ホームレス自らを語る

2009年12月15日 (火)

ホームレス自らを語る 第47回 記憶喪失の果てに・前編/原幸子さん(仮名・73歳)

 私の記憶には子どものころの記憶が欠けているんです。のちに大人になってから、生き別れになっていた姉と再会するんですが、その姉から聞いた生い立ちと合わせて、思い出すままに私の生涯を話してみます。

 生まれは昭和6年、群馬県の磯辺という村(現安中市)でした。上に兄と姉がいて、私が2歳か、3歳までは何不自由なく育ったようです。ところが、そのころ両親が病気でたて続けに亡くなってしまうんですね。どんな病気だったのか、よく分かりません。
 それで私たち子ども3人は、それぞれ別々の親戚に引き取られたようです。私は安中市にあった母の実家に引き取られ、伯父夫婦に育てられました。伯父夫婦はとてもいい人たちで、わたしのことをとても可愛がってくれたようですよ。
 そのうちに東京の赤羽に母の妹(叔母)がいて、私のことを育てたいと申し出てきたようです。実の母親と血の繋がった女姉妹が育てたほうが、この子のためにはいいと言ってきたようです。
 それで赤羽の叔母の家にもらわれてきます。ところが、この叔母が鬼のような女だったんです。赤羽のその家には6人もの子どもがいて、私はその子守役にもらわれてきただけでした。それからは子守の毎日で、学校にも行けないありさまでしたね。
 それに叔母の折檻がひどくて、毎日のように難癖をつけられては竹竿で叩かれました。竹竿が割れるまで叩かれたようです。折檻のあった日は食事も抜かれ、安中にいたころは丸々としていた私が見る影もなく痩せさらばえていたようです。
 それを見兼ねて、隣の家の人が叔母にないしょで、オニギリを食べさせてくれたそうです。戦争中で食料事情の悪いときに、そんな親切をしてくれたのも、叔母の仕打ちがあまりにもひどかったからのようです。
 空襲の焼夷弾が降るなかを、子どもをおぶらされて、両手に引いて泣きながら逃げ惑うこともあったようです。
 じつは、この叔母の家にいたころの記憶はまったくありません。叔母の折檻に怯え、空襲に怯える毎日で、人間はひどい恐怖の体験をすると、それを記憶から消してしまうことがあるそうですが、私もそうだったようです。

 やがて戦争が終わり、しばらくして叔母の家を逃げ出します。姉が横浜にいることがわかって、その姉をたよって行ったんです。
 ところが、せっかく訪ねて何年ぶりかで会ったというのに、姉は私を追い返したんですよ。私にはショックだったですね。血を分けた実の姉に拒否されるなんて思いもよらないですからね。すごくショックでした。
 まあ、姉の気持ちも分からなくはないです。そのとき姉は16歳か、17歳で、敗戦の混乱のなかを自分1人で食べていくのがやっとのところに、妹に転がり込まれたら迷惑なだけですからね。気持ちは分かるんですけどね。
 私は行き場をなくして、横浜の公園で野宿をしていた人たちの群れに加わりました。そのころは戦災で家を失ったりして、野宿している人がたくさんいましたからね。
 ただ、そんななかでも14歳の少女が1人で野宿するのはめずらしく、しかも栄養失調がひどくて骨と皮の状態でしたから、いやでも目立ちますよね。同じところで野宿をしていた中年の女性が、「この子を何とかしてやって」と進駐軍の兵隊さんにかけ合ってくれたんですね。
 それで私はミッション系の女学校S学園の施設で、箱根にあった山の家のようなところに収容されました。まだ、孤児院ができていなかったのか、あっても満員で入れなかったんでしょうね。山の家には修道女の人たちが幾人かいて、その人たちが面倒をみてくれました。そこでの気憶も曖昧なんです。私は栄養失調のほかに、いろんな病気を併発させていましたから、栄養を取りながらひたすら寝て養生する生活だったからかもしれません。
 山の家で1年でしたか、2年でしたか世話になっているうちに元気を回復して、そこを出されました。それで孤児院か、感化院のようなところに送られます。でも、私はそこがイヤでしてね。送られてすぐに脱走を図りました。最初のときはすぐに見つけられてしまいますが、2度目は成功して横浜の修道院に駆け込みました。
 ただ、修道院に子どもを置くわけにはいかないとかで、千葉県の旭町(現在は市)の病院が紹介されて移されます。海辺にあった大きな病院で、そうそうサナトリウムとかいいましたね。そこに入院しました。まだ療養が必要だったんですね。費用は日赤(日本赤十字社)が面倒みてくれたと思います。
 看護婦の婦長さんがとても親切でしてね。着るものがないといえば、家から古着を持ってきてくれるし、植物を育てる愉しさを教えてくれ、サボテンの苗をくれました。晴れた日にはみんなで海辺に出て日光浴をしたり、私の人生で一番幸せなときだったでしょうね。ほとんど健康を回復してからの療養でしたから楽しいくらいでした。

 そのサナトリウムには5、6年いたと思います。すっかり健康を回復して退院しました。でも、退院をしても私には行くところがありませんからね。とりあえず東京に出て、九段にあった例のS学園の本校を訪ねていったんです。そこで箱根の山の家の件などの事情を話しますと、ちょうど空きがあるとかで、給食の賄いに雇ってくれました。
 戦後も7年くらいたって、昭和27年ころだったでしょうか。それが正確なら、私は21歳ということになります。(2005年2月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2009年12月 3日 (木)

●ホームレス自らを語る 第46回 クモ膜下出血で倒れて/木村秀徳さん(仮名・60歳)

 42歳の夏のことだった。その日は仕事が休みで、海で磯釣りをしていたんだ。そのころは八丈島に住んでいたから、休みの日にはよく磯釣りに出た。シマアジとかヒラマサとかが釣れて、ヒラマサは1メートル以上の大物が釣れることもあったからな。
 その日、磯で釣り糸を垂れていると、急に後頭部に頭痛が起こってね。それがどんどん痛みを増していくんだ。めまいや吐き気もして釣りどころじゃない。這うようにして家まで帰り、女房に救急車を呼ぶように言って、そこで意識が切れた。
 オレの身体は救急車で町立病院に運ばれたが、町の病院の設備では手に負えない状態だったらしい。すぐにヘリコプターに乗せられて、東京の病院に搬送され、そこで手術を受けた。クモ膜下出血で頭蓋骨を開頭する大手術だったようだ。もちろん、当人のオレは何も覚えてはいない。あとで女房から聞いた話だけどね。
 手術のあと病院に半年間入院して、それから石和(山梨県)の病院で1ヶ月間のリハビリ訓練を受けて退院した。だけど、身体の右半分が麻痺でまったく動かせなくなった。働くことのできない身体になったわけだ。

  「もう、私たち別れましょう」

 そう言い出したのは女房のほうだ。半身不随の後遺症を抱えたオレとは、いっしょにいたくなかったんだろう。女房とは15年間の結婚生活だった。八丈島を出て、とりあえず東京に向かったが、行くあてもないからね。上野公園に行って、プータローの仲間入りをするしかなかった。それから20年近くもプーの暮らしを続けているよ。

 オレが生を受けたのは昭和19年、青森県弘前市だった。歴史のある古い街で、弘前城とその桜が有名だよね。ゴールデンウィークに満開を迎える桜はみごとだった。その桜が終わるとリンゴの花が満開になって、その花の向こうに岩木山が聳えるという景色だ。
 家は農家で、米作を中心に田圃を1町歩(約9900平方メートル)ばかり耕作していた。
 オレは8人兄弟の末っ子だったから、家族からはずいぶん可愛いがられて育った。子どものころは腕白坊主でね。近所の子どもたちと神社の境内に繰り出しては、チャンバラをしたり、大木にロープをかけてブランコにして遊んだりしたもんだ。
 中学を出ると、弘前市内の左官の親方に弟子入りをして見習いになった。昭和34年のことで、そのときの見習いの日当は 200円。修行が辛いと思ったことはなかったな。見習い期間5年間で、20歳のときに一本立ちの左官になった。途端に日当が3000円になって、びっくりしたのを覚えている。
 そのころの左官の仕事といえば、町屋(一般住宅)の壁塗りの仕事がほとんどだった。当時はモルタル仕上げの壁が流行り始めたころで、来る日も来る日もモルタルを練っては、それを壁塗りしていたような気がするな。
 ただ、弘前の冬は寒さが厳しいだろう。モルタルを塗っても、寒さでヒビ割れてしまう。だから、左官の仕事は、冬は休みになった。
 それで冬になると出稼ぎに出た。北海道の札幌に渡って、日雇いの仕事で働いたんだ。札幌には女遊びのできるところがあるだろう。冬の出稼ぎは、それが愉しみだった。弘前にはそういう場所がなかったからね。
 そのうちに車の運転免許を取って、冬は建材を運ぶトラックの運転手をするようになった。そう、弘前で……だから、冬の女遊びはできなくなった(笑)。
 25か、26歳のときに左官の仕事をやめた。左官の仲間や先輩に性格の合わないのがいて、何となくイヤになったんだな。表立って意地悪されたとか、ケンカになったとかではなくて、それこそ何となくイヤになったんだ。
 それで八丈島の土木会社に就職した。八丈島も、土木会社も、とくに意味はない。たまたまそこで募集していて、応じたら採用されただけの話だ。そこではユンボ(油圧ショベル)のオペレーターをした。その操作免許を持っていたからね。オレの操作はうまいもんだったよ。
 そこで働いているときに結婚した。オレが27か、28歳のときで、相手の女性は3つ年上だった。彼女はセメントミキサー車のドライバーをしていて、そのころ女でミキサー車を転がしているのはいなかったからね。彼女は小柄だったのに、根性でがんばっていた。その男勝りの凛々しさに惚れたんだな。

 彼女のほうは、オレの真面目な性格と、ユンボを巧みに操る腕前に惚れたらしい。いまはこうして半身不随になっちまったけど、元気だったころのオレは、ユンボを扱わせたら誰にも負けなかったからね。見せてやりたかったよ。
 結婚してからも、オレはユンボのオペレーター、女房はミキサー車のドライバーの共働きで稼いだ。だから、収入的にはよかったよ。毎年のゴールデンウィークには、女房を弘前に連れて帰った。その時期ちょうど桜が満開になるからね。
 それもこれもオレのクモ膜下出血で、みんなフイになっちまったわけだ。夫婦に子どもがなかったことだけが幸いだったと思う。
 最初、上野公園で始めたプータローだが、この浅草に移ってきたのは8年前だ。いや、大した意味はない。浅草に古いヤクザ映画を見に来て、上野に帰るのが面倒臭くなって居着いちまったんだ。
 こんな身体だから役所の世話になれるらしいんだけど、世話にはなりたくないな。いよいよ動けなくなるまで、このままプータローを続けていたいよ。(2005年4月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2009年11月12日 (木)

●ホームレス自らを語る 第45回 バカ正直な人生/亀井秀勝さん(仮名・75歳)

0911  このあいだまで、南池袋公園(豊島区)で寝起きしていたんですが、急に工事をするからとかで立入り禁止になって、こっち(中池袋公園)に移ってきたんです。南池袋公園のほうは頑丈な塀で囲われてしまい、オレたちホームレスへのいやがらせとしか思えませんよね。
(池袋地区で生活するホームレスの中心的な場であった南池袋公園が、今年9月14日から地下変電所工事のために閉鎖され立入り禁止になった。閉鎖期間は5年間の予定)

 オレは北海道富良野の出身で、昭和9(1934)年生まれです。今年75歳になります。
 父親は元々は屋根葺きの職人をしていたんですが、あまりに仕事が少なくて生活ができないんで、途中から炭鉱夫に替わっていました。小さな炭鉱を渡り歩いては、坑道の先端の切羽で採炭するのが仕事でした。仕事を終えて坑道から上がってくる父親が、炭塵を浴びて全身真っ黒だったのを覚えています。
 戦争が終わったのが、オレが小学五年生のときです。富良野も終戦の1ヵ月前に、米軍の空襲に遭っているんです。意外に知られていませんけど、北海道の主な街はみんな空襲で焼かれています。空襲のときは、家族といっしょに防空壕に入っていましたが、子どもだったからすごく怖かったですね。
 オレは中学を卒業して、隣の山部村(現在は富良野市に併合)にあった「野沢石綿鉱山」に就職します。ここは石綿を採掘する日本最大の鉱山で、従業員は500人くらいいました。オレが働いていたのは、石綿加工の現場でした。
 昭和53(1978)年に配置転換になって、埼玉工場に転勤になります。この工場は3交代制で、オレは夜勤組に編入され昼夜逆転した生活を送るようになりました。これが身体にこたえましてね。このまま夜勤組の仕事を続けたら、身体がおかしくなってしまうと思って石綿工場を辞めました。やはり、人間の身体は昼間働いて、夜は眠って休息するようにできているんだと思いましたね。石綿といえば例のアスベストですからね。オレもこれまで2回健康診断を受けて「異常なし」と言われています。自覚症状もないし、だいじょうぶだろうとは思うんですが……。
 この埼玉工場で働いていたときに結婚します。ただ、この結婚は長く続かなかったし、あまり話したくないですね。子どもは男の子が2人できましたが、2人とも女房が連れていきました。
 オレはギャンブルには一切手を出したことがありませんし、酒も晩酌に少し飲むくらい、女遊びもしません。だから、結婚生活がうまくいかなかったのは、そういうことが理由ではありません。何といったらいいか、月並みですが、性格の不一致ということでしょうか。

 石綿工場を辞めてからは、アルバイトや日雇いで働くようになりました。その頃は景気がよかったですからね。オレが住んでいたのは埼玉の奥のほうでしたから、手配師なんていませんし、仕事はスポーツ新聞の求人欄で探しました。それでも途切れることなく仕事はありましたからね。
 いろいろなアルバイトをしましたが、長くやったのは倉庫内作業と郵便局の警備員でした。いまアルバイトの時給は800円くらでしょう。バブル(経済)の絶頂期は1200円くれたところもありましたからね。だから、真面目に働けば相当に稼げましたよ。
 オレも真面目に働きましたけど、カネはたまりませんでしたね。実は、オレは別れた子ども2人の養育費を毎月支払っていたんです。それも2人が大学を卒業するまで、毎月欠かさずに払い続けましたからね。
 普通、養育費は高校卒業まで面倒をみれば十分らしいんです。高校卒業どころか、それより前に送金しなくなって、行方を晦ましてしまう人も多いようです。だけど、別れたといっても自分の子ですからね。それが「大学に行きたい」と言ったら、無理しても学費を出してやりたいのが親の人情というものです。
 そりゃあ、オレの生活も大変でしたよ。いくらバブル時代で稼げたといっても、アルバイトでの稼ぎには限界がありますからね。送金するために自分の食費を削ったことも、一度や、二度ではありません。それもこれも可愛い子のためですよ。
 それでその果てはホームレスになってしまうんですから、オレのことをバカ正直で不器用な男だと思われるでしょうが、こういう生き方しかできないんです。でも、2人の子は無事に大学を卒業して、元気でサラリーマンをしているようですから、それがせめてもの救いですよ。
 オレがホームレスになったのはバブルが弾けてからですね。埼玉の田舎町ではバイトのクチもなくなって、東京に出てきたんですが、東京も同じで仕事はありませんでした。子どもたちへの養育費の仕送りで蓄えもありませんでしたから、公園に野宿するしかなかったです。はじめは新宿の公園で始めて、それから池袋に移りました。
 いま食事は週数回の炊き出しと、(豊島)区役所が支給している乾パンをもらって食べています。足りないですよ。毎日、空きっ腹を抱えてひもじいですね。
 オレももう75歳ですから、生活保護の申請をすれば受けられるんです。だけど、保護施設に収容されて、大勢での共同生活になるそうですからね。施設での生活は規則尽くめだともいうし、自由気ままないまの生活のほうがいいですよ。それでいよいよ身体が動かなくなったら、生活保護の世話になろうと思っています。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年10月15日 (木)

ホームレス自らを語る 第44回 パチンコに狂って/岡田猛さん(仮名・53歳)

 私の出身は長野県上田市で、昭和26年の生まれになります。家は結婚式場で働くサラリーマンの父と、専業主婦の母という地方の典型的なサラリーマン家庭でした。きょうだいは4人で、上に兄、下に妹が2人います。
 子どものころの私は、おとなしくてあまり目立たない子で、成績も普通でした。ただ、料理をつくるのが得意で、それがほかの子とは少し違っていましたね。
 昭和43年に地元の高校を卒業して、コックになるために東京の青山一丁目にあったレストランに就職します。洋食専門のレストランで大きな店でした。いや、チェーン店ではありません。店は青山にあったその1軒だけです。
 よくコックの修行は辛いといわれますが、私は好きな調理が毎日できるんで嬉しいくらいでした。新しいことを覚えるのも楽しかった。先輩のイジメとか、シゴキなどもない職場でした。そもそもオーナーが長野県出身の人で、従業員も大半が長野の出身者でしたから、同郷意識が強くて和気藹々とした家族的な雰囲気でしたね。
 その店で見習いから始めて、下ごしらえ、厨房と順調に進みました。シェフにはなれませんでしたけど、そこで43の歳まで25年間働きました。
 結婚はしませんでした。いわゆる結婚適齢期のころは、結婚したくて真剣に考えたこともあります。でも、なかなかチャンスがないというか、縁がないというか、そんな女の人とはめぐり合いませんでね。そのうちに面倒臭いとか、1人のほうが気楽でいいとか、そんなふうに考えるようなって、いつの間にか諦めていました。
 そのころからパチンコで遊ぶようになりました。私は酒を飲まないし、ほかのギャンブルにも興味はありません。一人暮らしでは休日にすることがなくて、その時間つぶしのために始めたパチンコでした。はじめのうちはそんな程度のものだったんですけどね。
 私が43歳のときに、働いていたレストランが閉鎖になります。レストランがテナントで入っていたビルの親会社が倒産したためです。バブル経済崩壊に伴う倒産で、ビルの親会社がゴルフ場経営に失敗したのが原因です。
 うちのレストランはただのテナントにすぎませんから、そのまま営業を続けることもできました。でも、オーナーが80歳をすぎた高齢で、しかも後継者がいないこともあって、その機会に閉鎖することになったんです。私はそこで25年間働いたことになります。
 レストランが閉鎖になって、生まれ故郷の上田に帰りました。すぐに市内のレストランに雇われました。田舎では東京のレストランの厨房に入っていた経歴が、まだ通用したんですね。
 そのレストランで働きながら、生活のほうは実家に居候しました。でも、この居候というのは居心地がよくないんです。そのころは両親ともまだ健在でしたが、実権は跡を継いだ兄のほうに移っていましたから、兄嫁とか、甥や姪に遠慮しながらの生活になってしまうんですね。
 実家での居心地が悪いから、なるべく外ですごそうとすると、どうしても足はパチンコ屋に向かってしまいます。休日などは朝の開店から入り浸って、夜の閉店まで打つようになりました。
 実家での居心地が悪かったこともありますが、私自身がパチンコを好きだったんですね。パチンコの魅力といえば、自分1人の世界に浸れること、格好の時間つぶしになること、次々に出る新しい機種を攻略していくことなどでしょうか。それに当たるとカネになるのも、大きな魅力だったですね。
 父が一昨年、母が去年、ふたりが続けて亡くなりました。両親を失って、兄一家との確執がますます激しくなり、パチンコに逃げ込むことが多くなりました。
 だから、給料の大半はパチンコに注ぎ込んでいました。私は負けが混むと、それを挽回しようとして熱くなってしまう性格なんです。一度熱くなるとセーブが利かなくなって、有りガネ全部を投入してしまうんです。兄のところに食費を入れる約束でしたが、それもパチンコで消えるようになっていました。
 2ヵ月ほど前に、もっらた給料全額を、その日のうちにパチンコに突っ込んでしまうというのをやりました。あとで兄に知れて大ゲンカになり、それで兄の家を飛び出してしまいました。そのまま電車に乗って、新宿のホームレスの仲間入りでした。
 ホームレスをしたのははじめてのことですが、とくに感想はありません。新宿には仲間がいっぱいいましたから、恥ずかしいとも思いませんでしたしね。
 ただ、私もこのままホームレスのままで終わろうとは思っていません。いま新宿の自立支援センター(注参照)に入所希望を出して、入所の順番待ちをしているところです。支援センターに入って、新しい仕事を見つけようと思っています。コックの仕事にこだわらないで、雇ってもらえるんなら、どんな仕事でも働くつもりです。働いて老後に備えるんです。
 もうパチンコとは縁が切れました。やりたくても元手を持っていないですからね(笑)。(2005年5月取材 聞き手:神戸幸夫)

※注  自立支援センター
 ホームレスの就労自立を支援するための東京都の施設で、2000年に開設された。就労意欲のあることが入所の条件で、新宿、台東、豊島など都内5ヵ所にある。入所期間は原則2ヵ月間。

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2009年10月12日 (月)

ホームレス自らを語る 第43回 高血圧が辛い/米田順三さん(仮名・72歳)

 私は昭和7年に富山で生まれました。家は竹と木材を扱う竹材業を営んでいました。富山地方では竹を農業のはさ(稲架け)や、漁網の浮子などに使っていましたから、竹の需要があったんですね。
 太平洋戦争が終わったのが13歳のときです。富山という街は軍需工場の多いところで、終戦直前に幾度も米軍の空襲を受けました。私たちは空襲のたびに海岸まで逃げて、富山の街が天を焦がすようにして燃えるのを見ました。我が家は郊外にありましたから、幸い戦災は免れました。
 学校は新制高校を卒業しています。入学したときは旧制中学でしたが、途中で学制改革があって新制高校に変わったんです。卒業後、漁船員になってイカ釣り船に乗りました。ところが、漁船員の仕事は肉体労働なのに、戦後の食糧事情が悪いときで、飯を腹一杯食べさせてくれない。そのうえ、いつまでも見習いの扱いで、日当は半額しかくれないんです。頭にきて船は下りました。
「山奥の飯場に入れば、銀シャリが食べ放題で、日当も 400円もらえる」友人のそんな言葉に誘われて、私も山奥の飯場に入りました。友人の話にウソはなかったですよ。ホントに飯は食べ放題でした。飯場の倉庫に米俵が山と積まれているのを見ましたからね。それに町場の日雇いは日当がニコヨン( 240円)でしたから、400円という日当も破格でしたね。
 仕事はダムの工事に先立って行う、資材運搬用の道路や隧道をつくるものでした。ダムは水力発電用のもので、当時は電力の確保が国策でしたから、作業員の待遇も特別扱いだったんでしょうね。
 クロヨンダム(黒部第4発電所)の資材搬入路の工事もやりましたよ。急斜面の工事では身体をロープで吊っての作業で、上からバラバラと落石があって、それがヘルメットにガツン、ガツンとぶつかるんですからね。そうかと思うと、昼休みを終えて現場に戻ったら、午前中に作業した現場が土砂崩れの土砂に埋まっているということもありました。クロヨンの工事では大勢の作業員が亡くなっています。人の命があれほど軽く扱われた現場は、当時でもめずらしかったですね。
 そのあと愛知用水の工事などについてから、38歳のときに東京に出てきます。「東京は人手不足だから、日当が2人区(2人分)もらえる」という口車に乗せられたんです。
 東京では日当が2人区になるというのは、真っ赤なウソでした(笑)。東京に出てからはトビ職になりました。南千住のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって、そこから毎日現場に通いました。私はそれまで人里離れたところばかりで働いていましたから、いきなり大都会に放り込まれて、その誘惑にハマっていました。ギャンブルの虜になってしまったんです。
 私がハマったのは競輪と競馬でした。トビの仕事で稼いだ金の大半は、競輪と競馬に注ぎ込んでしまいましたね。ほかのギャンブルや、酒、女遊びには興味がありませんでしたから、ひたすら競輪と競馬に入れ揚げていました。
 仕事のほうは真面目にやりましたよ。当時の現場は忙しくて、雨が降らない限り休みになりませんでした。だから、休日は月に2日とか、3日というのがザラでした。そんなたまの休日に、有り金を全部持って、浅草の場外(馬券売り場)やギャンブル場に駆けつけていたんです。
 そんなバカができたのも、バブル(経済)が崩壊するまででしたね。崩壊前はどこの現場でも人手不足だから、外国人だろうが、高齢の作業員だろうが、構わずに使っていたんです。それが崩壊後は手の平を返したように、入構審査が厳しくなりましたからね。
 じつは、私は若いころから高血圧でしてね。最高で 260(㎜Hg)を記録したことがあり、医者が「よくそれで普通の生活が営めますね」と驚いたくらいなんです。
 現場の入構審査が厳しくなってからは、この高血圧でハネられるようになって働けなくなりました。働かないと何の蓄えもありませんからね。1泊2300円のドヤ代も払えなくなって、路上に寝るより仕方なくなっていたわけです。
 路上生活は上野で始め、それから新宿に移りました。どちらも繁華街を控えているから、暮らしていくのは便利です。ただ、その分ホームレスが集まりすぎて過密状態ですね。ホームレス同士のケンカやイヤガラセが横行して、とても安心して暮らしていけるような状態ではありません。
 4年前からこの(代々木)公園に移りました。ここは広くて静かで、誰からも干渉されませんからいいですね。この公園があったから、私も生きてこられたと思っています。それにここでは1日に2回オニギリの差し入れがあります。キリスト教関係のボランティアだそうですが、1日に2回差し入れてもらえるのは、本当に助かりますね。
 私ももう高齢ですし高血圧もひどいから、渋谷の区役所に生活保護の申請をしたことがあるんです。その若い担当者が「入院経験はありますか?」と聞くんで、私がないと答えると、「だったら、もう少しがんばって働いてください。緊急で保護しなければならない人は、ほかにもたくさんいるんですから」と追い返されてしまいました。70歳をすぎているのに、まだ働けというんですからね。
 こうして、日がな一日公園に座っているだけですが、耳鳴りはひどいし、血圧降下剤を飲んでいるから食欲不振もひどいんです。高血圧の辛さは、ほかの人にはなかなか理解してもらえませんね。(2005年8月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2009年10月 8日 (木)

ホームレス自らを語る 第42回 配筋工ひと筋に/須藤さん(仮名・54歳)

 出身は東京の三鷹です。うちはオヤジが変わっていましてね。家族を三鷹にほっぽり出して、自分は大分県の高校で野球部の監督をしていたんです。いや、有名校ではなく、甲子園には縁のない弱い野球部です。オヤジ自身も高校球児だったようですが、やはり甲子園には縁のない野球部出身のようです。
 単身赴任?  そんなカッコいいものではないですよ。いまでもそうですが、高校野球の監督というのはボランティアですからね。だから、オヤジは生活費を1銭も送ってこないし、三鷹に残されたオフクロにオレと妹の3人は超貧乏暮らしでした。
 オフクロが日雇いに出て働いていましたが、女が働いて稼ぐタカは知れていますからね。学校にご飯の弁当が持っていけなくて、いつもサツマイモのシッポばかりでね。男のオレはまだしも、妹は恥ずかしかっただろうと思います。教科書や学用品を買うカネもなくて、市から支給されていました。

 小学校の途中から、家族3人での生活が立ちゆかなくなって、オレと妹は別々の親戚に預けられました。それからは2、3の親戚をタライ回しにされて育ちました。でも、親戚の人たちはみんな親切で、オレも高校まで上げてもらいましたからね。
 ただ、その高校は1年で中退しました。親戚に学費の面倒をみてもらいながら、学校に通うのが辛くてね。一刻も早く働いて、自分の手でカネを稼ぎたかった。親戚に迷惑をかけたくなかったんですね。
 それでビル建設工事の配筋工事を専門にしている会社に入りました。鉄筋コンクリート造のビル工事で、鉄筋を配筋するのが仕事です。1人の親方の下に5~6人の配筋工がついて、それが1つのチームになって働きました。大きな現場になると、これに応援の配筋工がつきます。
 大工や左官の仕事量は平方メートル計算ですが、配筋作業のほうは扱う鉄筋の総トン数で表し、作業工賃は1トンあたりで計算します。そこが違うところですね。
 鉄筋は太さによってD13~D35にコード分けしてあって、まずそれを覚えるのが大変でした。鉄筋の配筋量は、構造設計と打設するコンクリートの量によって違ってきます。だから、設計図面も読めるようにならないといけない。配筋工もいろいろ大変なんですよ。 
 夏場の鉄筋は太陽に灼かれていますからね。うっかり軍手をしただけの手で持ったり、Tシャツだけの肩に担いだら大ヤケドをします。ですから、真夏でも配筋工専用の厚手の手袋をして、Tシャツの上にはベストを着用して作業しなければなりません。
 それに現場作業だから危険が多いです。重い鉄筋を担いで、地上40m、50mのところにある幅40㎝の足場の上を歩かなければならない。怖いのは突風に吹かれることです。実際に仲間の1人が28mの足場から、風に吹かれて転落したことがあります。顔面を強打して、顔がグチャグチャになって即死でした。オーバーではなく、死と隣り合わせの職場でしたよね。

 オレは40年近く配筋工の仕事をやってきましたけど、サボることはなかったし、仕事の態度は真面目でした。途中で2級技能士の資格を取って、5トン未満のクレーンの操作や玉掛け作業もできるようになりました。
 だから、収入面でも悪くはなかったんですが、稼いだカネを蓄えることをしなかったですね。旅行が好きで、ハワイとか、フィリピン、タイなどによく行きました。まあ、男の遊びを求めた旅ですね。
 それにギャンブルも好きでした。競馬と競輪、それに競艇が好きで熱心に通いました。稼ぎの大半はギャンブルに注ぎ込みましたね。

 結婚したのは33歳のときで、相手はいきつけの飲み屋で働いていた女です。おたがいに何となく惹かれたんですね。ただ、結婚してもオレはギャンブルにかまけていて、家にはカネを入れませんでした。しだいに、女房とのあいだでケンカが絶えなくなって……結局、「私は騙された」とか言いながら、女房は怒って家を出ていきました。
 考えてみれば、オレもオヤジと同じことをしていたんですね。自分の好き勝手なことをして、家にカネを入れないところがよく似ています。彼女との結婚生活は2年間でした。それからは「女はもういいか」と思って、ずっと1人で暮らしています。

 去年の2月に大きな現場の仕事に就きましてね。扱う鉄筋の量が多くて、応援の配筋工だけでも7~8人が就きました。鉄筋もはじめて見るような太い鉄筋で、親方もそんな現場ははじめてだから、舞い上がってしまったんでしょうね。
 現場で親方の指図がコロコロと変わるんです。下の人間を束ねているのはオレだから、そう指図が変わるんじゃやってられない。それで親方の指図を突っぱねたんです。親方にもプライドがありますからね、オレとのあいだで大ゲンカになりました。で、クビでした。
 それ以来働いていません。働く気はありますよ。道具も作業衣も、そのまま取ってありますからね。ほら……(きちんと手入れされた配筋工の道具を見せてくれた)。
 だけど、ケンカをした親方に頭を下げるのは業腹だし、かといって、この歳で新しい親方を探すというのも億劫な話ですからね。
 以前の同僚が、柏と我孫子(いずれも千葉県)で配筋工をやっていて、「いっしょにやらないか」と声をかけてくれています。どちらも気心の知れた仲間だから、やってみようかという気はあるんですが、なぜか踏ん切りがつけられないでいるんです。(2005年7月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2009年10月 5日 (月)

●ホームレス自らを語る/第41回 後悔先に立たず 野口康三さん(仮名・61歳)

0910  私は昭和23(1948)年生まれで、茨城県鹿島郡の出身です。鹿島といっても内陸部のほうで、交通の不便なすごい田舎でした。家は農業をしていました。主に栽培していたのは米と葉タバコですね。
 子どもの頃は、毎日のように野山を駆けまわり、川でドジョウを獲ったりして遊び呆けていました。勉強が嫌いでね。宿題もしないで遊んでばかりでしたよ。ガキ大将ではなかったですね。どちらかといえば、おとなしいほうでした。

 中学校を卒業して、東京の食品メーカーに就職しました。酒の肴の珍味を製造している会社で、日本のトップメーカーです。私はサキイカ製造の部門に配属になって、そこで働きました。
 ただ、そのメーカーは1年半で辞めてしまいます。理由は給料があまりにも安かったからです。当時の中卒の初任給は月6500円というのが、世間的な相場でした。ところが、その食品メーカーは5500円。その頃は高度経済成長の真っ只中で、私たちは「金の卵」ともて囃されて引っ張りダコでしたからね。そんな給料の安い職場で、我慢して働くことはなかったんです。
 それで洋食レストランのコックになりました。コックの仕事は20年近く続きます。といっても、ずっと同じ店にいたわけじゃありません。もう、数え切れないくらい店を替わりましたからね。
 コックの仕事を始めた頃から、酒を飲むことを覚えましてね。仕事を終えたあと、毎晩浴びるように飲んだのですが、私の場合はそのうえ酒癖も悪くてね。同僚のコックはもちろん、先輩コックであろうと、上司であろうと、構わずに突っかかっていっては、ケンカをふっかけてしまう。それで居られなくなって、店を替わる。それを幾度も繰り返していたんです。
 それにギャンブルにものめり込むようになって……競馬ですね。中央競馬のある土曜、日曜は、必ず後楽園の場外馬券売り場に行ってました。働いて稼いだカネは、酒と競馬にみんな注ぎ込んでいました。気持ちも、生活も荒んでいくばかりでした。
 そんなですから結婚もできませんでした。自分の生活の基盤もできていないのに、結婚どころではありませんからね。

 30代半ばでコックの仕事から足を洗います。酒のうえでの失敗ばかりを繰り返していたし、競馬にも入れ揚げていましたからね。コックの仕事よりも日雇い作業員でもするほうが、自分には合っているんじゃないかと考えたんです。
 で、日雇いの作業員になりました。現場作業は何の経験も資格もありませんからね。手元という一番下っ端の作業員で、職人の助手についたり、現場の資材の片づけや清掃などが仕事でした。
 しばらくしてバブル経済の時代がやってきます。空前の建築ブームが始まり、私ら下っ端の作業員も引っ張りダコで、金の卵のとき以上でした。それまで手元の日当は7000円くらいでしたが、バブル時代には12000円にまでなりましたからね。
 先見の明のある人なら、こういうときこそ将来に備えてしっかり蓄えたりするんでしょうが、私ら凡人はあればあるだけ遣ってしまいますからね。それでホームレスという最悪の境涯に堕ちてから、あのとき蓄えておけばこんな生活をしなくてすんだのにって反省するんです。まさに後悔先に立たずですね。
 だけど、バブル経済絶頂の只中にいて、それが崩壊して20年にも亘る大不況が襲ってくるなんて想像できた人はいませんからね。みんなあの繁栄が、いつまでも続くような気がしていたんですから。そうでしょう? 苦境に陥って、はじめて目が覚めるんですよ。

 ホームレスの生活をするようになったのは50歳のときです。バブル経済が崩壊して日雇いの仕事が少なくなって、仕事にあぶれるようになったからです。蓄えなんてありませんから、公園で野宿するしかありませんでした。はじめ戸山公園(新宿区)で始めて、山谷(台東区)に移り、1年くらい前からこの(新宿中央)公園に移ってきました。
 こんな生活をしていますけど、なるべく役所とかボランティアの世話にはならないで、自分の食い扶持くらいは、自分で稼ぎ出そうと思ってアルミ缶拾いをやっています。私の場合はほんとうに道端に落ちているのを拾い集めているだけですが、なかには住宅地のゴミ収集所に出ているのゴッソリ失敬してくる人もいます。私にはできませんけどね。
 まあ、私のようにボツボツ拾っていても、週5~6000円くらいの稼ぎにはなります。贅沢をいわなければ、これで1週間分の食いものを確保することはできます。ただね。どうしても酒を飲みたくなるときがあって、1パックだけと思っても、1パックでは終わらないで、2パック、3パックと空けてしまうんですよね。そんなときにはボランティアの炊き出しのお世話になっています。
 いまは生活保護待ちの状態ですね。65歳になれば無条件で生活保護が受けられるということですから、ひたすらそれを待つしかないですね。でも、私はいま61歳で、まだ4年もあります。4年後の日本の経済事情がどうなっているのか、いまより落ち込んでいたら受給できないかもしれませんよね。
 このあいだの衆院選挙で政権交代がありましたが、こんどの新政権は我々ホームレスの救済措置を、何かしてくれるんでしょうか。やっぱり、ホームレスまでは手がまわらないのかな。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年9月 7日 (月)

●ホームレス自らを語る 第40回 派遣社員をしていた/浜野浩一さん(44歳)

0909 ホームレスになる前は、派遣社員をしていたんだよ。いや、去年9月の経済危機による派遣切りとは関係ない。オレの場合は、いまから3年前に登録していた人材派遣会社が倒産して、それで仕事を失うことになったんだ。そのあとしばらくはネットカフェを利用して暮らしていたが、ナイト割引きを利用しても1泊1000円はかかるし、食事代も必要だからさ。だんだんに金が尽きてきて、野宿するしかなくなってホームレスになった。野宿するようになって1年半くらいになるよ。
 いまの派遣社員は毎日違う工場に派遣されたり、日によっては仕事がなかったり、かなり変則で不安定な働き方をさせられているようだよね。だけど、オレたちが派遣で働いていた頃は、派遣先の業種がだいたい決まっていて、それも同じ工場で1ヵ月間の契約で働いていたんだけどな。
 オレの場合は自動車メーカーのラインの仕事が多くて、日本の3大メーカーのT社、N社、H社の工場によく派遣された。派遣中は工場の寮に入れた。
 ところが、3年前に登録していた人材派遣会社が倒産すると、たちまちクビを通告されて、寮を追い出されたんだ。昔は労働者の権利はもっと強かったと思うけど、派遣切りはボロ雑巾でも捨てるみたいに簡単だからさ。人材派遣法なんて悪法をつくた政治家たちを恨んだよね。
 それからずっと新しい就職先を探しているけど、いまだにどこからも雇ってもらえないからさ。

 オレが生まれたのは昭和39(1964)年で、埼玉県大宮市(いまのさいたま市大宮区)なんだ。
(実は浜野さんが路上生活をしているのは、JR大宮駅西口のペデストリアンデッキの下である)
 うん。大宮は生まれ育った街だけど、実家があったのは東口側だからさ。いまだに親戚とか、友人とか、知り合いに見つかったことはないね。
 実家は八百屋をやっていたが、祖父と父親の二人だけでやっていた個人商店だから、それほど繁盛してたわけじゃない。祖父が始めた店で、父親はイヤイヤながら手伝わされていたようだ。祖父が亡くなると、すぐに店を畳んでしまったからな(笑)。
 オレは中学校を出ると、火災報知器メーカーの下請けをしている町工場に就職した。仕事は製品カバーを成型加工してつくる板金工だった。工場は上尾にあって、大宮の隣町だから通えないこともなかったが、工場に寮があったから寮に入った。
 その工場には10年くらいいたんじゃないのかな。辞めることになったのは、人間関係の縺れだね。同僚の工員にイヤなヤツがいて、オレの言動に何だかんだと理屈をつけは、突っかかってきてね。それが鬱陶しくて辞めることにしたんだ。
 それからは池袋の手配師の紹介で飯場に入って、建築工をやったり、土工をやったりするようになる。仕事は何でもやったよ。建築工だったら、トビから、配筋工、型枠バラシ工、コンクリート工、コンクリート仕上げの左官まで何でもやった。土工のほうもたいがいのことはやったな。
 名のある建物では「浦和ロイヤルズパインズホテル」「浦和市民会館」、それに東北・上越新幹線の上野―東京間の工事にも参加した。そうそう、御徒町駅近くで陥没事故を起こした工事だよ。このときのオレは配筋工で参加していたんだな。
 飯場仕事も10年くらい続いたんじゃないかな。こういう現場作業に従事しているのには、ギャンブル好き、酒好きの怠け者が多いんだが、オレは真面目だったからね。一つの現場が終わると、休まずに次の現場に出て働いた。ギャンブルもたまにパチンコをやるくらいで、競馬や競輪には縁がなかった。酒も飯場で夕飯のときに晩酌を少しやる程度だった。女遊びもしなかったしね。ホント、真面目なもんだったよ。
 結婚はしなかった。男ばかりの職場で、結婚しようにも相手の女性がいなかったし、何より面倒臭いというのが先だったな。

 飯場仕事をやめたのは、バブル経済が弾けて仕事が極端に減ったからだよ。いくつもの飯場もつぶれたしね。
 それで人材派遣の会社に登録して、自動車メーカーの工場で働くようになったのは、さっき話したとおりだ。
 ホームレスをするようになったのは、1年半くらい前からだね。夜もこのベンチに寝ている。このベンチはオレの指定席になっているんだ。
 この街でホームレスをしていても、新宿や池袋なんかのように炊き出しとか、差し入れとかはないからね。ここでは自分の食いもんは、自分で調達しないといけないから楽じゃないよ。オレは時々アルミの空き缶拾いをして現金に換えているが、この不況でアルミも値下がりしているから、それで食い扶持を稼ぐのはきびしいよ。
 そうまでして大宮に留まっている理由かい? まあ、この街で生まれ育ったからね。最初の町工場も、飯場での仕事も、この界隈の仕事が多かったし、この街に愛着があるんだな。大宮の街が好きなんだよ。
 これからのこと? オレもまだ44歳だから、一日も早く再就職先を見つけないとね。いまの日本経済は最悪の時期だけど、そのうちにきっといいときがやって来るよ。そう信じてないと、ホームレスなんかやってられないからね。ホントにさ。(神戸幸夫)

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2009年9月 3日 (木)

ホームレス自らを語る 第39回 人生がバカらしくなった/廣中正さん(仮名・66歳)

 生まれは昭和14年で、東京の新宿区戸塚です。ボクは私生児でね。それを知るのは、大学受験用に取った戸籍抄本を見てからです。ショックでしたよ。父親は都内の小さな会社を経営する社長で、ボクの母親はその愛人だったんですね。
 それを知って、父親に会いに葛飾の自宅まで行きました。会ってくれましたよ。会ってはくれたけど、父親はもう高齢で半分耄碌していたから、ボクのことがわかったかどうか……家には本妻と息子がいて、玄関先で会っただけで、家には上げてもらえませんでした(廣中さんの目に涙が光る)。

 大学は早稲田の文学部に行きました。当時の文学部といえば、誰もがロシア文学に傾倒した時代でね。ボクも物書きになりたくて、いろんなところに応募したりしましたが、とうとうものにはなりませんでした。
 大学に入った昭和32(1957)年ころは、60年安保闘争に向けて国中が熱く燃えあがっていた時代です。でも、ボクは政治には無関心で、デモなどには参加しませんでした。友人の学生活動家からは、たいぶ激しい糾弾を受けました。だけど、ああいう運動で、政治や国の体制が変わるとは思えませんでしたね。
 大学を卒業して、しばらく米軍の機関で働きました。世田谷にあったシビリアンルームというところで、軍の命令書を英文タイプに打ったり、日本語に翻訳したり、そんなのが仕事でした。給料を含めて待遇は格段によかったですね。ただ、その機関は5年ほどで解散になってしまいます。
 それからは母親の店を手伝いました。そのころ母親が五反田の新開地に小料理屋を出していて、そのカウンターに入りました。ボクは器用貧乏でね。小料理屋で包丁を握れば、ピアノも弾くし、建築現場では玉掛けもして、いろいろできるんです(笑)。
 酒の肴を工夫するのが好きで、オリジナルなメニューもこしらえました。豆腐を絞ってジャガイモの粉とシャケの身をほぐしたのにまぶし、それを揚げた料理とか、絞ったイカのワタを京都産の特別の味噌に漬け込んでから、シソの葉で巻いたものとか、桂剥きしたダイコンにヌカを振って陰干しにし、それをヌカ漬けにしたオシンコとかね。みんな美味そうでしょう。ボクが考え出した料理ですよ。
 30歳のときに結婚しました。子どももできました。だけど、結婚の話はよしましょう。その後、離婚しましたし、相手のあることですから、あまり話したくないですね。

 母親の店は5年くらい手伝ったのかな?そのあと大分に行きました。学生時代の友人が大分にいて、その手引きで行ったんです。そこで地元のスーパーマーケットに就職しました。
 その店で何年間か真面目に働いて、小金を貯め込んで、大分で居酒屋を始めました。元々、こういう客商売が好きなんですね。店は繁盛しましたよ。大分市内に一戸建の家を新築しましたからね。
 そのうちに離婚とか、身辺がゴタゴタして、いろんなことに嫌気が差して商売をやめます。それで家と店の権利を売って、東京に舞い戻りました。10数年ぶりの東京ですね。
 東京に戻ってからは、小さな工務店で働きました。いや、日雇いではなく、ちゃんと就職して正社員になりました。こういうとき早大OBというのは便利で、探せばどこかに人脈の手づるがあるんです。このときも先輩OBの引きがあって正社員になれました。といっても、建築現場に出て、日雇いと変わらない肉体労働をさせられるんですけどね(笑)。
 60歳のときに、街の手相見に人生を占ってもらったんです。すると、「あなたの人生は、あと2年で終わります」とはっきり託宣されましてね。
 それを聞いて、急に人生がバカバカしくなったというか……守る家族もない独り身なのに、何をそんなにあくせく汲々として働かなければならんのだろう。残りあと2年の人生であるなら、好きなことを心ゆくまで愉しんでから死のう。そう考えました。

 ボクの一番の愉しみは、本を読むことです。それからは毎日図書館に入り浸って、読書三昧の日々を送るようになりました。
 本であれば何でも好きですから、図書館の蔵書を片っ端から読み漁りました。とくに好みの作家は、山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平の3人で、彼らの作品はすべて読破しました。いまは江戸の町について書かれた歴史書を中心に読んでいます。
 手相見に「あと2年」といわれた命ですが、うかうかと6年も生き長らえてしまいました。その後、ずっと読書三昧の日々をつづけていましたから、蓄えもだんだんに底を突いてきましてね。2年前に部屋代が払えなくなって、アパートを追い出されました。
 ただ、自慢じゃないが、ボクはアパートを出てからも、まだ1度も野宿をしたことがありません。ずっとドヤ(簡易宿泊所)に泊まっています。カネはね。昔のツテで時々建築現場に出て、玉掛けなんかを手伝って日当を稼いでいるんです。
 カネがなくてドヤに泊まれないときは、ひと晩中夜通しで街を歩き回ります。それでドヤの昼間の割り引き料金を利用して、仮眠を取って休むんです。
 ここ(中央区の浜町公園)に来るのは、近くの図書館で読書をして、その息抜きの休憩です。この広場にはたくさんのアリの巣があって、そのアリたちに残飯のエサを与えるのが愉しみですね。
 最近は、地中に住むアリのような小さな生命に、とても愛着を感じるんです。(2005年8月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2009年9月 1日 (火)

ホームレス自らを語る 第38回 人生を甘く考えていた/蜂谷さん(仮名・57歳)

 私は昭和23年の生まれで、生まれも育ちも東京の下町です。
 そのころの父は生命保険の外交をやっていましたが、かつては満鉄(満州鉄道)で航空機の設計技師をやっていた人です。敗戦後、満州からの引き揚げの途中で、私の上の兄を栄養失調で亡くしています。子を失ったうえに、設計技師から保険の外交員への変転と、戦後の父の人生には辛いものがあったようです。
 私は高校を卒業して、割賦販売(クレジット)の「M」に就職しました。その青梅店勤務から始めて、三軒茶屋店、柏店、仙台店などを回りました。担当したのは時計・貴金属売り場や婦人服売り場が多かったです。
 婦人服売り場では、仕入れから自分たちでやりました。だから、季節の流行や売れ筋商品などについての知識が求められました。それにお客様から相談されたときには、洋服をコーディネートしてあげるセンスも必要でした。私はそのどちらも得意だったから、婦人服売り場で働くのが好きでした。
 私が勤務して13年目、昭和54年に「M」は倒産します。同業ライバル社の勢いに圧倒された結果ですね。
 ただ、倒産した「M」は大手スーパーチェーンの「S」に吸収され、私たち従業員もそのまま「S」の社員に雇われました。ですから、路頭に迷うこともなく、自分たちの会社が倒産したという実感は少なかったですね。「S」に移ってからは、戸塚店、二俣川店、光が丘店などに配属になって、主に商品管理の仕事をしました。仕入れた商品のチェックや、仕入れ伝票をコンピューターに入力するのが仕事でした。
 結婚ですか? 結婚はしませんでしたね。たしかに、女性従業員の多い職場ですから、つき合ったり、同棲をしたことはありますが、結婚に至るまでの女性はいませんでしたね。スーパーというのは給料が安いんです。結婚して一家を構えられるような金額ではありませんでしたからね。同僚には結婚して一家を構えているのもいましたが、私はあの安い給料で家庭をもつ気にはなれませんでした。
     

 平成7年か、8年ころからでしょうか、「S」の業績が悪化するようになります。営業時間が夜の10時まで延長されたり、盛んにセールが行われるようになりました。
 このセールがクセ者で、支店ごとに売上げが競わされるんです。それでセールのたびに、従業員全員に販売ノルマが課せられます。従業員は家電製品やスーツ、貴金属などを売って、ノルマ達成を果たさなければなりません。
 そのために友人、知人を回って売り歩くことになりますが、はじめの1、2回は快く買ってくれても、セールのたびごとになれば、誰もいい顔をしなくなります。それでもこちらにはノルマの締めつけがあるから、どうしても買ってもらわないといけません。
「頭金さえ払ってくれれば、あとはオレがなんとかするから」と説得して、強引に商品を押しつけて置いてくるような売り方になります。そんなふうにして売上げノルマは達成しても、商品の2回目のローンからは、私のほうに請求されてくるのです。
 セールがあるたびに、そういうローンの支払い額が増えていき、給料だけでは間に合わなくなってきます。それでお決まりのコースというか、サラ金とか信販会社から借金をして賄うようになってしまいます。
 そのうちに自分で使う家電製品やスーツ、車なども、借金して買いそろえるようになっていきます。しだいに借金をすることに麻痺していき、借金の残高が膨らんでも平気になってしまうんですね。私の場合はサラ金と信販会社の10社ほどから、 500万円を超える借金になっていたと思います。
 そうなると月々の返済が滞るようになっていき、すると借金の取り立てが激しくなります。のべつ幕なしの取り立てに合い、なかには脅迫紛いのものもあって、精神的に追い詰められてしまいます。それで「S」にもいられないようになって辞めていました。
 仕事はなくなるし、借金だけは残るしで、もう自己破産をするしかなかったですね。ある司法書士の人に手続きの仕方を教わり、自分で書類をつくって裁判所に申請してみました。そうしたら自己破産が認められて、全部の借金が帳消しになりました。思っていたより簡単で、ラッキーって感じでしたね。

 自己破産をすると、以後の生活が裁判所や破産管財人にチェックされて、非常に不自由になると聞いていましたが、私の場合はそんなことはありませんでした。とくに制限らしいものはなく、ごく普通に生活できました。「S」を辞めたのが5年前で、それからは製パン工場で働いたり、引っ越し便の作業員をしたり、社員寮の管理人になったりしました。でも、どこも長続きしないですね。
 半年ほど前に、それまで住んでいたアパートが建て替えられることになって、そこを追い出されました。アパートを出されたら行くところがないから、路上生活をするより仕方なかったですね。
 路上に寝転がるだけのこんな生活でも、多少なりともカネはかかりますからね。それで母に事情を話して、カネを出してもらっています。父はすでに亡くなっていますが、母は80歳をすぎたけど健在なんです。
 えっ、甘ったれている?  うーん。そう言われると、たしかに私には人生を甘く考えているところがあります。ほとんど成り行きまかせで、人生について真剣に考えたこともありませんからね。だからといって、いまさら生き方を変えることはできませんけどね。(2005年9月取材 聞き手:神戸幸夫)

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