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2010年3月

2010年3月31日 (水)

『転落 ホームレス100人の証言』が各紙書評に載りました

3月14日 信濃毎日新聞での書評

■転落 ホームレス100人の証言

 15年間にわたる300人以上への密着取材で聞き出したホームレスの人たちの胸の内を、淡々とつづった証言集。
 なぜこんな境遇に陥ったのか。家族が冷たく居場所がなくなった、ギャンブル、酒におぼれた、工事の仕事がなくなった…。原因や動機ごとに12章に分けて紹介する。
 不況時は真っ先に解雇され、高齢で仕事をもらえない。そして、家賃が払えず公園で暮らす身に。彼らが語る人生から、政治の無策ぶりも浮かび上がる。(アストラ、1500円)

3月21日 朝日新聞での書評

■転落 ホームレス100人の証言 神戸幸夫〈著〉

 新宿や上野などのホームレスの人たちのインタビュー集。50代以上が多く、みんな写真つきで登場する。バブル崩壊で商売がうまくいかなくなっていたところに借地の地主からマンション建設のために追い立てをくらった人、会社を退職後、サラ金に手を出して夜逃げしてきた人……。不安で職を失い、家も失うかもという不安はいまやだれにでもある。ホームレスを救えない社会システムでよいのかと著者は問う。(アストラ・1500円)

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2010年3月30日 (火)

『三重苦楽』、ついに店頭で発売開始!

本ブログで「ドーマン法に生きていた私」を連載してくれている脳性まひのお母さん、大畑楽歩さんの自伝『三重苦楽』が店頭に並び始めました!

Rabu120

楽歩さんは京都にお住まいなので、関西地方では特にたくさん展開します。

書店にご挨拶まわりする著者の姿も見られるかも?! 

ご期待下さい。

大畑 楽歩さんのブログはこちら→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2010年3月28日 (日)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第64回 オレの寿命もあと2、3ヵ月(後編)/関下新太郎さん(83歳)

 昭和20年8月の終戦でニューギニアから復員して、またタイル張りの職人の仕事に戻った。若い衆5、6人を束ねた親方の仕事だよ。仕事は忙しかった。何しろ東京の建物の大半が、戦争で焼けてしまったわけだからね。仕事の注文はいくらでもあった。
 そんななかで28か29歳のときに結婚する。見合い結婚で、嫁さんは7つ年下だった。昔気質の古風な女だったね。オレにはよく尽くしてくれて、気がきいて話のわかる嫁さんだった。
 職人の仕事というのは、どうかすると途切れることがあるだろう。そうすると嫁さんが出かけていって、近所のカミさん連中と世間話をしながら、仕事の注文を取ってくるんだ。それで家に帰って「おとうさん、Aさんのところで台所をタイル張りに直したいって言ってるわよ」とか、「Bさんのところではお風呂場をタイル張りにしたいって」という具合さ。嫁さんが営業をしてくれたんだ(笑)。いや、ホントによくできた嫁さんだった。
 夫婦仲もよかった。ただ、オレたち夫婦には、どういうわけか子どもができなかった。子どもでもいたら、オレの人生も変わっていたと思うけどね。
 戦後の復興期から順調だった仕事だが、それに翳りが見えたのは70年代に入ってからじゃないかな。タイルに代わって、ステンレスとか、システムキッチン、ユニットバスなんかが幅をきかすようになってきたからね。それでも嫁さんと2人が食っていく分くらいの仕事はあったから、タイル職人ひと筋でやってこられた。
 その嫁さんが、5年くらい前に中気(脳卒中)で倒れてね。そのまま死んじまった。それからは、ふっつりと仕事のやる気が失せちまった。誰のために、何のために働くのかわからなくなったんだ。
 オレたち夫婦には子どもがなかっただろう。それに兄弟たちもみんな死んでたからね。このままオレが死んだら、家屋敷から財産まで国に持っていかれるのかと思うと、バカらしくなってね。どうせそうなるんなら、オレが死ぬまでに蕩尽してしまおう。そう考えるようになっていたんだ。
 3年前に向島(東京・墨田区)の家屋敷を売り払った。1億2000万円になったよ。それでアパートの部屋を借りて、競馬場通いを始めた。ポケットに 300万円くらいのカネをねじ込んでは、毎日のように通った。賭け方も豪快だった。全部を1年で使いきるつもりだったからね。
 ほとんどヤケを起こしていたんだけど、そういうときは独り暮らしというのがいけないね。誰も注意してくれる人がいないんだからさ。家族とか子どもでもいれば、叱ったり諭して、目を覚まさせてくれるんだろうけどね。1人だと控えることができないんだな。
 ただ、1年で全部は使いきれなかった。競馬は時々当たるだろう。賭けるカネが大きい分、戻ってくる配当金も大きいからね。全部使いきるのに2年近くかかった。それでホームレスになった。きれいさっぱりしたもんだよ(笑)。
静かにお迎えを待つほうがいい
 ホームレスになってから、ずっとこの(日比谷)公園で暮らしている。(紙袋に入った毛布を示し)この1枚の毛布にくるまって、公園の適当なところで寝ているよ。この毛布さえあれば冬でも寒くない。ホントだよ。
 ここより新宿のほうが便利がいい? うん。たしかに便利はいいんだろうけど、新宿は街が騒々しいし、ホームレスにもやっかいなのが多いらしいからな。ヤー公もいるだろう。こっちのほうが静かでのんびりできていいよ。
 食べるものの入手方法? ああ、オレは年金をもらっているんだ。それが月に7万円と少し下りるから、毎日の食べるものはそれで賄える。
 去年の秋口だったか、年金が下りたんで、久しぶりに新橋の飲み屋で一杯ひっかけたんだ。そうしたら店を出たところでぶっ倒れて、病院に担ぎ込まれた。脳梗塞だった。前から血圧が高かったからね。
 病院を退院するとき、役所の人が来て「福祉のほうで面倒みます」と言ってくれたが断った。福祉の世話なんかになりたくないよ。どうせ施設にでも放り込まれて、うまくもないあてがい扶持のものを食わされ、面倒をみてやっているという態度をされるんだろう。そんなのはゴメンだ。オレの場合は年金があるから、それで自分の好きなものを買って食えるからね。そっちのほうがいいよ。
 この公園にいても時々役所の人が回ってきて、施設に入らないかと誘ってくれる。いつも「放っておいてくれ」と断っているよ。こうやって気ままにベンチに座って、静かにお迎えを待つほうがいい。
 脳梗塞で倒れるまでは、足腰もシャンとしていたんだよ。朝この公園を出て、新宿から池袋を回り、夕方公園に戻ってくる。それを全部自分の足で歩いてね。健康のために日課のようにしていたんだ。
 それが病気で倒れてからはいけないね。自分の足では 100メートルも歩けない。ほら、こんな具合だ(関下さんは立ち上がって歩いてみせようとする)。えっ、さっきもう歩いてみせた? 歳は取りたくないね。さっきしたことを、すぐに忘れちゃうからな。新聞だって読む端から忘れてるよ。ホントに歳は取りたくない。
 そんなふうだからさ。もう寿命だよ。あと2、3ヵ月のもんだと思っている。日に日に衰えているのが、自分でわかるからね。もうこの冬は越せないないだろう。だから、こうやって静かにお迎えを待っているんだ。(2003年12月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年3月27日 (土)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/番外編 書評『葬式は、要らない』

 島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎文庫)が売れているという。

 (少し前なら最後に句点がついたはず。流行が廃れるのは早い)

 島田氏といえば新興宗教にとくに詳しい宗教学者という認識だったので、「お葬式の本を?」と思いつつページをめくれば…なるほど、お葬式専門の人が書くお葬式論とはちょっと違う。タイトルを『(仏式での)葬式は、要らない』とも書きかえることもできる内容だ。バブル期を経て「相場」が莫大な額になってしまい、そのままを保ってきた「お布施」をとりたてる寺院への、痛烈な批判がこの本には詰まっている。

 そもそも、先ほど自分で書いてはみたものの「布施をとりたてる」という言い方がおかしい。布施は本来、もらう人が感謝するタイプのものではなく、させていただく人がそのこと自体に喜びを感じるものだからだ。高額を布施して腹立たしい気分になるのは本末転倒だろう。

 もしお布施に相場があるとすれば、それは「自分が払ってけっこう惜しいな、痛いなと思うような額」。つまり人それぞれだから、金額で推し測ること自体が間違っている。しかしなんでも人並みにしたい方々が、「そうは言っても」「ズバッと言ってくれたほうが楽」「少なかったら住職に何と思われるか」と、住職や葬儀経験者の口からその額を引き出してきた。

 たいてい、布施の額がちょっと少なかったかな、と自分で思っているような人は正直な金額を言わないだろう。沈黙するかちょっと上乗せして答えると思う。反対に「布施に○○円も支払った」とわめくのは、大変な大金を払った、と感じる人だ。感情を読み取れない人々がそれを相場と勘違いすれば、相場はどんどん上がっていく一方だろう。だから布施の額で苦しむのは国民全体的な自業自得ともいえる、とは思うけれど、島田氏はそんな簡単な結論に落ち着かない。長年、宗教団体を見つめてきた研究の積み重ねと、身内を俗名で送ったという自分自身の経験が氏の主張を説得力あるものにしている。

 葬式は主役のいない唯一の儀式、という表現があり、しかしこれを読んでふと引っかかるものがあった。あれ、主役のいる儀式を見たことがある気がするぞと。生前葬とか、お別れっぽいものじゃなくて、もっと主役は死にそうで、もっと儀式っぽいやつ。

 記憶をたどってひねり出したら、映画『楢山節考』のワンシーンであることに気付いた。映画の中では、いわゆる姥捨山に老人を担いで行くのに様々なタブーがある。「山に入るところを誰にも見られてはならない」「山に入ったら口を利いてはならない」「山頂には決められたルートで向かわねばならない」などだ。出発の前の晩、親を棄てた経験者たちが家にやってきて、ぐるり輪になって順番に酒を飲み、タブーをひとつずつ教えるのだ。その作法は至って儀式的である。そこには棄てられる老人も、棄てる息子と並んで同席しているのだが、社会的には「明日死ぬ」人間であることを考えると、これは本人を目の前にした葬式とは言えないだろうか。

 その葬式は「生前葬」と言えるかもしれない。しかし本人の希望のかけらも入っていない。儀式というものは主役の意思を交えることなくすすむ行事である。生きていても、死んでいてもそれは変わらないものである。(奥山)

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2010年3月26日 (金)

Brendaがゆく!/ホルモンの関係で尻の小さい男

テーマ:日本男児よ、しからずんば切腹せぇ!

最近私が言うとみんなが納得して聞く話。

「一般的なフランス人と一般的な日本人の男の共通点」

身体の線が細くて

あまり長身でもなく

そのうえ尻が小さい

後ろから見るとたまに男か女か判断しにくいときもある。

好みのタイプだなと思っても、まずはその男がホモでないか確かめる必要があるほど。

かなりの数の男達が、ゲイに見える。

きっと、フランスと日本にしか住んでいない女性はこの感覚があまりよくわからないのだと思いますが、アメリカ人とポーランド人、オーストリア人、ドイツ人の女性にこの話をして大受けしました。

みんなどーして、どーして!!!って。

そして、日本の男にはそれ以上に面白いトレードマークがあるよって。

斜め掛けのバックだって。

ああいうのは、男は持たない方がいいらしいです。

ヨーロッパ的に言うとやっぱりちょっとゲイっぽい印象を与えるかもね。

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2010年3月25日 (木)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第63回 オレの寿命もあと2、3ヵ月(前編)/関下新太郎さん(83歳)

 大正9(1920)年の生まれだからね。いま82歳になる。えっ? 正確には83? まあ、どっちでもいいよ。この歳になると1つ、2つ違ってもどうってことないからな。
 それにオレの寿命は、あと2ヵ月か、3ヵ月だからね。何でわかるのかって? 自分の寿命だからだよ。日に日に衰えているのが、自分でよくわかるからね。いまじゃ、自分の足では 100メートルも歩けない。ほら、こんな具合だよ。
(実際に立ち上がって歩いてみせてくれる。歩くというより、左右の足を交互に引きずるような感じだ)
 こんなんじゃ、どこにも行けないからね。もう、この冬は越せないだろう。自分ではそう思っている。
 福祉の世話? なりたくないね。どうせ施設に放り込まれて、うまくもないあてがい扶持のものを食わされ、面倒をみてやっているという態度をとられるんだろう。そんなのはゴメンだ。こうやって公園(日比谷公園)のベンチにいて、静かにお迎えを待つほうがよほどいいよ。

 生まれは東京の向島。7人兄弟の長男だった。上に姉が1人いたけど、男ではオレが1番上の総領だった。だから、オヤジの跡を継ぐのはオレだと決まっていて、そういう育てられ方をしたね。
 オヤジはタイル張りの職人だった。若い衆を5、6人使う親方をしていた。腕のいい職人だったよ。
 うちは典型的な下町の職人の家だったね。特別な金持ちじゃなかったけど、貧乏でもなかった。あのころの職人にしては、持ち家に住んでいたしね。
 オレは中学校まで養ってもらった。旧制の府立7中、いまの墨田川高校。いや、頭がよかったわけじゃない。オヤジが「これからの時代は、職人にも学問が必要だ」と言ってやってくれたんだ。

 中学を出ると、オレもオヤジの下についてタイル張りの職人修業をした。仕事は忙しかったよ。当時の魚屋や豆腐屋、銭湯、それに食堂やカフェの厨房もタイル張りだったし、新しいビルにもタイル張りの場所は結構あった。一般の住宅でも、台所や風呂場の水周りをタイル張りにする家が増えていたからね。
 そんなわけで忙しく働いたんだ。

 昭和15年に徴兵検査があって甲種合格だった。それで浜松の連隊に入営した。初年兵訓練を受けてから、航空隊の配属になった。陸軍の航空隊のほうだよ。戦闘機乗りになるほどの頭はなかったからね。戦闘機や輸送機の整備や準備をするほうだった。
 軍隊には終戦まで5年少しいたけど、辛いとか、きびしいと思ったことはない。楽しくもなかったけどね。
 昭和16年に太平洋戦争が始まって、日本軍もはじめのうちこそ華々しかったけど、すぐに形勢は逆転して劣勢に追い込まれていったからね。我々の部隊も、昭和19年になって満州(いまの中国東北部)に送られた。ところが満州に着いたら作戦変更とかで、すぐに南方に送られることになった。戦争末期で軍の上層部も混乱していたんだろう。
 輸送船で送られた先はニューギニアだった。
(太平洋戦争におけるニューギニアの日本軍守備隊は、米国マッカーサー軍との死闘を繰り広げ多くの犠牲者を出した。加えて糧秣の不足による餓死者、マラリアによる病死者が多かったことで知られる)

 いや、そんなことはなかったなあ。オレのいた部隊は島の中央部で守備したけど、終戦まで1度も敵との遭遇がなかった。だから、満州でも、ニューギニアでも、戦闘の経験はないんだ。訓練以外には1度も鉄砲を射ったことがないという部隊だったからね。
 食べものもちゃんとあって、終戦まで全員にいき渡っていたよ。腹いっぱいというわけにはいかなかったけどね。ニューギニアに行っていたオレが言うんだから本当のことだよ。
(戦時中のニューギニアでの話は、最後まで関下さんとは噛み合わなかった。あるいはニューギニアというのは彼の思い違いで、別の島でのことだったか)

 昭和20年の8月15日に部隊長から召集がかかり、兵隊全員が集められた。 100人ほどの兵隊を前にした部隊長が、日本は戦争に負けたことを伝えた。それから迎えの引き揚げ船が来るまで島でブラブラして、1ヵ月後に来た船で日本に帰ってきたんだ。
 東京は空襲で焼け野原になっていて、オレの家も焼けていたよ。オヤジも死んでいた。例の3月10日の空襲で家が燃え出して、それを消そうとして炎と煙に巻かれて焼け死んだらしい。兵隊に行ったオレが生きて帰って、内地に残っていたオヤジのほうが死んでしまうんだからね。

 家の焼け跡にバラックの小屋を建てて、オレはまたタイル張りの仕事をはじめた。
 仕事は忙しかったよ。何しろ東京の大半の家が焼けてしまったわけだからね。仕事の注文はいくらでもあった。むしろ、材料不足がひどくてその確保と、職人の手を確保するほうが大変なくらいだった。
 儲かったよ。儲けはしたけど、かかり(出費)のほうもあるからね。5、6人の職人を束ねただけの親方だから、べらぼうな稼ぎになったわけじゃない。それでもバラックの小屋を、家に建て替えるくらいのことはできた。
 家を建て替えてから結婚した。28か29歳のときで、見合い結婚だった。嫁さんは7つ年下で、オレによく尽くしてくれる女だった。そんなふうにして、オレの戦後の人生が始まったわけだ。(2003年12月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年3月24日 (水)

朝青龍明徳と大達羽左衛門

朝青龍は品格を欠くとして放逐された。大相撲は日本の伝統云々の講釈もある。そんなに大相撲の歴史は「品格」とやらを重視したか。明治期の大人気大関・大達羽左衛門の逸話を述べる。
大達は明治期最強の横綱・初代梅ヶ谷藤太郎とまみえた天覧相撲で有名だ。1884年3月10日、明治天皇の「お好み」として行われた指名試合は水入り2回の30分!引き分けで終える。この一戦が大達人気爆発の導火線であるのは疑いない。しかしそれ以上に江戸っ子が彼に肩入れしたのは、その悪童ぶりが楽しかったからだ。
この人のヒールなエピソードは事欠かない。まず、事実上の破門を2度食らって師匠を3回変えている。一度目は師匠に悪さばかりの日常をとがめられたのに逆上して逐電。相撲会所(現在の相撲協会)を除名された高砂浦五郎の元に走る。その高砂さえぶん殴って!破門。理由は関脇という番付が気にくわなかったというのだからメチャクチャである。それでも詫びを入れて伊勢ノ海門下で何食わぬ顔をして土俵へ上った。
朝青龍がしばしば批判された「仕切りで手をつかない」も大達の場合は朝青龍の比ではない。まず腰を下ろさず中腰のまま握り拳を相手の鼻先へ突きつける。怒った相手が低い立ち会い(当然だ。腰を下ろしているのだから)で突っかかってくると首根っこを押さえて放り出す。それを江戸っ子は「大達の中仕切り」「大達の徳利投げ」と名付けてヤンヤの喝采を送った。
土俵外の話はひたすら酒。それで体調を崩して横綱に届かなかったという。それでも会所は引退した彼に年寄千賀ノ浦継承を認めた。

朝青龍さん。今からでも遅くない。詫びを入れて平成の大達羽左衛門になりましょう。ただし番付は新弟子扱いから。これは初代梅ヶ谷藤太郎が大阪大関から東京へ転じた際に受けた扱いと同じだ。面白くなる。(編集長)

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2010年3月23日 (火)

『三重苦楽』著者が京都で大活躍!!

P1000142_2  『三重苦楽』の著者である大畑楽歩さんが、京都の大垣書店 烏丸三条店の営業に“参戦”してくれました。電動車イスが通りやすい通路の幅があり品揃えも豊富なこの店を、楽歩さんもいつも利用しているとのこと。

 対応してくださった谷口店長とも大いに盛り上がった後、入り口で記念写真を1枚。

P1000147_3  翌日は毎日新聞の古屋敷記者が、楽歩さんの自宅で取材してくれました。3時間におよぶ楽歩さんの独演会に記者さんも私も大爆笑。古屋敷さんも「久しぶりにお腹が痛くなるほど笑いました」とのことでした。
 事件取材などの忙しい合間をぬって、休日にわざわざ取材に来てくれたのことで、本当にありがとうございました。 
(楽歩さん家族を撮影する記者さんを後から撮影)


Photo_2  その後、写真展の準備に向けて動いていたのですが、なんと楽歩さんのお母様手作りのタケノコづくし弁当をいただいたのでした。あまりに美しすぎて、思わず写真に収めました。味もさすが、という逸品でした!!

 書店営業は楽歩さんのスマイルとトークに任せ、新聞社の取材では大笑いし、ご自宅で初もののタケノコをいただくという春の京都満喫の「営業」活動でした。
 すみません、役得です。
 皆さま、ありがとうございました。(大畑)

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2010年3月20日 (土)

Brendaがゆく!/パリの悩み東京の悩み

最近いろいろ考えるところがあって毎日眠れない。
そのうえ忙しいので、まったくゾンビのようになってくる。

予定も心も忙しくて、次の旅のフライトの予約もままならない。
本当は次の次ぐらいまで予約するべきなのにーーーー
後になれば高くなるから早くしないと!

私のようにスケジュールも中身も過酷な生活だと(あくまでフランス基準ですが、甘)
もうなんか、本当に頭が痛くなってくる。

考えなければいけない複雑な件ばかりで頭カチカチになって。

でも、ヘッドマッサージとかパリではないのじゃないかしら?

おかげで自分で有機のローズマリーとかアロマでヘッドマッサージ。

私の手はベートベンのソナタのおかげで手が疲労していて右手のなかが痛い。

固い頭を痛む手で押すアタクシ。

パリの生活ってこんな感じになるはずでしたのかしら?笑

ところで、最近また以前に増してフランス語で話すことも多くなり微妙に疲れる。
言葉が出来ないってこういうことかね。

ただ、それでも自分を押し通して英語で攻撃するのも一種のストレス解消ではあるのだけど、ちなみにこの態度がアメリカ的らしく、必ずこの状態で行くと日系アメリカ人と思われている様子。

かわいい男の人たちの前では、何も言わずあえて目をきょとんとした感じにしてると、すぐに喜んで英語で話してくれるけど。この場合、必ず日本人かと聞かれる。笑

ワザも使いわけね。笑

ただね、こっちも忙しくて案件を早く終わらせたい時はもうフランス語で話すしかない。まあ出来ないことはないので話すけれど。それでも私はおどおどと話すことは無い。お前らが英語できないからフランス語で話してやっているというスタンスになって、し、ま、う。

ものすごく正直に言うと、イライラしている時は特に、やっぱり4カ国語も話せると、どこか、お前らよりも自分は上だと思っている意識はあると思う。それは、どこの国に行っても同じこと。(あ、言語についてだけですよ)

おかげでどこの国に行っても上から目線になりがちなので、余裕があるときには謙虚にね!と心に銘じて。

英語さえもろくに出来ない多くの日本人の問題と私の問題はあまりに違い過ぎるのが、どうしてこうなったんだろう?と両方の側について疑問を感じるけど。

やれやれ。
それにしても、日本にいればヘッドマッサージでもアロママッサージでもすぐに行けるのに。

日本は、労働者奴隷制度の国だから、サービスを受ける方としてはすっごく安いしね。

自分が一時間にもらうお金と見合わせれば日本ならマッサージなんてお安いもの。

しかし、フランスは人件費が高いのでマッサージ系の癒しはやはりブルジョアだけの楽しみですね。。。

なんとなく悶々として。

固い頭を痛む手で押す、これをアロマヘッドマッサージと称するそんなパリジェンヌが地球の片隅にいることを誰かに伝えたくて・・・

日本に愚痴のメールを。

でも、いつも少しだけ気が引ける。
私の愚痴は、あくまで外国人だから大変ってだけの話であって、甘い基準のフランス的な愚痴なのでね。

現在、労働奴隷制度に変わった日本の友達に愚痴るのは申し訳ないといつも思う。

エリートであっても日本はほとんど奴隷と同じだからね、、、

愚痴への日本からの返信

やっぱり、考える時間さえもないほどに毎日過酷に働くから立ち止まれないって。
寝不足と疲労のあまり流れのままで生きて行くのがいちばんやりやすくなってしまうって。

給料カットでも、サービス残業でもそれが流れならそれにのっていくしかないのが日本なのでしょうね。。。

まあ、、、パリではけっこう立ち止まって考える時間は充分あるのでね。
私のように忙しくても、まあ社会の影響で流れは遅いのでね。
またそういう方向性(緩い流れ)で考えることを社会に許されているというのも大きいと思う。

日本はまったくそれは許されないでしょ。
これは、お金持ちも貧乏人も同じ。
だから、日本でお金持ちになっても、別荘は買えてもそこに行く暇がない人がほとんどでしょ。

悲しいね。

ポーランドでは、お前ら失業中だろ!っていう友達が別荘でのほほーんと過ごしていたりね。。。

フランス的には日本のお金持ちの生き方は、お金を持った意味はあまりないように感じるけれど、日本はアメリカ的な経済のルールだから、大学が高いので子供がいればいくらでもお金を使うには困らないからね。

フランスでお金持ちだと、お金が余るんじゃないかしら。3人子供がいれば手当も多いし、あえてインターナショナルに入れる家庭もあるけど、普通のフランス人ならむしろフランスの国のエリートスクールに入れる方が将来性があるでしょう。

日本はね、、、残念だけどお金の沙汰は教育の沙汰だね、、、
最低限あればそれなりにはできると思うけど。例えば私みたいに。
でも、それ以上エリートはお金がないと厳しいだろうな。

パリの生活があまりにも派手になってきて東京への郷愁が募る日々だけど、なんだか最近はあの熱帯地獄の8月の東京に行く勢いが無くなってきている。。。ちょっと消耗しはじめた狂猫である。。。

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2010年3月19日 (金)

大畑楽歩さん京都で写真展

今月末、弊社より新刊『三重苦楽』を出す、脳性まひのママ・大畑楽歩さんの写真展が、京都にて開催されます!

連載「ドーマン法に生きていた私」でもおなじみの彼女。

愛くるしい赤ちゃん時代の写真から、ドーマン法に苦しんでいた少女時代、そして妻であり母である今の幸せな姿までを一気に公開します。

うまく持てない、じょうずに話せない、ぜったい走れない。そんなママの、32年間の軌跡です。

連載では明るい筆致を見せている彼女の素顔が、間近で見ることができる写真展。

お近くの方は、ぜひ足を運んでみてください!

大畑楽歩 自伝出版記念写真展「三重苦楽~脳性まひで、母で妻~」

日時:2010年4月6日~4月11日 10:00~16:00

(初日14:00~、最終日~16:00)

場所:京都万華鏡ミュージアム

http://k-kaleido.org/access.html

詳しくは大畑楽歩オフィシャルサイトにて!→http://www.ohatarabu.com/

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2010年3月18日 (木)

Brendaがゆく!/もし収入を得る手段と割り切って仕事ができたなら・・・

もし収入を得る手段と割り切って仕事ができたなら・・・

とたまに思うことがある。

正直言って、ピアノを弾いて稼いだお金は重すぎて・・・。
どんな金額でもその金額以上の意味や価値を持っている。

でも、教えてもらったお金は、それ相応。
その他、知恵によってビジネスで稼いだお金は、ただの趣味の才能。

会社員だった時は、お金の重さってどうだったのだろうか。
自分の通帳を見るのがちょっとした気持ちを盛り上げる手段であったけど。
でも、労働時間で割ると派遣社員よりもちょっといいぐらい。
外資の総合職でもこんな感じ。
医者の友達もみんなそう、開業でもしない限りは。

これでいいのか日本?

だから、私はどんなに落ちぶれても日本で収入を得る手段と割り切って働くことはできないと思う。
派遣でも惨めだし
正社員でも割り切れないぐらい待遇は悪い。

フランスぐらい待遇が良ければ結構割り切ってどこかのオフィスで公務員してたかも。

日本に産まれたからむしろピアニストになったのかもね。

フランスでは、いちいち物好きに苦労してまで自分のパッションで仕事をしたいと思わなくても普通の仕事がたくさんあるしね。むしろ、普通の階級に産まれた人にはそのほうが幸せな人生。だから、例えば音楽家の親は音楽家の場合がフランスでも多い。

お金は社会に奉仕したぶんだけもらえるものだと思っているから、私は今すごく幸せなんだけれど。

でも、日本ではなぜかちょっと違うんだよね。
それは搾取されることに労働者が異議を唱えられずに一部の特権階級が私服を肥やしているから。
日本はチャリティーの精神とかあまりないから、お金を隠し持っている奴らがたくさんいるんだろう。

お金を稼ぐのはすごくいいことだと思うけど搾取はよくない、泥棒だ!

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2010年3月17日 (水)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第62回 雑誌『ビッグイシュー』を売る/遠藤達也さん(36歳)

  (遠藤さんはJR新宿駅南口前で、ホームレス自立支援のための雑誌『ビッグイシュー日本版』を路上販売している)
 この雑誌の路上販売を始めて2ヵ月くらいになります。はじめは通行人に大きな声で呼びかけるのが恥ずかしくてね。でも、もう馴れました。1日に40冊前後の売り上げになります。
  「ビッグイシュー」はホームレスが現金収入を得るために発行されている雑誌で、はじめイギリスで始められ、日本でも去年から日本版が発行されるようになりました。定価は1冊200円で、そのうち雑誌の仕入れ代が90円、残りの110円が自分らの取り分になります。
 毎朝8時に高田馬場まで行って40冊を仕入れ、9時くらいから販売を始めて、全部売り切るのは夕方5時ころになります。1日中立ちづめですが、そんなには疲れません。それよりも喉が嗄れて、夕方には声が出なくなることもあります。そうなったら雑誌が売れ残っていても、店仕舞いするしかないですね。
 土曜日も日曜日も休みません。1日でもこの場所を空けたら、別の誰かに入られてしまいますからね。この場所を守るために、自分も必死ですよ。
 40冊全部売り切ると、4400円が自分らの収入になります。それで温かい飯が食えて、夜はマンガ喫茶のリクライニングシートに寝られます。マンガ喫茶はひと晩いても1000円ちょっとですみます。残りはアパートを借りる資金にしようと思って蓄えているんです。いつかここを出て自立してみせますよ。

 出身は静岡の田舎です。昭和42年の生まれ。高校を卒業して、北海道の陸上自衛隊に入隊しました。自分は勉強はできんかったけど、身体だけは丈夫でしたから、この体力がどこまで通用するのか試したかったんです。
 機械部隊の配属になって、ジープやトラックなどの車両整備が仕事でした。だから、あまりきびしい訓練はなかったですね。自衛隊には4年間いて満期除隊になりました。ホントは陸曹候補生試験に合格していたから残れたんです。だけど、華のあるうちに辞めたほうがカッコいいと思って、そのまま除隊してしまいました。
 それから東京に出て、しばらく喫茶店で働いてから、あとは建設作業員をずっとしてきました。飯場を転々としながら暮らす生活で、ただ堕ちるばかりでしたね。

 実は、去年の春に結婚したんです。彼女はいきつけのスナックでホステスをしている子でした。いっしょにいるとなごむというか、安心できる感じの女性でね。自分のほうが惚れてプロポーズしたんです。
 結婚式も挙げましたよ。小さな教会で彼女の友だち10人が参列しただけの、慎ましい結婚式でしたけどね。役所にも届け出て、籍も入れました。それで錦糸町に家賃10万円のアパートを借りて、2人の生活をはじめたんです。
 ところが、それから半年後の11月のある日、自分はアパートを飛び出してしまいました。自分でもよくわからないし、説明もうまくできませんけど、何かすごくイライラして発作的に飛び出してしまったんです。彼女に宛てて1枚の走り書きのメモだけを残してね。
 彼女とのあいだにトラブルがあったとか、不満があったというのではないんです。強いて考えれば、結婚してからも彼女はホステスの仕事を続けていて、ずっとすれ違いの生活をしていたこと……。でも、それははじめからわかっていたことですしね。やっぱりイライラして発作的に飛び出したとしかいいようがないですね。
 このイライラして発作的に飛び出してしまうのは、これまでにも幾度かあるんです。20代のときに2度ばかり女性と同棲したんですが、2度とも発作的にアパートを飛び出しています。仕事中になって飯場を飛び出したこともあります。なぜそうなるのか、自分でもわからないですね。

 それでアパートを飛び出したけれど行くあてもないから、新宿に出て中央公園のホームレスの仲間入りをしていました。先輩(ホームレスの仲間)たちはみんな親切で、寝るところや食べものの面倒をみてくれました。
 中央公園では週3回早朝の清掃ボランティアがあって、それに参加するようになり、そこで1人の先輩と知り合いになりました。その彼に誘われて、大久保にあるキリスト教会のボランティアも手伝うようになりました。日曜日のミサを手伝ったり、ホームレスへの差し入れを手伝ったりしています。

 そのうちに「ビッグイシュー」の販売のことを知って、自分も名乗りをあげて始めました。だから、いまは清掃ボランティアと教会の手伝い、それに「ビッグイシュー」の販売とあって忙しいですね。ひょっとしたら、自分の人生のなかで、いまが一番充実しているときかもしれません。
 そんな自分のことが、この1月にテレビのニュース特集で取り上げられたんです。そのインタビューのなかで「『ビッグイシュー』を販売しているホームレスのうちで、自分が自立の第1号になる」とか大見得を切ってしまいましたからね(笑)。みんなから注目されているし、何がなんでも自立しなくてはという気持ちでやっています。就職口も教会の人が探してくれていて、近く見つかりそうです。
 ちゃんと就職して、アパートの部屋が借りられたら、彼女のところに会いに行こうと思っています。彼女のところを飛び出してしまった事情を説明して、きちんと詫びるつもりです。許してもらえるかどうかはわかりませんけどね。(2004年2月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年3月16日 (火)

狭山事件担当検事が電話で回答!!

 いま狭山事件が「佳境」にはいっている。
 狭山事件? こう言われてもピンとこない読者が多いのが、悲しいかな、現状ではなかろうか。なにしろ、いまから45年以上前の出来事である。1963年5月1日、埼玉県狭山市に住む当時16歳の高校生、中田善枝さんが学校からの帰宅途中に行方不明となり、同日午後7時40分ごろ、自宅に20万円の身代金を要求する脅迫状が届けられた。2日深夜、40人態勢で張り込んでいた警察は現れた犯人を取り逃がし、そして事件発生から3日後の5月4日、善枝さんが遺体となって発見されるという最悪の事態を迎える。この事件の直前には、戦後最大の誘拐といわれた「吉展ちゃん事件」でも警察は大失態を演じ、社会の警察に対する不信感が極限に達していた時でもあった。そういった背景からか、強引きわまりない捜査の末、結局、被差別部落出身の石川一雄さんが「犯人」として逮捕された。
 浦和地裁での第一審は「死刑」、東京高裁の第二審では「無期懲役判決」、そして最高裁の判断は上告棄却となり1度は「終結」となりかけたこの狭山事件は、おおくの人々の支援と、そしてなにより石川さん自身の闘いによって、現在、第3次再審請求のただなかにある。

 昨年の9月10日、裁判長、検察、弁護団の「三者協議」で、東京高裁・門野博裁判長は、証拠開示についての意見を10月末までに提出するよう検察に求めた。検察は、10月30日付けの意見書で「殺害現場」とされる雑木林の血痕検査報告書(ルミノール反応検査報告書)は「存在しない」、さらにその他の証拠も開示の必要性はない、と回答を出す。
 しかし事態は一転する。12月16日の三者協議で門野博裁判長は東京高検の検察官に対して、裁判で提出していない捜査書類など、前述したルミノール反応検査報告書含め8点もの証拠を開示するように勧告した(ルミノール反応検査報告書については、存在しないとするならば合理的説明をするよう求めた)。第1次再審請求以来、狭山事件での開示勧告は初めてのことである。さらに言うと、法的拘束力こそないものの、全事件を通しても、これまで開示勧告に検察が応じなかった例はないという。冒頭で「佳境」といった理由はここにある。
 と、ここまで大まかな推移を整理してみたが、この間、東京高検の狭山事件担当検事に、なんと電話で直接、証拠開示の要請をした勇気ある青年が神戸にいると聞き、著者はさっそくお話をうかがいに行った。

 青年の名は勝田浩聡(かつだ・ひろさと)さん。25歳。ラフな格好で屈託がなく、ひとなつっこい笑顔が印象的だ。バスの清掃などの仕事で頑張っていたが体調を崩され、現在は精神保健福祉士を目指して猛勉強中だという。
 勝田さんが電話をしたのは昨年9月25日。やりとりの詳細は『狭山闘争ニュース』(部落解放同盟全国連合会編集発行)第162号に掲載されている。記事を読んでみると、窓口から変わった担当検事が当初「だるそうな感じ」だったのが、次第に「何らかの回答はします」、さらに「必ず回答はします」「新しい証拠が見つかれば、再審ということもありますし」へと、ついに当事者から言わしめてゆく様子の変化がうかがえる。どうやら勝田さんの純朴な人柄が、受話器を通して担当検事の虚を突いたようだ。

―――どうしてまた担当検事に電話で直接要請しようと思われたのですか?
「ビラをまいたり運動を続けてきたんですけど、自分自身が検事と話して実際に確かめてみたかったんです」
―――担当検事が電話に出てくるという勝算はありましたか?
「ありました。言い方があると思ったんです。冷静に話すよう心掛けましたから」
―――窓口から担当検事にかわる間、どんな気分でしたか?
「僕がここで抗議したら、もう次回から検事が出てこなくなるじゃないですか。次につながるよう次につながるようにって、冷静になるよう心掛けてました」
―――緊張しませんでしたか?
「それほどしなかったですね。検事の肩を持つとかじゃなくて、純粋にこういう質問したらどうこたえるのだろうかとか興味がありましたから」

 次回の三者協議は今年5月。今回お話をうかがった勝田さんは部落解放同盟全国連合会に所属する青年だが、部落解放同盟中央本部(マスコミが部落解放同盟というときは、一般にこちらの団体)も含め、全ての被差別部落民、冤罪なき社会を願う心ある民衆の思いはひとつだ。「検察よ、証拠をちゃんと開示せよ!」(後記)雑木林のルミノール反応検査報告書について、本文の通り三者協議で検察は「ない」と回答した。しかし、1985年の衆議院法務委員会において社会党議員の質問に対し筧栄一法務省刑事局長(後に検事総長)は「ある」と回答している。いったいどちらなのか!(柳田勝英・ルポライター)

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2010年3月15日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/27歳・男性・司法書士試験勉強中(後編)

(後編)
 テレビ番組の制作会社に就職して、出社一日目の最初にやった仕事はトイレ掃除でしたね。なにかと体育会系な現場でした。ADとして、政治番組やドキュメンタリー、ゴールデンのバラエティー、再現中心の特番などを約2年半やりました。会社のイスや床で寝るのは当たり前、酷い時は休みが3カ月で1日だけ等、仕事はハードでしたしお給料も適切にいただいているとは思えませんでした。まあ、もらっても使う暇がないので結局どんどん貯まっていきましたが。辞めた理由はいろいろありますけど、きっかけは一緒にナレーション録りしていたディレクターがいきなり倒れて救急車に同乗したことですね。心筋梗塞でした。いつも無茶苦茶なことばっかり言ってる人が死ぬほど苦しんでいるのを見て、「自分もそろそろ退いたほうがいいのでは」と感じたんです。番組の担当枠が終わるのを区切りとして、辞めることにしました。
 それまでも、辞めることは何度も考えましたよ。ある朝に、仲も良くて信頼もしていた先輩が「すまない」という4文字だけのメールを送ってきて、そのまま会社に来なかったことがあったんです。
 今まで苦楽を共にして2人でその企画を担当してきたのにいきなり1人にされたから、その時は泣きながら会社に「辞めたいです」と電話しました。お弁当を買いに行ったまま帰ってこなかった人もいます。いったい、彼は弁当を買いにどこまで行ったのでしょう?(笑)
 会社の休みも、前日まで休みかどうかわからないなんて言うのはざらでした。自分の人生設計図を丸められて次々と焚火にくべられるようなもんですよね。でも、僕は早く辞めてしまうのは嫌でした。次の仕事につながらないし、仕事の面白さを知らないまま終わってしまうのは嫌だと思っていたし、親に反対されても自分で決めて進んだ道だから。
 何だかんだ言っても、笑いが絶えない現場でしたしテレビ業界ならではの貴重な体験も沢山したので、苦しくはありましたがテレビの仕事をしたことは本当に良かったです。

 会社を辞めて、これからどうするかを親に相談した時に、前々から薦められていた法律関係はどうだ、と言われました。それで、資格を取れば自分で事務所も開けるし一生使えるからと、司法書士を受験することにしました。クイズ番組などで昔は答えられた問題に答えられなかったりするのがすごく嫌で、勉強したい衝動に駆られ、時事問題の検定試験なども受けたりしていたので、司法書士も「勉強したいからやる」というスタンスで臨みました。でも、今通っている資格予備校の先生の話を聞いているうちに、法律家になればたくさんの悩める労働者たち……過去の僕のような……を救えるんだなと思えてきて。
 それから、本気で目指すようになりました。実は、文章を書く仕事をしてみたいなという希望もあるんです。ADの仕事でも文章を扱うことは多かったですし、表向きはそれを主な理由として辞めました。新聞・出版の求人があれば応募して、あと一歩のところまで行ったりもしました。採用されていたとしても、司法書士の勉強は受かるまでやるつもりでした。

 今は、2年半で貯めたお金でつないでいます。真剣に目指そうと思った時、働きながらは出来ないなと。親のすねはかじってませんよ。
 合格したら研修期間を経て司法書士となるわけですが、自分で独立するという考えは、今はそんなにはないですね。補助者や司法書士法人の従業員として業務経験を積んだ後は、司法書士試験の講師になろうかなと思っていて。
 僕が一番向いている職業は何かを知人に聞くと、ダントツで「教師」という答えが多いんですよ。ゼミの先生には「生徒と遊べる人間だ」と言われたし、大学のクラスメイトには「保護者のハートをつかめる」と言われたし、職場で後輩に仕事を教えるときに説明上手だと言われたりとか。
 教育学部出身ということもあり、「なんで先生にならなかったの?」というフレーズは、仕事中に眠いのを我慢して白目を剥いた回数と同じぐらい何度も言われたと思います(笑)。法律の方面で教育者になれればなあと思っています。
 講師になって勉強を以て人を楽しませるという点では、「多くの人を楽しませたい」と思っていた大学時代の志とあまり変わっていないかもしれません。

 司法書士の勉強は、やることが膨大にあるからやめていく人が多いですね。でも、僕はやめないと思います。忍耐力をAD時代に鍛えられたので。10時間飲まず食わずで勉強なんて全然苦ではありません。あきらめない、我慢するということは全部あの頃に学んだので、この先の人生で軸になるものかなと思っています。(聞き手:奥山)

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2010年3月13日 (土)

ロシアの横暴/第35回 五輪誘致で役所の手数料が高騰!?(2)

 その次に考え出した吸い上げ方法が公共料金と役所の手数料の大幅値上げだ。これらは、ウォッカのようにとりっぱぐれる心配はない。運転免許証更新料はともかく、公共料金はガマンして通り過ぎることはできないからである。
 役所の手数料値上げのうち、特に幅の大きいのが運転免許証更新料とパスポート発給料の2つである。
 まず、ごく最近外国行きパスポートの手数料が4倍になった。(600ルーブル《=約20ドル》から2400ルーブルに、3月1日からはさらに有効期間が10年(現在は5年)の新式になるという。再値上げは目に見えている。
 自動車免許更新料は10倍になった。自動車を持っている階級はそれなりに「持っている」からこれぐらい値上げしてもかまわん、と当局は思ってのことらしい。事実、ロシアで自家用車を買えるのはまだまだ一部である。しかし外国行きパスポートはやや事情がちがう。数年前までCIS諸国内はパスポートなしで行き来できたが、ロシアとの関係がぎくしゃくし始めた国に行くのは「外国行き扱い」としてパスポートが必要になった。だから今回のパスポート値上げは旧ソ連で生きてきた人々には大打撃である。

 日本にあてはめて考えればわかりやすい。地方から東京に出て働いていればそこで生活基盤を築く。親戚もできるかもしれない。20年ぐらいが過ぎてUターンしようとしたら、生まれ故郷は独立して外国になっていた・・・おまけに東京とはウマがあわない首長がいるので通行証が必要、明日から4倍に値上げ、と言われたようなものである。
 パスポート手数料値上げで「外国行き(CIS諸国行き)」をあきらめる人が増えたら手数料収入が減るかも知れないことを見越して4倍にしたのだろうか。しかしいくら4倍値上げで断念する人が出るといっても、第二のふるさとのようにつながりの深いCIS諸国ならば、全体的な手数料収入は大幅増が見込める。

 (ロシアのパスポートについて説明を加えておくと、まず14才以上の全国民が国内パスポートというものを所持しなければならない。ソ連時代から、というより、帝政ロシア時代からそうである。日本人の感覚では「パスポート」は外国に行くための「旅券」だが、ロシアでは「居住地身分証明書」、今でいうIDカードみたいなものである。ちなみにソ連時代はこういうものの手数料は安かった。外国行きのパスポートも冗談かと思うほどだったが、一般人に発給されることはまれだった。ペレストロイカが始まるとすべての人が外国行きのパスポートを申請できることになったが、申請に関わる「上納金」が1ヶ月分の給与レベルとなって、事実上一般人は外国に行けないままだった、という笑えない笑い話があった)

 余談ではない余談だが、旅券を規定の料金で申請するといつのことかわからないので、現在もヤミ手数料が横行しているが、政府の値上げ宣言とともにこちらも値上げでされた。
 公共料金の方も4倍・10倍ではないとしても、大幅に値上げされた。その中の課税率がいくらかは不明だが、外国行きパスポートや運転免許とちがって全国民が支払うものだから確実な増収となる。

 ロシアの横暴にうんざりしていた旧ソ連構成国は次々に離れていったが、産油国の強みを活かしてエネルギーをロシアに依存するヨーロッパ諸国をひとまず従わせたので、反旗を翻したはずのウクライナもあっという間にロシアにひざまずくことになった。オリンピック開催地ソチは対立するグルジアのほか、ウクライナとも近いことから何かと不安要因が取りざたされていたがこれで安心である。「わがロシアに経済危機や不安はない」とでも言いたげに最近の新聞にはこうしたロシアの「強気面」関連の記事が多い。

 風の便りによれば極東地域から北極海を経てヨーロッパに至る海運路が開かれる見込みだそうで、パナマ運河もスエズ運河も通らずに7つの海を制覇する勢いだとぶち上げている。単なる威嚇攻撃みたいなものかも知れないが、国威掲揚のためのオリンピックの必要経費は国民から吸い上げておいて、みずからの懐を潤すのには、この海運路を開こうとしているのではないかと勘ぐりたくなる。(川上なつ) 

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2010年3月12日 (金)

新刊情報/大畑楽歩さんの本が出版されます!

アストラ、3月の新刊情報です。

連載「ドーマン法に生きていた私」で好評を得ている、脳性まひのママ・大畑楽歩さん(おおはた らぶさん)の自伝が3月末に発売されます。

楽歩さんは、生後2週間で食道の手術を受けた直後、

痰がのどにつまって窒息状態となりました。

その時の脳酸欠状態が原因となって、脳性まひになったと考えられます。

「健常者に戻らなければ」とドーマン法に取り組み、厳しい訓練に汗も涙も、ときには血すら流した幼年時代。

「生きるためだけに生きたくない」と、自ら訓練を絶った少女期。

水泳、テニス、語学留学…やりたいことは何でもやった思春期。

そしてご主人との出会い、結婚、出産……。

自立したい思いと両親から受け取る愛との間で葛藤する姿や、結婚・出産におっかなびっくり挑む場面など、障害者だからといって特別なわけではない、私達と同じ思いの中で生きているのだと実感させられる、ていねいな語り口が魅力です。

Photo 三重苦楽』

3月末発売。

そして京都市在住の方は、大注目!

4月6日から11日、京都万華鏡ミュージアムにて楽歩さんの写真展が開催されます!

詳しくは著者のオフィシャルブログで!http://www.ohatarabu.com/

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2010年3月11日 (木)

ロシアの横暴/第34回 五輪誘致で役所の手数料が高騰!?(1)

 バンクーバーでの冬季五輪が終わって次はロシア・ソチである。選手団は「ソチでまた会いましょう」と笑顔で別れていったとかで、急に「ソチ」が目立ってきた。
 さて、その4年後にオリンピックを迎えるロシアだが、バンクーバーでの成績が振るわなかったというので、辞任せざるを得なくなった閣僚がいるらしい。やめ際に「私がやめたからといってソチで勝てるとは限らない」と、当たり前といえば当たり前の、しかし嫌みたっぷりのせりふを残したそうだ。
 そもそもソチでのオリンピックが決まった時からしてロシアは傾いていた。表面的には安定しているように見えた(見せた)から開催が決まったわけだが、実体はいつ崩落するかわからない砂上の楼閣である。そういうときこそ強気の構えをしなければならないから、あらゆる手段を講じて競り勝ったわけである。

 その一方で経済面は「どこからオリンピックのカネが出てくるんだ?」と頭をかしげたくなる状態である。ある新聞の表現によれば「先進国が財布と相談しながらチマチマとやらざるを得ないのに、ロシアはカネに糸目をつけずにやっている」らしい。
 先進国が財布と相談しなければならないのは国民の目がきびしいからで、ロシアの場合はオリンピック招致といえばそれだけで「我が偉大なロシア」と舞い上がる国民のおかげで相談はいらない。
 しかし、ソチ・オリンピックの栄光をつかんだとたん、思いもしなかった米国初金融危機に見舞われた。原油安のダブルパンチである。当然、税収も落ち込んだ。

 思えばソ連にはオリンピックの苦い思い出がある。1980年、やっとのことで手にした栄光のオリンピックなのに、米国主導で西側諸国の集団ボイコットに遭った。その次の大会がおあつらえむきに米国だというので東側まとめてボイコットをして憂さ晴らしをした。でも得る物は何もなかった。だから2014年の冬季オリンピックは経済危機などどこ吹く風を装って華々しくやりたいのだ。

 そのためにはまずふらふらの経済建て直しをしなければならない。昔からよくあるブロック政策の導入から始めた。中古車市場に目を付け、そこに高い関税をかけることで国産車を守ろうとした。外国の中古車が来なくなれば国産車が売れると見込んだようだ。国内企業が勢いを取り戻せば、法人税も入ってくる。経済と財政の両方が回復するはずだった。

 だが、この目論見ははずれた。中古車に高い関税を課したら中古車そのものが入ってこなくなったのだ。もちろん、関税も入ってこない。多数の輸入業者が廃業してしまったので、こちらの税収もなくなった。そのため今までより税収は落ちることになったわけだ。(これもロシア人の後知恵というべきか)
 そこで考え出した次なる妙案がウォッカの値上げである。経済復興を待つことなく、直接国民からカネを吸い上げる方法だ。アル中対策の名目で実は酒好きの国民からがっぽり吸い上げる腹づもりだろう。しかし、それとてソチのオリンピック建設の費用には足りないかもしれない。それに万が一、国民がほんとうにまじめにアル中対策に乗り出したら、的確なアル中対策であった、と自画自賛するだけで吸い上げ分はない。(川上なつ) 

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2010年3月10日 (水)

40年目の、シコシコ模索舎~模索舎様からのご案内~

アストラがたいへんたいへんお世話になっている、模索舎様からのご案内です。

なんと、40周年! の記念イベント。豪華ゲスト陣も加わって、大にぎわいの予感です。

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「40年目の、シコシコ模索舎」
~模索舎40周年記念イベント~

日時:3月22日(月・祝)12:30開場/13:00開始
ところ:大久保地域センター
http://www.h2.dion.ne.jp/~aa-kkse/ookubo_a.htm
資料代:500円/カンパ歓迎!
主催:模索舎/模索舎再建実行委員会

第1部 13:20~14:50
模索舎の時空間をめぐって

ゲスト
五味正彦(模索舎元代表) 
平井 玄(音楽批評家) 
矢部史郎(模索舎元舎員)

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第2部 15:20~16:50
勝手に生きよ/人生!

ゲスト
廣瀬 純(映画批評家) 
五所純子(文筆業) 
アサダワタル(日常編集家)

#出演者プロフィール
http://www.mosakusha.com/mosakusha40/2010/03/post-1.html
#40周年ブログ
http://www.mosakusha.com/mosakusha40/

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【40周年イベントに際して】

 模索舎は今年で創立40周年を迎えました。
 1970年に「情報センターへのシコシコ・模索舎」として設立され、これまで存続してこられたのも、皆様の温かいご支援の賜物です。謹んで感謝申し上げます。

 しかしながら現在、模索舎の経営は逼迫しています。
 オンライン通販や大型書店による寡占化、未曾有の出版不況が加速度的に進むなか、売り上げの落ち込みは深刻であり、40年にあたる今年の10月に果たして存続できているか、確約できない状況です。

 3人の舎員で話し合いを重ねましたが、もはや舎員だけの経営努力では存続は困難であり、抜本的な改革が必要だ、という結論にいたりました。そこで舎外にも協力を求め、有志により再建実行委員会を結成し、組織運営や活動のあり方に関して何度も協議を重ねて参りました。

 模索舎は通常の書店とは異なり、取次(卸業者)を経由せず、出版社や制作者の方々と直接取引し、一般書店では置かれない少部数の出版物やミニコミを、原則無審査で店頭に置いています。小流通と無審査にこだわるのは、商業的な流通システムから弾かれる出版物も貴重な民衆の財産であり、表現の自由を保障する場であることを、その理念に掲げているからです。

 出版の世界は激動期にあり、創立40周年は模索舎にとって非常に厳しい試練の年となると思われます。そこで、まずは40周年を乗り切り、再出発を図るため、当イベントを開催することとしました。第一部では、世の中や暮らしのあり方を捉え返す場としての模索舎の実践を振り返り、第二部では現下の時代・社会状況のなか、模索舎がいかなる場=メディアであり得るのか、率直に討議できる場にできればと思います。

 またイベント開催後も、運営のあり方を見直し、より多くの方々の参加を得ながら、再生のための動きを作り出していく所存ですが、そのためにも皆様の後押しがどうしても欠かせません。カンパのお願い、サポーターズクラブの開設、イベントの開催など、追ってブログ等でご案内させていただきたいと思います。

 改めてこれまでのご愛顧に感謝申し上げますとともに、いま一度のご支援をお願いいたします。

模索舎/模索舎再建実行委員会

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『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第61回 オフクロの死がオレを狂わせた/松本邦明さん(62歳)

 生まれは昭和17年、千葉県の銚子。
 オレが産まれたとき、オヤジは戦地に行っていて、そのままビルマで戦死した。だから、オヤジの顔は知らない。
 母1人、子1人が残されてね。それからのオフクロの苦労は並大抵じゃあなかった。病院の食堂の賄いで働きながら、オレを育ててくれた。
 オレも中学生になると新聞配達と牛乳配達をして、オフクロを助けた。毎朝3時には起きて、まず新聞を配達して、それから牛乳の配達をして回った。新聞休刊日もいまほど頻繁にはなかったからね。それでも1日も休まずに配達して回ったよ。

 中学を卒業して東京の町工場に就職した。葛飾にあった玩具工場で、ゼンマイ仕掛けのブリキのオモチャをつくる工場だった。オレの仕事はプレス工。ブリキをオモチャの形に型抜きするのが仕事だった。
 真面目な工員だったよ。ギャンブルには一切手を出さなかったしね。競馬、競輪はもちろん、麻雀、パチンコもやらなかった。愉しみは仕事帰りに酒を軽く引っ掛けるくらい。オレには夢があったからね。いつかオフクロを東京に呼んで、いっしょに暮らす夢。そのためにカネを蓄めていたんだ。

 そのうちに行きつけのバーのホステスといい仲になってね。美人じゃなかったけど、気のやさしい女で、半年くらい通って口説いたんだ。それで26歳のときに結婚した。
 結婚して6畳ふた間のアパートを借りて、銚子からオフクロも呼び寄せて3人で暮らすようになった。嫁さんもオフクロとの同居に賛成してくれて、「お義母さん、お義母さん」とオフロクを立ててよくやってくれたよ。
 オフクロのほうも若い夫婦に気を遣ってくれてね。銭湯に行くのはいつも仕舞い湯のころで、それも長湯をしてくるんだ。狭いアパートにオフクロがいたんでは、若い夫婦はすることもできないだろう。そうやって気遣ってくれたんだ。
 そんな3人の生活が2年ほど続いてから、オフクロが肺を患ってね。オフクロは若いころから大変なヘビースモーカーで、毎日3箱くらいのタバコを喫っていたから、それが原因だったんだろうね。いや、肺ガンではなかった。その一歩手前の病気だったようだ。それでまだ55か、56歳の若さだったというのに、亡くなってしまうんだ。

 オレはショックでね。心の支えを失ってしまい、腑抜けみたいになってしまった。オレを女手1つで育てながら、苦労を1人で背負い込んでいたオフクロだったろう。ロクな恩返しもしてないうちに逝かれちゃったんだからね。ずっと母1人、子1人で暮らしていたから、自分でもマザコンだったとは思うけど、オフクロの死は本当にショックだったんだ。
 それで玩具工場を辞めてしまうし、毎晩のように出歩いては酒に溺れるようになっていた。朝まで飲んで、アパートに帰らないこともよくあった。
 それで嫁さんのほうが「別れたい」と言い出して、正式の離婚になった。バーのホステス上がりの女だったけど、オフクロにもよく尽くしてくれて、いい嫁さんだった。そのときのオレは腑抜けのようだったし、愛想を尽かされても仕方なかったね。

 嫁さんと別れてからは、千葉とか木更津の飯場に入って土木作業員になった。当時は東京なんかより、千葉のほうが景気はよかったんだ。製鉄工場とか、石油化学プラント、薬品工場などの大きな工場が、埋立地に次から次へと建てられていた時代だからね。
 仕事は忙しくてカネも稼げた。稼いだカネはみんな酒につぎ込んでしまった。オフクロはいない、嫁さんもいない、人生に何の目標もなかったからね。その日その日が面白おかしく暮らせればいいって感じだったね。ただ、仕事は真面目にやったよ。それにギャンブルに手を出さないのも前と同じだった。
 土木作業員で働けたのは55歳くらいまでだった。不況で仕事が少なくなっていたのと、50歳を超したあたりから高齢を理由に敬遠さるようになっていたからね。それであとはホームレスになるしかなかった。

 最初は民間のホームレス収容施設に入った。暴力団だか右翼だかがやっている施設で、収容したホームレスに生活保護を受けさせて、その上前をハネて経営しているところだよ。その施設に3年くらい入ってたけど、いやになって出てきてしまった。何がいやになったかって、ああいう施設に入ったら働いてはいけない決まりなんだ。働けば生活保護が止められちゃうだろう。だから、毎日毎日食って寝、食って寝するだけなんだ。身体がなまってしまう。それに集団生活を長く続けていると、息苦しくもなってきてね。それで出ることにしたんだ。

 この代々木公園で暮らすようになったのは去年から。友人と2人でビニールシートの小屋をつくって、いっしょに暮らしている。ここは静かでのんびりできていいよ。新宿あたりだと、ホームレス同士のケンカがあったり、ガラの悪いのが多くて物騒だからね。
 いまはアルミ缶拾いをしている。毎朝5時には小屋を出て、渋谷、原宿、千駄ケ谷あたりを回って、ゴミ置場から失敬してくるんだ。1週間で50キログラムくらいは拾える。キロあたり90円前後で引き取ってもらえるから、週4~5000円の稼ぎにはなる。それだけの現金があれば、毎日のタバコと晩酌に缶チューハイの1本が飲めるからね。
 そうやってあと3年がんばろうと思っている。65歳になれば生活保護が受けられるからね。それまでの辛抱だよ。(2004年3月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年3月 9日 (火)

アフガン終わりなき戦場/第31回 触らぬ神のたたりなし(2)

 昨年3月、アフガニスタンではある法案撤回に対するデモが国際社会の注目を呼んだ。可決された法律は夫婦間での男性による妻のレイプを合法化するものだった。欧米諸国は一斉に反発。オバマ大統領は「忌まわしい」とまで発言した。アフガン政府も圧力に負け法案撤回を決めたが、これに対して市民が大挙してアフガニスタン各地でデモを敢行したのだ。
 我々の基準からすると、「アフガン人はなんて女性差別的なんだ」と思うかもしれないが、これはイスラム教徒にとっては、自明の権利なのである。コーランのラマダンの項目にはこうある。

「断食の夜、汝らが妻と交わることを許してやろうぞ。彼女らは汝らの着物、汝らは彼女らの着物。アッラーは汝らが無理しているのをご承知になって、思い返して、許したもうたのじゃ。だから、さあ今度は。(遠慮なく)交わるがよい、そしてアッラーがお定め下さったままに、欲情を充たすがよい。(『コーラン』上巻、牡牛の章、183節)」

 つまり、ラマダン月に日が暮れた後、妻と交わるのはイスラム教徒にとっては神から与えられた権利なのだ。結婚後強姦自由法案(何て呼べばいいのだろう?)が欧米の圧力によって握りつぶされたことは、イスラム教徒の感情を刺激した。自分たちの正当な権利を欧米によって侵害されたと感じたのだ。 

 ただし、この法案の一件のみを持ってイスラム教徒が野蛮だと決めつけることはできない。大御所と言われる何百年も前に発生した全ての宗教は、現代の人権観念と照らしあわせれば、差別的としか見えない面も多い。たとえば、「先進国」アメリカの人権も相当キリスト教によって侵害されている。同性愛は認められていないところがまだまだあるし、女性の堕胎を受け持った医師が襲撃されることもある。
 しかし、欧米諸国は大なり小なり啓蒙思想の影響を受けている。啓蒙思想が広まって以降、欧米では絶対的に宗教を信じることが出来なくなった。日本は敗戦で天皇が人間宣言をしたことにより神を失った。
何が正しいか正しくないかということは、公的には民主主義制度の下で法を作ることで定め、個人的には一人一人がそれを考えなければならなくなった。死後の世界の在り方も、個人の考え方によるものになり、それを確実に証明することはできなくなった。つまり、一人一人が啓蒙思想の言う「理性」をもち、それぞれが考えなければならなくなったのだ。考えても答えの出るはずがない問いを死ぬまで抱え込むことになった。
 イスラム教国はトルコなど政教分離を実施している国以外は、啓蒙思想という道を通ってこなかった。だから、彼らは今でも無心に神を信じることができるのだ。
 私のアフガンの友人の多くも、死後は天国で何度セックスしても処女膜の再生する72人の乙女が迎えてくれると本気で信じている。死後の世界も、人生の悩みも、大体のことは神さまが順序立てて説明して、揺るぎない正解を示してくださるのだ。
 これを宗教の効能と見るか、弊害と見るかはあなたしだいだ。

 しかし、アメリカも大変な人たちと戦争を始めたものだ。僕はイスラム教徒が危険だと言いたいわけじゃない。宗教の中で生きるというのは、こういう物であり、イスラム教徒とはこういう人たちなのだ。神が作った絶対的な法ではなく、人間が作り出した不完全な人権や民主主義を旨に生きる私たちとはさまざまな点で異なる判断基準を持っているということを言いたいのだ。
 少なくとも、タリバンやアフガン人は国連決議無しで独立国に攻め込んだりしないし、ありもしない大量破壊兵器を理由に戦争をおっぱじめたりしない。放っておいてあげればアメリカみたいに威圧的でも危険でもない。追いつめるから暴発するのだ。
もう、放っておいてやるのが一番だと思う。彼らも40か国もの軍隊に自分の国をうろうろされるよりは、援助も何もいらないから、放っておいてほしいと思っている。
 彼らは彼らの基準で生活するし、アメリカ軍に変な言いがかりをつけられたりするのにもウンザリしている。
 まあ、僕の言いたいことは結局、「さわらぬ神に祟り無し」だ。
 オバマさん。もういい加減ケツまくって帰ってくれませんかね?(白川徹)

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2010年3月 8日 (月)

Brendaが行く!/郵政民営化により日本人の生活はもっと便利にそして惰弱な人間はさらに惰弱に

批判なんて一切ないです!

この日本の便利さ。

郵便局に集荷サービスがあるのはご存知ですか?

狂猫は日本からの荷物を受け取りまくっていますが、それらも狂猫の実家やお友達のお家まで取りにきてくれてそれでパリの自宅まで届く訳です。

そんなことが可能な国は日本ぐらいじゃないの?????

郵便局と言えば、ヨーロッパでは、ポストとかポチタとかそんな名前で呼ばれてますが、近頃は民営化されている国もありますが、どこも対応は、so so、でもso soならまだいいほう。

しかも誰も彼らにベストパフォーマンスなんて期待してません、だってそんなこと想像さえ出来ないほどの彼らなんですもの。

でも、でも、
郵便局なんて特に高給な仕事でもないし、少し怠け者的な感じもする職場だし、誰もそんな彼らの働きに関して厳しく言及はしないですよ。

それでも、不景気のせいでフランスの郵便局は最近サービスが良くて、もはやアタクシBrendaにフランス語で話しかけてくる人さえいなくなり、いつも最初から英語で話しかけてくれます、これは前と比べたらものすごい進化しているように感じますが。日本の進化とはまた内容が違いますね。

でも、私は、日本ってそこまでするのか~って。
確かに便利だけど、郵便局の人はそれじゃあ毎日街中を集荷に一軒一軒まわってすごく大変すぎはしないか?と。

狂猫の実家には、有閑マダム気取りのお方がいるのですが、毎日右往左往働いて1分の時間を惜しんで生活している狂猫がフランスのラポスト(郵便局)に日本向けの荷物を持ち込むのとは対照的に、日本で余裕のある生活をしているマダムが自分の重い尻をあげずに荷物が送れるのは、、、なんか、格差かなと。でも実際そんな感じがする。

郵便局で働く人は民営化の社員になったことでもっと暮らしが大変になって、豊かな人たちはそのサービスにあぐらをかいてのほほんと暮らしているのではないかしら?

本当に別に日本の郵便局の現状が悪いなんてぜんぜん思わないのだけれど、カラーの全然違う3国に住んでみるとなんか、なんとも言えない思いになることがあるのです。

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2010年3月 6日 (土)

トヨタに“暴走”隠蔽の旨味を教えた20年前の悪しき教訓

 トヨタ自動車の豊田章男社長は、今回のリコール問題について米議会下院監視・政府改革委員会の公聴会で、「トヨタは過去数年間、急激にその業容を拡大してきたが、正直ややその成長スピードが速すぎたと感じている。もともとトヨタ経営の優先順位は、①安全②品質③量。この優先順位が崩れ、そのため我々自身が立ち止まって改善を考える余裕をなくした」と語った。その前にも彼は「トヨタは決して万能でない」などと弁明していた。自己批判しているようであるが、頭の下げ方が高すぎる。
 拡大スピードが速すぎて内実がともなっていないという批判は、以前からこの連載でもつづけてけてきた。トヨタの生産台数が急激に伸びたのは、張富士夫氏が社長をしていた2002年からである。

「同年に六百三十一万台だったグループの世界生産台数は、年平均六十万台ペースで増加。〇七年には九百五十万台に達し、米ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き初めて世界一になった。この五年間で拡大した生産能力は、創業から四十年以上かけて築いた分に相当する」と、『東京新聞』(2010年2月25日)は報じている。
 こうした急速な展開が、1に利益、2に販売量、3・4が安全・品質といった状況を招いた大きな要因の一つである。おかげでGMに追いついた途端に横転事故となった。
 豊田社長は「わたしたちは顧客の視点で品質問題を考えるという視点が足りなかった」ともいう。つまりユーザーの求める品質・安全ではななくて、メーカーがユーザーに押しつけていた、ということだ。だからこそ彼は「顧客の安全が最優先との視点から責任ある判断を下す仕組みを加える」とまで言及したのである。
 これは尼崎事故で107人が死亡したなどで、「これからは安全第一だ」と宣言したJR西日本とおなじ姿勢である。JR西日本は、事故調査委員会の動向を秘密裏に探って、圧力をかけていたことが発覚した。その会社の姿勢が改めて問われたように、トヨタがこれまで安全第一でなかったことによる信用失墜の打撃は大きい。
 トヨタ自動車販売のジム・レンツ社長は、急加速の原因として、アクセルがフロアマットに引っかかること、アクセル関連の部品がすり減って戻りにくくなることの2点をあげた。電子制御の問題になる前に、この2点で、この事態を終息させようという、トヨタ側の強い意思があらわれている。
 豊田社長も公聴会の質疑で「社内調査でも誤作動は見つかっておらず、設計上の問題ではないと確信している」と、電子制御システムの問題を明確に否定した。

 一方、米下院エネルギー商業委員会は、電子システムに重大な懸念があると主張。この問題をトヨタが継続的に退けてきたとも批判している。実際、04年に電子制御を装備したカムリの速度に関する苦情は、電子制御のない車の5倍に上ると米運輸省が指摘したのに、トヨタは組織的な検証をしていなかった。
 トヨタの言い分が通るかは疑問だ。公聴会では、ジム・レンツ社長がマット交換とペダルのリコールで問題が解決するかと詰め寄られ、「完全にとはいえない」と答えている。自社の対応が不十分であることを認めたようなものだ。
 さらに米運輸省高速道路交通安全局に寄せられたトヨタ車による暴走の訴えには、リコール車以外の車種も半分含まれている。その上、フロアマットに問題がないのに、ブレーキを踏んでも止まらなかったケースさえある。
 公聴会では、アクセルペダルに足を乗せていないのに暴走、ブレーキを踏んでも止まらなかったという証言まで飛びだした。
 米国議会の怒りに油を注いだのは、北米トヨタの稲葉良★ミ社長名で作成された社内文書だ。07年にカムリなどがリコールされた際、ロビー活動によって備品であるフロアマットが原因となり、費用を1億ドル以上節約できたと、そこには書かれていた。
 この文章が本物かと公聴会で追求された豊田社長は、「ここに書かれている英語がわからない」と明言を避けた。これではトヨタの“隠蔽体質”を疑われても仕方があるまい。
 そうした企業体質をうかがわせる事実もある。
 07年3月には米国で、08年12月には欧州でアクセルペダルの不具合にかんする苦情が寄せられていたのに、米国でのリコールは10年1月だった。米国で一家4人が暴走の末死亡した事故から3ヶ月以上たってからだ。
 加えて、元連邦政府の安全調査官がトヨタに天下りしてことで、連符政府の調査がかなり限定されたものになった、とABCニュースは報じている。
 自社のみならず、政治力を使っての隠蔽など、トヨタへの疑惑が膨らむ一方である。問題はこうした「体質」は、労働者と下請、孫請会社をいじめた過剰生産をつくりだした。「安全第一」から「世界第一」へ急カーブを切っていたのだ。

●変節した運輸相

 ここで改めて振り返ってもらいたいのは、80年代末に起こったオートマチック(AT)車による暴走事故である。
 運輸省がまとめたAT車の暴走件数は、83年は39件、84年44件、85年62件、86年67件にとどまっていた。AT車の暴走が騒がれはじめた87年は、430件と急増している。このときはトヨタだけではなく、日産・ホンダ・三菱・マツダなど日本のほとんどの自動車メーカーに加え、外車の暴走も指摘された。しかしメーカー各社は、アクセルとブレーキの踏みまちがいだとして自社の不備を認めることはなかった。
 それでも西ドイツのフォルクスワーゲン車と日産が提携して生産した車が、電子部品の不具合からエンジン回転数が上がる不具合が露呈。日産は部品の無料交換をおこなった。こうした事態を受けて、構造上の欠陥はないとして主張しつづけてきた日本自動車工業界も、業界として初の調査に乗りだした。しかし2年ばかり調査して結果は「急発進・急加速現象が全AT車に共通に起こる構造的な欠陥はなかった」というものだった。
 このとき同工業会の会長だったのが、豊田章一郎トヨタ自動車社長である。
 暴走問題の原因調査に乗りだした旧運輸省は、中間報告で急発進・急加速の事故や苦情261件のうちの約半分が、運転手の捜査ミスとは考えにくいと指摘。それなりの気概はみせた。ところが、その報告から1年後の最終報告では、「ブレーキ操作が適切なら車は止まる」という消費者をバカにしたような結論を導きだす。しかも実車テストに実際に暴走した車を入れなかったうえ、苦情や事故の4分の3を「原因不明」としたままなど、調査の妥当性を疑わせる報告となった。

 一方、東京都府中市で死傷者6人をだした暴走事故では、ブレーキを踏んだのに車が止まらなかったとの主張を被告が譲らなかった。実際、事故現場ではブレーキと疑われるタイヤ痕が見つかっている。
 また87年には、コンピュータ基盤に付けられたハンダのひび割れから暴走が起こるとしてトヨタがリコールしているし、アースの締め付けを忘れたトヨタ車の自動速度制御装置が誤作動し暴走している。
 それでも車の心臓部でもある電子制御が設計段階からおかしとは認めない。トヨタのかたくなな隠蔽姿勢は、80年代末から一貫している。旧運輸省の不可解な最終報告書と米国でのロビー活動によるもみ消し、とは似かよった結果となった。

 AT車問題と今回の暴走問題の奇妙な一致点は、これだけではない。
 トヨタは89年9月に、AT車の暴走につながる可能性のある欠陥を運輸省に報告せず、苦情のあった約3000台の車の部品を密かに交換していたことが明らかになった。これはプリウスのブレーキの不具合をリコールせず、苦情の顧客だけコンピュータを改善していたのとおなじ処置である。
 当時、この問題について記者会見したトヨタの金原専務は、「このような不始末をしたことをおわびする。安全性に問題はなく、運転者の感覚的な範囲の問題としてとらえ、社内で対策をとっていた。リコールの対象外との判断だった」(『毎日新聞』89年9月13日)と語った。
 これもプリウス問題で記者会見をした横山裕行常務の「お客様の感覚と車両の挙動が少しズレていることによって、お客様が違和感を感じられると認識しておりました」という発言とおなじである。
 車が暴走しようが、ブレーキの利きが遅かろうが、お客様の「感覚の問題」だというのが、トヨタ方式なのだ。米国トヨタ自販のジム・レンツ社長が公聴会で説明した「世界的な情報の共有がうまくいかず、大半の情報が一方通行だった」ことが問題の本質ではない。情報を集めた先の大企業意識、殿様意識が、ユーザーの安全や不安を押し切ってきた。

 このような、これまでの一連のAT車暴走事件は、トヨタに悪しき教訓をあたえてきた。構造の欠陥を認めず、不安と不備をガス抜きをしながら時間をかけ、こっそりと問題をカイゼンしていけば世論も収まると。だからこそアクセルペダルの問題が指摘されても、死亡事故が起きるまでは放っておいた。日本のマスコミは、トヨタの広告費に餌付けされていた。
 しかし、訴訟社会であり、39人もの死者がでていた米国では、この巨大な自動車メーカーの問題を放っておくことはなかった。
 現在、共和党系はトヨタを批判しているが、民主党系は擁護している。それは雇用問題が絡むからだ。同社の雇用人数は約17万人。叩きすぎれば、リストラやレイオフが発生する。ヘタをすれば米国撤退の可能性もでてくる。雇用と命との奇妙な対立になっている。ただ、どれほど雇用が重要でも、39人死んでもほおかむりをつづけた企業への批判はやまないであろう。

 一部で報じられている通り、たしかに選挙を前にした日本バッシングという側面もある。しかしAT車問題から20年、おなじような対応をしている大企業が逃げ切ることは難しい。
 すでにニューヨーク州南部連邦地裁の連邦大陪審は、アクセルの不具合とプリウスのブレーキ問題について、書類の提出を求める召喚状をトヨタに送っている。ことによれば、刑事事件として「暴走」が裁かれる可能性もある。トヨタにたいする包囲網は、わたしたちが考える以上に狭められている。
 ウォール・ストリート・ジャーナルは、公聴会の証言でトヨタは助けられるかをアンケート調査した。結果、7割以上がNOと答えたという。
 トヨタが米国でこれからも、シェアを確保できるか、それとも地に落ちるのかは、まだ判断がつかない。ただ修復できる可能性はある。トヨタは「助言役」として、元米運輸長官を起用した。カネにあかせた敵の大将を雇用するウルトラXである。国際的な天下り、で防衛しようという作戦である。
 重要なのは、どうしてこういう社会になったのかだ。
 トヨタが急速に海外に工場を拡大できた最大の要因は、設備投資の巨大な資金があったからだ。それも無借金経営のままである。そうした経営基盤を支えたのが、トヨタ自動車の現場で3分の1にもおよぶ期間工の存在である。さらに下請け・孫請けはほとんど派遣労働者でまかない、末端は日系ブラジル人さらには、中国、ベトナム、フィリピンなどの研修、実習生という「奴隷労働」が支えている。
 トヨタが直接雇用したわけではなく、トヨタの責任ではないと主張するかもしれない。しかし、毎年、下請けのコスト削減を徹底させられて、下請各社は労働者の賃金を抑えるしかなかった。
 つまり労働者と下請けへのいじめが、安全を最優先できず、トヨタ暴走問題の大きなポイントとなった。さらに、この冷酷な支配のシステムを支える、人間を人間とも思わない企業風土が、死亡事故が発生してもなお隠蔽しようとする社風をつくりだした。
 トヨタが抜本的な改善を望むなら、たんにリコールの決断を早くするのではなく、欠陥商品が生まれないような人間を大事にする哲学をつくりあげる必要がある。
 労働者の待遇を見直し、モノをつくる誇りと愛情をもたせる。そうしない限り安全を担保する品質は確保はできない。トヨタが崖っぷちから「生還」できるのかを、世界中が注目している。(談)

全文は→「1003.pdf」をダウンロード

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2010年3月 5日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/番外編 本を書きました!

 私は夢見るユメコのように持ち切れないほどの夢を抱えて生きてきました。私にとってそれらの夢たちは努力したら叶うかもしれないという現実味を帯びたものではなく、あくまでも非現実的で楽しいものばかりを集めたコレクションボックスのようなもの!!(笑) 私はいつも心の中で、そっとコレクションボックスを広げては空想の世界へと旅立ち、はちきれそうになっているストレス玉を一つ一つ発散していくのでした。

 甲子園の高校野球の決勝戦……9回裏2アウト満塁、打順はもちろんワタクシの番。2ストライクと追い込まれるも、ボール気味の球をカキーン!と快音を轟かせて逆転サヨナラホームランで見事優勝!! を果たすのだけれども、空想の中でも私はあくまで脳性まひ者のままなのでホームベースに辿り着くまで時間が恐ろしくかかっちゃうんですね(笑)「ホームラン打ったんだから一塁までで勘弁してよ~」と冷や汗かきながら塁審に泣きついても「規則は規則ですから!」とハンディ交渉にとりあってもらえず、ホームベースを踏むころには観客もチームメイトも引き上げ…「せっかくなのに校歌は歌わないの? ちょっとォ閉会式は?? 優勝旗やメダルの授与はどうすんのよっ!!!」

 と、いつもこんな空想の世界に浸りつつ、ただただ地味に地面を這いつくばう腹這いや高這いプログラムをこなしていたのです。
そんな風変りな子が真面目に将来の夢を語ったところで誰も相手にしてくれるはずがありません。幼稚園の頃から一貫して持ち続けてきた夢は「お嫁さんになって、お母さんになること」。まぁ他にもパイロットやコックさん、花屋さんに電車の運転手、アイドルに雑誌の編集長など、よりどりみどりの発言を繰り広げてきたので、聞かされる側は「また増えたのね~」ぐらいで、お嫁さんも憧れの職種の一つと捉えられていたようです(笑)
私の中では「お嫁さんになる」というのは他の何よりも現実的でなんとか努力して勝ち取りたい夢だったのです。幼き頃から自分が脳性まひ者として生きてきた経験とこの奇妙な環境で生き延びてきた生活をフルに活かせる道は「母親」という職以外他にないと思っていました。どうしてまだ何もわからない子どもの頃から、そう確信できたのか私自身も不思議でなりませんが、自分がしてきた経験を自分の中だけに閉じ込めておくのはもったいないという思いからなのでしょうか。

 ワタクシの念願は叶い、小学2年になる息子を抱える一児の母です。実際に母になってみると、子どもを一人育てるのも並大抵の意気込みでは挫折しちゃう、という思いと、親はなくとも子は育つ、この2つの相反する気持ちが去来します。望んで手に入れた親業も時としてその責任が重く重くのしかかりしんどく感じることも正直あります。でも、子育てにおいて一番、親の手腕が問われるのはきょうだい関係をどう育んでいけるか、ここが最も難しい腕の見せどころであり、親の仕事なのではないだろうか?と最近思います。
実際問題ワタクシに親としてそのような器量があるかどうかはさておき、困難なことに立ち向かいたい質としては、この難事業に加わってみたい!ユニークな息子を一人、育て上げたぐらいでは母親なんぞ語れない!!(注:まだ育て上げておりません!!)とこれまで幾度となく奮起したものの、やっぱり踏みきれないんです。(貧乏子沢山アコガレマス)
 それはあまりにも、妊婦生活の10ヶ月間とお産が悲惨だったことにあります(笑)どう悲惨だったのか? それを詳しく知りたい方は…フフフ… 今月の29日にアストラからワタクシの著『三重苦楽』が出版されますので、是非こちらをお読みくださいね♪
 ワタクシが手塩にかけて育ててきた?! ユニーク息子が書いた作文も見ごたえアリです!!
 みなさ~ん、どうぞよろしくお願いします☆彡 (大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→ http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2010年3月 4日 (木)

ホームレス自らを語る/●第60回(新作)路上生活も仕事の延長(後編)秋田一さん(仮名・59歳)

1003  JR新宿駅新南口前で会った秋田一さん(仮名・53)は、非常に律儀というか、融通のきかない純朴さといったらいいかという人である。工業高校を卒業して、日本有数の造船会社であるI重工へ就職するが、同社に就職すれば夜間大学に通えるとかの、いくつかの特典が反故にされ、それに怒って辞めてしまう。「約束が守られなかったり、人から騙されることが大嫌いなんだよね」とは本人の弁だ。

 I重工を辞めて、次に働いたのが従業員10人にも満たない町工場で、プレス板金を担当することになる。すると、秋田さんはプレス作業の専門書を購入して、その理論を完全にマスターしてから仕事に就くという徹底ぶりである。その町工場は人間関係も良好で、彼には居心地のいい理想的な職場だったようだ。だが、いいことは長くつづかず、彼が働くようになって1年半後に工場が倒産してしまうのだ。
「それで次は宝飾品の製造工場に就職したんだ。オレは金や銀の指輪をつくるのが仕事で、蝋で型取りをしてそこに溶解させた金や銀を流し込んでつくる。鋳造技術だね。だから、こんどは鋳造について、徹底的に学んでやったよ」
 例によって律儀なまでに完璧を期しての就職であった。ただ、そうまでして就いた仕事であったが、ここも長くは続かなかった。

「その工場では金や銀の地金の仕入れ量が、指輪に加工されて目減りすると、その差を金額に換算して加工を担当した工員の給料から差し引くということをしていたんだ。まるでオレたち工員が加工の途中で、金や銀をごまかしているといわんばかりだろ。従業員を泥棒扱いする工場でなんか働いていられないからね。それでやめちゃった」
 そんな工場で辛抱して働けとはいえないが、これもまた秋田さんの一本気で融通のきかない性格がなせるわざだといっていいだろう。その後も彼は職場を転々とすることになる。以下、メガネチェーン店、一般のメガネ店、写真現像のチェーン店、そしてまた最初のメガネチェーン店に戻るという具合だ。前と同じく新しい職場に入るときは、その技術を理論からマススターしてである。

「最初のメガネチェーン店では、店員が一人の客の検眼から、レンズの選択と加工、メガネの組み立て完成まで責任をもってやる方式だったので、その全部を覚えてマスターした。メガネフレームの蝋付け加工もできるからね。写真現像のチェーン店では、現像からプリント作業までを覚えてやった。プリントのときフィルム一齣一齣の明るさ暗さを焼き度で調整する工程があって、それには経験と勘が必要でむずかしかったけど、本で理論的なことから覚えてやったんだ」
 という徹底した仕事ぶりだったのだ。

 そこまで仕事に徹した秋田さんだったが、どこの職場でも入社するときの約束が守られずに、それに嫌気が差して転職を繰り返すことになった。
「たとえば、店長扱いだと言われて入社して、たしかにある支店の店長を任されたけど、それはその支店の生え抜きの人が店長に育つまでのつなぎ役の店長で、そのため支店を転々とさせられるとかね。別の職場では、入社したときに約束した給料の額が支払われなくてやめたこともある。オレのほうは努力して仕事を覚えて働いているのに、裏切られてばかりの人生だった」
 また、一般のメガネ店勤務中には、こんなこともあった。
「オレのオヤジが亡くなって、その葬儀に出るために3日間ほど店を休んだことがあった。そうしたらオーナーに呼ばれて、『店長が3日間も店を空けるとはどういうことだ』とすごい剣幕で怒られてね。オレはオヤジが亡くなっても店を休めないのかと思って、それならそれでオレにも考えがあるというわけさ」
 その店は客単価を3万円に設定されていたのだが、秋田さんはそれを2万円に落として販売した。仕入れは3万円設定のままである。店は1年後に倒産し、秋田さんはみごとに意趣返しを果たしたのだ。

 最後のメガネチェーン店をやめたとき、彼は独身のまま41歳になっていた。もう、他人のために働いて騙されるのはコリゴリと、ホームレスになる決意をする。
「自分の寝る場所と、自分で食べるものが確保できる最低限の生活ができればいいということです。他人のためではない、自分のためにだけ、ささやかに働こうということでホームレスになりました。だから、オレにとっては、これも仕事の延長なんです」
 41歳の5月。秋田さんはJR戸田公園駅周辺でホームレス生活を始めた。仲間と徒党を組まない、一人だけのホームレスである。

「はじめは食べものの入手方法がわからなくてね。何日も食べるもののない日が続いて、近くの住人が見かねてパンを差し入れてくれ、それで何とか飢えがしのげてね」
 常に準備を周到に整えて、ことに望んできた秋田さんにしては、とんだ手抜かりであった。そのことがあって、スーパーマーケットが廃棄する食品を貯蔵している小屋を探し出し、そこから食品を調達するようになる。

「そこにはサンドイッチから、カレーパン、餡ドーナッツ、惣菜まで何でもあって、バラエティに富んでいたよ。ただ、ほかのホームレス連中にも知られて、彼らが食い荒らすもんだから小屋に鍵がかけられちゃってね。それで戸田公園を離れることになった」
 それから船堀橋を経て、新宿に移り今年で18年になる。
「ホームレスをするのも、普通の仕事と同じで、工夫をすれば快適な住む場所と食べものが得られるからね」

いまも生きるために、何かと工夫を凝らしている秋田さんだ。(聞き手:神戸幸夫)

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2010年3月 3日 (水)

絶賛大河連載「池田大作より他に神はなし」第8回 荒涼たる東京の街角を、豪奢なる美と知性でうめ尽くす、竹谷いく子候補のポスターは師弟の魂の金字塔だ!!

 筆者経営で倒産寸前の下請け編プロ漫画屋の事務所は、生意気にも天皇一族と同じ千代田区内に(似た経営状態のアストラもだ)。衆議院選挙区でいえば東京第1区。田舎の人からすると、”東京都千代田区…”と聞いたり宛名書きをする際には、「いいとこに住んでんだなぁ!」と、少し尊敬の念が湧くかも。実際は築50年近い元廃工場で、10坪で管理費込みで88000円の超ボロ汚ビルだが(2月の契約更新で2000円値下げさせた)。

 他地域同様に天皇家のお膝元にも、参議院選挙の事前ポスターが目立ち始めた。なぜか民主党候補のみまだ見かけないが、年令制限過ぎてるのに、70歳で公認された”棺桶からの使者”、自民党の保坂三蔵(比例区)の、額に三角の白い紙を貼ったミイラ顔を見ると食欲が失せるが(本当は貼ってません!)、そんな街角の汚物の悪臭を一気に吹っ飛ばしてくれるのが、公明党の山口那津男代表とセットで掲示されている、竹谷とし子候補(東京選挙区)の、豪奢でじっとりと落ち着いたポスターだ。

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 言うまでもなく美人だ。1969年生まれというからまだ40歳。なのに知的で崇高ささえ感じさせる。さすがは創価高校、創価大学と、日本において考え得る範囲で、最も理想的教育環境を生きた才媛だけの事はある。正直な所、私は竹谷女子の過去を詳しくは知らなかった。経歴も本稿執筆にあたり調べたに過ぎない。しかしデータは予想通りの、いやはるかに素晴らしいものであった。あの街角の聖なるオーラは、池田名誉会長の導きで研鑽を積んだ者にしか発せられない、”大信念の賢者(けんじゃ)”そのものの輝きだったのだ。”教育には、人間を善(ぜん)する力も、悪にする力もある。だからこそ、教育が大事である”(中央公論新社刊『池田大作名言100選』94ページ)。

Daisakumeigen1  知的領域における”生前世界遺産指定”間違いなしと、国境を超えた世界の識者が口を揃える、池田名誉会長の新刊、『池田大作名言100選』(中央公論新社・本体1100円)が、砂漠の商隊に水が消費されるような勢いで、人々に行き渡っている。帯のタタキがまた素晴らしい。“時代を超えて伝えたい この1冊を待っていた!トインビーが、ゴルバチョフが、松下幸之助が讃えた 世界をリードする英知の結晶が、いま輝きを放つ”トインビー、ゴルバチョフと来て、突如の松下幸之助! 一見は唐突だが、実はここにこそ名誉会長の、独創的な知性のひらめきが潜んでいる。

 世界的経済学者、冷戦終息の立て役者、”マネした電器”の創業者。特に幸之助の場合、出版社で言えば集英社同様の厚顔猿真似経営で知られ(高度経済成長時代、カラーテレビを輸出価格の何倍もの値段で国内で販売し暴利を貪った、浪速の売国経営者としても有名)、経営手腕はらつ腕なれど、とても名誉会長の眼にかなうような、世界をリードする教養人とは思えない。しかし許すのだ。徒手空拳で世に出たバイタリティーを買うのだ。松下幸之助は、欠点まみれの敗戦後の日本の象徴なのだ(同じ象徴でも、天皇家のうつろなそれとは異なり、リアリティーたっぷり)。負をも含めてはるか格下の同胞に注ぐ慈愛に、2世紀間に股がる天才の決断の底力を、我らは感動に震えつつ目撃する。

 同書、今年の1月10日に初版後、14日には既に5版。つまり毎日が増刷日!活字本が売れないと言われて久しいが、人々はしっかりと見ている。書く人と中身次第なのだ。村上春樹何するものぞ!!(出来れば増刷部数も明記して欲しかった。3流出版屋の中には、売れ行きを強調する手段として、例えば3000部増刷する際に、わざと1000部ずつ3回に分けて刷り奥付に記し、ハッタリをかます。名誉会長の御本がそんな誤解を受けるのは、弟子として耐えられない!)。

 「お、お前もか!色っぽいよなあ、竹谷いく子ってさ。飢えた熟女の濃密なお色気むんむん。セピア色のポスターも挑発的! やってくれるよ公明党さんも。神保町のバイク屋の店頭で初めて見て股間直撃されてよ、その晩年甲斐もなく3回も抜いっちゃったよ。女上位でグラインドされるイメージで。あの目付き…。何でも姦ってくれそう…。もう今回は絶対に竹谷様に入れるよ。マダム竹谷は国会の熟女マドンナだ!!」「けどお前、都民じゃねえだろう?」「………」例によっての半失業状態の、友人の酔いどれフリーライターだ。黙って我が事務所に入室、画面を勝手に覗き見ての暴言だ。 貧すれば鈍すの見本のような人間だ。ケダモノはもう見捨てるべき時期か?“偉(えら)ぶってはいけない。偉くみせようとすることもいけない。また偉くさせてもいけない。謙虚であることが尊(とうと)く強いのだ”(前出書69ページ)ああ、まだまだ私は傲慢だった。申し訳ありません、名誉会長!友が改心するその日まで、一生付き合って血塗れの努力をします!!(つづく)

■塩山芳明…雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

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2010年3月 2日 (火)

アフガン終わりなき戦場/第30回 触らぬ神のたたりなし(1)

 2月2週目から南部ヘルマンド州において米軍による大規模掃討作戦が始まった。昨年も同時期に4千人規模による同様の作戦を行ったが、今回は同地に長期間留まることを目的にしているようだ。
 17日にはタリバンの拠点と言われているマルージャを制圧したが、子供を含む多数の民間人の死者が出たとの報道があり、アフガニスタン中で批判が高まっている。
 けれど、流れてくる記事の中に気になるものが一つあった。
 仏AFPは13日付の電子版で以下のように伝えている。

 タリバンは、非戦闘員に発砲してはならないという連合軍の規則を逆手に取っており、アフガン国軍の指揮官は、「女性や子どもを家々の屋根の上に立たせ、その背後から銃撃してきた」と話した。また、国軍兵士らも、銃撃戦に巻き込まれて負傷した民間人らを目撃したと証言した。

 まあ、下手な嘘をつくものだ。タリバンが女性や子供を「人間の盾」にしているというが、これは天地がひっくり返ってもありえない。
 別にタリバンを擁護するわけではない。タリバン、むしろイスラム教徒として絶対にありえないことだからだ。イスラム教において戦闘員は成人男子のみと定められていて、それ以外は戦闘に参加することを許されない。それを盾にするなんてことは、イスラム教の原点回帰を目指すタリバンのメンタリティからいってほぼ100%無いと言っていいだろう。
 けれどあなたは「戦争中のことだ。宗教上の教えなんて無視されるのではないか」と言うかもしれない。けれど、ところがどっこいなのである。

 イスラム教という宗教は食事のとり方から、借金の仕方まで事細かな決まり事のある宗教だ。イスラムの特徴として研究者の井筒俊彦は自著でこう述べている。

 「イスラームという宗教では聖なる領域と俗なる領域とを、少なくとも原則としてはまったく区別しない。(中略)これがわれわれですと、例えば葬式や法律などは坊さんにやってもらいますが、ふつうの日常のことは自分で勝手にやる。イスラームではそんなことはありません。生活の全部が宗教なのです。(『イスラーム文化 その根底にあるもの』 岩波文庫)」

 つまり、生活の全てが神に尽くす神聖な道なのであり、結婚の仕方も、戦争の仕方も、全てが神の意志としてコーランで指示されているのだ。これに反することはすなわち、イスラムの敵となるのだから、サラフィ主義のタリバンは絶対に逆らえない。宗教によって禁止されている女性や子供を盾にするなど、彼らにとっては思いもつかない卑劣な行為なのだ。
 イスラム教徒の人たちと接していると分かってくるのだが、彼らの善悪の判断基準や世界観は全てコーランに依存していると言っても、過言ではないように思う。タリバンに限ったことではなく、イスラム教徒は死後の世界が「こういうものだ」とはっきり言うし、何が正義で何が悪かという基準をしかと持っている。自分たちが正義だと思う物には命をかけるし、悪だと思うものには頑として戦う。(白川徹)

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2010年3月 1日 (月)

新連載!残る女子大、残らぬ女子大 第一回 共立女子大学

 九段下駅に降り立つと、渋谷などの繁華街に立地上近いにも関わらず、なんとも落ち着いた雰囲気が漂っている。皇居や九段会館、靖国神社など由緒正しい日本の名所と、ところどころに見える古ビルやアパートなどが混在しているせいだろうか、複雑且つ味わい深い街、という印象だ。

 そんな中に共立女子大学は建つ。付属の中高と共に、本館、1号館から7号館、共立講堂を神田一ツ橋キャンパスとされ、家政学部、文芸学部、国際学部の3つの学部を置く。まずは、家政学部の授業が行なわれる事が多い3号館の方へお邪魔した。

 学生の印象は総じて「癒し系」。児童学科など、実践的な授業が多い学部の特性だろうか、最近の女子大生イメージとは少し違う貴重な女の子たちが多い。髪はほぼ黒髪、巻き髪や明るい茶髪・アクセサリーはあまり見られない。ジーパンやすっぴん、ヒールなしの靴などがメジャーであり、世間の女子大とは異空間と言えるだろう。館内も淡い雰囲気であり、自身が通っていた幼稚園を連想した。
「家政学部の女の子はかわいい系、文芸はカジュアル、国際は少し派手」と共立女子を一言で表すのは、話を聞かせてくれた国際学部の3人組。ゆったりとした空気の3号館を出て、本館にお邪魔した時に目についたTHE女子大生という3人である。本館は国際学部、文系学部の生徒が多いせいだろうか、「女の子」という外見を意識、作りこむ手間をかけているという、「日本の女子大生」がぽつぽつと見られ始めてきた。3人はサマンサタバサやコーチのバックを持ち(しかしここでもルイヴィトンなどのハイブランドがあまり見られない点は、やはりこの大学の特徴を表しているのだろうか)、休日に撮ったというプリクラを眺めながら共立女子大について語ってくれた。

「うちは生徒のタイプも幅広いし、内部と外部の差もあまりない。居心地がいいですね」なるほど、お話を伺った食堂にも化粧をしている人、DS対戦をしている人、辞書を広げている人など多種多様である。しかしやはり、全体的にnon-no系の服装、暗めの髪、リュックを背負い、教授や授業の話に花を咲かせているのを見ると、「まじめなお嬢さん」という形容がぴったりである。

「1年生からゼミで専門分野を決めて勉強できます。課題やテストは、教授によるけれど、大変なものは皆必死でやります。うちの名物教授はクリスチャンディオールと呼ばれる男性の教授。クリスチャンディオールの略ってCDでしょ。その教授は厳しくて、単位が「CとD」しかくれないから(笑)」と女子大生っぽい話を聞かせてくれた。

 こちらの本館は、一見都会のビルという外観である。屋上庭園に上がると、有名出版社や立ち並ぶオフィスビルが一望できた。下に下りると食堂。うどんが280円、ラーメン・カレーが400円など平均的な価格設定である。ホテルのようなロビーには、沢山の留学案内、講演会のビラが目に付いた。「共立アカデミー」という冊子を手にとってみると、TOEIC講座から始まり、ミュージカル鑑賞講座、マナー講座、ヨガ、カラーセラピー、秘書検定講座などあらゆる正課外講座の案内であった。将来の進路決定や生涯学習などを意識した充実したラインナップであり、人気も高いという。

 かざらない、自然体な生徒たち。東京の「女子大」の枠にあまり当てはまらない彼女たちと、そんな彼女たちを迎えるしっかりした校舎。そんな共立女子大を表すと「質実剛健」。地に足がしっかりついている女子大、という印象を受けた。(三条あゆみ)

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