ホームレス自らを語る 第49回 帰る家はあるんだが…/山崎明さん(70歳)
生まれは昭和10(1935)年で、台湾の新竹という町でした。父親が大手石油会社の社員で、新竹の支店に勤務していたんです。そこを拠点にして南方のジャワ、スマトラなどの石油の買い付けをしていたようです。
台湾には敗戦で引き揚げる小学5年生までいました。植民地台湾での日本人の生活は特権的でしたから、私の人生でのいい思い出は大半がこの時代のものです。計画的に造成された日本人街の整然とした美しさ、日本人学校の豪華で立派な造りなど、いまでもありありと蘇ってきます。
日本に引き揚げてからの戦後の生活が大変だっただけに、台湾での生活がことさら美化された思い出になってしまうんでしょうね。
我が家の一家、両親と兄弟7人が引き揚げたのは昭和21(1946)年6月で、両親の故郷の柏崎(新潟県)に落ち着きました。父親はそのまま同じ石油会社で働きました。
私は地元の小学校、中学校を出て、高校は工業高校の化学科で学びました。「日本の復興には化学の力が必要だ」とか、生意気に考えて化学科への進学を決めたんです。
高校を卒業したのが昭和28(1953)年で、この年はひどい就職難でね。クラスの40人のうち大手企業に就職できたのは2人だけで、それも縁故就職でした。じつは、その1人が私でした。父親の仕事の関係で、大手のM鉱業に就職できたんです。
勤務地は北海道の夕張炭坑で、そこの開発課で働きました。新しい石炭鉱脈をボーリングして、鉱脈の深さを探るのが仕事です。新しい鉱脈の位置は過去の地層のデータでわかっていましたが、問題はその深さでした。当時、採炭の限界は地下1000メートルといわれ、我々の仕事は鉱脈がそれより浅いか深いかを調査することでした。
ただ、炭坑というのは私が就職したときには、すでに斜陽産業のレッテルが張られ経営不振は深刻でした。合理化に次ぐ合理化が行われていて、しだいに嫌気が差して26歳のときに辞めてしまいます。
それで東京へ出て、大手のM製菓の工場に就職しました。菓子の製造ラインに入って働く工員の仕事です。そこに46歳までいました。寮に入って、工場と寮を往復する生活を20年間続けました。
結婚はしませんでした。そんな女の人とはめぐり会わなかったし、そんなチャンスもなかったですね。
右目を失明したのは30歳のときで、草野球をやっていてボールがぶつかったためです。外傷性緑内症という診断でした。
自分の会社を立ち上げたが…
46歳で製菓工場を辞めたのは、新潟で会社を興したからです。建築に使う鉄骨部材を加工する町工場ですけどね。それでも最終的には従業員20人、年商約3億円くらいまでになりました。私の年収も3000万円ほどになって、200坪の土地を買って5LDKの家を新築しました。
そんなふうに儲かっていた会社ですが、設立からわずか4年で廃業してしまいます。理由は従業員の死亡事故を起こしてしまったからです。その従業員は高所作業中に品物といっしょに墜落して、床に叩きつけられて死亡してしまいました。
原因はその従業員の不安全行動でした。それでも人間1人が死亡したということは、安全管理に問題があったとして、社長の私の責任が問われることになりました。それに補償問題でいろいろゴタゴタしたこともあって、工場を続けていく気力を失っていたんです。設立したばかりで、せっかく軌道にのっていた会社でしたが廃業することになりました。私が50歳のときのことです。
それでまた東京に出て、こんどは建設会社の営業マンになりました。その建設会社の営業マンというのは、別の建設会社の営業マンたちと談合して、受注の調整をするのが仕事でした。談合というと、いま世間では風当たりが強いですが、あれがなかったら日本の企業、とくに建設業界は成り立たない仕組みになっています。工事を発注する役所も、それを暗認のうちに認めていたんですからね。
その仕事は定年直前の58歳までやって辞めました。それからも食わなくてはならないから働きましたよ。日雇いの土工をしたり、営業の仕事をしたり、たのまれれば何でもしましたね。そうやって、おととしの68歳の年まで働いていました。
ホームレスになったのは去年の7月からです。といっても、私には帰る家があるんです。借家ですが、埼玉に一軒家を借りています。だけど、家に帰ったところで、女房、子どもがいるわけじゃないし、家にいてもすることがないでしょう。
だったら、この(上野)公園のベンチに座って、ボケーッとしているほうがいいですからね。それにここにいれば差し入れや炊き出しがあるから、食うことにも困りません。自然にここに居着くようになりました。人間が元々いいかげんなんですよ(笑)。
公園にいてもホームレスの仲間をつくったりはしません。1人でいることが好きなんです。1人でボケーッとしているのがいいんです。
昼間はこの公園のベンチですごして、夜は近くのビルとビルのあいだに段ボールを敷いて寝ています。そこは屋根があって雨露がしのげますし、段ボールで仕切って風も防げます。あと毛布が3枚あるから、寒さ対策も万全。快適ですよ。
これから先のこと? 行くところまで行くしかないです。あとは野となれ山となれの心境ですね。(2005年1月取材 聞き手:神戸幸夫)
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