« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

2009年12月

2009年12月29日 (火)

池田大作より他に神はなし/大好評大河連載第6回 前衛的思考を誰にでもわかる言葉でつむぐ天才宗教家の名文が、なぜ未だに教科書に採用されないのか?

 前回の『pumpkin』に関して、書き残したエピソードが。筆者の事務所は飯田橋2丁目。つまり、同誌発行元の潮出版社とはご町内。20世紀後半、まだエロ漫画産業が活況を呈してた頃、良く事務所に泊り込んだ(バブル崩壊後も、96~97年まで出版界は不況と無縁)。チェーン店以外の個人経営の喫茶店も残ってた頃だが、朝起きて一番頻繁に通ったのが、潮出版社ビル地下1階のレストラン風喫茶店、「パンプキン」。サンドイッチとコーヒーのセットが500円前後。量は控え目だが上品な味で、二日酔いも吹き飛んだ。キッチンに入っても、名誉会長の弟子は一味も二味も違うと胸にジーン(それに比べ、民商関係者の飲食店~ポスター等で判断~の、安いだけで超まずい味覚振りは悲惨。教え、つまり人間の宗教や哲学は、舌にこそ具現化される。『赤旗』の宣伝ポスターが貼ってある、安くておししい店が本当にあったなら、筆者にメールを!)。

 ただ名誉会長は、食べ物についてはほとんど執筆しておられない。それでいて『聖教新聞』が置いてある店は、居酒屋、ラーメン屋、そば屋を問わず、片っ端安くてうまくて上品な味。秀でた教えの力はに絶句する他ない。“師弟共戦”ならぬ、“頭舌共戦”という事か?(ただ『聖教~』に頻出する“師弟共戦”は、日本帝国主義が占領下の朝鮮人に強いたスローガン、“内鮮一体”を連想させるので、ご一考を。例の友人のアル中フリーライターが知れば、「独裁者のスローガンは時代を超えて世界共通!」なんて言いかねない)。

 『新装改訂版 希望の翼』(池田大作・鳳書院・本体857円)は、「三省堂」神保町本店、4階宗教書コーナーで購入。いつぞやの「八重洲ブックセンター」女子従業員のように、差し出すなり雷鳴に打たれたような、感動の表情は浮かべなかったので(20代の男子)、名誉会長を人生の灯台と仰ぐ、弟子仲間ではなさそう(“ウソ八百のデマ屋”、日顕一派との証拠もないが)。

Daisaku6no1 Daisaku6no2  まず装丁が素晴らしい(カット参照)。白地を基調に、右上角に名誉会長のお名前。題名は左に縦に。ナポレオン、いや会長のお名前の下には、さりげなく2輪のひまわりのイラスト(名誉会長ご夫婦の象徴か?)。帯はオレンジ。“凛々(りり)しき10代(だい)の友(とも)に贈(おく)る”とのキャッチの横に、“東洋のゲーテ”と世界の著名文化人が口を揃える、会長の詩が引用されている。

 “未来は無限(むげん)だ。/未来は希望(きぼう)だ。/未来は夢(ゆめ)だ。/未来は大活躍(だいかつやく)の劇場(げきじょう)だ。/若き生命(せいめい)の持(も)ち主(ぬし)は/皆が/その魂(たましい)は/閃光(せんこう)を放(はな)っているのだ”。

 この珠玉の詩のみで、本書は値段分の価値が。裁判で連戦連敗のデマ雑誌、『週刊新潮』を発行する、新潮社の『新潮日本文学辞典』には、不当にも名誉会長の項目がない。本来なら萩原朔太郎の倍、つまり6ページは最低さかれるべきだ(“東洋のゲーテ”なのだ。当然だ。ちなみに同書、夏目漱石は4ページ)。帯の左側には、楕円の中に会長のカラー写真。落ち着いた上品さに溢れた、「パンプキン」のモーニングセット並に、外見、味覚共に文句のない出来ばえだ。担当編集者、レイアウターが揃って、“師弟共戦”(………)“異体同心”“幸福勝利”“創価完勝”“造反有理”(………)の精神に溢れているに違いない。

 一つのみ注文が(文句ではない)。名誉会長のお写真の、お口の右側が少しお吊り上がって見える(ここ数年の御真影のお傾向)。ご高齢でもあられるし、世界平和外交等の激務のかたわら、日顕一派や民主党の石井一、自民党の平沢勝栄といった、組織破壊者(信教の自由の侵害!)との闘いにも采配を振るっておられる。お唇のおゆがみも自然なお結果だが、弟子としてはチョコッと画像に修整を加えていただければ、よりうれしい(あるいは師は、「外見など問題ではない!」とのお考えか? ならこの注文は即引っ込めます)。

 ミケランジェロからマンデラまで、世界の“一流の人”(68P)の苦難を例に、若者を励ますのが本書だ(無論、初老男にも役立つ)巻末に「折々(おりおり)の語(かた)らい」「未来への指針集(ししんしゅう)」も収録。名誉会長の文章は、先駆的な哲学・文学・宗教の垣根を超えた思想を説きながら、誰にでも理解出来るので有名だ。「折々(おりおり)の~」の冒頭、“1クラブ活動(かつどう)と勉強(べんきょう)の両立(りょうりつ)について”は、その見本。10代後半、花田清輝だ埴谷雄高だに入れ込んだ時期のある筆者は、瞬時に赤面、猛省を。なぜ当時から『希望の友』(学会系の子供向け雑誌)を幼少時代から読んでいた友人に(佐藤君!)、『人間革命』を借りなかったのかと、先に立たない底なしの後悔を。

 “体もクタクタで、お腹(なか)も空(す)いてるだろう。しかし、すべてが、あなたを大きく、豊(ゆた)かにする。何事(なにごと)にも、くじけずに、積極的(せっきょくてき)に取(と)り組(く)んでほしい。/大切なことは、勉強(べんきょう)にも、クラブ活動(かつどう)にも、一〇〇パーセントの力を出しきろうと決意(けつい)することです。たくましく両方(りょうほう)やりきっていこうと挑戦(ちょうせん)するなかで、人格(じんかく)も磨(みが)かれていく。/たとえば、試験前(しけんまえ)は、当然(とうぜん)、勉強(べんきょう)に徹(てっ)する。クラブの試合(しあい)が近いときは、ふだんより練習時間(れんしゅうじかん)を増(ふ)やしていく。そうした賢(かしこ)い心の切(き)り替(か)えを心がけながら、貴重(きちょう)な青春を、何倍(なんばい)にも価値(かち)ある、実(みの)り多いものとしていただきたい”

 この水準にまで達した歴史的名文は、夏目漱石や萩原朔太郎、いやゲーテであっても添削は不可能だ。名誉会長の後にのみ、人類の道は開かれる。                                (つづく)

■塩山芳明…雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年12月28日 (月)

マスコミに巣くう「親米派」と天皇を政治利用する政治家たち

●マスコミに巣くう「親米派」と天皇を政治利用する政治家たち

 鳩山政権は普天間基地の移設問題を抱えながら新年を迎える。米軍の要求通り辺野古にするのか、それとも沖縄県民の批判を率直に受けて県外にするか、の選択を迫られている。が、もう1つ、まっとうな第三の道は、国外移転である。
 普天間米軍基地は町中にあり危険だとして、1996年4月の橋本龍太郎首相とモンデール米大使が返還で合意した。そののち、97年11月に政府は代替施設として名護市辺野古沖に海上施設を設置する、とした。
 以前にも書いた通り、辺野古は普天間基地の代替ではない。あらたに増強されるまったくの新しい基地である。2本の滑走路をV字型に並べるプランは、60年代に米軍が密かにつくっていた計画の浮上であった。つまり普天間を撤去するという偽装の下につくられた、より強力な新空港なのだ。

 海上空港をつくる当初の計画にたいして、住民たちは海上予定地のボーリング調査用のパイプ製やぐらを占拠、座り込み闘争をつづけた。それによって、海上空港案は頓挫した。その抵抗運動を回避する形で、キャンプシュワブの一部を使った、埋め立て空港に政府は強制着陸した。沖縄県の土木建築業者を傘下に収めているゼネコンにとっては、大需要の喚起だった。しかし新たな軍事空港建設は、基地に苦闘してきた沖縄が、さらに戦争に縛り付けられること意味する。ますます反対運動が盛り上がったのは当然だ。
 在日米軍基地は全国に85ヵ所ある。駐留兵力は約3万6000人。この施設の面積は東京23区のほぼ半分ともいわれている。この膨大な用地の75%が沖縄に集中している。「国土の0.6%に75%の基地」といわれるゆえんだ。
 また、米軍は沖縄県民の地主から強制収用した負の歴史がある一方で、面積の大きい地主には不労所得が入る、という矛盾と退廃を生みだした。
 これまで本土での米軍基地は減少傾向にあったが、沖縄ではほとんど減っていない。つまり現在の日米関係は沖縄県民を犠牲にし、生活を荒廃させたうえで本土が繁栄する、という関係となっている。だからこそ鳩山由紀夫首相が目指す「対等な日米関係」のノドに突き刺さった棘となっている。

 自民党政権はなんら沖縄の基地問題を改善する意志がなく、辺野古に押しつけて事足れりとしてきた。鳩山政権はそれを解決する方針を打ちだし、自民党や財界、大メディアから集中砲火を浴びている。しかし自国も相手も政府が替わったのだから、政権交代前の「合意」について、話し合いによって解決していくのは当然だ。
 米軍基地の問題の根幹に横たわるのは、日米安全保障条約がある。51年に締結された旧安保から59年の歳月がたった。60年の安保改定にさいしては、安保反対の大デモが起こり、30万以上の人たちが反対を訴えて全国から国会に集まった。わたしたちの学生のころである。89年にはベルリンの壁が崩壊、ソ連を中心とした冷戦構造は解消し、各国が新しい国際関係を模索してきた。ヨーロッパ諸国はEUを結成した。
 ところが自民党政権の日本は、米国一辺倒の外交を変えようとする意欲はなかった。戦争終結から64年たってなお占領軍が駐留し、さらに基地を拡大強化しようとしている。これが「対等な」関係なのかどうか。政権交代を契機として、これまでの対米一辺倒の日米関係を変えていく時代となった。日本の未来にむけての政治をおこなうときである。
 米軍再編によって、沖縄の海兵隊8000人とその家族9000人をグアムに移転する。普天間基地はヘリ部隊であり、海兵隊地上部隊と行動をともにする部隊だ。そのままグアムに移転しても、なんら問題がない。90年前後には、沖縄海兵隊のハワイへの全面撤去プランがあったのだから。

『朝日新聞』(09年12月18日)には次のような報道もある。「日本駐留の経験がある元海軍幹部によると、海兵隊がいなくても現在、日本にいる陸海空軍兵力だけで中国などへの抑止機能は十分果たせるという意見が米軍内には根強くあるという」
 つまり既得権益を米軍は手放したくないだけのことなのである。
 しかし米国の圧力は激しい。かつて「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と自衛隊派兵への圧力をかけたアーミテージ元国務副長官が12月に来日。「10年かかった日米合意が白紙になる」などと恫喝した。彼は91年当時、フィリピン政府がクラーク・スービック両基地を撤退要求したときにも、わざわざ脅かしに行った札付きである。

 さらに激しいのは大マスコミの攻撃だ。
 朝日・読売・毎日の三大紙でも「外交の継続性が必要だ」とか、「米国との好意が壊れる」「国益を損なう」などの文言が紙面に踊った。米国側の利益に寄った記事が大量に発生した。
『読売新聞』(09年12月16日)には、「米国の首相に対する不信感が一段と深まるのは避けられない。防衛省幹部は「米国は『鳩山政権は、北朝鮮と同じレベルのずうずうしさだ』と受け止めるだろう」とうめいた」とかなり扇動的な記事が掲載された。
 国務省から接待づけになっている新聞記者などが、いっせいに「日米関係が悪化する」と書きたてている。日本が独立国としての主権を主張する局面になると、このような親米派がいっせいにうごめきだす。このままでは米国のご機嫌を損なう、とばかりに、臆面もなく米国の主張を垂れ流す。

 米国が怒るから辺野古にしろなど、「売国奴」的な表現を、日本のマスコミが平然と繰り返している。ワシントンやニューヨークを体験した「大記者」たちの退廃である。
 普天間の問題を解決するには、日本の米軍基地を将来的にどうするのか、という課題は切り離せない。もう59年にもなる日米安保と64年もつづいている「占領状態」を、これからどう解消していくかを考える時となった。強靱な将来志向で挑むしかない。(談)

全文は→「01.pdf」をダウンロード

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月27日 (日)

ロシアの横暴/第31回 列車爆破とナイトクラブ火災の真相(2)

 さて、この事件についてであるが、当初はロシア国内の経済的な不満分子の仕業かも知れないというのがおおかたの見方になっていた。というのもこの列車の料金がとても庶民には手の届かないものだからである。自分たちには縁のない世界の人間たちにムカつく、「金持ちはそれだけで悪」というロシア革命のころの思考回路だ。現在のロシアの「金持ち」というのはほぼ例外なく「共産主義は悪だ」と唱える元共産党幹部グループだから、いつの時代にも負け組にならざるを得ない庶民の腹の虫はおさまらない。特権階級の温存に辟易すれば「金持ちはぶっ殺してしまえ」という乱暴なグループがでてくるのもうなずける。真偽のほどはともかくも、経済格差に怒る者の仕業という見方がでてくるのがロシアである。ただし、金持ちにムカつく庶民貧民が大量の爆薬を入手できるはずもなく、実際には事件を知って「ああ、スッとした」と言うのが関の山だろう。 

 もたもたしているうちに犯行声明が出たので、プーチン首相はここぞとばかりに「テロには先制攻撃を」とぶちあげて一件落着となった。しかも先制攻撃先を「チェチェン」に特定せず玉虫色にしているところがミソである。これはチェチェン戦争を鎮圧した、という公式発表の帳尻を合わせつつも、国中に不満分子があふれていることを吐露しているようなものだ。ただしプーチンがどう言おうと世論の大勢はやはり「チェチェン・カフカスの仕業」である。

 数日後、ウラル地方のある都市でその名も「びっこのおうま」というナイトクラブで火災が発生し、100人以上の客と従業員が死んだ。自由化の波に乗って雨後の竹の子のように出現した遊興施設であるから、当然利益第一主義となり、安全は二の次三の次となる。その後の報道によると、このナイトクラブは消防署からの再三の防火設備不備警告を無視していたという。日本人の感覚からすれば経営者のあくどさが「事故の主原因」となるだろうが、ロシアでは警告する側である。警告は賄賂要求付き、つまり「いくら積めば見逃してやる」という警告だからだ。ロシアでは賄賂なしに警察や消防の警告を無視することは不可能である。もちろん逮捕されるのは「警告を無視した」ナイトクラブ側となる。

 ところで、ネフスキー特急事件で決まったばかりの「服喪の日」がこの事故に適用されたかどうか? おそらく、「警告を無視した過失によるもの」だから適用されないと思われる。
 思えばロシアが自由だ、改革だと叫んできたこの20年の間に、一体何日の服喪の日が設定されたのだろう。この調子でいくとそのうちに年の半分は服喪の日になりそうだ、という笑い話もあるそうだが、実はあんまり笑えない。この列車事故の死者は30人程度で、これを基準にするとロシア中毎日服喪の日となってしまう。というので今後は100人以上の死者が出た場合を「服喪の日」とするらしい。これは半ば茶化したの報道なので、実際に決まったかどうかは定かでない。
 何か惨事が起きれば「何でもすぐにチェチェン」のロシアだが、さすがにこのナイトクラブ火災にはチェチェンの影はでてこなかったそうだ。(川上なつ) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月26日 (土)

ロシアの横暴/第30回 列車爆破とナイトクラブ火災の真相(1)

 ロシア経済はどうなっているのか、国際的にも国内的にも先が読めないなか、11月27日にモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ特急列車が脱線し(報道によっては爆破となっている)、多数の死傷者が出た。毎度のことながら、どうもテロによるもののようだとか、それなら当然チェチェンがらみだという噂が広まっていった11月30日、今度はカフカス地方ダゲスタンで列車爆破事件が起きた。幸い人的被害はなかったからそのまま立ち消え状態になったが、もしも大きな事故になっていれば「サンクトペテルブルクの事故はやっぱりカフカスの、つまりチェチェン人の仕業」と確定したことだろう。

 特急列車爆破犯がダゲスタンで事件を起こしたかどうかはわからないが、少なくとも何ものかがチェチェンを陥れるために利用をしていることは確かなようだ。捜査を攪乱したり、犯人をでっち上げたりする手口は世の東西を問わないが、ロシアの場合は見え透いているのが特徴である。チェチェンではないかという噂が立ち上っているとき、チェチェンの隣で鉄道爆破事件を起こすなど、とてもわかりやすいやりかただ。
 そしてテロといえばチェチェン、と、もうずっと昔から決め込んでいるロシア人にとっては隣のダゲスタンでテロらしきものが起これば、もう間違いなくチェチェンの仕業である。

 そうはいうものの、2009年4月「武装勢力ほぼ殲滅宣言」と、それに伴うチェチェンからのロシア軍の駐留部隊縮小・一部撤退をおこなった手前、ここで「チェチェンだ!」とは言いにくかったようだ。「よくわからない」とか「慎重に捜査中」とし、何はともあれこの悲しい事件が起きた日を「服喪の日」に定めた。そしてついでに(?)死者何人以上の場合を「服喪の日にする」という基準も決めた。

 チェチェンの仕業ではないか、と言われていちばん困ったのはカディロフ・チェチェン政府である。あわてて「われわれは武装勢力を山に追い込んだ、彼らはとても首都方面で爆破事件をおこせる状況ではない。」という見解を発表した。しかし、ロシア本土では情報もないまま、誰が何と言おうとチェチェンの仕業説に染まっていたようだ。
 何となく煮え切らない情報が充満していた12月2日、イスラム武装勢力から「犯行声明」なるものが発表されてしまった。犯行声明はいつでもほんとかウソかわからないものだが、今回のは特に謎に包まれている。
 この犯行声明はつぎのような見方ができる。

  ①捜査するのがめんどうくさいので、武装勢力に頼んで犯行声明を出して
   もらった、あるいは武装勢力を騙って捜査当局みずからが犯行声明を出
   した。ロシアの場合は「カフカス」といえば証拠などなくとも、つじつ
   まが合わなくても「犯人はこれ」と、国民が信じてくれるから手っ取り早い。

  ②独立派武装勢力が声明を出した。武装勢力はすでに殲滅してある、とい
   うロシアとチェチェン両政府の発表はデタラメで、「ちゃんと生きて戦
   っているぞ」と主張したい独立派がいるはずだ。自分たちがやったかど
   うかではなく、この機会を利用して犯行声明で格好をつけておこうとい
   うものだ。

  ③特急列車もダゲスタンの事件も、そして犯行声明も全部武装勢力がやっ
   た。

 いずれにしてもほんとうは誰がやったのか、わからないままである。(川上なつ) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月25日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第14回 厳密な食事メニュー

 マスクのメニューも地味に大変なのですが、ドーマン法に取り組む母親が最も大変な仕事は、生理プログラムの中の徹底した栄養バランスのとれた3度の食事作りと、その報告書作成(献立表の開示)なんです。
 なんたってお砂糖からお塩、カルシウムや炭水化物に至るまでこと細かく一日の摂取量が決められていて、普通に作っていたのでは確実にアウト! おそらくこの数値では栄養士さんでさえ献立作りに苦労するんじゃないか?という値がズラリなんですから!!

 第12回目の知性プログラムでも語ったように、これだけの超過密リハビリメニュー(運動面)をこなしながら、とても落ち着いて知性プログラムなんかに向き合えないのと同じで、親に厳密な栄養バランスを求めた食事作りを課すのは、これまた無茶です! 一日中子どもの訓練に付き合って、夜は夜な夜な夜なべして知性プログラムの教材作りで慢性の寝不足状態……買い物すらまともに行けないし、三度三度も落ち着いて作ってられないそんな緊急事態が強いられた日常生活の中で、栄養士の資格も知識もない者が、栄養専門書を片手に、いつ献立を作成しろというのでしょう!
 生理面のスタッフが献立表を作って「その指示通りの食事を与えなさい」というならまだしも、≪タンパク質は最低55g~最高65gまで……≫などと数値だけを与えるだけなんて……しかも高い診察料払っているのにおかしいじゃありませんかぁぁぁ!

 少なくとも“好きなモノを好きなだけ好きな時に食べたい”お嬢様育ちの母に到底太刀打ちできる訳がなく、栄養面に関してはとてもルーズでした。(笑)
 その代わり、馬鹿ほどサプリメントを飲まされていましたョ。(苦笑~)まだ日本の薬局屋にビタミンを置いているところも少なく、稀に置いてあってもべらぼうに高い!高い上に内容量は少なくて2週間持たないのですもの。楽歩の摂取量も並みではありませんでしたが、なぜか「130歳まで俺は生きる」といって父も毎食、ごっつい父の手のひらに溢れんばかりにカラフルなビタミン剤が父の胃袋へと納まっていってましたので、最初の頃は研究所から箱買いし、そのうちハワイのビタミン専門店から定期的に届くシステムになっていました。私はお食事でもなんでも、とにかく飲み込むという作業が苦手なので、毎回このビタミン剤を飲み込むのにはホトホト苦心しておりました。食道でつっかえちゃって二進も三進もいかないこともしばしば。そうなってしまったら、もうビタミン剤が溶けていくまで、ひたすら我慢です(笑)なので今は一切ビタミン剤を摂取していませんが、父は相変わらず130歳目指して、その種類を増やして飲み続けているようです。

 話が逸れてしまいましたが、報告書に添付する献立表は、父が会社でせっせと栄養成分表などの専門書と格闘しながら架空の献立リストを作り上げ、毎回切り抜けていたようでした! 私も再診時、スタッフに、ついうっかり日常を口走って架空の献立表がバレないように、診察の前の晩には、必ず成分献立表と父が作成した架空の献立表ぐらいは頭に叩き込んで協力していましたョ。

 そう思うと…一番苦労を強いられるはずの母が一番楽をしていたということになりますね~(大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年12月24日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第28回 米軍と『堕落論』(2)

 私などはかなりうがった人間なので、自分のしていることを正しいと考えることのほうが少ない。自分のしていることを「正しい」とか「正義」だとか言う人たちとは、彼らが何をしているにしろ、ウマが合うということは無い。一言で言えば私はへそ曲がりなのだ。
 そういう時に常にしつこく頭をもたげてくる本がある。
 坂口安吾の『堕落論』『続・堕落論』だ。
 人間堕落するなら「真っ逆さまに正しく堕落しなければならない」などと言い切るところが、気に入っている。
 ただ、『堕落論』の誤解を解く意味で書くが、別に安吾は人間が自堕落に生きなければならないと言っているのではない。

「人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は落ちる」

 彼は戦争中には泥棒や不平を言うやつなどおらず、皆鍵もかけずに寝ていたと書いている。戦争とは非常に「健全」だったという。しかし、それは人間性とはかけ離れたものであり、そこから堕落しなければならぬ、と書く。
 安吾は生涯「人間」というものに固執した。私流の解釈で言うと、戦争中の「健全」な精神や、大義を語る、集団的な状態から、一つの「個」に人間を還元すべきだ、というものだ。
 安吾にとって戦争中の「健全」な人々の精神は、人間性とかけ離れたものとして見えた。
 そこから「堕落」し、人間性、ひいては「吾」を取り戻せと主張した。
 私がアメリカ軍で感じていたものも、やはり安吾の言う「健全」な精神であった。アメリカ軍の相互扶助の精神や、愛国心。どれもやはり人間性からかけ離れているのではないか、そう感じた。
 ただ、私がこの雑誌で「アメリカ軍の諸君、私は君らに堕落することを主張する」と言ってもせん無いことだ。もともと軍隊とは「個」を消して、「全」にする組織形態のことを言うのだ。
 ところで、安吾の言うとおり日本は正しく「堕落」することができたのだろうか。
 そんなことは無いだろう。「堕落」することもなかなかしんどく、厳しい道なのだ。どいつもこいつも、「俺は正しいことをしている」という顔ばかり。
 取りあえず、2009年ももう終わりだ。
 けれど、取りあえず来年の抱負くらいは書いておこう。

 「来年こそは真っ逆さまに堕落する by白川徹」
(白川徹)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月22日 (火)

ホームレス自らを語る 第48回 記憶喪失の果てに・後編/原幸子さん(仮名・73歳)

 私は昭和6年に、群馬県で生まれました。幼くして両親を亡くし、東京に嫁いでいた母の妹(叔母)に引き取られました。この叔母は鬼のような人でした。私は子守女として扱われ、ちょうど戦時中とも重なって、ほとんど食べ物も与えられずに、折檻と空襲の業火のなかを逃げ惑うという地獄のような日々が続きました。
 戦争が終わって、その叔母の家を逃げ出します。当時の私は極端な栄養失調の状態で、キリスト教関係者などに助けられて、何年間にもわたる闘病生活が続けられました。ようやく健康が回復したのは昭和27年ころで、私が21歳くらいのことだったでしょうか。
 人はあまりに苛酷な体験をすると、それを記憶から消してしまうことがあるそうですが、私の場合もそうでした。私の人生の記憶はほとんど朧げにあるだけで、とくに叔母の家に引き取られてから戦後のある時期までの記憶はまったく喪失しています。
 こうして朧げながらも人生を語れるのは、その後、生き別れになっていた姉に再会し、いっしょに暮らすようになって、欠けていた記憶を補ってもらったからです。その姉もすでに亡くなってしまいましたが……。

 千葉県旭町(現在は旭市)のサナトリウムを退院した私は、東京の九段(千代田区)にあった私立S学園の給食の賄いの仕事に雇われました。昔のツテをたよって、ほとんど強引に押しかけての就職でした。そのときの私は病院を出たばかりで、お金を持っていなければ、住むところもない状態で、それこそ必死でしたからね。
 そんなふうにして必死で得た働き口ですが、私は1つのところに長く落ち着くことができないんです。働き始めて1、2年もすると、仕事がイヤになったり、同僚と大ゲンカをしたりして、プイッと辞めてしまうんです。そんなことをずっと繰り返してきました。
 私の育ち方は特別でしたし、小学校にもロクに行けないで頭も普通じゃないですから、気持ちが落ち着けないのかもしれません。
 ただね、S学園の仕事をやめると、次は旭町の例の病院で働きました。その病院を1、2年でやめると、またS学園に戻って働き、そこがイヤになるとまた病院に行って働きと、それをずっと繰り返してきたんです。40年以上ずっとですね。

 そんなワガママが許されたのも、みんなが私の境涯を知っていて同情してくれたからだと思いますよ。S学園でも、病院でも、みんな親切でいい人ばかりでしたね。
 病院でははじめは薬局で、薬の包装の仕事をしました。昔の粉薬は1包ずつ紙を折って包んでいましたから、その人手が必要だったんですね。その後、薬が錠剤になってからは、付き添い婦になりました。入院患者の身の周りの世話をする仕事です。付き添い婦はかれこれ30年くらいやったんでしょうかね。
初めて知った生きることの楽しさ

 結婚はしませんでした。私は身体の成長期にひどい栄養失調でしたから、大きくなってもちょっとしたことで病気になっていました。ですから、こんな身体で結婚するのは無理だと、早くから諦めていましたからね。
 仕事をやめたのは平成6年、63歳のときです。そのとき生き別れになっていた姉の居場所がわかって、その姉といっしょに暮らすことになったからです。
 姉は横須賀(神奈川県)のアパートに1人で住んでいました。糖尿と心臓、それに高血圧を患っていて、ほとんど寝たきりのような状態でした。私は付き添い婦をしていた経験を生かして、姉が4年後に亡くなるまでずっと世話をしました。
 姉はとても自分勝手で強欲な人でした。幼いころの私をイジメ抜いた、あの叔母にそっくりで、その性格は死ぬまで変わりませんでした。そんな姉が私といっしょに住むことを望んだのは、病気で動けない自分の世話をさせるためだったんです。そのことは私もわかっていました。だからって、60歳すぎの私には、姉のほかにたよって行くあてもなかったですからね。
 姉が亡くなると、すぐに隣の部屋の住人とのトラブルが始まりました。隣には若い女性が住んでいて、しょっちゅう文句を言ってきたり、怒鳴り込んでくるんです。そんなことが毎日のように続いて、私のほうがおかしくなりそうで、そのアパートは引き払って部屋を出ました。

 それで市役所の福祉課に行って相談すると、生活保護用のアパートに入れてくれました。ところが、そこでも隣の部屋の人とのトラブルになりました。どうも私にはアパート暮らしが向いてないようで、それでアパートを出て上野公園のホームレスの仲間に加わったんです。平成13年か、14年のことでしたね。
 ホームレスはほとんどが男の人ばかりですが、みんな親切でよく面倒をみてくれます。上野で暮らすうちに「新宿のほうが、もっと親切なホームレスが多い」と教えられて、今年から新宿に移りました。
 本当にこちらのほうが親切な人が多いですね。いま3人の男の人といっしょに行動していますが、夜の段ボールの組立てから、食事のことまで、何もかもやってもらっています。どうかすると、自分の食べる分がなくても、私の分だけは何とかしてくれるんです。前のアパートの生活は地獄でしたが、いまの暮らしは天国。ありがたいことです。
 これまで幾度も死の淵をさ迷ったり、自分から死のうとしたこともありました。そんな私がこの新宿の路上で、生きていることの楽しさ、素晴らしさをはじめて知ったんです。
(2005年2月取材 聞き手:神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月21日 (月)

Brendaがゆく!/違いのわかる犬 本物のセレブ犬ね☆

最近すーーーごくうれしかったことがあるので書きます。

ある日、ものすごいセレブの人の家に遊びにいきました。
(それにしてもセレブという言葉は好きじゃないのだけど・・・)

当然、セレブの人の家では、Brendaの出番はピアノ。

でも、セレブの集まりでは、普通の人でも、ポロンポロン、ピアノぐらいは弾きます。

それで、「オレ様は、これぐらい弾けますぞ!」という人がいて、弾いて。

最後にアタクシが弾いたのです。

でも、あれ~~。何かがおかしい。

アタクシのピアノに合わせて、なにかメロディーに乗ったかたちの雑音がする。

雑音といっても、メロディーに合わせた、音程のある雑音だ。

長く弾いている間に、本当におかしいと思い出して、私も弾きながら微妙に顔に出ていた。

そして、弾き終わって気がついたら、なんと

そこの犬ちゃんが、アタクシのピアノに合わせて歌っていたのでした!!!

気がつかなかったよ。

でも、他の人が弾くと歌わないんだその犬ちゃんは。

本当ですよ!!!

すごい、ビックリした。

違いのわかる犬ちゃんっていうのもいるんだね。

そして、人間の方はというと。マダム達は。アタクシがピアノを弾くと心からよろこんでくれるので、それがうれしい。

上辺だけの気持ちじゃなくて、本当に感心してくれた人がいるときは、本当にこれまで生きてきてよかったと思う。

また、こういうセレブの人の家のサロンの集まりとかは結構好き。
なぜかというと、プログラムとか決めないで、弾きにいくので、そうするとみんなからいろいろなアイデアがあがって、あの曲知ってる?とかそういう話になって、曲当てみたいになったりとか、みんなが言った曲のことを、「あーそれは、この曲だよというふうにいろんな曲を弾いてみせたりとか」

そこでは、ベートーベンのソナタが話題になって、何番がどれで~~と話していた時に、私がすごい躍起になって、あれと、これと、それは、これで~と言って、よだれたらす寸前ぐらいで(真剣になりすぎて)弾いていたら、

一人のマダムが驚いて
おらら~
「楽譜は全部覚えている訳???」とにこやかに言ったので

今まで地道に勉強して本当によかったと思った。

犬もマダムも楽しんだみたいでうれしかった。
もちろん、おじさんたちは、楽しんでいるに決まっているが・・・笑

でも、そういう場合、普通はマダムには嫌われるからね。汗

みんなに愛されるピアニストになりたいです☆

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月20日 (日)

靖国神社/31回 社業繁栄祈願と靖国〈2007年12月取材〉

 編集部にいつも通り行くと机の上に一通の封書が。このところやけに「封書運」がある。ほぼ毎月のように、靖国からいろいろと送られてくる。
 今回はなんだろうと中身を取りだすと、“社業繁栄祈願参拝の御案内”と書かれたパンフレットが入っていた。
 これまで幾度となく昇殿参拝してきた。『靖国に英霊はいるのか』企画に始まり先日の秋季例大祭と、ことあるごとに参拝している。
 今さら参拝といってもいつもどおりのことが行われることはわかっていたが、来年は編集部がもっと盛り上がることを期待して祈願することにした。
 祈願前に参拝予約を入れなくてはならないようなので祭儀課に電話。インターネットでの申し込みも可能だが、今回は締め切りも迫っているので電話にした。
 電話には巫女がでた。社業繁栄祈願のことを伝えると、日にち、時間、人数を聞かれた。
 とりあえず適当な日時を答え、人数をいったところ、「お一人様ですか……?」と言われる。
 えぇ、一人ですが、何か? とは言わなかったが、普通に考えて社業繁栄祈願に一人で行く会社などないので、対応してくれた巫女さんが驚くのも無理はない。しかし、少ない編集部員、迫り来る締め切りで一緒に行ってくれる人はいない。アストラを代表して私が行くのだ! 文句があるヤツは出てこい! というテンションで勇んで電話をしたものの、実際に引き気味で応対されると少し悲しくなる。
 相手の理解などは求めずとにかく「一人」ということを強調し申し込んだところ、「一人の場合は直接行って受け付けすればいいので、特に予約などはいらない」との回答。

 参拝当日は、あいにくの雨模様。
 午後1時ごろ靖国へつくと、雨だからなのかいつもより参拝客が少ない。人けのあまりない靖国は久しぶりで、クリスマスイブの取材を思い出した。
 参道を歩き神門をくぐり拝殿の右横にある参集殿の個人参拝受付へ。
 参拝の旨を伝えると、予約表に名前はなく、しかも一人で社業繁栄ということで驚かれつつ(どちらかというと訝しげ?)、でもなにも悪いことはしていないので堂々と「社業繁栄祈願に来ました!」という雰囲気をまとい、所定の申込用紙に記入し封筒に初穂料(玉串料)2万円を入れ受付をすませた。
 待合室で待つこと15分。その間、「予約したと言っているんですけど……」と少しもめているような声が聞こえてきた。なんというか……。「予約はいらん」と言ったのはそちらだし、「13時に行く」と言って「わかりました」と言ったのはそちではないか……とクレームをつけたくなるのを我慢して、お茶を飲みながら待っていた。
 斜め後ろから小中のときファンだったX JAPANの『Forever Love』が流れてきたので何かと思って振り返ると、『私たちは忘れない!』というドキュメント映画が流れていた。「8月15日に靖國神社へ参拝する」を公約のひとつにし、靖国ブームの立役者となった小泉元首相がX JAPANのファンを公言したから靖国でも使ったのだろうか……、などといろいろ考えながら待っていたら神職がやってきた。彼と会うのは今年3度目である(たぶん)。
 彼のあとにつき本殿へ向かう。
 手水舎で手と口を清め、回廊途中でお祓いを受ける。本殿に入ってからは祝詞の奏上後、玉串を奉納して二礼二拍手一礼をしまた座り黙祷。
 これまでは大人数で昇殿参拝していたので、神職を一人占めして参拝ができたのが少し嬉しかった。というか、なにかがない限り個人で参拝することもないし、改めて本殿をじっくりと見ることができたので満足。
 厳かな気分になりながら本殿からでて、回廊で直会。これもいつもは人がたくさんいて流れ作業ですませていたが、きちんと本殿に向かって挨拶をしてグビッ。
 それから待合室に戻り神職とお別れ。
 時計を見たら出発したときから20分ほどしかたっていなかった。手水のあとに回廊でお祓いを受けたが、いつもは拝殿に参拝者全員が集まってからお祓いを受け本殿へ行く。なので最終的に待合室に戻るまでに結構時間がかかる。個人だとスムーズに済むということか。
 再びイスに座ること数分。巫女さんに呼ばれ、大きな紙袋を渡された。
 かなり重たい紙袋を下げて恒例のおみくじを引き、おなかがすいたので売店へ。
 ここで前々から気になっていたメニュー「靖国」を食べることにした。

 「靖国」。ひときわ異彩を放っている。うどんとそばが選べるようなので「靖国そば」を頼んでみた。つなげて読めば至って普通のメニュー名だが、どちらかというと店名のような感じがする。お値段、800円。
 ワクワクしながら待っていると「お待ちどう」という言葉とともにカウンターに「靖国」が置かれた。
 どんなモノかと思って見てみるとビックリ! 具だくさんてんこ盛り。錦糸卵、わかめ、豚肉、山菜、しいたけがはいっていた。そばは緑色だったので茶そばだと思われる。味は可もなく不可もなし。立ち食いそば屋を思い出すが、麺がのびているのか柔らかかった。具の中でおいしかったのが豚肉(バラ肉の生姜焼きだった)。味付けがされているのはめずらしい。
 食べ終わり再び紙袋を持って会社に戻る。中身をみると、かわいいお守り、一升瓶の神酒、約40センチの祈願神札、破魔矢(約95センチ)が入っていた。
 パンフレットの写真ではお守りは紙製のものだったが、写真の通りかわいいお守り。カラーリングも白とピンクで私好み。来年から持ち歩くことにする。
 今年も無事靖国取材をスムーズに行うことができた。来年もよい取材ができますように。(奥津裕美)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月18日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第13回 マスキング

 今日からしばらくは、生理面のプログラムについてご紹介していきたいと思います! どちらかというとあまり日の目を見ない生理面ですが、これまた過酷なメニューがてんこもりなんですョ!!
 運動プログラムは主に本人が頑張ってこなさなければならないメニューばかりで、知性プログラムは、その教材作りや創作に必要な道具やヒントなどを与えるのは基本的に親の役割です。むろん楽器の習得や読書、日記、その他の創作活動などは、本人が取り組まなくてはならないというものの、受身でいられるので気が楽なプログラムでした。また親も運動プログラムに一番力を注いでいましたから、私もテキトーにこなすことが可能なプログラムだった訳ですね~。(←あくまでも内部事情です!)
 生理プログラムが担う役割は、

① 健康 
② 身体的成長(体重・身長・胸囲の増加) 
③ 薬物摂取の排除(てんかんなどのお薬)

 などが主な目的であり、それらを達成するために、栄養管理(徹底した栄養管理と脳をベストコンディションに保つための水分コントロール)、呼吸の向上などを目指したオリジナルメニューが処方されていくのです。
 おそらく生理面のプログラムで代表的なメニューといえば“マスク”(現在はマスキングと呼ばれているらしいのですが…)が挙げられるのではないでしょうか。

 私が治療を受けていた頃のマスクの種類は全部で3タイプあり、一番最初に与えられるマスクが“反射マスク”と呼ばれる三角形の形をしたビニール袋みたいなオリジナル製品。当時は研究所から見本として数枚しか支給されず、見よう見まねで親が苦心して手作りしていました。まず厚手のビニールを三角形にカットし、2枚をコテでプレス。これで三角形の袋が出来上がります。そして三角形の頂点の部分に短く切ったストローを刺し、鼻にあたる部分にはピッタリとフィットするように針金を差し入れ、顎から頭にひっかける部分にゴムが通せば反射マスクの出来上がり!!
 この特殊マスクで鼻と口を覆うのです。非常にあやふやですが、反射マスクは確か1分間装着時間だったと記憶しています。ストローが付いているというものの、ほんの20~30秒でゼェゼェ息苦しくなってきます。つまり二酸化炭素の過剰摂取が血中の炭酸ガス濃度を増加させ、脳血管への血流を増やす、という理論。一分経過し、マスクを外すと、深呼吸をするのが苦手な重度脳障害児でも自ずと深い呼吸が行えるというもの。

 あくまでも私個人の見解なのですが、ドーマン法のプログラムの中で唯一、害がなくメリットだけを勝ち得たメニューが、この“マスキング”といえるでしょう!
これを私の場合は一日90回ほどこなしていました。一回の間隔を最低5分間は空けなければならないので、考えてみたらこのプログラムをこなすだけで1日仕事ですよね~

 このマスクのお陰で確かに呼吸機能は大幅に改善され、大きな声で話せるようにもなりましたし、ヨダレでいつもグショグショだった胸元ともおさらばできました。そして何といってもてんかん発作の回数が軽減したことが両親にとって何より嬉しいことだったみたいです。私は発作の回数が軽減したことよりも、起こってしまった時や、起こりそうな気配を感じた時にマスキングをするとピタッ! と止まってくれるので、なにか魔法のマスクを手に入れたような感覚でした。完全に発作が起こらなくなった後も、ドーマン法を辞めてからでも、このマスクだけは、いつも肌身離さず持ち歩いていました。お守りとしての役目も存分にありましたが、研究所のレクチャでは度々「ドーマン法で発作を撲滅することは簡単でも、訓練を途中で辞めてしまった者は元の木阿弥になる」というようなことを再三、聞かされていたので「またまたぁ~お得意のマインドコントロール術ですなぁ」と聞き流しつつも、このワタクシでさえ、博士の張り巡らされた罠を完全に回避することはできなかったみたいですね~!
 柔和なフェイスのドーマン博士 恐るべし!!!です。(大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月17日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第27回 米軍と『堕落論』(1)

 都内で開かれたある講演会に呼ばれた時、話の後に一人の老人が話しかけてきた。
 老人はもう80歳を超えているだろうか。若いときに戦争を経験し、杖をつきつき齢80にしてアフガニスタンの戦争の話を聞きに来た。
「あんたの話はとても良かった。特にアメリカ軍の兵士たちの話がよかった。私も戦争に赤紙で引っ張っていかれてね。その時は自分が『正しいこと』をしているのだと思った。もう60年も経つけれど、兵隊っていうのはどこの国でもいつでも同じなんだね」
 老人は講演会で私が話した、米兵たちの生活様式や気持ちのことを話している。
 私の従軍した部隊の中に一人の真面目そうな青年がいた。
 彼はインタビューの中でこのように話している。
「僕たちアメリカ軍はアフガニスタンを良くするために来ている。アフガニスタン人を助けるためにです。けれど、どうしてアルカイダやタリバンは私たちの邪魔をするのでしょうか。私にはわかりません」
 その青年は涙を流さんばかりにそう話した。心からそう思っている顔だ。
 私は多くの兵士に会った。冗談ばかり言っているやつ。不安そうに眼を泳がせているメガネの男。きゃっきゃと騒いでばかりの若い女の兵士。空き時間に絵ばかり描いている漫画家志望の黒人兵士。皆、下層階級のアメリカ英語を話す若者たちだったが、そのいずれの中にあるのは、「アメリカ軍はアフガニスタンを良くするために来ている」という確固たる精神だった。

 現在前線にいるアメリカ軍の兵士の多くは、下層階級出身者だ。軍で決められた期間働くと無料で大学に行けるという制度があるので、それを目的に来ている若者がほとんどだ。マイケル・ムーアの『華氏911』の中では高校に軍へのリクルートに来る軍人の姿が映っていた。アメリカは我々が考える以上に階級社会だ。下層階級の家庭に生まれれば、まともな生活を望むことは難しい。そんな中で、大学に無料で行ける軍の制度は人生で逆転をかける唯一の手段として、若者の間に浸透している。 
 けれど、そんな若者たちがどうして、「アメリカ軍はアフガニスタンを良くするために来ている」などと思うようになったのだろうか。
 仮に私がその様な経緯で軍隊に入ったのなら、面従腹背。いかにサボりながら兵役を終えるか、ということに執着するだろう。
 ところが、アメリカ軍兵士の殆どは異様と思えるほど皆真面目に軍の大義を信じ、作戦を遂行している。

 あの老人の言葉を思い出す。
 「その時は自分が『正しいこと』をしているのだと思った」
 軍という組織はそういう場所なのだろう。異論をはさむことは許されず、軍の大義を徹頭徹尾叩き込まれる。24時間「軍は正しいことをしている」と言われていればそうもなろう。
 恥ずかしい話だが、私も従軍中は「アメリカ軍はなかなかうまくやっている」などと思っていた。取材テープを見直し、再考し、またテープを見直し、やはりおかしいのでは、という結論に至った。
 けれど、そのような腰を据えて考える期間がなければ、自分たちのやっていることをおかしいと思うのは難しいものだ。特に、「軍」という特殊な組織の中では。

 皆が皆清廉潔白。自らを「正しい」と考える。(白川徹)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月15日 (火)

ホームレス自らを語る 第47回 記憶喪失の果てに・前編/原幸子さん(仮名・73歳)

 私の記憶には子どものころの記憶が欠けているんです。のちに大人になってから、生き別れになっていた姉と再会するんですが、その姉から聞いた生い立ちと合わせて、思い出すままに私の生涯を話してみます。

 生まれは昭和6年、群馬県の磯辺という村(現安中市)でした。上に兄と姉がいて、私が2歳か、3歳までは何不自由なく育ったようです。ところが、そのころ両親が病気でたて続けに亡くなってしまうんですね。どんな病気だったのか、よく分かりません。
 それで私たち子ども3人は、それぞれ別々の親戚に引き取られたようです。私は安中市にあった母の実家に引き取られ、伯父夫婦に育てられました。伯父夫婦はとてもいい人たちで、わたしのことをとても可愛がってくれたようですよ。
 そのうちに東京の赤羽に母の妹(叔母)がいて、私のことを育てたいと申し出てきたようです。実の母親と血の繋がった女姉妹が育てたほうが、この子のためにはいいと言ってきたようです。
 それで赤羽の叔母の家にもらわれてきます。ところが、この叔母が鬼のような女だったんです。赤羽のその家には6人もの子どもがいて、私はその子守役にもらわれてきただけでした。それからは子守の毎日で、学校にも行けないありさまでしたね。
 それに叔母の折檻がひどくて、毎日のように難癖をつけられては竹竿で叩かれました。竹竿が割れるまで叩かれたようです。折檻のあった日は食事も抜かれ、安中にいたころは丸々としていた私が見る影もなく痩せさらばえていたようです。
 それを見兼ねて、隣の家の人が叔母にないしょで、オニギリを食べさせてくれたそうです。戦争中で食料事情の悪いときに、そんな親切をしてくれたのも、叔母の仕打ちがあまりにもひどかったからのようです。
 空襲の焼夷弾が降るなかを、子どもをおぶらされて、両手に引いて泣きながら逃げ惑うこともあったようです。
 じつは、この叔母の家にいたころの記憶はまったくありません。叔母の折檻に怯え、空襲に怯える毎日で、人間はひどい恐怖の体験をすると、それを記憶から消してしまうことがあるそうですが、私もそうだったようです。

 やがて戦争が終わり、しばらくして叔母の家を逃げ出します。姉が横浜にいることがわかって、その姉をたよって行ったんです。
 ところが、せっかく訪ねて何年ぶりかで会ったというのに、姉は私を追い返したんですよ。私にはショックだったですね。血を分けた実の姉に拒否されるなんて思いもよらないですからね。すごくショックでした。
 まあ、姉の気持ちも分からなくはないです。そのとき姉は16歳か、17歳で、敗戦の混乱のなかを自分1人で食べていくのがやっとのところに、妹に転がり込まれたら迷惑なだけですからね。気持ちは分かるんですけどね。
 私は行き場をなくして、横浜の公園で野宿をしていた人たちの群れに加わりました。そのころは戦災で家を失ったりして、野宿している人がたくさんいましたからね。
 ただ、そんななかでも14歳の少女が1人で野宿するのはめずらしく、しかも栄養失調がひどくて骨と皮の状態でしたから、いやでも目立ちますよね。同じところで野宿をしていた中年の女性が、「この子を何とかしてやって」と進駐軍の兵隊さんにかけ合ってくれたんですね。
 それで私はミッション系の女学校S学園の施設で、箱根にあった山の家のようなところに収容されました。まだ、孤児院ができていなかったのか、あっても満員で入れなかったんでしょうね。山の家には修道女の人たちが幾人かいて、その人たちが面倒をみてくれました。そこでの気憶も曖昧なんです。私は栄養失調のほかに、いろんな病気を併発させていましたから、栄養を取りながらひたすら寝て養生する生活だったからかもしれません。
 山の家で1年でしたか、2年でしたか世話になっているうちに元気を回復して、そこを出されました。それで孤児院か、感化院のようなところに送られます。でも、私はそこがイヤでしてね。送られてすぐに脱走を図りました。最初のときはすぐに見つけられてしまいますが、2度目は成功して横浜の修道院に駆け込みました。
 ただ、修道院に子どもを置くわけにはいかないとかで、千葉県の旭町(現在は市)の病院が紹介されて移されます。海辺にあった大きな病院で、そうそうサナトリウムとかいいましたね。そこに入院しました。まだ療養が必要だったんですね。費用は日赤(日本赤十字社)が面倒みてくれたと思います。
 看護婦の婦長さんがとても親切でしてね。着るものがないといえば、家から古着を持ってきてくれるし、植物を育てる愉しさを教えてくれ、サボテンの苗をくれました。晴れた日にはみんなで海辺に出て日光浴をしたり、私の人生で一番幸せなときだったでしょうね。ほとんど健康を回復してからの療養でしたから楽しいくらいでした。

 そのサナトリウムには5、6年いたと思います。すっかり健康を回復して退院しました。でも、退院をしても私には行くところがありませんからね。とりあえず東京に出て、九段にあった例のS学園の本校を訪ねていったんです。そこで箱根の山の家の件などの事情を話しますと、ちょうど空きがあるとかで、給食の賄いに雇ってくれました。
 戦後も7年くらいたって、昭和27年ころだったでしょうか。それが正確なら、私は21歳ということになります。(2005年2月取材 聞き手:神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年12月13日 (日)

日曜ミニコミ誌!/第9回文学フリマに行ってきた

 去る12月6日、蒲田の大田区産業プラザPiOで第9回文学フリマが行われた。参加サークルは400弱。交通・広報の面から利便性の高かった秋葉原より蒲田に会場を移して2回目だ。先回も今回も、出展者として参加したので朝から晩まで会場を眺めることができたが、入場者数は前回とほぼ変わらない印象を受けた。売れ方もほぼ同じだ。11時から16時までの5時間勝負だが、前半は常連さんからの品定めの視線に耐え、中盤は一度まわってきて目星をつけた人が買ってくれ(これが一番嬉しい)、後半では売り子の方々が自らの店を離れて遠征してくる。初心者とおぼしき、うろうろしているだけの方も後半に多く、売り子らしく雑誌の説明を何度もすることとなった。

 うろうろするのも仕方がない。だって400サークルもあるのだから。どこからどうまわっていいか分からないだろう。案の定、壁際にはお客様方がズラッと並び、サークル一覧をパラパラめくっては興味のありそうなところを見つけようと必死になっていた。

 我らノンフィクションのブースはテーマが分かりやすくって気楽である。数も少ないし、サークル一覧の案内文を見ればどんな本か一目瞭然、興味がなければ行かなきゃよい。興味を持ってくれた人は、たいてい買ってくれる。しかし文芸誌は案内文を読んだだけでは雰囲気くらいしか分からない。行って読んでみるしかない。しかも出展者の8割を占める…。

 そこで差をつけようと…したのかどうかは分からないけれど、今回の文芸誌は巻頭に著名人のインタビューを冠したものも多かった。それってミニコミとしてはどうなの? と年寄り臭く説教しそうになったが、そのサークル自体はミニコミを目指しているわけじゃないのかもしれないし、単純に好みの問題なのでやめた。自分の頭が固いことはよく分かっている。だから未だに出版をやりたいとしがみついているのだ。

 著名人インタビューにせよ、全体のデザインにせよ、レベルの高い文芸誌が本当に多くて、プロなのかアマチュアなのか本気で悩むところだった。よく見るとプロの小説家や批評家とされる人がゲストとして書いていたりするし。だとしたらもう、一般書店で売られている雑誌との違いは、少部数流通か取次流通かだけだ。大きな出版社が短期間で作る広告にまみれた雑誌と、文学好きの人達が時間をかけて採算度外視で作る雑誌、取り上げる内容が同じであれば、どちらが面白いかは考えなくても分かるだろう。それは大変喜ばしいことだ、喜ばしいことなんだけど、何か……つまらない気もする。それはひとえに、やはり頭が固いから、なんだろう。マスコミと同じ土俵に上がろうとする姿勢が見える雑誌も多々あって、何だか残念な気がしたのだ。私達はマスコミの一段下にいるわけじゃなくて、むしろ違うフィールドにいる、だからまともに競争しなくていいのに。

 プロの方がミニコミに書く文章は、いつも読む氏の文章より熱のこもったものに思えた。それが手作り感や少部数という魔法にかかってこそのもの、ではないと信じたい。そこに希望が見える気がするから。(奥山)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月12日 (土)

Brendaがゆく!/はちゃめちゃな生活をしてやりたい・・・ (実例1)83歳の女流画家

私は、日本の一般的な会社員と比べたら天と地との差ほど自由で、まあはちゃめちゃな生活をしている。

自分も一応かなり激しい環境で会社員してたもんで、過去の自分んと今の自分を比較してこう言えるのだ。

しかしながら、私はアーティストとしてはまったくはちゃめちゃではない。

長生きしたいと強く願う気持ちと(今死んでもいいと言いつつ300歳まで生きることを目標としている)

やはりピアノが・・・良い演奏をして聴衆の心に実りをもたらせたいと考えると

日々は、自制と努力とまだ足りない勇気を絞り出す、結果的に苦しみの毎日となってしまう。

私がはちゃめちゃな生活、酒、男、夜遊び、賭け事、言動、含めかなりほとんどしないほどに押さえているのは、結果的に自分が後悔するからだ。生活のバランスを崩し、結局自分の芸術活動がうまくいかなくなり、健康を害し病を抱えてしまうのが嫌だからだ。

前にお酒を飲みまくっていたが今は、飲むことさえ罪悪感を感じる自分である。

こんなに若くしてここまでになるとは・・・

私も周りも含め誰も想像をしていなかったことである。

過去の酒量もなかなかやってくれる女であったので。

先日、友人の83歳の女流画家(日本人)、今もなお大酒飲みに電話をした。

彼女は、本当に自由奔放に生きている。

しかし、芸術活動もうまく行っているし、長生きしている。

あれだけ酒を飲みまくり、和食はあまり好きじゃないと肉食を公言し、太っているし。身体が弱いらしいし。やはり人が生きるということは、「気力」によるものか?

彼女が私に
「あーたしゃ、夜になるともうほらだめだからね」
(べろんべろんで記憶も無い時が多い上にほぼ毎日の飲酒と言う意味)

私が
「実は、お酒ややめたんですよ」

としらけた話をすると。

「え^^^^^^^なんで????」とびっくりしていた。

「いや、もう長生きしたいから」とまたしらけた返答をしてしまった。

しかし、彼女の自由に飲みまくっている様子を知るたびにそんな奔放な生き方で最後の時を過ごしてみたいという憧れの思いがわいてくる。

ちなみに彼女は子供ができないので、子供はいないが、キスして抱きしめ合って世話を焼いてくれる、長年付き添った年下の夫(日本人)がいる。年下と言ってもご主人もご老人であるが。

未だすべてにおいて現役の彼女。
酒をのみまくり、パソコンも使いこなして、海外にも旅に出て、歌を歌って、毎年誕生会をして。

子供ができないのは残念だったと本人もおしゃっていたが、そのなかで最大限の幸せライフを送っている。

自由奔放、はちゃめちゃな人生を送ってもそれなりに長生きで幸せな人だ。

私は、自分のやりたいことしたいこと、夢に向かって、これらのことはすべてやっている。
しかし、こういったはちゃめちゃな欲求を満たすことは怖くてできないのである。

私にとっては、彼女という生き例よりも
栄養士の栄養指導による健康への提言の方が強烈なのである。

だからそちらを選ぶのだ。

私はそんな人間なのだと思う。

つまるところは究極のところで「保守」の人間なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年12月11日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第12回 知性プログラム

ドーマン法のリハビリというと、一日中、過酷な運動を強いられる…そんなイメージがあるかと思います。この連載ではじめてお知りになった方にも、そういう印象が出来上がってしまったかもしれません。だって実際に、そうなんですもの!(笑)しかし研究所サイドのスタンスは、運動に問題がある子も無い子も、主に知性面だけに問題がある子に対しても、隔たりなくバランスのとれたプログラムを処方しているのだと道破しています。
確かに、与えられたプログラムを見てみると、大きく分けて3つに分類することができます。

①運動面 ②知性面 ③生理面(呼吸/発育/栄養)

①のプログラムに関しましては、その全てといかないまでも、これまでの連載の中でも主要プログラムはご紹介してきました。
全くこれまで、書いてこなかったものが、②と③に関するプログラムです。

②の知性プログラムというのは、文字通り知性を高めるプログラムで、今話題になっている天才児を要請する為の教材・ドーマンメゾットとして売り出されているものとほぼ同じ内容です。それプラス、同学年以上のレベルの小説を何冊以上読破すること(もちろん読書感想文付きで提出)や、数点の絵や作品を仕上げること、まだまだありますよ~ 楽器を極めること(ちなみに私はバイオリンとエレクトーンを選択)や、絵本や随筆を一冊仕上げて次の再診までには必ず持参しなければなりません。はぁ~?! スケジュール上でも、1日のうち1時間も自由時間が取れないぐらいの超過密リハビリの中で、これだけのことを要求するのは無茶というもの。ドーマン博士が尊敬なさっておられるダビンチ氏もきっと、びっくり仰天なさるでしょうよ! 考えてもみて下さい。読書にしても楽器にしても、創作活動にしても、どれも時間がかかることばかり。
おまけに地獄のトレーニングを終えて手のひらやひじ膝などは、ジュル剥けで、あちらこちらの関節は悲鳴をあげている…まさに心身ともに疲れきっている状態で、教養も知性も感性も伸びるワケないじゃありませんかぁぁぁ!
でも、こなさなければ、再診は受けられないのですから、否が応でもやらなければなりません。私は常に“運動プログラムよりはマシでしょ?!”とそう自分に言い聞かせて取り組んでいたのです。(身につく訳がありません!)それ故に、親や研究所のスタッフの目をタブラカス術だけは年々、磨きがかかっていきましたけど…(苦笑;)

「でも楽歩さん今でも読書や書くこと、それから音楽などお好きでしょ?」と、ドーマン関係者から帯せられ、今更面倒なので楽歩スマイルで誤魔化しちゃてますけど、今ここでお答えしますわ~
読書も、創作活動も、楽器の演奏も、油絵も、美術館巡りも、それから…様々な知的活動なんて、大、大、大、大、大っきらいでしたの。はっきり申し上げれば楽歩はどーしようもない不良ムスメだったのです。ワタクシにとって苦痛のなにものでもありませんでした。
何年もかけて、ドーマンの呪縛と、それから親の呪縛から解き放たれた時、ようやくワタクシは知ったのです。学ぶ楽しさ、創りだす創造性、楽器を奏でる快感。つい最近のことです。
これらすべてが自分の快感に変わった瞬間が、本当のというか、今の楽歩の誕生と言えるでしょうね!

③の生理面に関しては次回にします。お楽しみに!(大畑楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 9日 (水)

●サイテイ車掌のJR日記/また会う日まで

○月×日
 あぁ、早いこと。
 時は確実に流れ、今年も残りあと僅かとなった。
 これまでにお世話になった大勢の方々にお礼をいいたい。
 仕事でいえば、いくら乗務は一人でも、職場内の人間関係を抜きには成り立たない。
 ここまでやってこれたのは、同僚らの心ある支えがあったからに他ならない。
 ある時は励まされ、またある時は勇気をもらい、その節々で仲間のぬくもりを感じることが出来た。
 つまり、私は一人では生きていけないのだと痛感した。
 振り返れば、私は仕事一筋人間ではなかった。公私は出来る限り割り切った。どちらかといえば「私」の方に一生懸命だったかもしれない。自分の趣味の方が忙しかったように思う。
 いずれにせよ、大企業の小さな歯車となり、貢献も少しはして35年。もうこれで十分だと思っている。
 先日、退職願を出した。55才の早期退職だが、国鉄時代は皆55才で退職だったのだ。
 一足お先に失礼する。
 これから先もまだ長い。今後のことは暫く休んでゆっくり考えたい。
 ありがとう、ありがとう。皆さん、本当にありがとうございました。(斎藤典雄)

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2009年12月 7日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/女、28才、主婦(前編)

 東京都内の閑静な住宅街で生まれ育ちました。小学校までは公立だったのですが、中学からは中高一貫の進学校を自ら選びました。何故そうしたかというと、私には6才違いの妹がいて、とても可愛らしくて回りからチヤホヤされるタイプだったんですね。妹と正反対で容姿に恵まれず、人を頼るのが苦手な可愛げのない性格だった私は、物心付いた頃から「誰にも頼らず、自力で生きていかなければならない」と強く思うようになったんです。選んだ学校は、女子校ながら「女である前に、一人前の人間たれ」と自立を旨にしており、それに強く惹かれました。

 その頃は今より10キロ太っていた上に、顔中ひどいニキビでずっと皮膚科に通っていたので「ブスでデブで醜い私が、一生結婚なんかできるわけない。自分で頑張ってどうにかしなくちゃ」と思っていました。幸いにも周りの友達が、女の子であることを前面に押し出すようなタイプではなかったので、学校生活は楽しく過ごせました。腐女子などという言葉が市民権を得ていなかった頃から、同人誌を読んでいるような二次元オタクだったりもして。コミケデビューは中学2年生の時です。

 高校生になった頃、ダイエットに成功して10キロ痩せました。
 すると後姿だけはイマドキの女子高生になったので、街中で「3万でカラオケどう?」なんて、おじさんに声を掛けられることがあって。援助交際という言葉がちょうど流行っているときでした。男の人って汚い! と感じて、やっぱり一人で生きていこう、という決意を固くしました。同世代の男の子と交流を持てばまた見方も変わったんでしょうが、デートや合コンをしている人たちは自分とは完全に別世界だと思っていたので、そういう機会は全くありませんでした。

 そして受験。ずっと真面目に勉強してきたので、ストレートで日本でも五指に入る大学に入学することが出来ました。CanCamに出てくるようなキラキラした女子大生には絶対になれないから、一人の人間として勝負できるようなところに行こうと、むさ苦しいことで有名なその大学を選んだんです。昔から人に悩みを相談されることが多く、将来は臨床心理士になろうと思い文学部に進みました。しかし、学んでいくうちに、悩んでいる人に感情移入しすぎてしまう自分には向いていないと気付いて、2年次に専攻を文学に変更しました。みんなをまとめるゼミ長をやったり、研究にも懸命に取り組み、返さなくてもいい奨学金をもらえるほどの超優等生でした。授業もバイトも飲み会も全部こなして、今思えばほとんど寝ていなかったんですが、毎日が充実していて楽しいと思っていました。当時は体力があったんですね。

 さらにその頃から、急にモテるようになりました。悩みを聞いて褒めたり励ましたりするのが得意だったので、今思えばそれが男性のプライドをくすぐったんでしょうね。驚くほど多くの人に告白されました。でも、今まで恋愛に無縁な人生を送ってきていたので、なぜこんな自分が好意をもたれるのかもどう振舞っていいかも全くわからず、大パニック。うまく断れなくて結局ズタズタに傷つけてしまったり、追いつめてしまったりして、人間関係が壊れていくばかりでした。

 実際につきあった人は、いわゆる「だめんず」でした。一回り年上のおじさまで、同じ世代の男子たちにはない落ち着きのある感じと博識さに惹かれたのですが、お金のない人でした。私はバイトを三つかけもちして、彼の生活を支えていました。どの仕事もやりがいがあり、働くこと自体も面白いと思っていたので、苦ではなかったです。そして周りの人達から散々大学院に行くことをすすめられながらも、「私が働いて彼を食べさせるんだ!」と、無理矢理就職活動に入り込んでいきました。ここからです、私の人生に、明確な翳りが見え始めるのは……。(前編終わり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 6日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第36回 潜入! ペット火葬場

 「火葬場なんて、どこに頼んでもサービスは同じ」と思うだろうか?
 確かに、人間の火葬場であればある一定のサービスは受けられるかもしれない。
 しかし、発展途上のペット火葬場に限って言えば、そうとは言い切れない。

 最近、同じ区にあるペット火葬場三件を取材したり調査したが、人間の火葬場に感じる「金太郎飴」性は感じない。それぞれ個性が出ていた。

 まずA社。
 人間の火葬場の一角にあるペット火葬場。真新しく小ぎれいな印象で、職員さん方の応対も爽やかであった。「うごく火葬炉」の仕掛け(感動的に演出される)や、複雑になりがちな料金体系などをわかりやすく案内していただき、これならばお客さんの不安も取り除かれるだろうと納得した。さらに遺骨の扱いについて、ペット専用霊園や粉骨して作られるメモリアルグッズの紹介はあったが、あくまで紹介であってセールスはしない、提携しているところはないというのも好印象。送迎車の用意などがないのは残念だが、トータルサポートではなくあくまでペットの火葬のみを頼みたい、という飼い主さんには嬉しい火葬場であろう。

 次にB社。
 A社とは300メートル程度しか離れていない。こちらは炉ばかりではなく、霊園やお骨を収めるロッカーもある。霊園には塔婆がズラッと並び、回忌のたびにマメに供養がなされていることが垣間見られた。しかし、それは外側から見たときの話。見学させてくださいとお願いし、中に入ってみるとわかる乱雑さ。草ボーボーの墓があったり、苔で何も見えなくなっているものがあったり、塔婆がドミノ倒しになっていたり……。管理者にも責があるとはいえ、各墓所を掃除するのは遺族の仕事。ペットのお墓参りって、来なくなってしまうものなんだろうか。軒並み無縁仏のようで、ちょっと可哀相だった。奥にある巨大な合同墓地の香炉だけがもくもくとお線香の煙をあげていて、個別にお墓をもらった魂よりもよほど供養が行き届いているようで、矛盾を感じた。
 こちらはお骨を墓におさめるまでのロッカーが完備されているとのことで見学させていただいたが、う~ん微妙! 人間用のお骨ロッカーというと木目調の厳かなものが思い浮かぶが、ペットはみんな違うんだろうか……ズラッとならんだコインロッカーに、プールの更衣室か銭湯にいるような錯覚を覚えた。そして料金表がパンフレットに載っていない。ホームページにもない。説明を求めると案内してくれた。しかし値段表を配ることはしていない。変動する可能性があるから、というのが理由だが、世の中の商品はほとんどその可能性を孕んでいる。公開してほしいと心から思った。

次にC社。
 街中にあるペット火葬場&霊園である。ありがちな話だが、向かう途中には「ペット火葬場反対」の張り紙や垂れ幕が色んなところに貼ってあり物騒だ。取材を申し入れたが「間に合ってます」といわれる(広告を取りに来ているわけではないんだが)。住民と係争中では落ち着いて操業が出来ないだろう、と遠巻きに見ていたある日、ニュースを見て驚いた。なんと地裁から火葬炉の操業停止命令が出たという。匂いに対する住民のクレームがいざこざの発端だったというが、たとえ自治体から許可を得て建設したとしても、このような結果になるということ、思い知らされた。

同じ区内でこのような結果である。膨大なペット火葬場の中から、自分の要望にあったところを見つけるには、とにかく足を運んでみるのがよい。ネットでの情報は参考程度に、実際に見ることが肝心である。(小松)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 5日 (土)

Brendaがゆく!/毎日が、サイコーな今を精一杯生きてください。

標題のようなメッセージをいただきました。

けっこう感動してしまいました。

そうですよね・・・。

いつもサイコーな今でいっぱいいっぱいなアタクシですが。

それじゃまだたりない。

ちょうど今日はそんなことを考えながら珍しく掃除をしていてこの言葉をみてあらためて感じました。

人の人生にはいいときも悪い時もあって、様々な外的要因で不本意な生活をしなければいけない時だってある。

だからこそ、こんなにサイコーな今を精一杯楽しんで生きていないといけない。

週末はさんざん働いて、土曜の夜はデートでとてもおいしいフランス料理をいただいて。
(パリで私の納得する食事に連れて行ってくださる男性ってあまりいない!ちなみに観光客が多く集まる有名店がさいきんまったく好きではないですからアタクシ)

日曜は、また調子も悪く死んでいましたが、寝起きにお電話で、ポーランド人のマダムから「お昼食べにこない?」と。

ゴージャスなお宅で、ポーランドーフランス的な手料理をご馳走になりました。

そして、疲れている私を気遣ってくださって、リビングのソファーで数時間昼寝。笑

起きてお茶を飲みながらポーランドのケーキを食べて。

女のおしゃべりタイムでした。

マダムは、30歳ぐらい年上ですが本当によく一緒に遊んでいただいて、楽しくてしかたありません!

先週の今日はまだポーランドについて二日目だったのだな~と遠い日を思うように今はパリですが、こんなステキな日々であれば、月曜の昼から気分良く掃除をできたりもします☆

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 4日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第11回 床運動

 前回、ドーマン博士は怪我のリスクなんぞはお考えになられていないご様子だと、書きましたが、もう少し、この話題にお付き合い下さらないでしょうか?
 基本的に、どの運動プログラムについても“怪我”というリスクは顧みられていないと思われるのですが、特にそれが顕著にあらわれているプログラムが、ブレキエーションと床運動ではないでしょうか。床運動ときいて「な~んだ」と思ったそこのあなた!床でピラティスするのではなく、器械体操の一種目である、あの“床運動”ですョ。といっても、さすがにしんしん宙返りなんぞの大技は強いられませんでしたが…。

 男子と違って、女子は音楽に合わせて演技できるでしょう。実際の器械体操の床も!!
 本番では(ドーマン博士や治療を受けてる家族の前で披露する機会が再診の時に与えられる)キレイなレオタードも着れるし、そういう意味では、若干ブレキエーションより気は晴れましたけど。
 まず練習するのは、前転/後転にはじまり、ブリッジ、V字座り、Y字バランス、三転倒立、飛び込み前転、開脚前転/後転、側転…。
 ちなみに側転は、何年たっても一人ではできませんでした。できないといっても、一日に何百回とサポート付きで練習するのです。

 擦り傷や筋肉痛などの騒ぎではありません!
 軟骨がすり減り、靭帯が伸び切り、関節が悲鳴をあげていたことは、今更みなさまに語るまでもありませんね!
 ブレキエーションでもそうですが、普通の子どもなら、よっぽどの落ち方をしない限り、落下は、それほど危険なことではありません。本能的に衝撃が一番少なく安全な方法で着地ができるからです。しかも正常な脳の持ち主ならば、繰り返し行うことによってより高度でより安全で俊敏な対応ができるようになるでしょう。
 しかしながら脳性麻痺者には、基本的にここの機能がぶっ壊れているので、いくらそういう状況に追い込んだって、そんな能力は待てど暮らせど発揮されません! 第一ちょっとの段差を越えたり降りたりする時に、膝を曲げなきゃ体中にあのイヤ~な衝撃が走るとわかっているのに、ピーンと膝を伸ばしたまま足を地面につけてしまうというのに、とっさの緊急事態に対応できるわけがありません!!この状況で繰り返しても能力が高まるどころか増えていくのは怪我だらけの身体のみ。(笑)
 でも両親は楽歩の訴えよりも≪機能が構造を決定する≫という博士のいうことを信じてつっぱしちゃったんですね~

 両親の目に私は、いつも「怖がりで痛がりのビビリ」という風にしか映っていなかったんでしょう。年功序列、あるいは親と子なんて、時としてこんなにも、理不尽なモノなのです。そんな私も親の立場になった今、最もこのことを肝に刻みつけて日々自分に問いただして子育てに臨んでいるところなのですが…(苦笑;)
 それでも、いつか…いつの日か息子に告られちゃう日が来るんでしょうか。
「あの時はよくも~上から目線でコノヤロー!俺のおやつ奪いやがって!!」ってね( ´艸`)
(大畑楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 3日 (木)

●ホームレス自らを語る 第46回 クモ膜下出血で倒れて/木村秀徳さん(仮名・60歳)

 42歳の夏のことだった。その日は仕事が休みで、海で磯釣りをしていたんだ。そのころは八丈島に住んでいたから、休みの日にはよく磯釣りに出た。シマアジとかヒラマサとかが釣れて、ヒラマサは1メートル以上の大物が釣れることもあったからな。
 その日、磯で釣り糸を垂れていると、急に後頭部に頭痛が起こってね。それがどんどん痛みを増していくんだ。めまいや吐き気もして釣りどころじゃない。這うようにして家まで帰り、女房に救急車を呼ぶように言って、そこで意識が切れた。
 オレの身体は救急車で町立病院に運ばれたが、町の病院の設備では手に負えない状態だったらしい。すぐにヘリコプターに乗せられて、東京の病院に搬送され、そこで手術を受けた。クモ膜下出血で頭蓋骨を開頭する大手術だったようだ。もちろん、当人のオレは何も覚えてはいない。あとで女房から聞いた話だけどね。
 手術のあと病院に半年間入院して、それから石和(山梨県)の病院で1ヶ月間のリハビリ訓練を受けて退院した。だけど、身体の右半分が麻痺でまったく動かせなくなった。働くことのできない身体になったわけだ。

  「もう、私たち別れましょう」

 そう言い出したのは女房のほうだ。半身不随の後遺症を抱えたオレとは、いっしょにいたくなかったんだろう。女房とは15年間の結婚生活だった。八丈島を出て、とりあえず東京に向かったが、行くあてもないからね。上野公園に行って、プータローの仲間入りをするしかなかった。それから20年近くもプーの暮らしを続けているよ。

 オレが生を受けたのは昭和19年、青森県弘前市だった。歴史のある古い街で、弘前城とその桜が有名だよね。ゴールデンウィークに満開を迎える桜はみごとだった。その桜が終わるとリンゴの花が満開になって、その花の向こうに岩木山が聳えるという景色だ。
 家は農家で、米作を中心に田圃を1町歩(約9900平方メートル)ばかり耕作していた。
 オレは8人兄弟の末っ子だったから、家族からはずいぶん可愛いがられて育った。子どものころは腕白坊主でね。近所の子どもたちと神社の境内に繰り出しては、チャンバラをしたり、大木にロープをかけてブランコにして遊んだりしたもんだ。
 中学を出ると、弘前市内の左官の親方に弟子入りをして見習いになった。昭和34年のことで、そのときの見習いの日当は 200円。修行が辛いと思ったことはなかったな。見習い期間5年間で、20歳のときに一本立ちの左官になった。途端に日当が3000円になって、びっくりしたのを覚えている。
 そのころの左官の仕事といえば、町屋(一般住宅)の壁塗りの仕事がほとんどだった。当時はモルタル仕上げの壁が流行り始めたころで、来る日も来る日もモルタルを練っては、それを壁塗りしていたような気がするな。
 ただ、弘前の冬は寒さが厳しいだろう。モルタルを塗っても、寒さでヒビ割れてしまう。だから、左官の仕事は、冬は休みになった。
 それで冬になると出稼ぎに出た。北海道の札幌に渡って、日雇いの仕事で働いたんだ。札幌には女遊びのできるところがあるだろう。冬の出稼ぎは、それが愉しみだった。弘前にはそういう場所がなかったからね。
 そのうちに車の運転免許を取って、冬は建材を運ぶトラックの運転手をするようになった。そう、弘前で……だから、冬の女遊びはできなくなった(笑)。
 25か、26歳のときに左官の仕事をやめた。左官の仲間や先輩に性格の合わないのがいて、何となくイヤになったんだな。表立って意地悪されたとか、ケンカになったとかではなくて、それこそ何となくイヤになったんだ。
 それで八丈島の土木会社に就職した。八丈島も、土木会社も、とくに意味はない。たまたまそこで募集していて、応じたら採用されただけの話だ。そこではユンボ(油圧ショベル)のオペレーターをした。その操作免許を持っていたからね。オレの操作はうまいもんだったよ。
 そこで働いているときに結婚した。オレが27か、28歳のときで、相手の女性は3つ年上だった。彼女はセメントミキサー車のドライバーをしていて、そのころ女でミキサー車を転がしているのはいなかったからね。彼女は小柄だったのに、根性でがんばっていた。その男勝りの凛々しさに惚れたんだな。

 彼女のほうは、オレの真面目な性格と、ユンボを巧みに操る腕前に惚れたらしい。いまはこうして半身不随になっちまったけど、元気だったころのオレは、ユンボを扱わせたら誰にも負けなかったからね。見せてやりたかったよ。
 結婚してからも、オレはユンボのオペレーター、女房はミキサー車のドライバーの共働きで稼いだ。だから、収入的にはよかったよ。毎年のゴールデンウィークには、女房を弘前に連れて帰った。その時期ちょうど桜が満開になるからね。
 それもこれもオレのクモ膜下出血で、みんなフイになっちまったわけだ。夫婦に子どもがなかったことだけが幸いだったと思う。
 最初、上野公園で始めたプータローだが、この浅草に移ってきたのは8年前だ。いや、大した意味はない。浅草に古いヤクザ映画を見に来て、上野に帰るのが面倒臭くなって居着いちまったんだ。
 こんな身体だから役所の世話になれるらしいんだけど、世話にはなりたくないな。いよいよ動けなくなるまで、このままプータローを続けていたいよ。(2005年4月取材 聞き手:神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 2日 (水)

毎日新聞が共同通信および加盟社と包括提携へ

私が入社したばかりの埼玉県警記者クラブの毎日新聞のブースにはファクスがなかった。共同にはあった。共同へ加盟している産経や東京は使わせてもらっていたけど毎日はダメ。「いいなあ」と素朴にうらやましかった。
そのころから記者のなかでは「共同から配信を受けて毎日は調査報道に徹し、日本一のクオリティ・ペーパーをめざしたらどうか」というアイデアがあった。そのような発想は1977年の経営危機以来、大なり小なりあったに違いない。となると今回の「包括提携」はやっとの実現である。大きな壁となっていた「三大紙=国内ニュースは自前でカバー」とのプライドをかなぐり捨てたのだ。私はいいことだと思う。
「包括提携」は毎日記事によると次の2点が大きい。

①共同通信社加盟社である地方紙の一部から記事配信を受ける
このうち「一部」というのが気になる。文字通り地方紙からドカンと配信されるならば地方支局はほぼ必要ない。すると新人記者のファームでもある地方支局の価値が問われよう。逆に文字通り「一部」で実際には共同通信の支局からの配信のみとしたら支局の仕事はほとんど変わらない。腐っても鯛で地方取材網は毎日が共同を圧倒しているからだ

②10年4月1日、共同通信社に加盟する
これについて毎日の説明は「本社の記者は独自の視点で取材を進め、強みとしてきた調査報道や解説記事をより充実させる」「新聞社の役割は水面下に隠れた情報の発掘や解説記事にシフトしている。本社は、できるだけ多くの記者をこうした取材にあてるため、両者と協議を進めてきた」とする。概念としては理解できる。インターネットの普及と新着記事を次々と無料でアップする(これは大変な愚策である)今の新聞社の姿勢から考えるに「総論賛成」である。もはや新聞から速報性は消えた。できることがあるとすれば権力の監視であり、その観点から「水面下に隠れた情報の発掘や解説記事」が生まれるならば一騎当千の毎日記者の面目躍如となろう。
ただし問題が2つ。一つはバカ高い年間契約料をどうするかだ。当然リストラかと思いきやそれはしないという。読売の渡辺恒雄社長(当時)がかつて値下げ要求を却下されたのに対して共同脱退をちらつかせたこともあった。系列の日本テレビは06年、共同から脱退している。それほどのコストをどう工面するのか。
二つめは「水面下に隠れた情報の発掘や解説記事」は記者が思うほど売り上げにつながらない点。といってそれまでネットで無料配信したら元の木阿弥である。

そこで私のアイデアを。こうなったらいっそのこと共同通信を乗っ取ればいいのだ。共同の年間契約料はどう考えても高い。そして毎日の国内取材力は共同と遜色がない。「ひさしを貸して母屋を乗っ取る」よろしく当初は地方紙の「一部」と共同配信を受けての調査報道をしておき、段々に地方紙の信頼を得て、今度は毎日から配信してあげればいいのだ。むろん共同よりずっと安く。幸か不幸か毎日の部数は低迷しているので地方紙に毎日と同じ記事が出てもクレームなどは起きにくい。地方紙側とすれば一定のクオリティーが保たれていれば共同配信だろうと毎日配信だろうと構わないはずだ。こうした胸にいちもつの作戦だとしたら至極愉快なのだけど(編集長)

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年12月 1日 (火)

アフガン終わりなき戦場/第26回 カブールの民家で(2)

 やにわに、ヘリのローター音が背後から巨大な音量で聞こえた。
 僕は振り向かないうちから、それが戦闘ヘリのアパッチだと感じた。
 アパッチは窓の外を、菩提樹の木をなぎ倒して、家のすぐそば地上1メートルをホバリングしている。暴力的なローター音が巨大な肉食獣のうなり声を連想させた。そのクジラのような巨体の先端には機関砲がぶら下がっている。
 その銃口は間違いなく私たちに向けれれていた。
 機関砲がババババと銃弾を発射した。
 窓ガラスが割れる音と同時に、視界が砂埃で遮られた。鼻孔に破壊された日干し煉瓦の粉塵が飛び込んでくる。
 僕は頭を抱えて、ソファーの上でうずくまっている。床に伏せたいが、体が硬直して動かない。頭が考えることを拒否し、脳が動くなと体に信号を出している。
 20秒ほど銃撃が続き、次にはあつらえた様な沈黙が訪れた。何も聞こえない。近距離で銃撃音を聞いたので耳が馬鹿になってしまったようだ。
 粉塵が重力に引かれて地上に落ちてくると、視界がだんだんと回復してきた。
 けれど、まだはっきりとは見えない。3人の女たちは無事のようだ。咳をしたり、目を手でゴシゴシとこすっている。上司は伏せていた床からもそもそと起きだし、ソファーに座りなおしていた。
 バンと右端の女性の後ろにあるドアが蹴破られた。ドアが床に倒れ、また粉塵があがる。
 塵が外部に吸い込まれるのと入れ違うように身を低くしながら、5人の兵士たちが素早く部屋の中に入ってきた。
 兵士たちの顔は濃い色の入ったゴーグルと、防塵用のマスクで覆われている。迷彩服の上に迷彩色の防弾チョッキを着、皆手にはM16ライフルを両手で抱えている。
 どの兵士もどのような顔をしているか分からない。ただ、巨大な体躯と手に持った銃が確実に残忍な方向性を持った物体であるということだけを僕に認識させた。
 兵士たちは壁にあるタンスをひっくり返し、またドアを蹴破り他の部屋に入っていった。部屋中の物という物が床にぶちまけられた。瓦礫の上に赤や黄色の服が放り投げられていく。時計が叩きつけられるように床に投げられ、電池がそこからはじけ飛ぶ。
 こいつらはテロリストを捜索している。
 次に、兵士たちがとった行動は僕にとって予想できるものだった。
 左端の若い女を一人の兵士がライフルで撃った。狙いもつけずに、道端の石ころでも蹴飛ばすような素振りで、限りなく自然に頭部を打ち抜いた。
 女はソファーから転げ落ち、床に体躯を広げた。
 血が円状に床にぬるりと広がっていく。とても濃い血。画材店で赤の絵の具の棚の一番右に並んでいるような濃い赤だ。
 もう一人の若い女も撃たれた。床にどさりと大きな音を立てて倒れる。ヘジャブが真っ赤に濡れている。ピクリピクリと手と足が動いている。
 そこに、兵士がもう一撃を頭部に加えた。脳からの信号が絶たれ、彼女は動かなくなった。
 僕は絶望的な気分で上司の手を握った。誰かの手を握るなり、抱きつくなりしなければ気が狂いそうだった。
 上司の顔を見ると、緊張は浮かんでいるが、平静さを装った顔が見て取れた。僕の手は汗で湿っていたが、上司の手は冷たく乾いていた。

「大丈夫だ。連中がジャーナリストを殺すことはない。じっとしていろ」
 
 僕は、服の中に入れてある記者証をまさぐった。大丈夫だ。これがあれば僕は殺されない。これさえ服の上に出しておけば、撃たれることはない。僕は誰にも悟られないようにゆっくりとした動きで、首から下げてある記者証を服の下から上に出そうとした。
 けれど、襟元のボタンをしめているせいか、いっかな服の上に出てきてくれない。これを出さないと次に打たれるのは僕だ。殺された女たちのことなどもう頭にない。僕はただただ狭い襟元から記者証を出すことに集中した。
 ふと左端の年老いた女と目があった。
 そこには真っ赤な憎悪の色が浮かんでいた。彼女の親類を殺した兵士たちではなく、一直線にその怒りと蔑みは向けられていた。これまでに一度も見たことがない、強い殺意を抱いた視線だ。
 僕は大声で叫んだ。
 
 僕はポーランド、クラクフの安ホテルの上で覚醒した。実際に大声をあげていたのだろう、薄っぺらい壁を叩きながら「うるせえ!」と言っている男の怒声が聞こえた。
 ベッドライトをつけると、自分の服がびっしょりと汗で濡れているのが分かった。よほど暴れたらしく、枕はベッドから2メートルも離れたところに飛ばされていた。
 フロイト学派の精神分析をしている人に申し訳ないほど、僕は夢を見ない。見ても年に1度か2度だ。だから、却ってこの夢は長く僕を苛んだ。
 アウシュビッツもマイダネックででも、うわの空だった。
 この夢から引き出されるのは、僕が「ジャーナリスト」として自分を特権化している、ということに尽きるのだろう。
 以前、先輩のジャーナリストにこう言われたことがある。
「ジャーナリストはあくまでも観察者。起きている出来事を正確に観察できればいい」
 
 観察者。
 
 僕は観察者なのだろうか。
 確かに僕がやってきたことといえば、アフガニスタンに行って見たことを下手な文章にして、たまにテレビでしたり顔で喋るくらいだ。
「ジャーナリズム」などとお題目を掲げても、今まで一人だってこの手で救えたことがあったのだろうか。
 たぶん無い。
 今後も無い。
 目の前で誰が殺されようと、記者証を免罪符のように掲げて、私はジャーナリストだ。見ているだけだ。観察しているだけだ。撃つんじゃない。責任問題になるぞ。とでも言うのだろうか。

 僕は夢の中だけででも、アフガン人たちと一緒に殺されるべきだった。

 もう2年も前になるが、講演会の後に、その主催者から出席者の感想文をもらったことがある。
 その中の一枚、こんなのが入っていた。
 
「人の不幸を食い物にしやがって。バカ野郎」

 僕は前回の取材で初めて自爆攻撃の現場に遭遇した。
 4階建ての解体中のビルで、二人が自爆。一人が自爆したほうがマシだと思うくらい殴られて警察に連行された。
 自爆した部屋では、血が床にバケツをぶちまけたように広がっていた。肉片が天井や壁にこびりついていた。
 僕はそれをカメラに収めることに集中し、現場を走り回った。他の記者たちに遅れまいと走り回ってインタビューをとった。
 けれど、そこに血の匂いを嗅ぎとることはできなかった。
 人がそこで死んだという事実を少しも肌で感じることができなかった。
 死んだ人も、殺そうとした人も、僕にとっては取材対象という、まるで食べられることが当たり前のようにテーブルに載っているステーキくらいにしか感じなかった。
 もし、人に人間として必要な何かを感じる、という臓器があるのなら、僕のそれは重大な疾患にかかり、機能を停止しているのかもしれない。いや、もう手術でその腐ってただれた臓器は取り除かれてしまっているのかもしれない。

 この仕事を続ける限り、僕は、たぶん、こんなことを考えながら取材をするんだと思う。
 僕は来年早々またアフガニスタンに行く。
 真冬のマイナス20度に達するカブールで難民たちを訪ねる旅だ。

 きっとまたあんな夢をみるんだろうな。
 そんな予感がしてならない。(白川徹)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »