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2014年7月

2014年7月 9日 (水)

「初老男の旧式映画館徘徊~シネコンに背を向けて~」 第3回/貧乏学生や死に損ない老人には敷居が高い「神保町シアター」

 昔は知り合いの映画関係者の凡作を内輪ぼめしたりと、映画評論家としてはサンピンだった快楽亭ブラック。師匠筋の立川談志が死んだ頃から、次第に批評家としての見方と表現が鋭角的に(本業の方は不明。相変わらず?)。『映画秘宝』の連載コラムで、盛んに「神保町シアター」を攻撃した時期も。自らの上映アイディアを勝手に同館で使われたのだとか。結局は担当者と手打ちをした模様だが、ケツの穴の小ささとしつこさを当時は内心嘲笑った。ただ今となれば、極右愚鈍世襲政治屋に蹂躙されてる日本国在住納税者に、一番必要な資質だ。以降も同館の入場料金が高すぎると事あるごとに。正論だ。
Dscf1539sho  定員99人の同館の入場料は一般1200円、老人1000円、学生800円(5回で1回入場無料になるポイントサービスあり)。1本立ての総入れ替え制だから、旧作映画専門館にも拘わらず封切館と遜色ない料金。老人から1500円も強奪するご近所の「岩波ホール」といい、本の街の映画館はあくどい商いを。「シネマヴェ-ラ渋谷」は1400円(入れ替えなしの2本立て)、「新文芸坐」1300円(同)、「早稲田松竹」1300円(同)だから、同館の超ハイソ振りがうかがえる(幹部のセクハラで有名な「ラピュタ阿佐ヶ谷」は、一番「神保町シアター」に近い)。
 小学館と吉本興業の共同経営らしい(チラシの館名上に“小学館グループ”とあるので、吉本は単なる店子か?)。入って右側の「神保町花月」は実演専門(入場経験がないので内部構造は一切不明)。「神保町シアター」は左側地下。右手には若手芸人が目的のお肌がまぶしいギャル集団、左手にはハゲ・白髪・ヨイヨイの死に損ない老人集団。浅草と渋谷が合併したような景色だ。券売所は1つで美女多し。右手客はともかく、左手客の対応は大変。用事が済んでも「あの頃の上原謙は…」と、長々と話し掛ける爺さん婆さんが絶えない。邪険には出来ないし大変だなと要らぬ心配してると、見事なうなづき芸であしらってる。最初に粘着老人対策を教え込まれてる可能性あり。
 高額入場料を取るのは「岩波ホール」と同じだが、上映環境は「神保町シアター」の方が遥かにいい。まず場内のどっぷりした暗さが素晴らしい(避難灯も消える)。場内傾斜も急で、前席のハゲ頭に画面を侵食される心配もない(筆者は白髪頭なのでハゲ頭差別主義者)。古い邦画がメインなので、観ずらい上映はしょっちゅうだが、種々努力はしてるようだ。鈴木清順監督卒寿(90歳)特集だから作年か。『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』('63日活)を、全編(88分)ピンボケで見物させられたのが、唯一の腹立たしい記憶。終了後に俺ともう1人が従業員に文句を言ってたが、後の祭りだっての馬鹿野郎!(普段は真っ先にクレームをつける俺が、終始沈黙してたのは謎)。「シネマヴェ-ラ渋谷」は、モギリの姉チャンが終始横のモニター画面をチェックしてるが、同館にはないの?
 トイレが清潔で広いのは、便意の近い老人客には有り難い。明りが自動消灯式なのも、”勿体ない世代”には気分良し(他人が払うにしろ電気料金が心配で……)。ただ手をかざして乾かす、妙な乾燥器具はうるさくて超むかつく。トイレの仕様が似てる、「新文芸坐」にも同じ装置。他とセットなのかも知れないが、映画館には最も不向きな騒音公害器具。両館共に早急に撤去して欲しい。だいたい洗った手はハンカチ、あるいはズボンの尻で拭くと昔から相場が決まってる(ペーパータオルも許せん!)。
 以前は遅れて入場する無礼客の足元を、携帯の明りで照らして案内する愚鈍従業員も(親切のつもりなのだ)。周囲の客はたまらないが、最近そういう珍例もない(自らそうする白痴客は散見)。券売所の粘着老人に加えて見モノなのが、インスタント身障者客。同館は体の弱った老人を、裏口から優先入場させるシステムが。婆さんに多いが、混雑してる時だけなぜか現れる希望者の、ほとんどがピンピン。食欲も旺盛で握り飯バクバク。しかし、優先入場させてもらう前後の演技は鮮烈で、杉村春子も真っ青。厚顔無恥な老人客相手に、関係者は良くやってると言えよう(ただ障害のある老人でも、「フィルムセンター」がそうしてるように、順番の割り込みは許さない手法を取るべきだ)。
Dscf1543sho  写真のように、館の外見もかなりユニークで一見の価値が。最後になったがチラシの豪華さ、資料的価値も特筆もの。各作品の配役表まで配る配慮がうれしい。さすがは老舗出版社の運営だ(官憲には腰抜けだが)。ただ以前出してた小冊子、『神保町シアター通信』が、最近途絶えてるのは寂しい。以上の3点は全て無料。さんざっぱら入場料に文句を付けたが、これらを毎回すべて頂けば、決して“敷居”も高くない映画館なのだ。(塩山芳明)

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2014年7月 1日 (火)

●ホームレス自らを語る 第137回 ラーメン屋台を曳いていた(前編)/若月一知さん(55歳)

1407  吾妻橋のたもとから隅田川に沿って北に伸びる「隅田公園」(東京台東区)。そこで若月一知さんに会った。非常に無口なおとなしい性格で、緘黙症を疑うほどの人だ。
「昭和33(1958)年、東京足立区千住の生まれ。家は両親に祖父母、それにオレの5人家族だった。オレはひとりっ子だったから、みんなに可愛がられた。とくに祖父母からは猫可愛がりをされて育った」
 そう語る若月さん。といっても、こんなふうに流暢に語ったわけではない。こちらの質問に訥々と、まるで苦行する僧のように答えてくれるのだった。
「親父は屋台ラーメン屋をやっていた。毎日、夕方の4時頃一人で屋台を曳いて出かけ、そのまま千住新橋の南詰めのところで一晩中商売をして、朝、陽が昇ってから戻ってくるというのを繰り返していた。それで昼間はずっと寝ていたから、子どもの頃のオレはそんな父親の寝ている姿しか見ていなかった。商売としてはうまくいっていたんじゃないかな」
 当時の足立区は町工場が多く、長時間残業を終えた労働者や、夜勤に向かう労働者などで街は一晩中人通りが絶えなかった。そんな労働者を相手にした屋台ラーメン屋は、結構繁盛したようだ。「自分の家が貧しかったという実感がない」と若月さん。
 子どもの頃の若月さんは、当然ながらおとなしい子だった。
「友だちともほとんど口を利かない無口な子で、みんなと遊ぶときはいつも列の最後尾についているような子だった。目立たない存在だったよね。将来、なりたい職業の目標もなかった。クラスの仲間は、プロ野球選手だとか、パイロット、社長……いろいろあったようだけどね。勉強では国語と社会が得意だった」
 当時、東京の街は1964年に開催される東京オリンピックに向け建設が盛んで、近代的都市へ向けて様相を一変させていた。
「だけど、足立区はそれに乗り遅れたというか、相変わらず下町の民家密集地帯で、戦後風景のままだった」と若月さん。
 1974年4月、中学を終えた若月さんは、水海道(茨城県)にあった養鶏場に就職する。
「親父が新聞の募集広告を見て応募してくれたんだ。大きな養鶏場で数万羽のニワトリが飼育されていた。ブロイラーだよね。作業員は10人くらいで、餌やりから、卵の収集、鶏糞の収集まで休みなく働かされた。鶏糞の収集が大仕事で、ニワトリを1羽ずつゲージから出してやらなければならなかったからね」
 だが、この住み込みの職場での仕事は長くはつづかなかった。わずか、1ヵ月ほどで辞てめしまう。
「それで足立区にあった紙工会社に転職する。この会社も親父が見つけてくれたんだ。紙工会社というのは紙を折ったり、裁断したり、綴じ合わせたり、紙を型で抜いてペイントしたりとか、そんなことを仕事にしている会社だ。すごい肉体労働で毎日クタクタになった。この会社は足立区内にあったから、このときは自宅から通ったが、家には寝るためにだけ帰るようなものだった」
 新しい会社に転職して、自分の給料で両親と祖父母の4人を養っていく気概で働き始めた若月さんだったが、転職して半年もしないうちにかく首されてしまう。クビである。
 若月さんははっきり言わないが、どうやら前の養鶏場もクビになった気配濃厚である。この極端までにおとなしく無口な少年は、集団で働くことに馴染めなかったのではないか。このあとトイレ用品販売店に職を得るが、早早に辞めている。工場勤めもままならぬ彼に、客商売など元々無理だったのだ。
 そして、次に若月さんが就いた仕事は、屋台のラーメン屋である。つまり、父親の仕事を手伝うようになったのだ。結局、3つの職場とも務まらなかった彼を、最終的には父親が面倒を見ることになったのである。
「それから20年以上、37歳の年まで親父といっしょに働くことになる。毎朝10時に自転車で家を出て、夜の材料の仕込みをしてくる。それから仮眠を取って、夕方の4時には親父と屋台を曳いて千住新橋の南詰めに行き、その決まった場所でラーメン屋を開く。20年以上毎日そうやってきたんだ」
 それは雨の日も雪の日も休まずにつづけられた。「千住新橋南詰めの屋台のラーメン屋は、いつでもやっている」お得意の客たちにそう信頼されるのが、客商売では何より大切だという父親の律儀なまでの商人哲学によるものだ。
「ラーメンづくりと客の相手は親父が担当し、オレはその後ろで具材のナルト巻きを切ったり、食器のドンブリや調理器具を洗うのが担当だった。冬の木枯らしの吹くなかで水を使ったり、真夏の暑い日に熱湯を使うのは辛かったけど、この仕事よりほかにオレにできることはなかったからね。これでがんばるより仕方なかった」
 朝の仕入れも若月さんの役目だった。父親が書いてくれた、その日に必要な材料のメモを持って、彼が麺材料卸の店まで自転車で受け取りに行った。
「ラーメンの一晩の売り上げは、平均で70杯くらい。でも、週末や休日、祭りや縁日のある日、天気予報が夜から雨になる、雪になるといっている日、寒い日、暑い日によって、ラーメンの売り上げは変わる。親父はその微妙な変化を読んで発注していた。オレには真似のできないことだったね」
 仕入れから帰ると、夕方まで仮眠して4時には屋台を曳いて家を出た。そして、千住新橋南詰めで仕込みの作業をし、毎晩7時には暖簾を出して商売を開始した。それが明け方近くまでつづく。そんな父親との二人三脚での仕事が、20年以上もつづいたのである。(つづく)

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