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2013年10月

2013年10月 8日 (火)

池田大作より他に神はなし/第44回 名誉会長は病に伏しながらも、遠い空の彼方から365日24時間、我々世界中の弟子を温かく見守っていて下さる。

 去る9月9日以降、封切館で映画を観る回数が急増。めでたくシニアになりまして。恥多き60年の人生の唯一のメリットか? 国家は徴税以外は何もしてくれないが、興行界は微笑んでくれる…と一時は嬉しさの余り錯乱。今でも連中は平然と世界一の1800円もの入場料金を、大半のお客さまから強奪中。シニアサービスなど東電高給社員(人殺し集団)の赤い羽根募金だ。大人が1200円、学生が1000円、シニア800円位が妥当な額。最近多い女性や曜日による割り引きは煩雑で、余程の映画マニア以外は役に立たない。興行関係者の姑息さは、取り調べの録音・録画を部分的に行い、より巧妙な冤罪作りに邁進しようという、厚顔なニッポン裏金警察&検察レベル(及び後見人の最高裁事務総局)。実父の肛門以上に見苦しい。

2  我がつたない人生の還暦を祝すように、名誉会長の新刊が発売に。『多宝抄(たほうしょう)』(池田大作・光文社)だ。奥付の発行日が誕生日直後の9月30日。本当に有り難うございます!(この程度の誤解は許していただけるはずだ)ただ既に85歳の名誉会長、ご病気なのに新刊を出されて大丈夫なのか? “本書は、これまで執筆した随筆や対談のなかから、その「多宝の友」ヘのメッセージを抜粋し、筆を加えたものです”(帯文より)。な……何だ、いわゆる焼き直し本かぁ……。ちょっとガッカリ~。こういう場合に出版業界では、書名の上に“新装版”と入れるのが習わし。帯文で小さく断わっても、一般読者には分かりずらい。やはり潮出版社や第三文明社じゃなくちゃ駄目だ。一般出版社は目先の利益ばかり考え姑息な対応をしがち。名誉会長の周囲の者もどうかしている。ちゃんと担当編集者を監視・指導していたのか?(あるいは表面的に弟子顔をした、地獄を這いずり回る一握りの日顕一派の残党スパイの策動?)そんな非常識な版元にも「はじめに」で感謝を捧げている、名誉会長の優しさが美しすぎて怖いほどだ。

 “美しき心には美しき人生、強き心には強き人生。所詮、それぞれの「心の容器」にふさわしい人生しか、人は生きることができません”(115ページ「心の容器」より)

1_2  この谷川俊太郎タッチの詩を呼んだ際は動転した(無論、谷川が名誉会長の作風を模倣したのだが)。常に寛容の精神を忘れない名誉会長に、「甘えるのもいい加減にしなさい!」と一喝された気がしたのだ。偉そうに「焼き直し本かぁ…」との暴言を吐いた、60歳になっても思い上がり根性が抜けない未熟な自分。キリスト教徒が聖書を冒涜するに等しいハレンチ行為だった。その欠点をスッパリ断罪された思い。ここぞという時に適格な直言をいただくと、あたかも名誉会長が遠い空の彼方から、我々弟子たちを24時間見守って下さっている…そんな気さえして来る。

 そう考えているのは私だけではない。『聖教新聞』(9月24日付け)の「名字の言」によれば、若き日の名誉会長は、「レントゲン」との異名をがあったという。ほんの短い出会いの中で、友の悩みや課題を見抜き、ズバリと適格な激励を残すのが常だったためと。全国、いや全世界の人々が、本物の冷たい金属のレントゲンと異なり、福々しいお顔の名誉会長の言葉に、慈愛や真実の重みも同時に感じていたはずだ。弟子がネズミ算的に急増したのも、実に自然な事だ。

 「レントゲンにさらされ過ぎて、放射能で奇形障害起こしてるネズミどもが、衛星カメラでの24時間監視下、焼き直し本を買わされて、チュ-チュ-喜んでる訳か。福島原発の放射能も加わって、頭が3つも4つもあるネズミが急増しそうだな。光文社も光文社だ。俺たちの世代からすりゃ、輝ける光文社闘争に完全勝利した版元だ。それがよりによって、奇形ネズミのエサ本を嬉々と出すとはねえ。光文社闘争とか日本教育新聞社闘争って、一体何だったのさ?」

 例の元フリー編集者で現警備員の幼友達だ。「出入り禁止にしたはずだが……」「俺もこの前は言い過ぎたと反省してんだ。これ粗末なもんだけど……」確かに粗末な手みやげだ。還暦過ぎた白髪男が、「吉野家」の牛丼を2人前差し出す。「反省してる割に今日も暴言吐いてるな」「1度決定したキャラは、そう安易に変えられねえよ。来月から徐々にキャラ矯正するから…」返事も待たずに勝手に牛丼を食べはじめる始末。しかも良く見れば自分のだけは大盛り。失業→アル中→妻子逃亡→一家離散の運命を経ても、赤色思想に1度狂った者の人生は簡単にやり直せないものらしい。名誉会長のおっしゃる通り、そういう「心の容器」だったのか?(つづく)(塩山芳明)

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2013年10月 5日 (土)

●ホームレス自らを語る 第130回 希望のない人生だった・(前編)/小山さん(62歳)

1310  今回取材したホームレスの小山さん(62)には、JR上野駅近くの上野広小路(中央通り)の路傍で話を聞いた。緊張するタイプだという彼は、取材の途中で緊張が嵩じて言葉が発せられなくなることがあった。そんなときは取材を中断して、彼の緊張が解けるのを待って行い、時間のかかる取材になった。
「生まれは白神山地の秋田県側の麓の村で、昭和26(1951)年の出生。父親は営林署の請負いで白神山地に入り、国有林の営林、枝打ちや下草刈り、間伐材の伐採などを仕事にしていた。それに家には田畑があって、そちらは母親が耕作していた。といっても、家族で食べる米と野菜が収穫できる程度の小さな田と畑だったけどね。きょうだいは6人。オレは3番目で上に姉と兄がいた」
 楽とはいえないまでも、慎ましく平穏な山里での一家の暮らし。その平穏が破られるのは、小山さんが小学3年生のときのことだ。
「父親が山で営林作業中に大ケガをしたんだ。伐採した間伐材にワイヤーを巻いて集積作業をしていたら、ワイヤーが切れて近くの立ち木に絡みついてしまった。それで父親がその木に登ってワイヤーを外そうとしたら、突然、ワイヤーが跳ねて父親の身体を打ち、父親は下の切り株に思いきり叩きつけられたということだった」
 ただちに仲間の車で病院に運び込まれた父親だったが、その身体の肉は裂け、何箇所も複雑骨折し、傷ついた内臓もあった。診断した医師も「これでは助からないだろう」と思たという。だが、治療の甲斐あってか、父親は奇跡的に一命を取り留めた。
「九死に一生を得た父親は、それから17年間も生き延びた。ただ、それから亡くなるまで、病院のベッドから離れられなかったけどね。父親の入院治療費は労災保険から支払われたと思う。大変だったのは母親の方で、6人もの子どもを抱えて途方にくれたんじゃないのかな」
 その子どもも学齢期か、就学前の子ばかりの6人である。彼らに食べさせて生計を立てるために、母親は自分たちの田畑の耕作に加え、近隣の農家の仕事を積極的に手伝って現金収入を得たのだという。そうはいっても、その貧窮ぶりは、想像してもあまりあるものがある。
 そこで当時の暮らしぶりについて、小山さんに聞いてみた。すると彼は急に押し黙ってしまい、顔面を紅潮させて、呼吸を荒くしていくのだった。やがて、瞳を潤ませたかと思うと、両手で顔を覆ってしまった。当時のことを思い出して、緊張感を高ぶらせてしまったようだ。
 この質問が辛いようであったら、答えなくてよい旨を伝えると、彼は両手で顔を覆ったままで、二度「うん。うん」と頷いた。母親の労苦や貧窮の様子は想像するしかない。

 中学を終えた小山さんは、地元の大工の棟梁に弟子入りした。気分を落ち着けた小山さんが語る。
「仕事は住宅建築や増改築が多かった。ただ、田舎だから住宅関係の仕事だけでは食えないから、暇なときには土木作業をすることもあった。道路工事とか、河川の堤防工事とかだね。住宅建築のときも土地の造成から、基礎工事まで、全部棟梁が指揮して、自分たちでやったんだよ。それでオレは建築から、土木のことまで一通りのことはできるからね」
 そのころ家を継いだ長兄から、「古くなった家を新築して、母親にプレゼントしたいから、おまえも一口のってくれ」と相談され、小山さんは大工見習いの少ない給料から月々いくばくかの金を提供するようになる。家族思いの真面目な青年だったのだ。
 小山さんが弟子入りした棟梁には一人息子がいて、いずれは棟梁の跡を継ぐことになる彼も、いっしょの現場で働いていた。小山さんが働くようになって2年目に、住宅建築の現場で事故が発生する。
「天井スラブの型枠をバラしているとき、そのスラブが崩落して、棟梁の息子がその下敷きになって死亡してしまったんだ」
 天井スラブとは天井構造の基礎になるコンクリートのことで、現場で生コンクリートを打設して構築する。
「棟梁だとかいっても、田舎の棟梁だからね。構造設計の知識があるわけじゃない。すべて現場での経験と勘だけで仕事をしているわけだからさ。コンクリート内部の配筋の量が足りなかったのか、養生期間が短かすぎたのか、理由はよくわからないが、とにかく天井スラブが全部崩れて落ちてしまったんだ」
 コンクリートの養生というのは、施工後、コンクリートが硬化するまで、一定の水分量と温度で保つことをいい、外気温によって養生期間が変わってくる。
「まあ、運が悪くというか、たまたま棟梁の息子だけが下にいて、その犠牲になってしまった。事故で跡取り息子を失うことになった棟梁の、それからの落ち込み方はひどいもんで、仕事どころじゃなくなちゃってね。そんな棟梁の下についていても仕方ないんで、オレもそこから離れることになった」
 以後、小山さんは夏は北海道、冬は首都圏で働く出稼ぎ人生を送ることになる。それから2年後、彼が19歳のときに、母親を病で失うアクシデントに遭遇する。
「母親が亡くなったのは、乳ガンが原因だった。ガンの発見が遅れて、あっという間に逝ってしまった。オレが小学生のときに、山で大ケガをした父親は、まだ病院に入院している状態だったのにね。この両親のことといい。棟梁の息子のこともそうだが、どうしてオレの周りでは不幸ばかりが続くんだろうと思った。生きる希望を失うようなできごとばかりだからね」
 それから小山さんは、しばらく口を噤んだ。その両肩が小刻みに震えていた。(つづく)(聞き手:神戸幸夫)

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