ロストジェネレーション

2009年12月 7日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/女、28才、主婦(前編)

 東京都内の閑静な住宅街で生まれ育ちました。小学校までは公立だったのですが、中学からは中高一貫の進学校を自ら選びました。何故そうしたかというと、私には6才違いの妹がいて、とても可愛らしくて回りからチヤホヤされるタイプだったんですね。妹と正反対で容姿に恵まれず、人を頼るのが苦手な可愛げのない性格だった私は、物心付いた頃から「誰にも頼らず、自力で生きていかなければならない」と強く思うようになったんです。選んだ学校は、女子校ながら「女である前に、一人前の人間たれ」と自立を旨にしており、それに強く惹かれました。

 その頃は今より10キロ太っていた上に、顔中ひどいニキビでずっと皮膚科に通っていたので「ブスでデブで醜い私が、一生結婚なんかできるわけない。自分で頑張ってどうにかしなくちゃ」と思っていました。幸いにも周りの友達が、女の子であることを前面に押し出すようなタイプではなかったので、学校生活は楽しく過ごせました。腐女子などという言葉が市民権を得ていなかった頃から、同人誌を読んでいるような二次元オタクだったりもして。コミケデビューは中学2年生の時です。

 高校生になった頃、ダイエットに成功して10キロ痩せました。
 すると後姿だけはイマドキの女子高生になったので、街中で「3万でカラオケどう?」なんて、おじさんに声を掛けられることがあって。援助交際という言葉がちょうど流行っているときでした。男の人って汚い! と感じて、やっぱり一人で生きていこう、という決意を固くしました。同世代の男の子と交流を持てばまた見方も変わったんでしょうが、デートや合コンをしている人たちは自分とは完全に別世界だと思っていたので、そういう機会は全くありませんでした。

 そして受験。ずっと真面目に勉強してきたので、ストレートで日本でも五指に入る大学に入学することが出来ました。CanCamに出てくるようなキラキラした女子大生には絶対になれないから、一人の人間として勝負できるようなところに行こうと、むさ苦しいことで有名なその大学を選んだんです。昔から人に悩みを相談されることが多く、将来は臨床心理士になろうと思い文学部に進みました。しかし、学んでいくうちに、悩んでいる人に感情移入しすぎてしまう自分には向いていないと気付いて、2年次に専攻を文学に変更しました。みんなをまとめるゼミ長をやったり、研究にも懸命に取り組み、返さなくてもいい奨学金をもらえるほどの超優等生でした。授業もバイトも飲み会も全部こなして、今思えばほとんど寝ていなかったんですが、毎日が充実していて楽しいと思っていました。当時は体力があったんですね。

 さらにその頃から、急にモテるようになりました。悩みを聞いて褒めたり励ましたりするのが得意だったので、今思えばそれが男性のプライドをくすぐったんでしょうね。驚くほど多くの人に告白されました。でも、今まで恋愛に無縁な人生を送ってきていたので、なぜこんな自分が好意をもたれるのかもどう振舞っていいかも全くわからず、大パニック。うまく断れなくて結局ズタズタに傷つけてしまったり、追いつめてしまったりして、人間関係が壊れていくばかりでした。

 実際につきあった人は、いわゆる「だめんず」でした。一回り年上のおじさまで、同じ世代の男子たちにはない落ち着きのある感じと博識さに惹かれたのですが、お金のない人でした。私はバイトを三つかけもちして、彼の生活を支えていました。どの仕事もやりがいがあり、働くこと自体も面白いと思っていたので、苦ではなかったです。そして周りの人達から散々大学院に行くことをすすめられながらも、「私が働いて彼を食べさせるんだ!」と、無理矢理就職活動に入り込んでいきました。ここからです、私の人生に、明確な翳りが見え始めるのは……。(前編終わり)

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2009年11月23日 (月)

ロストジェネレーション、自らを語る/男、27歳、試験勉強中(後編)

(後編)

 大学は、東京の私大に行って政治学の勉強をしました。4年間、めちゃめちゃ楽しかったです。地元では資料不足で学問的なことを掘り下げて勉強することができなかったんです。さらにそういったことを話せる相手を求めると、かなり年上の人ばかりになってしまっていて。学問の話題についてきちんと話せる同世代の友達ができて、東京って素晴らしい、と思いました。
 就職活動の季節になって、歴史や法律を扱った本を作りたいと希望したのは自然な流れでした。研究者として残らないかといわれたんですが、政治学関係はポストが少ないんですよ。長く研究生活をするゆとりもないし、自分の好奇心を職業生活の中で活かして頑張っていこうと、就職を決意しました。好きなことを仕事にするのが幸せだという前提がなんの疑いもなくありました。でも、好きな仕事をするということと、その仕事場がどんな環境かというのは全く別の問題なんですよね。入った会社は、とんでもないところでした。

 本の編集を希望して入った会社なんですが、オーナー社長のワンマン体制が浸透し事件もありまして、また学生時代にホームページを作成していたことが裏目に出て、SEとして育て上げようということになってしまいました。回りは当然理系の人達です。異動届で編集やらしてくれって言ったんですけどダメで、これは辞めるしかないなと思いました。1年半で退職し、転職した出版社で広告営業を経験したのち、希望を出して編集部に所属されました。
 そのまま1年くらい編集をやっていたのですが、著者とのトラブルでまた異動になってしまいました。編集長の交渉不足から生じたトラブルだったのに、編集長以外の、編集に関わっていた人間全員に異動が出たんです。僕は飛ばされた部署にも仲のいい人がいたので、がんばろうという気持ちになれたのですが、それから1ヶ月後に社長に呼び出され、出向させられました。労働法上では一事不再理と二重処罰の禁止という決まりがあるんです。この異動まで報復だとしたら、労働法違反の疑いもありますが証明は困難です。

 その後も社員に対して不当と思われる減俸処分や異動を繰り返す会社に、ハッキリと不信感が生まれました。労組の委員長にも相談しました。しかし期待の持てる返答は得られず、編集部に戻れるまでがんばろうと思っていたけれど、そんなところに戻ってどうするのか? もうちょっと考えなければならないのでは? という気持ちが芽生えました。自分の身に降りかかってきたことで改めて労働問題が大事に感じられ、「じゃあ、労働基準監督官になろうかな?」と冗談のように思っていたら、相談していた人のあるメールに心を揺さぶられました。僕の闘いを支持してくれたうえで、「日本のサラリーマンは理不尽な人事に2つの反応しか示さない。ガマンするか、キレて辞めるかのどちらかだ」といった現状の問題点も書かれてありました。おかげで決心でき、会社を辞め、腰を据えて労働基準監督官になるための試験勉強に打ち込みはじめました。

 労働基準監督官は枠が狭いですし、僕は法律を専門として勉強したことがないので、猛勉強しなければなりません。併願して都道府県も受けます。何かしら労働のことに関わって、ひとのために働きたいと思っています。思えば、自分の興味のあること、そして自分に繋がっていると感じることができないと学問できない人間なんですが、それがそのまま、ずーっと職業意識に繋がっていますね。(聞き手:奥山)

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2009年10月26日 (月)

ロストジェネレーション、自らを語る/男、27歳、試験勉強中

(前編)
 東北の都市部に育ちました。都市部といっても、家は街外れなので、しっかり田舎です。
 家業は材木屋です。長くやっていてそれなりに裕福だったらしいんですが、祖父の代に大きな借金を負ってしまいました。父が30歳で会社を継いだ際、はじめにやったのが人員整理と資産の売却でした。経営者なら絶対にやりたくない仕事ですが、父の仕事はそこから始まったんです。お嬢様育ちの母は、そういった状況に突然おかれたうえ、林業独特の封建的な雰囲気に相当まいっていたようでした。
 そんな大変な状況の中でしたが、僕は結構のほほんと育ちました。周りの友達が良かったんです。野球が好きで、小学生の頃は草野球チームのピッチャーをやらせてもらっていました。勉強なんてまったくしない腕白小僧でした。でも、6年生の時、左足の半月板に障害が見つかってしまって、自分の足で立ってられなくなっちゃったんですよ。中学に行ってから手術をして、そこから一気に変わってしまいました。
 やりたいことがやれない反動で、すごく暗い性格になっちゃったんです。それまでが活発な子だったんで、ちょっといじめられてしまったりして。でもこっちも黙っていられないので、なにかされたらやりかえす、を繰り返すうちに周りの人間が絡んできてゴタゴタした状態になってしまって、あれは本当に嫌だったなあ。地元にいたくないという気持ちがすごく強くなってしまって、勉強を頑張ろうか、と思い始めたんです。そして高校は中心部の進学校に入りました。高校のくせに学園闘争がすごく盛んだったところで、制服の自由化を実現させたり、校則を自分たちで決めていたり、面白い学校でしたね。学校生活は本当に楽しかったのですが、逆に家の中はだんだん暗い雰囲気になってきて。反抗したい盛りなのに、母が精神的に追いつめられている状況にあり、腫れ物に触るように接しなければなりませんでした。身勝手なんですが、すごく1人になりたくなってしまったんです。そうだ、東京に行こう、と決意しました。

 進路が決まるのは早かったです。理系は全くダメで、歴史の話がすごく好きでした。地元では歴史上の出来事を題材にした祭りがあって、みんなで集まって次のお祭りでは何をやるかと話し合うわけですよ。あの合戦をやろうとか、この故事はどうだとか…そうやって歴史を学ぶうちに、視野が広がっていくのがすごく面白くて。家庭のことを忘れることができたし、そういうものが必要だったんだと思います。

(前編終わり)

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2009年9月21日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/32歳・男性・漁師・正社員(後編)

(後編)
 島から大学に戻って、またアルバイトとスキューバダイビングの日々を過ごしました。就職活動は3年生からはじめました。平成13年度新卒で、超氷河期といわれた頃です。僕のまわりは就職自体はできたんですが、希望の職に就ける人はなかなかいませんでした。僕は教員になりたいと思っていたんですが、教育実習に行ったときに「ガキがガキを教えちゃいけないな」と感じていました。一回社会人になってからじゃないと、人を教えるということはできないんじゃないかなと。私立高校から教員のお話があったんですが、悩んだ末にそれは結局お断りして、教育関連会社に就職しました。

 そこは厳しい営業をやらされる企業でした。でも僕には合っていましたね。部活や漁師体験で体育会系のノリには慣れていたし、裁量権が全部与えられていたので自由に動くことができました。お給料も良かったんですよ。基本給プラス歩合制で、1年目は500万円ちょっと、2年目は1000万弱の年収がありました。
 4年半で辞めてしまうんですが、理由としては率直に言って仕事内容に飽きてしまったということに尽きます。営業テクニックを知っていると普通にしていても稼げてしまって、そうすると面白くないんですよ。この先、10年経っても同じ職場にいるのかなと想像すると、それはしんどいなと思って。辞めてまた漁師をはじめました。お金には困っていなかったので「無給で結構です、飯だけ食わしてください」と、学生時代のツテで置いてもらいました。そして色々な場所を転々としながら、基本的には海沿いに住んで漁師をやっていました。

 漁師生活も1年が過ぎた頃、知り合いから引き合いが来て中国情報を配信する会社で広告営業の仕事をするようになりました。消費者相手の営業に飽きて、今度は企業間の取引に関わりたいと思っていたので丁度良かったです。最初は派遣だったんですが、数ヵ月してから頼んで直契約にしてもらいました。売上さえ持っていれば問題ないので、14連休とかしちゃってましたね。でもそうやって暮らしていると社会性がどんどんなくなってくるような気がして、このままじゃまずいかなと感じるようになりました。そしてその仕事も2年半で辞めて、また1カ月くらい海に行きました。
 その後は、広告の仕事を続けてやってみようと小さな広告代理店に正社員で入社したんですが、そこはあまり自由に動かせてもらえず、5ヶ月で辞めました。そしてアジア関連情報を発信する今の会社にまた広告営業で移って、しばらくいる、という現状です。

 結局僕は年収にかなり変動のある人生を送っているわけですが、その中で見えてきたのは、年収1000万でも、200万でも、ストックがなければ結局同じだということです。4年半いた最初の会社では、めいっぱい稼いでも使い尽くしてしまって貯金のない人達をさんざん見てきました。すると稼げなくなったときに、あっという間に没落する。幾らあってもお金に使われてしまえばおしまいです。
(後編終わり)(聞き手:奥山)

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2009年8月24日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/32歳・男性・漁師・正社員(前編)

(前編)
 生まれも育ちも東京郊外です。中学は地元の公立で、バスケットボール部に所属していましたが、釣りとか、アウトドア系の遊びのほうに熱中していました。都立の高校に進学してからも、水泳部に所属して都立の大会で優勝するなど成績は上げていましたが、基本的には地元の仲間と遊びに行くことが多かったです。

 高校受験期は人生で一番勉強した記憶があります。結構遊んでいたので先生に嫌われて内申がとっても悪く、本番でものすごい点数をとらなければならなくなって。そうやって合格した高校は校風こそ自由でしたが、進学率が95%以上の進学校でした。僕は海洋学者になりたかったんですけど、生物以外の理科と数学がぶっちぎりで出来なかったので、文系で関心に近い領域を探しました。すると文化人類学という選択肢が浮かび上がってきました。これなら色んな地域を見ることが出来るのではないかと。そしてやはり海が好きだったので海が見れる学科に絞って、受験勉強を始めました。

 1年目には希望の大学に受からず浪人しました。2年目も落ちてしまい、結局2年連続で合格した、第2志望の大学に進学しました。その大学にはスキューバダイビング部があって、それが一番の魅力でした。入学したその日に入部しました。
 大学に進学してからは、頑張って単位の3分の2を1年で取得しました。やりたい勉強があったのでそれに紐づけて選択して、教職課程もとったら最終的には卒業に必要な単位数の2倍近くを履修していました。大学はカリキュラムを自分で自由に組み立てられて、面白かったです。加えて部活にもアルバイトにも熱中しました。学費を払っていたのでアルバイトは4つを掛け持ちして、1カ月50万円以上を稼いでました。ほとんど寝ない生活で、ずっと頭が覚醒している状態でした。

 1年次が終わったときに休学しました。卒業論文のテーマに沿ってレポートを書くために、そして人生においてどれだけ本気で海に関われるか試してみるために、離島で生活しようと思い立ちました。鹿児島の離島で漁師を一年間やりました。うみんちゅ(海人)という名称で呼ばれる、魚を銛で突く仕事です。島一番の漁師さんに弟子入りをして、三食を他人の家に上がって食べるようになったら、社会人としてのルールが見えるようになりました。他人様の家には他人様の作法がある。海には海の作法がある。端から見ると理不尽な要求でも、しなくてはならないときがあることを知りました。
 そして自分は結局他人から見た姿が真実であるということも学びました。島には女性の先生が4人いるんですが、嫁不足の島にとってはみんなのアイドルなわけですよ。親しげに話していると噂が立つようになってしまって困りました。もちろん正面切って言われるということはないんですが。自分ではそういうつもりはなくとも、そう見えるように振る舞っていること自体がいけないのだと、あとになって理解しました。
 漁はしばらくしたら上達してどんどん獲れるようになったんですが、そのぶん他の漁師さんの仕事がなくなってしまうわけです。「このスポットのタコは全てあなたにとりつくされた」などと嫌味を言われるようになり、最初は「沢山獲って、何がいけないのか?」と思っていましたが、地域社会で暮らしてゆくためにうまくバランスをとるということの大事さに、途中で気が付きました。1年経って、島から大学に戻ったときには、同世代の人達がだいぶ子どもっぽく見えるようになっていました。
(前編終わり)

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2009年7月27日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・26歳・無職 後編

(後編)

 インターネットが浪人時代に手に入ったっていうのはとにかくでかかったですね。岡山時代は外に出るきっかけがなかったけれど、ネットで外部の人とコミュニケイトする手段が出来て自分の世界が広がっていきました。人間関係には苦手意識があったけれど、浪人時代の一年間はネットで人とのやりとりがあったから、大学に入ってから実際のコミュニケーションがとるのが楽になったのかもしれない。折角田舎を出たから、人との関係をやり直そうという意識はあったので、頑張ったというのもありますが。おかげで、少し社交的な性格になることには成功しました。

 入学した大学は滑り止めのところでした。学部は社会学系でしたが、自分がどういうことをするのか正直分からないで入ったんですよ。実際、面白いところでしたけれど。メディア関係会社へのインターンシップ制度がありましたが、結局就職には結びつかないというか…業界の実情がかいま見えてしまうと、逆に行きたくないと思ってしまって。いわゆる就職活動というのは、リアルタイムではしていません。在学中、CDのインディーズレーベルでバイトをしていて、卒業後も継続して働いたんです。でも卒業して1年めあたりでバイト先が不安定になってきて、校正を主にやっている編集プロダクションに移りました。就職を一年ずらしたことで、就職事情が一時的にいいときに当たったんですね。ただ、そこは小さい会社だったのであまり教えてもらえるような雰囲気でなく、みんな自分のことで精一杯。私も手探りで作業して失敗して、ということが続いていっぱいいっぱいになってしまい、一年で辞めました。

 次は好きな音楽の会社、有線放送関係に入りました。しかしこれは2ヶ月ぐらいで辞めてしまいました。番組制作で入ったんですが、セオリーではなく感覚が大事な仕事があるんですね。それがなかなかできるようにならない。「なんでできないんだ、もっと頑張れ」と、努力でどうしようもできないようなことを求められて、追いつめられていきました。そうなると他の仕事もやれる心の余裕がなくなってきて、何をしたらいいのか分からなくなってくる。精神のバランスを崩してしまったんです。それからは一年間、働いていません。編集が職歴にあるんで、編集があればいいなとは思うんですが、自分のキャリアではまず受からないでしょうね。大体書類選考で落ちますね。諦めた方がいいんじゃないかと思うんですけどね。出版不況でもありますからね。

(聞き手:奥山)

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2009年6月29日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・26歳・無職 前編

(前編)
 生まれは東京ですが、ぜんそく持ちだったので環境を整えるために4歳で岡山に移りました。閉鎖的な田舎町で、いったん栄えてまた廃れてしまったという雰囲気が色濃くある場所でした。そんなもんなんで、人も少ない。小・中・高校と、全て同じ町で通いました。

 中学校の頃は、情報飢餓状態に悩まされていましたね。実家が東京なので年に二回は上京するんですよ。そうすると、田舎町がすごく窮屈に感じてしまいます。狭い町なので、人間関係もある程度固まってしまっているんです。小学校とかで人間関係のカーストが出来るじゃないですか。その中で下の方に行っちゃうと、抜け出せなくなる。それもあって「早く出て行きたい」という気持ちをずっと持ったまま、高校に進学しました。

 地元の高校は治安が悪かったですね。すぐに暴力を振るったりするような環境があって、偏差値に幅があったというかーー全てが偏差値で決まるわけではないんですけどーー早い話が、民度っていうんですか、民度がたいへん低かった。学ランの裏に刺繍入れてたりとか、典型的な田舎ヤンキーの集まりでした。その頃がピークで、「もう無理、もう無理」と思いながらストレスで自分の髪の毛を夜中に切り出してしまったり。両親も嫌気がさして、絶対にいつか東京に帰ると言っていましたね。
 例えばその頃、音楽に興味を持ちだしたんですが、より詳しくなりたいと思っても、本屋さんが三軒くらいしかないし、一般的な本しか置いてない。ミュージックショップに行ってレコードを探そうとしても、レーザーディスクしか置いてない。もうやだこの町、と思って。

 田舎嫌いって僕はいっちゃうんですけど、田舎っぽい人達っていうのは都会の中にも住んでますよね。自分の狭い物差しで語って、価値観を押しつけようとする人です。こうじゃなきゃいけないと。そしてそれからはずれる人に対して、妙に陰湿な攻撃をしてくる。そういう閉鎖的な人を見ると、田舎っぽいなあと思ってしまいますよ。

 高校を卒業して、東京に出てきました。現役で国立大に受かったんですが、東京じゃなかったので不満に思って一浪しました。葛西の寮からお茶の水の予備校に通う生活が始まりました、やっと出てこれた東京を思いっきり満喫してしまって、机の上で勉強した記憶がないですね。とにかく音楽をたくさん聴いて、はじめて手にした自分専用のパソコンでネット三昧。その頃、ちょうど個人サイトブームが来てて、普通の人が書く日記や創作が面白いという感覚が始まったので、自分もちょっとずつ文章を書くようになってきて。そうやって音楽と文章漬けになって、結局一浪して合格したところに入学したんですが、両親はもうちょっといい学校に入ってくれるもんだと思っていたみたいです。子どもの正体は、実はキリギリスだったと。…いまは冬で死にかけてる状態なんですが……
(前編終わり)

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2009年5月18日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・33歳・正社員(教育関係)後編

 そして切り札を切りました。学生塾なら5年の経験があるし、これだったらいけるだろうと。面接に行くと、面接官の顔が全然違うんですよね。冷たい感じががらっと変わって、具体的な話が出来ました。受けたところは全て内定を受けました。もっと違う業界を経験したかったんですが、そんなことも言っていられないなと思い、その内の1つに入社しました。そこで半年後に生徒アンケートがありまして、50数校、数百人の教師の内でトップに選ばれたんです。ただ、そこで賞金がもらえるわけでもなく、もっと広い世界に出たい、やっぱり中国に行きたい、という思いがますますつよくなっていきました。

 そんな折、別の学習塾で海外勤務の塾講師募集があることを知りました。「塾講師の経験ある人、英語か中国語が使えて留学経験があればなおよし、パソコンスキルがあれば優遇します」と。条件はどれも満たしていました。これだ!と思い入社試験を受けて、合格しました。そしてシンガポールに赴任します。最初の塾に勤めてから丸二年経った頃でした。
 シンガポール校を経験して少し経った後、香港校の校舎長にならないかといわれ、香港に移ります。校舎長は広報も経理も自分でやらなければならないんですが、そのとき思いがけず高校時代の実学が役立ちました。あれをやってなかったら、経理なんかやれなかったでしょうね。

 香港赴任も2年経って慣れた頃、日本はITバブルで盛り上がっていて、私も投資に興味を持つようになりました。「中国株が来るぞ」といわれて、最初はこわごわ投資をしたんです。するとみるみる上がっていって、2年したら保有株が20倍以上の株価になりました。また、株でお金を集めて、他社を買収したりしてどんどん事業を大きくするやり方は格好いいなと思いました。講師生活の地味さに比べ、ダイナミックなところに魅力を感じたんです。

 そんなある日、いつも見ている中国株の会社のホームページで社長室の人員募集を行っていることを知りました。経営に携わっているので何か出来ることがあるのではと思い、思い切って転職しました。最初は何もやれることがなかったんですが、プレゼンの資料などを美しくレイアウトしたら評判が上々で、それからは私が資料づくりを任されるようになりました。そして「営業できそうだな」といわれ、広告営業も担当しはじめました。未経験の分野でしたが、ごちゃごちゃしたサービス内容を整理して伝えるというのは今までやってきた授業に通ずるものがあって、意外とはまりました。ただ、その頃から国際的に経済不況になり、お客様は金融関係が多かったのでだんだん雲行きがアヤしくなってきました。

 そして忘れた頃に転職サイトから他の学習塾からのスカウトメールが来ていたのでそこに転職しました。本部採用になったので、お昼から夕方まで本部で仕事をして、夕方から教室に行って授業というスタイルで勤務しています。また、「ウェブや広告に強い人がいないのです」といわれ、広告の仕事も任せられるようになりました。ここでも、前職の経験が役に立っている。何がどこで生かされるか、分からないものですね。
(後編終わり)

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2009年4月20日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・33歳・正社員(教育関係)

(前編)
 埼玉に生まれました。中学まで地元の学校に通って、高校は隣県に1時間半かけて通いました。

 その高校は有名大学の付属校だったので入学したんです。普通科と商業科があったんですが、普通科ではなく、入りやすかった商業科に進みました。そこは基本的に大学への進学を考えず、情報処理や簿記など実学を身につけるための学科なんですが、実学には全く興味が持てなくて、嫌々授業を受けていましたね。文学の方が好きで、趣味は読書。中国系の歴史小説が特に好きで、いろいろな作家の三国志を読み比べたりしていました。
 私のまわりの親戚は大学に進学していない人というのが一人もいなかったんです。だから大学進学は迷わずに決めました。勉強をしているときは、孤独でしたね。みんな他の勉強をしているときに一人だけ赤本を開いていて、こつこつやっていました。商業科の中でもスターはスポーツ推薦組で、自力で勉強して大学へ行くというムードは全くありませんでした。自分は自分と割り切って勉強してたんですが、その年は受からず、一年予備校に通って合格しました。
 大学の学科は、中国文学科です。中国語の厳しいところで、かなり鍛えられました。力を入れたのは中国語のサークルと、塾講師のアルバイトですね。高校時代の現代文の先生にあこがれていたのと、単純に2200円の時給に惹かれたんですが、採用試験がすごく厳しかったんです。一ヶ月の研修の間は最低賃金しか出なくて、鬱憤が溜まってしまう研修内容に「研修が終わったら辞めよう」と耐えていたんですが、本採用者発表の時に、一番成績がよかったのが私だったんです。最初に名前を呼ばれてしまって、うーん、それは話が変わってきたなと。認められたのでやる気になったんですが、1時間の授業に対して3時間の予習が必要だったりして、割に合わないぞというのは、はじめてすぐに気づきました。みんなが私服で学校に行くのに自分はスーツで登校して、授業に出席しつつも中3の国語のテキストを予習したりとか。国語はけっこう準備が必要な教科なんですよ。読解しておかないと教えられないから。
 あわせてその頃は、「これからは中国語の時代だ」と言われていたので、将来は中国語で就職が出来ればいいなと思い、別大学の社会人向け講座に出席したり、短期留学も4~5回行きました。あとはひと月1回のペースで中国旅行をしたりとか。そんなふうに大学の授業から離れた生活をしていたら、単位が足りなくて一年留年してしまったんです。

 就職活動は4年次の夏が終わった辺りからスタートしました。直前まで塾の講師をやっていたので、1年も2年も前からリクルーターに会って挨拶をしたりといった前活動は全くしませんでしたが、みんなはしていたようですね。当初は行きたい業界が2つありました。1つは中国語を使ってする仕事、または中国に赴任できる仕事。もう1つは出版社でした。
 出版社は、筆記試験に英語の問題が出てアウト。英語は全くダメなんですよ。その問題は、設問自体が英語で書かれていて、何を聞かれているのかすら分かりませんでしたね。
 中国語は、短期留学や旅行も行っていたのでそれなりに自信があったんですが、それがさっぱりでした。中国語は道具でしかないから、それを使って何かできないとダメなようでした。日常会話とビジネス会話ではレベルが違うし、学生でも何らかのビジネス経験を積んでいる人を求めているようでしたね。当時、就職氷河期という言葉が出ていて、私が就職しようとした年が2000年だったんですが、一番厳しいときでした。で、春は近づいてくるし、どこも受からないな、と、中国系には見切りをつけたんです。(前編終わり)

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2009年3月23日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/第10回 女性・28歳・パート(農業従事)(後編)

(前編はこちら)
 4年のブランクで、仕事の選択基準は大きく変わった。以前は、目指す仕事ならやりがいがあれば薄給でもハードワークでもよかったし、給料のための仕事ならなるべく高収入で早く決まれば、営業以外ならほとんど何でも良かった。

 今は仕事で農業をしているが、昔から植物が好きというわけではなかった。興味を持ったのは、ブランクの間に数ヶ月田舎で生活したのと、実家の園芸や農家の知人を見ていたからだ。その中でも「規則正しい勤務時間で、一室にこもって機械に向かうこともなく、人間相手でもなく、服装や見た目を気にしなくてもいい、疲れきっているので何も考えずすぐに眠れる」というのは大きな魅力だった。更に、薄給でも食べ物はよくもらえるし、栽培技術を身につければ経済的に苦しくても食物は得やすいだろうとも思った。天候に左右されながら、人間の限界などたかが知れていると思い知らされるのも良い。無論、日々植物の成長を見るのは楽しい。

■現職と職業観■

 運良く、今の仕事は大した努力もせずに決まった。産休の社員の穴埋めとして入れたからだ。全くの素人がすぐに農業の仕事に就くのは難しい。農業大学校まで行っても農業職につける人は少数のようで、その人たちには本当に申し訳ないと思う。仕事内容はきついが、無職に比べればはるかに気楽だ。とはいっても、真夏の力仕事などは特に過酷なので、仕事が嫌いだったらもう辞めているかもしれない。好きだからまだ続けていられるのだろう。
 何の経験もないのに雇ってくれた会社にはとても感謝している。もともとは社会復帰の準備段階として、無給でも働かせてもらおうと思っていた。それがパートとはいえ給料を頂いて働かせてもらっているのだから、とても贅沢な話だろう。

 まだはっきりと決まってはいないが、休職中の社員の産休が終われば私のパートも終わるかもしれない。もし解雇になったら、以前から行ってみたいと思っていた農業バイトに行こうと思う。一応は農業経験者になれたし、もう少し技術を身につけたい。それまでに気力が尽き果てないように気をつけている。
 長いブランクから一歩抜け出せて少しは安心したが、まだ自分の社会適応力には自信が持てない。フルタイムで働けるのは薬のおかげであって、自分の力ではない。まだ人並みにまで回復したとは感じられずにいる。
以前は福祉的な方面の仕事を望んでいたのだが、しばらくは人間相手の仕事は避けたいと思っている。人間に疲れていると感じるからだ。福祉的な仕事をしたいと思っているなら、疲労から回復するにつれ、またやりたいと考えるだろう。そうでなければその程度の気持ちだったわけで、とりあえずは焦らず待つつもりでいる。
 仕事だけではなく、他者との交流においてもブランクが生まれてしまった。不調の時に多くの友人に会えなくなった。未だにそのままでいる。友人たちも、半分が結婚出産経験者、半分が社会人になって早数年だ。キャリアどころか何も進展しないブランクの間に、彼らとの差に劣等感を抱いて、それを引きずったままふさぎこむようになり、会いづらくなった。その後交友が戻った数人を除いて、後はそのままになっている。月に1回位その人たちの夢を見る。勝手にプレッシャーを感じているだけなのだが、今後連絡を取り合うかはまだ決められずにいる。
 今でも友人たちとの差はそれほど変わっていないと感じる。大学を卒業して5年、ようやくフリーターになれた私が彼らと同等のポジションにいるとは思えない。義務感から連絡をとり、会うようになっても、社会人としての成長段階の開きに気後れしてまた悩みすぎるかもしれないと思うと簡単に連絡はできない。私が彼らなら「そんなに重く考えず、気軽に声をかけてほしい」と言うだろう。彼らが私だったらどう対応するだろうか。
 この数年で最も大きく失ったものは自信であり、今後それを回復していけるのかはわからない。
 自分の身体に関しては、最近は通院の回数も減り、体調も安定しているが、それでもいつまた再発するかとよく不安になる。無理をしないように、ということだが、どこまでが許容範囲でどこからがそれ以上なのか把握するのは難しい。
 職場では病気のことはふせている。差別されないとは限らないので、薬を飲むときも人目につかないような場所でしている。
仕事で疲れきった日や失敗が続いた日は、明日も働く気力があるだろうかと心配になる。過去にも「もう大丈夫だ」と確信をもてたのにすぐだめになることが何度もあった。あの日々のくりかえしは絶対避けたい。もう無職病人には二度となりたくない。だが、今でも時々「全て投げ出して逃亡したい」と思うことがある。これからもそれがなくなるとは思えない。「今の自分があるのは辛い時があったからこそだ」などと過去を肯定することもとてもできそうにない。(後編終わり)

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