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2009年10月

2009年10月31日 (土)

ロシアの横暴/第26回 ロシア的泥棒物語(上)

「ほんものの泥棒」というものがかつての日本にいたようだが、現在のロシアにも存在する。ただし、普通泥棒とは盗みを生業とするが、ロシアではもっと広義に「殺人」なども含んでいる。「盗賊」といったほうがわかりやすいかも知れない。
 最近、「ヤポーネツ(=日本人)」と呼ばれていた大物泥棒がギャング団同士の抗争の果てに死んだ。この大泥棒「日本人」は、自分たちが「法律に沿った泥棒=ほんものの泥棒」であることを強調していたそうだ。
 この大泥棒「日本人」の物語はロシア革命(1917年)後のころに遡る。当時活躍した伝説の大泥棒に「ヤポンチク=(日本人ちゃん)」という者がいた。今回死んだのはその伝説を彷彿させる大泥棒だったというわけだ。

 なぜ「日本人ちゃん」なのかわからない。現在ならば「仕事がきわめて正確」「交通信号に至るまで法律をよく守る国民」とか「サムライ・ブシドウ」となりそうだが、日露戦争直後の対日感情を考え合わせればやや無理がある。「小柄でやることが半端でない」あたりが妥当と思われる。ひょっとしたら「小ずるい」かもしれないが、ロシアで「ケチとズル」のやり玉にあげられるのはドイツ人とユダヤ人だからこの解釈もあたらないだろう。
 ではこの最近死んだ「日本人」は、ロシア泥棒史上最後の大物かといえば、この程度の泥棒を擁するギャング団などいくらもあるというから、驚きである。
大泥棒たちが「法律に沿った」ことを強調して自称するくらいだから、当然「ほかの泥棒とはちがう」ことを意味する。では法に沿わないほかの泥棒とはどんな仕事をしているのだろう?

 文豪プーシキンの代表作に、1700年代の後半、エカテリーナ女帝の統治時代にロシアを震撼させた農民一揆を題材にした『大尉の娘』がある。女帝エカテリーナに忠誠を誓った中流の地方貴族たちが主人公だから、ソ連とは相いれないはずだが、「独裁者エカテリーナ女帝に刃向かった勇敢な農民一揆の首謀者、英雄エメリアン・プガチョフ(ドン・コサック出身の貧農で、やっていたことは盗賊)」の物語として半ばこじつけで学校教科書にもとりあげられていた。ソ連の都市のややはずれた地区のどこかに必ず「プガチョフ通り」というのがあるのはその名残である。ソ連政府としては、プーシキンの素晴らしい作品を「皇帝賛歌」だからとして切り捨てるのは「ソ連(ロシア)の損失になる」ことがわかっていたと思われる。ちなみにプーシキン広場は必ず市の中心部にある。ロシア・ソ連にとってプーシキンは「マルクス・レーニン」並に偉大なのだ。
 話が横道にそれてしまったが、その英雄プガチョフが「皇帝ピョートル三世(妃エカテリーナの腹心に暗殺された)」を僭称して君臨していたときの将軍、盗賊流にいえば子分の二人が口げんかをする場面がある。

 子分Ⅰ「どうもこの客人も吊したほうがよさそうですぜ」
 子分Ⅱ「おめえは二言目には絞めるだの斬るだの、人を殺すことばっかりだな。まったく、血も涙もないやつだ」 
 子分Ⅰ「ほう、そういうおめえはどんな聖人かい?」
 子分Ⅱ「そりゃ俺だって罪深いさ。この手で異教徒の血をたっぷり浴びたからな。だが、俺は暗い森の中でやったよ。おめえみたいに、ペチカにあたりながらやってはいないね。斧の峯ではやったが、女みてえに口先ではやらなかったぞ」

 子分Ⅱが本物の盗賊魂というわけだ。ペチカにあたりながらやる殺人は本物の盗賊のやることではない。
 従って『大尉の娘』から導く「本物の泥棒」論からみればエリツィンが1994年末に始めたチェチェン戦争はまさしくペチカにあたりながらやった「法に沿わない」殺人である。皇帝を僭称した盗賊プガチョフとは逆に、大統領エリツィンが泥棒・盗賊をやっていることになり、泥棒の風上に置けない。本物流なら改革だの民主主義だの議会だの言わず、黙って誰にも知られないように暗い森の中でやるべきなのだ。(川上なつ)

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2009年10月30日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第6回 ハネムーン!

 先週のブログにも書かせて頂いたように、ドーマン法のリハビリは、プログラムの内容の過酷さも去ることながら、生半可な気持ちじゃダメなんですね~!! なにが起ころうとも、どんな災難がわが身に降りかかってきたとしても、訓練は続けなさいと言われます。火事でも続けろと言うぐらいですからね(笑)つまり集中治療を受ける大原則として、研究所から与えられたプログラムは100%、その日の内にこなし、いかなる理由があろうとも、次の再診まで中断させてはならないのです。

 が、しかし脳性麻痺者は呼吸をするのが下手で、それ故、すぐに風邪をひいてしまいます。熱を出すなんて日常茶飯ですし、軽ーく気管支炎にまで発展しちゃうことだってしばしばです。私の場合、ちょっとやそっとの熱じゃ、母が私のおでこに手をあてて『確かにちょっと熱いけれど、まぁこれぐらいだったらラブちゃんできるでしょ!?』と言われ、普通に訓練を続けていましたし、あきらかにヤバイときだけ、フィラデルフィアの研究所へ国際電話をかけ、事情を話して訓練を休んでもいいか、スタッフに許可をもらっていました。そんなん体調が悪い時ぐらいテキトーに休んどいたらエエやん!見張られているあけでもあるまいし・・・と幼い私は、そう思っておりましたが、今になったら妙に納得できるんですね。誤解を恐れずに言うならば、親が(良いか悪いかは別として)ここまで、マインドコントロールされていなければ、続けられない訓練法であるということなのでしょう。

 息がつまるくらいの毎日を何年も続けられる程、人は、精神的に強くはできていない。このことにドーマン博士も気づいておられたのでしょう。2年に一度ぐらいの割合で「ハネムーン」という2カ月間の休暇プログラムが執行されます。
 この休暇の目的は、トレーナーである親の一時解放と、障害児(者)と家族とが触れ合う暮らしの中で心身ともにリフレッシュし、また新たな気持で過酷な訓練に立ち向かう英気を養うことを狙いとし、設定されているのだそうです。世界各国から患者が集まるドーマン法。それぞれのお国柄の違いが、このハネムーンの活用法にも表れています。日本人のほとんどの家庭では、この2カ月間、2カ月だけでも、我が子を学校に通わせようとします。私たちも一応、生粋の日本人ファミリーだったのですが、2カ月間だけ通って何になる!という父の一言で学校へ行くという選択はしませんでした。ちょうど『奇跡のラブちゃん』という本を製作中(両親が著者)だったので、その本に寄稿する為の執筆活動(童話ですが・・・)に追われてハネムーンが終わってしまいました(笑)

 この夢のようなプログラム「ハネムーン」をあなどっちゃいけません!!
 たった2カ月間しかない上に、全く好きなように過ごしていいといいつつも、ハネムーン期間中に身につけたことなどをレポートにまとめなければならない義務が課せられているのでした。

 いくらなんでも自堕落な生活はできませんもの(笑)
 これぞ究極のマインドコントロールの術!といったところでしょうか?)(大畑楽歩

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2009年10月29日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第24回 番外編・ふられた僕がプラハで爆弾をもらうまで

 観光客の多い通りを避けながら、道を選ぶ。プラハの街はまるでカラー映画を無理にモノクロに落としたように不自然に陰気で、ゴツゴツと突き上げる石畳の感触が僕を憂鬱にさせた。プラハに限ったことではないが、ヨーロッパの観光地なんてこんなものだ。歴史的に重要な場所は全て観光客向けの店に埋もれ、歩いているのも観光客だけだ。まるで街ごとディズニーランドである。巨大なテーマパークだ。本当はそこにあったはずである人間の営みが、上から石膏で固められ、まるごと隠されてしまう。あまりにアンリアルな光景と、無遠慮に笑いながら歩く観光客たちの人いきれで、ものみなひしゃげて眼に写り、僕はまっすぐ歩くのも困難な体たらくである。

 プラハ城からフラフラと人通りの少ない通りを歩いていくと、フランツ・カフカ博物館があった。吸い込まれるように入ると、カフカ直筆の手紙などがおいてあった。
 妙に安っぽい普請の建物の中で、僕はカフカのハンド・ライティングを凝視した。書きなぐるように書いているのだろうか。スラスラと感情無く書かれているのだろうか。それとも、引きずる様に書かれているのだろうか。僕には判断がつかなかった。ただ、思ったよりもきれいに書かれていた。けれど紙の各所にインクがポタポタとたれていた。時間をかけて書く人なのかもしれない。
 カフカは生前まるで評価されなかった作家だ。家族とも折り合いが悪く、30歳のときに婚約した女性とも一緒になれなかった。保険局の役人と小説家の二束のわらじで、孤独と人間関係失調症の上、40歳で寂しく息を引き取った。彼も、観光地化される前のこのプラハを歩いていた。この陰気な街で彼は何をどう感じたのだろうか。僕と同じ気持ちで歩いてくれていればいいのにな、と思った。

 僕はあまりカフカの小説が好きではない。彼の小説の中に人間的な共感を呼ぶものがひとつとして感じられないのだ。僕の勝手な所感だけれど、カフカはある時点で他の人間に自分の考えを理解してもらうことを諦めたのではないか、と思う。人間だもの、彼だって理解してもらいたかったはずだ。けれど、どこかでそれを諦めざるを得ない、というような一種の悟りに達したのではないだろうか。

 僕は、自分の書くものをそうだと言えないでいる。僕はいつでも、道化を演じてでも、何とか人間の根源にあるものを引き出したいと考えている。成功しているとは言えないが、少し投げやりになっているとも言えるが、どこかでまだその希望を捨てずにいられないでいるのだ。
 安っぽく大仰に言えば、人間の相互理解の希望から抜け出せないでいるのだ。

 実は、と構えて言うほどのことでもないが、このヨーロッパ旅行に一緒に来た女性にイタリアで逃げられた。イタリア、フランス、ドイツ、ポーランド、チェコ、と一緒に旅するはずだったが最初の国で彼女を失ってしまった。
 あらゆる意味で、僕が悪かったのだが、原因を言えば、僕が自分という殻から出てくることができず、その苦しみに耐え切れず、己が醜い面を最後の一滴まで搾り出してしまったのだ。
 錯乱した挙句、泣き落としや卑怯な説得も試みたが、結局は全てがあるべきところに落ち着いた。

 僕はその後ひどい神経衰弱に襲われた。何を食べても味を感じず、どんな強い酒でもジュースのように飲めてしまうのだ。味覚がなくなってしまった。眠れないのだから酒をあおるが、2時間もすると目が覚めてしまう。己が宿痾の正体を見れまいかと、朝までベッドの上を転がり続ける。もうろうとした意識の中でただただ、あらゆる身の回りの人の幻影に許しを請い続けている。

 僕は、腐った臓物のような脳みそを抱えて、プラハのキオスクで新聞をひとつ買った。英国のガーディアン紙だ。目のピントがなかなか合わず、最初はうまく頭に入ってこなかったのだけれど、そこには「アフガニスタン大統領選挙、決選投票に」と書いてあった。
ああ、何てことだろう、と私は口に出した。いよいよ眩暈が足にまで来た。これでカルザイ側のパシュトゥーン人とアブドラ側のタジク人やウズベク人の間での亀裂が決定的になるだろう。ややもすると民族間の紛争につながりかねない。
 選挙で不正があったのは事実だ。僕はこの目でそんな事例を山ほど見てきた。でも、何としてでも、不正を飲み込んででも、軟着陸させるべきだった。
先進国は選挙に不正があった、と声高に言うけれどアフガニスタンでまともな選挙ができるはずがないじゃないか! 彼らは「選挙に不正があれば、国民の信任が得られない」と言うけれど、アフガニスタンの実情を知らなすぎる。
アフガン人で選挙が正当なものだと思っている人なんていないのに。選挙、というシステム自体に疑念や怒りをもっている人が多いのに。
 アフガニスタンと先進国の関係って、一方通行だ。外国は「これが正しい」と自分たちのやり方を絶対的に正しいものとして押し付ける。相互的な意思疎通も、理解もあったものでは無い。

 ああ、でもそれは僕も一緒だ。僕と彼女の関係ってそうだった。僕が欧米の側で、彼女がアフガニスタン。僕はいろんなものを押し付けたし、自分の都合しか考えていなかった。もっと言えば、己が醜さにまったく気づいていなかった。
 意思の疎通、それを心から望むのだけれど、それができない人なんだ。善意なんだけれど、押し付けがましい、独りよがりな、他人を理解できない独善者。

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2009年10月28日 (水)

鎌田慧の現代を斬る/第135回 新政権・波瀾の船出と沈みつづけるトヨタ

 新内閣が成立して40日目、衆参両院本会議で鳩山由紀夫首相が所信表明演説をおこった。新しい時代を政治で切りひらこうとする思いがよくあらわれた、好感のもてる内容であった。
 演説冒頭では「総選挙において、国民の皆さまは政権交代を選択されました。これは日本に民主主義が定着してから、実質的に初めてのことです」と宣言されていたが、ここにはチェンジした政治を歴史的に位置づけようという精神がよくあらわれていた。「一人ひとりの強い意思と熱い期待に応えるべく、私たちは『今こそ日本の歴史を変える』との意気込みで、国政の変革に取り組んでまいります。」とも語っている。
 歴代の首相でも、時代の変革を明確に告げた者はいなかった。そういう意味でも新しさを感じることができた。苦心の作といってよい。

 演説で強調されていたのは、「人の命を大切にし、国民の生活を守る政治」を実行しようということだった。これこそまさしく政権を変えた選挙民の願いだ。ブレることなく、今後の政治の基本に据えてやってほしい。
 また「地域のきずな」や「人間のための経済」、「架け橋としての日本」など、開かれた日本にしていこうという意欲もあらわれていた。さらに首相のキャッチフレーズである「友愛」を政治の目標として掲げ、障害者や高齢者、難病患者との共生にもふれている。「弱い立場の方々」とか「少数の人々」「市民」「NPO」などのフレーズが並んだ所信表明は、小泉型の効率・競争・自己責任の政治からの脱却を示している。

 さて、問題点は、憲法について語られなかったことだ。約1万2900字、52分という異例の長さのスピーチに、「憲法」の二文字がまったく見あたらないのは残念である。
 新しい時代は、平和憲法に則っていくという思想が大事なはずだ。「平和憲法を守る」とか「平和憲法は譲らない」などの言葉があってしかるべきだった。
 これは無い物ねだりというものではない。「人の命」や「国民の生活」を大切にしようとするなら、平和が絶対に必要であり、平和と民主主義を語るなら、9条の存在を無視することなどできない。
 また米軍基地の縮小問題や自衛隊の膨張にどれだけ歯止めをかけるとかいう、軍縮の方向性についても、演説ではふれられていない。オバマ大統領が打ち出した「核のない世界」という提案に共感し、非核三原則の堅持にも言及しているだけに、もう少し踏み込んだ日本発の独自な発言がほしかった。新政権で予算の膨らんでいる福祉関連の原資は、防衛の予算削減などでやっていくしかない。その意味でも、重要な項目であった。

 もう一つ残念なのは、労働問題に関連して、人材育成や中小企業の資金繰りなどには言及したのに、非正規労働者という視線がなかったことだ。緊急の課題である派遣労働者の雇用をどう安定していくについては、民主党の躍進を支えた多くの人びとが注目していたポイントだったはずだ。
 具体的な問題は、これから詰めていくのであろうが、首相が問題として認識していないも可能性もあり、今後の政治運営に注目する必要がある。
 また「戦後行政の大掃除」という表現も気になった。安倍元首相が繰り返した「戦後レジームからの脱却」や中曽根元首相がいった「戦後政治の総決算」と言葉が似ているだけに、どこが違うのかを明確にすべきだった。戦後の民主主義は、労働運動や市民運動などの大衆運動でつくられてきた。そうした歴史の否定として、「戦後行政の大掃除」が使われないことを願っている。
 もちろん、ここでは官僚依存行政を批判しているのだろうが、それなら「戦後行政」ではなく、「自民党政治」あるいは、[55年体制がつくってきた官僚依存」とハッキリいわないと、戦後政治の否定にならないか不安になる。
 いずれにしても、これから所信表明に基づいて新しい政治がおこなれることになるはずで、当分は期待とともに監視していきたい。

全文は→「11.pdf」をダウンロード

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2009年10月27日 (火)

『民主党波瀾の航海』ついに発売!

Kamata09_120 大変お待たせいたしました。

反骨のルポライター・鎌田慧が初めて民主党に提言した『民主党波瀾の航海』が、店頭に並びはじめました。

製造現場への派遣を禁止せよ!!

天下りを根絶せよ!!

普天間基地を撤去し、辺野古の計画を白紙撤回せよ!!

取り調べの全過程をきちんと可視化せよ!!

『自動車絶望工場』の著者が、自公悪政の反省点をふまえて吠える「愛の鞭」11章。

友愛社会ってなんぞや?

いったいこれからこの国はどうなっていくのか?

そんな疑問のヒントになる言葉が散りばめられています。

全国の書店でご注文いただけます!!(編集部)

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2009年10月26日 (月)

ロストジェネレーション、自らを語る/男、27歳、試験勉強中

(前編)
 東北の都市部に育ちました。都市部といっても、家は街外れなので、しっかり田舎です。
 家業は材木屋です。長くやっていてそれなりに裕福だったらしいんですが、祖父の代に大きな借金を負ってしまいました。父が30歳で会社を継いだ際、はじめにやったのが人員整理と資産の売却でした。経営者なら絶対にやりたくない仕事ですが、父の仕事はそこから始まったんです。お嬢様育ちの母は、そういった状況に突然おかれたうえ、林業独特の封建的な雰囲気に相当まいっていたようでした。
 そんな大変な状況の中でしたが、僕は結構のほほんと育ちました。周りの友達が良かったんです。野球が好きで、小学生の頃は草野球チームのピッチャーをやらせてもらっていました。勉強なんてまったくしない腕白小僧でした。でも、6年生の時、左足の半月板に障害が見つかってしまって、自分の足で立ってられなくなっちゃったんですよ。中学に行ってから手術をして、そこから一気に変わってしまいました。
 やりたいことがやれない反動で、すごく暗い性格になっちゃったんです。それまでが活発な子だったんで、ちょっといじめられてしまったりして。でもこっちも黙っていられないので、なにかされたらやりかえす、を繰り返すうちに周りの人間が絡んできてゴタゴタした状態になってしまって、あれは本当に嫌だったなあ。地元にいたくないという気持ちがすごく強くなってしまって、勉強を頑張ろうか、と思い始めたんです。そして高校は中心部の進学校に入りました。高校のくせに学園闘争がすごく盛んだったところで、制服の自由化を実現させたり、校則を自分たちで決めていたり、面白い学校でしたね。学校生活は本当に楽しかったのですが、逆に家の中はだんだん暗い雰囲気になってきて。反抗したい盛りなのに、母が精神的に追いつめられている状況にあり、腫れ物に触るように接しなければなりませんでした。身勝手なんですが、すごく1人になりたくなってしまったんです。そうだ、東京に行こう、と決意しました。

 進路が決まるのは早かったです。理系は全くダメで、歴史の話がすごく好きでした。地元では歴史上の出来事を題材にした祭りがあって、みんなで集まって次のお祭りでは何をやるかと話し合うわけですよ。あの合戦をやろうとか、この故事はどうだとか…そうやって歴史を学ぶうちに、視野が広がっていくのがすごく面白くて。家庭のことを忘れることができたし、そういうものが必要だったんだと思います。

(前編終わり)

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2009年10月25日 (日)

大好評大河連載第5回/師弟共戦の決意なき増長者共を蹴散らして、大座談会運動の天地に轟く嵐を巻き起こせ!!

 池田名誉会長のご本は書店で買う時さえも、身と心が踊る快楽の瞬間だ。知っての通り名誉会長は、日本、いや世界の知識人階級の、圧倒的な支持を得ている。当然日本全国の書店で、名誉会長コーナーのない店鋪は存在しない(時代遅れの何でも反対政党、共産党系の見る影もなく落ちぶれた、バラック小屋風書店が数軒、細々と生き長らえてるのみ)。

 「八重洲ブックセンター」と言えば、東京駅八重洲口の日本を代表する、大型書店の元祖だ。宗教コーナーは4階。当日は電車(新幹線)の都合のため、レジの女性従業員に、「池田名誉会長のご本のコーナーは、どの辺でしょう?」と、姿勢を正して尋ねた(本当は自ら汗を流して見つけるのが、弟子の義務であり喜びだが、何せ筆者は群馬から飯田橋への超遠距離通勤者!)。利発そうで美しいその女性は、筆者の質問に一瞬雷鳴に打たれたような表情を浮かべたが、即座にそれは感極まったビーナスの微笑に変化、「あちら右奥、43番の所でございます!」と答えた。その質問こそ私は早朝から待っていたという風な、親切かつ適格な対応に、「弟子同士に違いない!!」と直感、さわやかな余韻は1カ月以上に及んだ(弟子仲間こそ名誉会長が地球上に築いてくれた、四方を照らす磐石な“0人間灯台”なのだ)。

 『若き指導者は勝った 池田大作-その行動と軌跡』(聖教新聞社・本体476円)は、やや地味な造本だ。題名が金文字で白地に3行縦に。何か迫力不足。黄赤ベタの帯に“聖教新聞連載が単行本化!”との白ヌキのタタキ文字も、事実経過を示すのみで、芸も工夫もない。発行は09年5月3日(発行者・松岡資)。いかに時代や世界を領道する中身の本でも、「おやっ?」と人々が手にしてくれなければ、広宣流布の大旋風を、三類の強敵に対して、新たな同志が起こしようがない。特に“聖教新聞連載が~”のタタキはひどい。旧来の読者におもねるだけで、打って出るのだという、忠実な弟子としての報恩精神に欠けている(育ててもらった師の胸に、成人してからも抱かれて居眠りをしている。増長し甘え切った人間が何万人集まろうが、真の戦いはできない!!)

 夏の衆院選の敗北は既に用意されていた。聖教新聞社のたるみ切った一部幹部は、以下の言葉を噛み締めよ。“鉄の団結で進むのだ。まずリーダー自身が、最前線を走って走って走り抜く。正義と真実を、しゃべって、しゃべって、しゃべり抜いて戦うのだ”(方面局長協議会での名誉会長の発言)。過去の遺産を小心翼翼と守り抜こうというような考えで、大座談会運動に勝利できると思うのか?創立80周年の輝ける峰へ、希望の大登攀を我らが“師弟共戦”の決意で開始している時に、後ろから矢を射るが如き忘恩鬼畜の弟子が存在するのは、情けないし怒りで全身が震える。

 しかし本書、中身はカバーと異なり素晴らしい。19歳での入信当時の名誉会長の貴重極まるお写真を筆頭に、何葉もの日本宗教史・思想史・文学史・写真史に残る感動的瞬間が、シャープな印刷で刻印されている(とても定価500円の本とは思えない配慮だ)。さすがは“漫豪”手塚治虫も元読者で、是非連載したかったと語っていた、戦後を代表する名少年誌、『冒険少年』編集長だった、名誉会長の本らしいセンスだ(中身の担当編集者は、まだ弟子としての自覚が。いや、当然ながら会長直々の指示か?)。

 日本正学館・第二代会長・水滸伝・大阪の戦いの4部構成。我らとしては、わずか
数カ月の訪問指導だけで8000人の友に会い、徹して渾身の激励を続け、“まさかの参議院選大勝利”(1957年当時の『朝日新聞』他)を切り開いた、4部から読みたいのは山々。しかしそれは弟子として邪道だ。血を吐くような日々の戦いがあってこその、大阪の奇跡の大勝利。ヘリコプターで創立80周年の輝ける峰へ達しようと安易に考える、“三世に渡る師弟共戦の誓い”にツバする者は、即座に我らの眼前から去れっ!!“初級・3級試験へ数学研讃(けんさん)の息吹(いぶき)。法華折伏(ほっけしゃくぶく)・破権門理(はごんもんり)の闘争精神を刻(きざ)め”(「聖教新聞』9月29日付け「寸鉄」より)。

 普通、偉人の伝記は貧しい時代が一番輝き、功成り遂げて後は案外退屈する。しかし本書は希有な例外だ。最初から最後まで常に頂点を極める、強烈な知的面白さの連続だ(先般、『クレヨンしんちゃん』の原作者が死亡した航空母艦状の山、荒船山を連想。実は筆者の自宅からそう遠くなくて…)。しかも、頂点を極めていながら、一本調子にならず鋭い緩急がある。杓子定規な人は、「日本語の表現として矛盾してる!」と叫びかねない。なら以下の、文体、内容、韻律を問わない、日本語の美はかくあるべしとの下りは、一体どう説明がつくのか?“「戸田城聖という人が、何度か駒込(こまごめ)のアトリエに足を運んできた。見るからに利発(りはつ)そうな青年が一緒(いっしょ)だった」(中略)
「皆が騒(さわ)いでいる中で、じっと静かに絵の完成を待っている。知的で折(お)り目(め)正(ただ)しい。このハンサムな若者は、他の連中と、ちょっと違っていた」/この「ハンサムな若者」こそ池田青年だった。すぐに、打ち解けた。/「おれは大好きだった。一時間も話し込んだことがある。キリスト教と仏教のどちらがすぐれているか。論争(ろんそう)したこともあったよ」”(20Pより。弟子の塩山の注釈。発言者は画家・小松崎茂のアシスタント、根本圭助)

 しかし、最近の名誉会長のお写真が、やや肥満気味で“ハンサム”の概念とやや異なるのは、弟子の私とて承知している。若い信者の中には、「ハンサムな若者」の雄姿を知らない者もいよう。そこで『聖教新聞』編集局長に、私は断固要求する。1面の名誉会長のお写真は、ハンサムな若者時代、壮年期の3代目会長就任時、そして現在の物と、常に3葉を掲載すべし!!!

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(つづく)(塩山芳明)

■塩山芳明…雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

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2009年10月23日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第5回 リハビリは命がけ?!

 ドーマン法は、世界一厳しいリハビリ法であると言われています。
 そりゃそうでしょうね~。義務教育ですら受けている暇はないのですから(笑)
 日曜日であろうと祝日であろうと、もちろん、盆や正月であろうとも、年がら年中、朝5時50分に起きて、パターニングからはじまり、一日のカリキュラムをすべて消化しなければならない生活を強いられるのです!

 与えられたプログラムは各自の家庭で家族の手によって、行われることが大原則であります。なので、すべては親次第。いくら世界一厳しいとはいえ各家庭に監視カメラが備わっている訳ではありませんので、与えられたプログラムを忠実にこなすか否かは、自己責任に委ねられているのです。しかし、親たちの多くは遠く離れた異国の地にいるスタッフ(監視の目)に見張られているような気分で日々を過ごしています。というのも、半年に一度、必ず朝から晩までみっちりと一週間にわたって各スタッフ(ドーマン博士も含む)によるレクチャーを両親揃って受けなければならず、また次の再診までの半年の期間には、2度の報告書の提出(プログラムの進み具合・与えられたゴールに何パーセント近づいたか?・プログラム上で生じた問題点など)に加え、プログラムの様子をビデオに撮って送らなければなりません。もちろん、これらの報告書と実際の再診の際に食い違いなどが生じた場合(又は、与えられたゴールが100%クリアできなかった場合など)その時点で容赦なく「お辞めなさい」と言われてすべてが終わってしまいますから、誰にも見はられている訳ではないのに親が毎日、必死になるのも無理はないのでしょう。

 それに加えて、もう一つ大きな要因としては、半年に一度受けなければ次のプログラムがもらえないという“講義”による親へのマインドコントロール作用が大きいかと思われます。

 ワタクシ自身(=障害者本人)は、この講義を受ける義務はありませんでしたが、暇に飽かして何度か聞いたことがあります。(だって、両親が朝から晩までレクチャーを受けている間、私は宿泊先のホテルの部屋で一人待っていなくてはならないのですから…。)何が笑えるかといったら、極論を熱弁されているスタッフ達もそうですが、このおっかしな講義をクソまじめに聞いている親たちの真剣なまなざしも可笑し過ぎます。(むろん、この講義を受けないことには、我が子を診てもらえないのですから、真剣になるのもやむを得ないことなのかもしれません…)
 お国柄の違いやジョークの派手さ(いわゆるアメリカンジョークというやつです)を差し引いたとしても、あまりにも極論を言い過ぎている印象を私は受けました。
 ちょっとぉ!それおかしくないか!?と突っ込みたくなるようなお話ばかり。
書き始めればキリがないぐらい様々な講義の内容が思い浮かんできますけれども、今日はその中の一つだけ、みなさまにご紹介しますわ~。

 今からご紹介するのはドーマン博士がレクチャーされていた時の内容です。

 もし、訓練中に家が燃えてきたとしても(家が火事!?これは一大事です!)、消防署に連絡したならば、あとは訓練に必要な道具を持ちだし、火が消し止められるまで、ご近所さんのお宅を借りて訓練を続けなさい。と…………。

 そんなアホな!!と思いません??

 おそらく、このレクチャーを受けていた中で、このような突っ込みをいれたくなったのは、私だけだったのでしょうね。(大畑 楽歩)

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2009年10月22日 (木)

靖国神社/26回 潜入ルポ・秋季例大祭 第三日祭(上)〈2007年10月取材〉

 9月のある日、私宛に一通の封書が届いた。靖国からだ。
中には招待状とはがきが入っていて、手紙を読んでみると、どうやら秋季例大祭の第三日祭の案内だった。
 内心、『祭に招待されちゃったけど、土曜日の午前中かよ!』と思ってしまったが、靖国ライターとしては、雨が降ろうと休日だろうと正月だろうとクリスマスだろうと誕生日だろうと、行かなくてはならない。
 さっそく、返信はがきの「出席」に丸を付け返信。

 そして、待ちに待った10月20日がやってきた。実は、前日まで風邪でずっと寝込んでいて、明日は大丈夫だろうか……という心配をしていた。
 しかし、英霊の気遣いなのか、それとも仕事人としての執念が勝ったのかはしらないが、熱が下がり重かった体も軽く、スッキリ。「うーうー」とうめいていたことが嘘のような朝を迎え、さっそく靖国へと向かった。
 冷たい風が吹いていいるものの日差しがあるおかげで少し暖かい秋の陽気。神門へ向かう人々は心なしか高齢者が多い。
 神門をくぐると、拝殿の幕が紫(通常は白)に変えられ、能楽堂前では菊花展が行われていた。
 案内には参集殿横で封筒を渡すと書いてあったので行くと、大勢の人だかりができていた。並んでいると、隣の列でよろけながら立っている男性が、「来年あたりはもう一人でこれそうにもないねぇ……」と寂しそうに言った。戦後60年というのはこういうことでもあるのかと感じた。
 自分の番になり玉串料を納めた。すると、「靖国神社秋季例大祭第二日祭 第三日祭祭式次第」と、リボン、そして「遊就館無料招待券」を1枚もらった。
 割引券ではなく、招待券。有効期限が書いていなかったので、近くにいた靖国関係者に聞いたところ「無期限です。(遊就館が)ある限り使えます」とのこと。内心、「そりゃ、なくなれば使えなくなるだろうよ……」と突っ込みをいれながらも、無期限チケットは嬉しいと思い、参集殿へ入った。
 紫のカーペット(ふかふかで気持ちいい)の上を歩き、拝殿へ向かう。
 拝殿には椅子が並べられていて、すでにほとんどの席が埋まっていた。
 私が拝殿についた時点でまだ9時10分くらいだったのだが、いったい何時から来ていたのだろうか。

 開始は10時からなので待つ。
 ぼーっとしながら待っていると、突然「ドーン!」という太鼓の音が鳴った。
 9時50分。お祓いが始まった。そのお祓いは何メートル先まで威力があるのかはわからないが、何かが祓われたのだろう。
 10時。「ドーン、ドーン」と太鼓が鳴った。鳴る前に「太鼓が鳴ります」というアナウンスがあったので、大音量でも心の準備をすることができた。一回目は突然だったから。
 そして、国歌斉唱。『君が代』は他国の国歌に比べれば地味だが、「さざれいしの~」あたりのパーカッションの盛り上がりがなかなかかっこいいと思っているのは私だけだろうが。いろいろうるさく議論されている詞はともかくとして、メロディーは荘厳でリズムに波があるので好きだ。国歌斉唱は2回繰り返された。2回も繰り返すのは曲が短いからだろうか。初めて繰り返し合唱を体験したときはカルチャーショックを受けたが、今回、純粋に繰り返して聞いてみると、1回では短く、2回だと歌った気分になるというか、ちょうどよい長さに感じられた。ただ同じ歌詞を繰り返すのは退屈なので、さらに2番があればしっくりきそうだ。
 その後、宮司が内陣の扉を開いたらしいのだが、席が後ろの後ろ、さらに柱が邪魔で見えない。ただその最中に「おーーーー」といううなり声のようなものが聞こえてきただけだ。いったい何が起こっていたのやら。
 10時18分宮司が祝詞を奏上。
 10時23分『鎮魂歌』と『靖國神社の歌』を合唱。
 『ようこそ靖國神社へ』(近代出版社)に『鎮魂歌』が載っていたが聞くのは初めて。この曲はおいておくとして、『靖國神社の歌』は、主婦の友社が献納し、作曲は陸海軍軍楽隊がしている。歌詞は書けないが、詞を読めば靖国の歴史(というか存在意義?)がよくわかる一曲。この曲が靖国のすべてを語っているという素晴らしい構成になっている。興味があったら是非聞いてみてもらいたい。歌以外の演奏は國學院大學吹奏楽部が担当していた。 10時33分。特別参列者代表の崇敬奉賛会会長代理と、奉賛会総代による玉串奉納が行われた。
 10時39分。「国の鎮め」という曲を合唱。
 10時41分。南部宮司(靖国で一番偉い人)が挨拶。その挨拶でいろいろ興味深い話を聞くことができた。
 今回の例大祭でなんと英霊が10柱増えたそうだ。増えたということは、合祀された人物が10人増えたということだ。戦後60年たっても増えるんだ、と素直に驚く。
 そして、遊就館の来場者数が50万人を超え、さらに青少年の参拝も増えているそうだ。夏休みは、小中学生の遊就館拝観料無料キャンペーンも行っているそうだ。
 どうやら本当に、「靖国ってなに?」が「靖国行ってみない?」に変化しているらしい。ムーブメントから定着。マスコミの煽り、小泉元首相の靖国連呼と参拝、もしかしたら2ちゃんねるの効果? とにかくいろいろな要因が考えられるが、今後の日本を担っていく若者たちが歴史を積極的に知りにいくというのはよい傾向なのではないだろうか。(奥津裕美)

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2009年10月20日 (火)

不景気でスパムメールが……

 のっけから滅入る話で申し訳ないが不景気である。
 出版界など昔から景気が悪すぎて、多少の不景気なら驚かないが、さすがに今回の不景気は深刻度が違う。
 これだけ景気がヒドイと、意外なところにも不況の波が押し寄せる。

 先日、編集部で話題になったのは『カイジ』の映画化だった。累計で1100万部を超えるヒット漫画だから映画化されても不思議はないが、雑誌連載から13年をへて到来した不景気が、読み手側のリアリティーが倍増させたことも映画化の要因に思える。
 漫画の内容は、保証人となって多額の借金を抱え込んだ無職の青年カイジが、一発逆転を賭けて闇の帝王が支配するギャンブルに挑戦する物語である。ギャンブルの内容はさまざまだが、負ければ残虐な仕打ちが待つ。それでも勝負に身を投じる姿は、大ヒットを求めて本を出版する我が姿にも似る。うーん、怖い……。

 もっと意外なことに、不況はスパムメールに影響をおよぼしている。
 じつは私のメルアドは、異常な数のスパムメールがくる。以前、既婚女性の恋愛を取材した際に、出会い系に登録しまくった影響だ。それから10年近くたつが、スパムは衰えを知らない。たまに少なくなる時期もあるが、どこに名簿が売られるのか、ある日いきなり復活する。
 それでも、いつもは賢いブラウザが迷惑メールとして仕分けてくれるので、まったく目に触れる機会がない。ところが先日、その設定を知らぬ間に自分でいじってしまった。おかげでスパムか必要なメールかを、チェックせざるを得なくなったのだ。
 そのとき気が付いたのが、報奨金付きの「出会い」勧誘の多さである。
 いきなり旦那が死んで遺産を相続したので、お金をあげるから付き合ってほしい。風俗で稼いだお金を貢ぐので抱いてほしい。バリエーションはさまざま。しかし軒並み数百万円から1千万円単位の「援助」が並ぶ。
 サイトに登録した当初、金銭で釣るスパムはほとんどなかったように思う。ちょっと可愛い女性の写真が付き、「必ず連絡してくださいね!」などと書かれたメールが届くだけだった。それがいつの間にか、付き合うだけではなく、報酬まで約束されるようになっていたわけだ。
 会ったこともない人に数百万円の資金提供を申し込んでいるのだから、リアリティーなど出しようもないが、業者も工夫はしている。お金を渡す理由を縷々書き連ね、ちょっと陰のある美人女性の写真が貼付されている。さすがに信じる人はほとんどいないだろうが、これだけ同じようなスパムが届くということは引っかかる人もいるのだろう。

 金と色欲で引っかける商法は昔からあった。出張ホストの募集に応じてみると、大事な顧客を怒らせたからという理由でカネをふんだくられるなどは、かなり古典的なサギといえる。ただ、こうした“商売”と比べても、スパムのリアリティーのなさは際立っている。

 業者が要求しているのは、事務費としての5000円程度。支払えば、すぐに数百万を入金するという。遊び心で支払う人もいるかもしれないが、多くの人は信じてというより望みを託して振り込んだような気がしてならない。
 こんな「商売」さえ信じたくなる世相に、なんだか悲しくなってしまった。(大畑)

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2009年10月19日 (月)

書店の風格/第39回 啓文堂吉祥寺店

 京王関連線沿線ぞいにあるのが、啓文堂書店だ。
 だから、もしかしたら車をよく使う人には縁のない本屋さんかもしれない。さらに駅直結、たいていはインショップ系だから、奥ゆかしい印象を受ける。しかし、そんな啓文堂のなかでも群を抜いて目立つ店舗がある。吉祥寺店だ。

 駅隣のビルの地下に配置されながらも、圧倒的な存在感を誇る吉祥寺店。郊外のバイパス沿いにあるワンフロア店舗を思い出させるような広さが魅力的だ。駅側からアクセスすると文芸書コーナーに出るのだが、このスペースだけでも都内であれば一つの書店と見間違えてしまうだろう。実は奥にビジネス書や専門書のフロア、さらに奥には実用書や児童書のフロアがあり、こちらはビル母体であるユザワヤ側から一番近い。対象客の銅線を捉えた、美しいフロア展開である。

 この書店、中でも出色は児童書からはじまってヤングアダルト系の品揃えである。今はライトノベルに完全に置き換わった気もするヤングアダルトだが、外国文学の爽やかさを喜ぶ人々は今も健在だ。文芸書のコーナーに並ぶ重厚な上製本は、古きよき時代を匂わせる。新書ブームも実用書ブームも糞食らえの、書店精神が一心に叶えられているのだ。その棚の前に立つと、エキチカであることの騒々しさなど忘れてしまう。おっとりとページをめくりたくなるような、そんな空間が出来上がっていて、ついつい長々と立ち読みしてしまうのだ。

 良書を求めて、重厚なつくりの、丁寧な印象の本屋にだけ行っているとしたら、それはちょっと先入観が勝ちすぎる。一見、急いでいる人だらけのシンプルな駅中書店も、工夫は変わらない。京王線を使うときは、ぜひ立ち寄っていただきたい。(奥山)

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2009年10月17日 (土)

Brendaがゆく!/鳩山幸様

ライフコーディネーター

食についてたくさんの知識をお持ちだと思うので、ぜひ、日本の素晴らしい食文化を広めていただきたいですよね!

日本の料理がイタリア料理みたいに世界中に広まれ~~~

材料もイタリア料理のように世界中で安定した需要と供給があれば~~~

日本は食材輸出大国になり。

海外でも日本の認知度は上がり。

日本といえば健康

健康と言えばライフクオリティー

日本は、クオリティーオブライフの高い国~~

な~んてね。

でも、働きすぎてたくさん自殺するから元の木阿弥なんだけど。。。汗

それでも平均寿命長いんだから、自殺が減りまくれば平均寿命100歳ぐらいまでいっちゃうんじゃないの?

ところで、サルコジの妻と比べると鳩山様の奥様は、100倍普通というか、非難されるような面ってないと思うので、自虐的な日本国民が煽って彼女を傷つけないといいと思うけど。

あのさ、インターネットで、ファーストレディーのヌードがみれるのも、フランスぐらいのもんだよね。

鳩山幸さんが、前の結婚についてとか正直に話しているのはむしろ好感がもてるよ。これもインターネットで見てみた。

人の嫁を奪い取った、由紀夫氏については、結婚なんて、子供がいなければただの紙の上での問題なんで、愛があればそれくらいはいいんじゃなくって?

子供のいる人の連れ合いを奪うのは、世界最低レベルの泥棒行為と思いますけど。。。

鳩山幸様

日本人全員のライフをコーディネートしてくれ。

そして、世界中に日本食を広めてくれ!!!

折り紙だとか、書道だとか、日本語だとか、剣道だとかの文化は、どうでもいい。どうせあんまりひろまんないだろうから。汗

でも、食事は、みんな毎日食べないと死んでしまうから。

日本食、日本食。。。

ところで鳩山夫妻のルックスって、コケティッシュでなんかいいよね。笑

しかし、最後に言わせてもらえば、やはり鳩山由紀夫も総理になる器の人間であるかと言えば、そうではないと思う。

(公然と他人を批判するのは、私の趣味じゃないのだけど、政治の話だからね、本人の批判ではないです)

日本の政治はここが大きな問題だ。

だから、総理が小泉以降、交代勤務制になってしまったのだよ。

総理に選ばれはするものの、一国の長になるような器ではないのだ。

オバマやサルコジと比べればそれは説明をしなくてもわかると思う。

サルコジの個人としてのいろいろな面について、もうさんざん!と言ってやりたいが、やはり、政治家として、国を代表する人間として、何かすごく強い人間的能力があると思う。

ただ、日本では、私生活での価値が大きく政治的立場に響くのであのような政治家が出てくることは一生無いと思うし、出てこなくていいが。

オバマ系のカリスマを持つ人が出てきたら日本では受けるかもしれない。

でも、残念ながら日本にはそんな人は、いない。だろう。

お、最後に、交代勤務時間当てゲーム!
アタクシの予想は、来年の9月までだと思う。

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2009年10月16日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第4回 診察までの長い道のり

 前回、ドーマン法の治療を受けられるまでのプロセスを書きましたが、実際にウェイティングリストに名前を書いてもらうためには、両親が二人とも揃って所定の講義を受けていなければなりません。今は、この講義も東京と神戸で受けられるようになっているみたいですけれど、私の時はアメリカの本部にまで、この講義を受けに行かなければなりませんでした。(しつこいですけれど、これだけでもすごい費用ですよね……。)

 それで、ひたすら受診できる日を待ち続ける日々……。

 私の場合もそうでしたが、大抵は、もうこの段階で訓練に取り組み始めます。
 親はすでに講義やドーマン博士の本などで知識は仕入れているので、それを元にプログラムメニューを組み、見よう見まねでドーマン法に乗り出すのです。

 そうして、待ちに待ち続けた最初の診察の日、朝の9時から辺りが暗くなるまで診察を続け、最後にドーマン博士の娘であり、スタッフのジャネット・ドーマンから言われた言葉は「脳障害児でおめでとうございます」という一言でした。
“なぜならば、脳障害なら、私たちはそれを治すお手伝いができるからだ”という説明を受けるのですが、目を潤ませながら、それを喜んで聞きいれているように見える両親を横目に、当時9歳だった私は「なんかアホくさない?ここまで来るまでに、あらかじめ報告書やプロフィールを送ってて、それで違たらどうする気なん、この人たち…。うさんくさすぎるやん。私は、もうすでに学校も休学して生活すべてを犠牲にしてるんやっちゅーのに! 日本の病院みたいに2時間待って診察2分ちゅーのも、どうかと思うけど、丸一日かけて脳障害オメデトウって…。いったいどういうこと? しかもパパたちは私が“障害者”っていうことをあれほど拒絶していたクセに何を喜んでんの?」と一人冷めた目でいました。

 さりとて浮かないようにニコニコと楽歩ちゃんスマイルを振りまきながら、これから先、前途多難な人生が私を待ち構えていることを感じつつ、両親の後をトボトボと見失わないように必死についていくしかありませんでした。(大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2009年10月15日 (木)

ホームレス自らを語る 第44回 パチンコに狂って/岡田猛さん(仮名・53歳)

 私の出身は長野県上田市で、昭和26年の生まれになります。家は結婚式場で働くサラリーマンの父と、専業主婦の母という地方の典型的なサラリーマン家庭でした。きょうだいは4人で、上に兄、下に妹が2人います。
 子どものころの私は、おとなしくてあまり目立たない子で、成績も普通でした。ただ、料理をつくるのが得意で、それがほかの子とは少し違っていましたね。
 昭和43年に地元の高校を卒業して、コックになるために東京の青山一丁目にあったレストランに就職します。洋食専門のレストランで大きな店でした。いや、チェーン店ではありません。店は青山にあったその1軒だけです。
 よくコックの修行は辛いといわれますが、私は好きな調理が毎日できるんで嬉しいくらいでした。新しいことを覚えるのも楽しかった。先輩のイジメとか、シゴキなどもない職場でした。そもそもオーナーが長野県出身の人で、従業員も大半が長野の出身者でしたから、同郷意識が強くて和気藹々とした家族的な雰囲気でしたね。
 その店で見習いから始めて、下ごしらえ、厨房と順調に進みました。シェフにはなれませんでしたけど、そこで43の歳まで25年間働きました。
 結婚はしませんでした。いわゆる結婚適齢期のころは、結婚したくて真剣に考えたこともあります。でも、なかなかチャンスがないというか、縁がないというか、そんな女の人とはめぐり合いませんでね。そのうちに面倒臭いとか、1人のほうが気楽でいいとか、そんなふうに考えるようなって、いつの間にか諦めていました。
 そのころからパチンコで遊ぶようになりました。私は酒を飲まないし、ほかのギャンブルにも興味はありません。一人暮らしでは休日にすることがなくて、その時間つぶしのために始めたパチンコでした。はじめのうちはそんな程度のものだったんですけどね。
 私が43歳のときに、働いていたレストランが閉鎖になります。レストランがテナントで入っていたビルの親会社が倒産したためです。バブル経済崩壊に伴う倒産で、ビルの親会社がゴルフ場経営に失敗したのが原因です。
 うちのレストランはただのテナントにすぎませんから、そのまま営業を続けることもできました。でも、オーナーが80歳をすぎた高齢で、しかも後継者がいないこともあって、その機会に閉鎖することになったんです。私はそこで25年間働いたことになります。
 レストランが閉鎖になって、生まれ故郷の上田に帰りました。すぐに市内のレストランに雇われました。田舎では東京のレストランの厨房に入っていた経歴が、まだ通用したんですね。
 そのレストランで働きながら、生活のほうは実家に居候しました。でも、この居候というのは居心地がよくないんです。そのころは両親ともまだ健在でしたが、実権は跡を継いだ兄のほうに移っていましたから、兄嫁とか、甥や姪に遠慮しながらの生活になってしまうんですね。
 実家での居心地が悪いから、なるべく外ですごそうとすると、どうしても足はパチンコ屋に向かってしまいます。休日などは朝の開店から入り浸って、夜の閉店まで打つようになりました。
 実家での居心地が悪かったこともありますが、私自身がパチンコを好きだったんですね。パチンコの魅力といえば、自分1人の世界に浸れること、格好の時間つぶしになること、次々に出る新しい機種を攻略していくことなどでしょうか。それに当たるとカネになるのも、大きな魅力だったですね。
 父が一昨年、母が去年、ふたりが続けて亡くなりました。両親を失って、兄一家との確執がますます激しくなり、パチンコに逃げ込むことが多くなりました。
 だから、給料の大半はパチンコに注ぎ込んでいました。私は負けが混むと、それを挽回しようとして熱くなってしまう性格なんです。一度熱くなるとセーブが利かなくなって、有りガネ全部を投入してしまうんです。兄のところに食費を入れる約束でしたが、それもパチンコで消えるようになっていました。
 2ヵ月ほど前に、もっらた給料全額を、その日のうちにパチンコに突っ込んでしまうというのをやりました。あとで兄に知れて大ゲンカになり、それで兄の家を飛び出してしまいました。そのまま電車に乗って、新宿のホームレスの仲間入りでした。
 ホームレスをしたのははじめてのことですが、とくに感想はありません。新宿には仲間がいっぱいいましたから、恥ずかしいとも思いませんでしたしね。
 ただ、私もこのままホームレスのままで終わろうとは思っていません。いま新宿の自立支援センター(注参照)に入所希望を出して、入所の順番待ちをしているところです。支援センターに入って、新しい仕事を見つけようと思っています。コックの仕事にこだわらないで、雇ってもらえるんなら、どんな仕事でも働くつもりです。働いて老後に備えるんです。
 もうパチンコとは縁が切れました。やりたくても元手を持っていないですからね(笑)。(2005年5月取材 聞き手:神戸幸夫)

※注  自立支援センター
 ホームレスの就労自立を支援するための東京都の施設で、2000年に開設された。就労意欲のあることが入所の条件で、新宿、台東、豊島など都内5ヵ所にある。入所期間は原則2ヵ月間。

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2009年10月13日 (火)

『民主党 波瀾の航海』発売迫る

 鎌田慧さんの著作『民主党 波瀾の航海』の原稿をやっと印刷所に入れた。これほど苦労した書籍も、そうはなかったと思う。
 嵐のような日々の始まりは、8月30日の総選挙。ご存じの通り民主党が圧勝した。選挙前、ここまでの圧勝を予想していなかった。新聞報道は300議席超えの可能性を示していたが、信じていなかったのだ。308議席獲得なんて視野にも入れておらず、せいぜい拮抗状態だろうと予想していた。
 選挙前の段階でも、民主党についてけっこう原稿に書き込まれていた。例えば、小沢代表による大連立構想や西松建設の疑惑などは、国民の期待を裏切る行為として厳しく糾弾していた。しかし民主党新政権によって、何が起こり、それを過去の自民党政権と照らして、どのように評価するのかについては、それほど書かれていなかったのだ。
 しかし民主党圧勝を受けての本となれば、このような分析は絶対と必要となる。そこで鎌田さんに大量の加筆訂正をお願いしたのである。もともと文章を整えるために大量の赤字が入っているなかでの、更なる加筆願い。しかも民主党への関心が高いうちに出版したいという編集者のスケベ心が、進行を厳しいものにしてしまった。
 結局、ギリギリまで最新情報を入れるため、ゲラがさみだれ式に行き来する状態となった。それでもどうにか予定通り出版できそうなのは、鎌田さんの御無理と、印刷会社の協力のたまものである。
 どうもすいません。

 さて、編集をするために民主党のマニフェストや政策集も随分と読み込んだが、けっこう細かなことまで対策を立てていて驚いた。なんせ町に出没する「熊対策」まで項目にあがっていたのだから!
 ただ現実に実行できるのか不安な部分も少なくなかった。とはいえ、その「実現性」はあくまでも自公政権を基準にしたものともいえる。鎌田さんは、今回の選挙を平和革命と表現した。革命ならば、これまでの常識が変わるのも当然だろう。実際、民主党は新しい方向性を矢継ぎ早に示している。
 一方、政権与党として求心力を保ってきた自民党は、野党に転落したことで日に日に影響力を失っている。この状態では鎌田さんの予言通り、改めて自民党が政権を取ることはなさそうだ。
 となれば民主党がどのような党なのかを、きちんと知らなければならない。自公政権時代に民主党が何をしていたのか、マニフェストにはどんな未来を示していたのか、自公政権の失敗と理解する必要がある。この鎌田さんの新刊は、そうした行動の一助になるはずだ。
 国民が監視しなければ、自公政権と同じような庶民イジメの政策が実行されてしまう。368ページと分厚い本ながら、価格は1700円+税とお買い得に設定しました。
 ぜひ、ご購読をお願いします!(大畑)

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2009年10月12日 (月)

ホームレス自らを語る 第43回 高血圧が辛い/米田順三さん(仮名・72歳)

 私は昭和7年に富山で生まれました。家は竹と木材を扱う竹材業を営んでいました。富山地方では竹を農業のはさ(稲架け)や、漁網の浮子などに使っていましたから、竹の需要があったんですね。
 太平洋戦争が終わったのが13歳のときです。富山という街は軍需工場の多いところで、終戦直前に幾度も米軍の空襲を受けました。私たちは空襲のたびに海岸まで逃げて、富山の街が天を焦がすようにして燃えるのを見ました。我が家は郊外にありましたから、幸い戦災は免れました。
 学校は新制高校を卒業しています。入学したときは旧制中学でしたが、途中で学制改革があって新制高校に変わったんです。卒業後、漁船員になってイカ釣り船に乗りました。ところが、漁船員の仕事は肉体労働なのに、戦後の食糧事情が悪いときで、飯を腹一杯食べさせてくれない。そのうえ、いつまでも見習いの扱いで、日当は半額しかくれないんです。頭にきて船は下りました。
「山奥の飯場に入れば、銀シャリが食べ放題で、日当も 400円もらえる」友人のそんな言葉に誘われて、私も山奥の飯場に入りました。友人の話にウソはなかったですよ。ホントに飯は食べ放題でした。飯場の倉庫に米俵が山と積まれているのを見ましたからね。それに町場の日雇いは日当がニコヨン( 240円)でしたから、400円という日当も破格でしたね。
 仕事はダムの工事に先立って行う、資材運搬用の道路や隧道をつくるものでした。ダムは水力発電用のもので、当時は電力の確保が国策でしたから、作業員の待遇も特別扱いだったんでしょうね。
 クロヨンダム(黒部第4発電所)の資材搬入路の工事もやりましたよ。急斜面の工事では身体をロープで吊っての作業で、上からバラバラと落石があって、それがヘルメットにガツン、ガツンとぶつかるんですからね。そうかと思うと、昼休みを終えて現場に戻ったら、午前中に作業した現場が土砂崩れの土砂に埋まっているということもありました。クロヨンの工事では大勢の作業員が亡くなっています。人の命があれほど軽く扱われた現場は、当時でもめずらしかったですね。
 そのあと愛知用水の工事などについてから、38歳のときに東京に出てきます。「東京は人手不足だから、日当が2人区(2人分)もらえる」という口車に乗せられたんです。
 東京では日当が2人区になるというのは、真っ赤なウソでした(笑)。東京に出てからはトビ職になりました。南千住のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって、そこから毎日現場に通いました。私はそれまで人里離れたところばかりで働いていましたから、いきなり大都会に放り込まれて、その誘惑にハマっていました。ギャンブルの虜になってしまったんです。
 私がハマったのは競輪と競馬でした。トビの仕事で稼いだ金の大半は、競輪と競馬に注ぎ込んでしまいましたね。ほかのギャンブルや、酒、女遊びには興味がありませんでしたから、ひたすら競輪と競馬に入れ揚げていました。
 仕事のほうは真面目にやりましたよ。当時の現場は忙しくて、雨が降らない限り休みになりませんでした。だから、休日は月に2日とか、3日というのがザラでした。そんなたまの休日に、有り金を全部持って、浅草の場外(馬券売り場)やギャンブル場に駆けつけていたんです。
 そんなバカができたのも、バブル(経済)が崩壊するまででしたね。崩壊前はどこの現場でも人手不足だから、外国人だろうが、高齢の作業員だろうが、構わずに使っていたんです。それが崩壊後は手の平を返したように、入構審査が厳しくなりましたからね。
 じつは、私は若いころから高血圧でしてね。最高で 260(㎜Hg)を記録したことがあり、医者が「よくそれで普通の生活が営めますね」と驚いたくらいなんです。
 現場の入構審査が厳しくなってからは、この高血圧でハネられるようになって働けなくなりました。働かないと何の蓄えもありませんからね。1泊2300円のドヤ代も払えなくなって、路上に寝るより仕方なくなっていたわけです。
 路上生活は上野で始め、それから新宿に移りました。どちらも繁華街を控えているから、暮らしていくのは便利です。ただ、その分ホームレスが集まりすぎて過密状態ですね。ホームレス同士のケンカやイヤガラセが横行して、とても安心して暮らしていけるような状態ではありません。
 4年前からこの(代々木)公園に移りました。ここは広くて静かで、誰からも干渉されませんからいいですね。この公園があったから、私も生きてこられたと思っています。それにここでは1日に2回オニギリの差し入れがあります。キリスト教関係のボランティアだそうですが、1日に2回差し入れてもらえるのは、本当に助かりますね。
 私ももう高齢ですし高血圧もひどいから、渋谷の区役所に生活保護の申請をしたことがあるんです。その若い担当者が「入院経験はありますか?」と聞くんで、私がないと答えると、「だったら、もう少しがんばって働いてください。緊急で保護しなければならない人は、ほかにもたくさんいるんですから」と追い返されてしまいました。70歳をすぎているのに、まだ働けというんですからね。
 こうして、日がな一日公園に座っているだけですが、耳鳴りはひどいし、血圧降下剤を飲んでいるから食欲不振もひどいんです。高血圧の辛さは、ほかの人にはなかなか理解してもらえませんね。(2005年8月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2009年10月11日 (日)

靖国神社/25回 嗚呼、靖国旅情~上野駅から靖国まで~(下)〈2007年9月取材〉

 JR上野駅正面玄関口を背にして右へ進む。親切なことに、歩道橋のところに「↑日本橋」という看板が出ていた。なるほど、ここをまっすぐ行けばとりあえず、日本橋方面へ行けるのね、と思いながら歩く……が、駅近くにある漫画の森へ行き、漫画を物色。出だしから寄り道。やる気があるんだかないんだか。一通り見たところで再開。
 歩き始めてから約45分。700メートル以上先に、見覚えのある黄色いラインの電車が走っていることに気がつく。「もしやあの電車は……!」と思いながら歩くこと約10分。さらに見覚えのある、絶対に忘れない建物を発見する。
 ヨドバシカメラAKIBA館だ。そして走っていた電車は、JR総武線。秋葉原に着いちゃったよ。てゆうか、自宅近いし……。1時間かけて地元に舞い戻ってきてしまった。ヨドバシのゲームコーナーを見たい衝動を抑えながら、空腹のため秋葉原駅近くのマクドナルドへ。時間を見ると出発からちょうど1時間たっていた。
 なるほど。上野から秋葉原まで1時間(電車で行くと、4分)。寄り道の時間を省くと、だいたい30分ほど。
 意外と歩ける距離で驚きながらマックを出て、歩き始める。書泉ブックタワーを通過し、神田川を眺めながらひたすら歩き、都営新宿線岩本町駅を通過。
 大きな交差点に突き当たったところで、右に曲がる。交差点の名前を忘れてしまったが、標識に「靖国通り」とあったので右へ曲がった。
 岩本町から神保町までは歩いたことがなかったので、町並みや新しい店などを発見しながら歩く。
 岩本町の次の駅である小川町駅を越え、神保町に到着。編集部も近いし、よく行く場所、よく見る風景にもかかわらず、なぜか懐かしさが込みあげ思わず神田三省堂へ行ってしまった。とりあえず本に囲まれ疲れを少し癒したところでラストスパート。すずらん通りのほうへは行かず、靖国通りを歩く。さっきから「歩く」ばかり書いているが、事実なので許していただきたい。
 上野駅から出発して約2時間。俎橋に到着。そこから靖国までは約10分ほどの距離。ゴールは近い。

 さて、改めて俎橋から靖国を見たら、思ったよりも九段坂の斜面がきつい坂道だということに気づいた。いつも俎橋を通って九段下駅まで行っているが、夜なので坂がよく見えない。それに実際に坂を上っている時も、ある程度の急さはあったがそれほど気にならなかった。
 そんなことを考えながら歩いていたら大鳥居についた。夢にまで見た大鳥居。すこし感激しながらさらに坂を上がると、目の前に大村益次郎が。益二郎が私を迎えてくれている(妄想)!
 手水舎に寄り手を清め、神門をくぐり拝殿へ到着。参拝し、おみくじを引いたところで時間を見ると、上野駅から2時間20分たっていた(寄り道分を引くと、だいたい1時間20分程度)。
 歌には「一日がかり」とあったが、現代だと1時間半でたどり着くことができる。距離を測ったところ約4キロ……。思ったよりも短いしたいしたことない距離だった。
 そこから導き出される答え。「一日がかり」になってしまったのは、少なくとも『九段の母』で歌われた母は農作業で腰が曲がってしまい、杖がないと歩けなかった。それが例え4キロだったとしても、腰が曲がっていれば歩くのも大変だっただろうし、当時は今のようにアスファルトできれいに整備されていないだろうし、区画整理もされていないだろう。道路標示もなかったかもしれない。道に迷ったかもしれない、だから一日になってしまった。というとこだろうか。

 たとえ「一日がかり」という歌詞が誇張だとしても、実際は一日も費やさずにたどり着いていたかもしれなくても、愛するわが子のために地方から上京し、杖をついて会いに行くと歌われてしまっては、そのように好意的に解釈せざるを得ない。
 とりあえず、私がそのころにいたら靖国へやってくる母たちにねぎらいの言葉をかけたいと思った今回の旅だった。
 上野、靖国間は非常に単純な道のりなので、興味が湧いた方は、『九段の母』を口ずさみながら歩いてみることをおすすめしたい。(奥津裕美)

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2009年10月10日 (土)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第36回 骨愛

 ペットの火葬場が増えたり、ペットのお墓が作られたりする背景には、人びとの「骨への愛」がある。日本人は比較的それが強いと思われる。人間の99.9%が火葬され、多くの墓が作られるこの国では、ペットも火葬しよう、墓を建てようという考え方が広まって当然だ。

 でも、「ペットと一緒に眠りたい」と、同じ墓に入ることを希望する人に送られる視線は、まだまだ冷たい。

 インターネットの質問サイトには日々「ペットが死んだらウチの墓に入れたいのですが…」と意見を求めるトピックがアップされる。「四つ足は人間と一緒の墓にするべきでないと聞く」「家族心情を考えるとやめておいたほうがいい」「ご先祖様に申し訳ない」など否定的な回答が大半だ。個人的にはそれに加えて「管理者の意見も聞いたほうがいい」と提言したい。墓の管理者。寺院の敷地内にある墓であれば住職にお伺いを立てたほうがいい。あからさまに嫌悪を露にする人も、いないとはいえない。

 解決策の一つとしては、自分がペットと一緒に眠れる霊園に墓を買うという手がある。これならば先に墓にいる先祖にも家族にも遠慮することなく愛するペットと一緒に眠れる。分骨という手もある。もとからある墓、新しく買った墓、どちらにも骨を入れてもらう方法だ。しかしこれは残された家族の負担が増える。どちらにも墓参りをしなければならなくなる。ペットと一緒の霊園は数が限られているので、家の近くに墓を構えるのは難しい。永代供養墓にすれば良いという話もあるが、他に身寄りがない方は実行しやすくても、家族ある人がそれを選べるかどうか。墓参りをせずともよいと、他意を感じさせずに言える家族関係ならばよいのだが。

 墓の問題は、ペットを絡めなくとも起こり始めている。墓は要らないとする自由葬派も、結局骨を撒いてくれる血縁や団体を見つけねばならない。樹木葬派も、街中には当然樹木がないから墓参りのたびに家族を遠方まで移動させなければならない(樹木を墓標とする樹木葬も、結局そこが墓であることには変わりない)。とむらわれかたを考える際に、とむらってくれる人と正しく話し合いをすることは重要だが、なかなかそうもいかない。

 ペットの骨の行き先を探してさまようと同時に、自分や家族の行く末を考えることができる。

 もちろん、墓に入れないという選択肢もある。手元供養だ。お骨を入れたオブジェを安置したり、お骨を入れたペンダントやストラップを身につけたり、お骨そのものをダイヤモンドにしてしまったりする。ペット愛好者のあいだには広まりつつあるが、当然、人間にも応用できる。もともと手元供養は人間のために考えられたものだ。しかしおじいちゃんをダイヤモンドにしてしまったり、骨を入れたオブジェが家にあるのはどうも落ち着かないと、あまりひろがらなかった。しかしペットからならいけるのではないか。ペットのとむらい方としてもっと一般化されれば、人間にもいろんな形で広まっていくのではないか。

 骨への愛は、墓に入れたり参ったりしなくても示すことができる。それにもっと、気付いてほしい。(小松)

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2009年10月 9日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第3回 治療の前に立ちはだかる壁

 日本中の医者から見放され、我が子の障害がどうにも良くならない現実を受け止められず悲嘆にくれる親ならば、たとえ財産をなげうることになろうとも、世界中のあらゆる方法を試したいと思うでしょう。
 そしてドーマン法を知れば、今すぐにでも我が子に受けさせたいと思うでしょうが、様々な問題をクリアしなければスタートラインにすらつけません。

 その大きな理由としては、治療費が莫大にかかることと、治療には必ず家族で取り組まなければならず、年に2回行われる再診の際には、必ず両親が揃って出席しなければならないことがあげられます。再診の時には、約2週間拘束されます。日本の職場事情で年2回(1月と7月)まるまる2週間の休暇を取るなんて不可能に近いことです。
 しかし、いかなる事情があろうとも、この再診時に両親揃っていなければ、そして様々なルールや定められたゴールを達成できなかった場合などには、有無も言わさず「お辞めなさい」と言われ、一度この通達を受ければもう二度と治療は受けられないと言われています。なので治療を受けている家族は、ノイローゼになるほど常にピリピリしていて、時に嘘をついてでも、スタッフのご機嫌を損ねないように気を使っているのです。

 私がはじめたのは、アメリカのペンシルバニア州にあるフィラデルフィアの本部に出向かなくても、日本の東京で治療が受けられる新システムが導入された頃でした。
しかし、ドーマン博士が率いる人間能力開発研究所は非利益組織のため、スタッフが東京に来るための渡航費やその期間の滞在費(ホテル)、診察および講義の際に必要な(ホテルの一室や大広間などの)会場費、同時通訳者の費用など、すべてを治療を受ける側が持たなければならないのです。この中に治療代は含まれておりませんし、東京郊外の方は(私たち家族も同様でしたが)2週間もの間、東京に滞在しなければなりません。単純にこれだけを計算しても(これだけではすみませんけれど…)莫大なお金が必要になってきます。  
 その上、2週間も仕事を休めなんて、ちょいと無理な話です。これだけの条件を満たせる家族はそうざらにはいません。

 もはや愛情云々カンヌンの問題ではなくなってきます。

 この条件を突き付けられ、なおドーマン法に立ち向かおうとする家族は、かなりの数に絞られるハズなのに、それでも、すぐには治療を受けられず、少なくとも1~2年は待たなければならないのです。(私がやっていた頃はそうでした。私がマスコミに取り上げられてからは4~5年待たなければ受けられなかったみたいです)
これだけの大きな犠牲を払って取り組まなければならないのですから、親がちょいとおかしくなっちゃうのは致し方ないことなのかもしれませんね~。(大畑 楽歩)

楽歩さんのブログはこちら→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2009年10月 8日 (木)

ホームレス自らを語る 第42回 配筋工ひと筋に/須藤さん(仮名・54歳)

 出身は東京の三鷹です。うちはオヤジが変わっていましてね。家族を三鷹にほっぽり出して、自分は大分県の高校で野球部の監督をしていたんです。いや、有名校ではなく、甲子園には縁のない弱い野球部です。オヤジ自身も高校球児だったようですが、やはり甲子園には縁のない野球部出身のようです。
 単身赴任?  そんなカッコいいものではないですよ。いまでもそうですが、高校野球の監督というのはボランティアですからね。だから、オヤジは生活費を1銭も送ってこないし、三鷹に残されたオフクロにオレと妹の3人は超貧乏暮らしでした。
 オフクロが日雇いに出て働いていましたが、女が働いて稼ぐタカは知れていますからね。学校にご飯の弁当が持っていけなくて、いつもサツマイモのシッポばかりでね。男のオレはまだしも、妹は恥ずかしかっただろうと思います。教科書や学用品を買うカネもなくて、市から支給されていました。

 小学校の途中から、家族3人での生活が立ちゆかなくなって、オレと妹は別々の親戚に預けられました。それからは2、3の親戚をタライ回しにされて育ちました。でも、親戚の人たちはみんな親切で、オレも高校まで上げてもらいましたからね。
 ただ、その高校は1年で中退しました。親戚に学費の面倒をみてもらいながら、学校に通うのが辛くてね。一刻も早く働いて、自分の手でカネを稼ぎたかった。親戚に迷惑をかけたくなかったんですね。
 それでビル建設工事の配筋工事を専門にしている会社に入りました。鉄筋コンクリート造のビル工事で、鉄筋を配筋するのが仕事です。1人の親方の下に5~6人の配筋工がついて、それが1つのチームになって働きました。大きな現場になると、これに応援の配筋工がつきます。
 大工や左官の仕事量は平方メートル計算ですが、配筋作業のほうは扱う鉄筋の総トン数で表し、作業工賃は1トンあたりで計算します。そこが違うところですね。
 鉄筋は太さによってD13~D35にコード分けしてあって、まずそれを覚えるのが大変でした。鉄筋の配筋量は、構造設計と打設するコンクリートの量によって違ってきます。だから、設計図面も読めるようにならないといけない。配筋工もいろいろ大変なんですよ。 
 夏場の鉄筋は太陽に灼かれていますからね。うっかり軍手をしただけの手で持ったり、Tシャツだけの肩に担いだら大ヤケドをします。ですから、真夏でも配筋工専用の厚手の手袋をして、Tシャツの上にはベストを着用して作業しなければなりません。
 それに現場作業だから危険が多いです。重い鉄筋を担いで、地上40m、50mのところにある幅40㎝の足場の上を歩かなければならない。怖いのは突風に吹かれることです。実際に仲間の1人が28mの足場から、風に吹かれて転落したことがあります。顔面を強打して、顔がグチャグチャになって即死でした。オーバーではなく、死と隣り合わせの職場でしたよね。

 オレは40年近く配筋工の仕事をやってきましたけど、サボることはなかったし、仕事の態度は真面目でした。途中で2級技能士の資格を取って、5トン未満のクレーンの操作や玉掛け作業もできるようになりました。
 だから、収入面でも悪くはなかったんですが、稼いだカネを蓄えることをしなかったですね。旅行が好きで、ハワイとか、フィリピン、タイなどによく行きました。まあ、男の遊びを求めた旅ですね。
 それにギャンブルも好きでした。競馬と競輪、それに競艇が好きで熱心に通いました。稼ぎの大半はギャンブルに注ぎ込みましたね。

 結婚したのは33歳のときで、相手はいきつけの飲み屋で働いていた女です。おたがいに何となく惹かれたんですね。ただ、結婚してもオレはギャンブルにかまけていて、家にはカネを入れませんでした。しだいに、女房とのあいだでケンカが絶えなくなって……結局、「私は騙された」とか言いながら、女房は怒って家を出ていきました。
 考えてみれば、オレもオヤジと同じことをしていたんですね。自分の好き勝手なことをして、家にカネを入れないところがよく似ています。彼女との結婚生活は2年間でした。それからは「女はもういいか」と思って、ずっと1人で暮らしています。

 去年の2月に大きな現場の仕事に就きましてね。扱う鉄筋の量が多くて、応援の配筋工だけでも7~8人が就きました。鉄筋もはじめて見るような太い鉄筋で、親方もそんな現場ははじめてだから、舞い上がってしまったんでしょうね。
 現場で親方の指図がコロコロと変わるんです。下の人間を束ねているのはオレだから、そう指図が変わるんじゃやってられない。それで親方の指図を突っぱねたんです。親方にもプライドがありますからね、オレとのあいだで大ゲンカになりました。で、クビでした。
 それ以来働いていません。働く気はありますよ。道具も作業衣も、そのまま取ってありますからね。ほら……(きちんと手入れされた配筋工の道具を見せてくれた)。
 だけど、ケンカをした親方に頭を下げるのは業腹だし、かといって、この歳で新しい親方を探すというのも億劫な話ですからね。
 以前の同僚が、柏と我孫子(いずれも千葉県)で配筋工をやっていて、「いっしょにやらないか」と声をかけてくれています。どちらも気心の知れた仲間だから、やってみようかという気はあるんですが、なぜか踏ん切りがつけられないでいるんです。(2005年7月取材 聞き手:神戸幸夫)

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2009年10月 6日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/サイテイJRの車掌日記

○月×日
 JR西日本、今度は裏工作発覚、前代未聞の不祥事である。
 新聞やテレビでも連日デカデカと報道されていたJR福知山線事故の事故調による漏洩問題だ。
 JR西日本の山崎正夫前社長らは事故調に国鉄出身者で古くから付き合いのある先輩がいることをいいことに、何度かの飲食接待という形で接触を繰り返し、事故調での議論の進捗状況や最終報告書案の内容を07年6月の公表前に聞き出していたというもの。
 そればかりか、公正中立であるべき事故調の漏洩行為という守秘義務違反も大問題であることは勿論だが、あろうことか、山崎前社長は報告書案の「ATSがあれば事故は防げた」という文言の削除や日勤教育やダイヤ編成に関する部分の修正を要求していたというから、悪質きわまりないというしかない。

 で、その委員はナント、その要求に応じてしまうのである。事故調でATS部分の修正を求める発言をしたというのだ。全く聞いて呆れるが、結局は認められず、結果として報告書案は変更されることなく決議されたということだが、それで済むような問題ではない。
 調査する側と調査される側のあってはならない癒着である。これでは遺族や負傷者は浮かばれない。そればかりか今でもJRを利用せざるを得ない国民への裏切りでもある。
 洗いざらい公表してこそ事故の原因が究明され再発防止につながるのはいうまでもないが、それを隠蔽しようとするとは開いた口が塞がらない。

 あれだけ企業体質、企業風土を改革するといっていたにもかかわらず、責任逃れに終始する姿勢は未だに旧態依然なのである。大惨事よりも何よりも自己保身と我が身の行く末が重大なのであり、亡くなられた方々のことなど一切頭にないのだろう。JR西日本が生まれ変わるのは一度解体でもしない限りもはや不可能なのではないか。
 また、報道では、接待の際に事故調側は菓子や新幹線の模型などの手土産を受けとったとあったが、本当にそれだけなのか。贈収賄に当たるのではないのか。

 それにしても世の中は不正だらけだ。こんな事は氷山の一角なのかもしれない。私達はいったい何を信じていけばいいのか。

 ほんとにサイテイだな。ただただ悲しくなるばかりだ。一生懸命やってる西の社員もいい迷惑だろうよ。誰も信じないよ、もう。おまえらなんか!!(斎藤典雄)

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2009年10月 5日 (月)

●ホームレス自らを語る/第41回 後悔先に立たず 野口康三さん(仮名・61歳)

0910  私は昭和23(1948)年生まれで、茨城県鹿島郡の出身です。鹿島といっても内陸部のほうで、交通の不便なすごい田舎でした。家は農業をしていました。主に栽培していたのは米と葉タバコですね。
 子どもの頃は、毎日のように野山を駆けまわり、川でドジョウを獲ったりして遊び呆けていました。勉強が嫌いでね。宿題もしないで遊んでばかりでしたよ。ガキ大将ではなかったですね。どちらかといえば、おとなしいほうでした。

 中学校を卒業して、東京の食品メーカーに就職しました。酒の肴の珍味を製造している会社で、日本のトップメーカーです。私はサキイカ製造の部門に配属になって、そこで働きました。
 ただ、そのメーカーは1年半で辞めてしまいます。理由は給料があまりにも安かったからです。当時の中卒の初任給は月6500円というのが、世間的な相場でした。ところが、その食品メーカーは5500円。その頃は高度経済成長の真っ只中で、私たちは「金の卵」ともて囃されて引っ張りダコでしたからね。そんな給料の安い職場で、我慢して働くことはなかったんです。
 それで洋食レストランのコックになりました。コックの仕事は20年近く続きます。といっても、ずっと同じ店にいたわけじゃありません。もう、数え切れないくらい店を替わりましたからね。
 コックの仕事を始めた頃から、酒を飲むことを覚えましてね。仕事を終えたあと、毎晩浴びるように飲んだのですが、私の場合はそのうえ酒癖も悪くてね。同僚のコックはもちろん、先輩コックであろうと、上司であろうと、構わずに突っかかっていっては、ケンカをふっかけてしまう。それで居られなくなって、店を替わる。それを幾度も繰り返していたんです。
 それにギャンブルにものめり込むようになって……競馬ですね。中央競馬のある土曜、日曜は、必ず後楽園の場外馬券売り場に行ってました。働いて稼いだカネは、酒と競馬にみんな注ぎ込んでいました。気持ちも、生活も荒んでいくばかりでした。
 そんなですから結婚もできませんでした。自分の生活の基盤もできていないのに、結婚どころではありませんからね。

 30代半ばでコックの仕事から足を洗います。酒のうえでの失敗ばかりを繰り返していたし、競馬にも入れ揚げていましたからね。コックの仕事よりも日雇い作業員でもするほうが、自分には合っているんじゃないかと考えたんです。
 で、日雇いの作業員になりました。現場作業は何の経験も資格もありませんからね。手元という一番下っ端の作業員で、職人の助手についたり、現場の資材の片づけや清掃などが仕事でした。
 しばらくしてバブル経済の時代がやってきます。空前の建築ブームが始まり、私ら下っ端の作業員も引っ張りダコで、金の卵のとき以上でした。それまで手元の日当は7000円くらいでしたが、バブル時代には12000円にまでなりましたからね。
 先見の明のある人なら、こういうときこそ将来に備えてしっかり蓄えたりするんでしょうが、私ら凡人はあればあるだけ遣ってしまいますからね。それでホームレスという最悪の境涯に堕ちてから、あのとき蓄えておけばこんな生活をしなくてすんだのにって反省するんです。まさに後悔先に立たずですね。
 だけど、バブル経済絶頂の只中にいて、それが崩壊して20年にも亘る大不況が襲ってくるなんて想像できた人はいませんからね。みんなあの繁栄が、いつまでも続くような気がしていたんですから。そうでしょう? 苦境に陥って、はじめて目が覚めるんですよ。

 ホームレスの生活をするようになったのは50歳のときです。バブル経済が崩壊して日雇いの仕事が少なくなって、仕事にあぶれるようになったからです。蓄えなんてありませんから、公園で野宿するしかありませんでした。はじめ戸山公園(新宿区)で始めて、山谷(台東区)に移り、1年くらい前からこの(新宿中央)公園に移ってきました。
 こんな生活をしていますけど、なるべく役所とかボランティアの世話にはならないで、自分の食い扶持くらいは、自分で稼ぎ出そうと思ってアルミ缶拾いをやっています。私の場合はほんとうに道端に落ちているのを拾い集めているだけですが、なかには住宅地のゴミ収集所に出ているのゴッソリ失敬してくる人もいます。私にはできませんけどね。
 まあ、私のようにボツボツ拾っていても、週5~6000円くらいの稼ぎにはなります。贅沢をいわなければ、これで1週間分の食いものを確保することはできます。ただね。どうしても酒を飲みたくなるときがあって、1パックだけと思っても、1パックでは終わらないで、2パック、3パックと空けてしまうんですよね。そんなときにはボランティアの炊き出しのお世話になっています。
 いまは生活保護待ちの状態ですね。65歳になれば無条件で生活保護が受けられるということですから、ひたすらそれを待つしかないですね。でも、私はいま61歳で、まだ4年もあります。4年後の日本の経済事情がどうなっているのか、いまより落ち込んでいたら受給できないかもしれませんよね。
 このあいだの衆院選挙で政権交代がありましたが、こんどの新政権は我々ホームレスの救済措置を、何かしてくれるんでしょうか。やっぱり、ホームレスまでは手がまわらないのかな。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年10月 4日 (日)

労働系シンポジウムのご案内/考えよう、若者の雇用と未来

バブル崩壊後の不況時に社会へと送り出され、雇用形態や労働環境の面で苦難を強いられている氷河期世代。
安定した雇用について考える場を提供している氷河期世代ユニオンさまより、シンポジウムのご案内が届きました。
以下、届いた詳細です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
題 名:考えよう、若者の雇用と未来~消費される青年労働者の実態~
日 時:10月10日(土)19:00~21:00(18:30~開場)
会 場:伊藤塾東京校(渋谷)
所在地:東京都渋谷区桜丘町17-5 
地 図:http://www.itojuku.co.jp/12sch_tokyo/map/180.html
交 通:JR渋谷駅南改札西口より徒歩3分
出 演:雨宮処凛(作家)、
    河添誠(首都圏青年ユニオン書記長)
    本田由紀(東京大学教授)
    湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)
定 員:150名(事前申込みをされた方が優先となります)
参加費:カンパ制(任意)
お問合せ・お申込み:kangaeyou.2009@gmail.com
主 催:氷河期世代ユニオン
共 催:市民社会フォーラム
《開催趣旨》
年々悪化する雇用情勢と労働環境、
市場原理が労働市場を席巻する中で、
消費され、使い捨てられていく若者たちは、
将来の展望を描くことができず、希望を見出せないでいます。
こうした労働市場の劣悪化は、
その境遇におかれた当事者だけの問題ではなく、
この国の「ありよう」を問い直す問題として、
社会全体で考えていかなければならない重要課題です。
今回のシンポジウムでは、
こうした荒廃した日本の労働市場をどう立て直していくのか?
具体的な実例を挙げながら、各界の論客にご議論をいただき、
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
継続した不況で見えづらい問題となってきた世代格差。
みんなが辛いのだからと、土をならして論じようとする場も増えてきていますが
そんな今こそ声を上げていかないと、永遠に忘れ去られてしまうかもしれません。
そしてそんな声に耳を傾けることこそ、今本当に大事なことではないでしょうか。
就職氷河期だけでなく、さまざまな世代におすすめのシンポジウムです。
(奥山)

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2009年10月 3日 (土)

民主党政権は確かに「逆・明治維新」かも

幕末・明治維新時に「薩長土肥」雄藩に押し込められて敗北した佐幕派の拠点拠点で選ばれた代議士が民主党の幹部に多くいる

前原誠司……京都二区。つまり京都市。幕末のつばぜり合いはここで起きている
岡田克也……三重三区。桑名藩は「会桑」と並び称される佐幕派だった
菅直人……東京一八区。東京は江戸。いわずとしれた将軍のお膝元
小沢一郎……岩手四区。水沢藩は仙台藩の枝。仙台藩は新政府軍と対決した奥羽越列藩同盟の主要構成藩
渡部恒三……福島四区。泣く子も黙る佐幕派の盟主、会津藩の拠点
鳩山由紀夫……北海道9区。北海道における「箱館戦争」で戊辰の役が止む

対して薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)の09年8月総選挙の結果はどうだったのだろうか

薩摩……5議席のうち3議席が自民。民主は1議席のみ。国民新党の松下忠洋氏は05年の郵政選挙では自民党から立候補していた
長州……4議席のうち3議席が自民
土佐……3議席を自民が独占
肥前……3議席のうち自民1議席、民主2議席

と佐賀を除くと「自民逆風何するものぞ」の結果である

考えてみれば薩長主体の江戸幕府転覆劇は関ヶ原のリベンジといっていい。1867年-1600年だから267年ぶりの逆転である。今回の総選挙はその逆で2009年-1867年の142年ぶりの交代劇だったのかもしれない。(編集長)

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2009年10月 2日 (金)

ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第2回 ドーマン法のプログラム1 パターニング

 脳障害を治療するドーマン法については、世界中の様々な専門機関がその効果に否定的な見解を示しています。その見解は、私がドーマン法を始める20数年前から現在に至るまでさほど変わっていないように思います。
問題点としてよく取りざたされるのは

1、 あまりにも高額な費用が掛かる事
2、 家族に多大な犠牲を強いる事
3、 医学的なデータが殆ど発表されていない事

この3つです。
しかし6年間取り組んできた張本人の意見を、ここにつけ加えさせて頂くとすれば

4、 骨や関節などに負担がかかりすぎる

というデメリットも上げられます。これは、あくまで私が、関節が外れやすく、筋肉がソフトで骨が細い、という特徴を持つ障害(=アテトーゼ型の脳性まひ)を持っているからこそ起こることであり、一概にドーマン法のデメリットだとは言えないかもしれません。でも、脳性まひ児(者)ならば、その障害の種類や程度は問わず治療できると自信を持って掲げているにもかかわらず、運動障害・知能障害・知的障害・自閉症など、様々な種類の障害者が基本的に同じプログラム(=訓練)ってのは、少々無理があるのでは?と疑問に思うのは、わたくしだけでしょうか?
 脳障害研究センターが発刊している機関紙によると、脳細胞の半分以上が侵されると死亡してしまう、ということは、どんなに重度の障害児でも半分以上の脳細胞は傷も付かず開発もされていない状態になっているということであり、ドーマン博士はその残された脳細胞を構築していこうとする立場にいます。その為には、健康な赤ちゃんが辿る過程を徹底的に繰り返すことで再生していくという考え方なので、運動障害でも、発達に問題がある子も、知的障害児(者)であっても、基本メニューは同じになる訳です。

 ここでプログラムの中でも、基本中の基本である「パターニング」をご紹介しましょう。これは「メスを使わない脳手術」とも称されるものですが、身体の小さな子どもなら3人の人手が、大きい子あるいは大人の患者さんならば5人の人手が必要になります。これを1日何十セットとこなさなければならないので、家族は人手の確保に泣かされます。まぁ当の本人は寝ていてもいいので、痛くも痒くもない楽チンなメニューなのですが・・・。本人は短パン半そで姿でパターニングテーブルにうつ伏せになり、パターナーと呼ばれる協力者の一人が首を左右に、もう一人が手足をペタペタと動かし、残るもう一人は反対側の手足を持ち同じ要領で、反対側の手足と交差になるようにペタペタと一定のリズムで規則正しく動かしていく、というものです。
Patterning  これで、正しい腹這いの形を脳細胞にプログラミングしていきます。また手、足、腹部がどのように感じるかを、触覚を通して脳に情報を送っていると言われます。
うーん。私には理論的にも納得しきれない部分があるのですが・・・。
壊れてしまった脳細胞の代わりは、やはり壊れた脳細胞にしか担えないものなんだと、何の専門的知識も持たない脳性まひ者・楽歩は、そう思うのです!(大畑 楽歩)

楽歩さんのブログ→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2009年10月 1日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第23回 不正合戦のアフガン選挙(下)

 今回の選挙では厳しい報道規制も行われた。TBSのカメラマンが当局に拘束されたニュースは日本でも流れたが、実は私の知る範囲だけでも20人のジャーナリストが逮捕、長期間に渡り拘束された。
 私も選挙当日20日、タリバンが警察署を襲撃、銃撃戦になった現場を取材中に警察に拘束された。
 タリバン兵3人が攻撃をしかけ、一人が逮捕。二人が自爆した。タリバンが拠点にした廃ビルに入ると、血と硝煙のにおいがした。自爆した現場には、フロアに半径2メーターはある血の池。壁一面に銃痕と、飛び散った血がこびりついていた。
 すでに戦闘が終了していたと言うこともあり現場には30人以上のメディア関係者が殺到していた。そこに警官隊が突入。カメラを没収され、警察署まで連行された。私達がビルの外に連れ出されたとき、知り合いのオランダ人カメラマンが警官に講義をした。
「生意気なやつめ」
 そう言って、警察官の一人が彼を銃の尻で殴りつけた。

 アフガニスタンとは言え、警察がジャーナリストに暴行を加えたり、逮捕することに何の法的根拠も無い。選挙前日、政府当局からジャーナリストに「取材をしないように」との通達があった。もちろん、当局の圧力に屈するメディアはいなかった。私の拘束も、政府の報復だろう。
 アメリカからは取材を自由にさせるよにとの圧力があったとの情報もあるが、アフガン当局は強攻策に出ていた。メディアへの弾圧は、選挙の不正を取材させないため、としか思えない。
 選挙後、カブールの街中で話を聞いてみると、思った以上に選挙に行ったという人が少ない。投票した人の指には、その証拠としてインクで印がつけられるが、中々見つけられない。街頭で飲み物を売っているサベールさんも選挙には行かなかった。
 「選挙には行かなかった。どうせ、誰に入れても自分たちの私腹を肥やすだけだ。自分たちのためにならない選挙に行って、タリバンの攻撃で殺されたんじゃ、たまらない」
 街頭で話を聞いていくと、立候補者らカルザイ氏たちを「アメリカ人」と呼ぶ人たちが大勢いた。彼らはアメリカの傀儡に過ぎない、どうせアメリカのいいなりだ、と話す。
 投票率は前回の70%から50%に落ち込む見通しだ。今回の選挙が自分たちの意思を反映してくれると、考えられない人が多いのだ。

 今回の選挙ではパシュトゥーン人のカルザイ氏とタジク人のアブドラ氏が争い、多くの不正が行われたので、タジク人の側からすれば面白くない。民族対立が表面化しつつある。不正にまみれた選挙の結果、どちらにしろ禍根を残す結果となった。
 選挙で多くの不正が行われた背景には、アメリカの影響力が低下しているという裏事情がある。前回04年の選挙で、アメリカはカルザイ氏の対立候補を懐柔したり、と水面下でカルザイ氏を強くプッシュした。しかし、今回はそのようなことは行われていない。民主化どころか、不正と腐敗で成り立っているようなアフガン社会だ。アフガン人のみに占拠を任せれば、このような不正合戦になるのは眼に見えていた。
 今回の選挙を成功と見るか、失敗と見るかはまだ議論の余地もある。

 日本は民主党政権に変わり、インド洋での給油が1月に終了する予定だ。アフガン政策も大きく変わりつつある。このアフガンという不正に塗れた「破綻国家」にどう関わるか。もう一度米軍の侵攻の是非も含めて、考え直す時に来ているのではないだろうか。(白川徹)

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