ロストジェネレーション

2010年3月15日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/27歳・男性・司法書士試験勉強中(後編)

(後編)
 テレビ番組の制作会社に就職して、出社一日目の最初にやった仕事はトイレ掃除でしたね。なにかと体育会系な現場でした。ADとして、政治番組やドキュメンタリー、ゴールデンのバラエティー、再現中心の特番などを約2年半やりました。会社のイスや床で寝るのは当たり前、酷い時は休みが3カ月で1日だけ等、仕事はハードでしたしお給料も適切にいただいているとは思えませんでした。まあ、もらっても使う暇がないので結局どんどん貯まっていきましたが。辞めた理由はいろいろありますけど、きっかけは一緒にナレーション録りしていたディレクターがいきなり倒れて救急車に同乗したことですね。心筋梗塞でした。いつも無茶苦茶なことばっかり言ってる人が死ぬほど苦しんでいるのを見て、「自分もそろそろ退いたほうがいいのでは」と感じたんです。番組の担当枠が終わるのを区切りとして、辞めることにしました。
 それまでも、辞めることは何度も考えましたよ。ある朝に、仲も良くて信頼もしていた先輩が「すまない」という4文字だけのメールを送ってきて、そのまま会社に来なかったことがあったんです。
 今まで苦楽を共にして2人でその企画を担当してきたのにいきなり1人にされたから、その時は泣きながら会社に「辞めたいです」と電話しました。お弁当を買いに行ったまま帰ってこなかった人もいます。いったい、彼は弁当を買いにどこまで行ったのでしょう?(笑)
 会社の休みも、前日まで休みかどうかわからないなんて言うのはざらでした。自分の人生設計図を丸められて次々と焚火にくべられるようなもんですよね。でも、僕は早く辞めてしまうのは嫌でした。次の仕事につながらないし、仕事の面白さを知らないまま終わってしまうのは嫌だと思っていたし、親に反対されても自分で決めて進んだ道だから。
 何だかんだ言っても、笑いが絶えない現場でしたしテレビ業界ならではの貴重な体験も沢山したので、苦しくはありましたがテレビの仕事をしたことは本当に良かったです。

 会社を辞めて、これからどうするかを親に相談した時に、前々から薦められていた法律関係はどうだ、と言われました。それで、資格を取れば自分で事務所も開けるし一生使えるからと、司法書士を受験することにしました。クイズ番組などで昔は答えられた問題に答えられなかったりするのがすごく嫌で、勉強したい衝動に駆られ、時事問題の検定試験なども受けたりしていたので、司法書士も「勉強したいからやる」というスタンスで臨みました。でも、今通っている資格予備校の先生の話を聞いているうちに、法律家になればたくさんの悩める労働者たち……過去の僕のような……を救えるんだなと思えてきて。
 それから、本気で目指すようになりました。実は、文章を書く仕事をしてみたいなという希望もあるんです。ADの仕事でも文章を扱うことは多かったですし、表向きはそれを主な理由として辞めました。新聞・出版の求人があれば応募して、あと一歩のところまで行ったりもしました。採用されていたとしても、司法書士の勉強は受かるまでやるつもりでした。

 今は、2年半で貯めたお金でつないでいます。真剣に目指そうと思った時、働きながらは出来ないなと。親のすねはかじってませんよ。
 合格したら研修期間を経て司法書士となるわけですが、自分で独立するという考えは、今はそんなにはないですね。補助者や司法書士法人の従業員として業務経験を積んだ後は、司法書士試験の講師になろうかなと思っていて。
 僕が一番向いている職業は何かを知人に聞くと、ダントツで「教師」という答えが多いんですよ。ゼミの先生には「生徒と遊べる人間だ」と言われたし、大学のクラスメイトには「保護者のハートをつかめる」と言われたし、職場で後輩に仕事を教えるときに説明上手だと言われたりとか。
 教育学部出身ということもあり、「なんで先生にならなかったの?」というフレーズは、仕事中に眠いのを我慢して白目を剥いた回数と同じぐらい何度も言われたと思います(笑)。法律の方面で教育者になれればなあと思っています。
 講師になって勉強を以て人を楽しませるという点では、「多くの人を楽しませたい」と思っていた大学時代の志とあまり変わっていないかもしれません。

 司法書士の勉強は、やることが膨大にあるからやめていく人が多いですね。でも、僕はやめないと思います。忍耐力をAD時代に鍛えられたので。10時間飲まず食わずで勉強なんて全然苦ではありません。あきらめない、我慢するということは全部あの頃に学んだので、この先の人生で軸になるものかなと思っています。(聞き手:奥山)

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2010年2月22日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/27歳・男性・司法書士試験勉強中

(前編)
 生まれは東京です。5歳の時に北関東の市街地に引っ越して、大学に入るまではずっとそこにいました。僕はヒョロッとした体型だったので上級生などからいじめられることがあり、中学で部活を選ぶ際は、兄が部長を務めていた卓球部に入りました。そこならいじめられないだろうと。卓球は一瞬たりともやったことがなかったんですけどね。でも中学三年間のことを振り返ると、もう、卓球ばかりの日々でしたね。とにかく卓球のことだけ考えていて、どうすれば部活以外でできるかと思い、中学生に教えているスクールに友達と参加していたりしました。成績は、最高で地区大会シングルス2位です。
 部活が終わる3年生の中盤からは、受験勉強一色になりました。親が、高校は県立の進学校に行かせる、必ず大学まで行かせるという考えの人だったので、塾に通わされたんです。親からは、兄も入学した進学校に入るよう薦められ、僕も自転車で5分という近さが魅力で、その高校目指して頑張り、合格しました。

 高校でも卓球をやろうとはじめは思ったんですが、顧問の先生が「この人の下でやりたくないな」と思わせるような嫌な人だったので、入りませんでしたね。結局どの部活にも入らず、ゲームばっかりやってました。ゲーム以外、何かに打ち込んだってことはないですね。一つのモノを使い込む癖があって、人気機種が出ても目移りせずに一つのゲーム機を極めていた記憶があります。
 兄が国立大学に行ったこともあり、親もそのほうがありがたいだろうと思い、クラスは国立文系を選びました。国立のほうがある程度の成績を持っていないと入れないということもあるのですが、それにしてもひどい成績でしたね。石油が掘れそうなくらい、地の底を這ってました。
 恋愛とかは全然ないですよ。男子校という条件もあって、高校時代に女の子としゃべった経験というのは1回か2回です。食パンくわえた女の子と曲がり角でぶつかって逆ギレされるとかないですよね、自転車で5分じゃ(笑)。
 飛行石を付けたおさげ髪の女の子が、天空から降ってくるのを待つ日々です(笑)。

 受験には全部落ちました。それで一年間予備校に通ったら、なんと偏差値が20も上がったんです。先生が言っていることがすごくよく分かって、勉強するのが全然苦にならなくなっていきました。わかれば勉強って面白いものです。浪人してよかった、と思っています。浪人した友達は、みんなそう言ってますね。

 一年たって受けた大学は、父と母の母校でした。教育学部の、地理歴史専修です。社会科を選んだのは、日本史が一番得意だったからです。「信長の野望」にハマってましたし、そのころ「るろうに剣心」とか流行ってましたしね。卒論は新選組です。「アカデミックじゃないけど、面白い」ってゼミの先生に言われて、学会で発表したりしました。

 就職活動は3年生の1月から始めました。大学では国際交流のサークルにひたすら打ち込んで、「留学生と遊ぼう」というテーマで幹事としてたくさんのイベントを手掛けたので、多くの人を楽しませるということにやりがいを感じ、マスコミを希望しました。内定は4年生の10月ぐらいまでに3つもらいました。広告代理店と、ベンチャー企業と、テレビ番組の制作会社です。一番面白そうな制作会社を選びました。
(前編終わり)

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2010年1月12日 (火)

ロストジェネレーション自らを語る/女、28才、主婦(後編)

(後編)
 大手の文系職であれば、全国に転勤する可能性がついてまわります。そうすると、彼とは一緒に暮らせませんから、せっかく合格しても全て蹴ってしまっていました。実際に興味のある分野はマスコミ系でしたが、もともと真面目で成績がよいだけで多方面に興味があるわけではない私は、あらゆる分野から出題される筆記試験に戸惑い、すべて落ちてしまいました。自分の希望する職には就けない、受かったところは蹴らなきゃならないで、自分自身の中でも大混乱し、気持ちに折り合いがつかなくなっていきました。結局、迷いながらも転勤のない通信関係の企業に就職したんです。

 会社に入ると、女として振る舞わなくてもよかった今までの状況から一転して「仕事なんか出来なくてもいいから、職場の花になれ」と要求されるようになりました。出来ない、と男性に甘えたり、バカなフリをすればするほど周りにちやほやされるという環境についていけなくて、鬱状態に陥りました。もともと眠れない質なんですが、その状態が悪化して。日中どうしても眠くなり、駅で歩きながら寝てしまい、倒れたこともありました。行きたくなかったんですよね、会社に。そしてその頃、彼氏とも別れてしまい、もう、ボロボロでした。

 結局その会社を9ヶ月で辞めた後、大学時代にかなり認めてもらっていたバイト先である進学塾の方に声を掛けられ、またそこで講師の仕事を始めます。でも、進学塾の仕事は給与はいいけれど徹底した実力主義で、成果を出せなくなればいつクビになるかわからない。正社員ではないので福利厚生も全くありません。なんとかして安定して続けられる仕事をしないとまずいな、と思ってはみても、もう社会人としての自分に自信を失ってしまっており、就職活動をはじめることがどうしてもできません。鬱で判断がおかしくなっていたこともあり、もう、人並みに仕事が出来ないんだったら結婚しかない!とヤケになって婚活を始めます。まだ、婚活という言葉がない頃でしたが…

 しかしここで、大学時代にはなかった壁が立ちはだかりました。それは私の学歴です。私に会う前にプロフィールを知った男性は、出身大学名だけで完全に引いてしまって。親しみやすくする努力をしてみましたが、全くうまくいきませんでした。安心してつきあえそうな同じ大学の男性は、みんな振ってしまったあとです。無理なことばかりして、もう八方塞がりで毎日死にたくて、でも、元々の男友達が、そんな私を救ってくれました。その人は専門学校を出ていて、そこで得た知識で仕事をしているので変な学歴コンプレックスがなく、安心してお付き合いすることが出来ました。今は、その人と結婚して、1歳の子どももいます。講師の仕事は産休も育休もないので、妊娠を機に年度末で契約を終了しました。

 贅沢しなければ夫のお給料だけで暮らしていけますが、心配なのは、子どもが大きくなったときのことですね。子どもの選択の幅を狭めたくないな、と思ったら、私も働きに出なければならない状況になるかもしれません。そんな時、私は働けるのかな? と思って。以前アルバイトに出ていたときに経験があるんですが、スーパーのパートとかだと高学歴すぎて上司や同僚に引かれるんです。「何で○○大卒でこんなことしてるの?」とはっきり言われたこともあります。扱いづらいんでしょうね。かといって正社員で就職しようとしても、最初の9ヶ月間の仕事のあとはアルバイトばかりで履歴書が真っ白でしょう。採用していただけるかどうか……。特別な資格もないし、塾に戻ろうにも夜が中心だから子どもの世話が出来ないし。

 雑誌なんかを読んでいると、子どもを持ちながら働いている活き活きした女性を沢山見ますよね。本当に落ち込んでしまいます。中高の同級生も、みんな専門職でバリバリ働いているから、こんな状態で本当にごめんなさいって思ってて。大学まで出してくれた親にも申し訳ない気持ちでいっぱいです。結局、高学歴ニートのようなものじゃないですか、私……。(聞き手:奥山)

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2009年12月 7日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/女、28才、主婦(前編)

 東京都内の閑静な住宅街で生まれ育ちました。小学校までは公立だったのですが、中学からは中高一貫の進学校を自ら選びました。何故そうしたかというと、私には6才違いの妹がいて、とても可愛らしくて回りからチヤホヤされるタイプだったんですね。妹と正反対で容姿に恵まれず、人を頼るのが苦手な可愛げのない性格だった私は、物心付いた頃から「誰にも頼らず、自力で生きていかなければならない」と強く思うようになったんです。選んだ学校は、女子校ながら「女である前に、一人前の人間たれ」と自立を旨にしており、それに強く惹かれました。

 その頃は今より10キロ太っていた上に、顔中ひどいニキビでずっと皮膚科に通っていたので「ブスでデブで醜い私が、一生結婚なんかできるわけない。自分で頑張ってどうにかしなくちゃ」と思っていました。幸いにも周りの友達が、女の子であることを前面に押し出すようなタイプではなかったので、学校生活は楽しく過ごせました。腐女子などという言葉が市民権を得ていなかった頃から、同人誌を読んでいるような二次元オタクだったりもして。コミケデビューは中学2年生の時です。

 高校生になった頃、ダイエットに成功して10キロ痩せました。
 すると後姿だけはイマドキの女子高生になったので、街中で「3万でカラオケどう?」なんて、おじさんに声を掛けられることがあって。援助交際という言葉がちょうど流行っているときでした。男の人って汚い! と感じて、やっぱり一人で生きていこう、という決意を固くしました。同世代の男の子と交流を持てばまた見方も変わったんでしょうが、デートや合コンをしている人たちは自分とは完全に別世界だと思っていたので、そういう機会は全くありませんでした。

 そして受験。ずっと真面目に勉強してきたので、ストレートで日本でも五指に入る大学に入学することが出来ました。CanCamに出てくるようなキラキラした女子大生には絶対になれないから、一人の人間として勝負できるようなところに行こうと、むさ苦しいことで有名なその大学を選んだんです。昔から人に悩みを相談されることが多く、将来は臨床心理士になろうと思い文学部に進みました。しかし、学んでいくうちに、悩んでいる人に感情移入しすぎてしまう自分には向いていないと気付いて、2年次に専攻を文学に変更しました。みんなをまとめるゼミ長をやったり、研究にも懸命に取り組み、返さなくてもいい奨学金をもらえるほどの超優等生でした。授業もバイトも飲み会も全部こなして、今思えばほとんど寝ていなかったんですが、毎日が充実していて楽しいと思っていました。当時は体力があったんですね。

 さらにその頃から、急にモテるようになりました。悩みを聞いて褒めたり励ましたりするのが得意だったので、今思えばそれが男性のプライドをくすぐったんでしょうね。驚くほど多くの人に告白されました。でも、今まで恋愛に無縁な人生を送ってきていたので、なぜこんな自分が好意をもたれるのかもどう振舞っていいかも全くわからず、大パニック。うまく断れなくて結局ズタズタに傷つけてしまったり、追いつめてしまったりして、人間関係が壊れていくばかりでした。

 実際につきあった人は、いわゆる「だめんず」でした。一回り年上のおじさまで、同じ世代の男子たちにはない落ち着きのある感じと博識さに惹かれたのですが、お金のない人でした。私はバイトを三つかけもちして、彼の生活を支えていました。どの仕事もやりがいがあり、働くこと自体も面白いと思っていたので、苦ではなかったです。そして周りの人達から散々大学院に行くことをすすめられながらも、「私が働いて彼を食べさせるんだ!」と、無理矢理就職活動に入り込んでいきました。ここからです、私の人生に、明確な翳りが見え始めるのは……。(前編終わり)

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2009年11月23日 (月)

ロストジェネレーション、自らを語る/男、27歳、試験勉強中(後編)

(後編)

 大学は、東京の私大に行って政治学の勉強をしました。4年間、めちゃめちゃ楽しかったです。地元では資料不足で学問的なことを掘り下げて勉強することができなかったんです。さらにそういったことを話せる相手を求めると、かなり年上の人ばかりになってしまっていて。学問の話題についてきちんと話せる同世代の友達ができて、東京って素晴らしい、と思いました。
 就職活動の季節になって、歴史や法律を扱った本を作りたいと希望したのは自然な流れでした。研究者として残らないかといわれたんですが、政治学関係はポストが少ないんですよ。長く研究生活をするゆとりもないし、自分の好奇心を職業生活の中で活かして頑張っていこうと、就職を決意しました。好きなことを仕事にするのが幸せだという前提がなんの疑いもなくありました。でも、好きな仕事をするということと、その仕事場がどんな環境かというのは全く別の問題なんですよね。入った会社は、とんでもないところでした。

 本の編集を希望して入った会社なんですが、オーナー社長のワンマン体制が浸透し事件もありまして、また学生時代にホームページを作成していたことが裏目に出て、SEとして育て上げようということになってしまいました。回りは当然理系の人達です。異動届で編集やらしてくれって言ったんですけどダメで、これは辞めるしかないなと思いました。1年半で退職し、転職した出版社で広告営業を経験したのち、希望を出して編集部に所属されました。
 そのまま1年くらい編集をやっていたのですが、著者とのトラブルでまた異動になってしまいました。編集長の交渉不足から生じたトラブルだったのに、編集長以外の、編集に関わっていた人間全員に異動が出たんです。僕は飛ばされた部署にも仲のいい人がいたので、がんばろうという気持ちになれたのですが、それから1ヶ月後に社長に呼び出され、出向させられました。労働法上では一事不再理と二重処罰の禁止という決まりがあるんです。この異動まで報復だとしたら、労働法違反の疑いもありますが証明は困難です。

 その後も社員に対して不当と思われる減俸処分や異動を繰り返す会社に、ハッキリと不信感が生まれました。労組の委員長にも相談しました。しかし期待の持てる返答は得られず、編集部に戻れるまでがんばろうと思っていたけれど、そんなところに戻ってどうするのか? もうちょっと考えなければならないのでは? という気持ちが芽生えました。自分の身に降りかかってきたことで改めて労働問題が大事に感じられ、「じゃあ、労働基準監督官になろうかな?」と冗談のように思っていたら、相談していた人のあるメールに心を揺さぶられました。僕の闘いを支持してくれたうえで、「日本のサラリーマンは理不尽な人事に2つの反応しか示さない。ガマンするか、キレて辞めるかのどちらかだ」といった現状の問題点も書かれてありました。おかげで決心でき、会社を辞め、腰を据えて労働基準監督官になるための試験勉強に打ち込みはじめました。

 労働基準監督官は枠が狭いですし、僕は法律を専門として勉強したことがないので、猛勉強しなければなりません。併願して都道府県も受けます。何かしら労働のことに関わって、ひとのために働きたいと思っています。思えば、自分の興味のあること、そして自分に繋がっていると感じることができないと学問できない人間なんですが、それがそのまま、ずーっと職業意識に繋がっていますね。(聞き手:奥山)

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2009年10月26日 (月)

ロストジェネレーション、自らを語る/男、27歳、試験勉強中

(前編)
 東北の都市部に育ちました。都市部といっても、家は街外れなので、しっかり田舎です。
 家業は材木屋です。長くやっていてそれなりに裕福だったらしいんですが、祖父の代に大きな借金を負ってしまいました。父が30歳で会社を継いだ際、はじめにやったのが人員整理と資産の売却でした。経営者なら絶対にやりたくない仕事ですが、父の仕事はそこから始まったんです。お嬢様育ちの母は、そういった状況に突然おかれたうえ、林業独特の封建的な雰囲気に相当まいっていたようでした。
 そんな大変な状況の中でしたが、僕は結構のほほんと育ちました。周りの友達が良かったんです。野球が好きで、小学生の頃は草野球チームのピッチャーをやらせてもらっていました。勉強なんてまったくしない腕白小僧でした。でも、6年生の時、左足の半月板に障害が見つかってしまって、自分の足で立ってられなくなっちゃったんですよ。中学に行ってから手術をして、そこから一気に変わってしまいました。
 やりたいことがやれない反動で、すごく暗い性格になっちゃったんです。それまでが活発な子だったんで、ちょっといじめられてしまったりして。でもこっちも黙っていられないので、なにかされたらやりかえす、を繰り返すうちに周りの人間が絡んできてゴタゴタした状態になってしまって、あれは本当に嫌だったなあ。地元にいたくないという気持ちがすごく強くなってしまって、勉強を頑張ろうか、と思い始めたんです。そして高校は中心部の進学校に入りました。高校のくせに学園闘争がすごく盛んだったところで、制服の自由化を実現させたり、校則を自分たちで決めていたり、面白い学校でしたね。学校生活は本当に楽しかったのですが、逆に家の中はだんだん暗い雰囲気になってきて。反抗したい盛りなのに、母が精神的に追いつめられている状況にあり、腫れ物に触るように接しなければなりませんでした。身勝手なんですが、すごく1人になりたくなってしまったんです。そうだ、東京に行こう、と決意しました。

 進路が決まるのは早かったです。理系は全くダメで、歴史の話がすごく好きでした。地元では歴史上の出来事を題材にした祭りがあって、みんなで集まって次のお祭りでは何をやるかと話し合うわけですよ。あの合戦をやろうとか、この故事はどうだとか…そうやって歴史を学ぶうちに、視野が広がっていくのがすごく面白くて。家庭のことを忘れることができたし、そういうものが必要だったんだと思います。

(前編終わり)

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2009年9月21日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/32歳・男性・漁師・正社員(後編)

(後編)
 島から大学に戻って、またアルバイトとスキューバダイビングの日々を過ごしました。就職活動は3年生からはじめました。平成13年度新卒で、超氷河期といわれた頃です。僕のまわりは就職自体はできたんですが、希望の職に就ける人はなかなかいませんでした。僕は教員になりたいと思っていたんですが、教育実習に行ったときに「ガキがガキを教えちゃいけないな」と感じていました。一回社会人になってからじゃないと、人を教えるということはできないんじゃないかなと。私立高校から教員のお話があったんですが、悩んだ末にそれは結局お断りして、教育関連会社に就職しました。

 そこは厳しい営業をやらされる企業でした。でも僕には合っていましたね。部活や漁師体験で体育会系のノリには慣れていたし、裁量権が全部与えられていたので自由に動くことができました。お給料も良かったんですよ。基本給プラス歩合制で、1年目は500万円ちょっと、2年目は1000万弱の年収がありました。
 4年半で辞めてしまうんですが、理由としては率直に言って仕事内容に飽きてしまったということに尽きます。営業テクニックを知っていると普通にしていても稼げてしまって、そうすると面白くないんですよ。この先、10年経っても同じ職場にいるのかなと想像すると、それはしんどいなと思って。辞めてまた漁師をはじめました。お金には困っていなかったので「無給で結構です、飯だけ食わしてください」と、学生時代のツテで置いてもらいました。そして色々な場所を転々としながら、基本的には海沿いに住んで漁師をやっていました。

 漁師生活も1年が過ぎた頃、知り合いから引き合いが来て中国情報を配信する会社で広告営業の仕事をするようになりました。消費者相手の営業に飽きて、今度は企業間の取引に関わりたいと思っていたので丁度良かったです。最初は派遣だったんですが、数ヵ月してから頼んで直契約にしてもらいました。売上さえ持っていれば問題ないので、14連休とかしちゃってましたね。でもそうやって暮らしていると社会性がどんどんなくなってくるような気がして、このままじゃまずいかなと感じるようになりました。そしてその仕事も2年半で辞めて、また1カ月くらい海に行きました。
 その後は、広告の仕事を続けてやってみようと小さな広告代理店に正社員で入社したんですが、そこはあまり自由に動かせてもらえず、5ヶ月で辞めました。そしてアジア関連情報を発信する今の会社にまた広告営業で移って、しばらくいる、という現状です。

 結局僕は年収にかなり変動のある人生を送っているわけですが、その中で見えてきたのは、年収1000万でも、200万でも、ストックがなければ結局同じだということです。4年半いた最初の会社では、めいっぱい稼いでも使い尽くしてしまって貯金のない人達をさんざん見てきました。すると稼げなくなったときに、あっという間に没落する。幾らあってもお金に使われてしまえばおしまいです。
(後編終わり)(聞き手:奥山)

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2009年8月24日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/32歳・男性・漁師・正社員(前編)

(前編)
 生まれも育ちも東京郊外です。中学は地元の公立で、バスケットボール部に所属していましたが、釣りとか、アウトドア系の遊びのほうに熱中していました。都立の高校に進学してからも、水泳部に所属して都立の大会で優勝するなど成績は上げていましたが、基本的には地元の仲間と遊びに行くことが多かったです。

 高校受験期は人生で一番勉強した記憶があります。結構遊んでいたので先生に嫌われて内申がとっても悪く、本番でものすごい点数をとらなければならなくなって。そうやって合格した高校は校風こそ自由でしたが、進学率が95%以上の進学校でした。僕は海洋学者になりたかったんですけど、生物以外の理科と数学がぶっちぎりで出来なかったので、文系で関心に近い領域を探しました。すると文化人類学という選択肢が浮かび上がってきました。これなら色んな地域を見ることが出来るのではないかと。そしてやはり海が好きだったので海が見れる学科に絞って、受験勉強を始めました。

 1年目には希望の大学に受からず浪人しました。2年目も落ちてしまい、結局2年連続で合格した、第2志望の大学に進学しました。その大学にはスキューバダイビング部があって、それが一番の魅力でした。入学したその日に入部しました。
 大学に進学してからは、頑張って単位の3分の2を1年で取得しました。やりたい勉強があったのでそれに紐づけて選択して、教職課程もとったら最終的には卒業に必要な単位数の2倍近くを履修していました。大学はカリキュラムを自分で自由に組み立てられて、面白かったです。加えて部活にもアルバイトにも熱中しました。学費を払っていたのでアルバイトは4つを掛け持ちして、1カ月50万円以上を稼いでました。ほとんど寝ない生活で、ずっと頭が覚醒している状態でした。

 1年次が終わったときに休学しました。卒業論文のテーマに沿ってレポートを書くために、そして人生においてどれだけ本気で海に関われるか試してみるために、離島で生活しようと思い立ちました。鹿児島の離島で漁師を一年間やりました。うみんちゅ(海人)という名称で呼ばれる、魚を銛で突く仕事です。島一番の漁師さんに弟子入りをして、三食を他人の家に上がって食べるようになったら、社会人としてのルールが見えるようになりました。他人様の家には他人様の作法がある。海には海の作法がある。端から見ると理不尽な要求でも、しなくてはならないときがあることを知りました。
 そして自分は結局他人から見た姿が真実であるということも学びました。島には女性の先生が4人いるんですが、嫁不足の島にとってはみんなのアイドルなわけですよ。親しげに話していると噂が立つようになってしまって困りました。もちろん正面切って言われるということはないんですが。自分ではそういうつもりはなくとも、そう見えるように振る舞っていること自体がいけないのだと、あとになって理解しました。
 漁はしばらくしたら上達してどんどん獲れるようになったんですが、そのぶん他の漁師さんの仕事がなくなってしまうわけです。「このスポットのタコは全てあなたにとりつくされた」などと嫌味を言われるようになり、最初は「沢山獲って、何がいけないのか?」と思っていましたが、地域社会で暮らしてゆくためにうまくバランスをとるということの大事さに、途中で気が付きました。1年経って、島から大学に戻ったときには、同世代の人達がだいぶ子どもっぽく見えるようになっていました。
(前編終わり)

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2009年7月27日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・26歳・無職 後編

(後編)

 インターネットが浪人時代に手に入ったっていうのはとにかくでかかったですね。岡山時代は外に出るきっかけがなかったけれど、ネットで外部の人とコミュニケイトする手段が出来て自分の世界が広がっていきました。人間関係には苦手意識があったけれど、浪人時代の一年間はネットで人とのやりとりがあったから、大学に入ってから実際のコミュニケーションがとるのが楽になったのかもしれない。折角田舎を出たから、人との関係をやり直そうという意識はあったので、頑張ったというのもありますが。おかげで、少し社交的な性格になることには成功しました。

 入学した大学は滑り止めのところでした。学部は社会学系でしたが、自分がどういうことをするのか正直分からないで入ったんですよ。実際、面白いところでしたけれど。メディア関係会社へのインターンシップ制度がありましたが、結局就職には結びつかないというか…業界の実情がかいま見えてしまうと、逆に行きたくないと思ってしまって。いわゆる就職活動というのは、リアルタイムではしていません。在学中、CDのインディーズレーベルでバイトをしていて、卒業後も継続して働いたんです。でも卒業して1年めあたりでバイト先が不安定になってきて、校正を主にやっている編集プロダクションに移りました。就職を一年ずらしたことで、就職事情が一時的にいいときに当たったんですね。ただ、そこは小さい会社だったのであまり教えてもらえるような雰囲気でなく、みんな自分のことで精一杯。私も手探りで作業して失敗して、ということが続いていっぱいいっぱいになってしまい、一年で辞めました。

 次は好きな音楽の会社、有線放送関係に入りました。しかしこれは2ヶ月ぐらいで辞めてしまいました。番組制作で入ったんですが、セオリーではなく感覚が大事な仕事があるんですね。それがなかなかできるようにならない。「なんでできないんだ、もっと頑張れ」と、努力でどうしようもできないようなことを求められて、追いつめられていきました。そうなると他の仕事もやれる心の余裕がなくなってきて、何をしたらいいのか分からなくなってくる。精神のバランスを崩してしまったんです。それからは一年間、働いていません。編集が職歴にあるんで、編集があればいいなとは思うんですが、自分のキャリアではまず受からないでしょうね。大体書類選考で落ちますね。諦めた方がいいんじゃないかと思うんですけどね。出版不況でもありますからね。

(聞き手:奥山)

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2009年6月29日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・26歳・無職 前編

(前編)
 生まれは東京ですが、ぜんそく持ちだったので環境を整えるために4歳で岡山に移りました。閉鎖的な田舎町で、いったん栄えてまた廃れてしまったという雰囲気が色濃くある場所でした。そんなもんなんで、人も少ない。小・中・高校と、全て同じ町で通いました。

 中学校の頃は、情報飢餓状態に悩まされていましたね。実家が東京なので年に二回は上京するんですよ。そうすると、田舎町がすごく窮屈に感じてしまいます。狭い町なので、人間関係もある程度固まってしまっているんです。小学校とかで人間関係のカーストが出来るじゃないですか。その中で下の方に行っちゃうと、抜け出せなくなる。それもあって「早く出て行きたい」という気持ちをずっと持ったまま、高校に進学しました。

 地元の高校は治安が悪かったですね。すぐに暴力を振るったりするような環境があって、偏差値に幅があったというかーー全てが偏差値で決まるわけではないんですけどーー早い話が、民度っていうんですか、民度がたいへん低かった。学ランの裏に刺繍入れてたりとか、典型的な田舎ヤンキーの集まりでした。その頃がピークで、「もう無理、もう無理」と思いながらストレスで自分の髪の毛を夜中に切り出してしまったり。両親も嫌気がさして、絶対にいつか東京に帰ると言っていましたね。
 例えばその頃、音楽に興味を持ちだしたんですが、より詳しくなりたいと思っても、本屋さんが三軒くらいしかないし、一般的な本しか置いてない。ミュージックショップに行ってレコードを探そうとしても、レーザーディスクしか置いてない。もうやだこの町、と思って。

 田舎嫌いって僕はいっちゃうんですけど、田舎っぽい人達っていうのは都会の中にも住んでますよね。自分の狭い物差しで語って、価値観を押しつけようとする人です。こうじゃなきゃいけないと。そしてそれからはずれる人に対して、妙に陰湿な攻撃をしてくる。そういう閉鎖的な人を見ると、田舎っぽいなあと思ってしまいますよ。

 高校を卒業して、東京に出てきました。現役で国立大に受かったんですが、東京じゃなかったので不満に思って一浪しました。葛西の寮からお茶の水の予備校に通う生活が始まりました、やっと出てこれた東京を思いっきり満喫してしまって、机の上で勉強した記憶がないですね。とにかく音楽をたくさん聴いて、はじめて手にした自分専用のパソコンでネット三昧。その頃、ちょうど個人サイトブームが来てて、普通の人が書く日記や創作が面白いという感覚が始まったので、自分もちょっとずつ文章を書くようになってきて。そうやって音楽と文章漬けになって、結局一浪して合格したところに入学したんですが、両親はもうちょっといい学校に入ってくれるもんだと思っていたみたいです。子どもの正体は、実はキリギリスだったと。…いまは冬で死にかけてる状態なんですが……
(前編終わり)

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