ロシアの横暴/第50回 世界のメディアが無視した赤十字職員虐殺の真実(上)
1996年の12月、停戦協定成立後間もないチェチェン領内で医療活動を展開していた国際赤十字の外国人職員6人が射殺され、1人が重傷を負うという凄惨な事件が起きた。1994年の12月に始まった戦争はチェチェン側ロシア側双方に多大な被害を出して1996年の8月に停戦となり、兎にも角にも平和が訪れ、復興の兆しが見え始めた矢先のことだった。
この事件はセンセーショナルに世界中を駆け抜けた。多くの人に「やっぱりチェチェンは恐い」と思わせるのに十分な響きをもっていた。
それから14年が過ぎた2010年11月のある日、ロシアのノーヴァヤ・ガゼータ紙に度肝を抜くインタビュー記事が載った。
「国際赤十字職員殺害事件はロシアの指令によるものだった」と。実際に指示を出したとされる人物の署名と内務省のスタンプが押された命令書まで掲載してある。もちろん指令書といっても「国際赤十字を襲撃せよ」とあるわけではない。「12月17日に守備隊は赤十字側の反撃に応戦せよ」となっている。
ノーヴァヤ・ガゼータ紙のインタビューで告白をしたのは最近EUのどこかに亡命したロシアFSB(ロシア連邦保安庁)の元将校である。
この将校は警察士官学校を卒業してすぐにチェチェン戦線に赴き、無事に(?)任務を終え、停戦合意に基づく1996年12月末のロシア軍全面撤退期日までチェチェンにとどまっていた。戦争中は事件のあったノーヴィエ・アタギ村のロシア内務省軍司令部に自分の長官が率いる部隊に所属していた。ここで「武装勢力退治」をしていたが、退治したのは武装勢力だけでないことは言うまでもない。彼が指揮する直属の部隊には「武装勢力を退治する部隊」と、武装勢力やゲリラの急襲から部隊を守る「守備隊」があるが、停戦成立後は予想される小競り合い対策として守備隊のみがとどまっていた。
撤退期限直前の12月17日、国際赤十字の職員を「つつがなく」退治できるように協力したのは彼の守備隊だったということである。
彼が吐き出した情報によると、ロシアはある目的があってチェチェン人のならず者にこの事件を起こさせた 。ある目的達成のために犯人はチェチェン人でなければならない。そのために刑事事件、つまり殺人で刑務所に入っているチェチェン人に特赦を与えて釈放し、この仕事に抜擢した。強盗殺人などの凶悪犯罪で服役中である本物の犯罪者だから殺人ならお手のものだ。何かの記事に犯人たちはチェチェン語を話していた、という生き残った赤十字職員の証言があったが、将校の話はこれと一致する。
作り話じみている、と思われるフシもなくはない。だが、「事実は小説より奇なり」と諺にもあるとおり、少なく見積もっても「事実」であることは彼の亡命劇から容易に推察できる。あとで述べるが、公然の秘密だった事件に作り話を継ぎ足しても亡命の切り札にはならないものだ。
ある目的というのは「チェチェン人は残忍で、人道支援団体であっても外国人とみれば殺す」、というイメージを世界中に焼き付けること、そして独立志願の強いチェチェンを「そんな物騒な国はやはりロシアの統治が必要」と思わせること。もう一つは支援団体をチェチェンから撤退させることである。国際赤十字は、停戦協定に基づき、96年の9月に設置された1996年の9月、ノーヴィエ・アタギ村に設置された。職員の安全はロシアが責任を持つことになっており、それなりに強力な部隊が警備にあたっていた。責任を果たせなかったロシアは国際赤十字をチェチェンから撤退させなければならなくなった。(停戦協定の立役者だったレベジは安全保障会議書記を解任された後、クラスノヤルスク知事に当選したが、ヘリコプター事故で死亡した)
焦土の希望の星だった国際赤十字が撤退を余儀なくされ、物理的にも精神的にも大打撃を受けたチェチェンはやがて内部対立が激化し、それが第二次チェチェン戦争の引き金となっていった。(川上なつ)
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