●ホームレス自らを語る 第137回 ラーメン屋台を曳いていた(前編)/若月一知さん(55歳)
「昭和33(1958)年、東京足立区千住の生まれ。家は両親に祖父母、それにオレの5人家族だった。オレはひとりっ子だったから、みんなに可愛がられた。とくに祖父母からは猫可愛がりをされて育った」
そう語る若月さん。といっても、こんなふうに流暢に語ったわけではない。こちらの質問に訥々と、まるで苦行する僧のように答えてくれるのだった。
「親父は屋台ラーメン屋をやっていた。毎日、夕方の4時頃一人で屋台を曳いて出かけ、そのまま千住新橋の南詰めのところで一晩中商売をして、朝、陽が昇ってから戻ってくるというのを繰り返していた。それで昼間はずっと寝ていたから、子どもの頃のオレはそんな父親の寝ている姿しか見ていなかった。商売としてはうまくいっていたんじゃないかな」
当時の足立区は町工場が多く、長時間残業を終えた労働者や、夜勤に向かう労働者などで街は一晩中人通りが絶えなかった。そんな労働者を相手にした屋台ラーメン屋は、結構繁盛したようだ。「自分の家が貧しかったという実感がない」と若月さん。
子どもの頃の若月さんは、当然ながらおとなしい子だった。
「友だちともほとんど口を利かない無口な子で、みんなと遊ぶときはいつも列の最後尾についているような子だった。目立たない存在だったよね。将来、なりたい職業の目標もなかった。クラスの仲間は、プロ野球選手だとか、パイロット、社長……いろいろあったようだけどね。勉強では国語と社会が得意だった」
当時、東京の街は1964年に開催される東京オリンピックに向け建設が盛んで、近代的都市へ向けて様相を一変させていた。
「だけど、足立区はそれに乗り遅れたというか、相変わらず下町の民家密集地帯で、戦後風景のままだった」と若月さん。
1974年4月、中学を終えた若月さんは、水海道(茨城県)にあった養鶏場に就職する。
「親父が新聞の募集広告を見て応募してくれたんだ。大きな養鶏場で数万羽のニワトリが飼育されていた。ブロイラーだよね。作業員は10人くらいで、餌やりから、卵の収集、鶏糞の収集まで休みなく働かされた。鶏糞の収集が大仕事で、ニワトリを1羽ずつゲージから出してやらなければならなかったからね」
だが、この住み込みの職場での仕事は長くはつづかなかった。わずか、1ヵ月ほどで辞てめしまう。
「それで足立区にあった紙工会社に転職する。この会社も親父が見つけてくれたんだ。紙工会社というのは紙を折ったり、裁断したり、綴じ合わせたり、紙を型で抜いてペイントしたりとか、そんなことを仕事にしている会社だ。すごい肉体労働で毎日クタクタになった。この会社は足立区内にあったから、このときは自宅から通ったが、家には寝るためにだけ帰るようなものだった」
新しい会社に転職して、自分の給料で両親と祖父母の4人を養っていく気概で働き始めた若月さんだったが、転職して半年もしないうちにかく首されてしまう。クビである。
若月さんははっきり言わないが、どうやら前の養鶏場もクビになった気配濃厚である。この極端までにおとなしく無口な少年は、集団で働くことに馴染めなかったのではないか。このあとトイレ用品販売店に職を得るが、早早に辞めている。工場勤めもままならぬ彼に、客商売など元々無理だったのだ。
そして、次に若月さんが就いた仕事は、屋台のラーメン屋である。つまり、父親の仕事を手伝うようになったのだ。結局、3つの職場とも務まらなかった彼を、最終的には父親が面倒を見ることになったのである。
「それから20年以上、37歳の年まで親父といっしょに働くことになる。毎朝10時に自転車で家を出て、夜の材料の仕込みをしてくる。それから仮眠を取って、夕方の4時には親父と屋台を曳いて千住新橋の南詰めに行き、その決まった場所でラーメン屋を開く。20年以上毎日そうやってきたんだ」
それは雨の日も雪の日も休まずにつづけられた。「千住新橋南詰めの屋台のラーメン屋は、いつでもやっている」お得意の客たちにそう信頼されるのが、客商売では何より大切だという父親の律儀なまでの商人哲学によるものだ。
「ラーメンづくりと客の相手は親父が担当し、オレはその後ろで具材のナルト巻きを切ったり、食器のドンブリや調理器具を洗うのが担当だった。冬の木枯らしの吹くなかで水を使ったり、真夏の暑い日に熱湯を使うのは辛かったけど、この仕事よりほかにオレにできることはなかったからね。これでがんばるより仕方なかった」
朝の仕入れも若月さんの役目だった。父親が書いてくれた、その日に必要な材料のメモを持って、彼が麺材料卸の店まで自転車で受け取りに行った。
「ラーメンの一晩の売り上げは、平均で70杯くらい。でも、週末や休日、祭りや縁日のある日、天気予報が夜から雨になる、雪になるといっている日、寒い日、暑い日によって、ラーメンの売り上げは変わる。親父はその微妙な変化を読んで発注していた。オレには真似のできないことだったね」
仕入れから帰ると、夕方まで仮眠して4時には屋台を曳いて家を出た。そして、千住新橋南詰めで仕込みの作業をし、毎晩7時には暖簾を出して商売を開始した。それが明け方近くまでつづく。そんな父親との二人三脚での仕事が、20年以上もつづいたのである。(つづく)
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コメント
時々よませてもらってます
とても人生は十人十色で面白いと実感させてもらいます
これからもよろしくです
投稿: | 2014年10月29日 (水) 01時46分