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2010年5月

2010年5月30日 (日)

ロシアの横暴/第40回 ポーランド大統領の死に「暗殺説」がつきまとう理由(3)

 このように憶測からデマまで飛び交って「暗殺説」がまかり通るのは、ポーランドとロシア間には埋めることも修復することもできない重い歴史がのしかかかっているからである。ロシアのポーランド支配は数百年前に遡る。ロシアとドイツ(当時はプロシア)両国の山分けでポーランドの国名が地図上から消えてしまった時代さえある。
 その中のまだ記憶に新しいのが1940年におきた「カチンの森事件」である。
 2万人以上のポーランド人将校がソ連軍に銃殺された事件で、ソ連軍部の犯行が明らかだったにもかかわらず、当時のソ連は「ナチス・ドイツの残虐行為」として反論をいっさい受け付けなかった。戦後開かれた戦争犯罪を裁く国際法廷(ニルンベルク裁判)でもそのことははっきりしていたのに、裁判沙汰になることもなかった。第二次大戦の戦勝国は「米・英・仏・ソ」の連合国だからである。いつの時代にも勝利者は裁かれない。

 こうしてポーランドはソ連に「白を黒と言い変えられ」、その後恩を売られ、反共的な風潮が強い土地柄なのに社会主義国となった。実際にはソ連はポーランドを二分割してドイツと陣取り合戦をしていたのに、ドイツが敗退すると「ナチス・ドイツからポーランドを解放した」として、ソ連の支配下に置いてしまったのだ。

 恨み重なる歴史の上にカチンの森事件、その追悼式典に参加する大統領を先頭にした訪問団の搭乗機がカチンの森近くで墜落したのだから、ポーランド人の反ロシア度は一気に上昇しているはずだ。大統領・政府要人(大統領は独裁的で支持率が下がっていたというが)のほか、カチンの森犠牲者の遺族も多数乗っていたという。
 何百年もの長きにわたってポーランドを支配したり分割したり、その上ソ連の残虐行為をナチスのせいにし、そのナチスから救ってやったと半ば植民地にした揚げ句、カチンの森追悼式典に向かう大統領機を墜落させておいて(陰謀でなかったとしても)、いくら捜査に協力しようが、謝罪しようが、国葬に列席しようが、事故の日をロシア服喪の日に指定しようが、どうにも許せないのがポーランド国民の偽らざる心境ではなかろうか。

 一方ロシア人はロシア人で、ポーランド語をヘビ語として侮蔑する。ポーランド語に多い「シュー音」がヘビの這う音に似ているからだという。日本流にいえば「ポーランド人の前世はヘビ」だが、キリスト教徒にとってのヘビは特別な「悪魔」である。ヘビがイヴをだまして禁断の木の実を食べさせたせいで、人類はその後長らく罪を背負うことになったとされているからだ。

 ソ連とポーランドの関係修復に関する行動は、カチンの森事件から半世紀以上も経ったペレストロイカ以後にやっと始まる。それでもペレストロイカの立て役者であるゴルバチョフの関係修復声明は「奥歯にもののはさまったような、何だか両方とも悪いような」歯切れの悪いもので、相変わらずの「ソ連・ロシア体質」を見せつけて悪評だったそうだ。
 ペレストロイカの後、ソ連を解体し、ロシアの大統領になったエリツィン(故人、2007年死去)は1993年にポーランドを訪れ、ソ連の罪を認めて謝罪したと言われている。追悼式典での口頭による謝罪と思われるが、「共産主義者のやったこと」、としたところがいかにもソ連的である。この謝罪をそのまま受け入れるポーランド人はいないと思うが、エリツィンは罪を認めたのではない。共産主義になすりつけただけである。それでも「謝罪」をしたことで表面上はカタがついたことになっている。そう言えば彼は日本に来たときもシベリア抑留のことを「全体主義者のやったこと」と謝罪した。

 そのエリツィン自らはウラル地方スベルドロフスク州(現エカテリンブルク州)の共産党第一書記をつとめ、その後モスクワに乗り込んで、ソ連と共産主義を解体し、ロシアの大統領にまで上り詰めた、そのほんの少し前まで共産党の大物幹部で、全体主義の真ん中にいた人物である。

 事件関連報道でこんなものもあった。
「(ロシア政府主催の)7日の追悼式典で、プーチン氏が『スターリン体制の犯罪はどんな形でも正当化できない。(ソ連の)数十年間、カチンの銃殺についての真実をけがそうとするうそが続いてきた』と述べ、慰霊碑に一礼したことも底流にあった。」(4月18日付け 朝日新聞)
 スターリンからエリツィンに受け継がれたソ連的思考回路を今に伝える発言といえる。
 飛行機墜落の大事故に無関心を装っている西側諸国は、「きのうの敵は今日の友」とやらで、かつては「究極の敵」だったが現在は改宗したソ連時代の共産主義者たちの無二の友となっている。同志だったはずの元反体制活動家(たとえば故カチンスキ)よりも役に立つからだろう。なにしろロシアはエネルギー資源を握っている。

 ところで旧西側諸国は、数年後あるいは数十年後に後世の国家元首が「プーチン体制の犯罪はどんな形でも正当化できない。(ロシアの)数十年間、チェチェン戦争についての真実を汚そうとするウソが続いてきた」と発言したらどうするだろう?連合軍(旧西側諸国の主要国)は戦勝国に有利なように「カチンの森はナチス・ドイツの残虐行為」、とソ連に同調し真実を汚してきた。チェチェン戦争を黙認してきたことをどう言い逃れる気でプーチン発言を聞いたのだろう?(川上なつ)

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2010年5月29日 (土)

鎌田慧の現代を斬る/第143回 ゾンビのごとく復活した辺野古案の裏に新軍港!

 普天間飛行場問題の決着とは、結局、米国のいいなりになることだった。日米両政府の共同声明では移設先を辺野古崎周辺、とした。最悪の選択だ。「日米合意」といいながら、閣内でも国内でも、なんら合意されていない。米政府に押し切られただけだ。
 この問題は、辺野古での建設がムリという認識からスタートし、首相のしめした基本方針は「最低でも県外」だった。ところが政権発足から8ヵ月間、各候補地を浮遊したあげくにブーメランのように、あるいはゾンビのように辺野古周辺に戻ってきたのである。それも反対している、連立三党の社民党党首を閣内追放する粛清である。

 そもそも辺野古への移設は、これまでも指摘してきた通り「移設」ではなく、新基地の建設であり増強である。その本質が沖縄県民に周知事実となった現在、もはや新基地は1センチたりともいらないというのが沖縄県民のホンネである。
 辺野古に「移設」するといわれてから、すでに13年がたった。しかし住民の強い抵抗により杭一本打てないでいる。また年々高まる環境意識も、ジュゴンのエサ場である同地への建設阻止を後押しした。

 こうした状況をわかってうえで、県外移設を主張して成立した鳩山内閣が、こともあろうに辺野古計画に舞い戻ろうとしているのは愚策であり、裏切りだ。しかし、その実現性はかなり困難だ。4月25日の9万人県民大会と普天間包囲人間の鎖の熱気を受けて、辺野古への移設反対闘争は、いままでよりもさらに激しくなることが予想されている。それを強行突破する大義名分は、もはや政府にない。
 前回でも書いた通り、沖縄に海兵隊を置く戦略的な理由はない。戦地から火薬まみれで帰ってきた兵士たちの慰安の場所というのが、沖縄の実情である。
 09年11月15日の『琉球新報』では、98年3月の日米非公式協議で、当時の国防次官補代理だったキャンベル氏が「沖縄以外にそのような場所があれば、われわれは瞬時に移駐を決断するであろう」と海兵隊の移設について語った、と報じている。

 これは沖縄の海兵隊に人数からもみてもあきらかなことだ。すでに海兵隊のグアムへの移設準備は進んでいる。日本政府は総額で7000億円のカネを支払うことを決定しているし、2009年度の予算では370億円がグアム島の施設建設費として計上された。最終的には海兵隊員8000人と、その家族9000人が移転することになっている。2008年の米国側の報告によれば、グアム移転後に沖縄に残る海兵隊は、わずか1800人でしかない。上陸部隊である1800人の海兵隊が、首相の語った「抑止力」にならないことはあきらかだ。

 それでも米国が辺野古に固執しているのには、辺野古北にある東村の高江地区に、ヘリコプターが離着陸する円形のヘリパッドが建設され、そこでの訓練がおこなわれようとしているからだ。これにたいする住民の反対運動もますます強まっている。

 鳩山首相と米軍と閣内の米政府との密通者、そして米政府のチョーチン持ちマスコミ人による米政府屈服政策は、沖縄にむけた行軍の開始として、沖縄の人たちに受け止められるだろう。5月4日に鳩山首相と会談した稲嶺進名護市長は、「こんなに小さな島に、これ以上の基地ができるというのは限度を超えている。ここに新しい基地をもってくるということになると、沖縄にたいする一つの差別ではないか」と語っている。2度目の会談では「裏切り」といった。地方自治体の首長が、首相にむかって「差別」、「裏切り」というむきだしの言葉を使うなど、よほどのことである。
 また稲嶺市長は長く市の職員を務めていたこともあり、わたしの取材に対しても言葉遣いが慎重な人物であった。それでも「差別」「裏切り」といわざるを得なかったところに沖縄の基地問題の本質がある。戦前・戦後の日本政府の沖縄にたいする歴史が、首相との会談で噴出したといえる。

 戦争中は本土防衛の防波堤として最前線となり、敗戦直後は天皇制維持のために72年まで米国軍政下におかれ、そのあとのようやくの「本土復帰」のあとは、日本の基地の75%を引き受けさせられ、日本政府公認で核兵器まで置かれていた。朝鮮戦争をきっかけとしてはじまった日本の繁栄は、沖縄の犠牲のもとに成り立っていたのである。
 そして今度は、普天間基地返還を名目に、辺野古にまったく新しい巨大な基地をつくろうとしている。辺野古の航空基地は、大浦湾の深い海を使っての巨大軍港建設とセットも構想されている、との噂も絶えない。しかも、この基地は米軍と自衛隊の併用まで検討されている。
 先述した日米非公式協議で、キャンベル国防次官補代理は、「日本政府が、沖縄以外で海兵隊のプレゼンスを支える基盤を米側に提供することが政治的に不可能だ、ということだろう」とも指摘した。日本政府が沖縄に犠牲を押しつけていることを、米政府から指摘された格好である。

 自公政権は、すべてごもっともと米国の軍事的要求を呑みつづけてきた。その弱腰を見透かされて米国が恫喝してきたし、日本の新聞社や評論家も米国を怒らすなとキャンペーンを張ってきた。政権交代を機に、その屈辱から脱却すべきだったのだ。
 沖縄基地問題の根本は日米安保条約にある。日米安保も締結から50年もたったのだから、日本が要求して米軍の駐留を解消すべき方向に動きだすべきだし、そうした要求を掲げる運動を全国的に展開する必要がある。(談)

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2010年5月28日 (金)

ロシアの横暴/第39回 ポーランド大統領の死に「暗殺説」がつきまとう理由(2)

 一方、情報提供収集とも無制限な世界であるインターネット上には反ロシアあり、親ロシアあり、種々雑多の情報が飛び交っている。
 日本の報道ではほとんどふれられていないのが、事故機が着陸しようとして墜落したのはスモレンスク空港ではなく、近くの軍用飛行場だったという点である。ここから次のような憶測が飛び出した。
【管制官のロシア語原因説】
 軍用飛行場はロシア軍専用であるからして、管制官がロシア語しか使わず(使えず)、パイロットはロシア語がわからず墜落に至った。いわく、管制官はロシア軍専用だからロシア語で指示を出すのだそうだ。しかしたとえ軍用飛行場でも管制は英語だし、大統領機(ソ連製ツポレフ)のパイロットがロシア語をできないはずはない。

 パイロットが強行着陸をした、という日本での報道を「なるほど」と思わせる意見があった。
【大統領傲慢説】
 パイロットが強行着陸せざるを得なかったのはカチンスキ大統領が頑固で傲慢なので逆らえなかったからだ。大統領機のパイロットは管制官よりも大統領の命令に従わなければならない。
 これはなかなか説得力がある。大統領は社会主義政権下で反体制運動をやって秘密警察に弾圧された経緯があり、その敵討ちか、今度は当時秘密警察に協力したと思われる人物を審査する「非共産化法」なるものを制定した。やり方が独裁者的でスターリンによく似ている。

 ほかにふざけているわけでもないだろうが、こんな話もある。
【携帯電話原因説】
 携帯電話による機器エラー。事故直前に大統領夫人の付き人と電話で交信したという人の証言である。
 旧ソ連傘下にある国はどこも航空機内の携帯電話に鷹揚である。離着陸前には必ず「携帯電話の電源はお切り下さい」というアナウンスが入るが、日本の電車の乗客と同じく平気の平左である。「もうすぐ離陸するから」とか、「ちゃんと出迎えに来てね」といった会話があちこちから聞こえてくるが乗務員は気にも留めない。
 しかしだからといって携帯電話によるエラーで墜落に至った、とは考えにくい。これらの国のパイロットは機内での携帯使用に慣れきっているし、旧型ソ連製飛行機は機器も旧型で、携帯電話の影響を受けにくいからだ。

 インターネット上で飛び交うどうみても憶測の情報は「やっぱりテロか暗殺のにおいがする」ことで大体一致している。まるで日本のワイドショーみたいに、「管制に詳しい退役軍人の証言」だとか「現役管制官の匿名コメント」など、あとからあとから並べ立てる。

 その陰謀説として主なものは次の2つ。
【ウソの天候不良説】
スモレンスクに霧などなかった。あったとしても着陸不能なほどのことはない。大体この霧とやらは人工霧だ。
【反大統領主犯説】
 ポーランド反大統領派が仕組んだ事故だ。その証拠に大統領と仲の悪い親ロシア派首相は乗っていない。カチンの森追悼式典に首相が参加しないはずはない。たしかに首相は4月7日のロシア政府主催の追悼式典に出席済みだが、肝心の大統領はこの式典に出席を希望していたにもかかわらず呼ばれなかった。そこでカチンスキ大統領主導で独自の式典を計画し、事故に遭った。式典そのものがロシアへのあてこすりと見られていた。
 故にこの事故は首相派が仕組んだ暗殺計画である。

 果てはロシアのプーチン首相とポーランドのトゥスク首相はとても仲良しだというので、両国の首相が共同で企てた暗殺だという説まで出てきた。(カチンスキ、プーチン、トゥスクともに反共で一致しているのに、カチンスキだけが強烈な反ロシアである)
 これらの記事を読んでいくとバカバカしい、と思いながらも結構「そうかも知れない」という気になってくる。(川上なつ) 

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2010年5月27日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第35回 米国からカネをもらうタリバン!(2)

 現地のバフタル・ニュース・エージェンシーのムスタファ・アブリー氏に話を聞いた。バフタルはアフガニスタンの新聞4紙に記事を配信し、全ての州に支局を置いている。ムスタファ氏は主に政治関連を扱っている記者だ。
 現地の情報省のオフィスでムスタファ氏に会い、話を聞いた。彼は「俺はジャーナリストとして、真実を話す。外国人は誰も知らないことだぜ」と得意げに話す。
「君はタリバンのことを知りたい。それならバックグラウンドをよく知らなければならない。タリバンをコントロールしているのは実はアメリカだ」
 この手の話は以前カブールの高校で生徒たちから聞いた。まさか現役の記者から出てくるとは思わなかった。
「タリバンには2つのグループがある。一つは宗教的なグループだ。外国人を殺せば天国に行けると信じている連中。もう一つはアメリカから金をもらって戦っている連中だ。後者の方が8割だ」

 どうしてアメリカがタリバンを雇わなければならないのだろう?
「アメリカはアフガニスタンに駐留する大義名分が欲しんだよ。戦いが無ければ駐留する理由がなくなるだろう。だから、アメリカはタリバンを使って問題を起こさせているんだよ」
 だけど、どうしてそこまでするのだろう?
「アメリカはイランへの攻撃を考えている。その橋頭堡にしたいのさ。オバマは嘘つきだ。奴は軍を撤退させると言いながら、部隊を増派した。第一、タリバンを創設したのはパキスタンの諜報機関だ。その諜報機関に金を出していたのはイギリスとアメリカだ。全部アメリカの仕組んだ通りだ」

 その考え方は君たち記者の間では一般的なんだろうか?
「教育を受けた人間ならみんなそう思っている。アフガン政府の役人だってそうだ。アメリカもタリバンも同じ穴のむじなだ」
 試しにその辺の人間を捕まえて、同じ意見かと聞いてみた。みんなそうだと言う。自分の通訳にも尋ねてみる。彼はつい最近までUNDPで働いていた。彼も同じ意見だ。
 これまでの経験から言って、この手のアメリカ陰謀説は広くカブールで流布しているようだ。けれど、カブールの外では同じような意見を聞いたことが無い。地方に行けばそれに従いタリバンの影響力も増す。「タリバンはいい人たちだ」と話す人も少なくない。タリバンはカブール以外の地方で燃料や食料の配給など、社会事業もこなしている。カブールと違い、地方ではタリバンを含んだところで社会が構成されている。

 カブールは基本的に地方とは隔絶された、特殊な地域だ。海外から大量の援助資金が流れ込むため、基本的に海外とのやりとりで社会が回っている。だから英語教育も盛んだ。「いい生活がしたいなら英語を学べ」これが若い世代の合言葉だ。
 カブールの人間にとっては、自分たちの国に攻撃をしかけたアメリカも、たびたび市内で自爆攻撃をしかけるタリバンも同様に邪魔ものだ。アメリカがタリバンを支援している、という図式はカブール人にとって同時に二つの邪魔者を悪者にできる、一番痛快な流言なのだろう。

 もちろん、ムスタファ氏のアメリカ・タリバン陰謀説も完全に無いわけではないが、やはりとんでも説の一つだろう。驚いたのは現役の記者たちからその話が出てきたことだ。けれど、バフタルが記事を配信する英字新聞「カブール・タイムス」を読んでみてもその手の話には一切触れていない。紙面はとにかく淡々と物事を伝えている、という印象だ。
 Editorial(社説)も退屈すぎるくらいに無難にまとまっている。

 戦地では往々にしてあることだが、アフガニスタンでは本音と建前が上手に使い分けられる。もし、ムスタファ氏の話していたことが彼の本音で、新聞に書かれていることが建前だとしたら。そう考えると明るい未来予想図というのはなかなか見えてこない。
 ムスタファ氏には悪びれた様子はない。けれど、その分だけ不安ではあるのだけれど。(白川徹)

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2010年5月25日 (火)

大畑楽歩さん、今度は中日新聞にも

『三重苦楽』の著者、大畑楽歩さんが今度は中日新聞に登場!

“脳性まひのママ”である楽歩さんの自伝、各地で話題となっています!

2010年5月19日中日新聞

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2010年5月24日 (月)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第40回 終活を楽しもう

 「就活」になぞらえて作られた「婚活」という言葉があるが、「終活」という言葉も去年からみられるようになった。

 確かに、少しでも納得いく葬儀をするために数社から見積もりをとったり、「無宗教でやりたい」「葬式したくない」「遺書を残しておきたい」という希望を叶えるため奔走するのは、自分の適性にあった会社を探したり、条件のあう異性を求めたりすることになぞらえられるかもしれない。

 一生につながる落ち着き先を探し求めるものという解釈でも、結構しっくりくる。

(認知度はまだまだのようだけれど…)

そんな中、「終活」の認知度をぐっとアップさせてくれると考えられるイベントが、7月に大阪で開催される。

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イベント名  終活ファッションショー「わたしが最後に着たい服」

開催日時 2010年7月31日(土)開場13:00 開演13:30(終演16:00予定)

詳細:NPO法人 生と死を考え,将来設計を実現する会

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一般の方々に、「最後に着たい服」「最後にかけたい曲」を披露していただき、お世話になった人への手紙を朗読してもらうというのがその内容。

合同生前葬のような催しだ。

このショーを、参加している個人と何の関わりもない人が見て楽しいかどうかは別として、参加者には大きな満足感が残ると思う。

なにより、自分の死に装束を用意しているというのに生まれるであろう高揚感はなかなか味わえるものではない。

終活はこんな風に楽しくなくちゃ、せっかくなんだし、と思わせるような企画だ。

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2010年5月22日 (土)

ロシアの横暴/第38回 ポーランド大統領の死に「暗殺説」がつきまとう理由(1)

 ポーランド政府関係者が搭乗した大統領専用機がロシア西部スモレンスク空港付近で墜落し、全員が死亡したのは4月10日のことである。小国とはいえ、大統領機が墜落して、政府要人が多数死亡したのだから、世界的なニュースになるかと思っていたら、「天候不良(濃霧)のため管制官は他の空港に誘導したがパイロットがこれを無視して着陸を強行したのが原因」というヘッドラインニュースで終わってしまった。

 当事国のロシアとポーランドで大騒ぎになるのは当然だが、ポーランドと縁の深いはずのEUや米国あたりの反応はいたって静かなものである。ポーランドは数年前念願のEU入りを果たし、NATOにも加盟し、最近では米国のMD(ミサイル防衛)配備の話もあった。事故で死亡したカチンスキ大統領はEUにもMDにも難色を示していたといわれているが、それでもこの大事故に対する西ヨーロッパと米国の傍観者的な立場は不思議である。EUはギリシャ危機でそれどころじゃないといえばそれまでだが。
 その上何の因果か、ポーランド大統領国葬の日にはアイルランドの火山灰の影響でヨーロッパの飛行機は軒並み欠航となり、EU主要諸国の首脳はほとんど参列できなかった。
 日本での報道も静かなもので、事故の調査や究明よりもロシアの対応に焦点を当てているので事故に遭ったのはどっちの国かと聞き返したくなる。

 例えばロシア領内でポーランド大統領機を墜落させてしまったことにロシア政府がひどく気をつかっている、という記事がある。せっかくの両国の雪解けムードに水をさすことになりはしないかと心配しているというものだ。ロシアに入国する遺族関係者のビザをあっという間に出したとか、メドベージェフ自ら弔問に訪れたとか、プーチンが出棺を見送ったとか、たしかに「お詫び」とか「配慮」など一度もしたことがないソ連・ロシアにしてはびっくりするような対応である。なんと、ポーランド機の墜落事故なのにロシアの「服喪の日」に設定することまでやってのけた。
 その結果、ロシアがあまりにもよくやってくれるのでポーランド人も感激しているという記事を書いている新聞もあった。

「ポーランドでは『プーチン氏は首相としてではなく、ただの人間として振る舞った』との声も出た。現地紙は『逆説的だが、(事故は)ロシア、ポーランド両国をこれまでになく接近させる機会になった』との論評を掲載した」(4月15日 産経新聞)
「ロシア政府が遺族受け入れのために用意したモスクワ市内のホテルには、ポーランドから100人以上の関係者が到着した。両国の専門家は遺体の身元確認を合同で進めており、ポーランドのコパチ保健相は『ロシア側の専門家は熱心に作業を進めている。ロシア政府に感謝したい」と述べた。両国は事故原因の究明も合同で行う見通しだ』」(4月13日 産経新聞)

 日本の報道はこれらの情報をどこから仕入れたがわからないが、外国メディアのロシア領内での自由な取材はきびしく制限されている以上、ロシアの公式報道に頼らざるを得ないだろう。ロシア発の報道に拾われることのないポーランド庶民の感情とはかけ離れているのではなかろうか。(川上なつ) 

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2010年5月21日 (金)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/番外編:急募!「あったらいいな、こんなお葬式」

「あったらいいな、こんなお葬式」アイディア大募集!

 例えば、「死後、宇宙に行きたい」
 こんな、以前なら絵空事だった願いも、今は叶います。
 遺灰をロケットに入れて打ち上げてくれるサービスがあるんです。
 しかも100万円で。
 宇宙に夢を追った人なら、きっと安いと思いますよね。

 例えば、「透明の棺に収まって、白雪姫のように眠りたい」
 かなうかなう、こんなお葬式も。
 透明棺を取り扱っている会社があります。
 もっと白雪姫感を出したいということなら、通夜室や葬儀場をガーデンのように演出することも可能です。

 こんなに自由なのに、いつものように住職呼んでいつものように香典返しはお茶にして、全部葬儀社におまかせにしたのに費用が高いと愚痴るのは、もう終わりにしませんか?

 あなたなりの、自由な発想で、「こんな葬式、あったらいいな」を考えてみてください。
 いいアイディアがあれば、その内容で真剣にお見積もり、させていただきます。

●募集要項●
内容:1000字程度で希望する葬式の青写真を描いてみてください。
形式:テキストもしくはWORD
送付場所:astra0911●gmail.com(●を@に変えてください)
〆切:2010年6月10日

さあ、あなたも「お葬式」に、ワクワクしてみませんか。

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2010年5月20日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第34回 米国からカネをもらうタリバン!(1)

 ジャーナリストの常岡浩介さんがアフガニスタンで行方を断ってからもう1ヵ月以上になる。行方不明の方が入ってから数日はテレビや新聞が様々な情報を乱発していたが(正直、見切り発車的な、お粗末なものもあった)、事件発生2週間を過ぎると続報が完全に途絶えてしまった。
 ためしにGoogleニュースを日付順にたどっていくと、やはり事件後きっちり2週間で常岡さん関連の報道が無くなっている。メディアというのは「起こったこと」に関しては熱が入るが、概して「起きていること」については興味が無い。ニュース価値(=記事で儲かるお金)が無くなれば、もう報道する意味が無いのだろう。
 当然と言えば当然なのだけれど、やっぱりニュースを追いかけている一人としては気持ちが悪い。

「高度資本主義社会。それが嫌なら、バグラディッシュなりソマリアなりに行けばいい」
 村上春樹ならそんな風にシニカルに答えそうだけれど、事件発生後は洪水の様に流れてくるニュース記事からどれが信頼に値するかを頭ひねって選んでいたのに、今は完全に水脈が枯れてしまったようだ。それとも誰かが堰でも作ったか。
 僕も事件についての推測ぐらいあるのだけれど、やっぱり憶測でものを言いたくない。ただ、無事を祈るのみだ。

 僕は今カブールにいる。前回の大統領取材からもう半年以上たっている。久しぶりに来たカブールではいろんなことが変わっていた。
 特に大きなトピックが無いからだろうか、以前はジャーナリストで溢れていたホテルが火の消えたように静まりかえっている。たくさんの新しいビルが建って、警察の数が増えた。警察と市民の数、どっちが多いのだろう、と数えてしまう。僕の友達が役所の仕事をクビになった。上司から不正を持ちかけられて、断ったからだ。
 タリバンは相変わらず元気だ。「今日から大攻勢を始める」とスポークスマンが気勢をあげる。政府は「単なる脅しだ」と反論する。攻撃が起きる。人が死ぬ。これだけは変わらない。
 タリバンにもいろいろグループがある。先日、クンドゥースの女学校に異物が投げ込まれ、異臭騒ぎとなった。タリバンは女性の教育に反対しているため、それに対する抗議だ。あるタリバンのスポークスマンは関与を否定した。けれど、別のスポークスマンは「欧米の洗脳機関に天誅を加えた」と話す。何がなんだか分からない。(白川徹)

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2010年5月18日 (火)

“ラブ祭”に参加して

 ここにきて報道ラッシュが続き、毎日楽歩さんがブログに登場していますが、本日、楽歩さんで更新したら、「ラブ・ラブ・ラブ」に!
 というわけで、本日も楽歩さんです。

Photo_2  この写真は写真展のときのもの。楽歩さんを取材する京都放送の遠藤アナウンサーに横目で見とれる、いやらしい私の姿を撮られたものでございます、はい。

 はやいもので写真展から1ヵ月以上が経過しました。あの日、私が確認したのは、楽歩さんとその友人の絆の強さでした。利害関係のない人たちがドッと集まり、どんどん写真展の準備が進んでいくのです。それはボランティアというお祭りのようでした。たぶん「ラブ祭」と呼んでも、誰からもクレームが出ないでしょう。
 みんなでワイワイやるのが楽しくて、楽歩さんと遊ぶのが嬉しくて、なんだかみんな集まっちゃったという感じなのでした。
 もちろん写真展が始まってからも、「楽歩ちゃん、会いに来たわー」という声がひっきりになしにかかるのです。私なんか死んでも、これほどの人を集めることができないでしょう。
「宗教法人でも作って教祖様になったら儲かりますよ」
 と楽歩さんに声をかけたら、
「そうやねー」
 と本人も笑っていましたが(笑)

 数日間、ラブ祭に参加して、彼女の生きる力のようなものを感じたのでした。(大畑)

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2010年5月17日 (月)

東京新聞に大畑楽歩さん掲載

またまた『三重苦楽』の著者、大畑楽歩さんが新聞にて紹介されました!

2010年5月16日東京新聞↓

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2010年5月16日 (日)

大畑楽歩さん、毎日新聞京都版に掲載

『三重苦楽』の著者、大畑楽歩さんが、新聞で紹介されました!

2010年5月15日毎日新聞京都版↓

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2010年5月15日 (土)

Brendaがゆく!/上流階級の精神

あんまりなんか好きな言葉じゃないですけど上流階級とかって。。。

医者とか弁護士とか(本物の)ピアニストとか資産家の世界のお話です。

フランスでこれらの階級のお付き合いがあったとしても、自分が少々反社会的と言うか常識から逸脱した行動をしたり、またそのような恋愛関係にあっても、結構堂々と公言できます。

日本のお友達は・・・
海外のことは別世界と思っているので、医者でもなんでも、私の話をあんぐり聞いている場合が多いと思う。。。
ので話したければ話せます。

がしかし、最近困ったことが
ポーランドの上流階級。すごく過ごしやすいですが。
住んでいる時に気がつかなかったほどにとにかく保守的。

私も日本人型で保守的なので住んでいる時は充分それで過ごしやすかったのですが、なかなかフランスでの生活の本当のところを話せない時が最近あります。

別に、本当のところって、たいした内容ではないのだけれど、
でも、とにかく言えない何かがある。

いい例が、サルコジとカーラ。

ポーランドであんな二人は絶対に国の代表になることは有り得ないでしょう。

むしろあの私生活を公表したらポーランドだったら政治家の端くれさえなれないでしょう。

ニコラとカーラほどじゃありませんが、最近私もフランス流になってきてしまって。
そんなことで悩むことも多い日々です。

ポーランドの友達に対して2重の顔を持つなんてなんか心苦しい。。。

でも、私の本当の精神ってやっぱりフランス流なところがかなりあるのです・・・。

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2010年5月14日 (金)

シンポジューム「どうした!民主党政権」ゲスト:竹村正義氏、山口二郎氏

マスコミ市民フォーラム主催のシンポジュームが、来る5月28日に開催されます。

政権交代後、1秒も目が離せない日本の政治について

豪華ゲスト・武村正義、山口二郎両氏が語ります。

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マスコミ市民フォーラム 春季公開 シンポジューム

政権交代から8ヵ月

5.28   どうした!  民主党政権

Takemura_2  武村 正義 さん (元新党さきがけ代表・元官房長官)
「連立政権の経験から、民主党政権をどう見るか」

 細川連立政権、「自・社・さ」政権、それぞれを通して内閣の中心的な役割を果たしてこられた武村正義さんから、現在の民主党(連立)政権の政権運営や政策を分析していただきます。また政治のあるべき姿、民主党の進むべき道についても、アドバイスしていただけると思います。豊富な政治経験から湧き出る有意義なお話の中から、参議院選挙以降の政界の動きも展望できるはずです。どうぞご期待ください。
      

Yamaguchi_2  山口  二郎   さん (北海道大学大学院教授)
「民主党政権は立ち直れるか!?」

 山口二郎さんは、民主党が野党であった時代から、民主党のよきアドバイザーとして政権獲得のために積極的に発言してこられました。思想や理念をもった国家像・「国のかたち」を明確にしたマニフェストを示すべきだと訴えられています。政権を獲得してからの民主党には不十分な気持ちも抱いているようです。私たちが政権交代で期待した原点に、民主党は返れるのでしょうか。辛口で建設的な山口さんのご指摘が伺えることと思います。

と き 5月28日(金)
じかん 午後6時30分 から 8時30分
ところ 渋谷区立 千駄ヶ谷区民会館
(JR原宿駅竹下口 地下鉄明治神宮前駅 下車 徒歩7分)

資料代   500円

● 主催 NPO法人 マスコミ市民フォーラム
● お問い合わせ  03-3497-8333  masukomi-shimin@nifty.com

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2010年5月13日 (木)

靖国神社/35回 花より団子の桜見物。〈2008年3月取材〉

 靖国の春の風物詩といえば、桜。
 これまで桜については2回書いたが、どちらの記事も標準木のことで、実際にシーズン中の桜のレポートは書いていない。
 桜の下で再会を誓い合っているのに、その再会の場を訪ねていないのはさすがにマズくはないがよくない。何年も靖国へ行き、秋はイチョウ並木(参道)を歩き、梅雨はアジサイ。冬は甘酒を飲みながら葉が落ちきった木々を愛でてみたり、新緑のころにはマイナスイオンを浴びてみたり。とにかく年がら年中、何かしらを見て感じているわけだ。
 見に行っていないわけではない。タイミング悪く雨が降って散った後だったり、日本にいなかったりと、簡単にいうと見逃していたということだ。
 今年は編集部に同年代の女の子が入ったので、親睦会がてら花見へ行ってきた。

 午後2時過ぎ。東京メトロ東西線の飯田橋で待ち合わせをし九段下駅へ。
 何もない週末の九段下駅はガラガラにもかかわらず大勢の人、人、人。「人がゴミのようだ」とつぶやきたくなってしまいたくなるような状況。千鳥ヶ淵、北の丸公園へ向かう出口には規制がかかっていた。私たちは反対側の出口から出たがそれでも多い。九段坂も人でいっぱい。酔いそうだ。
 人の波にのまれながら北の丸公園のほうへ目をやると桜が満開で、久しぶりに見た日本の春の風物詩に胸がいっぱいになりなんとなく日本人でよかったと思った。
 はかなさとつやめきが同居した花は桜を置いて他にはないと断言してもいいと、熱く語れてしまうほど桜は美しいのだが、その木の下で行われる花見もまた熱い。

 千代田区さくらまつりの会期中で参道脇に露店がひしめきあっている。
  「あれ食べたいね、これ食べたいね」とよそ見をしながら人をかき分け進むが、お好み焼き、いか焼き、たこ焼き、じゃがバター、クレープ、かき氷と、食欲を刺激する店ばかり。どうして祭で食べるお好み焼きっておいしいのだろうか。露店七不思議の一つである。
 花より団子で食べ物ばかりに目がいってしまっていたが、それもこれも桜の印象が少ないからだ。でもそれは仕方がない。なぜなら参道ではなく境内に桜が集中しているから。
 大村益次郎像を越えて売店へ向かう間は、桜よりもイチョウの木が増えはじめお花見をするには少しさみしくなる。それでもシートに座って飲食をしている人たちばかりだったが……。

 食べ物の誘惑を振り切って参道を進み、神門を抜け境内にはいるとやはり人だらけ。能楽堂では奉納芸能が行われていて、例大祭やみたままつりを思い出した。そういえば昨年は寒空の下、夜桜能を鑑賞したことを思い出した。暖冬で例年よりも早く桜が開花していたはず。日本に帰国して間もない頃だ。
 あれから1年。時が経つのは早い……と感慨にふけりながら神池庭園の方へ。
 普段は用事がない限り靖国の深部へ行くことはないが、風情ある景色と桜が、これ以上はないというくらい「日本の美しさ」を教えてくれた。たまにはいいことするじゃないか、靖国神社。
 いつ来ても「ここは神社なのか?」と思わせてくれる庭園も、この時期は5割増し。なぜかここへ来ると、英霊のことも靖国問題のことも忘れてしまう。忘れてはいけないのだけれど、後ろを振り返って遊就館や本殿を見なければ、本当にどこかの○○離宮や○○庭園に来たような錯覚に陥る。

 ここだけ違う時間が流れていて、仕事で疲れたときや心を落ち着かせたいときは、池の前にあるベンチに座ったり、自動販売機で鯉のエサ(100円)を買ってまいたりするといい気分転換になる。以前、別の編集部員とエサをまきながら語らいあったことをなぜか思い出した。
 神池で写真撮影した後、裏側に回ってみた。今は緑もなく寂しい通りだが、梅雨時期は土のにおいと緑のにおいが混じり合ってこれはこれで風情がある。梅雨時の取材で見たアジサイが美しかったのを今でもハッキリと思い出せるので、ここは5月以降に来ることがおすすめだ。

 さて、一通り見物も終わったところで感想を聞いてみた。
  「とにかく溢れる人、人、人。人を見に来たんじゃない、桜を見に来たんだと自分に言い聞かせるも、キテレツな格好をしたコスプレイヤーたちはどうしても目に入ってくる。これが日本の春なのか」。
 帰り道、念願のお買い物。山形名物の玉こんにゃくを2人で分け合いながら食べ歩き、お好み焼きとじゃがバターを買って帰った。そのあと、秋葉原へ遊びに行ったのはここだけの秘密だ。(奥津裕美)

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2010年5月11日 (火)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第74回 マグロ船で世界の海を駆けた/津田さん(67歳)

 生まれは宮城県の仙台です。オヤジはマグロ漁船の漁船員でしたが、のちに船を下りて松島湾で海苔の養殖を始めました。うちのオヤジが松島湾で始めた最初になります。元祖ですね。そのあとカキの養殖にも手を広げていました。商才のようなものに長けた人でしたね。
 だから家は裕福でしたよ。周りの子どもたちがツギの当たったものを着ているときに、うちは7人兄弟でしたが、誰一人ツギの当たったものは着ていませんでした。砂糖が不足した時代でも、周りはズルチンを代用してましたが、うちはちゃんとした砂糖を使っていましたからね。
 テレビが入ったのも町内で一番早かったですよ。毎日夕方になると近所の子どもたちが集まって、いや、近所ばかりでなく遠くからも見にくる子がいて、多いときには100人くらいの子が庭をビッシリと埋めましたからね。

 私も高校を出るとマグロ船に乗りました。一人の兄がやはりマグロ船に乗っていて、その兄と同じ地元の船に乗るのがいやで、私は三崎港(神奈川県)の船に乗りました。乗員35人、350トンの船です。
 マグロ漁はインド洋と西大西洋が主な漁場でした。でも、マグロさえいればどこにでも行って操業しましたね。一度三崎を出航すると、2年間は帰れませんでした。
 マグロ漁ははえ縄といいましてね、長い幹綱に幾本もの枝綱がついて、その先の釣り針に餌のイカをつけて漁をします。早朝海に縄を入れて、1日中流して夕方から縄を捲くんです。捲き終わるまでに 17~8時間かかる。この間釣れたマグロを船に取り込んで冷凍処理をするんで、船の中は戦場のようでした。
 とくにインド洋はいつも台風並みの大波の中での作業で、マグロも大きいのになると 400キロを超えますからね。波荒い船上でそんなのと格闘するんですから、豪快な男の仕事でした。だから漁船員には気の荒いのが多くて、ケンカもしょっちゅうでしたね。

 漁の途中で数ヵ月に一度、水や食料の補給のために船が港に入ります。その3~4日間は漁船員にも休みが与えられ、みんなで町に繰り出します。たいがいは女郎屋に登って、船が出航するまで泊りで居続けたもんです。私もそうでした。漁船員は稼ぎがよかったから、遊び方も豪快でしたね。だから漁船員が遊んだあとに行く商船の乗組員たちは辛かったそうですよ。
 イタリアの地中海に面した港町があって、ジャッキーという町だったか……そこの女郎に惚れられましてね。結婚してくれといって、私から離れようとしないんです。それで25歳のときに結婚しました。ちゃんと教会に行って、牧師さんをたのんでね。
 彼女はそのまま女郎を続けて、私が年に1回くらい女郎屋を訪ねて、3~4日逗留するだけの変わった夫婦ですけどね。それで2年後には女の子が生まれ、私もイタリアで所帯を持つことを本気で考えました。で、船がその町に寄港したとき、そのまま私を下ろしてくれないかと船長にたのんでみたんです。でも、「そうしたいんだったら、一旦日本に帰ってから自費で来るようにしろ」と船長は許してくれませんでした。それで日本に帰ってみると、何だか熱が冷めてしまって、そのままになってしまいました。

 30歳をすぎて、こんどは日本でちゃんとした所帯を持ちます。見合いで結婚して、三崎に土地と家を買って住み、女の子が2人できました。
 ただ、この女房が気の荒い女でしてね。それにカネの亡者でした。女だてらにヤクザの賭場に出入りして、博奕に狂って借金まみれになっていったんです。私がそれを知ったのは、だいぶあとになってからです。何しろ一度漁に出ると2年間帰れませんから、私が留守のあいだに女房はそんなふうになっていたんですね。
 女房のほうにも言い分はあろうかと思います。2年間も放っておかれては、身が持たないとかね。それに漁船員は稼ぎがよくて、私もいいときは年間1000~1500万円くらいは稼ぎましたから、女房の金銭感覚がマヒしてしまったのかもしれません。
 ただね。45歳のときだったか、漁を終えて2年ぶりに帰ってみると、家がなくなっているんです。女房のしわざです。博奕の形に取られたのか、借金の形に売り払ってしまったかでしょうね。家は取り壊されて、更地になってました。それに女房は預金から有りガネまで全部持って逃げていました。30年近くマグロ船に乗って稼いできた財産が、一瞬のうちにスッカラカンですからね。そのときの気持ちは言い表わしようがないですよ。
 そのあと、もう一航海漁に出ましたが、仕事に身が入りませんでね。それで船は下りました。それからはほとんどブラブラして暮らすようになりました。ヤクザの使い走りをやったり、トビや日雇いで働いたりね。そのうち気がついたらホームレスになっていました。いつの間にかですね。

 やっぱり、あの女房に全財産を持ち逃げされたところで、私の人生は狂いましたね。いまでも女房に出会ったら殺してやろうと思っていますよ。でも、どこに逃げたのか、その後の消息はさっぱり聞きません。ホントに殺してやりたいくらいに恨み骨髄です。
 私の写真を撮りたい? 困るなあ。写真だけは勘弁してほしいな……(しばらく考えてから)いや、撮って。正面からドーンと撮ってください。私は世間様に背を向けなきゃならんことは何もしてません。正面から大きく撮ってくれてかまわないですよ。(2003年2月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年5月10日 (月)

読売新聞に大畑楽歩さん掲載

『三重苦楽』の著者、大畑楽歩さんが読売新聞に掲載されました!

2010年5月9日 京都版↓

ここから→ダウンロード

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2010年5月 9日 (日)

靖国神社/34回 You! 偕行文庫に行っちゃいなよ!(2)〈2008年2月取材〉

 とりあえず雑誌を元に戻し、後にある本棚を物色。気になる本を見つけた。『日本陸海軍事典』(新人物往来社)。上下巻に別れていて、上巻は「一、制度・組織、二、軍事用語(軍隊生活用語)、三、兵器(制式呼称)」、下巻は「四、戦争・事変・事件、五、人物  付録・付表」という構成になっている。
 この中で面白かったのが、三の生活用語だ。皇軍や行軍、検閲、軍令、突撃、屯田兵などの意味が詳しく書かれているが、その中で思わず笑ってしまった用語を紹介したい。
  「精神棒」……海軍で初年兵や下級兵に私的制裁をするときに使う長い棒のこと。私的制裁は建前上は禁止されていたので表には出せない専用備品で、「軍人精神注入棒」の略。
 なんという猪木イズム。叩くときは、「両足を開き、両手をあげ、歯を食いしばって、尻を出す」そうで、実際にその格好をしてみたが変な格好だった。
  「突撃一番」……兵隊が娼婦を買うときに使うコンドームの商品名。民間市販品は別名だから専用の軍用品で、「健兵対策」のうちの性病予防のために使用された。海軍では、“ゴムかぶと”と呼ばれた。

 どうやら軍隊には若者が多く、性エネルギーの抑止が不可能だったため、携帯と使用を義務化させたそうだ。ちなみに、娼婦を買うことよりも、行為の時に突撃一番を使わないほうが問題で、その時は叱責される。たぶん、「貴様はどうして突撃一番を使わなかったのだ!」と言われてたんだろうな……。恥ずかしいな。
 軍隊でのことに思いをはせながらせっかくなので、閲覧請求をしてみることにした。
 目録を見て気になった本をピックアップし数冊借りたが、ラフカディオ・ハーンの『神國日本』(第一書房・戦時體製版)の奥付を見て驚いたことがあった。現在の奥付とは大違いで、まず印刷日が書いてあり、次に発行日。さらに、初刷の発行部数まで書いてある(これは2万部刷られたそうだ)。

 印刷日や値段が書いてあるのは特に問題ないが、発行部数が明記されているのがすごい。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)くらいの有名人ならいいかもしれないが、売れてない作家の場合はキツイだろう。初刷二千部とか。想像するだけで吐きそうだ。
 貴重本などは国会図書館や近くの図書館へ行けば読めるが、所蔵本の種類が限られていて、蔵書数もそんなに多くないので探すのも楽。空いているときに行けば、古本屋で何万円もする本を無料で読むことができる。今後は、参考資料を探しにまめに利用することにした。

 最後に、アストラの本をパソコンで検索したら2冊ヒット。一冊は、『8月15日からの戦争』(今冨昭著)。もう一冊は、私の『誰も知らない靖国神社』。靖国に置かれているのが意外だったので早速請求した。表紙をめくったら、「購入」とあったのでなんとなく嬉しかった。どうせなら雑誌コーナーにある他の靖国ガイドブックと一緒に置いて欲しいものだ。(奥津裕美)

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2010年5月 8日 (土)

Brendaがゆく!/泣いてる子供を食事のため放置

私の知っているだけの世界

フランス人、ポーランド人、日本人

知らない世界のことは書けない。
そのかわり、一人が国を代表するかと言えばそういう訳でもない。

しかし、やはりポーランド人と日本人の子育て感は、フランス人と比べればまったく同じようなものと言っても過言ではない。

その違いは分娩時から始まっている訳だが。

あるとき知り合いの産まれたばかりの新生児がか細い声を張り上げて泣いていた。
知り合いは食事をしていて、新生児が泣いていても一向に見に行く様子もない。
私はよほどお腹がすいているのだと思って、そっと子供が眠る部屋に行って子供を抱いた。
でも、余計なことをして嫌みになるのも・・・と思ったので、密かにそれをした。
私は赤ちゃん語がわかるのかしらないが、その泣き方は「さみしいよ~」と叫ぶような悲痛な声で
どういうのが普通の感覚かも私は母親になったことがないのでわからないが
普通の感覚では放っとけないように思う。

私が抱き上げると赤子は安心したように泣き止んだ。
あ~やっぱり寂しかったんだなと思った。
最近、周りの友達の赤子と接することもあり(ポーランド人と日本人の赤子)
私も見よう見まねで覚えたこともある。

ポーランド人と日本人の友人で赤子がギャー泣きしているのを
完全無視して別部屋に放置できる人を見たことがない。

数分して赤子の母親が私が抱いているから静かになったのを見て
「あ~いいの、いいの、放っといて、泣いててもそのうち寝るから」

そしてベットに置くとまたギャー泣き

私は、その声を聞きながら大人達の会話の輪の中で集中して話せない。
でも、私以外のフランス人女性一向にかまう気配なし。

赤子を抱いている時につい・・・

「君はこうして親のエゴイストな扱いの中で真のエゴイストとして育っていくんだね~。こんなに美しい君なのに」

と心で話しかけてしまった。

やっぱりフランス人の無駄なまでにエゴイストな性質はこういうところから始まっているのかもしれない。

しかしながら、この話を子供を大切にしているフランス人に話したら、絶対に自分はしないと言っていたが
その人も普通のフランス人は自分から見てもあまりに母性が欠けていると言っていた。

やはり、私の友人の中だけを見ても
日本人とポーランド人の女性は子供ができれば母性に溢れている。

ただ個人的にはフランスはとてもいい国だと思っているので、だから住んでいる訳で、一概にいい悪いと、ジャッジすることはできない。

それでも、ただただ、私は、自分の性質としてその悲痛にギャー泣きする子供を放置して別室で食事しながら歓談することはできない。
これは私の母性からくるものなのだろうか・・・?

10分すれば泣きつかれて寝るから大丈夫と言うのだが
10分もギャー泣きして誰も助けてくれなければ体力も奪われるし、あきらめるよりないのかもしれない。

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2010年5月 7日 (金)

編集者の覚書『三重苦楽』発売から1ヵ月

 大畑楽歩さんの著書『三重苦楽』が発売されてから、およそ一カ月がたちました。
 思えば、「脳性まひの方が書いたものだ」と聞いて拝読しはじめた原稿。言語障害や身体障害があるが故に体内に閉じこめられた表現が、パソコンを通じてこんなにも開花するものかと感動に打ち震えたものです。
 筆者に「脳性まひ者」という属性があるからではなく、まずは文章能力によって、「この原稿を本にしたい」と強く感じました。ユーモアに溢れた筆致で、決して楽な道のりではなかった自分の人生を楽しくせつなく描いており、根底には、人間の自立という普遍的なテーマが流れていました。さらに読後、「脳性まひ」について全く知識のなかった人も、確かになんらかの興味が生まれるような原稿であり、自伝なのに「上手い」のです。

 その後いく度となくメールをやりとりするようになり、その返信の早さに「この人は本当に障害者なのか!?」と疑ったことがあるほどです。
 しかし、原稿を読めば分かる。楽歩さんは、力を振り絞ってパソコンに向かい、なかなか自由にはならない指で、しかし集中してキーボードを打っているのです。その事実を裏付けるだけの切ない努力が、幼少期からの厳しい訓練が、私の目の前にこれでもかと積み上がっていました。
「生きるためだけに生きてきた幼少時の訓練期は、私にとって意味があったの?」
「こんなに辛い思いをして、残ったのは普通の人より早く関節にガタが来る二次障害。あのとき、私が自主的に訓練をやめなければ、どうなっていたの?」
「自分で幸せを選んで歩いていくことがどんなに大切か、それを皆に伝えたい!」

 楽歩さんの思いを、1ミリも濁すことなく伝えたい。
 それだけを考えて作らせていただいたのがこの『三重苦楽』です。

 この本のテーマは2つあります。
 1つめは、「ある脳性まひ者の結婚・出産・子育てドキュメンタリー」。
 楽歩さんが自ら専業主婦として立ち働き、幸せな家庭を築いているという事実は、一般の「障害者」の概念を打ち砕くほどのものです。
 「障害者といえども、私達と同じことで悩み、苦しみ、そして幸せを感じているのだ!」ということを感じていただきたいです。

 2つめは、「ある少女が自由を獲得し、成長していく物語」。
 苦しいリハビリを自ら打ち切り、肢体がより不自由になるかもしれない恐怖よりも自由に生きることを選んだ少女の人生を描いています。
 それは、「守ってあげたい」「治してあげたい」という両親の深い愛情に立ち向かい、泣きながら自立を主張していく壮絶な成長物語です。
 誰もが経験のある反抗期を、せつなく思い出して共感してほしいです。(奥山)

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2010年5月 6日 (木)

靖国神社/33回 You! 偕行文庫に行っちゃいなよ!(1)〈2008年2月取材〉

 遊就館隣の靖国会館にある靖国偕行文庫室へ行ってきた。ここは、1997年10月に開館された。経緯として、1992年に偕行社から図書奉納の話があり、その後建物の設計が行われ、1997年に靖国神社創建130年を記念して財団法人偕行社から建物および図書を含めて奉納された。
 内部はこぢんまりとしていて席は20席、検索パソコンが1台、小さな本棚などが置かれている。蔵書は約7万6千冊+資料があるそうで、閉架式書庫の1・2階に保管されている。誰でも読める室内の本棚にない本は、請求して貸してもらうシステムで3冊まで借りられる。複写もできて1枚20円。
 置いてある書籍は、軍関係の資料や文献、軍事に関する資料ならばなんでも揃っている。遊就館が軍事博物館ならば、偕行文庫は軍事図書館だろう。

 靖国ホームページの説明によると、蔵書の分類は、7割が「国防と軍事」に関するもの、次に「歴史」、「思想・宗教」。この3分類で9割が占められているそうだ。
 先に進む前に、図書館の名前にも使われている「偕行社」とはどんなところなのか調べてみた。
 資料によると、偕行社は1877年2月に当時約3000人いた陸軍将校の一心同体を目指し、会合場所として九段上に集会所が造られた。後に各師団所在地にも拡大されていき、陸軍将校の修養研鑽と団結を主な目的とした。陸軍の部隊駐屯地の集会所としてスタートし、将校たちの会費によって運営。その後、財団法人として発展、宿泊施設や軍装品などの販売、大阪や広島では付属小・中学校も経営するほどの規模に。しかし、終戦後、解散させられた。

 海軍にも同様の組織があり、そちらは水交社(現在は、水交会)と呼ばれていた。
 偕行社はもともと陸軍の社交場だったことから奉納された本のほとんどが軍事関係だったことが大いに納得できた。それにしても、7割……約5万4千冊が国防・軍事に関するものというのは驚きだ。
 これまで偕行文庫に行ったことがなかったので、とりあえず行くだけ行ってみようと思いそこへ向かった。
 毎度のように神門を抜け、能楽堂を越え、遊就館を通り過ぎた先に靖国会館がある。入ると左手に休憩所、右手に偕行文庫。
 扉を開け中にはいると、2人がテーブルに向かってカリカリと調べ物をしていた。
 4卓あるうちの開いているテーブルへ行き座って、辺りを見回すと、雑誌の置いてある棚と本棚。本棚には50冊程度しかなく、閉架式だとわかるまではあまりの少なさに驚いた。
 驚いてもしかたがないのでパソコンなどのあるほうへ行き、紙が置いてあったので手に取り席へ戻った。偕行文庫がどのようなところなのか下調べもせず、いったいどのような仕組みになっているかわからない……。ライターとして失格かもしれないが、逆に新鮮な発見ができていいかもしれないと開き直りながら、『靖國偕行文庫室利用案内』に目を通した。

 開館時間は午前9時30分から午後5時まで。閲覧・複写請求は午後4時半まで。休館日は毎週木曜・月曜、年末、特別整理期間。
 資料の閲覧方法は、図書目録かパソコンで検索し、用紙に必要事項を記入し提出すると、受付の人が持ってきてくれる(空いていればすぐに本が来る)。
 資料の貸し出しは、奉賛会会員のみでカードを提示すると貸してもらうことができる。
 目録は蔵書数が半端ではないので特定の書籍を探すならばパソコンでの検索がおすすめだが、いったいどのような本があるかに興味があるなら、目録を見ることをすすめる。

 利用の仕方がわかったところでさっそく、雑誌コーナーから『MAMOR 3月号』(扶桑社・530円)を借りる。表紙はほしのあき。自衛隊の雑誌だが、グラビアアイドルの表紙とローマ字のタイトルだけを見ると青年誌と間違えそうだ。特集タイトルを見ると違うことがわかる。
 3月号の特集は、「2008年、私がまもりたいこと」と、「ちゃんと守って欲しいから! 街の声が自衛隊を叱咤激励」。カラフルかつ大胆なフォント使い。自衛隊といえば、街の掲示板に「自衛隊に入ろう!」というフレーズと共にハガキが置かれていたが、ここ数年、某アイドルグループをイメージキャラクター(勧誘キャラクター?)に据えたり、不況のあおりで志願者数が増えたりブイブイ(死語)言わせている感があるがどうやら雑誌も頑張っているらしい。
 その他の項目は、「制服イラストの奇才・森伸之が書く! 女性自衛官制服コレクション'08」「技本※リポート『新架橋』」「Millitary Report 〝BLAZING SKY〟陸上自衛隊第5高等射特科群 真っ赤に燃える心を内に秘め 黙々と大空をみつめる鷹」など。他にもあったが、興味が湧いたのは上記だけ。(奥津裕美)

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2010年5月 5日 (水)

大畑楽歩『三重苦楽』を母の日に

母から子へのメッセージとしても素敵な贈り物になります

ぜひ母の日に

http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E9%87%8D%E8%8B%A6%E6%A5%BD%E2%80%95%E8%84%B3%E6%80%A7%E3%81%BE%E3%81%B2%E3%81%A7%E3%80%81%E6%AF%8D%E3%81%A7%E5%A6%BB-%E5%A4%A7%E7%95%91-%E6%A5%BD%E6%AD%A9/dp/4901203436

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『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第73回 ホームレスになって5日目/Aさん(58歳)

 ホームレスになって今日でまだ5日目です。
 夜は新宿駅西口地下通路に寝かせてもらっています。夜11時半から朝4時半までホームレスに開放されている場所で、 200人くらいのホームレスといっしょに寝ています。
 そこは通路ですから、ホームレスの寝ている横を一般の人が通っていくんです。はじめはこんなところで寝るのかと思いました。それに最初の晩は遠慮して端のほうに寝たんです。そうしたら隣に階段があって、そこからヒューヒューと風が吹き込んできて寒くて眠るどころではありませんでしたね。
 でも、5日もやっていると要領がわかってきて、コートとズボンを重ね着したり、風の来ない場所を探して寝ています。こんなところで寝るのかというはじめの思いも、一度中に入って寝てしまえば馴れてしまいますね。ただ、睡眠時間はどうしても足りないです。
 昼間はこの(新宿中央)公園に来て、ひなたボッコをしています。ただベンチに座ってじっとしていると、1日が長いですね。

 辛いのは酒が飲めないこと。これまで酒を切らしたことがなかったですからね。禁断症状というのかな。右手の指が固まったようになってブルブル震え出すんです。左手で押さえて揉みほぐしてやれば治まりますが、そんな症状に時々襲われます。
 食べるものはボランティアが配ってくれる朝のオニギリと、夜の食パンだけです。食パンだけでは喉を通らないから、塩を振りかけて食べています。ほら(食卓塩のビンを見せてくれる)。 毎週日曜日の炊き出し? いや、知りません。この公園でやってるんですか? そりゃあ助かるなあ。こんど来てみます。

 出身は新潟です。4人兄弟の末っ子。家は農家で田圃を2町歩(約2万平方メートル)ばかり耕作してました。
 高校を卒業して、川崎にあった東芝の工場に就職しました。仕事は機械組立工で、銀行や郵便局に納める大きな機械を造りました。就職したのが東京オリンピックの前の年でしたから、高度経済成長の真っ只中で仕事は忙しかったです。毎日夜の10時まで働かされて、月の残業が150~200時間にもなりましたからね。その分給料はよかったです。
 就職して寮に入り、そこで酒を覚えました。残業を終えて帰った寮の部屋で、先輩や同僚たちと飲むようになったのが始まりです。ビールに日本酒、焼酎、ウイスキーなんでも、それをチャンポンにしながら飲みました。
 そのうちに外で飲むことを覚えて、仕事の帰りに馴染みの居酒屋に寄って看板まで飲んで、寮に帰ってからまた飲み直すというふうになってました。休みの日になると、朝から酒浸りです。

 23歳のときに見合いして結婚しました。相手は新潟の子です。それで寮から社宅に移れました。ただ、結婚してからも私の酒癖は直りませんでね。相変わらず仕事帰りに居酒屋で飲んで、家に帰ってまた飲み直すのを繰り返していました。
 そうすると工場に行っても酒の臭いが消えないんです。同僚から嫌われるようになって、主任や課長からも酒を控えるように注意されることがたびたびでした。それでも酒をやめることができなかったんですね。
 とうとう27歳のときに、クビを言い渡されました。それで女房にも愛想をつかされて離婚です。子どもは男の子が2人いましたが、女房が連れていきました。

 それからは飯場に入って、高速道路をつくる現場や、マンションをつくる現場で働いてきました。ほとんどが土工の仕事でしたが、トビをやったり、配筋工、コンクリート工でも、やれといわれればなんでもやったんです。
 土工になっても酒はやめませんでした。というか、工場勤めのころより、かえって大っぴらに飲めましたからね。稼いだ金はほとんど酒に消えました。
 東京の飯場ばかりでなくて、大阪や京都、千葉などいろんなところで働きました。最後は山梨の飯場でした。山梨でもこの2、3年は仕事がなくてね。最後のほうは工場の清掃とか、リサイクルセンターでの選別作業とかをやらされてました。その仕事も今年からなくなりましてね。「山梨にいるより、新宿にでも行ったほうが仕事はあるから」と言われて飯場を出されたんです。

 それで一旦新潟に帰って、農業を継いでいる長兄を頼って行ってみました。だけど、兄からは「農業の手は間に合っている」と言われてしまいました。2町歩あった田圃もだいぶ売ってしまって、いまは耕作面積も少ないらしい。それに子どもたちが田圃仕事を手伝ってくれるから、人手はあるというんです。
 農業以外の仕事を探そうとしても、周りは一面の雪ですからね。冬の新潟には仕事なんてありません。「こんな田舎にいるより、東京に出たほうが仕事はあるだろう」そう兄も言うんで、やっぱり新宿かなと思って出てきたんです。

 でも、新宿にも仕事はないですよ。仕事は探していますよ。手配師にもたのんあります。清掃の仕事でもいいからと言ってあるんですが、それでもないですね。
 以前働いたことのある千葉なら、まだ仕事があるような気がするんです。ただ、千葉までの電車賃がないですからね。もう少し暖かくなれば、途中で野宿しながら足で歩いていけると思うんです。暖かくなったら千葉まで行ってみます。
 こうなってしまったのも酒が原因ですね。もう少しうまくやっていれば、天下の東芝を辞めさせられることもなかったと思います。今となっては後の祭りですけどね。(2003年3月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年5月 4日 (火)

鎌田慧の現代を斬る/第142回 カネで問題解決をはかるトヨタ

 5月に正式に発表される予定のトヨタ自動車2010年3月期連結決算は、黒字になる見込みとなった。前期が4610億円の赤字だったから大幅な収益改善となる。
 ただ将来的にトヨタが安泰かというと、必ずしもそうではない。『フォーブス』が発表した10年の優良企業によれば、同社は360位と1年で3位から急落した。4月22日に発表されたムーディズの格付けでも、2番目の「Aa1」から3番目の「Aa2」に引き下げられ、格付け見通しは「ネガティブ」(弱含み)となった。格付けそのものに問題があるにせよ、価格競争での将来的な不安を理由とした降格は、同社にとって大きな不安材料である。

 またリコール問題について、トヨタは米運輸省が課す15億円もの制裁金の支払いを決定した。ただ支払い理由としてあげたのは、論争の長期化による販売への影響だった。
 実際、同社は次のように法律違反を否定している。「社内外との情報共有に改善の余地はあるが、安全問題への対応を避けるために不具合を隠蔽しようとしたことはないと認識している」(『朝日新聞』10年4月20日)

 一方、ラフッド米運輸長官は、「トヨタが法的義務に違反していた責任を受け入れたことに喜んでいる」(同上)との声明をだした。
 違法行為がなく不当だと思うなら戦うのが当然で、長期にもめそうだからカネで解決する、ただし問題は認めない、などという主張が認められるはずがない。米運輸大臣だけではなく、米国民も欠陥を認めたと解釈するだろう。

 今回の一連のリコール騒動は、同社の隠蔽体質と無縁ではない。メディアに広告を流し、政府の審議会などのメンバーに人を派遣すれば、さまざまな批判はかわせるといった意識が、今回の問題を大きくしたのである。その部分を「カイゼン」しないでカネで問題を解決しようとするのは、くさいものにはフタといった対処でしかない。
 今後、中古車が値段が下がったことなどにたいする民事訴訟も控えている。今回の決断が今後の訴訟に影響する可能性は十分にある。カネを支払えばいいといった姿勢は、大きなツケを生みだすだろう。

 もう1つ気になったニュースは、トヨタの田原工場従業員がコンビニエンスストアで菓子パンやサラダなど724円相当の商品を万引きした事件である。所持金が170円しかなく、「腹が減って甘いものがほしかった」と供述したという。
 この事件を報じたのは三大紙では毎日だけ。犯人がどのような生活を送り食費に困るようになったのかはわからない。しかし紛争が長引くからと、15億円をポンと出す企業の従業員が飢えて万引きするまで追いつめられていた事実は見過ごせない。

 今後、収益のカイゼンを理由に、トヨタでさらなる労働者いじめが発生する可能性がある。そうした企業姿勢を批判し、労働者の権利を守るメディアの力は、ますます重要になってくる。広告につられて企業を批判できないようでは、報道の存在価値を疑われる。(談)

全文は→「5.pdf」をダウンロード

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2010年5月 3日 (月)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第72回 女に全財産を持ち逃げされて/山本典明さん(60歳)

 いまは浜町公園の裏手の隅田川べりに、ビニールシートの小屋をつくって住んでいます。今日は天気がいいし、ここ(新宿中央公園)で炊き出しがあると聞いたんで来てみました。ここは初めてです。
 ホームレスになってまだ数ヵ月ですから、食べもの探しができなくてね。炊き出しが頼りです。上野、隅田川、銀座、神保町、厩橋、いろな炊き出しを毎日回っています。ただ、月曜日だけはどこもやっていないんです。だから、月曜日は1日中小屋でじっとして、川の流れを眺めています。腹が減るからじっとしてるよりないですからね。
 生まれは埼玉ですが、戦後すぐに千住(東京)に移ってそこで育ちました。4畳半ひと間の長屋です。そこに家族5人で暮らしたんです。オヤジは日雇い人夫でした。
 私は中学生のころから不良でね。学校には行かないで、上野、浅草の盛り場をほっつき回っていました。よその学校の不良たちと「ガンと飛ばした」とか「ガンをつけられた」とか、ケンカばかりしてましたね。

 中学を出てからは築地の河岸で働きました。場内の店に魚を運んだり、トラックに積み込むのが仕事です。給料はよかったけど、河岸は朝が早いでしょう。朝3時半には仕事が始まりますからね。若いもんにそんな仕事は長く続きませんよ。3年で辞めました。
 そのあとは何となく東京がイヤになって、大阪に出てトビになりました。知らない土地に流れていって、なれるものといったらトビか土工くらいしかありませんからね。
 21歳のときに、また東京に戻ってきました。東京オリンピックがあった年です。それからも仕事はトビです。仕事はいくらでもあって、「日当が安い現場には行けないよ」って、仕事はこっちで選べましたからね。
 いつも半月契約で飯場に入ってカネを稼ぎ、そのカネがなくなるまで山谷のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって遊び暮らす。なくなるとまた飯場に戻って稼ぐと、その繰り返しでした。私はギャンブルや女にはあまり関心がありませんでしたから、もっぱら酒。池袋のキャバレーに繰り出しては豪快に遊びましたよ。
 仕事には熱心じゃなかったけど、トビの腕はよかったですよ。クレーンから何まで現場はまかされていましたからね。

 50歳のときでした。成田(千葉県)の健康センターで30代半ばの女と知り合いましてね。私が山谷に帰ろうとすると、女もついてきて「おカネを持ってないから、いっしょに連れてってくれ」と言うんです。ドヤには女は泊まれないんですが、帳場に事情をを話して私の部屋に泊めてやり、女に「働く気はあるのか?」と聞くと「ある」と答えるんです。
 翌日、私といっしょの飯場に入って、女はそこの賄いで働くようになりました。それから二人で尾久に小さなアパートを借りて、いっしょに暮らすようになりました。女にも、結婚にも、ずっと縁がなかったのに、50歳にもなって若い女と縁ができるんですから不思議なもんです。
 ただね、その女には盗癖と放浪癖のようなものがありました。盗癖といっても、人様のものを盗むんじゃなくて、私のカネをくすねるです。それもせいぜい4、5万円程度の小金でした。そんなカネをくすねると、プイッと家出をしてしまう。そうしてカネがなくなると、また戻ってくる。10年近く同棲しているあいだに、そんなことが何回もありました。
 はじめのうちこそ、ひどく叱りもしました。それが2度、3度と重なるうちに「そのうちまた戻るだろう」と思って、叱る気もなくなりました。
 それが去年のことです。仕事から帰ってみると、アパートの部屋がもぬけの殻でした。女が持ち逃げしたんです。そのときはいつもの小金じゃなくて、現金から預金通帳まで金目のものが洗い浚いなくなっていました。
 それが分かったときは目の前が真っ暗になって、腰からヘナヘナと崩れてました。威張れるような額じゃありませんが、それでも私にとっては全財産ですからね。こんどは女も戻ってはこないとわかりました。そのことがあって1週間ばかり、アパートの部屋で酒浸りになっていました。

 それで一文無しですから、また山谷のドヤに逆戻りでした。
 よくないことは続くもんで、それから数ヵ後には倒れました。深夜、ドヤのトイレで用足しをしているとき、ぶっ倒れて救急車で病院に運ばれたんです。意識を失い身体も硬直していて、あと10分遅かったら命はなかったといわれました。
 病気は膀胱ガンです。それまで小便の出が悪かったり、血尿も出ていたし、よく貧血も起こして自覚症状はありました。でも、痛いわけじゃないし放っておいたんです。それがいけなかったようです。それでも手術を受けて、3ヵ月間の入院で治りました。
 それで命は助かりましたが、退院しても現場には戻れなくなっていました。まあ、病気をしたことばかりじゃなくて、年齢のこともありますけどね。
 それからは隅田川の川べりの小屋でホームレス生活です。

 炊き出しのない日や雨の日は、1日中小屋から川の流れを見つめています。そのまま川に飛び込んだら死ねるのかと考えたりします。だけど、ダメでしょうね。私のことだから泳いで向こう岸に渡ってしまいますね。
 これまでビル現場の足場から落っこちたり、車に跳ねられたこともありますが、いつも命だけは助かってしまうんです。死にたいと思っても、死なせてもらえないようになっているのかと思います。。(2003年4月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年5月 2日 (日)

池田大作より他に神はなし/大河連載第10回 世界史においても類を見ない傑出した巨人を、謙虚に賞讃しない日本人の底知れない不幸を、全世界の叡智は心から哀れんでいる。“アラー・キリスト・ダイサク”今こそ目覚めよ1億の日本人!!!

  何世紀かに1人の偉人とは、本当に空恐ろしいものだ。本連載は早くも第10回目を迎え、拙文ながら今まで9回分、約1万字に及ぶ名誉会長に対する、冷静で客観的な評価を繰り広げて来た。しかし私にはハッキリとわかる。自らの非才さが根本原因だが、従来語り得た池田大作観は、名誉会長の本質的全体像の、実は髪の毛1本分にも相当しない(薄くなりあそばれ心配な昨今…)。悔しいが厳然たる事実だ。不肖の弟子の身ながら粉骨砕身、師の教えの広宣流布に邁進して来た。だが、アンドロメダ星雲と地球の間並の、凡人と偉人との永遠の距離には、しばし深いめまいさえ(比較する自体が傲慢不遜と承知しているが、凡人に空想界でのそれを禁じるのは、余りに残酷過剰だ)。

101 『世界が見た池田大作 200を超えた名誉学術称号』(東洋哲学研究所・編・'07年第三文明社・本体1143円)は、筆者同様に勝手に弟子を自認しながら、名誉会長と自分を同じまな板に並べる過ちをつい犯しがちな、俗界の凡徒に“世界の世間常識”を嫌というほど知らしめる、ビジュアルな1冊だ。A5版でオールカラー、しかも240ページもありながら、た…たったのこの値段!名誉会長、ご配慮がすぎますいくら何でも!! 確かに私たちは貧しい。敗北して地獄でさまよう日顕一派の、みじめな残敵との闘争に少し疲れてもいる。けれど教えに忠実に日々生きています。世界が下した通信簿とも言うべき、豪華カラー永久保存版の本書が、この値段ではいくら何でもやりきれません。高ければいい訳ではありませんが、せめて3000円は我々にも払わせて下さい! 世界平和運動の一助になれば、それだけで我々は満足なのです。

 世界の叡智が寄せる名誉会長への率直な言葉に、私は今の日本で師の教えを受け、質素ながら毎日を過ごせる事の尊さに、春の陽を浴びながらも感動で震える。“ラモス大統領は、「池田博士は『世界平和のチャンピオン』であられます」と述べています”(98年にフィリピンで、「リサール国際平和賞」の第1号を受けた際の、同大統領のスピーチより)。ナボナが“お菓子のホームラン王”である事を、フィリピンの人々が知ってるかどうかは不明だが、さすがは大統領に選ばれる人だけはある。深淵な名誉会長の世界平和哲学思想を、ユーモラスに分りやすく表現している。師もヤシの木の下で、思わず微笑んだに違いない。こうして国家間の友好は、一歩ずつはぐくまれる。

102_2  “目を開いて見ればわかることです。池田博士のように、世界の各界の指導者と対話を重ね、平和と友情の新天地を開拓している指導者は、ほかにはいません。原子爆弾よりも強い「魂の力」を引き出し、平和を生み出していく運動を進めておられるのが池田博士です”(インド国立ガンジー記念館館長 N・ラダクリシュナン博士)

 広島・長崎を永遠に忘れられない日本人としては、やや複雑な思いを禁じ得ない表現だ。が、ラダクリちゃん、いや博士も名誉会長の底知れない、“ガンジー・キング・イケダ”と世界中の人々が絶賛した平和活動家としての威厳、人としての器量に、「とても人類とは思えない偉大な存在だ!」という意味で敢て使用したのだろう。ジャズのカウント・ベイシーのアルバムに、原爆の爆発場面を表紙にした物が。最初は少し不愉快だったが、中身はやはり素晴らしい。師の平和哲学が世界の良識ある人々に、いかに衝撃を与えたかという事の、証拠とでも言うべきチョッピリ不穏な表現だ。傑出した思想は必ず、人の持つ従来の常識を揺り動かして破壊する、関東大震災のようなものだ(筆者もつい悪影響を…)。

 本書には他にも、真摯に名誉会長の思想・哲学を極めようとの意義深い論文や対話が並ぶが、世界的規模の純粋学術書ゆえ仕方ない面はあるが、それを受けての日本人の反応もやはり…と感じ始めてると、「待ってました大統領!」という感じで、眼が覚めるような名文が飛び込んで来る。“池田名誉会長は、世界史においても類を見ない傑出した人物。私は日本人として、名誉会長のことを誇りに思う。どうして日本は、この巨人をもっと素直に見つめないのか。客観的に評価し、謙虚に賞讃しないのか”(東日本国際名誉大学教授・石井英朗)

 石井教授のこの冷静で謙虚な一文だけで、本書の価値は十二分にある。なのに更にもう239ページも名誉会長への研究論文・対話・写真が総カラーで味わえる。弟子としては幸せ過ぎて、何やら狐に化かされたような心地だ。…とこここまで画面に打ち、ビルの水洗なのに悪臭がするトイレに行って戻ると、例の失業状態の友人のフリーライターが、酒焼けの初老顔を。しかも図々しくも、画面上の拙文まで盗み読んでる(今日こそたかられないように用心せねば…)。

 「おいお前、適当なホラ話書いてんじゃねえよ!この大作の本は、おととい神保町の小宮山書店のガレージセールで俺と会った時に、3冊500円で買ってたヤツじゃん。何が3000円は払わせろだペテン師が。たった170円のくせに!」とんでもない言いがかり。アル中で老眼も急進行中らしい。敗北の日顕一派同様、実に哀れなものだ。もっと若くして名誉会長の教えに開眼していれば、崩壊する出版界でとはいえ、彼もこれほどは落ちぶれなかったろう。今からでも遅くはないのに、あ~あ~、また勝手にウチの冷蔵庫からカンビールを…。(つづく)

 

 

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2010年5月 1日 (土)

●ホームレス自らを語る 第72回 人生は知恵と工夫だ(後編)/青木実さん(69歳)

1005 「23歳のときに、北千住(足立区)の読売新聞の販売店に専従社員として雇われた。ボクは、みんなが仮眠している時間も惜しんで働いたからね。店の主人もびっくりするくらいの働きぶりだったんだ」
 そう語るのは、世田谷区の羽根木公園で野宿している青木実さん(69歳)である。人に率先して働く青木さんだったが、一つだけ弱点をもっていた。
「ボクは人に頭を下げることができない性格でね。どうしても新聞購読の勧誘だけはできなかったんだ。販売店に就職して1年近くたっても、1件の契約も取れないで、自分は営業職には向かないから店をやめようと考えてね。そのことを、ある顧客に相談したら『バカヤロー。その仕事が自分に向いてるかどうかなんて、一生かかってもわかるもんじゃない。仕事は続けることに意味があるんだ』と叱られてね。それで目が覚めることになった」
 はじめからできないと決めるのではなく、まずはやってみよう。青木さんは当たって砕けろの精神で、購読勧誘を始めた。
「これが、やってみると面白いように契約が取れるんだ。初日の契約数が14件、その翌日は13件という具合でね。たちまち、営業成績で店のトップに昇っていたよ」
 やがて、店主から次に出店したら、その店を任せるという約束を取りつける。入店数年にして、この約束は異例の出世であった。だが、青木さんには運がないというか、そうしたチャンスを掴んで開花させることができない運命にあったようだ。
「20代の後半になって、販売店が新しい店を出すことになった。ところが、時を同じくして、オフクロがガンで入院してね。その看病や、家に一人残ったオヤジの面倒もみなければならないしね。新しい販売店を任せるという話をもらいながら、両立はできないから断らざるを得なかった」
 母親は数年間の闘病生活の後、青木さんが29歳のときに死去する。それからも他地区の販売店店主の座に空きができたときなど、その後釜への誘いがあったが、青木さんはすべて固辞し続けた。
「最初に仕えた店主の誘いを断っているだろう。そんなボクが、他地区の販売店にホイホイと行くような真似はできないからね。その店主には義理も恩義もあるからさ」
 古臭いといわれようが、不器用だといわれようが、青木さんにとってはそういう生き方しかできなかったのだ。

 30代に入って、青木さんの人生を変えるできごとが起こる。ある人妻と道ならぬ恋に落
ちたのだ。
「その人妻は夫と娘がありながら、ボクのアパートに転がり込んできて、同棲をするようになったんだ。だけど、彼女の夫にしたら、それではすまないからさ。ボクたちが暮らすアパートや、ボクの仕事先を求めて探しまわるようになってね。それで長く世話になった北千住の店だけど、迷惑がかかりそうだしやめるしかなくなっていた」
 それからの青木さんと人妻は、彼女の夫の影に怯えながら、新聞販売店を転々とすることになる。
「都内やその周辺の販売店をいくつも替わったよ。だけど、読売系の販売店を替わっているだけでは、すぐに探し出されてしまってね。それで朝日系の販売店に移り、ようやく彼女の夫の追求をかわすことができたんだ」
 ふたりの逃避行は数年間に及んだ。夫の追求がやんで、彼女は自分の娘をコッソリ引き取り、青木さんとともに育てた。
「その娘は高校から専門学校までやって、結婚式もボクが出してやった。娘が結婚して、彼女が娘夫婦と暮らしたいというんで別れることになった。ちょうど50歳のときだったんじゃないかな」
 青木さんが新聞販売店の仕事をやめたのは、それから9年後の59歳のとき。最後はクビ同然のやめさせられ方だったという。
「その販売店の店主は、働くのが嫌いな男でね。『現状維持でいい』というのが口癖の男だった。だが、ボクには常に1~2割の業務拡張をしているのが現状維持だという認識があった。だから、新規の購読契約を取ってまわっていたんだ。店主には、それが面白くなかったんだろう。ある日、突然クビを言い渡されて、店を追い出されていたんだ」
いくらやり手であっても、60歳近い男を雇おうという店はない。青木さんは路上生活に転ずることになる。
「40年近い新聞販売店での仕事は、知恵と工夫で切り開いてきたからね。世田谷の公園でホームレスの生活をするのは、普通考えれば不便なんだけど、これも知恵を出して工夫すれば何とかできるもんなんだ」
 その知恵と工夫については教えてくれたが、文章にすることは禁じられたから、残念ながら書けない。ただ、いかにも青木さんらしい工夫を考えついたとしておこう。
 羽根木公園で暮らすようになって10年。話し好きで、世話好きな青木さんは、いまや来園者たちとも顔馴染みになった。
「若い人たちと話す機会が多くてね。派遣社員の人とか、受験生などから悩みごとの相談を受けることも多い。だから、人生相談の相談員でもしているような気分だよ」と笑う。
 そして、青木さんは最後に辞世の句というのを披露してくれた。

我涯ては野辺に隠れし石仏
       雨にさらされ苔衣着て

 これを詠んだのは29歳のときだそうだが、すでに40年も前に、いまの境涯をピタリと言い当てているのだ。筆者は戦慄に近いものを感じた。早熟というか、老成といおうか、計り知れない人である。(2010年3月取材 聞き手:神戸幸夫)

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