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2011年10月30日 (日)

編集部の女の子/死刑台のエレベーター

1 先日、早稲田松竹という映画館で『死刑台のエレベーター』『地下鉄のザジ』という映画を二本立てで観てきました。凄いんです、早稲田松竹ったら、学生ではなく「大人」な私に、たった1300円で映画を2作品も観せてくれるんです!なんていうのはまぁ置いておいて、今日は少しだけ、映画や芸術の知識の全くない私が、2つの作品についてお話ししたいと思います。

 監督は両作品とも、1950年代末にフランスで起こった映画運動、ヌーヴェルヴァーグの若き映画監督・映画作家、ルイ・マル。文化や芸術に興味はあるものの24年間無趣味を貫いてきた私。今回も人に連れられる形で映画館に足を運びました。

 サスペンスの金字塔といわれる前者は、本当に息つく暇のない、緊迫感みなぎる素晴らしい映画でした。主演はモーリス・ロネとジャンヌ・モロー。2人が電話越しに愛を語りあう、それも、受話器に耳をぴたりと当て、吐息まじりのかすれ声で"Je t'aime (愛してる)"をささやきあうシーンから物語はスタートします(なんともフランスらしいですね)。映画は直前のCMに続き突然始まるのですが、のっけから、そのねっとりとした空気感に圧されて身震いしました。2人とも色気ムンムンで、「美しい」という言葉がぴったりだった。モーリス・ロネにはどこか気もそぞろな様子も見受けられるのですが(物語の展開からすればすぐに腑に落ちます)、対するジャンヌ・モローの熱を帯びた視線や表情、妖艶さと言ったらもう。マイルス・デヴィスの奏でる叙情的なトランペットの音色が、2人の熱をさらに増幅させるんです。映画の始まりがこれですから、展開を期待せざるを得ませんよね。その期待は最後まで裏切られることはありませんでした。素晴らしかった。ああ、語彙が少なすぎて表現できない…(泣)!ストーリー、キャスト、演出、カメラワーク、音楽、どれをとっても非の打ち所のない、見事な映画でした。特にジャンヌ・モローが夜の街を彷徨い歩く姿には、彼女の内面に溢れる不安、焦燥感、悲哀が見事に映し出されていたし、マイルス・デイヴィスによる即興演奏は彼女の心情を溶かし出しているようでした。終わり方も凄くいいんです。なんと言っても驚きなのが、この映画がルイ・マル氏のデビュー作で、さらに25歳の時に制作したということ(数年以内に同じ事をやれと言われても絶対に無理!!!!!)。歴史に名を残す人は凄いなぁ思うのでした。きっと感性豊かな方だったんだろうな。

 さて、『地下鉄のザジ』の方はというと、同じ監督が撮ったとは思えないくらい雰囲気の異なる前衛的作品でした。「私はメトロに乗りたいのよなんなのよもう!キーっ!」と言わんばかりに、おてんばで破天荒なザジがまわりの大人を振りまわしていくんです。その中で、登場人物それぞれのストーリーや問題提起が展開されていくわけですね。正直なところ前衛芸術はあまり理解できない私としては(素晴らしいと思うし理解できればおもしろいのだろうけれども)、好みかどうかと聞かれれば否、かなぁ。どうも革新的なものは攻撃性・暴力性をなしにしては語れないイメージがあり、またシニカルな雰囲気に満ちているため、観ていて「痛い」んです。あーやっちゃったよ的なニュアンスの若者が使う「イタい」ではなく、突き刺さるような、顔をしかめずにはいられない感覚的な「痛」さ。もちろん私の場合は、という話なのですが。それでもこの映画は、テーマや手法が斬新かつ興味深く、歴史的に大きな意味があったことは分かった。観る人によればものすごくおもしろいのでしょう。理解できないのが残念でした。ちなみに、ザジは小学校低学年くらいの女の子なのですが、表情や動き、笑い声など、とてもかわいらしかったです。子ども好きの私としてはたまらなかった!でも、私がママだったら、もうちょっと違う躾をするだろうな、なんて考えながら見ていました。

 惜しむらくは、フランス語がちんぷんかんぷんなこと。どうも聞いていると、韻を踏むようなリズムのある台詞が多かったんです。台詞の長さに対して、明らかにサブタイトルが短かったり。日本語に訳すと言葉そのものが持つニュアンスや背景が排除されてしまい、台詞から読み取れる情感や風合が剥ぎ取られてしまう、それが残念で仕方ありませんでした。翻訳してさらに韻を踏むのは困難でしょうし。余談ですが、例えばドストエフスキーの『罪と罰』では、物語の始めにラスコーリニコフが延々と歩き続けますよね。あのシーン、そんなに歩くことないだろ早く物語展開させてよと思って読んだのですが(不謹慎ですね)、編集部の方によると、ロシア語の「罪」という単語にはそれ自体に「踏み越える」という意味が含まれているそうです。原文で読まないと分からないこと伝わらないことってたくさんあるんです。英語だってそう。イギリス留学中、「~に興味を持ったきっかけ」を説明するのに'motivate'を使ったら、「それは犯罪の動機を説明するときによく使われる単語だからおかしいよ」と言われました。日本だとモチベーションなんて言って、むしろポジティブな文脈で使うものなのに!話が逸れましたが、原語で観賞するのがやっぱりいいと思うんです。

 以前から考えていたことなのですが、文化や歴史、背景が分かれば芸術作品をを理解できるのでしょうか。答えはNO。知らないよりは知っていた方がいいのはその通り。しかし、その作品を、言語という側面から理解しないことには本当の意味で「理解」することはできないのではないか、というのが私の考えです。上記のように、概念や価値観を反映する鏡のようなもの、それが言語。雰囲気などでなんとなく伝わることもある。背景知識が理解を手伝うこともある。それでも、言語を介した芸術作品である以上、結局は言語を介して説明しない限り正確にコミュニケートすることはできないのではないでしょうか。イギリス留学初期、何となく雰囲気でコミュニケーションが取れるだろうと思っていたら、言語が分からないと概念や価値観を共有できないんだと痛感したことを思い出します。だいたいこういう事なんだろうなぁ、でも本当にそうなの?となる。多様な単語・言い回しの中から何を選びとるのかによっても、表現するニュアンスは変わるしそこに表現者の意図や価値観が浮かび上がる。そういうものではないのかと。とにもかくにも、より深いレベルで文学や映画など芸術作品を吟味できるようになるのはものすごく難しいんだなぁなんて思う、芸術には疎い文学部出身の私です。

 近年の映画を観ていると、とにかく派手さや壮大さ、スピード感ばかりが強調されているように思えて、ちょっと飽き飽きしていたんです。とりあえず爆発するとかどでかい事故が起きるとか激しいカーチェイスが繰り広げられるとか血しぶきが飛ぶとか、そういうものが多い。エンターテイメントとしての映画は、確かにおもしろいけれども味がない。お金稼ぎの道具みたいで画一的になってしまったのも残念だなぁと。他方芸術作品として語られるべき映画もたくさんあるのですね。黒澤明氏の作品はどれも素晴らしかったし、今回のルイ・マル監督の作品も素晴らしかった。芸術って、いいですね。私もなんとなく理解できるような年になったということか…というのは良いとして、そういう、人間味に溢れる、深く深く入り込めるような「芸術」に、また出会えたらいいなぁと思ったのでした。

 とてもステキな作品だったので、皆様もよろしければぜひ。映画館の大きなスクリーン、迫力ある音響のもと観賞するのをオススメしますが、今はもう無理なのかな。と思っていたら、『死刑台のエレベーター』は日本語リメイク版に合わせてニュープリント版も放映されるようです。画像や音声を綺麗にした復刻版かな。とにかく、皆様に観賞していただけたら、またこれを機に何か思いをめぐらせるきっかけになれば幸いです。後生に受け継ぐべき素晴らしい作品でした。ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』『地下鉄のザジ』をご紹介しました。(雨宮)

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