心と体

2014年9月 2日 (火)

「新・幻聴妄想かるたとハーモニー展」で、かるたの世界一になれました

Photo_2  以前レポートした、『幻聴妄想かるた』の作者である世田谷の就労継続支援B型事業所「ハーモニー」。
 新たに制作された『新・幻聴妄想かるた』を紹介する展覧会が、千代田区の「アーツ千代田」で開催されています(9/7まで、金・土・日にオープン)。

 先週日曜日に展覧会内で開かれた「メンバートークと新・幻聴妄想かるた世界一決定戦」に参戦してきました!
 試合では「新・幻聴妄想かるた」を1チーム6~7人で囲み、いっせいに読み手の方へ目をみはり、耳を澄ましました。最初の読み手は写真家の齋藤陽道さん。最初に手話、次に声で読み札をあらわしてくれる彼に、みんな大注目。ちなみに奥山は手話がまるきりできませんが、3枚、4枚と読み札を重ねていくと「あ、わかった!」とひらめく瞬間もあり。みんなも同じようで、札が読まれた後に「はい!」という合図が出ると、札をとるバシッという威勢のいい音が響いていました。「はい」の合図がある前に札をとってしまうとお手つきになるので、「わかった!」と思っても、じっとガマン。たまらずお手つきする人もいて、会場は終始笑いに包まれていました。

 3人の手強い読み手があらわれましたが、見よう、聞こうと思えば見えるし聞こえる、想像力が大事なんだと改めて考えさせられました。日ごろ接している人たちに対しても、本当はこのくらい真剣に聞こう見ようとしなければならないのかもしれません。チラッと見て、チラッと聞いて、終わりにしているような気がします。

 そして気づけばチーム最多の札を手にしていました。3チームありましたが、それぞれ最多の人たちが等しく世界一! とのこと。最初は見学だけのつもりが、どんどんのめり込んで、いつも「ハーモニー」に関わっているだろう人たちを押しのけて世界一って……自分で呆れてしまいましたが、齋藤さんにシャボン玉で祝福され、なんだか幸せな気持ちになりました。

 会場内には以前に取材をさせていただいた、今は故人である中村さんの似顔絵などもあり、今でもみんなに愛されていることを思うととても切なくなりました。中村さんは「若松組」という組織に追われているという妄想に苦労していましたが、組織は天国まで追ってきたでしょうか。
3 Photo_3

 会場隅のテーブルには絵札も読み札もたくさん置かれていて、こちらはなんと、会期中にお客さんたちが描いていったものだとのこと。しかも、先に書かれて置いてある知らない人の読み札のために、絵札を描いていく人がいるというのだから、素晴らしい遊び心です。

 残りの会期は9/5、6、7の3日間ですが、6日(土)7日(日)には日替わりトークショー「幻聴妄想ラジオ局」が、最終日の7日には「メンバートークと新・幻聴妄想かるたノンビリ大会」(14:00~)があります。かるたの絵を使ったトートバッグなど、限定商品も販売中。
 秋葉原から徒歩7分、廃校を利用したギャラリーには他にもアートな催しがたくさん。詳しくは下記HPにて。(奥山)


「アーツ千代田3331」
http://www.3331.jp/

「ハーモニー」ブログ
http://harmony.exblog.jp/

主催「エイブル・アート・ジャパン」
http://www.ableart.org/

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2009年4月15日 (水)

医者には治せない

最近どうも目がかすむので眼科へ行った。医師の見立てによると「白内障」のごく初期だそうな。職業柄ほかはともかく目ばかりは見えていないと困るので「それ何ですか」とかなり食い下がる。医師の話によると「目の白髪」のようなもので綺麗なガラスがすりガラスに変わっていくような変化。高齢者はほとんど白内障で程度がひどくなると見えなくなるかもね……が大要。白髪というけれど大違いと感じた。だって白髪は黒いのが白くなるだけだけど白内障は透明が濁るという話なのだから。
「で、先生。治ますか」と聞くと先生力強く

「治りません!」

紙をさわるのが大きな原因で手荒れがひどい。先生に何とかならないか聞くと

「紙をさわらないのが一番です!」

先生。それでは編集者が務まらないです。

実は右腕にかなり深刻なやけどを負っている。特効薬のような薬を塗ってさっさと治したいと先生に要望すると

「やけどを治す薬はありません!」

医学の発展性は大いにあるようだ。(編集長)

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2008年6月 4日 (水)

闘病記が書きたくなる理由

入院して手術を受け先日退院した。その間つくづくと物書きが(そうでない方も)闘病記を書きたくなる気持ちがわかった。

生涯初の手術だったのも手伝って術前はその不安でいっぱい。手術中の光景(全身麻酔ではなかったので意識清明)もばっちり記憶している。術後は予後の心配が押し寄せてきて日常のすべてが敏感になる。頭のなかはそのことだらけ。命に別条ない小手術とわかっていてこのありさまである。

他のことを考えないでもなかった。しかしすべては自身の問題に劣後する。「自衛隊機でテントを中国に輸送するのか。そんなことより明日の手術だ」「諸物価の値上がりは問題だ。だが私の予後の方が問題だ」

手術で麻酔をかけられたら「このまま半身不随となったらどうしよう」と悩む。主治医を心から信頼していたので手術本番で突然「主治医の○○先生が急きょ執刀できなくなりました。代わりに新米の私が」などという事態が起きはしないかと憶測する。そうならないよう主治医へ念押しするが「執刀は私です」と一言告げられれば安心できるわけでもない。手術中に大地震が来たらとまで考えて危うく気象庁へ電話するところだった。

主治医の説明は十分に納得がいった。「説明と同意」は果たされた。そうなのだけれどもそうでない気もする。「予後は個人差がありますが皆さんおおむね大丈夫ですよ」と質問に答えてくれる。通常ならばそれで十分だ。ところが不安にさいなまれると「個人差とは何か」「私が『大丈夫』のカテゴリーに入らない可能性はあるのか」「その場合にはどうしたらいいのか」などなど聞きたくなる。まるで思春期だ。
前の入院の時と同じく医師は平然としている。彼らにとって私の病気などごくありふれている。当然だ。そうした豊富な経験を持つ専門医を事前に探してお願いしているのだから。と頭でわかっていても何か物足りなさが残る。
といって平然としていられなかったらもっと悩んだはずだ。深刻な顔をされたり取って付けたような笑顔を浮かべられたりしたら心ここにあらずとなったろう。主治医の説明は端的だった。これもまた理不尽な物足りなさを覚える。子どもにもわかるような懇切丁寧さで病状を一から説明され、手術の段取りをパワーポイントでプレゼンされたら病院から逃げ出したかもしれない。だから端的でいいのである。とわかっちゃいるけど心配なのだ。

そこで、私はそもそも取材記者出身なので懸念を解消すべくさまざまに聞き及ぶ。看護師さんから薬剤師さんにまで。ご同病とも情報交換する。院内がネット禁止でなかったらかじりついていた可能性もある。こうして症状が現れてから今日までゆうに一冊の本になるほど情報を蓄えた。それは我が身にかかわるゆえに真剣・詳細だ。取材のレベルは情報源が自身に及ぶのでとても高いし信頼性もある。書ける材料はすべて手の内にあってモチベーションもいやが上にも高い。闘病記としてまとめたい誘惑はもっともなのである。
それを書かないのはまさにそれゆえである。まず取材者たる自身が興味を持って調べたのではなく否応なく降りかかってきた災厄を排除する経緯で体験し知った内容にすぎないこと。自身が患者であるため同じ病でもそれこそ「個人差」があるのを忘れて己の主観に満ちた断定をする危険性が排除できないこと。何より読者にとって迷惑千万であること……などだ。

それにしても自分とは我執とか自己愛というものに包まれたはしたない人間にすぎないと痛感した。命に別条ない治療でこのように惑乱するのである。「人は必ず死ぬ」「人生はむなしい」と常々公言してきた自分が少々の病気でこうまで不安にさいなまれるわけだ。まあその程度の人間だろうと以前より予測していたもののリアルにわかるとガッカリする。

辺見庸さんがいかに偉大かもわかった。彼は生命にかかわる闘病をしているにもかかわらず社会への警鐘を忘れず上梓し続けている。作品の評価はいろいろであろうが心根は文句なくすごい。月刊『現代』(講談社)での連載タイトルは「潜思録」。病床にあって「潜思」! とてもかなわない。もとよりかなうと思ったことなど過去一度もないけど改めて痛切にわかった。そしてそのショックよりも予後が順調かを気にする療養中の自分が今まさにいるという事実もある。「品格」の差とはこうしたものであろうか。(編集長)

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2008年4月14日 (月)

日本をダメにする言葉

●切り替える
スポーツの大会などで負けるたびにアナウンサーや解説者が呼号する。06年ドイツW杯では終了間際にオーストラリアに逆転負け。なのに終えた瞬間から「まだ次がある」「次に切り替えろ」。続くクロアチア戦で引き分けて最後の相手であるブラジルに勝つしか決勝トーナメントへの道が事実上閉ざされたにもかかわらず「奇跡を信じろ」「切り替えろ」。奇跡は起きないから奇跡である。案の定ブラジルには大差負け。やっと「切り替える」が出てこなくなったかと思いきや「次の南ア大会に向け切り替えろ」だって!その南ア大会アジア3次予選でバーレーンに負けたらまたまたまた「切り替えろ」。
切り替えてはいけないのである。というか切り替えてさえいないから負けるのである。「負けたことをとやかく言っても仕方ない」との大声でかき消されるけど敗因の分析と敗北を叱咤する声こそが戦うチームを強くする。ねちねちと敗因を追及し、戦犯は放逐し、必要な人材を招き入れるのが必要だ。ずっと気持ちだけ切り替えていては永遠に栄光はやってこない
●夢
寝るときに見る現象。起きたらたいていは記憶から消えてしまう。ここから比喩的に将来の目標や獲得すべきポジションをかなえる時に使われる。だったら文字通り「目標」「ほしい地位」とすればいいのに「夢」とあいまいにする。このすり替えは「目標をあいまいにする」にほかならない。それがいかに目標達成に障害となるかは各組織論で大声にてとなえられている。
読売球団の上原浩治選手が大リーグ行きを「夢とはとらえていない。目標なので」と発言したは以上の意味で立派だ。「夢」だと原義では「かなわない」が続かねばならない。なのにちまたでは「夢はかなう」などという言語矛盾が満ちあふれている。先の「奇跡」と同様だ。できもしないあいまいなスローガンを若年者に強要したら鬱へ導くのみである。「夢のレベルではかなわない。目標は何だ。具体的に言え」と迫る大人が少なすぎる。それ以前に大人が漠たる「夢」で生きている
●面白い(ないしは「ウケる~」)※正しくは「有卦」?
「笑える」「親しみやすい」というニュアンスで使われる場合が問題。この言葉は「そのニュースは面白い」といった用法もあるのに、こちらの方はどんどん駆逐されて「笑えればいい」の風潮が爆発的に増えている。といって『閑吟集』の有名な「一期は夢よ ただ狂え」(ちなみに「夢」とは正しくはこう使うべきだ)との覚悟もない。東知事や橋下知事を生み出した背景にある。
漱石の『猫』のユーモア表現にニコリともしない若者がいる。「ここはこういう理由で笑うポイントだ」と「説明しなければわからない。そうした彼ら彼女らは教師が壇上で苦しげにせきをしたり、むせ込んだり、転んだり、手に持っていたプリント類を誤ってぶちまけてしまった時に爆笑する。以前ならばシーンとなるケースでだ。むろん若者だけではない。やむを得ない失敗を爆笑する大人社会は至る所である。「笑っている場合ではない」「面白いではすまない」という文化はどこへ行ったのか。かつては東京人の決まり文句だったのに
●国民不在
古舘伊知郎氏の決めせりふ。「国民不在の国会」など。国会議員は国民の選挙で選ばれる。したがって「国民不在の国会」などあり得ないのだ。国民が切実に求めている懸案の解決に国会議員が興味を示さずほったらかしという状況をもってそういうならば国民の選択がいかにいい加減で自業自得に陥っているかをメディアが知らせなければならない
●オーラ
そんなものはない。ないものをあるとするはオカルトである。オカルトを信じた行動の大半は失敗に帰する。仏像には確かに光背がある。あれはオーラなるものの親戚であろうが仏様だからあるのである。
●精神力
同じくそんなものはない。真剣ににらんでも小石一つ動かせないし、不惜身命の境地にあっても結跏趺坐ではサッカーに勝てない。ビジネスでもそうだ。契約が取れないのは精神力が弱いのではなくトークなどに問題があるからだし、営業成績があがらないのは単に生産性が低いだけである。「心技体」とは何だ。技と体は絶対必要だけど「心」は? 「心」って何だ?
「前へ向かっていく精神力(ないしは「心」)が足りない」という現象はたいてい技と体で相手に圧倒されているからである。
●一丸となる
室町時代の「一味同心」あたりと同じことを訴えた言葉なのかね。組織に「一丸となる」などあり得ない。少数のリーダーが高い生産性を示し、ほぼ同数の落ちこぼれが何とかかんとか最後尾でついていき、大多数の中間層がそこそこ働けば御の字である。なるほど成功した組織は一丸となったように見えよう。でも内実は成功体験から美化しているだけ
●元気をもらった
何だそれは。元気とやらの物質が存在して両の手のひらで受け取ったとでもいうのか。「感動をありがとう」も親戚。(編集長)

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2008年2月29日 (金)

ベアハッグ、侮り難し

 1970~80年のプロレスにおいて、ベアハッグは強烈な技の1つだった。古くはブルーノ・サンマルチノ、もう少し後だとアンドレ・ザ・ジャイアントが必殺技として使っていた。

 ただ相手の腰に正面から手を回し、空中に持ち上げて締め上げるという単純な技だけに、いまいち派手さがない。アンドレほど大きな男が相手を締め上げると、それなりに痛そうだったが、プロレスが好きだった私もこの技が効くとは思っていなかった。だいたい友達同士でプロレスごっこをしても、まったく痛くない技だったし……。
 ラリアートで一世をふうびしたスタン・ハンセンが、この技でドラム缶を潰
したという話を聞いた時は驚いたが、それでもパイルドライバーや卍固めほどはインパクトを持たなかった。

 しかしである。
 四十を前にして、いきなりベアハッグは大変な技なのではないかと感じた。事の発端は水曜日の昼。地方から出てきた友人と昼食を食べ、さて会社に向かおうと思ったら、徐々に気持ち悪くなってきたのだ。朝からなぜか下が水状だったので(ご飯食べていたらごめんなさい)、悪化したのかなと思ったら、なんだか気持ち悪くて動けなくなってしまった。

 少し休めばどうにかなるだろうと、レストランでしばらく待ったが回復しない。皆、予定があるのでとりあえず店を出て解散したが、下はピーピーだし、気持ち悪し、頭痛いしで、わずか数駅なのに電車に乗る自信がない。タクシーなんかすぐ吐きそうで怖くて乗れない。

 病院に行こうとも思ったが移動ができないとなれば、救急車しかない。おかしな話だが病院に行くためには、とにかく症状を抑えるしかないという結論にいたった。
 しかたなくマンガ喫茶に駆け込み、リクライニングシートで休息を取っていると、数時間して頭痛と吐き気が収まってきた。そろそろ大丈夫かなと思って起きあがると、なんと今度は背中と腹が痛い。しかも胃が痛いというより、周りから締め付けられている感じがする。

 これはベアハッグではないか!?

 数十年ぶりにいきなりプロレス技を思い出した。腰といわず、脇腹といわず、胴回り全体が痛い痛い! ウエストが10センチほど引き締まったような気さえする。そうこうするうちに痛みに釣られるように、また吐き気が!

 ここで思い出したのが友人からのアドバイス。気持ち悪いの吐けないときは、炭酸ジュースを飲んでゲップをするとかなり楽になるよ、と。実際、その数時間前には劇的な効果を発揮したので、身体を引きずってフリードリンクコーナーに行き、コーラを取ってきて個室で一気に流し込んだ。
 当然、ガンガンゲップが吐き出され、いくぶん気分がよくなってきたのだが、直後にジュースで腹が膨れ猛烈な激痛に襲われることに。ただでさえ腹に圧迫感があって痛いのに、ガスで膨らませりゃ、そりゃ痛くもなるかと思ったがあとの祭り。リクライニングシートで体をくの字に曲げて悶絶することとなった。もう痛すぎて歩くことすらできない……。

 このとき痛みと闘いながら、頭の片隅でベアハッグの効果を見直した次第だ。いや、シンプルだけど、きっとこの技は痛いと。実際、熊にハグされてギブアップしたレスラーがいたとか聞いたこともあるけど、もっともだと。

 まあ、そんなことを思い出しても仕方ないのだが……。

 その後、少しだけ回復したのを見計らい、マンガ喫茶から編集部に駆け込み、すべての仕事を拒否してイスで寝続けたのでした(ウィルス性かもしれない病人が編集部に仕事しないのに逃げ込むってのも、会社としては迷惑な話だと思うが……)。で、結局、終電まで待っても電車に乗れるほど回復せず、翌日の昼にやっと自宅にたどり着いた。

 いや、ベアハッグ恐るべしっていうか、この病気が怖いのか。医者行ってないので、病名は分からんのですが……。唯一の救いは編集部でも家族も同じような病気になってないこと。とりあえずウィルス性ではなかったみたいです。ホッ。(大畑)

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2007年11月 5日 (月)

杉山の中心で史上最大の花粉と踊る

■月刊『記録』05年5月号掲載記事

 聞くところによると観測史上最大であるらしい。
 飛ぶのが、たとえば獅子座流星群のような流れ星ならばこちらとしても全然かまわない。どんどん増えてもらっていい。しかし東京都福祉保険局が05年1月に発表したのは今春のスギ花粉の飛ぶ量が昨年に比べて20~30倍であるということだった。
 スギの花は2~3月にかけて開花して花粉を飛ばす。例年は3月をピークに飛散量は収まるが、今年はゴールデンウィークあたりまで飛び続ける見込みだという。
 現在、国民の約15%が花粉症と推定されているが、スギ花粉の抗体を持つ国民は全体の約7割と言われており、今は発症していない人にも他人事とは言えないのだ。
 一般的な症状はいうまでもなく鼻水、くしゃみ、目のかゆみだが、症状が重くなると喘息や頭痛、倦怠感を伴う場合もある。国民病と言われ、人々のうらみを買いながらあたりまえのように日常生活に入り込んではいるが、花粉が生まれる場所であるスギ林について私たちはなにも知らないのではないか。
 考えようによってはまたとない機会でもある。こうなったら花粉舞うスギ山に分け入って、この目でその様子を確かめることにしよう。幸い私は花粉症ではない。史上最大規模の花粉のなか、とことん踊ってやろうじゃないか。
 関東森林管理局によれば、東京に降りそそぐ花粉のほとんどは、東京西部の奥多摩にある広大なスギ林からこの季節に吹く偏西風に乗って運ばれてくるという。

■地元では1年分の花粉が1日で

 新宿から電車で約1時間半、青梅線の終点が奥多摩駅だ。それよりずいぶん手前の石神前あたりからスギが密生する山が目についてくる、なにしろ多摩地区のスギ林は東京都全体の面積の約1割を占めるのだ。奥多摩駅に近づくほど、スギ山の中を電車が走っているという具合になってくる。到着した奥多摩駅は完全にスギ山に囲まれた場所にあった。
 奥多摩には山歩きや渓流釣りの客が利用する民宿が駅の周りに10件ほどあるが、客が1人もいない宿もあった。平日とはいえ春休みの時期であるのにだ。駅から歩いて5分のことろにある「玉翠荘」で働く森川良子さんは「今年はやっぱり花粉のせいでお客さんが減ってるんでしょうね」と話す。目が充血して涙ぐんでいるのでたずねると、やはり花粉症だった。「奥多摩で30年近く働いてますけどね、はじめてなんですよ、今年が」と困った顔で笑う。「わたしはずっと無縁だと思ってたのにねえ」。30年間、花粉症とは縁のなかった人が突然、くしゃみを連発するようになる。これはやっぱりただごとじゃない、スギによる暴威である。
 奥多摩ビジターセンターの解説員、山本雄一郎さんに今春の花粉の様子を聞いた。「それはもう、すごいもんですよ。雨が降った次の日や風があるときなんかは、山を見ると花粉で煙ってモヤみたいに見える日もありますよ」。山を見上げると、山肌をまったく見ることができないほどひしめき合って群生するスギの緑に交じって、淡いオレンジ色が目に入る。花粉症の元凶であるスギの雄花だ。
 山本さんも例にもれず花粉症である。これだけスギに囲まれた地域でありながら、奥多摩に住む人たちは特に花粉症対策はしていない。私が訪れた何日か前には、前年の総飛散量ぶんの花粉が1日で飛んだこともあったという。
 山本さんに教えてもらい、スギの中を行く遊林道を歩くことにした。死地に赴くとはこういうことだろうか。もちろんスギ林の中を歩く人など見あたらない。この日はやや風があり、背の高いスギの木の葉が触れ合ってさざめいている。重なるように茂る葉の隙間を縫って落ちる木洩れ日もいいが、風があって天気がいい日というのは花粉が飛びやすい日でもある。しばらくオレンジの雄花を見ていると、風が強く吹き、揺れる花から白い花粉が飛び散る瞬間を目にした。しかし、歩いていくうちにそれが珍しくないことに気付く。花粉の渦の中を歩いているようなものだ。目に見えない細かい粒子が口から鼻からどんどん吸い込まれているのだろうが(マスクなし、ノーガード)今のところ自覚症状はない。
 しばらく歩くと手に届くくらいに低い位置に雄花があるのを見つけたので、それを採取しようとしていると、50歳くらいの男性に出会った。どうやら地元の人らしい。やはりマスクをしている。スギの花について聞くと、花がオレンジ色になって開ききる前の、まだ白とオレンジ色の中間あたりのころがもっとも花粉が飛ぶのだと言う。サクラやウメの花の明るく華やかな印象と違って、スギの花のオレンジはくすんでいて美しくはない。ふてぶてしい。まだ白っぽい雄花を選んで指で叩くと、キリフキを吹いたときのように白い花粉が散った。おもしろいように吹き出す花粉は、ものすごく軽いのだろう、花から飛び出たとたんに空気の流れに運び去られて舞い上がる。行く先は東京だろうか。
 改めてスギ林をじっくり見ると、目立つオレンジ色の雄花に隠れるようにして、白い雄花がぶら下がって出番を待っている。いくつか雄花をもらっていいかと男性に聞くと、ああいいよ、できれば山ごと持ってってくれ、となかばヤケクソ風に言う。

■花粉症急増は利便を追った結果

 スギ花粉による花粉症が問題になり始めたのは1980年ごろからのことで、それまでアレルギー性鼻炎はハウスダストとブタクサの花粉によるものと言われていていた。スギ花粉は話題にものぼらなかった。花粉症の専門家である三好彰は著書「花粉症を治す」(PHP新書)のなかでここ10~20年でスギ花粉症が急増した原因を3つ挙げている。

①アレルゲンであるスギ花粉そのものの増加 
②タンパク質や脂肪の摂取量が増え、抗体をつくる能力が高くなったこと 
③道路がより整備されたため、スギ花粉がより遠くまで飛ぶことが出来るようになった(花粉は土の上に落ちると再び舞い上がることは難しい)

 ①についてだが、なぜ花粉は増えたのかということに注目することにしよう。話は戦後にさかのぼる。
 市街地が焼け野原になった後、復興のために大量の木材の需要があった。戦中に戦争機材の原材料としてスギやヒノキが伐採されていたうえにさらに木が切り倒された結果、ちょっとした雨でも洪水が起こるようになった。その対策としての治水の目的でもあったが、1950年代には大規模な植林政策が行われた。
 奥多摩に住む多くの人たちも苗木を背負って山に入っていった。足場の悪い土地に苗木をひとつひとつ植えていくのは大変な作業だったが当時はそれがお金になっていった。切り出したスギを筏にして多摩川の下流に流す仕事があったり手入れをしたり、人々の生活とスギ山は密接に関わっていたので植林した山の手入れは入念におこなわれていた。
 しかし80年代にはいると価格の低い外国産木材が輸入されるようになり、国産の木材の需要は低下、価格も下がっていった。今ではスギの価格は1本900円程度までに落ち込んでいる。スギを切り出して売るとしても、運搬費や人件費を考えるととても採算が合わないのが現状だ。間伐、下刈り、枝打ちなどの山仕事をする人たちも高齢となったため今や手入れをする者はいなくなり、スギ林は荒廃していった。
 スギは樹齢20~30年で花粉をつけはじめる。50年代の植林政策で植えられたスギが放置された結果、80年あたりからスギ花粉症が問題となりはじめ、今ではスギ林の9割が花粉を生産する樹齢になった。
 スギの植樹の背景だけでなく、②と③にしても「自然とそうなった」のではない。先に私は「スギによる暴威」と書いたが、なんのことはない、花粉症の急増は人の営みや利便を追った結果なのである。花粉症が社会問題と呼ばれるゆえんだ。
 数日後、持ち帰ったスギの花はビニール袋の底に花粉を落とした。指でとって舐めてみると、不思議に甘い味がした。花粉症でなかったはずの私は鼻の奥がムズ痒く、目を閉じると涙がにじむようになった。ウソのような本当の話である。(宮崎)

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2007年10月 3日 (水)

蜂窩織炎で入院していました

しばらく休載していたのは例の蜂窩織炎が悪化して入院していたからである。全国に5人程度はいるらしき我が拙文の気高き読者におかれましては大変申し訳ありませんでした。
どうやら「闘病記」を書かなくて済みそうな程度に快方に向かっているらしいので、せっかくだからいかなる病気であったのかをご報告したい。
私は医療の専門家ではないので、以下『世界大百科事典』(平凡社)の記載をもとに紹介する。

・組織の密度が粗な部分(皮下組織、筋肉と筋肉の間、頸部など)に起こる急性の化膿性炎症
→私の場合は最初は左足首から始まって左足全般。一時は治ったかと思ったら今度は右足親指付け根と右足首が感染し、入院以外に方法がないまでに至った

・代表的なものに、虫さされの傷から細菌が侵入して起こる皮下蜂巣炎がある
→ということだが私にはかきむしった記憶はない。でも無意識にやっていた可能性もある。原因不明の場合も多くあるらしい。夏場に虫にさされたり小さな傷ができた場合、豪快に掻いたりしないよう老婆心ながらご忠告申し上げる

・局所には境界不鮮明な発赤とはれ、むくみが起こり、熱感と圧痛が著しい
→真っ赤になってはれる。触ると摂氏40度ほどの熱さを感じ、歩けなくなるほど痛い

・炎症は急速に進行し、疼痛は拍動性で、悪寒や震えを伴った高熱が出現する
→あっという間である。右足は少々の痛みを感じて赤みを確認して3日後に病院に行き、抗生物質を処方されたものの効かず、さらに3日後に入院となった。その日から2日ほど40度近い熱が出てさらに2~3日微熱が続く

・さらに進むと、局所は軟化して膿瘍を形成する
→つまり膿むということ。現時点で医師の触診では膿瘍は確認されず自然に吸収されたと推測される

・治療は、局所の安静・冷却・全身的な抗生物質の投与を行い
→「安静」とは寝ているに尽きる。足は心臓より上へ、つまり足に枕を敷く形で下降する血流を小さくする。症状が強く出ている時には、この姿勢から座る形に移行するだけで血液が一挙に足首へなだれ込むような重苦しいうずきを覚える。
ここで尾籠な話となる。小水は当然尿瓶。大きい方は車椅子用の手すりとカーテンがついた洋式便所に出撃する。便座と車椅子を相対し、手すりにつかまって立ち上がり、手を左右反転させながら身をも回転させて便座に座る。車椅子に戻る際には反対の動作を行う。痛みのひどい時には一大事業だった。
「冷却」は熱を帯びている段階では足枕の上に氷枕を置いて足をひたすら冷やす。私の場合、一番痛んでいた右足親指付け根を本来冷やさなければならないが、氷枕を足の上に乗せざるを得ず、痛みの強かった時にはそれ自体が耐えられなかった。軽快して退院後はアイスノン(冷却枕)などで代用できる。赤みが引いても黒ずんだむくみと痛みがしばらく残るが触って熱を帯びていなければ冷却はむしろ血流を悪くするので控えなければならない。また強く痛んでいる際でも決死の覚悟の冷却は凍傷を招く恐れがある。この辺りの判断は入院で専門医の診断を常に仰ぐ必要があったし、退院後も週に1度は経過を見てもらうのが賢明だ。
「全身的な抗生物質の投与」は入院中はひたすら点滴である。朝6時、昼の2時、夜10時ときっちり8時間おきに行われ、一回に要する時間は30分から40分。それ以前と以後はカプセル剤を服用している。
左足の際にはセフゾンという抗生物質(1カプセル100㎎)が処方されて1日3回飲み、数日で回復した。その後数日で右足が痛み出し、今度はフロモックス(1カプセル100㎎)が処方された。だが服用の甲斐なく3日後に入院となる。医師の話によると処方すべき抗生物質を誤ったという話ではないらしい。この当たりに私は正確な答えを持たない。
退院後は再びセフゾンが処方されて12日間飲み続けた。その後も今日に至るまで右足は赤黒く腫れているも何とか若干足を引きずりながら歩ける。ここで医師は抗生物質を切った。つまり処方を止めた。耐性菌が生じたり罹患した場合にやっかいだからという理由である。したがってぶり返す可能性を否定できないのが目下最大の不安である。まだ完治さえしていないから。

なお休載していたのは退院後も基本的に足を心臓より上に位置しながら寝るという形を崩せず、その格好ではノートパソコンでさえ操れなかったからである。体の硬い私は椅子に座って右足を心臓より高く上げて机に投げ出し、つまりすごく威張っている人みたいなポーズを取ってワープロを打つといった仕業ができない。
肝臓の数値は昨日(1日)の段階で正常値より高い。それでも入院中の採血結果よりは良くなっている。ちなみに左足が痛み出した一ヶ月以上前から酒は一滴も飲んでおらず、その時の血液検査は正常値の範囲にあった。わけがわからない。
皮膚病というのは蜂窩織炎に限らずしばしば原因不明で治療や治癒のスピードも医師が様子を見ながら対症療法的に進めるしかないものが多いようだ。しかも急速に重篤となるケースもあるから侮れない。

そういえば私が入院していた病院の建物は古く、病院だから当然病死者も出ているわけで病死者×長い年月=たくさんの病死者という連想から幽霊が出るとのうわさを聞いた。とくに夜中に喫煙室から屋上につながる最上階で現れると。したがって入院時には点滴が終わった夜10時40分すぎにカメラ付き携帯を持って車椅子に乗って現場へ向かい、何とか拝みたいと待ちかまえていたが遂に見られなかったのが残念至極である。
もう一つ。私の入院と安倍晋三前首相のそれはほぼ同時期だった。したがって安倍さんには妙な親近感を持ったのだった……なんてウソ(「ほぼ同時期だった」は本当)。
ただし急な入院で本を持っていけなかったのはつらかった。親族や編集部員にも見舞いに来なくていいと言い渡しておいたら本当に誰も来なかったため(正確にいうと大畑が行き詰まった仕事の書類を抱えて襲いかかる算段をしていたものの襲来予定日が退院日だった)売店であらゆる新聞と雑誌を買って読みまくっていた。高熱と痛みでうなっていても読んでいた。そのため安倍首相政権投げ出しの「真相」は憶測も含めて豊富に仕入れたが何の役にも立ちそうにない。逆にテレビは見るだけで頭がおかしくなるとわかってニュース以外は見なかった。低俗も過ぎると暇つぶしにもならないんだね(編集長)

蜂窩織炎」に関する他の記事↓

「蜂窩織炎」

「差別の原点」

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2007年9月12日 (水)

差別の原点

例の蜂窩織炎が再発して厄介な状況になっている。目下のところ私の頭の90%がこれ。考えたくなくても痛みが「思い出せ!」と叫び続ける。
よって書くならば闘病記のようなものになるけれど気高き読者へは迷惑以外の何物でもあるまいから止めにする。病状など人様に得意げにさらす価値はない。何をどう書いても同情の押しつけとなる。少なくとも私の筆力では。

問題はほぼ歩けない状態となった時に「身体障害者は大変だな」としばしば思いを致してしまう自らの愚かさである。似たような症状にならないと気にも留めない鈍感さが背景にあるのが一点。2つ目は決して「似たような症状」ではないのに同調させる薄っぺらさ。
私の病は高い確率で治る。対して身体障害者は違う。生まれついて障害を持つ方はそれが当然の人生を誇り高く生きており安易な同情は無意味ないしは有害と取材を通して知っていたはずである。先天的に四肢に障害を持っている方からは「指が5本ないと不便だとなぜ決めつけるのですか」と迫られた経験もある。
人生のある段階で不自由になられた方にはすでに失ったという覚悟があるか、覚悟が決められないでいるか、その他か。いずれにせよ「失った」という事実が先にある。だが私はそうではない。
最悪なのは以上のような事情を私なりに知りつつも頻繁に「身体障害者は大変だな」と考えてしまう幼稚な自身の思考にある。それこそビリッと痛みを感じるごとに暗に考えている。これがきっと差別の原点だ。私は差別主義者なのだ。せめてそのことを治った後も忘れないでおきたい。

医師からは歩くなと言われているが無理である。仕事しなければ医療費も払えない。やっとの思いで拾ったタクシーの運転手から「大丈夫ですか」と聞かれたので「ご覧の通り大丈夫ではありません」と答えた。その後渋滞に巻き込まれる。すると彼は目的地のかなり前で黙ってメーターを止めた。私は彼ほどの思いやりを持っているであろうか。(編集長)

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2007年8月22日 (水)

蜂窩織炎

「ほうかしきえん」と呼ぶ。私の左足首へ突如襲いかかり現在歩行が困難な状況にある。

日曜日に「ねんざか?」とおぼしき痛みを感じた。その夜から痛みが強まり、月曜日たまたま予約していた他の診療科への受診に向かった際、ピークに達する。医療事務職員へ「やっとここまでたどり着いたが帰れそうもない」と告げたところ「ねんざですか?だったら整形外科ですが本日は休診です」と鉄槌。
しかし当方としては総合病院に来ているわけだし診てくれる先生は何科でも構わない。そもそも歩けないのだから場所柄入院するしか方法がないなどなどをわめいていたら危険人物とみなされたのか看護師さんやら誰やらが三々五々私のいたロビーへやってきて
「ねんざした覚えは?」
「ありません」
「尿酸が高いとか……」
「はかったことがないのでわかりません」
といった会話の後に患部を見て口々に「蜂窩織炎じゃない?」「蜂窩織炎に似てる」「骨折の感じもないし蜂窩織炎では?」とホーカシキエンの合唱となり「だったら皮膚科だ」と車イスに乗せられて皮膚科へGO。診断してくれた医師も問診や患部の観察を一通り終えた後に「蜂窩織炎です」と断言されて薬を処方された。

その後の医師や看護師、医療事務職などの話を総合すると月曜日1日だけで蜂窩織炎の患者は私が3人目とのことで皮膚科ではこの時期珍しくも何ともない事態らしい。薬を服用して軽快したかと思ったのもつかの間その夜は猛烈に痛みが強まり今日(火曜日)は一時ほとんど歩けなくなった。
病院で言った「帰れそうもない」は多分に「せっかくだから何とかしてほしい」との願いがこもっていたが今日の痛みは本気で歩けないのだ。ベッドからトイレへたどり着くのがロード・オブ・ザ・リングのようである。午後になり薬の効果かカニのように横歩きが可能となり不幸中の幸いで蜂窩織炎でたびたび併発する高熱からはまぬかれているのでこうして原稿を書けている。というか一日中家から出られないのでそれくらいしかできない。

蜂窩織炎という言葉は故二子山親方(元大関貴ノ花)が苦しむなど大相撲の力士でその名をたびたび聞いてきた。さては先週日本相撲協会のあり方を批判した報いかと今だからオチにもならぬ戯れ言を書けるも本当につらい症状だ。しかも予断は許さない。

医師によると私の症状はまだ軽い方で人によってはふくらはぎの上部まで赤い腫れが来るという。小さなケガからばい菌が入り体力の弱った時期に多く発症する。主要なばい菌としては黄色ブドウ球菌などがあげられる。
黄色ブドウ球菌のしわざなのかと驚く。常在菌が悪さをするのをわが体内の自衛隊が撃破できなかったらしい。以前にMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)の取材をした際に病院で二次感染に遭った医療従事者から「黄色ブドウ球菌ごときに殺されてたまるか」とコメントを得てウケた記憶がある。ウケている場合ではなかったのだ。
平凡な常在菌による今の時期ではよくあると医師の顔に「オオッ!」という表情がいっさい浮かばないほどありふれた病気。それに2日間で一時期歩行不能にまで追い込まれる。つくづく人体とは弱いなあと痛感した。

そして人は必ず死ぬという命題を改めて胸に刻んだ。当面この病気を追い出すべく努力するし油断はならぬも深刻とまではいかない。だが歩けないとは大問題である。たいした病気でなくとも歩けなくなる。蜂窩織炎もこじれれば死に至る。だからここを出発点に死んでしまうかもしれない。
もちろん治る可能性の方が現時点では高い。でも治ったとしてもこの先必ず蜂窩織炎君と同等以上の敵がわが身に攻めかかり、今でさえ頼りない自衛隊が敗北する日が必ず来る。死期だ。その時の痛みとはいかなる凄さであるか。四肢はいかに滅びていくか。私は耐えられるのか。いやそれは愚問で耐えられても耐えられなくてもどうせ死ぬのである。

わが体内の自衛隊へ。君達が負けたのは悪い。だが敗報を痛みという形で司令部へ速やかに伝えたのは適切な判断であった。あそこまで痛烈にならなかったら病院内で私が「何とかしてくれー」と騒ぐこともなかったであろう。痛みは司令部へ早急な援軍派遣を求める手段として実に有効である。そして私の頼るのは結局君達しかいないので今後も期待する。というか頼むから頑張ってよ。

最後に気高き読者の皆様へ。私事をぐたぐた並べてすいません。ただ今日は本当にこれしか書く内容がないのです。精力の9割以上を左足首にかけているのでお許しを(編集長)

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「差別の原点」

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2007年6月 5日 (火)

香港で健康の秘訣を学ぶ

 突然ですが、私は病弱です。
 よく母から「食べることが健康につながる」と言われるが、あまり食事が好きじゃないし、偏食気味なので20歳の時に体を壊してしまった。
 その後、徐々に回復して健康を取り戻したが、あいかわらず食事嫌い。さらにたばこも吸っていた(今は禁煙)ので、南国暮らしの私はバテることが多かった。
 しかし、食の都・香港に移り住み、いかに食べることが健康にとって重要なのかを思い知ることとなった。

 香港人はよく食べる。本当によく食べる。一日中なにかを食べているんじゃないかというほど。
 街中にある軽食スタンド前にはいつでも人がいるが、夕方くらいになると黒山の人だかりができる。そこで香港の人たちは、揚げたなすやピーマン、ソーセージ、焼売、揚げワンタン、魚団子、ピーナッツバターを塗ったワッフル、たこ焼き……などなどバラエティーに富んだものを食べている。
 老若男女問わずそこら辺の道ばたで食べ、さっさと帰って行く。
 以前、香港関係の記事を読んだとき、「香港人はレストランの列に並びながらも何かを食べている」と書いてあったのだが、さすがに信じられなかった。
 食べ物屋の列に並んでいるならば、おなかがすいているのは当然だし、時間がかかるときもあれば、すぐに入れる時もある。いずれにしろ並んでいる最中は食べ物を口にしないのが当たり前だと思っていたし、今もそう思っている。
 なので、さすがによく食べる香港人を揶揄したネタだろうと思っていたら実際にいたのだ。
 ワンタン麺の店の列に並んでいた若い女の子が、たこ焼きを食べながら待っていたのだ。
 麺や食堂などは特に回転が速くあっという間に席に着けるのだが、休日は食べにくる人数が増えるので若干回転が遅くなる。とはいえ、ふつう食べるか!? というのが、正直な感想だ。
 しかし、香港の人からすると並んでいる最中に食べているものと、これから食べようとするものは違うことのようで、よく女性がいう「甘い物は別腹だよ」というのと同じことらしい(どこがどう違うのかは私にはわからない)。
 お腹がすいているんだから行列に並んでいようと食べるし、中に入ってもきちんと食べる。たしかに、それを習ってたくさん食べるようになった(並んでいるときは食べてはいない)ら、体の調子もよくなってきた。なれもあるだろうが、香港は日本以上に湿度が高く気を抜くとバテてしまうのに、バテなくなった。
 とてもよい傾向なのだが、体調がよくなると同時に太り始めてしまったのだ。食べるだけ食べてあんまり動かなければ太るのは当然だ。
 しかし、香港人は太っている人が比較的少ない。どうしてあんまり運動してないように見えるのに、どういうこと? と思っていた矢先、たまたま通い始めたスポーツクラブでその疑問が解消した。
 日本では敷居の高いスポーツクラブだが、香港では比較的リーズナブル。おじいちゃんおばあちゃんから学生くらいの若い子まで、たくさんの人たちが通っている。 パーソナルトレーナー(料金が高い!)をつけている人も多く、これで食べた分のカロリーを消費しているのかと思うくらいトレーニングにいそしんでいるのだ。
 一時間ランニングしたり、自転車をこいだり、筋トレをしたり……。触発されてトレーニングにいそしんだらやせた。嬉しかったしかし今は、太ってきている。
 汗を流し、一生懸命努力しているたくさんの香港人を見て、食べるだけでなく体を動かすことも健康の秘訣なのだということを切に感じたのだった。 (奥津)

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