ペット

2006年9月16日 (土)

坂東眞砂子の随筆と家畜としての猫

別に子猫を殺そうが食べようが構わないが野良猫にして発情期に人間の泣き叫ぶような大声を出されるのは堪らないというのが個人的見解である。かつて住んでいた都区内某所は低層階だったため朝からうるさくて仕方なく閉口した。
だから坂東氏の行為には何の反発も持たない。本当に殺していればの話だが。というのもこのストーリーテラーが事実を述べているか読み手の肺腑をつくための「芸」なのかわからないから。最後の「殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」の次に「実は殺してなかったりして」とオチを入れるのを止めただけかも。物書きの芸を楽しんだり疑ったりする余裕が現代の日本人には減ったのかね。大南北に騙されるとわかっていながら楽しんだ江戸っ子よりも知的に退廃したのだろう。

仮にエッセー通りだったとする。するとキモは「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ」という点と読んだ。猫に限っていえば、そもそもは家畜だったのである。
我が実家はかつて猫を飼っていた。だが「愛玩動物として」ではない。天井裏とおぼしき産所からネズミが出て困ったからである。ネズミ取りに引っかけてはバケツに水を入れて装置ごと水没させて溺死させていた。それを残酷だとは思わなかったし今になっても変わらない。残酷だと言われたこともない。
それでもネズミは次々と現れる。やつらは病気を運んでくるのが最大のやっかいだ。そこで猫の登場である。小学校次に飼っていた我が猫の実力は抜群でネズミだけで生命を保っていた。この将軍に論功行賞として刺身などを与えたは当然である。単になぶり殺しにするだけで食べない場合もある。どうやら種類によっては臭気があるらしい。でも殺しはしてくれる。
したがって何の血統書もなくともネズミ取りの名手として子猫は近所に引き取られていった。なかには野良猫との間にできた子もいたろうが(将軍はもてたから)近隣の農家でモグラを叩きのめしたりと活躍していた。例の発情期の大騒ぎも軍功ゆえに何らの不快感もなく将軍の勝ちどきにすら聞こえた。別に荷駄を引く猫だっていたのである。
こうした家畜としての猫の歴史は6世紀までさかのぼる。

したがってネズミやモグラ、害虫を駆逐する将軍としての猫の役割がないならば飼うべきではない。「愛玩動物」などもってのほか・・・というより下らない。ペットロスという言葉を聞くに至っては言葉も出ない。そんなことで空の巣になる精神構造の持ち主は死ぬがいい・・・と思わず坂東さんの「芸」を下手くそに真似した断定をしそうになった。
別に猫を嫌いではない。むしろ大好きだ。我が将軍のしぐさは一日中見ていて飽きなかった。でもそれは将軍に役割があったからである。その役割に私への癒し(イヤな言葉!)を求めようなど露とも願わない。

捨て猫を見つけた自分に猫への役割が与えられなければ迷わず行政に依頼して殺処分してもらうしかない。放置すれば明らかに害獣になるから。残酷だって? じょあネズミ取りにかかったネズミの処分は残酷だったと非難できる根拠をも示していただきたい。だって命は等価でしょう? 殺生すべてがいけないとのロジックは有り得ようが残念ながら宗教的な大慈悲心を抱けるほど悟っていないので悪しからず。
猫は長じると孤独を好む。ネコ科で群れをなすのはライオンぐらいではないか。だから愛玩(かわいがる)と感じているのはヒトの側だけで猫にもし感情があれば放っといてくれとの「哀願」の方である。あなたの家の猫はなついているって? それは餌をくれるから。(編集長)

| | コメント (4) | トラックバック (0)