ロシアの横暴

2011年3月 3日 (木)

ロシアの横暴/第54回 報じられないロシア国際空港テロの謎(下)

 ところで今回の事件にはいつもと違う点がある。静かになったところを見計らってチェチェン人の「犯行声明」が出たことだ。しかも声明を出したのはテロ予告宣言発信中のチェチェン人ドク・ウマロフである。本来チェチェン人はこうした大きな成果(?)のあがった事件のあとには真っ先に犯行声明を出す。過去の犯行声明のなかには明らかにほかの誰かが起こした事件なのにチェチェンの犯行だと主張したこともあるほどだ。それが10日以上も経ってからおずおずと犯行声明を出すのは「何か変」である。

 ドク・ウマロフならまずプーチン首相が「チェチェンは関係ない」と断言したあたりでブチ切れて(俺たちの存在を甘く見るな、と)犯行声明を出しそうなものだ 。さらに、「犯人は20才のイングーシ人」発表のときも黙っていた。チェチェン人とイングーシ人はほぼ同じ民族で、ロシア・ソ連時代を通じて同じような差別・弾圧を受けてきたから両者の仲間意識は強い。しかし、イングーシがチェチェン を「出し抜いた」となると状況は一変する。こんな「偉業」を成し遂げるのにチェチェン人をおいて誰がある、というわけだ。だからイングーシ人犯人説を堂々とうち消してチェチェン人の犯行であるという声明を出すはずである。やっぱり変だ。

 ロシア政府がチェチェンを断定するとそれに呼応するようにチェチェンの犯行声明が出されるというのがこれまでの図式だった。
 では今回はなぜ呼応しなかったのか。
 勘ぐりでしかないが、「チェチェンは関係ない」に呼応して黙っていてやったのに、約束の謝礼がなかった、あるいはずっと少なかった。次のテロが起きたときに犯行声明がどう出るかで明らかになるだろう。
 あるいは冬季五輪やワールドカップを控えてチェチェンのせいにできないプーチンをちょっともてあそんでやった。
 今やドク・ウマロフの親衛隊になって集まってくるチェチェン人青年たちの敵はロシアの傀儡「ラムザン・カディロフ」である。青年たちを殲滅するのに躍起になっているのはロシアではなく、カディロフ大統領である。チェチェン人をチェチェン人同士闘わせるロシアの作戦にうまく乗じているのがドク・ウマロフと言えそうだ。
 テロといえばチェチェン、と言われて久しいが当のチェチェン一般人の一貫した見解は「ロシア政府と一連のテロリストは裏で協力し合っている」である。
 確かに過去のチェチェンがらみ事件はどれも確実にチェチェン人が絡んでいる。だからといってチェチェンの仕業とは言い切れない。実行犯はチェチェン人だったことだけのことだ。
 
 たとえば先述のモスクワ劇場占拠事件だが、あれほどの人数分の火薬を劇場まで運ぶにはロシアの特務機関の全面協力が必要である。このことだけでも真犯人はFSB(ロシア特務機関)であることがはっきりしている。実行犯のなかで1人だけ生き残った、というより逃げ延びたチェチェン人が事件後まもなく交通事故で死んだ。ロシアFSBに協力したご褒美に口封じされた、とチェチェン人は言っている。
 劇場占拠事件に限らずテロ事件を注視していくとロシアと過激なテロ集団は裏でつながっている、というチェチェン一般市民の見方も十分頷ける。

 今回の事件もいままでの事件と同様、真相は何もわからない。わかっているのはこのままほったらかしにされることだけである。(川上なつ)

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2011年2月22日 (火)

ロシアの横暴/第53回 報じられないロシア国際空港テロの謎(上)

 やっぱり起きてしまった。モスクワ最大の国際空港でのテロ。
 ひところはテロが起きるたびに間髪を入れずに「チェチェンだ、イスラムだ、報復だ」と騒ぎ立てたものだが、今回は不思議なことにプーチン首相みずからわざわざ「チェチェンは関係ない」、と言いだした。過去10年間、事件が起きるたびに、国民のチェチェンアレルギーを刺激しては人気を集めてきたから、変化といえば変化である。
 この首相発言でいつものとおり、「チェチェンがらみ」として動き始めていた捜査陣はびっくりしたそうだ。徹底捜査を命じたメドベージェフ大統領と、早々と「事件は解決した」と言うプーチン首相の見解がひどくちがうことも過去にはなかった。日本の新聞など事件の真相よりもこの「対立」に興味がありそうな雰囲気である。
 プーチンにしてみればチェチェンは完全に安定化した、武装勢力は殲滅した、と宣言した以上チェチェンの仕業とはカッコ悪くて言えないだけのことなのだが。それに安定化宣言の上に勝ち取った冬季五輪とサッカーワールドカップを控えて「チェチェンの仕業」なんて言えるはずもない。というわけで言葉尻が変わっただけでソ連・ロシア流れの隠蔽体質は「全然変わっていない」。

 一方徹底究明を指示したメドベージェフの方は空港の主要職員をクビにしてみたり、賄賂漬け体質を罵ってみたり、ロシア中に手のつけられないブラックホールがあることを白状するような言動が目立った。

 そして数日後プーチン組は「自爆テロを起こしたのは20歳のイングーシ人」と、ご丁寧に顔写真まで入れて自信たっぷりに発表した。チェチェンは関係ないと宣言した以上、帳尻を合わせるためには別の民族を挙げなければならないからイングーシ人としたのだろう。イングーシはチェチェンのとなりで両民族の相違はほとんどない。このことはロシア人なら全員知っているからイングーシ人と発表したところで「チェチェンは関係ない」発表など無意味である。第一人体の破片から両民族を判別することなど不可能だ。
 自爆で木っ端みじんになった人間の破片から年齢や民族まで特定できるほどロシアの鑑定技術は進んでいるとは思えないが、なぜかそれがほんとうみたいに聞こえる(聞こえさせる)のがロシア報道である。そしてそれをそのまま縦書きに翻訳して流さざるを得ないのが日本の報道である。(ついでに言えば外国メディアが取材報道規制をうけていることをおおっぴらに言えないので、仕方なくプーチン首相とメドベージェフ大統領の意見が食い違っているあたりに群がらざるを得ないのかもしれない)
 
 このやり方はテロのたびに繰り返されてきた。
 自爆テロならチェチェン、の図式のもとになったのは、2002年に起きた「モスクワ劇場占拠事件」である。このときの犯人たちは自爆で木っ端みじんになる前に毒ガスで殺されてしまったので全員が紛れもなくチェチェン人であることが世界中に知れ渡った。
 チェチェン鎮圧で人気を得てきたプーチン大統領(現首相)にしてみればまことに便利な事件で、以後いかなる自爆テロでもチェチェンにすればたちどころに解決した。大統領の支持率が何となく揺らいでいるときなど、支持率回復に貢献してきた。

 この図式で騒ぎはすぐにおしまいになる。善良なロシア国民は、ああ、やっぱりチェチェン人か、とうんざりしながら、政府や治安関係者の「テロ対策の甘さ(それはチェチェン弾圧の手ぬるさを意味することも多い)」に不満をぶちまけ、どうか災いが自分のところに降って来ませんように、と神に祈りつつ日々を送ることになる。いつの場合にも被害に遭った人は「運が悪かった」人である。(川上なつ)

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2011年1月27日 (木)

ロシアの横暴/第52回 当局お気に入りの反体制派!?(下)

 そんな疑問が持ち上がっている最中に、疑惑をだめ押しする小さな事件が起こった。12月31日、いつものとおりアレクセーエワ女史が主宰する人権擁護団体の集会が開かれたが、その会場で、同じく人権活動家であるネムツォフ元第一副首相が逮捕されてしまった。逮捕といっても15日間のブタ箱入りといって軽犯罪の部類で、酔っぱらって路上で寝ていても、カミさんをぶん殴ってもやられるくらい一般的な逮捕である。逮捕の理由は公式には「集会のとき警察の警告を無視した」となっている。だが、この集会は毎月末に開かれているから、警察の警告を無視するのは毎度のことのはずだ。ほんとの理由はほかにある、とカフカスセンターが配信した。いつも口汚くロシアを罵り、チェチェン版大本営発表の源であるあのカフカスセンターだ。このサイトの言うことだから、大半はガセと思っていると時々損をする。

 それによるとネムツォフ氏が主宰者アレクセーエワ女史と口論をしたからだという。実はこのサイトはかなり前からクレムリンとアレクセーエワ女史はつながっている、と折に触れて流していた。そう言えば2月ほど前にも、拘束されたところで半日以内に無罪放免になる反体制活動家、と嫌みっぽい記事を載せていた。 
 ネムツォフ氏が15日間のブタ箱入り、という記事を読んだとき、それまでの疑問が一気に解けた。

 先般紹介したアンナ・ポリトコフスカヤ著『ロシアン・ダイアリー』のなかにアレクセーエワ女史が参加する「全国市民会議」なるものの集会の様子が手短に述べられている。
「主催者は(アレクセーエワ女史ら数人)幹部席にすわり、プーチンに対するいかなる批判も過度であるとしてひねり潰す・・・・(略)・・・ひな段に陣取る面々はいつもと同じ顔ぶれで、会議を単なる雑談の場にしてしまった。それぞれがお山の大将になりたいのだ。」 
「全国市民会議の運営委員会が開かれた。もっとも重要な人物はだれかという不毛な討論で終わってしまった」
 しかもアレクセーエワ女史は「市民社会の人材と育成に関する大統領諮問委員会」のメンバーで、彼女の言うことにはプーチンが耳を傾けるとされているらしい。プーチン批判はどれも過度である、とひねり潰すのも頷ける。 
「市民会議はあんまり期待できない」とアレクセーエワ女史も認めている。じゃあなぜ時間を無駄にするの、というポリトコフスカヤの質問に対しては「だって、わからないじゃない。うまくいくかもしれないもの!」

 たしかに女史は引退インタビューのなかで  「この国の人たちは日々の暮らしに追われ、自由や権利を勝ち取ろうとしてこなかった。でも、今はソ連の呪縛(じゅばく)から逃れ、自らそれを手にしようという大勢の若者たちがいる。彼らがこの国を変える。十年か十五年か、私は見られないかもしれないが、そんなに遠い未来じゃない」(『中日新聞』2010年10月25日)と語っている。どうやら楽天的な女性のようだ。ロシアの国民が日々の暮らしに追われ自由や権利を勝ち取ろうとしないのは今も同じである。ロシアを変えようとする若者など皆無に等しい。いや大多数の若者たちは変えたくてもできないのだ。プーチン大統領公認の委員会で雑談をしていてはそんなロシアの若者たちの姿は見えまい。

 そういえば女史は将来を案じて一緒に亡命した二人の息子を米国に残して93年にロシアに帰国している。息子たちはもう若者とはいえない世代としても、自分の息子や孫たちには、ロシアの未来を担わせたくないのだろう。自分には大統領も一目置いている・・・自分は人権擁護活動を長くやってきた・・・などなど幻想に近い思い上がりが女史を支えているのだ。その思い上がりがプーチンに便利に使われているだけのことである。インタビュー記事などを読めばわかるとおり、彼女の発言は何の迫力も説得力もない、思い出話に毛の生えた程度の自伝的武勇伝である。(川上なつ)

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2011年1月22日 (土)

ロシアの横暴/第51回 当局お気に入りの反体制派!?(上)

 どこの国でもそうであるが、市民派、とか反体制といえばそれだけで何となく「すごいヤツ」の評価を得るようだ。まして、共産主義の独裁から抜けだした(と思われている)あのロシアで命がけの反体制活動をやるのはどんなに勇敢な人たちなのだろう、と羨望や尊敬が入り交じった賛美のことばを送られる。
 こうした十把一絡げのものの見方は、知らないうちに思いがけない落とし穴にはまる可能性がある。

 昨年の秋に、ロシアの有名な人権擁護団体であるモスクワ・ヘルシンキグループ の長老、リュドミラ・アレクセーエワ女史が活動の一線から退くことを表明した、と日本の新聞のいくつかが報じた。アレクセーエワ女史と言えばプーチンの強権政治の中でも毎月末に小さな集会を開くなど地道に活動を行ってきたことで知られている。これらの新聞記事を繰ってみると引退インタビューは彼女の経歴を自己紹介するようなかたちですすめられた模様である。
 そのなかの経歴紹介にどうも不思議な供述が2、3ヵ所あった。

 それによると女史はソ連共産党のエリート評議員だったが、1968年にある人物の擁護署名を提出したことで、党から除名され、勤め先も解雇された。もっともこれはソ連ならばごく当たり前のことで驚くにはあたらない。そのあと1年半の失業期間を経て再就職することになったところが驚きである。この当時、反体制活動で職を追われたエリート党員が再就職する先は公衆トイレ掃除婦か、うまくいって警備員ぐらいである。収容所か精神病院に押し込まれなかっただけありがたいというものだ。それなのになぜかアレクセーエワ女史だけはソ連科学アカデミー情報科学研究所の編集員として再就職している。ここがまず大きな謎である。

 76年に人権擁護団体モスクワ・ヘルシンキグループ を立ち上げると国家保安委員会に踏み込まれるなど弾圧を受けるようになったそうだ。これもソ連ならば当然至極である。不思議なのは、一緒に活動していた反体制活動仲間の2人は逮捕され、特別囚収容所に7~8年放り込まれることになったというのに、女史は同じく反体制活動家である夫と二人の息子とともに、つまり一家をあげて翌77年、ソ連人憧れの的である米国に出国した。米国での職がまた驚きである。ソ連向け反共放送のスタッフだ。この出国劇が二つ目の謎である。
 「ソ連向け反共放送」のスタッフになりそうな人物を家族ぐるみ出国させるほどソ連も愚かではないと思うのだが。

 ちなみにこのころはソ連からの亡命ブームで海外公演の隙をついて亡命する芸術家やスポーツ選手があとを断たなかった。そんなとき反体制グループの旗手が外国に、それも冷戦相手の米国に出国できたのは奇跡としか言いようがない。インタビューでは「夫とふたりだけならまだしも、二人の息子のことを考えるとそうするしかなかった」と、女史はインタビューの中で語っている。これなら「米国に脱出したければ子供をつれて反体制活動をすればよい」と政治風刺小咄すら出てきそうだ。

「国際的批判を気にして政権は私に手出しできない」アレクセーエワ女史はそう言っている。たしかにそうらしい。しかし、政権がこの老婦人に手出ししないのは「便利に使える」からである。ロシアでは人権侵害がおこなわれているとか、集会や発言の自由がないなどしょっちゅうやり玉に挙がっているが、そんな国際社会の批判に「名うての反体制派が自由に活動しているじゃないか!」と反論できる。
 自身が主催して開いてきた毎月末の小さい集会の都度、こづかれたり、引っこ抜かれたり、罵声を浴びせられたりしたとのことであるが、そんな程度で済むのがヘンである。本物の反体制活動なら2度と集会は開けない。生きて帰れるかどうかもわからない。おそらく女史本人は気がついておらず、単に自分がエライからだ、と信じているに違いない。

 高齢だから見逃してもらっているのでは、という見方もできる。しかし、高齢だろうが少女であろうが、「有害人物」は消されるのがこの国の相場だ。
 高齢だから、いわゆる痴呆が始まっていて自分がだれだか何をやってきたのかよく思い出せないのかも知れない。しかし、共産党の評議員だった人物が体制批判を始めたのに、収容所にも送られず、精神病院に押し込まれもせず、家族そろって米国へ出国したことを本人のみならず、マスコミも認めているのだからまさか「老齢による幻想」ではないだろう。(川上なつ)

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2010年12月23日 (木)

ロシアの横暴/第50回 世界のメディアが無視した赤十字職員虐殺の真実(下)

 さてこの将校がEUに亡命し、突然秘密をばらすことになったのにはロシア独特のある事情がある。この将校はチェチェン戦線から生きて戻ったヒラの兵士が差別とトラウマに苦しむのをよそに、引き続き内務省軍にとどまっていた。もともとエリート将校の上、よくよくの手柄があったことが伺える。さらに戦争犯罪に問われることもなくぬくぬくとしていられたのは大きなバックがあったからだ。つまりFSBのトップクラスに彼を保護してくれる大物がいたということだ。ところが最近この大物が死んでしまった(死因は報道されていないからひとまず自然死としておこう)。ロシアの出世にからむ派閥争いの場ではバックの大物に死が近づくとさっさと乗り換えて身の安全を確保するのが通例だが、この将校は忠実だったのか、乗り換えが間に合わなかったのか「ひとりぼっち」になってしまった。FSBでひとりぼっちで、何か秘密を持っている者はいつ何時他のグループの餌食になって消されるかわからない。

 そこでEUに逃げ出すことにした。だがそこは元スペツナズ(内務省特殊部隊)の将校とあって、移住は簡単には許可されない。だから家族とともに物見遊山の観光旅行に行き、そこで「もうロシアには戻らない」意志を示して亡命申請をした。物見遊山であっても機密事項を握っている者になぜ出国許可を出したのか謎である。14年の歳月が「事件の真相を知る者」を流し去ったのかも知れないし、事情を知った関連局の職員が取り計らいをしてくれたのかも知れない。

 ところが、受け入れ国側にも事情がある。今やEUの友好国となったロシアの国民を「亡命者」と認めるわけにはいかない。引き受けるからには「ロシアに帰れない、帰ったら迫害を受ける可能性が高い」という条件が必要になる。そこでこの元将校はチェチェン戦線にいたときの秘密情報を吐き出したというわけだ。
 ところが、インタビュー記事をロシア国内で報道したノーヴァヤ・ガゼータ紙は大落胆を味わうことになった。どこもだれも微動だにしなかったからである。事実日本でも全く報道されていない。

 これほどのセンセーショナルな暴露に動じなかった理由として次のことが考えられる。ひとつは通り一遍の「古傷をさわられたくない」症候群。人権だなんだと言いながら結局エネルギー欲しさにロシア側についた西側(現在のEUよりは狭い)は、もう思い出したくもないことだ。もうひとつは暴露だとか特ダネだとか騒がなくてもみんなが知っている暗黙了解症候群。事件当時の日本の新聞では「停戦が気に入らず復興を邪魔したいロシアの挑発」というチェチェン独立派がわの見方を載せていたのがほとんどだったが、さすがに「本物のチェチェン人犯罪者を使った」とは書けなかった。日本には北方領土問題があるのでロシアを刺激したくない症候群がはやっていたからだ。現在のチェチェン共和国とちがって取材陣出入り自由だった当時、チェチェン人なら誰もが知っていたこの事実を記者が知らないはずはない。それにロシアは戦争に負けたくやしさにチェチェンをつぶすためなら何でもやった。そしてほぼそのとおりになった。だから今更何をバラされても痛くもかゆくもない。ソチ五輪やワールドカップで「平和国家」の許可証を受け取ったから。

 もっともこの将校は真実を伝えようとしたのではなく、自分の保身が目的で暴露したのだから世界が騒ぐかどうかは問題ではない。事情を認められて、亡命が許可されればそれでよい。むしろ騒がれない方が安全に暮らせるというものだ。
 戦後復興支援活動をしている国際人道団体の職員を6人も殺害する事件に関わっておいて、14年間、心が痛まなかったのか、という問いに対して「自分が手を下したわけではない」と答えたそうだ。

 折も折、国家機密をばらすウィキリークスが物議をかもしている。米国が非難の叫び声を上げ、ついには「婦女暴行」の疑いでアサンジュ氏を逮捕するに至った。そのことをとらえてロシアのプーチン首相は「それでも民主主義国家か」と激しく米国を非難した。ちなみにウィキリークスはロシア を人権侵害国家として糞味噌にけなしている。「婦女暴行」などと姑息な手段をつかわず、堂々と「国家機密嗅ぎつけ、ばらまき罪」として指名手配すればよかった、ということだろうか。それとも「人権侵害国家」と決めつけられても米国みたいに幼稚な対処はせず、大人の対応をしていることを宣伝したいのだろうか。
 ところで、最近ロシアFSB将校クラスの脱出が相次いでいるそうである。プーチン牙城の構築に功績のあった将校たちで、身の危険をひしひしと感じているそうだ。バラされる前に消しておくのも民主主義国家のたしなみかもしれない。(川上なつ)

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2010年12月21日 (火)

ロシアの横暴/第50回 世界のメディアが無視した赤十字職員虐殺の真実(上)

 1996年の12月、停戦協定成立後間もないチェチェン領内で医療活動を展開していた国際赤十字の外国人職員6人が射殺され、1人が重傷を負うという凄惨な事件が起きた。1994年の12月に始まった戦争はチェチェン側ロシア側双方に多大な被害を出して1996年の8月に停戦となり、兎にも角にも平和が訪れ、復興の兆しが見え始めた矢先のことだった。
 この事件はセンセーショナルに世界中を駆け抜けた。多くの人に「やっぱりチェチェンは恐い」と思わせるのに十分な響きをもっていた。
  それから14年が過ぎた2010年11月のある日、ロシアのノーヴァヤ・ガゼータ紙に度肝を抜くインタビュー記事が載った。

「国際赤十字職員殺害事件はロシアの指令によるものだった」と。実際に指示を出したとされる人物の署名と内務省のスタンプが押された命令書まで掲載してある。もちろん指令書といっても「国際赤十字を襲撃せよ」とあるわけではない。「12月17日に守備隊は赤十字側の反撃に応戦せよ」となっている。 
 ノーヴァヤ・ガゼータ紙のインタビューで告白をしたのは最近EUのどこかに亡命したロシアFSB(ロシア連邦保安庁)の元将校である。
 この将校は警察士官学校を卒業してすぐにチェチェン戦線に赴き、無事に(?)任務を終え、停戦合意に基づく1996年12月末のロシア軍全面撤退期日までチェチェンにとどまっていた。戦争中は事件のあったノーヴィエ・アタギ村のロシア内務省軍司令部に自分の長官が率いる部隊に所属していた。ここで「武装勢力退治」をしていたが、退治したのは武装勢力だけでないことは言うまでもない。彼が指揮する直属の部隊には「武装勢力を退治する部隊」と、武装勢力やゲリラの急襲から部隊を守る「守備隊」があるが、停戦成立後は予想される小競り合い対策として守備隊のみがとどまっていた。
 撤退期限直前の12月17日、国際赤十字の職員を「つつがなく」退治できるように協力したのは彼の守備隊だったということである。

 彼が吐き出した情報によると、ロシアはある目的があってチェチェン人のならず者にこの事件を起こさせた 。ある目的達成のために犯人はチェチェン人でなければならない。そのために刑事事件、つまり殺人で刑務所に入っているチェチェン人に特赦を与えて釈放し、この仕事に抜擢した。強盗殺人などの凶悪犯罪で服役中である本物の犯罪者だから殺人ならお手のものだ。何かの記事に犯人たちはチェチェン語を話していた、という生き残った赤十字職員の証言があったが、将校の話はこれと一致する。
 作り話じみている、と思われるフシもなくはない。だが、「事実は小説より奇なり」と諺にもあるとおり、少なく見積もっても「事実」であることは彼の亡命劇から容易に推察できる。あとで述べるが、公然の秘密だった事件に作り話を継ぎ足しても亡命の切り札にはならないものだ。

 ある目的というのは「チェチェン人は残忍で、人道支援団体であっても外国人とみれば殺す」、というイメージを世界中に焼き付けること、そして独立志願の強いチェチェンを「そんな物騒な国はやはりロシアの統治が必要」と思わせること。もう一つは支援団体をチェチェンから撤退させることである。国際赤十字は、停戦協定に基づき、96年の9月に設置された1996年の9月、ノーヴィエ・アタギ村に設置された。職員の安全はロシアが責任を持つことになっており、それなりに強力な部隊が警備にあたっていた。責任を果たせなかったロシアは国際赤十字をチェチェンから撤退させなければならなくなった。(停戦協定の立役者だったレベジは安全保障会議書記を解任された後、クラスノヤルスク知事に当選したが、ヘリコプター事故で死亡した)
 焦土の希望の星だった国際赤十字が撤退を余儀なくされ、物理的にも精神的にも大打撃を受けたチェチェンはやがて内部対立が激化し、それが第二次チェチェン戦争の引き金となっていった。(川上なつ)

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2010年11月23日 (火)

ロシアの横暴/第49回 北方領土に大統領が訪問した意味と島民の本音(下)

 今回のメドベージェフの訪問を「来年に迫った大統領選にむけて強い指導者ぶりを誇示して地ならしのつもりだろう」としているところがあるが、的はずれではないとしても核心とは言えない。
 なぜ「地ならし」でないかといえば四島1万7000人の住民に生活条件改善を約束したところで票にはつながらないからだ。メドベージェフ大統領は島を本土並にする、本土から移住して来たくなるような豊かな島にする、と約束したそうだが、これで島民は喜んでも本土の人間は喜ばない。ロシア人は伝統的に他の地域や人が豊かになるのを好まない。

 もっとも不況の上に夏の酷暑と火災のせいで何かとくすぶっている今、大統領が日本の神経を逆なでしてやったので、溜飲を下げた人々の(まったく的はずれだが)八つ当たり票がいくらかは期待できよう。ロシア国民は荒っぽくて強い指導者が好きなのは事実である。

 数ヶ月前から「日本政府の北方領土考(=前原氏が北方領土を洋上視察した後の発言)として 、「歴史的に見ても、北方領土は我が国固有の領土。不法占拠と言い続けなければいけない」と述べたのが神経に障っていたところに尖閣諸島問題が起きたので、相乗りして何かつついてみよう、といったところであろう。やり方としては軽いが、実質は重い。ルーズベルトにもらった北方領土カードは今もロシアの手の中にある。

 対する日本はいつまでたっても負け戦である。ロシアになってまもなく始まったチェチェン戦争を日本は「遺憾です」とひとこと発しただけで何もしなかった。エネルギー欲しさに黙認をせざるを得ない欧州ですら戦争をやめさせるために何かちょっとぐらいはしたのに 、エネルギー依存をしていない日本が何もしなかったのだ。「何もしなかった」わけは北方領土にある。ここでロシアの神経をさわったら 「もう二度と領土交渉はできない」と思っていた。四島返還を夢見てバラマキ支援をしていた頃、チェチェンでは民族皆殺し作戦の嵐が吹き荒れていた。日本外務省は「ロシアを刺激したくない、北方領土が返ってこなくなるから」 チェチェン戦争反対運動はやるな、で固まっていた。言うまでもないことだが、それでも北方領土は返ってこなかった。

 こうした北方領土に関する日本政府の態度をみていると「何のために」という疑念が持ち上がる。こうまでしてもロシアにすがりつくのはなぜだろう。諸々の資料によると北方四島は伝統的に日本の領土だそうだが、そんな国民感情を利用してショーをしているように見える。いわゆる「民の笛にあわせて踊る」だ。踊っていれば一生懸命やっているように見えるから国民は安心する。
 大統領の北方領土訪問で大騒ぎをしている日本に対して、ロシアのある インターネットサイトに「日本も焦らず、しばらく待っていればやがて島民はみんな逃げ出すか死に絶えるかで無人島になるから、そのときが返還のチャンスだよ」 と、半ば冗談の親切な書き込みがあったそうだ。

 エリツィン・橋本プランのあと数年が過ぎ、プーチンの治世になった2005年、北海道新聞社が再度住民意識調査をおこなった。その中の「北方領土返還の日本への返還」についての調査結果を次のようにまとめている。
「『反対』が61.3%と全体の半数をこえている。以下「条件付賛成」28.7%、『わからない』7.3%、『無条件で賛成』2.0%と続く。『無条件で賛成』と『条件付賛成』を合わせた『賛成』派は30.7%で、『反対』の約半数にとどまる結果になっている。 条件付賛成者に条件をたずねるとほとんどが『金銭補償』を挙げている。

 また同時に おこなわれた「生活の実態調査」のうち、「プーチンが大統領になってからの5年間に生活はどうなったか」という質問には次のような回答が寄せられている。
――「よくなった」が40.7%で最多。以下「あまり変わらない」33.7%、「悪くなった」17.3%「非常に悪くなった」4.3%、「非常によくなった」3.0%と続く。「よくなった」と「非常によくなった」を合わせた『よくなった』と感じている層は43.7%で、「悪くなった」と「非常に悪くなった」を合わせた『悪くなった』と感じている層(21.7%)の2倍に上る。――
 とても不思議な調査結果である。日本に代わってロシア政府がインフラ改善などに取り組む「クリル社会経済発展計画」が始まったのは2007年のことだから2005年頃は最悪だったはずだ。先出のロシア人女性は「クリル(北方領土)の人々は国家に捨てられてしまったのよ。バラックに住んでほんとうにひどい暮らしをしているわ。移住の補償金を欲しがるの、無理もないわよ」 と語っている。

 それにもかかわらずエリツィン時代よりよくなった、答えるのはなぜか。
可能性は二つある。極東地域に配備されていた軍の将校たちが「飢えたくない」からマフィア・ギャングの用心棒になり、無法状態だった。それがプーチンになってから取り締まりが厳しくなり治安がいくらかよくなった。または、正直に「悪くなった」と書けない何かがある。この表示データ程度ならバランスがいいが、ほとんど全員「悪くなった」と書いたら町長や村長の首はなくなる。(川上なつ)

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2010年11月18日 (木)

ロシアの横暴/第49回 北方領土に大統領が訪問した意味と島民の本音

 メドベージェフ・ロシア大統領が北方領土を訪問した、というので日本中が大騒ぎになっている。菅内閣が弱腰だとか、外務大臣が無神経だとか、判断ミスだとかそのうちに今まで北方領土にはあまり関心がなかった人までが「北方領土は!」と騒ぎ出しそうな勢いだ。報道機関はロシアにどういう思惑があってこの時期北方領土を訪問するのか、勘ぐりに余念がない。

 北方領土は第二次世界末期の1945年2月、英・米・ソ連の首脳が集まって開かれたヤルタ会談の折 、樺太や千島列島とともにまな板に乗せられた。会談を主導したアメリカの目論見は、もしソ連が連合国側について参戦したら日本は確実に敗戦国となるから、その時に日本の領土をどう山分けするかソ連と駆け引きをすることにあった。ナチズムや日本軍国主義など の悪者を成敗し、国連主導で戦争のない世界を構築する、というのは表看板にすぎず、実体は戦利品の山分け、領土分割会談である。
 こうして北方四島はアメリカのお墨付きでロシアの領土になってしまったわけだが、当のソ連国民はどう考えていたのだろうか。山分け会談の取り決めどおり、日本をやっつけたご褒美は当然としても、意外なことに日露戦争の仇討ちという感情がある。憎むべきロシア帝国を弱体化させて革命に貢献してくれた日本であっても 「負かされた」ことへの恨みは深い。

 国家レベルではアメリカとの秘密協定で南樺太を取り返すついでとはいえ、資本主義国家と対峙する要塞である北方領土に 65年間 、国家指導者を誰一人派遣しなかった。今回のメドベージェフ大統領の訪問が初めてというから驚く。四島には漁業資源以外大したものはないからだろうか。それでも「不可能を可能にする」ソ連の看板を本物にするために僻地優遇策を適用し、移住を促進した。もともと「開拓」の意味で極東シベリア地域はヨーロッパ地区より労働条件がよいことになっている。ある資料には離島は更に割り増し賃金・優遇策(早期年金など)が盛り込まれていた、とある。これがそのとおりに実施されたかどうかは不明だが、ひとまず僻地離島優遇策がとられ、本土から移住して来る人が増えた、としておこう。だがソ連が崩壊し、ロシアになると事情は一変した。崩壊する前から物不足とインフラ不備は蔓延していたが、その後の四島は更に悲惨な茨の道をたどることになる。

 何でも自由になってまずほったらかしの自由が来た。次に市場経済とやらが来た。自由市場になれば何でも自分で稼げるからドル札が降って来そうな宣伝がされた。すると目の前の自由主義経済・先進資本主義国日本はたちまち桃源郷となった(それまでは搾取と失業に苦しむ資本主義社会だった)。1992年からビザなし交流が始まり 、期待通りの豊かさを間近に見ることになった。 同年に島民投票をやったところ9割の島民が日本に帰属することを望んだと北方四島に知人を持つあるロシア人女性は語っている。一方で同時期に行われた調査なのに全く違う結果になっている統計もある。
 領土問題についての質問では、『絶対に返還すべきではない』は100人中4人しかいない。ただ『主権は返さないが、共同開発地にする』は59人おり、返還反対派が60%を越えていることにはなる。つまり島民にとってはどちらに帰属しようと、働いて収入を得て、子どもに教育を受けさせられる普通の暮らしをしたい、さしあたっては「日本と共同開発する」こと望んでいたわけだ。当たり前だが返還イエスかノーかより今の生活向上が切実である。僻地優遇策などとうの昔の物語で、自由経済になってからいかにひどい暮らしをしていたかが読みとれる。

 こんな島民感情を見透かしてか、誤解してか、このころから日本政府は 島民の生活向上のために支援を注ぎ込んだ。インフラ整備など日本が得意とする支援のほか、現金支給もあったそうだ。こういうことが活字になることはないから、噂の域を超えない が、大いにあり得る。日露の経済協力を確認した橋本・エリツィンプラン(1997年)とやらはこういう形状をしていたのである。
 こうした支援を数年続けたが、「もっとくれ」と言われるようになっただけで日本が期待した「実質日本」になることはなかった。

 あるとき、数年間給料をもらっていない(給料の遅配はエリツィン時代の象徴ともいえる無策)という四島のどこかの魚加工コンビナートの作業員らしき人物がぼろぼろの設備を示して、「みろ、ひどい状態だろう、近くにいるのに日本はほんとに何もしてくれない」と文句を言う姿がテレビに映った。面倒見の悪い日本に領土は絶対返さないぞ、と言わんばかりだった。ロシアの北方領土政策はこんなものである。
 ただし、島民のかなりの部分はあの時日本の支援、特に暖房設備強化がなかったら、おおかた凍死していただろう、と今でも言っているそうだ。2002年ごろにアンナ・ポリトコフスカヤが記した『プーチニズム』(NHK出版) にはカムチャッカの重要基地で海軍のエリート将校が飢えている報告がある。北方四島の一般市民がどういう暮らしをしていたか、推して知るべしだ。極東サハリン州では(四島はサハリン州に属する)飢えたくないエリート将校がマフィアの用心棒になって殺し合いに巻き込まれていた話が多数ある。(川上なつ)

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2010年11月 9日 (火)

ロシアの横暴/第48回 ロシア「議会制民主主義」の血塗られた正体(下)

 さて、二院制の上院にあたる連邦院(日本ならば参議院)は任期なしで各地方自治体の長で構成される。州知事は自動的に連邦院議員となる。任期がないといっても州知事の任期が終われば自動的に任期が切れる。ところがここにも不思議な落とし穴があって、いつの頃からか、知事も大統領府の任命制となった。その少し前は選挙で知事を選ぶのは国民、解任するのは政府という奇妙な方式だった。さすがにこれはおかしい、というので、任命も大統領がすることで「矛盾」を解消した。

 この矛盾解消までの数年間に事故に見せかけた殺人で「解任」となった知事や自治体首長がいる。その一つにチェチェン戦争停戦の立て役者、アレクサンドル・レベジ知事の事故死がある。エリツィン大統領時代の一時期に首相を務めたことがあるレベジは、軍人の出身で同じく軍人であるマスハードフチェチェン大統領代行と軍人らしく話をつけて、泥沼になりかけた戦争を停戦に導いた。しかし「野蛮なイスラムのチェチェンごときに屈した」とクレムリン取り巻きから集中砲火をうけ、首相を解任されてしまった。その後レベジはクラスノヤルスク知事に立候補当選し、支持を集めていたが、あるときヘリコプター墜落事故で死んでしまった。このヘリコプターにはクラスノヤルスク州の自治体指導部中枢が多数乗り合わせていたこともあって(つまりレベジの息のかかった者全員が一掃されたことになる)、葬儀にはプーチン大統領も参列し「悲痛な面もちで」弔辞を述べた。誰も口にしないが、誰もがプーチンの仕業であることを了解していた。地方首長たちはこうした見せしめを経て解任権限が大統領府に移るのに同意した。殺されるよりは解任のほうがいい。

 どこが民主制、というようなむちゃくちゃな選挙で議員となったが大半の議員は議会に出てこない。日本でも居眠り議員がときどきやり玉にあがっているが、居眠りどころかはじめから出てこない。それは上院でも同じで、国民の代表としての自覚などなく、かつての貴族の江戸屋敷住まいよろしく「モスクワ屋敷暮らし」を満喫している。ロシア時代、地方貴族はモスクワやペテルブルクに屋敷をもっていて、舞踏会に明け暮れるきらびやかな暮らしをしていた。屋敷管理費用は領民から搾り取ったものであるにせよ、自分の甲斐性であるにせよ、自前だった。今の上院議員たちのモスクワ屋敷町暮らしはすべてが税金でまかなわれている。なんせ「議会民主制国家」だから。

 最近になって大物地方自治体首長がクビになった。モスクワのルシコフ市長である。彼は18年間君臨し、エリツィンともプーチンとも「あ・うん」の仲間だった(だから18年間もいた)。この夏の山火事のときに市民をほったらかしにしてホイと休暇に出てしまったのが、命取りとなった。市長の遊び好きは今に始まったことではないのに今回は不思議なことに更迭されてしまった。
 いつもは従順なモスクワ市民が「モスクワに火の手が迫っているのに、休暇とは不謹慎な」と騒ぎ出したからだ。下降気味のプーチン人気を取り戻すには絶好のチャンスである。ここでばっさりクビにすればモスクワ市民は「大統領・首相の勇気ある決断」に涙を流すからだ。

 ルシコフ市長には優雅な年金生活が待っている。レベジ知事のように事故に見せかけて消される危険性はない。更迭は大統領支持率回復の茶番劇だから。
 ロシアの議会制民主主義は2004年に死んだことになっているから流血の果てにやっと得た議会民主制はたった10年しかもたなかったことになる。その10年の間も、むちゃくちゃな議会民主制がロシアに君臨した。そして2004年に「むちゃくちゃ」としか言いようのない選挙のやりかたでプーチンは再選された。それでも国民はだれも声を上げない。実はもう上げられないようになってしまっていたのだ。共産主義をやっつけたとか、改革が進んでいるとか、今に黄金の雨が降る、といった夢物語に浮かされている間にじんわりと、しっかりとゆで上げられた「ユデガエル」はもう動けない。

 アンナ・ポリトコフスカヤはソ連体制が「西側の支援のもとで続いた」と断言している。西側先進諸国が「議会民主制に移行したあとのロシアの混乱、数々の人権侵害を黙認してきたことを照らし合わせればまさしく言い得て妙である。混乱の果てに「混乱を収める」としていつの間にか事実上の一党独裁に戻っていった。あれほど社会主義を嫌っていたはずの西側諸国は、このむちゃくちゃ改革をひとまず軽く非難しながら結局は容認し、すましている。やっぱり先進諸国にはソ連的一党独裁の方が何かと都合がよいようだ。それもプーチンは鉄のように頭の堅いスターリン(スターリは鉄の意味、スターリンは鉄の男)とちがってハナシがわかる。

 カエルをゆでる釜のそばでアンナ・ポリトコフスカヤは訴え、呼びかけた。結局責任を負うことになるのはロシア自身なのだから、と。彼女の訴えはかき消され、だれも耳を貸さなかった。そんな見方は悲観的だ、と。今その警告どおりになってきている。楽観的なロシアの国民が自分の蒔いた種を自分で刈り取る日が近づいた。アンナの殺害は結局ロシアにとって損失で、しかも悲劇であったことがやがてわかるだろう。ゆであがったカエルはごみとなって道ばたに放り出される。道しるべを自ら引っこ抜いてしまった見返しだ。
 2006年の秋、アンナが殺害された時、あるチェチェン難民の男性が言った。
 ドゥダーエフやマスハードフの代わりならいくらでもいる。でもアンナ・ポリトコフスカヤの代わりはいない、と。(川上なつ)

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2010年11月 4日 (木)

ロシアの横暴/第47回 ロシア「議会制民主主義」の血塗られた正体(上)

 アンナ・ポリトコフスカヤが自宅のあるアパート内で何者かに殺害されて4年がすぎた。
 プーチン体制になって後の数年間に多数のジャーナリストや反体制活動家が暗殺されたがどの事件も何一つ解決していない。この事件も闇に葬られ、忘れられようとしている。そしてその後も同じような暗殺事件が後を絶たない。
 アンナ・ポリトコフスカヤは父親が外交官だったので、アメリカで出生、生地主義をとるアメリカの国籍法にしたがってアメリカ国籍も持っていた。一時期は米国が「アメリカ人が殺害された」として動き出したこともあったが、誰がどう話をつけたのか、立ち消えになってしまった。
 日本で翻訳出版されたアンナの3冊の本のなかに『ロシアン・ダイアリー』(2007年出版)というのがある。その第一部に「ロシア議会民主制の死・プーチンはいかにして再選されたか」という項がある。ほんとうに現実にこんなことがあるのか、というような内容だ。
 それによるとロシアの議会民主制が死んだのはプーチンが大統領に再選された2004年となっている。だが生まれた日がはっきりわからない。調べてみると1993年12月に議会民主制を柱にした憲法制定の国民投票が行われたからさしずめ「この日あたり」か。

 ソ連時代の一党独裁の象徴である最高会議が崩壊したのは1993年の10月である。ソ連時代の議会制度は今でも何かとヤリ玉にあがる一党独裁だから民主制とはいえない。だがそれをつぶした当時のエリツィン大統領のやりかたは民主制とはほど遠い。それなのに「民主派・改革派」と持ち上げられ、世界に認められていたという不思議な現象がある。
 ロシア「議会民主制」生みの親であるエリツィンはおびただしい流血沙汰をもってこのソ連式一党独裁の残存物を一掃した。エリツィン的改革に抵抗する議会、日本流に言えば「抵抗勢力」が最高会議ビルに立てこもったというので、ここを封鎖し、兵糧責めにしたあげく大砲を撃ち込んだ。この最高会議武力制圧事件で犠牲になった人の数は公式には200人弱(それも国賊という汚名つき)とされているが、一説では2000人以上とも言われている。ほんとうは一体何人が殺されたのか、誰も知らない。100人か1000人か人数の論争ではなく、議会民主制のために無辜の民の血が流されたことだけは事実である。
 社会主義一党独裁を一掃し、新生ロシアとして出発するには新しい憲法が必要というので、1993年12月、憲法草案の信任を問う国民投票が行われた。最高会議流血制圧のわずか2ヶ月後だ。投票結果は次のとおりである。
「1993年12月12日国民投票実施 投票率54.8%、賛成58.4%、反対41.6%」、これをうけて12月21日にロシア連邦憲法が発効した。

 エリツィンのやりかたは、その直後の日本訪問の際、改革派と持ち上げていた日本の保守系国会議員にすら、国会議事堂に大砲を撃ち込むような輩を天皇陛下に会わせるのか、と言わせたほどだった。しかしエリツィンならば北方領土が返ってくるのではないかという期待感が高まっていたからこの異見はかき消された。
 そもそも日本を含む世界、それも先進諸国はこんな国民投票結果で議会民主制が始まると思っていたのだろうか。そのあと10年間をみれば先進国の本心は民主主義ではなく、別のところに、それも儲け話にあったのではないかと勘ぐりたくなる。

 議会民主制の基本となる二院制もこのときに導入された。何といってもそれまでは一党独裁だったからこの制度導入はおおいに受け、国民は驚喜した。彼らにしてみれば「なんかいいことがありそうな」キラキラした、まぶしい出来事だった。欧米並になったから、欧米と同じようにドル札やマルク札が降ってくるような気がしたにちがいない。
 その後1994年1月には議会選挙、その年の末には大統領選挙と続く。ソ連時代の選挙とはちがうんです、とばかりにこれ見よがしの派手な選挙戦が繰り広げられた。 
 そして議会選挙は回を追うごとにタチが悪くなっていった。買収供応は序の口、そのうちに与党がメディアを占領して朝な夕なにテレビに登場するようになった。野党候補者は自分の政策を訴える手段がなくなった。国民は「この候補者しかいないのか」と思う。といってもかつてのソ連時代の選挙と大差はないから、違和感はなかっただろう。候補者・当選者ははじめから決まっている、選挙ってそんなものだから。ソ連時代とちがって行っても行かなくてもよい自由があるからよほどマシ、というものだ。

 そんな選挙で選び出された議員は地方議員も含めて「選挙で選ばれたのだから、我々は民意だ」、と胸を張る。何をやってもよい特権階級に国民が押し上げてくれたわけだ。(川上なつ)

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