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2010年4月

2010年4月30日 (金)

『三重苦楽』交通新聞にて紹介

 2010年4月21日(水曜日)、交通新聞の一面で『三重苦楽』(大畑楽歩 著)が紹介されました。
 著者のブログにて詳細を読むことができます↓
 http://ameblo.jp/rabu-snoopy/page-4.html#main

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2010年4月29日 (木)

靖国神社/32回 「日の丸」グッズをさがせ!〈2008年1月取材〉

 日本の国旗(日章旗)はカッコイイ。
 白地に赤い丸。パラオ(青地に黄色の丸)と、バングラディッシュ(緑地に赤い丸)も同じようなデザインだが、日の丸にはかなわない。
 シンプルさでは、リビア(緑一色)が一番だが、モロッコ(赤地に緑の五芒星)、モナコ(上段が赤、下段が白)、ポーランド(モナコの逆)もなかなか。
凝っていてカッコイイ国旗はたくさんあるが、シンプルかつ洗練された国旗といったら日の丸以外に考えられない。
 こう書くと、“靖国ライター”になって右寄りになったのか? と誤解されそうだが違う。
 国旗を見ると、横しまや縦しま、ごちゃごちゃしているものが多い。そのような国旗を見たあとに日の丸をみると白と赤い丸の絶妙なコントラストがよりよく見えるからだ。

 さて、この日の丸だが、いつから使われているのか調べてみた。
 文部科学省ホームページの資料によると、「「日の丸」は、江戸時代以前にも使用されていたという記録が残っている」とあった。
 さらに、江戸時代に入ってからは、幕府の船印として使用されるようになり、幕末になると日米和親条約(1854年)調印後、諸外国との交流が始まり、外国船舶と識別するための標識として、安政元年(1854年)7月に日の丸ののぼりを日本惣船印と定め、日米修好通商条約調印後の翌年(安政六年、1859年)に日の丸の旗が御国惣印として定められたそうだ。
 国内の動きとしては上記の通りだが、条約の相手であるアメリカではどうなのかというと、万延元年(1860年)に、日米修好通商条約批准書交換のために渡米した使節団一行が日の丸と星条旗が掲げられたブロードウェイ(ニューヨーク)を進む様子が現地の新聞で紹介されたそうで、このころには国内外で日の丸が国旗として認知されていたことになる。
 明治3年(1870年)に商船規則によって、日の丸を日本船舶に掲げるべき国旗として定められた。
 さらに調べていくと、この「日の丸」を売ってほしいという話が明治初期にあったそうだ。相手はフランスで、「500万円(当時の通貨で)で売ってほしい」という打診があったが、これに対し明治政府は「日本の国旗を売るということは、国を売ることと同じことだ」といって断ったそう。昔の政府は毅然としていたのね。

 そんな日本の国旗(象徴)である「日の丸」を靖国ではどれくらい取り扱っているのかが気になり、商品数が一番多い遊就館売店へ行ってみた。
 ここでは靖国神社オリジナルグッズから自衛隊オリジナルグッズ、靖国に関する書物などが販売されている。最近の気になるグッズは、コレクションしている地域限定キューピーの「同期の桜」だ。話がそれるが、自衛隊のキューピーがあるならば、「靖国神社限定キューピー」を作ってほしい。巫女や神職の衣装を着せたキューピーなんて想像しただけでかわいい。
 話を戻して、日の丸グッズを探してみたが意外と少なかった。国旗チョコや日の丸落雁、日の丸シールとかいろいろあるのかと思ったが、写真のグッズと扇子くらいしか見つからなかった。
 数は少ないが各グッズの種類はいろいろあり、ハチマキ(370円)は「日本」のほか、「闘魂」「必勝」などがある。時々、外国人がつけていたりするが、ハチマキは英語で「Head band」というらしい。
 シャツ用と書かれているまさに日の丸弁当のようなものはワッペン(530円)もある。アイロンでくっつく仕組みになっている。他にもコート用などがあり、大小様々。
 ピンバッジ(700円。補足として、写真のものは十六条旭日旗で自衛艦旗。自衛隊旗は八条旭日旗である)。よく見ると朝日新聞社の社旗に似ている。
 ワイヤーと中心に日の丸があるキーホルダー(735円)は、写真のもの以外に、十六条旭日旗やただの日の丸のものがあった。ちなみに私が買ったものは、日の丸の上に「君が代」が書かれているかなりマニアックなものだ。
 購入した中で一番のお気に入りが卓上国旗だが、これは「日の丸」(840円)「旭日旗」(840円)「Z旗」(1050円)の3種類あり、ばら売りと3本セット(2415円)がある。個人的にはセットが欲しかったが、値段も値段だし買った後の置き場に困るので断念。
 こうやって見てみると、国家の象徴である日の丸グッズがあまり売られていなかったのは残念だった。商品にしにくいのだろうか。
 せっかくなので、前述した国旗チョコや日の丸落雁、日の丸シール以外のグッズを考えてみることにした。

 まずみやげとしてオーソドックスなのがお菓子。日の丸クッキーや日の丸金太郎飴などはどうだろうか。日の丸まんじゅう(割ると中央に赤い餡入り)もいいかもしれない。歴代首相のまんじゅうがあるならこれもアリだろう。
 他に、開くと日の丸のデザインになっていて「君が代」が流れるグリーティングカードや、憲法九条が透かしで入っているハガキや、レターセットなど。
 リッチな客向けに、靖国神社ジオラマ(スケールは、400分の1くらい)というのはどうだろうか。既に作成済みで、好きな時間にセットすると自動的に国旗が掲揚され、国歌が流れる。販売は売店での注文販売のみ! 考えているのになんだが、欲しくはないけど売店に飾ってあったら絶対に見に行く。

 考えたらきりがないが、冷静に考えると、靖国に行って日の丸グッズを買うより菊や桜などの純正靖国グッズを買ったほうが記念になる。
 まだ「同期の桜」キューピーをもらった方がかわいいし、ネタにもしやすい。世間では「日の丸」や「君が代」は、デリケートな問題という認識が強いので、そういったグッズを製作、販売するのは難しいのかもしれない。真実はわからないが。(奥津裕美)

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2010年4月28日 (水)

検察審査会「起訴相当」で小沢一郎氏はどうなる

大胆に予測すると1回目の「起訴相当」で検察は近々起訴すると思う。というのも1回目が全員一致と圧倒的で2度目もそうなる可能性が高い。となると

①検察審査会=市民の声で起訴相当となった
②検察が再捜査した結果「新たな証拠はありません。だからやっぱり不起訴です」との結論を出す

③2度目の検審も起訴相当となる
④強制起訴。ただし検察側に検察官は立てない。裁判所が命じた弁護士が検察官役を務める

これがいかに検察にとって不都合かというと

①1度目の起訴相当をはじくと本当は起訴したい(に決まっている)検察側が結果として小沢氏を守る形となる
②2度目の起訴相当が出た段階で検察側は小沢氏捜査で押収した資料などを弁護士へ渡さなければならない。そのなかには検察の起訴便宜主義によって事件化されていない他の政治家などの後ろ暗い形跡もあろう。むろん弁護士には守秘義務があるのでそれらを公にはしないものの特捜部の押収資料という「宝の山」を有罪率99%と煮え湯を飲ませている弁護士側に渡すのは気が引ける

また起訴しても意外と困らない。理由は

①「新たな証拠」は1回目の起訴相当によって起訴するための絶対条件ではない
②検察の捜査だけで無理筋を起訴しようとすれば公判検事からブーイングにさらされる。でも検察審査会の「起訴相当」を受けてならば「市民の声を反映させるのが司法制度改革の一環だから、いいんじゃない(=別に検察の暴走じゃないのだよ)」といなせる

というわけで政局大混乱は間違いなさそうだ(編集長)

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2010年4月27日 (火)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第71回 大阪に未練があります/Mさん(52歳)

 ずっと大阪におってね。そう、西成のあいりん地区。そこで暮らしながら、日雇いの土工やら、ブロック工、歩道の敷石工なんかをやっていたんです。けど、大阪では仕事が少なくなっていたし、東京に出ればなんとかなるかなと思うてね。2年前の夏に出てきたんです。
 新幹線? いや、いや、汽車賃なんか持っておらんからね。テッポウです。無賃乗車。普通電車を乗り継ぎながら、車掌に見つからないように隠れて、やっとの思いで出てきたんです。
 仕事にはありつけました。横浜の飯場に入って、1年間働きました。だけど、その飯場を出てからは、仕事にありつけません。手配師がおらんもんね。
 それでこの冬、ホームレスの「自立支援センター」に入ってみたんです。そう、大久保(新宿区)にあるセンターです。それでも働き口は見つけられませんでしたね。
 センターの入所期間は2ヵ月間で、その間休日以外は毎日ハローワークに通うんです。そこで求人票をチェックして、自分の条件に合う求人を見つけては面接に行く。それを毎日繰り返しました。でも、どこも雇ってはくれませんでしたね。結局、期間内に仕事が探せなくてセンターを出され、また路上に逆戻りしたわけです。

 センターの待遇は悪くなかったですね。部屋は2段ベッドが2つある4人部屋でした。職員は特別に親切というわけではないですが、意地悪をするわけでもないしね。ホームレス同士のいさかいもありませんでした。
 起床は朝7時。朝飯はトーストとサラダ、それにコーヒーがついていました。それで9時までにハローワークに行って求人票のチェックをして、面接に行くときは昼飯代の500円と交通費が支給されました。面接に行かないときは、センターでうどんとか、丼ものの昼飯が用意されました。
 門限は夕方6時。夕飯も同じ6時からでした。温かいご飯に味噌汁とオカズの夕飯。食事は賄いのおばさんがいて専門につくってましたからね。まあ、待遇はよかったですよ。
 仕事を見つけた人もいますよ。ただ、仕事が見つかったといって退所したのに、またホームレスに戻っている人を幾人か見ましたからね。本人の都合か、雇い先の都合か知りませんが、定着率はあんまりよくないと違うんかな。
こんな不況は経験したことがないです

 出身は能登の輪島です。大工の倅。高校を中退です。成績が悪くて赤点ばかり取っていましたからね。
 それで大阪に出て繊維問屋に就職しました。けど、性格がおとなしくて客商売には向きませんでした。2年で辞めて、自衛隊に入りました。でも、こんどは規律があんまり厳しいんで逃げ出してしまいました。末っ子のせいか甘ったれのところがあって、飽きっぽいというか、辛抱できないところがあるんですね。
 その次がミシン会社の集金人。あのころはミシン掛け金というのがあって、家庭の主婦なんかが月々積み立てていたんです。家々を回ってその掛け金を集金するのが仕事でした。ところが、そのカネを使い込んでしまって、こんどはクビになりました。
 アルサロ(アルバイトサロン)のホステスに入れ揚げたのが、使い込みの原因です。酒はそんなに好きじゃないのに、毎晩のようにそのホステス目当てに通ってね。よほどよかったんでしょうね。スケベな下心とかはないんですよ。ただ、彼女を相手にして酒が飲めれば、それで満足でした。世の中がスレてないで、まだ純情な時代だったんですよ。
 使い込んだカネは10万円。親に泣きついて尻拭いしてもらいました。うーん、やっぱり末っ子の甘いところがあるんかな。

 ミシンの集金人をクビになってからは、キャバレーで働いたり、パチンコ屋で働いたり。どこも長く続かないで、いくつも変わりました。そのうちに西成に流れていって、日雇いで働くようになっていたんです。
 この性格ですから現場が気にくわなかったり、仕事に飽きるとプイッとやめてしまう。そんなふうにしていても、仕事はいくらでもありましたからね。手配師もいっぱいおったし……そんないいかげんな仕事ぶりでも、なんとかやってこられたんですよ。
 これまでにも不況で仕事がなくなることはありましたけど、いまのように長いのは初めてでしょう。こんなのは経験したことがないですからね。
 東京と大阪を比べたら、そりゃあ大阪のほうがいいですよ。長いこと大阪で暮らしていたこともありますけど、人が親切だし、ホームレスも助け合って生きてますからね。炊き出しなんかも東京より頻繁にあります。

 いま新宿では西口地下通路で寝てますが、コンクリートの床に段ボールを敷いただけの恰好でしょう。場所取りも周りのホームレスに気を使いながらで、なかなか難しいです。大阪のあいりん地区には労働センター(西成労働福祉センター)というのがあって、そこがシェルターをやっています。夕方4時までに並べば、夜になると中に入れてくれて布団に寝かせてくれます。ホームレス向けの安い食堂もありますしね。
 大阪には未練がありますよ。帰りたいとも思う。だけど、汽車賃を持ってないですからね。テッポウはコリゴリ。もう車掌に怯えながら電車に乗りとうはないですよ。
 早く景気がよくならんかと思いますね。でも、景気がよくなっても、この歳だからもう使ってもらえんのかな。このまま歳を取っていって、野垂れ死ぬのを待つしかないのかな。そんなふうにも思いますね。(2003年5月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年4月26日 (月)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第70回 ケガと病気の人生だった/須藤好喜さん(49歳)

 生まれは昭和29年で、神奈川の座間です。
 父は大工をやってました。腕のたしかな大工だったようですが、ひどい酒乱でしてね。仕事以外のときはいつも酒に酔っていて、家族を相手に怒鳴りまくる、殴る蹴るの暴力をふるうで大変な父親でした。
 小学生のころ私が風呂に入っていると、父が鉈を持って「ぶっ殺してやる」と踊り込んできたこともあります。私は素っ裸のまま家の外に走って逃げましたが、とにかく父には怖いという印象しかありません。母が一番大変だったんでしょうが。
 私が小学校3年生のときに、その父が亡くなります。肝硬変だったようです。正直言って、家族全員がホッとした気持ちになったのを覚えています。ただ、そのあとの母は6人もの子どもを抱えて、いろいろ苦労したようです。製罐工場で働いたり、ペンキ屋で働いたりしていました。

 私は横浜の工業高校を出てから、金属の硬度計をつくる工場に勤めました。ところが、入ってすぐにオートバイ事故を起こしましてね。右折する大型トラックに巻き込まれて、頭を激しく打つという事故でした。脳が頭の片側に寄ってしまうという大ケガで、2週間も意識不明だったんです。
 4ヵ月間入院して退院しましたが、後遺症が残りました。時々激しい偏頭痛に襲われます。その激しい痛みは形容のしようがありません。いまでも病院で定期的に脳波の検査を受けていますが、アルファ波が不規則なのは一生直らないようです。
 身体が回復してからは、叔父がやっていた電気工事店で36歳まで働きました。
 結婚はしませんでした。3年ほどつき合った女性がいましたが、結婚に踏み切るにはエネルギーが必要ですし、相手に合わせるためには自分のなかの何かを捨てないといけないでょう。そんなことが面倒臭かったんですね。
 叔父のところを辞めて、1年ほどブラブラしてから土建会社に入ります。孫請のさらに下の曾孫請くらいの会社で、日雇いに毛の生えたようなところです。

 それがこの会社に入って1年もしないうちに、病気で入院してしまいます。父と同じ肝硬変です。血筋なんでしょうね。私も酒が好きで毎日浴びるように飲んでましたからね。特に仕事もしないでブラブラしていたときは、24時間酒を切らさなかったんです。それがいけなかったんでしょう。
 病院には2ヵ月半入院していました。じつは私は健康保険に入ってなくて、点滴1本で1万円も取られました。入院治療費は相当な額になったようです。私には払えませんから、土建会社の社長と母とで半折して払ってくれました。
 病院を退院して実家に戻り自宅療養をしたんですが、家を継いでいた長兄ともめましてね。大酒を飲んで身体を壊したうえに、入院治療費まで母に払わせたというんで、兄はカンカンなんです。3ヵ月間のリハビリを終えて家を出るときには、「もう2度とうちの敷居を跨ぐな」と言われました。兄から勘当されたわけです。

 うちは兄弟姉妹が多いわりには、関係が希薄というか兄弟愛のようなものがないんです。子どものころは酒乱の父に怯えるばかりで、家庭の団欒とか、家族で旅行するとか、そういうことがまったくありませんでしたからね。兄弟愛なんて育ちようもなかったんです。
 兄に勘当されて家を出てからは、また例の土建会社に戻りました。入院治療費を立て替えてもらった義理がありますからね。その会社の寮に入って、建築現場の土工で働きました。この(新宿中央)公園の近くにある新宿パークタワービルの工事なんかもやったんですよ。
 そうやって土工で働いていたんですが、5年前の44歳のときに会社の健康診断で肺が引っかかりましてね。肺結核でした。こんどは8ヵ月もの入院でした。もう不況の真っ只中でしたから、会社は入院治療費をみてくれるどころか、そのままクビになりました。それで入院治療は川崎市の福祉から面倒をみてもらいました。
 病院を退院しても、偏頭痛もちで肝臓と肺をやられた身体では働くこともできませんからね。それで多摩川の六郷土手のところにビニールシートの小屋をつくって、ホームレスの仲間入りをしました。新宿に移ったのは2ヵ月前からです。特に理由はありません。新宿は、以前にビルの工事で働いたことがありますから、ちょっと河岸でも変えてみようかくらいの気持ちです。

 川崎では毎日パン券が配られて、それなりによかったです。でも、新宿のほうが人に人情味があって、ボランティアも親切だし、炊き出しもあるから暮らしいいような気がします。
 ホームレスをするようになって、いろいろ考えますよ。酒乱の父親のせいでメチャクチャな家庭でしたから、そんな家庭に育ったのがいけなかったのかなとかね。ホームレスになってからも、ほかの人とコミュニケーションをとるのが苦手でいつも1人です。
 ケガもしたし病気もしました。それもホームレスになる原因だったような気がします。身体はまだ完全じゃあないから早く治したい。でも、川崎の福祉を受けていたものが、新宿の福祉に変えるのは手続きが面倒らしいんです。だから、放ってあります。といって、私もまだ49歳ですからね。何とかしないといけないんですが……。
 とにかく身体を直して普通の生活、畳の上での生活がしたい。いまはそれだけです。(2003年7月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年4月25日 (日)

やずやの敗者復活騒動って、どうよ

 やずやの採用活動が、ネットでかなりの騒ぎとなっている。「やずやへの思い」を動画にまとめて、名前と学校を明記してYou Tubeにアップ。それで敗者復活が決まるというものだ。この「再チャレンジ制度」に応募した学生の一部が、非公開でアップするところを全世界に向けて公開してしまったらしい。
 やずやのホームページには、この騒動について次のように書いている。
「福岡という場所の都合上、遠方の学生も多く、わざわざ来ていただかなくてもいいようにどうしたらいいのだろうかと考えた結果、ほとんどの学生がパソコンを使っての就職活動を行っていることを踏まえて、非公開という前提でYou Tube を選ばさせていただきました」
 よくわからないのが、どうしてYou Tubeを選んだかである。メールで会社に送れば済むことだ。
 ビデオカメラだけではなく、携帯やデジタルカメラでも動画が撮れるだけに形式もさまざま。それをいちいちパソコンで見られるように設定するのが面倒くさかったのか、あるいはサーバーに大量の動画が来るのがイヤだったのか。それはよくわからない。ただ、企業の採用活動としてはお粗末だったと言わざるを得ない。

 ネット上では、やずや側が受験者に「非公開」を指定していなかったのではないかという疑念がささやかれている。これは正確なところはわからない。ただ、公開・非公開を別にして、「就職厳しいんだろ、一丁、根性見せてみろや」といった雰囲気が濃厚な「再チャレンジ」ではある。
 冷え切った就職状況で、多くの学生が大量の企業のエントリーシートを書いている。会社研究をしての執筆だから、まったく同じ文章を使い回すわけにもいかない。もちろん面接が進んでいれば、会社に訪問する時間も取られる。その忙しい最中に、動画を編集してネットにアップしろという「命令」である。

 かつて広告代理店などの面接試験で、「オレを笑わせろ」とか「一発芸をしろ」などというテストが行われたと話題になったことがあった。しかし、まだ就職にも余裕があったころの話。みんな笑っていられた。そんな人材がほしいのか、という嘲笑もそこには混じっていたと思う。「しょうがねぇな~、体育会系体質で」といった反応だ。
 ところが今回の騒動には笑いが出ない。それは学生に余裕がないからである。就職浪人が不利なことはみんな知っている。また、正社員になれなければ、その後の展望が開けにくいこともわかっている。バブル崩壊直後のように、アルバイトから正社員になれる道はほとんど開かれていない。
 どんなに就職が厳しくても、とにかく新卒で正社員にならなければならない。そんな現状である。
 もちろん採用側も、そんなことは百も承知。
 かつてなら正社員86名、資本金2000万円の会社の無理な要求など、多くの学生が笑って無視できた。ノリの同じ就職希望者だけが集まればいいのだから。

「非公開のご案内はしていたにもかかわらず、使い慣れた社会人と、そうでない学生への配慮が欠けていたのが今回の一番の原因です」と、やずやは今回の騒動を総括しているが、You Tubeへのアップロードに社会人が慣れているとは聞いたことがない。慣れている方が珍しいだろう。
 むしろネットに名前や学校名を公開することの怖さを知っている世代だったからこそ、被害が少なくて済んだともいえる。これが中途採用だったら、とんでもない数の動画がアップロードされたのではないか。
 まあ、わたしのようなおじさんがYou Tubeで動画を流しても、誰の興味も引かないとは思うが……。

 マイナビの記事では、「会社がいくら利益を伸ばしても、一緒に働く仲間が幸せでなければ私も嬉しくありません。当社の財産は人だと思っています」という矢頭徹社長の言葉が載っている。
 これが本当なのかどうかを疑わせる騒動だったことは間違いない。(大畑)

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2010年4月24日 (土)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第69回 会社を追われた元社長/尾崎浩介さん(50歳)

(取材をしたとき、尾崎さんは仲間と2人で大量の古本を広げ、その汚れを拭い、ジャンル別に仕分ける作業をしていた)

 この古本はね、神田の古本屋に持って行って卸すんです。自分で拾ってくることもありますが、ほとんどは古新聞の回収業者から、ついでに回収したものを回してもらっています。そういうルートをこしらえてあるんです。雑誌は扱いません。単行本だけですね。
 古本はジャンル別に仕分けをします。古本屋にはジャンルの得意と不得意がありますから、それを見極めながら卸しに行きます。最初は古本の価値も分からず叩かれたりしましたが、分かってくると店ごとの交渉が面白いですね。
 月の売り上げ? それは内緒です(笑)。でも、彼と2人で毎日3食を食べて、酒を飲むのに十分なだけは稼げます。
 ホームレスをやっていても、行政とかボランティアの世話にはなりたくないですからね。この公園(渋谷区にある東京都児童会館横の美竹公園)にも40歳だというのに生活保護を受けているのがいます。だらしがなさすぎますよ。自分の食い扶持くらいは、自分で稼ぎ出さないとね。

 生まれは千葉です。父はケミカル関係の会社を経営していました。だから、生活は裕福でした。私は小学生の頃からピアノを習っていましたが、その当時男の子でピアノを習うのは周りに1人もいませんでしたからね。外で遊ぶより家でクラシック音楽を聞いていほうが好きな子でした。ビゼーとか、ヨハン・シュトラウスをよく聞きました。
 千葉の普通高校を出てから、私立T大学の政経学部で学びました。いや、父の跡を継ぐ気はなかったです。学生のころから外務省の制度を利用して、中南米の国々を回ったりしてましたから、海外に出て活躍するのが夢でした。
 それで大学卒業後、渡航費用などを蓄めるために、父の会社でアルバイトを始めたんです。ところが、26歳のときに父が事故で亡くなってしまいましてね。会社を継ぐことになっていた弟はまだ学生で、私が父の後釜に座らざるをえなくなったんです。
 社長業なんて右も左もわからない若僧でしたけどね。当初は古参のベテランの社員に助けられながら、何とかこなしました。見様見真似の社長業でも、2、3年もすれば板についてきますからね。それで事業の拡大展開をはじめるようになります。

 ケミカル業界というのは企業体質が非常に古いんです。父もコツコツとした堅実経営でした。私はそれを方向転換させて積極経営に切り替えました。設備投資を盛んにして、従業員も50人くらいまでに増やしました。業績はグングン伸びて、営業規模は父のころの6倍くらいまでになりましたからね。
 でも、それもバブル経済の崩壊とともに弾けていました。売上げはガタガタと落ちて、過剰な設備投資のツケだけが残りました。経営再建のために銀行が大手ケミカル会社の役員を送り込んできて、私は引責辞任に追い込まれてしまいました。父のつくった会社から追い払われたわけですね。私が41歳のときのことです。
 ただ、正直いってホッとしたところもあります。これで債権者から逃げ回らなくていい。資金繰りや手形の決済で四苦八苦する苦労からも解放される。そう思うと肩の荷が下りるようでした。負け惜しみじゃなくてね。それで会社の名前を残すこと、従業員は1人も解雇しないこと。それを条件にして引責辞任をしたわけです。
 少し派手にやりすぎたという反省はあります。営業接待では一晩に200万、300万円を遣ったこともあります。私生活でも外車5台を買い揃えたり、夏休みになれば、やれニューヨークだ、やれフロリダのディズニーランドだと、毎年のように家族で遊びに行ったりね。
 ケミカル業界ではバブル経済崩壊後に、小さな会社がいくつも潰れています。みんな私と同じ2代目経営者が、派手にやりすぎて潰しているんです。その点、うちは社名が残ったし、従業員を路頭に迷わすこともなかったから、まだいいほうでしょうね。

 社長を引責辞任することになって女房、子どもとも別れることになりました。女房と結婚したのは30歳のときで、同じ大学の同級生でした。離婚することになって、家屋敷を売り払って慰謝料に充てました。子どもは男の子が1人。別れたとき10歳で、可愛い盛りでしたからね。女房とはともかく、子どもと別れるのは辛かったですね。
 女房と子どもは女房の実家に帰りました。女房は関西の資産家のお嬢さんでね。だから、子どもの養育費を送る必要がないんで助かっています。
 それからの私は東京に移り台東区にアパートを借りて、アルバイトをしながら食いつなぐ生活になりました。でも、そのアルバイトのクチもだんだんに少なくなってきて、去年の暮れからこの公園で暮らすようになりました。仲間になった彼と、2人で古本拾いをしながらね。
 社長をしていたころの年収はン千万円、いまはその何十分の一、いや何百分の一でしょう。だからって、落ち込んだりはしません。それとこれの切り替えや割り切りが早いんです。性格が楽天的にできているんですね。

 私もまだ50歳ですからね。もうひと旗揚げるつもりでいます。小さくてもいいからケミカルの技術系の会社を興したいと思っているんです。それには元手が必要だから、一生懸命がんばって働かないとね(笑)。(2003年8月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年4月22日 (木)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第68回 兄弟の裏切りに遭って/中村さん(61歳)

 生まれは昭和16年、福島県の会津若松です。父親は会津漆器の塗り師をしてました。腕前のほうはどうだったのか? 普通だったんじゃないですか。自分の工房を持っているわけじゃなくて、漆器工場に勤めるサラリーマンの塗り師でしたからね。
 この父親が酒乱でね。私が小学校4年生のときに、両親が別居します。それで母親が柳津町にあった実家に戻り、私も連れていかれてそこで育ちました。
 子どものころの私は真面目でおとなしい子でした。勉強もできましたよ。中学校のときは全学年400人中の33番でした。だから、高校へ進みたかったんですが、家の事情が許しませんでね。中学を終えてすぐに働きに出ました。集団就職です。
 就職したのは東京・大田区にあったベアリングをつくる町工場です。車のプロペラシャフトの十字軸に使うベアリングで、その研磨が仕事でした。
 そこには6年間いましたが、寮と工場を往復するだけの真面目なもんでした。愉しみは日曜日に映画を観るくらい。裕次郎の日活アクション映画とか、西部劇の3本立てなんかをよく観てました。
 あとの愉しみは盆と暮れに土産を持って田舎へ帰ること。あのころ暮れに帰ると、会津はすごい雪に埋まっていましたけど、最近はめっきり雪が少なくなりましたね。といっても、ここ15年くらい帰ってませんけど(笑)。

 ベアリング工場を6年で辞めることになったのは、会社が合併して配置転換になったからです。販売部に回されたんですが、営業ですからね。現場にいた人間が、いきなり営業に回されてもできやしません。それで辞めました。
 それから車の運転免許証を取って運転手になりました。それを手始めに車のバッテリー販売とか、引っ越し業、内装工事の工務店とか職業を転々とします。
 そんなことをしているうちに30歳をすぎてしまって、職が定まらない、生活が安定しないで、結婚する機会を失っていましたね。
3人の兄たちに裏切られ…

 私は7人きょうだいで男が4人。男では私が一番年下になります。この男の兄弟4人は全員が東京に出て働いていました。
 私が31歳のとき、長兄が機械設計の図面を引く事務所を開いたんです。それを兄弟みんなで手伝うことになって、私も仲間に加わりました。
 地味な仕事ですから、そんなに大儲けすることはありませんでしたが、赤字を出すこともなく経営は堅実で順調でした。
 事務所を始めて7年目のときのことです。長兄を中心に上の兄3人が結託して、私の追い出しにかかったんです。実の兄3人が組んで、末の弟を追い出す。そんなことが普通考えられますか?
 どんなことをされたかって? そんなこと口じゃあ言えませんよ。悔しくて腸が煮えくり返って、いまでも会ったらぶっ殺してやろうと思っています。実の兄弟に裏切られた気持ちは、人に話してもわかってもらえんでしょうね。

 私はそのとき38歳でしたからね。もう人生のやり直しはきかない年齢だったし、ショックでしばらく立直れなかったです。もうどうとでもなれという気分でしたね。それで兄貴たちとは絶縁しました。
 それからは日雇いや日払いの仕事で働くようになりました。その日さえ暮らせれば、それでいいという気持ちですね。新しいことを始めたり、立ち直ろうという気力はもう湧きませんよ。
 日雇いの仕事は建築現場の土工です。日払いのほうは図書館に移動式の書架を取りつける仕事が多かったです。日払いの日当は 13,000円になりましたから、飲み食いをしてカプセル(ホテル)かドヤ(簡易宿泊所)に泊まるには十分でした。
 ところが、55歳あたりから腕の関節が痛むようになって、重いものを持つのが辛くなってきました。そのころから手配師に「年寄りはいらないよ」って相手にされなくもなりました。働かなければカネがないし、路上に寝るしかなかったわけです。
 路上で寝るのに特別な感慨はないですよ。それ以前にも仕事にあぶれたときは、公園のベンチで寝ていましたからね。馴れたもんです(笑)。

 新宿は暮らしいいですよ。食いもんが豊富ですからね。週3回朝の清掃ボランティアがあって、それに参加しています。この(新宿中央)公園の周辺のゴミ拾いをするんですが、参加すると朝飯がもらえるんです。私は丼2杯分の飯をもらって、その日1日の飯にしています。ほかにもボランティアや宗教団体が、炊き出しや差し入れをしていますからね。食いもんには困らないです。
 タバコ銭がほしくなったら、マンガ雑誌を拾って路上書店に持っていけばいい。1冊50円で引き取ってもらえます。
 私は血圧が高いから申請すれば医療保護が受けられるらしいです。でも、施設に入って窮屈な集団生活をするよりは、こうして1人で気ままにしているほうがいいですね。
 昼間はこうやって公園のベンチで、好きな推理小説を読んでいます。いま読んでいるのは松本清張です。本は雑誌拾いのついでに拾ってきます。けっこう文庫本が捨ててあって、読む本には不自由しませんよ。
 これから先のこと? このままでしょう。自由で気ままなこの状態がいいですからね。このまま歳をとっていければ、それでいいですよ。(2003年9月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年4月21日 (水)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第67回 人生が途中で破綻した/Iさん(57歳)

 生まれは青森県金木町です。作家の太宰治が生まれたところですね。町を岩木川が流れ、その向こうに岩木山が聳える景色のいいところでした。
 家は農家で米とリンゴ、それに畑作を少しやってました。子どもの頃の私は、まじめでおとなしい子でしたね。一度悪ガキに唆されて、他人のブドウ園に忍び込んで見つかり、警察へ突き出されたことがあります。悪さをした思い出といえばそれくらいです。
 中学を出て東京へ出てきました。昭和38年で東京オリンピックの前の年です。当時の日本は大変な人出不足で、私ら中卒者は「金の卵」とかもてはやされた時代です。
 私が就職したのは、電々公社(今のNTT)の電話局で電話交換機の設置と組み立て配線を専門にする会社でした。その頃は電話が手動交換から自動交換に切り替わる時期でしたから、仕事は忙しかったです。
 会社は池袋にあって、その寮に入りました。当時の池袋にはまだ都電やトロリーバスが走っていて、東武東上線の線路脇には屋台がズラッと並んでいました。夜になると「立ちんぼ」の女が、客の袖を引いたりしてね。だけど、私は真面目でしたから、女遊びも、酒も、ギャンブルも関係ありませんでした。
 仕事が忙しいのは、ずっと続きました。全部の電話局に自動交換機が設置されてからも、交換機は次々に改良型の新しいタイプに変わっていきましたからね。交換機械が新しくなるたびに、構造や配線を覚えるのが大変でした。だから、年中仕事に追われていて、結婚するどころではなかったですよ。
コツコツ蓄めてきた預金がパー
 30歳過ぎにこんなことがありました。その会社に就職してから、毎月の給料から天引きで銀行の積み立て預金をしていたんです。それが満額の100万円になって、1年間の据え置き期間を置いてから銀行に解約に行ったんです。
 そうしたら、すでに誰かが解約してしまったあとでした。そんなことができるのは会社で経理をしている女事務員しかいないから、彼女を問い詰めたんです。すると「私は知らない。たぶん社長がしたことよ」と言い、それで社長のところに聞きに行くと「オレは知らん。女事務員がくすねたんだろう」と言うんです。
 2人は擦り付け合うばかりで、結局うやむやにされてしまいました。10年以上かけてコツコツ蓄めてきた100万円をパーにされてしまったわけです。その頃の100万円といえば大金でしたからね。ショックなんてもんではなかったです。
 警察には届け出ませんでした。そんなことをしたら会社をクビになりますからね。仕事を失うのが怖かった。臆病者なんですよ。
 そのことがあってから、私は人が変わったようになりました。コツコツとカネを蓄めるのがバカらしくなったんです。「せっかく蓄めても、人に掠め取られるなら、稼いだだけ自分できれいサッパリ遣ってしまったほうがいい」そういうふうに考えるようになったんです。
 酒を飲むようになったのはそれからです。仕事帰りに毎晩のように居酒屋に繰り出しました。自分でも飲みましたが、人にも見境なく奢ってやるようになりました。カウンターで隣り合わせただけの見ず知らずの客にも、「いいよ。いいよ。払いはオレにまかせろ」という調子でしたからね。
 酒ばかりじゃなくて、ギャンブルにも、女遊びにも手を出すようになっていました。
 二日酔いで仕事に行くのはしょっちゅうですし、二日酔いがもっとひどいと無断欠勤してしまう。それにカネ遣いが荒いから、給料をもらってもすぐになくなってしまう。それで毎月のように前借りをしてました。勤務態度が悪い上に前借りの常習犯でしたが、社長は私を解雇できませんでした。例の100万円の件があったからですよ。
 周りの同僚たちは、私の変わりように驚いていたようです。今思えば、あの頃が私の人生で一番面白くて楽しかったときですね。ホントにハメを外して遊び狂いましたから。
 その会社を辞めたのは50歳くらいのときです。いや、解雇されたわけじゃなくて、仕事についていけなくなったんです。電話交換機はどんどんハイテク化されていって、コンピューター制御になったでしょう。配線作業も、現場にパソコンを持ち込んでするようになりましたからね。そのパソコン操作をする大学出の若い技術者の話が、まるでチンプンカンプンなんです。
 それに目も老眼になって、細い配線ケーブルが見にくくなりましてね。昔は径0.5ミリあったケーブルが、今は0.3ミリです。色分けでもしてあればいいのに、ケーブルの先端に小さな印があるだけで、それを見分けて配線しなければならない。老眼の目では無理なんです。そんなこともあって辞めました。
 その後は飯場に入って土工をやりました。でも、土工をやったのは2年くらいでした。私は高血圧で、それに不整脈もあって、現場で倒れでもしたら周りに迷惑がかかるでしょう。それで自分から身を引いたんです。
 それからはホームレスです。ずっとこの(南池袋)公園で寝起きしています。以前の会社も、その寮も池袋にありましたから、どうしても池袋から離れられないですね。
 身体さえよくなれば働く気はありますよ。だけど、直りそうもないしね。いっそのこと田舎に帰って、兄の農業でも手伝おうかと思うこともあります。でも、東京に出てから一度も連絡したことがないのに、虫がよすぎるかなとも思います……。(2003年10月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年4月20日 (火)

ロシアの横暴/第37回公衆トイレが打ち手の小槌に!(2)

 アル中対策に名を借りてウオッカを大幅値上げして、税収増をねらうのもひどい話だが、有料トイレで庶民から絞り上げるとは呆れた話である。ウオッカは必需品ではないから、ガマンしようと思えばガマンできる。しかしトイレはそうはいかない。10ルーブルがなければその辺ですませる方法もあるが、もし見つかれば有料トイレ料金よりももっとすごい罰金が待っている。

 公衆トイレはソ連時代からあることはあった。ひどく数が少なく、しかも汚かった。だが無料だった。都心のやや清潔な公衆トイレには管理人がいて、こまめに掃除したり、タオルを出したりしてくれるのでチップを出す人もいたが、それとて任意だった。有料トイレが発生したのは、例の経済改革のころと思われる。だれでもビジネスチャンスというので、目端の利く者がトイレ不足にヒントを得て考案したにちがいない。その稼ぎ度に目をつけた国家が公共施設のトイレをすべて有料化し、すでにある「私立トイレ」も公立化したようだ。まさしく「安定した収入源」である。

 現在のロシアのトイレビジネスの料金徴収体系はどうなっているか知る由もないが、徴収した料金が窓口料金係の個人収入にならないことは確かである。駅舎などは国営鉄道に属する国家事業だから、国庫に納入されるはずだ。もっとも「何人のお客さまがみえたか」カウントできないから、一部分をくすねることは可能ではある。それもほどほどにしておかないと、「ノルマ未達成」のおとがめをくらうことなる。

 こうして集めたトイレ料金は取りっぱぐれのない、確実な財源としてソチ五輪の建設資金に計上されているような気さえしてくる。広大なロシアの全ての地域から上がってくる公衆トイレ利用料金は膨大な金額になるはずだからだ。

 おかしなことに旧ソ連構成国アゼルバイジャンでも似たようなことをやっている。こちらは0.2マナト約25円である。ロシアと同じようにひどく汚い。駅にある古いのも、新設の公園に最近設置されたのも(こちらはけっこう清潔だった)同一料金であるところがロシアとちがうが、給与水準は似たようなものだから、庶民にとって不当に高い料金であることには変わりない。
 ちなみに都市交通のバスは0.2マナトで、地下鉄は0.1マナトである。それに主食のパンが0.3マナトで、他の一般物価に比べればかなり安い。そんなところまでロシアと同じだ。ソ連がいやでロシアに主導されるのがいやで悲願の独立を果たし、最近ではロシア語の排斥すら起こっているというのに、ソ連的ものの見方考え方から抜けられないのだろうか。不思議な現象である。(川上なつ) 

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2010年4月19日 (月)

亀田興毅の元トレーナー「亀父」は再評価すべき!

 私は、亀父を再評価している数少ない日本人かもしれない。ヘタをすると日本でただ一人かも……。

 通称「亀父」、亀田史郎氏は3月27日の王座統一選で、立会人を務めた日本ボクシングコミッション(JBC)の事務局長やレフェリーなどを控え室に呼びつけ、採点がおかしいと怒鳴りつけた。その結果はご存じの通り、セコンドとしての永久追放と亀田ジムの活動停止。亀田兄弟は別々のジムで練習すこととなった。

 この試合で、亀田興毅チャンピオンはポンサクレック・ウォンジョンカム暫定王者に2-0で負けた。判定の点数以上の完敗だったと言ってよい。ジャブで動きを封じられ、ストレートやアッパーをくらい続け、点数が負けていてもインファイトに持ち込む気概させみせなかったチャンプ。試合前、スピードでは亀田選手が上との評価もあったが、スピードでまったくポンサクレックにかなわないことも判明した。
 試合のたびに疑問符がついた興毅選手の実力が、やっとハッキリしたというべきだろう。「我々元ボクサーや現役選手で、彼を本当に強いと思っている人がどれだけいるだろうか」という具志堅用高氏の過去の批判が、いかに的を射たものかがわかる。

 さて、こうした結果を前にしたとき、改めて亀父の指導について考えさせられた。顔を完全に覆うピーカーブースタイルと、体重の乗らないノーモーションのパンチ、打たれ強くするためにひたすらに鍛えたボディー。亀父の考え出した戦術は、世界チャンプを目指すのに向いているわけではない。以前にこのブログでも書いた通り、ピーカーブースタイルはかなり高度なテクニックを要する。そもそもスピードの遅い亀田興毅選手に向くわけがない。
 しかしスピードが遅く、打たれ弱い「グラスジョー」という欠点を抱えた興毅を、何がなんでもチャンピオンにするために方法として、亀父の指導は的確だったのではないだろうか!!

 とにかく打たれ弱い頭を固め、足を止めてカウンターを狙う。出入りの遅い興毅が強い相手にインファイトでしたら一気にKOされる可能性があるが、ピーカーブーのカウンター狙いなら若干でも可能性が出てくる。さらに相手が強くなれば、ピーカーブーのままアウトボクシングに徹して、ノーモーションのパンチで点数を稼ぐ。
 ボクシングとして美しくはないが、持てる才能のすべてを使って勝つことだけに集中すれば、これしか方法がないように思えてくる。
 彼はジャブが出ない。これは亀父の“悪しき教え”とメディアでも叩かれているが、果たして頭のガードを空けるジャブが有効かが疑問だ。ジャブが防御と攻撃の要となり、世界タイトルを戦うにはスピード足りないような気がしてならいからだ。内藤大助選手のように変則的な動きで幻惑する方法もあるが、彼のディフェンス技術はもともと定評があった。その基礎の上に成り立っている方法をマネても、弱点の頭部は守れないだろう。

 そして亀父、最大のファインプレーは、グリーンツダジムから協栄ジムへの移籍だろう。具志堅選手の防衛戦で対戦相手への薬物使用が報じられたジムとしても知られている。
 どんなに強くてもプロモーターに力がないと、なかなかボクシング・チャンピオンになれないことは広く知られている。逆に言えば、駆け引きの妙で王者にたどり着ける可能性もある。その意味では、「力を持った」ジムへの移籍は息子をチャンピオンにする絶対条件だった。
「日本選手と戦わず、本来のフライ級はWBA、WBCとも王者が強いこともあり、1階級下げて空位の王座決定戦に出る。金をかければ、そんなに簡単に世界挑戦できるのか」という、かつての具志堅氏の批判は正しい。しかし、このどんなに批判しても試合自体が無効になるような不正ではないのも事実だ。

 通常、才能の限界を感じたら、トレーナーはチャンプへの夢を見ない。しかし夢を見続け、あらゆる方法を探った結果としての指導なら「亀父恐るべし」である。
 考えてみてほしい。例えば、名トレーナーであるエディ・タウンゼント氏なら、亀田興毅を世界チャンピオンにできただろうか? 
 わからない。でも、おそらくもっと才能豊かな人を指導したのではあるまいか……。(大畑)

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2010年4月18日 (日)

読売テレビ「かんさい情報ネットten!」で大畑楽歩『三重苦楽』紹介2!

特集で(http://www.ytv.co.jp/ten/sp/index.html)にて取り上げられました

「2010年4月7日放送」をクリックしてご覧下さい!!

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2010年4月17日 (土)

鎌田慧の現代を斬る【特別編】/トヨタの宣伝部長になった元日経記者を質す!

 トヨタ自動車のリコールを巡って、豊田章男社長が米国に単身乗り込んだとして、日本では評価するような報道も目にした。しかし召還されて仕方なくでむいたわけで、けっしてかっこいいものではない。
 しかも帰国後、初更新となった自身のブログには、冒頭こそリコール騒動への謝罪があるものの、あとはカーレースの話ばかり。いくらドライバーとしてのブログとはいえ、この緊急時に「昨日テストコースで参戦車両のテストをして、いい汗をかくことができました」と書く能天気ぶりには呆れるしかない。

 たしかに3月の新車販売台数は伸びている。米国では前年同月比で約35%増、中国でも33%増と報道されている。しかし、そうした販売実績を支えたのは、ローン金利をゼロにする苦肉の策によるものだ。こうしたキャンペーンが終わったときに、消費者からの本当の評価が下される。そんなに安閑としていられるわけもなく、ましてトヨタの危機が去ったわけではない。

 トヨタの問題を抑え込んできたのは、莫大な広告費をバックにしたマスコミ対策だった。おかげで「トヨタ万歳」の記事がメディアに氾濫していた。そうしたメディア対策の一断面をあきらかにしたのが、2010年2月25日号と3月4日号の『週刊文春』に掲載された佐藤正明氏の「トヨタのプリンス豊田章男社長の真実」だった。
 1970年代初期から日本経済新聞で自動車を担当した記者だった彼は、文春の連載で次のように書いている。

「この時期、私は頻繁に英二さんに会っていた。英二さんは八四年秋に日本経済新聞の『わたしの履歴書』を執筆した際、僭越ながら私がお手伝いした。連載終了後、単行本にし、さらに英語版出版の準備を進めていた」
 日経の看板コラム「私の履歴書」で、豊田英二元社長のゴーストライターであったことを、自慢げに書いている。さらに豊田英二を経団連の役職に付けるために動いたこともあきらかにしている。
「花井さんと花村さんが会えば、マスコミに余計な詮索をされるので、佐藤さんの口からトヨタの内情と決意のほどを直接話して下さい」と、経団連とトヨタの「伝書鳩」となったことも認めている。

 本来、企業を監視する立場でもある新聞記者が、一企業に肩入れし、「新聞記者の私が花村さんに会う分には、誰にも怪しまれることはない」などと自慢するなど驚くばかりだ。記者なのかトヨタの「広報部長」なのかをハッキリすべきだ。
 また豊田英二が日本航空の会長に打診された際にも、自身が暗躍したことをしめしたうえで、次のように書いている。
「私はJALが破綻して会社更生法の適用を申請したとのニュースに接した時、<あの時、英二さんがJALに会長として乗り込んで安全を徹底させ、同時に経営にトヨタ方式を取り入れ、合理化を進めていたら最悪の事態は避けられたのではないか>と思ったりもした」

 これは矛盾する話である。「安全を徹底」すれば、トヨタ方式での合理化などできないからだ。5年ほど前のJR西日本・福知山線脱線事故は、いっさいのムダを省くトヨタ方式張りのコストダウンが優先されて発生した。今回のリコール問題も、「乾いたぞうきんでも絞る」という豊田英二以来つづくコストカットによって、労働者や下請けが疲弊していたことと無関係ではない。
 それなのにこういうライターが、トヨタ全能主義でトヨタ方式導入を叫ぶのだから信じられない。
 しかも連載原稿の最後に、「トヨタの業績が回復しない限り、日本経済の展望は開けないといっても過言ではない」とも書いている。余計なお世話だ。
 法人税の1割をトヨタが負担していたとしても、これは誇大妄想である。

 日本経済がトヨタに頼みだと書くようなライターが、トヨタの周りにはいっぱいいたのだろう。これでは企業批判などできるはずがない。労働者をいじめても、派遣切りしても大会社がもうかっていればいいという発想になるからだ。
 リコール騒動の最中に、豊田章男社長が「トヨタは万能ではない」と、おごり高ぶった視点から語って問題になった。しかし、このような取り巻きに囲まれて育てば、「万能意識」が芽生えてもいたしかたない。(談)

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2010年4月16日 (金)

大畑楽歩さん、またまた写真展

大好評のうちに幕を閉じた『三重苦楽』の写真展。
大変に好評だった様子が、楽歩さんのブログにも綴られています。↓
http://ameblo.jp/rabu-snoopy/page-3.html#main
懐かしい人との再会などもあったようで、本当に感動的な写真展となりました。

さらに、見逃してしまった人のために6月にも関西で写真展が開かれます!

とき:6月12日~26日(時間未定)
ところ:京都銀行川西支店内ギャラリー

そして出版記念の公演も予定されています。

演題:第11回つるや薬局ほほえみ健康フォーラム“三重苦楽・出版記念講演”
とき:2010年6月27日(日)10:00~19:00(この日程の中で講演があります)
ところ:アステ川西 ぴぃぷう広場

これからも、楽歩さんの活動に乞うご期待!

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2010年4月15日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第33回 アフガン・テロと明治維新(2)

 前にテレビでパキスタン国境地域の自爆要員養成施設のニュースをやっていた。ニュースでは、子供たちが天国での良い暮らしを信じ込まされ、来世での幸せ欲しさに自爆すると説明していた。ホントかなあ?
 よしんば来世での天国を保障されたとしても、自分の命を断ってまで自爆攻撃なんかするのかな。「狂信者」という言葉があるけれど、宗教的な裏付けだけで自爆するとは僕にはどうしても思えない。やっぱりそれだけの理由があるのだと思う。
 自爆犯は故人だからもう推し量るしかないけれど、僕は貧しいタリバンからすればこのシティ・センターは憎悪の対象になると思う。
 タリバンって言っても貧乏なお百姓さんが武器もって戦っているようなもんだ。彼らはすごく貧しいし、子供もとても多いから明日の食べ物にだって事欠く生活だ。だけど、カブールには、復興支援で賑わい、外国が落とすお金で潤った富裕層が集まるショッピングモールが高々とそびえ立っている。反外国人感情と、その憎い外国人からお金を貰ったにわか金持ちが攻撃対象になったって不思議じゃない。

 最近はやりの幕末とかけてみれば、アフガニスタン版桜田門外の変や生麦事件みたいなものじゃないだろうか。「不逞にも外国と取引をし、祖国を売り渡した奸族と外国人に命を賭して天誅を加える」というノリだ。
 別に自爆攻撃を賛美するつもりは無い。無差別の暴力行為はどんな理由があっても許されることではない。でも、幕末の開国派、佐幕派に対する攘夷志士の行動だって言うなればテロだ。高杉晋作の英国公使館焼き討ちなんて、正に日本史上稀にみる大テロ攻撃だ。だけど、誰も彼らをテロリスト!と非難することは無い。

 現在において日本の維新志士は英雄として扱われていることも珍しくない。それは日本人が、維新志士がどうしてそこまでする必要があったかを理解しているからだ。アフガニスタン人も同じだということは、知っておくべきだろう。イスラム教徒だろうがサムライだろうが、自分の命を捨てるっていうのには、それなりの理由があるのだ。

 幕末の混乱は長州、薩摩のクーデターにより、彼らが政権を握ることで収まった。アフガニスタンはどうなるのだろうか。アメリカは来年には撤退するし、タリバンはその時期をいまかいまかと待ち構えている。幕府のバックについていた欧米列強が期限を明言して手を引くと言っているのだ。維新志士側としては盛り上がること請け合いだ。
 日本は大政奉還という形である程度軟着陸できた(結局戊辰戦争になったとはいえ)。けれど、現アフガン政府がタリバンに政権を奉還するなんて、アメリカからすればとんでもない話だ。
 アフガニスタンの状況はますますもって抜き差しならなくなっている。そう考えると、シティ・センターのあのまずいコーヒーの味もうすら寂しく舌に思い出されてくる。(白川徹)

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2010年4月14日 (水)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第66回 ホームレスになるしかない/堤昭義さん(65歳)

 おとといの午後、木更津(千葉県)を出て、夜もずっと歩き通して、いまさっき新宿に着いたばかりです。新宿で仕事を探そうと思って来たんですけどね。どうしたら仕事が探せるのかわからないし、思案に暮れていたところなんです。
 それよりも、飲まず食わずで2晩寝ずに歩き通しましたから、脚は痛いし、眠いし、腹は減ってるしね。カネは1銭も持ってないんです。(とりあえず弁当を差し入れて、それを食べながらの取材になった)
 ずっと左官をやって働いてきました。それがおととい急に「おまえはクビだ」といわれて飯場を出されました。まあ、私も65歳ですから、いつクビにされてもおかしくはなかったですけどね。
 飯場を出されても行くあてがないから、新宿に来ればなんとかなると思って歩き始めたんです。だけど、途中の船橋のあたりでへばってしまい、もう歩くのをやめようかとも思いました。でも、船橋あたりでは仕事なんて探せないだろうし、ホームレスになるにしても不便でしょうからね。それで気を取り直して、新宿まで歩いてきたんです。
 だけど、やっとの思いで新宿に着いてみても、何をどうしたらいいのかわからないし途方に暮れるばかりでね。ホントに困っていたんです。(そこで、筆者の知っているホームレスに関する情報を教えてやった。65歳で仕事に就くのは、新宿でも大変なことも)
 やっぱり、この歳で仕事に就くのはむずかしいですか? このままホームレスになるしかないのかな。
子どものころから悪ガキでね
 私の生まれは東京です。世田谷の等々力で生まれ、オヤジは小さな時計店を営んでいました。
 昭和13年の生まれですから、戦争のことも覚えています。空襲警報が発令されるたびに防空壕に逃げ込んでね。実際に空襲に遭ったこともあります。壕の前に爆弾が落ちて火柱が上がるのも見ていますよ。
 上の兄たちは学童疎開がありましたが、私は終戦のときが小学2年生でしたから疎開はしませんでした。あれは3年生以上だったんじゃないのかな。
 子どものころの私は、手のつけられない悪ガキでね。「ガキのころから手クセが悪く」はそのまま私のことですよ。友だちをカツアゲするし、店屋で万引きはするし、それも常習でしたからね。
 小学校を卒業するころには完全にグレてしまって、家出をしてしまいました。だから中学校にはまったく行ってないです。それで渋谷とか世田谷の盛り場をほっつき歩いては、ガンを飛ばされたとか、肩が触れたとか因縁をつけてはカツアゲしたり、物をかっぱらったり、そんなことばかりを繰り返す毎日でした。中学生の分際で女郎屋にも出入りしてましたからね。渋谷の円山町にあった女郎屋ですよ。
 私はいつも一匹狼でした。チンピラたちのようにグループや徒党を組むのは好きじゃなかった。集団で弱い者をいじめたりするのは性分に合わないんです。
 でも、一匹狼とかいって1人でイキがってると、地回りのヤクザに目をつけられますからね。幾度か捕まってヤキを入れられたこともあります。だけど、私は恐くはありませんでした。死んでもいい覚悟で、ヨタを売ってましたからね。死んでもかまわないとなったら、恐いものはなくなりますよ。
 警察のやっかいになったこともあります。それも1度や2度じゃありません。ネリカン(練馬にある少年鑑別所)に入れられたこともあります。あんなところに入っても、かえって悪くなるだけですけどね。
 そんなふうにして25歳くらいまで、ヨタを売ってブラブラした暮らしをしてました。ただ、いくらなんでも25にもなれば、そんな暮らしをいつまでも続けられるわけがないと気づきますからね。それで足を洗いました。
 それからは真面目になって働きました。左官の仕事です。はじめのうちは全国の飯場を転々としていました。そのうちに木更津の飯場に落ち着いて、そこに30年くらいいました。おとといクビになるまでね。
 結婚はしませんでした。ちょうど全国の飯場を転々としていた時期だったし、最初からそんな気はありませんでしたからね。
 私が木更津に行ったころは、町にも活気がありました。アクアライン(東京湾横断道路)の計画があって、あちこちで宅地が造成されたり、デパートやショッピングセンターが建てられたりしましたからね。仕事は忙しかったですよ。アクアラインの海底トンネルの工事もやりました。あの工事は10年近くかかりましたからね。
 だから、バブル(経済)が弾けたあとも、木更津だけは景気がよかったんです。それがアクアラインが開通(97年)したころからガタガタっとなって、いま町は火が消えたようになってます。
 そのころから、私も老眼が進んで水糸(左官の現場で水平基準を示す糸)が見えにくくなって、コテが持てなくなりました。それからは練りの作業のほうに回ってましたが、ここ何年か左官の仕事は減ってますからね。それでおとといクビにされたわけです。
 新宿にも仕事がないとなれば、今夜からホームレスになるしかないわけですね。ペンチとドライバー、それにハンマーも道具はみんな持ってきたんですけどね。仕事がないんじゃ仕方ないな……。(2003年11月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年4月13日 (火)

ロシアの横暴/第36回公衆トイレが打ち手の小槌に!(1)

 国家が財源不足になったら何をするだろうか?
 いわゆる先進国によくある制度として消費税がある。酒税やタバコ税は一般諸費税よりは高く設定できるが、世界的には禁煙の方向になっているのにそれを国家が先頭をきって奨励するわけにはいかない。その点消費税は便利な打ち出の小槌といえる。どんなことがあっても物を買わないわけにはいかないからだ。特に日用品食料品にもまんべんなく課税される現在の日本の消費税制度は全国民の90%を占める庶民の懐から確実に税金を巻き上げてくれるとても性能の良い「打ち出の小槌」である。

 ところがロシアには打ち出の小槌の上をゆく、有料公衆トイレがある。ロシアの公的な建物のうち、空港内にある公衆トイレ以外はほとんどすべて有料である。料金は一定ではないが、10ルーブルから20ルーブルとなっている。10とか20とかきくと、10円20円のような気がしてしまうが、ドル換算すると1ドル約30ルーブルだから1回30円見当、3回公衆トイレを利用すると1ドル以上かかることになる。なんだ1日1ドルか、だが、ロシアの給与水準からみればとんでもない値段である。モスクワですらビジネスで当たって荒稼ぎしている者以外、いわゆる公務員、会社員で1000ドル以上の給与を手にする者は限られている。地方に行くと200ドル(6000ルーブル)未満もざらだし、年金生活者はさらにひどい。失業者もあふれている。そこに公衆トイレ利用料が10ルーブルである。

 値段もさることながら、次の問題はそのきたなさ加減である。
 公衆トイレは捜さなくても悪臭が漂っていることからわかるほどで、ひどく汚い。水洗なのに水が出ないところ、装置が壊れているところ、ドアが閉まらないもの、かぎはあるけどポイントが合わなくて閉まらないもの、そもそもドアがはずれてしまっているものなど、行かなくてもいいのなら絶対に行きたくないところだ。

 ロシア南部のある鉄道駅にある公衆トイレを利用した。まあ、まあ我慢のできる範囲の清潔度だった。しかし、20ルーブルである。60円だ。連れの女性が料金を払ってくれるのでとにかく中に入ろうとすると受付の女性が「ちょっとあんた、どこへ行くのよ!」と叫ぶ。連れの女性が、彼女は日本人で日本のトイレは全て無料だから慣れていないのよ、と説明している。すると受付係は公衆トイレがすべて無料だなんて、じゃあ、よほど汚いのね、と返した。この駅のトイレは他のところよりもかなり清潔であることをセールスポイントにして他より高めの20ルーブルの値段を設定したようである。

 バンクーバーでの冬季五輪が終わり、2014年度の開催地であるロシアのソチがにわかに脚光を浴びるようになった。「あのロシアで大丈夫かね」という懸念を吹き飛ばしたいのか、日本の新聞では「ロシアは威信をかけてカネに糸目をつけずに会場建設中」という記事が目立つ(新聞社によると大本営発表しか情報がないとのことである)。
 しかしソチの街に出てみると、オリンピック歓迎の立て看板やポスターは目につくものの、インフラ整備がどこまでできているのか、まるで見えない。建造中なら屋根の上にクレーンぐらいあってもよさそうなものなのに、選手村らしき建物も屋上に派手な標語が並んでいるだけで、なんだか途中で建設を中止したような雰囲気である。おそらく今ある資金で作れるところまで作って次の資金を待つ、という独特のやり方なのだろう。糸目をつけない、というのは糸目をつけるカネがないのだろう、と茶化したくなる。ソチもロシアだから公衆トイレ事情は同じはずだ。オリンピックともなれば全世界から観客がやってくるから、そこで清潔な公衆トイレをたくさん建てて、高い料金を設定して一稼ぎするつもりなのかも知れない。(川上なつ) 

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2010年4月12日 (月)

Brendaがゆく!/もう本当に心の限界です・・・

のだめという番組を日本に行った時に見ました。

そうしたところ、部屋の汚さ、ベランダから意味不明の液体がながれ虫がわいているところまさに私と同じ。


自分の番組じゃないかと思ってびっくりしました。


あの頃は、彼氏が私の家を怒りながら掃除して。


ポーランドでは、室内楽のパートナーが音合わせに来るたびに一気に掃除してくれていました。
その他、アルバイトの人にやってもらってた時期もありました。

だって~~~

本当にできないんだもの!!!

でも、今パリの家を大幅に模様替えと掃除しなければいけません。


広さは35平米ぐらい。結構掃除に労力がいるのです。


掃除をすればするほど私の心は貧しくなり。
もう鬱寸前!

なんでこんなことに時間を無駄に使っているんだろうか・・・
自分は何も生み出してない人間になっている瞬間がありそれはまさに今だ!と思ってしまうのが掃除をしている時の私の気持ち。


一人暮らしで広くもないアパートですがもう限界なので人を雇いたい!
週に3時間来てもらうだけだって、トイレとか部屋中の床、バスルームがきれいになります。
カビからの健康被害から自分を守ることもできそうです。
料理がうまい人なら2時間ぐらいかけて1週間分の食事を作り置きしてもらうことだって可能だと思います。
(ちなみに私は信頼の問題でポーランド人しか頼まないと思うので)
好みの食事を言えばポーランド人女性なら絶対おいしい家庭料理が作れるでしょう。
フランスで外食は高いので、結果的にお金の節約になるでしょう。


アタクシの稼ぎはお掃除の人にお支払いする1時間の@倍なので時間の節約です。


しかし、日本の知り合いの中では、家事がおろそかになったので仕事を辞めるように夫から言われた人がいるそうな。


基地外的な話に聞こえますね~。


掃除ごときで家に縛られなければいけないなら私は間違えなく器楽類ベランダからぶっ飛び降りて死ぬでしょう。



日本の人たちってお掃除とか外注することにすごいなんか敷居の高さを感じているみたいに見えます。
日本は専門職でも時給に換算するとお金が安いので金銭的な問題もあると思いますが、でも日本のお掃除の人は張り紙で募集すれば間違えなくフランスよりも安いと思います。


私も張り紙で募集するか知り合いに紹介してもらいます。
しかし、お金持ちの知り合いの家のお掃除の人は最低でも10ユーロ、それか13ユーロぐらいはすると思うので、意味ないからお金持ちの友達には聞きません。
底値はいくらか知るために、お掃除の仕事をしている友人に明日電話で聞いてみます。
ちなみにお掃除をしている友達はお泊まりに遊びにいったりもする仲良しです。
私はみんなと仲良くしているので、いろいろなお友達がいます。


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2010年4月11日 (日)

残る女子大、残らぬ女子大/第2回 聖心女子大学

 「聖心女子」・・・いわずと知れたお嬢様学校である。「一人ひとりの人間をかけがいのない存在として愛するキリストの聖心に学ぶ人格教育」を基礎に創設された聖心女子大学は、美智子皇后陛下、緒形貞子氏など日本が誇る女性を輩出してきた。

 創立当時から聖心キャンパスの象徴である広尾。そこには隣接する渋谷駅とかけ離れている空気が漂う。都内有数の高級住宅地の品格を持ち、緑と共に静かに在るその街をしばらく歩くと、街角からまさに「華の女子大生」といった集団とすれ違った。ピンク色やクリーム色の雰囲気を身に纏い、4,5人で楽しそうに歩く姿は、ファッションや流行が移り変われど1948年の創立時から変わらない光景に違いない。

 聖心女子大学は日本で最初の女子大学の一つである。良家の子女が通うという事はあまりにも有名で、お見合い結婚を考える男子達に大学の卒業アルバムが高値で取引されたそうだ。現在でも有名女性誌に多数の読者モデルを輩出しながらも、大学名は必ず「S女子大学」と名を伏せる決まりなど、その深窓の令嬢ぶりは平成の世でも健在である。

 学部構成は文学部のみの1学部制ということだが、人文学だけでなく、社会科学や自然科学も学べる5学科9専攻からなりたっている。外国語教育機関や大学院も充実し、研究者やグローバル化社会で生き抜く女性を育てることに力を注ぐ。「女は勉強があまりできすぎてもだめ。結婚のために家事裁縫を」というような昔の日本特有の女性への考えには、女子教育の最先端を走り、英語教育の重要性をいち早く説いた創立以来から敏感なのかもしれない。

 華やかなイメージがつきまとうが、大半の生徒は「真面目」と語るのは、大学に通う4年生のTさんだ。「良家の子女というイメージは昔特有のもの。意外とサラリーマン家庭の子が殆どです。お金持ちの子は確かに居るとしても隠れセレブって感じで、あからさまにお金持ちオーラを出してる子は少ないですよ」と語る。
 服装はCanCam系が8割、ViVi系が1割、non-no系が1割。バックのブランドは揃ってLOUIS VUITTONやCOACHが規定バックのようになっているそう。たまにHERMESのガーデンパーティなども見かけるらしい。Cam-Can系のカーディガンにパステルカラーの膝丈スカートにガーデンパーティを持たれて、「意外と皆普通の家庭」と言われても下界の人間は戸惑うだけなのだが・・・。そこはやんごとなき聖心、地上とは異なる物の見方なのかもしれない。

 「プライドは確かに高いかも。就職先は金融の一般職だったり、エアラインだったりが圧倒的に多いですね」とTさん。就職氷河期の中でも聖心の就職率の高さは保たれているようだ。面接をする40,50代世代といったら、聖心、白百合などの名前が大好物なのは言わずと知れたところ。付属の聖心女子高校の生徒では、下手に大学受験をして2流の大学に行くよりは、○年聖心育ちという年数を稼ぐ選択をしたほうが将来のためには良いという話は生徒同士でもなされるらしい。大学在学中には、留学や秘書検定のような資格受検など、聖心ブランドを支える何かを見つける生徒も多いようだ。

 キャンパスに通じる門には必ず警備員が常駐。生徒1人1人が警備員と挨拶を交わす。笑顔で挨拶をし、去っていく女子大生の後姿をまるでわが娘のように愛しんで見つめる警備員の方々が印象的であった。スタートから共学の無法地帯に通う筆者にはカルチャーショックな光景であったが、マリアンホールと呼ばれる大ホールや聳え立つ聖堂などがますます筆者が持つ聖心のイメージを増長させてくれた。
 校舎の中に入ると、廊下には一面茶色の木製ロッカーがある。建物の雰囲気も重なってチャペルに居るような気持ちになる。ぐるりと庭に囲まれた1号館は、静かな空気が流れ、時折生徒たちの挨拶が聞こえる。年の瀬ということもあり、「良いお年を」という声を聞きながらマリア像のある中庭に出ると、やはり自分は下界とは違うところに来たという感じがする。
 元々は久邇宮邸だったというキャンパスの中には、ミッション系女子大学のイメージとは少し違う伝統的日本建築も見る事が出来る。寺社の門を髣髴とさせる正門に加えパレスと呼ばれる立派な日本家屋は、久邇宮家の御常御殿として1922年に起工され、文化庁の登録有形文化財に指定されている。ふすまや引き戸は横山大観などの絵画で彩られており、現在ではここで華道や茶道などの古き日本の美徳を聖心生は日々学んでいるらしい。

 今も昔もこれだけ普遍的なブランド力を持つ学校はそうないだろう。友達の聖心生は揃って学校のイメージだけでお嬢様扱いされることを嫌がるが、「私達はふつうの女子大生」と主張しながらもやはり下界では大学名に喝采をあびる。聖心生はいつでも世の空間からは少しはずれた場所に居る。
「UBI CARITAS, IBI DEUS・・・愛といつくしみのあるところに神います」という聖心でしか真面目に語ることが許されないような清らか過ぎるモットー。目まぐるしく変わる時代に生きる人間たちが、ある種の聖域のように聖心を扱うことに繋がっているのであろう。いつの時代にも変わらぬ花園をつかの間に体感したような気がした。そして正門を出、下界の有象無象の象徴である渋谷駅へと帰路についた。(三条あゆみ)

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2010年4月10日 (土)

読売テレビ「かんさい情報ネットten!」で大畑楽歩『三重苦楽』紹介!

特集で(http://www.ytv.co.jp/ten/sp/index.html)にて取り上げられました

「2010年4月7日放送」をクリックしてご覧下さい!!

 さて、4月6日、京都万華鏡ミュージアムで開催された大畑楽歩さんの『三重苦楽』出版記念写真展はおかげさまで大好評です!

P1000154  写真展に先立ち、3日には楽歩さんの自宅で写真展の準備が行われました。本の構成合わせて楽歩さんの写真を時系列に並べる本格的な写真展のため、けっこう準備も大がかりなものとなりました。額に写真を入れるのはもちろん、台紙を切り写真を貼り付けたりするのも重要な作業です。楽歩さんのお友達が集まり、和気あいあいと進められたのでした。

P1000155_2   写真の処理が終わったら展示構成の検討です。赤ちゃんから現在まで楽歩さんの写真をズラリと並べて、1グループずつ検討しました。居間にズラリと写真が並ぶ絵はかなりのインパクトでした!

P1000160  6日の午前中から始まった展示は、糸で水平のラインを示し、それに合わせて貼っていくかなり難しい作業の連続! しかし、なんと専門家の助けが!! 京都で「ハウスオブアートギャラリー」というギャラリーを経営する西村夫妻と、プロカメラマン大西さんが先頭に立ち、どんどん進めてくれました。
 ちなみに平行の感覚がいまいち悪い私は、台紙に両面テープを貼る作業などをしながらお手伝いに来た皆さんと楽しく話していたのでした。全然、役に立っていませんが……。

P1000162  開演してからは讀賣テレビとKBS京都、2局のテレビ取材も入り、2つのカメラが楽歩さんの姿を追うという「芸能人」状態に!

 うーん、まさか我が社で芸能人本を出すことになるとは!!
 いや、初めての経験、すっかり楽しんでしまいました。ありがとうございました。(大畑)

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2010年4月 9日 (金)

ホームレス自らを語る 第65回 人生は知恵と工夫だ(前編)/青木実さん(69歳)

1004  東京・世田谷区の羽根木公園で話を聞いた青木実さん(69)は、取材のあいだ倦むことなく話し続けた。能弁家である。能弁家であるが、時々「?」と思うことを言う。その真偽のほどは読者諸兄の判断に任せたい。で、青木さんの語る、その半生を聞いていこう。
「昭和16(1941)年に横浜で生まれて、育ったのは東京の八王子。オヤジは土方をやっていたけど、足場から落ちたり、バスに跳ねられたりと不遇でね。ボクが15歳まで、家は大変な貧乏だった。学校の給食費やPTA会費などを払う金もなかった。それを小・中学校とも担任の先生が、ポケットマネーで払ってくれてね。あの先生たちの熱意がなかったら、いまのボクはなかったと思うな」

 小学4年生までは成績の芳しくなかった青木さんだったが、そんな先生たちの温情に応えるべく猛然と勉強するようになる。以後、中学卒業まで成績はクラスのトップ5を落ちたことがなかった。特に数学が得意で、中学生のときには全学年420人のトップに立ったこともある。
「だから、高校、大学へと進みたかったんだけど、家の経済事情が許さなかったからね。中学を出て鋳物工場に就職した。これには理由があって、その頃のボクは小柄でクラスでも一番小さかったんだ。鋳物工場では鉄のハンマーを振るって仕事をするから、身長が伸びると思ってね。ホントに伸びたよ。1年間で25㎝伸びた。ウソじゃないからね」

 青木さんはその鋳物工場を1年ほどでやめる。工場の騒音に耐えられなかったこともあるが、何より父親の仕事が好転したからだ。
「ちょうど八王子で大規模な都営住宅の建設が始まって、オヤジは土方から左官に替わったんだ。その才覚があったんだろうな。メキメキ頭角を現して親方になったと思うと、たちまち300人の左官職人を束ねる三多摩で一番の親方になっていたんだ。暮らし向きも、それまでの最低生活から、一気に最高の生活に変わったよ。貧乏のどん底にあった頃は見向きもしなかった親戚が、追従笑いを浮かべながら、オヤジに擦り寄るようにしてきたり、人間が変節するあさましさも見たね」

 父親の成功で、長兄に次兄、それに青木さんの3兄弟は、その父親の許に弟子入りして左官修業を始めることになる。
「ボクが18歳頃のことだが、オヤジと跡継ぎのことで話し合ったことがあってね。ボクは5人や10人の左官を束ねるんだったら、兄貴たちでもできるだろうけど、300人にもなるとそれなりの器量が備わらないと務まらない。その適任はボクしかないと、世阿弥の『風姿花伝』を例にして主張したんだ。それを聞いたオヤジが、兄たちをないがしろにしてと烈火のごとくに怒り出してね。それでボクの左官への熱も冷めて、やめることになった」それから5年ほどは定職に就かずに、家でブラブラして暮らすようになる。「風姿花伝」が出たついでに述べておくと、青木さんの趣味は読書。小学生の頃は学校の図書室の蔵書のうち親鸞聖人の伝記1冊を除いて、ほかの全冊を読破したという。ホームレスをしているいまも、片時も本を手放さない読書家である。しかも、読書から得た知識を血肉化していて、万葉集所載の好きな歌とか、日本国憲法や刑法の条文を諳(そら)んじていたりと、その博覧強記ぶりにはすごいものがあるのだ。

 青木さんが左官業から身を引いてブラブラしていたという5年間だが、いたずらに無為
なる日々を重ねていたわけではない。
「はじめのうちは通信教育でペン習字や速記術を習って覚えた。それからある師匠について、2年間ほど武道を習った。非常に危険な武道で、吸った息を吐き出さないで腹に溜め込むのが極意の武道だった。ボクの師匠は水中に2時間も潜っていられたからね。何でも忍者を養成するための武道ということだった」

 師匠には及ばないまでも、青木さんもある程度の術は会得したようだ。そうこうしているうちに、世の中は高度経済成長の時代に入り、青木さんも23歳になっていた。
「いつまでもブラブラしていられないからね。新聞の求人広告で見つけた北千住の読売新聞の販売店に、専従社員として雇われることになった。その頃、ボクは自転車に乗れなかったんだけど、中古の自転車を買ってきて、夜、こっそり練習して乗り方を覚えたりね。いや、新聞配達のためじゃない。配達はアルバイトの配達員がするんだ。専従社員は配達員の先まわりをして要所、要所に新聞の束を置いていくのが仕事なんだ。配達員は配達する全部の新聞を、一度に自転車に積むことができないからね」

 このほかに専従社員の仕事としては、折り込み広告の挿入作業、集金業務、それに販売拡張(購読勧誘)などがあった。
「新聞販売店では朝刊の配達を終えると、昼まで仮眠を取るんだけど、ボクは一度も仮眠したことがないからね。それで店に入って2日目には、ボクが担当する600軒の配達先を全部覚えてしまったんだ。これには店の主人も『こんな社員は、いままでに一人もいなかった』とびっくりしていたね」

 一を聞けば十を知る機転をもち、仕事も早くてそつがない。仮眠も取らずに身を粉にして働く青木さんだったが、ただ一つ苦手とするものがあった。
「人に頭を下げることができない性格でね。新聞購読の勧誘だけはできなかった。販売店に就職して1年近く1件の契約も取れないで、自分は営業職には向かないから店をやめようと考えていたんだ。そのことを、ある顧客に話したら『バカヤローッ。その仕事に自分が向いているかどうかなんて、一生かかってもわかるもんじゃない。仕事は続けることに意味があるんだ』と叱られてね。それで目が覚めて、ボクの人生の活路が開けることになったんだ」(この項つづく)

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2010年4月 8日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第32回 アフガン・テロと明治維新(1)

 先月26日、首都カブールのホテル、サフィ・ランドマークで自爆攻撃が発生し、外国人を含む16人が死亡した。
 サフィ・ランドマークは地上10階建ての複合施設で、地下1階から地上2階までがショッピングモールになっている。ショッピングモールには中国から輸入された最新のカジュアル服や、小物、携帯電話、テレビゲームまで売られている。地下1階にはアフガニスタンで唯一エスプレッソを出す喫茶店があり、最上階には生バンドつき15ドルでバイキングのレストランがある。ホテルも併設されていて、「アフガニスタン随一のホテル」だそうだ。市民からは「シティ・センター」の略称で呼ばれている。

 僕もたびたびコーヒーを求めて、シティ・センターの喫茶店に顔を出していた(ここではカブールで唯一インスタントじゃないコーヒーが飲めた)。喫茶店の天井は最上階まで吹き抜けになっていて、金メッキで塗装されたエレベーターがせわしなく上下している。ここで撮った写真がサウジ・アラビアやカタールの高級モールのものだと言っても、納得できるほど豪華な作りだ。
 喫茶店でよく見るタイプが、ツイードのスーツを着た紳士、すらっとしたタイを結んだビジネスマン風の男、皺ひとつないアフガン服を着た男、という感じだ。どれもアフガニスタンではなかなか見かけることが出できない人種ばかりだ。その3分の1くらいは外国人だと思う。

 このシティ・センターの喫茶店の後継はアフガニスタン復興の象徴として、たびたび新聞やテレビで取り上げられた。
「アフガニスタンはこんなショッピング・モールができるほど復興しました」と言うには絶好の光景なのだ。
 けれど、実際のところここに入れるのはアフガニスタンでもごく一部の人間だけだ。建物の入り口にはAK47を持ったセキュリティと金属探知機が設置されていて、小汚い民族衣装を着た人間は小銃で小突かれた上に追い出されることになる。基準は分からないけれど、「ある一定上の所得を得ていないアフガン人は入るべからず」ということだと思う。外国人はIDを見せなくても入ることができる。

 建物の中では大きなモップを持った掃除婦が常に忙しく動き回っている。例外なくモップの先には大量の砂粒が集まっていた。カブールは埃っぽい街なのだ。けれど、そのおかげでこの建物はカブールでは唯一といっていいほど、埃っぽくない場所だった。僕はシティ・センターに入ると清潔な建物と、薄汚れた自分の衣服と肌にまとわりつく埃っぽい感触と比較して、妙にみじめな気持になったりもした。
 しかし、どうしてこのシティ・センターは自爆攻撃されたのだろう。政府要人はいなかったし、軍事拠点でもない。ただ豪華なだけの建物だ。内務省や軍事基地に特攻するならまだ分かる。政治的な敵だもの。だけど、今更民間人を巻き込んだテロを起こしたって、何の政治的な意味もない。何が実行犯を自爆までさせて、このビルを破壊させたのだろうか。
 シティ・センターの外壁は一面モスグリーンのガラス張りだ。犯人はこのピカピカ光る壁を見て何を思ったのだろうか。
 僕みたいに「センス悪いなあ」とは思わなかっただろうか?
 爆弾を体に巻いてビルの前まで来て、「ちぇ、やっぱり馬鹿らしい。やめよ。やめよ」とは思わなかったのだろうか。
 僕はどっちも間違いないと思う。このビルのセンスの悪さは東京都庁と比べたって負けやしないし、腹に爆弾を巻いて気分のいい連中なんているはずがない。(白川徹)

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2010年4月 7日 (水)

山口組・田岡組長銃撃の現場を歩く

Img_7138  ディスコブームがにわいた1978年7月、夕立の上がったナイトクラブ「ベラミ」に、山口組・田岡一雄組長が到着した。越路吹雪や欧陽韮韮などがレコーディングしたことでも知られてる高級店だった。上岡龍太郎や浜村淳が司会を勉強したところとしても知られている。当時、ベラミのステージに立つこと自体がステータスだったという。
 奥の椅子に5~6人のホステスを引き連れて座り、「うたとリンボーダンス」のショーを鑑賞。そのショーが終わった直後、2発の銃声が響く。
 首を打たれた田岡組長は自らハンカチで傷口を押さえて立ち上がり、巻き添えをくった人を病院に運ぶように指示を出し、部下の運転する車に歩いて乗り込んだという。この不死身ぶりは後に語り草となった。
 彼を治療した関西労災病院の外科部長は、全治2週間~3週間だと記者団に説明し、「そんなに軽いのか?」の質問に次のように答えたという。
「ええ、幸い頸部の筋肉のところだったからです。もう1センチでも弾道が内側に行っていたら、大動脈神経系統をやられて即死だったかもしれません」(『雷鳴の山口組』飯干晃一著 角川書店)
 山口組のトップが銃撃されたとニュースは、瞬く間に街を駆けめぐった。狙撃から30分後には、新聞記者もベラミに押し寄せたと報じられている。しかし近隣住民は、事件に気付かなかったようだ。
 ベラミの向かいにある精肉店の女性は、「パトカーが来たのも気付かんかった。隣がベラミ専用のガレージだったから、いつも車の出入りの音がしてるし、ホステスがお客さんを送り迎えするときには、ワーワー言っているし。次の日の新聞やね、分かったのは」
 近所の住民によれば、ベラミは看板を出していなかったという。逆に言えば、それでも客が入る店だったのだろう。
 ただし近隣の店から評判のよかった店ではない。
 先述の精肉店の女店主は言う
「事件の少し前にボヤを出したんやけど、あいさつにも来ない。事件の後も何もなかった。そういう人たちだったんでしょ」
 ベラミから数軒離れた大衆食堂・篠田屋の主人も、事件に気付かなかった語る。


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『あの事件を追いかけて』(本体952円、アストラ刊)にてご確認ください。

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2010年4月 6日 (火)

鎌田慧の現代を斬る/第141回 オウムに復讐する公安警察

 15年前に発生した国松孝次警察庁長官銃撃事件について、時効が成立した3月30日に記者会見した警視庁の青木五郎公安部長は、次のように語った。
「事件はオウム真理教の信者グループが敢行した計画的・組織的なテロだった」(『読売新聞』10年4月1日)

 またオウムの元信者だった警視庁の元巡査部長がなどが関与したとする「捜査結果概要」を公表し、警視庁のホームページに翌日から掲載することを発表した。
 このような警視庁の横暴を、新聞各社とも批判的に扱っている。最近のえん罪事件を教訓とし日本のジャーナリズムも、推定無罪の原則に立ち返ろうとしているのを感じ、ホッとする思いでじゃあった。

 しかし証拠不十分で起訴ができなかったのに、犯人と名指しして「捜査結果」を発表するなど許されることではない。そもそも時効になって暗闇に逃げていった犯人にむかって、捜査当局が「お前はオウムだ」と罵声を浴びせているなど、悔し紛れの犬の遠吠えである。
警視庁の捜査結果概要は次のようなものであった。
「元幹部信者Dのもとに、事件発生の3日前に幹部信者Eから電話があった。Aへの連絡方法を教えるよう依頼された。この際Eは『敵の仇は敵にやらせる」などと発言した。』と語った」(『朝日新聞』10年3月30日)
 これがなぜ犯人像に結びつくのか、はなはだ疑問だ。起訴でないのも当然だろう。

 さらにこういった文章もある。
「事件直後、日光街道の交差点から南千住駅方向へ自転車で疾走した男について、目撃者が供述する特徴と幹部信者Hの特徴が一致した。複数候補者の写真を示したところ、複数の目撃者が同人の写真を抽出した」(『朝日新聞』10年3月30日)
 ここには、目撃証言がどれほどの多くの冤罪をつくってきたかについての反省がまったくない。写真を見せて似ているかを問うやり方は、犯人を写真の人物に誘導するのに、よく使われてきた。あいまいな印象なら、警察の質問にうなづいてしまう。そんな市民の意識を悪用した捜査方法だ。

 呆れたのは、DNA鑑定にたいする記述だ。
「同一型である確率は932分の4であり、教団信者グループの本件関与の可能性を裏付ける資料のひとつとすることに、一定の合理性が認められる」
 足利事件で菅家利和さんが冤罪に陥れられたDNA鑑定が、1000人に1.2人の確率である。驚いたことに、それより低い確率のDNA判定を持ち出して「一定の合理性が認められる」と決めつけている。足利事件に対する反省も、ここにはいっさいない。
 また、いまや数兆分の1という確率でおこなわれているDNA鑑定と、同じ効果があるかのように書くのは詐欺行為といえる。

 この事件の捜査の特徴は、事件当初から警視庁が公安事件として扱ったことだ。つまり刑事事件としての地道な聞き込み捜査などをすっ飛ばし、犯人をオウムに特定。オウム対策として捜査がはじまるという入り口から間違った捜査だったのである。公安部は「自分が撃った」と供述した元巡査長を、秘密裏にホテルに軟禁して事情聴取をおこない、報告さえしなかった。

 また、今回の資料公表についても、検察の反対を押し切って公安部が強行したとも報じられている。記者会見では、刑事司法手続きにのせず、一方的に発表することは犯人視しない流れに反するものではないかという記者の質問に、「個人の刑事責任を問う手続きと、組織の犯行と認められる理由を明らかにすることは別と考える」(『朝日新聞』10年3月30日)と語っている。

 つまり組織の犯行と認められた場合は、司法手続きなど関係ないということだ。これは公安特有の考え方で、共謀罪や破防法にもつながるものだ。危険な団体は、法律を無視しても抑え込めばいい、と彼らは考えている。

 概要では元幹部信者の名前をアルファベットで書き記している。匿名であっても、当時の報道など合わせれば特定しやすい。何の証拠もないのに名前をあげるのも、冤罪特有のパターンといえる。

 インターネットで概要を配信することも問題だ。
 少なくとも報道関係者ならば、この眉唾ものの「捜査結果概要」を検証するはずだ。起訴できなかった案件を公安主導で流した行為も「概要」と一緒に記事にすることができる。しかし取材する方法もない市民が概要だけを読めば、オウムが犯人だとの印象だけを読み取ってしまう。
 これは公安による復讐といえる。法的にクリアできなかった事件を、あたかも事実のようにネットで配信するなど、重大な名誉毀損である。

 こうしたインターネットを使った国家権力の横暴に、どう対処していくのかは大きな問題だ。
 ちょうど本日4月6日から8日まで沖縄の上京した人々が、普天間基地に県内移転に反対する座り込みを、首相官邸前でおこなっている。目に見える市民行動の必要性はますます強まっている。(談)


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2010年4月 5日 (月)

大畑楽歩さん『三重苦楽』京都新聞に掲載

先月『三重苦楽』を弊社より出版した、「ドーマン法に生きていた私」を連載中の大畑楽歩さんが、京都新聞で取り上げられました!

2010年4月2日 京都新聞↓

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『三重苦楽』は、幼少時代から母となった現在の心境までをつづった大畑さんの自伝。

全国の書店で注文が可能です!

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2010年4月 4日 (日)

酒鬼薔薇聖斗の現場を歩く

 犯行声明で自らPhotoを酒鬼薔薇聖斗と名乗った少年Aは、「懲役13年」と題する作文で、ダンテの次のような一文を引用した。
「俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでしまった」
 もちろん、この「暗い森」は比喩だろう。一人の幼女を金づち殴って死亡させ、もう一人にナイフを突き立て重傷を負わせた事件から1ヵ月ぐらいの間に書かれた作文だけに、犯罪行為を指すものとも思われる。
 しかし少年Aの行動をたどっているうちに、彼は実際に「暗い森」に居続けたのではないかという感じるようになった。
 彼は供述調書で次のように語っている。
「『タンク山』の地理は、誰よりも僕が一番良く知っているのであり、この森の中で、僕を捕まえることは不可能だと思っていたからです」
 実際、タンク山の頂上付近にあるケーブルアンテナ施設で土師淳君の首を切り取った直後、現場に近づいてくる足音を聞きつけ、来た道とは別の方角に山を降りている。
 さして大きな山ではない。東西に370メートル、南北に200メートルほどである。しかし少年Aが選択した獣道を探し出すのは、意外なほど骨が折れた。道らしきものをたどっていくといきなり途絶え、下に降りる道を見つけ出せないままに目的地から遠ざかってしまうからだ。
 少年Aがこの森に精通していたのは間違いない。『少年A 矯正2500日全記録』(草薙厚子 著 文藝春秋)では、小学5年生の学校の記録として「“タンク山”に基地を作り、六人くらいの友達と遊んでいたが、“子供は友達と遊ぶもの”という常識に従って遊んでいたもので、心から楽しいと思った事はなかったようだ」と書かれている。『暗い森』(朝日新聞大阪社会部編 朝日新聞)にも、「中学二年の後半になると、小学校時代から一緒に悪さをしてきた友人たちの多くが、部活動や受験勉強もあって、しだいに遠ざかっていった。少年は卓球部の練習にまったく参加しなくなり、男児殺害の現場となったタンク山や、池のほとりで、一人で過ごすことが多くなった」という記述がある。少年Aが淳君を殺害したのが中学3年だから、少なくとも4年間ほどはタンク山に出入りしていたことになる。
 このタンク山について、『朝日新聞』(97年5月28日)は、「早朝や夕方には近所の人が犬の散歩に訪れ、夜間は中学、高校生がたむろすることもある。近所の主婦の話では、シンナーやだばこを吸う少年たちがよく集まる場所」とも報じている。
 タンク山の周辺は北に高校、南に小学校があり、南西から西側にかけて団地が、東側を一戸建て住宅が囲んでいる。山の中腹にある給水タンクまでは舗装された道路が付いているが、そこから一歩入ると獣道しかない森だ。住民が散歩がてら登るのはタンクのある中腹までで、その奥は大人の知らない空間が広がる。そうした場所に、実生活で行き場を失った少年Aが引きつけられたのもうなずける。

Photo_2  事件の起こった須磨区は、かなり住みやすい土地だ。タンク山の南側に住む主婦は、どれほど地域活動が活発かを説明してくれた。


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2010年4月 3日 (土)

梅川昭美 三菱銀行北畠支店強盗殺人事件の現場を歩く

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 犯人の梅川昭美が猟銃を持って三菱銀行北畠支店に押し入った翌日、『読売新聞』朝刊の社会面で画期的な記者ドキュメントが掲載された。犯人や警察関係者の動きを時系列で伝えるだけではなく、新聞記者の動きそのものも短い文章で追いかけた記事だった。記者の作戦本部となった喫茶店の主人から「パッチ」(ももひき)を借りた話題なども載ったという。
 この記事の衝撃について、当時のデスクだった田村洋三氏は『ドキュメント新聞記者』(読売新聞大阪社会部 角川書店)で、次のように語っている。
「今度の事件では目が洗われる思いがした。発生の夜、早版のドキュメントを見た社会部長が、動きがないのなら、こちらの動きを書こうといったときである」
 またテレビの現場中継されるのに、警察や銀行内部の動きがわからない大衆の「隔靴掻痒感」に、この記事が応えたと分析する。さらに「大衆のテレビによる臨場感がこの記事によって増幅された、とも言える。その意味で、記者ドキュメントは、新聞が長すぎる長い間手探りしていたテレビ時代の社会面のあり方を、やっと、探りあてた気さえする」とも述べた。
 映像以上のリアリティーを現場の人間の動きから味わう。この手法は、ネット上のつぶやき「ツイッター」に近い。当時、この紙面が評判だったのも当然だろう。
 もちろんテレビも高視聴率を記録した。犯人逮捕を報じたNHK総合のニュースは39・3%、関西ローカル報道番組でも関西地区で平均視聴率33・3%を記録している。
 犯人が銀行を襲ってから42時間、国民はこの事件に釘付けとなった。
 また犯人の梅川も、メディアの目を意識していた。籠城から13時間ほどたった午前3時半にはラジオを差し入れを要求し、到着が遅いと銃を発砲している。また、午前9時半には朝刊を、その日の夕方には夕刊、翌日の朝刊も差し入れを求めている。警官が突入し、彼を撃ったときも新聞に掲載された自分の記事を読んでいたところだった。
 事件2日目の未明に、梅川が高級フランスワインである「シャトー・マルゴー」の69年ものを要求したことについて、『破滅 梅川昭美の三十年』(毎日新聞社会部編 幻冬舎)は「テレビやラジオ、新聞を通して、自分に集まる全国の目を意識した精一杯の見栄だった」と分析している。
 また犯行前日には、わざわざパーマをかけてアフロヘアにし、犯行当日もチロルハットにサングラス、黒いスーツと着込む。もともと金を奪ったらすぐに逃走するつもりだった梅川が、どうして印象に残るような格好を選択したのは定かではない。ただ30歳にもなったことを理由に、「何か一発でかいことをやらんとあかん」と口癖のように語っていたことを考えれば、犯罪こそが「晴れ舞台」、服装や髪型は舞台衣装だったのかもしれない。
 ここにメディアと犯人が競うようにボルテージを上げていく42時間もの劇場型犯罪が「上演」されたのである。
 もちろん観客であるやじ馬も熱狂した。近所でクリーニング店を営む店主は、当時のことを思い出して次のように語った。
「『銀行強盗や事件やでー』って、おばちゃんが店に飛び込んできてな。そら見に行くかって、角まで行ったらパンパンパンって音がして、こりゃ危ないわって引き返してきたからな。
 それからしばらくして警官がロープ張ってやじ馬が入れないようにしたから、外からはわからんようになったけどな。ただ、それでも見ようとしていた人たちが駐車場の金網の張り付いて見ていたの。それで金網が潰れてしまってな。地主が怒って警察に苦情行って、ロープの位置がもっと後ろに下がったがな」

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2010年4月 2日 (金)

津山30人殺し事件の現場を歩く

「聞いている話Img_7067_2はありますけども、お話しするようなことはありませんでな」
 津山30人殺しの現場に着いて最初に声をかけた老女は、そう言って口をつぐんだ。彼女が黒豆の選別作業を再開した途端、見えない扉が目の前で閉まったような気がした。山が色づき始めた初冬の日溜まりの中、下を向いて作業を始めた彼女にかける言葉がみつからなかった。
「こんにちは」とあいさつをすると、地元の人はほほ笑みながらあいさつを返してくれる。人懐っこい表情に、こちらもふっと緊張が解ける。ただ事件の話をした途端、住民の口は重くなってしまう。
 事件からもう71年が経過した。当時の詳細を知っている人も、ほとんどいない。それでも地域住民にとって事件はタブーのままだ。その意味で、犯人の都井睦雄はまだ「生き続けて」いる。
 いくつかの事件現場を取材したが、ここまで地域住民の口が堅かった経験はない。70年以上前の有名な事件ならばなおさらだ。記憶に残ったエピソードを、ときに笑いを交えながら語ってくれるのが通例だからだ。

Img_7040  タブー視される理由の1つは、この地方に残る夜這いの風習が事件の原因だと報じられたことだ。事件後1年をかけて事件を調査した岡山地裁の塩田未平検事も「凶行の外的原因」の1つとして「部落の一部に存する淫風」を挙げている。
 また犯人が残した3通の遺書にも4人の女性への恨み辛みが書かれていた。ただし、その4人のうち二人は都井によって殺され、残る二人のうち一人は検事調書で関係を否定している。
「離婚した理由について、あるいは自分が犯人都井睦雄と情交関係があったためのようにいわれているようだが、自分は犯人が自分のことをどう思っていたかは知らぬが、絶対に同人との間に情交関係はなく、かような理由で離婚となったものではないと信じている」(『津山三十人殺し』筑波昭 著 新潮社)
 都井が部落中の女性を追い回していたことは、生き延びた部落民の事情聴取からも間違いない。
 事件発生前に犯人のただならぬ気配を察して京都に逃げた女性も、「最近には女とさえ見れば関係をさせさせというと、世間で専ら評判になっておりました」「村中で睦雄は色気狂いである、肺病の癖に側に寄ると変なことをするから避けておれ、と皆がいい合っておりました」(同上)と語っている。
 しかし犯人と村の女性が本当に関係していたのか、正確なところはわからない。ただ当時の警察は、この事情に深く立ち入ろうとはしなかったようだ。実際、都井との関係を否定した女性の夫の供述調書には、次のようなかっこ書きを検事自らが記している。
「(その背後に隠れたる事情あるやも測られざれども、都井の事件に関しては、部落民はなるべくこれに触れざるようにしている旨、暗に自己もまた右以上に内情を吐露するを欲せざるかの如く諷示したるをもって、人情上強いて追求し得ず)」(同上)

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