アフガン・終わりなき戦争

2011年10月19日 (水)

アフガニスタン元国会議員 マラライ・ジョヤさんの講演会

 混迷を深めるアフガニスタンで、平和と人権、民主主義を求めて闘っている元アフガニスタン国会議員 マラライ・ジョヤさんが来日、全国で講演会を開く。
 タリバン政権下で教育を禁じられていた女性たちのために地下教育に携わり、2005年の第1回総選挙で最年少国会議員に当選した。しかし軍閥政治家を戦争犯罪者として裁くように要求し続け、議員資格を剥奪されたという過去をもつ。BBCニュースが「もとも勇気あるアフガン女性」と評したことでも知られている。
「女性の命を奪うことなど、今日のアフガニスタンでは小鳥を殺すほどの重みしかありません。私は死は恐れませんが、不公正に対する政治的沈黙は怖いと思います」と語るジョヤさんの言葉は重い。

 「暗殺」の危険にさらされながらも女性達の識字教育支援を続けている姿勢は、自由と権利を得るために闘い続けることの重要性を教えてくれるだろう。来日に際しての記者会見では、日本について「米国に追従するのでなく、独立して行動すべきだ」と語った。
 泥沼化する現状に嫌気がさせば米軍は撤退できる。しかし現地の人たちは海外で報道すらされない内戦の危機におびえながら、生活を続けなければならないのだ。

 私たちもアフガン攻撃を支援した側の人間であることを忘れてはいけない。泥沼化した責任の一端を担っているのである。だからこそアフガンの現状を知る義務もあろう。
 日本全国各地の後援会日程は以下の通り。全会場予約不要なので、ぜひ訪ねてみてほしい。

10/21(金)・大阪女学院大学 
   午後6時~/無料

10/22(土)・同志社大学 /無料

10/23(日)・大阪 吹田さんくすホール
   午後1時半開場/2時開演/参加費千円

10/25(火)・院内集会 参議院議員会館 ←東京です

   午後2時~

10/26(水)・明治大学リバティータワー ←東京です
   午後6時半開場/7時開演/資料代千円

10/27(木)・名古屋学院大学 白鳥学舎翼館302教室
   午後3時~5時/無料

10/28(金)・大阪大学 豊中キャンパスステューデントコスモス
   午後4時20分~/無料

10/29(土)・京都大学 吉田南キャンパス 人間・環境学研究科棟 地下講義室
   午後1時開場/1時半開演/資料代千円

★ 各会場での講演テーマなどの詳細はホームページ http://rawajp.org/ でご確認ください。

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2011年5月 7日 (土)

福島原発・立ち入り禁止区域の現在

 Photo 原発の町、双葉町の国道6号線は完全に外界から隔絶されていた。音が無い。
 道路沿いのパチンコ屋が傾いている。経営が、ではない。閉店してからずいぶん経つのだろう。人の手が入らなくなり久しいその建物は、海風を受け赤茶け、その上地震で揺さぶられたおかげで15度は傾むいている。自動販売機も倒れている。周りを見ると、同じように傾いている建物がいくつもある。歩を進めるたびに私の影はへこみ、ゆがみ、ちぎれた。道路をひしゃげてしまっているからだ。アスファルトには穴があき、ガードレールはちぎれ、橋は落ちていた。私の心にも穴。地震が起きた3月11日のまま時が止まっている。こんな前衛芸術があったような気もする。ヒッチコックの映画の一シーンの様でもある。世界は滅び、私一人が生きのびた。陳腐だが苦労した舞台設定。でも聴衆は一人もいない。わたしと同僚の他には誰一人としていない。そう話すと同僚は少し笑ったが、苦笑いにしかならなかった。

 窓が空きっぱなしになった2階建てのアパートがあった。覗いてみると子供向けのキャラクターの刺繍の入ったハンカチとパジャマが干してある。だれかいませんかああ、と叫んでみる。澄み切った青空の中に声が吸い込まれてきて、返ってきたのは犬の遠吠えだった。犬の声を頼りに歩いて行くと、黒い大きな犬が犬小屋の前で鎖に繋がれたままの状態で置き去りにされていた。小屋の周りには大量の糞が散乱し、犬はそれを踏まないように身を縮め、わたしに向かって吠えている。テリトリーに侵入者があらわれたので、家を守ろうとしているのだろうか。それとも、飼い主に自分が生きていることを伝えてほしいのだろうか。
 
 前日、原発20キロ圏内に行くとアフガニスタンの友人に話すと、彼は私を必死に電話口で引き止めた。彼の理解の中では原発と原子力爆弾がイコールであり、福島全域が明日にも吹き飛ぶと考えていた。実際のところ、少し前まで私だってそれくらいの理解しか持ち合わせていなかった。アフガニスタン人に安全を心配される日が来るとは夢にも思わなかった。今回の津波の受けて、カブールの街中では募金活動まで行われたのだ。私はアフガニスタンを心配する側から、心配される側になってしまった。

「原発20キロ圏内」
 それは距離の単位というよりも、その地域を意味する固有名詞のようだ。それは東京タワーから20キロなのでもなければ、平等院鳳凰堂から20キロでもない。20キロと言えば福島第一原発から、と誰もがそう考える。日本がそうなってしまったのだ。

 双葉町の駅から続くアーケードの終点には巨大なアーチがあり、こんなスローガンが書かれていた。
「原子力正しい理解で豊かな暮らし」
 今となっては皮肉にしか見えない。何が原子力に対する「正しい理解」なのかは私には分からない。分かるのはそれが冗談にしろ本気にしろかなり出来の悪い皮肉だということだけだ。
Photo_2  アーチの下では犬の夫婦があてども無くうろうろとしていた。二匹とも痩せているようには見えない。近くには山盛りに盛られたドッグフードと、舐めるとペットボトルから水が滴る仕組みのペット用の水飲み機が置かれていた。きっと飼い主がたまに補充に来ているのだろう。30キロ圏内は後に完全立ち入り禁止区域に指定されるが、私が入った時はまだ警察は立ち入りを拒否できなかった。愛するペットには放射能入りの水を飲ませたくないのだろう。

 原発から数キロしか離れていないこの場所では毎時15マイクロ・シーベルトの数値を持参したガイガーカウンターが示していた。決して低い数字ではない。双葉町でも風向きによって局所的な爆撃みたいに、場所によっては50マイクロ・シーベルトに達し、低いところでは5マイクロ・シーベルトまで落ちた。目には見えない、臭いもない放射能が町を気まぐれに爆撃している。爆撃ならまだ戦闘機の音や炎で自分がどれくらい危ないかが分かる。放射能はそうではない。私も体を揺さぶるような危険は何も感じない。アフガニスタンの戦場とここ。どちらが危険だろうか。空には呆れるくらい青い空が広がり、海から心地良い潮風が吹いている。しかし、私は自らの肉体を破壊しかねない物質が舞う空間に立っている。

 ここに犬たちを置いていかざるをえなかった飼い主は、けれど戻ってきている。私も一度だけここの住人とすれ違った。見えない爆撃をかいくぐろうと、正確には「かいくぐれてればという希望を持って」、住民は双葉町に入ってきている。犬に放射能に汚染されていない水を与えるために。川の水は危ない。だから、このペットボトルの水を飲みなさい。これなら汚染されていない。放射性物質は入っていない。

 車を街中から原発正門に向けた。ガイガーカウンターの数値は目的地に近づくにつれ上がっていき、正門前に到着すると70マイクロ・シーベルトに達した。ガイガーカウンターは初期設定で10マイクロ・シーベルトに達すると最も危険度が高いアラームが鳴るようになっていたが、うるさいので途中で50に変更した。それでもここでは上限を振りきれてしまっている。ピーピーピーと電子音がけたたましく鳴っている。

Photo_3  正門の職員からはすぐに退去を要求され、顔写真撮られた。ここを訪れているのは私たちだけじゃないのだろう、メディアにピリピリしているのが分かる。同僚は「報道の自由があります」と少しやりあっていたが、私も同僚もさっさとこんなろくでもない場所からは退去したかった。
「放射能を浴びてますよおおお。危険ですよおおおお」
「それはあなたも同じでしょう」
 黄色い防護服を着た守衛の一人は一日20時間もここに立っていると話した。原発事故が起きてから週の半分はここに立っていると言う。途中で警察を呼ぶぞ、と別のセキュリティが怒鳴ってきたのであまり話は聞けなかったが、こんな所で働くというのはどういう気持ちなのだろうか。ご苦労様です、と頭を下げたい気分だった。

 福島第一原子力発電所の周辺では、危機感を煽ってくれない風景と、極めて高い放射能が支配するアンバランスな空間が広がっていた。たぶん世界中探してもこんな場所は無い。頭では危険だと分かっているが、本能的な部分では体が危機感を感じてくれない。全てが私の理解の範疇を超えていた。
 原発事故が起こると予想していた側も、安全だと信じていた側も、単純に関心が無かった人たちも、この事故で誰もが理解を超える空間に放り込まれてしまったのだ。

 私が原発周辺にいた5時間、平均して50マイクロ・シーベルトとして、浴びた量は250マイクロ・シーベルト。一時期テレビに毎日のように映っていた「放射能の人体への影響グラフ」に照らし合わせれば何の問題もない。福島の多くの農作物も人体には影響が無いことになる。安心するために政府の「大丈夫」を信じるか。それとも、いかなるリスクも許容しないと政府の発表を無意味と断じるか。私には判断がつかない。前者の側に立てば楽観論者と言われ、後者になれば「非科学的」と烙印を押される。原子力発電を続けるかどうかという議論はこれから否応なしに高まるだろう。しかし、原発のように、公共性が高いにも拘わらず、事業者や専門家と一般人との知識量の差が大きい問題は、反対の声が、「非現実的」、「無知」と一蹴されてしまい がちだ。それでも、嫌なことは嫌だと、感じたことを主張すべきだ。
 私はこんなものは嫌だ。
 そうひとりごちた。(白川徹)

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2011年2月24日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第41回アフガン人と行くアフガンの仏像展(下)

 上野の特別展にはパキスタン出土の仏像も多く置かれていた。その中には彫りの深いパシュトゥーン人顔をした仏像もあった。まるでギリシア彫像の用に写実的で、精悍だ。日本や東南アジアの仏像はふくよかな仏像が多いが、中央アジアでは凛々しい仏像が多いようだ。一言で言えばイケメン顔で、手塚治虫の「ブッダ」に出てきそうな輪郭だ。その多くはクシャン朝(2~3世紀)のもので、大きさや作りの綿密さからいかに巨大な仏教文化が存在したかを思い起こさせる。

 アフガン出土の仏伝図の多くにはカピサ(現バグラム)出土と説明があった。外国軍最大の基地、バグラム空軍基地のある場所だ。今ではそこかしこに地雷が埋まり、外国軍の装甲車が我が物顔で土煙をあげている。人々は食べるものが無く、皆腹をすかせている。幾度も訪れた場所だが、あそこに高度な仏教文化が栄えていてたとは今の現状を見るに想像もできない。それくらい荒れ果てた地域なのだ。

 展示されているバーミヤン出土のレリーフは壁から剥がされ、海外にバラ売りされたものだ。つぶさに見ていくと、その多くは顔の部分だけがヤスリで削り取られている。おそらく内戦中か、それ以前に削り取られたのだろう。仏教徒ではないわたしもこれには閉口した。壁一面に描かれたブッタたちの顔を一つ一つ消していったのだ。削った人間もこれは大仕事だったろうに。そこまでやらなくてもいいじゃないか、と悲しい気持ちになる。バーミヤンの大仏も同様にガズナ朝(11世紀ごろ)に顔だけ破壊された(自然に崩落したとの説もある)。顔のない仏像ほど寂しい物はない。

 2001年にバーミヤンの大仏はタリバンの手によって完全に破壊された。いくら偶像崇拝を禁止しているとはいえ、あまりに酷い所業だ。しかし、遺跡破壊はタリバンだけでなく、ISAF(国際治安支援部隊)によっても行われた。2008年5月3日、NATO軍が不可解なことにバーミヤン仏教遺跡の前で武器を爆破解体。遺跡の一部を吹き飛ばした。西部パキスタンでもタリバン運動は盛り上がりを見せており、多くの文化財は地元の博物館を離れ、別の場所で保管されている。タリバンが収蔵品を破壊すると脅しをかけたのだ。どんな時代でも文化財の破壊はその価値を理解しない武器を持つ人々によって行われる。そこにはアフガン人であるか欧米人であるかは関係が無い。

 しかし、明るいニュースも無いではない。2008年11月にはバーミヤンで新しい大仏が発見された。フランスに拠点を置くアフガン人考古学者ゼマルヤライ・タルジ博士の手によって発掘が進められており、全長19メートルと推測される涅槃像だ。土に埋れていたため、破壊をまぬがれた。玄奘三蔵の「大唐西域記」には全長300メートルにも及ぶ涅槃像の存在が言及されている。アフガン人学者自らの手によって彼らの祖先の偉大な文化遺産を発見される日もそう遠くないだろう。
 
 仏教遺跡の破壊の殆どがタリバンによるものだ。遺跡の多くは異教徒のものでありながら、タリバン登場までその多くが残されていた。破壊を試みたのは一部の狂信的なはね上がりどもであり、一般のアフガン人は祖先の遺産をわざわざ破壊しようなどとは夢にも思わない。

 嘆かわしいことに、貴重な美術品の流出は今現在も続いている。欧米のブローカーがパキスタン経由で多くの歴史的遺産を輸出しているのだ。ブローカーは現地人から二束三文で品物を巻き上げ、日本や欧米の金持ちに高値で売りつけている。そして、貴重な文化財は陽の目を見ないまま個人のコレクションとして隠されるのだ。その原因はアフガン全土を襲う干ばつと飢饉だ。美術品を発掘して売る以外に生きるすべが無いのだ。ここで責を負うべきは愚かな欧米や日本の金持ちどもだ。彼らこそアフガニスタンの文化を破壊している張本人である。また、アフガニスタンの干ばつを放置する国際社会も責任を免れることはできない。

 上野の博物館で公開されている遺跡は、平山郁夫の設立した文化財保護・芸術研究助成財団によって管理・修復されており、アフガニスタンの情勢が落ち着けば美術品を現地に返還するとしている。この特別展は来月6日まで行われているので、可能ならばぜひ見に来てほしい。(白川徹)

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2011年2月17日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第41回アフガン人と行くアフガンの仏像展(上)

 東京国立博物館で開催されている特別展、「仏教伝来の道。平山郁夫と文化財保護」を見てきた。故平山郁夫は芸術家としての活動の傍ら文化財保護にも力を入れていた。今回展示されているアフガニスタン出土の仏像も内戦中に闇ルートを通って日本に流れてきたものを、平山が買い取り、保管していたものだ。

 その中にはカブール国立美術館から盗み出された「カーシャパ兄弟の仏礼拝」も含まれている。アフガニスタン仏教文化の傑作と言われている貴重な仏伝図だ。私は3年前にカブール国立美術館を訪れたことがある。1920年代に建てられた小じんまりとした2階建ての建物で、90年台の内戦時期にはムジャヒディンの基地として使われた。内戦中、貴重な文化財は外国の金持ちに売られ、武器弾薬に代えられた。その間銃撃戦の舞台になり、ロケット砲まで打ち込まれた。私が訪れたときには海外からの援助もあり、建物は修復され観覧も可能だった。2000年以上前に作られたゾロアスター教(拝火教)の像もあり、多くを失ったとはいえ、アフガニスタン史の悠久の流れを感じるに足る場所だった。

 ただ、一緒についてきてもらったアフガン人の友人はいい顔をしなかった。イスラム教では偶像崇拝が禁止されている。仏像を見ると彼は露骨に嫌そうに顔をしかめた。写真や人物画、アニメすら嫌われる土地柄だ。仏像の存在自体が悪魔の所業と見えても不思議ではない。アフガニスタンがイスラム化したのは8世紀ごろ。それ以前はゾロアスター教、ギリシア文化、仏教文化が大輪の花を咲かせていた。けれど、アフガン人でそれらに興味を持っている人間に、私はついぞ会ったことがない。

 以前ホテルで、アフガニスタンの仏教文化を通訳のアフガン人に熱っぽく語っているアメリカ人のジャーナリストを見たことがある。通訳の方はキョトンとしていて、そんなものがあったこと自体知らなかったようだ。アメリカ人の方は
「You should be proud of it! (誇りに想うべきだ)」
 と何度も繰り返していたが、通訳の彼にとっては寝耳に水だ。自分の国の文化に興味を持ち研究しているアフガン人たちがいることも知っているが、実際のところ多くのアフガン人にとって、興味の対象には成り得ないのが実情だ。戒律上の話だからこちらがとやかく言う筋合いではないが、まあ多少もったいない話ではある。私の博物館見学も、友人が「早く出よう」と何度も訴えるので足早に見るだけになってしまった。友人には悪いことをしたと思っている。(白川徹)

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2010年12月30日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第41回イスラムから見た法治国家(下)

 ところで、アメリカの目指す近代国家とは、平たく言うなら「法治国家」だ。国における物事はすべて国の法律に則って決める政治体制のことだ。しかし、これがタリバンや伝統的なアフガン人にとっては受け入れがたい代物なのだ。
 そもそもイスラム社会の最上位に来る法はコーランとシャーリア(イスラム法)だ。どちらも神の定めたものであり、変更不可能なものだ。この神の指令に従うことがよいイスラム教徒であり、従わないのは不埒者ということになる。サウジアラビアではシャーリアを憲法に代わる物として定めている。
 イスラム法ではない、国の法律を守れと言われることが、多くのアフガン人にとっては我慢がならないのだ。神の定めた法のよりも、国の法がそれを上回るというのは神に対する冒涜以外のなにものでもない、と捉えるのはイスラム教徒にとって自然な考えだ。しかも政府のバックに憎きアメリカがいるとなれば尚更だ。日本で「法治国家」と聞くとそれは自分たちのすばらしい価値観のように思えるが、イスラム教とにとっては真逆に映る。

 ここでひとつ押さえておかなければならないのは、イスラム教徒の場合、人としての善悪、ひいては道徳というものは、すべてイスラムから来るという点だ。日本社会に生きていると、特定の宗教を信じていなければ、不道徳ということはない。しかし、社会全体が1000年以上にわたってどっぷりイスラムに浸かってきた地域では、そうはいかないのである。イスラムというのは、人間生活全てにわたるルールを示しているから、何が善行で何が悪行であるかという規範は、すべてイスラムの教えの中に存在することになる。そうでないと、神の絶対性が損なわれてしまうのだ。

 イスラム教が多数派を占める国で、法治国家と自認するのはトルコだけだ。オスマン・トルコ滅亡時、トルコ政府の人間は国の衰退した理由を非合理的なイスラム教社会のせいだと考えた。そのため、オスマン・トルコ滅亡後は徹底的な政教分離社会を実践し、宗教の国への介入を許さなかった。
 アフガニスタンの場合はムジャヒディン(イスラム聖戦士)がロシアを追いだしてしまったのだから、真逆の歴史を辿ったことになる。アフガン人が法治国家を自分たちの社会に受け入れるのは難しいだろう。
 アフガニスタンは「イスラム共和国」と言われているが、国の制度はアメリカ製だ。どんなにイスラムに配慮しようとも、宗教と国の法律の差はうまらないだろう。国の法律をまるごとシャーリアにするというのなら話は別だが、それは欧米諸国が決して許さない。
 つまり、長々書いたが、どうやってもどうにもならないのだ。

 ところで、常岡氏と会った時、その場にいたのは日本人半分、イスラム教徒半分という感じだった。常岡氏も中田教授も日本人のイスラム教徒だ。だからと言って、私が彼らを怖がっていたという訳ではない。イスラム教徒の行動規範は私のそれと大幅に異なるが、考え方が違うからと喧嘩をしていては社会は成り立たない。
 ことアフガニスタンのケースだと、アメリカがいかにイスラム教を理解せずに戦争を始めたか、とうことが問題だ。そんなに理解できないのなら、自分の世界と別のことにしておけばいいのだ。
 けれど、人類は21世紀になってもまだ宗教が理由になって戦争をしているのだ。ちなみに今日はクリスマス。ジョン・レノンもきっと草葉の陰で泣いている。(白川徹)

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2010年12月28日 (火)

アフガン終わりなき戦場/第40回イスラムから見た法治国家(上)

 先日、今年アフガニスタンで拘束されたジャーナリストの常岡浩介さんにお会いする機会があり、日暮里のイスラム料理屋で話ができた。その場には以前お世話になったアフガニスタン政府報道官のシディック・アンサリ氏とカルザイ大統領のアドバイザー、ワヒドラ・サバウーン氏もいた。常岡さんと同志社大学の中田考教授が日本に呼んだもので、講演会を日本各地でやっているとのことだ。

 サバーウーン氏は内戦中にアフガニスタンで一大勢力を築いたヒズブ・イスラミのナンバー2の地位にあった。現在でこそカルザイ政権で高官の地位にあるが、もとは山々を転戦したイスラム戦士だ。今年には反政府勢力の攻撃にあい、生死の境をさまよった。その攻撃の後遺症で今もほとんど喋れない。しかし、190センチはゆうにある巨体は少しも威厳を失っていないように見えた。戦乱のアフガニスタンから来た彼に日本はどのように写ったのだろうか。彼とゆっくり話すことはできなかったが、サバウーン氏と日暮里の街はずいぶんとミスマッチに見えた。

 年の瀬ということもあり、忘年会を兼ねてアフガニスタンに関わっている人たちにお会いする機会がずいぶんとあった。色々と意見交換をしたが、誰しもがアフガニスタンの今後を半ば絶望的に見ている。
 おそらく、平和もこないし、どうにもならない。
 私もそう思う。治安が悪い。産業が無い。干ばつで農耕もできない。近代的な政治体制も無いに等しい。ついでに言えば電気も無い。

 あるものを捜すほうがはるかに難しい。これは最近始まったものではなくて、もう40年近くこんな状態なのだ。アメリカはこの不毛な土地に近代的な国家と社会を作ろうとしたのだから、無理も出てくる。

 日本は幕末、明治ブームらしいが、明治維新のような近代社会を構築する過程をこの国は経てきていない。もちろん、近代国家が上でアフガニスタンのような封建社会が下という訳ではない。民主主義がなかろうが、国家が無かろうが、宗教を基軸にした社会に住もうが、悪かろうわけがない。それこそ個人の自由だ。けれど、カブールを中心に警察組織や軍隊の構築、法の整備が進んでいるのは事実だ。ちなみにアメリカがアフガニスタンに対して用意する年間予算は少なくとも60億ドル(約5000億円)。戦費は330億ドル(約2兆7000億円)。ちなみにアフガニスタンと人口が同じくらいのネパールの国家予算は約2300億円だ。これだけの金をかけてアフガニスタンというちっぽけな国を近代化しようとしているのだから驚きもする。(白川徹)

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2010年9月 9日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第39回“安全保障を脅かす”男が明らかにした米軍の真実

 今年7月末に民間団体ウィキリークス(Wikileaks)によって、アメリカ軍のアフガニスタン関連の機密資料7万5000点がネット公開された。アメリカでは歴史上最大の漏洩事件とまで言われ、公開から1ヵ月以上が経ってもメディアを騒がせ続けている。
 ウィキリークスはオーストラリア出身のコンピューター・プログラマー、ジュリアン・アサンジ氏が設立したNGO団体。08年には米軍戦闘ヘリコプターが民間人を銃撃する映像を公開し、一躍名を上げた。ウィキリークスはネット上の百科事典ウィキペディア(Wikipedia)に似たスタイルのホームページで、内部告発文章なら原則誰でも匿名で投稿することが可能だ。約10名程度の常駐ボランティアスタッフが在籍し、アサンジ氏によるとサーバーは情報保護法制の整備されたスウェーデンやベルギーに置かれているという。現在日本語を含めた9つの言語に対応している。言論の自由の無い中国や、不敬罪が施行されているタイからは接続が規制されている。

 アフガニスタン関連の機密文章はカブール・ウォー・ダイアリーという特設ページに置かれ、日にちや場所、事件の種類ごとに検索をかけることができ、月ごとの事件の件数をグラフ化して見ることもできるようになっている。ロケーションも事件ごとにGoogle Mapで表示される。
 私も自分が従軍していた時期の文章を調べてみたが、残念ながらその作戦についての文章は無かった。08年の3月に東部ホースト州で従軍した前線部隊は、私が3日の滞在で離れた後に攻撃を受けたと聞いた。全ての軍事行動が記載されている訳では無いようだ。
 公開された文章は軍隊内部でのみ通用する単語も多く使われており、多少読むのに苦労したが、読み進めていくと民間人への銃撃や拘束が日常的に行われているということが見えてくる。
 イギリスの新聞ガーディアンは「アフガニスタン戦争の失敗を衝撃的に描写する内容」と酷評している。

 文章はどれも淡々としている軍隊内の報告書に過ぎないが、その行間には人間、一人一人がいる。Detain(拘束)という項目の報告書では、その行間に武器を持った米兵に囲まれて連行される、怯えた男の顔が浮かんでくる。Killed in action(戦闘中死亡)の文字からは、体のどこかを吹き飛ばされた若い米兵の苦悶を浮かべた顔が浮かんでくる。
 同サイトで戦闘ヘリコプターが民間人を銃撃する映像をリークさせた米軍諜報機関の男性は現在情報漏えいの罪で軍に拘束されている。今回のアフガニスタンのリークを行った人物も相当の危険を覚悟で情報を持ち出したはずだ。現代においては情報はコンピューターで管理され、どこから漏れたかは時間をかければ間違いなく発覚する。ベトナム戦争の時のように紙束を抱えて運び出す苦労は無いが、身元が割れるリスクは格段に高いだろう。その人物の勇気に心から敬意を表したい。
 ウィキリークス代表のジュリアン・ユサンジ氏は英ガーディアン紙で情報の公開についてこう語っている。

 「優れたジャーナリズムは、本質的に物議を醸すものだ。権力者の横暴と戦うことこそ、優れたジャーナリズムの役目。そして権力というものは、挑戦されると決まって反発するものだ。つまり、物議を醸している以上、情報公開は良いことなのだ」

 現在にいたってもアメリカ政府とユサンジ氏は激しく言い争っている。先週には滞在中のアイスランドでセクハラ疑惑で逮捕されかけるも、急に容疑が取り下げられるという珍事があった。ユサンジ氏はアメリカ政府の陰謀と非難。国防総省のモレル報道官はばかげている、と一蹴。米政府は一貫して氏を「国家の安全保障を脅かした上、偏った見方をしている」と非難している。氏の「物議を醸す」という目的は達せられたわけだ。
 最も重要なのは今後、このリークされた膨大な情報をいかに整理し、今後に活かすかということだ。欧米メディアの注目ははすでに公開された資料そものものではなく、ユサンジ氏と米政府の批判合戦そのものに移っている。
 資料に載っている名も無き人々の声にこそ耳を傾け、そこから新しい事実を掘り出していかなければいけない。危険をおかし、情報をリークさせた人物がいる。彼または彼女は責任を果たした。それを読んでいくことは、我々市民の側の責任だろう。(白川徹)

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2010年8月 2日 (月)

アフガン終わりなき戦場/第38回 お呼ばれしたら王様気分で!?

 他人の家に来て、ホストの前で寝転がるというのは始めての経験だった。私が少し困った顔をしていると、彼は朗らかに言う。
「これで私もくつろぐことができます。では私も横にならせてもらいます。お互いカブールからの長旅で疲れましたから」
 そう言うと彼はキキッと悪びれずに笑った。彼の下の兄弟の一人が灰皿を持ってきた。どうやらマホメットは私がタバコを吸うだろうと思い、前もって兄弟に灰皿を用意させていたようだ。マホメットが、さあ吸って吸って、と急かす。まあ、そう仰るなら、と日本から持ってきたマルボロを一本取り出す。彼に一本どうだと薦めると、彼は客人の前でタバコを吸うことはできないと固辞した。

 私もアフガン人の家にやっかいになっとことは何度もあったが、ここまで「王様扱い」されたのは初めてだ。マホメットは待っていましたとばかりに理由をしゃべりだした。誰でも自分の文化を話すときはうれしそうな顔になる。
「では、白川さん説明します(オホン)。アフガニスタンに『客人は神から贈り物』という言葉があるのは知っていますね。その通りなんです。ですので、私たちは門に鍵なんてかけたりしません。例えば見知らぬ誰かが家に入ってきたとします。『あなたどちら様?』なんて無粋なことはお聞きしません。何も言わずに『よくいらっしゃいました』と客間に通し、お茶と食事でもてなします。もちろん、日が沈めば『どうぞお泊りください』と申し出ます。私たちのいる部屋は当家で一番立派な部屋です。こちらでくつろいでいただきます。そして朝になって朝飯をともにしながら、そこではじめて『どちらさまですか?』と聞くことができるのです」

 私は素直に驚いた。
「それは今でもやれているんですか?治安は最近すごく悪いし、大丈夫なのかな?」
 マホメットは少し悲しそうな顔をした。
「私の家では大丈夫ですが、もうカブールでは無理でしょう。タリバン時代中は、少なくとも治安は良好でしたので、アフガニスタン中でそうでした。私はカブールに仕事でよく行くのですが、いつもアポ無しで親戚の家にとまりに行きます。その家もなかなかの名家ですが、門のドアはいつも硬く閉ざされています」

「タリバン時代のことを懐かしく思っている人が多いように思うんだけど、あなたもそう思う?」
「さあ。ただ治安がよかったことだけは確かでしょう」
 マホメットは少しとぼけた顔をした。迂闊には話せない、という顔だ。彼も含めて、アフガン人はアフガニスタンの文化に誇りを強く持っている。タリバンは暴力的であったが、その暴力性によってアフガニスタンの治安と文化を保護していた。

「タリバン時代は盗みをすれば即腕を切り落とされます。だから泥棒なんてほとんどいませんでした。けれど、今は皆ポケットを守るように歩きます。今の政権も盗みには厳しく当たるべきです」
 盗みをしたら腕を切るというのはイスラム法で定められている。けれど、今のアフガニスタン政府がそのような法律を成立させれば、欧米諸国からの反発は必至だろう。たぶん、そうはならない。私は失礼だと思いながら、尋ねてみた。

「けど、泥棒をしたら腕を切るなんて暴力的じゃないのかな? 貧しくて、盗みをしなければ生きていけない人たちもいるんだと思う」
「もちろんそれは分かります。街中で盗みをするのは殆どが家の無い子供たちです。タリバン時代はマドラサ(神学校)がそのような子供たちを保護していました。けれど、今はマドラサという存在自体がタリバン養成所のように思われ、活動できません。ああ、でも私はタリバンを支持しているわけではありませんよ。ただ、そういう面があったというだけです」
 もしかしたら彼もタリバン時代が懐かしいのかもしれない。けれど、それは責められることじゃない。タリバンはいわゆる「近世」の考え方をもった集団だった。彼らには彼らなりの秩序があったし、それで安定もしていた。私たちの尺度では測れないことも多い。ある文化を「遅れている」と否定することは簡単だけれど、人の文化を自分たちのものと違うからおかしい、という人間側の文化レベルも底が知れている。

 私はやはり気が引けるし、自由に振舞えと言われてもできないので、翌日ホテルに移った。別れ際にマホメットが客人を歓待する文化のカラクリを教えてくれた。
「こうやって客人を泊めると、近所の人たちから尊敬を得られるんです。だから別れ際もちゃんと門の外までお送りするのです」
 ちょっと意地悪そうな顔をして彼はそう教えてくれた。日本の昔の富豪と似たような発想だ。でも、それを教えてくれるところがアフガニスタンらしくて、サッパリしている。
 ただ、家を出て行くときは車で移動することになった。治安のことを考えて用意してくれたのだ。これでは近所の人に見せられない。
 だから平和になったときはアポ無しでぶらっと彼の家にまた逗留したいなあ。(白川徹)

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2010年7月22日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第37回 お呼ばれしたら王様気分で!?

 ホスピタリティーと言うと少し大袈裟だけれど、客人をもてなすことはどの文化においても大事なことだと思う。日本の富豪が文化人を屋敷に逗留させることは、一種のステータスだった。富豪が上等の客を迎えるということは、彼らの周りの人間に対する力の誇示も意味する。夏目漱石がどこどこの屋敷に厄介になった。森鴎外がどこどこのやしきに泊った。どれも結構な名誉だ。
 けれど、やっぱり下心が見え隠れするし、もし屋敷の主人が文学に理解のある人だとしても、どこかで人に自慢したいんじゃないか、なんて思ってしまうのが現代人の下賤な心だ。そんないじましい自分を蹴飛ばしてくれたのは、アフガニスタンのある“屋敷”でのひと時だった。

 アフガニスタン東部最大の街、ジャララバードに滞在した時、私はカブールから現地での有力者の車に同乗させてもらった。マホメットさんという方で、40前後。若き日のトム・ハンクスがひげを生やしたらこうなるのでは、という顔をしている。
 私はタリバンとの接見を企画しており、彼がそのコーディネーター役だった。わたしはジャララバードではホテルに滞在する予定だったが、彼はかたくなにジャララバード滞在中彼の家へ泊まるように勧めた。
 アフガニスタンには「客は神からの送りもの」という言葉があるくらいに、客人をもてなす風習がある。けれど、さすがにそんなに長く滞在するのは失礼だ。気も使うし、私は好意を辞したが、マホメット氏はどうしても泊っていけと言う。私は彼の押しに負けて結局数日ということで泊めてもらうことにした。

 マホメット氏の家は地元の名士ということもあり、アフガニスタンではかなり立派な門構えをした家だった。門をくぐると、広々とした庭が広がっていて、その先に12畳程度の平屋がある。床にはヘラート産だという細かい模様を編みこんだ巨大な絨毯が敷いてある。アフガニスタンには輸入品以外工業製品というものが無い。この絨毯も女たちが何年もかけて丁寧に編みこんだものだろう。
 壁の四方の隅には細長い絹で作られたマットと円筒型の枕が置かれている。表面には手の込んだ装飾が金色の糸で縫いこまれている。
 壁にはアフガニスタンの殆どの家庭がしているように、コーランの一節が額に入れて飾られている。

 マホメット氏はマットの上に寝転がって楽にしてくれと言う。いやいや、泊めてもらっておいて寝転がるというのも失礼だから、と返すと、彼は私の体を持って足払いの要領でマットの上に倒した。
「白川さん。アフガニスタンでは客が一番偉いのです。あなたが楽にしてくださると、私たちもくつろぐことができます。どうか、王様にでもなった気分でいてください」(白川徹)

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2010年6月17日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第36回 熱と扇風機とタリバンと

 結果から言おう。今回の取材で、私は完全に失敗をした。
 2010年5月いっぱいを私はアフガニスタンで過ごした。目的はタリバンの取材だった。
 タリバンという組織は単なる武装組織という枠を超えている。現在では地方においてオーソリティ、すなわち行政の一部として機能し始めている。特に今回私が取材をした東部ニングラハル州ではパキスタンの部族地域が近いこともあり、タリバンの影響力は大きい。タリバンは地元の部族長と協議を進め、治安管理や物資供給を担当しているという。
 一種の政府と言っても過言ではない。けれど、世間一般の政府と違うところは、彼らが世界の誰からも認められていない、最も孤立した政府だということだ。会うのにはそれなりの準備が必要だった。
 タリバンの取材は近年ではあまり行われていない。06年頃から「タリバンに会わせてやる」と取材協力を外国人に持ちかけてくるアフガン人が表れ始め、ついていった記者が誘拐される事件が多発した。その多くはタリバンというよりは盗賊の類であったが、タリバン取材のリスクは飛躍的に増した。

 01年のアメリカ侵攻以降しばらく外国人記者に対して敵対行動をとっていなかった。タリバンは90年代中盤から自らをアフガニスタンを統治する政府と自称し、国際社会に求めてきた。まがりなりにも彼らは政府としての自負を持っていたのだから、タリバン政権の間、外国人記者はタリバン政府から記者証を与えられて取材をしていた。当時は1日30ドルで政府が通訳を紹介してくれて、安全の管理もしてくれたと言うのだから(もちろん取材規制はすさまじかった)、今よりも取材環境としてはずっと安定していたと言える。
 けれど、00年代中盤からは外国人記者は完全に攻撃対象になっている。記者の誘拐が多発し、犠牲になる記者は年間10人前後にもなっている。彼らが方針を変えた裏側には、自らをテロリスト扱いする外国メディアへの不信感があるのかもしれない。
 兎も角。私はタリバンへの取材をしたかった。
 昨年、私はタリバン政権時代外務大臣の地位にあったムトワキル氏を取材した。
「タリバンはアフガニスタンの一部だ。彼らを取り除くことは誰にもできない」
 アフガニスタンの一部であるならば、彼らを取材することは無駄ではないはずだ。と言うよりも、タリバンに対する取材が激変したため、アフガニスタン報道はNATO軍などに対する従軍取材に集中し、バランスが偏り始めている。どうしても取材の必要があった。
  と、大上段に構えていたのだが、見事に取材は失敗に終わった。
 結局私は誰とも会うことができず、手ぶらで帰国をした。

 まあ、言い訳が無いわけでもない。カブールの信頼するガイドの母親が病気になり、彼が来られなくなった。いざ行くぞ、とニングラハルに乗り込んでみたものの、急に40度近い熱が出て1週間近く行動不能になった。極め付けには、タリバンとの折衝役をお願いしていた地元有力者が諸事情で協力できなくなった。
 ついでに言えば、カメラにお茶をこぼしてダメにした。携帯電話が何故か使用不能になった上、それを盗まれた。三脚をどこかに忘れてきた。親戚で不幸があった。泊まっていたホテルのインターネットラインが自爆攻撃で使用不能になった。普段は平気なのだけれど、滞在期間中常に下痢に悩まされた。
 熱にうなされている間の記憶もあいまいだ。アフガニスタン東部は初夏でも暑い。気温は40度にも達しているが、私は毛布を2枚かぶりそれでもガタガタと震えていた。覚えているのは天井で回っている巨大な扇風機だ。何かのはずみでスイッチが入り、扇風機はまるでヘリコプターのローターのように轟音を立てて回転していた。
 スイッチをオフにしたいが、そこまで歩くこともできない。熱が下がって歩けるようになるまで、このボロホテルの部屋がこの扇風機と一緒に空高く舞い上がり、分解。地上200メートルから地上に叩きつけられるのだ、という譫妄に悩まされ続けた。 

 正直に言えば、あと1週間くらいは粘ることもできた。けれどここまでツいていないと、無理をした末に盗賊やらタリバンに拘束されるのでは、と弱気になったのだ。
 無神論者のくせに、吾ながら情けないと思うが、今回は迷信的にならざるを得なかった。無神論者を罰する呪いにでもかかったのかと本気で心配をした。
 帰国した後も40度近い熱を出して1週間寝込んだ。
 結果的には帰国してよかったのかもしれないが、やはり情けない。命を賭けた取材なんてやるつもりは無いけれど、今回はツキが無いからオシマイ、と帰ってくるのもあまりに根性が無い。
 しかし、思い返せば手ぶらで帰ってくるのは初めてだ。今までが出来すぎていたのかもしれない。神様なり仏様なりが「今までは運が良かっただけだ。これまでのことを実力でやってきたなどとゆめゆめ思うでない」などとノタマっているのかしらん。
 オーケー。そうかもしれない。
 余談だが、あの扇風機のぶわぁんぶわぁんという耳障りな音が今でも布団にはいると聞こえてくる。(白川徹)

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