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2009年11月

2009年11月30日 (月)

大好評大河連載第5回 太陽であり月であり母であり父である、1000年に1人の天才的宗教詩人戦略家と、同時代の空気を吸える事の比類なき幸福に涙して…!!

Pumpkin11_2   『pumpkin』(潮出版)と聞いて、白夜書房が80年代後半に出していた、わたなべわたるが表紙担当のロリコン漫画誌、『パンプキン』を連想した奴はいいオッサン。表記こそ異なったが後発誌のため、エロの側が改題せざるを得なかったと記憶。

 本家、11月号の特集は、“[幸福になる脳]の作り方”。背も表紙もこれがトップ扱い。絶対に変。池田名誉会長の新連載対談、「母への讃歌」がスタートしてるのだ。当然ダントツのメインとすべき。衆議院選挙大敗以降の聖教新聞社、潮出版社の編集姿勢は大いに問題だ。腰が引けまくっている。何にそんなにおびえる?名誉会長の80周年祝賀の心打つ傑作和歌、“全世界 広宣流布の 雄叫(おたけ)びは 輝く太陽 昇(のぼ)らむ姿(すがた)と”を、10回声に出して詠んでみよ。小沢一郎や石井一、田中康夫ごとき外道政治家を過大評価、今の自分の地位にしがみつこうという、醜い己の姿がまぶたに浮かぶはずだ。異体同心の教えを忘却した姿勢で、“全人類の幸福に捧げた生涯”と、つい最近も米国デイトン市から名誉市民証を贈られた、名誉会長に恩が返せるのか!?(けど、オハイオ州にこんな市があったなんて初耳…。我が居住地、群馬県富岡市レベルの田舎街?『聖教新聞』11月18日付け)。

Pumpkin2  第1回対談相手の、ショボい経歴も不満の極み。サーラ・ワイダーなる米国の婆さんで、エマソン協会前会長と。??? 80過ぎても現役でバリバリ活躍する我らの偉大な師が、貴重な時間をさくべき相手か?『三国志』のヒーロー曹操が(戦略家兼詩人だったトコも、名誉会長そっくり!)、婚活サギ疑惑の木嶋佳苗を相手にするに等しい。潮出版社幹部の精神構造は一体!?“師弟不ニ(ふに) あらゆる難関(なんかん) 乗(の)り越(こ)えて 笑(え)み満面の 同志の輝(かがや)き”。名誉会長のもうひとつの祝賀の和歌を、30回は声に出して詠み、地獄への永遠の敗走を続ける日顕一派と、同じ下り専門エレベーターに乗らぬよう、今から真剣に心せよ。

 しかし、1000年に1人の天才は恐ろしい。かくなる忘恩の徒に囲まれながら、名誉会長は耐え続ける。凡人、いや常人なら烈火のごとく怒る。「私を誰と心得る!? 全世界から4000の顕彰を受けた、SGI会長の池田大作なるぞっ!!!」名誉会長は違う。代わりに書くかのようにつぶやく。“そのエマソン研究(けんきゅう)の泰斗(たいと)であり、高名(こうめい)な詩人(しじん)にして、人間教育者(にんげんきょういくしゃ)であられる、ワイダー博士(はかせ)と、このように対談(たいだん)を開始することができました。これほどの喜(よろこ)びはありません”。見よ、あの完勝峰に達した、1000年に1人の者のみが持つこの謙虚さ。山麓をウロつくのみの我らが、師の足跡に近づける日は一体いつ?

 名誉会長の言葉に甘え切ったサイダー婆さん、母親自慢を井戸端会議風にペラペラペラ。会長だって、少なくとも生物学的には人間だ。腹の中では怒りで煮えたぎってるはず。しかし、これっぽっちものぞかせない(現場に立ち会った訳ではないが、行間から推測可能)。図に乗ったサイババ(“サイダー婆さん”の略)、“母に抱(だ)きしめられると、私はいつも心地(ここち)よく感じたものです。どんなことでも、私の感じてることをすぐに感じ取ってくれたからです”と、小学生の母の日の課題作文並の駄弁を弄す。筆者ならナタで6個にサイババの体を分離、返り血で全身を朱に染め盆踊りしてる下りだ。だが名誉会長は、凡人にこそいよいよ優しい(天才共通のモラルか?)。

“私は、「偉大なる尊(とうと)き母の交響楽(こうきょうがく)」と題する長編詩(ちょうへんし)を詠(よ)んだことがあります。/その中で綴(つづ)った一節(いっせつ)が、博士とお母様の麗(うるわ)しい絆(きずな)に重(かさ)なってくる思いがするのです。/「母は太陽である。/ 何より明るい。/母は大地(だいち)である。/限(かぎ)りなく豊(ゆた)かだ。/母は幸運の旗(はた)である。/いつも朗(ほが)らかに/頭(こうべ)を上げて胸を張(は)る」”(90P)。

 さすがはあの世で文豪ゲーテが青ざめ、萩原朔太郎が瞬時に跪いたと言われる、名誉会長の詩的イマジネーション。朗読を繰り返すだけでは満足出来ずに、筆写してしまった(しかも3回!)。驚くべき事に、1回ごとに新たな発見が。名誉会長の日本詩壇における偉業に対し、なぜH氏賞が与えられないのかっ!?ノーベル文学賞は必ずや近く授与されるだろうが、その前に全国の良心的詩人が立ち上がり、日顕一派の文化的野望を打ち砕く、詩人としての勇気を見せて欲しい。

「へっへっへっへっ。“母は太陽である”だと? ひでえパクりだ。平塚らいてうの『元始、女性は太陽であった』を並べ換えただけ。太々しい爺様だ。“母は大地である”“限りなく豊かだ”?バッカじゃねえの?女は産めよ増やせのイモ畑かよ。そういや昔、大人にまじってバス旅行に行くと、酔っぱらったオッサン共が、スケベな歌うたってたっけ。“ゆ~べ母ちゃんと~寝た~時に~足~にさわった~穴がある~♪母ちゃんこの穴~何の穴~♪坊や~良く~聞け~その穴は~お前が通った~トンネルだ~っ♪”とかな。グヘヘヘへ…。1000年に1人の天才的宗教詩人が、盗作まがいの真似したり、女性をイモ畑扱いしていんかよ、ええ?」

 突然我が事務所に顔を出した、知人のフリーライターは真っ昼間から酩酊。底なし不況の出版界で、仕事の激減どころか、倒産、廃刊でギャラのもらいっぱぐれもザラと。我が師への暴言は断固許し難いが、こういう弱い人間を見捨てない友情も、名誉会長の教えの一つだ。しかし、凡人が天才の生き方に学ぶのが、こんなにつらいとは…。「母も太陽も、大作にとっちゃ全部自分のこったよ!おい!ビールはねえのか?」
“あな嬉(うれ)し 創立記念日 祝賀せむ 一千万の 同志は万歳(ばんざい)”
(名誉会長の祝賀の和歌より)酔いどれ者も、慈悲の祈りでいつかは我らの隊列に!!(塩山芳明)

■塩山芳明…雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

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2009年11月29日 (日)

ロシアの横暴/第29回 メディアが取り上げないゴルバチョフの実像(下)

 このインタビュー記事は最後にとてもわかりにくい氏の発言でしめくくってある。「ロシアと欧州の対立を許してはならない。その対立はすべて悪い方向に向かわせる」とある。うがった見方をすれば現在西欧がロシアに対して抱いている何か――人権問題が一番おおきい――を呑み込んで、ことを荒立てるな、というわけだ。たとえば2年近く前、コソボ自治州の独立をEUが認めたことで、ロシアが殺気立ったことがある。このように今のロシアはゴルバチョフのソ連とちがうから、刺激しないほうがいいよ、ともとれる。
 とどのつまり、欧州を安全にしておきたかったらロシアのうろこを逆さになでるようなことはせず、持ち上げておけ、ということだ。
 このインタビュー記事をどう解釈しようとそれは読者の勝手である。だが、アメリカのイラクやアフガン介入などにうんざりしている平和主義者が(平和主義でなくとも)「不介入」の3文字を見ただけで躍り上がってはならないことも暗示している。
 ゴルバチョフは昨年8月のグルジア戦争のとき、グルジアなど徹底的にやっつけろ、と言った張本人だからだ。(川上なつ) 

 ソ連の政権交代は常に前政権の批判で始まる。スターリンが死んでフルシチョフに交代すると「スターリン批判」、そのフルシチョフが失脚すると「フルシチョフ批判」。ブレジネフが死ぬと「停滞批判」でゴルバチョフが登場した。停滞批判のついでに「覇権主義批判」も持ち出して、それを「今後は干渉しない」宣言にして人気とりをしつつ責任逃れをしたことになる。前任者のだれもがみんな「民族自決」と看板に掲げながら東欧を支配してきたが、ゴルバチョフのソ連はちがう、というわけだ。
 聞こえはいいが、ゴルバチョフは「民族自決」を表看板にして冷戦終結後の混乱に巻き込まれた人々を見殺しにしたのである。もっとも欧州は欧州でゴルバチョフを持ち上げ、「民主化」の美名に隠れて西欧圏拡大のために流血を黙認してきた。東欧の民主化は民主化とは程遠い形態をとってなされたことになる。
 実はゴルバチョフ改革にはいいこともあった。グラスノスチという情報公開だ。このおかげでスターリンの粛清で行方不明になっていた人々の情報が明らかになった。シベリア抑留日本軍捕虜の詳細がわかったのもこのころである。だがこうした評価もバルト地方やカフカス地方への軍事介入でチャラになってしまった。

 自国の民族紛争には介入するが、東欧の民族紛争は「自分たちの運命は自分たちで」と何があっても不干渉の立場をとった。そのせいかどうかは知らないが、ルーマニアのチュウシェスク大統領夫妻は暴徒化した民衆に銃殺された。撃ち合いに巻き込まれたのではなく、暴徒による公開処刑だった。ユーゴスラビアはその後長い間「東西熱戦」の戦場になり、多くの血が流されることとなった。
 これを「長い間おこなわれてきたことのプロセスの一部」というのなら、そして「一度も介入しなかったのが誇り」というのならもう何をかいわんやである。東欧からの報復が怖かったのか、西欧での人気を維持したかったのか、はたまた「自分はいつでも正しい主義」なのか、すべてを「前任者のやったこと」で片づけてしまったのだ。(川上なつ) 

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2009年11月28日 (土)

鎌田慧の現代を斬る/日米の進むべき道とトヨタのマンモス化

 米国のチェンジと日本の政権交代の結果、11月中旬、オバマ大統領と鳩山由紀夫首相の日米首脳会談がおこなわれた。未来志向の日米関係を築くのが目的の会談だったようだが、両者の意見は必ずしも一致したわけではない。
 鳩山首相が掲げたのは、「東アジア共同体」構想だった。オバマ大統領は「米国は環太平洋の一国だとはっきり申し上げた。アジアと米国の将来は運命共同体だ」と会談後の記者会見で語ったそうだが、「東アジア共同体」については直接触れなかったという。そこに温度差はある。
 しかし米国がアジアを重視にむかっていることは間違いない。中国は米国の輸出入を支える存在であるだけでなく、世界最大の米国債買い入れ国でもあり、いまや米国経済にとって欠かせない存在となった。また米国製品の消費地としてのアジア諸国は無視できない。
 問題は、影響力が落ちつつある太平洋地域で、米国がさらに覇権の強化を目指しているのかどうかだ。基本的にアジアのことは、アジアの国々で独力やっていくべきであり、いままでのような米の覇権主義では困る。一方、鳩山首相は記者会見で「東アジア共同体を構想しているのは日米同盟が基軸にあるからこそだ」と米国に語っているが、米国の覇権の象徴ともいうべき日米安保条約と基地の再縮減を基軸に東アジア共同体を考えているようだから、もう時代は変ったはずだ、といいたい。

全文は→「0912.pdf」をダウンロード

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2009年11月27日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第10回 ブレキエーション

 ドーマン法を取り組むにあたって、まず用意しなければならないものといえば、パターニング台とブレキエーション(うんてい)でしょう。(もっと重症児には、ブレキエーション以前に、寝返り防止器や滑り台のような形をしている傾斜版と呼ばれる道具が必要)
このブレキエーションは、死ぬほど嫌いなプログラムの一つでした。介助なしで一人で渡れるようになるまで、半年ほどかかりましたし、できるようになってからも怪我のリスクが常に伴う非常にハイリスクなプログラムでした。(実際、骨折までしたのに、このプログラムが危険だってことに全然目がいかない両親…やれやれ;)だいたいウンテイなんて遊具はだれがアミダシタノヨ~責任者でてこい!って毎晩呪ってたぐらいですから(笑)
 ドーマン博士は、ワタクシが思うに、どのプログラムメニューを開発するにおいても、怪我のリスクなんぞは眼中にないご様子。(笑)
 きっと“怪我”ぐらいは、ほっときゃ治るという感覚なのでしょう。
 この考え方自体、少々野性的すぎますが、まぁ捉え方によっちゃ、健常児の育て方としては応用できそうですが、身体障害児にそれを適応させるのは…やっぱり無茶だと思います! 確かに骨折した骨は、わずか数カ月でくっつきましたが、落下の度に捻挫や打撲を何百回と繰り返した結果、足首の靭帯は伸び切り、その結果、未だに寒くなる度にうずきます。(墓場まで持っていきますよ!! イッヒヒ)

 また靭帯が伸び切っちゃってるので、挫きやすく→ちょっと挫くと伸びきった靭帯は保護の役目を果たせず→即、骨折に行きついちゃうというリスクを背負いながら、手足に上手く指示を出せない脳性麻痺者をやってるのはキツイものがあるんですけど…。

ちなみにブレキエーションがおりなす効果は、
① 斜視が改善される(なんらかのダメージを脳に受けた場合の多くは斜視になるとドーマン博士は述べていた)これはバーからバーへと渡る際、次のバーを必死で見るのでおのずと改善されていくということ。
② 呼吸が改善される(脳障害児の多くは何らかの呼吸の問題を抱えているとドーマン博士)

 なぜならば、バーを一つ飛ばしで渡っていくことで、胸が大きく開き、それによって肩幅も広くなっていき、吸える量が大きく変わってくるからというもの。また博士は、肋骨は天然のコルセットであり薄い胸では深い呼吸ができるわけもなく、まるでコルセットで締め付けられているようだと。さらに、胸が薄いのは深い呼吸をしてこなかったために、胸が厚くなる必要がなかったからだと説いています。
 だからブレキエーションで深い呼吸ができるように胸を広げて、さらに他の様々なプログラムで深い呼吸ができるようにしていこうというのが博士の見解。
 いずれのプログラムについても博士は「脳を治療する為に開発した方法なのだ」と再三に渡って主張しておられます。つまりこれらの機能回復訓練により、脳の未開拓部分の細胞へ確実に記憶され、勝ち得た能力は半永久的に(再び何らかのダメージを脳に喰らわなければ)持続していくもの、それがドーマン法なのだと。
 この部分を、特にうちの両親は信じ切っていたのでしょうね! 
 だいたい、そんなことが可能ならば、スポーツ選手は一生涯現役でいられるじゃないですか!全くぅちょっとは周りも見渡してみてくれよ~って感じです。

 私にしたら、呼吸も大事だけれどブレキエーションで獲得した呼吸の“質”を保ちたければ一生ブレキエーションにぶらさがっていないといけない人生なんてまっぴらごめんだ、と思っていたのでした。(笑!)(大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→http://profile.ameba.jp/rabu-snoopy/

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2009年11月24日 (火)

火曜なのに日曜ミニコミ誌!/新潟発信『まちの日々180』

 学生時代に散々歩いた街、新潟に行ってきた。
 田舎者だからか、新潟は文化的な街だと勝手に思っている。県道沿いを車で行けば、金太郎アメのような大型全国チェーン店舗が続々と続くのは他県と比して差はないけれど、アーケード街でふらっと入る小径、立ち寄る古本屋、若者好きするカフェバー、何となく手づくりの匂いがする美容室等々に、静かな文化の息づかいを感じるのだ。その要素は、スタイリッシュな店内だったり、ざくざくと置いてあるフリーペーパーだったり、店主のまっすぐな姿勢だったりと様々だ。
 どうしてそう思うのが田舎者かというと、新潟しか知らないからだ。きっとそんな小径や古本屋や美容室は、他県にごまんとあるのだろう。

 さて、火曜なのに急遽ミニコミ誌の記事を書きたいと思ったのは、新潟でたいへんキュートなミニコミ誌に出会ってしまったからだ。『まちの日々180』vol.1。まさにそんな小径や古本屋や美容室を、大事に切りとって、見開きにおさめる。老舗喫茶店のオーナーにインタビューする。「近所」についての、静かに熱い語らいがある33ページだ。

 こんな少ないページの中で、4人の執筆者が白紙を彩っている。どの文章も美文で、テーマは違えど文章のテンションが揃っているのが素晴らしい。こんなに統一感のある執筆陣は、どんな雑誌でも見たことがない。新潟という1つの土地がつくるテンションなのだろうか。どのページを開いても、冬の晴天のようなすがすがしさと上品さが漂ってくるようなのだ。

 後記によると、この雑誌は『みなとまちにいがた・月刊まちの日々』というフリーペーパーの別冊であるらしい。WEBサイトもこまめに更新されていて、街への愛が伝わってくるような丁寧な仕上がりに好感が持てる。協力団体としてあがっている「みなとまち新潟倶楽部」のWEBサイトも同様だ。新潟に行くときには、ぜひガイドとして役立てたいサイトである。

 一見気ままに書いているようで、ピシリと整った無駄のない文章は、心まで漂白するよう。最近復興を頑張っている、かみふるまちの古本屋、「ワタミチ」にて購入。500円(税込)。

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2009年11月23日 (月)

ロストジェネレーション、自らを語る/男、27歳、試験勉強中(後編)

(後編)

 大学は、東京の私大に行って政治学の勉強をしました。4年間、めちゃめちゃ楽しかったです。地元では資料不足で学問的なことを掘り下げて勉強することができなかったんです。さらにそういったことを話せる相手を求めると、かなり年上の人ばかりになってしまっていて。学問の話題についてきちんと話せる同世代の友達ができて、東京って素晴らしい、と思いました。
 就職活動の季節になって、歴史や法律を扱った本を作りたいと希望したのは自然な流れでした。研究者として残らないかといわれたんですが、政治学関係はポストが少ないんですよ。長く研究生活をするゆとりもないし、自分の好奇心を職業生活の中で活かして頑張っていこうと、就職を決意しました。好きなことを仕事にするのが幸せだという前提がなんの疑いもなくありました。でも、好きな仕事をするということと、その仕事場がどんな環境かというのは全く別の問題なんですよね。入った会社は、とんでもないところでした。

 本の編集を希望して入った会社なんですが、オーナー社長のワンマン体制が浸透し事件もありまして、また学生時代にホームページを作成していたことが裏目に出て、SEとして育て上げようということになってしまいました。回りは当然理系の人達です。異動届で編集やらしてくれって言ったんですけどダメで、これは辞めるしかないなと思いました。1年半で退職し、転職した出版社で広告営業を経験したのち、希望を出して編集部に所属されました。
 そのまま1年くらい編集をやっていたのですが、著者とのトラブルでまた異動になってしまいました。編集長の交渉不足から生じたトラブルだったのに、編集長以外の、編集に関わっていた人間全員に異動が出たんです。僕は飛ばされた部署にも仲のいい人がいたので、がんばろうという気持ちになれたのですが、それから1ヶ月後に社長に呼び出され、出向させられました。労働法上では一事不再理と二重処罰の禁止という決まりがあるんです。この異動まで報復だとしたら、労働法違反の疑いもありますが証明は困難です。

 その後も社員に対して不当と思われる減俸処分や異動を繰り返す会社に、ハッキリと不信感が生まれました。労組の委員長にも相談しました。しかし期待の持てる返答は得られず、編集部に戻れるまでがんばろうと思っていたけれど、そんなところに戻ってどうするのか? もうちょっと考えなければならないのでは? という気持ちが芽生えました。自分の身に降りかかってきたことで改めて労働問題が大事に感じられ、「じゃあ、労働基準監督官になろうかな?」と冗談のように思っていたら、相談していた人のあるメールに心を揺さぶられました。僕の闘いを支持してくれたうえで、「日本のサラリーマンは理不尽な人事に2つの反応しか示さない。ガマンするか、キレて辞めるかのどちらかだ」といった現状の問題点も書かれてありました。おかげで決心でき、会社を辞め、腰を据えて労働基準監督官になるための試験勉強に打ち込みはじめました。

 労働基準監督官は枠が狭いですし、僕は法律を専門として勉強したことがないので、猛勉強しなければなりません。併願して都道府県も受けます。何かしら労働のことに関わって、ひとのために働きたいと思っています。思えば、自分の興味のあること、そして自分に繋がっていると感じることができないと学問できない人間なんですが、それがそのまま、ずーっと職業意識に繋がっていますね。(聞き手:奥山)

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2009年11月22日 (日)

●サイテイ車掌のJR日記/ファン到来

 その中学生は私が発車の準備をしているときから乗務員室の前に立っていて、乗務員室を見ているのではなく、明らかに私の様子をチラチラと窺っていた。
 制服姿で、見るからにおっとりとした利発そうな少年だった。私と目だけは合わせないようにして、ずうっと見ていた。
 できればそんなに見ないでほしい。席が空いているんだから着席してほしい。向こうへ行ってほしい。が、見られるのも仕事だと割り切っている。もう慣れっこで何とも思わない。どうぞ好きなようにという気持ちでいる。

 電車は東京を発車して、四ツ谷を過ぎ新宿に着いた。
 ホームに降り、旅客の乗降を確認しながら発車ベルを押そうとしたその時、「あのぉ、お仕事中に悪いんですけど、本を書かれた車掌さんですか」ときたもんだ。
 私は「読んでくれたの!? ありがと、ありがとう」と頷くと、「すごく面白かったです」と神妙だったそれまでの顔に笑みが零れ、おじぎをしたかと思うと人波に消えて行った。

 こういうことは度々ある。といっても年に数えるほどだが、今でもまだある。それは中高生が多く、たまにおっさんだったりだ。その人たちは私のネームプレートと顔を忙しそうに2~3回見て、「斎藤さんって」「あなたかね」で始まり、最後には「頑張って…」と激励してくれる。乗務中だからその場限りの一瞬だが、みんな鉄道ファンなのだろう。

 ま、こんな時は実に照れる。でも、ことの外嬉しい。仕事を忘れてしまいそうになる。見慣れた景色が華やいで見える。何気ないのに美しく見える。何故か踊って見える。長い乗務が短く感じられる。苦痛がとれる。こうした自分だけの喜びをそっと胸にしまい込み、また乗務を続ける。

 あれは今年の夏だったか。国立でドアを閉めようとすると、目の前で慌てて降りて行った高校生がいた。制服が水色の半袖だったことが印象に残っているから、そう、やっぱり夏なのだろう。
 で、なんと、その高校生が手に持っていたのは『車掌の本音』、拙著であったのだ。私は感激のあまり、「ちょ、ちょっとそこの君、待ちなさい」と思わず声を掛けそうになったほどだ。
 また、当ブログにコメントを寄せてくれる豊田在住という高校生とも近々会うことを約束している。
 それにしても、さっきの中学生は私に声を掛けるだけでも相当な勇気が要る行動だったのではないかと推察するのだが、どうだろう。これは私の驕りでも何でもないが、こうしたちょっとしたことが、案外、彼にとって生涯忘れられない気恥ずかしい思い出の1つになることだと思うのだ。後で思えば全然大したことでも何でもないのに、ちょっとした勇気やドキドキした気持ちを伴ってみんな大人になっていくのだと思う。
 私が彼にどのように映ったのかは分からない。見ての通りのはずだが、私はシャキッとはしていない。キビキビとテキパキとした模範的な態度とはほど遠い。どちらかといえば、いつもダラダラしている。見るからにやる気がなさそうで、弛緩しきった、全身スキだらけだと自分では思っている。
 それでも、いわゆる「ふつう」にやっている。乗客の目もあるが、本を読んでくれた少年たちの夢を壊してはいけないという思いもある。何事もヘマは出来ない。書いたことによって自らが厳しく律せられていることが多い。いずれにしても、本で感じられた私のイメージに少しでも近いことを願いたい。

 さて、話は変わるが、先日、中野駅で20年以上も前に他職場へ転勤していった後輩のT君から声を掛けられた。本当に久しぶりだった。彼は「あれあれ!? 典さん、顔中しわしわになっちゃって~」とハッキリ言われた。「もうすぐ僕も50才の大台ですよ」といっていた彼の肌はツルツルのパンパンで、ドモホルンリンクルでも使っているのかと、私は目を疑うほど若々しくて、昔のままだったのだ。
 私もすっかり年を取ってしまった。あの頃は次から次へと溢れ出たのに、今では中高生に受けるようなダジャレすらもとんと浮かばなくなった。といって大人になったわけでもない。
 あぁ、寄る年波には勝てないのだなと、つくづく思う今日この頃である。でも、頑張らねば……(斎藤典雄)

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2009年11月21日 (土)

ロシアの横暴/第28回 メディアが取り上げないゴルバチョフの実像(上)

 ドイツを東西に分断していたベルリンの壁が崩壊して20年になる。さきごろ、ベルリンの壁崩壊、東西冷戦終結に功績があったという、元ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフ氏が日本の新聞に登場した(『東京新聞』11月15日)。
 氏の話の主題は「東欧民主化不介入『われわれの誇り』」である。
 いわく「89年の10月、東独建国40周年式典に参加するために東独を訪問すると街は政府への抗議デモで緊迫していた。その様子を見た段階で、東ドイツの社会が動き始めていること感知していた、しかもそれは突然起こったものではなく、長い間行われてきたプロセスの一部だ」と。

 ひどくまわりくどい言い方だが(氏の演説はわかりにくいことで有名である)、近々東ドイツは崩壊すること、そしてソ連の支配が東欧の国民に嫌われていることを思い知ったわけだ。はたしてその1ヶ月後、ベルリンの壁は崩壊するのだが、そのときはモスクワの自宅で就寝中だった、と別の新聞のインタビュー記事にはある。
 氏は1985年、自身の前任であるチェルネンコ書記長の葬儀に集まった東欧諸国の指導者たちに「今後は自分の責任で自分の運命を決めなさい、私は(ソ連は)干渉しない」と伝えたそうだ。当時の東欧といえばどの国の首都はモスクワ、といわれるほどの同化政策がとられていたから画期的な方向転換である。ソ連国内ではこの「干渉しない」政策に非難が集中したようだが、それでも結局一度も干渉しなかった、それがわれわれの誇りである、と語っている。従来のソ連指導者のように介入(ソ連の場合、介入とは軍事介入のことである)はしなかったのが誇りというわけだ。

 余談だが、一ヶ月前に東ドイツでなみなみならぬうねりを感じ取っていたはずのゴルバチョフが壁崩壊の当日、モスクワの自宅で就寝中だったとは不思議である。事態が緊迫しているとき、それまで東独に深くかかわってきたソ連の指導者らしく毎日毎日東独をウオッチングするべきだろうに、何も知らなかったとは呆れる。これでは不介入ではなく、ただの無関心にすぎない。ほんとうは布団をかぶって震えてたんじゃないの、と半ばお笑いの推測だって出てきそうだ。

 そもそも東欧の民主化とは何なのか。そのころは社会主義体制を否定すれば民主化みたいな風潮があり、世界中が熱に浮かされたように「民主化」「改革」を唱和していた。先の「不介入発言」で東欧諸国はソ連をいくら罵倒してもおとがめなし、というので舞い上がっていたようである。冷戦が終わる、というよりドンパチ撃ち合う熱い戦争になったから冷戦が終わったのだが、例によって「民主化といえば何でもあり」の時代に突入してしまった。
 ゴルバチョフが東欧の民主化にソ連が介入しなかったのならひとまず結構な話であるが、なぜ介入しなかったのか、という疑問が持ち上がる。
 というのもゴルバチョフは東欧の「民主化」には介入しなかったが、ソ連国内の民主化には軍事介入をしたからだ。バルト三国は東欧同様、第二次大戦後にソ連に併合されたいきさつから、東欧民主化の波に乗って真っ先にソ連離脱気運が高まったが、それを武力で押さえつけようとしたのはゴルバチョフである。バルト諸国に対する武力弾圧計画は当時のソ連空軍の将軍だったドゥダーエフ(チェチェン人、初代チェチェン大統領、1996年殺害)の攻撃命令拒否で未然に終わり、流血は免れた。

 アルメニアとアゼルバイジャンの領土紛争であるナゴルノ・カラバフ紛争のときにアルメニアに肩入れして、バクー(アゼルバイジャンの首都)の市街地に戦車を出したのもゴルバチョフである。この紛争の口火を切ったのはアゼルバイジャン側らしい。だがその報復になぜかロシア正規軍がバクーの市街で無差別攻撃をおこない多数の一般市民が犠牲になった。バクーの公立学校のホールにゴルバチョフの頭のシミを「ナゴルノ・カラバフ地方」の地図になぞらえて「ゴルバチョフは悪魔」を表現している小学生の絵が展示してあるのを見た。バレエ「くるみ割り人形」は「ロシアの踊り」を抜いた版で上演されるほどアゼルバイジャンのロシア嫌いは強烈なものになった。(川上なつ) 

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2009年11月20日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第9回 シモナカルドローニ歩行

 かなり飛んでる(?!)この連載記事に、そろそろみなさん慣れてきて頂けた頃でしょうか?さて、今回ご紹介する歩行プログラム・シモナカルドローニ歩行の内容もかなり奇抜なので、みなさまココロシテ読み進めて下さいネ!(笑)

 このプログラムは、曲がりなりにも独立して歩ける患者に対して処方される、歩き方の質を高めるプログラムなのです。イタリアのシモナ・カルドローニという少女が、このプログラムでパーフェクトな歩行ができるようになったことから、この名前がついたということでした。
 このプログラムの目的は「美しい歩き方」を徹底的に練習するためのもの。
 これに付随してくるゴールは≪質の良い歩行を完全にマスターすること。(歩幅は5センチ!)≫ なのです。 ヒェーーー そんなバナナ!です。

 そもそも、このゴールがクリアできたならば脳性麻痺とおさらばできるではありませんかぁぁぁ。  私は[あり得ない…]と秘かに確信しつつ、親の目はギンギンキラキラ☆☆☆…。
無駄だと魂が叫んでいても、アホくさぁ~と頭の中でコダマしてようと、これだけの多大なる犠牲を家族に払わしてきた私には“取り組む”という選択肢以外に道は残されていないと思いました。【やらねばならないのねー】まな板の上の鯉とでもいいましょうか?否応なくジェットコースーターに乗せられちゃった気分です。【行くとこまで行ってみましょ!】
覚悟を決めて取り組んだものの、このプログラムには肉体的にではなく、精神的にかなり参りました。なぜならば…この歩行プログラム以外では次の再診の日まで一歩も歩いてはいけない!と言い渡されるのです。移動は高這いか、抱っこで移動することを厳守することが最低条件になるのです。なまじ歩ける者が、立つな歩くな!と命じられても…日常生活を営んでいくにおいて、どう考えてたって無茶苦茶過ぎます!!
 でも!親の目はギンギンキラキラ☆☆☆…。うっかり立ち上がろうもんなら、ものすごい剣幕で駆け寄ってこられ、ぶん殴られそうな勢いだったのですから、精神的に追い詰められても不思議ではありませんね。(親子共にね)

 このプログラムは、一歩踏み出したら身体をまっすぐにして、出した足に体重をかけ、また次の一歩を踏み出す…という繰り返し。このプログラムには速度は全く関係ありませんでしたが、その代わり“完璧”が求められるのです。スタッフからは「正しく歩くことが大切ですから、ちょっとでもバランスがくずれたら、次の一歩はストップして、時間をあけてから続けること。悪い一歩は良い百歩と相殺します。だから訓練以外では断じて歩行は禁止!なのです。これは必ず厳守して下さい。」とさらりと言い渡されます。

 このプログラムに取り組んでる頃、世は三井物産マニラ支店長誘拐事件一色で、連日マスコミ各社を賑わしていました。自由時間もあまりない訓練生活の中で、唯一、テレビだけが私と社会とをつなぐものでした。連日、この事件一色の報道番組の中で、当時マニラ支店長の若王子さんの右手中指が欠損しているように見える写真や、弱り切った声のテープが延々と流されていました。世間では超エリートコースを歩んできた若王子さんに対してやるせない気持ちと同時に一日も早い解放を求める世論が沸騰していました。
 若干8歳だった私が理解するには難し過ぎる事件でしたが、歩くこと一切を禁止され犬や猫みたいな生活を強いられる中で「若王子さん、無事に解放されたらいいのになぁ」と願う一方で、「なんで私を誘拐してくれなかったんだろう。なんだか虐待されてて辛そうだけど、それでも若王子さんが羨ましいなぁ…」というイカレタ感情を持っていました。
 今から考えると恐ろしい感情の持ち主の子どもであり、よくもまぁ、その後まともに育ったもんだわ~と自分でしみじみと思う今日この頃…。
 こんなに追い詰められていたとは、きっと両親さえも知らないと思います(笑)
 そんなイタイ子だったからこそ、親の立場になった今“親業”がいかに難しく、自分の感情を抜きにして子どもを見られる“洞察力”が親として最大の役目だと感じずにはいられないのです。だから子育ては楽しく、また難しいのでしょうね!(大畑楽歩)

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2009年11月19日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第26回 カブールの民家で(1)

 僕はカブールの民家にいる。アフガニスタンの家では珍しく、西洋風の家具セットが置かれている。10畳ほどの漆喰塗りの壁の部屋に、少しすすけた花柄のソファーが、イスラム・カーペットの上に置かれていて、僕たち5人は向かい合って座っている。
 僕と僕の上司が座るソファーの後ろには大きめの窓があって、気だるい昼の光が差し込んでいる。テーブルを挟んで、3人の女性がやはり花柄のソファの上に座っている。3人ともブルカは着ていない。鮮やかなスカーフを頭にまとい、無邪気な笑顔を浮かべている。
 左端の女性は35歳くらいだろうか。顔には健康そうな皺が刻まれ、笑うとその皺が彼女の明るさを象徴するように深さを増した。その右に座っている二人の女性はまだ20歳に届かない程度の年だ。姉妹なのかもしれない。アフガン人らしいほりの深い顔。まるで2000年前に作られたギリシャの彫刻に色をつけたみたいに整った顔だ。
 二人とも笑うと笑いじわが目じりに浮かぶ。女性の寿命が40歳前後のアフガニスタンでは、二人とも人生の半分を終えている。美しくいられるのは人生の中で、ほんの一瞬なのだ。

 僕たちは何事かを話している。
 何かは僕にはよく分からない。でも、明るい話題なのだろう。みんなよく笑う。上司がに僕の背中をバシバシと叩いて、キッキッ、と喉の奥から声を出して笑っている。
 女たちも控えめに、でも、嘘のない笑いを浮かべている。
 僕は、ああ、いいな。と居心地よく感じていた。時間も光も、時計のチクタクという音を離れて、ゆったりと流れている。
 薄い天井を隔てて、ヘリコプターのローター音がかすかに聞こえる。でも、珍しいことじゃない。戦闘機が通ればガラスがガタガタ震えたりもするのだし。
 僕は右端の若い女に話しかけた。
 「ねえ、人生は苦しい時間と楽しい時間。どっちの割合が多いのかな?」
 「もちろん苦しい時間。大体4割くらいはそういう時間」
 「それだと、楽しい時間の方が多いじゃないのかな?」
 「いいえ。『我慢できる時間』が5割5分。残り5分が楽しい時間よ」
 そう言うと、彼女はうふふと笑った。この女は今僕と離している間、この時間をその5分に入れてくれたのだろうか。
 僕はひどく悲しくなった。砂糖の入った緑茶を胃に流し込んだ。お茶はグラスから無くなったけれど、まだ砂糖は底に溜まっている。たぶん僕の人生の楽しい時間もこれくらいなんだろう。
 僕は腰が悲鳴をあげるくらい捻って、後ろの窓の外を見た。まるで落ち込んだ演技をしたトム・ハンクスみたいに、しょぼくれた菩提樹があった。
 僕は菩提樹に「ねえ、木も僕たちと同じで楽しい時間は5分だけなのかい?」と心の中で尋ねてみた。
 でも、返事は無い。スクリーンの中で、落ち込んだトム・ハンクスはたいてい手のつけられない落ち込み方をする。この菩提樹も今は5割の落ち込んだ時間の中にいるのかもしれない。
 
 空からは相変わらずヘリの音が聞こえ続けている。
 ぶーーーん。
 近づきも遠ざかりもしない。一定の音程と音階で、変わらず聞こえてきている。まるで東京の僕の部屋のポンコツ空気清浄機みたいだな。
 「ねえ、あなたは結婚しているの?」
 左端のおばさんが尋ねた。
 僕は体を前向きに捻り戻して、膝に手を置いた。
 「いいえ。していません。たぶん今後することも無いと思います」
 「どうして?」
 おばさんは、まるで十字軍の司令官の生まれ変わりに出会ったような目で僕を見た。
 「できないからです」
 でも、月に1、2回は会ってくれる人妻のガールフレンドならいます。とは口にしない。
 「あなたは健康そうだし、肌も白いわ。どうしてできないのかしら?」
 「人との距離感がつかめないんです。相手が自分と違いすぎると興味が持てないし、近すぎると憎んでしまいます。でも、相手に合わそうとするから、自分が何なのかが分からなくなるんです。そんな状態ではどこにも行けません」
 「随分とややこしく考えているみたいね。私なんて前の夫は戦争で死んでしまったから、その弟と再婚したんだけど、うまくやっているわ。神様が助けてくださるわよ」
 おばさんはそう言って、あなたが結婚できるように祈りましょう、と言ってくれた。
 色んな人が僕のために祈ってくれている。東京では僕の無事をキリスト教のシスターたちが十字架に向かって祈っている。この叔母さんも祈ってくれている。田舎のお婆ちゃんも神社で祈ってる。
 神様が集まりすぎて、喧嘩してるからうまくいかないんじゃないだろうか。なんか恐いな。(白川徹)
 

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2009年11月17日 (火)

靖国神社/30回 靖国暦、ゲットだぜ!!(下)〈2007年11月取材〉

 1940年8月19日、海軍零式戦闘機、漢口より重慶攻撃。零戦初の実戦出動。日本海軍の主力戦闘機、花形スターのデビューの日。日本の航空技術を詰め込んだ大傑作戦闘機。設計は三菱重工業、生産は中島飛行機。終戦間際には、特攻専用機と成り下がってしまったが、デビュー当時は華々しい活躍(操縦士の腕もあるが)を見せていたのだ。詳しくは、『誰も知らない靖国神社』に載っているので、そちらを参照してください。
 1869年9月4日、兵部大輔大村益次郎46歳、京都で襲撃される。没したのは同年11月5日。なぜ46歳が入るかはわからない。いらないんじゃないか。しかし、靖国にとって大村益次郎は切っても切れない間柄。参道中央には銅像が建ち、そもそも造った人だからか。この人なくして東京招魂社(靖国神社)はなかった。でもやっぱり46歳はいらないような気が。

 2008年11月11~16日は、築地本願寺にて報恩講が行われる。報恩講は、親鸞の法要日だそうな。にしても、やはり寺の行事が書いてあるのは納得がいかない。ちなみに、11月21~28日までは東本願寺の報恩講がある。どこの神社仏閣で何が行われるかが書かれているのはありがたいことだが、これは本当に靖国が出版しているものなのだろうか。
 さて、12月。24日、25日はクリスマスイブ、クリスマスとある。
 実際の靖国は、もちろんクリスマス色は一切ない。「初詣は靖国へ」という看板はある。クリスマスといえば、以前、クリスマスイブ企画を行い、とても寒い結果となったことを思い出す。あのころの靖国は、クリスマスイブは人もまばらで閑古鳥が鳴いていた。売店は大掃除をしていて、遊就館も人はまばら。今年もクリスマスイブに取材をする予定だが、5年たった今のクリスマスイブの靖国はどうなっているのだろうか。今から楽しみである。
自分でも占える毎日の運勢

 暦も終わり28ページ。十干(五行を兄と弟にわけたももの)・十二支(十干と組み合わせて年月日を表す。時刻の方位を示す)の表が載っている。
 それらを組み合わせると、ひのえうまとかかのえいぬといった60年で一巡りになる。
 その次のページは、日の吉凶。選日、六曜、十二直、二十八宿が載っている。六曜は、大安や仏滅のこと。十二直は、建、除、満、平、定、執、破、危、成、納、開、閉で、その日の吉今日を占う。たとえば、開とあった場合、その日は「悪事消え失せ、うれい事開く吉日、医師を求め、入学、訴訟、相談事吉」となる。この日はラッキーデーということ。要は、毎日の運勢である。
 二十八宿も同様で、こちらは28日周期でまわる占いなのだが、複雑怪奇で私には理解不可能なので説明は省かせてもらう。

 30~31ページは、人生儀礼。日本の風習について書かれている。この中でためになったのが、忌服の項で、親族に不幸があった場合、神棚に半紙を貼り毎日の祭りを中断、そして神社参拝も遠慮するというところだ。その期間は地域差があるようで、平均50日目から再開するところが多いらしい。またひとつ賢くなった。
 32~33ページは、年に数度、物議を醸す国歌と国旗の知識。国歌の習わし、国旗がどうしてできたのかなどの説明のあとに、国旗の掲げ方という項がある。国旗を掲げている家は、『サザエさん』くらいでしか見たことはないが、掲げ方にも細かなルールがあるらしい。
 34~35ページは、歴代天皇・年号一覧。
 36ページは、永代神楽祭、昇殿参拝、諸祈願等の案内。
 37ページ。手水の作法、玉串礼拝の作法がイラスト入りで紹介されている。
 38ページは靖國偕行文庫の案内と、崇敬奉賛会の案内。
この靖國偕行文庫は、遊就館横の靖國会館内にある。
 39ページは、全国の護国神社一覧表。
 40ページは、平成20年の年齢干支九星早見表。皇紀も載っている。ちなみに私は、皇紀2641年生まれだ。西暦もいいが、皇紀という響きがいい。今度からプロフィールの生まれ年を「皇紀2641年生まれ」に変えようかな……。
来年は皇紀2668年
 最終ページは、遊就館の案内だ。

 背表紙は、平成二十年略歴表が載っている。ちなみに来年は、皇紀2668年だ。
 こうして靖國暦をじっくり読むといろいろなことが書いてあっておもしろい。薄いながらもしっかりとした情報量。いいものをもらった。
 この靖國暦は、300円で売っているので興味がわいた方はぜひ、買ってみてください。……なんだか、靖国の回し者みたいだな。(奥津裕美)

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2009年11月16日 (月)

書店の風格/第39回 ブックスルーエ

 エキナカのワンフロアとか、バイパス沿いのどでかい敷地内じゃなくて、地元の商店街にしっかりした本屋さんがあったらとても嬉しい。なんだか、住んでてすごく得した気持ちになってしまう。

 そんな希望をさらりと叶えてくれるのが、吉祥寺はサンロード内にあるブックスルーエだ。田舎から東京に遊びに来た10代の頃、ここを「紀伊國屋書店吉祥寺店」だと思っていたものだ(山奥の人間にとっては、都会の大きな書店は皆「紀伊國屋書店」である。私だけか?)。

 ブックスルーエは、ただの地元密着型書店とは違う。おそば屋さん、喫茶店を経て平成3年に今の本屋が出来上がった。「ルーエ」という書店にしてはお洒落な名前は、喫茶店時代からのものを受け継いだという。しかし当時としても規模の大きなおそば屋さん、喫茶店だったであろう。それを書店にした三代目の敏腕に感激した。吉祥寺には、特にサンロードには飲み歩きしても何ヶ月かはかかるほどカフェが散在している。チェーン店から最近できた手作り風のものまで様々だ。それよりは、意外に大規模なお店が付近にない書店の方が住民としてもありがたい。クリエイターが集まる街・吉祥寺ならなおさらだ。

 お店は地下1階から3階までの4階構成。地下1階が専門書、1階が雑誌・話題書、2階が文庫や新書、3階がゲームやコミック。階を追うにつれ自分が若々しくなっていくような錯覚を覚える(逆に3階から散策して地下1階に下ると、なんとなく落ち着いてくる)。立地性が多分に発揮されているのは特に3階のコミック売場で、お店に贈られた作家直筆のサイン色紙が溢れんばかりに貼ってある。地元・吉祥寺を愛する作家からのプレゼントが多いのだ。お客は勿論のこと、クリエイターからも支えられ愛されて成り立っていることがわかる。もちろん品揃えも豊富で、規模に対して驚くほどのコミック量を誇っている。

 このお店のもうひとつの魅力は地下1階、品揃えの独自性と網羅性にある。一見矛盾するように思えるこの二つだが、巧みなディスプレイによって両立をかなえているのだ。
 専門書フロアに派手さはない。フェアや新商品をあからさまに押し出すようなことはなく、ゆかしく並べているように見えるが、もちろん工夫が盛り込まれており、見る人が見れば「なるほど」とうなされるつくりだ。
 平台に置く商品の一冊一冊が、面で陳列している一冊一冊が、今の世情をなにか1つは反映していて、全体的に見ると一枚の風刺画の如くになっている。かといって選書が偏っているかといえばそうではなく、話題の本は取りそろえてあるし、基本書も棚に挿してある。まさに網羅的、そして独自性のある棚作り。専門書の棚としては超一流であろう。

 ほかには、地元作家であるキン・シオタニさんのイラストが施されたブックカバーも有名。どこまでも、その土地に住む人達を大切にし、活かそうとする書店だ。このようなお店は、当然地元民も裏切らない。(奥山)

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2009年11月15日 (日)

靖国神社/29回 靖国暦、ゲットだぜ!!(上)〈2007年11月取材〉

 崇敬奉賛会に入っているため、毎月靖国から会報が届く。いつもは会報のみで袋が薄いのだが、ある日届いた会報は少し重かった。
 いったい何が入っているのかと思い封を開けると、四六判の冊子が出てきた。
 表紙を見ると「平成二十年靖國暦」と書いてある。どうやらエラく私の琴線に触れるモノが届いたようだ。
 初めてお目にかかる『靖国暦』。神札授与所に行けば売っているのだろうが、お守りと絵馬ばかりに気を取られていたので暦は見たことがなかった。長年連載をしてきて知らないものが出てくるのは、靖国ライター失格と言われても仕方がないが、あまり知りすぎているのもどうかという心情をわかっていただければありがたい。

 さっそくページをめくってみることにしよう。
 目次には「四季折々の靖國神社」というキャプションのついた写真が4枚。
 1ページ目。靖国の由緒について書かれている。その下に祭事暦。1年のうちに行われるすべての祭が書かれている。全部で36種類ある。大きな祭がない月もあるが、毎朝、朝御饌祭と毎夕の夕御饌祭、毎日の御饌祭に併せて行う命日祭、毎月1日、11日、21日に行われる月次祭があるので365(366)日祭がある。永代神楽祭というのもあるが、これは遺族の申し込みによって祭神の縁由の日に行われるらしい。なので本当に毎日がお祭り。

 2~3ページは、家庭のみたままつり。このページを読むと、みたままつりは「毎日欠かさず行う」ことらしい。みたままつりというと、夏に行われるあのお祭りが思い浮かぶが、どうやらそうではないようだ。方法としては、御霊舎というものにしめ縄、燈明、榊を飾る。米、塩、水を毎日供える。命日や慶事などの特別な日は、酒や野菜、故人が生前好きだったものを供えるそうだ。
雑煮のような毎月の暦

 4ページから27ページまでが、毎月の暦。2段に分かれていて、上段に新暦、旧暦、年中行事と節気、干支、九星、六曜などが書かれている。下段に、国民の祝日、各月の祭神ゆかりの主な出来事が書かれているので、気になったものを月ごとにあげてみることにする。
 1月6日、親鸞忌。親鸞は、旧暦11月28日に没しているので毎年没年が変わる。しかし、親鸞は浄土真宗の開祖。仏教じゃないですか……。靖国さん、いいんですか?
 ゆかりの出来事をみると、1月1日に旅順でロシア軍が降伏。戦時の最前線では正月も何も関係ない。浮かれていたら寝首をかかれるということか。
 2月14日。バレンタインデー。あれ? これはキリスト教のイベントじゃないでしょうか。さらに、2月7日、北方領土の日。この日は、北方領土問題に対する国民の理解と関心を深めるために制定されたそうだが、いったいどれくらいの国民が知り、考えているのだろうか。
 ゆかりの日はというと、1904年2月12日。陸軍の制服をカーキ色に改めたらしい。ものすごいレア情報。もし、誕生日を知られたくない人に聞かれた時、「陸軍の制服がカーキに変わった日だよ!」と言ってはぐらかせばばれなくてすむかもしれない。ゆかりの日も使い方によって、自己防衛の道具に変わる。非常に便利な暦だ。
 1905年3月10日。中国の奉天(現在の瀋陽)を占領、翌年(1906年)から「陸軍記念日」と定める。記念日にするくらいだからこの占領が相当おめでたいことだったのかと思われる。
 1883年4月12日。陸軍大学校開校。陸軍大学といえば、陸軍省幹部養成学校。A級戦犯として処刑された7名のうち6名が卒業生。調べると、参謀養成のカリキュラムばかりが行われていたそうだが、その割には失敗を活かせず指導力に欠けるように感じるのは私だけか。
 1905年5月27日。連合艦隊、日本海でロシア・バルチック艦隊を撃滅。東郷平八郎大将率いる日本海軍が活躍した日本海海戦のことだ。このあと、この日は「海軍記念日」となったそうだ。その後の海軍の惨状を考えると、この日が最初で最後の旧日本海軍の栄華といっても過言ではない。戦艦大和とかあっという間に沈んだし。
 1864年6月5日、京都池田屋襲撃。かの有名な新撰組が尊王攘夷派の人間を襲った事件だ。新撰組といえば、沖田総司、近藤勇、土方歳三など現在ではヒーローとして崇拝されているが、祭神からすれば旧幕府軍で敵なのだ。
 1965年7月28日、乱歩忌。江戸川乱歩が没した日。いったい、靖国と何の関連が? 確かに彼の功績は一言で言い表せないほどすごく、私自身ファンである。エロ、グロ、ファンタジー、サスペンス、ホラーをうまく織り交ぜ綴られる作品は何度読んでも飽きない。しかし、どういう関連があるのか教えてもらいたい。(奥津裕美)

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2009年11月14日 (土)

Brendaがゆく!/嫌いな人がいない状況について1

本当に嫌いな人はいないです。

苦手な人。。。

数人はいるかな。

ピアノのライバルとかは苦手な人ですかね。

でも、ライバルは必要なのかもしれないし。

特に自分よりも遥かに優れている人については、見取り学習するべきなので苦手とかは思いません。

ただ、ピアノの世界で妬み合いがあって相手をstress outとか annoyする人は、いやだな~と思うけど。

そういうのがほとんど気にならない時もあればけっこう気にしているときもあるし。

それ以外では、苦手な人も嫌いな人もほぼゼロです。

その理由は、私はとにかく人の文句は言わない。

絶対言わないようにしているので。ちょっとでも言うとその日一日後悔します。

そして、そのことから、日本人社会との関わりが薄れることかしら。笑

「陰で文句を言うことでなんかスッキリした!」なんて言う人がいるので

アタクシはめちゃくちゃ驚きますけど。。。

あとは、友達は本当に全員感動するほどいい人たちばかりなので、いつもみんなのことを考えて、プレゼントとかおみやげとかは、けっこうしています。

でも、私がいただいている部分の方が断然に多いので、すべてお返しすることはまだできないけれど・・・。

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2009年11月13日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第8回 クロスパターンウォーキング

 ドーマン法の歩行プログラムとして、クロスパターンウォーキングとシモナカルドローニ歩行という2つの歩行訓練があります。
 少々手荒なこのウォーキングプログラムが歩ける患者には待っているのです…
 みなさん、ここからは、さらに頭を柔軟にして、私の話を聞いて下さいね!

 今回はクロスパターンウォーキングをご説明していきたいと思います!このプログラムに必要な物は、毛並みの短いカーペットとスキーブーツとスキー板の3点。要はカーペットの上を(室内ということですね!)スキーブーツを履いて歩く/それから、スキーの板を装着しカーペットの上を滑らせ歩く、という歩行プログラムなのですが、日本のリハビリ室に置いてあるような平行棒なんて用意する必要はありません。なんたって壁を支えにするのもNGですし、当然、人に介助してもらうのもダメ!あくまで自分の足で歩かなければなりません。そうあの自由が利かないスキーブーツを履いた状態で!です。よろよろとコケレバ身体が思うように動かせない脳性麻痺者が捻挫じゃ済まないことぐらい、みなさまも容易に想像して頂けるのではないかと思います。なのに、なぜにスキーブーツなのか? それは、脳性マヒ者の多くは、膝の微妙な使い方ができないのと、緊張が強い為、膝が過伸展してしまうのですね。それを矯正するために、足首に角度のついたスキーブーツを履かせ、それでも腰や骨盤を駆使して膝を過伸展させてしまう子には(私もそうでしたが)膝にツーヘンズと呼ばれる木で出来た特別な道具を膝に取りつけ、過伸展すると、弁慶の泣き所に、その固い木がアタルという状況で延々、歩かせ続けるんです!

 はっきり言って無茶苦茶です。

 ≪頻度・強度・継続度≫に続き、ドーマン博士の持論は≪構造が機能を決定しているのではなく、機能が構造を決定する≫とのことですので、とにかく無理やりにでも、そういう状況に追い込めば、あとは自然にできるようになるのだと。
 今なら博士に『麻酔がかかっている状態で、いくら強く脳に命じても“麻酔”には対抗できないでしょ! 脳性麻痺の“まひ”も、これと同じ状況なのです!脳性麻痺を甘く見ないでくださいョ』と、にこやかに楽歩スマイルを浮かべて言えるでしょう。

 つ・ま・り!! 麻酔が効いている状態の口で、無理やりにでも、食べたり飲んだりしたとしたら、どうなるか? 食べにくいことこの上なく、しかも、口の中は血だらけ状態。
 何べん修業を積もうが、努力は報われず、残るものは口の中の傷と痛みだけ!!
 麻酔が効いた状態では、同じことが繰り返されるだけのことですよね?
 仮に博士の≪機能が構造を決定する≫という持論が正しかったとしても、少なくとも、脳性麻痺者に、それは無理な方法なのです。なぜならば、上記のクロスパターンウォークの例をとって説明しますと、そこまでして膝を曲げさせたところで、普通の人が膝を曲げるようにまっすぐ膝頭が正面を向いたまま曲がらないからです。人体というのは、とても神秘な作りのようで、正常な動きにしか対応できないみたいです。つまり、元々正しい格好で歩けない私は、おなじみの楽歩ウォーク!? でも人体の至る所に無茶を強いて、歩いている訳です。クロスパターンウォークでも同様で、もっと踏み込んで言うならば麻痺がキツイ部分を無理に使い、関節へさらに負担をかけていたに過ぎない訓練方法だったと言えそうです。(大畑 楽歩)

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2009年11月12日 (木)

●ホームレス自らを語る 第45回 バカ正直な人生/亀井秀勝さん(仮名・75歳)

0911  このあいだまで、南池袋公園(豊島区)で寝起きしていたんですが、急に工事をするからとかで立入り禁止になって、こっち(中池袋公園)に移ってきたんです。南池袋公園のほうは頑丈な塀で囲われてしまい、オレたちホームレスへのいやがらせとしか思えませんよね。
(池袋地区で生活するホームレスの中心的な場であった南池袋公園が、今年9月14日から地下変電所工事のために閉鎖され立入り禁止になった。閉鎖期間は5年間の予定)

 オレは北海道富良野の出身で、昭和9(1934)年生まれです。今年75歳になります。
 父親は元々は屋根葺きの職人をしていたんですが、あまりに仕事が少なくて生活ができないんで、途中から炭鉱夫に替わっていました。小さな炭鉱を渡り歩いては、坑道の先端の切羽で採炭するのが仕事でした。仕事を終えて坑道から上がってくる父親が、炭塵を浴びて全身真っ黒だったのを覚えています。
 戦争が終わったのが、オレが小学五年生のときです。富良野も終戦の1ヵ月前に、米軍の空襲に遭っているんです。意外に知られていませんけど、北海道の主な街はみんな空襲で焼かれています。空襲のときは、家族といっしょに防空壕に入っていましたが、子どもだったからすごく怖かったですね。
 オレは中学を卒業して、隣の山部村(現在は富良野市に併合)にあった「野沢石綿鉱山」に就職します。ここは石綿を採掘する日本最大の鉱山で、従業員は500人くらいいました。オレが働いていたのは、石綿加工の現場でした。
 昭和53(1978)年に配置転換になって、埼玉工場に転勤になります。この工場は3交代制で、オレは夜勤組に編入され昼夜逆転した生活を送るようになりました。これが身体にこたえましてね。このまま夜勤組の仕事を続けたら、身体がおかしくなってしまうと思って石綿工場を辞めました。やはり、人間の身体は昼間働いて、夜は眠って休息するようにできているんだと思いましたね。石綿といえば例のアスベストですからね。オレもこれまで2回健康診断を受けて「異常なし」と言われています。自覚症状もないし、だいじょうぶだろうとは思うんですが……。
 この埼玉工場で働いていたときに結婚します。ただ、この結婚は長く続かなかったし、あまり話したくないですね。子どもは男の子が2人できましたが、2人とも女房が連れていきました。
 オレはギャンブルには一切手を出したことがありませんし、酒も晩酌に少し飲むくらい、女遊びもしません。だから、結婚生活がうまくいかなかったのは、そういうことが理由ではありません。何といったらいいか、月並みですが、性格の不一致ということでしょうか。

 石綿工場を辞めてからは、アルバイトや日雇いで働くようになりました。その頃は景気がよかったですからね。オレが住んでいたのは埼玉の奥のほうでしたから、手配師なんていませんし、仕事はスポーツ新聞の求人欄で探しました。それでも途切れることなく仕事はありましたからね。
 いろいろなアルバイトをしましたが、長くやったのは倉庫内作業と郵便局の警備員でした。いまアルバイトの時給は800円くらでしょう。バブル(経済)の絶頂期は1200円くれたところもありましたからね。だから、真面目に働けば相当に稼げましたよ。
 オレも真面目に働きましたけど、カネはたまりませんでしたね。実は、オレは別れた子ども2人の養育費を毎月支払っていたんです。それも2人が大学を卒業するまで、毎月欠かさずに払い続けましたからね。
 普通、養育費は高校卒業まで面倒をみれば十分らしいんです。高校卒業どころか、それより前に送金しなくなって、行方を晦ましてしまう人も多いようです。だけど、別れたといっても自分の子ですからね。それが「大学に行きたい」と言ったら、無理しても学費を出してやりたいのが親の人情というものです。
 そりゃあ、オレの生活も大変でしたよ。いくらバブル時代で稼げたといっても、アルバイトでの稼ぎには限界がありますからね。送金するために自分の食費を削ったことも、一度や、二度ではありません。それもこれも可愛い子のためですよ。
 それでその果てはホームレスになってしまうんですから、オレのことをバカ正直で不器用な男だと思われるでしょうが、こういう生き方しかできないんです。でも、2人の子は無事に大学を卒業して、元気でサラリーマンをしているようですから、それがせめてもの救いですよ。
 オレがホームレスになったのはバブルが弾けてからですね。埼玉の田舎町ではバイトのクチもなくなって、東京に出てきたんですが、東京も同じで仕事はありませんでした。子どもたちへの養育費の仕送りで蓄えもありませんでしたから、公園に野宿するしかなかったです。はじめは新宿の公園で始めて、それから池袋に移りました。
 いま食事は週数回の炊き出しと、(豊島)区役所が支給している乾パンをもらって食べています。足りないですよ。毎日、空きっ腹を抱えてひもじいですね。
 オレももう75歳ですから、生活保護の申請をすれば受けられるんです。だけど、保護施設に収容されて、大勢での共同生活になるそうですからね。施設での生活は規則尽くめだともいうし、自由気ままないまの生活のほうがいいですよ。それでいよいよ身体が動かなくなったら、生活保護の世話になろうと思っています。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年11月 9日 (月)

サイテイ車掌のJR日記/政権交代に寄せる早期解決の期待

 1047名問題である。
 「えっ!? まだ解決してないの」と驚く人、中には「いつまでやってんだ」と呆れてしまう人、さまざまな人がいて当たり前だ。
 何せこの闘いは23年目という気の遠くなるような歳月が流れているのだ。
 今や職場ですらこの問題が話題に上がることなど皆無に等しい。もうすっかり風化してしまったといっても過言ではないだろう。それが自然であり当然なのかもしれない。私だって「いったい全体どうなっているんだ、何なんだよまったく」ともいいたくなる。

 さて、鳩山政権がいよいよスタートした。

 この問題は何度かの解決局面があったものの、本当にその時々の政治状況に翻弄され頓挫したという経緯も多々あるだけに、政権交代が実現した今、今度こそという期待は計り知れないほどに大きい。また、私達が求めている政治解決にもより有利な条件として働くことは間違いないと見る。

 今年の2月16日に開催された「1047名問題解決の政治決断を求める2・16集会」には自民党を除く全政党が出席され、「政局は絡めずに、与・野党の枠を越えて、人権・人道問題として解決すべし」と確認された。とりわけ、当時の鳩山民主党幹事長からは「23年が24年とならないうちに解決できるよう、私どもとしても全力を尽くして参りたい」との発言を頂いたのだが、まさかこの時点で鳩山さんが総理になろうとは誰一人として思ってもみなかったはずで、今となってはこの発言が鬼に金棒ではないのか。これこそ解決の環境は成熟したといえ、もはや揺るぎないものと強く確信しているのだが、鳩山新総理にはぜひとも何としてでも早期に実行してもらいたい。
 一方、裁判闘争については、3月25日の高裁判決でも「旧国鉄に国労差別の不当労働行為があった」と明確に認められ、裁判長は「この判決を機に1047名問題が早期に解決されることを望む」との異例のコメントまで付け加えている。しかしながら、慰謝料500万円という超低額賠償金だけは何としてでもより高い水準に引き上げないことには話にならない。また、同種のいくつかの裁判も結審を迎えるなど待ったなしの状況となっている。

 1047名の平均年齢は55才を超えたという。解決の日を見ることなく志半ばで他界した仲間も58名に及んでいるということだ。人生をメチャクチャにされながら今なお闘い続けているという苦労は想像を絶するし、たとえ解決したとしてもその救済利益を享受できない寸前まで来ているのである。「1日も早く名誉を回復したい」「この苦悩から解放されたい」「平穏な生活を取り戻したい」などなど、もはや筆舌に尽くしがたい。
 「政治解決は最終局面に入った。遅くても24年目にあたる来年の2月16日までには政治解決を図る」というのが先の10月に開催された4者4団体の会議での今後の基本方針だという。
 あと3ヶ月である。出口は見えた。解決はいよいよ目前だ。残る力を出し切り、圧倒的な勝利で締め括ろう。それには間断のない闘いの展開しかない。心をひとつに一致団結して、ガンバロー! ガンバロー!! ガンバロー!!!(斎藤典雄)

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2009年11月 8日 (日)

ロシアの横暴/第27回 ロシア的泥棒物語(下)

 ペレストロイカに始まる経済改革の混乱の上に世界規模の経済危機のあおりをまともに受け、瀕死の状態にあるロシアに「正統派・本物」と名のつくものが存在しているというのは結構いい話に聞こえる。日本でいえば「ねずみ小僧次郎吉」かと思いきや、そこはロシア、きれいごとでは終わらない。たしかに「本物」は「かたぎの衆」には手をださないのが原則らしい。ただし仕事の対象として依頼がなければ、である。

 正統派泥棒の収入源はいわゆる「用心棒」、ロシアではこれも広義で「暗い森の中」でやるべき仕事全般を請け負っている。ソ連解体・経済改革でなんでもかんでも民営化のどさくさに紛れて甘い汁をたっぷり吸った新興財閥といわれる経営者たちが、引き続き暴利をむさぼるには法律に則って会社運営をやっていては間に合わない。敵対企業・競争相手企業を陥れたりたたきつぶしたりすることが必要だ。そこに雇われるのが正統派泥棒たちである。彼らは企業間のいざこざを解決するのに、白昼堂々と市内の目抜き通りで撃ち合うこともする。彼らにとってはそこも本物の仕事場「暗い森」だからだ。

 もちろん対象は企業人ばかりではない。ジャーナリスト、人権活動家など政権に邪魔な人物を消すことも大事な「仕事」である。殺し方が正統であれば、対象が悪人でなくても問題ないらしい。

 この20年近くのロシアの経済改革歴史のなかでいったい何百人が殺されたか、見当もつかない。最近では2006年10月のアンナ・ポリトコフスカヤ殺害がある。一時期「容疑者逮捕」の報道があったようだが真犯人は今もって検挙されていない。正統派大物泥棒は捕まらないのだ。時々は捕まるが、「警察署長のおともだち」だからすぐに釈放される。治安対策と銘打って警察官を大幅に増員しても捕まるのは「素人にでも捕まえられる」コソドロ程度である。

 ここに数年前ロシアを追っ払われたある新興財閥のボスの近況話がある。
 新興財閥は法律を大事にするユダヤ系だから一応起業も「法に沿ったやりかた」でやっていた。あるとき、ひょんなことからプーチンの逆鱗に触れることになり、ヨーロッパのどこかに追放された、というより逃げた。ところがヨーロッパでは先進資本主義とやらで「ロシア的新資本主義」は通用しない。甘い汁もなかなか吸えない。頼みの用心棒、本物の泥棒もみつからず、よほど居心地が悪かったようでプーチンに詫びをいれて帰国しようとしているそうだ。(川上なつ)

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2009年11月 6日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第7回 ドーマン法の基礎概念

 ドーマン法は、種類や重度に関わらず、それの原因が脳である故に起こる障害であるならば(=脳障害)取り組むことで絶対に、何かしら目に見えた効果が表れる。この点だけは、反ドーマン法の人たちからも、冷ややかながらではありますが認められている部分であるようです。
 実際に日本中のお医者様から、またリハビリの先生から見放された人でも、ドーマン法を始めると周りの誰もがわかる程に、目に見えて効果が表れるといわれています。それ故、魔法の訓練法であるかのように思われているようですが、私に言わせれば・・・魔法でも何でもありません!!
 毎日毎日、無茶とも思われる程の過酷な運動を朝から晩まで、嫌気をささずに繰り返し行っていれば、どんなに困難なことでも、成し遂げられる結果にすぎないと。(笑!)

 ドーマン博士が、再三に渡り、繰り返しおっしゃっていることがあります。
 それは、≪頻度・強度・継続度≫ です。
 つまりこれは、何を意味しているかといいますと「正しい情報を、正しいプロセスで、何百回も何千回も、ただひたすら脳に働きかけ(刺激を与え)続ける。つまり健常児たちの何百倍もの時間をかけて反復し終えた時、どんなに傷ついた脳細胞でも、新しい未開発の脳細胞が、その役割を担い、脳障害を克服することができる。」これこそが、ドーマン博士の基礎概念なのです。
 一見すれば、なるほど~その通りだと、頷かれる方もいらっしゃるかと思います。
 健常な赤ちゃんが歩けるようになるまでの道のりをもう一度やり直し、まだ使われていない脳細胞へ新たにインプットしていこう!と、以前にもご紹介したパターニングや、腹這い(ずり這い)、高這い(ハイハイ)を徹底的に繰り返す…
 これが博士のおっしゃる ≪頻度・強度・継続度≫ な訳ですね!!

 この他にも、ドーマン法オリジナルの療法として様々なプログラムがあります。マスキングやブレキエーション、逆さつり、とよばれる怪しげな重力フリープログラムまでその種類は実に豊富。ドーマン法オリジナルメニュー以外にも、水泳・バレエ・床運動・平均台・陸上など健常児でも習得するのが困難な課題を障害児に与えていくのです。
 はっきり言って無茶です! 無茶なだけなら…別にそれだけの話で済みますが、いくら無茶なプログラムであっても、研究所からそれらの課題を与えられてしまった以上“できない”じゃ済まされないのです。

 
 できなかった場合、つまりそれはゴールを達成できなかったとみなされ、即刻“お辞めなさい”と言われてしまうのですから、親は必死になって、なんとか形にさせようと、怪我の一つや二つ恐れずにやれ!と。おいおいって思いません?こっちはね、脳性まひで手足の動きがままならへんねやっちゅーねん!! ちょっとのことが致命傷の怪我につながるリスクを負った上での取り組みであることを、わかった上でドーマン法に取り組んで欲しいと願わずにはいられません。骨折や擦り傷などは時間が経てば、くっつきますけれど、靭帯や軟骨が摩耗したり、ゆがんでしまった関節などは、車の部品を交換するみたいに、簡単には交換できないのですから、見た目にトラワレズ、この子にとって何が大切なことなのか?を、長いスパンで見通せる親でありたいですね!(大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→ http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2009年11月 4日 (水)

アフガン終わりなき戦場/第25回 番外編・ふられた僕がプラハで爆弾をもらうまで

 小説家の荻世いをらからこんなメールを受け取った。

今、名古屋です。

案の定、逃げられましたか。
君は、空気、読めないからね!
是非読もう、空気!
多くの人が、僕みたいに、器が広いわけじゃありません。
どこ行っても、おちょこの世界ですから、君には、生きにくいよね。

 きっとそうなのだろう。ああ、そうなのだろうともさ。
 いっそ死ねればいいのだけれど、死後の世界も神も信じられない僕は汚れた我が身を引きずって生きていかねばならぬ。死ぬのが怖いのです。僕は死後の世界を信じるにはすれすぎているし、神を信じるには自分を頼りすぎている。
 カフカは人生の途中からユダヤ教徒としての自分に目覚めた。彼は理解されない自分を、宗教の中で救いを見出すことができたのだろうか。そうは思いたくないのだけれど。
 ところで、カフカは生まれ故郷のチェコであまり人気が無いのだと、博物館のおばさんが教えてくれた。カフカはチェコ生まれのユダヤ人で、小説もドイツ語で書いた。チェコ人の民族意識の上では、間借りしていただけの異邦人でしかないのだろう。
 死んだ後でも、故郷では賞賛を受けることがないのだ。カフカらしいと言えば、それまでなのだが、あまりにも報われないのではないだろうか。
 
 夜のプラハの街を歩く。
カッコウをつけてお洒落な薄っぺらいコートしか持ってこなかったので、寒さが文字通り体を突き刺してくる。鼻の先は感覚を失い、手は今にも凍傷にかかりそうなほど赤くなっている。
 カレル橋のたもとから、プラハ城を見るとライトアップされた町並みが宇宙船の中から見る星空を連想させる。ヴルタヴァ川を挟んで見えるのは、街の明かりなのだけれど、不思議と人工的な感じはせず、自然が作り出したような力強さを感じる。闇が嘘を覆い隠し、本当のプラハを浮かび上がらせてくれた。
 誰かがプラハを「おとぎの国」と呼んだけど、僕にはそれ以上に呪術的に見えた。
 大自然を前にすると人間は本能的に自分の存在の小ささを実感させられる。僕もそんな気分になっていた。

 ふいに水面からぽちゃんという音がした。あたりを見回すと、40台くらいだろうか、浮浪者の男が、音のした地点にむかって何かぶつぶつと呪詛の言葉を吐いている。彼が川に何か投げ込んだのだろう。
 僕もポケットから適当に、一番最初につかめたものを川に投げ込んだ。たぶんライターだったと思う。投げてから水面に到達するまでずいぶんとかかった。一秒くらいなのだけれど、30秒くらいに感じた。聞こえてきた着水音は、男が作った音よりはずいぶんと威力の無い音だった。
 すると、男が僕のほうにやってきて、ぶつぶつと何かしゃべりだした。僕に向かってではない。僕と彼の間の虚空にむかって喋っている。顔を間近で見ると鼻が随分高く、寒さで真っ赤になっている。僕よりは随分背が小さい。落ち窪んだ目は、僕の背の高さからだと覗くことができなかった。彼はドワーフなのかもしれない。
 男は僕に一塊の何かを差し出した。手に持つと、木でできているようで随分と軽かった。暗くてよく見えなかったが、その木からは幾十本も毛が生えているようだった。
 投げようか迷っていると、元気出せよ、とでも言うように、ポンと肩に手をあてて男はどこかに行ってしまった。

 地下鉄に乗って、電灯の下で男からもらった塊を見た。
僕はしばらく呼吸ができなくなった。
それはチェコ人形劇の、あやつり人形の頭だった。尖った鼻と、苦痛にゆがんだ目を持った悪魔の人形だ。男は悪魔の人形の首をもぎ取り、体だけをヴルタヴァ川に投げ込んだのだ。
 地下鉄の無機質な車内で、僕は爆弾をポケットに忍ばせているテロリストのような気分になった。事実、これは爆弾なのだ。
僕はドキドキしながら、それを部屋まで持ち帰った。妙な罪悪感がその頭から発散されていた。
 僕はその人形の頭を今でも大事に持っている。(白川徹)

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2009年11月 3日 (火)

靖国神社/28回 潜入ルポ・秋季例大祭 第三日祭(下)〈2007年10月取材〉

靖国神社/28回 潜入ルポ・秋季例大祭 第三日祭(下)〈2007年10月取材〉

 さらに驚くべきことに、外国からの参拝者も増えているそうで、英字による説明も順次投入していくらしい。 鬼畜米英じゃないの? という感じだが、なんとなく日本語の説明しかしないという靖国らしい頑固な信念を貫いて欲しいとも思ったが、アストラが世におもねる作品を出したように、開けた靖国をアピールし始めたのか。
 と思ったら、A級戦犯の分祀問題に触れ、分祀は不可能ときた。一度合祀された英霊の分祀は事実上不可能、さらに彼らはあくまでも昭和殉難者であって戦犯はいないというのが靖国の見解だそうだ。
 最後に、私の入っている崇敬奉賛会についてふれていたが、現在の会員数は、約7万5千人。ピーク時(2002年)よりも2万人減少したそうだ。会員の年齢層を見ると、減少も仕方がないしこの先も若い会員が増えない限りだんだん減っていくのだろう。
 南部宮司の話が終わった後、本殿へ行き参拝。そして、本殿に向かって直会。あいかわらず辛口だが、たまには甘口の日本酒を出して欲しい。
 また受付のある紫のカーペット部屋へ戻ってきたが、そのときにずっしり重めの紙袋を渡された。
 神饌だ。前回の神饌は、日本酒味の砂糖菓子だったが今回は豪華そうだ。中身は家に帰ってからあけるとして、風邪がぶり返さないうちに家路についた。
 家に着き、神饌をあける。ずっしりしているからなんだろうとわくわくしながらあけると……。
  「えっ!?……こ、これは……月餅!?」
 どこかで、というより香港で中秋節の時に嫌になるくらい見たアレ。少し月餅の説明をすると、月餅とは「小麦粉、砂糖、卵、油などでこねた生地で、こしあん、松の実、ゴマ、クルミなどを用いた餡をを包み、平たい円形に焼いたもの」(広辞苑より)で、中秋節(旧暦の8月15日)に食べるお菓子のことだ。香港では、イタリア菓子の店や、スターバックスコーヒー、ハーゲンダッツでも月餅が売られていて味や形態はさまざま。これを家族で食べたり、贈答したりするのだ。
 で、靖国の神饌である。製造元は、新宿中村屋。どうやらここの月餅は定番菓子で、なんと「和菓子」にカテゴリされている。実際、他の和菓子屋さんでも月餅を取り扱っている店もあるから納得はできる。
 さて、今回もらったブツは、表面が靖国マーク(桜と菊が合体した紋章)になっている。『靖国なのに、中国伝統菓子ってどういうことだ』という感じだが、靖国としては、「『月餅』は中国伝統菓子かもしれないけど、日本人の口に合わせ作ったからからまったくの別物なの。だから神饌にしてもいいんだもねー。マークも入れたし」というところだろうか。
 私の頭では理解ができない。ごめんなさい。
 これからは柔軟性うんぬんではなく、首をかしげたくなるようなことや、新たな試み(?)と思えることに関しては「次世代に向けての新しい靖国プロジェクト」だと思って付き合っていったほうがいいのかもしれない。
 それにしても靖国はおもしろいの一言に尽きる。
 こうやっていつのまにか、「靖国」という名の底なし沼にはまっていくのだろう。
 底なし沼の先には何が待っているのだろうか。(奥津裕美)

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