●ホームレス自らを語る 第120回 人生は思い通りにいかない(前編)/丘さん(仮名・65歳)
「生まれは杜の都・仙台。昭和22(1947)年の生まれだから、御年65歳になる」
開口一番、丘さん(仮名)はそう言ってから、帽子を脱いで頭をグッと突き出し「見てくれ」と言った。白髪のない艶々しい黒髪が彼の自慢で、人から10歳は若く見られるのだという。
いま何の屈託もなく話す丘さんだが、幼少期から壮年期にかけては人見知りがひどくて、他人とはほとんど口が利けない状態が続いたそうだ。
「無口な子でね。学校の先生からも、おまえはいるのか、いないのかわからない子だと言われた。それくらい無口だったんだ」
その彼は父親がサラリーマンをしていた家庭に一人っ子として生まれる。父親がどんな会社で、どんな仕事をして働いていたのかはわかっていない。父親の仕事には興味がなかったのだ。役職は最終的に、部長まで昇進したようだという。丘家の生活程度は特別に裕福でもなく、かといって特別に貧しかったわけでもなく、中流の平均的な家庭だった。
「まだ薪を燃やしてお釜でご飯を炊いていた時代だからね。テレビや洗濯機、冷蔵庫、炊飯器などの電化製品がひと通り揃うのは、東京オリンピック(1964年)があった頃だったんじゃないのかな。周りの家も、みんなそんなものだったよ」
無口で人見知りのひどい少年だったが、勉強はできたほうであった。とくに算数の計算が得意で速かった。公立の高校を卒業して、経理の専門学校に進む。そこで商業簿記2級と珠算(ソロバン)2級の資格を取得する。両資格とも取得難易度が高く、当時はこの資格があれば一生食いはぐれることがないともいわれた。ところが、彼はその後の人生で、このせっかくの資格を使って就職することがなく終わるのだ。
「まあ、人生というのは、こう生きたいとか、こういう仕事に就きたいと思っても、なかなか思った通りにはいかないものさ。専門学校を卒業したときに、知り合いの人にたのまれてレストランの厨房で働くことになったんだ。コックの見習いになったわけだね」
ただ、知り合いから紹介されたレストランだっただけに、先輩たちが親切で働きやすい職場だったという。仕事は朝の10時から夜の11時までフルタイムで働いたが、とくに辛いと思うこともなかった。
「それにオレには簿記と珠算が2級という特技があっただろう。それでレジを手伝ったり、伝票計算や帳簿付けを手伝ったりして、店のオーナーやスタッフから、すごく重宝がられてね。居心地のいい職場だったよ」
やがて、見習いから調理もまかされるようになり、一人前のコックになっていく。肉料理が得意の、なかなか腕の立つ料理人に育ったようだ。
丘さんは、その居心地のいい職場を、5、6年ほどでやめてしまう。別の店に好条件で引き抜かれたのである。コックや板前など料理人の世界ではよくある話で、以後、丘さんはレストランや和食料理店、割烹などを中心にいくつかの店を渡り歩くことになる。
丘さんは最初のレストランから、同じ仙台市内の小料理屋に引き抜かれ、こんどは和食の包丁をふるうことになった。洋食から和食への転換だが、その辺は器用にこなしてしまう人でもある。で、その店によく飲み来る常連の女性客があった。カウンター内で働く板前たちは、客との会話も仕事のうちと心得て口の達者な人が多い。そんななかにあって客とも同僚とも言葉を交わさないで、黙々と仕事に励む板前がいた。
「その若い女性客には、仕事に熱心で寡黙な板前が新鮮に映ったらしい。オレのことだよ(笑い)。カッコいいとも思ったようだ。彼女のほうから声をかけてきて、少しずつ話すようになってね」
ふたりはつき合うようになった。相手の女性は仙台市内の会社で働くOLであった。そして、丘さんが22歳か、23歳のときに結婚。2間続きのアパートの部屋を借りて、新婚生活を始める。やがて、ふたりのあいだに女の子が生まれた。
その間にもいくつか店を替えて、「腕を磨いていた」(本人談)丘さんだったが、30歳の頃に独立する。
「小さな店だけど、自分で経営する店を持ったわけだ。店は小料理屋で女房と2人で切り盛りした。大繁盛ってわけにはいかなかったけど、家族3人で食べていくには十分に稼げたね」
経営のほうは順調だったが、店を始めて5、6年したころから、丘さんの気持ちに変化が現れるようになった。
「小料理屋の商売は順調だったし、家庭的にも問題はなかったんだが……何ていうか、料理人としての誇りっていうか、このまま小さな店の板前で終わっていいのかと思うようになったんだな。仙台のような田舎町に燻っていないで、料理の本場で勝負を懸けなくちゃいけないんじゃないか、料理の本場で腕を磨かなくちゃいけないんじゃないか、そんなふうに思ったわけだ」
35歳か、36歳のとき、丘さんは改めての料理修行のために単身上京する。妻と子は仙台に残った。自分たちの店の経営があったからだ。
「料理の最高峰といえば日本料理だ。そのなかでも一番は京料理。オレは京料理の店に入って、一から修行し直して腕を磨くつもりだった」
京料理修業を志ながら、京都ではなく東京を目指したというのが、いかにも丘さんらしくておかしい。ともあれ、30代半ばになって意を新たにした丘さんは東京に出てくる。(つづく)(神戸幸夫)
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コメント
この記事のコメントで無いので申し訳ないのですが
100人のホームレスが居れば、100の人生が有り、興味深く読ませて貰いました。
そんな彼らも団塊の世代が多いですね、そう言う私もその世代ですが
記事の中で唯一つ気になった事があります。それは、ホームレスの幾人かが心を悩んでいると言う記述です。私にはその悩みが分裂症ではないかと思い
、もしかしたら鬱病も多いのでは無いかと想像しています。と言うのも、私は10年前に鬱病を発症し
5年前からは更に症状が重くなり悶々と休んでばかりでした、そんな私を見ていた妻が
「もう子供も妻帯し独立したので思い切って会社を辞めたら」と言ってくれたので私は安心して退職が出来ました。5年前の事でした
もしあの時、家族の絆が薄ければ私は確実にホームレスに成っていた事でしょう。
だから、鬱病を発症した孤独なホームレスの人が生きるのはとても苦く困難な
事が想像出来ます。
社会の底辺に生きる人々、しかし体で社会を支え、飄々たる彼らの生き様は十分に理解出来るのです。
投稿: tomato | 2013年1月 2日 (水) 23時37分
偶然こちらのサイトにたどり着き、それから何回も訪問しています。
ホームレスの人たちがどのような人生を送り、何を考えて生きているのかとても気になっていたので、大変興味深く記事を拝読しました。
これからも楽しみにしています。
投稿: キャラメル | 2013年1月 6日 (日) 20時35分
tomato様
コメントの投稿をありがとうございます。
ご指摘のとおりホームレスには精神を病んでいる人が多く、ある精神科医グループが都内で行った実態調査で、ホームレスの6割の人が何らかの精神疾患に罹病しているという報告がされております。
疾患の内訳はうつ病40%、統合失調症(分裂症)15%、アルコール依存症15%だったとのことです(合計が60%を超えるのは併病者がいるためです)。
こうしたホームレスに対して、ホームレス支援団体が定期的に開いている医療相談、前出の医師グループらによる不定期の現地検診などが行われていますが、相談や受診にに来ないホームレスが多いなどの理由で、十分な支援が行われていないのが実情です。
引き続きホームレス問題に関心をお持ちくださいますよう。
神戸幸夫
投稿: 神戸幸夫 | 2013年1月 8日 (火) 12時27分
キャラメル様
ご愛読ありがとうございます。
これからも一人でも多くのホームレスの声を届けて参りたいと考えております。
神戸幸夫
投稿: 神戸幸夫 | 2013年1月 9日 (水) 10時58分