« 池田大作より他に神はなし/大河連載第17回 名誉会長の歴史的革命家としての悲哀と栄光をそばで共に体験して来た博正氏が、 類いまれな後継者である事の客観的真実を、直接眼にする無限の喜びよ!! | トップページ | OL財布事情の近年史/第15回 「あと2万円」の壁は、男女格差の壁でもある。雇均法前夜 »

2011年1月 6日 (木)

ホームレス自らを語る 第93回 波瀾万丈の人生だった(前編)/高原孝さん(65歳)

 人生にはいいときがあれば、悪いときもある。いまオレもホームレスをしているわけだから悪いときなんだろうけど、そのうちにいいときがくるさ。そう思ってないとやってられないしね。人生は波瀾万丈。いろいろなことがあるよ。
 生まれは昭和11年、東京の日本橋室町。オヤジは軍服をつくって陸軍に納めるのを仕事にしていた。昭和18年だったか……そのオヤジは関東軍の軍服をつくるために満州に渡って、そのまま戦局が悪化して帰って来られなくなった。引き揚げてきたのは、敗戦から2年してからだった。
 その間に留守家族は強制疎開になった。室町は皇居に近いだろう。それで町ごと全戸が強制的に疎開を命じられたんだ。疎開が決まるとすぐに市電のレールと電線が外されたからね。素早かったよ。兵器増産にために供出されたんだろう。

  うちはオフクロと兄弟8人で、佐原(千葉県)にあったオヤジの実家に疎開した。疎開先での生活は食い物がなかったことのほかは、そんなに悪くはなかった。それよりも、東京にいたころは美人だと思っていたオフクロが、モンペを穿いて髪を振り乱している姿がね。それを見るのが子ども心にも辛かったな。
  子どものころのオレは文武両道、勉強も運動もよくできた。ただ1科目を除いて、6年間全部 「優」 だったからね。優が取れなかったのは修身。「おまえは勉強も運動も1番なのに、素行が悪すぎる」 担任の教師にいつもそう言われてたよ。
  中学生になると野球に熱中した。千葉は野球熱の盛んなところだからね。練習も半端じゃなかった。ろくなものも食わないで、真夏の炎天下で猛練習を続けたのがいけなかったんだろうね。2年生の夏休みに喀血したんだ。結核さ。いや、すごかったよ。ドンブリ1杯分の血を吐いたんだからね。
  それから3年間の闘病生活。入院中に胸郭成形の手術を受けた。大手術だったよ。肋骨を6本も取っちまったんだ。退院したときは16歳になっていた。

 病院を退院して東京に出た。地元では結核を患ったことが知られてるから、どこも雇っちゃくれないしね。しばらく日雇いで働いてから、先輩に 「これからは電力の時代だ。ダム工事に行こう」 と誘われて山に入った。大井川が最初で、神通川、姫川、信濃川、それに石狩川。5つのダム工事に参加した。

  オレの仕事はトンネル工でね。ダム工事が始まる前に山に入って、工事資材搬入のトンネルを掘るのが仕事だった。だから、まだ何もない山奥での仕事だからね。現場には電気もなくて、トンネル掘りにはカンテラを使っていたし、飯場ではカーバイトを焚いて明かりを取っていたくらいだ。およそ文明とはかけ離れた生活だった。しだいに山奥ばかりの仕事がいやになってきて、24歳のときにトビ職に変えたんだ。高いところに登るのは平気だったからね。それにトンネル工もそうだったけど、若いから人と違うこと、多少危険でもいいカネになる仕事がしたかったということもあるよね。トンネル工事の最後が石狩川だったから、そのまま北海道に残ってトビになった。札幌にテレビ塔があるだろう。あれの建設にも参加したんだよ。

 その後、27歳のときにまた血を吐いちまってね。結核の再発さ。東京の病院に4年間入院した。もうストマイ(ストレプトマイシン)があったんだが、あれは高価でね。1本使うと5000円もかかった。米1俵が4000円の時代だからさ。とても治療費が払えなくて、結核予防法の措置と生活保護を受けながら直したんだ。

 2度目の入院を終えたのは31歳のときで、それからはある棟梁に弟子入りして大工になった。じつは、そのころ好きな娘ができてね。男っていうのは好きな娘ができると、命知らずの危険なことは怖くてできなくなるんだよ。で、トビから大工に代わったわけだ。
  その娘と知り合ったのは、彼女が田舎から東京に住む兄の家を訪ねてきて道に迷っていたところを、オレが助けて案内してやったのがきっかけだった。その年に結婚した。結婚して、オレは大工の見習い、嫁さんはアクセサリーを製造販売している店に出て共働きをした。

  2年して男の子が生まれた。ところが、嫁さんはその子を連れて九州の実家に帰っちゃったんだ。いくら待っても帰ってこない。生活費も必要だろうからってカネを送ってやったら、そっくり送り返してくるんだ。このときの嫁さんの行動はいまもって謎なんだけどね。たぶん嫁さんの兄夫婦に子どもがなかったし、オレたちの子が実家の跡取りに必要だったんじゃないのかな。そう思うようにしている。結局、嫁さんと子どもはそのまま帰ってこなかった。
  大工の仕事の方は順調だったよ。高度経済成長と重なって新築ブームが続いたからね。注文住宅ばかりでなくて、建て売り住宅でもよく売れた。オレも弟子入りした棟梁のところから独立すると、若い衆を2、3人を使って、住宅販売会社の下請けで建て売り住宅をいくつもつくったよ。

 それが昭和48年のオイルショックだ。消費がピタッと止まった。その煽りで親会社が倒産。債権代わりに抱えていた物件をバッタ売りしても捌けない。若い衆に手間賃も払えないだろう。とうとう東京を食いつめて、田舎に帰ることになっちまった。
  佐原に帰ってからのオレが何になったと思う? ヤクザだよ。波瀾万丈の人生はまだまだ続くんだ。(2002年3月取材 聞き手:神戸幸夫)

|

« 池田大作より他に神はなし/大河連載第17回 名誉会長の歴史的革命家としての悲哀と栄光をそばで共に体験して来た博正氏が、 類いまれな後継者である事の客観的真実を、直接眼にする無限の喜びよ!! | トップページ | OL財布事情の近年史/第15回 「あと2万円」の壁は、男女格差の壁でもある。雇均法前夜 »

ホームレス自らを語る」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ホームレス自らを語る 第93回 波瀾万丈の人生だった(前編)/高原孝さん(65歳):

« 池田大作より他に神はなし/大河連載第17回 名誉会長の歴史的革命家としての悲哀と栄光をそばで共に体験して来た博正氏が、 類いまれな後継者である事の客観的真実を、直接眼にする無限の喜びよ!! | トップページ | OL財布事情の近年史/第15回 「あと2万円」の壁は、男女格差の壁でもある。雇均法前夜 »