ホームレス自らを語る

2009年7月 2日 (木)

ホームレス自らを語る 第31回 この生活も愉しい/山口さん(73歳)

 ボクの人生には語りたくないことが多いんですが、そんな中途半端な話し方でもいいんなら、話してみましょうか。
 ボクが生まれたのは東京の渋谷です。7人兄弟の下から2番目でした。
 父は外交官をしていました。この父は苦学の人で、あの松方正義(元首相で公爵)の書生をしながら大学に通い、苦労して外交官になった人です。
 その後、父は中国の領事館勤務になり、母と小学生だったボクと弟が、いっしょに行きました。ほかの兄弟は母の実家に預けられました。たぶん、学校の関係だったんでしょう。
 はじめて中国に渡ったときの印象は、怖かったですね。言葉や風俗の違う人々のなかに、いきなり放り込まれて怖かったです。慣れるのにだいぶ時間がかかりました。父親の転勤で中国国内や満州(いまの中国東北地方)の領事館を3回ほど変わりました。
 昭和20年8月の終戦は、中国国内某都市の領事館で迎えました。その終戦の日の数日前から、父はどこかの機関に出頭したまま帰ってきませんでした。いつまで待っても帰ってこないし、それで母の機転で日本に引き揚げました。小倉(いまの北九州市)にあった母の実家に弟と3人で身を寄せました。
 そのうちに父も帰ってきて、一家で東京に戻りました。その間、父が何をしていたかは、よくわかりません。
 終戦のとき、ボクは旧制中学の生徒でした。日本に引き揚げて転入し、その間に学制改革があって新制高校に変わりました。大学は学習院の政経学部に行きましたが、なぜ学習院だったのか、そのへんの事情は語りたくありませんね。
 そのころから、ボクはジャズ歌手の真似ごとをして、金を稼ぐようになっていました。都内のクラブで歌うのが主でしたが、日劇のミュージックホールで歌ったり、進駐軍のキャンプを回ることもありました。平尾昌晃はそのころいっしょにまわった仲間です。
 そんな歌手の真似ごとをしているうちに、学業との両立が難しくなって、大学はやめました。中退です。だからといって、本気で歌手になる気もありませんでした。そこまでの実力がないことは、自分でもよくわかっていましたからね。
 そのうちに世の中が落ち着いてきて、案の定、歌手の仕事は減ってきました。それでも何とかして食わなければならないから、いろいろ働きました。日雇いの肉体労働以外の仕事は、たいがいの仕事をやった気がします。
 結婚はしましたよ。相手は九州・熊本出身の女性です。子どもは女の子が2人。結婚して、子どもができたのに、職業を転々とする根無し草の生活をしているわけにもいきませんからね。それで商売を始めました。
 木材の輸入業を始めたんです。東南アジアやアメリカの木材を輸入して販売する会社です。といっても、そんなに大きな会社ではありませんよ。従業員が一番多かったときで5人の会社ですからね。商店のようなものです。
 そんな小さな会社でしたが、女房と娘たちには、不自由な思いはさせずに、世間並みのことはしてやれたと思っています。商売は地道にやりましたから、大きく儲けることもなかった代わりに、大きく損をすることもなくてね。まあ、堅実な会社でした。
 娘はふたりとも結婚して、2人とも孫がいます。女房は先年に亡くなりました。病気でしたが、これについては語ることもないでしょう。というより、この話も語りたくないな。  ボクは歴史に興味があって、それを調べるのが好きでしてね。娘2人が嫁いで、女房も亡くなって暇ができるようになり、仕事の休みを利用して神社、仏閣めぐりをするようになりました。私の場合は建物や庭園の結構を愛でるよりも、そこに所蔵されている古文書を見せてもらうのが目的でした。
 ボクの愉しみは古文書を解読すること。歴史上の特定の事件などを調べているわけではないから、古文書なら何でもいいんです。室町時代のあたりから江戸時代のものまで、脈絡なく片っ端から解読しています。
 古文書には楷書で書かれたものはむしろ少なくて、行書体や草書体のものが多い。なかには漢文のものもあります。解読には手間取りますが、それだけに読めたときの喜びも大きいわけです。
 それでボクはしだいに古文書にのめり込むようになって、仕事も従業員まかせになっていました。もう会社には出ないで、毎日竹橋(千代田区)にある国立公文書館のほうに通って、古文書三昧の生活になっていました。
 それがいけなかったんですね。ボクが最も信頼して仕事をまかせていたベテランの従業員が、店の金のありったけを持って逃げてしまったのです。それで店は倒産。ボクは住むところも失って、路上で生活する身となりまた。2年前のことです。
 こうなったのもボクの責任です。商売をそっちのけにして、古文書にうつつを抜かしていたわけですからね。悪いのはみんなボクです。誰も恨めません。
 じつは、ボクは楽天論者でしてね。こんな路上生活の身に落ちぶれながら、自分ではこの生活を愉しんでいるんです。だいいち、もう誰に気兼ねすることもなく、公文書館に入り浸って、心いくまで古文書の解読に没頭できますからね。ボクにとってはこれ以上の幸せはありません。
 身体はいたって健康、足も健脚、動けるうちは古文書を求めて東奔西走を続けるつもりです。それから先のことは、そのときに考えればいいでしょう。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年6月26日 (金)

ホームレス自らを語る 第30回 新宿が好きで離れられない/石浜智憲さん(46歳)

 オレが生まれたのは、長崎県の崎戸町というところしい。だけど、もの心がつく前に一家で引っ越してしまったから、その町の思い出はなにもない。
 引っ越した先は東京の小岩(江戸川区)。オヤジはタクシーの運転手をしていた。ごく普通の暮らしぶりで、平凡な家庭だったと思う。小岩に移ってから妹が生まれた。きょうだいはふたりだ。
 オレが小学6年生のときに、オフクロが胃腸炎で亡くなった。オフクロは下腹部の痛みが続いていたのを、ずっとガマンしていたらしいんだ。医者に見せたときは手遅れの状態で、そのまま死んじまった。

 5年後にオヤジが再婚して、新しい母親がきた。だけど、もうオレも妹も高校生で微妙な年頃だったから、オヤジの再婚には猛反対だった。オヤジは「男が独り身でいると、いつまでも出世できないんだ」とか言って、オレと妹を説得した。そのオヤジがオレだけに「男の独り身は寂しいもんだ」と洩らしたことがあった。多分それが本音だろう。この歳になって、オレにもあのときのオヤジの気持ちがわかるようになった。あんなに反対して、可哀想なことをしたかなって……。
 オレは高校を卒業して、都内の印刷工場に就職した。大手印刷会社の下請け工場で、週刊誌の印刷が仕事だった。1日3交替制の猛烈に忙しい職場だった。発売日の前々日とか、ひどいときには前日にスクープが飛び込んできて、急遽記事が差し替えになって、2日間ぶっ続けで働かされたりした。そんなことがしょっちゅうだったな。
 印刷工場に就職して、実家を出て工場の寮に入った。オヤジが再婚してからは、とにかく家を早く出たかったからね。ところが、寮で同室になった仲間とうまくいかなくて、毎日ケンカばかりして、面白くなくなってきて工場は辞めちまった。22歳のときだ。

 それで新宿に移った。それからはずっと新宿。25年間、新宿を離れたことがない。
 最初に働いたのが、歌舞伎町のディスコだった。ちょうど最初のディスコブームのころで、開店前から店の前に客が長蛇の列をつくって並んでいたからね。そんな状態だったから客の可愛いコに便宜を図ってやったりすると、すぐに友だちになれて、オレもけっこうモテたんだよ。

 そのうちにディスコのブームも下火になって、喫茶店に移った。24時間営業の店で、ウエーターをやったり、カウンターに入って働いた。じつは、この店のオーナーが暴力団でね。給料が約束通り払われなかったり、すごく遅配されたりいいかげんな店だった。
 それに暴力団の組員がやってきて、カネをせびるんだ。口では「貸してくれ」って言うんだけど、返してくれたためしがない。そんなのもたび重なると結構な金額になるだろう。それでその喫茶店は辞めた。
 その次はキャバレーのボーイの仕事に代わった。いわゆる“ヌキキャバ”といういかがわしい店。オレも若かったし、そんな店で働いているとムラムラしてきて我慢できなくなる。それで店のホステスといい仲になって、彼女の部屋に転がり込んで同棲を始めた。
 ああいう店では従業員同士の恋愛はご法度なんだ。はじめのうちはバレなかったけど、彼女が妊娠してバレてしまい、2人ともクビになった。オレは別のヌキキャバに代わって、彼女は仕事をやめて子どもを産んだ。
 そうしたらオレは新しく代わった店のホステスと、またいい仲になってしまった。それが同棲中の彼女にバレて、いろいろもめてケンカが絶えなくなった。それでオレはその女のアパートを出て、新しい彼女のアパートに転がり込んで同棲するようになった。前の彼女は、そのあとアメリカ人と子連れで結婚して、アメリカに渡ったという噂だ。
 新しい店では15年間働いた。ホステスとの同棲もバレないで、よく15年も続いたよ。やめることになったのは対人関係。15年も同じ職場で働いていると、人間関係にもいろいろあって、ウマの合わないヤツも出てくる。仕事もだんだんに面白くなくなってくるし、オレのほうからやめてやった。同棲していた彼女とも、それをきっかにして別れた。

 それからは日雇い。新宿には手配師がいっぱいいて、仕事はいくらでもあるからね。オレも飯場に入って土工で働くことになった。
 ところが、すぐに身体を壊してしまった。それまで軟派な仕事をしていたのが、いきなり肉体労働のきびしい仕事に代わって、身体がついていけなかったんだ。もう、40歳だったしね。それにああいう肉体労働をしている連中はよく酒を飲む。オレも調子づいて付き合って飲んで、それも身体を壊す原因だった。汚い話だけど、幾日も下血が続いてね。
 それでもう肉体労働では働けないから、仕方なくホームレスになるしかなかった。新宿駅東口を出たところに、映画の看板がずらっと並んでいるところがあるだろう。いまはあの看板の下に、夜だけ段ボールを組み立てて寝ている。

 あそこに寝るようになって1年以上になるけど、誰も文句を言ってこないよ。あそこは多分JRの土地なんだろうけど、何にも使われていない空き地だし、オレもきれいに使うようにしているからね。
 これからのこと?  これからのことは、あまり考えたことがないな。とにかく、22歳のときに歌舞伎町のディスコで働きはじめて、25年間新宿を離れたことがないからね。これからもずっと新宿で暮らしていくんだろうな。新宿以外で暮らすことは考えられないよ。新宿が好きなんだ。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年6月15日 (月)

●ホームレス自らを語る 第29回 景子さんの性犯罪(後編)/景子さん(通称・44歳・男性である)

0906 (景子さんの話は前後の脈絡がなく縦横無尽に飛んだりして、要領を得ないところが多かった。以下の話は聞き手が多少の類推を加えて再構成したものである)
 オレの趣味は女装をして街を歩くことなんだ。それで人の視線を浴びると、何ともいえずスカッとする。だからって、ゲイじゃないんだよ。名前は通称の景子で通っている。ほかにもいくつかの女名前があって、それを使い分けているんだ。
 中学校を卒業してすぐに、ちょっとした悪さをしてね。下着ドロ。近所の家の庭に干してあった女性の下着を盗もうとして捕まり、警察に突き出されたことがある。
 女装をするようになったのは、そのあとからだね。ある土曜日の深夜に、女装をして街を歩き回ってから公園(東京・町田市)のベンチで休んでいたんだ。そうしたら、そんな時間に公園に入ってくる女の人があってね。オレはその人に襲いかかってレイプしていた。その女性に警察に突き出されて、現行犯逮捕になった。
 それで小菅(葛飾区)の東京拘置所に勾留された。ところが、勾留されて数日して、係官がやって来て「不起訴処分になったから出ていい」と行って拘置所を出された。いきなりの釈放だよ。キツネにつままれたようだった。ラッキーっていうかね。
(なぜそういうことになったのか、景子さんに尋ねてもはっきりしない。想像だが、強姦罪は親告罪のため、被害者が告訴を取り下げると容疑者は不起訴処分になる。それが適用されたのではないか)
 それで一旦生まれ故郷の会津(福島県)に帰ったんだが、田舎だから仕事口もないしね。田舎では昼間からブラブラしていると目立つだろう、千葉の町工場で少し働いてから、茨城の土木会社に就職した。そこは住宅の基礎工事を専門にする会社だった。かつて、大洋村が別荘ブームで沸いたことがあったのは、あんたも知っているだろう。その別荘の基礎工事の仕事が多かった。基礎地面を掘削して、砕石を入れ、それを転圧する。そんな仕事を10年くらいやっていたのかな。

 その会社でも寮に入っていたんだが、ある晩、喉が渇いて飲み物を買いに近くのコンビニまで行ったんだ。田舎のコンビニの夜遅い時間だったから、店内にはカウンター内にバイトの店員が一人と、売り場のほうに若い女の客が一人いるだけだった。
 その彼女はとくに買いたい物があるわけではないようで、時間つぶしに商品棚のあいだをブラブラと歩き回っているだけのようだった。で、すごく短いミニスカートを穿いていてね。そこから伸びている2本の生脚の艶かしさといったらなかったな。
 オレが商品ケースから冷たい飲み物を取り出していると、彼女がすぐ横をゆっくり通りすぎていったんだ。咄嗟に、オレはその子の背後に回ると、ミニスカートを捲り上げて、臀から太腿のあたりを撫でまわしていた。あまりにも咄嗟のことで、オレ自身が自分で自分のしていることがわからないくらいだった。
 びっくりした女の子が大声をあげ、店員がすっ飛んできて、オレはたちまち取り押さえられていた。店に警官が呼ばれて、その場で簡単な事情聴取が行われたんだが、「今夜は遅いから、明朝9時までに警察署のほうに出頭するように」と言って、警官は帰っちまった。またまたラッキーってなもんだよね。
 オレはそのまま駅に向かって、翌朝の一番電車で東京に逃げてきた。そのまま新宿中央公園にやってきて、それからずっとここで暮らしている。あのときが30歳くらいだったから、もう15年近くこの公園にいることになるんだな。
 以前の下着ドロやレイプ事件を起したときも、この痴漢事件も、みんな突発的に起こったことで計画性はないからね。出来心というか、魔が差したというか、自分でもよくわからないうちに行動してしまうんだ。なぜなんだろうね。ただ、この公園で暮らすようになってからは、そういう悪さは一度もしてないよ。
 女装のほうはいまでもしている。今日も着ているしね。これは誰かほかの人に迷惑がかかるわけじゃないだろう。当分、やめるつもりはないな。
 夜はこの先にある(東京)都庁前の歩道に寝ている。上が道路でガードになっているから、雨露がしのげるからいいよ。といっても、下は固い歩道だし、時間も夜11時から朝の5時までに制限されているから熟睡はできない。まあ、一般家庭の畳と布団の上に寝るようなわけにはいかないよ。
 困っていること? やっぱり、食べるものがが少なくてひもじいことだね。炊き出しだって毎日あるわけじゃないからさ。新宿の炊き出しはもちろん、代々木、池袋までは行ってるけど、上野とか、浅草じゃ遠すぎて歩いては行けないよ。時々は区役所に行って乾パンをもらっているけど、あれはあまりうまくないからね。
 どうしてもひもじいときは、回転寿司店のゴミ箱を漁って、食べられそうなのを拾って食べている。少しみじめったらしいとは思うけど、生きてくいためには仕方がないよね。はじめのうちは恥しくて深夜寝静まってから、コッソリ行ってたけど、いまじゃ慣れて昼間でも行ってるし、シケモクを拾うのだって平気になったからね。
 食べるものが少なくてひもじいことを除いたら、あと困っていることはないな。といっても、快適とはいえないけどね。
(この項了)(神戸幸夫)

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2009年6月14日 (日)

ホームレス自らを語る 第34回 女房の浮気が……/佐藤豊さん(60歳)

ホームレス自らを語る 第34回 女房の浮気が……/佐藤豊さん(60歳)

 たった1回のことだけど、女房が浮気をしてね。結婚して25年も連れ添って、2人の娘がいて、上の娘はもう結婚していたんだ。そんな50歳を越えていい歳をした女が、スーパーで買い物中に見知らぬ男に声をかけられて、そのままホテルまでついていって朝帰りしたんだよ。そんなこと信じられるかい?
 オレは怒り狂って、女房を兵庫の実家に帰したけど当然のことだろう。ところが、下の娘が母親思いの子でね。「たった1度だけの失敗じゃない。おかあさんを許してやって」と言って、泣きながら毎日のように、オレに許しを請うんだ。オレと女房は元々相思相愛で、ホントに好き合って結婚した夫婦だった。女房の浮気事件はあったけど、まだオレも愛していたから許すことにしたんだ。
 それで女房は帰ってきて、またいっしょに暮らすようになった。ところが、女房はオレとは一切口をきかなくなってね。娘とは話をするんだけど、オレとはひと言も話をしない。そんなのが1年以上続いてね。
 そのころ、オレは私鉄やデパート経営をししているT急行の関連会社で、事業部の課長補佐をしていた。ところが、オレの上役によその関連会社から移動してきたのがいて、この上役と反りが合わなくてね。オレとはことごとくのことに、反目対立するようになったんだ。
 それで会社に出ても面白くない。家に帰っても女房は押し黙ったまま……何もかも面白くなくなってね。6年前、誰にも言わずにコッソリと家を出て、ホームレスの仲間入りをしたわけだ。
 ホームレスのメッカといえば新宿だけど、オレの家は中野にあったから、新宿ではいかにも目と鼻の先で、そんなところで野宿をしていたら、家族や知り合いに見つかりそうだろう。だから、東京駅まで歩いて、そこをしばらく根城した。今はここ(千代田区小川町)の近くの商店の軒先を借りて寝ている。ホームレスになって、もう6年になるんだから早いもんだよね。

 生まれたのは東京・中野で、いま女房が住んでいる家が生家だ。途中で一度建て替えているけどね。
 父親は新宿のデパートで、経理係をして働くサラリーマンだった。オレが長男で弟との2人兄弟。戦後の東京のサラーマン一家の典型のような家庭だったね。
 オレは中学を卒業して、福生にあった自転車工場に就職した。いや、大手ではなく中堅のメーカーで、いまはもう倒産してないよ。オレの仕事は検査係、自転車の完成品を検査するのが仕事だった。
 その自転車工場で働きながら、夜は夜学の定時制高校に通った。4年間休みなく通って、ちゃんと卒業したんだよ。偉いもんだろう?
 ホントのことをいうとね。同じ自転車工場から同じ定時制高校に通う女の子の同級生がいたんだ。なかなか可愛い子でね、その子と毎日いっしょに通えるから、それが愉しくて通っただけかもしれないけどね。当時の日活映画に吉永小百合と浜田光夫の純愛コンビの作品があったけど、みんなそんなストーリーだったよね。
 で、そのいっしょに定時制高校に通った女の子というのが、いまのオレの女房なんだ。結婚したのは27か、28歳のときだった。
 そのころのオレは自転車工場を辞めて、T急行の関連会社に入っていたから、新居は中野の実家で両親といっしょに住んだ。当時は長男夫婦が実家に入って、跡を継ぐのがあたりまえだったからね。
 子どもは女の子が2人できた。それこそ平凡を絵に描いたような家庭だったね。オレはギャンブルには一切手を染めなかったし、酒も家で晩酌を少しやるくらいだった。
 ただ、野球が好きでね。草野球。自転車工場の時代から50歳くらいまで、必ずどこかのチームに入って、シーズン中の日曜日はたいてい試合だった。平日の朝早くに会社に行く前に試合をすることもあった。そんなに上手じゃなかったけど、野球が好きだったんだね。
 野球は好きだったけど、それで家庭問題が起こるほど好きだったわけじゃないからね。それなりの家庭サービスはしたし、子どもたちも可愛がって育てたしね。
 ごくごく普通の平凡な家庭だったんだ。女房が不倫をするまではね。よくわからないのは、買い物の途中に見も知らずの男から声をかけられて、フラフラと不倫をしてしまう女心だよね。そういうのを“魔が差した”とでもいうのかね。
 それでもオレは許したんだよ。いまでもオレは女房を、誰よりも愛していると言える。だが、その肝心の女房がオレに心を開かないんだからさ。最後のころは家にいると息が詰まりそうだったからね。会社でも上司とうまくいかなっかったりして、なにもかもイヤになって家を飛び出したってわけさ。
 これからのことかい?  いつかは女房との縒りを戻して、家に帰りたいね。家を出てから女房とは連絡を取ってないけど、弟とは2度ほど電話で話した。まさか、ホームレスをしているとはいえないから、友人の仕事を住み込みで手伝っていると言ってある。
 弟の話では下の娘も結婚して、子どもも生まれたらしい。ということは、いま家には女房が1人で暮らしているわけだ。そうなれば、よけいに戻ってやりたいね。
 ただ、オレも自由気ままなホームレスの生活が長いからさ。なまけることが身体に染み付いてしまって、普通のきちんとした生活に戻れるのか心配なんだよ。いまの悩みは、そのことだね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年6月 9日 (火)

ホームレス自らを語る 第33回 戦災孤児でした/秋元亮介さん(仮名・66歳)

 生まれは昭和14年、東京荒川区でした。荒川でも典型的な下町の千住の生まれです。
 父親は馬車曳きをしていたようですが、大変な酒飲みで、私が3歳くらいのときに肝硬変で亡くなっています。あとは母親と2人だけの母子家庭で、その母親には心臓に持病があって病弱でしたから、生活は苦しかったはずです。
 昭和20年3月9日夜9時すぎに、空襲警報のサイレンが鳴りはじめました。そのときのサイレンの鳴り方はまるで狂ったようで、子ども心にも何か途方もないことが起こる予感みたいなものを感じましたね。
 そのうちにB29の編隊の低い爆音が響いてきて、焼夷弾が投下されるときの独特の音が聞こえてきました。ヒルュー、ヒルューと音を曳きながら落ちてきて、バラバラと民家の屋根に礫を撒くような音ですね。
 私は母に手を引かれて、夜の町に逃げ出しました。外はあちこちから火の手が上がり、上空からはこれでもか、これでもかと焼夷弾が雨霰のように降ってきました。一度火が点くと木造家屋の密集した町は、たちまち火の海と化していました。
 それを避けながら母と私は夜の町を逃げ惑いました。最終的に2人が逃げ込んだのは、天王公園でした。千住大橋の近くにある公園で、そこに逃げて込んで命だけは助かりました。ただ、このとき空襲のなかを必死で逃げ回った母は、心臓に相当こたえたようでした。天王公園はいまでもあると思いますよ。
 翌日、火事が治まって家に戻ってみると丸焼けでした。庭に防空壕が掘ってあったので、焼け棒杭やトタンをかぶせて屋根にして、母と2人で入りました。でも、母はもう起き上がることができなくなり、それからは寝たきりになりました。6歳の私は母の枕元で、衰弱していく母親を見ているだけでした。
 それから幾日かして母が動かなくなり、子どもの私にも死んだことがわかりました。それで防空壕から外の道路に出ていると、見知らぬおばさんが通りかかったんで、そのことを話しました。すると、おばさんは親切にも母親の様子を見てくれ、死んでいることを確認すると、近所の人にたのんで遺体を焼く手配をしてくれました。

 東京大空襲の直後だったから、母親の遺体は学校のグラウンドのようなところで、ほかの遺体といっしょに焼かれたと思います。葬式の真似ごともしてやれませんでしたが、一応焼いてあげられましたからね。それにしても、あのおばさんの親切は忘れられませんね。
 それから先は天涯孤独の戦災孤児になって、今日までずっと1人で生きてきました。学校は小、中学校とも1日も行ってません。毎日の食いものを確保して、生きていくのに精一杯でしたからね。学校なんか行ってられなかったんです。
 終戦前後の食糧不足、物不足はひどいもので、しかも周りは焼け野原、そんなところで6歳の子が食い扶持を確保していくのは容易なこではなかったです。隣近所の子守りや買い物、留守番、農家や大工の手伝い……金になることなら何でもしました。

 それでも食べることがやっとで、戦後3年間はそのまま防空壕に住んでいました。その後も家が建ったわけじゃなくて、自分でつくったバラック小屋に住んだだけですけどね。世の中が落ち着いてくると、新聞配達やペンキ屋の手伝いもするようになりました。
 私は学校に行ってないから字が読めないんですけど、ひらがなだけは覚えました。だから、ルビが振ってあれば何とか読めます。それに算数の計算もできません。ただ、カネの計算だけはできるんです。それを覚えないと生きていけないから、必死で覚えましたね。

 15歳のころからは、夏は山に入って下草刈り、冬は飯場に入って土工の仕事をするようになりました。そのころはまだ林業が盛んでしたから、下草刈りでは千葉、埼玉、群馬など関東一円の山に入りました。土工の仕事は手元といって、作業員の仕事の補助をしたり、作業現場の片付けなどの一番下っ端の仕事をしました。私は学校へ行ってないから、何の資格も取れませんでしたからね。
 下草刈りや土工の仕事は飯場に入って集団生活をします。私の場合は集団生活の経験がありませんから、うまく馴染めずに大変でした。ちょっとからかわれたり、小バカにされたりすると、すぐに手が出て殴りかかっていってしまうんです。
 それで仲間と気まずくなったり、仕事をクビになったり、ずいぶん損をしました。やっぱり学校へ行ってないという僻み根性があるんでしょうね。

 変わったところでは、30代の半ばに松竹映画の大部屋俳優をやったことがあります。この仕事だけは2~3年続きましたね。撮影所は大船(神奈川県)にあって、毎日毎日役を取っ替え、引っ替えで出てました。だから、何という作品に、どんな役で出たのかは覚えちゃいません。ほとんどがセリフのない通行人の役でしたからね。
 あとはまた、林業の下草刈りや木材の伐採の手伝い、土工の手元の仕事に戻りました。いまは林業のほうの仕事はなくなって、土工の仕事ばかりです。古くから知っている手配師がいて、こんな歳ですが時々仕事を回してくれるんです。
 そうやって稼いだ金で映画を見に行きます。浅草には古い時代劇やヤクザ映画ばかりをやっている小屋(映画館)がありますから、そこで見るんです。若いころ映画の大部屋に入ったこともありますから、私はやっぱり映画が好きなんでしょうね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年6月 1日 (月)

ホームレス自らを語る 第32回 割りの合わない人生だった/山本さん(仮名・62歳)

 いま思い返してみると、オレも割りの合わない人生を送ってしまった気がするよ。もう、取り返しはつかないけどね。
 生まれは群馬県の伊勢崎市で、8人兄弟の下から3番目だった。
 オヤジは自称画家で、裸婦や風景画を描いていた。けど、1枚も売れたためしはないね。そもそもオヤジは大地主の息子で、若いときに財産の生前分与を受けて、パリに絵の勉強に行ったということだ。当時の金で400万円も持っていって、全額遣ってスッテンテンになって帰ってきたらしい。
 日本に帰ってきても無一文のくせに働くでなし、洋行帰りの画家を気取って、売れない絵を描いているだけだったからね。

 苦労したのはオフクロさ。近くの農家の手伝いや賃仕事、土方なんかをして日銭を稼いでは、なんとか生計をたてていたんだ。ただ、8人もの子どもを産んだだろう。いつも腹ボテの状態で、そんな身体で農家の田起こしや、田植え、稲刈り、土方の仕事にまで出ていたんだ。ホントにオフクロの苦労は並大抵じゃなかったと思うよ。
 オレたち子どもも小学校に上がると、農家の手伝いに行かされた。学校から帰ってくると、農家の人が家の前で待っていて、そのまま田圃や畑に連れていかれて手伝わされたんだ。農家が忙しいときは学校を休んで、朝から手伝わされたしね。だから、小学校、中学校とも、3分の1は休んだんじゃないかな。
 農家を手伝っても、謝礼は現金じゃないんだ。米とか、サツマイモとか、収穫した野菜の現物で持ってくるからね。だから、働いたオレたちは1円にもならなかった。それでも家のためになっていると思うと嬉しかったね。

 忘れられないのは正月のお年玉のことだ。友だちは「500円もらった」「1000円もらった」と自慢し合っているのに、うちは10円だったからね。アメ玉1つ買ったらおしまいだよ。つくづくうちは貧乏なんだと思ったな。
 中学を卒業して、伊勢崎市内の鉄工所に就職した。コンプレッサーの金属部品を旋盤やフライスで加工する小さな町工場だった。自慢じゃないけど、オレは仕事を覚えるのが早かったし、腕もよかったから、どこでも重宝されたんだよ……じつをいうと、オレは伊勢崎市内から近隣の鉄工所では、ほとんどのところで働いたんだ。
 なぜかって? オフクロの仕業さ。オレの腕がいいことを理由に、勝手に新しい鉄工所に売り込みに行っては前借りをしてしまうんだ。オレはそのたびに働いている鉄工所を辞めて、オフクロが前借りした鉄工所に移らなければならなかった。前借り分を返し終わるころになると、オフクロはまた別の新しい鉄工所に行って、前借りをするっていう具合でさ。そうやって全部で20ヵ所くらいの鉄工所を替わったんじゃないのかな。
 いったいオレは何のために働いているのかとも思ったけど、オフクロの事情もわからないわけじゃないからね。あまり強くは言えなかったな。

 結婚をしたのは28歳のときだった。そのとき働いていた鉄工所の社長の妹といい仲になってね。いまでいう“できちゃった結婚”ってやつだ。結婚してアパートを借りて、そこで女の子が生まれた。逆玉の輿? そんなんじゃないよ。社長以下9人しかいない町工場で、社長の奥さんも妹も社員で働いているような会社で、ひどい赤字経営の工場だったからね。
 それに社長の奥さんとオレの女房が犬猿の仲でさ。ことあるごとにぶつかって大ゲンカになるんだ。そのたびに社長とオレが間に入って収めるんだけど、あまりにたびたびだからね。オレは女房とふたりで、その鉄工所を辞めることにした。社長はシュンとなっていたよ。その鉄工所でも、オレの腕前は群を抜いていたからね。
 そのころは高度経済成長の時代だったから、新しい鉄工所の働き口はすぐに見つかった。オレが結婚してからは、さすがにオフクロも鉄工所からの前借りはしなくなっていた。だから、その新しい鉄工所では、10年以上、57の歳まで働いたよ。

 その途中でオフクロが認知症(痴呆症)を患ってね。兄弟の誰も引き取ろういうのがいなくて、オレのところで引き取ることになった。この看病が大変でね。夜になると壁を叩くわ、大声で喚くわ、それを朝まで続けるんだ。オレたちが住んでいたのはアパートだから、静かにさせるのが大変だった。この看病は13年間続いたけど、正直にいって死んでくれたときにはホッとしたね。
 このオフクロの看病をしていたときに、バブル経済の崩壊があって、働いていた鉄工所が倒産した。それで新しい仕事を探して回ったけど、もうオレも歳が歳だったから、雇ってくれるところはなかった。

 オフクロが死んですぐに、こんどは女房が倒れてね。何でも小脳が冒されたとかで、半身不随で病院に入ったきりになってしまった。オレは3年間も下の世話までして看病したけどね。やはり、女の世話は男では無理だということで、女房の妹に替わってもらった。
 しだいに、女房の病院代やアパートの部屋代が払えなくなってきて、東京に行けば仕事があるかと思って出てきたんだけど、不況は東京でも同じだからね。仕方なく隅田川縁り(台東区)に、ほかのホームレスの人を真似て、ビニールシートの小屋をつくって住むようになったわけだ。
 それにしても、割りの合わないことばかりが続く人生で、オレの人生はいったい何だったんだろうと思うよ。(聞き手:神戸幸夫)            

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2009年5月14日 (木)

ホームレス自らを語る 第31回 長距離トラックを転がしていた/岩下勇さん(仮名・57歳)

 小さいころからトラックの運転手に憧れていましてね。そう、長距離トラックの運転手。カーブで内ハンドルを切ったり、バックするときはドアを開けて、半身を乗り出すようにしたりしてね。とにかくカッコよくて、大きくなったら長距離トラックの運転手になると決めていました。
 運転手になりましたよ。大型の運転免許を取るのに手間取って、20代後半からでしたが、長距離の運転手になって大型トラックを20年ほど転がしました。
 生まれは新潟県の中越地方の町です。父親は無線部品をつくる工場で働く工員でした。子どものころのオレはおとなしくて、あまり目立たない子でしたね。海辺の町だったから泳ぎが得意で、小学生のころから2キロメートルくらいの遠泳は平気でした。
 学校は高校中退です。3年生に進級したところで辞めました。クラスメイトとの人間関係がうまくいかなかったからです。いや、いじめとか、そういうことはありませんでした。
 それで父親の知り合いが東京で工務店を経営していたので、そこに就職しました。そこで働きながら、運転免許証を取って運転手になるというのが、オレの計画でした。
 工務店での仕事は型枠大工でした。この工務店時代には霞が関ビルの建設に参加しました。日本で最初の超高層ビルで、JV方式の工事というのもあれが最初だったんじゃないのかな。そんな工事に参加できたのは、オレの誇りのひとつですね。
 それに結婚したのもこのころでした。仕事帰りによく飲みにいった店に、やはり客として飲みに来る女性がいて、親しくなって結婚しました。子どもは女の子がひとりです。
 そのころは工務店の仕事が忙しくて、車の免許を取りに行く暇がなくて、そのうえ結婚までして、さらに運転免許証どころではなくなっていました。
 そんなある日曜日に新宿の街を歩いているときでした。自衛隊のスカウトに捕まって、しきりに自衛隊入りを誘われたんです。スカウトの彼は車の大型免許を取るなら、自衛隊に入れば一発で取れると言うんです。
 一般には最初に普通自動車用の運転免許を取得して、大型の運転免許を取るまでには2年間の経験が必要なんです。だから、オレには大きな魅力でした。それでその場で自衛隊入りを決めていました。駐屯地は旭川(北海道)で、カミさんは「相談もなしに決めるなんて」と怒っていましたけど、旭川までついて来ましたね。
 部隊では志願して輸送隊に入りました。輸送隊に入ればいや応なく大型の運転免許が取れますからね。自衛隊の訓練は思ったほど厳しくはなかったです。それより冬の旭川の寒さのほうがこたえましたね。

 自衛隊には3年間いて、満期除隊で除隊しました。それでようやく念願の長距離大型トラックの運転手になれました。私が入ったのは長野の運送会社で、何で長野の会社だったのか覚えていませんが、スポーツ新聞の募集広告でも見て受けにいったんだと思います。
 仕事は忙しかったですね。物流が国鉄(いまのJR)貨物輸送から、トラックに代わりつつあるころでした。だから、一度長野を出ると10日から、2週間は帰れないというのがあたりまえのようになっていました。
 カミさんのほうは知らない町のアパートに放っておかれる生活で、それに不満をもち始めていましてね。そんなときにオレが浮気騒動を起こして、カミさんは完全にブチ切れてしまい離婚になりました。オレが本当に愛していたのはカミさんで、浮気は軽い遊びの気持ちだったのですが、それをいくら説明してもカミさんには通じませんでした。
 それからも私は長距離の運転手をつづけました。日本の物流はますますトラックが主になっていき、仕事は忙しくなるばかりでした。長野から九州へ荷を運んで、そこで積み替えた荷を北海道まで運ぶなんてこともさせられました。だから、借りていたアパートの部屋に泊まるのは、月に1、2度というのがめずらしくありませんでしたからね。その分、稼ぎもよかったです。
 そのころには高速道路網が全国的に整備されましたけど、私はよほどのことがない限り一般道を使って高速代は浮かすようにしました。これが結構な余禄になりましたね。
 トラック輸送に翳り見えるようになったのは、バブル経済が崩壊してからです。運送会社が少ない荷を奪い合って、ダンピング競争が始まり潰れた会社も多いです。オレも49歳でリストラされて、トラックを降りました。
 それから大阪に出て町工場で働きましたけど、3年で工場が倒産。それで東京に出てきたんですが、こっちも不況の真っ最中で、オレも50歳をすぎていたから、もうどこも雇ってはくれません。しばらくは昔の蓄えでしのいでいましたが、そんなのはすぐに底を突いてきますからね。
 この公園(新宿中央公園)で野宿をするようになったのは、4年前からです。野宿をするようになって、ある手配師と知り合いになり、オレが運転免許を持っていることから、車に作業員を乗せて現場や駅に送り届けるバイトをさせてもらっています。それが唯一の現金収入です。
 考えてみると、オレの人生は何だったろうと思いますね。トラックによる物流全盛のころは、死ぬほど働かされたのに、いまは一文なしで路上に野宿をする生活ですよ。ギャンブルに狂ったわけじゃないし、女に入れ揚げたわけでもない。なのに、どうしてこういうことになってしまったのかね……。」(聞き手:神戸幸夫)

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2009年5月10日 (日)

ホームレス自らを語る 第30回 昔ツッパリ いま仏様(後編)/新垣智之さん(仮名・63歳)

 新宿西口地下通路に、段ボールハウスを最初につくって住むようになったのはオレだよ。あそこに段ボールハウスをつくった第1号だと名乗るやつは多いけど、正真正銘の第1号はオレだからね。ウソじゃないよ。
 いつのことだったのか……ずっと昔のことだからさ。もう覚えていないな。オレがハウスをつくると、すぐに7個のハウスができて、それからぼつぼつできるようになった。ハウスが急速に増えて、左右の通路に隙間なく並ぶようになったのは、バブル経済が崩れてからで、ハウスの数は200個までになっていたからな。
 オレが生まれたのは沖縄の那覇。沖縄の高校を出て、本土の長良川(岐阜県)のホテルで料理人になった。10年ほどして、沖縄に帰りレストランに雇われて働くようになる。その間に結婚して、子どもは女の子が一人できた。
 ところが、数年してレストランが倒産。何の蓄えもないから路頭に迷うことになって、女房、子どもとは別れた。女房はどんなときでもオレを立ててくれる、心のやさしいいい女だったけど、食わしていけないんだから別れるより仕方なかった。
 当時はベトナム戦争の真っ最中で、沖縄も血腥くて険悪だった。戦場から帰休している米兵たちは、気がすさんでいるからケンカが絶えなくてさ。バーなんかでケンカがあると、オレは英語ができたからよく仲裁役をたのまれた。背が2メートル近くあって、丸太ん棒のような腕の米兵同士のあいだに割って入るんだかね。ちょっとした命がけだったぜ。
 そんなことばかりしていても仕方ないから、オレは大工をしている友人の下に見習いでついて、大工の仕事をひと通り覚えた。それでふたたび本土に渡って、東京に出た。一旦は練馬の工務店に就職するが、すぐにやめて日雇いになった。
 新宿西口の地下通路に段ボールハウスをつくったのは、そのころのことだ。そこから毎日日雇いの仕事に通うようになったわけだ。
 そのうちに段ボールハウスが、どんどんできて通路に隙間なく並ぶようになった。そうしたら山谷の争議団というのが、新宿に乗り込んできたんだ。いつのことだったか、覚えてないが……平成6(1994)年? そうだったかな。
 それで新宿のホームレス問題は、争議団のほうで仕切ると言い出したんだ。「冗談じゃねえ。ここを最初から仕切っているのはオレたちだ。途中からノコノコ出てきて、ヤクザの縄張り荒らしのような真似をするんじゃねえ」というのがオレたち言い分だった。
 それからしばらく両者は反目し合って、睨み合いの状態がつづくことになった。うん、かなり関係は険悪だったな。しばらくして、争議団の代表という3人が、オレのところに話し合いにやってきた。そこでホームレスが2派に分裂して対立しているのは、行政側に段ボール村を潰す根拠を与えることになるだけだということになって、たがいに協力することで話がまとまった。それでできたのが新宿連絡会(新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)というわけだ。

 平成8(1996)年1月に東京都が警察官とガードマンを動員して、地下通路の段ボールハウスの強制撤去を強行した。このときホームレス側の先頭に立って、警官隊と向かい合って抵抗したのは、オレとその仲間たちだぜ。火をガンガン燃やして気勢をあげてな。テレビのニュースでも映っていたよ。
 それから段ボール村で火事があったろう。平成10(1998)年か……この火事をきっかけにして新宿連絡会の説得で、全員地下広場から自主退去することになった。だけど、オレは反対で最後まで抵抗したんだけど、力ずくで片付けられちまった。
 思えば地下通路に最初に段ボールハウスをつくったのはオレだったし、地下広場に最後まで残ったのもオレだったわけだ。
 そんなことをしているから、オレのことをヤクザだと思っているのがいるが、オレはヤクザじゃないからね。ただの酔っ払いだからさ。
 酒は好きだった。毎日浴びるように飲んだ。若いころにビール3ケースに日本酒5本、それにウイスキー3本を一度に飲んだことがある。どうなったかって? 1週間眠りつづけたよ。途中、幾度かトイレに起きて、そのたびに水をんでは、また眠る。1週間その繰り返しだた。
 40歳のときだっかな、急にぶっ倒れて昏睡状態になったことがある。酒の飲みすぎによる肝硬変だった。そのころは毎日1升(1.8・)からの焼酎を飲んでいたからね。救急車で大久保の病院に搬送されて、半年も入院させられたんだ。
 半年して退院したけど、薬で酒を受付けない身体にされてしまって、飲みたいけど飲めないイライラがつづいてノイローゼになってしまった。こんどは三鷹の病院に3度も入院した。長いのでは1年間も入っていたよ。
 退院するにあたって、飲酒は禁じられたけどやっぱりやめられないよね。いまもこっそり飲んでいる。このあいだ新宿福祉の係員に見つかっちゃってね。身体を調べられて、脚が腫れ、腹も膨らんでいるから至急入院しろと言うんだ。だけど、病院なんかに入ったら、何もできなくなるからね。身体の動く間は、ここでがんばりたい。
 まあ、先のことを考えると真っ暗だね。若いころは好き放題やって、酒を浴びるように飲んでね。いまじゃ何もできなくなっちまった。「昔ツッパリ。いま仏様だ」(聞き手:神戸幸夫)

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2009年5月 4日 (月)

●ホームレス自らを語る 第29回 景子さんの性犯罪(前編)/景子さん(通称・44歳・男性である)

0905 (景子さんの話は前後の脈絡がなく縦横無尽に飛んだりして、要領を得ないところが多かった。以下の話は聞き手が多少の類推を加えて再構成したものである)
 オレの趣味は、女装して街を歩くことなんだ。女装して、髭を剃り、化粧して、女性用の鬘をかぶって街を歩く。それで人の視線を浴びると、何ともいえずスカッとする。最高のストレス解消になるからね。
 だからといって、ゲイじゃないんだよ。その辺の違いは、自分でもうまく説明できないけどね。
 名前? 通称は景子。一応は景子で通っているけど、ほかにもいくつかの女名前を使い分けている。本名はかんべんしてよな。
 今日も女装しているんだ。ピンクのブラジャーに、ニットをネット編みにしたセーター、紺のタイツにスカートを穿いているよ。だけど、髭を剃ってないからさ。そんな髭面で女装もおかしいから、ジャージの上着とズボンを着けて隠しているんだ。
(景子さんは着用している下着やスカートを見せてくれる)。
 女装の趣味に目覚めたというか、女装するようになったのは、中学校を卒業して働くようになってからだね。
 生まれは昭和39(1964)年、福島県の会津地方の田舎町。兄弟は4人で、オレが長男だった。
 オヤジは元炭坑夫で坑道深くに入って、石炭をトロッコに積むのを仕事にしていたようだ。オレが生まれた頃は、炭坑夫はやめて建築作業員をやっていた。そのオヤジが作業中に鉄骨の柱に脚を挟むという事故に遭って、大ケガをして歩行も困難な身体になってしまう。それで働けなくなって、家でゴロゴロしているようになる。朝から酒浸りの毎日だったね。オレが中学3年生のときのことだ。
 代わってオフクロが働きに出たけど、妹や弟たち3人はまだ小さかったから大変だったと思うな。

 その中学3年生のとき、オレに好きな女の子ができた。だから、それまではごく普通の男の子だったんだ。で、思い切ってその子に告白したら、あっさりフラれてしまってね。オレが変わったのは、それからのことだ。
 女の人というか、女の人の身体に憧れるようになってね。自慢げにあらわにした形のいい胸、ミニスカートに包まれた丸々とした尻、それに何といっても脚だよね。女性の魅力は、脚の形がいいことに尽きる。男の脚の脛毛をいくらきれいに処理しても、あの脚線美には近づけないからさ。
 それで男が女の身体になれないなら、せめて女装をしてその気分を味わってみようとしたわけだね。実際に女装するようになるのは、もっとあとになってからのことだけど……。
 中学校を卒業して、就職するまでに1週間あった春休みのことだ。家の近所を歩いていたら、ある家の庭先に洗濯物が干してあって、そのなかに女性用の下着が交じっていたんだ。急にそれがほしくなって、その庭に忍び込むと干してあった下着に手をかけていた。だが、その家の人が物音で気付いて、オレは捕まえられ、警察に突き出されてしまった。
 それでオレの精神に問題がありということで、神奈川にあった医療少年院に送られて治療を受けることになった。ただ、オレ自身では精神に問題があるとは思ってなかったし、実際に下着ドロも未遂で、しかも初犯だから、自宅に帰されて保護観察処分という措置もあったんだ。
 担当の係官から、どちらを選ぶかと聞かれ、自宅に戻っても下着ドロという破廉恥な罪を犯しては、羞ずかしくて街も歩けないからね。それで神奈川なら家から離れているし、知っている人もいないからいいかなと思って、自分からそちらを希望したんだ。
 その医療少年院には1年3ヵ月間入っていた。退院のときは身元引受人として、普通は親が来るらしいんだが、うちの場合はオヤジが歩行困難な身体だし、オフクロもわざわざ神奈川まで来られるような状態じゃなかったからね。それで町田市(東京都)の保護司の人が、身元引受人になって引き取ってくれた。
 その保護司の人は就職先も探してくれて、電気のプラグをつくる町工場に就職した。従業員10人くらいの小さな工場だったけど、寮があってそこに入れた。
 女装をするようになるのは、その頃からだよ。週末の夜などに、女装して街を歩くようになったんだ。
 そのときも土曜日の夜で、女装して街を歩き回ってから、まだ寮の部屋に戻る気分にならなくて、寮の近くにあった公園のベンチで休んでいたんだ。時間は深夜の1時を回っていたと思う。そんな時間に外灯も少ない薄暗い公園に入ってくる女の人があってね。
 オレは前後の見境なく、その女の人に襲いかかると、公園の植え込みの陰に引きずり込んでレイプしていた。相手の女性は、40代前半の主婦だった。行為のあと、その人に交番まで連れていかれて現行犯逮捕された。
 だけど、あんなに夜遅い時間に、女の人が一人で公園を歩くなんて非常識だろう。警察に逮捕されたりして、オレのほうこそいい迷惑だよね。こっちのほうが、被害者だといいたいくらいだよ。
 前の下着ドロも、このときのレイプ事件も、突発的に起こったことで計画性はないからね。出来心というか、魔が差したというか、自分でもよくわからないうちに行動してしまうんだ。だから、そういう性的な犯罪と、女装の趣味は別のことで繋がってはいないからね。自分ではそう思っている。(この項つづく)(聞き手:神戸幸夫)

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2009年4月16日 (木)

ホームレス自らを語る 第28回 昔ツッパリ いま仏様(前編)/新垣智之さん(仮名・63歳)

 昭和20年4月1日に米軍の沖縄上陸が始まり、那覇に住んでいた我が家一家も、山の中に逃げ込んでガマ(岩屋)に身を潜めた。そのころ、オレはまだ2歳だったけど、ガマは日本軍の兵士と沖縄の人たちで、ギュー詰めだったことをうっすらと覚えているね。
 日本軍の兵士は沖縄の人間を見下していたから、とても横柄で横暴だったよね。そこへいくと米軍兵士のほうが、よほど紳士的だった。戦争が終わって、沖縄の人たちが曲りなりにも生き延びられたのは、米軍が食糧の配給をしてくれたおかげだからね。あのカリフォルニア米やタイ米の配給がなかったら生き延びられなかった。
 我が家は両親とオレの3人家族で、オヤジは農業をやっていた。ところが、その農地が米軍の基地に接収されて、ほとんどを持っていかれてしまった。
 それで両親は荒地を開墾して畑につくって、パイナップルとかミカンの栽培を始めた。しかし、痩せた狭い農地だから、農業収入はたいしたことなくて、とても一家3人で食べていくことはできなかったようだ。それで伯父が漁師をやっていたので、オヤジはその船に乗って漁を手伝い、農業と漁業の両方でなんとか生活が守れたんだ。
 子どものころのオレは腕白のガキ大将で、負けず嫌いのケンカっ早いツッパリだった。小学生のとき女の子が鉄棒で大車輪をやっているのを見て、「女にできて男にできねえわけがねえ」と、それまでしたこともないのにいきなり挑戦してね。それで勢いあまって鉄棒から飛び出して、地面に叩きつけられて顎に大ケガをしたことがある。いまでも大きな傷跡が残っているから、髭を生やして隠しているんだ。若いころのオレは、ホントに向こう見ずのツッパリだった。いまは仏様のようにおとなしいけどな(笑)。
 高校は私立の興南高校。私立の高校に行けたということは、このころには家の経済状態もよくなっていたんだろうね。伯父の漁業が軌道に乗っていたんじゃないかな。
 スポーツの盛んな学校で、ハンドボール、野球、ボクシングは全国レベルだった。ハンドボールは全国制覇を遂げているし、野球は夏の甲子園でベスト4くらいまでいっているはずだ。ボクシングのOBにはフリッパー上原がいて、それに何といっても具志堅用高の母校でもある。
 具志堅用高といえば故郷の石垣島から、興南高のボクシング部に入りたくて那覇までやってきた男だ。それがボクシング部は「身体が小さすぎる」というのを理由に入部を認めなかった。そのころのオレはもう卒業していたが、一応ツッパリで有名だったから、人づてにたのまれてボクシング部のキャプテンに話をつけて、具志堅の入部を認めさせたんだ。それ以後の彼の活躍ぶりは、みんなも知っての通りだ。

 高校を卒業したオレは、愛知県の自動車工場に就職した。トヨタ自動車の子会社で車のバネをつくる会社だった。ただ、ここには半年しかいなかった。実は別のところに腕を見込まれて、スカウトされたんだよ。
 オレのオヤジは漁師をしていたろう。いつも夕飯のおかず用に、魚を持って帰ってくるんだ。それを捌くのがオレの仕事で、ちょっとした板前以上の腕前だったからね。
 自動車工場で働いていたとき、休みの日なんかに魚を捌いて寮の仲間にふるまったりするだろう。そうしたら「車のバネなんか製造しているより、その包丁捌きの腕を生かすべきだ」と言って、あるホテルの厨房を紹介してくれた人がいたんだ。
 そのホテルは長良川沿いに建っている格式のあるホテルでね。長良川では4月から6月が鵜飼いの季節で、客たちはホテルの部屋からそれを見物しながら、アユを中心にした会席料理に舌鼓を打つという趣向だった。鵜飼いのシーズン中はいつも満席で、オレたちも忙しかった。
 この厨房には10年間いて花板までになった。板長に次ぐNo.2の地位だ。料理人になる気なんてサラサラなかったのに、人生ってどこでどうなるかわからんもんだよね。
 ホテルを辞めることになったのは、沖縄に帰らなければならなくなったからだ。事情の込み入った話で、これはちょっと話せない。
 沖縄に帰って、しばらくブラブラしてから、友人の紹介で豊見城のレストランで働くようになった。こんどは沖縄料理が中心で、それに和食も洋食も出す店だった。オレは元々器用だから、一度その料理を食べれば、使っている食材から、調味料、油など、だいたいわかってしまうんだ。だから、調理を覚えるので苦労した記憶はあまりないね。
 ちょうどこのころ、沖縄の施政権が返還になって本土に復帰した。1972年のこと? そうだったかな?
 そう、そう。その翌年に結婚するんだ。オレが30歳のときで、知人の紹介で知り合った沖縄の子だった。気立てのやさしい子で、何かといってはオレを立ててくれるんだ。オレにはもったいないくらいの嫁さんだった。子どもは女の子が1人できた。
 それから間もなくして豊見城のレストランが倒産する。倒産というか、レストランのオーナーが博奕に狂っていて、その借金のカタに取られてしまったんだ。従業員は全員が解雇になった。
 それでオレは友人が大工の親方をしていたから、そこに弟子入りをした。調理人から180度の転換だけど、そこは器用なオレのことだからさ。たちまち大工の技術を身につけてしまうんだけどね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年4月 6日 (月)

●ホームレス自らを語る 第27回 ずっと臨時工でした(後編)/道上尭志(みちがみ・たかし)さん(77歳)

0904  昭和7(1932)年に広島県の呉で生まれました。3人兄弟の末っ子です。父は海軍大尉をしていて、フィリピンで戦病死したことになっていますが、事実はわかりません。
 それで敗戦後の母の苦労は並大抵ではありませんでした。3人の子どもを抱え、しかも上の2人は結核を患っていて、入退院を繰り返していましたからね。母は道路工事など慣れない肉体労働に出て、真っ黒になって働いていました。

 私は敗戦の昭和20(1945)年に高等小学校を卒業し、翌年、広島にあった三菱造船所に就職します。ところが、昭和24年の不景気のときに希望退職者が募られ、退職一時金に釣られて応じてしまいます。私の人生で正社員として雇われたのは、この造船所勤務時代だけで、あとはずっと臨時工や臨時雇いの生活になります。
 造船所を辞めて、しばらく呉の港で沖仲士をしてから、呉の英軍基地で働くようになりました。呉には米軍ではなく、英国軍が進駐していたんです。その基地内にあった製パン工場が職場で、その工場では関西から九州までに駐留している全英国兵分の食パンを焼いていました。毎日1万斤からの英国風食パンを焼くんですから、壮大な光景でしたよ。
 その同じ工場で働いていた女性と親しくなって、おたがいに好き合うようになり結婚することになります。私が22歳のときですね。
 その前の昭和27(1952)年に講和条約が発効して、日本は独立し英国軍の駐留も終わりますから、必然的に基地での仕事は解雇になりました。
 だから、結婚したのは次の尼崎(兵庫県)の製鉄所で働いていたときですね。結婚して、男の子が1人生まれました。ただ、私たち夫婦が家族らしくいっしょに暮らせたのは、この尼崎時代の2年間くらいで、あとはずっと離ればなれになってしまいます。
 原因は嫁さんの実家と揉めたからですが、非常に複雑な事情があって、内容も込み入っていますから、ここでは説明できません。離ればなれになって暮らすことになっても、私と嫁さんが仲違いをしたわけじゃありませんからね。いまだに私たちは離婚しないで、夫婦の関係は続いているんですよ。

 その後も、私はずっと臨時工、臨時雇いの仕事ばかりでしたから、自分の食い扶持を稼ぐのがやっとで、嫁さんには1円の仕送りもしてやれませんでした。だから、嫁さんのほうの生活は、子どもを抱えて大変だったろうと思います。いまでも苦労をかけて申しわけないことをした気持ちでいっぱいです。

 尼崎の製鉄所をやめてからは、小さな町工場の鋳物工場で働き、それから玉野(岡山県)の造船所、それに山口県の山奥の採石場に入って、護岸工事用の捨石の切り出し作業に就いたりもしました。自衛隊に入っていたこともありますね。
 長いところで3、4年、短いところでは1年くらいでやめています。何でそんなに仕事を替わったのかといいますと、臨時工、臨時雇いの労働者というのは、企業にとって景気の好・不調における調整弁ですからね。景気が悪くなると解雇されて、別の臨時工の仕事を探す。それを繰り返していたからですよ。
 それからは建築物の基礎杭の打ち込みを専門にしているチームの一員になって働きました。親方に、先輩、それに私の3人で一組のチームでした。この仕事だけは同じ3人のメンバーで長く続きましたね。
 といっても、これも請負仕事でしたから、安定した仕事とはいえませんでした。初めのうち大阪の会社の仕事を受けてやっていましたが、数年もしないうちにその会社が倒産してしまうしね。それで拠点を関東に移して、川崎の倉庫とか、横浜の国際埠頭の基礎杭工事をやりましたが、それでもまだ生活は不安定でした。
 仕事と生活が安定するのは、最後の10年くらいですね。この時期は電力会社の送電線の鉄塔基礎の工事が中心で、この仕事は景気に左右されないから切れ目なくありました。ただ、栃木とか、茨城の人里離れた山奥での仕事が多くて大変でしたけどね。

 基礎杭打ち込みの仕事は、66歳の年までやってやめます。親会社のほうから、肉体労働をするには高齢すぎるからやめてくれといわれたためです。
 それで新小岩(葛飾区)にアパートを借りて、多少の蓄えと年金とで生活するようになります。でも、そんな蓄えはすぐに底を突いいてしまいますからね。たちまちアパート代が払えないようになって、追い出されてしまいました。
 アパートを出されたからといって、すぐに野宿をする勇気はありませんからね。しばらくは、オールナイト興行をしている浅草(台東区)の映画館で夜をすごしました。

 この公園(東京下町のY公園)で野宿するようになったのは、3年前からです。いま6人のホームレスがここで暮らしていますが、みんなできれいに使って汚さないようにしているので、公園管理の人たちとの関係も、とてもうまくいっています。
 私は建物と建物の渡り廊下に、毎晩寝かせてもらっているんですが、公園管理の人が「そこでは雨降りのときに、吹き込んで濡れるでしょう。自転車置き場の小屋を使って構いませんよ」と親切に言ってくれます。でも、そこまで甘えてはいけないと思って、相変わらず渡り廊下のほうに寝ています。
 あとは死ぬまでこの公園に置いてもらえて、ここで死ねたらいうことありません。それをひたすら待っている毎日ですね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年4月 2日 (木)

ホームレス自らを語る 第26回 5回のムショ暮らし/北島健彦さん(63歳)

(北島さんは難聴のため、補聴器を使用している)
 難聴になったのはケンカが原因。ホームレスになりたてのころだから、10年くらい前だったかな。新宿西口の地下通路で寝ていたら、酔っ払ったサラリーマンに「通行の邪魔だ」と蹴飛ばされてね。オレも気が短いほうだから「何をしやがるんだ」と殴りかかっていって、コテンパンにやっつけてやったんだ。そのときオレも頭にパンチを食らって、脳に損傷を受けたようで、それ以来難聴になった。
 オレはその前にも傷害事件で起訴されていて、執行猶予中の身だったから、そのケンカで実刑判決を食らいムショ(刑務所)に収監された。
 ムショは小菅。うん、あそこは本来は拘置所なんだけど、勾留中の未決囚の世話をしたり、所内の清掃、配膳などの作業は懲役囚がやるんだ。だから、小菅にはそのための刑務所施設があって、最初はそこに収監されたんだ。あまり知られていないことだけどね。
 そのあと、府中のムショに2回、横浜に1回入り、最後は甲府のムショだった。昔流にいうと前科5犯ということになるのかな。5回のうち4回はケンカによる傷害罪で、あと1回はキー付きの乗用車が路上駐車してあったから、それに乗って走り回っていたら窃盗罪で捕まったんだ。
 オレのムショ暮らしは、長いときで1年半、短くて8ヵ月くらい。ムショでうまくやるには、受刑者仲間とトラブルを起こさないこと。でないと、いじめに遭うからね。ムショ内のいじめは陰湿だから、受刑者との人間関係には常に注意していないと。それに刑務官には絶対服従。ちょっとでも逆らうと懲罰を食らうからね。これだって懲罰という名のいじめだけどさ。
 幾度かケンカをして傷害罪で刑務所入りをしたけど、ホームレスの仲間とケンカしたことは一度もないからね。そんなことをしたら、仲間付き合いをしてもらえなくなるし、夜、寝首を掻かれないとも限らないだろう。
(北島さんは市ヶ谷と飯田橋をつなぐ外堀公園〈千代田区〉で起居している)
 ここにはボランティアがあまり来ないから、食べるものが少なくてひもじいのが辛いね。だからといって、ゴミ箱を漁ってエサ(食べもの)探しをしたり、モク(タバコ)拾いをするような真似はできないしね。いよいよ追い詰められたら、万引きでもするしかない。それで捕まったら、またムショ送りだ。なんだか、そんなことになる予感がするな。
時代の流れで左官屋は必要なくなった
 住まれは昭和19(1944)年で、信州の山間部。家は農家で養蚕農家だった。オヤジは養蚕指導員もやっていた。桑畑は山の急斜面につくった段々畑で、桑の葉摘みの作業が大変だった。段々畑を登るには、上の畑に鍬を打ち込んで、その柄に掴まって身体を引き上げるんだからね。畑の登り降りだけでも、危険なうえに重労働だった。
 養蚕のほかには米を3反歩(約3000平方メートル)くらいと、畑で大麦と小麦、大豆と小豆なんかもつくっていた。みんな自家消費用でたいした量をつくっていたわけじゃないけどね。
 オレは長男だったし、高校を終えて1年ほどオヤジを手伝って農業をしたんだ。だけど、山間部の畑では機械化もできないし、農業だけで食っていくのは大変でね。それで、東京に出てきた。
 東京では豊洲(江東区)にあったクレーンメーカーに就職した。一部上場の大企業だよ。オレの仕事はクレーンの組立てと調整。給料は1万3000円だったが、毎日2時間の残業がついたから、手取りはもっとよかった。
 カネを持っていたし、オレも若いころは二枚目だったから、女にはよくモテたんだよ。といっても、相手はスナックや飲み屋の女の子たちだけどね。酒は好きだったよ。あのころはよく働いて、よく酒を飲んで、よく遊んだ。俺の人生のなかで一番よかったときじゃないのかな。
 ただ、そのクレーンメーカーは、3年でクビになる。理由はケンカ。街の与太者に絡まれて、カッとなって相手を殴り倒してしまったんだ。警察沙汰にはならなかったけど、会社にバレてしまいクビになった。
 それで信州に帰って、長野市の職業訓練所へ通って、左官の職業訓練を受けて左官になった。オレは住宅建築を主にやる左官で、はじめのうちこそ忙しいくらいに仕事はあったが、徐々に塗り壁を使う住宅が少なくなっていって、プレハブ式の住宅に変わってしまった。あれは工場で製作した部材を、現場に運び込んで組み立てるだけだからね。左官は必要なくなってしまったんだ。
 長野にいても仕事はないし、30代の後半にまた東京に出て来た。仕事はブロック塀の製作が主だった。ブロック積みは左官の仕事なんだ。しかし、その仕事もだんだん減ってきたんで、左官に見切りをつけて、工務店に就職して土木作業員になった。だが、それもバブル経済が崩壊するまでのことだった。あとは路上に野宿するしかなかった。10年くらい前のことだ。
 以前からキレやすい性格ではあったけど、ホームレスをするようになって、性格が荒んだのか、傷害事件だけでも5回も起こしてムショ暮らしをしているんだからね。
 いまはね。早く65歳にならないかと思って待っているんだ。65歳になれば生活保護が無条件で受けられるからね。生活保護の待遇は横浜がいいっていう話だから、65歳になったら横浜に行くつもりでいるよ。あと2年もあるけどな……。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年3月12日 (木)

ホームレス自らを語る 第25回 このままポックリ死ねたら/松本安隆さん(63歳)

 子どものころのオレは、みんなの先頭に立って走り回るような腕白少年だった。
 ただ、普段は元気なのに、時々吐き気に襲われて吐いたり、顔面が蒼白というか紫色になったりすることがあった。そういうときは食欲も落ちてね。
 親は心配して有名な大病院や大学病院へ連れていって、検査や診察を受けさせてくれたが、どこの病院でも原因や病名は特定できなかった。それでよく嘔吐をするから、胃腸が弱いんだろうということになった。
 オレが生れたのは、昭和18(1943)年、長野県の松代という町(いまの長野市)だった。松代は終戦直前に大本営が移ってくる予定で、地下壕が迷路のように掘られていて、戦後のオレたち子どもには格好の遊び場だったね。壕はいまでもまだあるはずだよ。
 家は農家で養蚕を主に、あと稲作と畑作を少しばかりやっていた。養蚕は一家総出の仕事で、小学生になれば蚕に桑の葉のエサやり、中学生になればその桑の葉摘みが仕事だった。
 中学を卒業して集団就職で東京に出て来た。相変わらず、突然意味不明の吐き気に襲われる体質は直ってなかったから、肉体労働は無理だということで、板橋にあった双眼鏡をつくる町工場に就職した。
 その工場には3年ほどいて、次は品川のペトリカメラの下請け工場でフィルムの巻上げ機構の製造で働き、さらに8ミリ映画の撮影カメラのメーカーでズームレンズの組み立てで働いた。どの工場も3年以上続いたところはなかったな。
 どこでも人間関係がうまくいかなくて辞めてしまう。上の人間からちょっと注意されたり、性格の合わない同僚がいたりすると、すぐにプイと辞めてしまうんだ。
 そのあとは中野駅前(中野区)の立ち食いソバ屋で働くんだが、このとき例の病気が重くなって倒れた。それで都内の有名な病院をいくつも回って検査してもらったんだが、相変わらず原因はわからないでいた。それがある日近所の町医者に診てもらったら、その医者は触診だけで「これは先天的な肝臓障害で、現代医学では直せない」と言い当てたんだ。
 25年間、現代最新医学の検査機器で検査してわからなかった病気が、町医者がオレの腹に手で触れただけでピタリと言い当てたんだからね。大病院の最新医学っていうのも、あまりあてにならない気がしたね。

 それで都内の大きな病院を紹介されて、手術を受け、長野の上山田温泉にある病院に1年間入院してリハビリをして退院した。そうだ、手術の跡を見せてやろう。
(松本さんは胸部中央から腹部にかけて、引きつったように残る手術跡を見せてくれた)
 大手術を受けて、1年間もリハビリにかけたけど、結局は完治してないんだよ。時々、腹がパンパンに張って立っていられなくなって、横になって休むしかないようになる。そんなだから結婚どころではなくて、ずっと独身だった。
 それでも、食わなくちゃならんし働いたよ。例の立ち食いソバの店に復帰して働くようになった。いつか自分の店をもつことが夢でね。自分が店のオーナーになれば、病気の身体をいたわりながら働けるだろう。そう考えたんだ。
 ところが、都内の駅前で立ち食いソバ屋を開店するのに、3000万円もの資金が必要なことがわかった。病気を抱えたこの身体で働いて、3000万円も蓄めるなんて容易なことじゃない。というより、ぜったいに不可能だ。それで立ち食いソバ屋の夢は諦めた。
 その次が倉庫内軽作業というのに替わった。そこはレコード会社の倉庫で、全国のレコード店の注文に合わせてレコードを梱包して発送するのが仕事だった。ホントに軽作業で、オレの身体にはちょうどいい仕事だった。だが、2年しか働けなかった。
 倉庫内の軽作業というのは女性の仕事なんだ。そこで働いているのは、パートの主婦ばかりでね。そんなところに男のオレが一人交じって働いていると、30代の働き盛りの男が、なぜこんなところにいるんだという目で見られるからね。それが辛くてやめた。39歳か、40歳のころのことだ。
 あとは新宿に出て野宿をするしかなかった。そうしたらすぐに手配師に声をかけられて、日雇いの土工の仕事を紹介された。だけど、この身体で土工のような肉体労働が勤まるわけがないよね。2日ともたなかった。
 あとはずっとホームレス生活。だから、20年以上この生活をつづけていることになる。うん、ずっと新宿で暮らしている。ここはボランティア活動が充実していて、食いものを探す心配がないからね。
 ただ、自分で食べたいものがあっても、注文を聞いてもらえるわけじゃないからね。20年以上あてがい扶持のものばかりを食べ続けるというのも大変なことだよ(笑)。
 オレの場合は病気の問題もあったけど、田舎者だから都会人のように要領よく動き回ることができなかったから、どの道ホームレスになっていた気もするね。
 いまも身体の調子はよくない。医療保護の制度を使って、病院に入ろうと思えば入れるんだけどね。でも、いまさら入ろうとは思わない。辛い手術やリハビリは、もうコリゴリだからね。いまはポックリと死ねないかと思って、そのときの来るのを待っているんだ。
 自殺をする勇気はないし、自殺をするのはみっともないような気もするしね。それに田舎にいる兄弟たちに迷惑がかかったら悪いだろう。だから、ある晩寝ているうちにポックリ逝ければ、一番いいんだけどね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年3月 2日 (月)

●ホームレス自らを語る 第23回 ずっと臨時工でした(前編)/道上尭志(みちがみ・たかし)さん(77歳)

0903  昭和7(1932)年に広島県の呉市で生まれました。私は末っ子で、上に兄と姉がいます。父は海軍大尉をしていて、私が幼かった頃は父の転属がたびたびあり、呉と横須賀(神奈川県)を一家で幾度か往復していました。そのうちに呉のほうに落ち着いたようです。
 太平洋戦争が始まると、呉は軍港の街でしたから、米軍の空襲を幾度も受けました。いや、防空壕なんかに逃げ込みません。外に出て空襲の様子を見ていましたよ。怖いことはありません。私は病弱な兄に代わって、将来は父の跡を継いで海軍に志願するつもりでいましたからね。一端の軍国少年でしたから、「いまにみておれ、この仇はきっと討つ」くらいの気概で爆撃機を睨み返していましたよ。
 そんなことをしていたから、機銃掃射を受けたこともあります。これだって怖くはありません。敵機をグッと引きつけておいてから、左右どちらかに思い切って走って逃げればいい。どんなに敏捷な戦闘機でも、直角に曲がって追撃してくることはありませんからね。
 子どもの頃の私は軍国少年でしたが、どちらかといえばおとなしいほうで、ガキ大将ではなかったですね。勉強では地理に歴史、それに算数が得意でした。ただ、高等小学校に入った頃から、農家の手伝いや防空壕掘りに駆り出されて、学校で勉強した記憶はほとんどないですね。

 昭和20(1945)年6月に、父が海外へ派兵になります。あと2ヵ月待てば終戦でしたけどね。派兵先はフィリピンのマニラ。当然というか、父は還ってきませんでした。ただ、父の最期については、よくわかっていません。
 のちに父の部下だったという人から聞いた話ですが、部隊は無事マニラに上陸したものの、父は病に冒されて病院に入院してしまったようです。戦況の逼迫していた折から、傷病兵には一人ずつに手榴弾が渡され、「いざというときには、自らで処置するように」という命令が出ていたようです。ですから、父はそのまま病が嵩じて戦病死したのか、終戦を迎えて手榴弾で自爆死したのか不明のままなのです。
 だいぶあとになってから、公報が送られてきましたが、そこには「戦病死」とだけ書かかれているだけで、病名は書いてありませんでした。いっしょに骨箱も送られてきましたが、ひと掴みの遺灰らしいものが入っていただけで、遺骨は入っていませんでした。

 それからの戦後の母の苦労は並大抵ではなかったですね。それまで海軍高級将校の妻として、生活の苦労を知らなかった母が、3人もの子を抱えて一家の主として働かなければならなくなりましたからね。しかも、兄と姉が結核を患っていて、その入院費用も稼ぎ出さなければならなかったから、本当に大変だったと思います。
 母は道路工事などのニコヨン仕事に出て、朝から晩まで真っ黒になって働いていました。子ども心にも、そんな母を見るのは辛かったし、かわいそうでならなかったですね。

 私は昭和20年の終戦の年に高等小学校2年生を修了して卒業し、翌21年に広島市にあった三菱造船に就職します。天下の三菱造船といっても、当時は漁船の建造が中心でした。私が担当したのは、トロール船用の焼玉エンジンを組立てる作業です。
 ところが、入社して3年目の昭和24(1949)年に大不景気が襲い、官民で大幅な人員整理、クビ切りですね、クビ切りが行われたんです。この年は下山・三鷹・松川の国鉄(いまのJR)三大事件が起こったりして、国中が騒然として落ち着かない年でしたね。三菱造船でも希望退職者が募られ、私もつい退職一時金に惹かれて、手を挙げてしまいました。考えてみると、私の人生で正社員として雇用されていたのは、この三菱造船勤務時代だけでした。以後、いくつも職を替えますが、どこも臨時採用ばかりですからね。あとになって、一時金に目が眩んで三菱を辞めたことを、ずいぶん後悔しましたよ。
 それで最初にやったのが、呉港での沖仲仕です。沖仲仕というのは艀(はしけ)に積荷を載せて、沖待ちしている貨物船まで行って積み込む港湾労働者のことをいいます。このとき扱っていた積荷は米軍の砲弾でした。その頃、中国大陸では人民解放軍と国民党政府軍が衝突して、内戦状態になっていました。
 米軍は国民党政府軍を支援していて、盛んに武器、弾薬を送り込んでいたんです。呉からも砲弾が送られていました。いや、作業が危険ということはありません。信管は抜かれていましたからね。
 中国での内戦はその年のうちに終結してしまい、砲弾積み込みの仕事はすぐになくなってしまいました。ただ、沖仲仕の親方が、私の働きぶりを認めてくれて、引き続き仕事をまわしてくれたんです。こんどはアメリカの貨物船が運んでくる米や塩、それに屑鉄などを本船から艀に積み替えて埠頭まで運ぶのが仕事でした。荷物の積み下ろしには、まだモッコが使われていた時代ですからね。
 沖仲仕の仕事は2年程やって、次の仕事に替わりました。替わった理由ですか? 私たちは臨時雇いの沖仲仕ですからね。仕事がなくなったり、会社の経営が思わしくなくなると、クビを切られる運命でした。しょせん、景気の好調、不調における調整弁ですからね。非正規雇用労働者の役割は、いまも昔も変わりませんよ。
 沖仲仕の次に働いたのが、進駐軍の基地です。進駐軍というと米軍が多かったですが、呉には英国軍が駐留していまして、その基地で働きました。もちろん、これも臨時雇いですけどね。(この項つづく)(聞き手:神戸幸夫)

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2009年2月12日 (木)

ホームレス自らを語る 第22回 波乱の人生だった(前編)/千葉の健さん(62歳)

 オレの人生は結構波乱に富んでるから、話すと長くなるよ。それでもいいかい?
 生れは昭和19年で、九州は福岡博多の産。博多といえばヤクザの本場で、オレのオヤジもご多分に漏れずヤクザだった。
 オレが物心ついたころに、兄貴と2人で東京・港区にあったのオフクロの実家に預けられる。ヤクザの家というのは、四六時中、若い衆が出入りして子どもの教育によくないと、オフクロが考えたんじゃないかな。考え方のしっかりした立派なオフクロだったからね。
 そのオフクロも何年かして東京へ出て来て、オレたちといっしょに住むようになった。ヤクザのオヤジとは別れてきたんじゃないかな。その辺の事情は子どもだったから、よくわかないけどね。
 オレは地元の小・中学校を出てから蔵前工業高校に進んだが、すぐに中退した。貧乏で学費が続かなかったんだ。オフクロの実家にいつまでも、世話になっていられないだろう。いま東京タワーが建っているあたりは、その頃は戦後のバラック造りの長屋が並んでいて、そこに引っ越して暮らしていたんだ。戦後の食糧難のうえに、母子家庭で貧乏だったからひもじい生活だったね。
 高校を中退して芝(港区)にあった自動車のクラッチをつくる町工場に就職した。毎日毎日油まみれになって、部品をつくる単調な仕事でね。オレの性分には合わない仕事だったけど5年間続いたよ。
 そのうちにオフクロが解体業を営む社長の愛人になって、そのツテでオレも解体業に鞍替えして働くようになる。古いビルを解体する仕事が多かったね。10年くらいやったのかな。
 この間に女ができて、はじめ同棲し、それから結婚した。彼女は洋服のデザインから縫製、売り子まで一人でやってた子で、いい女だったよ。新居は円山町(渋谷区)のアパートで、子どもは女の子が一人できた。
 ただ、オレとカミさんの干支が申と酉で、性格から考え方までことごとく正反対なんだ。性格の不一致というやつだね。それで別れることになった。慰謝料はなし。その代わりに、子どもはオレが引き取った。うん。ちゃんと育てて嫁にやったよ。いまは幸せに暮らしているはずだ。
 オレみたいなコブつきはダメというわけさ
 離婚して、解体屋のほうもやめた。じつはその頃心臓弁膜症を患って、肉体労働はできないようになっていてね。それで新しい仕事を探しながらブラブラしていたとき、毎日のように通っていた喫茶店があったんだ。
 その店は昼時には混雑するのにランチを出していなくて、オレがランチを出せば儲かることを教えてやったんだ。すると、女主人が「ランチは出したいのだけど、うちには男手がなくて」と言うから「じゃあ、オレが手伝ってやろう」ということになった。
 オレがつくるランチは評判がよくて、一日平均で60食も出た。ただ、昼の一時にそれだけのランチをつくるのは、病みあがりのオレにはこたえたね。その分、儲かったけどね。それに喫茶店だけじゃもったいないと、夜はスナックにして稼いだ。
 その店の女性オーナーというのは、まだ20代の独身で大久保(新宿区)のアパートに住んでいたから、娘といっしょに転がり込んで同棲することになった。
 ところが、数年してその喫茶店がテナントで入っていた貸ビルが倒産してね。店を畳むことになる。そのころのオレには不動産貸借に関する法律的知識がなかったから、相手の言いなりで雀の涙のような解決金で手を打ってしまった。営業権を盾に粘れば、いくらでもむしり取れたんだけどね。
 それで女とは別れた。女の母親がきて、彼女ら親子も母子家庭で、娘はちゃんとしたかたちで嫁に出したいから、別れてくれと泣きつかれてね。つまり、オレみたいなコブつきの男はダメだというわけさ。それで別れた。
 ときにオレは28歳。そこからオレの波乱に満ちた人生が始まる。
 まず、最初に就職したのが貸金業。いわゆる町金融(マチキン)だ。募集広告には「根性のあるヤツ」とあって、面接で聞かれたのは「ケンカは強いか?」だけ、「強いです」と答えたら即採用になった。仕事は社長の運転手兼カバン持ちからやらされた。
 社長の車はサンダーバードで、アメ車の左ハンドル。そんなのを運転するのははじめてだろう。最初は怖かったよ。ただ、当時、大型のアメ車に乗っているのはヤクザと決まっていたし、ちょっとでも擦ったりすると修理代がバカ高かったからね。少々乱暴な運転をしても、周りの車のほうが避けてくれたから事故は起きなかったよ。
 社長の運転手兼カバン持ちで常にいっしょにいるわけだから、貸金業のノーハウを覚えた。カネを貸付けた債務者との駆け引き、他の同業者や登記所、金融機関とのつき合い方とかだよね。それに暇なときは法律書を読んで、金銭貸与や不動産など担保物件の扱いについての勉強を懸命にした。
 そのうちに支店をまかされて、支店長に抜擢された。支店長になったからといって、デスクにふんぞり返ってはいられないからね。町金融はヤクザの組織と同じで、支店ごとに本社に納める金額のノルマが決められている。上納金だよね。そのノルマが達成できないと、土下座して謝らなくちゃならない。それが幾日も続くと支店長を降格させられる。だから、町金融の取りたては厳しくなるわけさ。
 その後、オレは33歳で独立して、町金融の会社を興した。やるんなら社長になって、天下を取らなくちゃ意味がないからね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年2月 5日 (木)

ホームレス自らを語る 第21回 ここは子どもの頃の遊び場だった/Cさん(72歳)

 オレが生れたのは、この先の豊島区だったから、いまいるこの辺りは(北区・音無親水公園)子どもの頃の遊び場だったんだ。都電の通りを挟んで向こうに飛鳥山公園があって、こっちには石神井川(いまの親水公園辺り)が流れ、王子稲荷もあって、遊び場には事欠かなかったからね。
 いまそこでホームレスをしているわけさ。もう10年にもなるよ。
 生れは昭和9年。豊島区立豊川国民学校に入学して、小学3年のときに学童集団疎開で前橋市(群馬県)に疎開した。お寺に寝泊りしながら、地元の小学校に通ったんだ。
 ホームシックになんかなっている暇はなかったね。食糧不足がひどくて、飯はスイトンか中身のない雑炊ばかりでさ。年がら年中腹を空かせていて、ひもじくてホームシックどころじゃなかったよ。
 あんまり腹が空くんで、夜仲間と畑に野菜泥棒に行ったこともある。サツマイモが一番美味かったね。あれは生で食べても甘いし、腹にたまるからね。
 それから軍隊の乾パンを盗みに入ったこともある。疎開先で通っていた小学校の空き教室に、陸軍の部隊が駐屯していて、仲間とその食科庫に忍び込んで、乾パンを盗み出そうとしたのさ。そしたら不寝番の兵隊に見つかって、こっぴどく脂を搾られたよ。
 ただ、その不寝番の兵隊は、事件を表沙汰にしないでくれた。小学3年生のチビッ子たちが、軍隊の食料庫に忍び込むなんて、よほどひもじかったということだからね。同情してくれたんだろう。そういうやさしい兵隊さんもいたんだ。
 学童疎開に行って、1年ちょっとで終戦になって、東京に帰ってきた。その東京の大部分が焼け野原になっていたんでびっくりしたよ。東京大空襲のことは知らされていなかったからね。オレの家も焼けていた。ただ、両親はじめ家族は全員無事だった。オヤジが大手の化学メーカーで働いていたから、その関係か住居は周りより早く再建できた気がする。
 オレは中学を出て、塗装業の親方のもとに弟子入りした。まあ、ペンキ屋だね。ところが、朝鮮戦争の始まる前の年で、大不況の真っ只中で仕事がなくてね。弟子入りして、1年もしないうち倒産というか、解散になって放っぽり出されちまった。
 それからはいろいろやったよ。靴屋の店員からはじまって、木工所とか、印刷工場とか、30くらいの仕事に就いたんじゃないかな。そのうちに電気工事の会社で配電工になった。新築のビルに電線ケーブルを敷設するのが仕事で、この仕事だけは何年か長くつづいたよ。
 結婚はしなかった。面倒臭かったということもあるけど、配電工は各地の工事現場を渡り歩いて飯場暮らしをする稼業だろう。女の人と知り合うチャンスがなかったからね。
 稼いだカネは酒とギャンブルに消えちまったね。毎日仕事が終わると、仲間と誘い合って飯場の近くのスナックに繰り出して、浴びるように飲んだからね。スナックで飲むと割高なんだが、みんなが行くのにオレ一人だけ安い居酒屋で飲むってわけにはいかないからね。
 キャンブルは競艇が多かった。たまに当たって取ることもあったが、トータルすると大損してるよね。これも仲間に誘われて行くことが多かったけど、オレ自身が酒もギャンブルも嫌いじゃなかったからね。
 配電工の仕事ではあちこちの現場に行ったよ。どこの町だったが忘れたが、北のほうの原子力発電所のケーブル敷設をしたこともあるし、上野の博物館の工事をしたこともある。ところが、その電気会社の社長が病気で亡くなってしまってね。あとを継ぐのがいなくて倒産だ。
 それで路頭に迷うことになって、この親水公園に来て暮らすようになった。この辺は子どもの頃の遊び場で、周りの様子をよく知っているからね。ただ、ここにいるホームレスはオレも含めて4人だけだから、ボランティアなどの援助がないから、食べるものを確保するのが大変だね。
 仲間たちと協力して分けあったり、上野の炊き出しに行ったりして、何とか食べている。
 じつは、オレの姉が千葉に嫁に行っていて、もうダンナも亡くなり、甥も、姪も独立して、一人で暮らしているからいっしょに住まないかと誘われているんだ。だけど、この歳になっておめおめと世話になるために寄せてもらうのも、辛いものがあるからな。なかなか踏ん切りがつかないんだ。姉に迷惑をかけたくないからね。そんなくらいならいまのままのほうが、面倒臭くなくていいやと思っちゃうんだね。
 現金収入は以前はダフ屋の依頼で、巨人戦なんかの前売りチケット購入の列に並ぶ「並び」というバイトがあったが、警察がやかましくなったのと、肝心の巨人戦の人気がなくなってチケットが売れなくなったからね。このバイトもいまはなくなっちまったね。
 いまはこの先の商店街のオヤジさんたちの幾人かにたのまれて、競馬の馬券を水道橋の場外馬券売り場まで買いに行ってやっている。バイトじゃあないよ。その日全員が赤字だと、オレもただ働きになる。誰かが穴でも取って黒字になると、そのうちから謝礼がもらえるという仕組みだ。だから、あまりいい収入にはなってないね(笑)。
 この歳だから、生活保護を受けられるんだ。以前、実際に受けたこともある。だけど、狭いアパートに幾人も押し込められて、早々に逃げ出してきた。こうやって勝手知ったところで、気ままにやっているほうがいいよ。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年2月 2日 (月)

●ホームレス自らを語る 第20回 母子家庭で育った/T.Gさん(62歳)

0902  私が生まれたのは昭和22(1947)年1月で、静岡県の沼津市でした。今年62歳です。私が生まれて間もなく、父親が胃ガンで亡くなり、私は母一人、子一人の母子家庭で育ちました。ですから、父親の顔は知りません。
 まだ終戦後の混乱が収まらない時期に、女手一つで私を育てあげた母親の苦労は、並大抵ではなかったようです。朝は暗いうちから出かけて行って、漁港の水揚げや魚市場の仕事を手伝い、それから水産加工工場で働き、そのあと家に帰って畑仕事をするという具合で、夜暗くなるまで働いていました。
 母親がそれだけ働いても、生活は貧しかったですね。ただね。どんなにカネがなくて苦しいときでも、生活保護を受けたことはないし、私が小中学校に通う費用の補助を受けたこともありません。それに私に新聞配達や牛乳配達をやって、家計を助けてくれと言ってきたこともありません。母親のプライドというか、意地だったんでしょうね。その代わり、贅沢なことは何一つできませんでした。
 私は中学を卒業して、沼津市内の工場に就職しました。東京へ出たいとも思いましたが、母親を一人で残して、私だけ沼津を離れるわけにもいきませんでしたからね。私が就職したのは音響メーカーT社の下請工場で、T社ブランドのテレコ用カセットテープを専門につくっていました。
 こんなふうに言うと、小奇麗でスマートな工場を想像されるかもしれませんが、小汚い町工場で、従業員も社長の家族3人を含めて全部で11人でした。給料も休業した日数分の日当を引かれる日給月給という制度で、社会、健康、失業(雇用)、労災などの保険は一切なしです。工場というより、家内工業というか、個人商店のようなものでしたね。
 私の仕事はカセットのカバーケースの組立てで、金型で成形されたプラスチックの箱と蓋を組立てるというものでした。それを40年近くずっとやってきたんです。

 私が働くようになって、家の暮し向きも多少は余裕ができたとは思いますが、貧乏暮らしは相変わらずでした。とにかく、私がもらってくる給科は、とんでもなく安かったですからね。経済的に余裕のない毎日で、母親を温泉旅行に連れていくとか、親孝行らしいことは何一つやってやれませんでした。
 結婚もしなかったです。私には女房と子どもを養っていく甲斐性がありませんでした。それに生まれてくる子どもに、私と同じみじめな思いはさせたくないという気持ちもありました。同じ工場で働いていた男の従業員には、結婚していない人が多かったですよ。あの安い給料で家庭をもつのは無理でしたね。
 1990年代後半になって、カセットテープの需要が落ち込むようになります。別の録音素材で、しかも高音質なものが続々と発売されるようになったからです。その需要の落ち込みを理由にして、T社からの発注がスットプされてしまいました。おそらく、国内下請けより人件費の安い、中国や東南アジアのほうに発注先を代えたんでしょうね。
 で、うちの工場はT社1社だけの受注でやっていましたから、その発注がストップになるとお手上げです。倒産というか、解散というか、奇妙なかたちで工場の操業は中止になってしまいました。私ら従業員も補償らしいものもなく解雇されました。ちょうど10年前、私が52歳のときのことですね。
 工場の閉鎖と時を同じくするようにして、母親が亡くなりました。脳内出血を起こし、身体を痙攣させながら崩れるように倒れて、あっけなく息を引き取ってしまったんです。脳卒中でした。76か、77歳だったと思います。
 人生何一ついいことがなくて、ただ苦労するために生きてきたような母親でした。親孝行らしいことを何もしてないうちに逝かれちゃって……といっても、母親が長生きをしても、私が親孝行らしいことを何かしてあげられたのかは疑問ですけどね。
 それからは母親のいなくなった家に一人で住みながら、日雇いの仕事で働きました。その頃の私は、もう50歳を超えていましたから、沼津のような田舎でも、仕事はなかなか回してもらえなくて生活はカツカツでした。食べるものが何もないなんて日もありました。
 60歳をすぎたら、なおさら仕事は少なくなって、とても食べていかれなくなりました。それで、東京に出れば、少しは仕事もあるだろうと思って、去年の夏にノコノコと出てきたんです。でも、事情は東京も同じでした。60をすぎた者が仕事にありつこうなんて無理な話でした。東京に出てきて6ヵ月になりますが、まだ一日も働いていません。
 暮から正月にかけて、日比谷公園(千代田区)に「派遣村」ができたでしょう。我々ホームレスも、彼ら派遣社員の雇い止めも、同じ仕事あぶれ組なのに、派遣村のほうはマスコミの報道がすごいし、市民からのカンパも多いらしいですよね。NPOや国の保護も手厚くて、夜は暖かい部屋でフカフカの布団に寝られるんですからね。
 私ら寒い冬空の下で、うっかり眠ったら凍え死んでしまうから、一晩中歩き回っているんですよ。今年の冬は特に寒くて、夜の冷え込み方は半端じゃありません。そのなかを宛てもなく、ただひたすら歩き回っているんですからね。私たちだって仕事がほしいし、働きたいですよ。
 派遣の人たちのことを、妬んで言ってるんじゃありませんよ。彼らが手厚く保護されるのは、それはそれで大変結構なことですからね。ただ、我々ホームレスも厳しい状態で暮らしていることを、忘れないでほしいと思いましてね。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年1月11日 (日)

ホームレス自らを語る 第19回 車いすに乗ったホームレス/林さん(仮名・61歳)

(林さんは脳梗塞の後遺症で半身不随になり、車いすで路上生活をしている)
 オレが48歳のときの、冬の寒い晩のことだった。銭湯から外に出て冷気にあたったとき、ちょっと立ち眩みのようになって、気分もムカムカしたんだ。いま思えば、あれが前兆だったんだが、すぐに直ってしまったから、そのままにしてしまってね。
 その翌日、当時働いていた赤羽(東京・北区)の製本工場で、仕事中に倒れた。すぐに救急車が呼ばれて病院に運ばれ、集中治療室で治療を受けた。病名は脳梗塞。一命は取りとめたが、左半身に麻痺が残った。
 その病院に3ヵ月入院して、それからリハビリ専門の病院に移り、懸命のリハビリをして、杖を使えば何とか自力歩行ができるまでに回復した。
 それで退院したんだが、杖を使ってやっと歩ける状態では、仕事に復帰するわけにもいかないしね。で、田舎の実家をたよって帰ることにしたんだ。オレの田舎は群馬の高崎で、実家は雑貨商と水道工事店を営んでいた。実はオレはオヤジから勘当されていた身でね。
 6年ぶりに帰ったオレを見て、「そんな身体になって、なんでおめおめと帰ってくるんだ」そうオヤジはなじって、オレの背中をドーンと突き飛ばした。オレは道路に倒れ込んで、したたかに左半身を打ち据えた。それでオレの左半身はまったく動かなくなってしまった。本当に血も涙もないオヤジなんだよ。
 また、東京に戻って、前から借りていたアパートの部屋に入って、それから1年間籠りきりになって部屋から1歩も出なかった。こんな身体になった人生や、そんなオレを助けようとしない親兄弟に絶望したんだね。
 生活費はアパートのあった練馬区の福祉から生活保護を受け、食事や洗濯など身の回りのことは、製本工場で働いていたころの同僚が隣の部屋に住んでいて、その彼が面倒みてくれた。いまでも彼には感謝の気持ちでいっぱいだよ。
 1年して練馬区内のバリアフリーのアパートに空きができて、そちらに移った。こんどは手助けをしてくれる人はないから、車いすに乗って全部一人でやらなければならないから大変だった。食事も自炊でね。といっても、出来合いの惣菜を買ってくることが多かったけどね。そのアパートでは5年間暮らしたのかな。

 オレが生まれたのは昭和21年で、群馬県の高崎市。5人兄弟の長男。家はそのころから雑貨商と水道工事店を営んでいた。
 オレは中学校を卒業して、自動車エンジンを製造する地元の工場で働きながら、定時制の工業高校に通った。だけど、元々工業系は好きじゃなかったから、仕事も学校も面白くなくてね。1年で両方ともやめてしまった。そのあたりからオヤジとの関係が、ギクシャクするようになったんだな。
 それで東京に出てスナックで働くようになる。ただ、オレは長男だったから、オヤジはオレに店を継がせる気だったんだろうな。高崎に呼び戻されて、家業を手伝わされた。
 ところが、オヤジとオレはまったく反りが合わなくてね。ことごとくに反発し合うんだ。オヤジは頑固一徹で厳しいだけだし、オレのほうはチャランポランで店の仕事をサボってはギャンブルに行ったり、夜毎酒を飲み歩いたりでね。
 そのうちに馴染みのスナックのホステスのアパートに転がり込んで同棲を始めて、籍まで入れてしまったりね。そんなことが2度あったんだな。それでオヤジもいくら長男でも、こんな息子に店は譲れないと思ったんだろう。オレは勘当を言い渡されたんだ。42歳のときだった。

 勘当されたのに高崎に住んでいるのは具合が悪いからさ、それで東京に出てきた。はじめのうちしばらくは土木の日雇い作業員をして、そのうちに赤羽の製本工場に雇われて、そこで働くようになった。といっても、日払いの仕事だから日雇いとあまり変らなかったけどね。
 その製本工場で働いていたとき、脳梗塞で倒れ半身不随になって、車いすの生活を余儀なくされたわけだ。
 例の練馬区の福祉から斡旋されたバリアフリーのアパートで暮らしていたとき、猫を飼ったんだ。オレは動物が好きだし、一人暮らしの退屈を慰めるためと思ってね。ところが、そのアパートはペットの飼育が禁止で、猫のことが大家にバレて有無をいわさずに追い出されてしまった。
 それで困って練馬区の福祉に相談に行ったら、茨城県の施設を紹介してくれて、そこに入った。でも、そこは認知症(痴呆症)老人の介護施設だった。オレ以外の入所者は、全員が認知症老人ばかりなんだからね。気持ちが悪いといったらなかったよ。
 多分、オレが契約違反の猫を飼ったりしたから、福祉の担当者が腹をたてて、わざとそんな施設に送り込んだのだろう。嫌がらせさ。 
 とにかくそんな施設では暮らせないから、早々に逃げ出してこの(新宿中央)公園で暮らすようになったんだ。3年前のことだよ。
 車いすでの公園暮らしは大変だけど、仲間のみんなが食事や寝るところの面倒をみてくれるんで助かっている。酒も飲ませてもらえるしね。
 この公園に移ってから、新宿区の福祉に施設への入所を希望していたんだ。それがようやく山谷にあるバリアフリーのアパートに、空きができそうだという情報でね。公園での野宿も、あと少しで終わりになるかもしれないんだ。
(聞き手:神戸幸夫)

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2009年1月 8日 (木)

ホームレス自らを語る 第18回 私は神である/岡田信彦さん(53歳)

 生まれは広島県の呉市。昭和29年生まれだから、今年53歳になる。呉は昔から軍港として栄えた町で、海軍工廠もあった。戦艦「大和」もここで建造されたんだ。
 オレは5人兄弟の末っ子。オヤジは漁船員をしていた。漁に出た日は毎日魚を土産に持って帰ってきてね。瀬戸内海の魚は、どれも活きがよくてうまかった。タイ、タコ、イカ、ハモ、フグとかね。ホントにうまい魚ばかりだった。
 小学2年生のとき、一人で花火遊びをしてたら、その火が近所の民家に燃え移って火事になってね。その家は丸焼けになってしまい、オヤジからドえらい剣幕で叱られて、そのまま施設に預けられた。
 うーん、何の施設かよくわからんが、小学1年生から中学3年生までの子が全寮制で生活していて、たしか「広島学園」とかいったと思う。オレも学園には中学3年までいて、それから福岡の牧場に雇われて働いた。
 その牧場は乳牛を150頭も飼育していて、作業が重労働で大変なんだ。朝は3時起床で、150頭からの牛に餌をやって、それから搾乳だ。まだ搾乳器なんてない時代だから、1頭1頭手搾りだからね。それがすむと牛糞の片付け、餌の草刈り、冬の餌用の干草づくりと休む暇なしさ。とてもやってられないと思って、そこは7ヵ月くらいで逃げ出していた。
 それから呉に戻って、左官の親方のところに弟子入りして見習いになった。左官の仕事にも肉体労働はあるけど、牧場の仕事に比べれば天国のようだった。ただ、どういうわけか、いつまでたっても見習いのままでね。3年も辛抱したけど見習いのままで、ちっとも上にあがれないんだ。それで左官の仕事に見切りをつけて、東京に出てきた。
 東京に出てきて、いきなり自衛隊のスカウトマンに声をかけられてね。オレも仕事を探していたときだから、渡りに船でそのまま自衛隊に入隊した。
 横須賀の基地で3ヵ月間の新人訓練を受けてから、北部方面隊(北海道)の名寄の駐屯地に配属になった。機関銃部隊に入って、機関銃の射撃訓練に明け暮れる毎日だった。冬になると機関銃を担いで、スキーで移動する訓練もあった。だから、スキーは上手なもんだよ。
 自衛隊には3年間の満期除隊になるまでいて辞めた。除隊のとき階級は陸士長だったから、旧陸軍でいえば上等兵になるのかな。
 自衛隊を除隊して東京に出てきた。あとはお決まりの建設工事の日雇い作業員になった。飯場から飯場を渡り歩く生活だ。
 その日雇い作業員をしていた5年前のことだ。道路を横断しているときに、車にハネられて大ケガを負った。右足を骨折して15針縫うケガで、病院に1ヵ月間入院した(岡田さんはいまもケロイド状に残る、ケガの跡を見せてくれた)。
 1ヵ月後に退院して病院を出されたんだが、右脚を引きずるようになっては、もう現場の肉体労働は無理だからね。それでここ(大田区六郷橋下)に来て暮らすようになった。ホームレスになったわけだ。
 生活は見ての通り、アルミ缶拾いをやっている(取材中、岡田さんはアルミ缶とスチール缶の選り分けに余念がなかった)。アルミ缶はいま1㎏180円くらいで引き取ってもらえるから、1日の稼ぎとしては1500~1600円くらいになるのかな。贅沢はできないけど、食べるのには困らないね。
 それにしても、アルミ缶は拾っても拾っても尽きることがないからね。ありがたいというか、不思議なもんだ。
(このあたりから、岡田さんの言動が少しおかしくなっていく)
 毛利元就を知っているかい? そう、戦国時代の武将で、オレの生まれた呉をはじめ中国地方10ヵ国に、伊予から豊前までを治めた逸材だ。3人の息子を前にして、1本の弓矢では脆くて折れてしまうが、3本で結束すれば折れないという教訓を残したことは、よく知られているだろう。
 実はオレはその毛利元就の末裔なんだ。ウソじゃないよ。いまはこんな生活をしているから、それを証明するものは持ってないんだがホントのことだ。
 それとね。平成天皇である明仁陛下は、オレの兄なんだ。つまり、オレは今上天皇と血を分けた兄弟である。だから、皇太子の浩宮親王は甥にあたる。
 毛利元就の末裔であって、今上天皇と兄弟であるオレは神である。
 こんなところでホームレスをしているのも、ある使命を帯びているからだ。その使命とは北海道から、九州、沖縄までの47都道府県に1ヵ所ずつ、ホームレスの保護センターを建設することなのだ。
 まだ1ヵ所もできていないが、1年半以内に47のセンターを建設しなければならないから、いま非常にいそがしい。
 1年半でできるのかって? できるさ。何しろオレは神だからね。このアルミ缶拾いも保護センター建設資金の一部にするためなんだ。いまの日本政府には建設資金を調達する能力がないから、それに代ってやれるのはオレしかない。
 それがすんだらどうするのか? 地球上には解決しなければならない問題が山積しているからね。神には休んでいる暇はないよ。
(途中まで、ごく普通に淡々と進められてきた取材だったが、突然「オレは神だ」と言い出したあたりから妙な展開になった。どうやら、岡田さんは心を少し病んでいるようである。)
(聞き手:神戸幸夫)

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2009年1月 5日 (月)

●ホームレス自らを語る 第17回 宗教研究で日々をすごした/松下定雄さん(仮名・58歳)

0901  昭和25(1950)年、岐阜県の農家の生まれです。ただ、兄弟が7人もいて、その5番目でしたから、中学校卒業と同時に名古屋の理容店に見習いで入りました。そこは名古屋駅前の大きな店でしたから、客の途切れることがなくて忙しいばかりで、とても理容の修業にならないので、四日市(三重県)の理容店に移ります。
 そこから理容学校に1年間通って、理容師の免許を取得して、その店で理容師として働くようになりました。それでいつかは私も独立して、自分の店を持つ夢をもっていたんです。ところが、理容店を始めるには相当な資金が必要で、私がもらっていた給料では、いつまでたっても店は持てないことがわかりました。それでその夢を諦めて、理容店はやめてしまいます。22歳のときのことです。
 それで東京に出てきました。東京ではホテルの清掃を専門にしている会社に就職しました。この会社には4年間いて、前半の2年間がホテルオークラの夜間清掃、後半の2年間はホテルニューオオタニの客室清掃を担当しました。
 それからビルの窓拭き作業員になりました。ゴンドラに乗って、ビルの窓や壁を清掃するアレです。危険を伴う作業ですから、ホテルの清掃作業より賃金がよくて移ったんだと思います。この仕事も2年間やりました。
 私ははじめ理容師になり、そのときは特に感じなかったんですが、ホテルの清掃やビルの窓拭きの仕事に就いて、人を相手にしない仕事がいかに楽であるかを知りました。客の話しに相槌を打ったり、お世辞を言わなくていいんですからね。客を相手にしない仕事こそ、私向きの仕事だと悟ったわけです。

 28歳のとき、さらに私向きの会社に巡り合います。S梱包という、いわゆる口入れ業をしている会社です。いまでいう日雇い派遣のような仕事の斡旋をしていて、日当は当日清算、つまり日払いしてくれる会社でした。当時、こんな会社はここしかなかったと思いますよ。
 ここで仕事の斡旋を受けたい人は、早朝からこの会社の前に行って並べばいい。並んでいる順番に仕事を割り振ってくれるんです。よほど遅れて並ばない限り、仕事にありつけました。仕事の内容は、ほとんどが一般家庭や企業の事務所の引っ越し作業でした。
 私の場合は毎月20日頃から月末まで連日通って働き、翌月の生活費とアパートの部屋代を稼ぎ出しました。
 で、月はじめから20日頃までは、何をしていたかというと、アパートの部屋に籠って読書三昧の日々をすごしていたんです。昔から読書が好きでしてね。ですから、月の3分の1だけ働いて、残りの3分の2を読書に充てるというサイクルは、私には極楽のようでした。そんな生活を15年間も続けたんです。
 読書のジャンルは人文科学系のものが多かったですね。お気に入りの著者は、渡部昇一、竹村健一、日下公人、梅原猛といった面々でした。
 実は、そうした著者の著作以上に貪り読んだのが宗教関係の著作で、特に日本の新興宗教に関する著作は片っ端から読み漁りました。S教団の全48巻からなる教義の全集はじめ、大半の教団の教義は読みました。ですから、各教団のパンフを見ただけで、その教団が欲得尽くの儲け主義でやっているのか、真摯な信仰を求めてやっているのか、すぐに見分けがつきます。
 そのなかで本物の宗教団体として、私が惹かれたのはO氏が主宰するK教団ですね。ここの教義や宗教活動は本物だと思います。信者に高学歴の人が多いのも、それを証明しています。私も入信しました。O氏は存命中で、いまから聖人として持ち上げるのは生臭いですが、亡くなれば偉大な宗教者として、人々の尊崇を集めるんじゃないかと思いますね。
 読書三昧に費やした本は、すべて自腹を切って購入しました。自分で買った本でないと、知識が身に付かないというのが持論です。図書館から借りた本には書き込みができないし、本というのは常に座右に置いて、必要なときにすぐに開いて見られるようになっていませんとね。
 結婚はしませんでした。結婚によって、せっかくの至福のサイクルが崩れるのが嫌だったんです。
 しかし、その至福のサイクルが崩れる日がやってきます。バブル経済の崩壊から2年ほどした93年のある日のことです。いつものようにS梱包の前に早朝から並んだのですが、半分以上の人が仕事にあぶれました。私もあぶれ組でした。いつの間にか平成不況に入っていたんですね。
 それからの状況は悪くなるばかりで、読書三昧、宗教研究どころではなくなっていき、アパートの部屋代も払えなくなっていました。アパートを追い出されても、すぐに路上で野宿する勇気はありませんからね。はじめのうちは深夜喫茶で夜を明かし、その金が尽きてくるとハンバーガーショップで明かし、いよいよ無一文になって路上に寝るようになりました。
 最初は新宿のビルとビルのあいだに、段ボールで箱を組立てて寝ていましたが、酔っ払いに箱を蹴られたり、上から潰されたりで、怖くておちおち寝ていられませんでしたね。それでこっち(代々木公園)に移ったんです。この公園には一般の人が夜間入ってくることがありませんから安心です。
 いまは読書をしたくても、買うカネを持っていませんからね。それに食べるものを確保するのが大変で、そんな時間もありません。

(聞き手:神戸幸夫)

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2008年12月11日 (木)

ホームレス自らを語る 第16回 東京大学経済学部卒です(後編)/大内信さん(86歳)

 私が東京帝国大学経済学部に入学したのは、昭和17(1942)年4月でした。そのころの大学生には徴兵猶予の措置がありましたが、翌昭和18年に文科系大学生の猶予が廃止になります。私も学徒出陣で駆り出されて、門司港内にあった船舶工兵隊に配属されました。
 通常、学徒出陣兵は将校に任命されるという不文律がありましたが、私だけは伍長からのスタートでした。どうもこの軍隊入営あたりから、私の人生は悪いほうに転がり出したような気してなりませんね。
 昭和20年8月6日に広島に原爆が投下され、その4日後に私は広島の街を歩いています。これは宇品にあった船舶指令所に公用があって行ったもので、広島―宇品間の鉄道が不通で片道約5キロほどの道程を徒歩で往復したのです。
 門司の隊に戻りつくと、急に身体のダルさを覚え、体温を測ると40度もありました。軍医の診断は「風邪だろう」ということでした。そのときは、広島に投下されたのが、原子爆弾だとはまだ誰も知らなかったのです。
 その後も、私はしばしば身体のダルさと、発熱に悩まされます。でも、それが原爆投下直後の広島の街を、徒歩で何時間も歩いたこととは結びつきませんでね。自分が原爆症に罹っているとは思いもしませんで、ですから被爆者申請をする機会を失って、いまだに被爆者手帳も持っていないんです。

 その年の8月15日が終戦。軍の残務整理に4ヵ月ほどかかって、同じ年の暮れに東京大学経済学部に復学しました。卒業は昭和24年9月でした。戦後のゴタゴタや学制改革などがあって、変則的な9月の卒業になりました。
 それで日本発送電という会社の経理係に就職します。日本発送電というのは、日本の全電力会社を戦時統合した国策会社で巨大な組織でした。普通、こうした組織はGHQによって、解散分割されるのが例でした。しかし、当時の日本の電力事情は最悪で、その建て直しのメドがつくまで例外的に残されていたのです。
 日本発送電は昭和26年まで続いて解散になり、東京電力など9電力会社に分割されます。私も一時東京電力に籍を置きますが、何のことはない翌27年には電源開発が発足して、日本発送電の主要メンバーと、そちらへ横滑りで入り込むことになります。
生活保護施設を渡り歩く
 そこでも私は経理係でした。ただ、係長くらいまでにはなるんですが、そこから先の出世ができません。同じ東大出身の後輩たちに、どんどん抜かれてしまう。どうもおとなしくて自己主張できない性格が災いしたようです。

 結婚は29歳のときにしました。私の叔父に東大教授から法政大学総長になった大内兵衛がいます。その息子で私には従弟にあたり、のちに東大副総長になる大内力というのがおり、その妻の妹を紹介されて結婚しました。
 私が日本発送電にいたころのことですが、当時は電力供給の復旧が急務の国策でして、我々社員は会社近くの旅館に泊まり込みで働く日が続き、いつ家に帰れるか分からない状態でした。それは電源開発に移ってからも同じで、市ヶ谷大塚の家で一人待たされる妻も辛かったんでしょう。結局、7年間か、8年間の結婚生活で離婚になりました。
 そんな結婚生活でも、子どもが2人できました。上の男の子を私が、下の子を妻が引き取りました。子連れではアパート生活もできませんから、私は長兄が早稲田大学の教授をやっていましたので、そこに転がり込んで居候しました。子どもは順調に育って、いま新潟の米穀商の娘と結婚して婿に入っています。
 妻と離婚したのと同じころ、電源開発を辞めてしまいます。私に特別な出世欲があったわけではありませんが、東大を出て経理の係長どまりでは仕方ありませんからね。
 それでベースボールマガジン社に転職しました。そこで米国で出版されているスポーツに関する単行本の翻訳の仕事をやりました。
 そのうちに子どもが結婚して、独立しました。すると、こんな老人がいつまでも兄の家に、居候しているわけにはいかなくなるんです。それで兄の家を出てアパートに入ろうと思って、いくつか探してみました。でも、老人の独り暮らしは、どこの大家も嫌って貸してくれません。
 ある不動産屋さんから「山谷に行けばドヤ(簡易宿泊所)があって、そこなら泊めてくれるよ」と教わり、それからは山谷のドヤで暮らすようになりました。それをきっかけにベースボールマガジン社も辞めました。山谷に住んで出版社勤務でもありませんからね。
 それからは日雇い仕事で、糊口を凌ぎました。といっても、この身体で肉体労働は無理ですから、(東京)都が斡旋してくれる公園清掃とか、建築現場の片付けのような軽作業の日雇い労働です。こういう作業は毎日ありませんし、日当も安いから、とても食べるだけ稼げません。足りない分は長兄に援助してもらいました。

 そのうちに65歳をすぎて、生活保護が受けられるようになり、台東区や足立区の生活保護施設を転々としてきました。こんどは新宿区の世話になろうかと考えて、一昨日からこっちに来てみたんです。
 東大経済を出た同級生たちは、みんなそれなりの社会的地位を築いて、安定した生活を送っていると思います。ホームレスをしているのは、私くらいのものでしょう。私は若いころにマルクス主義にかぶれて、世の中を甘く見るというか、斜に構えて見るとことがあり、それがいけなかったように思いますね。
 いまの私の望みは、死ぬときは楽な死に方をしたい。ただ、それだけですね。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年12月 8日 (月)

●ホ ー ム レ ス 自 ら を 語 る 第15回  未受給年金がたまっている/松崎倡伸さん(67歳)

0812 (松崎さんはそれがクセなのだろう。言葉を繰り返して語る人である)
 昭和16年、宮城県の生まれです。
 家は農家で稲作をやっていました。田圃は2町歩(約2ヘクタール)くらいつくっていました。田圃は2町歩くらいありましたね。
 子どもの頃の私は無口でおとなしい子でした。おとなしかったです。でもね、ケンカで負けたことは一度もないですよ。柔道を習ってましたからね。
 オヤジが講道館柔道の青帯だったんです。すごく強かったです。そのオヤジに教わっていましたからね。私も強かったんです。ケンカで負けたことは一度もないですよ。
 ただ、中学生の頃、村祭りの夜に5、6人の不良に待ち伏せされて、闇討ちをされたことがあります。そのときは逃げました。いくら私でも5、6人が相手では勝てませんからね。そのときは逃げました。
 オヤジはね、軍隊で近衛連隊にいたんです。皇居に入って天皇を守る兵隊です。皇居に入って天皇を守っていたんですよ。私が生まれた頃には軍隊は除隊になって、宮城で農業をやっていました。田圃は2町歩くらいつくっていました。
 私も小学生になると田圃仕事を手伝わされました。田の草取りとかやらされ、高学年になると田植えや稲刈りもやらされました。田植えや稲刈りもやらされたんです。
 それでも私は農業が嫌いじゃなかった。本当は農業を継いでやりたかったんです。でも、私には兄がいて、その兄が農業を継ぎました。本当は農業を継いでやりたかったんです。
 それで中学を卒業して、東京へ出てきました。親から600円の現金をサイフに入れてもらって、鈍行の夜行列車に乗って出てきたんです。まだSL列車でしたよ。鈍行の夜行列車に乗って出てきたんです。
 私が就職したのは、K電工という会社で、電気や電力設備の工事をする会社でした。町工場のような小っぽけな会社じゃないですよ。電気工事では日本で一番大きな会社ですから。あっ、あんたもK電工を知ってますか。
 私の仕事は新築されたビルなんかの建物内の電気設備工事。主に電気ケーブルの引き込や、室内配線の仕事をやりました。その頃はほとんどが人力作業でね。ドラムに巻かれたケーブルをビルの最上階まで、幾人もの作業員で「エーンヤ、コーラ」と声を合わせて引っ張り上げたもんです。「エーンヤ、コーラ」と声を合わせて引っ張りあげたんですよ。
 その頃の足場といったら、丸太を組んだものでしたからね。よく作業員が滑って墜落しました。大ケガをしたり、運が悪いと死んでしまう人もいました。私の目の前で墜落して死んだ作業員もいますよ。私だって幾度も危ない目に遭っていますから。幾度も危ない目に遭っているんですよ。

 結婚はしなかったです。仲人好きの知り合いが、婿養子の話をもってきて、盛んに勧められましたが断りました。婿養子なんて窮屈でたまらんでしょう。一人が気楽でいいですよ。一人が気楽でいいですからね。
 一番の愉しみは仕事帰りに、仲間と居酒屋に寄って一杯引っ掛けることでした。でも、そこそこに飲むだけで、酒に溺れるようなことはなかったですね。ギャンブルもひと通りはやりましたが、これも仕事仲間の付き合いでやる程度でした。
 だから、金はたまりました。K電工はボーナスがよかったですからね。金はたまりましたよ。
 そのK電工を41歳のときに辞めます。26年間働いてきたK電工を辞めました。それでそれまでためていた金と、退職金を合わせて家を買いました。いや、東京ではなく、宮城の田舎のほうに買ったんです。中古の家を買ったんです。
 会社を辞めて、私は日雇いの土工で働くようになりました。そう、東京でね。だから家は買ったけど、誰も住んでいなかったです。ところが、そんな家にも税金がかかるんですね。それもバカにならない金額でした。固定資産税というのかな。ホントにバカにならない金額でしたよ。
 あまりにもバカらしいから、売り払うことにしました。そうしたら田舎の中古住宅は、買い手がつかないとかで二束三文でした。二束三文でしたね。せっかくためた金を、ドブに捨てるようなもんでした。
 日雇いの土工の仕事は、10年くらい前にやめました。肉体労働が身体にしんどくなったのと、バブル(経済)が弾けて仕事が少なくなったのとですね。それでホームレスになったわけです。それでホームレスになったわけですね。
 いまはスッカラカンで、飯を食う金もないですよ。雑誌拾いや、空き缶拾い? やりましたよ。やりました。やったけど、みんながやっているから、疲れるだけで金にならないですよ。一日やっても1000円にもならないですからね。やっても無駄です。やっても無駄でした。
 じつは私には年金があるんですよ。26年間会社勤めをしていましたから、厚生年金に加入していたんです。私たちの世代は60歳から支給されているんですが、私はまだ1円ももらっていません。だから、3~400万円はたまっているはずですよね。もっと多いかも知れません。それだけの金があれば、宮城へも大きな顔をして帰れますよね。
(いまゴタゴタ続きの社会保険庁のことを考えると、早く受給したほうがいいと思うが)
 それならだいじょうぶです。私が受け取る年金のあることは、区役所で確認してありますから。区役所で確認してありますからね。
(本当にだいじょうぶだろうか?)
(聞き手:神戸幸夫)

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2008年12月 1日 (月)

ホームレス自らを語る 第14回 東京大学経済学部卒です(前編)/大内信さん(86歳)

 大正10(1921)年8月4日生まれですから、いま86歳になります。生まれたのは朝鮮の京城(いまのソウル)でした。父が朝鮮総督府に勤務していた関係で、その官舎で生まれました。5人兄弟の末っ子です。
 大内兵衛をご存知ですか? 彼は父の弟で、私には叔父にあたります。彼は東京帝大で経済を講じておりましたが、昭和13(1938)年の人民戦線事件に連座して検挙されます。戦後は法政大学の総長を務め、日本社会党の左派イデオローグだった人物です。といっても、いまの若い人は知らないでしょうが。
 私が3歳のとき、父が定年退職になって内地に引き揚げ、両親の出身地である淡路島に家を建てて落ち着きます。
 しかし、淡路島では子どもたちに十分な教育を受けさせられないということで、父だけが島に残り、5人の子どもは母に伴われて東京に出ました。それで阿佐ヶ谷に家を建てて、子どもたちはそこから東京の学校へ通うことになります。私が小学3年生のときのことです。わが家の経済は、父の退職金と恩給がありましたから、生活は富裕なほうでしたね。

 私は杉並の小学校から、府立六中(いまの新宿高校)、静岡高校、東京帝大経済学部というコースを辿ります。本来なら静岡高のところは一高なのでしょうが、府立六中5年生のときに、叔父の検挙事件があったりして、東京を離れて静岡に行きました。まあ、私の実力では一高は無理だったかもしれません。
 長兄は早稲田大学に進んで、その後長く早稲田の教授をやっています。
 私が東京帝大に入学したのは昭和17(1942)年4月で、太平洋戦争が始まって半年後のことです。そのころの大学生には徴兵猶予の特典がありましたが、翌昭和18年に政府の「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、文科系大学生は徴兵猶予が停止されることになりました。
 10月21日に神宮外苑で出陣学徒の壮行会が行われましたが、私は出ていません。本籍地が淡路島でしたから、姫路の指令隊に出頭して検査を受け、そこから岡山の連隊に送られました。
 大学で経済を学んでいたということで、一応連隊経理の幹部候補生ということでしたが、部隊の所属は陸軍工兵隊で階級も伍長でした。普通、学徒出陣兵は将校に任命されるという不文律がありましたが、私だけは伍長からのスタートで、しかも工兵隊の所属でした。
 工兵隊といえば陣地の設営、渡河橋梁の架橋、坑道掘削、鉄道敷設などを専門にする陸軍でも一番きついといわれる兵科で、肉体的に頑強とはいえない私には無茶な配属でした。
 それでこの軍隊入営から、私の人生はなぜか悪いほうに、悪いほうに転がり出すんですね。性格がおとなしくて、はっきり自己主張できなかったことも、その原因だと思いますが……。
 さっそく工兵隊の演習が始まり、スコップを使った穴掘りをやらされたんですが、私はいきなり右足の甲にスコップを突き刺してしまいます。幾針も縫う大ケガで、そのまま病院に入院でした。それまでスコップなど持ったこともなかったですからね。
 ケガが直って原隊に復帰しましたが、門司港内にあった船舶工兵隊のほうに回されました。私には通常の工兵隊任務は無理だという判断が出たんでしょう。
 それで船舶工兵隊に移りましたが、すでに制海権も制空権も敵に掌握されていましたから、戦地に兵員や輜重(兵器や食糧などの軍需品)を送ることができない状態でした。
 たまに船舶の手配がついて、夜陰に紛れて出航させても、湾から響灘に出たあたりで「本船は敵と交戦中」の無電が入って、それきり連絡が途絶えてしまうんです。敵軍が待ち構えている中に突っ込んでいって、たちまち撃沈されてしまったんでしょうね。そんな状態でしたね。

 昭和20(1945)年8月6日に、私は上官から命令を受けます。宇品(広島県)にあった船舶指令所に徴用工1名と書類を届けるようにという命令でした。それで徴用工を伴って下関駅に赴いたのですが、山陽線が不通で動いておらず、復旧の見通しも不明ということでした。
 山陽線がようやく復旧したのは8月10日で、私と徴用工は予定通り宇品に向かいました。宇品に行くには広島で乗換えるんですが、宇品への電車はまだ復旧していませんでした。広島から宇品までは4~5キロメートルの距離ですから、2人で相談して歩いていこうということになりました。
 広島駅舎から出て最初に見た町の光景は、全身に鳥肌が立つというか、背筋が寒くなるような光景でした。あの広島の町が消滅していたのです。私も空襲を受けて丸焼けになった町は、いくつか見ていますが、広島の様子はそのどれとも違っていました。

 真夏の午後の日盛りだというのにセミの鳴き声ひとつなく、町は森閑として静寂そのものでした。周りの建物はすべてペチャンコに倒壊し、駅前の広い通りは走る車も路面電車もなく、いや歩いている人影さえありませんでした。実際には車も人も少しは走ったり、歩いていたかもしれません。でも、私の印象としては人っ子一人いない死の町でした。
 宇品の船舶指令所に徴用工と書類を届けると、私は来たときと同じルートで門司の船舶工兵隊に帰りました。隊に戻り着くと、急に身体のダルさを覚え、体温を測ると40度もありました。軍医の診察を受けると「風邪だろう」という診断でした。広島に原爆が投下されたことは、まだ誰も知らなかったのです。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年11月20日 (木)

ホームレス自らを語る 第13回 師匠とともに/宝村長央さん(57歳)

 鹿児島県奄美大島の出身で、昭和25年の生まれです。
 家は貧しくて、生活保護を受けていました。父は土木作業員をしていましたが、敗戦直後の離島では仕事は少なかったと思います。私が物心ついたころには、母親は病気で亡くなっていました。歳の離れた姉は、すでに結婚していて、家には私と父のふたりだけでした。
 子どものころの私は、おとなしくて絵を描くのが得意で、よくクラスメイトをモデルにしては、人物画を鉛筆で描いていました。それに数学とか物理なども得意でした。
 島の普通高校を卒業し、得意な絵の腕前を生かして、大島紬の図柄を描く仕事につきました。ただ、あまり気が入りませんでね。本当は大学に行きたかったんです。理数系が得意でしたから、理工系の大学で学びたかった。でも、家が貧しくて、大学なんかに行くのは贅沢だと諦めていたんです。それでも諦めきれなくて、1年後に東京の大学を受験しました。
(このとき宝村さんの知り合いだというTさんがやってきて、会話に加わる。以下、T「」内はTさんの発言。)
T「彼は優秀でね。国立の理工系の一期校を受験してるんだ」
 いや、学費から東京での生活費まで、全額を自分で工面しないといけませんからね。私大はとても無理で、何としても国立大に入らないといけなかったんです。でも、最初の受験はみごとに失敗でした。受験勉強なしでいきなりの受験でしたからね。それで東京に残って新聞配達のアルバイトをしながら、予備校に通って2年目の受験に備えました。
 ところが、その2年目ですが、大学受験の数日前に父が亡くなり、私は喪主だから奄美大島に帰らなければならなくなりました。葬儀の日が大学受験の日で、大学は諦めるしかなかったです。また1年間も予備校に通う気力も、経済的余裕もなかったですからね。
 父の葬儀を終えて東京に戻り、新聞の専売店の専従になって働くようになりました。朝夕刊の配達、拡張販売、集金などが主な仕事でした。専売店は東京の大田区、荒川区、それに埼玉の狭山と替わりました。それぞれ10年くらいずつ、全部で30年間働きました。
 途中、恋人ができてアパートで同棲するまでになりましたが、結婚はできませんでした。相手の親が許してくれなかったんです。新聞専売店で働いていると、世間からは少し低く見られましたからね。それに私がギャンブルに狂っていたところもあったんです。
 ギャンブルは麻雀と競馬ですね。あのころは男が4人揃うと、あたりまえのように麻雀が始まっていました。土曜、日曜日は場外馬券売り場に通っていましたし、そんなことも彼女の親の印象を悪くしたようです。ある日、アパートに両親が迎えに来て、彼女はそのまま連れ戻されてしまいました。
午前3時半からの商売
 新聞販売店では49歳まで働きました。その歳でやめたのは特に理由はありません。何となく仕事がイヤになったんです。新聞販売店にいても出世するわけでないし、毎日毎日同じことの繰り返しで、逆によく30年間も同じところで働けたと思いますね。
 新聞販売店をやめたときに退職金が出ましてね。そのカネで3年間遊び暮らしましたよ。毎日昼間は、麻雀か競馬、パチンコとギャンブル三昧で、夜は居酒屋で酔い潰れるまで飲むという生活をつづけました。
 そのうちにカネが底を突いてきて、部屋代が払えなくなって、アパートを追い出され、そうなるとホームレスになるしかありませんからね。はじめは新宿に出て、それから池袋、上野へと移りました。
T「オレとはその上野で知り合ったんだ。彼が得意の鉛筆画を描いていて、『上手に描くもんだな』と声をかけたのがきっかけだ。
 そのころのオレは山谷(いまの台東区清川)の朝市に店を出していて、手伝いがほしかったから手伝わないかと誘ったんだ」
 山谷では毎朝3時半から7時まで道路で朝市が開かれていて、Tさんはそこで椅子とか机の家具類と、鍋や食器などのキッチン用品を扱う店を出していたんです。
T「朝市の店を手伝ってくれたら、1日3000円払うがどうだと誘ったんだ。そうしたら彼は山谷に移ってきて、毎朝店を手伝うようになった。それが4、5年続いてね。はじめのうちは横着者で、ものになるとは思わなかったけど、4、5年もやっていれば板に付いてくるからね。それで今年からその店は彼に譲って、オレは別のところに新しい店を出したんだ。オレのこと? オレはホームレスじゃないよ。商売はテキヤで、この先のアパートに部屋を借りて住んでいる。まあ、彼の人生と商売の師匠ってところだな」
 今年からTさんの店を譲ってもらい、一人でやるようになりましたが、Tさんがやっていたころのようには売れないですね。早朝、3時間半だけの商売ですから、1日で5、6件、1000~2000円程度の売上げしかありません。アパートはおろかドヤ(簡易宿泊所)にも泊まれません。それでも食べることと、酒を飲むことは自分の稼いだカネで賄えますからね。
T「そう。オレもその気持ちが大切だと言っているんだ。差し入れや炊き出しをたよらずに、自分の食い扶持は自分で稼ぐ。ホームレスをしていても、そういうプライドを忘れてはいけないってことだ」
 せっかく店を譲ってもらったわけですから、どこまでできるか、一人でやれるだけがんばってみようと思っています。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年11月 3日 (月)

●ホームレス自らを語る 第12回 自由が一番/M・Kさん(59歳)

1103  (M・Kさんは府中市を流れる多摩川の河川敷に建てた木造小屋で、愛犬のプーちゃんといっしょに暮らしている)
 出身地は宮城県仙台市で、昭和年24年の生まれです。
 父は瀬戸物を扱う商店に勤めて、番頭のようなことをしていました。その父が脊椎カリエスに罹って入院し、それからうちは極端な貧乏生活に陥ります。母は4人の子どもを抱え、病院の下足番や居酒屋の下働きに出ますが、父の入院治療費と家族の生活を賄う分は、とても稼げなくて生活保護を受けていました。
 私ら兄弟も、全員が教科書は市から無償で支給されていました。その頃、周りの子はみんな革のランドセルでしたが、私だけはズックでつくられた布製のランドセルでした。それに給食費が払えませんでね。それが徴収される日は、学校に行かなかったりしました。
 長く患っていた父は、私が中学1年生のときに亡くなります。といっても、生活がよくなるわけでもなく、相変わらずの極貧生活が続きました。私は何となくツッパリグループに入って、授業をサボっては盛り場をウロついたり、他校のツッパリグループとケンカをしたりするようになりました。ただ、本気で不良になるつもりはなくて、少しイキがっていただけですけどね。
 中学を卒業して、仙台市内のレストランにコック見習いで入りました。修行はそれほど辛くはなかったですが、毎日の仕込みが大変でした。マヨネーズ、ハンバーグ、カレールーなどみんな手造りでしたから、その仕込みが私の役目で、どれも長時間掻き混ぜたり、捏ねたりの重労働で大変でしたね。
 そのレストランは一年ほどでやめて、東京に出てきます。東京にそれほど強い憧れがあったわけじゃないですが、一度はその華やかな都会に身を置いてみたいと思っていたんです。

 東京では居酒屋、ヤキトリ屋、スナックで働きました。ずいぶん店を替わりましたよ。長くいた店で1~2年、短いのだと3ヵ月くらい。ほとんどが都内の店でしたが、たまに横浜、川崎の店で働くこともありました。店をやめる理由はいろいろですが、雇い主と給料のことなどで揉めてやめることが多かったですね。まあ、理由付けは何とでもいえますからね。これだけ頻繁に店を替わったということは、私の性格が飽きっぽくて、辛抱のできない性格だったんですよ。
 どこの店でも私はカウンターや板場に入って、肴を調理するのが仕事でした。カウンターの客の受けはよかったですね。お造りの盛り合わせとか、ヤキトリ、それもツクネの評判がよかったです。私が調理を仕切った店では、ヤキトリの冷凍肉は一切使いませんでしたからね。ツクネも肉を捏ねるところから、自分でやりました。そういうところは、妥協しない几帳面な性格なんです。
 仕事柄、酒は好きでした。好みはウィスキーで、自分で飲むときはスナックに行って飲みました。私の店が休みのときなど、夕方の開店から、翌朝まで飲み続けたこともあります。でも、それで酒に溺れるようなことはありませんでしたね。
 そのうちにあるスナックのオーナーママと馴染みになり、いい仲になって同棲するようになりました。彼女のほうが年上でウマが合うというか、彼女にすれば私のたよりなさが母性本能を擽るんだとか言ってましたね。二人ともゆくゆくは、正式に結婚するつもりでした。ところが、同棲を始めて3年目に、彼女が亡くなってしまうんです。理由はあまり話したくありませんね。事件性のある死に方で、思い出すと辛いんです。
(M・Kさんは潤んだ目で虚空を見つめ、しばらく口を噤んだ)
 私が居酒屋やスナックで働いたのは、44歳の年まででした。それからは日雇い作業員をして働くようになりました。深い意味はないですよ。友人に誘われて、そんなのもいいかと思ったからです。包丁を置くのに、特別な感慨はありませんでしたね。
 仕事は手元といって、職人の下についてその仕事を手助けしたり、現場の片付けをしたりする一番下っ端の仕事です。
 あるとき現場で職人から「おい、ジイさん。何をやってんだよ」と言われましてね。まだ、50歳前だったのに、年寄り扱いされて「もう働かなくてもいいか」とホームレスになることにしたんです。
 はじめのうちは新宿や上野の繁華街を転々としていましたが、1年ほどしてこの多摩川の河川敷に落ち着きました。もう、10年になります。
(M・Kさんは手造りの木造小屋に住んでいるが、これが玄人はだしの本格的な小屋だ)
 この小屋は二代目なんです。前のは一昨年の台風のとき、川が増水して1メートルくらい浸水し傾いてしまい、使えなくなったので造り直しました。私ひとりで全部やりました。例の几帳面な性格ですから、どこまでもカッチリしてないと気がすまないんです。
 いまは雑種犬のプーちゃん(牡・6歳)と、ニワトリを2羽飼っています。プーちゃんが可愛らしくてね。どこへ行くのもいっしょです。
 現金収入はアルミ缶の空き缶を集めて、それを売って得ています。週に50㎏くらいは集められ、いまの相場が100円/㎏ですから、週で5000円になる計算です。それだけあれば、贅沢をしなければ食べていけますからね。
 この生活は何ものにも束縛されないし、一度味を覚えたらやめられません。何より自由
だということが一番いいですね。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年10月30日 (木)

ホームレス自らを語る 第11回 身も心もボロボロだけど

 オレの人生は、「聞くも涙、語るも涙の物語」でね。まあ、聞いてくれ。
 生まれは千葉県らしい。らしいというのは、オレが生まれて間もなく、両親とも病気で亡くなってしまったからだ。それでオレは2歳のときに里子に出された。
 もらわれていった先は、八丈島の老夫婦の家だ。その老夫婦は元々小笠原で暮らしていたんだが、敗戦で島が米軍に接収され、それで八丈島に移って来た人たちだった。だから、すごく貧しい生活でね。食べるものがないのが幾日も続いたり、想像を絶する暮らしぶりだったね。
 オレが里子だってことは、小学校入学の前に教えられた。呆然自失というか、頭の中が真っ白になったな。
 そんな家が何でオレを里子にもらったのかというと、将来の稼ぎ手にするためだったんだ。だから、小学生になると家の手伝いをさせられた。学校に行けばイジメに遭うし、クラスで誰かの物がなくなると、みんなオレのせいにされた。貧乏のうえに里子だからね。
 中学生になると「学校なんか行かなくていい」といわれ、家の仕事の手伝いをさせられた。こんな家は逃げ出そうと、幾度思ったか知れない。しかし、八丈は島だから、島外に逃げ出さないと意味がない。中学生ではそんな金を持ってないしね。
 中学を卒業して、地元の建設会社に就職した。島外に働きに出ることは、里親が許さないからね。給料も全額を家に入れさせられた。将来に何の夢もない毎日だった。それで少しずつカネをクスねては、1万円を貯めたんだ。そのカネを握り締めて、家出と島外への脱出を図った。19歳のときのことだ。

 オレが逃げ出した先は東京新宿歌舞伎町。そこでキャバレーのボーイ募集の看板を見て交渉すると、その場で採用されて寮の部屋をあてがわれた。その店で23歳まで働いて、池袋の炉端焼きの店に移った。
 当時は炉端焼きがブームで、オレは魚を捌いたり、調理をするのが好きだったからね。オレの料理は客に評判がよくて、働きぶりも真面目だったから、オーナーに気に入られて「次の支店を出したら、店長をまかせるから」と言われていた。
 その店に毎晩のように通ってくる女の客がいてね。たがいに好き合うようになった。それでオレのアパートで同棲するようになる。彼女はキャバレーのホステスをして働いている女だった。
 ある晩、仕事からアパートに帰ってみると、女の姿がなくて彼女の荷物も消えていた。「やられた」と思ったね。オレの実印もなくなっていた。そのころオレには400万円の預金があって、その通帳だけは別に隠してあったから、それは無事だった。女はオレの実印を使って、マチ金(融)から300万円のカネを引き出して姿をくらましていた。
 そのマチ金の取り立てが、炉端焼きの店にまで押しかけてくるようになってね。やつらはあまりにしつこいし、店にも迷惑がかかるから、女の借りたカネを清算することにしたんだ。元利合計で385万円も払わされた。オレが何年もかけて貯めた400万円が、あっという間にパーだ。ショックだったよ。29歳のときのことだったかな。
 それで炉端焼きの店には居づらくなって、水道の配管を専門にする工務店に転職した。社長は背中一面に彫り物を入れていて、明らかな組関係者。いかがわしげな会社だった。
 ある日、社長が「仕事上の保険にかけるから、おまえの戸籍謄本を取ってこい」と言うから、言われたとおりにした。それから何年かして、謄本を取る必要があって見たら、オレがいつの間にか韓国の女性と結婚していることになっているんだ。社長の仕業に違いない。それで問い詰めても「オレは知らん」の一点張り。当時、偽装結婚の謝礼は100万円が相場だったから、そのカネは社長のフトコロに入ったわけだ。
 それから34歳のときのことだった。その日は給料日で、朝出勤したら工務店の中がもぬけの殻。社長一家が夜逃げをしてしまったんだ。1ヵ月分の給料はフイになるし、おまけに寮費として給料から引かれていたアパート代が、大家に支払われていなかったとかで、それも支払わされた。“泣き面に蜂”とはこのことだよね。

 次は信州だ。ちょうど長野オリンピックが間近のときで、その施設建設の仕事についた。ある日、仕事を終えて自転車で宿舎に帰る途中で、歩道の沿石に乗り上げて転倒し、骨折の大ケガを負ってしまった。24日間入院した。通勤途中のケガだから、労災の対象になって医療費と入院費が支払われた。労災だから休業補償も出ているはずなんだが、工務店の社長に聞いても、「そんなのは支払われていないよ」と惚けるんだ。彼がネコババしたに違いないんだよね。
 それで東京に戻って日雇いの仕事を始めたら、こんどはヘルニアになってしまった。それも頚椎と腰椎の2ヵ所で、2回の手術を受けた。それで働けなくなった。日雇い仕事の肉体労働は当然できないし、同じ姿勢で座っているだけでも、1時間もすると首と腰が痺れて痛くなってくるからね。
 幾度も、幾度も、人に騙され、裏切られて、もう、身も、心も、ボロボロだよ。疲れた。人間不信にも陥っているしね。
 ……だけど、オレもまだ51歳だからね。このままじゃ終わりたくないよ。何とか、もうひと花咲かせたいと思っている。この身体で何ができるのか、ずっと考えているんだけどね。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年10月20日 (月)

ホームレス自らを語る 第10回 くる病と結核を患って/S・Mさん(52歳)

「くる病」って知ってますか? ビタミンDの欠乏によって発症する、乳幼児に多い病気です。放っておくと、鳩胸や背骨異常、X字脚あるいはO字脚など骨の形成障害を引き起こす病気です。いわゆる僂傴(せむし)の人は、この病気が原因の人が多いですね。
 私も生まれてしばらくして、そのくる病に罹っていることがわかりましてね。2歳のときからその治療のために虚弱児施設に入れられました。そこに小学校を卒業するまで入っていました。
 生まれは長野県で、松本の近くのA町でしたが、こんどの町村合併で別の名前になったような噂を聞きました(A町は2005年の合併で市に昇格し、別の名前に変わっている)。
 父親は失対(失業対策)の作業員、ようするに日雇い労働者ですね。母親は私を産んでから、しばらくして病気で亡くなっています。どんな病気で亡くなったのか、誰も話してくれないからわからないですね。ですから、私は母親の顔を知りません。上に姉と兄がいて、私が3人姉弟の末っ子になります。
 ただ、私は2歳から施設に入っていましたからね。もの心のつく前からなので、施設で生活するのがあたりまえのようになっていました。だから、家が恋しいというような思いはありませんでした。その施設はA町から車で3時間もかかる県南のI市にあって、家族が会いに来ることもほとんどなかったですね。
 小学校もその施設から通いました。学校は普通の小学校でしたが、クラスは病気などのハンデを抱えた児童ばかりを集めた擁護学級でした。その小学校に卒業するまでの6年間通いました。
 小学校卒業と同時に、施設の医師からくる病は完治したといわれ退所を許され、A町の家に帰りました。母親こそいませんでしたが、姉が母親代わりで、家族4人で食卓を囲んだときなど、「ああ、これが普通の家庭の生活なのか」と思いましたね。
 中学校は家から通いクラスも普通のクラスでした。ただ、体育の時間は3年間ずっと見学をしてました。勉強のほうは普通。音楽が少し得意だったのかな。

 中学を卒業後、松本のレストランに就職して、コックの見習いになりました。手に職をつけておいたほうが、将来的にいいと思ったからです。そのころになると、もう肉体的なハンデはなくなっていて、同僚たちと同じように朝の仕込みからいっしょに働きました。仕事が辛いと思ったこともありませんね。
 ただ、このコックの見習の仕事は、2年くらいでやめてしまいます。私は気分にむらっ気があるというか、その後も1つのところに辛抱できなくて、職場を転々とすることになります。
 レストランをやめたあとは、ドライブインとか、大衆食堂のような飲食店で働きました。どの店も2、3年すると辛抱できなくなってやめて、別の店に代わるというのを繰り返しました。
 そんなことしていて20代後半に東京に出てきました。特に目的があったわけではなくて、東京に行けば何か面白いことがありそうな気がしたからです。でも、特に面白いことはありませんでしたね。
 最初はパチンコ店の店員になって、それもすぐに辛抱できなくなって、あとは日雇いの労働者です。半月契約で飯場に入って働き、契約を終えて飯場を出ると、場末のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって遊び暮らし、カネがなくなるとまた飯場に入って半月間働く。その繰り返しですね。
 ただ、私の場合は同じ日雇い仕事でも、1つのところに落ち着けなくて、東京の山谷をはじめ、横浜の寿町、大阪の西成など、各地の飯場を転々としました。

 稼いだカネは酒とギャンブルに消えました。これが唯一の愉しみでね。酒なら何でも飲みました。ギャンブルは競艇が多かったです。でも、私の性格ですから借金をしてまで、酒やギャンブルにのめり込むことはありませんでした。ささやかな愉しみだったです。
 結婚はしませんでした。そんなことは考えたこともなかったし、日雇いで働いていては、そんな機会もありませんからね。
 42か43歳のときでしたが、胸の痛みを覚えて病院で診てもらったんです。診断は肋膜炎でした。しかし、それはわりと簡単に治って、それからも日雇いの仕事を続けていたんです。そうしたら45歳のときに、また胸が痛んで診てもらったら、こんどは結核でした。肋膜炎を患っていながら、日雇いの肉体労働で働いたのがいけなかったようです。
 半年間の入院でした。そのときは横浜の寿町で働いていたので、治療費や入院費は横浜の福祉事務所が面倒をみてくれました。
 病院を退院するとき、医者から「もう、肉体労働はしないように」と禁じられてしまいました。といっても、世の中は不況のどん底のときで、肉体労働以外の仕事のクチなどありませんでした。だから、ホームレスになるより仕方なかったですね。

 それで前から知っていたこの戸山公園(東京・新宿区)で、野宿をするようになりました。ただ、私は新参者でこの公園に段ボール小屋はつくれないので、夜はこの先の首都高の道路の下に小屋を作って寝ています。それで昼間だけこの公園に来て、ベンチで日向ぼっこをしながら、ラジオを聞いて時間をつぶしています。
 私もまだ52歳ですから、何とかしなくてはとは思うんですが、こんな生活をしていて身体が元の丈夫な身体に戻るとも思えませんしね。どうしたもんかと考えるばかりです。(聞き手:神戸幸夫)

ホームレス自らを語る

新・ホームレス自らを語る

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2008年10月 9日 (木)

ホームレス自らを語る 第9回 宮仕えのむなしさ/和田義人さん(仮名・65歳)

 オレが生まれたのは、昭和17年。出身地は勘弁してくれ、どこで生まれたかは話したくない。父親は公務員をしていて、兄弟姉妹は4人で、オレは上から2番目。家のことや家族のことは、このくらいでいいだろう。これもあまり話したくないことだからさ。
 中学を出て、都立の農林高校に進んだ。いまはもうなくなってしまったか、校名を変えて普通高校になっているかもしれないが、青梅市にそういう高校があったんだよ(この発言で、和田さんは東京西多摩地区の出身ということになろうか)。

 農林高校へ進学したといっても、家が農業や林業をしていたわけじゃないし、オレ自身も将来その道に進みたかったわけじゃない。
 昭和30年代に入り、高校に進学する人が増えて、オレも高校くらいは出ておいたほうがいいかなと思ったんだ。だけど、勉強が苦手で、オレの成績で入れる高校といったら農林高校しかなかったわけさ。
 高校には3年間休まずに通ったよ。こう見えても根は真面目なんだ。高校を卒業して、電気工事が専門の電業社に就職した。ただ、ここには2年くらいしかいなかった。
 次は東京都の水道局に就職した。といっても、都職員としての正式採用ではなくて、水道局の作業員として雇われるかたちだった。
 仕事は地下に埋設されている水道管の維持管理。古い水道管を新しいのと取り替えたり、ヒビ割れて水漏れを起こしている水道管を緊急に取り替えたりするのが、主な仕事だった。

 水道管の取替え作業は、道路を掘り返すことが多いから、ほとんどが夜間作業だった。いや、仕事が大変なことはない。実際の作業をするのは業者で、オレたちは都の職員として行くから、作業を見ているだけでいいんだ。それに作業にずっと付き合っている必要もないからね。仕事としては楽だった。
 結婚はしなかった。縁がなかったんだね。水道工事の現場は男ばかりだし、水道局には幾人かの女性職員もいたけど、みんな所帯持ちで若い子はいなかったからね。縁がなかったんだな。
 愉しみは休みの日にパチンコをやったり、仕事帰りに居酒屋で一杯引っ掛けることだったね。そのパチンコも酒も度をすごしたり、給料を全部注ぎ込むようなことはなかった。まあ、良識の範囲の慎ましいものだった。

 水道局に勤めて12年目の、32歳のときだった。オレが担当していた現場で事故があってね。いや、人身事故ではなくて、作業員が重機操作をミスして、水道本管に穴を開けてしまったんだ。そこから水道水が噴出して、あたり一帯に流れ出し住宅に床下浸水の被害が出て、周辺住宅の水道は断水するしで大騒ぎになった。この事故については、特定されては困ることがあるので、これ以上は話せないよ。
 新聞やテレビでも大きく報じられて、水道局でも大問題になった。事故の直接の責任は重機操作をミスした作業員と、彼を雇っていた工務店にある。オレは発注者の立場だから、直接の責任はないんだ。水道局の連中は誰も、オレに「責任を取れ」とか、「辞めろ」とは言わない。だけど、無言の圧力というのかな、責任を取らざるを得ない雰囲気がヒシヒシと感じられるんだ。それで辞表を出して、水道局を辞めることになった。
 それからはホームレスだ。宮仕えのむなしさを経験して、またどこかに就職して働こうなんて気は起こらんからね。

 それで32歳から基本的にはホームレスをしているが、時には現金が必要になることもあるからね。そんなときは日雇いに出たり、飯場に入って働いたよ。カネがあれば弁当が買えて、ドヤ(簡易宿泊所)やカプセル(ホテル)に泊まれる。カネがなければスーパーやコンビニのゴミ箱を漁って、公園のベンチや段ボールの小屋に寝る。それを繰り返してきたんだ。
 日雇いなどで働けたのも50代半ばまでで、あとはずっとホームレスをしているよ。長いあいだこういう生活をしているけど、だんだんに食べるものの確保がむずかしくなっているな。炊き出しや差し入れだけでは足りないから、どうしても自分で探さないといけないんだが、世の中が世知辛くなったのか入手するのがむずかしくなった。食べものにありつけない日が多くなって、ひもじい日がつづいているよ。

 夜、寝ているところかい? 冬の夜は寝ないことにしている。寒くって寝られやしないからさ。ビルのシャッターの前にうずくまって、じっと夜の明けるのを待つんだ。それで朝になって日が差してから寝るんだ。いつもこのあたり(JR新宿駅新南口)の適当なところを探して寝ている。

 オレも65歳になったから、生活保護が受けられるんだが、最近は役所が渋ってなかなか出したがらないからね。面倒臭いから申請もしてないよ。
 オレの友人に生活保護を受けているのがいるんだが、ホームレスでアパートに入るのはむずかしいから、ホームレスの寮に入ったんだ。そうしたら「部屋代だ」「食費だ」といろいろ理由をつけて、支給された生活保護費の大半を徴収され、本人の手元にはいくらも残らないらしい。ああいうところは暴力団が経営しているのが多いからね。いくら寒くても身体の利くうちは、外で気ままに暮らしていたほうがいいよ。
 最後に言いたいけど、国の福祉予算がどんどん削られているだろう。弱い者イジメをしないでほしい。弱い者を救うのが、政治の本分なんだからさ。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年10月 6日 (月)

ホームレス自らを語 る 第8回 間の悪い人生でしたが…/高野博見(ひろみ)さん(62歳)

10_6  生まれは昭和21年で、東京の常盤台(板橋区)です。父親は自宅の作業場で、竹カゴをつくっていました。果実を盛り付ける竹カゴづくりが専門でした。
 父が完成した竹カゴを問屋に卸しに行くときは、自転車の荷台に山のように積んで行きました。そんなとき私を連れていってくれることもあって、その帰りには必ず板橋駅前の居酒屋に寄るのが決まりでね。父は焼酎を飲んで、私はモツ煮込みを食べるんですが、その煮込みのうまかったことは、いまでも忘れられませんね。
 その父は私が小学5年生のときに急死します。脳溢血で倒れ、その日のうちに亡くなってしまいました。残されたのは、母親と兄弟が6人。途端に生活が苦しくなって、生活保護を受けて何とかしのいだようです。
 私は6人兄弟の上から3番目でしたが、上の2人が姉だったので長男でした。そんなこともあって、私は高校へ通わせてもらいました。それも私立高校の商業科でした。そのころは姉の2人が、もう働いていて学費を出してくれたんです。
 高校では野球部に入りました。そんなに強い野球部ではありませんでしたが、私は1年生からレギュラーでした。ところが、夏の都予選を前にした練習試合で、スライディングに失敗して、右足首を複雑骨折してしまいます。それで野球は断念することになりました。
 3年生になって、卒業を控えたある日の授業中にコッソリ小説を読んでいたら、それが先生に見つかり本を取り上げられてしまいました。その本は友人から借りたものだったので、私も必死で先生に突っかかっていき、思わず殴ってしまったんです。即謹慎処分が下され、卒業式には出られず、一人だけ6月になって卒業証書が渡されました。
 それで学校から就職の斡旋もしてもらえず、自分で探してトラックの助手になりました。在学中に商業簿記と珠算の3級の資格を取っていたんですが、結局、その資格は生涯使うことがありませんでした。
 そのうちにトラックの助手の仕事は面白くなくてやめました。運転手になりたかったわけでもないですからね。それでしばらく喫茶店のウエーターをしてから、バーのバーテンになりました。あまり酒は飲めないんですが、あのスマートな恰好よさに憧れたんですね。

 最初に働いたのは伊豆の戸田にあったバーです。スポーツ新聞に募集広告が出ていたんで、応募したら採用されました。その店にいた先輩のバーテンがいい人で、酒のことも、バーテンの仕事のことも、何も知らなかった私に、イロハ……から親切に全部を教えてくれました。
 それで24歳のときに、その先輩の許を離れて一人立ちします。箱根の日本旅館の中にあったバーをまかされたのです。その店で10年ほどやっかいになりますが、私の人生で一番愉しかったのが、このときの10年ですね。
 住み込みの三食賄い付き、温泉付きのうえに、社長がとてもいい人で「バーの売上げのことは考えないでいいから、お客様に愉しんでもらえるようにしてくれ」というのが口グセでした。
 旅館というのは、女の人の多い職場ですからね。結婚のチャンスも二度ありました。一人は出入りの芸者で、彼女のほうが私に惚れたんです。もう一人は売店で働いていた子で、こちらは私のほうが惚れてしばらく付き合いました。でも、どちらも私の態度が煮え切らないので、実を結ぶまでにはなりませんでした。私には結婚をしてもやっていく自信がなくて、どちらのときも「結婚してくれ」と言い出せなかったのです。特に芸者の彼女とは、二人だけで菅平高原に泊まりの旅行に行きながら、手を握ることさえできませんでした。晩生というか、ここ一番というときの最後の押しが、どうしてもできないんですね。

 そんなことがあって、何となく旅館にはいずらくなって、34歳のときにやめました。それからは東京に戻って、土木作業員になりました。いや、日雇いではなく、工務店お抱えの作業員で、工務店の寮に入りました。
 私は一つのところに落ち着くタイプで、箱根の旅館でもそうでしたが、工務店も東京と千葉の工務店に、それぞれ10年以上やっかいになりました。
 どちらの工務店からもよくしてもらいましたが、特によかったのが千葉の工務店でした。社長がいい人でね。仕事が少ないときには、工務店の器材置き場や寮を清掃する仕事とかをつくって、それで日当を払ってくれましたからね。
 今年に入って私は右足の足首に痛みが走るようになって、現場作業ができなくなりました。高校生の頃に複雑骨折をした古いケガが、いまごろになって痛み出したんですね。骨折の治療で患部に鉄板を入れたんですが、それがそのまま入っていますから、原因はそれだろうと思います。
 そのことを社長に申し出ていったら、「いままで通りいてくれて構わないよ」って言うんです。ねっ、いい社長でしょう? だけど、何も働けない人間が、そこまで甘えるわけにはいきませんからね。6月に工務店を出て、行くところがないから新宿に来て、それからはホームレスの生活です。
 いま振り返ってみると、私の人生というのは、間の悪い人生だった気がしますね。ここ一番というときの押しも弱かったですしね。でもね、出会った人はいい人たちばかりで、この人生も悪いことばかりじゃなかったという気もしているんですよ。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年10月 2日 (木)

ホ ー ム レ ス 自 ら を 語 る 第7回 脚が利かない/和田広之さん(60歳)

 両脚が痛くて利かないんだよね。だから、うまく歩けなくてさ。そこに駅への階段(JR新宿駅東口地下改札に降りる階段)があるだろう。もう、4回も転がり落ちているよ。そのたびに交番のおまわりさんに助けてもらって、「また、あんたかい」って有名になっちまった。
 最初は右脚だけが痛くて、それもいつもというわけじゃ

なくて、年に何回か数えるほどだったんだ。それが15年くらい前から、頻繁に痛むようになって、その右脚をかばって歩いているうちに左脚も痛むようになって、とうとう両脚が利かなくなってしまったんだ。
 原因? わからんね。病院に行ってないからさ。ただ、右脚が痛くなるのは子どもの頃もあったから、先天的なものじゃないかと思うけどね。
 オレが生まれたのは昭和23年、青森県の津軽半島の村。家はオヤジとオフクロで農業と漁業、それに林業をやっていた。といっても、裕福だったわけじゃないよ。貧乏だったね。自分の家で稲作をやっていながら、オレたちの口に銀シャリが入るのは盆と正月だけだった。あとは麦飯か、サツマイモを蒸かしたのを食べていたからね。
 田圃は「足切り田」とよばれる底の深い田でね。大人が入ると腰のあたりまで泥に浸かっちまう。オレたち子どもがゴム長を履いて入っても、ゴム長の中に泥が入ってきたからな。普通の田圃なら一人が4条ずつ植えていくが、足切り田では2条植えが精一杯。まあ、ひどいところだった。
 中学を終えて、東京に出てきた。いや、集団就職じゃあない。中学3年生の3学期になるとほとんど授業がなくなるだろう。それでオヤジに「毎日ブラブラして遊んでいるんだったら、東京にでも行って働け」と、家をおん出されたんだよ。体のいい口減らしさ。それだけうちは貧しかったということだな。
   
 夜行列車で東京に出て、上野駅に降り立ったけど、右も左も分からないだろう。駅前でボンヤリしていると、手配師が寄ってきて仕事を紹介してくれた。土工の日雇い仕事で、ビルの基礎工事の掘削作業。日当は3,000円だったと思うな。それにしても、すぐ仕事にありつけるなんて、さすがに大都会は違うなと思ったよ。
 それをきっかけにして、以後、脚が利かなくなるまでの30年間、ずっと日雇い仕事を続けることになる。オレが東京に出てきたのは、昭和38年で東京オリンピックの前の年だったから、東京の街は建築ブーム、建築ラッシュでね。土曜、日曜も休みなく仕事があって、土日に仕事に出れば日当が2割5分増しになった。
 いまは日雇い仕事でも、土曜、日曜は休みだっていうじゃねえか。恵まれすぎなんだよ。オレたちの頃は大雨か大雪、それに台風がきたときくらいしか休みにならなかったからね。
 結婚? しなかった。こんな仕事をしていて、結婚なんてできるわけねえじゃねえか。ヤボなこと聞くんじゃないよ。
 愉しみは酒を飲むことだったね。オレはもっぱら焼酎。行きつけの立ち飲み屋で、豚のモツを肴にして浴びるようにして飲んだ。よく酔いつぶれちまって、ドヤ(簡易宿泊所)まで帰れずにそのまま道端に寝ちまうなんてこともあった。オレはギャンブルはやらないからさ。一日の仕事を終えて飲む焼酎が、一番の愉しみだったね。
 いまから15年くらい前だったかな……それまでも右脚が時々痛くなることはあったんだが、そのころから頻繁に痛くなるようになってさ。日雇い仕事は肉体労働だから、とても働ける状態じゃなくなって仕事をやめた。それからはホームレスだ。そのうちに左脚も痛むようになって、いまじゃ普通に歩くのもままならないからね。
 病院に行かないのかって? 行かない。行かない。さっき新宿駅の階段を4回も転がり落ちた話をしたろう。そのときおまわりさんが救急車を呼んでくれたんだけど、オレは4回とも途中で降りて、病院まではいかなかったからね。
 なぜかって? オレは福祉だとか、行政だとか、国だとかの世話になりたくないんだよ。いまの日本は国民一人あたり600万円もの借金を抱えてんだよ。そんな国民の大切な血税を、オレみたいな者のために遣ったらもったいないだろう。国民のみなさんに申しわけないからね。
 だから、これまで福祉とか、ボランティアの世話にはなったことがないんだよ。食べものだって、みんな自分で手に入れてるからさ。
 どうやってかって? 読み捨てられた漫画週刊誌を拾って、それを路上書店に卸して現金に替えているんだ。ただ、オレは両脚が利かないから遠くまではいけないし、階段の多い駅の構内にも入れないからね。一日中探し回って10冊も拾えればいいほうだ。10冊を卸しても500円にしかならない。それで一日分の食費を賄うんだが、500円稼げない日も多いからね。まあ、こんな身体だから仕方ないよな。

 行政とか福祉の世話にはならないけどさ。一つだけ希望があるんだ。それは雨の日と冬の特に寒い日だけでいいから、新宿駅の構内に入ることを許してくれないかと思ってね。一般の乗客に迷惑のかからない片隅でいいからさ。脚の利かないオレには、雨の日と冬の寒い日はほんとうに辛いんだ。
 あとは人に迷惑をかけないように、オレのことはオレが始末してやっていくからさ。それだけはお願いしたいな。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年9月 8日 (月)

●ホ ー ム レ ス 自 ら を 語 る 第6回 路上生活まだ1週間/Yさん(62歳)

9_8   このあいだ秋葉原で大事件があったろう。
(08年6月、東京・秋葉原で無差別殺傷事件が発生し、17人が死傷した)
あのときオレも秋葉原にいたんだよ。というか、あの街がオレの仕事場だったから、毎日通っていたんだけどな。仕事は無店舗の街頭販売。秋葉原の街を歩いているスケベそうな中年のオッさんや若者を捕まえて、裏DVDを売りつけるのが仕事だったんだ。
 あの日も客を捕まえて、路地裏に引っ張り込んで商売をしようとしたら、警官に見つかってよ。職質(職務質問)が始まって「こりゃあ、パクられるな」と覚悟を決めたときに、警官の無線に連絡が入って「別件の事件が起きたから、あんたはもういい」と言い残して駆け出して行っちまった。
 そのうちにパトカーやら消防車、救急車ののワンワンとしたサイレンの音が聞こえてきて、それでオレも音のするほうに行ってみたんだ。現場はすごいことになっていたよ。あれだけの数のパトカーや消防車を、一度に見たのは初めてだったからな。凄惨な現場だったよ。
 ただ、あの事件以来、オレたちの商売は上がったりでさ。秋葉原にやって来る客足が落ちたろう。それに警官の姿が増えたから、うっかり商売でもしたらパクられちまいそうだからよ。それで1週間前に足を洗って、ここ(上野公園不忍池の周辺)で野宿をするようになったんだ。
 いまは夏だからいいが、秋から冬の寒い時期のことを考えると、どうなるか心配だよな。

 生まれは茨城県の笠間。オヤジは町の製材所で働いていた。子どもの頃のオレは、どちらかといえばいじめられっ子のほうだった。背が低かったからな。だけど、ケンカは強かったよ。1対1だったら負けたことがねえんじゃねえかな。ただ、勉強のほうはさっぱりダメだったよ。
 それで中学を終えて、東京に出てきた。いまはなくなっちまったけど、上野にステーションホテルというのがあって、そこの厨房に入った。和食の板前を目指したんだ。
 修業はきびしかったよ。朝の一番電車に乗って、築地まで買出し行かなけりゃならねえし、先輩のいじめもあったしな。どうもオレはいじめに遭うタイプらしい。だが、逆に可愛がってくれる先輩もいたけどよ。
 この季節で思い出すのは、夏の屋上ビアガーデンだ。仕事帰りのサラリーマンで、連日連夜、満席の賑わいでさ。おかげで厨房のほうは、みんなが怒鳴り合って戦場のようだった。ツマミの枝豆なんかは、2tトラックで仕入れんだからよ。それくらい客が来たんだ。
 ステーションホテルには2年いて、別の店に移った。オレの都合じゃねえよ。板前の世界は兄貴格、その上の兄貴格と系列がビシッとしていて、上から「おまえ、××の店のほうを手伝え」と言われれば、その命令は絶対だからな。オレの板前人生は23年間だったけど、小料理屋から料亭までいろんな店の板場で働いたよ。
 店を代わるのは上からの命令ばかりじゃなくて、板前仲間とケンカをしてやめることもある。先輩面をして、新人いじめをするやつが結構いるんだよな。

 結婚はしたよ。35歳のときで、女房は元芸者だった女だ。なかなか色っぽいところがあったよ。まあ、ションベン芸者だけどな。酒の好きな女で、一升酒も平気だった。オレも酒は嫌いじゃないから、いっしょになって飲むんだけどね(笑)。女房とのあいだに女の子が一人できた。
 その女房が10年くらいして、女の子を連れてプイと家を出たきり帰って来ないんだ。わけがわからんよな。
 じつは……オレはこれまでに4回のムショ(刑務所)暮らしをしているんだ。4回とも障害罪の過剰防衛で、初犯から実刑だった。何ていうか、普段のオレは性格的にはおとなしいほうだと思うんだ。ただ、キレやすくて、キレたら手に負えなくなっちまうんだな。
 ケンカの発端なんて道を歩いていて、肩が触れたとかささいなことさ。それで相手が低姿勢に「どうも」とかいって出りゃ何でもねえが、「何だ。てめえ」とでも返そうもんなら、オレはブチキレちまって突っかかっていってケンカになっちまう。
 オレは相手をグーの音も出ないほど叩きのめさないと気がすまねえんだ。というか、背が低いほうだから、中途半端にやっつけておいて、相手が息を吹き返して反撃してくるのが怖いんだよ。あとで警察や裁判所で「いくら何でも、あんなにまでやることはないだろう」といわれるくらい徹底的にやっちまうんだ。ケンカのきっかっけは相手のほうが悪くても、オレも過剰防衛ということでムショ送りになっちまうんだ。
(Yさんは言葉を濁すが、板前をやめたり、妻と離婚したりしたのも、こうした事情と関係があるのかもしれない)
 ムショと娑婆を4回も行き来しちまったからな。仕事といったって、日雇いの建設作業か、いかがわしいDVDの街頭販売くらいしかねえからよ。
 その日雇いも60歳をすぎたら声がかからねえし、DVD販売もあんな事件があって商売あがったりだしね。もう、ホームレスになるしかなかったわけさ。お先は真っ暗だよ。
 えっ? 写真を撮りてえって。ダメだよ。後ろ姿だってダメさ。ダメったら、ダメなんだよ。てめえ、しつこい野郎だな。
(Yさんはキレてしまった。最後まで写真の撮影は許されなかったが、取材記事の掲載だけは許してくれた)(聞き手:神戸幸夫)

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2008年9月 4日 (木)

ホームレス自らを語る 第5回 死ぬまでここで暮らしたい/大関文治さん(80歳)

 昭和3年生まれだから、ちょうど80歳になる。
 まだ、足腰はシャンとしているからね。足腰の動くうちは、誰の世話にもならないで一人でやっていこうと覚悟しているんだ。福祉の施設に入って他人と共同生活をしたり、規則に縛られて生活するのは鬱陶しいからね。
(大関さんは荒川河川敷の埼玉県川口市と戸田市の市境付近に、ビニールシート小屋をつくって一人で住んでいる)

 荒川の河川敷で暮らしているホームレスは多いけど、みんなもっと上流のほうで固まって暮らしているよ。ワシはそういう集団生活も嫌いだから、みんなから離れて暮らしているのさ。
 ここら辺りには新宿や上野のような、炊き出しとか、差し入れのような便利なものはないからね。毎日の三食の食い扶持は、自分で稼がないといけない。だから、一人だけで暮らしていくのは、結構大変なことで、それなりの覚悟がいるからね。

 ワシは金属の廃品回収をして、それを古物商に卸して現金収入を得ている。廃品回収は川口、戸田界隈のゴミ置き場を自転車で回って、捨ててあるナベやフライパン、ヤカンのような金属製品を失敬してくるんだ。それで合成樹脂や木製の把手を外して、鉄は鉄、ステンレスはステンレス、銅は銅でまとめて、古物商に持っていく。種類の違う金属が混じっていたり、非金属が入っていたりすると引き取ってもらえないからね。
 この仕事で1ヵ月に稼げるのは2万円くらい。1日あたり700円弱にしかならないだろう。それで毎日3食を食べていくんだから大変だよ。贅沢はできないし、腹いっぱい食えないしね。
 ホームレスになって10年くらいになるけど、今年の冬がいままでで一番厳しいんじゃないのかな。ビニールシートだけの小屋は深々と冷え込んで、その寒さは半端じゃないからね。それにも耐えなければならないから、ホントに大変なのさ。

 生まれは栃木県。家は機織業を営んでいたが、昭和18年の戦時統制をきっかけに廃業してしまう。オヤジはもう歳だったし、上の兄二人は働きに出ていたからね。末っ子のワシもこの年に中学を卒業して就職したしね。
 ワシの就職先は地元にあった中島飛行機の工場。日本陸軍や海軍向けの戦闘機「隼」とか「ゼロ戦」なんかをつくっていた工場だ。ワシの仕事は戦闘機の金属部品の製造だった。
 軍需工場だから幾度も米軍機の空襲を受けてね。そのたびに防空壕に逃げ込むんだが、爆弾を落とされるとすごい轟音と身体ごと揺さぶられて、生きた心地がしなかった。米軍は艦載機での空襲だから、超低空飛行で爆弾を投下していくんだ。やつらにとっては面白半分でやっていたんだろうが、下にいたワシらにはたまったもんじゃなかったね。
 戦争が終わったときは、地獄から生還したような気分だった。ホントに生き延びたと思って、ホッとしたのを覚えているよ。

 中島飛行機は軍需工場だったから、GHQ(連合国総司令部)の命令で解体され、ワシもクビになってしまった。それでしばらく米軍基地の雑用係で働いてから、配管工になる。以後、ずっと配管工でやってきたんだ。
 配管工というのは、一人の親方の下に10人くらいの仲間でチームをつくって仕事をする。仕事の内容は水道管工事はじめ蒸気タービン、ボイラー、油管などの配管から、個人住宅の水周りの配管までいろいろあった。

 26歳のときに結婚をする。相手は7歳年下の女の子で、パチンコ屋で知り合った子だ。ワシはパチンコと競艇が好きで、仕事がない日は必ずそのどちらにかに入り浸っていてね。彼女のほうもパチンコが大好きで、毎日のように通ってきていて、それで知り合い意気投合して結婚したのさ。
 ところが、ワシらが結婚した当時の昭和20年代終盤というのは、朝鮮(戦争)特需の反動からか、未曾有の大不況でね。配管工の仕事もパタリとなくなってしまった。配管工は日当仕事だから、働かないと一文にもならならないからね。
 好きなパチンコで遊ぶどころか、米や味噌を買うカネにも不足するようになってきてね。そんな生活でも、若い彼女が何とか我慢していてくれたけど、とうとう3年目に辛抱できなくなって出て行ったよ。

 それが皮肉なもんで、彼女と別れてしばらくして、高度経済成長というのが始まるんだ。途端にワシら配管工も、大忙しになってね。ネコの手も借りたいくらいの忙しさだった。その後、オイルショックとか多少の浮き沈みはあったけど、おおむね順調でワシも配管工ひと筋に70の歳までやってこられたんだ。
 ホームレスになったのは、それからしばらくしてからだ。アパートの部屋代が払えなくなったからで、最初からこの河川敷で始めて、ずっと同じところでつづけている。
 ワシは競艇も好きだったと言ったろう。よく戸田の競艇にも遊びに来て、帰りに荒川の土手を歩いていると、河川敷にホームレスの小屋が点々と見えて、「いざとなったら、こういう暮らし方もあるな」と思っていたんだ。
 だから、ホームレスになると決めたら、迷うことなくここに来て、ビニールシートの小屋をつくって住み始めたのさ。
 ワシもいま80歳だからね。いまさら役所の世話になって、施設なんかに入りたくないよね。このままここで、一人でのんびり気ままにやっていきたい。そして、できたらここで静かに死を迎えられたらと思うよ。それがワシの最後の望みだな。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年9月 1日 (月)

ホームレス自らを語る 第4回 生活保護を受けるまでは/R・Sさん(61歳)

 昭和22年に鹿児島県の大隅半島で生まれました。家の近くの高台に登ると、桜島が見えましてね。そんな雄大な景色のなかで育ちました。家は魚屋をやっていまして、暮らしぶりは普通でしたね。私は7人兄弟の5番目で、性格的におとなしくて、人の先に立つより後ろからついていくほうでした。
 中学を卒業して東京に出てきました。あの頃は高度経済成長の真っ只中でしたから、日本中がものすごい求人難で、私らは「金の卵」とかいってもてはやされましたね。

 私が就職したのは鉄工所でした。従業員が10人もいない町工場です。工場は渋谷の円山町にありました。当時はあの町にそんな工場もあったんですよ(笑)。私の仕事は溶接工でした。鉄骨を溶接で切断したり、鉄骨に鉄筋などをくっ付けたりするのが仕事です。ただ、10人足らずの工場ですから、ほかの作業も何でもやらされましたけどね。
 その鉄工所で働きながら、駒場にあった都立高校の定時制に通いました。4年間真面目に通って、ちゃんと卒業しました。英語が得意でしてね。大学か専門学校にでも進んで、もっと勉強したい気もありましたが、経済的な理由で無理でした。だけど、無理してでも進学して、もっと英語を学んでいたら、いまとは違う人生だったかなとも思いますね。

 高校を卒業して、鉄工所のほうも辞めました。仕事の内容が、自分の性格に合わなかったからです。それで運送会社に就職して、大型トラックの助手になりました。助手をしながら大型用の運転免許を取得して、トラックの運転手に昇格しました。
 私が運転手になった頃から、「合理化、合理化」と盛んにいわれるようになり、トラック乗務も助手制が廃止されて、運転手の一人乗務になりました。私の仕事は東京の大森から群馬まで、毎日ビールを運ぶのが仕事でした。当時のビールケースは木箱で、1ケースに大ビン24本が入っていました。荷物の積み下ろしが機械化される前で、すべて自分の肩に担いでしなければならないから大変な重労働でした。
 大変な仕事だけに給料はよかったんですが、こんなことを続けていたら身体を壊してしまうと思って、運送会社を辞めました。24歳のときですね。
   
 それからは横浜の寿町に来て、日雇いで働くようになりました。寿町を選んだ理由ですか? やっぱり、この町にいると仕事にありつく機会が多いですよ。東京の高田馬場や山谷にくらべて、寿町には荷役など港湾関係の仕事もありましたからね。日当もこっちのほうが、少しだけどよかったんじゃないかな。手配師の数も多かったですしね。
 仕事はその港湾関係の仕事や、土工の仕事、その仕事で飯場に入ったこともあります。それに私は大型車の運転ができましたから、車の運転をする仕事も多かったですね。何をやっても食っていくことができる。そんなふうに安易に考えていたところがありましたね。

 結婚はしませんでした。仕事場に女の人がいませんでしたからね。それに所帯をもつにしても、経済的にやっていける自信がありませんでしたからね。
 稼いだ金の使い道ですか? 酒とギャンブルですね。酒は日本酒でした。1日の仕事を終えて寿町に帰って、馴染みの居酒屋で酔いつぶれるまで飲んで、ドヤに帰って寝るという毎日でした。
 ギャンブルはもっぱら競輪です。競輪は人生のドラマそのものですよ。選手の先輩、後輩による駆け引き、所属バンクが同じ選手同士での仕掛け、それに走路妨害や落車のアクシデントもありますからね。それこそ人生ドラマを見る思いでしたよ。
 そのレース展開をピタリと読み当てたときの、痛快なことといったらありません。私も1レースで最高30万円くらい当てたことがあります。そんな金は酒と次の競輪の車券に消えて、すぐになくなってしまいますがね。
 そんなふうに日雇いの仕事があって、競輪で遊んで、酒が飲めたのも50歳まででした。50歳を越した途端に仕事をまわしてもらえなくなって、あぶれる日が多くなりました。

 それに私の場合は、若いときに無理をしたのがいけなかったのか、両膝を悪くしましてね。「膝関節機能障害」とかいうことで手術を受けました。(R・Sさんはズボンを捲り上げて、膝の手術跡を見せてくれた。)
 それからはもう働けなくなりました。いまでも同じ姿勢でいると、膝が痛くなってくるんですよ。(そういえばR・Sさんは取材の途中で、突然立ち上がるということを、幾度も繰り返していた。そんな事情があったのだ。)
 仕事にあぶれて稼げないと、ドヤにも泊まれなくなりますからね。いつからか路上に野宿するようになっていました。寿町にはそんなのが、いっぱいいますから特別な感慨はありませんでした。ただ、この街にはアーケードのような屋根付きの通りがありませんから、雨のときなど逃げ場がないから困りますね。
 それに私は膝に病気をもっていますから、遠くまでエサ(食料)探しに行けないので、夕食抜きという日が結構あります。夕食が食べられないのはひもじくて辛いですね。

 いまはじっと我慢のときだと思っています。あと数年もすれば生活保護の対象年齢になって、役所から世話をしてもらえますからね。それまでひもじさを抱えながら、じっと辛抱したいです。なーに、この街で35年も暮らしてきたんですから、あと数年の辛抱ができないはずがありませんよ。ねえ。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年8月25日 (月)

ホームレス自らを語る 第3回 もう働けない/Cさん(54歳

 生まれは、昭和28年で東京の杉並です。オヤジは板金工場を経営していました。まあ、経営といっても従業員が5~6人の町工場でしたがね。貧乏ではなかったけど、裕福でもなかったですね。ただ、オヤジは毎日、仕事、仕事で、ほとんど遊んでもらった記憶がありません。

 子どもの頃のボクは水泳が得意でしてね。中学生のときに東京都の大会で4位に入賞しています。背泳100メートルを1分17秒が、ボクの記録です。水泳は得意でしたが、勉強のほうはダメでしたね。高校は都立の普通高校に行きました。水泳は中学でやめました。水泳で食べていけるわけじゃないですからね。
 高校を卒業して、安全靴をつくる大手メーカーに就職しました。ボクは二人きょうだいの長男で、下は妹ですから、本来ならオヤジの工場を継ぐべきだったんでしょうが、そんな気はぜんぜんありませんでした。オヤジも継げとは言いませんでしたね。
 せっかく就職した安全靴メーカーですが、半年ほどでやめてしまいます。原因は職場内での人間関係のトラブルですね。というか、ボクは相手から理不尽な言動を受けると、カーッとなって前後の見境なく、相手に突っかかっていってしまうんです。相手が上司であってもやってしまいます。これで幾度も失敗を繰り返すんですけど、この性格はいまだに直らないですね。
 つぎは野菜の仲買人になりました。都内の小さな八百屋さんから注文をまとめて受けて、築地の青物市場で仕入れて届けるのが仕事です。この仕事も人間関係のトラブルでやめました。ここでは何年くらい働いたんだろう? 覚えていませんね。
 それでオヤジの工場を手伝ったり、ブラブラしたりしていたんですが、25歳……くらいのときかな? 都内の大手印刷工場にアルバイトで入り、そのアルバイトを50歳でやめるまでつづけます。

 といっても、ボクの性格ですからね。ずっと連続して働いていたわけじゃありません。例の人間関係のトラブルを起こしてやめることもあれば、そのアルバイトの仕事は夜8時から朝の8時までという過酷なもので、ずっと連続して働けるような職場じゃなかったんです。
 だから、気分で出たり入ったりしながら、50の歳まで働いたわけです。しばらく休んでいて、また働こうかと思って電話をすると、担当者は大歓迎でOKしてくれました。ボクの場合は経験者で新人教育なしの即戦力でしたからね。何しろ、夜間のバイトだけで200人から働いていましたから、担当者は頭数をそろえるのに汲々としていたんです。ですから、働きたときには、いつでも働けたんです。

 34歳のときに結婚しました。ボクは30代に入ってスキーを始めましてね。毎シーズン志賀高原に滑りに行っていたんです。女房も女の友だちと滑りに来ていて、そこで知り合って結婚しました。結婚して女の子が一人生まれました。
 結婚生活は10年くらい続いて、破局しました。まあ、ボクが愛想を尽かされたんですね。印刷工場のバイトの仕事を、気分でやったり、やめたりでしたし、アルバイトで稼いだカネは競馬、競輪、それに酒に消えていました。生活費は女房がパートで稼いでいましたからね。離婚したとき娘は小学校3年生でしたから、いま18か、19歳になっているはずです。どんな娘に育っているのかと思いますね。
 その後も印刷工場の夜間作業のバイトを、気分でやったり、やらなかったりという生活が続きます。
 50歳のときでした。

 ある晩、バイト仲間の友人と、立ち飲み酒場で飲んでいたんです。その仲間が隣の客とトラブルを起こし、どんどん険悪になって殴り合いにまでなっていました。
 ボクはそれを止めようと思って、二人のあいだに割って入ったんです。それが相手の客を、かえって興奮させてしまったようでした。彼は「てめえはなんだ!?」と声を荒げ、傍らにあったテニスのラケットを取り上げると、ボクに向かって殴りかかってきたんです。そのラケットで頭を3発殴られたところまでは覚えています。そこから先は気を失って、記憶はプッツリと途切れてしまうんです。

 気がついたときは病院のベッドの中でした。ボクは3日3晩意識を失っていたそうです。よほど頭の打ちどころが悪かったということでしょうね。
 幾日か入院して、一応完治したということで病院を出て、印刷工場の仕事に復帰しました。しかし、作業で重い物を持ち上げたり、肉体的にきつい作業が続いたりすると、フッと意識が遠退いて気絶してしまうことが、しばしば起こるようになります。
 病院でいろいろ検査してもらったんですが、原因はつきとめられませんでした。それで医者からは「肉体労働は避けて、仕事は軽作業のものに限るように」と言われています。でも、ホームレスに軽作業の仕事の募集などありませんからね。事実上、もう働けないということです。

 ボクは病気もちですから、福祉事務所に申請すれば施設に保護収容してもらえるんです。以前、一度だけ施設に入ったことがあります。でも、規則に縛られ、知らない他人との共同生活は、息苦しいばかりで、早々に逃げ出してしまいました。
 野宿生活は暑いとか、寒いとかあって大変ですが、施設での共同生活にくらべたら、自由で気ままにできますからね。ボクにはこっちのほうが向いています。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年8月18日 (月)

ホームレス自らを語る 第2回 引っ込み思案な性格が/本間さん(59歳)

 子どもの頃から引っ込み思案のおとなしい性格で、ずいぶん損ばかりしていた気がします。子どもたちで野球をやろうということになると、最初はメンバーが足りないから仲間に入れてもらえるんですが、そのうちに仲間が増えてきて、いつの間にか押し出されて見ているだけになっている。そんな子でした。
 いま、こうしてホームレスをしているのも、そんな性格が原因だったような気がします。どうしても、人を押し退けて前に出ていくより、押し退けられてはみ出してしまう。そんな人生でしたね。
 生まれは新潟県の岩船郡。富山県に近いほうです。7人兄弟の5番目でした。父の仕事は製炭業、炭焼きですね。それが唯一の収入源でしたから、両親に父の祖母を加えた9人家族の暮らしは苦しかったですね。生活保護を受けるギリギリの暮らしぶりでした。
 私は中学を卒業して、父の炭焼きを手伝うようになりました。町の工場に就職して人と競うような生活より、父と二人で山で炭を焼いているほうが、私の性には合っていました。ケヤキとかナラの木の伐り方から、窯から出る煙の状態によって、炭の焼け具合を知る方法などを父から教わりました。
 ただ、母は炭焼きの仕事には反対でした。その少し前頃から、家庭の燃料はガスや石油が主流になっていて、木炭の需要は下降の一途で将来性がなかったからです。それで母は東京から船でやって来る炭の仲買人に、私の就職先の斡旋をたのんでいたんです。
 私は17歳のときに東京に出て、南千住の製紙工場に就職します。炭の仲買人の紹介でした。その工場では段ボールや新聞用の用紙を主につくっていました。越後の山のなかから、いきなり大都会に出てうまくやっていけるのか心配でしたが、その工場には新潟県出身の工員が多く、みんな親切で心配するほどのことはありませんでした。
 ところが、入社して5年ほどしたところで、すごく強引で乱暴な工員が入ってきて、私と同じ職場の配属になりました。しかも、彼は寮でも私と相部屋になってしまったのです。彼の仕事ぶりはいいかげんで、その尻拭いは私の役目でした。それに何だかんだと難癖をつけてはケンカをふっかけて乱暴をするし、カネを幾度も脅し取られたりもしました。
 私には居心地のいい職場だったんですが、その彼が入ったことで地獄の職場に変わってしまい、辞めざるをえなくなりました。

 製紙工場を辞めて、次は陸上自衛隊に入りました。富士山の裾野の山梨側にあった特科連隊に入隊して、野戦砲を扱いました。野戦砲はとても重い大砲で、一門を扱うのに4人がかりでした。ただ、自衛隊には1年しかいなかったですね。ここは荒っぽい男の集団の場で、私のようなのがいるところではありませんでしたね。
 それからまた東京に戻って、駄菓子を製造する町工場に就職します。私は溶いた卵と小麦粉を混ぜて焼く焼き菓子の製造が担当でした。ところが、こんどは工場の経営が思わしくなくなって、解雇されてしまいます。私が入社して3年目、26歳のときのことです。このときは第一次オイルショックから続く不況で、完全失業者が100万人を超えていましたが、私もその一人だったわけです(笑)。
 それからは土工と建築関係の日雇い作業員になりました。半月契約で飯場に入ってカネを稼ぎ、山谷(いまの台東区清川あたり)とか、横浜の寿町(中区)のドヤ(簡易宿泊所)で暮らし、カネがなくなったら、また飯場に入って働く、その繰り返しでした。
 浅草にビューホテルってあるでしょう。あの建設工事に、私も参加したんですよ。元国際劇場の跡地に建てられたホテルです。バス、トイレ、洗面台など水回りの設備の設置工事をやりました。私が参加した有名な建物の工事は、そのホテルの工事くらいですね。
 私は若い頃から、ギャンブルや賭けごとに手を出したことがありません。パチンコ屋にも入ったことがないですからね。酒も飲まないし、女遊びもしたことがありません。
 だから、飯場でもドヤでも仲間たちとワイワイ騒ぐこともなく、一人でコタツに入ってテレビを見ていることが多かったですね。テレビを見るのが唯一の愉しみで、シュワルツェネッガーが出演するような、派手なアクション映画を見るのが好きでした。
 あんまりにも不器用で、つまらない生き方だっていうことは、自分でもわかっているんです。でも、私の引っ込み思案の性格では、こうした生き方しかできませんでしたね。
 結婚? まったく縁がなかったですね。もし、女の人と知り合う機会があっても、私の性格では声をかけることもできなかったでしょうね。
 いつから路上に寝るようになったのかは、はっきりこの日からというのはありません。日雇いの仕事にあぶれてカネをもってないときは、山谷でも、寿町でも、路上や公園の適当なところに寝てしまう。カネをもっていれば、ドヤに泊まる。そんないいかげんなことをしているうちに、路上で寝るほうが多くなったんです。こっちの(新宿中央)公園に移ってきたのが、いつだったのかもよく覚えていませんね。
 いまの望みは施設に入れたら入りたいですね。以前、民間がやっているホームレスの収容施設に入ったことがありますが、大勢の相部屋で待遇もよくありませんでした。民間といっても、暴力団が資金稼ぎにやっているんですよね。だから、こんど入るんなら、都とか、区などの公的なところがやっている施設がいいんですけどね。(聞き手:神戸幸夫)

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2008年8月12日 (火)

◆新連載◆ホームレス自らを語る/野宿の生活に疲れた

 生まれは昭和9年で、茨城県の石岡の出身だね。兄弟は6人か、7人いたと思うけど、よく覚えていないな。オレは上から4番目だった。オヤジは左官をやっていた。
 終戦は小学5年生で11歳のときだけど、戦争の記憶はほとんどない。田舎暮らしだったせいだろうな。子どもの頃のオレは、おとなしい子で成績も中くらいの目立たない子だった。
 中学を終えて普通高校に進学したけど、1年生の夏休みになる前にやめちゃった。のんびり勉強なんかしているより、早く手に職をつけたいという、焦りのようなものがあったんだな。
 オレが高校に入った昭和24年という年は、大変な年でね。定員法(行政機関職員定員法)とかいうのができて、公務員や国鉄(いまのJR)職員の何十万人ものクビ切りがあったり、下山、三鷹、松川の国鉄三大事件の起こった年でもある。だから、早く手に職をつけたほうがいいと思ったわけさ。
 それでオレも左官になろうと思って、オヤジの紹介で東京の左官の親方に弟子入りした。左官修業は特に辛いことはなかった。子どもの頃から、オヤジの仕事を見ていたしね。それにオレの場合、修行中から一人前の日当がもらえたんだ。親方がオヤジと友だちだった関係だろうね。当時で一日500円くらいだったのかな? いや、もっと安かったのかな?
 住んだのは土木建築関係の職人ばかりに部屋を貸す下宿。当時はそんな下宿があったんんだよ。朝夕の二食賄いつきでね。どこにあったのかって? 覚えていないね。あちこち転々としたからね。
 修業は5、6年続いて、20歳すぎに一本立ちした。親方が町場の左官だったから、オレも町場で働いた。町場というのは、一般住宅の建築に関わる仕事のことをいう。
 左官の腕は悪くなかったと思うよ。壁や床塗りをやらせたら、垂直面、水平面を勘だけでピタッと出せたからね。あれはコテ使いと、コテを持つ手の微妙な力の入れ具合で決まる。まあ、口で説明しても伝えられないよ。先輩や親方がやっているところを見て、盗んで覚えるしかない。オレもそうやって覚えたんだからね。
 結婚はしなかった。職人の仕事場は男だけの世界だからね。女の人と知り合うきっかけがなかったし、何となく面倒臭いというのもあったな。
 遊びは派手だったよ。まあ、職人相手の下宿に入ったのが運のツキさ。休みの日や雨で仕事が中止の日は、酒好きなヤツは朝から酒盛りを始めるし、賭けごとの好きなのは、やれチンチロリンだ、やれオイチョカブだって始めるしね。競馬や競輪、競艇、パチンコに出かけていくヤツもいる。
 そんな環境のなかにいたら、大酒飲みのギャンブル好きになってしまうよね。オレもそうだった。当時は職人のほうが、普通の会社員より稼ぎがよかったからね。よく池袋のキャバレーにも通ったよ。有り金をきれいサッパリ遣ってしまうのが、職人の気風のよさだと思っていたしね。
 ピークは東京オリンピックあたりだった。昭和40年代中頃からプレハブ住宅というのが出回りはじめて、あっという間に在来工法の住宅は建てられなくなってしまった。プレハブ住宅というのは、工場でつくった部材を現場に運び込んで、ボルトで止めて組み立てるだけだからね。熟練の大工や、オレたち左官は必要とされなくなったんだ。
 で、それからは日雇いで働くようになった。山谷(いまの台東区清川周辺)のドヤ(簡易宿泊所)に寝泊りしながら、手配師から仕事をもらってね。ほとんどが土工の仕事だった。
 ただ、日雇いで働けたのもバブル(経済)が弾けるまでだったね。途端に手配師から声がかけられなくなって、仕事にあぶれるようになった。ドヤに泊まるカネが稼げないんだから、路上に野宿するより仕方ないよね。
 路上に寝るのに特別な感慨なんてなかったよ。山谷にはそんな仲間がいっぱいいたからね。オレもその仲間入りをしただけのことだ。まあ、成り行きさ。
 いまいる浅草に移ったのは、5、6年前からだね。山谷はホームレスの数が多くて、何かと騒がしくてうるさいだろう。それに物騒なヤツもいるからね。それにくらべると浅草は静かでのんびりできるからいいよ。夜は新仲見世通りに寝ているが、あの通りにはアーケードがあって雨露がしのげるから助かるよ。
 それに浅草は飲食店が多くて、残りものなんかを出してくれる店があるんだ。この街には困っている人を助けようという人情が、まだ残っているからいいよね。
  (山口さんの顎から首筋、胸のあたりまでが土気色になっていて、そこに白い斑点が浮き出てまだら模様になっていた。それについて聞いた)
 10日くらい前から、こんなふうになってね。皮膚病だろうと思う。ロクなものを食べていないから、栄養失調の一種じゃないのかな。足も痛くて歩くのもやっとだしね。もう野宿の生活にも、つくづく疲れちゃってね。
 じつは、明日、墨田の区役所に生活保護の申請をしに行く予定なんだ。ホームレスの仲間に手続きに詳しいのがいて、連れていってくれるというからね。最近は生活保護もなかなか認定してもらえないって噂だけど、オレの場合は70歳をすぎているし、身体もこんな状態だから、だいじょうぶだと思うけどね。
 畳の上に布団を敷いて寝るなんて久しぶりだからね。何とか認定してもらえるといいなと思っているんだ。(神戸幸夫)

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