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2011年2月

2011年2月28日 (月)

鎌田慧の現代を斬る/第148回 「東京のカダフィー」石原慎太郎、12年の専制

 一方、日本の首都では、東京のカダフィーともいえる石原慎太郎がついに政権の座を追われそうだ。
 長男の伸晃は自民党幹事長に出世したが、未練がましく、また親父を都知事に担ぎ出し、その威光によって自分の権力を強化しようと、慎太郎応援の先頭をきって空騒ぎを繰り返していたが、ムダだったようだ。

 これまで立候補を表明したのは、共産党の小池晃元参院議員と外食大手「ワタミ」の渡辺美樹会長。また、東国原英夫・前宮崎県知事も立候補を前提に準備を進めている。
 いまのところ、神奈川県知事の松沢成文やワタミの渡辺会長などが、石原派んも後継者とみられている。民主党は候補を絞りきれていない。猪瀬直樹副知事は石原の10分の1ほどのスケールの男で、強い者には弱く、弱い者には強いというタイプだが、やる気があっても慎太郎の駆け引きに埋もれ、とても立候補できるような状況ではない。いずれにしてもあと1ヶ月半で、東京の政治がどう変わるか、重大な岐路に差しかかる。

 石原都政は“差別主義都政”といってもいいほど、彼は異常な差別発言を繰り返してきた。
 2000年4月には「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」と発言。この「三国人発言」に対しては、国連の人種差別撤廃委員会が人種差別撤廃条約に違反すると認めた。
 2001年10月には、「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア」「女性が生殖能力を失っても生きてるってのは無駄で罪」などとも放言。このような発言は近代国家の為政者としては許されない。イタリアのベルルスコーニにも匹敵する女性差別主義者である。

 さらに問題になのは教育問題だ。東京都の教育委員会は、日の丸・君が代の強制を、全国の先頭をきって徹底的におこなった。そのため大量の教員が処分された。さらに日の丸の強制掲揚に反対した教師たちは、三鷹高校の校長のように定年後の再任を拒否されるというきわめて差別的な待遇がまかり通っている。ウルトラ右翼の首長が全都の教育を右に向けていくという驚くべき政治が黙認されてきたのは、経済しか考えなかった都民の無関心があったからだ。

 だからといって石原都政が経済発展に貢献したわけではない。それどころか彼が都知事になって12年で、少なく見積もっても1兆円以上がムダ遣いされたいう。
 よく知られているのはオリンピック招致である。発案当時からほとんど可能性がなかった招致運動のために、55億円の経費が計上された。それでも十二分にムダだが、最終的には150億円にまで膨れあがってというから呆れる。実際には200億円を超えるとの報道もあるほどだ。そもそも都民はオリンピックなど望んでもいなかった。五輪開催の支持率は東京で59%と、招致を争ったマドリード、リオデジャネイロ、シカゴと比べてもとんでもないビリだった。
 ところが慎太郎は大乗り気で、開催地の選定会議に出席するためのそろいのスーツまでこしらえた。1回しか着ないのに男性用26万円、女性用21万円で、これだけで総額1200万円近いカネが消えた。路上には餓死している人間もいるのに。
 09年8月の世界陸上ベルリン大会の視察では、4811万円も使ったという。また五輪招致名目の海外出張は13回、合計2億2000万円も浪費したと、都議会でも追及されている。だいたい彼は日本の都市でも最高級のホテルを泊まり歩いていたが、条例で定められている上限額を大幅に超える浪費をつづけてきたことでも知られている。

 都民の血税を自分の使いたい放題。あたかも産油国のリビアやヨルダン、サウジアラビアの権力者のような行動だ。その挙げ句に、五輪招致のムダ使いについて「東京の財政は痛くもかゆくもない」と胸を張った。ムダ金を使ったという反省すらないのだ。
 石原のオリンピック招致で大もうけをしたのが電通である。なんと66億9000万円もの血税が、同社に流れ込んだ。広告は費用対効果がわからないことで知られているが、約67億円も血税を使って何の効果もあげられなかったことには驚くしかない。

 慎太郎の交際費も、たびたび問題になってきた。高級料亭やレストランでの豪遊は、1回60万円など庶民にとって目玉の飛び出るような金額が並ぶ。
 エコツーリズムを視察を目的とした旅行では、ホテル並みの施設を整えたクルーザーでガラパゴス諸島を豪遊。8人で11日間遊び回り総額1444万円も使った。これのどこがエコツーリズムなのか。環境とはまったく相容れないゴーマンな姿勢しかしめさない男に、環境を語る資格はない。

 また彼の12年間で、東京の再開発が進んだ。その象徴が築地市場移転計画だった。これはオリンピックを隠れ蓑にして、築地の卸売り市場を東京ガスの工場跡地である豊洲に移すというものだ。しかし、ここではコークスガスの精製課程でのヒ素、シアン、ベンゼン、水銀など、さまざまな有毒物質が発見されている。土壌汚染地域に食物の施設を移す非常識は利権がらみとしてしか考えられない。土地の売却は、所有者の東京ガス自体も二の足を踏んでいたのを、東京都が強引に説得したといわれている。
 この汚染については、『黒い都知事 石原慎太郎』(一ノ宮美成+グループ・K21 宝島社)に東京ガスの豊洲工場で働いていた人物に深刻な証言がある。
「石炭ガスの生成過程でできたタールのうち、いいものは横浜工場に持っていって再蒸留していたが、どうしても下に油分や錆などのヘドロがたまる。それをオガクズに混ぜて、豊洲工場内の廃棄場所にプールしていた。いま、高濃度汚染地点とされているところだ」
 このプールの壁はコンクリートで、地中にしみ出したらしい。この汚染の原因ともなったコークス生産については、わたしも北九州新日鉄の労働者を取材したことがあるが、労働者にがんが多発していたことを思い出す。
 これだけ危険満載の土地なのに、都は一部の検査データを隠蔽した上、石原は「 日本人が日本人の (汚染浄化)技術を信じないでどうするんだ」と怒鳴ったという。

 もともと築地市場の跡地は、オリンピックのためのメディアセンターを建設する予定になっていた。オリンピック招致が失敗したのだから、本来なら築地の移転も中止すべきだった。しかし計画は止まらない。それは築地を再開発して財界をもうけさせようという意図があったからだ。

 これまでも石原は強力に東京都の再開発をすすめてきた。湾岸をはじめ秋葉原、大手町、羽田空港の拡張工事などの許認可をすすめる猪突猛進ぶりだ。臨海副都心については、01年3月に「行くも地獄、退くも地獄」などと発言したが、膨大なカネをつぎ込んで開発を後押しした。利用者の居ない土地をどんどん作り続けて、どうするのか。
 現在、必死で民主化運動を潰しているシリアのアサド大統領も、父親から受け継いだ在位は慎太郎と同じ12年である。慎太郎独裁に終止符が打たれるのも、世界的にみれば当たり前のことだ。暴言を吐き続け、教員を押しつぶし、思想を取り締まり、税金を湯水のごとく使って豪遊し、財界と組んで再開発を進める。このような独裁政治を、都民は12年も許してきた。こんどこそ、眼を覚ますときだ。(談)

全文は→「1103.pdf」をダウンロード

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2011年2月25日 (金)

OL財布事情の近年史/第22回 ボディコンブームの足音が聞こえる

連載「OL財布事情の近年史」は、2013年12月に単行本『女と金~OL財布事情の近年史~』として発売されます。

各年代のOL像を、イラストを交えて解説する辛酸なめ子さんのプチ時評つき。辛酸さんには、カバーイラストも描いていただきました。

エピローグには最新の女性誌お財布事情が書き下ろされ、女性誌創刊号の画像50数点を掲載。30年ぶんの「OLの財布の中身」が一気に見える本となりました。

全国書店から注文可能。
Amazonでも予約・注文できます!

 80年代中盤OLの働き方や貯蓄中心に見てきたが、そういえば、消費はどんなことになっていたのか。とかく80年代といえばバブル、という固定観念があるが、ボディコンだのイケイケだのというのはもう少し後、90年の声を聞く頃のOLアイコンである。80年半ばのOLファッションは、なんというか、半端であった。自分のファッション史の中でも、最も抹殺したい時期である。高校生の頃にアイビー、大学でハマトラ、ニュートラ、やがてDCに移行しての就職という時代感。ロングタイトに肩パットのスーツ、ぺたんこシューズ、ポシェット、ソバージュヘアに太眉、フューシャピンクの口紅。なんだこりゃという見た目である。若い女性が働くことがやっと一般的になってきたところに急速な経済成長で、新しいものが次々現れ、何を選んだらいいのかわからんちん、な時代だったのではないか。試しに、トレンディドラマの走りといわれた「男女7人夏物語」(1986年)をYoutubeで見てみたが、おばさんくさいスカート丈、白いパンプス、サテンのネクタイなど、リアル80’sOLアイテムがあふれていた。ちなみに、翌年の「男女7人秋物語」になると、ワンレンボディコンが登場したり、男性もイタリアンスーツになったり、部屋も急にお洒落なインテリアになっていたり、このあたりがバブル消費への移行期だったことが伺える。

 さて前置きが長くなったが、この頃のOLさんの、ファッション消費がみえる記事を今回はとりあげたい。『エフ』86年6月号「読者100人にアンケート リーズナブルプライスの服を買いたい。」である。「欲しいと思う洋服は高すぎる」というのが「怒り、悲鳴となって編集部に届いてきた」ということで、ブランドの服が高い、というのが問題意識となっている。OLにとって当時のブランドとは。誌面を見て出てくるのが、ワイズ、メルローズ、JUNKOSHIMADAなど、いわゆるDCブランドだ。86年は「夜霧のハウスマヌカン」がヒット、渋谷西武SEEDオープン、『メンズノンノ』創刊など、先端だったデザイナーズブランドから、そのあとに続くDCが一挙に広まった頃。OLの通勤服もDC系になっていたわけだ。

 アンケートによると、毎月のファッション費の平均額は約1万7500円。金額的には今もさほど変わらないと思うが、ユニクロもH&Mもない時代、DCを買うには少なすぎるだろう。「ブランドの服でそろえられたらステキだけど、数も欲しいし予算的にまず折り合わない」(23才OL)、「今の価格の基準はまちがっていると思う。毎日着なくてはならないのに、一般的なお給料では買えない」(24才編集アシスタント)等、怒りの声があがっている。
 「夏のアイテム別〈この値段なら買える!〉」という企画では、テイラードジャケット26,000円、一重仕立てのコート27,000円、サマーニット13,600円が、平均の「買える」金額だという。怒りの悲鳴を上げている割に、結構高い金額なのでは? 「ジャケット類は高いと思うけど、仕立てや縫製からいって納得できる」(26才OL)って、“いい服は高い”信奉が根強かった。

 このファッションインフレで、服の買い方も大きく変わった。バーゲンと、クレジットだ。「バーゲンになると60〜70%引きで売っているのだから」(24才OL)、「ブランドものの洋服を買うとなると、やっぱり丸井の分割払いかクレジットカード」(24才OL)と、バーゲン前提、リボ払い日常になってきたOL財布。この頃から『an・an』では全国のセール情報が定番になってきたし、DCブランドが大挙出店していた丸井が大人気だった。しかし、「どうせセールだし」「まあいいか、カードだから」的な意識は、DCへの敷居も、ファッションに対する感覚も低下させていったのではないか。「流行のワンピースやブラウスは、ブランドもどきがたくさん出ているので、私はそれで十分。素材なんて他人にわかるものではない」(25才化粧品会社勤務)という声は、やがて目立てば上等、男受け本望の、ボディコンや勝負服につながっていったのでは。飛躍し過ぎ?(神谷巻尾)

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2011年2月24日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第41回アフガン人と行くアフガンの仏像展(下)

 上野の特別展にはパキスタン出土の仏像も多く置かれていた。その中には彫りの深いパシュトゥーン人顔をした仏像もあった。まるでギリシア彫像の用に写実的で、精悍だ。日本や東南アジアの仏像はふくよかな仏像が多いが、中央アジアでは凛々しい仏像が多いようだ。一言で言えばイケメン顔で、手塚治虫の「ブッダ」に出てきそうな輪郭だ。その多くはクシャン朝(2~3世紀)のもので、大きさや作りの綿密さからいかに巨大な仏教文化が存在したかを思い起こさせる。

 アフガン出土の仏伝図の多くにはカピサ(現バグラム)出土と説明があった。外国軍最大の基地、バグラム空軍基地のある場所だ。今ではそこかしこに地雷が埋まり、外国軍の装甲車が我が物顔で土煙をあげている。人々は食べるものが無く、皆腹をすかせている。幾度も訪れた場所だが、あそこに高度な仏教文化が栄えていてたとは今の現状を見るに想像もできない。それくらい荒れ果てた地域なのだ。

 展示されているバーミヤン出土のレリーフは壁から剥がされ、海外にバラ売りされたものだ。つぶさに見ていくと、その多くは顔の部分だけがヤスリで削り取られている。おそらく内戦中か、それ以前に削り取られたのだろう。仏教徒ではないわたしもこれには閉口した。壁一面に描かれたブッタたちの顔を一つ一つ消していったのだ。削った人間もこれは大仕事だったろうに。そこまでやらなくてもいいじゃないか、と悲しい気持ちになる。バーミヤンの大仏も同様にガズナ朝(11世紀ごろ)に顔だけ破壊された(自然に崩落したとの説もある)。顔のない仏像ほど寂しい物はない。

 2001年にバーミヤンの大仏はタリバンの手によって完全に破壊された。いくら偶像崇拝を禁止しているとはいえ、あまりに酷い所業だ。しかし、遺跡破壊はタリバンだけでなく、ISAF(国際治安支援部隊)によっても行われた。2008年5月3日、NATO軍が不可解なことにバーミヤン仏教遺跡の前で武器を爆破解体。遺跡の一部を吹き飛ばした。西部パキスタンでもタリバン運動は盛り上がりを見せており、多くの文化財は地元の博物館を離れ、別の場所で保管されている。タリバンが収蔵品を破壊すると脅しをかけたのだ。どんな時代でも文化財の破壊はその価値を理解しない武器を持つ人々によって行われる。そこにはアフガン人であるか欧米人であるかは関係が無い。

 しかし、明るいニュースも無いではない。2008年11月にはバーミヤンで新しい大仏が発見された。フランスに拠点を置くアフガン人考古学者ゼマルヤライ・タルジ博士の手によって発掘が進められており、全長19メートルと推測される涅槃像だ。土に埋れていたため、破壊をまぬがれた。玄奘三蔵の「大唐西域記」には全長300メートルにも及ぶ涅槃像の存在が言及されている。アフガン人学者自らの手によって彼らの祖先の偉大な文化遺産を発見される日もそう遠くないだろう。
 
 仏教遺跡の破壊の殆どがタリバンによるものだ。遺跡の多くは異教徒のものでありながら、タリバン登場までその多くが残されていた。破壊を試みたのは一部の狂信的なはね上がりどもであり、一般のアフガン人は祖先の遺産をわざわざ破壊しようなどとは夢にも思わない。

 嘆かわしいことに、貴重な美術品の流出は今現在も続いている。欧米のブローカーがパキスタン経由で多くの歴史的遺産を輸出しているのだ。ブローカーは現地人から二束三文で品物を巻き上げ、日本や欧米の金持ちに高値で売りつけている。そして、貴重な文化財は陽の目を見ないまま個人のコレクションとして隠されるのだ。その原因はアフガン全土を襲う干ばつと飢饉だ。美術品を発掘して売る以外に生きるすべが無いのだ。ここで責を負うべきは愚かな欧米や日本の金持ちどもだ。彼らこそアフガニスタンの文化を破壊している張本人である。また、アフガニスタンの干ばつを放置する国際社会も責任を免れることはできない。

 上野の博物館で公開されている遺跡は、平山郁夫の設立した文化財保護・芸術研究助成財団によって管理・修復されており、アフガニスタンの情勢が落ち着けば美術品を現地に返還するとしている。この特別展は来月6日まで行われているので、可能ならばぜひ見に来てほしい。(白川徹)

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2011年2月22日 (火)

ロシアの横暴/第53回 報じられないロシア国際空港テロの謎(上)

 やっぱり起きてしまった。モスクワ最大の国際空港でのテロ。
 ひところはテロが起きるたびに間髪を入れずに「チェチェンだ、イスラムだ、報復だ」と騒ぎ立てたものだが、今回は不思議なことにプーチン首相みずからわざわざ「チェチェンは関係ない」、と言いだした。過去10年間、事件が起きるたびに、国民のチェチェンアレルギーを刺激しては人気を集めてきたから、変化といえば変化である。
 この首相発言でいつものとおり、「チェチェンがらみ」として動き始めていた捜査陣はびっくりしたそうだ。徹底捜査を命じたメドベージェフ大統領と、早々と「事件は解決した」と言うプーチン首相の見解がひどくちがうことも過去にはなかった。日本の新聞など事件の真相よりもこの「対立」に興味がありそうな雰囲気である。
 プーチンにしてみればチェチェンは完全に安定化した、武装勢力は殲滅した、と宣言した以上チェチェンの仕業とはカッコ悪くて言えないだけのことなのだが。それに安定化宣言の上に勝ち取った冬季五輪とサッカーワールドカップを控えて「チェチェンの仕業」なんて言えるはずもない。というわけで言葉尻が変わっただけでソ連・ロシア流れの隠蔽体質は「全然変わっていない」。

 一方徹底究明を指示したメドベージェフの方は空港の主要職員をクビにしてみたり、賄賂漬け体質を罵ってみたり、ロシア中に手のつけられないブラックホールがあることを白状するような言動が目立った。

 そして数日後プーチン組は「自爆テロを起こしたのは20歳のイングーシ人」と、ご丁寧に顔写真まで入れて自信たっぷりに発表した。チェチェンは関係ないと宣言した以上、帳尻を合わせるためには別の民族を挙げなければならないからイングーシ人としたのだろう。イングーシはチェチェンのとなりで両民族の相違はほとんどない。このことはロシア人なら全員知っているからイングーシ人と発表したところで「チェチェンは関係ない」発表など無意味である。第一人体の破片から両民族を判別することなど不可能だ。
 自爆で木っ端みじんになった人間の破片から年齢や民族まで特定できるほどロシアの鑑定技術は進んでいるとは思えないが、なぜかそれがほんとうみたいに聞こえる(聞こえさせる)のがロシア報道である。そしてそれをそのまま縦書きに翻訳して流さざるを得ないのが日本の報道である。(ついでに言えば外国メディアが取材報道規制をうけていることをおおっぴらに言えないので、仕方なくプーチン首相とメドベージェフ大統領の意見が食い違っているあたりに群がらざるを得ないのかもしれない)
 
 このやり方はテロのたびに繰り返されてきた。
 自爆テロならチェチェン、の図式のもとになったのは、2002年に起きた「モスクワ劇場占拠事件」である。このときの犯人たちは自爆で木っ端みじんになる前に毒ガスで殺されてしまったので全員が紛れもなくチェチェン人であることが世界中に知れ渡った。
 チェチェン鎮圧で人気を得てきたプーチン大統領(現首相)にしてみればまことに便利な事件で、以後いかなる自爆テロでもチェチェンにすればたちどころに解決した。大統領の支持率が何となく揺らいでいるときなど、支持率回復に貢献してきた。

 この図式で騒ぎはすぐにおしまいになる。善良なロシア国民は、ああ、やっぱりチェチェン人か、とうんざりしながら、政府や治安関係者の「テロ対策の甘さ(それはチェチェン弾圧の手ぬるさを意味することも多い)」に不満をぶちまけ、どうか災いが自分のところに降って来ませんように、と神に祈りつつ日々を送ることになる。いつの場合にも被害に遭った人は「運が悪かった」人である。(川上なつ)

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2011年2月21日 (月)

ランチパックの本 HPが出来ました!著者特製

今月下旬に「みんなでランチパックサミット!2011」の開催も控えている『ランチパックの本』。

著者の香山哲さんはエキサイトレビューで新作ランチパックを紹介するなど、大活躍中です。

そして著者特製、『ランチパックの本』のホームページが出来ました!

立ち読みページもありますので「まだ見ていない!」という方は、ぜひここで読んでみて下さい。

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2011年2月19日 (土)

「ガチ」だと力士が死にますって……

 大相撲の八百長問題が世間を賑わせている。社説でも扱われた。三大紙の中では、特に朝日新聞が強い批判を展開した。
「今回の疑惑は角界が神聖視する土俵を自ら汚し、真剣勝負を堪能してもらおうと日々鍛錬を積んでいる多くの力士の努力を踏みにじるものでもある。
 立行司は腰に短刀を帯びる。軍配を差し違えた時、腹を切る覚悟を示すためと聞く。疑惑の力士にはそんな気概も、勝負への敬意もないのだろうか」
「腹を切る覚悟」とはかなり大時代的だが、相撲を本気でやること自体「腹を切る覚悟」なのを知っているのだろうか?

 まず相撲前は格闘技である。しかも総合格闘技だ。決まり手の多くが組技のために忘れがちだが、相撲の打撃はかなりバリエーション豊かである。
 まず「突っ張り」。手をグルグル回しており、それほど破壊力がないようにも見えるが、これは武術などで掌底と呼ばれる手のひらでの攻撃に近い。拳で殴るパンチのように相手に裂傷を与えることこそ少ないが、脳を揺らし、脳しんとうを誘発することで知られる。
 さらに恐ろしいのが「かちあげ」だ。これは肘を使った攻撃で、ムエタイなどではKO率の高い攻撃方法として知られている。顔面に繰り出すと流血することも多く、格闘技で禁止されることも少なくない。日本人力士で多用する人はいないが、朝青龍の「かちあげ」は見ている方が怖くなるほどの破壊力で相手の顔面をとらえていた。
 蹴りについても胸や腹なら禁手反則となるが、下半身への蹴りは認められている。実際、蹴って相手のバランスを崩す「けたぐり」という決まり手もある。体重が乗った形で蹴りが当たれば、かなりの衝撃のはずだ。
 さらに恐ろしいのが立ち会いだ。平均150キロもある力士同士が、防具も着けず正面からぶつかり合う衝撃はハンパなものではない。

 こんな厳しい環境で、年6場所、年間90日も真剣勝負をするなど正気の沙汰ではない。しかも本場所の間には、地方巡業まで組まれている。1992年には94日間も巡業したというから180日以上闘っていたわけだ。もうプロレス並みの試合数で、真剣にやれという方がどうかしている。
 ちなみにアメリカン・フットボールの試合数は防具を着けて年16試合。プロボクシングも試合後2週間は次を組めないので、どんなに詰め込んでも年26試合しかできない。

 まして相撲は、瞬発力と無酸素的持久力を試される短距離ランナーのような体の使い方をするという。以前、かなり有望な短距離選手に取材したとき、「全速力だと体が壊れるから、年に何回かしか本気で走れない」と聞いた。もちろん、この選手は特に体がデリケートだったのだろう。それでも15日間連続で100メートルの試合を組む人はいないし、トップクラスのランナーともなれば、予選でも最後に流すのが当たり前。コンディションが整えにくいタイプの体の使い方であることは間違いない。
 そのうえ相撲には体重制限がない。新弟子検査である程度の基準が設けられているとはいえ、50メートル走などの体力テストが一緒に課される第2新弟子検査なら、身長167センチ、体重67キロ以上で合格できる。恐ろしいことに学生時代小柄だった私でも、メタボ気味の今なら新弟子検査合格の可能性がある。
 格闘技が勝敗が体重に大きく左右されるのは、柔道やボクシングが細かく体重制限を設けていることからもわかるだろう。「柔よく剛を制す」とはいえ、体重が重ければ有利であることは間違いない。小兵の力士となれば、連日、ヘビー級のパンチをかいくぐって闘うことになってしまう。

 こんな“恐ろしい”環境に身を置き、負けが込めばいきなり年収100万円以下になってしまうともなれば、八百長が出てくるのも当然だろう。そもそも真剣勝負を促す環境が整っていないのだから。
 江戸時代は10日場所の年2回だったそうだが、アメリカン・フットボールの年間試合数を考えれば、真剣勝負が可能な試合数だったといえるかもしれない。

 ちなみガチンコ相撲で有名だった貴乃花は、7場所全休したとして02年の秋場所に出場するよう横綱審議委員会に厳命された。ガチンコで闘えば負傷するのも当たり前。そんな日程を組みながら休みが続けば強制出場。これでは力士の身が保たない。

 つまるところ相撲は完全なスポーツではないのだろう。
 年6場所を続けるなら、「真剣勝負」の看板を降ろすべきだ。(大畑)

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2011年2月18日 (金)

OL財布事情の近年史/第21回 ヨユーなOLの向上心が向かう先!

連載「OL財布事情の近年史」は、2013年12月に単行本『女と金~OL財布事情の近年史~』として発売されます。

各年代のOL像を、イラストを交えて解説する辛酸なめ子さんのプチ時評つき。辛酸さんには、カバーイラストも描いていただきました。

エピローグには最新の女性誌お財布事情が書き下ろされ、女性誌創刊号の画像50数点を掲載。30年ぶんの「OLの財布の中身」が一気に見える本となりました。

全国書店から注文可能。
Amazonでも予約・注文できます!

 OLの興味も働き方もさまざまになってきた。景気がいいからお金もあるし、世の中右肩上がりで希望にあふれている。そんな時代での、男女雇用機会均等法スタートであった。残業時間制限の大幅な緩和、男女同一賃金、昇進・配属で男女平等とする努力義務などが盛り込まれた雇均法。これによってお茶汲み・コピーとりは卒業、バリバリ働いて、みんなキャリアウーマンをめざしたか。というと、そうでもないことがこれまでの検証からも想像できる。実はわたくし、施行前夜の1985年に就職したので、リアルタイムの雇均法世代なのです。渦中にいた頃の実感もまじえながら、当時の女性誌をみていこう。

 まず雇均法に一番遠いと思われる、『non・no』。絶対価値が恋愛と結婚、というコンセプトが一貫している同誌では、キャリアの影はまったくない。85年1〜4月に「ブライダルアンケート 短期集中連載」として、読者1万9823人回答という大調査の分析を連載しているが、読者の理想は「4〜5年働いて、23.7歳で結婚」(1月5日号)、理想の結婚相手は1位が公務員、相手に求める年収は平均386万円(2月20日号)と、地道すぎる結婚願望がありあり。「結婚生活と女性の働く意欲」と題した4月20日号では、「85%が、キャリアウーマンを望まない!」と言い切っている。これは設問もどうかと思うが、「結婚せずに仕事に生きている女性を、どう思いますか?」という問いに対し、「自分もそうした生き方をしてみたいと思う」という積極肯定派はわずか5.5%。「就職と結婚に関してどのように考えていますか?」では、「結婚後も仕事ができる会社を選ぶ」は23.1%、「結婚後のことまで考えて会社選びはしない」44.0%をはじめ、就職に将来のビジョンを持っていないのが多数派だ。私も外資系コンピュータ会社に男女同一賃金の営業職で入社したが、同じ部署の同期女子4人のうち、3人が3年以内に社内結婚で辞めました。雇均法、涙目。

 実際当時のOLがどんな状況だったのかがリアルに伝わってくるのが、『コスモポリタン』86年3月から連載が始まった「ドキュメント仕事」。「今、何を考え、何に悩みどんなことしたいと思ってますか?あなたのお仕事拝見します」というリードのとおり、商社、銀行、デパート、化粧品メーカーなどごく一般的な仕事の女性に、仕事の内容や悩みなどをじっくり取材している。入社5年目、大手不動産会社勤務28歳の仕事は、いわゆる事務職。「何年勤めても仕事の内容は変わりません」とはいえ、年収300万円と決して悪くないのがこの時代。「やりがいのある仕事をもらえる可能性はゼロ」なので転職を考えており、宅地建物取引主任者資格をとり、実務翻訳の勉強をして、不動産・建築関係か、外資系を狙う。しかしもうひとつ別の夢があり「ものを書くのが好きで、シナリオ・ライターの講座にも通ってます。ゆくゆくはそちらの仕事も……」。わー、リアル80’sですね。当時の28歳女子は「結婚か、転職か、手に職(または留学)か」の三択で迷っていたのである。間違いない。

 同じシリーズの86年10月号、ワコール勤務28歳のデザイナーは、「男に頼らず自分で一生食べていく決心をしています」というが、本当にいきたかったのは「ファッション雑誌関係」。活字の世界に魅かれて、童話を書いている。86年11月号東芝情報機器の派遣社員、29歳プログラマーは、臨床検査技師の資格を取り医学部研究室に勤務していたが、いいソフトがなかったことが不満だった。人材派遣のマンパワーでコンピュータの勉強ができることがわかり、登録して1ヶ月間トレーニング(無料で)、その後製薬会社、建設省などへの派遣を経て、現職の医療情報システムに関わる。登録したら無料で勉強!派遣先は大企業に中央省庁! 同じハケンでも、昨今の年越し派遣村、派遣切りと、なんと隔世の感があることよ。「1年のうち10ヶ月仕事して2ヶ月は遊ぼう、と思ってたんですけど、それは、もう少し勉強してから、と思ってます」と、余裕あるからこその向上心が「あの頃」過ぎて、きつい。

 この頃の女性誌モノクロページを見ていると、フェローアカデミー、日本翻訳家養成センターなどの翻訳講座やら、「ef転職セミナー」やらの広告が目立つ。もっと自分を活かしたい、やりたい仕事を見つけたい、というOLのどん欲さは、雇均法という制度によってではなく、何を選んでも許される、経済状態から生まれたものだったのでは、と今になってみれば思うのであった。(神谷巻尾)

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2011年2月17日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第41回アフガン人と行くアフガンの仏像展(上)

 東京国立博物館で開催されている特別展、「仏教伝来の道。平山郁夫と文化財保護」を見てきた。故平山郁夫は芸術家としての活動の傍ら文化財保護にも力を入れていた。今回展示されているアフガニスタン出土の仏像も内戦中に闇ルートを通って日本に流れてきたものを、平山が買い取り、保管していたものだ。

 その中にはカブール国立美術館から盗み出された「カーシャパ兄弟の仏礼拝」も含まれている。アフガニスタン仏教文化の傑作と言われている貴重な仏伝図だ。私は3年前にカブール国立美術館を訪れたことがある。1920年代に建てられた小じんまりとした2階建ての建物で、90年台の内戦時期にはムジャヒディンの基地として使われた。内戦中、貴重な文化財は外国の金持ちに売られ、武器弾薬に代えられた。その間銃撃戦の舞台になり、ロケット砲まで打ち込まれた。私が訪れたときには海外からの援助もあり、建物は修復され観覧も可能だった。2000年以上前に作られたゾロアスター教(拝火教)の像もあり、多くを失ったとはいえ、アフガニスタン史の悠久の流れを感じるに足る場所だった。

 ただ、一緒についてきてもらったアフガン人の友人はいい顔をしなかった。イスラム教では偶像崇拝が禁止されている。仏像を見ると彼は露骨に嫌そうに顔をしかめた。写真や人物画、アニメすら嫌われる土地柄だ。仏像の存在自体が悪魔の所業と見えても不思議ではない。アフガニスタンがイスラム化したのは8世紀ごろ。それ以前はゾロアスター教、ギリシア文化、仏教文化が大輪の花を咲かせていた。けれど、アフガン人でそれらに興味を持っている人間に、私はついぞ会ったことがない。

 以前ホテルで、アフガニスタンの仏教文化を通訳のアフガン人に熱っぽく語っているアメリカ人のジャーナリストを見たことがある。通訳の方はキョトンとしていて、そんなものがあったこと自体知らなかったようだ。アメリカ人の方は
「You should be proud of it! (誇りに想うべきだ)」
 と何度も繰り返していたが、通訳の彼にとっては寝耳に水だ。自分の国の文化に興味を持ち研究しているアフガン人たちがいることも知っているが、実際のところ多くのアフガン人にとって、興味の対象には成り得ないのが実情だ。戒律上の話だからこちらがとやかく言う筋合いではないが、まあ多少もったいない話ではある。私の博物館見学も、友人が「早く出よう」と何度も訴えるので足早に見るだけになってしまった。友人には悪いことをしたと思っている。(白川徹)

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2011年2月15日 (火)

アラサー財布事情/第10回 ギター関連に使っています

0102 ■Kさん(34歳)男性 職業:団体職員 埼玉県在住

 月78000円、駐車場5000円のテラスハウスに夫婦2人で住んでいます。家賃なりの家かな。
 選んだ理由は妻の実家が近いということと、職場は都内なんですが、後々、子どもが生まれたときに手が借りられるし安心だということで借りました。
 職場からは遠いけど、駅から近いので便利。周囲に大型スーパーがたくさんあります。急行が止まらない駅なのでそこが不便ですね。
 長男で、ゆくゆくは実家を継ぐ予定なので、妻が最初は実家に近くで暮らしたいということと、将来的な事を考えて、住宅選びに関しては妻に任せています。

 貯金は積み立てをしています。家計費は妻が管理しているのですが、自分としてはもう少し貯められるんじゃないの?って思います。最初は僕が管理していたんですが、細かいと言われ妻に任せることにしました。余り把握していないし、共働きなので貯金はきちんとできているはず。

 ここ1年で購入したものは、マラソンをしているのでウェアなどを買いました。ナイキとかアシックスのもので、シャツ、パンツ、タイツなどで、だいたい20000円くらい。スニーカーは10000円くらい。見た目は走れそうな感じになりました(笑)
 半年前にフルマラソンに誘われて、いつかやりたいと思っていたけど、先延ばしにしていたらいつまでたっても走れないので、いい機会だと思ってはじめました。普段は地元で走ってるけど、月1、2回、友人に誘われ皇居周辺を5㎞~10㎞くらい走っています。タイム計測はiPhoneのNikeアプリを使ってます。流行ってるかと思ったけどそうでもなかった。

 同じ高校だった人にバンドに誘われたので、新しいギターやグッズを買いました。高校時代に3年間バンドでギターをやっていて、その時のギターを実家から持ってきたけど、やるからには新しいものがほしいってことで。ミュージックマンというブランドのものが欲しかったんですけど、20~30万して趣味にそこまではかけられないので、そこのセカンドブランドのものを70000円で買いました。2週間に一度スタジオに行って、そのあと飲んで解散というパターンで活動しています。
 今後は、エレクターなどのちまちましたものを揃えていきたいですね。

 他は、本代に5000円くらい。本屋が好きなので、北千住のブックファーストに行って、端から端まで見て、気になる本を探して買います。それと、引用本を見て気になった本を買ったり、決まった作家の本を買うという感じですね。テーマから入るタイプです。

 幸福度は、僕は不幸だとも幸福だとも思ったことがなくて、いつも幸せだと思ってるんです。夫婦関係でもそう思っていて、取り立てて自分が不幸だとは思ったことはないですね。だから100%幸福だと思ったこともない。
 70~80%くらいで落ち着けていればいいんじゃないかって思っています。(聞き手:奥津)

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2011年2月14日 (月)

書店の風格/読んで話して、揉んでもらって「猫企画」

 横浜は六角橋商店街にある、「猫企画」に行ってきた。字面からはお店屋さんだと思われないかもしれないけれど、れっきとした古本屋さんである。いや、タイ古式マッサージもやっているという。ん? マッサージ古本屋さん? 「胃痛のツボが痛かったらこの本がおすすめですよ」と、『吾輩は猫である』をパック売りしてくれるのだろうか。そう思って伺ってみたけれど、安心なことにそんな真似はやってなかった。
 奥様がタイ式マッサージをやって、旦那さんが古本屋を経営する画期的なお店で、古本フロアの中に炬燵が置いてある。思わず「炬燵に入っていってもいいですか?」と言ってしまいそうな、アットホームな雰囲気だ。
 まずはタイ式マッサージをやってもらった。記者はタイに行ったときに初体験したが何せ10年も前なので、途中から涙があふれてくるほど痛かったことしか覚えていない。しかし最近、冷えからか肩が痛かったので、思い切ってやって貰うことにした。決意を持って挑んだが、全然痛くない。ソフトタッチである。「日本人の方が、タイ人よりうまいって言われるほどなんですよ~」とにこやかに笑いながら施術してくれる奥さん。「それにしても全身が凝り固まってますね。ウチは遠いので通うのは難しいでしょうから、お近くで一週間に一度でもほぐして貰えると良いですよ」とアドバイスを受けた。そんなに凝ってるかなあと半信半疑だったが、それから3日後、腕が全く上がらなくなった。肩が痛かったのに加えて、30㎏程度の荷物を持って移動したのが徒になったらしい。若い頃は自分の体重よりも重いウェイトでトレーニングしていたこともあったのに。若き日の栄光を頭に描きながら、リハビリに通い始める羽目になった。プロの言うことは聞くものだ。
 久々に身体をぐーっと伸ばされ、リフレッシュしたところで、古本屋さんのエリアに降りた。

Pap_0003  ジャンルは、とにかく面白いもの全部、といった構成だ。漫画、個人で作っているミニコミ誌、評論や美術関係。仕入れ先を聞くと「向かいの薬局屋さんのご主人から譲り受けて」とか、入り口近くで売られているバナナチップやクッキーのアクセサリーについては「すごく奇抜な女性が作って持ってきてくれるんです、バナナやクッキーは本物なんですよ」とのことで、本当にアットホームなお店なんだなあとつくづく思う。それを炬燵が象徴している。「何も買わないでずうっと話をしていく人も多いんです」と、ふんわりした笑顔で奥様は語った。若い夫婦のやっているお店に、何となくお年寄りがやってきて、何となくお茶を飲んでいる。そんなほほえましい風景、もっともっと日本に増えてほしい。そう思わせる。

なんせ、以前営業していた横浜黄金町で閉店してから、そこのなじみだった人たちが「またやりなよ!」「ここなんてどう?」と紹介してもらった土地が、今営業している六角橋だというのだ。もともとその土地に住んでいたわけでもない若夫婦が、なじみのおじさんおばさんに土地を紹介してもらうなんて。「引きこもり世代」「無縁社会」なんて言葉はなんのその、若くたって「ロスジェネ世代」と言われたって、人柄がよくて常にオープンであれば、人に恵まれる。そんな確信を、改めて持つこととなった。Pap_0004_2

 仕事をするのに必要だった『絶対毎日末井日記』を買って店を出た。お店の中で人の暖かさに目いっぱい触れていたので、一人がなんだかとても寂しくなった。電車の中で読んだ本は、うーん、この末井さんて人をほどよく知っていれば面白いんだろうけど、なにせメディア音痴なもので……(奥山)

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2011年2月13日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/「明るい遺影写真展」に行ってきた

 特に急逝したときなど、遺影写真を選ぶというのは大変困難なものである。
 なんと言っても、葬儀の場で目に見える主役の顔といったら、遺影しかないのだから。
 昔のアルバム、今ならデジカメのデータを何千枚もひっくり返して、あれでもないこれでもないと言い合うことになったり、反対に「おじいちゃんは写真に撮られるの嫌いだったからなあ~」と呑気な顔で出征の時の写真を出してこられたり。
 そんなのはまだいい。
 集合写真の中から米粒みたいなサイズの顔を指さされて「これなのよう」と言われ、それを几帳面に「アスカネット」に預け、そして出来上がってきた写真のぼやけっぷりといったら、いろんな意味で涙を誘うものがある。
 アスカネット。
 遺影を扱う会社としてはきっとトップクラスのシェアを誇る、フォトサービスの会社だ。
 私が葬儀社にいた頃は、遺族から受け取った写真データをスキャンしてアスカネットに送信し、引き延ばし・着せ替え・肌色の修整などをしてもらったものを、またデータで送ってもらっていた。
 日に2~3枚しか遺影を見ない私たちなんて楽なものだ。
 年に27万枚を受け取るアスカネットの気苦労は、きっと私たちの想像を絶するものだったのだろう。プロとして誇りを持っているからこそ、「こんな写真で遺影が作れるかああっっっ!」と、ちゃぶ台をひっくり返した日もあったろう。だからこそ彼らは、次のようなサービスを始めた。
その名も、

遺影バンク。

 生前から好きな写真を遺影として登録しておけるサービスで、登録料は無料とのこと。とっておきの一枚を用意しておく方がいい、と言われても、あの大きなサイズで自分の遺影が自宅に届くなんてちょっと嫌。そんな風に考える人も多いだろうから、データとして預けておけるのは気楽なものである。しかも大切な人へのメッセージを書いておけたり、家系図を作成できたりと、エンディングノート的な機能もある。
 ただ、これに登録しているということを家族が知らないと、何の役にも立たないけれど……。

 で、このサービスができた記念に、という訳でもなかろうけれど、協同組合日本写真館協会と株式会社アスカネットが「明るい遺影写真展」を共同開催した。東京での展覧は終わり、大阪は2月17日から20日まで、TWIN21アトリウムで開催されるようだ。

 東京会場は新宿駅西口のイベントコーナーだった。北海道から沖縄まで、いずれもプロの写真家が撮った遺影が400枚、ずらっと並ぶ姿は圧巻だ。どれも「本人らしい」一枚になるように工夫が凝らされている。ソムリエであればワイングラスを傾けた仕草、農家のおばあちゃんなら農作業中の屈託ない笑顔、背景はトマト畑だ。バーのママならカウンターにいる姿、カメラマンはカメラと一緒に……。
 そんな中、目を引いたのは意外にも紋付き袴を着、日本刀を腰に差した厳格な表情のおじいちゃんであった。お仕着せに過ぎるとして昨今は敬遠の対象であった喪服姿、他の写真がラフだとぐっと引き締まって見える。やっぱりちゃんとした写真っていうのは若干意識してコスプレしたほうがサマになるのかもね、と思った。
 加えて、この遺影群は「本人らしい」をモットーとしているようだが、大部分の写真はちゃんと化粧してライトを照らされて笑顔になって、を基本としている。それって、必ずしも本人らしくない。いつも仏頂面で厳格なおじいちゃんが変に笑顔を作っても、家族は複雑だろうと思う。しわしわでしみだらけなのがおばあちゃんのチャームポイントなのに、それを修整されたらどうだろう。
 もっと細かいことを言うと、本人が思う「本人らしい顔」と、家族が思う「本人らしい顔」が同じとは限らないということだ。もし将来、「遺影バンク」に自分で預けておいた写真が家族に「イマイチだよねー」と酷評され、違うものに差し替えられたら……。悔しくて化けて出ると思う。だから、登録の存在を家族に知らせるためにも、皆と相談しながら決めよう、遺影。そうしよう。(小松)

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2011年2月12日 (土)

元乙女のゲーム生活 『維新恋華 龍馬外伝』

 昨年の大河ドラマがきっかけで坂本龍馬ブームが再燃しあ(何回目だ??)。大河にならなくても龍馬ファンはずっといたし、本やドラマの主人公で描かれることは多い。
 今回取り上げるのは、龍馬が主人公という珍しいゲーム『維新恋華 坂本龍馬外伝』。

 箇条書きで気になったポイントをあげると。

 1、歴史ルートだと史実通り死ぬ。歴史ルートでもドリームよりだと死なない。ドリームルート(勝手に命名)だと死なないし、基本的に海をわたって自由を手にするエンド。
 ゲームだと、「もし生きていたらこうなんじゃないか」という妄想のひとつを垣間見ることができて楽しい。よく考えてみたら『幕末恋華』の龍馬ドリームエンドも海を渡っていた。海外に行くのはお約束なのか!?

 2、政治談議が多い。思想と思想をぶつけ合い、時には別の道を歩んだり、また同じ道を歩んだりと、恋愛が軸というより「時代の流れ」を軸に進んでいく。
 暗殺されたり病死したり刑死したりと明るい結末が待っているわけではないのに暗くない。薄桜鬼はやりながら暗くなるけど、こちらは明るい気分でやり通せる。悲恋も明るけりゃウツにはならないということか。

 3、主人公が幕末期を個性的なキャラと過ごすにもかかわらず強い思想を持っていない。足手まといになるほど弱くもなく、自分自身を持ちながらもついていくというキャラクターなので、プレイしていたとしてもストレスがたまらない。髪型が「卑弥呼さまー!」っぽいのが残念。
 恋愛ゲームほど主人公の「性格」が重要なゲームはないのではないか。自己投影するのが主人公なので、あまりにも個性が強すぎるとはまりきれないし、ゲームが長続きしない。

 4、河上彦斎が攻略キャラに入っていたが、歴女ではないので知らなかった。佐久間象山は知っている。

 5、桂小五郎ルートがあればいいのに、といつも思う(基本は逃げるだけ)。そうしたら益次郎がでるね。

 6、歴史ゲームをやると、スポットを浴びている人物以外の人を知ることができる。
 知ったところは邪な世界からだけど、日本史が好きになる子が増える(偏りあるが)。

 7、実在の人物の攻略時を家族に晒したくない。ホストゲーのがまだまし。

 8、恋愛描写が大人向け。お前ら盛り過ぎ!情熱的なセリフがポンと出てくるからイヤホンも必須。

 9、歴史>>>恋愛というストーリーなので、幕末歴史物が嫌いでなければ、糖度少なめなので初心者向けともいえる。

 10、歴史ゲームで三強は、戦国(キャラが多いし、三国志っぽい)、平安(もののけ面でいける。晴明とか)、幕末ということを再確認。

 総評としては、恋愛描写が少なかったのでさっぱりと遊ぶことができた。主人公の髪型がヤマトタケルっぽいのが色っぽさを半減させてしまうが、欠点のないゲームなんてないのだからそこは大目にみよう。
 龍馬の中の人が好きだという理由で買ったが後悔はしていない。
 同メーカーの『ラスト・エスコート』の最新作があまりにもがっかりなものだったので期待はしていなかったが、これは久々にやってよかったゲームだった。(奥津)

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2011年2月11日 (金)

OL財布事情の近年史/第20回 お勤め先は、ニコルです。JALです。バブルの匂いがしてきました

連載「OL財布事情の近年史」は、2013年12月に単行本『女と金~OL財布事情の近年史~』として発売されます。

各年代のOL像を、イラストを交えて解説する辛酸なめ子さんのプチ時評つき。辛酸さんには、カバーイラストも描いていただきました。

エピローグには最新の女性誌お財布事情が書き下ろされ、女性誌創刊号の画像50数点を掲載。30年ぶんの「OLの財布の中身」が一気に見える本となりました。

全国書店から注文可能。
Amazonでも予約・注文できます!

「月にあと2万円欲しい」と言っていたOLが、日常会話で「利回り」だの「株」だの言うようになるまで、わずか数年。激動の時代である。お金観の急激な変化は、当然ながらお金の出どころ、仕事の変化にリンクしている。女性誌を眺めていくと、そんな仕事の変遷も見て取れる。今回はOL仕事視点から、この時代をおさらいしてみようと思う。

 80年代初頭、20代女性の仕事といえばどこの会社であっても「一般事務」で、「職種」を表すものではなかった、というのは第4回でもふれた。専門職というのはまだ憧れの域で、例えば『an・an』81年11/13号から始まった「白書/女の職業」シリーズでとりあげられている職業は、スタイリスト、イラストレーター、ツアーコンダクター、レポーター、モデル、ブチック店員(ハウスマヌカンはまだなかった?)、など、いわゆるカタカナ職種ばかり。最先端でかっこいい、お洒落、といったイメージ先行で現実味は薄い。しかもこのシリーズ、後半は「テレビで働く女性」「広報で働く女性」とあまりに漠然としている。

 その後82〜83年頃からにわかに景気がよくなり、仕事の量も幅も増えてきた。女性誌がさまざまなタイプに分化したのもこの頃だ。84年創刊の『エフ』は、働く女性に特化した誌面構成。ファッションも通勤着のコーディネイトや着回し術など、いわゆるリアルクローズをとりあげている。86年2月から始まった連載「おんなの天職、その傾向と対策」では、職業がより具体的になっているのが顕著だ。第1回のタイムキーパー(「テレビで働く女性」じゃなく)から始まり、会議通訳、外資系企業秘書、ファッションメーカー企画室、レコード宣伝プロモーター、コンパニオン、メイキャップアーティスト等々、専門職が並ぶ。それらの仕事選びの背景が、とてもあの頃っぽい。「アテネ・フランセ→津田スクール・オヴ・ビズネス→モルガン銀行→モルガン・ギャランティ・リミテッド副社長秘書」とか「生命保険会社入社→ただのOLじゃつまらない→文化服装学院でニットデザインの勉強→ニコル入社」とか「上智大卒、クリエイティブな仕事目指してCBSソニー入社。英検は1級」とか。いたいた、向上心が強くて、転職や勉強に前向きな女性たちが。そしてそれらを受入れる余裕も、企業にはあったのだ。

 一方同じ84年創刊の『CLASSY』は、前向き派とは真逆。周知の通り『JJ』のお姉さん版だが、女子大生を卒業しても意識はそのまま、恵まれたお嬢さんOL生活を是としていて、これはこれで当時相当数いたのではないかと察する。85年4月「秘書課OLのワードローブ」に登場するのは「年配の方と接することが多いので流行の服はいっさい着ません」という家電メーカー役員秘書23歳に、イブ・サンローランのスーツやマギースポーツのワンピースを着る外資系医薬品会社役員秘書24歳など。某週刊誌「うちのヨメ賛」(今は「縁あって、父娘」ですね)に出てきそうな、いい家のお嫁さん候補風のスタイルである。または野暮ったい。また、当時最もステイタスだったのはCAと呼ばれる前の、スチュワーデス。85年6月号「スチュワーデスのオフスタイル」では、「香港ペニンシュラホテルアーケートでシルクのワンピースをオーダー(¥140,000)」(英国航空28歳)、「買い物は、ローマのラファエロ・サダート、ブルーノ・マリーの手袋や靴。北京ではカシミヤのセーター。香港のプラザホテルアーケードはカシミヤのコートが¥80000くらいでオーダーできるのが魅力です」(日本航空30歳)。「仕事柄、ひと月の半分以上を海外で過ごす、国際線のスチュワーデス」というのが、あの頃のセレブの記号だったようだ。

 かと思えば、主流派『non・no』は相変わらずの王道というべきか、85年4/20号「西洋占星術社内恋愛サクセススケジュール」、86年3/20号「ゼミナール・がんばれ社内恋愛!」など、会社は男GETの場、と割り切っているかのようである。

 OLといっても、仕事スタイルもモチベーションも目的も様々、もはや十把一からげにはできなくなってきた80年代中期、まさにその86年に、かの男女雇用機会均等法が施行された。これは大きなトピックスだったのでは、と思いきや当事者であるはずのOL向け女性誌で、特に話題になっているふうでもなかったのは、なぜ。考察は、次回へ。(神谷巻尾)

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2011年2月10日 (木)

ホームレス自らを語る 第97回 酒で人生を破滅させました/小林さん(47歳)

 生まれたのは福島県の相馬です。
 地元の高校を卒業して、東京の板金工場に就職しました。でも、そこには1年くらいしかいませんでした。自衛隊にスカウトされたんです。あの頃は自衛隊のスカウトマンというのがいて、繁華街などで若者に片っ端から声をかけていたんです。私もそれに掴まって「大型車の運転免許が取れるから」 と勧誘されて、それが入隊のきっかけになりました。
 陸上自衛隊朝霞駐屯地が勤務地で、そこの隊本部補給武器隊で働きました。自衛隊には満期除隊になるまで3年間いて、そのあいだに約束通り車の大型免許が取れました。

 自衛隊を辞めて、福島に帰りました。運送会社に就職して、長距離トラックの運転手になったんです。ちょうど昭和50年代に入ったところで、「物流革命」 とかいわれて、荷物輸送が鉄道からトラックに代わった頃でした。仕事は切れ目なくあって忙しかったです。

 運んだ荷物は、魚から、野菜、冷凍食品、一般食品、ほかにもいろいろ何でも運びました。まだ高速道路も部分的にしか開通していない時代でしたが、福島から熊本に飛んで、そのまま函館に行って福島に戻るなんてこともしました。仮眠を取る暇もないくらいでね。その分、収入はよくて、月に50万円を稼ぐこともありましたから。

 結婚したのは26歳の時です。相手は縫製工場で働いていた子で、知人の紹介で知り合いました。世話好きの女房で、私のこともかいがいしく面倒みてくれました。私にも稼ぎがあったし、人並み以上の暮らしはさせてあげられたと思っています。37歳の時には福島市の郊外に、一戸建の家も新築しましたからね。まあ、その辺りまでは一見順調そのものだったわけです。
 一見というのは、私は若い頃から大変な酒好きでしてね。一升酒を当たり前のように飲んでました。家に酒が切れると、普段はおとなしい私が人が変わったように荒れるんです。だから、女房は酒を切らさないようにビクビクして暮らしていたようです。

 仕事明けの日は朝から家に友達を呼んで酒盛りです。トラックの運転中にも飲みましたからね。運転中に眠気を催したりすると、日本酒をキュッと引っかけるんです。そうすると不思議なもんで1時間くらいはシャキッとなって運転できる。そんな無茶もしていたんです。完全なアル中(アルコール依存症)ですよ。

 何で酒に溺れるようになったのか、理由は自分でもわかりません。多分、血統だろうと思います。オヤジも大酒飲みで、肝臓をやられて若くして死んでますからね。その血を受け継いでしまったんでしょう。酒に逃れたいことがあったわけではないし、ただただ酒が飲みたいだけでした。酒があればあっただけ飲んでしまう。限度というものがなかった。セーブできない意志の弱さが、アル中になった一番の原因かもしれませんね。

 身体に異変を感じるようになったのは、ちょうど家を新築した頃からです。手が震え出し言葉の呂律が回らなくなって、言動がおかしなりました。酒が切れると禁断症状を起こして、人に追いかけられている妄想にも憑かれました。女房に精神病院に連れていかれ、そのまま3ヵ月間の入院になりました。
 一旦快復して、またトラックに乗ったんですが、こんどは事故を起こしてしまいましてね。居眠り運転をして、大型トラックの側面に突っ込んでしまったんです。精神病院の入院費用と家のローンがたまっていましたから、それを取り返そうと無理したのがいけなかったんですね。左脚骨折の大ケガをして、また入院することになりました。

 それで運送会社のほうからは 「もう出てこなくていい」 と言われました。クビです。会社にとっては、いつも運転席に酒瓶を隠しているようなアル中の運転手は、やっかい者だったわけです。事故を起こしたのが、辞めさせるいい口実になったんですね。

 ケガが治って退院しても、無職ですから行くところがなくて、また酒浸りの生活に戻っていました。そして、また精神病院に入院です。これで女房、というより女房の実家に愛想を尽かされましてね。家のローンを実家が引き継ぐ代わりに、女房とは別れさせられ家も取りあげられました。

 精神病院を退院してからは生活保護を受けながら、アパートで独り暮らしを始めました。そうなると当然というか、また酒浸りです。そのうちにアル中が嵩じてきて、包丁をぶら下げて街をうろつくようになってました。警察に逮捕されて、それで生活保護は打ち切られました。生活保護の条件に酒を断って通院治療に専念するというのがあって、その約束を破ったからです。

 で、もう福島にはいられなくなって、東京に出てきました。出てきた当座は、飯場に入ったり、トラックに乗ったり、いくらかは仕事もあったんです。それでもほとんどホームレスの状態でしたけどね。そのうちに運転免許証の書き替えができなくて失効してしまい、それからは飯場にも入れなくなって完全なホームレスです。東京に出てきたのが42歳の時ですから、もう5年もこんな暮らしをしていることになります。
 ただね。こんな暮らしをしていると、酒を飲みたくても金を持っていないでしょう。いまでは酒がなければないですむようになりましたからね。皮肉なもんですよ。

 私もまだ47歳ですから、先のことを考えると何とかしなければいけないとは思っているんです。ホームレスの自立支援センターに入って仕事を探すとかね。でも、何か億劫でズルズルになってしまっているんです。(2002年1月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2011年2月 8日 (火)

池田大作より他に神はなし/大河連載第18回  ド畜生ゴロツキペテン雑誌『週刊新潮』をうっかり拾ってしまった情けない弟子が、眼に見えない師の教えの強靱さに気付き迷いから覚め、日顕一派との生涯の戦いに全身全霊を傾けると意を決するまでの長い道のり。

3   「ブスリッ!!」と、大きな擬音付きで魔が刺したのだ。従来なら考えられない事だが、数日前に中央線各駅停車の車内で、網棚から『週刊新潮』(2月10日号)を拾ってしまった。見るだけで両眼の視力が失せ、触れたら腕が根元から腐ると、心ある人々から憎悪されている、ド畜生ゴロツキペテン雑誌をなぜ? 正直に言おう。“名誉会長の今”が心配でならなかった。今週号の特集を中吊り広告で見て以来、悪質なデマと百も千も承知していながら、確認したい衝動にかられ続けた(私は本当にケチな俗人だ…)。さすがに拾う際は恥ずかしく、右手を素早く往復させ、瞬時にカバンに隠した。その間、1~2秒だったと。ハレンチ極まる姿を、万が一“師弟共戦”の日々を前進する同志に目撃されては、明日からもはや生きて行けない。

 万引き犯人がスーパーから立ち去る際の、逃亡者(デビット・ジャンセン)気分で水道橋駅西口を出て、飯田橋2丁目の事務所に早足で向かう。見慣れた少年画報社やベースボールマガジン社のビルが、名残り惜しく見える。あいあい橋から眺める日本橋川の流れも一段とまぶしい。「この景色と再会出来るのはいつの日の事か…」“師弟直結の一級戦士”ヘの道を胸に誓った我らにとって、『週刊新潮』は立ち読みしたり、ましてや買う、拾うなどの蛮行は言語道断で、ド畜生道への片道切符だ。誰にも一切の弁明が許されない、”師弟裏切りの一級犯罪”なのだ。無謀にも同誌を拾った瞬間から、街の景色が私には護送車の窓越しに見えた(名誉会長!2度と過ちは繰り返しません!!)。

1  同誌を取り出す前に、机の上にまず古新聞紙を広げる(もちろん『聖教新聞』以外の)。昔から愛用する机を、ペテンゴロツキ雑誌で汚染させたくなかった。深呼吸数回後、意を決して“汚物”を取り出し乗せる。すぐに開きたい欲求を抑えて、まずは両手を石鹸で念入りに洗う(電車内で直接触れてしまってる)。次にロッカーから軍手を引っ張り出して両手にはめ、誌面接触による雑菌侵入に備える。手袋越しではページが開きづらくなった。だが、地獄を這いずり回る“一握りの日顕一派”や、背後に連なる世界平和に敵対する亡者との戦いに、完全勝利する日までは耐えねばならない小さな試練だ。

 怒髪天を突いた。まだ目次をひと目見ただけなのに!(もう少し若ければ、赤報隊戦士として新潮社に必ずや突撃したろう)トップ記事、“「池田大作創価学会名誉会長」は「脳硬塞で車椅子」と講演した「星浩朝日新聞編集委員」”の項目下方に、写真が2枚レイアウトされている。メインはもちろん、名誉会長の福々しくも輝かしいお姿だ。いかなるゴロツキ雑誌に掲載されようが、会長のカリスマ性溢れるお姿が印刷されると、周囲の救いのない記事・写真類までが、朝日を受けたように明るく甦る。世界最高峰の知性のパワー恐るべし!と…ところが、名誉会長の万里の長城を彷彿とさせる雄大なお頭部左手に、印刷ミスであろうか、じゃがいも状の汚れが…と思いきや、そそ…それは、星浩とやらの醜い顔面写真だったのだ!

2  知っての通り、昨秋段階で名誉会長は世界各国から、前人未踏・永遠不滅の300以上の名誉学術称号を受けた。更には、「ノーベル財団は何を考えている? イケダに平和賞を与えないまま彼が没すれば、ノーベル賞の権威が再生不可能なまでに失墜する。国連事務総長も乗り出すべき緊急問題だ!」との声が、欧米はおろか中国、インド、台湾、スリランカ、ブータン、アフリカ各国から怒濤のように巻き起こっている。ささやけば吟遊詩人、ペンを手にすれば大河小説家(作風はトルストイに近い)、風景を切り取れば前衛写真家(アラーキーならぬイケ-ダーと呼ぶコアなファンも多い)、舞えば東洋のニジンスキー(扇子を広げてに宙を舞う際の華麗さ!)、歌えば流し目の“男美空ひばり”、海外に出れば民間総理大臣待遇、生きる姿は全身平和宗教指導者と、20世紀を代表する叡智との評価が定まった偉人、それが名誉会長なのだ!

 ひるがえって、いったい星浩って何者?(どこの豚の骨?)テレビ朝日に出ては、反創価学会メンバーが主導する(あらゆる宗教人の敵、石井一までが党選対委員長に!)、公約破りが売り物の菅政権をヨイショするだけの、一介の落ち目新聞社の羽織ゴロ(最近も読売や毎日の同レベルの馬鹿記者と3人で、菅総理に高級豆腐料理屋に招かれ、官房機密費でゴチになったと。羽織ゴロならぬ羽織コジキ!)。朝日新聞は昨今、異常な小沢一郎バッシングを繰り返している。誰の命令か知らないが(宗主国の米国だろう)、星はその頭目とも目されている。屁理屈は種々こねてるが、最大の理由が小沢&鳩山民主党が主張した、電波利権のオークション化、記者クラブの全面解放、再販制の見直し等への不満からなる、自分たちの権益死守にあるのは明白。政治主導・国民生活第一の政治では、官僚と癒着して公金横領取材して来た、大マスコミポチ記者の優雅な生活が吹っ飛ぶ。金銭に執着しまくる醜くあさましい姿は、文字通りマスコミ界における“敗北の日顕一派”と言えよう。

 目次の一番下には小さな文字で、“本文デザイン/伊藤春夫・広瀬潤”とある。2枚の写真の狂ったレイアウトも、両人の悪行と推定される。今やDTP技術の編集者への普及で、デザイナーは衰退一方の出版界でも、最先端の凋落部門。値段にも内容にも何一つ文句を言えない賤業なのは、同業界人として熟知している。が、この冒涜的写真配置は、人としての限度を超えた、文字通りの歴史への背信である。「お父さん、何でノーベル賞をいついただいてもおかしくない、世界的宗教指導者をからかうよなお仕事なさるの? 私やお母さんのため? いらないわ、そんな汚れたお金なんて。私も明日から新聞配達するから、もう恥ずかしいお仕事は止めて!」と泣き叫ぶ、2人のいずれかの可愛い娘さんの、やむにやまれぬ真実の絶叫が、私にははっきり聞こえる(ほ…本当です!)。

 ド畜生ゴロツキペテン雑誌の発行人は、酒井逸史。前出の2人共々、更には“腐敗の日顕一派”をも加えて、現世でも来世でも全員、家族ぐるみで地獄を這いずり回る運命なのは必定。ここまで来て、私は軍手を取り去り、マスクも外した(書き忘れてたが、口からの亡者の雑菌侵入に備えた)。恐れる事なく堂々と、素手でページをめくり始める。“師弟直結の一級戦士”を目標に、日々の研鑽を続ける我らが、こんな幼稚なデマや中傷に、これっぽちとて傷付くはずがないと気付いたから。名誉会長の教えは“俗眼”にこそ見えないが、我々の全身を覆う伸縮自在の強力な皮膜となり、24時間弟子を外敵から防御してくれている。拾った『週刊新潮』は結局目次を読んだだけで、惜し気もなくゴミ箱に捨てた。              (つづく)

 

■塩山芳明…雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

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2011年2月 7日 (月)

●ホームレス自らを語る 第96回 やがて億万長者に(前編)/内田英二さん(仮名・50歳)

1102  内田英二さん(仮名・50)は、新宿の東京都庁舎駐車場前の路上で、熱心にノートに向かっていた。そこは歩道の車道側スペースで、3年ほど前から内田さんの専用の場所として使っているという。ノートに向かって何を記していたのかは、あとで明かすとして、まずは来歴から聞こう。
「昭和36(1961)年、栃木県の生まれです。オヤジはトビ職。兄弟姉妹は5人で、オレは上から2番目。上は兄貴でした。子どもが多かったから、家の生活は苦しかったですね。子どもの頃、よく近所の家に米を借りに行かされましたし、夜寝るときは、1枚の布団に兄貴といっしょに潜り込んで寝ていました」
 父親は仕事のときは飯場に入ることが多く、家には週末ごとに帰ってきた。
「日曜日の朝目覚めると、枕元にオヤジのお土産が置いてあってね。チョコレートだったり、バナナだったり、それが楽しみでしたね」
 決して楽な暮らし向きではなかったようだが、親から慈しまれて育ったことが窺える。そういえば、この取材のあいだ、内田さんは常ににこやかに応じてくれた。そのやさしい心根は、そんな家庭環境に育まれたのだろう。
「オヤジのトビ職という仕事は、仲間が足場から墜落して死んだとか、大怪我をしたとか、そんな話ばかりで危険で怖い仕事だと思っていました。叔父の一人に、宇都宮の陸上自衛隊に勤務している人がいて、それが子供心にカッコ良くてね。だから小さい頃は、漠然と自衛官に憧れていましたね」
 中学卒業で働くことになる内田さんだが、その後は着地点の定まらない、出入りの多い人生を送ることになる。
「中学校を出て、地元の寿司屋で働きましたが、1ヵ月と持ちませんでした。寿司屋というのは朝5時から夜の11時まで働き詰めで、すぐに身体を壊してしまったんです。元々、寿司屋になりたかったわけじゃなくて、中学校の担任に勧められるままに入ったので、そんな長時間労働の厳しい仕事場で長続きするわけがありませんよね」
 それから新聞配達や喫茶店のバイトなどを経て、1年後に一念発起して職業訓練校に入学する。
「そこで2年間かけて、溶接を学びました。溶接工の資格も取りました。資格は取ったんですが、卒業後はガソリンスタンドで働きました。やっぱり若いからクルマに興味があったのと、運転免許証を取りたいと思ったからですね」
 結局、溶接工の資格は使うこともなく終わる。やがて、内田さんも20歳を迎えていた。
「その頃から、土建の親方と知り合いになって、土木作業のバイトで働くようになります。ただ、バイトですから仕事のないときは、ブラブラと遊んでいることも多くて、それを見たオヤジから『暇だったら、トビの仕事を手伝え』と言われ、トビの仕事もするようになりました。工事現場の足場の組み立てと、その解体の仕事が多かったですね」

 父親と同じ現場で働くようになった内田さんだが、その居心地はあまりよくなかったようだ。
「オヤジが何かにつけて、オレに厳しくあたるんです。ほかの若い衆の手前もあってのことでしょうが、意味もなく厳しくされるオレはたまらないですよね。それにトビの仕事は危険が多いですから、あまり仕事に身が入らなかったです」
 それで内田さんは、土木作業員とトビ職の二足の草鞋を履くようになる。ようするに気の向くまま、仕事の依頼があるままに、どっちつかずのバイト感覚で数年間を送ったのだ。
「そのうちにスナックを経営していた兄貴が、商売をしくじり多額の借金をこしらえて、それをオヤジが肩代わりして支払うということがありました。それからのオヤジは非常に不機嫌になって、現場でオレにさらに厳しくあたってくるんです。オレは関係ないのに冗談じゃないやと思って、トビ職も、土木作業員も、きっぱりやめてやりました」
 次いで内田さんは、地元の倉庫会社の倉庫内作業に職を得る。その倉庫で働いている友人がいて、その紹介で入ったのだ。
「その倉庫にはあるメーカーのプレス機の部品が保管されていて、全国の工場からくるバネだとか、スチール製の板などの注文品を段ボール箱に詰めて発送するのが仕事でした。プレス機の部品だから重いものもあって、力仕事だったりもしましたが、仕事は楽しかったですよ。仲の良い友だちが、いっしょに働いていましたからね」
 その楽しかった職場環境に変化が起きるのは、1990年代半ばのことだ。
「給料が遅配されるようになったり、パートのおばさんたちが徐々に人員整理されたりで、おかしいなと思ったんです。勘ですね。それでオレのほうから退職を申し出ていきました。そうしたら退職一時金として、10万円もらえました。オレが辞めてから、しばらくしてその倉庫は潰れてます。オレは退職一時金までもらえて、運がよかったですね」
 内田さんが倉庫を辞めたのは1995年、34歳のときだ。オウム真理教の地下鉄サリン事件のあった年なので、よく覚えているという。ということは、平成不況の真っ只中で職を失ったことになる。
「倉庫の仕事を辞めても、すぐに次の仕事を見つけられると思っていたんですが、甘かったですね。世の中は不況で、どこも正社員の募集なんてやっていません。たまにあっても、競争倍率がすごくて、とても採用されませんでした。また新聞配達をやったり、製本工場のバイトで日銭を稼ぐようになっていました」
 そのバイト仕事も、しだいに先細りになっていくばかり。もう、栃木にいたんではラチが明かないと、東京に出る決意をする。内田さん、38歳のときのことだ。(この項つづく)(聞き手:神戸幸夫)

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2011年2月 6日 (日)

寺門興隆を読む/第5回 2011年2月号「羅漢像の勧め」

 寺院実務誌「寺門興隆を読む」も5回目、2月号を迎えた。ところでこの雑誌は、ひとたび改題の歴史がある。以前は『月刊住職』という雑誌であった。1998年、発行元が変わったために誌名も変わったのだ。何とも直截的。「寺門興隆」のほうが数倍もかっこいい。何というかこう、一見、住職のための雑誌っぽくなくて、より遠い地平を見ているようじゃないか。寺関係の雑誌である、ということは覆い隠せないとしても。隠す必要性はないが。

 さて、2月号の見出し。

余生30年超時代の仏教/護持会預金訴訟/宗費長期滞納住職の判決/諷誦文を作る/脚光の骨仏/葬式仏教論/羅漢像の勧め/書の達人住職/琵琶住職/寺同士墓地論争

 色んな住職がいたものである。特に気になるのはやはり「羅漢像の勧め」だろう。昨年の12月号で仁王像を勧められたばかりだ。いったいいくら散財させれば気が済むのか、と憤慨しながらページをめくったが、目に飛び込んできたのは愛らしい素人作りの石像がたくさん。なんと「石仏の会」の素人さんが集まって作った約800体の仏像と読んで驚いた。

 お寺を提供している埼玉県の定副院には、毎日曜日にたくさんの人が集まるらしい。「石仏の会」は緩い集まりで、「わいわいやりたい人は竿の日に来ればいいし、一人で静かに彫りたい人は平日に来ればいい」という。「なぜ彫りに来たか聞く人はいない」という言葉に表されているように、現代的なやんわりとした付き合い方がミソらしい。それで「らかんまつり」まで行われているのだから圧巻だ。

Zeikin  さらに毎月連載の「税金相談」では、

「住職寺族の家計に平成二十三年度税制改正はどんな影響を及ぼすか」

「袈裟衣や経本や新聞・書籍の代金や宗費等も控除されるって本当?」

と、今年の法改正に興味深々である。前者の相談は住職の所得が法改正の影響を受けないくらい低いという、ちょっと恥ずかしい結果に。そう、ちょいリッチな人しか関係ないのだ、と思おう。思いたい。後者は、袈裟や数珠、経本などが税制ではどんな区分になるのかなど細々と記載されており、なんだかよくわからないけどお坊さんも大変なんだな、と思わされた。

 連載見出しで優れているのはやはりお寺の和尚の日記、「和尚が崖から落下し九死に一生を得たのは寺世話人のおシッコのせい」と、最初から最後まで何が何やらわからず、記事を読まされる羽目になる。さすが元週刊サンケイ記者。(小松)

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2011年2月 5日 (土)

ランチパックファンイベント開催@お台場

数々のネットニュースで話題になった『ランチパックの本』。

その著者、香山哲さんが、ランチパックファンのためのイベントを開催します!

ファンにとって見逃せない、そしてファンじゃない人もランチパックの虜になること必須の大会になること、間違いなしです。

コンビニに並ぶ姿からは思いもつかない、めくるめくランチパックの世界に浸ってみませんか!

■開催場所:東京カルチャーカルチャー(http://tcc.nifty.com/

■開催日時:

2011 02 27 [Sun]

Open 16:30 Start 17:00 End 19:00 (予定)
前売券\1,500・当日券\2,000

(ランチパック数種付!!飲食代別途必要・ビール\600・ソフトドリンク\390~など)

チケット入手方法など、詳細はこちら↓

http://tcc.nifty.com/cs/catalog/tcc_schedule/catalog_110202203386_1.htm

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2011年2月 4日 (金)

OL財布事情の近年史/第19回 メリル・リンチOL登場。財テクはオンナのたしなみ

連載「OL財布事情の近年史」は、2013年12月に単行本『女と金~OL財布事情の近年史~』として発売されます。

各年代のOL像を、イラストを交えて解説する辛酸なめ子さんのプチ時評つき。辛酸さんには、カバーイラストも描いていただきました。

エピローグには最新の女性誌お財布事情が書き下ろされ、女性誌創刊号の画像50数点を掲載。30年ぶんの「OLの財布の中身」が一気に見える本となりました。

全国書店から注文可能。
Amazonでも予約・注文できます!

 ユルいバイトでラクラク稼ぎ、高金利でぐんぐん増えて、まったくお金なんてちょろいもの。という時代が確かにあったのである。女性誌にも、「貯める」「殖やす」系記事が出るわ出るわ、ざっくざくである。特にこの時期財テクに突っ走っていたのが、『ウィズ』。前々回も紹介したが、84年あたりから年に2度3度と、マネー特集をしている。財形貯蓄や定期預金などから始まって、国債、株、その他さまざまな金融商品を駆使する蓄財OLの体験が多数紹介されている。当時普通のOLが何を思って、どんなきっかけで財テクに走り、どこに向かっていたのか、『ウィズ』お財布記事から検証していこう。
 まずは1985年3月号「コンピュータで診断 300万円貯める早道」より。「〈趣味は貯蓄よ〉なんて豪語している」入社2年目24歳のコンピュータ関係プログラマーは、手取り13万円のうち、社内預金2万円、財形(公社債投信)3万円の計5万円を貯蓄。実家の強みで自分の小遣いが6万円になるが「あまり買い物しないし、お金をかける旅って好きじゃないし(略)お茶代と英会話の費用五千円くらいで、残りはまとめて社内預金」。そのうえ夏冬各40万円ずつ出るボーナスもスキー旅行分などを抜いて、年で55万円を預金、入社2年目で貯蓄高190万円になった。「私がやっている財形の公社債投信は、利率は良いし、安全だし、今一番有利な貯蓄法を選んだな、という感じ」と、趣味を極めて満足げな発言である。このあたりが、当時の一般的な貯蓄OLの姿と言えよう。
 85年12月号「〈貯める女・殖やす女〉はここが違う」では、時代が進み、さらに金にどん欲な姿が現れてくる。大阪在住25歳の貿易会社勤務女性は、手取り約11万円のうち貸付信託ビッグに月5万円。自分の小遣いは4 万円までと決めたが、ユニークなのが「そのうち三万円までは、アクセサリーを買うのに使ってもいい」というルール。ゴールドのアクセサリー集めが趣味で「金だと財産になるという感覚がある」からだとか。給料が振込ではなく現金で手渡されるそうで、それを封を切らずに家に直帰し「しばらく部屋でそのお金を眺めてるんです(笑)」って(笑)。趣味を通り越して、フェチの域に。コメントも「お金を貯める秘訣は、まずお金とスキンシップして愛情を持つことから始まるということか」とまじめに参考にしてます。
 この頃になると女性の職業の幅も広がり、給料もぐんぐん上がって投資できる資産も増え、よりチャレンジャーになっている。同記事では、83年にメリル・リンチ証券に転職した25歳女性が登場。「転職」「外資系」「証券会社」など、80年代OLにとってステイタスとなるキーワードが現れはじめてきた。彼女の財テクは、前職の法律事務所秘書時代に始めた期日指定定期の積立、中期国債ファンドと公社債投信、転職してアメリカ株式投資、ドル建て債券投資へと続く。株購入の代金は期日指定定期からローンで借入れ、さらには利率約8パーセント、50歳で1千万円おりる一時払い養老保険に加入。老後まで見据えた積極投資プランは、もはやOLのお遊びを超えている。
 86年4月には「スリルの利殖〈株〉入門」で23歳商社OLの初めての株式売買ドキュメント。「お母さんが株を始めたのに刺激され」、「とにかく買いたい!」という手取り13万円、貯金255万円のOL。ああ、確かにあの頃こういう人たちたくさんいましたね。うちもです。親が急に株に目覚めて、大学ノートに毎日株価書いてましたっけ。そうそう、孫(わたし)に、とおばあちゃんが残してくれたお金、株に回しやがったんですよ!くぬぅ。その後の顛末はまた別の機会に。さて記事では、もちろんネット証券などない時代なので、窓口での相談から銘柄選び、購入までを追っている。その場で買ったのは、高島屋500円1000株と東京電力2900円100株、約80万円現金でお支払いしていた。ちなみに今これらの株価は……高島屋676円、東京電力2011円。まあわりと堅実銘柄でしたね。25年でほぼ同額ってのもどうなのかといえるが。
 こんなにみんな殖やしていたら誰でも真似したくなるし、儲かればますます楽しくなる。とにかく買いたい!とにかくお金!蓄財が面白すぎるのか、嬉々として体験談を寄せているマネーOLさん方、ファッションとか旅行とか結婚についてほとんど言及していないし。殖やしたマネーは、OLの生き方をどう変えたのか。つづく。(神谷巻尾)

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2011年2月 3日 (木)

ホームレス自らを語る 第95回 仕事ひと筋で働いてきたのに……/斎藤富雄さん(62歳)

 私はね。仕事ひと筋に、ただ、ただ働いてきました。それがこの歳になって、どうしてこういうこと(ホームレスの生活)になってしまうのか、自分でもわからないですよ。何がいけなかったのか、何でこうなってしまったのか。酒もギャンブルも一切しないで、真面目ひと筋に働いてきたのにね。

 生まれは北海道の稚内です。家は農業と牧畜をやってました。仔牛を入れて乳牛50頭ばかりを飼っていました。この乳牛の世話というのが大変なんです。相手は生き物ですから、1年 365日休みなし。毎朝3時には起きて家族総出で搾乳です。まだ搾乳器のない時代には1頭1頭手搾りでしたからね。集乳トラックが6時すぎには回ってきますから、それに間に合わせるんで戦場のようでしたよ。夜も10時、11時まで家に上がれませんでしたね。

 私も小学校に上がるころから手伝わされて、中学生になると一人前の扱いですから、仕事が忙しくて学校へ通う暇がないんです。中学2年生の途中から行かなくなりました。中学校中退です。それくらい忙しくて大変でした。
 中学中退のまま家の仕事を手伝っていたんですが、そのうちに農業と牧畜の作業に機械が導入されるようになりましてね。仕事は楽になりましたが、こんどは機械購入資金の借金に苦しめられるようになったんです。離農していく人が増え始めるのは、そのころからですね。うちでも借金返済のために現金収入が必要になってきて、私が働きに出ることになりました。21歳のときです。

 私が働いたのは発電所の発電機を保守点検する会社でした。機械をいじるのが好きでしたから、仕事は私に向いていました。夏は火力発電所、冬は水力発電所で働きました。
 25歳のときに発電機の研修会が茨城のメーカーの工場であって、私も会社から派遣されて参加したんです。そうしたら腕を見込まれて、そのメーカーに誘われましてね。給料もよかったし、そのまま転職しました。そのメーカーでの仕事は納入した製品のメンテナンスでした。全国の発電施設とか炭鉱などを回る出張の多い仕事でした。
 このメーカー時代の28歳のときに結婚しました。同じ会社で働いていた女性で、彼女のテキパキとしたところが、なんとなく私の母親に似ていて、そこに惹かれたんです。

 ただ、結婚生活は3年しか続きませんでした。私の仕事は出張が多いうえに、会社にいるときも残業と休日出勤ばかりで、家には寝に帰るだけでしたからね。月の残業時間が 200時間を超えるなんてザラでした。ちょうど高度経済成長の真っ只中で、日本中の企業が設備投資を盛んに行っていたころです。モーレツ社員があたりまえの時代でした。女房はそんな1人で置かれる生活に耐えられなかったんですね。

 そのあと私のほうも33歳で、そのメーカーを辞めることになります。芦別(北海道)の炭鉱の機械整備に行っていたとき、仲間の1人が台車の下敷きになって死亡する事故が起きましてね。私はその仕事のリーダーでしたから、部下を死なせてしまったわけです。その少し前には、私自身が発電所の現場でハンマーを振り損ねて4階分の足場から転落して大ケガをする事故を起こしていました。そんなこんなで仕事がいやになったのと、死亡事故の責任を取ることになって辞めたんです。

 それからは東京に出てゲームセンターの店員をしたり、ソープランドの従業員になったりいろいろやりました。最後は土建会社に勤めてコンクリート工でしたね。川崎と木更津を結ぶアクアラインの海底トンネルの工事なんかをやったですよ。
 2年前、現場で機械に足を挟まれて、指の一部を切断するという事故を起こしましてね。ちょうど60歳で定年退職する年でしたから、その事故をきっかけに辞めました。それで新宿に行けば新しい仕事が見つけられるかと思って出てきたんですが、働き口はありません。60歳をすぎたらどこも働かしてはくれないですよね。

 それでホームレスになったわけです。はじめは怖かったですね。道を行く一般の人も怖かったですし、ホームレスの酔っ払ったのも怖かった。実際、持ち物をみんな盗られたこともあります。
 何で自分はこんな目に遭うんだろう。遊びもロクにしないで、ただ仕事ひと筋でやってきたのに何がいけなかったんだろう。そんなことばかり考えましたね。

 去年、キリスト教に入信したんですよ。毎週土曜日に新宿アルタ前の広場に、路傍伝道のグループが来るんです。その話を聞いているうちに興味をもって、私のほうから話しかけてみると 「一度教会に来てみませんか」 と誘ってくれて、それで通うようになりました。
 教会は川崎の宮前平にあって、少し遠いんですが、毎週日曜日のミサには必ず通っています。往復の電車賃は教会が出してくれるんです。洗礼も受けました。1人でホームレスをしていると心寂しくなりますから、教会に行って牧師さんの説教を聞いたり、信徒の人たちと話ができるのはいいですよ。

 信徒の人たちはみんな親切で、私がホームレスでも普通につき合ってくれます。古着や食べ物を分け与えてくれる人もいて助かります。いい人たちばかりです。
 いま聖書を読んでいますが、信じるものがあるということは心の安らぎが得られますね。キリスト教を知ってよかったと思いますよ。

 これからのことですか?  やっぱり、住むところがほしいですね。そのためには働いて金を貯めないといけないんですが、この歳ではなかなか働き口はありませんからね。どうしたもんかと考えてしまいます……。(2002年2月取材 聞き手:神戸幸夫)

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