グルメ・クッキング

2009年1月24日 (土)

志布志事件の被害者を陰で支えた焼酎王・中村鉄哉さん 

 中村鉄哉さんは無教会派の長き求道者である。2003年には焼酎類全体の出荷量は日本酒の出荷量を上回った焼酎ブームが去り、焼酎業界は前年比で7割から8割程度の売り上げを残すために汲々しているが、中村さんのルネサンス・プロジェクト社の収益は過去最高である。志布志事件で冤罪に泣いた蔵元を世界に売り出した商魂の陰には、聖書と算盤の調和を追求する経営道があった。

 Photo
 中村鉄哉さん(49)は、山口県防府市から北海道大学に入学後、新渡戸稲造の影響を受けた無教会派の松沢弘陽教授と出会った。内村鑑三が生んだ無教会派は聖書のみをよりどころにする日本型のキリスト教集団である。
「丸山真男先生の弟子の大政治学者と知り合い、松沢先生と聖書を読むようになりました。札幌の隣に江別市大麻という町がありますが、毎週日曜日に通っておりました」
 聖書研究会に参加して、禅宗の家に育った中村さんは、「女々しい、善人、正直」程度しかなかったキリスト教徒に対する偏見が打破され、強い宗教だと知ったと述べた。一例として、「右の頬を打たれたら左を出しなさい」という聖句を指摘した。
 内村鑑三ら札幌バンドの世界に憧れ、文部省の交換留学生として米国マサチューセッツ州立大学に留学するほどの意気込みを持った時代もあった。しかし、アメリカ人牧師の英語の説教を聞き取れかけた頃には留学が終わったと苦笑する。卒業後、三井物産で商社マンの道を歩み始めて、忙しくて、信仰生活から離れた。
 課題はいかに信仰生活に復帰できるか。キリストについていくべきところを松沢先生のカリスマについていった形になったと反省し、昨年春、息子さんが進んだ先は父親と同じく北海道大学経済学部だったと微笑む。「勧めたわけではないのですが、私と同じように、YMCAに住み、北大で無教会派の先生と聖書を学んでいることは嬉しいと思います。父親の私は復活の教えを理解できませんでした。まだ洗礼は受けていませんが、超越者を意識することが多くなってきております」
 本音を吐露し、信仰不足を告白する中村さんだが、キリスト教的価値観を体現することもある。九州の地方に行くと、焼酎の製造元と酢の製造元の間に身分格差が今もある。両者は同じテーブルに座らない。中村さんは不合理な因習を排した。「部落差別の原型がまだありました。キリスト教の影響で社会正義を信じていまして、ビジネスの世界で私なりの義侠心を見せることもあります」
 ブランド名は八起。先年、メディアの注目を集めた冤罪事件・志布志事件の被害者が作っていた焼酎である。その蔵元とは冤罪事件以前から知り合いだった。励ますためにも悲劇を逆手にとって、人生、七転八起の一節から取り、有田焼きの容器につめて売り出し、2007年グッド・デザイン賞も受賞した。
 同社のベストセラー商品は柚子小町。全国的に知名度が高く、若者の間で圧倒的人気がある長崎県の壱岐産のリキュールである。
「まだ3年目です。最近になってやっと安定してきました。今年が勝負です。ご声援ください」(李隆)

※ルネサンス・プロジェクト社のサイトはこちら

  問合せ先は 092-736-5111

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 9日 (金)

ある意味頑張った船場吉兆

 社長自ら刺身を使い回したとは、なかなか思い切った行動に出たものだ。
 そう、船場吉兆使い回し事件である。
 吉兆となれば懐石。だから一品一品が客の前に置かれている時間は短い。とはいえ手を付けていない皿をすぐに下げるわけにはいかない。しかも刺身が出てくるのは先付け、吸物も続く3品目である。まだお酒が進んでいるころの皿だから、早くても15分近くは客の前に置かれていたはずだ。
 これぐらいの時間で刺身が変色するとも思えないが、生ものだけに社長の行為が料理人に与えたインパクトは大きかったろう。料理人の緊張の糸が一気に切れ、刺身が使い回せるなら焼き物はすべてOKだと思ってもおかしくない。

 新聞報道によれば、銀ダラやハモ、牛肉などの焼き物、さらにアユの塩焼きも使い回しされていたという。これらを自分が食べて気づけるかというと自信がない。まず、アユの塩焼きについては、夏に露天などで売っている鮎でさえ「ウマイ、ウマイ」と食ってしまうのだから焼き直しに気づくはずがない。銀だらにいたっては味の濃い粕漬けとかなら絶対2度焼きを見破れないし、塩焼きでも油が多い魚だけにムリ。牛肉なんて最初がレアに焼いてあれば、火を入れ直したってこんなものかと思いそうだし……。見破れる可能性が若干でもあるとしたら焼きハモだろうか。繊細な味わいだけにって、いや、よく考えたら味が繊細過ぎて、いつもどんな味か思い出せないのに見破れるわけない。
 となると私は船場吉兆でも特に不満はないってことになる。

 船場吉兆には訪れたことはないが、以前に京都吉兆にはうかがった。とても緊張する食事だったので味はよく覚えていないのだが、まあ、場を保たせるという意味合いではよい店だったという印象がある。京都吉兆とすれば同じ括りにされるのも癪だろうが、事件発覚前の船場吉兆も似たような評価だったのではないか。
 ネットの情報によれば、船場吉兆のお値段は、お座敷で懐石コース料理を食べると昼で26250円から、夜ともなれば36750円である。ここまで高くなれば客が求めているのは味だけではない。欲求は好みの分かれる味よりも、空間やサービスに向かっていく。会合に向いているかどうか、招待する自分のメンツが立つかどうかが重要なのだ。そういう意味では落ち度のない料理さえ出してくれれば、もだえるほど美味しくなくとも「名店」としてやっていける。
 ただし、こういった店で鳥肌が立つほど美味しい食事に巡り会うことはない。なぜなら料理人がだれるからだ。祇園の千ひろ、駒場東大前のミラヴィル、ジャック・ボリー時代のロオジエ、一口食べた途端身もだえた名店はどこかに緊張感が漂っていた。ギリギリまでウマイものを追求しようとする緊迫感が、温かなサービスと別に店を覆うからだろう。
 逆に社長自ら刺身を使い回した姿を見れば、厨房はソコソコの料理でいいかという気分に満ちる。残念ながら、そんな場から最高峰の料理は生まれない。

 以前、箱根で素敵なフレンチをだすホテルがあった。夜のフルコースはもちろん、朝のリゾットまで一切手を抜かなかった。20年ほど前、生まれて初めて食べたリードボーは、今でも鮮明に記憶に残っているほどだ。
 ところが10年ほど前にオーナーとシェフが経費削減の問題でもめ、シェフは独立して北海道に店を構えてしまった。そこから料理の味はもちろんサービスの質も低下していった。
 数年前に久しぶりに訪ねたら、もう店を包んでいた緊張感はまったくなく、以前のレシピをまねて作ったであろうトンデモない料理がテーブルに並んだ。当然、ホテルとしての付加価値はなくなり、値下げ競争の第一線で「活躍」するホテルとなってしまった。
 そんな凋落を目にしているだけに、20年前から緊迫感を失ってようもったな、と船場吉兆には妙な感心をしてしまった。(大畑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月14日 (木)

バレンタインとデジタル・デバイド

 先週、フードデバイドについて書いた。そこまで深刻じゃないが、ちょっと気になっているのが食品とデジタル・デバイドについてである。

 じつは2月2日にチョコを買いに行った。といっても同性愛者になったわけではない。チョコ好きの友人から頼まれ断り切れなかったのだ。お目当てはヴィタメールの「薔薇のショコラ」2100円也。(高いすぎでしょ、コレ……)

 バレンタインデーが近づくと売り場も混むし、何より女性の集団に負けずに購入する元気も勇気もないので、2月2日(土)の開店直後、日本橋高島屋に出向いた。もともと顧客の年齢層が高い日本橋店だったこともあるのか、バレンタインデーの特設会場はガラガラ。ところがヴィタメールの売り場で死ぬほど探しても、お目当てのチョコがない???

 高島屋のバレンタインデー特別販売期間は1月30日からで、3日間しか店頭販売していない。まさか売れ切れでもないだろう。だとしたらメーカーを間違えたのかもしれない。
 でも、ただでさえ会場で浮いているで店員に尋ねる勇気もなく、特設会場入り口に置いてあるバレンタイン用のパンフを見直してみた。ところが、やっぱりお目当てのチョコはヴィタメール製だった。

 結局、ショーケースにかじりついて探し、そのあといきなり会場入り口に戻ってパンフをめくり、また脱兎のごとくショーケースに戻ってくる不審な客となった店員に質問した。
 店員さんによれば、「薔薇のショコラ」はネットで注文が殺到。もう店頭への入荷の見通しが立たないとのこと。「じゃあ、どうすればいいのか」と質問すると、個数の制限を超えていないならネットで注文するのが確実とのこと。実際、ネットで注文して商品が届いたのだが、このメーカーの対応は面白いと感じた。

 ネットで人気が出ているとなれば、店舗でも売上げが期待できるはず。でも実際には店頭よりネット販売を優先したわけだ。店頭販売用のパンフレットに写真が掲載されていたのにもかかわらずである。
 ただ、理由はわからなくもない。とにかくネット注文が殺到しているのだから、天気によって売上げが左右される店頭よりロスが少ない。また、店頭なら「売れ切れです。もうしわけありません」と言われたらけっこう納得しやすいとも思う。少なくとも「もう売り切れなんてさいてー!」とかネットに書き込むこともないだろう。

 デジタル・デバイドとは情報量の差から生まれる格差と考えていた。例えば転職などは紙媒体よりネットの方が質が高いといわれる。企業側も「ネットぐらい扱えないとね」ということらしい。そのためネットの情報を得られる人が有利になる。
 ところが今回のチョコは「薔薇のショコラ」が売り出されるという情報を得ているかどうかの差ではない。購入方法を直売ではなくネットを選択することに格差が生まれる。
 これと同じような構造を持つ食品としてルセットのパンがある。2斤近くあるパン1ホールで3000円。驚愕の値段だが、とにかく大人気らしい。で、問題の購入方法だが商品はすべてインターネット販売。携帯電話経由のネット販売も受け付けていない。ホームページなどを読むと、めちゃくちゃこだわって作るため作れる個数も限られており、ネット注文に応じて販売するのが合理的らしい。

 食品は賞味期限があるだけに店頭で売ればロスが生じる。逆に大人気の商品を店頭販売すると店の前に行列ができかねない。もちろんネットで販売すると送料がかかるし、試食などができないという問題もある。それでも、こうした問題をクリアできる食品のネット販売は増えていくのではないだろうか。

 かつて店頭販売と通信販売を比べれば店頭に優位性があった。チケットぴあに電話しても繋がらないから、プレイガイドに早朝から並ぶという選択肢があったわけだ。ところが、この優位性は逆転しつつあるのかもしれない。

 ネットを当たり前に使いこなしているとあまり感じないが、じつはネットに接続できない人は少なくない。デジタル・デバイドについ、ちょっと考えさせられたバレンタインだった。
 もっと考えることもありそうだけどね……(大畑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月 8日 (金)

毒入りギョーザ事件で本格化するフードデバイド

 毒入りギョーザ事件により中国産の生鮮野菜の価格が下がり始めたと報じられた。『日経新聞』によれば、「流通量の約6割を占める中国産サヤエンドウの2月1日から5日の平均卸値は1キロ145円。前年同期より55%、1月下旬に比べても29%安い」というから、かなりの値下げ幅だ。この需要分が国内産へと流れるのだから当然、国内産の野菜は値上がりする。

 この記事を読んで、日本におけるフード・デバイドは新たな領域に入ったと実感した。

 わたしが「フード・デバイド」という言葉を知ったのは、船橋洋一氏のコラム「米国のスーパーサイズ症候群。フード・デバイドが新たな格差問題に」だった。『週刊朝日』(2006年6月23日号)に掲載された記事を、半年ほど遅れてネット上で読んだのである。
「フード・デバイド」とは「食物格差」とでも訳すべきもので、地域格差や貧富の差によって、食べ物はもちろん食生活が大きく違うことを示す。
 当初、フード・デバイドで注目されたのは、米国での肥満の問題との絡みだった。前述の船橋洋一氏のコラムには、米国のロバート・ウッド・ジョンソン財団がまとめた「危機に瀕する国:米国の肥満症」という報告書から、次のような結論を抜き出している。

●シカゴでは、白人が住むノーウッド・パークでは子どもの23%が肥満症だが、黒人とヒスパニックの居住地区では58%から68%が肥満症。
●ニューオーリンズでは、低所得層と黒人層の居住区ではファストフード店がはるかに高い密集度を示している。
●低所得層の女性は高所得層の女性に比べて50%以上、肥満症になる確率が高い。

 ファーストフード店が肥満の大きな原因となっているなか、低所得層の住む地域にファーストフード店が密集し、当然のように低所得層が高所得層より肥満の人が多くなっているというわけだ。肥満が生活習慣病を引き起こす要因になることを考えれば、低所得者と高所得者の疾病率や死亡率にも差が出てくることだろう。
 
 今後、このような格差が日本でも起こってくるに違いない。ただし格差は肥満として表面化するのではない。何十年後かにいきなり疾病率という形で表れる。残留農薬が心配な野菜やBSEの感染が疑われる牛肉など、安価の代償として食物の危険を引き受ける可能性が高いのは低所得者層だ。特に都市部の低所得者が危ない。自分たちで作った野菜などが食べられる田舎なら、まだ安全性だ。
 もちろん高い食材が必ずしも安全とは限らない。しかしお金を出せば、とりあえず安全な食物を選べる可能性は出てくる。

 以前、有機無農薬の農家に取材したことがあったが、市価より高値になるのは仕方がないと感じた。というのも、どんなに手間をかけても、農薬をまくほどには生産を安定させられないからだ。虫が多い年もある。植物の病気が流行りやすい天候もある。それを経験と知恵で乗り切っていくのが農家の腕の見せ所とはいえ、やはり自然の前には屈せざるを得ない。そうしたロスを全体としてならし、少しずつ野菜の値段に転嫁していかなくては、農家も生活できなくなる。結果として少しずつ野菜の値段が上がる。逆に言えば、消費者の生活が本当にギリギリだと、無農薬の野菜は買えなくなってしまう。

 一方、危険だと市場から判断された食材の値段はどんどん下がっていく。そして市場で腐ってしまうのかといえば、もちろんそんなことはない。どこかの誰かがホクホク顔で買っていくわけだ。以前、米国でも捨てるくず肉をメキシコ経由で外食チェーンが買った報じられたことがあったが、同様のことが国内の市場でも起こるに違いない。

 結局、一番安全なのは食材を厳選した自炊。次は食材の値段をある程度落とした自炊。最悪なのは激安の外食ということだろう。わたしの日常生活は間違いなく最悪の部類。しかし自炊をできる環境にもなければ、カネもない。これぞ「格差」。数十年後にフード・デバイドの恐ろしさを知ることになるかもしれない。(大畑)

関連記事:「毒ギョーザ」にみるリスク管理

http://kenuchka.paslog.jp/article/819998.html

| | コメント (2) | トラックバック (4)

2007年12月21日 (金)

クリスマスのディナーはやめておけ!

 クリスマスが近い。ミシュラン発売が大騒ぎになったことだし、星付きのレストランはきっと大いににぎわうことだろう。以前触れたように『ミシュランガイド東京版』は「東京いい店やれる店・2007」なのだから、きっと星の数と男の情熱は一致するに違いない。バブル期、同じティファニーのオープンハートをプレゼントされるのでも、シルバーよりゴールドの方が「偉かった」ように。

 こんなふうに書くと、クリスマスイブが大掃除、クリスマスが仕事の恨みをはらせるようで少し嬉しい。まあ、星付きの店を予約している人は、そんなことを気にも留めないだろうが……。

 そもそもクリスマスシーズンにイタリアンやフレンチに行くのは控えておいた方がよいのだ。まず料理が高くなる。クリスマスのスペシャルメニューと称して、選択肢のないコースが1.5倍から2倍の値段になる。プリフィックス制がうりの店であっても、この時期は例外。しかも客を大量にさばくために、時間制を設けて1テーブルに2~3組の客を入れる店も。当然、サービスは荒くなる。
 スペシャルメニューなのでたいてい食材が高級になるが、普段より美味しいかは微妙だ。時間がなければ火入れの時間が短くできる料理が多くなりがちだし、普段より丁寧に作る時間がない。

 というわけで、イブの夜の外食を彼女などからせがまれたら、きっちりと断るべきであろう。「本当に美味しい食事を君と食べたいから」などと言いながら、クリスマスディナーのコストパフォーマンスがいかに悪いかを説明すればよい。わたし自身はこのような説明をする必要に迫られなかったが、実際に10年以上、イブの豪華ディナーなど食していない!

 しかーし、賢明なる読者の皆様方におかれましては、どうしてもイブに彼女や奥さまを食事に連れ出さなくちゃいけなくなった方もいるでしょう。
 というわけで、そんな読者の方に逃げ道を1つ。

 狙い目はランチである

 たいがいの店はランチを通常料金で出している。しかも「戦場」となる夜に向け、体力を温存している店内は何ともユルく、かなりゆったりと食事ができる。また、意外なほど空いている。外はクリスマス一色なのに、レストラン内は弛緩しまくりというミスマッチはけっこうお勧めだ。
 さすがにミシュランで星の付いた店は昼でもいっぱいだろうが、「アスクユー」あたりで高得点をたたき出しいてミシュランで星が付いていない店なら、まだ可能性があるだろう。

 ランチなので夜に比べるとかなり安くつくのもありがたい。デザートが充実している店ならば、クリスマスケーキを別に買う必要もない。昼だとクラシカルなコッテリ・フレンチもけっこう美味しく食べられる。
 ほら、いいことずくめでしょ!(大畑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月20日 (木)

本当に安全な農作物にJAS表示がない!?

 現在、「有機栽培」や「無農薬栽培」と表示をするには、国が定めた検査に合格しなければならない。2001年4月のJAS法が改正によって定められたものだ。
 「有機」や「無農薬」といっても基準がバラバラ、本当にマジメに取り組んでいる農家かさえ分からない。安全に対する国民の意識が高まっているから、今まで通りの農法で表示さえ変えれば高く売れると考えている農家もあるだろう。そんな消費者の不安に応えた法改正のはずだった。

 ところが一部の良心的な有機栽培の農家が、JAS法に基づく有機無農薬の検査・認証を申請していないという。その理由の1つが検査員の旅費や手数料だ。もともと有機無農薬の農法は従来のものより手間もコストもかかる。しかも農薬や化学肥料を使わないとなれば、当然のことながら生産が不安定になる。ときに虫が大量発生し、農作物に壊滅的な打撃を与えることさえあるという。そうした有機無農薬の農家にとって、10万円以上にもなる検査費用は安くはない。
 
 またJAS改正法成立そのものについても、不信感を持っている人は少なくないという。この法律の推進に大手商社の影がちらついたため、海外から格安の「有機無農薬野菜」を輸入するのが目的だと疑われているのだ。実際、法律改正後から中国の有機農産物が大量に輸入されている。

 もともと有機無農薬を目指した農家の多くは、従来の農法に疑問を感じた人たちだった。安全を確保するのはもちろんのこと、その土地で採れた野菜をその土地で消費することで、人も生態系の大きな循環の中に生きていくことができる。そうした理想に向けて、ムリを承知で頑張ってきた人たちが大勢いる。そうした人たちにとって、野菜を大量に輸入するために作られたマークなど意味がないと感じるのは当然だろう。

 そのうえJAS改正法の定めた基準をごまかすことなど、さして難しくないのだという。実際、農薬を使った農作物から殺虫剤が検出されたとして、有機JASマーク表示業者としての認定を取り消す事件も起こっている。
 頻発する国内の食品偽装、さらに中国などで起こった食品汚染などの現状を考えれば、有機JASマークだけを信じろと言われても無理な話だ。
 
 結局、味もよく安全で、長年にわたってお客さんの信頼を築いてきた農家はJAS表示を申請しないで、大手流通に商品を流すことなく消費者に直接農作物を送っている。もちろんマジメに有機無農薬に取り組み、JAS表示を受けた人も多いだろう。
 しかし商品に自信があり、長年の顧客を抱える農家がJAS表示を申請せず、法改正に合わせて出荷できるよう商社の指導の基で3年間だけ農薬を使わなかった海外の農家がJAS表示を得た。

 どこかおかしくないだろうか!?

 今回話を聞いた、ある有機無農薬栽培の農家は「20年間、農薬を使わないで土地の微生物を整えて、やっと本当に美味しい野菜が採れるんです。一朝一夕にはできませんよ」と教えてくれた。
 彼の野菜はJAS表示をしていないが、その安全性と旨さに着目した料理人からも注目され、個人宅だけではなく高級料理店からも引き合いがきている。(大畑)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年11月23日 (金)

ミシュランには恥じらいが足りない!

 ここ数日、『ミシュランガイド東京版』の話題がメディアを駆けめぐっている。

 天才フランス料理人のベルナール・ロワゾーを自殺に追いやったとも言われるミシュランが、東京のレストランを格付けするとなれば興味をそそられる。星取りが発表された19日に、さっそく結果をネットで検索。自分のお気に入りの店が入っているかどうか調べ、独り大騒ぎをしていたわけだが、なぜかだんだん腹が立ってきた。何でこんなに腹が立つのかと考えていたら、秋葉原ブログを読んでいるときにひらめいた。

 ミシュランには恥じらいがなさ過ぎるのだ、と。

 今回、格付けされた店をチェックしてみて、正直どういう基準で選んだのかサッパリ分からなかった。たまたま発表の翌日、以前から予約していた店が1つ星を獲得。時節柄(?)、シェフとミシュラン東京版の話をしたが、彼も「基準がよく分からないんですよ」と笑っていた。

 フランス料理でいえばクラッシックな料理の店がけっこう選から漏れていた。一方でキャパが大きく、箱が立派な店は星を取りやすかったようだ。さして美味しくもないが、とにかくロケーションだけは立派な店がけっこう入っている。一方、味を考えると入らないのが不思議な店も。さらにコストパフォーマンスまで考慮したら、ミシュランが上位に挙げた店の多くはお勧めできない。最高峰の星3つは2人で6万円以上といったレベルの店がゾロゾロ。一体どうなんだと言いたくもなる。その一方で、あきらかに味だけで選んだと思われる店が、星1つに言い訳程度にちょこっと入っていたりするし……。

 結局、カネに糸目をつけない食オタクたちが、自分の好みで評価した本ということなのだろう。それなら分かるし、その手の本を批判する気はない。小社だって随分と偏った本を出しているわけだから(笑)
 でも、なぜかミシュランは「オレ様が全部評価したからよー!」と権威的に威張るのだ。プロの調査員があらゆる項目を調査し、総合的に判断したから間違いないのだ、と。ミシュランガイドの総責任者、ジャン・リュック・ナレ氏はテレビのインタビューで「異論もあるでしょうが、星がない店は努力が足りないのです」などと語っていた。

 ホントか!?

 そもそも、その「努力」とは一般に理解できない食オタクのこだわりに応えることではないのか。別の話にたとえるなら、「綾波レイのフィギュアの可動ポイントが3つほど足りないから星はあげられない」と言ってると同じじゃないのか、ってことだ。
 何度も繰り返すが、私はそんな微細な差異にこだわって、さまざまなモノを評価するのを悪いとは思っていない。私自身、レストランにはオタク的なこだわりがあり勝手に格付けしている。
 ただ威張るなとは言いたい。人には理解できないこだわりを表に出して、少し恐縮だけど、よければ利用してくださいね。そんな打ち出しがほしい。ある種の恥じらいを感じたいのだ。それこそ秋葉原ブログのように。

 レストランはシチュエーションごとに分けて選ばれるべきものだろう。それを一緒くたにして高みから評価した『ミシュランガイド東京版』より、女を落とせるのかという一点に絞ってレストランを評価した『東京いい店やれる店』の方が、はるかに良書だと思う。

 ただ朗報が1つ。
 先述した店も発表から問い合わせの電話が殺到。クリスマス周辺が一気に埋まったと聞いた。予約の入り方からすると、『ミシュラン』は『東京いい店やれる店』と同じ用途で使われるのかも! 「結局、ミシュランの星が多ければ女がまた開くんだって」などと本書が評価されるようになれば、ちょっと嬉しいかも。(大畑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月16日 (金)

レストラン・ロオジエの新たな一歩

 日本でもフランス料理店でも最高峰とも賞されるロオジエの料理長が、ジャック・ボリーからブルーノ・メナールに変わったのは2005年のことだった。それから2年、ロオジエの料理はさらに大きく変わろうとしているようだ。

 クラシック料理の王道を行くジャック・ボリーの料理は、M.O.F(フランス最高職人賞)を受賞したにふさわしい完璧なできばえだった。例えば牛のほほ肉の赤ワイン煮など、ある意味古めかしい料理であっても、これまで食べたことのないほどおいしい料理として提供される。伝統的な料理に何が足された、何かの変化を加えたというわけではない。むしろ、その伝統的な料理のバランスを究極まで整えたものだった。

 この料理人の後を継ぐシェフはつらい。伝統的な料理のできばえでボリーを上回るのは容易ではない。しかも同じような料理を作ったとしても、「新しいシェフなのに皿に変化がない」と批評家やお客が批判を始めるだろう。
 といっても斬新すぎる料理は好き嫌いが激しい。中ぐらいコースとワインを選んでも2人で10万近くかかってしまう料理店である。メニューによって当たり外れがあるなど、よほどの金持ちでなければ笑っていられないはずだ。

 もちろん東京のフランス料理店には、“冒険好き”のシェフがいる店もある。駒場東大前にあるフレンチなど、とにかく斬新な料理を作ろうと日々闘っている。例えばハモを焼きたいとなれば、身がバラバラになってしまう背切りを封印し、朝届いたハモを毛抜きで1本1本骨を取ってしまう。
 そうした情熱は一流の料理人のものだし、もちろん腕も一級品だ。ただし7~8皿に1つぐらいは、「アレ?」と思う料理が出てくる。料理人の冒険心に、客である自分の舌がついて行けなかった証拠だ。それでも1人1万ちょっとなら十分に納得できる。むしろ、そこまで斬新な皿に挑戦したことに拍手を送りたくなる。

 しかしロオジエとなれば値段も客層も“冒険”など望んでいない。だからこそ2005年にボリーからの推薦で選ばれたのは、伝統的な料理を基本として変化を加えていく「ネオ・クラシック」という料理スタイルを特徴とする料理人だった。実際、メナールはロオジエ就任当初にささやかれた不安を一層する働きをみせた。ソースが軽くなっても味を落とさず、組み合わせは意外でもクラシックな料理の基本までは崩さない。ボリーの料理が大好きで、少しでも気にくわなければ許さないと思っていた客の口を、料理の出来で封印したといってもいい。

 しかし先日、久しぶりに食べたロオジエの料理は、過去のメナールの料理より、もう一歩「斬新さ」に踏み出していた。
 例えば前菜で出てきたフォアグラのパテは、昨年の夏はシンプルだが極限にまで雑味をなくした代物だった。しかし今回は赤ワインと混ぜてまろやかにする一方で、フォアグラの雑味は以前より残してあった。またフォアグラに合わせる果実としてカリンを選択したことにも驚かされた。
 変化は料理だけではない。メインのナイフについても、スケルトンのプラスチックが付いたモダンなものに変わっていた。

 国民性というべきか、もともとフランス料理は「革命」が大好きだ。これまでにも世界各地の料理をたくみに取り込み、どんどん姿を変えてきている。1970年代に流行した「ヌーベルキュイジーヌ」では日本料理も取り入れられているし、最近では太平洋のどこかの諸島の料理を取り入れるのがブームになったとも聞いた。
 その意味ではメナールの踏み出した一歩はフランス料理人として当然の一歩なのかもしれない。しかし私はついていけなかった。そのチャレンジ精神に期待して通うほどの金もない。もしかしたら舌が守りに入っているのかもしれない。これも歳か……。(大畑)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年11月 9日 (金)

『ねこ鍋』にヨダレだと怖いだろうな~

 秋が深まってくると思い出す話がある。鹿の“美味しい”殺し方だ。数年前にジビエのエゾシカを食べながら聞いた話である。

 なんでも美味しい肉を取るためには、どれだけ急所を外さないかが重要らしい。急所を外して撃つと、当然のことながら鹿は暴れる。そのときに血が肉に回って肉の味が落ちてしまうというのだ。そのためにハンター気配を消せるだけの距離を保ち、きっちり狙ってしとめるんだそうだ。

 じつは殺し方が肉の味に影響するのは鹿だけではない。マグロも殺し方で味が違ってくると、大間の寿司職人に教えてもらった。彼曰く、釣るのは誰もでもできるが、釣った後の処理をきちんとできる人は大間でも数人しかいないそうで、少々値段が高くても殺し方のきちんとした人からだけ買っているとのことだった。実際、そこまでこだわった大間のマグロは、これまで食べたマグロと全く違う味だった。トロの油から植物的な香りが漂う。その香りの爽やかさは鮎に通じるとも感じた。

 こうした話を思い出すと、人はなんと深い業を背負っているのだろうとも思う。だが、美味いものは仕方がない。私は生来の食いしん坊で、ベジタリアンでもないから殺し方で肉の味が違うなら、しっかり殺してくれと思ってしまうし……。
 実際、海釣りに出かけてサバを釣ったときなどは、鮮度を保つために自らナイフを使って首からサバ折りにしてガンガン血を抜いた。こうした行為を嫌だと感じたことさえない。

 で、フッと思ったのだが、自分は美味しさのために、どこまで殺せるだろうか? 技術を別すれば、鳥・牛・豚あたりはいけそうな気がする。例えば白金豚やイベリコ豚が目の前にいれば、おそらく飛びかかるだろう。
 では、ネコはどうだろう?
 現在の感覚では、ネコに飛びかかって殺すなんて耐えられない。でも、これは食事の対象として見たことがなかいからだろう。もしジビエの猫が大好物だとしたとした、最近よく売れている写真集『ねこ鍋』(講談社)など、もうよだれをダラダラ流して見ていることだろう。「うわー、このまま火にかけて~」とか叫んで、大ひんしゅくをかってしまうかもしれない。

 実際、ジビエの鴨が好きなってから、冬場に鴨を見ると「カワイイ」というより「美味しそう」と感じるようになってしまったのだから。数年前には池で遊んでいる鴨を見て「いやー、ジビエの季節だね。美味そう」と思わず言ってしまい、彼女からかなり冷たい視線を浴びたことさえある。

 この伝でいえば、もし私が美味しい人肉を食べるようなことになれば、雑踏に出るたび、あるいは満員電車に乗るたびに、「美味そうー」とよだれを垂れ流すことになりかねない。メタボのオヤジなんぞを見かけた日にゃ、トロの部分(ジントロか!?)をガン見だろう。う~ん、かなり怖い。

 で、どうしたというと困るのだが、まあ、人肉やネコ肉を食べる機会がなくてよかったと思っているだけだ。ではまた。(大畑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月22日 (金)

「おフランス」的文化の壁は高し

『ちびまる子ちゃん』の漫画を英語に翻訳していた知り合いが、キザな花輪くんの雰囲気を伝えるためにセリフの一部をフランス語にしたと話してくれた。なるほど英語圏でもフランス語はキザな印象を与えるんだと感じたものだ。
 
 じつはフランス料理も、この「おフランス的」高級イメージに頼っていた時代が長かった。典型は結婚式などの演出としてフランス料理を食べることだろう。ただソースに使う野菜や料理用のワインの問題もあり、1980年代のホテルのフレンチでさえ本場の「まかない飯」クラスだったとも聞く。まさにイメージ先行である。

 これがバブル時代となると、高級イメージが女性を口説くための道具に変わる。バブル期はイタリアンがブームだったが、クリスマスなどはフランス料理を食べて一流ホテルに向かうというコースが絶大な人気を誇っていた。ホイチョイプロダクションの『東京いい店やれる店』にも、けっこうフランス料理店が入っていた記憶がある。

 しかし、ここ5年ほどの間にフランス料理は大きな変化をとげた。その要因となったのは安価なプリフィクス制だ。前菜2品、メイン、デザートあたりを、何品もの皿から選べるシステムでありながら、計3000~6000円の値段。
 庶民感覚からほど遠い値段を請求されないし、ちょっとおしゃれ。しかもうまい!
 もう、うまくないフレンチに5万円も払うようなことはなくなった。ただ、もっとカジュアルでおいしい、いわゆるビストロのようなフランス料理店はさすがに少ない。
 特に居酒屋クラスの気軽なサービスを提供する店がない。なんとなくフレンチというだけで敷居が高くなってしまう国民性によるのだろう。その点、フランス人シェフがオーナーの店「ル・プティ・トノー」はスゴイ。サービスを担当する2人の外国人はまるで漫才師のよう。皿を置いては奇声をあげたり踊ったりしてくれる。とにかくお客を笑わせたいようだ。

 袖が触れそうなほど詰め込まれた席で、このサービスを受けると、もしかしたらパリの街角のビストロはこんな感じかもと思えるから不思議だ。もちろん料理はおいしいが、この店の雰囲気も楽しみの1つではある。

 で、ふっと思ったのが、このサービス、日本人にできるだろうか?
 なんとなく無理そうな……。鴨のコンフィーの皿を運びながら、客いじりする給仕。客が引くかも……。
 居酒屋の大将がそんなんでも楽しく笑えると思うのだけど。

 つまり、ここ数年の価格破壊でいくらフレンチが身近になったようでも「おフランス」そのものはまだまだ遠いわけだ。だからどうしたと言われても困るのだが、ちょいとそんなことを感じてしまった。(大畑)
 

| | コメント (0) | トラックバック (2)