« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

2009年9月

2009年9月30日 (水)

朝青龍のガッツポーズいいじゃないか

ふるさとに/まわし一本/みやげなり

古くから大相撲はそうだった。圧倒的多数が関取になることもなく、まわしだけを手にして土俵を去っていった。尋常ならざる努力と天性を兼ね備えた者だけが横綱になる。さらにごく一部が優勝を重ねる。朝青龍はそれを成し遂げた。今回の優勝以前にすでに、である。

横綱の品格という。しかし外国人に日本語を強制し、おしり丸見えのまわしを付けさせ、髪を結わせ、横綱ともなれば日本刀の太刀持ちがつき、優勝すれば日本国歌を斉唱させる。朝青龍はそれらをすべて飲んで相撲のルールにのっとって勝ち進んでいる。もう十分ではないか。
以前にも書いたようにあのようなガッツポーズ(この言葉からして日本語である)は諸外国で見たことはない。ならばなおさら別にいいではないか。
朝青龍バッシングに何の理もないとはいわない。でも背後に彼が外国人だから……という強烈な島国根性を感じるのは私だけか。彼は確かに外国人であり、それを隠そうともしない。外国人(といっても同郷)と結婚し、休みが取れれば故郷のモンゴルへ帰る。言い換えれば日本は出稼ぎの場である。日本側から見れば出稼ぎされている。「たかが出稼ぎ風情が正社員たる日本人を差し置いて大きな顔をするな」といえないものだから品格だ何だと変化球でいじめているように思われてならない。そもそも故郷に帰るのはそんなにいけないことなのか。私にはサッパリわからない。

親方になるには日本国籍が必要というのは明かな差別ではないか。国籍を重んじるサッカーW杯でさえ監督は外国人で一向に構わない。たぶん朝青龍が「引退後は親方になりたいから日本国籍を取得したい」としおらしく?言い出したら島国根性隠しかねたるバッシング派の多くが爽快さと優越感に浸るであろう。でも朝青龍はそう発言しない。「外国で勝って、稼いで何が悪い」である。

そう。何も悪くない。「土俵に金が埋まっている」といったのは初代若乃花だったか。彼の故郷は青森(日本)で朝青龍はモンゴルという違いだけである。しゃにむに勝つ。勝ったら喜ぶ。それのどこがいけない。敗者に敬意を払うべきという。でも優勝決定戦で戦った白鵬もまたモンゴル人。日本の土俵でモンゴル人同士が優勝をかけて一騎打ちする自体が相手に十分な敬意を払っているとなぜ認められないのか不思議でならない(編集長)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月29日 (火)

池田大作より他に神はなし/大好評大河連載第4回 広宣流布の黄金柱になる報恩の決意なき犬より劣る裏切者は、永遠にわれらの前から去り地獄へ落ちよ!!

831_3  『週刊ダイヤモンド』なる経済雑誌が。大正時代創刊の由緒を誇るが、池田名誉会長への中傷記事掲載をいとわない、ド畜生メディアとして、良識ある人々のヒンシュクを以前から(薄汚い野望と金銭の悪臭が、プンプンと鼻を突く)。9月12日号の“新宗教 巨大ビジネスの全貌”特集でも、名誉会長の破邪顕正の高邁な精神に対する、未熟で根拠なき憶測記事を、恥知らずにも書き散らしている。

 “…学会の世代間ギャップも大きい。池田は大の活字好き人間で、新聞や雑誌、書籍を組織の意志伝達の柱として活用してきた。かつての信者は「聖教新聞」のすみからすみまで目を通し、池田の指導を読み取ろうとした。/そうした信者が高齢化し、若い学会員にとっては携帯電話・パソコン利用が当り前になっている。紙メディアは流行らない。「聖教新聞」の拡販、新聞媒体などへの広告出稿と印刷委託によって支配力を発揮してきたシステムの見直しが迫られているのである”(71ページ)

 “盲(めくら)蛇に怖じず”を地で行く妄言だ。版元のダイヤモンド社も、出版不況で青息吐息と見える。世間の味噌も糞もゲロも一緒にして、一瞬でも安心したいのだ。だが、“広宣流布の黄金柱”として日々堂々と前進しているわれらと、インチキ経済誌を一緒にされては迷惑だ。紙メディアを最も知悉されている名誉会長は、その長所・短所もはるか以前から心得ておられる。“豚に真珠”ではあろうが、『聖教新聞』9月1日号、「座談会 新時代を勝ち進め」から、正木理事長の、特製刺身包丁のように鋭い切れ味ある発言を紹介しよう。

 “草創の大先輩が、先日語っていた。/「池田先生は常に、50年先、100年先の広宣流布の未来像を描いていて、指揮を執り続けてこられた。その深い先見を、我々は、ほとんど理解できなかった。/それでも、先生のおっしゃる通りに前進すれば、必ず広宣流布は伸展した。先生は本当に、不思議な方です」と、しみじみと語っていた”(ルビ略。以下同)。

 確かに比例得票数1000万を目ざすわれらの闘いが、今一時的に困難な壁に立たされているのは事実だ。しかしそれは、単に5年~10年単位の試行錯誤の過程に過ぎない。先に正木理事長が明言したように、名誉会長は50年先、100年先の万民の人生の道を、明確に構想しておられる。紙メディアの衰退云々といった、新しいカップラーメンが出た云々の次元の挿話で、われら創価三代の師弟の輝ける前進に、生ゴミを投げるような真似をして何が楽しい?(背後に邪宗門らの魔の蠢動がある事は百も承知ながら、あえて念を押しておく)。

 以前も登場願った、時代遅れの容共思想の持ち主の友人が、我が事務所に顔を。フリーライターゆえ、出版不況の直撃を受け、生きてるだけの状態。拙稿書きかけのパソコン画面を覗いて、品なくほざく。「え~っ!? 学会員ってネズミの集団みたい。“ほとんど理解できない”人にやみくもについてくんだぁ。おっかしんじゃあ? それに学会にゃもうタイムマシンもあんだ。50年先、100年先が見通せんでしょ?何でノーベル賞がもらえないの?」

 弱った友人である。決して日顕一派に毒されている破廉恥漢ではないが、享楽イコール人生と単純に考えている。人のために生きる滅私の精神のカケラもない。“隠れた善行は明確な善の報いとなって必ず表われる。陰で黙々と広宣流布のために献身してきた苦労は、いつか必ず、大功徳となって花開く。仏法は生命の厳たる因果の法則であるからだ”(小説『新・人間革命』)を引き、日頃から説き伏せてるが、「仏法っていや、この前田舎に帰ったら、仏法僧の鳴き声がうるさくって。あれって鳥鍋にして喰うと、大功徳になる?」と応じるありさま。しかし私はあきらめていない。死ぬまで説得を続ける。それが“いつか必ず、大功徳となって花開く”と信じるから。その花は私には無論、友人にも輝いて見えるはずだ。

 毎日眼を皿にして読んでる『聖教~』の他に、衆院選挙翌日の31日は『公明新聞』も開く(両紙共に定期購読すべきだが、経済的理由で…)。1面を見比べるなり、地方区全敗の理由を瞬時に理解。前者はこうだ。上の“創立者 池田名誉会長”の、圧倒的な光々しさに満ちたカラーお写真をメインに、“創価の師弟の大城は磐石!!「学生第一」「世界市民」の学府 創価大学 新総合教育棟2013年の完成”の、迫力ある文字が踊る。“我が弟子よ あふるる思いで この地をば 指さし定める 恩師を偲ばむ”。高まる興奮を静めるかのような、名誉会長の山上憶良よ何する者ぞの和歌も引用され、来年の学会創立80周年への決意は、ますます磐石にかつ広大に。

 一方の後者。まず紙面にヘソ、いや中心がない。名誉会長のお写真がどこにもない。それを補うかのように、“公明、逆風突き健闘 比例区着実に議席獲得 支援者の皆様のご支援に感謝”等の、『赤旗』まがいの弁明が満ちる。政教分離云々にこだわる一部過激テロ勢力のせいで、1面に写真が掲載しづらいのはわかる。しかし問題はそこにはない。公明党及び『公明新聞』関係者の中には、心にも名誉会長のお写真を掲げてない輩がいるのでは? 姑息な弁明に溢れた31日付けの1面は、計らずとも饒舌にそれを物語ってる。“感謝できる犬は恩知らずの人間に優る-詩人(イラン)。忘恩は永劫に軽蔑され地獄”(『聖教新聞』31日付け「寸鉄」より)。(塩山芳明)

Dm

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月28日 (月)

ロシアの横暴/第25回 ロシアがチェチェンのわがままを許すワケ(下)

 では経済危機に苦しむロシアが、細いスネだけはしっかりかじって言うことは全然聞かない、放蕩息子みたいなチェチェンのわがままを聞き入れるのは何故か?
 自らの失策で踏んだり蹴ったりのように見えるロシアにも実は大いに実入りがある。
 ロシアのチェチェン侵略の直接の言いがかりは「独立阻止」だった。ならず者チェチェンを独立させるわけにはいかない、と。挑発を繰り返し、チェチェン全体を無法地帯に仕立て上げ、侵略戦争の大義名分とした。
 長い戦争の結果、チェチェンは本物の無法地帯となった。かつてカディロフ親衛隊として怖れられた私兵軍団が現在はチェチェン正規軍として堂々とチェチェン領内を闊歩している。独立派のレッテルが貼られれば、情け容赦のない弾圧が襲う。すると反カディロフ勢力があちこちで暴動をおこしたり、自爆テロに走ったりする。ちなみに最近のチェチェン報道はテロばっかりである。
(いろいろな派閥が複雑に絡んでいるので反カディロフ勢力、すなわち武装勢力とひとくくりにはできない)
 このようにチェチェン人同士が殺し合ってくれたほうがロシアはチェチェン侵略を正当化できる。「チェチェン戦線異状なし」にしておいたのをこれからは「チェチェン戦線異状あり」にできる。いくらかの維持費用――それはロシアにとって決して軽い額ではないが、年金とか公務員の給与さえ払っておけば、あとはチェチェン人同士で殺し合いをしてロシアが掲げた侵略の大義名分が正しかったことを証明してくれる。その上ならず者に地方交付税交付金まで払ってあげる寛容なロシア、というプラスポイントまでついてくる。ロシアにとって「横暴な大国」の汚名を返上できるのは何ものにも代えがたい宝物なのである。駐留費用がないから撤退かと思えば、ほんとうはチェチェン人同士の争い温存が目的だったりする。

 それにひきかえチェチェン側の思惑は不気味だ。
人々の往来を自由にし、チェチェンを活性化する国際空港計画は国外に逃れた反カディロフ派を探し出す計画を含んでいた。武装勢力が暴れたので国際空港計画はとん挫したが、今回の代表部開設計画はチェチェン国内の不安定さに関係なく実現可能である。
 国外に逃れたチェチェン人の多くはロシアの弾圧を怖れて領事館に出頭せずこっそりと暮らしてきた。彼らはチェチェン政府代表部が開設されても出頭はして来ないだろう。しかし「けものみち」がある。何気なく「ふるさと談義」で代表部にやってくる一部のチェチェン人、密偵ではなく悪気もない、ごく普通のチェチェン人を経由して芋蔓式に隠れチェチェン人が発見できるようになる。隠れチェチェン人はほぼ全員反カディロフである。
 穏やかなロシア南部とカフカス周辺地域は目に見えない緊張が高まっている。独立への一歩と見える政策が、さらなる争乱を呼ぶほどチェンチェン国内は難しい情勢にある。(川上なつ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月27日 (日)

新連載 ドーマン法に生きていた私~脳性まひ者の告白~/第1回 奇跡のラブちゃん

みなさま、はじめまして!!
今日から「ドーマン法」をテーマに週一でブログを書かせていただきます大畑楽歩と申します。ヨロシクお願いします。
「楽しく歩く」と書いて“らぶ”と読みます。
ペンネームでもなんでもなく、この名前がわたくしの本名なのでございます。

しか~し!皮肉なことに私は脳性まひ(アテトーゼ型)という障害を抱えている為、生まれてこの方、一度も鼻歌混じりにアスファルトの道を楽しく歩いた経験はありません。

先天性のものではなく、生後間もなく取り付けていた呼吸器に痰が詰まり仮死状態に。心臓マッサージにより蘇生したものの、その際に脳にダメージを受け脳性まひになってしまったのです。まさか楽しく歩けない障害を背負う運命の赤ちゃんだなんて両親はこれっぽっちも知らずに…。

そんな訳で、わたくし完全に名前負けしているのですが、すっとんだこの自分の名前、決してキライではありません。むしろ・・・今年で31歳になり、既に小学生になる息子を抱える母になった今でも“楽歩ちゃ~ん”と親しみを込めて呼んでくださるのは、楽歩という名前が持つ魔力のお陰なのですから!

自己紹介はこれぐらいにしておきまして、このブログのテーマである「ドーマン法」って・・・なんか、どっかで聞いたことあるような、ないような・・・何ですかいな?
そんな貴方の気持ち悪~い胸のつかえを早く取り除かなくてはなりませんね。
「ドーマン法」とは、米国の理学療法士であるグレン・ドーマン博士が提唱するリハビリ法のことです。近年では障害児の治療法よりも、ベターベイビーいわゆる健常児の英才教育、ドーマンメソッドの提唱者としての方が有名かもしれません。
いずれにしても私は、ケンタッキーのカーネルおじさんにそっくりなドーマン博士が開発した独自の脳障害児の治療プログラムに、6年もの間(小2~中2)、なにもかもを投げ打って取り組んできた張本人なのであります!!

落馬事故で脳障害を背負うことになった元騎手の福永洋一さんや、最近では日木流奈くんがドーマン法のプログラムに取り組み、めざましい効果をあげたとして各メディアに取り上げられたので、皆様の中でも「あっアタシ、知ってる!」という方もいらっしゃるのではないでしょうか? 実は私も・・・福永さんと流奈くんのあいだの期間に「奇跡のラブちゃん!驚異の回復!!」な~んて1980年代後半頃、騒がれまして、一時は新聞・テレビ・週刊誌に大きく掲載されたのですよ。
ドーマン業界では“ラブちゃんフィーバー”が巻き起こったぐらい!?なのですから。

確かに、私もドーマン法によってめざましい回復を遂げた一人であるといえると思いますが、それは奇跡でもなんでもなく、大きな犠牲のもとに成り立つ(犠牲と引き替えに得られる)僅かな成功に過ぎないのです・・・。
このことに、両親はちっとも気付かずに、ドーマン法こそが我が子を治すことのできる唯一の治療法だ!と心の底から信じて疑わなかったのでした。(1日13時間以上の訓練を親子で取り組まなければならない過酷なプログラムなのです。詳しい訓練の内容などは、次回から徐々に書いていきます!)

マスコミに取り上げられる中で両親は「奇跡のラブちゃん」なんぞというタイトルで本まで出版しちゃったものですから、あら!大変!! 
楽歩の本格的な苦悩のはじまりでもありました。

楽歩さんの現在はこちら→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月25日 (金)

サイテイ車掌のJR日記/車掌の故郷はこんなとこ

○月×日
 車窓を眺めると、一面、黄金色に輝いた稲穂が整然と広がっている。どこまでも果てしなく続く庄内平野だ。その広大な田んぼの中で、黙々と農作業をしている人達の姿が点々と見える。
 「あぁ、もう稲刈りなのか。秋の収穫の時期を迎えたんだな」としみじみと思う。と同時に、今年もまた豊作であってほしいと素直に願わずにはいられなくなる。

 今月の帰省はこれで3度目だが、鳥海山が見えてくる鶴岡辺りに差し掛かると、あと少しで着くという安堵感と共に、いつも決まって胸がいっぱいになってしまうのだ。
 それはこれまでの様々な思いが交錯するからであろうが、目頭まで熱くなってしまったのはさっきの欠伸のせいであり、何も気にすることではない。
 最上川の鉄橋手前の線路脇には、05年の「特急いなほ脱線事故」で亡くなられた方々の慰霊碑がさみしく建っている。もうすぐ4年という歳月が流れるのだ。今はトンボが飛び交っているだけで、人がいるのは一度も見たことがない。

 「やっと着いた」といつもの酒田駅で降りる。鳥海山を背に、車で町の中心地を通り抜けると10分もしないうちに日和山公園に着く。ここは港近くに位置した市民の憩いの場で、いつもキレイに整備されている。
 公園入り口に続くなだらかな坂の途中には、今では観光スポットとしてすっかり有名になった洋館と和風の建物「旧割烹小幡」がある。御存知、映画「おくりびと」の舞台となった「NKエージェント」である。
 中は映画のセットそのままにしてあり、入館料はたったの100円。酒田の人は欲がないのか大盤振る舞いなのか、もっと取れよといいたくなる。せめて200円に!? 「鶴乃湯」のお母さんの葬儀もここの座敷が使われたことを知る。
 映画のシーンが鮮かに甦るのは勿論のこと、暫し感動の余韻に浸ってしまう。連日観光客で賑わっていると聞いたが、全国の人にもっともっと見に来てもらいたいものだ。

 その坂を登り切ると(といってもものの30秒もかからないが)そこがてっぺんで眼下には公園が広がる。何とも心地良い潮風がそっと髪をとかしてくれる。髪の毛のないオヤジ達には地肌にやさしい風に違いない。
 すぐの所に展望台があり、酒田南西半分の市街地と最上川河口から続く日本海が一望できるのだ。海にとろとろと沈んで行く夕日の美しさといったらない。絶景だよ、もう。それは1日の疲れを癒やしてくれるばかりか、過ぎ去った過去が走馬燈のように駆け巡り、ずっと遠い昔に思いを馳せてしまうのはどうしてなのだろう(知るもんか、そんなこと)。時は移り変わっても人々の心は変わらないのだとしんみりしっとりとしてしまうのは、これもやっぱりどうしてなのだろう(だから、知らないってば)。

 しかし、ここでのんびりなどしてはいられない。辺りは急に暗くなり、夜の帳が足早に降りてくる。日が暮れてからは彼岸前といえどもぐんと肌寒くなる。誰もが海風に一抹のさみしさを感じることだろう。そうなればこれから心に灯をともすことを考えなければならない。そうです、飲みに行くしかないわけですね。やさしい月明りに笑い顔で別れを告げて。

 いつも思う。私にとってのふるさと酒田はさみしい町なのだと。悲しみの酒田なのだ。そんな気持ちだけでも打ち消したいと一晩中飲んでいたい。先般、ついに政権交代が実現したが、日本は本当に変わるのだろうか。弱者に手の届く政治を期待したい。この酒田に限らず、年々疲弊していく全国の地方を何とかしてもらいたいなどとあれこれ思っているうちに、夜勤明けで寝てないせいもあり、すぐにウトウト気持ちよくなってしまっている。女将はいわなくてもタクシーを呼んでくれる。私は照れかくしに「もう一杯」と頼んで、早い時間にホテルへ直行。もうバッタンキューである。

 朝起きると、前日とは打って変わってどんよりと曇っていたりする。「これだよ酒田は、暗いんだよな」としんみりとした気持ちになる。一年中曇り空ばかりという印象が強いのだ。
 一通りの用を済ませて、また東京へ戻る。どんなに二日酔いで体調が悪くても、列車に乗りさえすればJRはやさしいのか東京へと運んでくれる。車窓から見えるふるさとは暗く荒んでいて、今にも分厚い鉛色の雲に埋もれてしまいそうだ。東京へなど戻りたくないのにJRは残酷なのか列車はどんどん酒田から離れて行く。
 当たり前だけどね、思い通りにならないのは。何もかもがだ。不一。(斎藤典雄)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月24日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第23回 不正合戦のアフガン選挙(上)

 カブールの街中を街宣車が通り過ぎる。カルザイ大統領の選挙キャンペーンの車だ。街宣車と言っても、カローラにポスターを貼っただけのものだが、それが10台近く猛スピード走り抜けていく。これでは、どの候補者か確認できまい。そう思っていると、ISAFの装甲車がコンボイ(隊列)を組んで走り抜けていく。
 選挙と装甲車あまり関係が無いようで、アフガニスタンでは当たり前の風景だ。民主主義の具現的行為である選挙と、軍の装甲車。東京では異形だが、カブールでは当たり前。その風景が眼裏にある日本で行われる選挙と比較され、ぐらりと意識がゆらぐ。
 でも、それがアフガニスタンの選挙なのだ。

 先月20日に行われたアフガニスタンの大統領選挙において現職カルザイ氏が過半数を獲得し、続投という形になった。しかし、今回の選挙では2千件以上の不正が報告され、タリバンが選挙阻止を掲げて投票日には全国で120件以上の攻撃を行った。オバマ大統領は早々に「選挙の成功」をアナウンスしたが、本当に今回の選挙をアフガン人の民意を反映したものになったのだろうか。
 アフガン東部ジャララバードに住む部族長のシャキルさんは無邪気そうに言う。
 「私が代表の地区では、6割の人がカルザイ氏に投票します。カルザイ氏の選挙キャンペーンの人が地域の部族長を集めて説明会をしました。他の候補者も同様のことをしました。彼の『もてなし』が一番よかった」
 髭面のシャキルさんは、そう言ってわたしに茶とフルーツを勧めた。どんな「もてなし」が行われたのだろう。茶とフルーツだけでは無いような気もする。
 明らかに票の取り纏めだ。
 おもむろにシャキルさんは懐から3枚のカードを取り出した。投票するための登録票だ。
 「ほら、だから何回も投票をしようと思ったので、複数回有権者登録をしました。5枚持っていたのですが、何枚かは無くしてしまいました」
 同じ名前の書かれた登録票だ。この地域ではカルザイ氏は実数以上の票を得ることになる。戸籍や住民票が無く、人口統計すら無いアフガンでは難しいことでは無いと言う。
「これは不正ですよね」
「そう不正です。でも、みんなやっていることです」
 シャキルさんは一向に悪びれる様子が無い。
 立候補者のミワイス・ヨシニ氏は「選挙の不正の証拠がある」として、記者たちを集めて会見を行った。両手に投票用紙を抱え、「私に入れられた投票用紙が捨てられていた」と叫ぶヨシニ氏の鼻息は荒い。
「今回の選挙は完全な不正だ。選挙管理委員会と現政権は結託している。選挙をやり直すべきだ」
 米軍の侵攻に伴い、「選挙」という民主的な方法がアフガンに来て5年。「自分の支持する政策を実行する立候補者に投票する」ことに意義がある選挙という制度は、内実全く浸透していない。(白川徹)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月22日 (火)

ロシアの横暴/第24回 ロシアがチェチェンのわがままを許すワケ(上)

 2014年冬季オリンピック開催地のソチで夏休みを過ごしてきた人の話を聞いた。それによると、となりに火薬庫といわれるカフカスがあるのにテロの影は全く見えず、経済危機などみじんも感じられず、ゆったりと休暇を過ごしたそうだ。
この手のみやげ話は外国からの観光客によくある。彼らは観光コースに従って表だけしか見られないから当然のことだ。だがこの人は現在日本に暮らしている黒海沿岸地方出身のロシア人女性である。ロシア政府のプロパガンダ要員ではないから多少の誇張はあるとしてもウソではないだろう。
 実はロシアはソ連時代から素顔が見えにくい国である。いいところだけを見せたがる「ソ連式プロパガンダ」のせいだけではない。ロシア人の思考回路を表現するのに「ロシア人はあることを考え、それについて語るときには別のことを言い、さらに実際の行動はまた別」というのがある。どれが本音なのかわからないが、ロシア人同士だと不思議と分かり合えるようだ。

 さてソチをはじめとするロシア各地が潤っているかどうかの前置きは別として、インターネットニュースではまた別のうわさ話が流れてきた。
「カディロフ・チェチェン大統領がヨーロッパのいくつかの国に、チェチェン政府代表部を開設する意向」
 ロシアとチェチェン対立の歴史からみれば度肝を抜くような話である。
 政府代表部というのは国家規模でいえば領事館のようなもので、国外で暮らす自国民の保護や便宜をはかることを主な仕事とする。チェチェン政府代表部が開設されればチェチェン人の出入国関連業務がここで行われるので独立国家とほぼ同等の扱いになる。
 奇想天外なことを言うのはカディロフのいつもの癖としても、独立宣言も同然の新提案をロシア政府が容認するはずがない。
 しかしロシア側はこのまさかの話を認める方向だという。
 この類の噂話といえば今年4月、ロシア軍撤退に伴ってひょっこり現れた国際空港開港がある。この計画案はすぐに消滅したから今回の代表部開設話も同じ道をたどるかも知れないが、火のないところに煙は立たない。何かありそうだ。

 そこで煙の源である「国際空港開港」にさかのぼってみよう。
ロシア軍撤退の理由は「武装勢力はほぼ撲滅したのでロシア軍の駐留は必要がなくなった」となっていた。これはロシア側・チェチェン側双方の一致した見解で、特にカディロフ大統領は「武装勢力は山岳部に70人ほどを残すだけだから4月いっぱいには全部片づける、片づけたのちには国際空港を開き、諸外国との交易を進め、若者に仕事と夢を与える、と意気込んでいた。
 ところが両隣のイングーシ・ダゲスタンで撲滅したはずの武装勢力が大暴れをし始めた。そんな物騒なところに就航するエアラインなどなく国際空港話は立ち消えになった。
消えた煙のなかから今度は「チェチェン政府代表部開設話」が立ちのぼってきた。ロシアはチェチェンに手を焼き、振り回され、消耗しきってもはや統治できないところまできていることを伺わせる。
 戦争が始まって15年、ロシアがどうやってもチェチェンの独立を認めたくないのは石油資源もさることながら、もし独立を認めればそのほかの共和国も片っ端から独立してかつてのソ連崩壊のようにロシアは分解してしまうからだ。ここで独立同然の「政府代表部開設」を認めれば他の共和国も雪崩を打って「代表部開設」を言い出すのは目に見えているのに容認するのは何故だろうか。

 チェチェン政府には他の共和国にない「強み」がある。それは戦争で国外に逃れた膨大な数の避難民である。正確な数は不明だがヨーロッパだけでも20万人はくだらないと思われる。彼ら避難民は故国となんらかのコンタクトを取りたければ、「いやなロシア大使館」の窓口に出頭しなければならない。ロシアからの弾圧を怖れて偽装パスポートを使って移住してきた者は当然出頭しない。チェチェン避難民は野放し状態になっている。
(偽装パスポートについて補足すると、実際には正式のパスポートである。おかしな言い回しだが、パスポート発給窓口が「別料金」で発給を請け負ったものである。正式な窓口で発給されたものだから偽装パスポートとは言えない)
 この「強み」は他の共和国の追随を許さない。チェチェン以外の自治共和国――たとえばタタールスタン、バシキールスタンなどからの避難民はいないからだ。「戦争で離散し、ロシア領事館に出頭できずにいるチェチェン人の保護」がこの提案のウリである。このことだけでも他の共和国からの代表部開設要求は却下できる。
 だがチェチェン側の提案は奇妙なことに「チェチェンはロシアに留まったまま、ヨーロッパに代表部を開設する」となっている。これでは独立志願の他の共和国は追随できまい。ここでチェチェンの「強み」をさらに上乗せするのは隣接する「ロシアが独立させたロシア丸抱え独立国家」の南オセチア、アプハジアの存在である。ロシアはチェチェン共和国に対し、「代表部を出すならもう独立と同じだから年金も公務員給与も自分でやれ」とは言えなくなる。ロシアはいままでどおりロシアの年金法にしたがって年金を払い、公務員の給料を払い続けなければならない。(川上なつ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月21日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/32歳・男性・漁師・正社員(後編)

(後編)
 島から大学に戻って、またアルバイトとスキューバダイビングの日々を過ごしました。就職活動は3年生からはじめました。平成13年度新卒で、超氷河期といわれた頃です。僕のまわりは就職自体はできたんですが、希望の職に就ける人はなかなかいませんでした。僕は教員になりたいと思っていたんですが、教育実習に行ったときに「ガキがガキを教えちゃいけないな」と感じていました。一回社会人になってからじゃないと、人を教えるということはできないんじゃないかなと。私立高校から教員のお話があったんですが、悩んだ末にそれは結局お断りして、教育関連会社に就職しました。

 そこは厳しい営業をやらされる企業でした。でも僕には合っていましたね。部活や漁師体験で体育会系のノリには慣れていたし、裁量権が全部与えられていたので自由に動くことができました。お給料も良かったんですよ。基本給プラス歩合制で、1年目は500万円ちょっと、2年目は1000万弱の年収がありました。
 4年半で辞めてしまうんですが、理由としては率直に言って仕事内容に飽きてしまったということに尽きます。営業テクニックを知っていると普通にしていても稼げてしまって、そうすると面白くないんですよ。この先、10年経っても同じ職場にいるのかなと想像すると、それはしんどいなと思って。辞めてまた漁師をはじめました。お金には困っていなかったので「無給で結構です、飯だけ食わしてください」と、学生時代のツテで置いてもらいました。そして色々な場所を転々としながら、基本的には海沿いに住んで漁師をやっていました。

 漁師生活も1年が過ぎた頃、知り合いから引き合いが来て中国情報を配信する会社で広告営業の仕事をするようになりました。消費者相手の営業に飽きて、今度は企業間の取引に関わりたいと思っていたので丁度良かったです。最初は派遣だったんですが、数ヵ月してから頼んで直契約にしてもらいました。売上さえ持っていれば問題ないので、14連休とかしちゃってましたね。でもそうやって暮らしていると社会性がどんどんなくなってくるような気がして、このままじゃまずいかなと感じるようになりました。そしてその仕事も2年半で辞めて、また1カ月くらい海に行きました。
 その後は、広告の仕事を続けてやってみようと小さな広告代理店に正社員で入社したんですが、そこはあまり自由に動かせてもらえず、5ヶ月で辞めました。そしてアジア関連情報を発信する今の会社にまた広告営業で移って、しばらくいる、という現状です。

 結局僕は年収にかなり変動のある人生を送っているわけですが、その中で見えてきたのは、年収1000万でも、200万でも、ストックがなければ結局同じだということです。4年半いた最初の会社では、めいっぱい稼いでも使い尽くしてしまって貯金のない人達をさんざん見てきました。すると稼げなくなったときに、あっという間に没落する。幾らあってもお金に使われてしまえばおしまいです。
(後編終わり)(聞き手:奥山)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月18日 (金)

新刊案内/鎌田慧の新刊、10月中旬~下旬にかけて発売予定

告知です。

民主党政権が具体的に動き出そうとしている今、

ルポライター、鎌田慧の新刊が10月に発売になります。

鎌田慧といえば、代表作『自動車絶望工場』(講談社文庫)にみられるように、労働問題をはじめとした社会問題を取り上げるライターとして揺るぎない地位を確立しています。

とくに自ら現場を体験し作品を仕上げることで定評があり、弱者の視点を取り入れることができる貴重な書き手です。

『くたばれ自民党』(アストラ)などで与党批判を行っていましたが、前代未聞の政権交代劇に鎌田氏はどう反応したのか?

そして、日本が変わるチャンスに、どんな提言をするのか?

他の民主党研究本とは一線を画した友愛社会への忠告。
期間工として働いた経験もある著者が
労働者の視点で自公悪政の反省点をふまえ示す航海図!

発売日が決まり次第、こちらのブログでお知らせいたします。

こうご期待!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月14日 (月)

Brendaがゆく!/高いところを目指していて本当によかった

私は卒後すぐに留学したのではない。
2年弱会社員をしていた。

外資系のコンピューター会社の総合職だ。

多くのことを学んだ。

ピアノしかしていなかった人生からそんなところに就職できたのが普通ではなかったことは、わかる人にはわかるだろう。

しかも、最悪の就職氷河期の年だった。

私は、就職のおかげでストレスで喘息気味だったりしたが、諦めたことは一度も無かった。

私は、派遣とか、一般職とかアルバイトとか安い給料の仕事とかは好かないので、そういうものは最初からやる気がまったくなかった。

傲慢ではあるが、私の価値はそんなもんじゃねーと。
高をくくっていた訳だ。

そういうわけで、私は一社しか受けていない。

ちなみにこの一社を受けるために、一社だけ練習で面接に言ったが、
日本企業の親父の言うことはピンとこないうえに。

ふざけた私は深紅のスーツで面接に登場した。(ファッションの会社だったので、一応私のファッションを見せて差し上げようと思った)

本命の会社の面接の日も、リクルートな装いであってもバックはビトンだったし。

ま、例外と言うのかしら。

しかし、この時は背水の陣とかそういう気持ちは一切無かったので、

「この会社に入ってやる、ここしかないんだ私には!!!!!!!!!!!!」

と毎日念仏のように、頭にあつい血がのぼっていた。

私が重役面接までこぎ着けた時に、後一人のライバルがなんと獣医だった。

獣医大を卒業してまったく業界違いに飛び込む者とピアノ女の私との一騎打ち。

私は燃えていた。

こいつをたたき落として私がのし上がっていくしかない。

いや、私はすべてを超越している。

怖い者など何も無い。

自分の勢いを最大限に出すだけで事はすべて済む。

そのようにした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月12日 (土)

Brendaがゆく!/もうこっちについてます

記事が予約であがっているうちにアタクシはもうパリですが。

すごいことになってます。

運気がかつてなくあがりまくって、ものすごい勢いで人生が動き始めている。

こんな顔に吹きつける風のようなものを肌に感じる感触、イイネ。

でも、つらいのはひとつ。
弟とお母さんと、あとダディがいないのが・・・
笑顔はでづらいね、これじゃ。

両親が買ってくれて弟が私が持ちやすいようにとうまく梱包してくれた炊飯器を手持ちでもってきたんだ。

その炊飯器の大きな包みの中に家族の愛が詰まっているように思って、開けたらそれが流れ出してしまうかもしれないと思って少しの時間開けられずに、その包みを眺めていた。

明日の朝は、ご飯が炊けているはず。

これで玄米生活にもゆとりがでるね。

服がおしゃれすぎるのでちょっとドレスダウンしなければいけない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月11日 (金)

ロシアの横暴/第23回 ロシア水力発電所爆発のウラ側(下)

 3番目のイスラム系の団体が起こしたテロ説はほとんど無意味である。プーチンは犯行声明が出ていても、以前のようにすんなり認めることが出来ない立場にある。「チェチェンテロリストは撲滅した」からだ。撲滅したチェチェンテロリストがチェチェンから遠く離れた東シベリアで水力発電所を爆破させた、となったらいい恥さらしだ。「テロリストは撲滅したからソチでオリンピックを開こう」と言ったのはなんだったのか、と国際的にも非難をあびることになる。

 これらの仮説のなかで一番まるく収まりそうなのが「補償金目当ての偽造爆破事故」である。どのみち真偽のほどは検証不可能だから、さっさと見舞金を払ってふたを閉めればあとはどうにかなるからだ。と言ってもこんな「ウソー」みたいな話が公式発表になることはない。現在の公式発表は「人為的なものではないが、何かわからない」である。

 ところで犯行声明はプーチンが「否定」したほか、別の角度からみてもたぶん違う、といえる。2006年にロシアから最大のテロリストと指名手配されていたシャミーリ・バサエフという野戦司令官が自らの不注意で起こした爆発事故で死んだ。彼はやることなすことあぶなっかしい跳ね上がりだったので、起こるべくして起こった事故だった。しばらくするとロシア政府が「我が内務省軍は極悪テロリストを殺害した」、と発表した。この発表は公式なので日本外務省のホームページに「チェチェン情勢」として載っている。
 カフカスセンターもこのやり方を踏襲している。彼らの思考回路はお互いによく似ている。常々からテロ予告をやっているが、このたび恰好の事故が起きたから「犯行声明」を出したのだろう。
  そうこうするうちに今度は石油貯蔵タンクで火災が発生した。原因は落雷とあったが、仮にそれがほんとなら、老朽化した設備をほったらかしにしていたことが丸見えである。雷はなにも今年はじめて発生したわけでもないからだ。ただ、今回は人的被害が少なかったので、いろいろ詮索されることもなく、落雷で落ち着いたようだ。
 そのうちにちょっとした事故なら報道されなくなるかも知れない。中央アジアの草原でも似たような事故が起きたらしいが、今のところ日本の新聞には載っていない。

 あっちでもこっちでも火の手があがるのをロシアはどうやって乗り切るのか。もぐら叩きレベルも超えてしまった。
 ある日の新聞に「ロシアでは原油高に甘んじて何もしてこなかったことへの反省がちらほら出てきている」とあった。だが米国初の経済危機が永久に続くことはなく、どんな形であれ回復していくはずだから、その時になれば地下資源の需要も高まってくる、とにかく今ここを乗り切ればまた黄金時代がくる、と相変わらずのユスリ・タカリ精神を全開させているむきも相当あるらしい。
 一方ロシアの有識者は、今更反省したって手遅れだとい出した。反省心に水を差すつもりはないとしても、事実は事実である。(川上なつ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月10日 (木)

『橋の上の「殺意」』(平凡社)書評

Hasi  2006年6月、自身の娘と近所の男児を殺害したとして畠山鈴香は逮捕された。その暗い眼差しを覚えている人も多いだろう。本書は犯人の畠山鈴香の事件の真実と同時に、あらゆる場面で叩かれ続けてきた彼女人生も記録している。幼い時分から父に殴られ続け、学校ではいじめられ、恋人には裏切られ、事件後は警察や検察、マスコミから徹底的にいたぶられ続けた。
 事件後の性格検査で行われた「言語連想検査」の結果が本書にある。一部を抜き出してみよう。

 「暗闇」→「安心」、「友達」→「裏切り者」、「他人」→「怖いもの」、「恋人」→「裏切り者」、「男」→「不安」、「死」→「尊いもの」、「敵」→「まわり」、「過去」→「つらいもの」。
 あらかじめ用意された単語に対する鈴香の連想は、彼女の人生がいかに荒廃したものかを物語っている。

 この事件の裁判の争点の1つは、娘の彩香ちゃんへの殺意があったかどうかだった。米山豪憲君の殺害については、動機こそあやふやだが、殺害そのものを認めている。しかし娘の殺意について、彼女は裁判で認めていないのだ。彩香ちゃんが亡くなった前後のことを、よく覚えていないと主張し続けていたからだ。ただし調書には殺意がハッキリと記されている。怒鳴りつけ、反省しなければ情状酌量にならないと脅し、後で訂正すればいいと騙して署名させ、刑事と検事が「殺意」を作り上げたからだ。冤罪事件のたびに批判されてきた警察・検察の得意技である。
 しかし彼女が記憶を無くしたと思える証拠はいくらでもある。娘が死体で発見された後、事件性がないとして捜査を打ち切った警察には出向いて抗議までしている。また、娘の情報を求めるチラシを配っている。そもそも警察は鈴香に殺害の動機が見つけられないからこそ、事故として片付けたのである。そうした事実を検察はなかったことにして裁判を進めたことがを、本書を読んで初めて知った。
 メディアも検察や警察の意図的なリークから犯人像を作り上げてタレ流し続けた。凶暴で、娘を虐待し、男出入りが激しい女といったイメージだ。確かに娘の彩香ちゃんは気に入った服ばかりを着続け、お世辞にもこざっぱりとした格好ではなかったらしい。自宅も散らかっていたようだ。しかし体や心の病と闘いながら、彼女は必死に子どもを育てていた。それなのに彩香ちゃんが痩せていたわけでもないのに、食事を与えていないかと疑わせる記事まで流れた。さらに地裁や高裁で被告に死刑判決が出ないとわかると、不当裁判とばかりに報道した。
 結局、彩香ちゃんの死亡時の記憶がないことも、立件のため無理な「自白」を検察が被告に押しつけたことも、きちんと報じられないまま裁判は終結したのだ。その大いなる空白を著者の鎌田慧氏は2年半もの取材で埋めてくれた。

 司法の厳罰化は進んでいる。そのうえ、これだけマスコミに取り上げられた事件である。裁判所としても検察の求刑通り死刑判決を下した方がラクだったはずだ。しかし検察に迎合しがちな裁判所が死刑判決を出さなかったのは、死刑にするのにかなりの無理があったからだ。その意味をきちんと伝える報道関係者がほとんどおらず、裁判を傍聴し続けた鎌田氏が書籍で報じたことに、この国のジャーナリズムの貧困が見てとれる。
 鎌田氏が判決前から死刑はないと予測していたのは、死刑反対論者だからではない。多くの冤罪事件取材を通して、検察側の無理な調書に気づいていたからだろう。警察や検察からのリークをいち早く伝えることで評価を得てきた新聞記者との違いといってもよい。

 これだけ話題になりながら、真実のほとんどが伝えられなかったことに唖然としつつ、まだ伝える人物がいたことにホッとした。
 そういった意味でも怖い書籍であった。(大畑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 8日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/初秋親子百景

○月×日
 秋刀魚1本88円、安いからと2本買った。他には大根、かぼちゃ、人参、ごぼうにトマトといんげん。それに鳥肉、豆腐、油揚と納豆。あとは缶ビール6本入りパックなどなど、いつものスーパーで大量に買い込んだ。
 その帰りに、タバコを買い忘れたなと途中のコンビニに寄ろうと自転車を止めると、前カゴの荷物が重すぎてバランスが悪かったのだろう。いつもはそんなことにも慎重な私なのに、店に入いるのと同時にバッタンと倒れてしまったではないか。
 いやあ、もう大変であった。歩道に缶ビールはあちこちゴロゴロ転がるは、ミニトマトはパックから飛び出し一個ずつコロコロ散らばるは、なんと、秋刀魚は刀の字の如く、鋭く尖った頭がビニール袋を突き破って泳いでいる……、ん!? それはないけど、とにかく焦って、すぐに自転車を立て直したまではよかったが、しかしまぁ、いったい何から袋に入れ直したらいいのかと一瞬パニック。
 通りすがりの心ある妙齢のご婦人が「あらあら、おにいさん」と手伝ってくれたのには助かったが、何だか家の晩のおかずを全て見られてしまったようで、恥ずかしいったらなかったのだ。

 さて、乗務中の話だが、某駅を発車させ、いつものように列車とホームの前方の安全確認をしていると、お母さんに手を引かれた3才くらいの坊やのTシャツの背中の文字が目に入いり、唖然としてしまったのであった。
 それは、縦2列の大きなカタカナで、ハッキリと確認出来た右の1列には、なんと、「ステゴ」と書いてあったからだ。ナヌッ!? 「捨て子」だなんて。う、嘘だろ!! と、一瞬、そんな服を売る店も店だが、それを着せる親も親だと、そんな世の中を憤慨したものの、その親子の後ろを歩く人がじゃまで見えないもう1列にはいったい何と書かれてあるのかと気になって、電車が親子に急接近した追い越しざまにキビシク確認すると、私はガクッとこけそうになった。
 だって、「ザウルス」なんだもの。私は坊やをチラッと見ると、Tシャツの前面には大きな恐竜の絵があり、「やれやれ」と納得。ホッと一安心しながら前方確認を終え、過ぎ去った駅に身体をクルリと向き直すと、腕を一直線に伸ばし「後方オーライ」と指差喚呼。バイバイね、坊や。
 また、ある日の車内ではこんな光景を見た。1才くらいの子をお母さんがおんぶして、お父さんは吊革につかまり車窓の景色を眺めていた。その子はずっと愚図りっぱなしで、ふんぞり返るは、お母さんの髪の毛を引っ張るはで、時折激しく泣きじゃくる声は乗務員室にまで聴こえてきた。
 それを見かねたお父さんは漸くチェンジしてくれだっこしたが、収まる気配は一向にない。
 ふと、私は何か変だなと違和感を覚えた。それは、やっと解放されたはずのお母さんが、お父さんのあやすリズムに合わせてさっきまでのおんぶの動作をがに股のまま続けていたからであった。
 私は微笑ましいと思いながらしばらく様子を窺っていたのだが、お母さんは自分の不自然さにハタと気づいたのであろう。その動作をピタリと止めたかと思うと、回りを気にしながら恥ずかしそうに俯いてしまったのだった。
 分かる、分かるよお母さん。夜中だろうが1日中おんぶにだっこであやし続けて、そのリズムが身体中に染みこんでいるのだろう。すぐには抜けるはずないよね、お疲れさん。
 ところで、田舎のおふくろだが、横になったり起きたりの繰り返しで、全く元気がない。何をしてもすぐに忘れてしまうこの病気は快方に向かうということはない。
 それでも喜怒哀楽はある。だから一瞬でもいいからできるだけ喜んでくれればそれでいいと思っている。
 だから、帰省出来ない時はせっせとハガキを出したり、誕生日などの何かの記念日には花を送ったりと、思えば、私がやっていることといったらおふくろが病気になった4年前と何も変わってはいないのだ。
 こうして、つい最近になり、おふくろとの思い出を辿っていくことが多くなった。すると、何とも奇妙な事実が浮かび上がり、それには私も驚き、愕然としてしまったことが一つだけあったのだった。
 このことは、これまでには全然気にもしていないことだった。また、何とも思わなかったし、深く考えることすらなかったことだ。本当に、たった今気付いたことなのである。
 それは、一般家庭から見れば「それっておかしいよ、変だよ、そんな家族ってありかよ」ということであり、私自身も異常なことだったと(今)思っている。
 回りくどくなったが、単刀直入に申し上げる。『私はおふくろと食事をしたことがない』。厳密にいえば、世間話などをしながら一緒に食卓を囲んだ記憶が殆どないということだ。
 私自身信じられないことだから、比較的新しい時期のこと、すなわち私が田舎から東京に出て来て、たまに帰省したときでも、なるほど、そういえばやっぱり一緒には食べていないということに気付く。
 ならば、その時におふくろはいったい何をしていたのか。食卓と台所を行ったり来たりなのである。まず、じっとしていることがない。ただただ忙しそうに動き回っているのだ。もちろん私は「ゆっくり座って皆と一緒に食べようよ」という。すると、「美味しいですか? よかった、よかった」とニコニコ見ているだけで、台所に引っ込んでは私の酒や別のものを用意してくる。
 おふくろの性格だといってしまえばそれまでだが、私が子どもだった頃からずっとそれが当たり前で来たから何とも思わなかったのだと思うが、結局私は自分のことしか頭になかったのだ。「座って」とおふくろに声を掛けたのもうっとうしくて落ち着かないからであり、おふくろの幸せなどこれっぽっちも考えていなかったのだろう。
 何もかも遅すぎたが、今になって様々なことが頭を過ぎる。おれはもしかしたら捨て子だったのではないか、おんぶもだっこもされたことがなかったのではないか、そんなわけないか。
 いずれにしても、とんでもない家族だったわけだが、今さらそんなことを考えてもどうしようもないことなのだ。
 さぁ、秋刀魚だよ今晩は。秋だよな~……。(斎藤典雄)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 7日 (月)

●ホームレス自らを語る 第40回 派遣社員をしていた/浜野浩一さん(44歳)

0909 ホームレスになる前は、派遣社員をしていたんだよ。いや、去年9月の経済危機による派遣切りとは関係ない。オレの場合は、いまから3年前に登録していた人材派遣会社が倒産して、それで仕事を失うことになったんだ。そのあとしばらくはネットカフェを利用して暮らしていたが、ナイト割引きを利用しても1泊1000円はかかるし、食事代も必要だからさ。だんだんに金が尽きてきて、野宿するしかなくなってホームレスになった。野宿するようになって1年半くらいになるよ。
 いまの派遣社員は毎日違う工場に派遣されたり、日によっては仕事がなかったり、かなり変則で不安定な働き方をさせられているようだよね。だけど、オレたちが派遣で働いていた頃は、派遣先の業種がだいたい決まっていて、それも同じ工場で1ヵ月間の契約で働いていたんだけどな。
 オレの場合は自動車メーカーのラインの仕事が多くて、日本の3大メーカーのT社、N社、H社の工場によく派遣された。派遣中は工場の寮に入れた。
 ところが、3年前に登録していた人材派遣会社が倒産すると、たちまちクビを通告されて、寮を追い出されたんだ。昔は労働者の権利はもっと強かったと思うけど、派遣切りはボロ雑巾でも捨てるみたいに簡単だからさ。人材派遣法なんて悪法をつくた政治家たちを恨んだよね。
 それからずっと新しい就職先を探しているけど、いまだにどこからも雇ってもらえないからさ。

 オレが生まれたのは昭和39(1964)年で、埼玉県大宮市(いまのさいたま市大宮区)なんだ。
(実は浜野さんが路上生活をしているのは、JR大宮駅西口のペデストリアンデッキの下である)
 うん。大宮は生まれ育った街だけど、実家があったのは東口側だからさ。いまだに親戚とか、友人とか、知り合いに見つかったことはないね。
 実家は八百屋をやっていたが、祖父と父親の二人だけでやっていた個人商店だから、それほど繁盛してたわけじゃない。祖父が始めた店で、父親はイヤイヤながら手伝わされていたようだ。祖父が亡くなると、すぐに店を畳んでしまったからな(笑)。
 オレは中学校を出ると、火災報知器メーカーの下請けをしている町工場に就職した。仕事は製品カバーを成型加工してつくる板金工だった。工場は上尾にあって、大宮の隣町だから通えないこともなかったが、工場に寮があったから寮に入った。
 その工場には10年くらいいたんじゃないのかな。辞めることになったのは、人間関係の縺れだね。同僚の工員にイヤなヤツがいて、オレの言動に何だかんだと理屈をつけは、突っかかってきてね。それが鬱陶しくて辞めることにしたんだ。
 それからは池袋の手配師の紹介で飯場に入って、建築工をやったり、土工をやったりするようになる。仕事は何でもやったよ。建築工だったら、トビから、配筋工、型枠バラシ工、コンクリート工、コンクリート仕上げの左官まで何でもやった。土工のほうもたいがいのことはやったな。
 名のある建物では「浦和ロイヤルズパインズホテル」「浦和市民会館」、それに東北・上越新幹線の上野―東京間の工事にも参加した。そうそう、御徒町駅近くで陥没事故を起こした工事だよ。このときのオレは配筋工で参加していたんだな。
 飯場仕事も10年くらい続いたんじゃないかな。こういう現場作業に従事しているのには、ギャンブル好き、酒好きの怠け者が多いんだが、オレは真面目だったからね。一つの現場が終わると、休まずに次の現場に出て働いた。ギャンブルもたまにパチンコをやるくらいで、競馬や競輪には縁がなかった。酒も飯場で夕飯のときに晩酌を少しやる程度だった。女遊びもしなかったしね。ホント、真面目なもんだったよ。
 結婚はしなかった。男ばかりの職場で、結婚しようにも相手の女性がいなかったし、何より面倒臭いというのが先だったな。

 飯場仕事をやめたのは、バブル経済が弾けて仕事が極端に減ったからだよ。いくつもの飯場もつぶれたしね。
 それで人材派遣の会社に登録して、自動車メーカーの工場で働くようになったのは、さっき話したとおりだ。
 ホームレスをするようになったのは、1年半くらい前からだね。夜もこのベンチに寝ている。このベンチはオレの指定席になっているんだ。
 この街でホームレスをしていても、新宿や池袋なんかのように炊き出しとか、差し入れとかはないからね。ここでは自分の食いもんは、自分で調達しないといけないから楽じゃないよ。オレは時々アルミの空き缶拾いをして現金に換えているが、この不況でアルミも値下がりしているから、それで食い扶持を稼ぐのはきびしいよ。
 そうまでして大宮に留まっている理由かい? まあ、この街で生まれ育ったからね。最初の町工場も、飯場での仕事も、この界隈の仕事が多かったし、この街に愛着があるんだな。大宮の街が好きなんだよ。
 これからのこと? オレもまだ44歳だから、一日も早く再就職先を見つけないとね。いまの日本経済は最悪の時期だけど、そのうちにきっといいときがやって来るよ。そう信じてないと、ホームレスなんかやってられないからね。ホントにさ。(神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 6日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第35回 ペット葬のあり方

 様々な事情により、今月から数回にかけてペットのお葬式事情を追っていきたい。
 ペットブームといわれて久しいが、波に乗った人はまだあってないに違いない、愛犬・愛猫の死に目には。考えたくもないだろう。
 しかし知っておくにこしたことはないのではないか。だって、ペットのお葬式には既にいろんな企業が入ってきており、常にごった返しの状態で、どんな送り方がいいのかなんて瞬時に判断するのは至難の業だから。

 自然派ならば、庭に埋めるのがいいだろう。自分の敷地内なら何を埋めても問題ない。しかし自分の家を持ち得ない人達は、何らかの手段で処理しなければならない。真っ先に思いつくのは保健所だ。もちろんゴミの日に出すという手もある。誰から責められるわけでもない。しかしペットに1ミリたりとも愛情を持っていなかったとしても、ちょっと気が引けるのではないか。
 引き取ってもらえない保健所もあるので、電話で確認してみよう。保健所に持っていくメリットは、まず費用が安いことだ。無料のところもあるが、重量に従って課金されるところが殆どだ。デメリットは、骨が戻ってくることが少ない点だ。他のペットと合同火葬されるからだ。お骨を供養したいという人には向かない。慰霊塔を持っていて、年に一度供養祭をしてくれるといった心配りの利く保健所もあるが、まれな方だろう。

 お骨をぜひ戻したいなら、民間のペット葬業者に頼む必要がある。
 一番手軽なのが、移動火葬車で荼毘に付してもらう形式だ。「移動火葬車ってなに?!」という人も、焼き芋屋を見たことくらいあるだろう。車の中で火が燃えてたって全然不思議じゃない。おうちまでペットを預かりに行き、近くで停車して火葬し、そのまま骨壺に納めて家に持ってきてくれる。マイカーがなく、ペットを連れて火葬場まで行けない都会人にお勧めだ。ただ、家の近くで停車して火葬するといっても、近隣住民に抵抗感を与えない場所を選ばなければならない。けっこう難しい問題だ。火葬とか死体とかに慣れきっている私でも移動火葬車に出会ったら気味が悪い。
 近所と不穏な関係になりたくないなら、火葬場に出向くのがいい。火葬場を持っているペット葬業者に頼むのだ。炉の前でのお別れがあるところが多いので、比較的ゆっくりと最後の時間を持つことができる。料金はやはりペットの重量によるが、1万円から10万円でやれてしまうところが殆どのようだ。移動火葬車も同程度。超大型犬だったら別だが、火葬のみなら、10万円を大きく上回るときは警戒した方がいい。嘘か誠か、火葬している間にどんどん値をつり上げていって「払わなかったら今すぐ炉から出すぞ」と脅す乱暴な業者もいるそうだ。つまり生焼けの状態で放り出すというのである。デマであることを祈る。

 悪徳業者にかからないようにするには、見積もりをもらっておくのが一番、というのは基本のキ。そんなの危篤になってからでも遅くないと思うだろうか。あなたは肉親の危篤や不幸以外で急に休みを取ることができる環境にあるだろうか。有給がどんなに余っていても、仕事が立て込んで「今は休むべきでない」という時期は幾らでもあるだろう。しかし、生命は待ってくれない。ペットが死にそうなので休みます、と言えなさそうな仕事を持っている人は、やはり事前に考えておきたい。

 さて、先ほど「1~10万円」といった。こちらは当然火葬のみの値段である。葬儀をするとなると、値段はピンキリのアイマイになってくる。宗派にこだわり、人間並みに送ってやりたいと思うのであれば、それなりのお金が必要だ。どんなスタイルで送るかによって、かかってくるお金が大幅に違うのがペット葬なのである。これから数回、ペット葬のスタイルについて記事をお送りする。(小松)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 5日 (土)

Brendaがゆく!/うらやましがられる人=アタクシの現実の生活

はっきり言って、フライト前って結構うつっぽい気持ちになっていろいろなことに身が入らなくなったり。

荷物まとめもすごく嫌だし。

あー、また移動かとなるしね。

しかも、フライト前は毎日外食になって、冷蔵庫の物を使い切るのと、あとその国を出ることで、最後にお目にかかりましょうmeetingの日々になるのです。
これは、どこの場所から出て行く時も同じことです。

そのなかでたいてい
「~~~に行くなんていいな~」

と言われるのだけど。

結構、心の中は病み、いや変換ミス

心の中は闇でございます。

「まあ、これが生活だからね」と答えていますが。

荷物をまとめて出て行くことは、まさに生活以外のなにものでもなく。
引っ越しが精神的に大きなストレスになるのの、ちょっとしたミニバージョンぐらいでしょうか。
50kgの荷物、滞在期間2ヶ月とかなると結構規模が違ってきます。

こんなことは、家の掃除を家政婦に頼んだり、車の運転はタクシーの運転手がするのとは違って、誰も変わってもらえる人はいません。

あ、でも入れる物だけとりあえず入れてあったひどい状態から、親切なお友達がきれいにつめ直してくれたことはありましたが。

結構私のようにガサツな人は入れる物だけ決めて、だれかそばにいる「つめマニア」の人につめてもらうと意外といい感じになるかもしれません。汗

ちなみに、帰れば帰ったで、パッキング崩しという恐ろしい仕事がまってますが、基本的に私はこれはしません。
そのまま部屋にopenしておいて、次のフライトまでそのままです。必要な物だけ引っ張りだして使ったり、元の場所に戻したりしています。

ま、一つのところに留まって生活していれば飽きてくるのでね、幸せすぎのたわごととも言える話ですが。
本心を書いてみたわけであります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 4日 (金)

池田大作より他に神はなし/大河連載第3回 ゲーテが蒼ざめ萩原朔太郎がひざまずく21世紀の大ミューズ・池田名誉会長の詩心に限りはありやなしや?

K  畜生共の所業。そう断言するしかあるまい。本人たちもポスターも、超整形済みかもと一部で囁かれていた、幸福実現党の大川隆法&きょう子夫婦の、比例出馬中止を筆頭とする、衆議院選からの敵前逃亡的行為だ。都議選での惨敗に、トップの名誉保持と供託金没収から教団の財政を守るための姑息な措置だろうが、上に立つ者が真っ先に保身に走る組織に、明日があろうか? 金銭面への執着に至っては、眼を覆わんばかりの醜悪さだ。

 幸福の科学なる邪教宗団は、幹部の名誉欲と銭金さえ確保し得るなら、世間への公約など屁とも思わない、どんな行動を取るかもわからない、オウム真理教と同じまな板の、品性も知性も羞恥心のカケラもない組織である事を、満天下にさらした。さすがはつい最近まで(1995年)、『創価学会を折伏する! 第二の坂本弁護士事件!! 東村山市議殺人事件徹底糾弾』(幸福の科学出版 ザ・リバティ編集局編)なる捏造ハレンチ冊子を公然とバラまき(表紙に池田SGI名誉会長の御写真を配する悪辣さ!)、世の糾弾を一身に浴びた教団だけある(その後、またもや豹変、大川はやっぱり出馬するし、小選挙区でも戦うと。宗教団体としての体をなしてない見苦しさだ)。

 思い起こして欲しい。池田名誉会長の「大阪事件」(1957年)での断固たる闘い振りを。大阪東署の仕組まれた薄汚ない策謀に対し(でっち上げの個別訪問容疑による冤罪)、会長は大阪拘置所に不当にも15日間勾留されながら、1ミリたりとも屈しない。保釈後も「大悪起れば、大善来たるとの、大聖人様の御金言の如く、私もさらに、より以上の祈りきった信心で皆様とともに広宣流布に邁進すると決心する次第であります」(『聖教新聞』57年7月21日)と宣言。戦後最大の法難に対し、当然ながら見事に無罪判決を勝ち取る(1962年)。大川某夫婦などとは、人としての性根が全く違う事を、以降の闘いの歩みが証明するのは、皆様ご存知の通りだ。日顕一派、日本共産党、幸福の科学…名誉会長と同志の前に己れの分も考えずに立ちはだかり、次々と敗退していく畜生共の哀れな姿は、知らずに蚊取り線香のたいてある部屋に侵入、次々と落下して行くやぶ蚊の群れを思わせる(一滴の血を吸ういとまもなく)。

 『輝け! 友情のVサイン』(池田大作・第三文明社'04)は、題名がまず決まっているが、カバーや中の挿し絵が素晴らしい(くさか里樹)。御覧の通りBL系の絵なのだ。会長の重厚な思想のノベル化を、今風のライトな絵が飾る。一見両者のイメージは異なるが、創作物に真のパワーが秘められていれば、この手法は逆に何倍もの相乗効果を発揮する。黒澤明監督の名作、映画『野良犬』('49東宝)では、終幕で拳銃泥棒役の木村功が、刑事役の三船敏郎に追い詰められる。このサスペンスシーンに、裏腹なイメージの甘いピアノの曲が、近所の家から流れかぶさる(音楽・早坂文雄)。演出の冴えも加わり、類する映画にない画面効果を生んでいると、観た者の多くが口を揃える。『輝け~』も文字通り、出版物の『野良犬』級の大傑作だ(当然、版元のサラリーマン編集者の思いつく境地ではない。確実に名誉会長直々の指示があったはずだ。会長の漫画への造詣が、麻生“エテ公”総理などとレベルが違うのは、潮出版社のコミックスラインナップを見れば、一目瞭然だ)。

 北京オリンピックマラソン出場を夢見る日本人少女・永井広美と、在日中国人少女・川崎春子(孫春蘭)の、差別にくじけない友情物語はもちろん感動的だ(日中友好の開祖たる名誉会長だが、過去の自らの偉業などこれっぽちも誇示しようとはしない。一方で2人の少女に託した未来志向の平和への熱意は、ページをめくる指をジジッとこがさんばかり。真の読書体験とは、身と心に火傷を負う事である。会長の本を読み終えると常に感じる真実だ)。

 しかもA5版ハードカバーで144Pもあるのに、税込みたった1050円の本書には、巻末に長編詩、「若き君よ勝ちまくれ! 青春は人生の一生の土台」まで収録。具象的で自然主義を極めた題名にまず魅せられるが、興奮を抑えて読み進もう。

 “未来(みらい)は無限(むげん)だ。/未来は希望(きぼう)だ。/未来は夢(ゆめ)だ。/未来は大活躍(だいかつやく)の劇場(げきじょう)だ。 未来は後悔(こうかい)がない。/輝(かがや)く希望がある。/未来のない人は/死(し)である”。淡々と人間の運命をつづる中、唐突に登場する、“未来のない人は/死(し)である”の下り。ガーンと頭をハンマーで砕かれるようなショックを受けない者は、一生信仰に生きる資格はない(日顕一派、日本共産党、幸福の科学、溝口敦、石井一、平沢勝栄etc…)。

 “あのドイツの文豪(ぶんごう)/ゲーテは謳(うた)った。/「われわれは結局(けっきょく)/何(なに)を目(め)ざすべきか。/世(よ)の中を知(し)り、/これを軽蔑(けいべつ)しないことだ”(中略)“そしてまた/彼(かれ)は語(かた)った。/「どれほど深(ふか)く/苦悩(くのう)にひたっていようとも/きみはやはり/青春(せいしゅん)の幸(さいわい)に生まれた身/勇気(ゆうき)をふるいたまえ、/敏捷(びんしょう)なすこやかな歩(あゆ)みに」 若(わか)き生命(せいめい)の持(も)ち主(ぬし)は/皆(みな)が/その魂(たましい)は/閃光(せんこう)を放(はな)っているのだ”(113Pより)。

 最大の驚きは、引用部分の文豪ゲーテの散文と読み比べ、名誉会長の詩にこれぽっちの遜色がない点だ。いや、“未来のない人は/死(し)である”の下りに至っては、一級の東洋哲学思考の吐露の純粋結晶として、完全にゲーテをも超えていると、筆者は客観的に断言せざるを得ない。

 ただ一点のみ本書に不満も。名誉会長の御写真が1葉も掲載されてない。編集部の歴史的大失態だ。自らの業績を誇りたがらない、シャイで謙虚な会長に甘え切り、放置しておくのが真っ当な弟子の道か? 筆者が担当編集者ならくさか里樹に、BLタッチの会長の肖像を描いてもらう(無論、「東京富士美術館」に永久保存)。あの福々しい名誉会長の御姿の拝謁で、“畜生(ちくしょう)の群(むら)がり叫(さけ)ぶ”(同書126P)日常の悪夢を忘れ去る機会を失した私は、思わずボロボロの1冊の詩集に手を伸ばした。『ランボー詩集』(堀口大學訳・新潮文庫)だ。大好きな「永遠」の頁を開く。

R “もう一度探し出したぞ。/何を? 永遠を。/それは、太陽と番(つが)った/海だ。 待ち受けてる魂よ、/一緒につぶやこうよ、/空(むな)しい夜(よる)と烈火の昼の/切ない思いを。 人間的な願望(ねがい)から/人並みのあこがれから、/魂よ、つまりお前は脱却し、/そして自由に飛ぶという……。 絶対に希望はないぞ、/希いの筋もゆるされぬ。/学問と我身がやっと許してもらえるだけで……。/刑罰だけが確実で。 熱き血潮のやわ肌(はだ)よ、/そなたの情熱によってのみ/義務も苦もなく/激昂(たかぶる)よ。 もう一度探し出したぞ。/何を? 永遠を。/それは、太陽と番った/海だ”(112Pより)。

 週に3回、“永遠”の部分を、“池田名誉会長”と言い換えて朗読する。それも必ず3度。ここ10年来の筆者の習慣であり、信仰の基本だ。“畜生の群がり”もあっという間に忘れ、会長及び同志と新たな明日からの闘いの日々を生きんという、生命力がコンコンとわいて来る。“もう一度探し出したぞ。/何を? 池田名誉会長を”。自然に幾筋もの涙が頬を濡らす。 (つづく)(塩山芳明)

■塩山芳明…雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月 3日 (木)

ホームレス自らを語る 第39回 人生がバカらしくなった/廣中正さん(仮名・66歳)

 生まれは昭和14年で、東京の新宿区戸塚です。ボクは私生児でね。それを知るのは、大学受験用に取った戸籍抄本を見てからです。ショックでしたよ。父親は都内の小さな会社を経営する社長で、ボクの母親はその愛人だったんですね。
 それを知って、父親に会いに葛飾の自宅まで行きました。会ってくれましたよ。会ってはくれたけど、父親はもう高齢で半分耄碌していたから、ボクのことがわかったかどうか……家には本妻と息子がいて、玄関先で会っただけで、家には上げてもらえませんでした(廣中さんの目に涙が光る)。

 大学は早稲田の文学部に行きました。当時の文学部といえば、誰もがロシア文学に傾倒した時代でね。ボクも物書きになりたくて、いろんなところに応募したりしましたが、とうとうものにはなりませんでした。
 大学に入った昭和32(1957)年ころは、60年安保闘争に向けて国中が熱く燃えあがっていた時代です。でも、ボクは政治には無関心で、デモなどには参加しませんでした。友人の学生活動家からは、たいぶ激しい糾弾を受けました。だけど、ああいう運動で、政治や国の体制が変わるとは思えませんでしたね。
 大学を卒業して、しばらく米軍の機関で働きました。世田谷にあったシビリアンルームというところで、軍の命令書を英文タイプに打ったり、日本語に翻訳したり、そんなのが仕事でした。給料を含めて待遇は格段によかったですね。ただ、その機関は5年ほどで解散になってしまいます。
 それからは母親の店を手伝いました。そのころ母親が五反田の新開地に小料理屋を出していて、そのカウンターに入りました。ボクは器用貧乏でね。小料理屋で包丁を握れば、ピアノも弾くし、建築現場では玉掛けもして、いろいろできるんです(笑)。
 酒の肴を工夫するのが好きで、オリジナルなメニューもこしらえました。豆腐を絞ってジャガイモの粉とシャケの身をほぐしたのにまぶし、それを揚げた料理とか、絞ったイカのワタを京都産の特別の味噌に漬け込んでから、シソの葉で巻いたものとか、桂剥きしたダイコンにヌカを振って陰干しにし、それをヌカ漬けにしたオシンコとかね。みんな美味そうでしょう。ボクが考え出した料理ですよ。
 30歳のときに結婚しました。子どももできました。だけど、結婚の話はよしましょう。その後、離婚しましたし、相手のあることですから、あまり話したくないですね。

 母親の店は5年くらい手伝ったのかな?そのあと大分に行きました。学生時代の友人が大分にいて、その手引きで行ったんです。そこで地元のスーパーマーケットに就職しました。
 その店で何年間か真面目に働いて、小金を貯め込んで、大分で居酒屋を始めました。元々、こういう客商売が好きなんですね。店は繁盛しましたよ。大分市内に一戸建の家を新築しましたからね。
 そのうちに離婚とか、身辺がゴタゴタして、いろんなことに嫌気が差して商売をやめます。それで家と店の権利を売って、東京に舞い戻りました。10数年ぶりの東京ですね。
 東京に戻ってからは、小さな工務店で働きました。いや、日雇いではなく、ちゃんと就職して正社員になりました。こういうとき早大OBというのは便利で、探せばどこかに人脈の手づるがあるんです。このときも先輩OBの引きがあって正社員になれました。といっても、建築現場に出て、日雇いと変わらない肉体労働をさせられるんですけどね(笑)。
 60歳のときに、街の手相見に人生を占ってもらったんです。すると、「あなたの人生は、あと2年で終わります」とはっきり託宣されましてね。
 それを聞いて、急に人生がバカバカしくなったというか……守る家族もない独り身なのに、何をそんなにあくせく汲々として働かなければならんのだろう。残りあと2年の人生であるなら、好きなことを心ゆくまで愉しんでから死のう。そう考えました。

 ボクの一番の愉しみは、本を読むことです。それからは毎日図書館に入り浸って、読書三昧の日々を送るようになりました。
 本であれば何でも好きですから、図書館の蔵書を片っ端から読み漁りました。とくに好みの作家は、山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平の3人で、彼らの作品はすべて読破しました。いまは江戸の町について書かれた歴史書を中心に読んでいます。
 手相見に「あと2年」といわれた命ですが、うかうかと6年も生き長らえてしまいました。その後、ずっと読書三昧の日々をつづけていましたから、蓄えもだんだんに底を突いてきましてね。2年前に部屋代が払えなくなって、アパートを追い出されました。
 ただ、自慢じゃないが、ボクはアパートを出てからも、まだ1度も野宿をしたことがありません。ずっとドヤ(簡易宿泊所)に泊まっています。カネはね。昔のツテで時々建築現場に出て、玉掛けなんかを手伝って日当を稼いでいるんです。
 カネがなくてドヤに泊まれないときは、ひと晩中夜通しで街を歩き回ります。それでドヤの昼間の割り引き料金を利用して、仮眠を取って休むんです。
 ここ(中央区の浜町公園)に来るのは、近くの図書館で読書をして、その息抜きの休憩です。この広場にはたくさんのアリの巣があって、そのアリたちに残飯のエサを与えるのが愉しみですね。
 最近は、地中に住むアリのような小さな生命に、とても愛着を感じるんです。(2005年8月取材 聞き手:神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

さらばハイセイコー……じゃなくて自民党

1962年生まれの私は2009年までの47年間、細川-羽田政権の一瞬を除いて自民党支配のなかで生きてきた。もしや一生そのままではないか。そうだったら亡命したいと最近は切迫していた。でも取りあえず日本にとどまれそうだ

官僚のために 走るのか
カネを求めて 走るのか
時代に別れが あるように
この日が来るのを 待っていた
ありがとう民主党 さらば自民党

政官癒着に まっしぐら
選挙から逃げろよ 捕まるな
国民のムチ 打ちつけた
恨んでないかい 有権者を
ありがとう民主党 さらば自民党

数千万の 得票に
主権を見せた その姿
哀しいだろう 辛かろう
闘い終って 与党を去る
ありがとう民主党 さらば自民党(編集長)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 1日 (火)

ホームレス自らを語る 第38回 人生を甘く考えていた/蜂谷さん(仮名・57歳)

 私は昭和23年の生まれで、生まれも育ちも東京の下町です。
 そのころの父は生命保険の外交をやっていましたが、かつては満鉄(満州鉄道)で航空機の設計技師をやっていた人です。敗戦後、満州からの引き揚げの途中で、私の上の兄を栄養失調で亡くしています。子を失ったうえに、設計技師から保険の外交員への変転と、戦後の父の人生には辛いものがあったようです。
 私は高校を卒業して、割賦販売(クレジット)の「M」に就職しました。その青梅店勤務から始めて、三軒茶屋店、柏店、仙台店などを回りました。担当したのは時計・貴金属売り場や婦人服売り場が多かったです。
 婦人服売り場では、仕入れから自分たちでやりました。だから、季節の流行や売れ筋商品などについての知識が求められました。それにお客様から相談されたときには、洋服をコーディネートしてあげるセンスも必要でした。私はそのどちらも得意だったから、婦人服売り場で働くのが好きでした。
 私が勤務して13年目、昭和54年に「M」は倒産します。同業ライバル社の勢いに圧倒された結果ですね。
 ただ、倒産した「M」は大手スーパーチェーンの「S」に吸収され、私たち従業員もそのまま「S」の社員に雇われました。ですから、路頭に迷うこともなく、自分たちの会社が倒産したという実感は少なかったですね。「S」に移ってからは、戸塚店、二俣川店、光が丘店などに配属になって、主に商品管理の仕事をしました。仕入れた商品のチェックや、仕入れ伝票をコンピューターに入力するのが仕事でした。
 結婚ですか? 結婚はしませんでしたね。たしかに、女性従業員の多い職場ですから、つき合ったり、同棲をしたことはありますが、結婚に至るまでの女性はいませんでしたね。スーパーというのは給料が安いんです。結婚して一家を構えられるような金額ではありませんでしたからね。同僚には結婚して一家を構えているのもいましたが、私はあの安い給料で家庭をもつ気にはなれませんでした。
     

 平成7年か、8年ころからでしょうか、「S」の業績が悪化するようになります。営業時間が夜の10時まで延長されたり、盛んにセールが行われるようになりました。
 このセールがクセ者で、支店ごとに売上げが競わされるんです。それでセールのたびに、従業員全員に販売ノルマが課せられます。従業員は家電製品やスーツ、貴金属などを売って、ノルマ達成を果たさなければなりません。
 そのために友人、知人を回って売り歩くことになりますが、はじめの1、2回は快く買ってくれても、セールのたびごとになれば、誰もいい顔をしなくなります。それでもこちらにはノルマの締めつけがあるから、どうしても買ってもらわないといけません。
「頭金さえ払ってくれれば、あとはオレがなんとかするから」と説得して、強引に商品を押しつけて置いてくるような売り方になります。そんなふうにして売上げノルマは達成しても、商品の2回目のローンからは、私のほうに請求されてくるのです。
 セールがあるたびに、そういうローンの支払い額が増えていき、給料だけでは間に合わなくなってきます。それでお決まりのコースというか、サラ金とか信販会社から借金をして賄うようになってしまいます。
 そのうちに自分で使う家電製品やスーツ、車なども、借金して買いそろえるようになっていきます。しだいに借金をすることに麻痺していき、借金の残高が膨らんでも平気になってしまうんですね。私の場合はサラ金と信販会社の10社ほどから、 500万円を超える借金になっていたと思います。
 そうなると月々の返済が滞るようになっていき、すると借金の取り立てが激しくなります。のべつ幕なしの取り立てに合い、なかには脅迫紛いのものもあって、精神的に追い詰められてしまいます。それで「S」にもいられないようになって辞めていました。
 仕事はなくなるし、借金だけは残るしで、もう自己破産をするしかなかったですね。ある司法書士の人に手続きの仕方を教わり、自分で書類をつくって裁判所に申請してみました。そうしたら自己破産が認められて、全部の借金が帳消しになりました。思っていたより簡単で、ラッキーって感じでしたね。

 自己破産をすると、以後の生活が裁判所や破産管財人にチェックされて、非常に不自由になると聞いていましたが、私の場合はそんなことはありませんでした。とくに制限らしいものはなく、ごく普通に生活できました。「S」を辞めたのが5年前で、それからは製パン工場で働いたり、引っ越し便の作業員をしたり、社員寮の管理人になったりしました。でも、どこも長続きしないですね。
 半年ほど前に、それまで住んでいたアパートが建て替えられることになって、そこを追い出されました。アパートを出されたら行くところがないから、路上生活をするより仕方なかったですね。
 路上に寝転がるだけのこんな生活でも、多少なりともカネはかかりますからね。それで母に事情を話して、カネを出してもらっています。父はすでに亡くなっていますが、母は80歳をすぎたけど健在なんです。
 えっ、甘ったれている?  うーん。そう言われると、たしかに私には人生を甘く考えているところがあります。ほとんど成り行きまかせで、人生について真剣に考えたこともありませんからね。だからといって、いまさら生き方を変えることはできませんけどね。(2005年9月取材 聞き手:神戸幸夫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »