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2010年2月

2010年2月28日 (日)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第59回 女ひとりで生きてきて/A子さん(76歳)

 昭和3年の生まれですからね。物心がついたときにはもう戦争が始まっていて、終戦が17歳の女学生でしょう。それから戦後の混乱と経済復興、バブル経済から、いまの不況まで、いろいろ見てきました。私自身にもいろいろあって、いまはホームレス。自伝を書けるくらいの人生ですよ。
 生まれは東京・葛飾でしたが、すぐに大田区に越しました。父がそこで工場を始めたからです。旋盤を幾台か置いて、工員も7、8人だけの小さな町工場でした。戦時中もずっと操業していました。軍関係の仕事を強制的にやらされていましたからね。
 戦時中の思い出といえば、空襲のなかを逃げ惑ったことですね。多摩川の六郷土手まで幾度走って逃げたか知れません。土手の上からあちこちに上がる火の手や、遠くの空が真っ赤に染まっているのをよく見ました。空襲のなかを逃げ惑うのは、いまでも夢に出てきますよ。あんなことはもうコリゴリですね。
 終戦後、女学校を卒業して、父の工場を手伝いました。母も姉も工場で働いていましたからね。私も旋盤を操って、油まみれになって働いたんです。
 28歳のときに結婚しました。当時はまだめずらしい恋愛結婚でした。主人はガラス店の店員をしていた人で、地方出身の実直でやさしい人でした。いずれ独立して自分の店を持つんだと、いつも口癖のように言ってました。
 結婚してすぐに子どもができて、男の子が生まれました。それからまた2番目の子を妊娠したんですが、これが子宮外妊娠だったんです。もう死ぬか生きるかという状態になって、病院で手術を受けました。お腹を開けて中の内臓を取り出して洗浄するという大手術でした。それで命は取り留めました。手術をしてくれたお医者さまも、私の命が助かるとは思っていなかったようです。あとで奇跡的だったと言ってましたからね。
 何とか命は助かりましたが、そのあと5年間病院のベッドの上で過ごすことになりました。その間に主人とは別れました。離婚を言い出したのは、私です。もし私の元気が回復しても、もう夫婦生活のできない身体になっていましたから、それでは主人が可哀相だと思ったからです。
 主人と別れることになって、子どもも養子に出しました。闘病生活をしながら、子どもを育てるのは無理でしたからね。子どもは主人の兄の家に引き取られました。兄夫婦には跡取り息子がなかったんです。
 病気のせいとはいえ、子どもを手放すのは辛かったですね。それからは来る日も来る日も、病院のベッドで泣き通しました。私の人生で一番辛い思い出ですね。
ダンボールに寝るのは勇気がいりました
 5年後に病院を退院してからは、日本橋の喫茶店で働くようになりました。いえ、ウエイトレスではなくて、カウンターに入ってコーヒーを淹れるのが仕事でした。そのお店は本格的なドリップコーヒーを出す店でしたから、私はいまでもコーヒーの味にはうるさいですよ。
 当時のサラリーマンは暇があると喫茶店に来ていましたから、お店はいつもお客さまでいっぱいでした。それに出前もしていて、大きな会社の会議になると、コーヒー50杯とか、 100杯とかの注文がくるでしょう。ですから仕事は忙しかったですね。
 喫茶店で働くようになって、巣鴨のアパートに部屋を借りました。そこから毎日日本橋のお店に通いました。もう結婚できない身体でしたから、楽しみはお酒を飲むことでした。といっても、毎日飲み屋さんに通ったり、たくさん飲んだわけではないですよ。女の独り暮らしを慰めるための慎ましい飲み方でした。
 日本橋の喫茶店には55歳で定年になるまで働いていました。それからはアパートで暮らしながら、時々近所のお店を手伝ったりして生活するようになりました。
 でも、お店の手伝いで稼げるお金はタカが知れていますからね。喫茶店で働いていたころに蓄めた貯金や退職金も、だんだんに底を突くようになっていました。それに歳がいってくると、お店の手伝いのクチも声がかからなくなりますしね。
 68歳のときにアパートを出ました。部屋代をためて居座るような度胸はないし、だったらまだおカネが残っているうちに出たほうがいいと思って、引き払ったんです。
 覚悟を決めて出たものの、行くあてはないし、ホームレスの人はみんな怖そうですし、どこで野宿したらいいのか決められないまま、あちこちフラフラ歩き回るだけでした。そのうちに田端の公園に出て、そこに親切そうなホームレスのおじさんがいましてね。わけを話すと、場所を空けてダンボールで小屋をつくってくれたんです。それでもそこに寝るのは怖くて仕方なかったですね。周りのホームレスは男の人ばかりで、いくら親切にされても勇気がいりました。
 ホームレスをしてみると、やさしくて気のいい人が多いことがわかります。でも、なかには女1人だとみると意地悪する人もいます。もう、それにも馴れましたけどね。
 いまは代々木公園に小屋をつくって、そこで暮らしています。周りはいい人ばかりで、たまにみんなで酒盛りをしたり、楽しくやらせてもらっています。
 時々、役所の人が回ってきて、福祉の世話にならないかと勧めてくれます。でも、まだ足腰もしゃんとしていますからね。「どうしても身体が動かせなくなったらお世話になります」と断っているんです。施設に入るより、仲間のみんなと楽しく気ままにやっているほうがいいですからね。(2004年4月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月27日 (土)

冠婚葬祭ビジネスへの視点/第38回 受話器を捨てよ、葬式に出よう(1)

 不況に押しつぶされながら、ただひたすらに営業電話をかけ続けているサラリーマンの方々。
 空しくなっていませんか?
 「飛び込み電話なんて、どうせ無駄」と、思っていませんか?
 どうせ無駄なら、受話器を捨てて、外に出てみませんか?

 外に出るなら、黒ネクタイを忘れずに。
 香典袋も持ちましょう。
 袱紗は黒いものにしましょう。
 ワイシャツの色は白ですか?
 東京であれば、そうですね、乃木坂か落合がいいでしょう。

 ブラブラ歩いていれば、駅の近くでプラカードを持っている人に出会うかもしれません。
 そのプラカードには、何と書いてあるでしょう。
 知っているような大きい企業の、一方的に知っている会長やら社長やらの葬式であれば、矢印のままに向かいましょう。

 葬祭所につきましたか?
 お香典を受付に預け、お焼香をさせていただき、喫煙所に向かいましょう。
 煙草を吸えなくても、そうしたほうがいいです。
 そこでは様々な人が煙草を吸いながら談笑していることと思います。

 一人でうつむいている人を探して、こんなふうに言ってみましょう。

「惜しい人を亡くしましたね」

そこから、葬式人脈は広がります。

あ、名刺はたくさん持っておいたほうがいいです。

(小松朗子)

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2010年2月26日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第23回 「ドーマン法」世間の評価は

 医師や専門家と呼ばれる人たちの大半は、ドーマン法に対して批判的なご意見をお持ちのようです。理由としては、非科学的であり、膨大な費用が必要なことに加え、過激すぎるリハビリ法であるという点に尽きるみたいです。またドーマン法が生まれてから50年もの歳月が経過しているにもかかわらず、未だに同じ症例でドーマン法を施した場合とそうでない場合の回復率や、それにまつわるデータが存在しないという点においても、いかがわしいとみなされている所以なのでしょう。しかしながら一方で、極めて少数派ではあるけれども、一部の専門家たちの中には「ドーマン法」を研究し、ドーマン博士の理念に賛同しドーマン法を日本でも広めたいと活動なさっておられる方もいらっしゃるようです。私は自分自身も変わり者であることを棚に上げ、変わった人をお見かけすると注意深くウォッチングしたくなるクセがあります!(でもまぁ、このヘンな性分が幸いして今の主人とも結ばれたといっても過言ではないので、こういう性格もアリ!!ということにしておきましょう。ちなみに主人はドーマン法賛成派ではないのですが、私がウォッチングしたくなる程の変わり者だというコトです。ウフフ)

 話がそれてしまいましたが、「ドーマン法」について興味を持ち、研究しようとなさる専門家たちはいったいどんな方なのか? 私はものすごく興味をそそられてしまいます。もっともそんな方とは滅多にお見受けできませんけれど…。でも忘れた頃にテレビやネットで拝見するんですよ、モノ好きな研究者のお姿を!! そういう研究者の方たちの共通点は「非科学的な方法であり、また様々なデメリットがクローズアップされるけれども、これほどまでに詳しい説明が親になされ、親が十分に理解出来て、そして納得して“一丁やったろか!”というやる気を湧かせるリハビリ法が他にあるでしょうか?」ということと、あともう一つは「子どもの自主性を重んじているリハビリ法が他にありますか? やはりドーマン法はスバラしいんです!」といって称賛なさっています。私は「なるほど~。研究者の人からは、こういう風にも見えるのね~」と妙に感心する一方で、体験者だったチョウの本人に言わせれば、親にものすごく詳しい説明がなされるのは、正しい知識を与える為にではなく、親の一番弱い部分に揺さぶりかけ、保険適応外のリハビリ法に取り組んでもらう為の博士が率いる研究所スタッフの“話術”にすぎないんじゃない?! かと。 少なくともウチの親は何時間ものレクチャーを受け、熱心にノートを取り、朝から暗くなる夕方まで一週間クールの講義を年に二回も受け、母は新しいプログラムを処方してもらう為に、しぶしぶ受けてたところがありましたが、父はいつだって熱心に博士の言葉に耳を傾け、我が子の障害に関しては「スペシャリスト」って感じで、かなり自信ありげでしたけれど、実際のところは…脳性麻痺にもいろいろなタイプが存在することすらわかっていなかったのですから!!(笑) まぁウチの親がおまぬけなだけだとも言えなくはないでしょうけれども、やはり…研究所のレクチャーに問題があるように感じます。

隔りのある知識の詰め込み作業だったのでは?
その目的は訓練に立ち向かわすためであり、つまりマインドコントロールに過ぎなかったのでは?
と思ってしまいます。次に「自主性」という言葉にも反応してしまいました。「自主性」と聞いて反射的に「おいおい、好き好んで子どもがドーマン法に取り組むわけないじゃない! やらされてるんだってばぁ」と思った私でしたが、どうやら「自主性」の捉え方に違いがあったようです。一般的に障害児の場合、自主性を育むことが育児の上で一番難しいと言われています。というのは、障害が重くなればなるほど、つまり重度の障害児ほど、何をするにも介助人の手を借りなければならない故に、生活全般に渡って、やってもらって当たり前で、その環境に慣れてしまえば、いわゆる「イエスマン」(あなたまかせ)に陥ってしまうのです。いま障害児教育の現場では、このことが一つの大きな課題となっているようで、子どもの自主性を引き出して育んでいく為には、自分で身体をいろいろと、まず動かしてみて、それで初めて、ああしてみたい、こうしてみたいという欲求が湧いてくるらしく、このことをドーマン推進派の研究者たちは「自主性を重んじるリハビリ法」だと高く評価されているという訳でした。<おーぉ!! なるほどなぁ~>と唸らざるを得ない私。。。 でも、それも程度問題だよね~。と思ってしまうのでした。ドーマン法の内情を知っているだけに……あのメチャクチャ過激な訓練法は「自主性を育む」メリット以上にカラダに与えるデメリットが潜んでいるかもしれないと。正しい筋肉を使うことができない脳性麻痺児に根性だけで腕立て伏せや腹筋だの背筋だの、1日に100回以上も課すって!?  やっぱり、ちょっとそれは…“非科学的”過ぎますョ~ドーマン博士!! なんだか戸塚ヨットスクールを彷彿とさせてしまうのですが… そこに結び付けてしまうのは私だけ? あら?! あまりにも古臭さ過ぎたでしょうか? オバサンなもんでスンマセン。許してちょんまげ!! (大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→ http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2010年2月25日 (木)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第58回 2度目のホームレス/伊藤喜一さん(60歳)

 私のホームレスの生活は、これが2度目なんです。若いころ2年ほど日比谷でホームレスをしたことがあります。そのころはホームレスとはいわないで、浮浪者っていわれてましたけどね。だから、これが2度目で、こんなのはめずらしいでしょう。
 生まれたのは昭和19年、岩手県の早池峰山の山の中です。JR東北本線の石鳥谷という駅から、バスで2時間もかかる山の中で、うちらの住んでいたところが最後の集落でした。あとは後ろに早池峰山があるだけ、周りに家がなくて隣家まで歩いて30分もかかるようなところでした。

 家は農業をしてました。といっても山の中で耕地がないから、家族が食べる分をつくるのがやっという貧農でした。その家族も満足に食べられなくて、麦や稗、粟の入った飯を食べていました。
 小学校は分校です。それでも家から1時間以上かかりました。全校生徒は20人くらい。昼の弁当が持っていけなくてね。欠食児童です。昼は給食で出る脱脂粉乳のミルクだけを飲んでいました。あのころの岩手は「日本のチベット」といわれていましたが、まさにその通りの生活でした。
 学校の宿題があって、夕飯のあとに電灯を点けようとすると、「勉強なんかしてどうするんだ。電気代がもったいないだろう」って親からこっぴどく叱られたもんです。夕飯がすむと家族そろって寝てしまう。そんな電気代にさえ不自由するような生活でした。
 だから、こんな生活はいやだと思ってね。中学を卒業すると、さっさと東京に出てしまいました。

 最初はボイラーをつくる町工場に就職しました。そこを1年くらいで逃げ出し、あとはいくつかのスーパーマーケットを転々としました。職場を転々としたのは、もっと仕事が楽で給料がよさそうなのに目移りして替えたんです。でも、結局どこも同じでしたね。
 それでもう働くのをやめました。日比谷の地下駐車場に何十人かのホームレスが棲み着いていて、その仲間に入ったんです。まだ20歳そこそこのときで、それが最初のホームレスの生活です。楽をして生きていくには、ホームレスがいいと思ったんですね。実際に楽なもんでした。あのころはエサ(食べもの)がいっぱいありましたからね。

 ホームレスになって2年目くらいのときでした。「バカヤロウ。いい若いもんが、こんなところでゴロゴロしているんじゃねえ。ヤマへ行け。ヤマへ」いきなり2人組の男に怒鳴りつけられたんです。2人はニッカポッカを穿いたトビふうの人でした。とにかくものすごい剣幕で怒鳴りまくられて、私は力ずくで駐車場から連れ出されていたんです。
 2人に連れていかれたのは山谷でした。ヤマというのは山谷のことだったんですね。それでそのまま日雇いで働かされることになりました。それ以来30年間、日雇いで働きながら、山谷で暮らしてきました。
 あのときの2人組が何者だったのか、よくわかりません。当時は高度経済成長期だったから、どこの現場でも人手が足りませんでしたからね。人夫の頭数が足りなくて、それをそろえるためにホームレス狩りをしていたのかもしれません。それでも2人のおかげで、それからの30年間は日雇いをしながら、ドヤ(簡易宿泊所)に泊って3度のオマンマが食えたわけです。そのころは日雇いの日当が1000円ちょっとで、ドヤ代が1泊 600円くらいだったんじゃないかな。
 結婚はしませんでした。そんな気もありませんでした。子どものころ周りに家のないようなところで育って、いつも1人で遊んでいましたからね。人づき合いが苦手なんです。口下手で女の人とは口もきけないし、日雇い人夫じゃ相手にもされませんからね。
 いまホームレスをしていても、いつも1人です。ホームレスには仲間をつくって暮らしている人が多いですが、私は集団に入っていくのが苦手ですね。1人でいるのが気楽でいいですよ。
 2度目のホームレスの暮らしをするようになったのは、10年くらい前です。平成に入ってからの不況で、日雇いの仕事にあぶれるようになったからです。隅田川の脇に、ビニールシートで小屋のようなものをつくって住んでいます。

 以前のホームレスをしていたころにくらべて、いまのほうが暮らしにくくなっています。いまはスーパーマーケットや飲食店が、売れ残りの弁当や残飯を出しませんからね。たまに残飯が出してあって開けてみると、タバコの吸い殻がまぶしてあったり、水浸しにして食えないようにしてあります。ホームレスが増えすぎたからなんでしょうね。
 食べるものはボランティアとキリスト教の教会がしている炊き出しと差し入れがたよりです。毎週1回キムチうどんの炊き出しをしてくれる教会がありますが、そこの牧師さんは韓国の人です。そんな人が我々日本人ホームレスのために、600食ものうどんをつくってくれるんです。頭が下がります。それがなかったら、私ら生きていけないですからね。

 岩手には帰っていないです。東京に出てから最初の盆暮れだけは帰りましたが、あとはプータローですから帰れません。親から「ほら見たことか」と言われるのがオチですからね。その親ももう生きてはいないでしょう。いまでは帰りたいとも思わないですね。
 今後のこと? 考えないです。自分でこうしたいと思っても、どうにかできるもんじゃありませんからね。その日、その日を暮らしていくより仕方がないです。(2004年5月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月23日 (火)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第57回 人の上に立つのが苦手/津川春松さん(53歳)

 生まれは昭和26年で、岩手県の九戸という青森県境に近い町でした。
 家は農業をやってましたが、ボクが6歳のときに父が脳溢血で亡くなります。兄弟が7人もいて、そのうち5人はまだ学齢期だったから、母の苦労は並大抵ではなかったです。自分の家の農業をやりながら、近所の農家を手伝って手間賃を稼いでいました。
 だから貧乏でしたね。ボクは兄弟の下から2番目でしたから、着るものはツギのあたったお古ばかり。電灯も家に1灯しか引けなくて、夜は家族全員が1つの裸電球の下に集まって生活するという具合でした。
 中学生になると、ボクも近所の農家を手伝ったり、春は山菜採り、秋はキノコや栗を拾って、それを売って生活費や学費の足しにしていました。

 中学を出て、左官の見習いになりました。地元の親方に弟子入りしたんです。そんなに厳しい修業があったわけじゃないし、仕事にはすぐ馴れて覚えました。
 ただ、その親方のところは5年で辞めてしまいます。何となく仕事がいやになったのと、東京に憧れていたからですね。それで東京に出て、やはり左官になりました。20歳のときです。
 で、その左官も5年くらいでやめてしまい、次は立ち食いソバ店の店員になります。で、その店も5年くらいでやめることになります。
 どんな仕事でも5年もやっていると、責任ある仕事が任されます。左官の仕事でも下に見習いがついたり、小さな現場では頭として任されるようになります。立ち食いソバ店でも、5年目に店を1軒任されて責任者にされました。
 ボクはそういう人の上に立ったり、責任者になって現場や店を任されるのは好きじゃないんです。とくに人の上に立って人を使うのは、むずかしくて苦手でした。下っ端のままで上の人から言われたことだけをやっているほうが、性分に合っているんですね。
 立ち食いソバ店の責任者になったときも、他の店と売上げを競わされたり、従業員の勤務シフトに穴を開けないように人員を確保したり、そんなのがいやでね。だから、ここも店を任されるようになって、逃げ出すようにしてやめてしまったんです。
競馬で当ててホームレスに…

 結婚はしませんでした。同棲はしましたけでね。立ち食いソバをよく食べに来てくれた女性で、美容師をしている人でした。彼女とは2年くらいいっしょに暮らしましたが、だんだんに意見が合わなくなって別れました。まあ、ボクが結婚をためらって、グズグズしていたのが一番の原因ですね。やっぱり、結婚して責任を取るのが怖かったんでしょう。
 立ち食いソバの店をやめてからは、建築現場で土方をして働きました。いや、このときはまだ日雇いじゃあなくて、小さな工務店の社員になって、寮に入ってね。で、ここも4年か、5年して辞めます。

 それからあとは日雇いです。ただ、ボクは型枠バラシをするグループに入って、それを専門にして働いてきました。
 型枠というのはコンクリートを流し込む板枠のことで、流し込んだコンクリートが固まってから、その型枠を解体するのが型枠バラシの仕事です。
 危険の多い仕事で、とくに危険なのは天井スラブの型枠のバラシですね。天井スラブは型枠を幾本もの鉄パイプで下から支えてあります。鉄パイプを外すときは、仲間で声をかけ合って一斉に外します。鉄パイプが飛ぶ方向は一応計算してありますが、どうかすると壁にぶつかって跳ね返ってくる。パイプについているチェーンが飛んでくることもあります。
 天井スラブの型枠バラシは非常に危険だから、このときだけは仲間以外の人は現場に入れません。仲間で慎重に声をかけ合ってやりますが、それでもケガ人が出ることもあります。ボクも幾度かケガをしました。鉄パイプが足の親指に落ちて骨折したり、飛んできたチェーンで腹を打たれたこともあります。
 危険な仕事ですが、やっているうちに馴れてきます。それに天井スラブのバラシが毎日あるわけじゃないですからね。
 この仕事だけは長く続いて、10年以上やりました。ずっと下っ端のままで、責任を取らされる立場にならなかったからでしょうね。毎晩、仲間とカプセルホテルに泊って、朝になると迎えのワゴン車が来るから、それに乗れば現場まで連れていってくれる。気楽なもんでした。

 ホームレスをするようになって2ヵ月くらいになります。いや、やめさせられたわけじゃなくて、自分から行かなくなったんです。この春、競馬であてて30万円ほど稼ぎましてね。それで仕事をサボるようになって、そのままズルズルとホームレスになってしまったんです。30万円のカネなんて遊んで暮らしていると、あっという間に消えてしまいますからね。
 型枠バラシの仕事に未練があります。また、働きたいとも思っています。親方に電話で詫びを入れて、また使ってくれとたのんでみようとも考えたんです。でも、何か億劫でね。1日延ばし、2日延ばししているうちに、2ヵ月がすぎてしまいました。
 新宿でホームレスをしていると、食べものが豊富にあるでしょう。差し入れや炊き出しが頻繁にあって、原宿や渋谷まで脚を伸ばせば、毎日のように食べものにありつけます。それに甘えてしまうから、いけないんですね。ホントに食えなくなれば、もっと真剣に考えるんだろうけどね……。(2004年6月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月22日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/27歳・男性・司法書士試験勉強中

(前編)
 生まれは東京です。5歳の時に北関東の市街地に引っ越して、大学に入るまではずっとそこにいました。僕はヒョロッとした体型だったので上級生などからいじめられることがあり、中学で部活を選ぶ際は、兄が部長を務めていた卓球部に入りました。そこならいじめられないだろうと。卓球は一瞬たりともやったことがなかったんですけどね。でも中学三年間のことを振り返ると、もう、卓球ばかりの日々でしたね。とにかく卓球のことだけ考えていて、どうすれば部活以外でできるかと思い、中学生に教えているスクールに友達と参加していたりしました。成績は、最高で地区大会シングルス2位です。
 部活が終わる3年生の中盤からは、受験勉強一色になりました。親が、高校は県立の進学校に行かせる、必ず大学まで行かせるという考えの人だったので、塾に通わされたんです。親からは、兄も入学した進学校に入るよう薦められ、僕も自転車で5分という近さが魅力で、その高校目指して頑張り、合格しました。

 高校でも卓球をやろうとはじめは思ったんですが、顧問の先生が「この人の下でやりたくないな」と思わせるような嫌な人だったので、入りませんでしたね。結局どの部活にも入らず、ゲームばっかりやってました。ゲーム以外、何かに打ち込んだってことはないですね。一つのモノを使い込む癖があって、人気機種が出ても目移りせずに一つのゲーム機を極めていた記憶があります。
 兄が国立大学に行ったこともあり、親もそのほうがありがたいだろうと思い、クラスは国立文系を選びました。国立のほうがある程度の成績を持っていないと入れないということもあるのですが、それにしてもひどい成績でしたね。石油が掘れそうなくらい、地の底を這ってました。
 恋愛とかは全然ないですよ。男子校という条件もあって、高校時代に女の子としゃべった経験というのは1回か2回です。食パンくわえた女の子と曲がり角でぶつかって逆ギレされるとかないですよね、自転車で5分じゃ(笑)。
 飛行石を付けたおさげ髪の女の子が、天空から降ってくるのを待つ日々です(笑)。

 受験には全部落ちました。それで一年間予備校に通ったら、なんと偏差値が20も上がったんです。先生が言っていることがすごくよく分かって、勉強するのが全然苦にならなくなっていきました。わかれば勉強って面白いものです。浪人してよかった、と思っています。浪人した友達は、みんなそう言ってますね。

 一年たって受けた大学は、父と母の母校でした。教育学部の、地理歴史専修です。社会科を選んだのは、日本史が一番得意だったからです。「信長の野望」にハマってましたし、そのころ「るろうに剣心」とか流行ってましたしね。卒論は新選組です。「アカデミックじゃないけど、面白い」ってゼミの先生に言われて、学会で発表したりしました。

 就職活動は3年生の1月から始めました。大学では国際交流のサークルにひたすら打ち込んで、「留学生と遊ぼう」というテーマで幹事としてたくさんのイベントを手掛けたので、多くの人を楽しませるということにやりがいを感じ、マスコミを希望しました。内定は4年生の10月ぐらいまでに3つもらいました。広告代理店と、ベンチャー企業と、テレビ番組の制作会社です。一番面白そうな制作会社を選びました。
(前編終わり)

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2010年2月21日 (日)

『転落』記事が朝日新聞、毎日新聞ともに掲載

神戸幸夫新刊『転落』についてインタビュー記事が両紙に掲載されました。

★朝日新聞2月19日★

路上生活に100人の理由
―戸田のライター神戸さん、証言集出版―

離婚、借金……複雑な背景

「なぜホームレスになったの?」。東京・新宿の公園などで暮らす路上生活者の告白や吐露を聞き取り、写真を添えた「転落 ホームレス100人の証言」が、3月に出版される。家庭不和や離婚、病気、借金。「単純な人生などないように、野宿暮らしへの過程も単純ではなかった」と著者は語る。(伊藤典俊)

 ホームレスの取材を始めて15年になる戸田市のフリーライター、神戸幸夫さん(62)がまとめた。これまでに300人以上の声に耳を傾けてきた。1999年と2002年にも「証言集」を出し、今回が3冊目の出版となる。
 今回の狙いは原因の分類。複合的に絡む事情から浮かび上がったのは、自己責任に加え、「閉鎖的で余裕のない時代と社会への加速」だった。背景を探るうち、「私は彼らと違うのか」と悩み、「誰もが家を失いかねない時代」を感じてきた。先の見えない不況が続くだけに、「明日はわが身」とも痛感している。
 取材に応じてくれた100人は60歳前後が最も多い。40人余が生活保護費需給世帯に生まれた。中卒が36人で、直近の仕事は44人が土建業。
「転落」の理由は仕事の減少が22人、けがや病気が21人、高齢が20人だった。賭け事やアルコール依存も多く、離婚経験者は26人いた。
 バブル経済崩壊の影響も大きかった。「企業にとって、彼らは景気の浮沈を調整する捨て駒」と神戸さん。インチキ背広の売り手、暴力団の構成員、地上げ屋。そんな経歴を持つ人もいた。「悪銭身につかず。されど他を選べたか、です」
 厚生労働省の全国調査(07年)によると、東京23区内のホームレスは約4千人。路上生活4年以上の「長期層」は全国で50%に及び、平均年齢は57.5歳。加えて現在は、「新規参入層」の若年ホームレスが急増している。
 作家の雨宮処凛さんは、刊行に際し、「手持ちの条件がちょっと悪いだけで『生きられない』社会は明らかに病んでいる。彼らの声に、耳を澄ましてほしい』との言葉を寄せた。
 「転落 ホームレス100人の証言」は1500円。問い合わせは、出版社の「アストラ」(03・3288・3946)へ。

★毎日新聞2月19日★

出版:「ホームレス100人の証言」 15年間の取材、写真とともに
 /埼玉
 ◇戸田のルポライター・神戸さん

 路上生活者を15年間取材してきた戸田市に住むルポライターの神戸
幸夫さん(62)が「転落 ホームレス100人の証言」(アストラ)
を22日に出版する。路上生活をするようになったきっかけを12種類
に分類し、それぞれの人たちの思いを写真付きで記した。神戸さんは
「路上生活者は特別な人がなるのではなく、誰でもなる可能性がある」
と話す。

 神戸さんは、官公庁などの記録映画を撮影するカメラマンだったがバ
ブル崩壊で仕事が激減し、15年前にルポライターに転向。以来、新宿
や池袋などで300人以上の路上生活者を取材し、月刊雑誌「記録」に
連載してきた。

 本に登場するのは、家庭に居場所が無くなったり、病気やけがで働け
ず社会のセーフティーネットからもこぼれ落ちた人たち。取材を受けな
がらうれし泣きする人もいた。「誰にも話したことがない自分の人生を
聞いてもらったことが、うれしかったんですかね」と言う。

 神戸さんは「虚実の判断はしない。ウソだったとしても、ウソで飾ら
ないでいられない悲しさがそこにあると思う」と、語られたことをその
まま記しているのが特徴だ。

 神戸さんが取材の際に撮影した写真120点を展示する出版記念写真
展「路上生活者の貌(かお)」も22日、川口市幸町3のギャラリー
「masuii R.D.R gallery&shop」で始まる。
28日まで。問い合わせは同ギャラリー(電話048・252・173
5)。【西田真季子】

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2010年2月20日 (土)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第56回 トビの親方をしていた/Bさん(50歳)

(2004年5月末に東京都新宿区新小川町の神田川河岸で暮らしていたホームレスが、仲間のホームレスに刺殺されるという事件があった。今回の取材に応じてくれたBさんは、偶然にもその事件の遺体第1発見者。腐乱した遺体をビニールシート小屋で発見したときの様子が、ひとしきり生々しく語られた)

 その新小川町一帯には50人くらいのホームレスが住んでいたんだけど、殺人事件が起きたというんで警察と新宿区から解散命令が出てね。全員でそこを引き払うことになって、オレもそれからはこっちに移って暮らすようになったんだ。(現在はJR飯田橋駅近くで、文京区地籍の神田川河岸で暮らしている)
 出身は福島県の郡山で、昭和29年の生まれ。
 家は農家だったが、田圃も畑も耕作面積が狭くて貧乏だった。だから、オレも中学からアルバイトをして働いた。土方をしたり、型枠大工の手伝いをしたりしてね。
 高校に進んでからもバイトを続けて、そのころにはもう一人前に扱われたからね。学費から小遣い、車の運転免許証まで、全部自分の稼いだカネで賄ったよ。
 高校を終えてからも、そのまま地元で型枠大工やトビの仕事をして働いた。ところが、1年ほどして遊びでつき合っていた女の子が妊娠してしまってね。それとほかにもちょっとしたゴタゴタに巻き込まれることが重なって、地元にはいられなくなったんだ。ゴタゴタの内容? それはちょっと言えないな。
  子どもは生まれたと思うよ。オレは東京に出ることになったんだが、女の子は郡山に残ってぜったいに産むって言ってからね。順調に育っていれば、今年30歳か、31歳のはずだ。オレはそのときの上京で故郷を捨ててしまい、2度と郡山の土は踏んでないから、その後どうなったのかはわからんけどね。

 東京へ出てからもトビと型枠大工の仕事で働いた。中学生の時分から馴染んだ仕事で、これよりほかになりようがないからね。
 上京した当座にオイルショックによる不景気があったけど、あとはバブルが弾けるまで仕事は順調そのものだった。
 自分で言うのも何だけど、オレは仕事の手際がよくて、何をやらせても早いんだ。だから、親方や先輩たちからずいぶん可愛がられてね。それで20代の中頃には、みんなに勧められて独立した。トビの親方になったんだ。最盛期には若い衆を7~8人抱える親方だったんだよ。
 現場はマンションの建築工事が多かった。オレのところは仕事が早いんで評判だったよ。たとえば、工事現場で使い終えた大クレーンを解体する作業、普通は3日間かかる。それをオレたちは2日、場合によっては1日で解体してみせたからね。きちんとした段取りをして、手際よくやればできるんだ。オレの性分だね。段取りが悪いのや、仕事が遅いのは嫌いなんだよ。
 だから、元請けにも気に入られて、よく使ってもらった。若い衆もみんなついてきてくれたしね。いや、特別にいい親方ではなかったと思う。ただ、若い衆の日当のピンをハネるようなことはしなかったからね。

 現場はマンションの工事が多かったけど、それでも横浜のランドマークタワーとか、千葉の幕張メッセの工事もやった。幕張メッセといっても、マンション区のほうの工事だったけどね。
 この幕張の現場がすごくてね。日本中のゼネコンが集まって、工期を競い合うようにしてつくったんだ。普通、鉄骨建方の作業は雨が降ると中止になる。鉄骨や足場が滑って危険だからね。だけど、あの現場では作業員全員に雨合羽が配られて、「足元に注意してがんばりましょう」とか言って休みにならないんだ。1つの現場がそれをやると、ほかもみんな倣ってやるようになるからね。バブル(経済)崩壊前の最後の熱気といったらいいか、奇妙に熱い現場だった。
 ただ、そんなふうに雨でも休まないでやっていたら、雷雨になって大クレーンのブームに落雷するということがあったらしい。よその現場だから、オレたちは見てないけどね。それ以来雷が鳴るときだけは休みになったよ。
 幕張メッセが完成して、何年もしないうちにバブルが崩壊しただろう。あれがオレにとっても最後の華やか仕事だった。日当もあのときがピークで3万円もらえ、月で70万円くらいになった。それだけ稼いでも、若い衆を連れてキャバレーなんかに繰り出していたから、いくらも残らなかったけどね。
 バブルの崩壊後は坂道を転がり落ちる勢いでね。若い衆を抱えるどころか、自分1人の食い扶持も稼げなくなって、気がついたらホームレスになっていた。仕事がなくて、アパート代にもこと欠くようになったら、路上に寝るしかない。それだけのことだから、ホームレスになるのに特別な感慨はなかった。

 いまは古本を拾ってきては、それを古本屋に売って稼いでいる。毎朝3時半にここを出て、文京区内を自転車で回りながら、ゴミ収集場所に出ている古雑誌や古本を失敬してくる。それを古本屋に売りに行くと、安い雑誌で10円から50円、いい単行本や専門書だと 500円くらいで引き取ってもらえる。1日平均で2000円くらいになるのかな。それだけあれば食材から、酒、タバコまで買えるからね。古本拾いは毎日欠かしていない。
 これからのこと? これからもなにも、景気がよくなってもらわんとね。バブルのときのようにとはいわないが、我々にも少しは仕事が回ってくるようにね。まだまだ働く意欲はあるんだからさ。(2004年7月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月19日 (金)

『転落』出版記念、川口のギャラリーと高円寺で写真展&トークショー

『転落 ホームレス100人の肖像』が、いよいよ来週初めより発売となりました。

都内書店では、今週末から並んでいるかもしれません。

というわけで、再度の告知です!

■川口市のギャラリーにて写真展を開催

Tenraku120 『転落』出版記念写真展「路上生活者の貌(かお)」
とき:2010年2月22日(月)~2月28日(日)
ところ:masuii R.D.R gallery & shop(JR京浜東北線川口駅東口より徒歩6分)
地図:http://www.masuii.co.jp/rdr-map.htm

写真展では、出来立ての新刊を販売。どうぞお越し下さい。

■3月5日、神戸幸夫トークイベント~路上生活者の肖像~

20100131_527836 著者の神戸幸夫氏が、茶房高円寺書林にてトークイベントを行います。

ホームレスの表情を厳選した写真展も同時期(3/1~3/6)に開催。

15年の取材成果である写真を囲みながら、昔の、そして今の路上生活者が置かれている状況について語られるトークイベント。

研究者や経済学者では語れない、当事者に寄り添ってきた記者の言葉を聞きに来ませんか?

■とき 2010年3月5日(金)19:00~

■ところ 茶房高円寺書林(高円寺駅より徒歩10分)http://kouenjishorin.jugem.jp/?eid=1017

■ワンドリンク付き500円

■お問い合わせ astra0911@gmail.com まで、お名前とご連絡先をお伝え下さい。

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ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第22回 再診は愛嬌、度胸で乗り切る

 年に2回、都内のホテルで行われる再診。約一週間のホテル滞在期間は、私にとって一秒たりとも無駄には過ごせない貴重な時間。訓練を免れるだけでなく外の空気は吸えて、まともな服を着て、女の子らしい髪を結ってもらえ、おまけに沢山の刺激を受けられる! なんという人間らしい生活なのか!!!! と感動モノなわけですよ。
まるで囚人が久々に塀の外へと出るみたいな感じですかね?! 刑務所に入ったことがないのでわかりませんが…(笑)

 再診の際には、日ごろ使っている訓練用具から知性プログラムの教材から、この期間に読んだ本を一式、課題で書き上げた油絵や粘土工作品に至るまで、そりゃものごい荷物になります。再診の直前・直後のリビングは、誰か引っ越すの? というぐらいの段ボールの山が出来上がります。それプラス衣服などが親子三人分…いくらコンパクトにまとめても一週間分ですから、毎度かなりの荷物になっていました。遠方から公共機関で遥々再診に来られる方は、これらの荷物をすべて宅急便で送りこまれるわけです。(遠方だから、大変だから、運賃が高くつくから…という理由で免れる程、研究所は甘くはありません。)ウチはいつでも、片道6時間程かけて東京まで車で行っていました。荷物はギューギューめいっぱいトランクに押し詰めて!
 私はまだ子どもだったので、もちろん免許なんか持ってませんし、母はペーパーだったので毎回、父一人でハンドルを握っておりました。仕事でも父は車で出張に出掛けることが多かったので長距離運転に慣れているとはいえ、子ども心に「かなりしんどいだろうなぁ~」と思ってみてました。が、それ以上父に想いを馳せている暇はなかったのです! とにかく移動時間中である“6時間”ほどの車内も私にとっては自由に使える貴重な時間なんですから無駄にはできません!
 後部座席を占領し、居心地のいい空間にするべく、計画的に持ち込んだタオルケットやクッションで仕上げると、鞄の中からウォークマンを取り出し、くだらない雑音(両親の会話)はシャッターアウト!! ボーーとただ外を眺めているだけでも新鮮だったし、居心地いい空間に設えた後部座席にゴロ~ンと横になり、将来のことについてアレコレ空想するのも好きでした。それにあきたら、今度は本を取り出して読んだり、サービスエリアでガムやちょっとした小物を買ったりするのもメチャクチャ楽しみなことの一つでした。
「うわぁ~い!! 私は生きてるんだぁーーー」と実感できる年に2度しかない貴重な時間だったのです。
 でも、手放しに喜んでばかりもいられませんでした。
 なぜならば再診の期間には、全スタッフや集中治療を受けている50組ほどの家族の前でデモンストレーションと呼ばれる発表をしなくてはならず、結構そのことが気がかりで気重になっちゃうんです。これでも根はまじめな性格なもので…。(笑)

 発表する内容はその時々によって様々です。知性プログラムの一環で講義の時もありますし、唄やバイオリン、エレクトーンなどの音楽を奏でるデモンストレーションや、ルーティンと呼ばれる床体操やクラシックバレエなんかもあります。
 どれか一つのみの時もありましたが、私は結構すべて総ナメ出演が多かったですね~。どちらかというと表舞台に立つのは嫌いではありませんが、脳性麻痺者の場合、得手不得手の問題じゃないように思います。なぜなら脳性麻痺者の為、緊張するといつもより激しく不随意運動が出て、普段以上に体のコントロールが利きにくくなる状態の中で、さらに普通の人が感じるアガルという症状が加わる感じ。といったらおわかりいただけるでしょうか?講義ならば原稿は一語一句すべて暗記の状態。もちろん音楽ならば楽譜は暗記というか、頭が真っ白になっても指が覚えているまで達しておかなければ話になりません。それでも不随意運動によって予期せぬ事態や様々なアクシデントは避けられません。それに対応できる度胸とアドリブを身につけておかなければ目も当てられない悲惨な状態で終わってしまいます。表舞台に立つとそれだけで不随意運動が炸裂し、いつも以上に見苦しい醜態をさらけ出しているのですから! それに対抗できるのは、愛嬌と度胸だけ!!

 うーん、私のこの度胸の良さはドーマンで鍛え上げられたものだったのか!?
鍛えたかったところが違うような……でもまぁ、これもドーマン法の成果の一つだったということにしておきましょうか(笑) (大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→ http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2010年2月18日 (木)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第55回 中学生のとき故郷を飛び出して/中村光さん(59歳)

 中学3年生の夏休みが明けた日のことだ。生徒指導の教師に呼び出され、夏休みに町の盛り場を歩いていたことを詰問された。その教師は、それを理由に「おまえは不良だ」と頭ごなしに怒鳴るんだ。
 たしかに、オレが盛り場を歩いたのは事実だけど、それだけで不良だときめつけるのはおかしい。だいたい、この教師は前々からオレのことを目の仇にして、ことあるごとに呼びつけては説教を垂れていたんだ。
 それでとうとうオレもキレた。その教師に掴みかかり殴りかかっていった。ひどく逆上してパニックになっていたから、どんな殴り方をしたのか覚えていない。周りの人に引き離されたとき、その教師は床にぶっ倒れて血を流していた。
 オレはそのまま学校を飛び出して、家にも寄らずに駅に行って電車に飛び乗った。学校はそれっきりになったから、中学3年生の2学期で退学したことになる。
 生まれたのは九州福岡県の太宰府。父親は三井三池炭坑でダイナマイト工をしていた。切羽を削孔してダイナマイトを仕掛けるのが仕事だ。一般の炭坑夫よりは、少し格上だったんじゃないかな。三池から離れた太宰府に一軒家を持って、そこから通っていたからね。
 オレが教師を殴って学校を飛び出したときが、三池争議の真っ最中だったよ。大量のクビ切りに反対した炭坑夫たちが、1年近くにわたってストライキで抵抗した労働争議だよ。オレの父親はどちらの立場だったか知らないが、争議のあいだも毎日ヤマ(炭坑)に通っていたね。結局、この前後から石炭産業は斜陽化していくんだ。
 教師を殴って学校を飛び出すと、ポケットに1000円札が入っていたから、電車に乗って小倉まで行った。駅前に手配師がいて、働きたいというと飯場を紹介してくれた。以来、40年にわたるオレの土工の歴史は、ここから始まるわけだ。
「こういう暮らしも結構いいや」
 小倉の飯場に入っていたのは、ほんの少しだけだった。太宰府に近くて、知り合いに見つかる危険があったからね。交通費ができると、すぐに大阪に出た。その大阪には2年いて、それから名古屋に6年、あとは東京と横浜の飯場を転々として暮らした。ほとんどがビルやマンションの建築現場だったが、たまにダムの工事をやったこともある。
 仕事は土工のうちでも一番下っ端の、手元と呼ばれる仕事だった。トビや職人の下について、その仕事を手伝ったり、材料の片付けや現場の清掃をするのが主な仕事。オレにはトビや職人をめざしたり、何かの資格を取ろうなんて野心はなかった。言われたことをするだけの手元が、のんきで気楽でよかった。
 稼いだカネは酒とギャンブルで消えた。その大部分は酒に消えた。毎晩のようにスナックに通った。スナックに通う目的といったら、酒よりも姐ちゃんだ。ホステスを口説くことが目的だからね。それで高い酒を毎晩飲まされたんだ。
 結婚はしなかった。飯場暮らしの土工をしていて、結婚でもないからね。それに結婚なんかしても、いいことはないだろう。離婚すれば慰謝料だ、子どもの養育費だって、いろいろ取られて大変なんだろう。バカらしくてできないよ。
 太宰府の家には、その後2回帰った。1回目は家出から10年後で、黙って家を飛び出してしまって、そのあとどうなっているのか気になって見に行った。父親も母親も元気で、何も変わってなかった。家出したことも、とくには言われなかった。2回目はいまから5年前で、もう両親とも亡くなって、家は弟が跡を継いでいた。
 まあ、そんなこんなで土工の仕事を、40年間も続けてきたわけだ。それが50歳を越えたあたりから仕事が回してもらえなくなって、55歳を境にパタリとなくなった。しばらくはカプセル(ホテル)に泊まっていたが、そのうちにカネも底を突いてくるからね。
 3年前から路上に寝るようになった。若いころからカネは稼いだ分だけ遣ってしまうというやり方だったから、蓄えはないし仕方ないよ。路上に寝るのに抵抗はなかった。初めて寝たときは「ああ、こういう暮らしも結構いいや」と思った。
 いまは雑誌拾いをしている。駅のゴミ箱に捨ててあるマンガ雑誌を拾い集めて、路上販売している書店に卸す。1冊50円くらいで引き取ってもらえる。
 毎朝7時には電車に乗って拾いにいく。とくに決まったルートはないから、その日の気の向くままに回っている。JRの都区内フリーきっぷ(730円)を買って、西は西荻窪、東は新小岩の範囲を拾って歩く。
 1日で拾うのは80冊くらい。両手に40冊ずつの雑誌を下げて歩くのは大変だよ。指がむくんでパンパンに腫れるからね。それを卸すと 4~5000円にはなるから、飯代とタバコ代には十分だ。
 ただ、雑誌拾いの仕事も毎日あるわけじゃない。土曜、日曜、それに火曜日は休み。土曜日曜は発売される雑誌がないし、火曜に発売される雑誌には人気がない。人気があるのは、やはり「少年マガジン」「少年ジャンプ」などの少年向けの雑誌だね。
 これからのこと? このまんまだろうね。もし景気が回復しても、もう土木の現場では使ってもらえないからね。このまんまだね。
 幸いにもホームレスの生活も、雑誌拾いの仕事も、オレは辛いと思ったことがない。夏冬の暑い寒いも気にならない。ここ16年間は風邪1つひかずに、いたって健康。この調子で、ホームレスと雑誌拾いを続けていくよ。(2004年8月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月17日 (水)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第54回 また現場に出てみたい/T・Sさん(63歳)

 昭和17(1942)年、東京・馬込の生まれ。そう、ここから近いからね(取材場所は多摩川の六郷土手)。蒲田の街なんか歩いていると、昔の知り合いに会うこともある。でも、オレの人相や服装があまりに変わってしまって、誰もオレだとは気づかないようだね。声をかけてくる人はいないな(笑)。
 首が痛くて回せないし……カネがないからじゃないよ。糖尿病に罹っているんだ。左手もちゃんと握れなくなっている。もう、昔の面影なんてないからね。知り合いが気づかないのも仕方ないよね。

 家は会社を経営していた。いま空調機器と設備のトップメーカーで、T工業って会社があるだろう? その前身のT暖房を起こしたのが、うちの祖父で、父がそれを継いで大きくしたんだ。ウソじゃないよ。いまでもオレの兄貴は、T工業で役員をしているからね(ちなみに現在のT工業は、資本金 130億円、従業員1600人、東証・大証の一部上場企業)。
 だから、馬込の家はお屋敷だった。部屋がいくつもあってね。いくつあったかは分からないよ。屋敷の敷地面積? 何坪なんて単位じゃないだろう。何町歩だったんだろうな。とにかく広かった。家には女中もおったし、書生もおったからね。
 

大学は東京工業大学に行った。そう、目黒にある国立の大学。うちの父はちょっと変わっていて、「大学に行くのはかまわんが、学費は自分で工面しろ」という方針だった。といっても17や18歳で、そんな算段はできないからね。それでオレは祖母に泣きついて、祖母からコッソリと出してもらっていたんだ。
 ところが、このオレは留年続きでね。26歳になっても卒業できないんだ。とうとう祖母のほうが痺れを切らし、「もう学費は出してやらん」ということになって、大学4年生まで行ってたけど中退になった。大学では溶接について勉強した。東工大では土木工学科の扱いだったな。

 大学を中退して、T工業に入社する話もあったんだけど、祖父の反対に合ってダメになった。すでに兄貴が社員で働いていたこと、それに短気でケンカ早い、オレの性格が嫌われたようだ。
 で、橋梁工事を専門にする会社に就職した。橋梁の架橋工事というのは、ボックス桁とかバン桁と呼ばれる橋桁を取り付けて渡していく。その橋桁の取り付け作業が、オレたちの仕事だった。そんな橋梁工事をしながら全国を渡り歩いた。沖縄以外の全都道府県を回ったんじゃないかな。

 27か28歳のときに、中津川(岐阜県)で木曽川に橋を架ける工事があってね。2年がかりの大工事だった。その現場事務所で働いていた女事務員を好きになった。田舎娘の純朴さに惹かれたんだな。相手もオレのことを好いてくれて、それで結婚した。オレが嫁さんの家に婿養子に入るかたちでね。2人のあいだに男の子ができた。
 それで2年して橋が完成し、オレたちは新しい現場移ることになった。ところが、嫁さんは実家を離れたくないと言い出したんだ。彼女は一人娘で、ずっと中津川を離れたことがなかったから、知らない土地に移るのが恐くなったんだな。結局、嫁さんと息子は中津川に残り、オレだけが単身赴任で新しい現場に行くことになった。
 だけど、そんな変則的な結婚生活がうまくいくわけないよ。しだいに、オレが中津川まで会いに行っても、知らんぷりして無視するようになってね。それで別れることになった。そのころの嫁さんはブクブクに肥ったブタ女になって、こっちの愛も完全に冷めていたしね。それからはずっと独り身を続けている。

 橋梁の仕事は横浜のベイブリッジを最後にして辞めた。ちょうどバブル経済が絶頂のときで、こういう命懸けの仕事は3Kとかいって、みんなから嫌われるようになっていたからね。外国人の労働者が大勢入ってきて、いい歳をした日本人が、いつまでも現場の仕事にしがみついているのは恥ずかしいような気もした。あのころはカネを稼ぐなら、もっと楽に稼げる方法が、いくらでもあるような気もしたしね。
 そんなふうに考えて橋梁の仕事を辞めたんだが、そのあとありついたのは建築現場の溶接の仕事だった。それも日雇いだからね。橋梁のときより、3Kはきびしくなった(笑)。

 そのうちに首が回らない、手が握れないということになって、だんだんに働けなくなってきた。糖尿病のうえに肝臓も悪いと思う。これまでに、もう4回も入院している。ぶっ倒れては病院に担ぎ込まれ、退院したら、またぶっ倒れて担ぎ込まれる。それを繰り返しているんだ。病院にはついこのあいだまで、今年の正月明けから8月まで入っていた。出てきたばかりだ。
 だから、いつからホームレスになったという明確なものはないな。いつの間にか路上で寝るようになっていた。いまだってカネさえあれば、近くのドヤ(簡易宿泊所)に泊まりに行くしね。1泊1800円で泊めてもらえる。
 六郷土手で野宿している理由? まあ、ここは生まれた馬込に近いからね。それに新宿なんかのギスギスした人間関係と違って、ホームレス同士が親しみ合って馴染んでいるのがいいね。だから、住みやすい。ほかのみんなも、そう思っているんじゃないかな。
 こんなオレにも、夢はあるんだよ。身体がよくなって元に戻ったら、また橋梁組立ての現場に出てみたいと思ってね。それで若い衆を指図して、ボックス桁を組立ててみたい。適わない夢だろうけど、それができたらいいよね。(2004年9月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月16日 (火)

Brendaがゆく!/結局はコミュニケーション能力

最近、言葉ができないおかげで海外で完全無能になってしまう日本の人は本当にかわいそうだと思って。不思議に思ってちょっと調査してみた(時間の無駄だけど。汗)

私が良く使うアルクのページなんて辞書以外に良く読んでみると議論のレベルがものすごく低い。

どうしてそんなことを議題にしなければいけないのかというようなことを専門家が書いていて・・・。
私にはなんでこんなことを書いているのか理解さえもできない。
既に十代後半にはある程度自分のスタイルで英語のしゃべりを確立していた私にとっては何の参考にもなりません。(ちなみにしゃべりはいいとして書くのはもっと難しいので、それはもう少し後になって自分のスタイルを確立した)

自分の過去を振り返って、特に学生としての自分の姿などを振り返り考えてみました。

そこであらためて気がついたこと。私はコミュニケーションに重きを置いているのであまり語学について考えたことはそこまでないということです。最初からそれは出来て当たり前というスタンスで話しているので。それが未熟なフランス語であっても同じことです。

私は、その未熟なフランス語でどうにか自分の言いたいことを言おうとするタイプです。

ただやはり日本人の性質もあるので、むやみやたらにしゃべりまくるということはないです。

特に大学などでは自分が違うと思ったこと疑問に思ったことは積極的に聞いていました。

それが勉学に関する私のスタイルですので。

周りに日本人がいなかったのでわかりませんでしたが、最近フランスで日本人の学生を見る機会があって、なんとも私とコミュニケーションのスタイルが違うことには少し驚きました。

しかも、私は基本的には英語で話すので、英語では、先生に対してもYOUで話すので、良くも悪くもやはりフランクに聞こえますね。呼びかける時はMrと言いますが会話の中ではYOUになるのでね。

フランス語では、YOUという意味の言葉もTUとVOUSという二つがあって、簡単に言ってみれば、あんたとあなたなのですが、ちなみにポーランド語でもそうです。TYとPANI(女)かPAN(男)という言葉があります。

おもしろい現象があって、ある日、私とあと一人他の女の子で英語で話す子があるクラスにいてその二人はよく質問をしていたのですが、二人ともかなりのアメリカ英語でしかも声が高いので、ヨーロッパでは、ちょっとうざく聞こえるのですよね。

プライドのためにも言いますが、その二人が一番真面目で出来のいい学生だったのですが、笑。それでも、アメリカ的な感じがして、その場はすべてヨーロッパの人ばかりだったので、周りが私たちをうざいか軽くみる雰囲気を感じました。

それでも、彼女も私もフランス語も話すので、実際にはちょっと違うのですがね。

こんな微妙なところもあるのです。

英語が堪能すぎるとアメリカ人と間違えられるので、それで周りの目について、みんなはアメリカ人が本当に嫌いなのだなと。笑

でも、私はフランス語もできるので切り替えができるからそれはいいと思います。

留学=勉学という側面もあるので、学びに関するコミュニケーションのスキルも高くないと、留学は成功しないかもしれませんね。

幸い私はこの問題が全くなかったので幸運だったと思いますが。

それでも、教授に意地悪をされて泣いたこともありますよ。
でも、それは人間関係、どこにでもあることです。

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2010年2月15日 (月)

鎌田慧の現代を斬る/第139回 小沢の黒さが目立つ民主党

 民主党は小沢一郎幹事長の政治とカネのスキャンダルを抱えたままで、思い切った政策を打てない状況にある。検察は小沢幹事長を起訴しなかったものの、彼の資金管理団体「陸山会」への政治献金のうち4億円が政治資金収支報告書の記載ミスであったことはまちがいない。すでに秘書だった石川知裕衆議院議員も逮捕。離党した。
 この一連のスキャンダルを、検察の横暴という意見がある。たしかにそうだ。しかし小沢幹事長が有罪か無罪かという問題とは別に、かつての野党の指導者で、いまは与党の中枢にいる人物が、田中角栄、金丸信と同体質の古い政治力(カネと軍団)によって権力を握ってきていることが問題なのである。

 民主党が戦後日本を支配してきた古い政治構造「政官財融合体質」から脱却し、新しい民主政治にむかうとしているなら、小沢支配から脱するのが最善の道である。自民・公明連合政権がスキャンダルにまみれて崩壊したし、それに合わせて立ち上がった新政権が手袋の裏返しのような同じ形では、今後、選挙民の期待に応えることはできない。このままでは、夏の参院選でどれだけの議席をおさえるられるかがあやしくなっている。
 ところが民主党は党首と幹事長の疑惑にフタをしつつ、党内に「捜査情報の漏えい問題対策チーム」を設立して、検察とマスコミと癒着をただすと鼻息も荒い。
 政権がマスコミにたいして影響力を発揮するなどやっててはいけない。とくにテレビ局は総務相が許認可権を握っており、政治的圧力に弱い。安倍政権時代には、NHKに圧力をかけて番組を改ざんし、ついにはプロデューサー、ディレクターを追いだしてしまった暗い歴史がある。それを繰り返してはならない。
 小沢とカネの問題について、検察のやり過ぎという問題はある。しかし秘書とそれをとりまく業者の関係が旧態依然であったことが火種となっている。もっと早くからあやしい関係を打ち切るべきだったのだ。

 千葉景子法務大臣は検察の捜査を止められる“指揮権発動”をにおわせた。「一般論として指揮権というのはあるわけで、(発動が)絶対ないということはない」というのは、「一般論」と断っているが穏やかではない。
 また、民主党内には指揮権発動を求めるとも取れる動きもあったようだ。しかし、指揮権発動は戦後ただの一度しか実行されておらず、問題が大きすぎる。新しい政権が実行するなどありえない。ただ民主党議員が、そうした行動を願っているところに、党首と幹事長の闇の深さを感じる。
 いまこそ民主党は、独自外交の拡大、福祉政策の拡充(労働者・老人・女性にたいする優しさ)、政治のクリーン化という3つの柱を明確に掲げて、自民党政治からの脱却を目指すべきだ。清新の気がなければ、こんご支持率がもち直すこともないだろう。
 ここ最近、連日のように報道されているのがトヨタの「斜陽」と、日航の「墜落」(沈む太陽)である。

 日本航空の破綻原因が放漫経営だったはまちがいない。以前、日航の幹部に取材して、「こんな海外にホテルつくってどうするんですか?」と質問すると、「ダメになったら売ればいいんだ」という答えが返ってきた驚いたことがあった。
 親方日の丸のナショナルフラッグカンパニーとしての傲慢さと、労務管理でいじくり回して労働者を萎縮させてた結果ともいえる。組合の力をそごうとした分裂政策も、結局、裏目にでた。
 路線は拡大し、ホテルもどんどんつくり、ジャンボジェット機も大量に導入した。それがいまや一転、縮小へと舵を切った。拡大から縮小への大転換である。トヨタのゴーマンと同じ、日本の拡大路線の反省である。本当の繁栄とはなんなのかを、じっくり考える時期にきた。(談)

全文は→「1002.pdf」をダウンロード

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2010年2月14日 (日)

鎌田慧の「トヨタ・リコール物語」3

 最近、連日報道されているトヨタのリコール問題は、会社の屋台骨を揺るがしかねない事態となっている。
 まず、トヨタの品質に大きな疑問を投げかけたのは、レクサスの暴走だった。アクセルが戻らず、死亡事故まで発生した。しかし昨年11月、トヨタは原因をフロアマットをきちんと敷いてないからだと説明、車の欠陥を認めなかった。
 ところが、今年1月、米国内の8車種、230万台にアクセルペダルの不具合が見つかった、といってリコールを発表した。踏み込みを安定化するレバーの故障により、アクセルが戻らなくなる可能性があるという。
 しかもこの問題はさらに発展。北米5つの工場でリコール対象車種の生産を2月1日から1週間停止し、販売も中止された。米国でトヨタ車に乗っているユーザーは、アクセルが戻らなくなる、という深刻な不安を抱え、ニュートラルに入れてブレーキをかける練習しているとも報道されていた。生命にかかわる重大な問題だ。「品質」で売ってきた会社だけに、状況は深刻である。

 トヨタは、海外展開のアクセルを最後まで踏むことによってゼネラルモーターズを抜き、世界一になる虚栄の生産体制をつくってきた。その結果が、このリコール山積みである。この強行展開を指揮した奥田体制の破綻が、「大政奉還」で社長となった4代目豊田章男氏に降りかかる「大痛撃」となったのだから皮肉だ。悪番頭のツケである。
 しかも企業の「社旗」となるべき豊田家の御曹司は、機敏に対応できなかった。
 2月3日には、同社の「看板」であるハイブリッドカー、プリウスにもブレーキの不具合がみつかった。2人の軽傷者を出すなど計14件もの事故があったという。一瞬ブレーキが利きにくくなる苦情はメーカーなどにも寄せられていた。それなのにリコールを届けることなく、勝手に修理までしたのである。揚げ句に同社の佐々木真一副社長は「我々がつかんでいるのは(ブレーキの問題は)フィーリングの問題」と言い放った。
 事故まで起きているのに、「フィーリングの問題」で片付けようとするゴーマンさは呆れるしかない。消費者に売ってやる姿勢である。前原誠司国交相も「顧客の視点が欠けている」と批判している。
 2月6日には、ずっと「逃げ回っていた社旗」豊田章男社長がやっと会見を開いた。この日まで「御曹司」に傷がつかないよう、重臣たちが守ったつもりかもしれないが、副社長だけが会見を開き続けたのは異様だった。そのうえ豊田氏は車の欠陥を否定し続け、謝罪もなく、リコールさえ認めなかった。ところが、その3日後には再度記者会見をひらき、リコール容認へと態度を変えた。遅すぎる決断だった。
 この一連の騒動によって、米国ばかりか、欧州もふくめて、全世界で850万台以上にリコールされることになった。09年のトヨタの販売台数が750万台程度だったことからも、その台数の多さがわかる。ちなみに内訳は、フロアマット問題が575万台、アクセルペダル問題が445万台(210台は両方に引っかかった)、プリウスなどが43万7000台、それに米国製のカムリ7700台とピックアップトラック8000台。
 世界の強豪が参入している世界最大の販売合戦の激戦区で、安全面によって生産中止に追い込まれた影響は大きい。リコール対象車種の割合台数は、米国販売全体の6割を占めていると報道され、今後の世界のシェアに影響する。

 この米国におけるアクセルのリコールでは、アクセルペダルを修理するのか、正常の新品と交換するのかが決まらないまま発表された。そうした社内の意思決定の遅さが、生産中止・販売中止と事態を拡大させたのである。不況による生産中止は珍しいことではない。しかし安全面からの生産中止など、あり得ない緊急事態といえる。
 わたしの著作である『自動車絶望工場』は、米国では『Toyota in the passing lane』というタイトルで販売された。直訳すれば「追い越し車線のトヨタ」となる。70年代、米国の自動車産業を追い抜こうとしていて、トヨタは猛烈な勢いで走っていた。しかし追い越し車線で、追い越した途端に転落することになった。
 最大の要因は、死亡事故が発生していたのに欠陥を認めなかった横柄な会社の姿勢である。これが米国で反感をもたれた。もう、アクセルやブレーキなどの部分的な問題ではなくて、制御ソフトをふくめた会社全体が病んでいるのが露呈したという話だ。電子部品も危ない、とまでいわれている。
 もちろんトヨタにたいする米国議会の激しい追求は、米国のゼネラル・モーターズのプライドを傷つけたことへの反感もある。パールハーバーとおなじである。GMから世界販売台数のトップを奪還し、経営破綻に追い込んだ途端のリコール問題発覚は、タイミングが合いすぎている。

 ただ問題の本質は、社外ではなく社内にある。
 トヨタ自動車はなぜ世界的にシェアを広げてきた理由は、豊田佐吉以来の「良い品良い考」という形で徹底されてきた、品質管理だった。ところが世界一を目指す野望ととともに、高品質神話は崩れていった。なぜなら、海外の急展開に対応するため、ベテラン労働者が各国の指導に駆け回わり、手薄になったからだ。いずこにもある「安全よりも儲け」だった。さらに鼻先に「世界一」をぶら下げたい欲望に負けた。
 もともとトヨタは石橋を叩いても渡らない企業だった。それが奥田体制でのイケイケドンドン路線で変わった。遅ればせながら中国にも進出し、米国でも新たな工場を建設、世界展開を急速に進めた。その影響で、品質管理を担う労働者をつくりきれなくなった。それに労働者と下請け、孫請け企業とそこで働く日系人、中国、フィリピン、ベトナム労働者たちを安く使いすぎた。これで会社全体の文化を貧しいものにした。結局、技術のトヨタが技術を裏切ったことになる。踏み込んだペダルが戻らない恐怖は、トヨタの急発進を象徴的にしめしていている。過去の技術の伝承など、みる影もないほどたたき壊された。再構築できるかどうか。
 韓国の車も品質面ではよくなってきており、将来的は中国の車も生産を拡大していく。つまり、トヨタの危機は今だけの問題ではなく、将来の危機をもあらわにした。(談)

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2010年2月13日 (土)

鎌田慧の「トヨタ・リコール物語」2

 世界中に展開しすぎたトヨタの超合理化システムは、あちこちで欠陥車を生み出している。全米を揺るがす大問題となっているレクサスの暴走は、その象徴的な事件である。
 しかも09年11月に入って、問題はますます混迷の色を深めている。3日に『ニューヨーク・タイムズ』が批判したのは、トヨタの広報姿勢だった。
 高速道路で4人が亡くなった暴走事故について、トヨタは車体本体に構造的な欠陥はない、と米運輸省高速道路交通安全局(NHTSA)が見解をしめしたかのように発表した。同紙の取材によれば、NHTSAの報道官はフロアマットだけではなく、アクセルやペダルなども含めて調査中としているという。そもそも問題のフロアマットを敷いていない車でも暴走が起こっていることを考えれば、こんな発表を世界的な企業が発表すること自体おかしい。
 これにたいしてトヨタの広報部は、次のようにコメントしている。「現段階で危険性が指摘されるフロアマットの取り外しを急ぐよう、お客様に知らせたことを発表したもので、米当局が車両本体に欠陥がないと結論を出したとは考えていない。NHTSAとの共同調査の結果が出た段階で、改めてお客様に対応を通知するつもりだ」(『朝日新聞』09年11月5日)
 コスト削減のためには下請けをいじめ抜いてもカイゼンするトヨタだが、車の危険性にたいしてはマジメにカイゼンする気がないようだ。
 01年以降、トヨタ車による米国内での暴走事例はレクサス以外の車種をふくめ1000件を超えている。02年式以降、トヨタ車で起きた暴走事故による死者は19人にのぼる。一期の赤字で大騒ぎになる会社が、01年以降、これだけの事故を放っておいたというのだからあきれる。
 米国では運転中に突然の急加速が起きた原因は、電子制御の欠陥であるとして2人の男性がトヨタを訴えた。フロアマットやペダルの形状だけではなく、電子制御の欠陥となれば構造的な問題であり、事態はさらに深刻化することになる。
 じつはトヨタ車の暴走で電子部品の欠陥が疑われたのは初めてではない。1980年代後半、トヨタをふくむ自動車メーカーはオートマチック(AT)車の急発進問題に揺れていた。
 89年4月には運輸省が「AT車全体の持つ構造的欠陥ではない。特定車種の機器欠陥や整備不良が原因でエンジンの回転が上がるが、ブレーキ操作が適切なら車は止まる」(『毎日新聞』89年4月28日)と最終報告書を公表。
 90年1月には、豊田章一郎トヨタ社長が会長を務める日本自動車工業会が、「急発進・急加速現象が全AT車に共通に起きる構造的な欠陥はなかった」(『朝日新聞』90年1月19日)との調査結果をまとめ幕引きをはかった。しかし、その経緯はかなり怪しい。
 運輸省の調査では、苦情や事故の四分の三を「原因不明」として究明しなかっただけでなく、実車テストには実際に暴走した車を加えない暴挙にでた。
 それだけ「手心」を加えた調査でも、定速走行装置をショートさせる実験では、発車15秒で時速120キロまで急加速する結果がでている。それでも「ブレーキ操作が確実なら事故は起こらない」と結論付けたのだから恐ろしい。
 運輸省の統計によれば、83年から5年間でAT車が暴走して事故を起こした件数は642件。そのうちトヨタ車は144件となっている。
 当時、トヨタをはじめとする自動車メーカーは、責任を運転手に押しつけた。アクセルとブレーキを踏み間違えた結果だと主張して譲らなかったからだ。その一方でトヨタは、AT車の暴走につながる可能性のある部品の欠陥を運輸省に報告せず、苦情の申し出のあったユーザーの車の部品をこっそり交換していたのである。
 じつは暴走事故の中には、運転手によるペダルの踏み間違いで片づけられないケースもあった。87年5月に東京都府中市で起きた事故は、人の列に突っ込み40メートル暴走したが、警察の実況見分調書では10メートル以上のタイヤ痕が確認されていた。これはブレーキを踏んでも止まらなかったという運転手の証言と一致する。
 当時、トヨタは運輸省や日本自動車工業会という「身内」の調査で乗り切ったが、米国の調査ではそうはいかない。わかっているだけで、19人を殺したメーカーとしての責任を問われることになるだろう。
 事故には対処しないが、赤字の解消となるとやたら力を発揮するのがトヨタでもある。2010年3月期の連結営業赤字見通しを、従来予想より4000億円縮小させ、3500億円の赤字だという。当初、カイゼンによって年間8000億円抑える計画だったものを、さらに1500億円カイゼンで上乗せすることに成功したという。従業員一人あたり300万円近いコストをカットしたというからメチャクチャだ。開発部門の現場から「これ以上経費を削れと言われても無理」(『毎日新聞』09年11月6日)という声が漏れているのも当然だ。
 経営陣が勝手に拡大主義に猛進した結果、トヨタが誇っていた安全神話は地に落ち、赤字も拡大した。その尻ぬぐいは、下請けと社員に回されている。『読売新聞』(09年11月6日)には、「設備にも人にも余剰感がありリストラに『聖域』はない」とのグループ首脳のコメントが載っていたが、もちろん豊田家の「聖域」が侵されるわけではない。

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2010年2月12日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第21回 ヘレンケラーを見習いなさい

 まだ薄暗い早朝から、日が暮れる頃まで延々ただただ訓練を消化していくだけの毎日。   遊びたい盛りの子どもにとってドーマン法はあまりにも残酷すぎます。その上さらに、トレーナー役である親からは『もっと真面目にしなさい』だの『質が悪い!』だの『もっとタイムを縮めろ』などと言われて、おしんのように健気に『はい』と黙々と頑張り続けられるわけがありません!こんな時、たいていは『ちゃんとやっているのに、うるさい!』などと水掛け論になり、果てには収拾がつかない程の親子けんかに発展することもしばしばでした。
そして極めつけは『あんたはそんなんだからダメだっていうのよ! ヘレンケラー見習いなさいっ。三重苦を見事に乗り越えて…(ウンヌンカンヌン)…』とグチグチと言われた日にゃ~、秘かに尊敬して何度も何度も伝記を読んでいても『ヘレンケラーがなんじゃい!!』と罵倒したこともありました(笑)

  これほど過酷な訓練法であるにもかかわらず、賛否両論がある中でもドーマン法を支持する家族が絶えないのは「脳障害も治る」という画期的な言葉の裏に潜む未来への光が見出せるからではないでしょうか? うちの両親のように、本当に信じ切って始める家族は少ないと思います(笑)。多くの家族は「たとえ完全には治らなくても…少しでも良くなるのだったら…」という気持から取り組まれるのではないでしょうか。つまり障害児を抱える親御さんに共通すること、それは「我が子のいく末…このままでこの子の未来はあるのか?」という不安で押しつぶされそうになってしまう。なんとかしなければ…ともがけど、助けを借りたいお医者さんや専門家の口から出る言葉は『障害は治らない』という絶望的な言葉だけ。きちんと障害を受け入れられていたならば、この言葉から次のステップへと踏み出せるのですが、受け入れられてないとたちまち、この言葉で奈落の底へと突き落とされてしまうのです。つまり「障害があっては生きていけない」という思い込みの元で『治らない』と言われると、お先真っ暗になっちゃうんですね。

  日本人の特性なのか、日本では『とりあえず頑張りましょう!』と明確な表現を避けたがる傾向にあるようで、これは不安な親の気持をさらに不安に。受け入れられないでいる親をさらに受け入れにくくさせているように感じます。
うちの親なんかも、まさに、そんな障害児の親代表!のような両親でしたもの。

ドーマン法にのめり込むパターンとしては…

①とにかく我が子の障害を受け入れられない
②だけど周りからは“どこかおかしいわよ”と言われる
③意を決して病院へ行くが…(診断名がつく)
④治る方法はないと医師や専門家から宣告
⑤ますますどうしていいのか途方に暮れる
⑥この子の将来が不安
⑦やっぱり受け入れられない
⑧治る!と先に希望を見出してくれるドーマン法にすがりつく
⑨でも、完全には治らないのだと思い始める
⑩けれど、やっぱり受け入れられない
⑪だから、一度はじめたら、なかなか足を洗えない(辞められない)

とこのようになるのだと思われます。ちなみにうちの親をモデルに箇条書きで表したものですので、最も多いパターンは、おそらく④と⑤の間に、必死になって治療法を探し宇宙の果てまでも!!という意気込みで日本中を翻弄されてからドーマン法に辿りつかれるのだと思いますけれど。

  ヘレンケラーにしても、それから見ず知らずのたまたま公園で出くわせたおっちゃん(何かの職人さんだと思われる中年男性。ビッコをひき片足のみが不自由そうでした)名前も知らなければ何も知らない全く赤の他人であるおっちゃんのことを、さも全てを知っているかのように母は『ほら楽歩ちゃん。あの人、歩行の形は悪いけれど、あれだけのスピードで歩けるからこそ仕事ができるのよ! わかる? あなたにはそこのところの努力が足りないのよ!しっかりしなさいっ。あの人だって昔、血のにじむような努力をなさったから今があるのよ!』と。全くたまったもんじゃありませんョ! こちらは只今、ドーマン研究所からの指示で「質の良い歩行をするように」命じられていた時期だったのですから(笑)本当に無茶苦茶ですわ~!!
  目玉焼きとプレーンオムレツを比較し「どうして同じタマゴなのに、プレーンオムレツのように白身と黄身を上手く調和できないのよっ!それはあなたの努力が足りないからなのよ!」と言われてるようなものです。
  偉人であれ、通りすがりのおっちゃんであれ、母の目から見て“人生の安泰”をつかんだ障害者を目の前にした時、おそらく無意識にワケノワカラナイ叱責を始めざるを得なかったというのは、それだけ先の不安というものが想像を絶するぐらい大きなものだったということなのでしょうね!
  うーん、それにしても、この手の叱責は辛かったっす(笑!) (大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→ http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2010年2月11日 (木)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第53回 間もなく野宿生活へ/幡野義則さん(53歳)

 厳密にいうと、オレはまだホームレスではないんだ。日中はこの(新宿中央)公園ですごしているけど、アパートを借りていて、夜はそっちに帰って寝ているからね。ただ、そのアパートも月末には追い立てられるんだ。そうなったら野宿するしかないから、ホームレスになるのは時間の問題なんだ。
 生まれは昭和26年、北海道の余市。家は旅館をやっていた。町で1軒きりの旅館だったから、大繁盛していた。余市にはニッカウィスキーの工場があって、その関係者がよく利用してくれたんだ。
 ところが、オレが小学5年生のとき、旅館から山林や畑まで、家の全財産が人手に渡ってしまう。オヤジが知人の借金の保証人になっていて、そのカタに取られたんだ。それで我が家は札幌に引っ越して、家族7人が狭いアパートで暮らすことになった。それまでの余市での生活と札幌の生活では、天と地ほども違ったからね。境遇のあまりの激変ぶりに、夢でも見ているようだった。札幌に移ってからのオヤジは、水道の配管工になっていた。

 オレは札幌の高校を卒業すると、千歳にあった陸上自衛隊に入隊した。ベトナム戦争の最中のときで、千歳の基地にも米軍が駐留していたからね。オレは高射砲の射手に配属されて、腕のいい射手になった。1級試験に合格しているよ。
 自衛隊に入ったのは、いろんな免許を取る目的もあって、オレも除隊するまでに車の大型と大型特殊の運転免許を取った。
 いろんな悪いことも自衛隊で覚えた(笑)。酒はコップに半分も飲めなかったのに、いつの間にか大酒飲みになっていた。女遊びとケンカを覚えたのも自衛隊だ。基地の近くに女を抱かせる店があって、1発が1500円で、泊りなら6000円。自衛隊の給料が2万5500円だったころのことだ。ケンカも自衛隊で鍛えられて強くなった。
 自衛隊にいたのは4年間で、除隊後は札幌でトビになった。ビル建設の現場で働くトビで、オレはPC盤(外壁コンクリートパネル)を設置するのが専門だった。自分で言うのも何だけど、腕のいいトビだったよ。
 はじめのころは札幌市内や近在のビル工事が多かったけど、そのうちに北海道ではあちこちで大きなリゾート施設やホテルが建てられるようになって、そんな工事にも参加したよ。
 結婚したのは33歳のとき、相手は同じトビの仲間から紹介された女だった。結婚して、3人の子どもができた。そのころのオレは月々50~60万円くらい稼いでいたから、ほかより少しはいいめを見せてやれたんじゃないかな。北海道のいろんなところに、家族を連れれて旅行したよ。
妻の不倫が許せず、東京へ
 オレが46歳のときに、洞爺湖と羊蹄山の近くで、ルスツリゾート開発というのがあった。スキー場の整備を中心に、高層ホテル、遊園地、ゴルフ場やテニスコートなどのスポーツ施設を揃えた、すごく大きな開発でね。オレもその工事に参加したんだ。

 8ヵ月かかった工事を終えて、久しぶりに家に帰えると、同じマンションの住人から「お宅が留守のあいだに、奥さんが家に男を引き入れていた」と告げられてね。
 それで女房を問い詰めると、不倫していたことを白状した。女房の不倫がそのときの1回だけなのか、オレが留守のときはいつもしていたのかは分からない。だけど、一事が万事だろう。
 オレはカーッとなって、女房を張り倒し、どつき倒して、足蹴にしていた。女房は泣いて謝った。だけど、オレが山奥に入って汗水垂らしているとき、女房はぬくぬくと男に抱かれていたわけだからね。それを思うと、許せなかった。結局、別れることになって、13年間の結婚生活に終止符を打った。
 それで北海道にいてもムシャクシャするばかりだから、東京に出てきた。東京は右も左も分からなかったが、人に高田馬場の手配師のことを教わって行くと、前と同じPC盤を設置するトビに雇ってもらえた。
 東京に出てきて驚いたのは、日当のいいことだったね。北海道ではどんなによくても2万円台だったのに、東京では同じ仕事で3万8000円ももらえたからね。東京では移動の電車賃や食事代が出なかったけど、それにしてもこの金額にはびっくりしたよ。
 オレが東京へ出てきた年の秋に、拓銀(北海道拓殖銀行)が破綻して営業を停止したんだ。それからの北海道は不況がひどいだろう。建設業が一番深刻らしいからね。オレはいいときに東京へ出てきたわけだ。まだ運は残っているのかと思ったね。
 だけど、その運ももう尽きてきたようだ。去年の春あたりから仕事が減り始めて、今年はさっぱりダメだ。アパート代も払えないところまで追い詰められてしまった。今月末にはアパートを追い出されるから、ホームレスの仲間に加わるしかない。

 10日くらい前から、この公園に毎日来ているんだ。ホームレスの人たちの様子を観察して予行演習しているわけだ。これから寒くなるから心配だけど、オレも北海道の人間だから、何とかなるとは思っているけどね。
 3人の子どもは別れた女房が連れていったけど、時々は電話で話をするんだ。子どもたちから「パパはどこで何をしているの?」と聞かれる。まさか、食い詰めているとも言えないから、「元気でトビの仕事を続けている」と応えているけど、結構辛いものがある。それがすごく辛いね。
 何とかしようとしても、自分の力だけではどうしようもないからね。(2004年10月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月10日 (水)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第52回 あくせく働くよりも/栗山泰成さん(50歳)

 オレが生まれたのは昭和29年、埼玉県川口市だった。父親は鉄骨加工工場に勤めるサラリーマンで、鉄骨を切断したり穴を開けるのが仕事の原寸屋と呼ばれる職工だった。ただ、工場が浜松にあって、当時ではめずらしい単身赴任をしていた。母親とオレたち男ばかり3人の兄弟は、川口の留守宅で暮らすという生活だった。
 地元の小学校、中学、高校と進んだが、高校の途中で中退してしまう。オレは頭が悪かったからね。チンプンカンプンの授業を聞いているより、働いてカネを稼いだほうがいいと思ったんだな。
 それで高校をやめて、ある自動車メーカーの系列の修理工場に就職した。仕事は塗装工。入社して5年目の年に、会社で健康診断があって、オレの目は色弱だとわかった。色弱で塗装工を続けるのはおかしいから、会社は板金工に替わるように言ってきた。でも、オレは板金工が嫌いだったからさ。結局、修理工場は辞めることになる。
喫茶店ブームに乗って
 それで地元の喫茶店で働くようになった。
 ウエーターから始まって、最後はマネージャーになって店の経営をまかされるまでになったよ。
 マネージャーをやっているときに、インベーダーゲームのブームで盛り上がった。うちの店も24時間営業に切り替えてやったが、客の途切れることがなかったからね。オレも月40万円くらいの給料がもらえたよ。
 思えば、あれが喫茶店の最後の盛況だったよな。インベーダーゲームのブームが去ると、喫茶店は街から軒並み消えていったからね。オレが働いていた店もご多分に漏れずで、それからしばらくして店を閉めることになってクビになった。
 まだ喫茶店がゲームのブームで沸いていたころに結婚したんだ。相手は毎日のように仲間とコーヒーを飲みにくる常連で、近くの会社で働いているOLの子だった。
 結婚して店の近くに3LDKの賃貸マンションを借りて新婚生活を始めた。子どもは2人で、男の子と女の子ができた。
 だが、この結婚生活は長くは続かなくて、5年で破綻してしまった。原因はオレの浮気がバレたからだ。それも1度や2度じゃなかったからね。一応、オレのために弁解しておくと、オレのほうから女に言い寄っていったことは一度もないんだよ。喫茶店のマネージャーなんかをしていると、女のほうから言い寄ってくるんだ。男として女に恥をかかせるわけにはいかないからね。
 女房にはうまく隠れてやっているつもりだったけど、全部バレていたんだな。とうとう業を煮やした女房は、子どもを連れて出ていってしまった。それで離婚になった。
マネージャーから日雇いへ
 喫茶店をクビになってからは、ずっと建設作業の現場で働いてきた。日雇いで働くことが多かったけど、小さな会社に雇われて2、3年社員になったこともある。
 仕事は何でもやったよ。トビだろ、土工、コンクリート工、配筋工、型枠大工、型枠バラシと、それこそ何でもやった。オレはトビだから、トビ以外の仕事はやらねえなんて余裕はなかったからね。仕事の口がかかれば、何でもやった。資格だって、玉掛け、ガス取り扱い、高所作業を取って持ってるしね。食っていくためには、ふんぞり返ってなんかいられなかった。
 だから、オレも場数だけはいろんな現場を踏んでいるからね。腕にはいささかの自信があるよ。ヘタな監督や親方なんかより、現場の段取りはオレのほうがうまいからね。
 はじめての現場に行くと、最初のうちは監督や親方がつきっきりで指図してくるよ。でも、2、3時間もすると、黙って何も言わなくなる。そのうちにどこかへ消えていなくなるからね。
 それで夕方仕事が終わったころ戻ってきて、「いやーっ、今日はおたくがいてくれて助かったよ」とか言うんだよ。そりゃあそうだよ。オレが段取りをして、オレが作業者に指示を出したほうが、作業ははかどるんだからね。
 だから、オレはどこでも重宝がられてさ。みんなは不況で仕事がないとかって言ってるけど、オレはまだ月の半分は働いているんだよ。ホントだよ。まだまだ現役なんだからさ。
 月の半分も働いているのに、なぜアパートに部屋を借りて入らねえのかってか? 貸してくれねえんだよ。アパートの大家は、オレたち建設作業者に部屋を貸したがらないんだ。それにオレたちも保証人が用意できねえだろう。そんなことでゴタゴタするくらいなら、公園に小屋でもかけて暮らしたほうが面倒がなくていいからね。
 アオカン(ホームレスの暮らし)は、ずっとこの戸山公園(新宿区)でやっている。ここは静かで落ち着くからいいよ。この公園で暮らしているホームレスは、みんなそう思っているんじゃないかな。それに私物を半日くらい置きっ放しにしても、誰も持っていかないしね。
 新宿は騒々しいうえに、何かと物騒だろう。荷物もちょっと目を離すと、かっ払われちまうって話だしな。場所ごとにホームレスのヌシというのがいて、その許しを得ねえと暮らせねえらしい。そういうわずらわしいことは、この公園にはないからさ。
 オレもまだ現役だから、小さな会社なら社員に雇ってもらえる自信はある。だけど、ホームレスの何ものにも束縛されない自由な生活を、身体が覚えてしまっただろう。あくせくとして働くより、食う分だけ稼いで、あとはのんびり暮らしたほうがいいと思っているんだよ。(2004年11月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月 9日 (火)

鎌田慧の「トヨタ・リコール物語」1

日米ともに大問題を引き起こしているトヨタ。その「リコール体質」の根は深い。そこで『自動車絶望工場』でトヨタの体質を鋭く批判したルポライターの鎌田慧氏が小誌で連載した記事のなかからリコールに関するもの今日と13日の2回にわけて紹介する。その上で14日に今回のリコール騒動を新作として披露する予定だ

日本で過去最大規模となった「欠陥車」のリコール(回収・無償修理)騒動は00年5月から02年8月までに製造した16車種、127万2214台もの車が対象となった不始末だった。売れ筋の大衆車に使われた共通部品の欠陥が原因とされ、ヘッドライトが点灯しなくなったり、ブレーキが利きにくくなったりするという。車の生命線であるブレーキとライトに起きた欠陥は、おごり高ぶっているトヨタの危険度をよくあらわしている。日本における市場占有率40%を占めるトヨタの猛烈なコストダウンと労働強化に、警告が発せされたのである。
 06年5月末にもウィッシュやプリウスなど9車種で56万5756台ものリコールが起こった。しかもトラブルの種類がひどすぎる。ハンドル操作ができなくなったというのだから、このリコール前に事故が起きなかったことが奇跡のようなものだ。同年もリコールが2年連続で180万台を超えた。そのため、同年6月から品質専任の役員を置くことになったという。
「品質管理」はトヨタの十八番とこれまで宣伝していながら、いまさら品質だけを管理するお目付役を設置したというのだから、すでに病膏肓に入る状態である。一分野専任の専務設置という前例のない状態は、トヨタがいかに品質劣化に頭を痛めているかをしめしている。
 腐りきった企業体質はいったんあらわになると果てしない。同年7月11日にはリコールをせず車の欠陥を8年間放置したとして、お客様品質部長ら3人が業務上過失傷害容疑で書類送検された。この書類送検の発端となったのは、04年8月に熊本県菊池市で5人が重軽傷を追った人身事故だった。21歳の公務員の運転するトヨタの93年式ハイラックスが突然操縦できなくなり、家族4人が乗った対向車と衝突したのである。事故原因として特定されたのが、車両の重さに耐えられなくなった操舵系の部品・リレーロッドの破損だ。この事故から2ヵ月後、トヨタは33万台にも及ぶリコールを届けリレーロッドの部品交換を始めた。
 ここで問題になるのはリレーロッドの不具合を、トヨタがいつ把握したのかということだ。トヨタによれば、96年の段階でリレーロッドが折れる事故が5件起きていたが、いずれも駐車場などでハンドルを目いっぱい切ったときに折れたもので、走行中は安全であり、リコールするほどの欠陥ではなかったということらしい。ただし96年6月以降に製造した車には改良したリレーロッドを使うようにしている。つまりリレーロッドが折れると操縦できなくなると知っていたが、リコールするほどの欠陥ではないので、新車の部品だけそっと改良品に置き換えたことになる。
 そのうえ95~96年の実施したリレーロッドの耐久実験では目標の6万回に届かず折れていたことも判明している。しかもこの不具合について、トヨタは11件と国交省に報告していたが、熊本県警はトヨタが国内28件、国外52件、計80件も把握していたはずだという。これで「リコールは必要なかったと判断した。対応に落ち度はなかった」というトヨタの強弁はあまりにも見苦しい。
 また、96年に当時の副社長と専務が会議で報告を受け、問題が把握していたこともあきらかになっている。それでも事態に対応しなかったのだから、大企業として信じられない傲慢さである。
 書類送検の報を聞きつけトヨタの広報部に取材陣が殺到したが、まともな会見さえ開かれなかった。
「当初は『落ち度はなかった』などとする簡単なコメントを読み上げるだけの対応だったが、午後5時半ごろ、これまで読み上げてきたコメントに加えて、容疑に反論する内容を加えた印刷物を報道陣に配布した。しかし記者会見などについては「いまのところ、予定はありません」などと繰り返した」(06年7月12日『毎日新聞』)
 品質が問題となって3人も書類送検されたのに、この対応はひどすぎる。「トヨタ」という巨大化した看板は、会社の機動性すら奪っている。トヨタ自動車の「社重」に耐えられず「リレーロッド」が折れ、操縦不能になっているとしか思えない。
 なかでも品質は社内でも深刻な問題になっており、6月末からは前述のように品質保証担当の副社長を2人とし、そのポストに次期社長と目される豊田家本流の豊田章男氏まで引っ張りだして引き締めにかかった。しかしこの問題への対応をみる限り、豊田本家の「看板」も役立たなかったようだ。メーカーの要である品質さえ維持できず、あるのは世界一の販売台数に近づく「トヨタ」という看板と、「世襲制度」に守られた「豊田」の看板だけ。これこそトヨタ自動車が開発した「カンバン方式」の泣き所である。
 07年10月にも47万台のリコールが発生。「品質のトヨタ」など影も形もない。この不良品の山は品質よりコストを重視し、ひたすら膨張策をつづけてきた結果だ。
 奥田会長によれば、日本の自動車メーカーが発明したのはドアミラーがパタンと倒れる「格納ミラー」ぐらいで、基本特許の多くは外国の発明だという。5月19日の経済財政諮問会議で退任前にホンネをはいた。奥田と親しい小泉純一郎首相は「これだけトヨタが世界進出しながら」と驚きをしめした。そうした様子が議事録に記されている。この話題のなかで奥田氏自身が「自動車会社なんて偉そうなことを言ってるが、人まねみたいな話」と切り捨てているのだがら、リコール続出のトヨタは「人まね」の製品すらきちんとつくれない企業ということになる。

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2010年2月 8日 (月)

3月5日、神戸幸夫トークイベント~路上生活者の肖像~

20100131_527836 本ブログ人気連載「ホームレス自らを語る」を執筆し、2月下旬に『転落 ホームレス100人の証言』が出版される神戸幸夫氏が、茶房高円寺書林にてトークイベントを行います。

ホームレスの表情を厳選した写真展も同時期(3/1~3/6)に開催。

15年の取材成果である写真を囲みながら、昔の、そして今の路上生活者が置かれている状況について語られるトークイベント。

研究者や経済学者では語れない、当事者に寄り添ってきた記者の言葉を聞きに来ませんか?

■とき 2010年3月5日(金)19:00~

■ところ 茶房高円寺書林(高円寺駅より徒歩10分)http://kouenjishorin.jugem.jp/?eid=1017

■ワンドリンク付き500円

■お問い合わせ astra0911@gmail.com まで、お名前とご連絡先をお伝え下さい。

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2010年2月 7日 (日)

アフガン終わりなき戦場/第29回 同時多発テロのカブールから「イッシャーラ」(2)

 ブッシュ政権からオバマ政権に変わり、アフガニスタン政策は大きく変更された。ブッシュ政権が2001年にアフガニスタンに侵攻した際、大義名分としたものの一つに「民主主義をアフガニスタンにもたらすこと」というものがある。そして、オバマ政権が打ち出したのは「アフガニスタンに民主主義が根付こうが、根付くまいか、知るか」というものだ。
昨年11月、クリントン国務長官はABCとのインタビューでこう述べた。

「米国のアフガニスタン政策は国際テロ組織アルカイダの撲滅で、同地に民主主義を根付かせることではない。われわれはアフガニスタンに居続けるつもりはない。アフガニスタンに長期的な米国の国益はない。この点を明確にしておきたい。現代的な民主主義による機能的な国家をアフガニスタンに築き、多くの素晴らしい手段でアフガニスタンの人びとを助けるなどと吹聴する時代では、もはやない」

 なるほど、一応筋は通っている。しかし、政権が変わったからといって、戦争をしかけ多くの市民を殺しておいて、「アフガニスタンの民主主義など知らん」というのはあまりに無責任ではないか。
 アフガニスタンでの選挙の不正に関しては本誌で散々書いてきたとおりだ。
近隣諸国から300年は遅れている部族社会にいきなり「選挙」という民主主義を持ち込んだために、票が公然と売り買いされる汚職社会になってしまった。
 タリバン勢力は民主主義をイスラムの教えに反する西洋思想だとし、露骨に敵愾心を燃やしている。押し付ければ、反発するのは当然だ。
 民主主義をアフガニスタンに押し付けたのもアメリカなら、それを得る機会を奪ったのもアメリカなのだ。
 そして、米軍は来年夏には撤退を開始する。アルカイダが強大な軍隊をアフガニスタンに持っているなど、米軍すら信じていない迷信だ。2015年には現政権に全権を委譲し、後は野となれ山と慣れだ。タリバンと現政権が内戦になろうが、知ったことじゃない。下品な言い方をすれば、「ケツをまくる」気なのだ。

 アメ横を通り抜け、御徒町に出た。目についた喫茶店に入る。もう一度イスマットに電話をかけてみる。
「バレ!サラーム・アレイコム!」
 よかった。今度は出てくれた。
「トオルだよ。サラーム・アレイコム。今日カブールで大きな攻撃があったようだけど、大丈夫か?」
「やあ、ひさしぶり。大丈夫。家族はみんな無事だし、友達も大丈夫だ」
「無事ならよかった。変わりはないかい?」
「仕事も順調だし、問題ないよ。ただ、自爆攻撃のせいで道路が封鎖されてるんだ。家に ちゃんと帰れるかが心配だよ」
「イッシャーラ(神のおぼしめしによる)さ。」
「トオルもだんだんイスラムのことが分かってきた。すべてはイッシャーラさ。ところで、日本からの電話代って高いんだろ。大丈夫なのかい?」
「気にするな。また連絡する。たまにはメールでも送ってくれよ」
 そう言って電話を切った。
 イスマットには自爆攻撃に驚いている様子はなかった。いつも通りの元気なイスマットだ。カブール市民にとっては、自爆攻撃なんて慣れっこなのだ。いちいち驚いていたり、慌てていたら身が持たない。
 戦争に慣れるというのはどういう心持だろうか。理不尽な死が当然とされる社会に住まなければならない、というのはどれくらいつらいのだろうか。イスマットが選んだわけではない。
 アフガニスタンに住む誰もが戦争に慣れたいなどと思っていない。全ては天災のように降りかかり、自分たちの手の届かないところで決まっていくのだ。
喫茶店を出て、込み合ったアメ横を抜け、また上野公園まで戻ってきた。もう夕方だ。公園の中を歩く人はまばらだ。
 西郷隆盛像の前で呟いてみる。
「イッシャーラ」
でも、神の意志というのならあまりに救いが無いではないか。(白川徹)

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2010年2月 6日 (土)

Brendaがゆく!/勝間和代・香山リカ論争の一文から

勝間和代さん曰く
香山さんはさんざん、貧乏でも幸福だという話をするんですが、テレビの公開討論会で、私は香山さんに突っ込んだんです。「香山さんは貧乏ではないですよね」と。実際には高額所得者なわけですよ。
 
 香山さんの言う「しがみつかない生き方」が幸せだというのは、誰かが証明したのですか。何かの証拠があるのですか。実際、香山さんは人の3倍くらい働いて、たくさん稼いでいますよね。自分はそういう生き方をしていて、本当に貧乏な人が貧乏なままでいいんですかというと、答えがないわけですよ。

と書いてありました。

ここで、どうしてもどうしても言いたい!!!

貧乏でも幸福だという話は本当にある。

ちなみに香山リカ氏同様私も人より稼ぎ人より働いているので勝間氏の理論でいけばそれを語る資格がないことになるが、私の周り(特にポーランド人)を見て、貧乏でもとても幸せな人がいるのをちゃんと認めている。そして羨ましいと思うこともある。

幸せの物差しは人それぞれ違うのだから、それを一元化して、特にお金と言う物差しで測って、幸せを語ることが私は根本から間違っていると思う。

私の幸せなど日本のどの価値観でも分析できず、物差しでも計れないだろう。

しかし、幸せさえも一元化して語ろうとする姿勢が意外と受け入れられるのは日本だろう。

そう考えれば戦略的論述か?

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2010年2月 5日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第20回 “障害児”の内訳

 ドーマン法をきっかけに、ようやく我が子を“障害児”として受け入れられた両親でしたが、それまで頑なに「この子は健常児です!」と虚勢を張ってやり過ごしてきたヤワな両親のこと…。“障害児”と一口に括られるこの単語の中には、おびただしい数の障害が含まれることをよく理解できていなかったのだと思われます。ドーマン研究所では、ダウン症の子も多動障害の子も、もちろん脳性麻痺もすべて“脳障害児”と診断され、さらに、主に運動機能に問題を抱える子は“中脳障害”と呼ばれ、知性に問題がある子は“大脳障害”と呼ばれていました。つまり、研究所内では、ダウン症も脳性麻痺も同じ運動機能障害として(中脳障害)扱われるのです。そもそも「脳性麻痺」の中にも<痙直型・アテトーゼ型・混合型>と大きく分けて3タイプ、専門的には5種類にも分類され、それぞれの型によって、障害のあらわれ方に特徴があります。もちろん同じ型であったとしても、障害の度合いによって「できること・できないこと」の差は大きく異なります。たとえば私の場合はアテトーゼ型なので、自分の意志と反して絶え間なく体が揺れ動く、不随意運動や言語障害が伴います。それでもまがりなりにも一人で歩けますし、聞き取りにくいとは言えなんとかコミュニケーションは図れています(?)。また同じ障害レベルの脳性麻痺者の方でも型が違えば…印象もずいぶんかわってくることでしょう。(言語障害や不随意運動を伴わないだけでも、えらい違いです)なので知識がなければきっと「この二人は本当に同じ名称の障害者なの?」と首をかしげてしまうと思います。

 このように障害の種類だけでも沢山あるのです。しかしドーマン理論では、障害の種類や現れ方が違えど“脳”の損傷が原因であり、また多くの障害名は混乱を生むだけなので“脳障害”と一括りにし、さらに治療の仕方も同じというのがドーマン博士の基本理念なのです。私は一障害者であって、医師や専門家ではありませんので詳しいことはわかりませんが、あまりにもこの理論は大雑把すぎるのではないでしょうか?
しかも脳という部位は最も緻密で繊細な器官なんですから、理学療法士としても、もう少し繊細さが求められてもしかるべきなのではないでしょうか。

 無知な両親に育てられた私は、しなくてもいい苦労をいっぱいさせられましたョ~(笑)
ドーマン法をやる前から、つまりまだ私のことを健常児だと思い込んでいたい時期に、テレビのドキュメント番組などでサリドマイドの障害の方や、交通事故などで片腕、片足になり義足を使いこなし陸上などに打ち込んでおられる姿がブラウン管に映る度、両親は『ほら見てごらんなさい。努力がなんだって可能にするのよ!! この人たちはね、血のにじむような努力をして今のこの姿があるんだよ。』とか『あの人は車椅子に乗らなければいけないぐらい重い障害なのに、普通にしゃべったはるじゃないの!それに比べて楽歩は努力が足りん!!』と言われる始末。まだ自分自身でも自分が障害児なのか、はたまたそれはどんな種類の障害で、テレビの人たちと何がどう違うのか?皆目わかっていない状態の中でも「私だって努力してるっちゅーねん! それに車椅子というアイテムを意地でも使いたくないパパとママであって…それでも私は文句も言わず、心もとない歩行で頑張ってるのに…。なんでこんな屈辱受けなあかんねん!!!!」と毎回いいようのない理不尽さを感じずにはいられませんでした。これがドーマン法によって娘が“脳障害児”だとわかってからは、もっと顕著に現れはじめました。同じ集中治療を受けていて、たまたま年齢も近く女の子で、歩き方に問題をかかえているという共通点だけで“同じ障害”だと信じて疑わず(その障害の種類も程度なんて全くおかまいなし!)元から言語障害がないその子と比べては『努力が足りないからよ!』と叱責を受けなければならなかったのですから!! たまったもんじゃありません(笑)

 まぁもっと頑張って今より少しでも良くなってほしいという親心がわからなくもありませんが、障害児から救い出す前に、一人の子どもとして最も大切な“こころ”を育む育児を優先して欲しかったですけどねぇ…。だから私は捻くれ者になっちゃったのでしょうけれど!!
身体障害者手帳に書かれた障害名のうろ覚えでなく、せめてムスメの障害のことぐらい知識として仕入れてから“ドーマン法”に臨んでほしかったですね!! (大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→ http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2010年2月 4日 (木)

ホームレス自らを語る/第51回 秋田一さん(仮名・59歳)

1002_3    今年の冬は寒い日が多い。東京でも最低気温が氷点下を下回る日があったほどだ。「この程度の寒さはどうってことないよ。オレは露天で野宿をしているが、地面に段ボールを敷いた上に、このままの恰好で寝ているんだよ。冬の寒さはこれが普通で、今年がとくに寒いわけじゃないからね」
 そう語るのは、JR新宿駅南口前にいた秋田一さん(仮名・59歳)だ。厚手のジャンパー2着を重ね着して、首には手編みふうのマフラーが巻かれている。なかなかお洒落ないでたちのホームレスだ。路上生活歴18年で冬の寒さにも慣れたという。
 秋田さんは昭和25(1950)年に岩手県の南部の町で生まれた。父親は製鉄所で圧延工ををして働いていた。きょうだいは4人で秋田さんは長男だが、上に姉がいる。
「4人きょうだいのうち、3人が病気というか、障害持ちでね。姉は小児マヒを患っていたし、弟は身体が弱くて病気がちだった。オレは4歳のときに、風邪をこじらせて肺炎になり、それが耳に転移して中耳炎になってね。膿を除去する切開手術を受けたんだが、完全に除去されてなくて、翌年再発してまた手術を受けた。こんどは骨を削り、鼓膜の半分も切り取る大手術になった。それで中耳炎は治ったが、手術を受けた右耳の聴力は失われた」
 それ以来、人の話がよく聞こえなくなったが、相手の表情と唇の動きを追うことで理解するようになったと語る。その後の秋田少年は運動にも、勉強にもハンデを感じさせないで育つ。
「運動はサッカーや野球が得意で、遊びは缶蹴りとかを、みんなでよくやった。勉強では数学が好きだったから、高校は工業高校へ進んだ。うちは子どもたちの病気や障害のために、その治療費の捻出が大変で貧乏だったからさ。そこから抜け出すためにも、早く働きに出たいと思っていたね」
 工業高校を卒業した秋田さんは、横浜の造船所I重工に就職する。I重工といえば、わが国を代表する大企業だが、彼はこの就職には躊躇するものがあったと語る。
「大企業に入って小さな歯車として働くより、中小企業に就職して全体の流れを把握しながら、いろんな作業を経験するほうが働き甲斐があると思っていたんだ。だが、I重工に受かって、両親も、学校の担任も、大喜びしているだろ。そんなことは言い出せない雰囲気だったよね。それにI重工に就職すると、大学の夜学に通えるという特典があって、それがオレの心を擽ったこともあり、I重工に就職することにしたんだ」
この利発な少年は、向学心に燃え、また努力を惜しまない性格で、それが人とは違った人生行路を歩ませることになる。その出発が、このI重工への就職になった。

I重工に就職した秋田さんは、溶接工として働く。
「鉄板を溶接で切断したり、くっつけたりするのが仕事で工場内作業だった。だから、それが船のどこに使われるのかもわからないでやっていた。やっぱり大企業では歯車の一つでしかなかったね。その頃は大型タンカーの建造が盛んで、オレも世界最大といわれたタンカー建造の作業をしたんだが、工場内作業ではそれに参加している実感はなかったよね」
秋田さんがI重工に就職した昭和43(1968)年は、日本がGNP(国民総生産)で西ドイツを抜いて、世界第2位に躍進した年である。世はまさに高度経済成長の真っ只中であった。秋田さんら作業員は連日の残業で、夜間大学に通えるなどというのは空手形だったことを知る。
「それに求人のときの説明で、『仕事をがんばれば、大きく稼げて、職制もどんどん上がる』と言われたんで、オレもがんばって能率向上賞というのを受賞したんだ。だけど、3年たっても、4年たっても、何も変わらなかった。同期入社の仲間で遅刻や欠勤を繰り返しているのがいたんだけど、その彼と給与も賞与も同じなんだよ。そのことを上司に言ったら、『入社して3、4年くらいで、勤務評価に差がつくわけがないだろう』という返事でね。何だか騙されたと思って、翌年、I重工を辞めてしまうんだ」
 次に秋田さんが選んだ職場は、車のエンジンのピストン軸を製造する町工場である。彼はプレス板金の作業を担当した。
「従業員7~8人のちっぽけな工場だったけどね。人間的にいい人ばかりで、温かい職場だったよ。プレス技術の専門書を買ってきて、まず理論から理解するようにしたんだ。理屈でわかっていないと先へ進めないのが、オレの性格なんだ。それで工場で先輩工員たちの作業を見て覚える。町工場の工員には職人気質の人が多いから、手取り、足取りして教えてくれるような人はいない。みんな『見て覚えろ』式の指導法だったからね」
それにしても世界最大のタンカーを建造していた大企業から、一気に従業員10人足らずの町工場への住み替えである。しかも、大企業で身につけた溶接技術を利用した再就職ではなく、新しい技術に挑んでいく職場選びなのだ。それも専門書を読んで、基礎的な理論から理解しようというのである。じつは、彼はこのあともいくつか職場を替わるが、いつもこの方式を踏襲していくことになる。「前と同じことをしても進歩がないだろう。せっかく職場を替わるんなら、新しい技術を覚えたほうがいいからね」という。常に前向きで、向学心と努力の人なのである。
 さて、秋田さんにとって理想的な職場ともいえた町工場がったが、“好事魔多し”そこで働くようになって、1年半後に工場が倒産してしまう。次に彼が得た職場は、宝飾品の指輪リングをつくる工場である。またまた新たな技術獲得に挑戦することになる。
(この項つづく)(神戸幸夫)

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2010年2月 3日 (水)

『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第50回 アパートに入れました/内田さん(仮名・57歳)

 ホームレスになって3年になります。それが1週間前からアパートに入れてもらえるようになりましてね。部屋は7畳の広さで、私が負担する部屋代は月々3000円。新井薬師(東京・中野区)にある古いアパートですが、正月を控えて本格的な寒さもこれからというときに、畳の上で暖かい布団に寝られるのは助かります。本当にありがたいことです(取材したのは04年12月18日)。
 私が入ったアパートは、ホームレスの支援団体「新宿連絡会(新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)」が斡旋してくれたものです。新宿連絡会はホームレスを受け入れてくれるアパートを探しては、保証人も引き受けて斡旋してくれているんです。私には持病があるんで、優先的に入れてもらえました。本当に助かりますね。
 生まれは昭和22年で、出身は九州の宮崎です。4人兄弟の3番目でした。家は秤の専門店で、計量器の販売・修理を商売にしていました。店は宮崎市内にあって、まあ繁盛していたと思います。

 私は中学卒業で就職しました。勉強が苦手でできませんでしたからね。就職先は東京の柴崎(調布市)にあった鉄工所で、従業員7~8人の町工場でした。そこは父の弟の経営で、つまり叔父が社長をしていたんです。私の仕事は溶接工。といっても、町工場ですから、何から何まで全部やらされました。
 その鉄工所は1年ほどで辞めてしまいます。何がイヤで辞めることになったのか覚えていないな……全身を真っ黒にして働く鉄工所の仕事は、年頃の若者には辛かったのかもしれませんね。
 それで宮崎に帰って、父の仕事を手伝うようになります。父の見習いについて、秤の修理を覚えたんです。

 私が17歳のときのことです。父と日南市まで出張して、パルプ工場の台貫秤(トラックやダンプの積み荷の重量を測る大型の秤)の修理をしていたときでした。その秤が修理中だということを知らないトラックが突っ込んできて、私は轢かれてしまいました。父はちょうど秤の外にいて無事で、轢かれたのは私だけでした。
 大腿骨の複雑骨折で、治るのに3年もかかりました。その間病院に入院したきりで、手術、手術の繰り返しでね。それにリハビリもあって、3年間もかかってしまったんです。
 私が入院しているあいだに、父の秤専門店は廃業に追い込まれていました。もう秤の需要がなくなっていたんです。当時、スーパーマーケットがあちこちで開店して、ブームのようになっていました。スーパーマーケットでは生鮮食品はパック包装で、計り売りはしませんからね。それに一般の小売店でも、そのころから計り売りをしない店が多くなって、秤は必要とされなくなっていたんです。
 商品販売の形態が変化したことで、町から秤専門店が姿を消していたんです。ほとんど騒がれることもなく、ひっそりとですね。この事実は意外に知られていませんよね。

 それからの私は日雇いの建設作業員になりました。半月契約で飯場に入って、各地の飯場を渡り歩く生活です。いろいろ回りましたよ。熊本を皮切りに、北九州、群馬、茨城、北海道、それに東京を中心にした首都圏の飯場ですね。
 だいたい半月契約で働いて飯場を出たら、ドヤ(簡易宿泊所)かカプセルホテルに泊まって、カネのなくなるまで遊び暮らし、カネがなくなったらまた半月間飯場に入って稼ぐ。その繰り返しでした。例の事故で3年間も病院に入っていましたから、怠けクセがついてしまったのかもしれません。
 そんな生活だったから、結婚もできませんでした。結婚なんて面倒臭いというのが、どうしても先に立ってしまうんですね。
 愉しみは酒を飲むことでした。私はギャンブルにも、女遊びにも興味がありませんでしたから、もっぱら酒を飲むのが愉しみでした。焼酎を浴びるように飲みましたね。
 仕事に行く日でも、朝の起き抜けに焼酎を引っかけるのが決まりでしたからね。1合(約0.18リットル)くらいの焼酎を引っかけていました。そんなのがバレたらクビですから、徹底して殺して飲みました。コツですね。飲み方にコツがあるんです。仕事中は現場監督たちの前では、なるべく口を開かないようにして、酒の臭いがバレないようにするとかね。そんな工夫もしました。
 休みの日は朝から酒浸りでしたし、もう完全なアル中、アルコール依存でしたね。
 ホームレスをするようになったのは3年前からです。不況で仕事が少なくなってきましたからね。この(新宿中央)公園内にある公園小橋の上に段ボールの小屋をつくって、そこで寝泊りをするようになりました。建築作業の仕事のほうは、去年までは細々ながらあったんですが、今年はほとんどありませんでしたね。まあ、私の年齢が年齢だということもありますが……。

 それで新宿連絡会の世話で、1週間前からアパートに入れるようになったわけです。ただ、住み始めてまだ1週間ですから、ガス、水道、電気代の支払いは誰がするのか、部屋代も本当に月3000円でいいのか、よくわからないことが多いんです。まあ、そのうちにおいおいわかってくるんでしょうけどね。
 築年数の相当に古い建物ですけど、それでも何年ぶりかで寝る畳の感触は格別です。ホームレスをしていて何が辛いかといえば、冬の夜の寒さでした。今年はその寒さから解放されて、新しい年も畳の上で迎えられるわけです。素直に嬉しいですね。(2004年12月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2010年2月 1日 (月)

ロシアの横暴/第33回 寅年記念! 大トラで儲けるロシア政府(2)

 「お泊まり」程度では何の改善にもならないアルコール対策に誰もがうんざりしているときゴルバチョフの禁酒令が施行された。
 ゴルバチョフ自身は酒を飲まないから当然15日お泊まりの経験がない。アル中が酒を飲むのはそこに酒があるからだ、と酒販売に大幅な制限を加え(販売時間を短縮し、販売店舗を縮小)、値上げもした。酒を買えなければ買わないだろう、そしたらアル中は減る、と踏んでいたようだ。だが、ロシアのアル中はそんなことで何とかなるレベルではなかった。

 開店の何時間も前から酒屋の周りにはアル中が押し掛けて気炎をあげた。こまめな者は密造酒造りを始めた。原料である砂糖が品薄になるとオーデコロンまで動員して密造酒造りはエスカレートした。実数は明らかでないが、メチルアルコール系の密造ウォッカで命を落としたり、廃疾となった者が相当数いるはずである。
 国民の恨みを背負って失脚したゴルバチョフの後任となったエリツィンは大酒飲みとして世界に名をとどろかせていた。 もちろん禁酒令は解かれ、というより、解除令など面倒なことはせず放っておいたのだろうが、大統領を先頭にロシア全体が酒浸りになった。禁酒令施行時に飲むなと言われて飲みたくなった新規アル中もそのまま飲み続けたのでアル中患者の数は高水準を維持した。

 エリツィンの後を継いだ2人の大統領のうちのメドベージェフ現大統領は2010年1月から酒の値上げに踏み切った。大幅値上げによる実質禁酒令である。値上げに先立って「この国を再生するにはアル中と闘うしかない」と宣戦布告をしていた。仮に氏がゴルバチョフ同様、酒をたしなまない人物としてもロシアに禁酒令は無理なことぐらいわかっているはずである。ゴルバチョフの禁酒令の大失敗からまだ20年しか経っていないのだから。
 日本人には理解できないが、ロシア的思考回路ではこうだ。
「同じ轍は踏んでいない」
「アル中退治ではなく、財源確保さ」
「アル中と闘うっていったって、アル中がいなければロシア経済は成り立たない」
「社会を混乱させておくにもアル中は不可欠だよ。アル中が団結して反体制になることはないからね」
「どんなことしたってウォッカ代をひねり出すのがアル中だから、打ち出の小槌」
「麻薬密売と同じ発想で値上げをした」

 1月中旬になって、ロシア内務省大リストラ計画が発表された。なんでも90万人もいる警察官のうち18万人ぐらいをクビにするという。クビにする一方で警察官の給与を上げるから、維持費用は変わらない。ということは本当の目的はリストラではなく、「内務省警察官不適当者退治」である。さらに言えば不良警官退治策ではなく、政府の支持率回復を兼ねた国民分断策である。不良警官たちの横暴に怯える国民からは「よくぞあいつらをクビにしてくれた」と感謝され、クビにならなかった警官たちは選ばれた者としての優越感に浸り忠実なイヌとなってくれる。国民を分断することは政権維持に必要な措置である。そのためには国民に優劣をつけて差別化するのが手っ取り早い。
 追い剥ぎまがいのオイコラ警察にうんざりしている国民は、当然「不良警察官退治」を歓迎している。不良でない警官は給与がアップするというので、有頂天になっている。だが酔い覚ましお泊まり客から所持品を奪うような不良警官18万人が失業者となって街に出てきたらどうなるのだろう。目先のことしか見えなくなっている国民はそこまで見通せないでいる。
 最新のインターネットニュースによるとロシアでは砂糖がこの20年間で最高値になっているそうだ。ウォッカ値上げに伴い、密造酒づくりが復活したもようである。(川上なつ) 
 
 

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