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2011年4月 4日 (月)

●ホームレス自らを語る 第100回 100回も死にはぐった(前編)/高橋善春さん(71歳)

1104  日比谷公園(東京・千代田区)で会った高橋善春さん(71歳)は、これまでの生涯で100回は「死にはぐっている」(死にそうになった)という。
「一番最初に死にはぐったのは、小学生の遠足で銚子ヶ滝という滝を見に行ったときだ。高さが50メートルもあって、自殺の名所として有名なところでね。その滝口を上から覗き込んでいて、苔に足を滑らせ滝壺に転落しそうになった。傍の岩にしがみついて難を逃れたが、落ちていたらお陀仏だったな」
 高橋さんは福島県郡山市の出身。同市には常磐熱海という温泉郷があるが、その熱海地区の生まれである。銚子ヶ滝も同じ地区内にある観光名所だ。
「郡山は東北のシカゴとか、東北ギャングの街とかいわれていたんだ。対立する2つの暴力団があって、その抗争が絶え間なくてね。本格的な抗争になると、警察も手を出せないほど激しかったんだから」
 のちに高橋さん一家は東京に出てくることになるが、彼の話は郡山時代と東京時代を脈脈絡なく行ったり来たりで、その整合性を整えるのが大変である。
その頃、父親は近くの高玉鉱山で鉱山作業員として働き、金や銀を掘り出していたようだ。「高玉鉱山といえば日本三大鉱山の一つで、東北一の鉱山だったんだよ」と高橋さん。その高橋さんが2度目に死にはぐったのは、やはり郡山時代のことだが、年齢の記憶はないという。
「猪苗代湖畔に立ち入り禁止の洞窟があって、面白半分にどんどん入ってみたんだ。そうしたら出てこられなくなってさ。その洞窟は奥に向かって下り坂になっていて、いざ戻ろうとしたら登り坂になるだろう。足元の岩がツルツル滑って、思うように登れないいんだ。そのまま出られなくなって死ぬかと思ったよ」
 また、郡山時代には結核も患っている。肺門リンパ腺結核症という子どもが罹る結核症で、肺に穴が開いて1年近い療養生活を送ったそうだ。
 やがて高橋さんの父親は鉱山での仕事をやめ、しばらく炭焼きの仕事をしてから、一家を挙げて東京に出てくる。昭和27(1952)年の秋、高橋さんが中学2年生のときのことだ。
「東京は中野(杉並区)が住まいだった。オヤジは電話線の修理工をして働くようになった。オレは中野の中学校に転校したが、ズーズー弁の訛りがひどかったから、クラスのみんなからからかわれたよ」
 それでも深刻なイジメにはつながらなかったという。高橋さんは小柄で、どこか人懐っこく剽軽なところがあり、それがクラスの人気者への道を開いたようだ。

 中学校を卒業した高橋さんは、中野にあった味噌の醸造工場に就職する。
「オレの仕事は、味噌の出荷係。その頃の味噌は樽詰めにして出荷していた。5貫樽(18.75㎏)、10貫樽、20貫樽とあって、それを転がしながら運ぶんだ。転がすのはコツがあって、それを掴めば苦にならない。それにリアカーに似た運搬用の道具もあったしね」
 その味噌工場では7~8年働いてやめる。はじめのうちは軽作業が多かったが、年数を重ねるうちに力仕事が増えていき、それが辛くなったからというのがやめた理由だ。
 時期ははっきりしないが、高橋さんは東京に出てきて、また結核を罹病している。あるいはそれが離職と関係あるか。
「頸部リンパ腺結核(結核性リンパ腺炎)といって、首の後ろにコブができる結核なんだ。そのコブを手術で切り取ってもらって治った。ホントにそういう結核があるんだよ。というか、結核菌がリンパ腺に溜まってコブになる病気らしい。いまでも体調の悪いときは、その手術跡が疼くからね」
 高橋さんによれば、このときの結核罹病も、前の郡山時代の罹病も、ともに「死にはぐった」ことになるようだ。
 味噌工場をやめてから以後は、定職に就くこともなく、日雇い作業で日々の糊口をしのぐようになる。
「いろいろな仕事をやったよ。それこそ数えきれないくらいだ。一番多かったのは、建築現場の雑役の仕事だろうな。手配師から仕事をもらっては、関東一円を股にかけて働いた。深夜、翌日の作業資材を現場に運び入れる仕事も多かった。建築の仕事では、飯場に入ることもあったよ」
 次に多かったのが、トラックの上乗り。運転手の助手の仕事である。トラックの荷物の積み下ろしを手伝う仕事だが、現在では見られなくなった職種だ。
「印刷工場の日払いアルバイトで働くこともあった。夜勤の仕事で、朝、電話を入れて空きがあると働かせてもらえた。この仕事をしているときにも、一度死にはぐったことがある。業務用エレベーターに荷物をいっぱい積んで昇降していたら、過積載だったんだろうな。モーターが焼け出したらしくて、エレベーターが階と階の途中で止まってしまった。ドアをこじ開けようとしても開かないし、そのうちに箱の中に煙が充満してきて死ぬかと思ったよ」
 そのときはエレベーターの外にいた作業員が煙に気づき、大声でドア越しに緊急脱出の方法を教えてくれた。高橋さんはその指示に従って、ドアを開けて何とか脱出できた。
「ビルの外窓のガラス拭きの仕事をしていたときは、急な突風に吹かれて作業用ゴンドラから落っこちそうになった。そうかと思うと、製本工場で作業をしていたときには、ロボットの吊り荷が落下して、オレの目の前に落っこちてきた。危機一髪だった。そうやって幾度も死にはぐっているんだよ」
 そんなめに遭いながらも、71歳の今日まで生をまっとうしている高橋さんだ。(聞き手:神戸幸夫)(この項つづく)

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