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2010年11月

2010年11月30日 (火)

『転落 ホームレス自らを語る 第89回 運のない人生でした/中村一夫さん(62歳)

 まあ、私ほど運のめぐりの悪い人生もなかろうと思いますね。母親に早く死に別れ、働いていた会社は2度も倒産するし、いまはホームレスにまで身を堕としてしまいました。よほど運に見放された人生じゃないかと思いますよ。
 生まれは昭和14年で九州の佐賀です。父は農業をやっていました。米と麦を二毛作でつくっていましたね。
 私が2歳のときに母が亡くなっています。病死らしいんですが、父も何も教えてくれないし詳しいことはわかりません。

 小学校4年生のときに父に後妻が来ました。私には継母です。この継母が意地の悪い人で、私とはまったく口をきいてくれないし、食卓も私だけは別という扱いを受けました。特に継母に子どもができてからは、一層ひどくなりましたね。こういうとき父親はダメですね。継母の顔色を窺うばかりで、何もしてはくれませんでした。
 実母の妹である叔母が、それを見かねて家に引き取ってくれました。私が小学校6年生のときです。叔母一家は親切でした。高校まで出してくれましたしね。でも、私には従兄弟たちに遠慮しながらの窮屈な生活でした。ただ、それで世を拗ねたり、グレたりすることはありませんでした。根が真面目な性格なんでしょうね。

 高校を出て地元の郵便局に就職しました。仕事は電信係。電報の電文をモールス信号で、トン、ツー、トン、ツーと打つ係です。仕事はともかく、郵便局というのはとんでもない職場でした。選挙があると郵便局長以下、職員全員が特定候補の選挙運動に駆り出される。勤務時間中であろうとかまわないという状態です。公務員が公然と選挙運動をするんですからね。こんなところではとても働けないと思って早々に辞めました。
 じつは、私はそのころ共産党に入党していましてね。共産党活動を通して、体制や社会を変えて何か残ることをしたいという若い意気に燃えてるときでした。郵便局の体質には馴染みようがなかったですね。

 次は地元の繊維工場に就職しました。機械保守の仕事をしながら、当然というか労組に入って熱心な組合活動家になりました。ストライキを指導したこともあります。経営者側と団交したり、会社が雇った暴力団と渡り合ったりもしました。
 ただ、当時の共産党員というのは嫌われ者でしてね。そのころの私は会社の近くにあった農家の離れに下宿していたんです。それがある晩村の寄り合いに呼び出されて、そこで村人から共産党員という理由だけで糾弾され、「村八分」 にするとまで言われたんです。そんなところには住めませんから、下宿を引き払って会社も辞めました。

 それで東京へ出てきました。東京オリンピックの年です。就職したのは、東京で1、2という建築基礎を専門にする会社でした。そこで杭打ちのオペレーターをやりました。ビル工事の基礎杭を打つのが仕事です。ところが、この会社が4、5年して倒産しました。「こんな大きな会社でも潰れることがあるんだなあ」 と思いました。
 次に移ったのは鉄骨加工の工場でした。鉄骨をビル建築用の柱とか梁に加工する会社です。工場で鉄骨を溶接したり切断したり、それに実際の現場に出て「鉄骨建て方」の仕事をすることもありました。それがこの会社も入って3、4年したところで倒産です。自分でも「よくよく会社運に恵まれない人生なんだなあ」 と思いましたね。それからは 「もう、会社は信用できない」と思って、あとは日雇いです。トビをやったり、土工をやったりの生活でしたね。

 結婚はしませんでした。2度ばかりチャンスはあったんですけどね。22、23のころ親戚に婿養子に入る話がありました。でも、相手の女の子が、あまり好きでなかったこともあって断ってしまいました。もう1度は東京に出てからで、知人に勧められて見合いをしたんです。相手は化粧品会社の美容部員をしている子で、なかなかの美人でした。でも、このときも2、3度デートしただけで断ってしまいました。

 結婚のことを考えると気が重かったですね。自分では継母の影響じゃないかと思っています。子どものころあれだけ爪弾きされたら、どうしても女性不信になってしまいますよね。継母の影響が大きいと思います。
 日雇いになってからも、真面目に働きました。コツコツと貯金もしました。ところが、54か、55歳をすぎたあたりから仕事が回してもらえなくなりましてね。何とかそれまでの蓄えを切り崩しながらやってきたんですが、それも3、4年前に底を突いて公園に野宿するしかなくなっていました。

 いまでも手配師のところには通っているんですよ。去年まではそれでも月に3~4日は仕事があったんですが、今年はまだ1日も働いていません。不況はひどくなっていますよ。こういう生活をしていると、それが肌で感じられますね。

 運のない人生。あのときああしておけばという後悔の多い人生。いまさら悔やんでも仕方ありませんけどね。私は歴史の話が好きで、よく歴史ものを読みます。特に好きなのは戦国時代ですね。あの時代に生まれていたら、どうだったろうと考えますね。親も子もない下剋上の時代。そんな時代なら私にも運が向いて活躍できたかもしれない。江戸時代になると 親に従いますが、戦国時代だったら何とかなっていたような気がします。どうだったんでしょうね。(2002年6月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年11月29日 (月)

香山哲さん・小林銅蟲さんイベント報告「アングラまんが道」

 イベントの報告なのにうっかり写真を一枚も撮っていない。
 でも、ネイキッドロフトは昼なのに暗かったから、写真を撮っても(言い訳)。
 暗いけど、30人程度は人が来た。
 ふたりの新刊イベントだ。

 目玉は小林さんの描いた漫画を一枚ずつパソコン上で繰っていって、香山さんが色々つっこむという大変新しい試み。流しで読んでいたら全く気がつかないところに説明が飛んでいって、15ページ程度の漫画なのに30分くらいかけて読んだ。漫画を皆で囲んで読む。小学生男子がガスストーブ前に丸く陣取ってやってたのを思い出す。大人がイベントでやるとこんなにも面白いんだなと思った。でも面白くするためには語り手がめざとく面白い場面や箇所を見つけなければダメなわけで、語り手が優れていないと笑いが生まれないのだけど。

 お二人とも漫画をあんまり読まないんだという。他人の作品を見ない・読まないクリエイターというのはけっこう多い。それは他人のものを見ると影響されて作品にノイズが出るからとか、他人のものはどうせつまらないと思っているからとか、そういうこととは違う。良い意味でまっすぐに興味がないのだと思う。作ることに忙しくて、見ている暇がないのだ。知り合いの小説家は「他人の物語につきあって何が面白いのか」とまで言った。言いたいことはわかる。とてもわかる。ちょっと乱暴すぎるけど。

 ただ、お二人の会話を聞いてるとコミックや作家の名前はわんさか出てくるわけで、そうなると「なんだ、読まない読まない言っててもけっこう読んでるじゃん。『読まない』の次元が違うじゃん」と言われる向きもあるかも知れない。それもきっと違うと思う。おそらくお二人は、小さい頃はかなり何かしら目にした。その助走があとのマラソンをかなり楽にしているのではないだろうか。

 たけなわになってくると、「コマジャン」の話になった。漫画のひとコマを切ってじゃんけんの札に使い、面白さを競うというもの。話には聞いていたが具体的にピンとこなかった。が、お客様の中から「今日、コマジャンのネタ持ってきたんですよ」という方が不意に現れた。ここからにわかコマジャンが繰り広げられることになる。
 予想外の出来事とはいえ、非常に面白かった。コマの切り方の妙も採点対象らしく、必ずしも一コマ全体の面白さで戦うわけではない。台詞の一部だけを切り取ったり、広告宣伝部分を切り取っただけでもかなり面白い。これは女子にはない発想じゃないかな、とふと思う。「オトコノコノアソビバ」を覗いているようで、ちょっと特権的な気分を味わえた。

 あとは質問タイム。質問は「どのようにしたらフリーで漫画を描いて暮らせるんでしょう」といった大変真面目な内容のものが多く、ちょっとびっくりしてしまった。お客様方、けっこう漫画描いてる人が多かったのね。どうやったらやっていけるのか、お二人を見ていれば、自然にわかると思いますよ。(奥山)

香山哲の電脳ブログ

ねぎ姉さん(小林銅蟲作品)

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2010年11月28日 (日)

『日本の解放区を旅する』

Photo 「マスゴミ」という言葉がある。主にインターネットで使われている言葉だ。解説するまでもなく、ゴミのようなマスメディアを指す蔑称だ。ネット内が主とはいえ、新聞などのマスメディアが公器からゴミへと「転落」した原因はいくつかあるだろう。
「メディアは被虐史観に満ちている」というネット右翼の宣伝もあったろう。記者クラブ問題など権力と対峙しているとは言い難い状況への不審もある。ネットなどに流れる現場情報と、メディアの情報が違うケースなども不審を強めたかもしれない。もちろん情報を整理し、付随する情報などを検討すれば、報じ方に差が出てくるのも当然ともいえる。ただ一方で、偽造した報道が問題になったケースもあった。調査報道よりも官庁からの情報をどれだけ早く流すのかに血眼のなっている記者の姿を、多くの人が知ることになったことにも関係があるかもしれない。また、非常に高給取りであることへの嫉妬も、こうした評価と無縁ではないだろう。

 私個人の意見では、すべてのマスメディアを「マスゴミ」と括るのはおかしいとは思う。ただ記者が「歩いている」のかが気になることは多い。
 現場を歩いていると、意外な拾いものに出合うことがある。「真実」というより「事実の1つ」といったようなエピソードだ。世論にはなじまないだけに、たいがい記事をまとめるときには使いづらい。

 少し具体的に書いた方がわかりやすいか。
 例えば殺人事件が起こる。その犯人の友人を訪ねて回ったとしよう。「あいつ自己中心的なヤツでさ」とか、「いつも弱いヤツを虐めていたよ」なんていう証言は使いやすい。
 でも、「飼育係で動物の世話は一生懸命だったよ」とか「学校が終わってからは、虐めていたヤツと一緒に本当に楽しそうに遊んでいた。むしろ虐めていたヤツに気を使っていた」なんて証言が出てくると、ハタと困る。わかりやすい勧善懲悪の記事は報道はしにくくなるからだ。

 そもそも、こうした情報を得るためには、まず取材対象者にどんな情報でも歓迎だという気持ちを伝える必要がある。殺人者らしいエピソードがほしいと暗に示唆すれば、そうしたエピソードしか集まらないからだ。もちろん、そうやって情報を集めれば、取材時間はもちろん執筆や映像編集の時間も短くて済む。逆にいえば、こうした紋切り型の受け答え以外の証言こそが、私にとって報道に対する信用のバロメーターともなるし、現場を「歩いたかどうか」の基準にもなる。

 えらく前置きが長くなったが、鎌田慧氏のルポルタージュはそうした現場を歩いた手触りがしっかり残されている。最新刊の『日本の解放区を旅する』(七つ森書館)でも、ある労働派遣会社の経営者は次のように語る。
「3K職場には中国人のほうがいい」
 これは日系人が多く住む、豊田市の保見団地を取材したものだ。この言葉から、日本人から「外国人労働者」と一括りにされている人たちの「階級」を知ることができる。新聞などでも問題になる日本人派遣労働者はもちろん、日系人にさえしない最底辺の仕事が中国人が担っている現実だ。

 太平洋戦争当時の沖縄の集団自決についての取材では、日本軍から手渡された手榴弾が爆発しなかった家族が棍棒や紐で家族を殺し、自分も自殺したという事実を示した上で、当時の生き残りの女性の言葉を書き記している。
「母親に手をかした時、私は号泣しました。私たちは『生き残る』ことが恐ろしかったのです。我が家は両親弟妹の四人が命を絶ちました」と。
 沖縄戦の教科書記述から「軍の関与」が削除されたとき、反対集会に11万人もの人が集まった背景には、住民が体験した厳しい現実がある。右翼だとか左翼だとか、軍の関与を示す文章が保存されていないという問題ではなく、家族さえ殺さざるを得ない状況に追いつめられた歴史があるのだと。

 著者の鎌田慧氏は、はじめに次のように書いている。
「三〇歳のときにフリーライターになって、全国の原発反対運動や反基地、公害、労働運動のなかに没した『無名の抵抗者』というべき人たちと、わたしは会いつづけてきた。いま想い起こしてみて、いつも『勇気ある生活者』から話を聞き、それに励まされながら、共感、共鳴をつたえてきた。だから、いつも変わり映えのないことを書いてきたのかもしれない。
 それでも、このひとたちがささえている、未来の可能性をわたしは信じている」

 歩き回り、多様な事実の断片を掘り起こしていくことで、時にルポは派手さを失う。記事映えする事実だけを並べた方が「口当たり」がいいからだ。それでも「未来の可能性」を信じて取材を続けるルポライターの心意気を、私はこの本からも感じた。
 メディアが果たすべき本当の役割を改めて考えさせられた。(大畑)

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2010年11月27日 (土)

『転落 ホームレス自らを語る 第88回 誇り高い製本工だった(下)/白井伸一さん(69歳)

 オレが結婚したのは22歳のときだ。相手は遠縁の娘。オッパイのでっかい娘で、90センチ以上もある巨乳だったよ。それに学歴が高卒で、オレよりも上だったのも気に入った。結婚して息子がふたりできた。
 まあ、それなりの家庭だったと思うよ。オレの仕事も順調だったし、上落合に借地して家も建てたしね。

 家のなかがゴタゴタするようになったのは、長男が大学を卒業するころからだ。長男には大蔵省からの引きがあって、国家公務員になりたいっていうんだ。家内もそうさせたがった。だけど、オレは反対だった。小さな製本屋だけど跡を継がせたかったんだ。長男は一応は有名な私大に通ってたけど、2部(夜間)だったからね。大蔵省になんかに入っても、すぐに東大法学部卒に蹴落とされるに決まっているんだ。だが、長男と家内は世間体のいいほうを選んだ。

 案の定、4年もすると長男は東大卒の後輩に、どんどん追い越されるようになった。結局、それに嫌気が差して大蔵省を辞めちまった。それから家のなかがギクシャクしてきて、一家離散するしかなくなっていた。オレが50歳のときだ。家を売って家族4人で等分に分けたが、一人頭1000万円ずつになったよ。 それからもオレは製本工の仕事を続けたんだが、60歳になった途端に仕事を回してもらえなくなってね。印刷会社の社員の定年が60歳だろう。だから、外注の人間も60歳になったら、仕事は出さないという決まりらしい。

 しばらくはそれまでの蓄えでしのげたけど、それもだんだんに底を突いてくるしね。それで新宿区のやっかいになったんだが、収容された施設というのがひどくてね。そこを脱走してからはホームレスになるしかなかったわけだ。

 自分でもバカだったと思うよ。一家が離散したときの1000万円を頭金にして、マンションでも買っておくとかね。そういう才覚がなかったんだな。ただ、僅かだけど年金をもらっているんだ。これからはそれを蓄めて人生の終わりに備えようと思っている。死んだときにちゃんとした葬式が出せなかったら、家内や子どもたちにみっともないからね。(2002年7月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年11月26日 (金)

OL財布事情の近年史/第10回 「OLの実家暮らし」は今や「居候」!大きく変わった自身のイメージ

連載「OL財布事情の近年史」は、2013年12月に単行本『女と金~OL財布事情の近年史~』として発売されます。

各年代のOL像を、イラストを交えて解説する辛酸なめ子さんのプチ時評つき。辛酸さんには、カバーイラストも描いていただきました。

エピローグには最新の女性誌お財布事情が書き下ろされ、女性誌創刊号の画像50数点を掲載。30年ぶんの「OLの財布の中身」が一気に見える本となりました。

全国書店から注文可能。
Amazonでも予約・注文できます!

 家に入れるお金が1〜2万円、そのお金は親が貯蓄という80年代初頭のOLスタイル。それから30年、「家に入れるお金」はどう変わったか。まさにそれを調査したデータを発見した。COBS ONLINEが会員対象に2009年に実施した、「実家に毎月入れている金額に関するアンケート」である。
http://cobs.jp/ninki/column/kinsen/2009/07/12.html
 「毎月、実家にいくら入れているか」という質問に対し、一番多かったのが「3万~4万円(未満)」で29.9%。次いで「1万~3万円(未満)」で23.9%、全く入れていない「0円」が20.2%である。給与上昇率を考えれば、30年前とそれほど大きくは変わらないようだ。が、意識は相当違っている。
 「実家に月々入れている金額は安いと思うか、高いと思うか」という問いには、「安いと思う」49.8%が最も多く、「丁度いい」が43.8%。「高いと思う」は6.5%しかいなかった。「いくらくらいが丁度いいか」というと、「3〜4万円(未満)」が35.5%、次が「5〜10万円(未満)」で29.4%で、理想は結構高い。年収別の統計もあるのだが、年収200万円未満でも、20.31%の人が5〜10万円と回答しており、家に入れる金額は自分の給与額から算出するのでなく、入れるべき額のイメージを持っているようにみえる。
 そのイメージは、フリーアンサーから伝わってくる。
「実家に入れている金額(以下同)2万円/以前は6万程入れていたが、収入が半分以下になったので、少なくしてもらった。今まで育ててもらったこと、今の生活費を考えると2万は少ないと思う」(女性/27歳/年収:200万円未満)
「3万5,000円/今はまだ父親の稼ぎのほうが多いので、自分がいなくなったとしてわが家の経費が下がる分(純粋に自分のために生じている経費)のみ払えばいいと思っているから」(女性/29歳/年収:400万~500万円未満)
「4万円/月々の貯金額、携帯代、保険料、奨学金返金などを考えて、自分で決めました」(女性/25歳/年収:200万~300万円未満)
「5万円/中学から大学まで私立に入れてもらったし、学生時代はバイトもせずに部活に明け暮れ、車の免許も取らせてくれ、卒業旅行代金も出してもらい、すねをかじりまくってきたので、5万円でも足りないくらいだと思う」(女性/27歳/年収:300万~400万円未満)
 自分が大人になるまでの親の負担や家の経済状況、自分の生活費など、金銭感覚がしっかりしていることに、軽く驚いた。これも長引く不況のなせるわざなのだろうか。これらが多数意見だとは限らないが、少なくとも、使いたいだけ使って余った分を申し訳程度に母親に預けるというのは、主流ではなさそうである。
 合理的、経済的な考え方は、「OLの実家暮らし」というものを変化させているようだ。「実家にいても「居候」という認識をしてるので、お金だけでない面もできるだけ肉体労働奉仕という形でフォロー」(女性/29歳/年収:200万~300万円未満)とか、「月々とは別に、家のリフォーム代や家電製品の購入、旅行費用、帰省費用等はすべてこちら持ち」(女性/30歳以上/200万円未満)など、生活の担い手としての役割を果たしているという側面も見られる。それは嫁入り前の、家族との残り少ない日々ではなく、そのまま実家に暮らし続けるパライサイト生活の序章のように見えてうっすら怖くなる、子持ちの筆者である。
 スネをかじってパーッと使ってさっさと嫁に行くか、親思いで経済観念を備えながら、じんわりと家に居座るか。幸せはどこにあるのでしょうか、子にとって、親にとって。バブル期にOLで、平成大不況に親となり、子どもはゆとり教育ど真ん中。誇れるようなものを与えてこれなかった大人としては、こんな親に遠慮せず自力で生きていけ、と言いたいが、そこまで育てるのがまず、大変にちがいない。トホホ(死語)。(神谷巻尾)

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2010年11月25日 (木)

『転落 ホームレス自らを語る 第87回 誇り高い製本工だった(上)/白井伸一さん(69歳)

 中学を出てから60の歳まで、ずっと製本工をして働いてきた。どうせなるなら日本一の製本工になろうと思ってね。おう、オレは日本一だよ。自分ではそう思っている。
 製本には大手の印刷会社ごとに、それぞれの方式があってね。凸版印刷から、大日本、共同、図書の4通りだ。1つの方式を覚えるのにだいたい3~4年かかるが、オレはその全部を覚えたからね。だから、どんな印刷会社の仕事でも引き受けられた。

 製本工で一流といわれるのは、百科事典とかアルバムの製本が任されることなんだ。アルバムといっても街の写真屋で売っているやつじゃないよ。銀行が大口の顧客に歳暮で贈るのとか、学校の卒業アルバムなんかで、革やビロードの表紙に金箔文字の入ったやつだよ。これを任されるまでになったら超一流といっていい。表紙のボールのあいだに綿を詰めて厚みを出したり、手間暇のかかる仕事だった。卒業アルバムを豪華につくるのは女子大や女子高が多かったが、一番豪華なのは学習院のアルバムだった。
 ほら、見てくれ。(臼井さんが左手を見せてくれる。左手の指は親指を除いて、4本とも第1関節から先がない)18歳のときに裁断機に挟まれて持っていかれちまった。もう、製本工を続けるのは無理かと思って、一時は絶望して自殺まで考えた。ただ、幸い左手だったからね。何とか続けてこられたんだ。

 20歳そこそこには独立して、全国からの注文に応じてきた。それだけオレの腕が見込まれていたわけだ。オレは和綴じの本も得意だからね。和綴じにも大和式と古流があって、その両方ともできた。それも一流の証さ。
オフクロの手で育てられた

 生まれは東京・高田馬場。オヤジは軍隊に取られて、ソ満(旧ソ連、満州)国境の警備に就いていたときに終戦になった。そのままシベリアに抑留されたんだが、収容所を脱走してね。オヤジがリーダーになって、同胞の捕虜何人かを引き連れての集団脱走だったようだ。
 ところが、零下30度にもなる冬のシベリアを徒歩での脱走だろう。途中で全員が凍死してしまったという話だ。あとになって厚生省の復員局から、そういう知らせが入った。凍死する危険を冒してまで脱走をしたっていうのは、収容所の生活がいかに苛酷だったかということだよね。でなかったら、零下30度の荒野に飛び出すようなことはしなかったろうと思うよ。

 それでオレとふたりの妹は、オフクロの手で育てられた。このオフクロには才覚があってね。終戦になって、すぐに古物商の鑑札を取って闇屋を始めたんだ。家が高田馬場にあったから、早稲田大学の学生を大勢使って、彼らに赤羽から宇都宮あたりの農家に買い出しに行かせ、それをオフクロが浅草のマ-ケットに卸すっていう方法だった。まあ、闇市の卸で稼いだわけだ。

 おかげでオレたち兄妹は、戦後の混乱期も人並みの生活ができた。だからって、裕福だったわけじゃないからね。オレも中学を終えると働きに出なければならなかった。それで製本工になったんだ。

 その後、オフクロに男ができてね。どうしてもいっしょになりたいといってきかないんだ。オレは「いい歳をしてみっともない」と反対したんだが、強引にくっついちまった。たしかに世渡りの才覚はあったけど、男にはだらしなくてふしだらなオフクロだったね。それが若いオレには許せなかったな。(2002年7月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年11月24日 (水)

『ランチパックの本』エキサイトにて著者インタビュー

発売から2週間を過ぎ、お問い合わせが殺到している『ランチパックの本』。

exciteニュースに、著者・香山哲さんのインタビューが掲載されました!

香山さんの素顔も見れます!

ピーナッツ、たまご、ジャム&マーガリン……四角い魅力、ヤマザキランチパックの世界が本になった

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2010年11月23日 (火)

ロシアの横暴/第49回 北方領土に大統領が訪問した意味と島民の本音(下)

 今回のメドベージェフの訪問を「来年に迫った大統領選にむけて強い指導者ぶりを誇示して地ならしのつもりだろう」としているところがあるが、的はずれではないとしても核心とは言えない。
 なぜ「地ならし」でないかといえば四島1万7000人の住民に生活条件改善を約束したところで票にはつながらないからだ。メドベージェフ大統領は島を本土並にする、本土から移住して来たくなるような豊かな島にする、と約束したそうだが、これで島民は喜んでも本土の人間は喜ばない。ロシア人は伝統的に他の地域や人が豊かになるのを好まない。

 もっとも不況の上に夏の酷暑と火災のせいで何かとくすぶっている今、大統領が日本の神経を逆なでしてやったので、溜飲を下げた人々の(まったく的はずれだが)八つ当たり票がいくらかは期待できよう。ロシア国民は荒っぽくて強い指導者が好きなのは事実である。

 数ヶ月前から「日本政府の北方領土考(=前原氏が北方領土を洋上視察した後の発言)として 、「歴史的に見ても、北方領土は我が国固有の領土。不法占拠と言い続けなければいけない」と述べたのが神経に障っていたところに尖閣諸島問題が起きたので、相乗りして何かつついてみよう、といったところであろう。やり方としては軽いが、実質は重い。ルーズベルトにもらった北方領土カードは今もロシアの手の中にある。

 対する日本はいつまでたっても負け戦である。ロシアになってまもなく始まったチェチェン戦争を日本は「遺憾です」とひとこと発しただけで何もしなかった。エネルギー欲しさに黙認をせざるを得ない欧州ですら戦争をやめさせるために何かちょっとぐらいはしたのに 、エネルギー依存をしていない日本が何もしなかったのだ。「何もしなかった」わけは北方領土にある。ここでロシアの神経をさわったら 「もう二度と領土交渉はできない」と思っていた。四島返還を夢見てバラマキ支援をしていた頃、チェチェンでは民族皆殺し作戦の嵐が吹き荒れていた。日本外務省は「ロシアを刺激したくない、北方領土が返ってこなくなるから」 チェチェン戦争反対運動はやるな、で固まっていた。言うまでもないことだが、それでも北方領土は返ってこなかった。

 こうした北方領土に関する日本政府の態度をみていると「何のために」という疑念が持ち上がる。こうまでしてもロシアにすがりつくのはなぜだろう。諸々の資料によると北方四島は伝統的に日本の領土だそうだが、そんな国民感情を利用してショーをしているように見える。いわゆる「民の笛にあわせて踊る」だ。踊っていれば一生懸命やっているように見えるから国民は安心する。
 大統領の北方領土訪問で大騒ぎをしている日本に対して、ロシアのある インターネットサイトに「日本も焦らず、しばらく待っていればやがて島民はみんな逃げ出すか死に絶えるかで無人島になるから、そのときが返還のチャンスだよ」 と、半ば冗談の親切な書き込みがあったそうだ。

 エリツィン・橋本プランのあと数年が過ぎ、プーチンの治世になった2005年、北海道新聞社が再度住民意識調査をおこなった。その中の「北方領土返還の日本への返還」についての調査結果を次のようにまとめている。
「『反対』が61.3%と全体の半数をこえている。以下「条件付賛成」28.7%、『わからない』7.3%、『無条件で賛成』2.0%と続く。『無条件で賛成』と『条件付賛成』を合わせた『賛成』派は30.7%で、『反対』の約半数にとどまる結果になっている。 条件付賛成者に条件をたずねるとほとんどが『金銭補償』を挙げている。

 また同時に おこなわれた「生活の実態調査」のうち、「プーチンが大統領になってからの5年間に生活はどうなったか」という質問には次のような回答が寄せられている。
――「よくなった」が40.7%で最多。以下「あまり変わらない」33.7%、「悪くなった」17.3%「非常に悪くなった」4.3%、「非常によくなった」3.0%と続く。「よくなった」と「非常によくなった」を合わせた『よくなった』と感じている層は43.7%で、「悪くなった」と「非常に悪くなった」を合わせた『悪くなった』と感じている層(21.7%)の2倍に上る。――
 とても不思議な調査結果である。日本に代わってロシア政府がインフラ改善などに取り組む「クリル社会経済発展計画」が始まったのは2007年のことだから2005年頃は最悪だったはずだ。先出のロシア人女性は「クリル(北方領土)の人々は国家に捨てられてしまったのよ。バラックに住んでほんとうにひどい暮らしをしているわ。移住の補償金を欲しがるの、無理もないわよ」 と語っている。

 それにもかかわらずエリツィン時代よりよくなった、答えるのはなぜか。
可能性は二つある。極東地域に配備されていた軍の将校たちが「飢えたくない」からマフィア・ギャングの用心棒になり、無法状態だった。それがプーチンになってから取り締まりが厳しくなり治安がいくらかよくなった。または、正直に「悪くなった」と書けない何かがある。この表示データ程度ならバランスがいいが、ほとんど全員「悪くなった」と書いたら町長や村長の首はなくなる。(川上なつ)

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2010年11月22日 (月)

『転落 ホームレス自らを語る 第86回 貨物船のコックをしていた(後編)/中村平さん(60歳)

1011  9月の土曜日の昼下がり。新宿中央公園の「水の広場」では大勢の若者が集って、フリーマーケットが開かれていた。その広場の片隅で、ホームレスの中村平さん(60)から話を聞いた。
 中村さんは千葉県出身。中学卒業後、海上自衛隊に入隊し、隊員の食事の調理をする「給養係」に、自ら望んで配属された。つまり、そこでコックになる修業をしたわけだ。
 除隊後、5000tほどの貨物船の炊事係に雇われ、その船で長く働くことになる。航海は東南アジアとインドが中心で、ときにはアメリカやカナダ、ソビエト連邦(いまのロシア)、中国などに行ったこともあるという。
「たしかに、いろんな国に行ったけどね。ただ、5000tクラスの貨物船が着岸するのは、日本の地図には載っていないような小さな港町のことが多いんだよ。いろんな国には行ったけど、有名な街や観光地にはほとんど行ったことがないんだな」
 あるときアメリカまで航海した帰路、船が大型台風の真っ只中に突入した。
「このときはじめて船に酔うというのを経験したよ。何しろ10階建てのビルのような波に翻弄されて、船がその高さ分を浮き上がったり、沈み込んだりするんだからね。そんなときは食事用の煮炊きができないから、オレたち炊事係が簡単なサンドイッチやオニギリをつくって、船員たちはそれぞれの持ち場で立ったままで食べるというふうだったね」
 その貨物船で働いていた30歳前後のときに、中村さんは結婚している。恋愛結婚だったが、結婚生活は長く続かなかったようだ。その相手の女性との出会いから、結婚、離婚に至る経緯を聞こうとしたら、「何でそんなことまで話さなければならないんだ?」と中村さんは急に不機嫌の様相に変じてしまった。
 ずんぐりタイプの身体つきで丸々とした顔の、愛嬌いっぱいの中村さんだったが、結婚についてはふれられたくない、何か特別な事情でもあったかのだろうか。彼はまるで人が変わったようになってしまったのだ。以下、不機嫌な彼の口から聞き出した、その後の人生の断片である。
 中村さんが船を降りたのは30代の後半、40歳に手が届こうというときだ。
「貨物船の炊事係をして20年くらい働いたから、多少の金もたまったし、新しい商売を始めようと思って船を降りることにしたんだ。新しい商売というのは、タイのバンコクで魚を買い付けて、それを日本の業者に卸すというものだった。その仕事を始めるために、金を持ってバンコクまで行ったけど、うまくいかなかった。仕事を始める前に、うまくいかなくて頓挫してたからね。バンコクに何日もいないで帰ってきてしまった」
 うまくいかなかった原因は何だったのか問い質しても、「それは言えない」と口を噤んで語ろうとしない。結局、これが中村さんの人生におけるケチのつきはじめで、いまホームレスをしているのも、このときの躓きが原因になっているという。

 タイでの新規商売の設立に失敗した中村さんは、日本に帰ってきてから、ずっとアルバイトで生活をすることになる。
「いろいろやったよ。多かったのは派遣作業のアルバイトだね。メーカーやその下請け会社に1ヵ月の契約で雇われて、製造ラインに入って働くバイトだよ。その1ヵ月間は工場の寮に入れたからね。オレの場合は家電メーカーのラインで働くことが多かった」
ほかにも引越しや会社の移転作業とか、交通量調査をしたこともあると語る。ただ、建築や土木の仕事は、一度もしたことがないそうだ。
「どんなアルバイトでも、仕事をまわしてもらえるのは40代まで。50代になったらまわしてもらえなくなるからね。タイで商売をしようとしてうまくいかなくて、アルバイトのほうもうまくいかなかくて、だからいまホームレスをしているわけさ。みんな自分が悪いんだから仕方ない。いまさら悔やんでも仕方ない」
 中村さんは自嘲気味に吐き捨てた。
 彼がホームレスの生活に入ったのは、2004年の年の瀬も押し迫った頃。その辺の事情を聞こうとしても、その重い口は開かれなかった。話題をいまの暮らしぶりに代える。
「現金収入が必要だから、アルミ缶拾いをしている。といっても、毎日、朝から晩までというような熱心さはないけどね。だから、週30~40㎏拾い集めるのがせいぜいだね。熱心な仲間には100㎏とか、200㎏集めるというのもいるけど、オレにはできないね」
 アルミ缶の引き取り業者は、週1回決まった曜日にやって来る。現在、㎏あたり95円前後が相場で、中村さんは約3000~4000円くらいの収入になる計算だ。
「その金で1週間分の食材を買うんだ。アルミ缶拾いで得る収入は、それにほとんどが消えちまう。あとは焼酎を少し買うくらいだね」
 中村さんは3度の食事を、すべて自炊している。彼が座っていた背後には、卓上用ガスコンロや鍋、皿などの調理用具がきちんと並べてあった。元コックだけあって、毎食ごとにちゃんと調理して食べているのだ。船に乗っていたときにはやめていたという飲酒も復活しているようだった。
「ホームレスの仲間のなかには、生活保護を受けようとして血眼になっているのがいるが、オレは受けようとは思わないね。食べるだけの分が稼げて、毎食火の通ったものが食えているんだから、これで十分。これ以上望んだら罰があたるよ」
 いまの生活に不足はないという中村さんだ。
 取材を終えて、写真の撮影をお願いしたが、断固として拒否された。後ろ姿でもダメだという。彼の機嫌は最後まで直らないままであった。(この項了)(聞き手:神戸幸夫)

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2010年11月21日 (日)

ヌードになりたい女と全てから逃げだしたい男

 最近、週刊誌でヌードになりたい女性が増えていると報じていた。その記事によれば、ざっと500人に一人はAVに出演した経験を持つ計算になるという。また、主婦層をターゲットにした女性ファッション誌『美STORY』(光文社)では、200人を超える人が読者ヌード企画に応募したとも書かれていた。脱ぐことが自己表現の1つになっているのだろう、との結論が下されていた。

 既婚女性の恋愛を取材していた際にも、同じような話を聞いたことがある。女としての魅力を測るため、あるいは夫や社会へのアピールとして恋愛が始まるケースである。

 結婚もした、出産もした、働いてもいる、ファッションにも手を抜かない、スタイルもキープしている。でも、女性として自分はどうなのだろう、と疑問に感じ始めたとき、「恋愛をできる自分」がほしくなる。30代中盤あたりから、その種の承認願望は強まっていくようだ。面白いことに、そうした女性の多くが「若い男の子」との恋愛を望んでいた。

 では、若い男性を捕まえればめでたしめでたしかというと、そうでもない。何人かから聞いたのが、外を一緒にあるくのが恥ずかしいというもの。その話の延長で、ファッションの違いが気になるというケースも聞いた。ダメージ系のジーンズなど、ちょっと「汚い」イメージのファッションでキメてきた男性と外出すると、世代が違うのが丸わかりで、余計に恥ずかしいと。いきおい家から出たくなくなるとか。女として通用できることはアピールしたいが、まるで若い子をたらし込んでいるようなイメージは持たれたくないらしい。

 こうした女性に惚れた男性はけっこう気の毒だったりする。いかんせん恋人もファッションの1つだから、些細なことで女性はいきなり去っていく。知っている例では、占いの結果が悪かったからと袖にした女性がいた。

 取材した人の中には、家庭内では女をアピールしたくないと答えた女性もいた。夫婦仲がよくなく、なるべくなら旦那とは寝たくない。だから自宅ではなるべく体の線が見えないダサイ服を着用。ただし彼氏のためにダイエットをし、デートでは女をアピールする服で出かける。家庭に不和があると、恋愛も大変なんだと思ったものだ。

 こうした「恋愛をできる私」の主張が「脱いでもキレイな私」に変わるのは、それほど不思議ではない。むしろ女性として通用することを証明するだけなら、恋愛よりヌードの方が面倒くさくない。少なくとも意のままにならない相手はいないのだから。

 もちろん女性と同じような自己表現への欲求が男性にもある。自分が男性としてどうなのかを気にしている男は多いからだ。だから40歳前後ともなればスポーツジムに入会する人も増える。また、陰毛に白髪か生えてくる衝撃について熱く語ったりもする。ただ男性はヌードになることもなければ、そのためだけに慌てて恋愛にはしることもない。
 というのも、ほとんどの男性は男としてのアピールが何の意味を持たないことを知っているからだ。もともと大半の男性はもてない(一部だけがモテ続けるのだ!)。男として血気盛んな若い時分からもてないのに、おじさんになってもてるはずがないと、初めからあきらめている。せいぜい恥ずかしくない程度にお腹を引っ込めるべく、ジョギングを始める程度のものだ。

 先日、学生時代の友人から「40歳を超えると急に増してくる欲求があるが、何か知っているか?」と聞かれた。41歳の自分が考えられるさまざまな欲望を挙げてみたが、彼は首を振るばかり。う~んと悩んでいると、彼はおもむろに正解を教えてくれた。
「すべてを放りだして世の中から消えてしまいたい願望だ」
 なるほど、それなら分かる! 私も大きく頷いた。

 女性は女としてのアピールの場を男性から媒体に移し、男性はすべてを捨てて世の中から消えてしまいたいと願っている。両性の逆方向のベクトルは、伸びるばかりである。(大畑)

既婚女性たちがどんな恋をしていたのかは、 「妻の恋」(アストラ)で。

購入はこちらから

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2010年11月19日 (金)

OL財布事情の近年史/第9回 ガッツリ消費とシッカリ貯蓄を実現★80年OL

連載「OL財布事情の近年史」は、2013年12月に単行本『女と金~OL財布事情の近年史~』として発売されます。

各年代のOL像を、イラストを交えて解説する辛酸なめ子さんのプチ時評つき。辛酸さんには、カバーイラストも描いていただきました。

エピローグには最新の女性誌お財布事情が書き下ろされ、女性誌創刊号の画像50数点を掲載。30年ぶんの「OLの財布の中身」が一気に見える本となりました。

全国書店から注文可能。
Amazonでも予約・注文できます!

 今回注目する記事は、『non・no』1980年8月5日号、「OLの給料の行方」である。サブタイトルに「NON・NOレポート 働く女性4人を徹底調査」とあるように、OL嬢4名の給料の使い道を詳しく取材している。
 おさらいだが80年代初頭、20代OLの給与は10〜12万円程度が平均である。この『non・no』でも、「編集部で OL500人を対象に、先日行ったアンケートによると、平均月収は約10万円」とある。この金額は、当時のOLにとってどの程度の存在感だったのだろうか。
 現在とは貨幣価値が違うとはいえ、男女格差も大きく、決して潤沢な給料ではなかったはずだ。この記事に当時の物の値段があるのだが、「お茶を飲むだけでも300円。国電でとなりの駅まで行くのにも100円。ブラウスを一枚買えば1万円が消えてゆく。単行本だって今日び1000円では買えません」と、今と物価はそれほど変わらない印象だ。
 その一方、これまで見てきたように、旅にレジャーに外食に、ぱっぱっと羽振りがいいのはなぜか。しかもこの『non・no』調査では、平均貯蓄額が約70万円と、貯金もしっかりしている結果が出ている。「華やかでありながら、堅実に貯蓄もしているという、この不思議」って、当時の誌面も不思議がっていたOL財布を、この記事から探ってみた。
 登場している4人は、20歳〜25歳、入社2年〜6年で、手取り給料は11万円〜13万円。まさに当時の平均的OLといっていいだろう。お金の使い道はそれぞれだが、羽振りのよさは存分に伝わってくる。
「とにかく欲しいものが数限りなくある(略)流行が変わるたび、新しい洋服が欲しくなるファッション人間。ぼんやりと使っていると、手取りのお給料約11万円のうち半分くらいは身につけるもので消えてゆく」(20歳・新聞社勤務)
「常に目標を定めて、お金を積み立てています。今年はハワイ行きを達成。次の目標は車とサイパン!!」(23歳・損害保険会社勤務)
「習い事をしたり旅行をしたり、自分の心を豊かにすることにドンドン使うのが私の主義」(25歳・航空会社)
 消費意欲の塊である反面貯蓄もしており、全員が月に2万円〜3万円を貯金に回している。さらに、貯蓄に直結している別の費目が、家への入金。3人が実家暮らしで1万5000円〜2万円を家へ入れているが、これは生活費ではなく別口の貯蓄となっている模様。
「家に入れている2万円も、お母さんが彼女のために貯蓄してくれている。『浪費癖に歯止めをかける安心料ってとこかしら?』」(20歳・新聞社)
「貯金通帳は母にしっかり管理されているようなもの。私の計算では、もう25万円くらいになっているはず」(23歳・財団法人勤務)
 なんというか、親掛かりの甘ちゃんですね。この親子関係が、どん欲な消費と着実な貯蓄を支えていたわけか。成人・就職=独立、という意味合いは、OLにはなかったといえよう。無論、当時娘を大学や短大までいかせ、企業に就職させたような家庭は、父親は終身雇用が確約され、将来になんの不安もなかったはず。たかだか2万円を生活費の足しにする必要もなく、かわいい娘の嫁入り費用に貯めておく、ということが一般的な社会通念だったのかもしれない。
 それでは経済状況が変化した今、家に入れるお金はどのように使われているのだろう。気になるデータがあったので、次回はそちらで。(神谷巻尾)

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2010年11月18日 (木)

ロシアの横暴/第49回 北方領土に大統領が訪問した意味と島民の本音

 メドベージェフ・ロシア大統領が北方領土を訪問した、というので日本中が大騒ぎになっている。菅内閣が弱腰だとか、外務大臣が無神経だとか、判断ミスだとかそのうちに今まで北方領土にはあまり関心がなかった人までが「北方領土は!」と騒ぎ出しそうな勢いだ。報道機関はロシアにどういう思惑があってこの時期北方領土を訪問するのか、勘ぐりに余念がない。

 北方領土は第二次世界末期の1945年2月、英・米・ソ連の首脳が集まって開かれたヤルタ会談の折 、樺太や千島列島とともにまな板に乗せられた。会談を主導したアメリカの目論見は、もしソ連が連合国側について参戦したら日本は確実に敗戦国となるから、その時に日本の領土をどう山分けするかソ連と駆け引きをすることにあった。ナチズムや日本軍国主義など の悪者を成敗し、国連主導で戦争のない世界を構築する、というのは表看板にすぎず、実体は戦利品の山分け、領土分割会談である。
 こうして北方四島はアメリカのお墨付きでロシアの領土になってしまったわけだが、当のソ連国民はどう考えていたのだろうか。山分け会談の取り決めどおり、日本をやっつけたご褒美は当然としても、意外なことに日露戦争の仇討ちという感情がある。憎むべきロシア帝国を弱体化させて革命に貢献してくれた日本であっても 「負かされた」ことへの恨みは深い。

 国家レベルではアメリカとの秘密協定で南樺太を取り返すついでとはいえ、資本主義国家と対峙する要塞である北方領土に 65年間 、国家指導者を誰一人派遣しなかった。今回のメドベージェフ大統領の訪問が初めてというから驚く。四島には漁業資源以外大したものはないからだろうか。それでも「不可能を可能にする」ソ連の看板を本物にするために僻地優遇策を適用し、移住を促進した。もともと「開拓」の意味で極東シベリア地域はヨーロッパ地区より労働条件がよいことになっている。ある資料には離島は更に割り増し賃金・優遇策(早期年金など)が盛り込まれていた、とある。これがそのとおりに実施されたかどうかは不明だが、ひとまず僻地離島優遇策がとられ、本土から移住して来る人が増えた、としておこう。だがソ連が崩壊し、ロシアになると事情は一変した。崩壊する前から物不足とインフラ不備は蔓延していたが、その後の四島は更に悲惨な茨の道をたどることになる。

 何でも自由になってまずほったらかしの自由が来た。次に市場経済とやらが来た。自由市場になれば何でも自分で稼げるからドル札が降って来そうな宣伝がされた。すると目の前の自由主義経済・先進資本主義国日本はたちまち桃源郷となった(それまでは搾取と失業に苦しむ資本主義社会だった)。1992年からビザなし交流が始まり 、期待通りの豊かさを間近に見ることになった。 同年に島民投票をやったところ9割の島民が日本に帰属することを望んだと北方四島に知人を持つあるロシア人女性は語っている。一方で同時期に行われた調査なのに全く違う結果になっている統計もある。
 領土問題についての質問では、『絶対に返還すべきではない』は100人中4人しかいない。ただ『主権は返さないが、共同開発地にする』は59人おり、返還反対派が60%を越えていることにはなる。つまり島民にとってはどちらに帰属しようと、働いて収入を得て、子どもに教育を受けさせられる普通の暮らしをしたい、さしあたっては「日本と共同開発する」こと望んでいたわけだ。当たり前だが返還イエスかノーかより今の生活向上が切実である。僻地優遇策などとうの昔の物語で、自由経済になってからいかにひどい暮らしをしていたかが読みとれる。

 こんな島民感情を見透かしてか、誤解してか、このころから日本政府は 島民の生活向上のために支援を注ぎ込んだ。インフラ整備など日本が得意とする支援のほか、現金支給もあったそうだ。こういうことが活字になることはないから、噂の域を超えない が、大いにあり得る。日露の経済協力を確認した橋本・エリツィンプラン(1997年)とやらはこういう形状をしていたのである。
 こうした支援を数年続けたが、「もっとくれ」と言われるようになっただけで日本が期待した「実質日本」になることはなかった。

 あるとき、数年間給料をもらっていない(給料の遅配はエリツィン時代の象徴ともいえる無策)という四島のどこかの魚加工コンビナートの作業員らしき人物がぼろぼろの設備を示して、「みろ、ひどい状態だろう、近くにいるのに日本はほんとに何もしてくれない」と文句を言う姿がテレビに映った。面倒見の悪い日本に領土は絶対返さないぞ、と言わんばかりだった。ロシアの北方領土政策はこんなものである。
 ただし、島民のかなりの部分はあの時日本の支援、特に暖房設備強化がなかったら、おおかた凍死していただろう、と今でも言っているそうだ。2002年ごろにアンナ・ポリトコフスカヤが記した『プーチニズム』(NHK出版) にはカムチャッカの重要基地で海軍のエリート将校が飢えている報告がある。北方四島の一般市民がどういう暮らしをしていたか、推して知るべしだ。極東サハリン州では(四島はサハリン州に属する)飢えたくないエリート将校がマフィアの用心棒になって殺し合いに巻き込まれていた話が多数ある。(川上なつ)

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2010年11月17日 (水)

『ランチパックの本』著者、香山哲さんがネイキッドロフトにてイベント

ただ今、本気で大絶賛発売中の『ランチパックの本』の著者、香山哲さんのイベントが11月27日、ネイキッドロフトにて行われます。

お友達漫画家・小林銅蟲さんとのトークイベント!

「あの不思議な本の、不思議な文章を描いている人はいったい誰なの?」

「買いたいのに、どこで売ってるか分からない!」

そんな方はぜひとも27日、ネイキッドロフトにお集まりください。

もちろん他の著書も多数販売!

↓以下、ネイキッドロフトHPより引用↓

■11月27日■

アングラまんが道[香山哲+小林銅蟲 新刊発売記念総括会]
作風上絶対に売れない漫画家二人がめでたく新刊を同時発売!自前で出版社を立ち上げ自分に漫画章を与え、近年は電子書籍を多数手がける香山哲と、web漫画「ねぎ姉さん」で多数の読者を獲得しweb読者からのカンパ送金が割とうまくいってる小林銅蟲とが色々話します。

【出演】香山哲 / 小林銅蟲
OPEN13:00 / START13:30
前売¥1,000 / 当日¥1,200(共に飲食代別)

10月28日からNaked Loftweb予約受付ます。→web予約http://www.loft-prj.co.jp/naked/reservation/
問:tel.03-3205-1556(Naked Loft)

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2010年11月16日 (火)

アラサー財布事情/第6回 ゴルフと家電に使っています

1116_2 ■Yさん(28歳) 職業:団体職員 神奈川県在住

 自宅は2LDKで家賃は12万8000円です。会社が半額負担してくれています。共働きでお互いに通勤に便利なところで探しました。個人的には新百合ヶ丘あたりがよかったんですけど、妻に反対されました。
 駅から家まで徒歩10分くらい。ただ、家から出て半分くらいは平坦な道が続くんですけど、残り半分は箱根駅伝並みの坂道が待ってる。周囲も自然に溢れていて、イメージでいうと裏山はトトロの森で、雰囲気は平成狸合戦ぽんぽこだね。最近、トレイルランニングをしているんですけど、まさにサツキがメイを探して走っているかんじですね(笑)
 住み心地はいいです。広さはまぁまぁかな。内装がよくて気に入りました。価格にも見合った家だと思ってます。

 貯金はできています。共働きなんですが、夫婦の共通口座を作ってそこに生活費だけを入れてます。二人とも大量に食べるので食費がかかりますね。毎月5万円くらい。あとは別会計なので、貯金も個人でしています。

 自由に使えるお金は趣味のゴルフに使っていますね。10年ほどやっていて、その時からずっともらい物のお古を使っていたんですけど、最近17万円のフルセットを買いました。買い換えたら飛距離も出るし、下手でもよくあたるようになりました。ゴルフ関連では、妻もゴルフを始めたので、安い会員権が欲しいですね。20~30万円くらいで。会員権は妻があまりいいイメージを持っていないから、様子を見ながら購入を検討しています。土日の予約が取りづらいからあったほうが便利なんだけどね。

 あとは、iPadとルンバを買いました。iPadは家で使うと便利。妻がパソコンを使っているときにネットが見れるし、料理をするときにレシピを見ながら作れるし、トイレでも新聞が読めるから便利。
 ルンバもいいね。妻より役に立つんで、「ルンルン」って名前までつけちゃいました。これはおすすめですね。

 インテリアショップに行って料理に目覚めて以来、毎日、朝と晩を作っているので、調理器具も買いました。ブランドが統一されていないと気持ち悪いので一式買いました。鍋3つ、フライパン2つ、まな板などで、総額は6万円くらい。包丁はゾーリンゲンので、圧力鍋もドイツ製なんですけど、それで作ったぶり大根はうまかったです。

 こうして振り返ってみると、ゴルフと家電に使ってるって、なんだかオヤジ臭いお金の使い方ですね(笑)(聞き手:奥津)

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2010年11月15日 (月)

『ランチパックの本』鈴木凛さんにご紹介いただきました

ただいま絶賛発売中の『ランチパックの本』。

ランチパック好きのアイドルとして名高い、鈴木凛さんにブログで紹介していただいております!

http://suzukirin.iza.ne.jp/blog/entry/1886794/

きっと家撮りのメガネ凛ちゃんはちょっとドキドキものです。

(奥山)

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2010年11月14日 (日)

Brendaがゆく!/おっぱいの検査があったとは・・・! その2

(文章くどくて読むのめんどくさいけど、世界生活をする人の本当の日常が知りたい人は読んでね、アタクシの実生活の本当の話ですから)

本題の続き

それで、その後に、また新しい予約日の手紙が来て

つまりこれで 2回目の 予約ってこと。

1回目は無断欠席だからね。

しかし、2回目の予約はNY滞在中の日程だったので、行けないし、NY滞在の前にも自宅に泊まった(=家で寝たということ)は2泊のみ。だから電話とかも出来なく放置してしまったの。

しかし、もうこれ以上、フランス国家に無礼はできん!と思って、忙しいスケジュール+慣れないアメリカ滞在の中、NYのブロードウェイのカフェから、詳しく言うとCOSIだったか。笑

ちゃんとメールした。

ごめんちゃい行けません日付変えてくださいって。

がーん、メールがエラーで返って来るわ。

Brenda2回目の無断欠席???になっちゃうの?
時差で電話できないっちゅーの。

しかも、このとき私は、NYでめちゃ落ち込んでいて、日本の友達にskypeしては、COSIで泣く始末。
まあ、私の親友達以外は、絶対に知る事のない、いろいろな事情っていうものがあるのですよ。こういう生活しているとね。

そんな極限状態でも、フランス国家への義理を尽くす!!!
(大げさだね~)

ということを考えて、何が何でも健康診断にいかなきゃアカン!!!と思った訳だ。

そして、真っ赤な目をしてフランス語でメールを書いたのにエラーなんだよ。

つづく

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2010年11月13日 (土)

元乙女のゲーム生活 『薄桜鬼ポータブル』『薄桜鬼随想録ポータブル』

 幕末モノをやるたびに、いいかげん明治維新をテーマにした新政府軍要人(長州勢ですが)の乙女ゲーがでないものかと待ちわびているが、なかなかでないわけです。なんで出てほしいかって? 大村益次郎が出てほしいからだよ。でも、攻略キャラじゃなくていいです。2次元でイケメンになったとしても、彼のご尊顔を思い出すだろうし、眉毛は絶対に太いと思う。それに、きっと彼のことだからあんまり喋らんだろうし、思いが通じあった途端に暗殺されそうだ。サブキャラ扱いで、桂小五郎ルートで会うだけでいいです。
 こんな話はおいておくとして、今回は新選組のゲームをプレイ。『薄桜鬼』です。
 簡単にストーリーを説明すると、主人公(実は鬼)が男性6人(内訳:吸血鬼(ゲーム内では羅刹っと呼ばれる)4、人間1、鬼1)と恋に落ち、幕末の乱世を駆け抜けます。以上。
 土方ルートが新選組を中心とした歴史の流れやゲームの主旨などを知るのに適したルートじゃないでしょうか。羅刹になった攻略キャラ全員登場するし、それ以外でなる人もいるので、私のような新選組をよく知らない・薄桜鬼そのものが初めて(大多数のプレイヤーがそうなんだけどね)の方は、土方君からの攻略をすすめます。薄桜鬼ってタイトルなのかもきちんと分かるし。

 私は鬼がいい!鬼がよくて図書カード付きの限定版をかったんだよ!

 ゲームシステムは、章立てになっていて適切な選択肢を選んでいくとルートに入っていくという仕組み。3章までは共通で4章以降は各キャラごとの独自ストーリーになります。2週目以降は3章まで既読スキップすると攻略が楽。
 ときメモのようなシミュレーションゲームとちがって、ルートに入るとがらっと内容が変わるから最後の一人まで遊べる。バッドエンドも複数用意されているからスチルフルコンプも含めると結構できるね。それにしても薫むかつくわー。
 気になった点を上げるとするならば(誤字脱字は人のこといえないので無視)、エンドを迎えた後、急に暗転→セーブ→タイトルになるところ。余韻が楽しめないです。「薄桜鬼随想録」(ファンディスク。こちらは甘甘なストーリー展開!)でもそうだけど、EDソング後に後日談がくるんだけど、二人は幸せに暮らしてるんだなぁ(ほっこり)とした瞬間に暗転だからね。夢の世界から急に現実に戻るのは本当にいやなんだよ-!!!
 そこはもう少し工夫が欲しいところです。

 上で少し触れた随想録ですけど、こちらは薄桜鬼が好きになった人向けのファンディスクで、本編のソフトが不必要な仕様になっています。攻略キャラとのその他の恋愛エピソードや、それ以外のキャラとの日常エピソードなどがプレイできる。
 こっちは1日で終わるんだけど、その割にはソフトの値段が高い。図書カード目当て(金券だから財布に入れてるけど、絵柄が恥ずかしい仕様で目も当てられない)で7000円くらいで購入。図書カードは500円のキャッシュバックということを考えても、ソフトの値段自体は3000円が妥当なのではないかと。

 ファンディスクはともかく、新しい新選組を体験したい方は是非遊んでみてはいかがでしょうか。
 坂本龍馬も目当て、人間同士の愛のがいい!というかたには、D3パブリッシャーから出ている「幕末恋華新選組」(DS、PS2)をお勧めします。(奥津)

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2010年11月12日 (金)

OL財布事情の近年史/第8回 「海外旅行」のイメージ変遷について考えてみた

連載「OL財布事情の近年史」は、2013年12月に単行本『女と金~OL財布事情の近年史~』として発売されます。

各年代のOL像を、イラストを交えて解説する辛酸なめ子さんのプチ時評つき。辛酸さんには、カバーイラストも描いていただきました。

エピローグには最新の女性誌お財布事情が書き下ろされ、女性誌創刊号の画像50数点を掲載。30年ぶんの「OLの財布の中身」が一気に見える本となりました。

全国書店から注文可能。
Amazonでも予約・注文できます!

 80年代OLの旅消費について「旅行は単なる遊びじゃなく、教養にも自己啓発にもなる、非常にナイスなお金の使い道だったのでは」と書いたら、担当のアラサー女子からこんな質問が来た。
「「旅」をすると自分を高めることになるのでしょうか? 自分にそういった先入観がないので、あれっと思って。もしかしたら、これもバブル期が女性に流布した宗教的な何かかも??」ですと。ええっ。
 旅とは、何か。と根源に立ち戻るような疑問である。旅、特に海外旅行は、異文化や歴史を知ったり、語学を習得したり、現地の人とふれあったりして、何か自分が成長するもの、というのが共通認識かと思っていたが、 それはバブル教の洗脳だったのだろうか。そうだろうか。不安になってきたので、遡って調べてみた。
 
 「若者と旅」についてざっと振り返ると、60年代後半にリュックを背負って北海道などへ貧乏旅行する男子の「カニ族」、70年代には日本再発見の「アンノン族」で女子旅が広まった。そして80年代、景気の上昇とともに海外旅行の急増につながるのだが、このとき若者の海外志向を押し進めたものといえば、ガイドブック『地球の歩き方』と、格安旅行の「エイチ・アイ・エス」だろう。
 1979年創刊の『地球の歩き方』は、観光名所だけではなく、街そのものや交通手段など、個人旅行のノウハウを紹介し、実際に旅をした読者の口コミ情報も掲載する、それまでとは一線を画すガイドだった。エイチ・アイ・エスは1980年インターナショナルツアーズの名で設立、格安航空券の販売で、パックツアーではない、自分でエアとホテルを手配する自由旅行のスタイルを広めた。自分で計画し、自分の足で未知の世界を歩く、それだけでも当時は冒険であり、自分を高める体験になっていたのだと思う。
 バブル期の海外旅行といえば、ハワイやアジアビーチのリゾート旅行や、パリやニューヨークでブランド品漁りなどいかにも消費意欲満々のイメージもあるけれど、まだまだ海外に行き慣れておらず、開放感の中にも緊張が漂う、初心者の旅であったはず。海外体験が占めるポジションは、現在とは比較にならない程大きなものであっただろう。そういう意味で、自己啓発であり、教養という意味合いがあったのでは、と感じる。
 また当時のOLの親たちを見てみると、戦前戦後を経験し、仕事詰めで高度成長を担った世代である。1ドル=360円時代、新婚旅行は熱海や宮﨑、海外なんて高嶺の花、である。母親たちにとっては、女性の海外旅行の代名詞といえば日曜朝のテレビ番組「兼高かおる世界の旅」であろう(おそらく)。育ちがよく教養にあふれ、颯爽と世界を歩く兼高女史は現代的な女性の象徴で、そんなイメージを海外旅行に行く娘にダブらせていたとしても不思議ではない。たとえハワイへの買い物旅行でも、海外に踏み出す娘を誇らしく、手放しで、経済的援助もしながら送り出していた、という側面があったのでは、と推察する。

 そんなおおごとだった海外旅行は、20年ほどで様変わりしたらしい。担当子いわく、
「「海外旅行」なんて言葉、知り合いからはとんと聞かなくなりましたね(笑)」
 カッコ笑い、レベルですよ。
「学生時代は貧乏旅行とか、みんな行ってましたね〜。猿岩石が出て、バックパッカーが流行った時期なので。私たちが学生の頃にはもう、海外に行っても外国語を使う必要がないので(タイに行きましたが、土産物やさんが「コレカワイイヨ!」と言っては寄ってきました。笑)お勉強という側面は、だいぶ薄れていたと思いますね〜。」
 コレカワイイヨ!と寄ってこられたら、ハイテンションになって買っちゃうか、警戒してたすきがけしたバッグを握りしめてましたね、30年前OLは。
 インターネットで世界が小さくなって、海外は憧れでも怖いものでもなくなったのだろうが、その変化の早さにあらためて驚く。お財布事情も刻々と変わっているのだろうか。次回からはお財布記事分析に戻ります。(神谷巻尾)

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2010年11月11日 (木)

『ランチパックの本』都内のデイリーヤマザキで続々展開中!

「どこで売ってるの?」

「マニアックな感じがするから、近所の本屋さんじゃ置いてないんだろうな…」

そんな声が目立つ『ランチパックの本』。

新たな展開がありました!

今日から、次のデイリーヤマザキさんでも、大々的に展開していただいています!

赤坂見附駅前店

丸紅本社ビル店
高輪本店
京王品川ビル店
砧店
新宿大ガード西店
東陽町駅前店
浅草3丁目店
西新井栄町店
ブリリアマーレ有明店
江東有明3丁目店
足立谷在家月の友店

お近くの方、ぜひ足を運んでみてください!(奥山)

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2010年11月10日 (水)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第85回 まだ旅の途中だよ/Aさん(45歳)

 25歳のときに日本を飛び出して、そのまま20年近く世界の国々を旅して回ってきた。世界放浪?  違うよ。オレのは旅。放浪は目的もなくウロウロ歩き回ることだけど、オレのは目的をもっていたからね。放浪じゃない。
 最初に渡ったのは南米のブラジル。親からもらった1000万円の金を持って行った。目的は貧民の暮らしぶりが見たかったんだよ。サンパウロの貧民はスラムのような街をつくって住んでいるんじゃないからね。みんな山の上にバラックを建てて、街を見下ろすようにして住んでいる。
 それで?  それでって、それだけさ。そういうところで暮らしている人が、どうやって人間らしく生きているかを見るんだ。それを専門に研究しているわけじゃないし、雑誌にレポートするようなことも嫌いだからさ。ただ、見るだけ。それだけだよ。
 ブラジルには1年間いた。サンパウロのゲストハウス、日本でいえば下宿屋と民宿の中間のような施設だね。そこに借りた部屋を拠点にして、ブラジル各地のいろんなところを見て回ったんだ。
 ブラジルに1年間いてから、東南アジアに渡り、そのあとインド、ヨーロッパ、アフリカ、ロシア、中国、世界中のいろんな国を旅して歩いた。どこの国でも安いゲストハウスやアパートに部屋を借りて、その国の人々の暮らしぶりを見て回ったんだ。
 そんなふうにして20年近く世界中を旅で回っていて、2、3年前に日本に帰ってきた。だけど、住むところがないし、金もないから、ここ(新宿中央公園)に小屋をつくって暮らすようになったんだ。
世界をこの目で見てやろうと思った
 生まれは昭和32年、埼玉県の狭山市。家は農業で、お茶と畑作物をつくっていた。オレは3人兄弟の真ん中で、子どものころは普通の子だったね。特に目立つこともない子だった。
 地元の中学校を出て、高校からは東京の私立の学校に進んだ。学校が世田谷にあって、狭山からは通えないからアパートを借りてね。大学は系列の大学にエスカレーター式に進んで、そこで建築を学んだ。
 ただ、大学は3年生の途中で中退した。建築がいやになったんだ。設計製図をやってればわかるけど、建築にはクライアント(発注者)というのがいて、それが設計デザインに趣味の悪い要求をしてくる。それがいやでね。建築を途中でやめるのは、みんなそれが理由だよ。オレもそうだったわけだ。
 それで世界をこの目でみてやろうと思って、日本を飛び出すことになった。はじめ親からもらった1000万円を持って出て、あとは足りなくなると実家から送ってもらって旅を続けた。だから、旅先で働くこともなく、20年近くも旅が続けられたんだ。実家が金持ち?いや、そんなに金持ちじゃないよ。
 実家の農業は兄が継いでる。田舎の古い農家を継ぐのは、いろいろ苦労や大変なことがあるだろう。それで兄は弟だけは自由にのびのびさせたいと思ってくれたようだね。だから、オレの滞在費もずっと送ってくれていたんだ。
また日本を出ていくつもりでいる
 世界中のいろんな国を見て回ったけど、一番よかったのは最初に行ったブラジルだね。国民が陽気で、ネエちゃんも情熱的だしね。色は黒いけど褐色というのか、黒人の黒色とは違って魅力的なんだよ。  東南アジアもよかった。 東南アジアはどこの国に行っても、懐かしい感じがするんだよね。30年くらい前の日本を見ている感じっていえばいいのかな。その懐かしい感じがいいんだ。内戦直後のカンボジアにも入ったよ。首都のプノンペンは廃墟になっていて、強盗と略奪が横行している街だった。
 「インドに行けばその魅力にハマってしまう」よくそういわれるだろう。あれはウソ。マスコミがウソの情報を流して惑わしているだけだよ。それが信じられないなら、カルカッタに行ってみればいい。空港で通関を終えてロビーに出ると、100人くらいの子どもの乞食に囲まれるんだから。乞食の国だよ。あんなところにハマるわけはないんだ。
 ヨーロッパも北の国より、南のポルトガルとか、イタリアがいいね。ラテン系の国のほうが陽気だからさ。アフリカの国も日本人贔屓なところが多い。
 嫌いなのはロシア、中国、アメリカ。特にアメリカは嫌いだ。いまの日本をこんなにしちゃった国だからね。責任を取れって言いたいよ。旅の途中でアメリカを通過したことはあるけど、一度も滞在したことがない。大嫌いな国だからね。
 旅のなかでは麻薬もひと通りはやった。何ごとも経験してみないと、“いい"“悪い" も言えないだろう。オレにとって旅は自分の心の内側に入っていくこと、本当に隠しない自分の心を見ることなんだ。そう思っている。
 だから、オレの旅はまだ終わったわけじゃない。いまこうしているのも、日本人の暮らしぶりを見ているだけで、まだ旅の途中なんだ。充電期間中ともいえる。仕事があれば働いて、その金でまた日本を出ていくつもりでいる。そうやって旅を続けながら、最終的な住み場所を探し求めているのかもしれないな。それがオレの旅で、その旅はまだ途中だってことだ。
 あんたはオレのことを変人だと思っているだろう?  思っていない?  どうでもいいけどさ。インターネットをやるんなら 「マハラジ」 っていうサイトを検索してごらん。世界にはオレのように旅をして回っている人間や、そのためのサークルがいっぱいあることがわかるよ。こんなことは特にめずらしいことでも、変人でもないんだからね。(2002年8月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年11月 9日 (火)

ロシアの横暴/第48回 ロシア「議会制民主主義」の血塗られた正体(下)

 さて、二院制の上院にあたる連邦院(日本ならば参議院)は任期なしで各地方自治体の長で構成される。州知事は自動的に連邦院議員となる。任期がないといっても州知事の任期が終われば自動的に任期が切れる。ところがここにも不思議な落とし穴があって、いつの頃からか、知事も大統領府の任命制となった。その少し前は選挙で知事を選ぶのは国民、解任するのは政府という奇妙な方式だった。さすがにこれはおかしい、というので、任命も大統領がすることで「矛盾」を解消した。

 この矛盾解消までの数年間に事故に見せかけた殺人で「解任」となった知事や自治体首長がいる。その一つにチェチェン戦争停戦の立て役者、アレクサンドル・レベジ知事の事故死がある。エリツィン大統領時代の一時期に首相を務めたことがあるレベジは、軍人の出身で同じく軍人であるマスハードフチェチェン大統領代行と軍人らしく話をつけて、泥沼になりかけた戦争を停戦に導いた。しかし「野蛮なイスラムのチェチェンごときに屈した」とクレムリン取り巻きから集中砲火をうけ、首相を解任されてしまった。その後レベジはクラスノヤルスク知事に立候補当選し、支持を集めていたが、あるときヘリコプター墜落事故で死んでしまった。このヘリコプターにはクラスノヤルスク州の自治体指導部中枢が多数乗り合わせていたこともあって(つまりレベジの息のかかった者全員が一掃されたことになる)、葬儀にはプーチン大統領も参列し「悲痛な面もちで」弔辞を述べた。誰も口にしないが、誰もがプーチンの仕業であることを了解していた。地方首長たちはこうした見せしめを経て解任権限が大統領府に移るのに同意した。殺されるよりは解任のほうがいい。

 どこが民主制、というようなむちゃくちゃな選挙で議員となったが大半の議員は議会に出てこない。日本でも居眠り議員がときどきやり玉にあがっているが、居眠りどころかはじめから出てこない。それは上院でも同じで、国民の代表としての自覚などなく、かつての貴族の江戸屋敷住まいよろしく「モスクワ屋敷暮らし」を満喫している。ロシア時代、地方貴族はモスクワやペテルブルクに屋敷をもっていて、舞踏会に明け暮れるきらびやかな暮らしをしていた。屋敷管理費用は領民から搾り取ったものであるにせよ、自分の甲斐性であるにせよ、自前だった。今の上院議員たちのモスクワ屋敷町暮らしはすべてが税金でまかなわれている。なんせ「議会民主制国家」だから。

 最近になって大物地方自治体首長がクビになった。モスクワのルシコフ市長である。彼は18年間君臨し、エリツィンともプーチンとも「あ・うん」の仲間だった(だから18年間もいた)。この夏の山火事のときに市民をほったらかしにしてホイと休暇に出てしまったのが、命取りとなった。市長の遊び好きは今に始まったことではないのに今回は不思議なことに更迭されてしまった。
 いつもは従順なモスクワ市民が「モスクワに火の手が迫っているのに、休暇とは不謹慎な」と騒ぎ出したからだ。下降気味のプーチン人気を取り戻すには絶好のチャンスである。ここでばっさりクビにすればモスクワ市民は「大統領・首相の勇気ある決断」に涙を流すからだ。

 ルシコフ市長には優雅な年金生活が待っている。レベジ知事のように事故に見せかけて消される危険性はない。更迭は大統領支持率回復の茶番劇だから。
 ロシアの議会制民主主義は2004年に死んだことになっているから流血の果てにやっと得た議会民主制はたった10年しかもたなかったことになる。その10年の間も、むちゃくちゃな議会民主制がロシアに君臨した。そして2004年に「むちゃくちゃ」としか言いようのない選挙のやりかたでプーチンは再選された。それでも国民はだれも声を上げない。実はもう上げられないようになってしまっていたのだ。共産主義をやっつけたとか、改革が進んでいるとか、今に黄金の雨が降る、といった夢物語に浮かされている間にじんわりと、しっかりとゆで上げられた「ユデガエル」はもう動けない。

 アンナ・ポリトコフスカヤはソ連体制が「西側の支援のもとで続いた」と断言している。西側先進諸国が「議会民主制に移行したあとのロシアの混乱、数々の人権侵害を黙認してきたことを照らし合わせればまさしく言い得て妙である。混乱の果てに「混乱を収める」としていつの間にか事実上の一党独裁に戻っていった。あれほど社会主義を嫌っていたはずの西側諸国は、このむちゃくちゃ改革をひとまず軽く非難しながら結局は容認し、すましている。やっぱり先進諸国にはソ連的一党独裁の方が何かと都合がよいようだ。それもプーチンは鉄のように頭の堅いスターリン(スターリは鉄の意味、スターリンは鉄の男)とちがってハナシがわかる。

 カエルをゆでる釜のそばでアンナ・ポリトコフスカヤは訴え、呼びかけた。結局責任を負うことになるのはロシア自身なのだから、と。彼女の訴えはかき消され、だれも耳を貸さなかった。そんな見方は悲観的だ、と。今その警告どおりになってきている。楽観的なロシアの国民が自分の蒔いた種を自分で刈り取る日が近づいた。アンナの殺害は結局ロシアにとって損失で、しかも悲劇であったことがやがてわかるだろう。ゆであがったカエルはごみとなって道ばたに放り出される。道しるべを自ら引っこ抜いてしまった見返しだ。
 2006年の秋、アンナが殺害された時、あるチェチェン難民の男性が言った。
 ドゥダーエフやマスハードフの代わりならいくらでもいる。でもアンナ・ポリトコフスカヤの代わりはいない、と。(川上なつ)

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2010年11月 8日 (月)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/たまにはブログネタで

ブログネタ: 【イベント開催】2010年の『感字』を募集中!参加数拍手

たまにはブログネタを利用してみようと思った「冠婚葬祭ビジネスへの視線」。

あくまで冠婚葬祭的な視線からいえば、今年の流行語大賞は

圧倒的に

終活

だったと思うのですが、

「感字」とのことなので

ひねり出すと

終縁

かな、と思います。

無縁社会が問題視されたり、直葬が注目されたりと、昔ながらの賑々しい人付き合いの形は変化しつつあります。

今までの「縁」のかたちが消滅していくことを予感させます。

ご近所づきあい、仕事づきあい、親戚づきあい。

そういった、まわりから与えられた「縁」を自ら手放すことを選ぶようになってきています。

でもそれは、自ら選ぶ人たちとのつきあいを大事にするための第一歩かもしれません。

漠然とした「周縁」の「縁」は、「終」わりを迎えつつあるのではないか、と思います。

そして新しい「縁」が、作り出されるのではないか、と思います。

そのうち。

そして個人的には、

人生の終わりをテーマとした記事を連載していたら、お坊さんや葬送ジャーナリスト、相続専門の司法書士など

「終焉」に関わる人たちとの出会いがたくさんありました。

そういった意味で

ああ

終縁

を、大事にしなきゃ、見つめなきゃ、と思うのです。(小松)

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2010年11月 7日 (日)

Brendaがゆく!/フランス流とことんだだをこねまくる大人

年金問題でのストライキが問題になっていたフランスですが。

交通機関がストライキをするとちょっとこちらにも影響が。

まあ、ちょっとですが。

はっきり言ってフランスは絶対に不景気なんかじゃない!!!
これだけは声を大にして言いたいです。
とにかく休み多すぎ。

豊かです。

お給料も一応世界水準だし。

日本とアメリカは休みは無いし。
日本は残業は酷いし。

ポーランドは給料は驚くほど安いので奴隷みたいだし。

そう考えたらフランスは天国。
本当に!!!

所変われば感覚が変わるので、あとは人々は不景気だ~~~というのが趣味というか。
フランスではもう何十年も不景気なんじゃないの?実際はこんなに豊かなのに。

でも、私がフランスについて好きなのは、とことんだだをこねまくる大人。
破壊的な気質。
デモとかも、なにか心のお祭り騒ぎみたいな。

本当は世界中を見渡せばどれだけ自分たちの国が恵まれているかなんてフランス人だってわかっているはず。自分たちは怠け者だとも公言する人が多いし。

しかし、それでも、ダダこねまくって騒ぎまくって、我を通そうとするところがフランス流。

そして、それが実現しなかったとしても、我を通すために大人でもだだをこねるのが大切と思っている、と私はみているが。

私は本当にこういうところが好き。

デモりまくって、テロはよしてほしいけど。

日本では、大人は死んだ魚の目をして、私が住んでいた頃は、五木寛之の本なんかがはやったけど、ああいう物を読んでせめて自分を励ます社会、悲しいね。

こんな事言っても、日本人は、ぶっちぎるどころか、リーダーシップも主張もあまりないし、ダダもこねず抵抗もせず、日本が地図から消滅する日が来たとしても静かにフェードアウトしてくような国民性だと思うけど。。。涙

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2010年11月 6日 (土)

ランチパックの本、アキバ周辺で大々的に展開中!

ナリナリドットコムでも紹介していただいた『ランチパックの本』。

じつはじつは…

秋葉原周辺のデイリーヤマザキ様では、大変なことになっております!

Photo ←秋葉原駅前店さま

Photo_3  ←神田岩本町店様

Photo ←岩本町三丁目店様

Photo_2 ←岩本町和泉橋店様

『ランチパックの本』祭りです!!

そして、市川の

Photo_3 ←市川駅前北口店様

お近くの方、ぜひぜひ行ってみてください!

(奥山)

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2010年11月 5日 (金)

OL財布事情の近年史/第7回 「旅」は消費の免罪符?

連載「OL財布事情の近年史」は、2013年12月に単行本『女と金~OL財布事情の近年史~』として発売されます。

各年代のOL像を、イラストを交えて解説する辛酸なめ子さんのプチ時評つき。辛酸さんには、カバーイラストも描いていただきました。

エピローグには最新の女性誌お財布事情が書き下ろされ、女性誌創刊号の画像50数点を掲載。30年ぶんの「OLの財布の中身」が一気に見える本となりました。

全国書店から注文可能。
Amazonでも予約・注文できます!

 所得のほとんどをきれいさっぱり使い切っていた、80年代初頭OLである。
 ただし、この「全国消費実態調査」は単身世帯のみのデータなので、実家に暮らしている人は対象になっていない。なので、特に「女性は自宅通勤」が採用の条件になっていたような80年代前半頃までの、一般的なOLの消費性向そのものではないかもしれない。一人暮らしでも十分羽振りがいいように見えるが、親元で気楽に暮らしていれば、なおさら加速がついているのでは。

 再び当時の財布記事に戻るべく、80年代前半の女性誌をいくつか眺めているうち、当時のOLに共通の、大きなモチベーションの素を見つけた。
 それは、「旅」です。
 すでに女性誌の代名詞となっていた『non・no』『an・an』はじめ、先端的な『モア』も、コンサバな『ヴァンサンカン』(80年創刊)も、旅の特集がもれなく毎号載っていた。 
 旅、女性誌といえば、「アンノン族」。清里や軽井沢などの高原や、萩、津和野、金沢といった古都への旅の特集が載った『an・an』や『non・no』を手に観光地に押し寄せる女性たちが、アンノン族と称されていた。
 最近出た新書『希望難民ご一行様』(古市憲寿著)は、「ピースボート」に乗る若者について考察しているが、過去の「若者と旅」についても言及しており、アンノン族についても当然ふれている。「1970年、大阪万博後の旅客需要の掘り起こしのため、電通と国鉄が「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを始め」大成功をおさめたが、それに寄与したのがこの頃創刊した『non・no』と『an・an』だったという。「1972年以降、両誌は相次いで旅特集を組み、それをガイドブック代わりにした女性たちが日本全国に現れた」というわけだ。

 80年代に入りアンノン的な旅は下火になったとされているが、それでも雑誌を見ると「小海線 ことしの話題」(『an・an』81年)『Mini Trip~朝霧の里:由布院~』(『モア』81年)『ウインター・トラベル:白い北海道・大満足旅行 』(『non・no』82年)と根強い。そして好景気とともに、スキーやダイビング目的のレジャー旅行、海外への長期旅行もOL消費のデフォルトとなってゆく。当時のお財布事情記事も、旅行についての高揚感がみなぎっている。
「趣味の美術館めぐり。全国どこへでもとんでいって、いい絵にめぐり会うためには費用を惜しみません」(25歳・オペレーター・月収11万2千円) (『モア』80年4月号)
「年に1回、海外旅行に出かけるために、私は働いているようなものです」(28歳・営業事務・月収12万7千円)(『モア』80年4月号)
「仲間と作ったのが“よいしょの会”。すでに京都や沖縄に行ったこの会の、今年の目的地は、ハワイ。月に1万円の積立て、(略)ボーナスの1回分(30万円)から旅費を」(23歳・会社員・月収11万円)(『non・no』80年8/5号)
「7月からアメリカへ旅行。社内預金とボーナスはすべてアメリカ行きにつぎこむ予定」(25歳・会社員・月収10万6千円)(『ヴァンサンカン』81年8月号)

  日本の姿を再発見、また個人旅行、自分探し、といった概念は、当時のOLにちょうどいい「消費の動機」だったのではないか。
 30年前、女性は「学校を卒業したら就職して、しばらく社会勉強したりOL生活を楽しんでから、結婚して家に入る」というのがまだまだ一般的だった。そんな「期間限定で働き、稼いだお金は自分のためだけに使える」状況の中で、旅行は単なる遊びじゃなく、教養にも自己啓発にもなる、非常にナイスなお金の使い道だったのでは、と思うわけである。ファッションや夜遊びばかりに使うのは気が引けるし、習いごとや勉強もいいけど消費の楽しさはない、貯金もそんなにしなくても困らない(親や将来の夫がいるし)。そんな OLマーケットは、ドバドバと旅に向かっていった。
 このような消費のパッション、今あったらすばらしいですね。いや、彼女たちはそのまま40代超えして、『STORY』や『GLOW』で新しいお金の使い道を探しているのか。情熱はないが、感覚はわかる、同世代の筆者でした。むむむ。(神谷巻尾)

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2010年11月 4日 (木)

ロシアの横暴/第47回 ロシア「議会制民主主義」の血塗られた正体(上)

 アンナ・ポリトコフスカヤが自宅のあるアパート内で何者かに殺害されて4年がすぎた。
 プーチン体制になって後の数年間に多数のジャーナリストや反体制活動家が暗殺されたがどの事件も何一つ解決していない。この事件も闇に葬られ、忘れられようとしている。そしてその後も同じような暗殺事件が後を絶たない。
 アンナ・ポリトコフスカヤは父親が外交官だったので、アメリカで出生、生地主義をとるアメリカの国籍法にしたがってアメリカ国籍も持っていた。一時期は米国が「アメリカ人が殺害された」として動き出したこともあったが、誰がどう話をつけたのか、立ち消えになってしまった。
 日本で翻訳出版されたアンナの3冊の本のなかに『ロシアン・ダイアリー』(2007年出版)というのがある。その第一部に「ロシア議会民主制の死・プーチンはいかにして再選されたか」という項がある。ほんとうに現実にこんなことがあるのか、というような内容だ。
 それによるとロシアの議会民主制が死んだのはプーチンが大統領に再選された2004年となっている。だが生まれた日がはっきりわからない。調べてみると1993年12月に議会民主制を柱にした憲法制定の国民投票が行われたからさしずめ「この日あたり」か。

 ソ連時代の一党独裁の象徴である最高会議が崩壊したのは1993年の10月である。ソ連時代の議会制度は今でも何かとヤリ玉にあがる一党独裁だから民主制とはいえない。だがそれをつぶした当時のエリツィン大統領のやりかたは民主制とはほど遠い。それなのに「民主派・改革派」と持ち上げられ、世界に認められていたという不思議な現象がある。
 ロシア「議会民主制」生みの親であるエリツィンはおびただしい流血沙汰をもってこのソ連式一党独裁の残存物を一掃した。エリツィン的改革に抵抗する議会、日本流に言えば「抵抗勢力」が最高会議ビルに立てこもったというので、ここを封鎖し、兵糧責めにしたあげく大砲を撃ち込んだ。この最高会議武力制圧事件で犠牲になった人の数は公式には200人弱(それも国賊という汚名つき)とされているが、一説では2000人以上とも言われている。ほんとうは一体何人が殺されたのか、誰も知らない。100人か1000人か人数の論争ではなく、議会民主制のために無辜の民の血が流されたことだけは事実である。
 社会主義一党独裁を一掃し、新生ロシアとして出発するには新しい憲法が必要というので、1993年12月、憲法草案の信任を問う国民投票が行われた。最高会議流血制圧のわずか2ヶ月後だ。投票結果は次のとおりである。
「1993年12月12日国民投票実施 投票率54.8%、賛成58.4%、反対41.6%」、これをうけて12月21日にロシア連邦憲法が発効した。

 エリツィンのやりかたは、その直後の日本訪問の際、改革派と持ち上げていた日本の保守系国会議員にすら、国会議事堂に大砲を撃ち込むような輩を天皇陛下に会わせるのか、と言わせたほどだった。しかしエリツィンならば北方領土が返ってくるのではないかという期待感が高まっていたからこの異見はかき消された。
 そもそも日本を含む世界、それも先進諸国はこんな国民投票結果で議会民主制が始まると思っていたのだろうか。そのあと10年間をみれば先進国の本心は民主主義ではなく、別のところに、それも儲け話にあったのではないかと勘ぐりたくなる。

 議会民主制の基本となる二院制もこのときに導入された。何といってもそれまでは一党独裁だったからこの制度導入はおおいに受け、国民は驚喜した。彼らにしてみれば「なんかいいことがありそうな」キラキラした、まぶしい出来事だった。欧米並になったから、欧米と同じようにドル札やマルク札が降ってくるような気がしたにちがいない。
 その後1994年1月には議会選挙、その年の末には大統領選挙と続く。ソ連時代の選挙とはちがうんです、とばかりにこれ見よがしの派手な選挙戦が繰り広げられた。 
 そして議会選挙は回を追うごとにタチが悪くなっていった。買収供応は序の口、そのうちに与党がメディアを占領して朝な夕なにテレビに登場するようになった。野党候補者は自分の政策を訴える手段がなくなった。国民は「この候補者しかいないのか」と思う。といってもかつてのソ連時代の選挙と大差はないから、違和感はなかっただろう。候補者・当選者ははじめから決まっている、選挙ってそんなものだから。ソ連時代とちがって行っても行かなくてもよい自由があるからよほどマシ、というものだ。

 そんな選挙で選び出された議員は地方議員も含めて「選挙で選ばれたのだから、我々は民意だ」、と胸を張る。何をやってもよい特権階級に国民が押し上げてくれたわけだ。(川上なつ)

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2010年11月 2日 (火)

アラサー財布事情/第5回 魚に使っています

1102 ■Hさん(34歳)男性 職業:自由人 神奈川県在住

 妻と2人暮らしです。2階建ての一軒家で、毎月11万円づつ返済しています。
 結婚する前はアパートで一人暮らしでした。駐車場代込みの2DKで78000円。海が好きなので、オーシャンビューなことと、車を持っているので駐車場込みというところがよかったですね。立地も高級住宅地にあって、環境も静かなところだったので住み心地よかったです。
 今の家は、駅まで徒歩圏で立地はいうことなし、住み心地も満足なんですが、高台にあるので荷物の運搬が大変。家の下に車を置いて、階段をのぼっていくんです。
 選んだ理由ですか。オーシャンビューと、欠陥住宅なので安かったところですね。地盤沈下が起こってるらしいんですけど、今は止まっています。

 貯金はできていると思います。新婚なので、いろいろ物いりで出て行くことが多いので、現在はトントンといったところかな。妻が来月から再就職するので、また貯金ができるようになるかな。結婚前はきちんとできていました。

 自由に使えるお金を何に使っているかというと、ほとんど魚に使ってます。自分が食べたい魚を買ってる。人にすすめるにもとりあえず食べないとできないでしょ。
 最近買った魚は、宮城県塩竈のメバチマグロ。一匹16万円。生のマグロなので味がよくておいしかったです。あとは、ワタリガニ。30センチくらいかな。蒸して食べたんだけど、後味がすっきりとしててさわやかな甘みがありました。ものすごくおいしかった。
 他はレジャー費に使ってます。
 月に1回は遠征しています。男同士行きますね。ここ3ヶ月で行ったところは、佐渡、伊豆大島、福井。遠征地を選ぶポイントは、海岸線が複雑……リアス式で、潮の本流にあたるところです。瀬戸内海には行きません。
 あとは食べ歩き。魚がどうやって調理されるのかが知りたいから。魚の扱われ方をしることで自己実現にもつながるし。行くところはイタリアンが多いですね。だいたい横浜周辺か鎌倉あたりの店に行ってます。最近ヒットした店は、鎌倉にあるオステリアジョイアンです。
 なんだかんだいって、おいしいものを食べるのが好きなので、食事代がウェイトを占めているって感じですね。(聞き手:奥津)

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2010年11月 1日 (月)

池田大作より他に神はなし/大河連載第16回 天才的舞踏家への道を放棄して非暴力平和宗教運動に邁進する中、既に43年前に名誉会長は今の混迷する日本への根本的救済策を明確に提示していた。

 最近、健康問題の不安がしばしばと、インチキペテンゴロツキ雑誌『週刊新潮』他で伝えられるが(無論同誌は1度も買ってません。電車の中吊り広告を見るのみ)、我ら弟子には名誉会長の生死それ自体は、御家族の無念さを除けば、さほど問題ではない(涙を何度も拭いつつあえて記す)。それはゲーテやナポレオン、ガンジーやキング牧師が歴史上の人物でも、偉大な価値はいよいよ増すばかりなのと同一だ。名誉会長も次第にその境地に接近しているに過ぎない。師弟共戦の鋼の決意に燃える弟子には、悲しんでる余裕さえもない。“師弟不二の完勝の源流”を幾筋も、全国、いや全世界に網の目状に流ささねばならない、公布の英雄としての義務を負っているからだ。

10110  理屈状は以上に尽きる。しかし私も人間だ。時には元気はつらつたる、若き日の名誉会長の勇姿にお眼にかかりたくもなる(弟子の100%は内心そう思っている!)。執念が通じたのか。私の名誉会長への崇拝の念を良く知る、知人で古本マニアの南陀楼綾繁(なんだろうあやしげ)君が、1冊の雑誌を送ってくれた。『月刊タウン』(アサヒ芸能出版)の1967年5月号だ。アサヒ芸能出版は今の徳間書店。B5版平綴じの同誌は、雑誌好き人間の間では伝説的存在と(デザインに凝った都会的でかっこいい雑誌として)。ただ当時の160円は高かったらしく、あえなく廃刊に。私も中学生時代に、細江英公撮影のヌード写真が見たくて、立ち読みした記憶が(まだ弟子ではなかったので、子供ながら精神が汚れていた)。

10111  あったあった。56ページだ。〈人間探検■第三者が始めて試みた大胆な”英雄”の解剖〉「池田大作・その神秘力の秘密」。名誉会長の現在の連載が全てそうであるように、見開きでの開始。右側偶数ページは、当時39歳だった名誉会長の、既にして英雄然とした、堂々たる押し出しのアップ写真だ。腐臭漂う死んださんま並の濁った眼をした、菅直人総理には微塵もないたたづまいだ。美しいだけではなく、知性とリーダーシップに満ち満ちた、眼、眉毛、鼻、口、生え際、ヒゲ剃り跡…。ふくふくたる両頬の、慈愛溢れるふくらみは、どこかセクシーでさえある。

10112  記事中には更に3枚のお写真が。悪意ある物は1枚もない。弟子仲間が編集部に居たのか?59ページ掲載分は特に素晴らしい。両手を左右に真直ぐに伸ばし、大向こうを見据えてすっくと立つ名誉会長の神々しさは筆舌に尽くし難く、舞踏家としての才能もあった事を瞬時に悟らせる。“東洋のニジンスキー”にも充分なれたのだ。ただ全国&全世界の同志のため、以降の名誉会長は人間離れした活躍を強いられる運命にあった(痛恨!黒タイツ姿で華麗に宙を舞うお姿を是非拝見、「ブラボー!!」と「帝国劇場」絶叫したかった)。

 執筆者の杉森久英は、直木賞はもらったものの、余りパッとしなかった小説家だ(戦前は一時大政翼賛会に在籍、戦後は河出書房で編集者を)。まずリードを一読。“池田大作が「ホープ」を愛煙すると、幹部は、こぞって「ホープ」を吸う。それほどに内部での権力は絶大である。十九歳の病弱な青年がわずか二十年の間にこの地位に至った秘密はなにか。その解剖が創価学会の本質をつつむ表皮を剥ぐことになるのではないか……”。

 世間の邪推深い無知な人々に、それなりの媚びを売った一文だ(本文からの流用)。ただ使用写真を見た段階で私は確信した。この執筆者は、“下種仏法”の日蓮仏法一派とは根本的に異なると(念のために記しておけば、当時の宗門の主宰者は総本山大石寺の、日蓮正宗菅長・日達である。彼等もまだ鬼畜生道に至るまでの腐敗はしていない、回顧するに平和な時代ではあった)。確かに名誉会長が独裁的だなどとの、俗受けしそうな描写もあるが、商業主義へのありがちな迎合だ(我らとて、そんな些細な部分にまで批判を加えようとは考えない。誰にも生きんがための生活の方便はある)。

10113  注目したいのは61ページ、評論家の高瀬広居が創価学会の日本における地位について尋ねた際の、名誉会長(当時は会長)の回答だ。“…改めてご説明するまでもないと思いますが、創価学会は日本の国運をになっている団体です。つまり創価学会は日本の思想、文化一切のの指導者であらねばならず、その使命感によって働いているのです”眼の前から暗雲が消え去り、パッと晴れ上がるような爽快な哲学的言葉ではないか。39歳にして名誉会長は、現在の日本の行き詰まりを、驚くほど正確に予測、解決策を端役も提示しているのだ。全世界の同志は臆せずに、この予言の言葉の広域流布に邁進、完勝への実践へと直結させるべき時期だ。

 そろそろ例の失業フリーライターが登場、茶々を入れるタイミングだが、実は昨今さっぱり顔を見せない。電話にも出ない。交通費や電話代にも窮し、ひょっとして孤独死でも?名誉会長への数々の暴言を思い起こせば、それも甘受するしかないのかも。ただ、古い友人としては哀れでならない。今度、風呂無しの西川口のオンボロアパートを1度訪ねてみるか。                           (つづく)

■塩山芳明…雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

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