アニメ・コミック

2009年5月24日 (日)

5月19日 永山薫さん・昼間たかしさんイベント参加報告

 去る5月19日、阿佐ヶ谷ロフトAで行われた「『マンガ論争勃発2』発売記念!! 昼間たかし東大入学お祝いイベント
永山薫vs昼間たかし これが現実だ!と、言われても… 」
に、行って参りました。

 会場いっぱい盛りだくさん、およそ80人という聴衆でひしめきあっていました。スタートとなる19時の時点で、女性参加者は4人。ということは、男性が75人!! みんな仕事帰りなのでしょう、上着は脱いでいるもののスーツ姿が多かったです。ネクタイを緩めようよと突っ込みを入れたい誘惑にかられるメガネ男子が多数。30代が圧倒的に多めの会場で、昼間さん・永山さんが登壇してトークが始まりました。

 そしてすぐに我らが著者・塩山芳明の出番。奥山の救いようもなく暗いナレーションのあとに登壇し、ここでは書けないようなことばかりを暴露していました。きっとロフトの神様がそうさせるのでしょう。著書『出版奈落の断末魔 エロ漫画の黄金時代』に沿い、エロ漫画の勃興と衰退についてお話をしたわけですが、売れなくなった原因を表現規制に求めるか否か、劇画とロリ系の売れ行きの関係など大まじめな話題で抱腹絶倒の渦に観客を巻き込んでいくトークはさすがでした。本もとってもよく売れました!

 お次はBL漫画研究家の金田淳子さん、女流エロ漫画家の中田雅喜さんが登壇され、これまた過激な話のオンパレード。とても部外者がブログに書ける話ではありません。そして昼間さんが脚本を手がけた映画『おやすみアンモナイト』の監督・増田俊樹さんと主演女優・大塚麻恵さんが映画についてのお話をされ、コミックマーケット準備会共同代表の市川孝一さん・赤ブーブー通信社の武田圭史 さん・同人誌研究家の三崎尚人さんがコミケの現場での表現規制などについてお話をされました。漫画に大量に触れている人々なだけあって、オチなどのタイミングが絶妙。笑いに包まれる中、一水会顧問の鈴木邦男氏がシークレットゲストで登場し、更なる盛り上がりを見せました。全部終わって11時、明日仕事であろう大部分のお客様も最後まで楽しまれ、大成功のイベントでした。

 ところでこれはタイトルにもあるとおり昼間たかしさん東大入学記念のイベントでもあったのですが、不覚にもお祝いを全く持っていかず、ただの乗っかり営業になってしまいました……本当に申し訳ございません、このご恩は必ずやお返ししたいと思います。ここに誓います。(奥山)

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2008年7月 2日 (水)

範馬勇次郎vsゴルゴ13vsケンシロウ

範馬勇次郎とゴルゴ13とケンシロウが戦ったらどうなるのだろうか

①範馬勇次郎vsケンシロウ
勇次郎はあらゆる武道(戦場格闘技も含む)に精通しているから北斗神拳も使えるはずだ。しかし正統伝承者しか知らない秘奥義までは知らない可能性がある。どちらも素手での戦いとしたらバリエーションで勇次郎、秘奥義でケンシロウか。
しかし両者ともにスポーツ選手ではない。勇次郎は戦場格闘技という要するに何でもありの戦いで磨き上げている。ケンシロウは暗殺拳だ。つまり気取られないよう接近するプロである。となると勇次郎がケンシロウの接近を察知できるのかが重要になる。
戦いの精神構造も違う。ケンシロウは相手が敵ないし悪とみなさなければ戦わない。対して勇次郎はしばしば相手が強いという理由だけで「餌」としたがる。だとしたら一般的には勇次郎が仕掛けてケンシロウが受けるという形になろう。勇次郎にとってケンシロウは「餌」としての魅力は十分だろうから仕掛ける。先に動いた方が有利というケンカの基本を考えれば勇次郎優勢だ。もっとも北斗神拳は多分に受けの要素が強いから必ずしも不利ではないとの反論ができよう

②範馬勇次郎vsゴルゴ13
まずゴルゴは自らを狙う者以外は高額の報酬がないと動かない。その点は安心だ。一国の軍事力に匹敵する範馬勇次郎を消したい大金持ちやエージェントはたくさんいるから。逆は考えにくい。確かにゴルゴの身体能力は高いけれども真骨頂は射撃である。これまで勇次郎がガンマンにそそられた例がほとんどない。
さてゴルゴといえば背後である。勇次郎は奴の後ろに立てるのか。そうなって勇次郎に勝てなかったり逃げられた場合は戦い以前にゴルゴのキャッチフレーズが崩壊してしまう。
実際の戦いは超長距離から偽装なり何なりしてゴルゴは銃で勇次郎を仕留めようとするのがスタンダードである。戦場で鍛えた勇次郎は「ゴルゴが狙っている」と知っていたらどんなに遠方にあっても狙撃されないポジションに身を置くはずだ。だがゴルゴはそうして警戒してきた何者をも殺してきた。文字通りの「矛盾」の世界がそこに展開されるのだ。
では依頼を受けたゴルゴが密かに勇次郎へ銃口を向けたらどうか。つまり勇次郎がゴルゴに狙われていると知らなかったら。勇次郎の肉体は鍛え抜かれているが決して弾を跳ね返すとか避けられるといった感じではない。ほぼそれに匹敵する俊敏さはあるものの基本的には接触しての勝負だ。となるとゴルゴが強烈な武器ですごく離れた地点から狙ったらやられる可能性はある。事実勇次郎はかつて麻酔銃で眠らされた。
しかし「バキ」の世界観は当然ながらゴルゴ13のような存在を想定していない。だからゴルゴと勇次郎が現にあると互いにわかったら勇次郎側が選択肢として「オレはゴルゴに狙われる可能性がある」を排除しないであろう。ともに裏社会に生きる身でそこでの知名度は絶大だから名を知らないなどあり得ない。
つまり「知らなかった」という油断がそもそも勇次郎にはないとなる。むしろ十分に予測して逆にゴルゴを密かに襲うであろう。それをゴルゴが探知できるかといったら疑問だ。彼にはビジネスがあるので勇次郎を警戒して出歩かないという選択はしたくでもできない。対して勇次郎の戦いはもっぱら自発的で非営利だからやろうと思えば動き出す。ここがゴルゴの弱点となるだろう

③ゴルゴ13vsケンシロウ
まず前提条件をどちら側にするか問題となる。「北斗の拳」とすればカネの効力が無力化し暴力のみが支配する世界観だからゴルゴに依頼する金額自体に意味がない。「北斗の拳」でも銃はなぜか横行しているからゴルゴに武器がないわけではないが狙う動機がなくなる以上狙わない。ケンシロウは敵か悪しか相手にしないからゴルゴを倒す動機がない。よって両者は戦わない。
「ゴルゴ13」の世界観とすると、そもそもケンシロウは正統伝承者になっているかとの問題が浮上する。「北斗の拳」によると義理の次兄トキがその第一候補だったが核戦争で被爆して自ら降りた形となる。実際には核戦争は起きていないのだからトキが伝承者となりケンシロウは拳を封じられて指圧師あたりになっているのがせいぜいだ。だからやっぱり戦わない。
それらを取り払って戦ったとしたらケンシロウが有利であろう。北斗神拳は自らの体を鋼鉄上にする気功法を持つ。つまり弾丸とて跳ね返せる。だから互いに戦っているとわかっている前提ならばスティンガーを用いるとか地対地ミサイルのボタンを押すとかなる。そんなのゴルゴじゃない。
勇次郎と同じくケンシロウがゴルゴに狙われていると知らなかった時はゴルゴ勝利の可能性があるものの「北斗の拳」でケンシロウがゴルゴほどの殺し屋が、自分以外ならばともかく自身を狙っている気配を察知しないとは考えられない

というわけで結論は出ない。ここに江田島平八やアラレちゃん、スーパーマンなどを交えるとさらに面白くなりそうな気もするけど止めておく……というか面白いか? というより範馬勇次郎vsゴルゴ13vsケンシロウという設定自体が面白かったか。面白いとしても私の記事そのものはつまらないのではないか。(編集長)

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2007年10月14日 (日)

「死化粧師」を観る 第2回/血の涙がでる

 深夜ドラマ「死化粧師」第2回を観ている。
 冒頭、患者がいきなり血を吐いた。吐血って、結構死んじゃうんじゃないかと思うくらい血が出る。
 床の材質にもよるのだが、お掃除が下手だと、血の跡が丸く残ってしまったりするものだ。ドラマでは、日ごろ病院内の清掃員をしているエンバーマー(遺体衛生保全の専門家)、間宮心十郎がその後始末をしていた。
 まあ、清掃員だから始末するのは彼の仕事として当然のことなのだが、それでも、ああ、なるほどな、と、思った。
 エンバーマーと病院清掃員。どちらも、人が目を背けたくなるほど壊れてしまったものを、何もなかったかのように「修正を施す」仕事だ。他人の体液にまみれながら、その場を日常へ引き戻そうとする。

 葬祭ディレクターをしていたころ、ご遺体から血が流れる場面を何度か目撃した。血が出る方は、肝臓が悪いことが多い。腹水が出てくるのだ。
「腹水が溜まる」という言葉は、聞いたことがあるとは思うが、「腹水」なんていわれると、さらさらした水のようなものをイメージしてしまうものではないだろうか。実際は、まったく違う。外見上はただの血だ。ただ、一瞬で吐き気を催すほどに、臭い。腐っている血ほど臭いもんはない。

 布団にお休みになっている遺体から、腹水が逆流してしまうことがある。腐った血は発酵するかのようにプチプチと異音を発しながら喉元にせり上がってくる。そして体中の穴という穴から流れ始めるのだ。
 それはたいてい、顔にかけてある晒が赤く染まっていることで気づく。
 不思議に思ってぱっと晒しをはずすと、目から耳から鼻から口から、血が流れている。発見してしまう家族は気の毒としか言いようがない。きっと、夢に出てくるだろう。
「おかあさん、おばあちゃんが血の涙を流してるよ」なんてホラーな会話が、現実になされてしまう。一度流れ始めてしまった腹水は止めることができない。脱脂綿でふさぐにも限界がある。逆流を抑えればいいのだが、ご遺体を立たせておくわけにもいかない。
 よって「腹水の全出し」が行われる。
 ご遺体をうつぶせに近い状態にしてみぞおちをぐっと押し、腹水を全て吐かせてしまう。その現場はあたかも、屠殺場のように血であふれかえる。私はその現場をはじめて体験したときから、どんなに二日酔いの朝でもトマトジュースを飲むことはできなくなってしまった。
 この仕事をしていると、食べられなくなるものがどんどん増えてくるなあ、と苦笑いしながら、挙句の果てには連鎖反応でトマトのにおいをかいだだけで吐き気を催すようになった自分を嘆いていた。

 ちなみに、ご遺体が血の涙を流していたら、その血には絶対に触ってはいけません。(小松朗子)

「死化粧師」公式サイト↓
http://www.tv-tokyo.co.jp/shigeshoshi/index.html
 絶対に「シゲ笑死」とか言って笑ってるやつがいると思う。

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2006年11月24日 (金)

『アカギ』リスペクト「総裁選麻雀・鷲巣邸編」

東3局

東 鷲巣純一郎     2万8000点

南 鈴木太郎      2万2000点

西 赤木晋三      3万1000点

北 安岡禎一(私)   1万9000点

――日本を支配する闇の帝王・鷲巣純一郎と麻雀をするために鷲巣邸を訪れた赤木・安岡・鈴木の3人は、1種4牌のうち3枚が透明のガラスで作られた「鷲巣麻雀牌」での闘いに挑む。首相を目指す赤木と院政への野望を抱く鷲巣。
 いま密かなる主導権争いが勃発する。
 麻雀ですら読者が制限されるのに、さらに『アカギ』(竹書房)を知らないと全く意味の分からない展開。すでに何をしたいのか書いてる当人すら怪しいが、とりあえず鷲巣の言葉を小泉に話させたかったのは間違いない……。――

「そう、わしの1票は赤木君に入れることを決めている。その意思を尊重することこそ、まさに天命。3枚が透明の雀牌だけに、意思の遂行は明確。ククク、わしに逆らわず赤木君を勝たせ、わしの点数もマイナスにしないしない気遣い。それこそ鷲巣邸での総裁指名麻雀の鉄則だっ…!」
 ライオンヘヤーをかき上げながら語った鷲巣は三索を切る。三色決め打ちの手筋だ。同時に上家の私に一索切りを促すサインでもあった。ガラス牌に透けて見える「二索・三索・一萬・二萬・三萬・一筒・三筒」の並びが、それを示している。
 確かに麻雀としての勝負など、ただの形式に違いない。しかし政治生命が危うくなるほどの負けが許されないのも事実。鷲巣と赤木にサービスをしながら、どこまでマイナスを抑えられるかが勝負となる。

「迷っている、そうだろう安岡君。ジュンチャン三色なら鳴いても3翻。そろそろ振り込むのもきつくなる点数だっ…。カカカ! 次回の総裁選も気になる。だから振り込みたくないし、わしの手を進ませたくない。だが、わしに逆らうのは怖い。その恐怖をわしは見たいのだ。
 障害者自立支援法やら、健康保険法改正やら法案を通すことに、国民の心の核、底の底、深部が凍り、本当に震えだした……! わしは、それが見たくて、その恐れ、恐怖を見たくて、見たくて見たくて…、もう何人も…弱者を殺してしまったよ……!」
 鷲巣の声を聞きながら鈴木は四萬を切る。鷲巣に振り込めるよう、中張牌 (チュウチャンパイ)から切る作戦のようだ。
 続く赤木は黙って一筒切り。
 私が手に掛けたのは一索だ。牌の集まりが悪い中、一二三索が揃う1メンツから切り出すのはツライ。しかし牌を持ち上げようとした途端、赤木が声を発した。
「死ねば楽になるのに…。安岡さん、気配が死んでいるぜ。背中に勝とうという強さがない。ただ助かろうとしている。博打で負けの込んだ人間が最後に陥る思考回路。あんたはただ怯えている」

 そうか。デキレースとはいえ、勝負は勝負。私の頭で何かがはじけた。
「消費税は10%にすべきだー」という雄叫びとともに、浮いている八萬を切り捨てていた。
「ククク、ククク、殺せということだな……! 天が刑の執行を命じた! 目障りなのさ神から見たらおまえは!」
 笑いながら私を睨み鷲巣は二索を切る。
その牌に反応したのは赤木だった。

「ロン。マンガン」

ざわざわざわ…

「気持ちが押されているから軽々に勝ちに走るっ! 反抗されたことのない者の焦りだな。
 勝ちを急がなきゃ三色で勝てた。ほんの2~3巡我慢すれば勝てたのに、何を恐れているんだか、意外に臆病だな鷲巣純一郎」
 鷲巣の顔が怒りに震えた。
「同じ死ぬのなら勝ちへの道を走り死のうとしたっ。脱走を企てる者が9割9分無理と知りつつバカな脱出に賭けるように、奇跡を信じてみたかったか……!? しかし現実は往々にして無惨……! その結果を自分で味わってみるがいい」

――赤木晋三からの思わぬ反撃に激高する鷲巣。ここから赤木の猛烈な攻撃が展開するはずだが、元来チキンの安倍晋三に赤木のセリフを当てはめるのは不可能。
 結局、麻生太郎に至っては何もしゃべらないまま、『アカギ』リスペクト「総裁選麻雀・鷲巣邸編」は幕を閉じるのであった――

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2006年2月13日 (月)

闘牌伝説アカギとトリノ五輪

毎週火曜日深夜(曜日は水曜)に日本テレビで『闘牌伝説 アカギ』という麻雀アニメを放送している。私はまったく麻雀のルールを知らないのだが何のきっかけか毎週見るようになった。
何しろルールのわからない私にはCM入れて30分の放映時間中、徹頭徹尾何をいっているのかサッパリわからないのだ。例えば先週の「第19話 鬼神の昏迷」における決定的場面(らしい)会話は以下の通り。主人公のアカギが「爺さん」こと敵役の鷲巣に逆転した瞬間だ。

ナレ「パーソー引き、鷲巣、ウーピン切りでテンパイ」
鷲巣「勝った。これでウーピン切りの後、鈴木がワシにウーワンを差し込んで終わり。(中略)」
アカギ「ロン」
鷲巣「エッ!」(と驚く)
アカギ「トンチュン。親のヨンジュンプ(?)リャン。爺さんザンク直取りで逆転だ」

?やカタカナ部分などはルールを知っていればわかるのかもしれないが、ただ聞き起こしただけだとこうなる。
それをなぜ見るのかというと完全に無駄で無意味な30分を週に1回味わう喜びを感じたのである。「お前は不完全だ」と思い知る瞬間は恥多き人生ゆえ多々あるが、ここまで自分の無知が明らかになる番組は珍しい。

アカギの声を萩原聖人が担当しているのもいい。萩原はあんなきれいな女優さんを妻としたのに家庭を顧みずに麻雀三昧などの挙げ句に離婚した筋金入りである。ルールを全く存じ上げない私でも口調から「こいつは本物だ」ということが何故かわかる。
プロフェッショナルしか言葉に重きを込められない専門用語というのは世に存在する。例えば私が「闘本伝説 アストラ」という脚本を作ったとして「零細版元の青焼きを真っ赤にされたら真っ青だ」とか「先生は5日はサバを読んでくるから、こっちも進行を10日ぐらい早めに伝えてちょうどいい。それ以上になると初稿の出の遅さを怪しまれるからな」みたいなセリフを考えたとして出版をまるきり知らない人がアテレコしたら多分真実が伝わるまい。

ネットでちょっとだけ調べてみると一様に萩原聖人が冬ソナのヨン様を担当したことに驚いている。これも面白い。多分「アカギ」ファンの大半は雀鬼だ。だからアカギに萩原は適役と考えて声優としての彼を私と同様にネットでちょっとだけ調べてみたらヨン様だった。イメージが重ならないから驚いたというのが真相であるのは疑いないが、それ以前に驚けたということは雀鬼のほとんどは冬ソナに全然関心がなかったとの何よりの証拠であるという点が実に面白い。
『ヒカルの碁』のように碁を知らなくても楽しめるストーリーではないから「アカギ」は痛快である。碁のルールも私は毛ほども承知しないのでアマチュア本因坊戦の取材に駆り出された時は心底凍った記憶がある。

もっとも私のような楽しみ方をするヒト科はほとんど存在するまい。私とて週に30分だから楽しめるのである。ところが・・・・昨日当たりから毎日「アカギ」的番組が長時間放送されているのをご存知か。冬季オリンピックというやつである。
例えば今日(12日)「男子ハーフパイプ」という名の競技が行われているが何が何だかサッパリわからん点でアカギに匹敵する。
というより実況自体はほとんど何を言っているのか聞き取れない分だけアカギよりも難解とさえ訴えられよう。競技後のスローモーションでの解説でやっと聞き取りぐらいはできる状態だ。

解説「これもしっかりグラブ・・・・ツーグラブをしようとしているのですね今。手が2回出ましたね」
アナ「ちょっとやり過ぎの感もありますね」

何でこれで会話が成立するのだ!

解説「このツューフェイキ(?)というのは標準技として扱われますのでスタンダードエアは知っていることになると思いますんで・・・・」

「謎でしかない解説」というあり得ない日本語を当てはめるしかない。

だいたいハーフパイプというのは日本のどこで誰がやっているのだ。何でハーフなのだ。
確かにこれだけならば調べればすぐわかる。だが冬季五輪の競技はこんなのばっかりである。それを不祥事続出の公共放送が延々とたれ流して国民は暴動を起こすどころか見入っているというのは理解に苦しむ。こうしたマクロなニーズさえ理解できないから私の見立てる本は売れないのかと悲嘆にくれるしかない。

そこで私はひそかに名づけた。これは「内股すかし現象」と。柔道技をまるで知らない大半の日本人が2000年のシドニー五輪での柔道男子100キロ超級決勝戦でフランスのドイエ選手に敗れた日本の篠原信一が実は「内股すかし」で勝っていたとワーワー騒いだ「事件」だ。多くの日本人があの時初めて「内股すかし」という名を覚えた。でも説明できる人は当時も今もほとんどいないに決まっている。要するに空騒ぎ。それがまだまだ何日も続くのだ。

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2005年10月14日 (金)

「官から民へ」とドラえもん

「官から民へ」「民間にできることは民間に」。9月11日の総選挙で小泉首相が繰り返したフレーズで多くの国民が共感した。
あれは何だったんだろう。どういう仕組みで共感の渦ができたのか。
郵政民営化関連法案も三位一体改革も道路公団民営化も特殊法人の独立行政法人化も全部中途半端で「官」が肥大化しただけの「民営化」に過ぎないという批判は消し飛んだ。飛んだには飛んだなりの理由があるはずだ。中途半端とまで思う人が少なかったか、それでもいいと信じたか。

私はずっと考えた結果、小泉首相が「民」と名付けた集団の味方である。少々頼りないかも知れぬが味方には違いないとイメージさせたのが成功の理由ではないかと最近感じ始めている。

民(ミン)とは何か。それはタミのことである。普段はリーマン、主婦、学生、フリーター、パートタイマー、ヒッキーなど細分化されたカテゴリーに何となく属していた人々は自らを「民」と大枠でくくって意識したことはなかった。ただ公務員を除けば同時に「官」ではないという位置づけだけは知っていたはずだ。
それが証拠に「官」とは何かと聞くと大学生も社会人さえもハッキリと答えられる人が少ない。相当数聞き回ってきたが「官僚」「偉い人」「いろいろ決める人」「政治家」「役人」「公務員」と漠然としている。「自衛隊」「警官」と答えた社会人さえいた。ただ一点「自分はその『官』ではない」だけは明瞭なのだ。

「いろいろ決める人」と答えた人のなかには面接官とか指揮官という言葉が具体的にあった。民間企業の採用試験で面接を担当する人を「面接官」という。スポーツの監督やコーチを「指揮官」という。どちらも本来は「民」なのに「いろいろ決める人」に相当すると「官」というイメージとなる。
要するに我々はリーマンなり何なりのカテゴリーにいるらしいが「いろいろ決める人」ではない。そんな意識が充満する中で小泉首相は全部をひっくくって「民」という名を与えてすべてを放り込み「官から民へ」つまり「いろいろ決める人」は「民」の名を持つ皆さんですよといい「官」の象徴的存在である国会の否決決議を受け入れずに「民」に是非を問うた。
オレは実は「民」なんだ!「民」は「いろいろ決める」ことができると小泉首相は「官から民へ」と教えてくれた!素敵な名前を与えられて、しかもいかにも「民」な風の落下傘候補も多数擁立して小泉首相は本気で我ら「民」を信じてくれている。力を貸さずにいられようか・・・・まあそんな風ではなかったか。

仮にそうだとしたら我々は戦後60年何をやってきたかということになろう。私は自らを「官」に対置する時だけは「主権者」と胸を反らして威張ることにしている。「官」は「公僕」だ。「主権者」のオレ様に「公僕」ごときが聞いたような口を聞くなと。だって憲法にそう書いてあるから。私はガリガリの護憲ではまったくないが明治憲法の「官」が天皇という主権者に仕えて国民(臣民)を睥睨していたのに比べると「民=主権者」「官=公僕」という定義はしごく真っ当だと支持している。
若い頃はそのことに殊更にこだわってきた。私服で県政記者クラブに言っては先輩から怒られたが記者が「官」と同じ格好をしていたら同じ精神構造になってしまうでしょうとかみついていた。独立して広告を作っていた時も官公庁のSP関連の仕事を取る時のプレゼンは出来るだけド派手なシャツを着てサンダル履きなど当たり前でやってやった。お仕事下さいの立場に変わってさえ「公僕」ふぜいにスーツは嫌だった。
別に自慢したいわけではない。本来はこれでいいはずだといいたいのだ。だが小泉に「民」の名を押し頂いたミンの意識は明治憲法の時と同じであった。

としたら9.11は60年遅れの覚醒だったのか。断じて違う。「民」にしてくれた張本人が「官」の頂点にいるのだから。むしろその辺の「主権者」意識が情けないほどなかったことを有り体に証明してしまった選挙であった。

「官から民に」が文字通り行われたとしよう。前述のように決して文字通り行われることはないのだが信じた「民」の思いがかなうと無理矢理に仮定したとして何が残るのだろうか。

民とはジャイアンとスネ夫とのび太がいる風景である。同じことが「民」のなかでも起こる。「民間にできることは民間に」委ねたらジャイアンだけが勝ちまくる。それが市場社会である。少数の「勝ち組」と多数の「負け組」に断じてわかれる。ジャイアンとスネ夫とのび太が共存していられるのは同じ小学校に通っているという「官」の枠組みとジャイアンの母という「官」的な統制が働くからである。「官から民へ」と聞いた時に「オレは民だ」と喜んだ者よ。あなたは「民」だが「のび太」になる可能性の方が圧倒的に高いのだ。しかもドラえもんのいないのび太になるのだ。ずっとずっと。

かつていわれた「一億総中流」はなるほど官が統制した結果であろう。そのシステムが働かない時代であるとの認識ぐらい私にもある。でも「一億総中流の官から民へ」はあり得ないことも知っている。小泉フレーズに酔った有権者は「一億総中流の官から民へ」を夢想してはいないか。そんなのは「一匹狼の大群」という言葉と同様の言語矛盾なのである。
私は「勝ち」「負け」をもうけるか否かでは判断しない。むしろ無尽蔵にもうける「勝ち組」はさらなるもうけを追わないと休む手をもたないという意味で貧乏人である。そして「負け組」も文字通り貧乏である。ジャイアンはのび太を何度殴っても気が済まないし、のび太は何度も殴られる。それが「官から民へ」の正体ではないのか。そこではジャイアンでさえ不幸である。

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2005年8月18日 (木)

『ちびくろ・さんぼ』と『ブラック・ジャック』

1988年に絶版となった岩波書店版の『ちびくろ・さんぼ』が瑞雲社から復刊された。『文藝春秋』05年6月号に「『ちびくろ・さんぼ』が帰ってきた」と題して井上富雄瑞雲社社長が経緯を説明している。その説明によると岩波の絶版理由は「登場人物の名称が差別的」であり井上氏らの調べによると作中の「さんぼ」「まんぼ」「じゃんぼ」などの人物名は舞台である北インドやチベットではよくあるもので肯定的な意味を持っているという。またイラストの「インド人にしては顔が黒すぎる」という指摘も「大胆な色使いでデザイン化されている・・・・ともいえる」との解釈を示す。
井上氏は「イギリス人がインド人をモデルにして書いた絵本が、世紀を超えて読まれたことで、現代アメリカにおけるアフリカ系黒人の解放運動に関連づけられてしまったきらいはあるだろう」と類推し「一日も早く人種差別はなくなってほしい」と吐露する。絶版から17年で「社会状況も成熟したのではないか」と観測もする。

確かに当を得た主張である。出版界の人間にとって絶版は仮に売れ行き不振が理由であっても断腸の思いだから支持されている作品の絶版はあってはならないし復刊しようとする出版人には拍手を送るべきだろう。

だが岩波版『ちびくろ・さんぼ』の絶版にはそれこそ未「成熟」な「社会状況」があったのも事実だ。井上氏は「ある団体」による抗議が絶版につながったと書いているが「ある団体」とは「黒人差別をなくす会」である。同会結成の中心人物の有田利二副会長には小誌1996年5月号に「気づいていない差別」と題する文章を寄せてもらった。

それによると有田氏は88年7月22付『ワシントン・ポスト』の“Old Black Stereotypes Find New Lives in Japan”の見出し記事で日本で多くの人種差別的な商品が売買されていることを知って家族で該当するような商品を探してみたところ「わずか2・3日で百数十点も集まった」という。主に4つのグループに類型化でき、いずれも「黒人をステレオタイプ化して商品製造している」と分析する。そしてそうしたステレオタイプの共通の名称として「土人」「黒んぼ」「サンボ」があったという。

ここは言語学者でない私にはわからないところだ。しかし井上氏の分析も有田氏の調査もどちらも正しい可能性がある。つまり「サンボ」「さんぼ」は井上氏のいう通りだったとしても当時は同時に黒人をさげすむ言葉としても使われていたということだ。

有田氏の小誌での文章によると日本人は「欧米の白人中心文化を学んできた」際に「黒人差別の中身と態度をも吸収し」てしまった。「黒人差別をなくす会」結成は「偏見と差別の問題に気づいたときに」「気づいていない人達に伝え、共に現実を改善していく姿勢」を重視したからだという。『ちびくろ・さんぼ』への抗議もこの一環だった。
すると問題なのは井上氏が「抗議に、当時、編集に携わった人々に相談することなくわずか四日間で絶版を決めた」と指摘する岩波経営陣の姿勢だ。先述のように「どちらも正しい可能性がある」かどうかは『広辞苑』が作れる岩波ならば審査できたはずだ。井上氏の指摘通りだとしたら岩波は編集権の侵害という出版社がやってはならぬことをしたことになる。
ただ有田氏も指摘しているように『ちびくろ・さんぼ』はともかく当時まぎれもなく差別的としかいいようのない商品や商標が他に露出していたのは事実だから冷静な審査をしているつもりでも時を費やすうちに「差別だ」との声が爆発するおそれはあったであろう。

となると果たして井上氏のいうように17年で「社会状況も成熟した」かが問題となる。有田氏は「いまなお問題」として「マンガによる黒人差別」を挙げた。例えば手塚治虫作品には「驚くほど多くの黒人差別表現が含まれている」と指摘した。
最近になって手塚の代表作『ブラック・ジャック』がアニメ化されたり最近の作家によってリメイクされたりしている。私も実はこの「黒人差別表現」も含む差別表現一般が気になって秋田書店版の『ブラック・ジャック』単行本の初版(最初は「恐怖コミックス」と銘打たれていた)と講談社版の全集を読み比べてみた。すると秋田版初版にあって全集にないものや表記が書き換えられているものが多数みつかった。

さてこの行為はどう判断すべきか。文芸で名作とされている作品には今日では不快・差別用語とされている言葉も多数使われているが書き換えはしないのが原則だ。手塚が確信的な、ないしは無意識でも差別主義者であったならば書き換えや不掲載はやむを得ないという判断もあろう。だが手塚をそう評する者はごくわずかである。否、仮に差別主義者であったとしても作品は作品だという判断もできよう。正反対に真から差別を手塚が憎んでいた人だと証明されたとしても不快・差別用語は許すべきではないとの反論もできる。
私見では手塚の醸し出すヒューマニズムは安易で好きではない。そこが安易だから用語に意を払いきれなかったのではないか。また当時の彼の殺人的なスケジュールが検討を甘くさせたのかもしれない。今では美談にさえなっている編集者とのやりとりも「取って出し」では校閲の間もなかったに違いない。

井上氏の文章の最後に「よく議論もなされないままに『言葉狩り』が行われ」ることこそやはり最大の問題だ。むろんそれ以前に差別肯定論の撲滅があるのはいうまでもない。議論を尽くすしかない。

この問題は小誌に連載中で既に2冊を単行本化している『ホームレス自らを語る』でも散々悩んだ。中心はホームレスへの聞き書きなのだが彼らの口から出る不快・差別用語をどう扱うかだ。あえて書くと「以前は土方をしていて・・・・」を「以前は建設作業員をしていて・・・・」と書き換えると言葉の力を失うのだ。このことについては機会をみてまた論じてみたい

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2005年7月30日 (土)

週刊少年ジャンプのいい加減さ

荒木飛呂彦の「スティール・ボール・ラン」が05年5月号(4月19日発売)から連載を再開した。喜ぶべきことであるが問題は掲載誌が『ウルトラジャンプ』であることだ。 04年11月を最後に本来は『週刊少年ジャンプ』で連載していた「スティール・ボール・ラン」が姿を消した。それ自体は最初から作者が公言してきた連載方法なので構わない。問題は何の音沙汰もないまま関連誌とはいえ『ウルトラジャンプ』に移ったことだ。私はまったく知らなかった。

「世紀末リーダー伝たけし!」の再開も本来の『週刊少年ジャンプ』ではなく『スーパージャンプ』で行った。この場合は作者の不祥事が不意の連載の中止につながったという経緯があるので『週刊少年ジャンプ』で再開しにくいというのはわかる。だが突然『スーパージャンプ』で05年6月から始めているというのは出版社の正しい姿勢であるか。

漫画誌、とくに『ウルトラジャンプ』『スーパージャンプ』あるいは『赤マルジャンプ』といった派生誌は

1)コンビニなどに置いていないことがある

2)本誌(この場合『週刊少年ジャンプ』)より圧倒的に刷り部数が少ない

3)足が速い

4)よっていったん平積み・面出しで売られても売り場からアッという間になくなる

という宿命をもつので派生誌での連載再開は懇切丁寧に本誌が行うべきである。現に「たけし」はワイド判の単行本で連載中止部分以降も描いた12巻が6月に発売されて以来アッという間に品切れに。当初は版元も重版をかけるつもりはなかったと書店からは聞いていたが現在各店で在庫されているのは何らかの対応を版元がしたのであろう。

『週刊少年ジャンプ』は漫画誌のランドマークである。だから「ハンターハンター」のように明らかな漫画家の怠慢を許してまで連載を続けさせたり意味不明の休載を認めては他に悪影響を及ぼす。「落ちた」ならば落ちたとはっきりさせてほしい。週刊ペースが大変なのはわかるが週刊誌はゆえに人員が多く割かれているし月刊誌ではほぼありえない「合併号」で一息つけるはず。

ついでにいえばストーリーとして完全に終わっているのにキャラクターが確立してしまったために人気もそこそこ以上という長期連載も適当に切り上げないとせっかくの有名漫画家が出版社に「適応障害」を起こして描かなくなったり「燃え尽き症候群」に誘ったりするのでご注意を。

集英社は私の会社のある千代田区神田神保町3丁目のすぐそこに相当の機能が引っ越してきた。本当に徒歩一分。更地からピカピカのビルを建てた。あのあたりの土地はバブルの頃に旧日債銀が買い集めて闇世界も含めていろいろ疑惑がある。それをゴッソリ手に入れて1から上物を作れるのだから集英社はもうかっているのだ。上記の問題くらいは解決してほしい

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