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2009年12月15日 (火)

ホームレス自らを語る 第47回 記憶喪失の果てに・前編/原幸子さん(仮名・73歳)

 私の記憶には子どものころの記憶が欠けているんです。のちに大人になってから、生き別れになっていた姉と再会するんですが、その姉から聞いた生い立ちと合わせて、思い出すままに私の生涯を話してみます。

 生まれは昭和6年、群馬県の磯辺という村(現安中市)でした。上に兄と姉がいて、私が2歳か、3歳までは何不自由なく育ったようです。ところが、そのころ両親が病気でたて続けに亡くなってしまうんですね。どんな病気だったのか、よく分かりません。
 それで私たち子ども3人は、それぞれ別々の親戚に引き取られたようです。私は安中市にあった母の実家に引き取られ、伯父夫婦に育てられました。伯父夫婦はとてもいい人たちで、わたしのことをとても可愛がってくれたようですよ。
 そのうちに東京の赤羽に母の妹(叔母)がいて、私のことを育てたいと申し出てきたようです。実の母親と血の繋がった女姉妹が育てたほうが、この子のためにはいいと言ってきたようです。
 それで赤羽の叔母の家にもらわれてきます。ところが、この叔母が鬼のような女だったんです。赤羽のその家には6人もの子どもがいて、私はその子守役にもらわれてきただけでした。それからは子守の毎日で、学校にも行けないありさまでしたね。
 それに叔母の折檻がひどくて、毎日のように難癖をつけられては竹竿で叩かれました。竹竿が割れるまで叩かれたようです。折檻のあった日は食事も抜かれ、安中にいたころは丸々としていた私が見る影もなく痩せさらばえていたようです。
 それを見兼ねて、隣の家の人が叔母にないしょで、オニギリを食べさせてくれたそうです。戦争中で食料事情の悪いときに、そんな親切をしてくれたのも、叔母の仕打ちがあまりにもひどかったからのようです。
 空襲の焼夷弾が降るなかを、子どもをおぶらされて、両手に引いて泣きながら逃げ惑うこともあったようです。
 じつは、この叔母の家にいたころの記憶はまったくありません。叔母の折檻に怯え、空襲に怯える毎日で、人間はひどい恐怖の体験をすると、それを記憶から消してしまうことがあるそうですが、私もそうだったようです。

 やがて戦争が終わり、しばらくして叔母の家を逃げ出します。姉が横浜にいることがわかって、その姉をたよって行ったんです。
 ところが、せっかく訪ねて何年ぶりかで会ったというのに、姉は私を追い返したんですよ。私にはショックだったですね。血を分けた実の姉に拒否されるなんて思いもよらないですからね。すごくショックでした。
 まあ、姉の気持ちも分からなくはないです。そのとき姉は16歳か、17歳で、敗戦の混乱のなかを自分1人で食べていくのがやっとのところに、妹に転がり込まれたら迷惑なだけですからね。気持ちは分かるんですけどね。
 私は行き場をなくして、横浜の公園で野宿をしていた人たちの群れに加わりました。そのころは戦災で家を失ったりして、野宿している人がたくさんいましたからね。
 ただ、そんななかでも14歳の少女が1人で野宿するのはめずらしく、しかも栄養失調がひどくて骨と皮の状態でしたから、いやでも目立ちますよね。同じところで野宿をしていた中年の女性が、「この子を何とかしてやって」と進駐軍の兵隊さんにかけ合ってくれたんですね。
 それで私はミッション系の女学校S学園の施設で、箱根にあった山の家のようなところに収容されました。まだ、孤児院ができていなかったのか、あっても満員で入れなかったんでしょうね。山の家には修道女の人たちが幾人かいて、その人たちが面倒をみてくれました。そこでの気憶も曖昧なんです。私は栄養失調のほかに、いろんな病気を併発させていましたから、栄養を取りながらひたすら寝て養生する生活だったからかもしれません。
 山の家で1年でしたか、2年でしたか世話になっているうちに元気を回復して、そこを出されました。それで孤児院か、感化院のようなところに送られます。でも、私はそこがイヤでしてね。送られてすぐに脱走を図りました。最初のときはすぐに見つけられてしまいますが、2度目は成功して横浜の修道院に駆け込みました。
 ただ、修道院に子どもを置くわけにはいかないとかで、千葉県の旭町(現在は市)の病院が紹介されて移されます。海辺にあった大きな病院で、そうそうサナトリウムとかいいましたね。そこに入院しました。まだ療養が必要だったんですね。費用は日赤(日本赤十字社)が面倒みてくれたと思います。
 看護婦の婦長さんがとても親切でしてね。着るものがないといえば、家から古着を持ってきてくれるし、植物を育てる愉しさを教えてくれ、サボテンの苗をくれました。晴れた日にはみんなで海辺に出て日光浴をしたり、私の人生で一番幸せなときだったでしょうね。ほとんど健康を回復してからの療養でしたから楽しいくらいでした。

 そのサナトリウムには5、6年いたと思います。すっかり健康を回復して退院しました。でも、退院をしても私には行くところがありませんからね。とりあえず東京に出て、九段にあった例のS学園の本校を訪ねていったんです。そこで箱根の山の家の件などの事情を話しますと、ちょうど空きがあるとかで、給食の賄いに雇ってくれました。
 戦後も7年くらいたって、昭和27年ころだったでしょうか。それが正確なら、私は21歳ということになります。(2005年2月取材 聞き手:神戸幸夫)

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受信: 2009年12月15日 (火) 17時17分

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