学問・資格

2008年1月 8日 (火)

ガンダムで英語習得ができるのか

 会社近くの書店へ行ったら面白い本を見つけた。
 『ガンダムで英語を身につける本』(宝島社)!!

 『機動戦士ガンダム』第一作目(1年戦争とか、アムロ、シャアが出てくる)のセリフを使って英語習得しちゃおうぜ! という主旨だ。
 表紙にはガンダムファン(ガノタ)にはおなじみのアムロ、シャア、セイラさん、ミライさん……などの顔と、名ゼリフが日本語と英語で書かれている。
 例えば、「アムロ、ガンダム発進します!」→Gundam is ready! 
 いつ使うんだろう? と思ってはいけない。少し日本語をいじくって英語にすれば使える。
 この本の構成は5章立て。1章:シチュエーションを使って英会話をマスター。2章:さまざまなシチュエーションでの英会話。3章:キャラ別感情表現。4章:ガンダムQ&A。5章:英語対訳によるセリフ集。
 1章は、よく「映画を使って英会話レッスン」のような類の構成で、ガンダム自体を見ている人には嬉しい内容。しかし、そうでなければつまらない……というより買わない。
 きちんと文法解説や応用も載っていて、きちんとした構成になっているのが驚きだ。ただ英訳を見ると若干難しい単語や、「使える」「重要」な英文のために意味もなく英訳しているのが無駄なのではないか。
 とはいえ意外ときっちりしているので目をつむろう。
 2章は、ガンダムキャラというよりモビルスーツ同士の会話で英語を学ぼうというもの。
 言っていることについてなんやかんや言いたくはないが、警察のシーンがやばい。
 エルメスというキャラが「助けてください」、ガンダムが「どうしましたか、襲われたのなら被害届を作成します」という最初の4行まではいい。
 だが、続きのエルメスのセリフ、「突然、あいつが目の前に現れて、お互いに心の中で口論になって……」(5行目)、「他に特徴は?」というセリフに、「心は共鳴していたのですが、他には何も……」。
 なんていうか電波飛ばしすぎ。実際にガンダムに乗ったアムロと、エルメスに乗ったララァが互いの心で共鳴しあって会話をしていたシーンはありました。
 しかし、これを覚えて応用ってできるのだろうか。「他には何も……」(I don't remember anything else)だけなら使えそうだが、ただひたすらこのシーンのセリフを使いたかっただけなんじゃないかと邪推してしまう。
 それ以降の章については、実際に本書を購入するか立ち読みしてほしい。
 ネタのために大昔「萌え単」を買ったが、それ以来の衝撃度数高めの語学書(語学書とはあまり書きたくない)だった。
 『トヨタ流・英語上達術』(ソフトバンクビジネス)よりは実戦向け、かつ面白い。
 英会話上達の早道は、上達術を知るよりもボキャブラリーを増やしてガンガンしゃべりまくれば上達する。リスニングはとにかく英語を聞きまくる(音楽とか映画とか)。
 上達への早道は、海外へ行ったらとにかくなんでもいいから「積極的にコミュニケーションをとる」ことが意外と重要だったりする。(奥津)

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2006年8月31日 (木)

静岡大学教育学部附属静岡中学校

というのは私の母校である。長い名前だ。ひらがなで数えると30字もある。三菱東京UFJ銀行でさえ20字だから際立つ。そこで当地では大胆不敵にも「附中」と略す。
「当地」といっても国立中学なので範囲は広い。校舎は静岡市内にあるが東は富士市あたりまで校区に含む。JR富士駅とすれば東海道線で40分以上離れている。
その範囲で「○○附属中学」または「○○付属中学」は他にあるに違いない。それらは略せばみな「ふちゅう」である。だが当地ではそうしない。「ふちゅう」といえばわが母校のみを指すのである。
なぜかというと有名校だからだ。単にThe teacherといえばアリストテレスを指すように、地名もつけずイングランドサッカー協会は自らをThe Football AssociationまたはThe Associationと呼ばわるように。

こうした黙契は学校名にもしばしばある。武蔵工業大学はかつてMITと自称したが当然いろいろとあって今ではMi-techとする。茨城キリスト教大学はIbaraki Christian Universityだから当然ICUと略すかといえば皆さんご存じの理由でそうしない。学校のロゴはIC、ホームページはhttp://www.icc.ac.jp/。でもユニバーシティーなのにカレッジのCは苦しい。帝京大学は帝大とは自ら略さない。
実はこの辺は皆かつて細かくいきさつを取材していろんなところで書いた。

元に戻ろう。なぜ附中が有名校かというと当地有数の進学校で当地の上流階級や秀才が集うからだ。そんなところになぜ私がいたかというと中学受験で合格したゆえである。私の家は褒めまくって中流、正直を申せば中の下か下の上であるから上流階級ではない。だったら秀才だったとなる。少なくとも小学6年生まではそうだったようだ。
自慢と読まれるかも知れぬが私も43歳となって気高き読者にはお里が知れている現在、12歳の段階で地方じゃ秀才だったという話を自慢げに書く人間ではないとわかっていただけていよう。ないしはそうした程度を自慢する小人物だと逆に納得していただいても構わない。
何でそんな昔話を書くかというと先日同級生から突然電話がかかってきたからだ。何でも来年の創立60周年を記念した同窓会名簿を作っているが私が消息不明になっていてネットで検索していたらこのブログのプロフィールでわかったとの話であった。
消息不明。私らしい状況である。私はこのブログ以外はペンネームで書いているので、ブログを開いてなかったらずっと不明だったかもしれない。消息不明の一因は私が当時の同窓生とまったく接触していなかったからだ。中学に限らず私は驚くほど仕事関係以外の付き合いを大切にしない。多分突然死んだら葬式は仕事関係者ばかりが集まって私の遺影を前に名刺交換をするであろう。
だがこれだけでは消息不明の必要十分条件の片方しか満たさない。もう片方は私以外の同窓生が私に何の関心も抱いていなかった点だ。寂しいというよりホッとする。多分嫌なやつだったはずだ。なぜならば今でもそうだから。だが「積年の恨み晴らさで・・・」ほどには嫌われていなかったようだ。そうした同窓が1人でもいれば消息そのものはわかったわけだから。

では何の思い出もないかというと1つ大きな感謝がある。それは果てしなく自由な校風だ。何しろ信じられないくらい生徒会活動が盛んで私は新聞係長(係は一般の委員会に近い)を務めた。ちょうどその頃が創立30周年で教官(国立では教諭ではなく教官)が係の保存している古い写真などを貸してくれと言ってきた。
その頼まれ方が横柄に感じたのであろう。生意気盛りの私は何らかの条件闘争を担当教官として、それを飲まない限り資料はいっさい渡さないとの闘争を貫いた・・・ような記憶がある。すいません。ディテールは忘れました。子供じみているが何しろ子供だったのだから仕方がない。
一事が万事「教官恐るるに足らず」みたいな気風で生徒総会も中央委員会も毎度ロングラン。政権を狙う勢力が複数存在して言論での抗争を果てしなくやっていた。
そこで市井にも言論という武器があること。時に教官とさえ渡り合えること。その代わり自己の言論には責任もともなうこと。言論と言論のぶつけ合いが民主主義の原点であること。その大きな役割を新聞は果たしうること・・・・などを知った。
私は愚かだからそんなこんなに熱中しているうちに成績がジェットコースターのように降下してしまったが代わりに得た体験は大きかった。もちろんそれが動機となって長じて新聞記者になったというわけではもちろん・・・・ある。あるから困る。以前に本田靖春の著作の影響が大きかったと書いたが次の動機が中学時代だった。

今になって振り返ると優等生を集めた上での自由は安全をあらかじめ担保しているという点で本来の自由ではなかったのかもしれないとも思う。教官に勝ったと威張ったは実は教官の負け芸にすぎなかったと教官と同じ以上の年齢になってわかる。だが何にせよ溢れんばかりの自由を謳歌できる環境を与えてもらったのは幸いだった。
なんて延々と書いているということは、やっぱり電話かかってきてうれしかったってわけか。照れるじゃないか。何に対してかって。わからない。(編集長)

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2005年11月27日 (日)

総合学習こそ学力低下を救う

2002年度から実施された小学校の学習指導要領、通称「ゆとりの教育」が否定された。学力低下などの問題を起こすからだそうな。でもそれでよかったのか。

この改定の象徴的な問題として「円周率が3.14ではなく約3として教えられる」が挙げられた。しかし私はそんなに重大な問題とは思えない。
そもそも円周率は現在では500億ケタ以上があることがわかっていて、3.14自体が省略されたものにすぎないし小数点以下を「約」とするのは常識的でもある。
だいたい円周率は一般にπという記号で計算されるので小数点以下があるという以上に細かい数値をやみくもに覚えても仕方がないのだ。
実際に役立つか否かという観点に立っても、設計など精密な作業では3.14で計算はしないわけで、3.14もまた役立たない。日常生活というところまで下ろして考えても、そもそも円周の長さを計算する場面などほとんどない。それは台形の面積などを教えないという批判にもいえる。

真に問題なのは、学校の授業時間数の大幅削減の代わりに導入される「総合的な学習の時間」(総合学習)が意義なしとされた点だ。実は似たような試みは戦前や終戦直後にもあったが、やはり「学力を低下させる」という理由などで次第にみられなくなった歴史がある。
だから02年以降の試みに対して「学力を低下させる」という批判が出たのはむしろ必然なのである。

総合学習とは何か。理念は明確で、「子どもが自ら考え主体的に判断し、表現したり行動できる資質や能力の育成を重視」する「新学力観」に基づく。それは「個性」「多様性」を重視し、児童・生徒の主体的な取り組みを求める。そのためには討論などの要素も取り入れよと指示した。
実は私は総合学習の味方である。理念自体には全面的に賛成なのだが問題は具体的な方法だ。「個性」を伸ばすために「主体的な取り組み」をさせる具体的なシステムである。これは難しい。なぜならば究極的に「主体的な取り組み」をめざすならば、教育者は不要だという矛盾があるからだ。
また「個性」とは個々に違うから個性であり、個別の指導が不可欠であり、個性とは誰にも似ていないから個性なのだから、誰かが「こうしなさい」と教え、それを踏襲した時点で個性ではなくなるという矛盾もある。
加えて公教育は文部科学省の学習指導要領というガイドラインに原則として縛られるので真の総合教育を行うだけの能力と発想があっても実施できないという可能性が否定できなかったし実際にそうした声もある。

こうした難問を乗り越えて総合学習が成功すれば「学力を低下させる」元凶どころか、既存の教科にも一層主体的に取り組む子ども達が増えていく希望の星となったはずだ。それを簡単に葬り去った。懸命に取り組んで一定の成果を出したり真剣に模索した教師の努力は何だったのかといいたい。

だいたい学力低下とは何だ。「ゆとり」の反対は「詰め込み」である。私の世代はいわゆる現代化カリキュラム全盛で去年まで中学1年生で教えていた科目を小学校6年で教えるといった難化一辺倒であった。現在では高校数学ⅢCの領域になっている指数・対数関数を数1(現在の数ⅠA)で教えていた。
その結果何が起こったか。猛烈な数の落ちこぼれである。学校にいる時間の大半は授業である。その多くがサッパリわからない児童・生徒が続出したのである。
私とて例外ではなかった。私はいわゆる「10で神童」の類で小学生ぐらいまではまったく勉強しなくても成績優秀であったが余勢を駆って秀才が集う国立大学附属中学に進んだらもういけない。成績は急降下である。高校に進んでからはつまらないのでサボりまくっていた。青山学院大学に合格したのは奇跡だ。いまだに深く感謝している。おそらく10代前半までの勢いが何とかかんとか残っていたお陰であろう。
それでも私はまだ「10で神童」だったからよかった。小学校のクラスの半分近くはすでに落ちこぼれ気味になっていたのだ。あれを再現すればいいとは決してならない。

学力低下を嘆くのは教師や大学の教授に多い。おいおい人のせいにするなよ。児童・生徒に教育を授けている当事者は誰だ。「分数のわからない大学生」を批判する大学教授よ。その学生に入学の許可を与えているのはどこか。あなた方は誰の出資で生活できているのだ。
この際極論を正論のごとくいおう。分数がわからなくたっていいじゃないか。私はさすがに分数はわかるが上記のように成績不振のまま大学生になったという点では同じだ。そこで面白いことが1つでも2つでも見つかれば十分なのである。
そしてそのきっかけになり得たのが総合学習だった。

大学生に問うといい。彼らが悩んでいることの1つに自分探しがある。就職時のエントリーシートに何を書けばいいかわからないというのだ。まさに総合学習が目指した「自ら考え主体的に判断し、表現したり行動できる資質や能力」の欠如である。
今は高度成長期のように「ふつう」であれば中流の生活が保証されるわけではない。「ふつう」は勝利ではなく敗北を意味する概念になった。そこから脱するには自分一人で局面を打開する姿勢が必要である。
ところが学力低下を悩む向きは現代化カリキュラム思想という高度成長期の概念を持ち出してきた。時代錯誤も甚だしい。
ノスタルジアを自分で楽しむ分には構わないが若者に押し付けるなど以ての外である。

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2005年11月19日 (土)

「新しい歴史教科書」騒動のくだらなさ

扶桑社版の中学校検定教科書『新しい歴史教科書』(西尾幹二代表執筆者)をめぐる賛否両論の論争について何かを述べなければならないと思いつつ、これまで触れずにきた。
というのも、私が何かを指摘する以前に賛否両陣営から洪水のような指摘が日々報道され、その多くが私の気づいた点と一致していて、改めて指摘する必要がなかったからだ。

ただ一点だけ賛否両陣営とも無視している点がある。それは「教えられる立場」の実情をまったく顧みていないことだ。

「新しい歴史教科書」は中学だが、中学・高校の日本史といえば、大半の生徒は、「定期試験があるから」「受験に出るから」やるというのが主な動機だ。
もし試験に出るという事実がなければ、大半の生徒はほとんど覚えようとはしないはず。否、試験に出たとしても、一夜漬けや駆け込み勉強で切り抜けようとする場合が多い。教科書を作成するなど、歴史教育を考える上で最も憂慮すべきは本来この点である。

受験でいうならば中高一貫教育の学校や、東京都の場合ならば3教科での高校受験を選択した生徒に日本史は関係ない科目である。また受験科目にあったり、定期試験で出される場合も、その大半は一問一答などの「客観テスト」形式であり、賛否両陣営ともども問題視している指摘の大半は答えを導き出す何のきっかけにもならないので、熱い論争は試験や受験という現実そのものを生きている中学生には無価値である。
要するに試験のためだけの歴史教育になっている現状を改めなければ当事者の生徒にとっては何の意味もない論争だといいたいのだ。

この問題が最初に起きた2001年の朝日新聞8月22日の「天声人語」に以下のような記述があった。

(前略)戊辰戦争については10人中2人だけが「聞いたことがある」と答えた。(中略)インターネットを使って国公立大学の大学生から聞いた結果だとして、ある人から教えていただいた

「戊辰戦争」は、どんな傾向の教科書でも必ず掲載されている非常に有名な出来事だ。にも関わらずこの記事が正しければ、その用語を「聞いたことがある」が5人に1人しかいないのである。
戊辰戦争の内容を知らないというのではなく、聞いたことさえないとする人が、一定の知的水準にあるとみられる「国公立大学の大学生」でさえ80%を占める現実には慄然とさせられる。
本来、聞いたことがないはずはない。なぜならば学校では必ず教えていて、特に受験に日本史を選んだ人は知らずに済むはずがない用語だから。

賛否両陣営に問う。教育を受ける側にいる中学生から、この教科書問題の論点を、どちらの側でもいいから、切実感をもって受け入れられたと確信できる何かがあったか。それがないとすれば生徒というまさに教育を受ける主役を無視した空理空論である。
私は史学科の出身である上に歴史に基づく取材をかなりしてきたので高等学校の教科書に載っている事項のほとんどをそらんじている。別に自慢でも何でもなくわずかな特技を磨くことで生きる糧を得ているに過ぎない。
その背景をもとに調べたことがある。私は日本史で受験をして早稲田や慶應義塾のような難関校に進んだ多くの大学生を知っているが受験で覚えたことの大半は忘れている。そりゃあそうだ。あんな瑣末で日常に役立たない知識を覚えていても仕方がない。「天声人語」の指摘はほぼ事実であろう。
つまり日本史という科目は私のような史学科に進むといった自殺行為(文学部の男性は自虐を込めて自らの進路をそう呼ぶ)をしでかす者以外は、トップレベルの入試問題を解けるだけの暗記をいったんした者でさえ合格後は蜃気楼のように消えていくのだ。事実さえも忘れる。だから賛否両陣営が争っている解釈や認識など最初から問題にならない。

もうお里が知れているので卑しい言葉を使おう。必死で論争している方々よ。あなた方のやっていることは中高生の頭のはるか上を通り過ぎている自慰行為だ。

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2005年9月27日 (火)

教育基本法見直しの賛否両派とも不純

現在は連立与党の公明党(というより池田大作先生)が消極的なので表だっては論じられていないが教育基本法の見直しは01年11月に当時の遠山敦子文部科学大臣が「新しい時代にふさわしい在り方」を中央教育審議会に諮問した時点から自民党内で脈々と進められていていつ顕在化するかわからない。

いうまでもなく教育基本法は「教育憲法」などと呼ばれる日本の教育制度の根幹で全部で11条からなる短い法律だ。読んだことのある人には釈迦に説法なのだがこの法律のどこに問題があるのかわからないほど立派な内容である。強いていえば立派すぎるのが問題かもしれない。

改正論議は「伝統・文化の尊重」「国際化や生涯学習社会への対応」「家庭教育の役割と学校の関係」などの視点を視野に入れているようだが、条文を読む限りでは、それらが排除された法律だとはいえないし、「基本法」にあえてそうした概念を明示する必要性があるのかという疑問もある。そもそも基本法とは立派すぎるぐらいでちょうどいいともいえる。また書いたから実践されるというものでもなかろう。という見方もできよう。

先述のように「立派すぎる」に関してはむしろ同法擁護派が唱える「基本法の精神が骨抜きにされてきたから現在の教育の荒廃がある」という意見から改正派に力を与える擁護派にとっては皮肉な結果になりかねない。すなわち「骨抜き」ではなくて内容が立派すぎて具体性が乏しいために具体的な方針を定めることもできないのだと改正派に反論の余地を与えるのだ。

どのような方向で改正するかという議論も盛んである。擁護派は戦前の国家主義的な方向への改正を懸念し、改正側は現実に教育に大きな問題がある以上、その根幹である基本法を見つめ直すには当然だと主張している。どちらも一理あるが擁護派にも反対派にも私が肩入れできない理由は「教育を受ける側」つまり子どもの実態をどちらの陣営も最優先して考えていないという点にある。

擁護・改正派が本当に気にしているのは「日本国憲法改正」への懸念や興味ではないかという疑いを入れざるを得ない。先に「教育憲法」という言葉を紹介したように、1947年の教育基本法の制定は、前年に制定された憲法の主旨を踏まえた内容である。憲法が最高法規である以上、その主旨を踏まえた立法を施すこと自体は実に当然だが、「教育憲法」にまで祭り上げられたがゆえに、擁護派はその改正が憲法改正への一里塚に感じられて反対し、改正派の一部には基本法改正を憲法改正につなげようと意図が見え隠れする。

いずれにせよ「教育を受ける側」をないがしろにしているという理由はここにあるといっていい。憲法改正に賛成か反対かを問わず憲法論議が主目的で、それを達成するための一里塚として基本法改正に賛成または反対するという姿勢である。双方とも結局は教育基本法をダシにしているといわざるを得ない。
教育基本法に関わる議論は、まず憲法改正論議との関連を遮断して、教育問題を主として行われるべきである。そうでないと、いつまでたっても「本当の目的」のための不純で不毛な議論になってしまう。

まず現状分析を綿密にして「教育を受ける側」が切実に求めている問題点を挙げ、その解決のために基本法の改正が必要であれば行う。他の目的はないとはっきりさせれば、真に意味のある議論が可能なはずである。

私は「伝統・文化の尊重」などよりもずっと改正論議に挙げるにふさわしい問題があると常々感じている。たとえば教育基本法6条には「学校」は「国又は地方公共団体の他、法律に定める法人(学校法人のこと)のみが「設置」できるとしているが。ここを変えて、一定の条件下で民間にも学校設置を開放したらどうであろうか。「特区」ではなく普遍的に認めるのだ。活気づくと思いませんか。

擁護派は擁護派ゆえに、6条改正も言い出さず、改正派も憲法改正を視野に入れている勢力は6条などあまり問題にしていない。しかし、「立派すぎる」基本法にあって、この条文は最も具体的な規定の一つであり、ここを変えると劇的に学校制度を変えることが可能である。民間が学校を設立できるようになっても、教育を受ける権利を保証した憲法26条に直ちに触れることもあるまい。
今の教育基本法改正論議は抽象的で不純で不毛であって「教育を受ける側」にはさっぱりわけがわからない。擁護派が本当に擁護したいならば自ら「教育憲法」の呪縛を解いて基本法の精神をより鮮明に具体化できる改正案を携えて打って出るぐらいの気概がないと「守旧派」「サヨ」のレッテルを貼られて葬り去られよう。

一方で改正を支持する人はそれを唱える面々の経歴を調べてみるといい。文教族とか何とかいわれている人達だ。彼らに「新しい時代」「国際化」「家庭教育の役割」などと主張する権利があるのかという歴々ががん首を並べている。改正の議論はいい。でもアンタにだけは言われたくない人々と言い換えてもいい。彼らが主導権を握った改正など不愉快である。

本当は実名を挙げたいところだが名誉棄損がこわいので止めておく。最近の名誉棄損(民事の方)は簡単に認定される上に損害賠償額が異様に高騰しているのだ。この件に関しては表現の自由を脅かす事態なのでいずれ徹底的に批判する予定である。

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