その中学生は私が発車の準備をしているときから乗務員室の前に立っていて、乗務員室を見ているのではなく、明らかに私の様子をチラチラと窺っていた。
制服姿で、見るからにおっとりとした利発そうな少年だった。私と目だけは合わせないようにして、ずうっと見ていた。
できればそんなに見ないでほしい。席が空いているんだから着席してほしい。向こうへ行ってほしい。が、見られるのも仕事だと割り切っている。もう慣れっこで何とも思わない。どうぞ好きなようにという気持ちでいる。
電車は東京を発車して、四ツ谷を過ぎ新宿に着いた。
ホームに降り、旅客の乗降を確認しながら発車ベルを押そうとしたその時、「あのぉ、お仕事中に悪いんですけど、本を書かれた車掌さんですか」ときたもんだ。
私は「読んでくれたの!? ありがと、ありがとう」と頷くと、「すごく面白かったです」と神妙だったそれまでの顔に笑みが零れ、おじぎをしたかと思うと人波に消えて行った。
こういうことは度々ある。といっても年に数えるほどだが、今でもまだある。それは中高生が多く、たまにおっさんだったりだ。その人たちは私のネームプレートと顔を忙しそうに2~3回見て、「斎藤さんって」「あなたかね」で始まり、最後には「頑張って…」と激励してくれる。乗務中だからその場限りの一瞬だが、みんな鉄道ファンなのだろう。
ま、こんな時は実に照れる。でも、ことの外嬉しい。仕事を忘れてしまいそうになる。見慣れた景色が華やいで見える。何気ないのに美しく見える。何故か踊って見える。長い乗務が短く感じられる。苦痛がとれる。こうした自分だけの喜びをそっと胸にしまい込み、また乗務を続ける。
あれは今年の夏だったか。国立でドアを閉めようとすると、目の前で慌てて降りて行った高校生がいた。制服が水色の半袖だったことが印象に残っているから、そう、やっぱり夏なのだろう。
で、なんと、その高校生が手に持っていたのは『車掌の本音』、拙著であったのだ。私は感激のあまり、「ちょ、ちょっとそこの君、待ちなさい」と思わず声を掛けそうになったほどだ。
また、当ブログにコメントを寄せてくれる豊田在住という高校生とも近々会うことを約束している。
それにしても、さっきの中学生は私に声を掛けるだけでも相当な勇気が要る行動だったのではないかと推察するのだが、どうだろう。これは私の驕りでも何でもないが、こうしたちょっとしたことが、案外、彼にとって生涯忘れられない気恥ずかしい思い出の1つになることだと思うのだ。後で思えば全然大したことでも何でもないのに、ちょっとした勇気やドキドキした気持ちを伴ってみんな大人になっていくのだと思う。
私が彼にどのように映ったのかは分からない。見ての通りのはずだが、私はシャキッとはしていない。キビキビとテキパキとした模範的な態度とはほど遠い。どちらかといえば、いつもダラダラしている。見るからにやる気がなさそうで、弛緩しきった、全身スキだらけだと自分では思っている。
それでも、いわゆる「ふつう」にやっている。乗客の目もあるが、本を読んでくれた少年たちの夢を壊してはいけないという思いもある。何事もヘマは出来ない。書いたことによって自らが厳しく律せられていることが多い。いずれにしても、本で感じられた私のイメージに少しでも近いことを願いたい。
さて、話は変わるが、先日、中野駅で20年以上も前に他職場へ転勤していった後輩のT君から声を掛けられた。本当に久しぶりだった。彼は「あれあれ!? 典さん、顔中しわしわになっちゃって~」とハッキリ言われた。「もうすぐ僕も50才の大台ですよ」といっていた彼の肌はツルツルのパンパンで、ドモホルンリンクルでも使っているのかと、私は目を疑うほど若々しくて、昔のままだったのだ。
私もすっかり年を取ってしまった。あの頃は次から次へと溢れ出たのに、今では中高生に受けるようなダジャレすらもとんと浮かばなくなった。といって大人になったわけでもない。
あぁ、寄る年波には勝てないのだなと、つくづく思う今日この頃である。でも、頑張らねば……(斎藤典雄)
最近のコメント