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2014年4月 1日 (火)

●ホームレス自らを語る 第135回 畳の上で休みたい(前編)/馬場小夜子さん(79歳)

1404 「上野公園」(東京台東区)内の「東京文化会館」近くで会った馬場小夜子さんは、79歳という高齢にかかわらずしっかりした口吻で話してくれた。
「ホームレスの生活はきびしいですから、ボケてなんかいられませんからね」という。
 その口から来歴が語られる。
「生まれは昭和10(1935)年、新潟県の直江津町(いまの上越市)でした。父親は地元警察の警官だったようです。私が生まれてしばらくして、母親が何かの事件に巻き込まれて殺されてしまったようです。詳しい経緯はわかりません。誰も話してくれませんからね。だから、私は母の顔を知らないんです」
 警官をしていた父親は、男手だけで乳飲み子を育てるのは無理ということで、馬場さんを養女に出す。
「私のもらわれた先の養家というのが、ひどい貧乏でしてね。農家の納屋に住んでいました。養父は元建設工だったようですが、作業中に脚に怪我をして、それから働けなくなって一日中ブラブラしていました。代わりに養母が近所の農家の仕事を手伝って収入を得ていましたが、いくらにもならなかったと思いますよ。ご飯はいつも麦飯で、ときにはその中に大根のブツ切りが混じることがありました。大根のご飯は冷めるとまずくて、とても食べられませんでした」
 馬場さんが物心ついた頃、すでに日中戦争の戦端は開かれており、小学校入学の年に太平洋戦争が始まり、1945年の終戦は小学4年生。彼女の幼年時代は、戦時一色に塗り込められた時代であった。ただ、田舎町の直江津は空襲に遭うこともなく、比較的のんびりとすごせたともいう。
 終戦から5年後、1950年、中学を卒業した馬場さんは東京に出てくる。
「その頃の東京は、戦災の爪跡がまだいたるところに残っていました。私は東京に行って働こう。それだけを思って、何のあてもなく出てきたんです。東京といっても右も左もわかりませんしね。とりあえず、東京駅で電車を降りて、駅近くの壁に貼ってあたった『女給募集』のビラをたよりに、いまでいうスナックのようなところで働き始めたんです。お客の話しの相手をしながら、お酒を勧めるホステスの仕事ですね」
 以後、四半世紀にわたる馬場さんのホステス生活が、ここから始まる。だが、その店での仕事は長くは続かなかった。
「その店にやってくるお客さんたちとはウマが合わないというか……私は田舎から出てきたばかりの15歳の小娘で、言葉の訛りもひどかったですからね。お客さんたちのほとんどの話題についていけませんでした。それにお店の人たちともうまくいかなくて、2、3カ月でやめてしまいました」
 東京駅近くの店をやめた馬場さんは、上野に移りキャバレーのホステスになる。

「上野はよかったですよ。水が合ったといいますかね。下町のお客さんはたちは気さくで、私の訛りも面白いと言って喜んでくれるんですから」
 その後、キャバレーやスナックなど、いくつも店を替えることになるが、ずっと上野界隈が中心で、離れても赤羽(北区)くらいまでだったという。
「ホステスの仕事で稼いだお金の半分は、田舎の養父母たちに送りました。15歳まで育ててもらったお礼で、それが約束だったですからね」
 養父母への送金は、ふたりが亡くなるまで律儀に送りつづけたそうだ。
 1950年代後半になると、当時、一大キャバレーチェーンだった「ハリウッド」が上野にも進出。馬場さんも同店のホステスになった。
「私は子どもの頃から歌うことが好きで、東京へ出てきたのは歌手になれたらという思いもあったんです。それは夢で終わりましたけどね。それでも歌が上手だということで、キャバレーのショータイムで歌わせてもらいました。『カスバの女』とか、『星の流れに』『岸壁の母』などをよく歌いましたね」
 歌えるホステスは店での人気者になっていく。ホステスの世界は売り上げを競い合う熾烈な闘いの場でもある。
「私もナンバーワン・ホステスの座を目指してがんばりましたけど、一度もナンバーワンにはなれませんでした。ナンバーツーかスリーまではなれるんですけど、どうしてもワンの座には着けませんでしたね。ワンになる人には特別な品格というか、雰囲気があって、美人だからとか、歌が上手だからくらいではなれないんですよ」
 さて、当時のキャバレーというと、いまのピンサロなどと違ってピンク度は低かったという。
「キャバレーはお酒を飲みながら、お客さんとホステスがお話しをしたり、ショーを見たりするところで、大人の社交場といわれホステスにもプライドがありました。ですから、お客さんに誘われたとか、変なことをされたということはありませんでした。胸とか、お尻を、ちょっとさわられるくらいのことはありましたけどね」
 このキャバレー「ハリウッド」で働いていた頃、馬場さんは恋に落ちる。
「深夜、キャバレーの仕事が終わってから、よくお馴染みのお客さんとラーメンを食べに行くことがあったんです。行く店はいつも決まっていて、そこでラーメンをつくっている店員さんにステキな人がいて、そのうちに私一人でも通うようになっていました」
 彼女の思いは、やがて相手の彼にも通じる。二人は相思相愛の関係になって、肉体的にも結ばれ結婚することになる。といっても、二人で神社に行って柏手を打っただけの結婚式であった。このときの馬場さん、24歳。人生の春がめぐってきた。(つづく)(聞き手:神戸幸夫)

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