『転落 ホームレス100人の証言』出版記念 ホームレス自らを語る傑作選 第54回 また現場に出てみたい/T・Sさん(63歳)
昭和17(1942)年、東京・馬込の生まれ。そう、ここから近いからね(取材場所は多摩川の六郷土手)。蒲田の街なんか歩いていると、昔の知り合いに会うこともある。でも、オレの人相や服装があまりに変わってしまって、誰もオレだとは気づかないようだね。声をかけてくる人はいないな(笑)。
首が痛くて回せないし……カネがないからじゃないよ。糖尿病に罹っているんだ。左手もちゃんと握れなくなっている。もう、昔の面影なんてないからね。知り合いが気づかないのも仕方ないよね。
家は会社を経営していた。いま空調機器と設備のトップメーカーで、T工業って会社があるだろう? その前身のT暖房を起こしたのが、うちの祖父で、父がそれを継いで大きくしたんだ。ウソじゃないよ。いまでもオレの兄貴は、T工業で役員をしているからね(ちなみに現在のT工業は、資本金 130億円、従業員1600人、東証・大証の一部上場企業)。
だから、馬込の家はお屋敷だった。部屋がいくつもあってね。いくつあったかは分からないよ。屋敷の敷地面積? 何坪なんて単位じゃないだろう。何町歩だったんだろうな。とにかく広かった。家には女中もおったし、書生もおったからね。
大学は東京工業大学に行った。そう、目黒にある国立の大学。うちの父はちょっと変わっていて、「大学に行くのはかまわんが、学費は自分で工面しろ」という方針だった。といっても17や18歳で、そんな算段はできないからね。それでオレは祖母に泣きついて、祖母からコッソリと出してもらっていたんだ。
ところが、このオレは留年続きでね。26歳になっても卒業できないんだ。とうとう祖母のほうが痺れを切らし、「もう学費は出してやらん」ということになって、大学4年生まで行ってたけど中退になった。大学では溶接について勉強した。東工大では土木工学科の扱いだったな。
大学を中退して、T工業に入社する話もあったんだけど、祖父の反対に合ってダメになった。すでに兄貴が社員で働いていたこと、それに短気でケンカ早い、オレの性格が嫌われたようだ。
で、橋梁工事を専門にする会社に就職した。橋梁の架橋工事というのは、ボックス桁とかバン桁と呼ばれる橋桁を取り付けて渡していく。その橋桁の取り付け作業が、オレたちの仕事だった。そんな橋梁工事をしながら全国を渡り歩いた。沖縄以外の全都道府県を回ったんじゃないかな。
27か28歳のときに、中津川(岐阜県)で木曽川に橋を架ける工事があってね。2年がかりの大工事だった。その現場事務所で働いていた女事務員を好きになった。田舎娘の純朴さに惹かれたんだな。相手もオレのことを好いてくれて、それで結婚した。オレが嫁さんの家に婿養子に入るかたちでね。2人のあいだに男の子ができた。
それで2年して橋が完成し、オレたちは新しい現場移ることになった。ところが、嫁さんは実家を離れたくないと言い出したんだ。彼女は一人娘で、ずっと中津川を離れたことがなかったから、知らない土地に移るのが恐くなったんだな。結局、嫁さんと息子は中津川に残り、オレだけが単身赴任で新しい現場に行くことになった。
だけど、そんな変則的な結婚生活がうまくいくわけないよ。しだいに、オレが中津川まで会いに行っても、知らんぷりして無視するようになってね。それで別れることになった。そのころの嫁さんはブクブクに肥ったブタ女になって、こっちの愛も完全に冷めていたしね。それからはずっと独り身を続けている。
橋梁の仕事は横浜のベイブリッジを最後にして辞めた。ちょうどバブル経済が絶頂のときで、こういう命懸けの仕事は3Kとかいって、みんなから嫌われるようになっていたからね。外国人の労働者が大勢入ってきて、いい歳をした日本人が、いつまでも現場の仕事にしがみついているのは恥ずかしいような気もした。あのころはカネを稼ぐなら、もっと楽に稼げる方法が、いくらでもあるような気もしたしね。
そんなふうに考えて橋梁の仕事を辞めたんだが、そのあとありついたのは建築現場の溶接の仕事だった。それも日雇いだからね。橋梁のときより、3Kはきびしくなった(笑)。
そのうちに首が回らない、手が握れないということになって、だんだんに働けなくなってきた。糖尿病のうえに肝臓も悪いと思う。これまでに、もう4回も入院している。ぶっ倒れては病院に担ぎ込まれ、退院したら、またぶっ倒れて担ぎ込まれる。それを繰り返しているんだ。病院にはついこのあいだまで、今年の正月明けから8月まで入っていた。出てきたばかりだ。
だから、いつからホームレスになったという明確なものはないな。いつの間にか路上で寝るようになっていた。いまだってカネさえあれば、近くのドヤ(簡易宿泊所)に泊まりに行くしね。1泊1800円で泊めてもらえる。
六郷土手で野宿している理由? まあ、ここは生まれた馬込に近いからね。それに新宿なんかのギスギスした人間関係と違って、ホームレス同士が親しみ合って馴染んでいるのがいいね。だから、住みやすい。ほかのみんなも、そう思っているんじゃないかな。
こんなオレにも、夢はあるんだよ。身体がよくなって元に戻ったら、また橋梁組立ての現場に出てみたいと思ってね。それで若い衆を指図して、ボックス桁を組立ててみたい。適わない夢だろうけど、それができたらいいよね。(2004年9月取材 聞き手:神戸幸夫)
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