●ホームレス自らを語る 第131回 希望のない人生だった・(後編)/小山さん(62歳)
東京上野の広小路で会った小山さん(62)は強度の緊張症で、人と話していて緊張が嵩じてくると言葉が発せられなくなるという人である。この取材中にも、そんな状態に陥いることが数回あって、そのたびに取材は中断されるのだった(本稿は中断部分は割愛して構成してある)。
出身は秋田県白神山麓の村。彼が小学3年生のとき、営林作業員だった父親が作業中に大ケガを負う。父親は九死に一生を得たものの、以後、亡くなるまでの17年間病床を離れることがなかった。それからは母親の手で、6人のきょうだいとともに赤貧のなかで育てられる。母親の苦労は並大抵ではなかったようだ。
「中学を終えて、地元の大工の棟梁に弟子入りしたんだ。仕事は住宅の新築や増改築工事が多かった。ただ、田舎だから住宅関係の仕事だけでは食えないからね。暇なときには、みんなで土木作業をすることもあった」
そして、ここでも不幸な事故が起こる。棟梁に弟子入りして2年目のことだ。ある新築住宅の現場で1階と2階をつなぐ天井スラブコンクリートの型枠を外していたところ、そのスラブ全体が崩落。1階で作業をしていた棟梁の息子が、その下敷きになって死亡するという事故であった。それ以来、棟梁は跡取り息子を失ったショックで、仕事に身が入らない状態になり、小山さんはその元を離れ出稼ぎで働くようになる。
「出稼ぎの仕事では、夏は北海道で働き、冬は東京で働いた。ちょうどうまい具合に、そういうふうに季節に合わせた働き方ができたんだよ。北海道ではダムの建設はじめ、林道工事、宅地の造成などで働き、東京ではビルの建築工事、地下鉄や道路建設の現場で働くことが多かった」
夏は涼しい北海道で働き、冬は暖かい東京で働くという労働環境は快適で、そうした飯場暮らしの出稼ぎ仕事が10年ほど続くことになる。この間にも、小山さんの周辺では不幸なできごとが続く。
「出稼ぎで働くようになって2年後、オレが19歳のときに、母親が病気で亡くなる。原因は乳ガン。ガンの発見が遅れて、あっという間に逝ってしまった。オレが小学生のときに、山で大ケガをした父親は、まだ病院に入院したままの状態のときだよね」
苦労をかけた母親に家を新築してやろうと、長兄と協力して資金を貯めていたのだが、その希望も叶わなかった。
「それから営林作業中に瀕死の重傷を負って、17年間も病院のベッドに縛りつけられていた父親が亡くなる。オレが25か、26歳のときのことだ。両親を失って、オレのなかから生きる希望がなくなってしまったような気がしたね。もう、夏は北海道で働き、冬は東京で働くなんて気力はなくなって、東京にベッタリの生活になっていた」
田舎のきょうだいたちとも連絡を取らなくなっていき、田舎に帰ることもなくなっていた。
東京では土木建築の仕事が中心で、飯場とドヤ(簡易宿泊所)を行き来する生活だった。
「その頃から酒の量が増えて、稼いだ金の大半は酒代に消えていた」土木建築作業員からホームレスに堕ちてくる典型的なパターンを歩み始めたことになる。小山さんがこの時期就いた仕事に、千葉県佐倉市のユーカリが丘ニュータウン建設工事がある。このニュータウンの開発は、従来の事業主体が短期間に分譲して撤退する方式とは違い、少子高齢化社会の到来を見据えて長期にわたって分散建設、分散分譲し、人口構成の多様化を図ったニュータウンとして知られる。しかも事業主体は民間のデベロッパーで、それが大きな話題になりマスコミでもしばしば取り上げられた。
「そんな話を聞いたような気もするね」と小山さん。まるで他人事だが、建設作業員にとっては、そんなことはどうでもいいことなのだろう。
多分その時期のことだろうと思うが(小山さん自身は、いつのことだったか忘れてしまったという)、仕事が休みだったある日、上野に出た小山さんは昼日中から酒を飲んだ。そして、そのまま酔いつぶれて公園のベンチで眠ってしまった。
「何時間か眠って眼が覚めたら、後生大事に持っていたカバンがなくなっていてね。眠っている間にマグロ(泥棒)に遭ったんだよ。そのカバンにはは現金はじめ重要な書類、作業で使う道具まで、オレの全財産が入っていたからね。それで現場に戻ることもできなくなって、そのままホームレスの生活をするようになったんだ」
ホームレスなって、もう何年にもなる小山さんだが、普段はほとんど一人ですごすことが多いという。
「仲間と集団で生活することが苦手でね。だから、いつも一人で行動している。夜は上野駅前のビルとビルのあいだに段ボールを敷いて寝ている。食事も炊き出しなどには行ったことがない。すべて自給自足……飲食店のゴミ箱を漁って、食べられそうなものを拾って食べている。いまヘルニアで腰が痛くて、歩くのも休み休みで遠くまでいけないから、十分な量を拾えないのが辛いね」
いつも一人でいるとは、すいぶん寂しい人生である。どうやら、それも緊張症が関係していそうである。
「65歳になったら生活保護が無条件で受けられるそうだから、そうすればアパートの部屋に入れて、人並みの暮らしができるからね。あと3年の辛抱だよ」
最後に小山さんはそう言った。いま生活保護適用の条件は厳しくなって、65歳になれば無条件で受給できるわけではない。だが、それを信じて望みをつないでいる彼に、そのことを伝えることはできなかった。(この項了)(聞き手:神戸幸夫)
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