« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月

2013年11月 7日 (木)

池田大作より他に神はなし/第45回 街の中心を失った飯田橋に未来はあるのか? 残った版元が読者詐欺の秋田書店や変態性欲雑誌の巣窟・竹書房じゃ情けなすぎる。

  大ショック…。無論、池田大作名誉会長がご逝去、いや崩御なされた訳ではない。しかし飯田橋の住民にはそれに匹敵する大事件だ。な…何と、日本出版ジャーナリズム界の良心の象徴、潮出版社が移転してしまったのだ!! 全然知らなかった。某日同社先の立ち喰いそばの「ゆで太郎」で、かき揚げ丼セット(500円)を食べて社屋前を通ると、妙に閑散ムード。「?」ふっと見上げれば、大看板の社名が消されている。「な……何があったのだ!?」確か本愚連載でも同ビルの後ろ姿は、名誉会長のお背中を眺める様で、つい深く頭を垂れてしまうと書いた(偶像崇拝を断固拒否されている、名誉会長には失礼と知りつつも)。ショックでヨロヨロと入った「珈琲貴族」のスポニチに、偶然同社の広告。新住所を見れば遠くはない一番町と。いい所だが高級な場所すぎて、全国・全世界の弟子には縁遠くなった様で寂しい。それより何より、去る前に有名な平和の天使・鼓笛隊の大パレードくらいはして、悲しみの地元民を慰撫して欲しかった。靖国神社や東京大神宮、そこに群れる街宣騒音右翼の圧力にもめげず、地元同志のほとばしる熱意は、師弟直結の常勝の天地・関西の人々にも決して負けないと自負しているのだから。

Dscf8140s  潮出版社と言えば飯田橋、飯田橋と言えば潮出版社。正に“街の名刺”と言っていい巨大な存在だった。勿論、懸賞の当選者を誤魔化し続け、告発した社員を首にするような、近所の秋田書店とは人々の向ける眼差しも大違い(同じ出版業なのに…)。秋田には酔っ払いの生ゲロと同じ視線が浴びせられる一方、潮出版社の前では尊敬の念が渦を巻き(実際に枯葉が舞い上がるのを見た!)、立ち尽くす人々も続出、映画『未知との遭遇』状態。俗な表現をすれば“聖地”でもあった。前の歩道でビルを見上げてると、ふつふつと生気が湧いて来る。「民衆ゼッタイ勝利! 民衆ゼッタイ勝利!! 民衆ゼッタイ勝利!!!」更にそう小声でつぶやいてると、もうこの世に怖いものなどない。文字通りそういう純粋な心境に到達(ちなみに靖国神社や東京大神宮でも試みたが、腹が減った上に頭痛と吐き気が襲ったのみ)。

 「パンプキン」。潮出版社ビル地下には、20世紀末頃までそういう名前の喫茶店があった(その後は飲食関係が入居を繰り返した)。まだ師匠の偉大な教えに、本格的に目覚める以前。世間のバブルはとうに崩壊していたが、出版業界はまだまだ好景気(この状態は消費税アップの98年まで持続した)。当時は裏手の雑居ビルに事務所があり、泊まり込んでの仕事明けに初めて訪れた。500円前後だったと記憶するが、モーニングセットのコーヒーは並だったが、小振りのパンが上品な味。癖になって訪れるうちに、常備された『聖教新聞』や『公明新聞』、『潮』や『第三文明』他のインテリ向け媒体を熟読。漠然たる師匠への尊敬の念を、“生涯の哲学”と化せたのは人生最大の収穫だった。「パンプキン」ありがとう!

Dscf8143s  今回ほどではないにしろ、突然の同店閉店の際にはガックリ。出版業界の崩壊ととほぼ重なるため、「パンプキンで漫画家と打ち合わせしてた頃は…」と、記憶が美化され過ぎてる面もある。が、師弟共戦開眼に至る寺子屋だったのは事実だ。たった500円でお腹を満たした上に、弟子として師匠のために汗を流す知恵を得る。更に民衆絶対勝利のための平和戦争に参加出来る! 実に意義あふれる創造的創価の喫茶店であった。地下の“無冠の友”と呼ぶべきマスターや女性従業員も、早朝から頑張っていた。閉店はやはり潜伏した、地獄を這いずり回る一握りの日顕一派スパイの策謀だったのか?(潮出版社の女性向け雑誌、『パンプキン』と同名の喫茶店を、本拠地の地下で第三者が営むとは思えない。名誉会長の勅命での開店の可能性もある。そこでスパイが……) 

 陰謀史観めいたものは昔から信じない主義だ。ただ閉店間近い頃に妙な体験を。ウェイトレスから皮ジャンに紅茶をぶちまけられた。母校の明大生協で1万円だった安物だし、間違いは誰にもある。「クリーニング代を…」と謝る彼女を制して退店したが、驚いたのはそれを目撃していたレジのマスターが、しっかりコーヒー代を受け取った事。何て非常識な奴だ!(今思い出しても怒りで血圧アップ)。あるいはマスターは“無冠の友”などでは毛頭なく、日顕一派の草の者ではなかったかと今では。もっとも先日この話を例の赤崩れの警備員(元フリー編集者)にした所、スケベな目付きの長尻客を出入りさせまいと、マスターとウェイトレスが一芝居打ったのさとの暴言を。民衆の誠意を信じられない人間に付ける薬はない。(塩山芳明)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年11月 2日 (土)

●ホームレス自らを語る 第131回 希望のない人生だった・(後編)/小山さん(62歳)

1311  東京上野の広小路で会った小山さん(62)は強度の緊張症で、人と話していて緊張が嵩じてくると言葉が発せられなくなるという人である。この取材中にも、そんな状態に陥いることが数回あって、そのたびに取材は中断されるのだった(本稿は中断部分は割愛して構成してある)。
 出身は秋田県白神山麓の村。彼が小学3年生のとき、営林作業員だった父親が作業中に大ケガを負う。父親は九死に一生を得たものの、以後、亡くなるまでの17年間病床を離れることがなかった。それからは母親の手で、6人のきょうだいとともに赤貧のなかで育てられる。母親の苦労は並大抵ではなかったようだ。
「中学を終えて、地元の大工の棟梁に弟子入りしたんだ。仕事は住宅の新築や増改築工事が多かった。ただ、田舎だから住宅関係の仕事だけでは食えないからね。暇なときには、みんなで土木作業をすることもあった」
 そして、ここでも不幸な事故が起こる。棟梁に弟子入りして2年目のことだ。ある新築住宅の現場で1階と2階をつなぐ天井スラブコンクリートの型枠を外していたところ、そのスラブ全体が崩落。1階で作業をしていた棟梁の息子が、その下敷きになって死亡するという事故であった。それ以来、棟梁は跡取り息子を失ったショックで、仕事に身が入らない状態になり、小山さんはその元を離れ出稼ぎで働くようになる。
「出稼ぎの仕事では、夏は北海道で働き、冬は東京で働いた。ちょうどうまい具合に、そういうふうに季節に合わせた働き方ができたんだよ。北海道ではダムの建設はじめ、林道工事、宅地の造成などで働き、東京ではビルの建築工事、地下鉄や道路建設の現場で働くことが多かった」
 夏は涼しい北海道で働き、冬は暖かい東京で働くという労働環境は快適で、そうした飯場暮らしの出稼ぎ仕事が10年ほど続くことになる。この間にも、小山さんの周辺では不幸なできごとが続く。
「出稼ぎで働くようになって2年後、オレが19歳のときに、母親が病気で亡くなる。原因は乳ガン。ガンの発見が遅れて、あっという間に逝ってしまった。オレが小学生のときに、山で大ケガをした父親は、まだ病院に入院したままの状態のときだよね」
 苦労をかけた母親に家を新築してやろうと、長兄と協力して資金を貯めていたのだが、その希望も叶わなかった。
「それから営林作業中に瀕死の重傷を負って、17年間も病院のベッドに縛りつけられていた父親が亡くなる。オレが25か、26歳のときのことだ。両親を失って、オレのなかから生きる希望がなくなってしまったような気がしたね。もう、夏は北海道で働き、冬は東京で働くなんて気力はなくなって、東京にベッタリの生活になっていた」
 田舎のきょうだいたちとも連絡を取らなくなっていき、田舎に帰ることもなくなっていた。
 東京では土木建築の仕事が中心で、飯場とドヤ(簡易宿泊所)を行き来する生活だった。
「その頃から酒の量が増えて、稼いだ金の大半は酒代に消えていた」土木建築作業員からホームレスに堕ちてくる典型的なパターンを歩み始めたことになる。小山さんがこの時期就いた仕事に、千葉県佐倉市のユーカリが丘ニュータウン建設工事がある。このニュータウンの開発は、従来の事業主体が短期間に分譲して撤退する方式とは違い、少子高齢化社会の到来を見据えて長期にわたって分散建設、分散分譲し、人口構成の多様化を図ったニュータウンとして知られる。しかも事業主体は民間のデベロッパーで、それが大きな話題になりマスコミでもしばしば取り上げられた。
「そんな話を聞いたような気もするね」と小山さん。まるで他人事だが、建設作業員にとっては、そんなことはどうでもいいことなのだろう。
 多分その時期のことだろうと思うが(小山さん自身は、いつのことだったか忘れてしまったという)、仕事が休みだったある日、上野に出た小山さんは昼日中から酒を飲んだ。そして、そのまま酔いつぶれて公園のベンチで眠ってしまった。
「何時間か眠って眼が覚めたら、後生大事に持っていたカバンがなくなっていてね。眠っている間にマグロ(泥棒)に遭ったんだよ。そのカバンにはは現金はじめ重要な書類、作業で使う道具まで、オレの全財産が入っていたからね。それで現場に戻ることもできなくなって、そのままホームレスの生活をするようになったんだ」
 ホームレスなって、もう何年にもなる小山さんだが、普段はほとんど一人ですごすことが多いという。
「仲間と集団で生活することが苦手でね。だから、いつも一人で行動している。夜は上野駅前のビルとビルのあいだに段ボールを敷いて寝ている。食事も炊き出しなどには行ったことがない。すべて自給自足……飲食店のゴミ箱を漁って、食べられそうなものを拾って食べている。いまヘルニアで腰が痛くて、歩くのも休み休みで遠くまでいけないから、十分な量を拾えないのが辛いね」
 いつも一人でいるとは、すいぶん寂しい人生である。どうやら、それも緊張症が関係していそうである。
「65歳になったら生活保護が無条件で受けられるそうだから、そうすればアパートの部屋に入れて、人並みの暮らしができるからね。あと3年の辛抱だよ」
 最後に小山さんはそう言った。いま生活保護適用の条件は厳しくなって、65歳になれば無条件で受給できるわけではない。だが、それを信じて望みをつないでいる彼に、そのことを伝えることはできなかった。(この項了)(聞き手:神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »