山口組・田岡組長銃撃の現場を歩く
ディスコブームがにわいた1978年7月、夕立の上がったナイトクラブ「ベラミ」に、山口組・田岡一雄組長が到着した。越路吹雪や欧陽韮韮などがレコーディングしたことでも知られてる高級店だった。上岡龍太郎や浜村淳が司会を勉強したところとしても知られている。当時、ベラミのステージに立つこと自体がステータスだったという。
奥の椅子に5~6人のホステスを引き連れて座り、「うたとリンボーダンス」のショーを鑑賞。そのショーが終わった直後、2発の銃声が響く。
首を打たれた田岡組長は自らハンカチで傷口を押さえて立ち上がり、巻き添えをくった人を病院に運ぶように指示を出し、部下の運転する車に歩いて乗り込んだという。この不死身ぶりは後に語り草となった。
彼を治療した関西労災病院の外科部長は、全治2週間~3週間だと記者団に説明し、「そんなに軽いのか?」の質問に次のように答えたという。
「ええ、幸い頸部の筋肉のところだったからです。もう1センチでも弾道が内側に行っていたら、大動脈神経系統をやられて即死だったかもしれません」(『雷鳴の山口組』飯干晃一著 角川書店)
山口組のトップが銃撃されたとニュースは、瞬く間に街を駆けめぐった。狙撃から30分後には、新聞記者もベラミに押し寄せたと報じられている。しかし近隣住民は、事件に気付かなかったようだ。
ベラミの向かいにある精肉店の女性は、「パトカーが来たのも気付かんかった。隣がベラミ専用のガレージだったから、いつも車の出入りの音がしてるし、ホステスがお客さんを送り迎えするときには、ワーワー言っているし。次の日の新聞やね、分かったのは」
近所の住民によれば、ベラミは看板を出していなかったという。逆に言えば、それでも客が入る店だったのだろう。
ただし近隣の店から評判のよかった店ではない。
先述の精肉店の女店主は言う
「事件の少し前にボヤを出したんやけど、あいさつにも来ない。事件の後も何もなかった。そういう人たちだったんでしょ」
ベラミから数軒離れた大衆食堂・篠田屋の主人も、事件に気付かなかった語る。
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