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2013年6月 2日 (日)

●ホームレス自らを語る 第126回 左手の指5本を失って(前編)/林幸治さん(仮名・56歳)

1306  上野恩賜公園(東京・台東区)で会った林幸治さん(仮名・56)の左手には、黒い手袋が嵌められ、しっかり固定されていた。
「土木作業員をしていた20代半ばに、コンクリートポンプ車の駆動部分に左手が巻き込まれてね。指5本を失ってしまった。それがホームレスになった直接の原因ではないが、少しは関係しているかもしれないね」と語る林さんだ。
 その林さんは宮城県の出身。山形県との県境に近い山深い田舎に生まれた。上に姉2人がいる末っ子だった。
「父親はオレが生まれてすぐに病死したらしい。詳しいことはわからない。だから、父親の記憶は何もない。それで母親が土方仕事に出て、オレたち3人を育ててくれた。ヨイトマケ仕事だよね。だけど、女仕事だから、たいして稼げなかったんだろうな。すごい貧乏で、いつまでもテレビが買えずに、隣近所の家に行っては見せてもらっていたよ」
 子どもの頃の林さんは勉強がやや苦手で、スポーツの得意な少年だった。
「野球と卓球が得意だった。とくに野球は中学校の部活でやって、7番レフトでレギュラーだったよ。ただ、あまり強いチームではなくて、郡の大会以上に出たことはなかった。少年時代になりたかった夢? そんなものはなかったね」
 林さんは中学を卒業して東京に出てきた。集団就職である。築地市場の近くにあった米穀店に就職した。
「中学卒業で就職したのは、家が貧しかったこともあるけど、勉強が嫌いだったからね。就職した米穀店には支店が3つもあって、従業員も30人以上いる大きな店だった。15歳で親元を離れて働くことになったわけだけど、ホームシックにかかるようなこともなかった。前々から、東京に出て住み込みで働く覚悟ができていたからね」
 仕事は米の配達が主だった。荷台の大きな配達用の自転車に米袋をいくつも積んで、中央区から千代田区の飲食店や一般家庭、それに築地市場内の店に配達してまわった。
「初めのうちは重い米袋を積んだ自転車がうまく扱えなかったり、都心の道を覚えられなくて往生したけど、先輩たちがみんな親切に教えてくれたり、手伝ってくれたりしてね。おかげで仕事に慣れていき、何とか働けるようになった」
 愉しみは旧盆と年末年始の休みに、土産をいっぱい抱えて母と姉たちの待つ田舎に帰ることだった。

林さんには将来一本立ちして、自分の店をもつような夢はなかったという。
「そういう野心のようなものは、まったくなかったね。だから、その米穀店も5年ほどでやめてしまう。毎日毎日米の配達ばかりで、飽きてしまったんだな。結構な肉体労働だしね。少し目先の変わった仕事をやってみたいと思ってさ」
 林さんが新たに就職したのは、小さな工務店である。大手建設会社の仕事を孫請けしている工務店で、彼はその正社員に雇われた。
「仕事は手元といわれる一番下っ端の雑用係をずっとやっていた。せっかく正社員になれたんだから、玉掛けの資格でも取ったらどうだと先輩からいわれたりしたけど、そんな気はさらさらなかったね。手元の仕事をやらせてもらえれば十分の気持ちだった」
 仕事は戸建て住宅やマンションの建設工事が中心で、高度経済成長下とあって途切れることなくあった。
「その頃になると酒やタバコを覚えて、休日前には同僚たちと居酒屋に繰り出したり、寮の部屋で酒盛りをしたりしてね。同僚のなかには浴びるほど飲む人もいたけど、オレはほどほどに飲むだけだった」
 仕事に野心をもたない林さんは、遊びのほうも万事控え目であった。ギャンブルといっってもたまにパチンコをやるくらいで、競馬や競輪の類には一切手を出さなかった。それでも金はたまらなかったと笑う。手元作業でもらえる給料には限りがあったからだろう。しかし、林さんはそのほどほどの生活に満足を感じていたようだ。
 そんな彼を不幸が襲うのは、入社して5、6年したときのことである。その日の作業はコンクリート打設(コンクリートを流し込む作業)であった。作業は順調に進行していた。
「幾台ものコンクリートミキサー車がやって来て、コンクリートポンプ車にコンクリートを流し込んでいく。その1台を誘導して所定の位置に停め、コンクリートを流し込むシュートを開いたときだ。身体のバランスを崩して前にのめり、ポンプ車のコンクリート受け口に左手を突っ込んでしまったんだ」
 コンクリートを攪拌して駆動する機械装置に、左手の5本の指が巻き込まれ押し潰されていった。すぐに機械が停止され、救急車が呼ばれ林さんは病院に搬送された。
「診断した医師は、左手の指5本を切断するしかないと言った。どの指も潰れてはいたが、5本ともつながっていたから、切断しないで治療できないかと訴えたんだが、5本とも中に生コンクリートが詰まってしまって、切断以外に治療の方法はないということだった。身体中の力が抜けて、目の前が真っ暗になるようだったね」
 そして、林さんは左手の指5本を失うことになる。会社は業務中の事故ということで、労災の手続きを取ってくれた。さらに、同じ理由で解雇の対象にせず、引き続き現場に出て働くのを許してくれた。左手のハンデを抱え以前のように働けない林さんだったが、会社の恩顧に報いるために懸命に働いた。
 仕事仲間たちも協力して、遅れがちな林さんの仕事をサポートしてくれた。しかし、事故から5年ほどして、会社を辞めなければならなくなる。(つづく)(神戸幸夫)

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