●ホームレス自らを語る 第134回 夢見る52歳(前編)/香山博一さん(仮名・52歳)
豊島区の「東池袋公園」で会った香山博一さん(仮名・52歳)は、よく話す人で、話の内容がこちらの質問を超えて展開し、軌道修正するのが大変なほどよく話してくれた。その生い立ちから聞いていこう。
「生まれは東京・杉並区。昭和37年、西暦では1962年。3人きょうだいの長男で、下に弟と妹がいる。父親はサラリーマンで、あるメーカーの電算機室の室長をしていた」
電算機と言うのはコンピュータのことで、当時、その室長の地位にあったというのはエリート社員である。経済的にも恵まれ、香山家の暮らし向きは良かったようだ。
「父親以下、家族の全員が理数系に強い家系だったんだけど、なぜかボクだけは理数系がさっぱりで、社会科を中心にした文系が得意だった。勉強をするのは好きで、教科書や偉人の伝記をよく読んでいた。小学生の頃は学校帰りに、一人で区立図書館や博物館などに行ってたね。
それに子どもの頃から、目立つこと、人の上に立つことが大好きで、中学では演劇部に入って演出をやっていた。大きくなったらテレビタレントになりたいと思っていた時期もあった。漠然とだけどね」
いまは茫々の髭で顔の半分が覆われているが、よく見ると彼は鼻筋の通ったイケメン顔である。
香山さんは区立の小学校、中学校を出て、高校はD大学附属高校で学び、さらに埼玉県にあるJ大学経済学部に進学する。どこの大学でも経済学部は文系学部ということになっているが、経済学は夥しい数式を使って計算する学問分野で、どちらかといえば理系要素が強い。
「ボクは理系のことは、さっぱりわからないからさ。2年生の途中で授業についていけなくなって、大学に行かなくなった。そのうちに除籍になっていた。まあ、挫折したわけだよね」
J大を除籍になった香山さんは、あるロウソクメーカーの営業に職を得る。ロウソクの営業といえば結婚式場、葬儀場、仏具店、寺院、神社など限られた得意先を回るルート営業である。
その営業職の傍ら、彼はまた大学での勉学に挑む。こんどはK大学経済学部の通信教育を履修したのだ。懲りたはずの経済学に再度の挑戦をしたのである。
「K大の通信教育を受けることにしたのは、父親から『これからの時代は、大学卒の履歴があったほうがいい』とアドバイスされたからなんだ。でもK大の通信教育はすごかったよ。レポート提出の数と量が半端じゃないんだ。とてもルート営業の片手間にできるようなものではなかった。1年ももたずに投げ出していたね」
その後、香山さんは仕事のほうも、ロウソクメーカーの営業から、某ミシンメーカーの営業所勤務の仕事(駅前でのカタログ配布)に替え、さらに某照明器具メーカーの営業へと替えている。彼の23歳から27歳にあたる時期で、ときあたかもバブル経済が沸騰していた頃である。完全な売り手市場の時代で、仕事はいくらでもあったときだ。香山さんが勤務したという3つのメーカーは、いずもわが国を代表する一流メーカーである。
一時だが、香山さんは学習塾の講師を務めたことがある。
「笹塚(渋谷区)の先にあった高校受験のための学習塾で、社会科を教える講師になった。じつは、オレは人に使われて働くより、人の上に立って働く方が好きで、学校の先生になるのが子どもの頃からの夢の一つだったんだ。その意味で、塾の講師は理想的な職業だったから、はりきって教えたんだけどね……」
その学習塾は開業からわずか10カ月ほどで、閉鎖に追い込まれたのだ。
「笹塚の駅から遠くて立地が悪かったこと、個人経営の塾だったから十分な宣伝がかけられないことなどが重なって、生徒が集まらなかったんだ。はりきっていただけに、閉鎖のショックは大きかった」
当時を思い出すのか、いまでも無念そうに語る香山さんだ。
そのときの彼は27歳。いわゆる結婚適齢期だったが……。
「結婚はできなかったね。結婚願望は強かったんだけど、周りに深くつき合うような女性がいなかったのと、うちは父親と母親がとても不仲で、ケンカの絶えない夫婦だった。そんなのを見て育ったから、結婚生活に幻滅を感じていたところもあったんだな。ボクが結婚できなかった原因は、多分それだと思うよね」
香山さんが学習塾講師の職を失った頃、ちょうど父親がメーカーを定年退職する。そして、退職金を元手にして運送会社を始める。
「といっても、軽トラック1台だけの小さな運送会社だけどね。大手運送会社の下請けで、都内の営業センターから別の営業センターに荷物を運ぶのが仕事だった。それをオレと弟で手伝うことになった」
はじめのうちはバブル経済の絶頂期とあって、配送の仕事はいくらでもあり面白いように稼げた。しかし、会社設立から2年後にバブル経済は崩壊。一転してきびしい不況時代に突入する。
「それまで120円だった配送単価が、バブル崩壊からジリジリと下がって60円にまでなった。もう仕事をすれば、するだけ赤字になるという状態だよ。それで会社を畳むことになった。オレが33歳のときのことだね」
さらに、追い打ちをかけるように香山家に不幸が襲った。母親が不慮の死を遂げたのである。自殺であった。それまで饒舌すぎるほどに語っていた香山さんだったが、このときばかりはしばらく口を閉ざして黙するのだった。(つづく)(聞き手:神戸幸夫)
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