ではサッカー場や野球場の観客席の様子をくっきりと見せることさえプライバシーの侵害に当たるという主張がある。サッカーや野球を観ていることが恥じ入るべき暴かれてはならぬプライバシーなのか。
街をどんな格好で歩こうが自由である。甚だしきは刑法に触れるがそれ以外は勝手である。それを写真やビデオで撮られたとしても、その出で立ちと場所を選んだのは当の本人なのだから「いるべき人がいるべき場所であるべき姿で存在した」という以外の何ものでもあるまい。だが今ではそれでもプライバシーを侵すことになりかねないのだ。

差別やわいせつにつながるプライバシーの暴露はいけないとしても、ここまでやるのは行き過ぎである。そもそも私を含めた民草に大層な個人情報などありはしない。風俗店の客だったと知れるのは確かにまずかろうが自分が選んだ行為である。それで仕事なり付き合いなりで不利益を蒙ったとしてもやむを得まい。
本来の自由な社会は自分の名前ぐらいは堂々と名乗ってでないと自由な発言をする資格はない。ファッションも同様でその格好をしていると知れて困るならば止めるがいい。もちろん内部告発など名乗れぬ理由が明らかにある場合は例外だ。そんなことは赤子でもわかる論理であろう。

個人情報保護法に引き続いて人権擁護法案が用意されている。同法案は自民党の中から「表現の自由」とは無縁の思わぬ方向で反対が巻き起こって先の国会ではお釈迦になったが、いつ復活するかもわからない。

民草ふぜいが有名人気取りに「それは個人情報だ」などというようになったのはいつからだろうか。一部では同窓会などの会員名簿も作れなくなった。住民基本台帳の閲覧が禁止になればダイレクトメールを打ってのセールスプロモーションも大いに制約されよう。そうなれば確かに不気味なDMや電話セールスからまぬがれることはできる。正直いって私自身もまたこうしたセールスには迷惑している。いったいどこから調べたのか不審でもある。でもそんなこんなも含めて「自由」なのではないか。自由とは本来、混沌として猥雑である。ウッとくる臭いがあって濃密である。
個人が「個人情報」なる武器を手に自分の回りに高い高い壁を作る。それで何を守れるのかが知りたい。夫婦や親子の間でさえ最近ではプライバシーの侵害が問題視される。こうなると人間関係を断ち切る道具にさえなりかねない。
民草ふぜいのプライバシー保護の訴えは自己愛と被害妄想と、それの裏返しにある誇大妄想が引き起こしているとにらんでいる。「あんたのことなんて誰も興味はないんだよ」と言ってやりたい。何度も繰り返すが「あんた」の中には私自身も含まれる。

我慢がならないのはこうした民草の愚かな自己愛から発した「空気」を政治家などの公人が利用して身を隠す手段にしようとしている策動だ。個人情報保護法や人権擁護法案などは典型である。民草でさえ保護されるプライバシーならば我々もと悪乗りする。それをプライバシー保護という甘いキャンデーにして示すと自己愛満タンの民草ももろ手を挙げて賛同するという仕組みだ。それに反対するものはすべて「人権意識が足りない」となる。待て待て。「表現の自由」を大いに侵してまでして存在する基本的人権とは何だ。それは家畜の権利と同様ではないのか。

かつて警察発表が「プライバシーに配慮して」匿名になっていたりすると記者クラブ側は「すべてを示せ。プライバシーを配慮するのは我々であって警察ではない」と迫った。少なくとも私はそう教えられた。メディアのあり方すべてを肯定する気はないが、この姿勢に限っては正しかったと信じる。プライバシー保護とやらが行き過ぎると市場も言論も萎縮してしまう。

最も怖ろしいのは、その結果としてプライバシーを一手に握るのは公権力だけとなる点だ。端的にいってプライバシー保護の美名のもとで個人情報のすべてを公権力のみが把握して漏れなくなるのが怖いのだ。誤解を恐れずにいえば(すでに十分恐れていないが)個人情報が企業なり役所なりから漏れる不祥事が起こっている限りはまだ安心である。完璧なブロックが出来上がったらお仕舞いである。それを閲覧できる者は間違いなく恣意的に利用する。閲覧できない者は、その結果として表れるあらゆる事態を仕方がないと受けとめるしかなくなる。刃向かったらお縄である。かくしてプライバシーを守るつもりがプライバシーの消滅という結論を招こう。民草の自己愛は馬鹿と同義で犯罪に近い。乞う反論。

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2005年10月 1日 (土)

表現の自由を脅かす司法と郵政民営化

「表現の自由」がいかに大切か。日々の騒動に隠れて声高には叫ばれないものの私はこの権利以上に重要なものはないとさえ思っている。

私は『週刊文春』と『週刊新潮』の愛読者だ。株式会社文藝春秋は最後まで、というより今でも個人情報保護法に反対している。この姿勢を強く支持する。『週刊新潮』は文章表現のお手本だった。「何という脳細胞の並び方だ」なんて表記でうなれるのはこの雑誌しかない。両誌とも小泉政権には批判的である。比較的まともな保守系雑誌と私個人は感じている。
もっとも編集者という立場は基本的には思想に関わらずに広く渉猟すべきであるから特に保守系だから愛読しているわけではないが。

個人情報保護法の反対運動を国民はどう感じていたか。最初に適用除外になっていたので大新聞や放送局はヤレヤレという消極的な姿勢に終始した。彼らは「表現の自由」が文字通りの自由権であって法によって適用除外になればいいという姿勢が根本的に間違っているということさえ忘れ去っているようである。

なぜ「表現の自由」が大切か。それはこの自由を規制したり禁止してきた特権勢力による支配からの脱却過程において最大の威力を発揮した国民主権の原点だからだ。言いたいことを言いたい放題に言える自由は当然のこととして反論をも容赦なく受ける権利も保障するしかなくなる。すると言論の戦いはより正当とみなされる方向に収斂するはずである。そうならなかったとしたら「表現の自由」に何らかのバイアスがかけられた場合である。だから絶対に許してはならない。

個人情報保護法以外でも最近「言論弾圧」としか思えないさまざまな傾向がみてとれる。まず民事の名誉既存裁判における損害賠償金額の高騰だ。
民事で名誉毀損とみなされるのは「公益」に反しているか「真実または真実と信じるに足る相当な証拠」なない場合だ。「公益」に反した「私怨」などで表現するのは論外としても「真実または真実と信じるに足る相当な証拠」の方は難しい。それを法廷で立証するには情報源を明かさなければならないことがしばしばあるからだ。
情報源自身が出てもいいという場合を除いてジャーナリズムはそれを秘匿するのが最高にして最低の倫理である。すると立証できなくなって結局は敗訴する。その金額がつい最近まで何十万円の安いところで済んでいたのに最近では何百万円から千万単位の判決が出るようになった。

この傾向に関しては最も批判的な論陣を張っている『週刊新潮』にも文句をいいたい。新潮社の記事で高額の損害賠償をともなう判決が出たものの中には明らかに情報源がわからなくてもわかっても怪しい内容がある。あなた方は大版元なので何とかなるかもしれないが、こうした傾向を作られたら中小版元は大変迷惑である。情報源の秘匿という倫理を守れば会社がつぶれるような高額請求が来る。かといって倫理を破れば誰も信用してくれなくなる。これを「表現の自由」への挑戦と言わずして何と言おうか。

話題の郵政民営化にも「表現の自由」とくに小誌のようなミニコミの死命を制しかねない内容が含まれているのでこの際ぜひ訴えておきたい

郵便は実は4種類ある。1種が手紙、2種がはがき。ここまでは誰でも知ってるが3種はどうか?「第三種郵便」は新聞・雑誌などの定期刊行物でいくつかの条件をクリアすれば認可される。「第四種郵便」は通信教育・点字郵便物・学術刊行物など。3種を認可されると2種よりも手間をかける分だけ安く届けることができるために500部以上のミニコミなど小規模な雑誌や新聞が利用している。ちなみに4種は通信教育や点字や録音物を必要とする障害者、学術刊行物は性質上小規模であり、やはり料金的に優遇されている。3種は「知る権利」を4種は弱い立場の人や向学心のある人のためにあるといえよう。
民営化されればこの3・4種は間違いなくなくなる。なぜならば現在でも赤字だからだ。4種の消滅は明らかな弱い者イジメであるが3種は言論弾圧だ。すでに02年4月の段階で総務省が廃止の方針を一時は打ち出している。
そうでなくてもミニコミ誌紙はどこも風前の灯火である。ネットがあると言う人もいようが閲覧できない人や使えない人も多数いる。たとえ私のごとく編集者が未熟であったとしても一冊の雑誌として掲載されて対価を得るルポライターやジャーナリストの活動の場をさらに縮めることにもなる。そうでなくてもフリーランスで食べていける人がどんどん減っているのだ。

ミニコミが多く使っている郵便振替もピンチになる。民間金融機関の手数料はATM(現金自動預け払い機)を使っても210円から420円といった金額を払わなければならない。一冊何十円から何百円の安い方でだいたい販売しているミニコミにとってはバカ高い金額だ。その点郵便局の郵便振替は安価に集金できる。一般振替口座を作って、そこに振り込んでもらうと1万円以下ならば窓口処理で70円、機械ならば60円の手数料ですむのだ。ミニコミばかりでなくNPO活動や小さな会社の決済、学生の打ち上げパーティや同窓会費など少額の振り込みを集めるには大変便利で弱者の味方だ。これらを一掃しようという動きは何としても阻止あるのみだ。そこさえ合意できれば私は右でも左でもイエローでもエロでも、ブラック以外のすべてと連携する

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2005年8月30日 (火)

DTPと写研の関係

写研の書体を使うことは扱っている写植屋さんに頼めばいいから可能である。ただし現実には難しい。

単行本の場合はカバーならばふんだんに使ってもさほどカネはかからない。しかしそれはすべてが編集部ペースで進むと仮定しての話である。偉いデザイナーさんを拝み倒して依頼すれば何種類かをサンプルとして打ってきてしまう。偉い先生に著作を頼んだ場合は「編集権は編集部に」云々のうんちくが通用しない時もある。「このデザインは気に入らない」といわれたら最後である。

本文に至ってはコストの点で比較にならないほどDTPが優位になる。まず初稿・再校といった過程やプロ校正の朱入れ、著者校正のたびごとに写植の打ち換えをしなければならない。一文字いくらで取られたら大変だ。しかしDTPならば画面上で下手をすれば編集者自身が直してしまえる。こうしたいわば内製化ともいうべき変化は中小や我々零細に止まらず大手にまで広がっている。

そして本文書体に使えるものは現状ではほぼモリサワのみといった惨状である。他の書体にもいいものはある。ヒラギノやモトヤも悪くはない。だが書店に行って他の版元の本を開くとDTPで作ったとみられるものの大半がモリサワである。

ただ単に好みの問題ではなくデータ入稿をした先の印刷屋さんが対応しているかどうかという問題も大きい。最近はお付き合いをしていないのでくわしくないが大日本印刷や凸版印刷のような超大手ならば大丈夫なのであろう。ただ超大手は豪華ホテルのようなものでサービスも精度も抜群だが値段が高い。出張校正室もあれば弁当も出る(まずいという記憶しかないが)。バイク便も出し放題である。だが高い。そこで零細版元は己に合った値段でやってくれる印刷屋さんを探す。その大半が「Macのデータ入稿でモリサワはOK」なのだ。

私はつくづく出版界にいる不運を嘆く。MacintoshのPCがWindows対応機種よりも競争力を持つ業界って出版以外どこにあろうか。医療分野ぐらいしか思いつかない。何でもガリガリ攻めてくるゲイツも来ない。お陰で割高なMacでレイアウトする羽目になる。
それを見越した設備投資をしてきた大手でない印刷屋さんは容易にMacから離れられない。しかもOSのヴァージョンアップにも即応できない。現在のMacOSは10であるが「9以下でないと保証できない」とよく言われる。
DTPのデータ入力は出す側(版元)にミスがなければデータ通りに反映させる義務が印刷会社に生じる。したがって未知の危険がある新OSで容易にOKとはいえないのである。

広告のSP(セールス・プロモーション)になるともっと深刻である。仮に32ページオールカラーのパンフレット争奪戦に参加したとしよう。

まずプレゼンでDTPに勝てない。「写研で打ちます」といった上で文字部分を記号で指定したレイアウト用紙を持っていっても素人さんの広告主には本文部分のZ型が目にとまる程度である。それよりも色つき文字見本付きのMacの32ページ全レイアウトの方が圧倒的に説得力があるのである。プレゼンは全か無かの世界なので32ページを写研で打って4色分解して持っていって負けたら大損をしてしまうから怖くてできない。見積もりの勝負でもDTPに勝てる見込みは薄い。

仮に写研を前提としたレイアウトでプレゼンを勝ったとしても見積もりを大幅に上回る実費がかかったり(つまり赤字)時間がかかって納期に遅れてアウト!という危険がある。とくに素人さんの広告主は過程をみせている段階では不気味なほど「これで進めて」となる。版下を見せたりCMYKの分解見本をみせたりする過程だ。ところが最終段階の色校正になって「これはダメだ」と言い出すのだ。
文章くらいカラーでない段階でチェックしてほしいし先方にも散々頼むのだが色校になってやっと本腰となって真っ赤にし始める人が実に多い。こうなると作業は一からやり直しに近くなり経費はかかるは時間切れになるはでメチャクチャである。といって広告主様には逆らえない。

要するに今や写研は版元が著者やデザイナーに編集権をタテに押し切れるほど強く、言い換えれば大版元でなければ使えない。SP広告の世界では絶望的である。

確かにDTPが普及して本作りはラクにはなった。出版点数も増えた。しかし書店をのぞくとMacで作ったと一目でわかる雑誌や単行本のカバーばっかり。開くとツメてもベタでもQ数が大きくても小さくても美しく、かつ別の味わいを出すことさえできた写研書体とは似ても似つかぬ野暮な風景が飛び込んでくる。残念ながら小社の本も同列である。

出版物販売額は04年にようやく8年ぶりに前年比プラスになったとはいえ落ち込みを続けてきたしプラス要因も『ハリー・ポッター』の貢献が大きい。8年という年月と写研の退場を重ね合わせるのは間違いであろうか。
最近の単行本は「タイトルの良し悪しで売れるかどうか決まる」「字数が少なくて文字が大きいほど売れる」傾向があるし情けないことに大版元まで追従している。字をギッシリ詰め込んだ厚い本は売れないのだ。でも字ばかりビッシリでも写研書体だったらどうだろう。単行本の場合は使える書体は限られている。だからこそ重要ともいえる。
株式会社写研様。どうか何とかして下さい。以上のような理由でもう手動機はおろか電算写植では競争力を持てない。モリサワの21書体パックはメーカー希望価格で45万8640円である。おなじものを写研が出したら(印刷業界が対応すると仮定すれば)100万円・・・・いや200万円出しても買う。そういう人はまだ多数いるはずだ。

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2005年8月16日 (火)

写研書体が使いたい!

新聞と出版では出力のシステムが全然違う。私が毎日新聞に入社した頃は杉山隆の『メディアの興亡』が話題になっていて活字がCTS(コールドタイプシステム)に変わる過程だった。毎日ではまだ活字が生きていて円盤を作っていた。いずれにせよ独自の書体を持っていて組版から印刷まで自社で行うのが大新聞の基本だった。

出版に転じてまず驚いたのはデザインから製本までは基本的に外注という点だ。すでに活版は写真植字(写植)に変わっていて新聞社よりも素早かった。平成に入った頃から電算写植が普及して手書き原稿にデザイナーの指定紙を添えて写植屋さんに入稿するのが編集部でワープロ専用機で原稿を電算化して入稿するようになった。そのために編集部にワープロ専用機が導入されてブーブーと編集部員が言うので編集長が掛け合ってくれて打ち込みの派遣さんを雇ってくれたりした。

しかしその段階でも写植の地位は揺るぎなかった。その王様が株式会社写研の書体だった。写研は書体のみならず原稿やレイアウトの指定方法や級数(Q)や歯送り(H)などの組版の単位もまた写研の写植機に適応できるように統一した。編集部はレイアウトこそデザイナーに任せればよかったものの送り、アキ、大きさの作法がわからなければ作業はできず熟練が要求された。

しかし何よりも苦労したのは多種多様な書体を把握することだった。書体にはそれぞれ「石井太明朝」「ナカフリー」「ゴナDB」「ナール」などと名前が付いているがデザイナーの指定はコード名で示される。散々使った「ゴナDB」ならばDBNAGとなる。MM-OKLと指定すると「中太明朝でオールドスタイルの大カナ」を示す。そうした記号が読み解けて主要な書体はイメージできるようでないとバカにされた。最初の頃は意味不明の言葉が行き交うなかで見本帳を手に必死で覚えた。

そこまでして写研の書体を使ったのは実に実にすぐれていたからだ。写研の技術者は芸術家であった。日本語を飾りにする名人の集団だった。ゴナDB、イノフリー、ナール・・・・。文字の並びや一つ一つの文字の完成度などで他の追随を許さなかった。あえていえばモリサワがライバルだったが基本的に写研で作ってモリサワはタイトル文字で遊びに使うといった補助的な要素が特に雑誌では強かった。私はナカミンダとかキッラミンといった奇抜な書体を好んでいて時折怒られた。
写研の技術者はきっと遊ぶようにして書体を次々と考案したんだろうな。見本帳が更新されるたびに楽しみで大日本印刷や図書印刷の営業の人に更新があるごとにせがんだ。

DTPがMacintoshのコンピュータ上で主にQuarkXpressというレイアウトソフトで行えるようになったのも電算写植の普及時に重なるが本格化したのは90年代前半だった。電算写植普及からほんの2・3年遅れで、しかしいったん登場したら信じられないほどのスピードで一挙に出版界を席巻する。レイアウト-入稿-写植打ち-修正までを会社にある1台のパソコン上でできるから便利この上ない。だがこの神速ともいうべき普及速度が写研時代を一気に終わらせることにつながった。
DTPはコスト上の優位さももちろんあるが何といってもデザイナーさん、写植屋さん、印刷屋さんとの行ったり来たりをしなくて済む便利さが大きい。E-MAILによるデータのやり取りがこれを加速させる。

だが写研は動かなかった。写植機は電算にせよ手動機にせよ大変高価である。しかも前述のようにがんじがらめの独自仕様だ。しかも原則として書体使用料金をリース払いにしなければならない。だから写植屋さんはリース代を上回る受注をしなければならないがDTPに写研は対応しないから一部のこだわり派を除いて続々と撤退せざるを得なくなる。
反転攻勢をかけてきたのがモリサワだ。初期のDTPは書体にろくなものがないために商業印刷にはためらわれたがモリサワは写植時代にすでに「写研の次」の地位があった。そこで人気書体を中心に次々とDTPフォントとして売り出したのだ。値段が高いのには閉口したが(今もそう)モリサワならば読者に届けても恥ずかしくはない。今やリュウミンやじゅんといったモリサワ書体を持たない出版社はないであろう。

でも本当は写研を使いたいのだ。本心ではリュウミンやじゅんではなくて写研のあれやこれが使いたいという思いは現在30代後半以上で写研全盛を知っている出版界の人には多数いるに違いない。だってレベルがずば抜けているんだもの。
株式会社写研はホームページすら持たない。過剰適応という言葉があるが一時代を築いた勢力はそれゆえに次の時代には残れないということもあろう。だがこのままでは写研の文化財とさえいっていい書体はすべて消えてしまう。現に若い編集者やデザイナーはもう知らない。味もそっけもない(あえてそう言う)書体が当然となっている。
仮想フォントでどうこうという裏技でなくDTP時代に正しく適応した形で写研書体が使えるようになることを切に願う。写研の関係者に是非お願いしたい。どうしても無理だろうか。何が無理なのか。教えてほしい。

写研の書体見本帳は「愛のあるユニークで豊かな書体」の言葉でさまざまな書体を示していた。その通りで「愛のあるユニークで豊かな書体」に私は飢えている。

この記事に関する株式会社モリサワ様からの反響についてはhttp://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2007/06/post_834d.htmlにて紹介しています

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2005年8月 8日 (月)

日の丸君が代賛否どちらもバカ

私に言わせれば公立学校での日の丸掲揚・君が代斉唱に集団で反対する者も集団で推し進めようとする者も両方ともバカである。

1)反対派はバカである
反対している側は「表現の自由を妨げる」「自由な表現ができない」「心の問題」という。それ自体は賛成だが、だったらなぜ徒党を組んで反対するのだ。集団で何かを動かそうというのはファシズムである。それを一番嫌っているのはあなた方でしょう。
1999年の国会で「日の丸」「君が代」は国旗・国歌とする法律が制定された時点で勝負は決まったのだ。確かに「強制するものではない」との表明はあったが条文に明記させなければ空手形になるに決まっている。そしてその国会での賛成勢力を選挙で選んだのは紛れもない日本国民なのだよ。

「強制は教育の妨げ」も笑っちゃうね。教育は強制そのものでしょう。音楽より国語の成績がいい方が、社会や国語より英語や数学の成績がいいことが何故一般に評価されるのか。「睡眠」「逆立ち」という科目がなくて「懸垂」があるのは何故か。全部が強制でしょう。
「起立・礼」や「斉唱」の強制がけしからんというのは私の皮膚感覚には合う。だが普遍化できまい。「起立・礼」は学校のあらゆる場面ではびこっているし音楽の授業ではしばしば斉唱しているじゃないですか。

教員に強いるなという主張にも強い違和感を覚える。あなた達は何様なの?日の丸掲揚・君が代斉唱どころではない差別・強制・理不尽が民間企業にはゴロゴロしているが大半のサラリーマンは耐えている。日の丸掲揚・君が代斉唱の教員への強制は要するに「ボスにしたがえ」ということだ。だってあなた方は公務員なのだから。反対運動するならば給料を返上して仕事も辞めちまえ。私は十分に申し分のある人生で人様にご披露できる栄光ある過去などないが嫌ならば辞めてきた。残ってグズグズいったりチャッカリ樹液は吸っているなどクズだと思う。
私は小学4年の時に嫌な思いをした。先生がある日来なかったのだ。聞けば日教組(日本教職員組合)のストだという。労働者の権利だという。ふざけるなと怒った。こっちも義務で(正確には親が教育を受けさせる義務を受けて)来ているのだ。その1年はずっと反抗していた。自分の主張(わがまま)を子をダシ(または人質)にして集団で通そうとするのはファッショ愚連隊である。

2)賛成派は輪をかけてバカである
たかが旗とへたくそな歌を掲げたり歌わせたりする権利を得たからといって気色満面で鬼の首を取ったように嫌がる者に「どーよ」といった感じで押しつけて隅でちょっとでも避けようとしている人を見つけるとこれみよがしに「さらし」て得意の絶頂という民度最低の大バカ集団である。

この集団は「国旗国歌法」という錦の御旗を得てからスクラムをなして君が代や日の丸に対する複雑な思いを快刀乱麻に切り捨てて酔っている集団辻斬りである。反対運動集団も全体主義的だが賛成集団は錦の御旗をもって酔っ払って攻めてくる分だけ危険度が高いファシストである。

この人達に耐えられない理由は「バカ」というより「アホ」に近い感覚が私にあるからだ。文字通り頭の悪い人(勉強ができないという意味ではない)や若い頃に社会主義風の論理を吹かす奴に圧倒されて黙り込んでしまった劣等感を抱いているおっさん、「ごもっとも、ごもっとも」のヒラメなどが数と権力をにわかに得てレジスタンスを追い回すゲシュタポみたいに狩りを行っている。実に醜悪である。

都教委の処分などを見ると管理側がなってないのがわかる。今時独裁者のいる暗い会社でさえ社旗や社歌で統制をはかろうなどと愚かな発想はないぜ。社員(職員)を気持ちよく働かせるのが管理職の仕事だ。

国際試合が行われているサッカー場を見よ。日の丸が掲げられて君が代が時に斉唱される。あれがあんた達の努力の結果だと思い込んでいたら救いようのないアホだ。人は歌いたい時には歌うし旗が欲しけりゃ日の丸がいいのさ。

3)解決策・・・どうせ誰も実行しまいが
私は元々君が代が嫌いだった。理由は簡単で変な楽曲だからだ。小学校6年生の時に友人の父がNHKに務めていたので友人を通じて「世界の国歌」といいう番組をラジオで企画してもらった。それを聞いてどの国のものよりも君が代は劣ると確信した。
そこで何とか式典で歌わないですむ方法を考えた。幸運にも私は学年委員長(学級委員長の代表)だったので校長にネゴすることはできた。だがここで「歌わない」とか「『翼を下さい』にしましょう」といったって却下されるに決まっている。

わが小学校は静岡市にあり駿府城の元には「軍神橘中佐」の碑があった。日露戦争の遼陽会戦で武功を挙げた橘周太大隊長を顕彰している。彼が率いた歩兵第34連隊の編成地は静岡だった。「これだ」と思った。「軍神橘中佐の歌」というのがあってこれぞ郷土の誇りだから歌いましょうと提案したら何と認められた。体を震わせて歌っていた校長(あるいは教頭だったか)の姿が忘れられない。君が代は回避できた。

頭を使うのである。教条主義は脱するのである。日の丸・君が代が嫌だったら都道府県立ならば都道府県旗と歌を、市区町村立だったら市区町村旗と歌を代わりに掲揚・斉唱すればいい。理由は簡単で「私たちは地方公務員だ。地方分権一括法ができて国と地方が対等になった。今こそ国に『私たちは対等だ』と見せつけるために県歌と県旗でいきましょう」と迫ればいい。実は自治体の歌と旗は一部を除いて住民にはほとんど浸透していない。地方公務員として恥だと吠えてみよ。

児童・生徒は嫌ならば卒業式に行かなければいい。何をいっても無駄だった高校の卒業式に私は行かなかった。あんなものに行かなくても所定の単位が取れれば卒業できる。義務教育は学齢主義なので年を取れば卒業となる。どうでもいい式典なのだ。

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