文化・芸術

2010年8月14日 (土)

画廊誕生100周年記念大賞展開催

 今年、日本に画廊が誕生して100年目に当たる。それも弊社のご近所、高村光太郎が神田淡路町につくってからというからなのだ。そもそも『智恵子抄』で有名な高村光太郎が、現在の東京藝大を出た彫刻家だったことには、もっと驚くのだが……。

 さて、そんな歴史を記念して神田の5つの画廊が手を組んで、「画廊生誕100周年記念大賞展」が開かれる。審査委員長には美術評論家としても有名な瀬木慎一氏が、映像作家やエッセイストとしても有名な萩原朔美氏、絵本作家の葉祥明氏などのビックネームも審査員に名を連ねる。また来場者のスタンプラリー形式による審査も開催されるという。

 そもそも地域のギャラリーが手を組んで、美術の賞を企画すること自体が珍しい。この賞を企画した北の丸tinyギャラリーの中澤ゆうこさんは、「出品する方が集まっていただけたので、なんとかです」と謙遜して笑うが、実現はかなりの苦労があったと思われる。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭のように、街が芸術祭とともに盛り上がるようになれば、かなり面白いことになるだろう。

 神田の歴史はけっこう古い。江戸期には、商人や職人の街として栄え、日清戦争後には中国からの留学生が住む中華街となり周恩来も学んだという。その後、古本屋街となり、70年安保ではパリのカルチェ・ラタンにならい、学生が「神田解放区」をつくったことでも知られる。
 懐が深くて、自由な街としての伝統は、今もどこかで息づいている。5つの画廊をめぐりながら、そんな歴史を感じてみるのもおすすめだ。8月16日(月)~20日(金)まで開催されているので、お時間のある方はぜひギャラリーを訪ねてみてほしい。(大畑)

◆第1会場 北の丸tinyギャラリー
住所 神田神保町3-11-1 安田神保町マンション1F
OPEN 11:00~18:00(最終日 16:00迄)

◆第2会場 一ツ橋画廊
住所 一ツ橋2-6-2 日本教育会館1F
OPEN 10:00~18:00(最終日 17:00迄) 

◆第3会場 文房堂ギャラリー
住所 神田神保町1-21-1 文房堂ビル4F
OPEN 10:00~18:30(最終日 17:00迄) 

◆第4会場 ギャラリー江府お茶の水 
住所 神田小川町2-8
OPEN 11:00~18:00(最終日 16:00迄)

◆第5会場 ギャラリーf分の1
住所 神田駿河台1-5-6
OPEN 11:00~18:30(最終日 17:00迄)

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2009年7月15日 (水)

マイケルジャクソンは早死にだったのか

エルビス・プレスリー 42歳

ジョン・レノン 41歳

ジミ・ヘンドリックス 27歳

フレディ・マーキュリー 45歳

マーク・ボラン 29歳

キース・ムーン 32歳

ジョン・ボーナム 32歳

カート・コバーン 27歳

ジョーイ・ラモーン 49歳

男性アーティストで洋楽シーンに欠かせない者の多くは早死にしている。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビルボードの1位になったのが1955年7月8日。ここを基点にロックの歴史を考えると「まだ」54年。この間にこれだけの人が死んでいる。現在も存命で「欠かせない」男性といえば、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、デビット・ボウイ、エリック・クラプトンと数えることはできる。でもそれより多くが他界している……気がする。

そうだ。ボブ・ディランがいた。やはり彼はいろいろな意味で別格ですね(編集長)

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2009年1月14日 (水)

初笑い洋楽おバカなプロモーションビデオ

なおここでは定番のTwisted Sisters のWere not gonna take it'とAl" Yankovicの一連の作品は除外する。前者はDee Sniderのキャラクターが物凄いだけ?で内容は実に真面目だから。後者はパロディー作品として評価すべきで、言い換えれば「おバカ」自体を精密に狙った作品なので。ちなみにヤンコビックは出世作Eat Itが単純に笑えるので初心者向け。私が最高傑作だと思うのはニルバナのパロディ Smells Like Nirvana(http://jp.youtube.com/watch?v=UnuHJZMdako)。本当にグランジ(汚い)。カート・コバーンがこれを見て自殺したくなったのではないかと思えるほどに

●自己陶酔型
Steve Perry のOh Sherrie(http://jp.youtube.com/watch?v=__eI4u_tQD8
ジャーニーのボーカルがソロで放った。いきなり歌い出すところから終始ハイテンションが空回りする。この「ハイテンションが空回り」の代表作がJourney自体のSeparate Ways(http://jp.youtube.com/watch?v=sxxOyGK1pMk)であろう。メンバー全員が必死になってバカらしいドラマ仕立てを演じている。埠頭で女性を取り囲むあたりからもう目が離せない。この2本を見ただけで一日中スティーブでお腹いっぱいだ
同じく自己陶酔型の極致といえるのがLionel Richie の Hello(http://jp.youtube.com/watch?v=PDZcqBgCS74)である。このPVは全編で一つのドラマとして完結している。それが悲しいほどおかしい。廊下で歩いて歌うなライオネル。電話口で突然「ハロー」というなリッチーと突っ込みどころ満載のまま当初よりモチーフとなっている女学生の作品が実は何であったかが最後のオチになる。感動を狙ったのだろう。だが……。笑えるというより腰が抜ける。
スティーブ・ペリーと同じくフレディもソロを出すとなると力が入りすぎてしまうというのがよくわかるのがFreddy Mercury の I was born to love you(http://jp.youtube.com/watch?v=4vdJqIGyMtM)。楽曲自体は日本で特に有名だけど実は当初はクィーンでなかった。したがって発売時のフレディ名義のPVを見ないとすごさがわからない。元々自己陶酔が許されている人に歯止めがなくなったらこうなるとの見本。いきなりフレディの顔が15も出てくる。その後もソロだから当然ながらフレディフレディフレディフレディ。ブライアン・メイがなぜ必要なのか。フレディがどうしてソロでは弾けなかったのかがよくわかる。

●お金がなかったのね
今や大御所のボノやスティングにもこんな時代があったというPV。
U2のNew Years Day(http://jp.youtube.com/watch?v=zHzLWLFTPPI)はひたすら寒そう。本気で本当の雪原で撮った様子である。日が暮れた後に火を炊いてまで雪原で頑張る。馬で移動するというこの設定だとドラムのラリーがただただお気の毒。
日本を舞台にするとどうしても変なPVになってしまう。Kanye Westの Stronger(http://jp.youtube.com/watch?v=3jzSh_MLNcY)はもうお金持ちになった後だけど「カタカナがクール」という感覚が日本人にはよくわからん。「ガソバレ」はねえだろう。確か「北の家族」が映り込んでいたような。私の憧れの女性であるGwen Stefaniは「カワイイ」路線で確信犯とはいえ例えばHollaback Girl(http://jp.youtube.com/watch?v=2AU-kAnB24I)で出てくる「原宿」は何?もっともPV自体がトンデモ系で「すごい姉さんがやりたい放題」だ。ところでHollabackってどんな意味かしら。かけ声のような。
お金がなかった話に戻る。The Police のSo Lonely(http://jp.youtube.com/watch?v=inFm_DRNsQ0)は地下鉄浅草線だ!しかも「終電後にエキストラを入れて撮った」という雰囲気がまるで感じられない。つまり本気?で動いているフツーの浅草線にポリスが乗り込んで撮った風なのだ。違ったらごめんなさい。もしそうだとしたら後年の人気を考えるとありえない。スチュワート・コープランドの悪のりが笑える。

●訳知りの人は
Oasisの Don't Look Back In Anger(http://jp.youtube.com/watch?v=Wz_3ljfBass)はまぎれもない大傑作である。しかしボーカルをノエルが取っているためリアムがひたすらヒマである。プール上でドラムを叩く設定も謎。そうそうこの歌詞で出てくる「サリー」とは何を指すのか知っている人がいたら教えて下さい。
Jeff Beck&Rod Stewart のPeople Get Ready(http://jp.youtube.com/watch?v=WRq7A_5sdfY)は私情をそのままPVへ持ち込んだ作品といえよう。ギタリストとしてのベックとヴォーカリストとしてのロッドは互いに天才と認め合い、マーケットもそう認めている。ゆえになのかくっついたり離れたり。この曲は「くっつこうか」へベクトルが向いた際にできたと見られる。来いよと呼びかけるロッドはなぜか山小屋にいる。そこをベックが訪ねていくシチュエーションなのだが、何といっても滅多に見られないベックの「演技」に注目。列車(貨物車?)のなかで弾きまくるベック、農民に囲まれて弾きまくるベック、子どもにギターを教えるベック。アンプは当然ない。そしてロッドとの感動再会。抱き合ったぞ。でもロッドは最後は結局女の子と踊ってしまう。この辺が暗い結末を暗示させる

●パロディーを超えている
サタデー・ナイト・ライブのティナ・フェイがサラ・ペイリンの物まねで絶賛され、ついにペイリンご自身まで登場して全米が爆笑の渦と化したのは記憶に新しい。出るペイリンさんもすごい。このような設定がBette Midlerの Beast Of Burden(http://jp.youtube.com/watch?v=D4R9FiKE0Tk)で見られる。何しろパロられるミック・ジャガー自身が全編出演。最初の会話では恋人らしきベット演じる女性に浮気を疑われている。つまりミック自身がミックのパロディーでもあるのだ。ティナ・フェイもベットも本業は女優でいずれも高い評価を受けている。そしてストーンズの名曲をベットが歌うのだけど、その演技はソックリを超えて「いくらミックでもそこまで……」である。それを冒頭の会話で「1曲だけは聴いていくよ」と約束したミックが見ていたためにという展開だ(編集長)

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2008年12月10日 (水)

マスコミ総崩れ

わが出版界は大不況である。トーハンの今年度上半期の中間決算は赤字。大手書店グループ文教堂恒例の新年懇親会は来年中止。伝説の吉祥寺店を含む弘栄堂書店がどうやら精算の方向。月刊現代休刊、月刊プレーボーイ休刊……。暗い話を探すときりがない。

というわけで私も「出版外収入」を求めて他メディアでコソコソと仕事をしているものの、そのどれもが不況下にある。とりわけ民放がおそらく史上初の逆風を受けている。キー局の日本テレビとテレビ東京が中間決算で赤字転落。他社も含めて制作費の切りつめにやっきである。
民放地上波は長らく「広告収入=会社の収入」というものすごく単純なビジネスモデルで通してきた。その広告が今年に入って激減したのが大きい。でもだからといって制作費を削れば番組の質も働く者の士気も基本的には下がる。すると「広告出稿=視聴率」のうちの視聴率が悪化し負のスパイラルがやってこよう。別の財布を持っているNHKは今や職員が「ハッキリ言って視聴率は意識しています」と断言する時代だ。
窮余の策で増加中のパチンコ広告。さぞかし景気がいいかと思いきやこの業界も大変らしい。射幸性の高い機器が排除されて客離れが深刻なのだそうだ。でも今華々しく売り出しているパチンコ機もまた射幸性が高いものが多いらしく規制の声が上がっている。大々的なパチンコ広告を眺めている子の姿を親も放ってはおけない。そのうち激減するだろう。
すでに以前の大スポンサー消費者金融は貸金業法成立を受けて大半がビジネスモデルを失って広告どころではなくなっている。今でも時々見かけるのは「無理のない返済プランで……」と説教するたぐいばかり。無理のない返済プランが立たないから消費者金融へ駆け込むわけだからブラックジョークである。「マネーよりマナーを」などとサラ金に説教されたくない。
彼らが貸し手でなくなれば当然パチンコの原資も細るわけで共倒れは必至である。とうの昔にタバコの広告はテレビから消えた。車も売れない。スポンサーがどんどん消えていく。

とはいえ新聞に比べればまだましである。私が入社した時点で既に「再建」が社是?だった毎日新聞はもちろん厳しいだろう。もっとも広告単価が高いとされてきた朝日新聞まで中間決算で赤字となってしまった。今日(12月9日)の朝刊は広告企画で「朝日ネクスト」というのが入っている。シティ、オリックス証券、アクサ、外為どっとコムなどが出稿しており「1500兆円が日本の未来を明るくする」と題して個人金融資産を活用せよと解く。あの竹中平蔵氏のインタビュー記事の下に「外為どっとコムで、FXを始めよう!」との広告が。あ……ありえねえんじゃねえか。この「朝日ネクスト」も購読料に含まれているのか。

ならば当然ながら広告会社も不景気で業界トップの電通も思わしくない。民放が悪いのだから、歴史的に見てその生みの親である電通がそうなるのも仕方あるまい。この会社は文系学生の大人気企業である。それが昔から不思議でしょうがなかった。

以上、「出版外収入」を求めマスコミという名のサバンナを放浪する私がかつてありつけたオアシスはどんどんなくなっている。というか総崩れに等しい。本業へ戻れとの神の仰せか。でも神様。本業が飢饉で食えないから出稼ぎに来ている労働者へ「戻れ」とおっしゃるのは水野忠邦じゃないですか。(編集長)

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2008年12月 3日 (水)

キャロルキングの「マイ・リビングルーム」コンサート

08年11月21日に行ってきた。キャロルといえば名アルバム「タペストリー」(つづれおり)の大ヒットで女性シンガーシングライターの扉を開いた開拓者として歴史に名を残す。数年前から自宅の居間へお客様を招き入れ、本人がピアノ演奏しながらMy Living Roomコンサートが人気で日本でも同形式にて行われた。

間に20分の休憩をはさんで約2時間。66歳(と本人が言っていた)とは到底思えない全盛期と変わらぬ歌声で圧倒される。客層は私より年上の女性が主流。まあタペストリーが71年で、当時ティーンだったとなるとそれくらいになる。何となく大人しめだ。

セットリストはキャロルが唱った約25曲のうち「タペストリー」から10曲。いかにすぐれたアルバムだったのかわかる。

さてキャロルといえばタペストリー、タペストリーといえばキャロルというぐらい決定的な関係にある一方、ライターとしてのキャロルの歴史はさらに10年前にさかのぼる。ビルボードチャートでシュープリームスが“Will You Love Me Tomorrow”(タペストリーにも収録)でナンバーワンになったのは1961年1月末から2週。シュープリームス自身の初NO.1でもあった。
60年代前半のナンバーワンの面々を見ているとほとんどが男性だ。エルヴィス、レイ・チャールズ、フォー・シーズンズなど。64年からビートルズとストーンズが大参入して来るもやはり男。そのなかで継続してヒットを飛ばしたシュープリームス(およびダイアナ・ロス個人)はすごい。

キャロルが書いた次のトップはボビー・ビーの“Take Good Care of My Baby”(タペストリー未収録)で61年9月中旬から3週にわたってナンバーワン。翌62年8月末に“Loco-Motion”(タペストリー未収録)でキャロルのベビーシッターさんリトル・エヴァがトップ獲得後、グランド・ファンクが74年にカバーで1位を得る。63年1月にスティーブ・ローレンスが2週に渡り“Go Away Little Girl”でトップ。後にこの曲はドニー・オズモンドがカバーして71年にも3週間ナンバーワンに輝く。

というわけでキャロルは「タペストリー」以前の10代後半から20代前半にかけてすでにヒットメーカーだった。今回のコンサートでは以上の曲はすべて歌われた。

他にNO.1でなくても心に残る名作はある。ドリフターズの“Up On The Roof”(タペストリー未収録)やモンキーズの“Pleasant Valley Sunday”(同)アレサ・フランクリンの“Natural Woman”(タペストリー収録)など。これらもすべて歌われた。そういえばSMAPのことを「モンキーズのよう」と話していた。キャロルが例えると含蓄が違う。男性も歌える楽曲を提供していたという点も今さらながらすごいと思う。

キャロル自身の歌声によるNO.1は言わずと知れた“It's Too Late”で71年6月から5週連続の1位を獲得する。なおこの曲は同じタペストリーの“I Feel the Earth Move”のB面だったらしい。もちろん両方とも歌った。とくに“It's Too Late”は昨年の来日では歌わなかったので皆が息を飲んで聞いていた。
“It's Too Late”のトップを譲って一週間後、同じタペストリーから“You've Got a Friend”が1位に。ただし歌ったのはジェイムス・テイラー。これはアンコールの2曲目で皆で泣いた。さすがアメリカ国歌にしてもいいと米国人が思っている曲だけはある。

“It's Too Late”以前のチャートトップを見ていくと間違いなく「女性が1人で自作自演する」シンガー・ソングライターがほとんどいない。67年8月のボビー・ジェントリーぐらいだ。女性ソロボーカル自体も今のロックの系譜に入るのはジャニス・ジョプリンだけではないか。明らかに時代を変えた女性が年月を超えて変わらぬ声量で戻ってきた。奇跡のようなコンサートだった。(編集長)

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2008年11月13日 (木)

世界中から入館者が押し寄せる福島の小さな博物館/アウシュヴィッツ平和博物館

Photo  ポーランド政府から叙勲された日本人はまれである。彼ら国際正義の人々が今年7月から3ヶ月ほど、聖コルベ師のペン画11枚を東北で展示した。長崎時代の1枚もあった。聖コルベ師が身代わりを申し出た瞬間を再現した1枚もあった。叙勲者の1人である福島県白河市のアウシュヴィッツ平和博物館の我妻英司学芸員(44)は、原画貸し出しと原画展開催を呼びかける。

 東北の玄関・白河にあるアウシュヴィッツ平和博物館には海外からの来客もある。ニュージーランド、ポーランド、イスラエル、アメリカ、フランスなど。皆口コミで聞きつけてやってくる。共通の思いが彼らにある。それはナチスの蛮行の記憶を風化させないこと。
「今年の夏の原画展をカトリック新聞が紹介してくれまして、最近は教会関係者の入場者がぽつぽつ増えてきました」
 長野にあった200年以上前の古民家を移転させ、地元ボランティアの手も借りて、ドイツ軍の狂気を今に伝える中心人物の1人が我妻英司さんである。我妻さんがアウシュヴィッツ平和記念館に勤務するようになったのは2000年。英国で4年ほど日本語教師をして帰国してまもなくだった。当時、まだ栃木県塩谷町にあった。
 故・青木進々初代館長はデザイナーとして何度も渡欧。ポーランドでアウシュヴィッツ収容所内での実態、とくに無垢な子供たちの悲劇に触れて衝撃を受け、彼らそがその後なぜ灰にされたのか。このことを訴えるために、ポーランド政府からアウシュヴィッツの遺品を借り受けて、全国巡回展をした。この経験が今の白河にある博物館に生きた。青木進々さんは2002年に食道がんで他界したが、白河にある現在の博物館は青木館長の遺志を継承するボランティアの善意が支えている。地元白河カトリック教会高橋昌神父もその1人である。
 2005年に強制収容所から脱走した生還者をポーランドから招待して福島県各地で講演会を開いた。80歳を過ぎた元囚人はワルシャワに戻ると世界一小さな日本の博物館を大統領府に伝え、それが縁になって、アウシュヴィッツ平和博物の小渕館長以下4人の日本人はポーランド大統領からじきじきに功績男爵十字勲章をもらう栄誉に浴した。

 同館の個人サポーターは年に3000円。団体は一口3000円。入会のメリットは、無料で入館できるようになること。ニュースレターを無料購読できることである。現在の入館者は年に3000人。館内にはアンネの日記を残したアンネ関係の資料もある。青少年の教育的効果が期待できるので、今後は学校関係の団体さんにも薦めたいと吾妻さんは話し、「館を維持していくためにはまだまだ少ないサポーター会員と入館者を増やす必要があります。日本中のカトリック教会に貸し出したいのです。コルベ神父と同じ部屋にいたポーランド人画家が残した作品です。11枚の原画を見て頂きたいと願っています」と訴える。

コルベ神父原画展の貸し出しの相談はアウシュヴィッツ平和博物館 TEL 0248-28-2108 / FAX 0248-21-9068公式サイトはhttp://www.am-j.or.jp/index2.htm 全国の教会や教育機関からの支援をお待ちしている。

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2008年9月10日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷 最終回

●院政
白河上皇から、鳥羽、後白河と続く「院政」と摂関政治の関係はどう記載されているだろうか。七五年は「強烈な専制的性格」をもった院(上皇)が「摂関家を完全に圧倒した」とある。白河上皇の父である後三条天皇の政治が「摂関家をこえる天皇の権威を認識」させたことに続く、「天皇家の権威」の復活という文脈である。
八九年になると「強烈な専制的性格」といった上皇の個性の記載は消え、「摂関政治のもとでめぐまれなかった中・下級貴族、とくに荘園整理の断行を歓迎する国司たちを支持勢力にとりこ」んだ、などの結果として「摂関家の勢力はおとろえた」となる。
この変化は前回に述べた延久の荘園整理令への評価の違いから来る。八九年は整理令を「かなりの成果をあげた」とするために、「荘園との対立関係にもあった国司が歓迎」して「支持」したということになる。九八年からは「摂関家は、勢力のおとろえを院と結びつくことでもりかえそうとつとめた」と、摂関政治から院政に、オセロゲームのように権力基盤が変わったのではなく、衰えつつも摂関の権威はなお残存したという事実を重視したような記述になる。橋本義彦の主張も顧慮されたと見るべきか
とにもかくにも白河上皇という人物の存在感は強烈である。大河ドラマに取り上げられるのはいずれも歴史上の有名人物だ。そこに列する人々と同等以上の人と私は思う。どうやら学界の主流は白河上皇のパーソナリティーというより外部環境が変化しての「そして誰もいなくなった」論のようである。けど本当かなあ。以前「女系天皇はどうして問題なのか」というタイトルで書いた(http://gekkankiroku.cocolog-nifty.com/edit/2005/11/post_00ce.html)文章から再掲すると

父は天皇ということになっているが実は・・・・という例で有名なのは鳥羽天皇1子の崇徳天皇である。彼の実の父は祖父の白河上皇(法皇)だとの説が有力だ。確かに倫理的にはともかく万世一系は途切れてはいない。ただこの話は、だからこそ表沙汰になり得たともいえるのだ。皇統に皇族以外の男性の遺伝子が紛れたことはないと絶対に言い切れるか

である。考えれば考えるほどすごい話だ。山川の教科書は個人の力量によって歴史が転換したというロジックを基本的に避けているので白河上皇に限らず英雄史観が乏しい。それはそれで一つの見識だけれども面白みを欠く要素でもある。まあ教科書は面白くなくてもいいのか。
また七五年は、摂関政治と院政の「私的な」性格についての記載がある。「摂関政治がすでに国政の私的な運営であったが、摂関は天皇の外戚とはいいながら、ほんらいは臣下であるという遠慮もあって、あまり専制的な行為はとらなかった。これにたいし院政は、上皇が天皇の父であるという立場で国政を専断するというもので、私的な性格がいっそう強くなった」とあるのだが、八九年以降は見当たらない。
この辺も意外と見逃されていないか。「家来の立場のお爺さん(外祖父)よりも元天皇(または天皇パパ、天皇ジジ)の方がおっかないから摂関政治より院政の方が強いのだ」という刷り込みが多分に残っている気がする。考えてみれば、それが当てはまるならばいつの時代でも天皇家がある限り通用する万能鍵のような理屈になってしまう
●僧兵
どのような階層で組織されたのか。七五年は「所領の荘園から徴集された農民たちが、寺内の雑務にあたっていた下級僧侶とともに」組織されたとある。八九年は「数多くの荘園から挑発した農民たちと下級の僧侶」とし、ほぼ同様の記載である。ところが九四年からは単に「下級の僧侶」だけとなり、「徴集された農民」が消えている。
ここからは私の推察。要するに「僧侶」とは何かという価値観の問題であろう。律令制に書き込まれている得度がなされていない者(私度僧)を僧と認めなければ「下級の僧侶」と分けて考えねばならない。でもこの時代は実態としてそうした区別が消えかけており北嶺(比叡山延暦寺)も律令を厳格に当てはめるならば私度僧ともいえる人物が座主に就いているのだから分ける必要がない、と
●保元の乱
構図はどう変わったか。七五年には父の鳥羽法皇に「きらわれていた崇徳上皇」らが「乱をおこし」、「朝廷方は機転を制して勝利をおさめた」とある。八九年になると「かねて皇位継承をめぐって(鳥羽)法皇と対立していた崇徳上皇」が「武士を集めた」のに対して、「後白河天皇」らが「武士を動員し、上皇方を攻撃して討ち破った」と変わる。この流れは二〇〇二年まで変わらない。
まず、弟の近衛天皇と後白河天皇の即位に崇徳上皇が好意的だったとは思えないので、「きらわれていた」と「皇位継承をめぐって対立」はさほどの違いはなく、山川らしく主観的な文言を嫌った変化とみられる。崇徳上皇が「乱をおこし」ではなく「武士を集めた」も同様の理由とみられる。問題は「後白河天皇」が八九年以降の記載のように、主導権を握っていたかどうかである。二九歳の天皇に当事者能力があったのだろうか。確かに後年の活躍?から推せば後白河帝に並々ならぬ力量があったとはいえる。とくに源頼朝との今はやりの言葉でいえば「インテリジェンス」合戦はすごかった。頼朝もまた希代の謀略家だったので息を飲むやりとりが展開された。
しかし保元の乱時点では後白河天皇側の藤原通憲という謀略に長けた学者、最近で例を探せば竹中平蔵さんみたいな人のプレゼンスが大きいのも事実。
●平氏政権は古代か中世か
七五年から八〇年までは中世の範囲に、八九年以降は古代の範囲に記載されている。これは広く知られているように平清盛による六波羅政権が多分に貴族的性格を有しているのを「清盛は武士だろう」(つまり中世)を退けているのだろう。
でも清盛はやっぱり武士でしょう。出自はもちろん、平治の乱には勝ったわけだし。なるほど平治の乱は藤原信頼を名前通り信頼してしまった源義朝の落ち度や政略は仕掛けるものの意外と失敗もする「平安の小沢一郎」後白河院のエラーなど清盛の武将としての能力以外での勝因は数えられる。とはいえ彼が武士でなければあり得なかった勝利であるのも事実だ。
もう少し引いて考えてみると清盛の祖先達、通称「桓武平氏」は戦争に弱かったという点に着目できる。将門は強かったけど結局敗死。忠常は源頼信へ戦わずして降伏。正盛に至っては源義家の家来。ただここで白河院政に食い込み、彼の新設した北面武士のトップとなる。この足がかりは子の忠盛にも引き継がれ、忠盛はさらに鳥羽院政で殿上人入りを果たし院近臣として権勢を振るう一方で宋との貿易で大もうけする。清盛も基本的にこの路線を踏襲しており「六波羅政権の貴族的性格」と切り離すより忠盛-正盛-清盛の連続性を求めれば古代に位置づけるのは妥当ではないか

これでひとまず当連載は終わらせていただきます。中世編以降は時間を見つけては進めてまとまったらアップする予定です。ごくわずかの気高き読者の皆様。ご愛読ありがとうございました(編集長)

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2008年9月 3日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷⑥

●武士の台頭
七五年には武士が台頭した理由として「地方政治の混乱によって治安がみだれると、国衙の役人や荘園の荘官は、治安維持のためにも、また支配下の土地や人民を確保するためにも、武装しなければならなかった」とある。同年には「中央も地方も治安はみだれるいっぽうで、火事・盗賊・闘争はいたるところにおこった」とあるので、武士団はこうした地方の乱れが原因で、自衛のために成立したと解釈するのが妥当だ。
八九年になると「地方行政のあり方が大きく変質していくなかで、各地に成長した有力農民は、その勢力を拡大するために武装し」たと改まる。「国司の支配下からぬけ出」すほど「勢力を拡大し」ていた「有力農民」は、国司の支配をもはや恐れなくなったと読める。事実、「武士団」は「時には国司に反抗した」とある。
失政からの自衛手段ではなく、時代の波を先取りした自主的な判断が武士団の結成につながったと解釈は大きく変わっている。この論調は以後も大きくは変わらない。
さてその頭領の座を占めた桓武平氏が根拠地にしていた「東国(関東地方)」は、その理由として七五年以来、「蝦夷征討の基地として軍事的行動がさかん」だったからとしていたが、九八年からは消えている。蝦夷征討との因果関係が疑問視されるような新説が出たのか。
●「前九年の役」「後三年の役」
九八年からは「前九年合戦」「後三年合戦」と改まっている。「変」「乱」「役」といった俗称はある角度からのものの言い方なので近年は古代史に限らず中立的な言い方が進んでいる
●奥州藤原氏
九四年からは、藤原清衡から始まるいわゆる「奥州藤原氏」の記載が増えている。本文には「奥州藤原氏は、金や馬などの産物の富によって京都の文化を移入したり、北方の地との交易を行って独自の文化を育て、繁栄をほこった」とあり、脚注には「11世紀に奥州で2度の反乱がおきたあと、奥州の藤原氏が勢力をきずくと、藤原氏を媒介にして地方の産物が都にもたらされた。藤原氏は金の力を背景に平泉を中心に繁栄し、中尊寺や毛越寺などの豪華な寺院を建立した。最近の平泉の発掘・調査では、京都と北方の文化の影響がみられ、日本海をめぐる交流や北海道からさらに北方とのつながりもあるなど、広い範囲での文化の交流があったことがあきらかになってきた」とある。
この「最近の平泉の発掘・調査」は顕著な実績をあげたと一部で評価されている。世界遺産がらみでもスポットが当たった点だ。また中央政府以外の勢力や、海外交渉に着目する近年の傾向とも合致している。
●平安文学
まず平がなや片かなの定着はいつだったのか。七五年からは「10世紀の初めにはその形もしだいにさだまってきた」とあるが、八九年からは「字形も11世紀初めにはほぼ一定し、広く使用されることになった」とある。間に一世紀の開きがある。
次に紫式部や清少納言といった「宮廷女性の文学的な活動がさかんであったのは、摂関政治のころは天皇の外戚という地位がきわめて重んじられたので、貴族の娘が后妃になると、その地位を確実にするためにも、すぐれた女性をえらんで侍女として后妃に仕えさせ、これを後援したことにもよると考えられる」と七五年は推察する。藤原彰子と紫式部、藤原定子と清少納言の関係がたやすく浮かぶであろう。ところが八九年からこの推察はいっさいカットされている。また本地垂迹説という「考えのもとにうまれた神道が両部神道である」という記載も九四年から消滅している。
●延久の荘園整理令
後三条天皇の「改革」は成果を上げたのだろうか。七五年は「成果はかならずしも十分ではなかった」とするが八九年からは「かなりの成果をあげた」と一変する。成果の証拠として「石清水八幡宮では、34ヵ所の荘園のうち、21ヵ所だけが認められ、残りの13ヵ所の権利がすべて停止された」からだと示している。
ただ荘園そのものは、同じ八九年が、整理令以後の「鳥羽上皇の時代」に「院に荘園の寄進が集中したばかりでなく、有力貴族や大寺院への荘園の寄進がひじょうに増加した」と書いているように、延久の荘園整理令をきっかけに減少傾向をたどったわけではなく、また後三条天皇の問題意識が「荘園の増加が公領を圧迫することを心配した」からだとすれば、「かならずしも十分ではなかった」とした方が妥当ではなかろうか。
後三条天皇の治世をどう判断するかはその前の北家藤原氏の隆盛、後の院政を考えるとなかなかに難しい。荘園もまた「公領を圧迫」の見地から考えれば純粋な意味での律令制の「敵」ではある。だから「減少傾向をたどったわけではな」ければ「量」として成功とは言いにくい。ところが天皇の威令を示したという見地で考えると「停止」に至ったとの事実そのものが重要といえよう。後の院政を天皇権威復活の変形バージョンと判断するかどうかで「院に荘園の寄進が集中」という「その後」と延久の荘園整理令の「成果」の判断が分かれてきそうだ。これは「質」の問題である。
余談だがこのあたりの評価を出題する入試問題は、したがって悪問といえる。(編集長)

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2008年8月27日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷⑤

この連載の日にアクセス数が急減するらしい。ちなみに前回の④では1日約1900。3000超えしていたところをいきなり2000割れ。株式市場ならば大暴落だ。白い目で見ている(ような気がする)社員達。でもこのブログはそもそも私が始めたのだ。アクセス数は気にしない!がコンセプトだったはずだ。というわけで独走連載は後2回は続ける。

●摂関政治
七五年から八〇年までは「摂関政治は、摂関家が天皇の外戚という私的な立場を利用して、律令政治における天皇の高い権威を実質的に自分のものとすることを目ざしたものであったが、摂政・関白が天皇の代理として官吏の任免権をもっていたことが、とくにその権威を大きいものとした」とあり、脚注に「関白は天皇の意向を無視することはつつしんだが、天皇の方も関白を身内の後見役として尊重し、その意見にさからわないのがふつうであった」とある。要するに公私を混同して人事権を握り、天皇さえ「その意見にさからわないのがふつう」という絶対的権力を握ったと読める。
しかし八九年になると、先の脚注は消え、「律令政治における天皇の高い権威」を「律令政治は天皇が太政官をつうじて中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとり、この形は摂関政治も同じであった」と明確に示すようになった。人事権に関しては「天皇の代理として官吏の任免権をもっていた」が「天皇とともに役人の任免権を専有していた」とある。これらの点から摂関家の絶対性は相対的に弱めた記載となっている。
九四年になると「役人の任免権に深くかかわっており、その影響力のおよぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていたから、中級・下級の官人層は摂政・関白などに隷属するようになり」とあり、その理由として脚注に「役人の地位の昇進の順序や限度は慣例として家柄・外戚関係によってほぼ一定していた。そのなかで中級官人などは律令制のもとで経済的に有利な地位とされていた地方の国司となることを求め、私領の獲得につとめた」とある。
さらに九八年からは「摂関家と結ぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていた」と院宮王臣家の主体性をより強めた表記になっている。天皇の人事権についての記述は九四年から見当たらない代わりに任免権を所持していたとはせず、「深くかかわって」とあいまいに表記する。
要するに摂関家の地位は「天皇の代理」という意味合いからは後退し、あくまでも朝廷(天皇家)の権威のもとで院宮王臣家もまじえて、とくに「中級官人」に強い影響力を持ったのが力の源ということになる。したがって、前提となる天皇の権威をどの程度に位置づけるかが問題となる。
当然ながら七五年の記述は「すでに律令政治の体制はすっかりゆるんでいたので」と実質的に機能していないと表現しているが、八九年では「朝廷の政治は先例や儀式を重んじる形式的なものとなっていて」と「すっかりゆるんで」よりは前向きな表記になり、九八年からは「しだいに先例や儀式を重んじる形式的なものとなり」とさらに前向きになっている。
摂関政治は北家藤原氏が天皇家(皇族ないしは皇親)から実質的権力を簒奪したというテンションで従来描写されていた。冷泉天皇の摂関を務めた藤原実頼に始まる「摂関常置」(道長内覧を含む)は常識的に考えて藤原頼通までだろう。この時期は冷泉帝の後継と次の円融帝の後継がほぼ交互に皇位につく一種の両統迭立であり、そこに氏長者を巡る北家内の争いが複雑に絡む。例えば藤原兼通と兼家の兄弟バトルに円融天皇が巻き込まれて冷泉統の花山天皇へ譲位を余儀なくされたというのは本当であろうか。
もちろんその側面はある。ただし逆(天皇)側を主体として考察すると兼家を嫌って北家直系とはいえない頼忠を関白に任じたのは他ならぬ円融帝自身である。その子が一条天皇として即位した時点で円融上皇は存命で、兼家は58歳で念願の摂政となる。一条帝の外祖父は兼家だから即位は円融上皇と兼家が皮肉にも利害一致した結果ともいえる。
同じようなことが一条帝における藤原道長と伊周の叔父甥バトルにもいえそうだ。一般には一条天皇と道長は蜜月関係にあり伊周が政争に敗れたとなろう。しかし伊周は事実上の左遷先である大宰府から呼び戻されており今でいう加藤紘一代議士みたいな感じで朝廷で毒を吐いている。伊周のきょうだいであった定子との間にもうけた『大鏡』絶賛の敦康親王は長男でもあり一条帝が「次に」と考えておかしくない。となると道長が内覧で留まったのは通説の「摂関になる必要がなかった」のではなく「なれなかった」ないしは「ならなかった」可能性がある。次代の三条帝との不和と合わせると十分にありえよう。教科書の記載変遷にはその辺の事情が勘案されてはいないか。
では長らく北家の摂関を絶対と見なした根拠は何か。前述『大鏡』の史料批判のあり方も関係しているように思う。『大鏡』は時に藤原氏へも厳しい指摘をしている。それが天皇家ないしは天皇自身の擁護と解釈すると逆説的に北家氏長者の権勢を立証してしまう。『大鏡』そのものが文学作品としてはメチャクチャ面白いというのも史家にとっては諸刃の剣。こうした面白さを歴史家はおおむね警戒する傾向がある。

●遣唐使廃止以降の国際関係の変化
判断は年度によって異なる。まず遣唐使の廃止の理由に関しては、七五年は遣唐大使の菅原道真が主張した「唐の疲弊と航路困難」を挙げるに止めているが、八九年には「独自の成長をとげているわが国にとって、多くの危険をおかしてまで公的な交渉をつづける必要はないと考えられたから」と踏み込んだ解釈を示している。
ところが九四年からは「独自の成長をとげている」という記載が消えている。この場合の「独自の成長」とは何だろうか。八九年から類推すると、それは「国風文化」と読める。というのも国風文化は「遣唐使が廃止され」た一方で「多年にわたって流入した大陸文化は、ほぼひと通り消化され、そのうえにたって、日本の風土や人情・嗜好にかなったものが自然につくりだされてきた」とあるからだ。この概念は七五年からほとんど変わっていない。では「独自の成長」をはずした九四年の「国風文化」の記述を読むと、ほぼ変わらない記述である。これでは矛盾する。
九四年版の記述の矛盾を問題とするのは他にも理由がある。唐以外の国際関係の扱いが大きく変化しているからだ。まず唐の後に建国された宋との関係を七五年以来、「積極的に正式な国交をひらこうとはしなかったが、宋の商船はときどき九州などへ貿易のために来航した」という表現で、いわば思い出したようにポツポツと貿易船が来るといった印象だったが、九四年からは「宋の商船はしきりに九州の博多などに貿易のために来航した」と大きくイメージが変わる表記に改まったのである。
また渤海の後に建国された遼(契丹)や朝鮮半島の高麗とも七五年以来「国交もひらかれなかった」で終わり、八九年も「交渉は不振であった」と加えられているだけだが、九四年からは一転して「私的交渉で書籍や薬品などが輸入され、11世紀後半にはかえって(交渉は)活発になった」としている。
要するに、遣唐使廃止以降も海外との交渉は盛んで、だからこそ「独自の成長」云々を消したはずなのに、国風文化の説明では「大陸からの直接の影響が減少」とあるのはおかしい。そう思っていたら、九八年でその点を再び大きく書き直してきた。「遣唐使廃止」云々の文言が消え、「それまでの大陸文化の吸収の上に立って、旧来の日本文化がより洗練され、文芸や芸術としてあたらしい姿をみせるようになった」と国風文化を定義している。九四年までは「私的交渉」としていたところも「朝廷の許可をえて中国に渡る僧もあり、宋からは書籍や工芸品・薬品が輸入されるなど、大陸との交渉は活発に行われた」とより踏み込んだ紹介をしている。
要するに、九四年からは、それまでの「遣唐使廃止」イコール「海外交渉の衰退」との図式を外交史上は崩したものの、文化史上では残してしまい、それを九八年で修正したということになる。だがそれでも、「大陸との交渉は活発に行われた」ならば「関係が大きく変化した」程度で、新しい文化の吸収ではなく、「旧来の日本文化がより洗練され」るという方向に文化が向かったのかは謎のままである。
ただ、いずれにせよもはや「遣唐使が廃止されて文化が国風化した」という素朴な暗記が意味をなさないようなのは多くの人にとって衝撃の事実ではないか。考えてみれば文化の国風化とは今にもつながる日本文化のお家芸であって、この時期をもって、またこの時代に限って「国風文化」とするのはおかしい。と同時に外来の影響をまったく受けない文化というのも考えにくい。あえていえば前回紹介した弘仁貞観文化よりは和風化したという比較論でならば、というかそれのみで成立している言葉のような気がする。近年の山川が併用している「藤原文化」の方が実態を誤解させない用語だろう。ただこの場合も「北家藤原氏が権力の中枢にいた時代の文化」と「北家藤原氏が権力の中心にいたがゆえに独自に発展した文化(女房文学など)」の意味合いが混在するからやっかいだ(編集長)

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2008年8月20日 (水)

山川出版社教科書『日本史』表記変遷④

●北家藤原氏の台頭
七五年から八〇年までは藤原冬嗣から良房、基経がそれぞれ摂政、関白に就任する事実をまず挙げ、その間に起こった承和の変と応天門の変を切り離して記述している。二つの変と良房、基経の躍進は切り離せないので、これでは因果関係が読み取りにくい。そこで八九年には「良房は承和の変で伴健岑・橘逸勢ら」を「退け」、「応天門の変」では「伴善男」(脚注)らを「没落させた」と明記した。九四年からは「伴健岑・橘逸勢」の固有名詞が消え(なぜ?)ている。その後の安和の変も八〇年までは左遷された源高明が明記されておらず、八九年から明記されている。これらは「変」と藤原氏の台頭の因果関係を浮き彫りにしたいとの意図が感じられらる。
なお承和、応天門、安和の変をよく「藤原氏の他氏排斥」という表現でくくられるのを覚えてはいないだろうか。だが教科書は七五年の段階から「これらの政変は、かならずしも藤原氏北家が他氏を排斥しようとしておこしたものばかりではない」という立場を取っている。以降の教科書の記載も微妙で、八九年からは承和の変は「良房は(他氏を)しりぞけ」と、応天門の変は「良房は(他氏を)没落させた」と、安和の変は主語がないまま「源高明が左遷された」とある。これだと「藤原氏北家が他氏を排斥しようとしておこした」と読む方が妥当にも思える。なぜこうした記載になっているのか。

●藤原薬子の変
810年における薬子自身の役割は何だったのか。七五年では脚注に「嵯峨天皇が平城上皇と不和になったとき(薬子の変)」とだけあって、薬子の変は「不和」の結果とも原因とも読める。それが八九年になると「嵯峨天皇の即位後、平城上皇は寵愛する藤原薬子の言にうごかされて天皇と対立したので、天皇は兵をだして薬子を自殺させた」と薬子を明確に変の原因と規定した。ところが九四年からは再び「嵯峨天皇の即位後、奈良の平城上皇と京都の天皇との間に対立がおこり、天皇は兵をだして上皇の寵愛する藤原薬子を自殺させた」と嵯峨天皇と平城上皇と不和が原因であるという記述に戻っている。ただ九四年の記述だと、なぜわざわざ「藤原薬子を自殺させた」のかがわからない。
藤原薬子は道鏡と同じく後世面白おかしく脚色された人物である。と同時に脚色されるにふさわしい事実があったとも推測される「平城上皇は寵愛する藤原薬子」あたりの史料批判が難しいのか高校教科書で扱うには一種のタブーなのか。とくに「寵愛」の関する後世のにぎやかしは読み物として出色である(ただし大人向け)だけに避けたい気持ちが執筆者にあったのかもしれない。もっとも「薬子の変」「藤原薬子の変」との言い方は変わらないので彼女が主導者であるとの認識は間違っていないようだ。普通ならば兄の仲成と合わせて「仲成・薬子の変」と呼ぶか「平城上皇復位事件」としそうなものだから。

●菅原道真
七五年からは基経の時代からは「醍醐・村上天皇のときをのぞいては」「ほとんどつねに摂政または関白がおかれる」と北家藤原氏全盛の様子が紹介されていて、基経以後で醍醐朝の前にあった宇多天皇の時代の菅原道真の登用と失脚は本文から切り離されて脚注で説明があるのみだ。しかし八九年になると「宇多天皇は基経の死後、摂政・関白をおかず、菅原道真を登用して藤原氏をおさえようとした」と本文に明記されるようになる。また「策謀を用いて」道真が失脚した後の記述も八九年からみられる。そこには「その怨霊のたたりをおそれて北野天神としてまつられた」とあり、ほぼ同様の記載で今日に至っている。
ちなみに「菅原道真は大宰権帥へ左遷された」との記述は一貫して存在しない。前職の右大臣も大宰権帥も官位相当制で位階が従二位の位置にある者が就任しておかしくない官職だから。もちろん実質は左遷である。

●延喜・天暦の治
醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治を「天皇親政の理想的な時代」とする見方は七五年から否定的で、「事実は律令体制の崩壊が、はっきりあらわれた時代であった」としている。だが、七九年になると「醍醐天皇」は「律令政治の復興につとめ、延喜格式の編纂も行った」と、若干評価の要素も加わる。「復興」は九〇二年の「延喜の荘園整理令」をさし、これを「令制の再建をめざした」ものとしている。「延喜の荘園整理令」は八〇年までは脚注に単に「荘園整理令は九〇二年・・・・発せられたが、その実施は不徹底であった」とあるのみで、本文に太字で固有名詞を示した八九年以降の扱いよりはるかに小さい。
同時に八九年以降は「延喜の荘園整理令」などの「令制の再建をめざした」動きも三善清行の「意見封事十二箇条」などを例に「律令制の原則で財政を維持することは不可能になっていた」と結論づける。すなわち延喜・天暦の治が「崩壊」をはらんでいたという点では一貫しているが、とくに延喜の治のありようが後の土地制度史の大きな転換点となったという見方を八九年以降は強く打ち出している。

●荘園制
その転換点の最たるものが荘園制である。七五年から八〇年までの論理展開は①地方官である「国司」の政治にゆるみが出て地方政治は混乱し②「班田収授の実施」を前提とする「律令の土地制度」は私有地である「荘園」の登場で「困難になり」③荘園の開墾者は土地を徴税者でもある国司らの「干渉からまもるために」有力者に「寄進」した。これを「寄進地形荘園」という④国司もまた預けられている公領を「私有地のように」扱った(国衙領)、となる。これでは国司と荘園のあり方が一読しただけではよくわからない。
それが八九年にはかなりすっきりとした記載になる。まず前記の延喜の治の頃に露呈した「律令制の原則で財政を維持することは不可能」という状況から「国司に一定額の税の納入を請け負わせ」ることとし、「国司のはたす役割は大きくなった」。そこで国司は有力農民に「田地の耕作を請け負わせ」「租税を徴収」した。請負人を田堵という。戸籍登録者が預かる口分田から田堵の経営地へと課税対象が移り、それを担う国司のうまみは増大し、八〇年までの①の事態が訪れる。やがて自立の度合いを強めた田堵(=開発領主)と国司の対立が深まると、開発領主は有力者に土地を「寄進」した。
ここまではいいのだが、以降に国司は国司で、公領(国衙領)を「あたかもみずからの領地のように管理」し、「実務をとる在庁官人」には「開発領主があてられる場合も多くなった」とあるからややこしい。
九八年には開発領主が「在庁官人となって国衙の行政に進出するとともに、他方で国司から圧力が加えられると・・・・寄進し」とある。同じようなややこしさだ。果たして開発領主にとって国司は敵か味方か。
要するに地方制度は、律令に定められた「国・郡・里」制度から「荘園と公領(国衙領)で構成される体制に移行した」ということになる。九四年からは「荘・郡・郷などと呼ばれる荘園と公領で構成される体制に移行した」とさらにくわしくはなるのだが、かなりわかりにくい。
要するに「公」が「私」に引きずられる形で荘園化したが、その最初の頃はなお「公」の部分も残していて、それが寄進地形荘園の形成や、「不輸・不入の権」獲得を誘発したということであろう。八九年からの記述に「国司は荘園を整理しようとして、荘園領主との対立を深めるようになった」一方で、脚注に「逆に任期終了近くになると、荘園の拡大を許可して利権を得る国司もいた」という一見矛盾した記述の背景にもこうした環境があると思われる。
七五年は八世紀以来の「貴族・寺社がみずから開墾した土地を中心に買収した墾田を加えて、付近の農民や浮浪人を使って直接経営する」荘園を「自墾地系荘園」と紹介している。そして脚注に「みずからの墾田を荘園としたものを自墾地系荘園、買収した墾田を荘園としたものを既墾地系荘園として区別し、両者を総称して初期荘園あるいは墾田地系荘園とよぶ説もある」と別の説を紹介している。
ところが八九年になると、ほぼ同じ概念ながら「自墾地系荘園」「既墾地系荘園」という言葉は消滅し、本文では「初期の荘園」、脚注に「墾田地系荘園とよばれることもある」と変わる。この流れは九四年の大改訂以降も変わらない。なぜ七五年以降は「説もある」とされてきた傍流説が主流になったのだろうか。(編集長)

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