酒鬼薔薇聖斗の現場を歩く
犯行声明で自らを酒鬼薔薇聖斗と名乗った少年Aは、「懲役13年」と題する作文で、ダンテの次のような一文を引用した。
「俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでしまった」
もちろん、この「暗い森」は比喩だろう。一人の幼女を金づち殴って死亡させ、もう一人にナイフを突き立て重傷を負わせた事件から1ヵ月ぐらいの間に書かれた作文だけに、犯罪行為を指すものとも思われる。
しかし少年Aの行動をたどっているうちに、彼は実際に「暗い森」に居続けたのではないかという感じるようになった。
彼は供述調書で次のように語っている。
「『タンク山』の地理は、誰よりも僕が一番良く知っているのであり、この森の中で、僕を捕まえることは不可能だと思っていたからです」
実際、タンク山の頂上付近にあるケーブルアンテナ施設で土師淳君の首を切り取った直後、現場に近づいてくる足音を聞きつけ、来た道とは別の方角に山を降りている。
さして大きな山ではない。東西に370メートル、南北に200メートルほどである。しかし少年Aが選択した獣道を探し出すのは、意外なほど骨が折れた。道らしきものをたどっていくといきなり途絶え、下に降りる道を見つけ出せないままに目的地から遠ざかってしまうからだ。
少年Aがこの森に精通していたのは間違いない。『少年A 矯正2500日全記録』(草薙厚子 著 文藝春秋)では、小学5年生の学校の記録として「“タンク山”に基地を作り、六人くらいの友達と遊んでいたが、“子供は友達と遊ぶもの”という常識に従って遊んでいたもので、心から楽しいと思った事はなかったようだ」と書かれている。『暗い森』(朝日新聞大阪社会部編 朝日新聞)にも、「中学二年の後半になると、小学校時代から一緒に悪さをしてきた友人たちの多くが、部活動や受験勉強もあって、しだいに遠ざかっていった。少年は卓球部の練習にまったく参加しなくなり、男児殺害の現場となったタンク山や、池のほとりで、一人で過ごすことが多くなった」という記述がある。少年Aが淳君を殺害したのが中学3年だから、少なくとも4年間ほどはタンク山に出入りしていたことになる。
このタンク山について、『朝日新聞』(97年5月28日)は、「早朝や夕方には近所の人が犬の散歩に訪れ、夜間は中学、高校生がたむろすることもある。近所の主婦の話では、シンナーやだばこを吸う少年たちがよく集まる場所」とも報じている。
タンク山の周辺は北に高校、南に小学校があり、南西から西側にかけて団地が、東側を一戸建て住宅が囲んでいる。山の中腹にある給水タンクまでは舗装された道路が付いているが、そこから一歩入ると獣道しかない森だ。住民が散歩がてら登るのはタンクのある中腹までで、その奥は大人の知らない空間が広がる。そうした場所に、実生活で行き場を失った少年Aが引きつけられたのもうなずける。
事件の起こった須磨区は、かなり住みやすい土地だ。タンク山の南側に住む主婦は、どれほど地域活動が活発かを説明してくれた。
※ここから先の記事は…
『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。
| 固定リンク
「 あの事件を追いかけて」カテゴリの記事
- 『あの事件を追いかけて』無事、書店に並びはじめました(2010.07.30)
- 写真展「あの事件を追いかけて」終了!(2010.07.19)
- 再び告知!『あの事件を追いかけて』出版記念写真展開催(2010.07.09)
- 「あの事件を追いかけて」写真展開催!(2010.06.18)
- 「あの事件」のツイッター始めました(2010.06.03)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント