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2011年3月10日 (木)

ホームレス自らを語る 第99回 成り行きで生きてきました/杉山修さん(63歳)

 ホームレスになって5年くらいになります。ずっと成り行きまかせ生きてきましたからね。ホームレスになったのもそうですね。はい。成り行きです。
 夜はこの(新宿中央)公園の近くにある民家の軒下に段ボールを敷いて、そこに寝かせてもらっています。追い立てられたり、怒られたりすることはありませんね。助かります。はい。その家にどんな家族が住んでいるのかは分かないですね。私は朝4時には起き出して、段ボールを片付けてしまいますからね。もう何年もそうしてるんですよ。食べ物は(新宿)区役所でもらう乾パンと、ボランティアが差し入れてくれるオニギリ。それに週1回の炊き出しですね。でも、それだけじゃ足りませんから、エサ拾いにも行きます。

 よくみんなはスーパーとかコンビニの賞味期限切れの弁当なんかを拾っているようですが、あれは探すのがむずかしいですよ。なかなか拾えません。私が探しに行くのは、食堂とかレストランですね。建物の裏手に行くと、白いご飯がビニール袋に入れて捨ててあったりするんです。それを拾ってきます。はい。そのご飯に塩を振りかけて食べるんです。塩は料理屋さんの表に盛り塩してあるのを失敬してくるんです。そんなふうにして何とか生きてます。

 生まれは熊本県の植木という町です。熊本市の北にある小さな町です。中学を卒業して、その町にあった自動車修理工場に就職しました。そこで塗装工になったんですが、2年くらいで辞めました。理由なんてありません。ただ、何となくイヤになっただけです。

 それで家出して、小倉(いまの北九州市)に出ました。小倉では沖仲仕をやりました。ハシケに屑鉄を積んでいって、沖に停泊している貨物船に積み込むのが仕事です。まだモッコを使っていた時代ですからね。日当も80円くらい、いや、もう少しよかったですかね。沖仲仕専門の下宿屋というのがあって、大広間に4~50人の男がザコ寝をして暮らしてました。そりゃあ、すごいもんでしたね。はい。その沖仲仕も2年くらいで辞めました。あとは土工です。ずっと土工でやってきました。大阪、横浜、川崎、東京。いろんなところで働きましたよ。東京オリンピックがあるから東京が景気がいいと聞けば東京に来るし、大阪で万博があると聞けば大阪に行ってね。みんながそう言うから、そのあとをフラフラとついて行っただけです。成り行きですよ。ずっと成り行きにまかせて生きてきたわけです。はい。

 沖仲仕をしているころに酒を覚えました。沖仲仕は雨が降ると仕事が休みになります。そうすると下宿屋のあちこちで朝から博奕が始まります。やれチンチロリンだ、オイチョカブだ、麻雀だ、というわけです。博奕をやらない連中は、朝から酒を飲むわけです。
 最初はそういう仲間に誘われて飲み始めた酒でした。私は博奕にも、女遊びにも興味ありませんでしたから、だんだんに酒を飲むことだけが愉しみになっていました。

 土工をする頃になると、ますます酒に溺れていきましたね。もう酒がないとダメになっていたんです。それこそ朝、昼、晩、酒を飲んでいました。ええ、仕事のある日でも毎日です。

 朝、飯場で目が覚めると、盗み酒を1杯キュッとひっかける。それから朝飯です。昼はコッソリと現場を抜け出て、近くの酒屋に行ってました。そこで弁当を食べながら、酒の立ち飲みです。そんなことが、仕事の仲間や監督にバレたらクビになりますからね。だから、徹底して殺して飲むことを覚えました。ただ、酒は殺して飲むことができても、匂いだけは消せないんですよ。それで仕事中は誰をとも口きかないでやりました。私は無口な男っていうことで通っていましたね。まあ、もう完全なアル中だったわけです。はい。アル中ですね。

 39歳の時、とうとう病気になってました。酒で頭がおかしくなっていたんです。幻聴幻覚というので、頭の中で絶えず雑音がしていました。いや、音楽とか、金属音じゃありません。人の声。女の人がずっと喋り続けているんです。何を話しているんだか分かりませんが、女の人の喋る声がずっと聞こえていました。

 ちょうど横浜の飯場に入っている時で、私の様子がおかしいというんで、仲間が役所の福祉の人を呼んでくれて、そのまま病院に入院させられました。大きな病院でしたね。アル中の治療というより、精神病院だったんでしょうね。病院では1日3回薬を飲むだけで、あとはただ寝ているだけでした。1年2ヵ月も入っていました。入院中は酒を飲めませんでしたから、幻聴幻覚は治まりましたね。

 退院する時、オフクロが迎えに来ました。70歳のオフクロが熊本から迎えに来ました。17歳の時に家出をしたきり連絡をしてませんでしたから、病院が知らせたんでしょうね。オフクロは何も言わずに、ただ泣いているだけでしたね。はい。22年ぶりの再開でした。

  それでオフクロに連れられて熊本に帰りました。でも、また1週間もしないうちに家を飛び出して、東京に舞い戻ってしまったんですよ。それで土工の仕事に戻って、それっきり熊本には帰っていません。帰りたいとも思いませんしね。

  50歳をすぎたころから、だんだんに土工の仕事にも雇ってもらえなくなりましてね。それでホームレスをするようになったんです。みんな成り行きです。自分の意志のない成り行きまかせの生き方でした。これからも成り行きで生きていくより仕方ないですね。はい。(2001年12月取材 聞き手:神戸幸夫)

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