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2009年8月

2009年8月31日 (月)

鎌田慧の現代を斬る/第135回 政権交代を果たした民主党へ3つの提言

 8月30日の総選挙は民主党の圧勝で終わった。小選挙区で221議席、比例区で87議席、合計308議席を獲得。過半数となる241議席を大きく超えた。1週間前に新聞各紙がおこなった情勢調査でも民主党の300議席超えが報道されていたので、ある意味、予想通りの結果といえる。
 一方、自民党は改選前議席の40%となる119議席の獲得にとどまり、公明党と合わせても140議席にしかならない。政権を握ることで求心力を維持してきた政党だけに、この選挙結果によって党としての存続が危ぶまれる状況になったとの見方もある。惨敗だ。
 この結果からわかるのは、いかに自民党が嫌われていたかだ。市民生活は行き詰まり、もう出口のない状態になっていた。だから、とにかく空気を変えたいとの思いが選挙民に強かった。
 約1週間前、民主党の優位を聞いた塩谷立文部科学相が「高速道路無料化や高校無償化など、目先のお金に釣られて、そういう雰囲気になっているような気がする。ほかに理由が分からない」などと記者会見で語り、ヒンシュクを買った。
 また麻生首相も同時期に、若者に結婚資金がなく結婚の遅れが少子化につながっているのではないか、との質問に、「そりゃ金がねえなら結婚しない方がいい。うかつにそんなことはしない方がいい。金がおれはない方じゃなかったけど、結婚遅かったから」などと答えている。
 この想像力のなさは、政治家として致命的だ。自分たちが進めてきた政策がどれだけひとびとを痛めつけたのか、まったくわからない。人が死んでも、なにも痛痒を感じていない。失言とも理解できない。
 こうした政治家たちの無神経さに、選挙民は米国とおなじようなチェンジをを突きつけた。とにかく変えたかった。選挙民のゴツンなのだ。
 本来なら細川政権が誕生した1993年に、自民党の命運は尽きていたはずだ。ところが、まだ自民党に幻想をもっていたために、決着をつけられなかった。結局、社会党と新党さきがけと一緒に自社さ連立政権をつくり、政権に復帰した。それから15年間、自民党はやりたい放題の政治をつづけてきた。自分たちが断崖絶壁に追い込まれているとわかっていても、修正する力はもうなかった。末路である。残ったのは派閥政治に明け暮れる古参議員と、親からの「遺産」だけを引き継いで新しい道にむかおうとしない世襲議員である。ついには適任の首相候補すらおらず、昔の大物政治家の子どもたちのたらい回しがはじまった。まるでいらないお中元を、ほかの家に回すように首相のイスが回されたのだ。
 首相の政権運営もまた、別の意味のタライ回しだった。サーカスで見る曲芸師が足でタライを回すごとく、危なっかしいアクロバットで日本の政治は回った。結局、回しつづけられなくなった麻生がタライを落としたわけだ。この15年間のロスは大きかった。
 今度こそ魯迅の言葉「水に落ちた犬を打て」ではないが、自民党政権がもう二度と復活しないように叩く必要がある。それで、ようやく腐りきった「自公時代」が転換する。民主のワンポイントリリーフでは仕方がない。民主党と社民党などの連合政権で、日本を変えていく第一歩にしなければ、政権交代の意味がない。民主党の大勝が憲法改悪への出発となったら悪夢である。

●断酒の中川も消えた
 自民党候補者の当落をみると、日本に新しい風が吹いたことがわかる。まずは3首相経験者に吹いた逆風である。
 海部俊樹元首相は民主党の岡本充功候補に約8万票差で敗れた。首相経験者が落選したのは、1963年の衆院選で敗れた片山哲、石橋湛山両氏以来となった。政治家として最高権力者にまでのし上がった者としては静かな落選だった。
 石川2区の森喜朗元首相は民主党の田中美絵子候補に小選挙区でギリギリまで迫られた。「姫のサメ退治」などともいわれた選挙区だったが、終わってみれば4469票差。自称キングメーカーだった「サメ頭」は、もう少しで民主党の元議員秘書に退治されるまで追いつめられた。「神の国」発言など、その見識の疑われる行動と発言は首相時代から問題になっていたが、首の皮一枚で残ったといえる。
 福田康夫元首相も薄氷の勝利だった。民主党候補にわずか1万1948票差まで迫られ、「政権投げだし」の影響を、やっと自覚したにちがいない。
 こうした首相経験者の落選・接戦は、彼らが依拠していた保守的な基盤が完全に壊れたことをしめしている。小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」とぶちあげてから約6年。彼の大衆ギマンの「公約」は、裏切りにたいする有権者の怒りとともに成し遂げられた。
 元首相以外の大物自民党議員も、今回の選挙でかなり苦戦している。
 自民党落日の象徴は、東京1区の与謝野馨財務相の小選挙区での競り負けだろう。比例区で復活当選したが、小選挙区で負けた意味は大きい。財務・金融担当・経済財政担当相だった彼は、菅直人に「3つのポジションを兼ねるのは大変ではないかと心配している」と衆議院予算委員会でねぎらわれ、「1つぐらい代わっていただきたい」と軽口を叩いたが、1つどころか危うく政治生命まで差しだすところだった。
 政治資金のスキャンダルが解散前に報じられたが、それほど大きな話題にもならなかった。一方で経済政策の担当大臣としてテレビに出演する機会も多く、かなり顔の売れた実力者だった。あれだけテレビに露出しても負けた現実は、「風」が吹いたときの小選挙区制の恐ろしさを知らしめた。
 前回の郵政選挙で「郵政反対組」を追いつめた、「偉大なるイエスマン」こと武部勤元幹事長も、比例区で救われたものの小選挙区では民主党候補に1万4476票差で敗れた。北海道で強い鈴木宗男氏が代表を務める新党大地に切られたのだ。過疎地の郵便局が消えていく現実も、武部氏を直撃した。解散直後には「中央や党内の抗争ではなく、政権交代でもない。オホーツク武部党で今日まで政治家として生き残ってきた」と、元幹事長とは思えない発言で周囲を驚かした。結局、権力さえ握れればなんでもするという「イエスマン」体質が自らの政治生命を削ったといえる。
 落選は当然のスキャンダルを抱えて選挙に挑んだ候補者もいた。その筆頭は北海道11区の中川昭一元財務相。国際的にヒンシュクをかった、ローマでの酔いどれ会見が、自分に甘い二世の限界をみせていた。G7以前にも、酒に飲まれての失敗がつづいていた。本来なら、もっと前に議席を失っていい人物だった。選挙期間中に「日本のため、皆さんのために酒を断つつもりだ」と断酒宣言をぶちあげ、会場からは「よくいった」と拍手がわいた。甘えの構造だ。
 事務所費とばんそうこう膏疑惑で農水大臣を辞任した赤城徳彦氏も落選した。ただの顔のかぶれが大臣の辞任にまで発展した貧しいコミュニケーション能力は、言葉を操る政治家として致命的だ。二世議員として地盤を守ってきただけの存在が、改めて議員としての能力を問われた選挙といえる。
 福岡2区の山崎拓元党副総裁も民主党候補に完敗した。得票差は5万3161票。愛人スキャンダルによって、ハレンチな私生活を暴露された人物が国政に携わっていていいのか、という当然の疑問が、この選挙で問われたのだ。
 また長崎2区の久間章生元防衛相も民主党の女性候補に完敗した。防衛産業の山田洋行から接待を受けていた疑惑を隠し切れなかった。
 昔、自民党の大物議員であれば、少々のスキャンダルでも当選した。業界の締め上げもあり、選挙民が議員に逆らえないケースもあった。あるいは地元にカネを落としてくれれば、多少のスキャンダルにも目をつむろうとする雰囲気もあった。そうした選挙民と政治家との関係が崩れ、議員の資質にたいして選挙民が厳しい視線を送るようになった。(談)

全文は→「9.pdf」をダウンロード

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2009年8月30日 (日)

小西楽歩さんを知っていますか?―奇跡のラブちゃん―

「小西楽歩」さんという名前を、覚えてはいないでしょうか。

「楽歩」と書いて、「ラブ」と読ませます。本名です。

アテトーゼ型といわれる脳性まひの持ち主です。

1980年代はじめ、「ドーマン法」と呼ばれる脳性まひの治療法でグングン効果を上げている少女がいると評判になり、新聞やテレビで多く取り上げられました。治療前は筋肉を思い通りに動かせず、歩くこともままならなかったラブちゃんが、生き生きとバイオリンを弾いたり溌剌と体操をする姿は、全国に勇気と希望を与えました。

両親が対話式で書かれた『奇跡のラブちゃん』(彩古書房)には、「訓練」と称されるドーマン法がいかに過酷か、どのように試練を親子で乗り越えてきたかが、臨場感たっぷりに綴られています。

ラブちゃんは、当時小学生の年齢でした。

今、ラブちゃんは「大畑楽歩」という名前になりました。

そう、結婚されて苗字が変わったのです。

さらに、お子さんもお一人いらっしゃいます。

脳性まひのまま、妻になり、母になるということがどんなに大変か。

しかし楽歩さんは、日々をいとおしむように、生き生きと過ごしています。

暗いニュースしかスポットを浴びないこの時代だからこそ、楽歩さんの生き方に学ぶことが必要ではないでしょうか。

みんなで、楽歩さんから明るい光を分けていただきませんか。

楽歩さんのブログ→http://ameblo.jp/rabu-snoopy/

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2009年8月29日 (土)

ロシアの横暴/第22回 ロシア水力発電所爆発のウラ側(上)

 近ごろロシア発のニュース、それもいわゆる三面記事が多くなっている。
 水力発電所の大事故。ウラル地方のどこかで石油貯蔵タンクで火災が発生。カフカスからは来る日も来る日もテロ、それも自爆テロのニュース。グルジアが正式にCIS(独立国家共同体・旧ソ連構成国の一部で構成)を脱退。
 去年夏のグルジア戦争直後に独立を宣言し、直ちにロシアが承認したアブハジアと南オセチヤをEU加盟国はどこも認めようとしない。西の方ばかり見ていても仕方がないから東方のモンゴルや北朝鮮など近隣のアジアに秋波を送ることも始めた。
 セルビアからコソボが独立したときにEU諸国はすぐに承認したのに、アプハジアと南オセチアを承認しないのはけしからん、とののしったり、エネルギー供給パイプラインを前倒しで開通させるなど、あてこすりをしたりしている。
 このようにロシア全体は危険水域にあるから、ソチ・オリンピックどころではないのでは、と思いたくなる。皮肉なことにイギリスかフランスかがソチは雪が少なく、近くに火薬庫のカフカスがあるから、シベリア地方に会場を変更したらどうか、などと言い出した矢先にそのシベリアで大事故である。

 さて、この水力発電所の事故は不思議な事故だった。
 最初の報道は死者数人だったのがいつの間にか60人を越えた。60人発表の前には「あとかたもなく60人前後が行方不明」という報道も流れた。政府発表と前後して過激なことで有名なインターネットサイト「カフカスセンター」を通して犯行声明が流れた。どれもこれもいい加減な情報でほんとうのことはわからない。そのうちに消えてしまった60人の一部と思われる「肉片」が見つかり、神隠しに遭ったのではなく木っ端みじんになったことがわかった。プーチン首相は現場に駆けつけたが、原因はわからないという。水力発電会社は「原因は不明だが人為的なものではない」とあんまり説得力のない見解を出している。

 現時点で取りざたされている原因は3つ。
1.例によってメンテナンス不備による事故。
2.内部のものが補償金目当てにわざと起こした事故。
3.カフカスセンターの犯行声明どおり、イスラム関連のテロ。
 ほかにプーチンのパーフォーマンス用自作自演説もなきにしもあらずだが(事故後割と早くに駆けつけたから)、チェチェン戦争進行中ならいざ知らず、今ごろ自作自演の事故を起こしても得るものは何もないから、この仮説は成り立ちにくい。

 さて、現場に駆けつけた首相は「何もわからない」と言い、遺族には十分な補償をすることを約束して帰った。挙がっている3つの原因のどれをとってもプーチン・ロシアの恥になることばかりだから今は「黙」の一字しかないようだ。
 ロシアはこの10年、原油高に浮かれて生産活動を軽んじた。どんなに立派な発電所でも老朽化はさけられない。常々のメンテナンスをしっかりやることが不可欠である。でも何もやってこなかった政府の無策があぶり出されるからとても「そうだ」とは言えない。だがプーチンがいくら「わからない」と言っても原因はこれ、と確定したようなものだ。
 次に内部説だが、これは素っ頓狂な発想とはいえ、結構真実味がある。ロシアの事故に対する補償金や見舞金の支払い方には決まりがないが、基本的にはそんなに高額ではない。明らかにチェチェンがらみのテロのときにはびっくりするほどの補償をする。しかしすべてのチェチェンがらみ事件にではないのが異様である。例えば第一次チェチェン戦争のとき、ロシア南部のブジョーノフスクで病院占拠事件が起きた。チェチェンからのロシア軍撤退要求を突きつけた事件の犯人はシャミーリ・バサーエフだった。このときの被災者には至れり尽くせりの補償をし、事件に巻き込まれた子どもらにヨーロッパへのバス旅行までプレゼントした。元祖ロシア流バラマキである。そのあとでチェチェンのとなりダゲスタンで起こったチェチェン人による暴動を鎮圧する際、被害をうけた住民には家一軒を買えるほどの見舞金と車をプレゼントした。ところが2003年のモスクワ劇場占拠事件や2004年の北オセチア学校占拠事件など、犯人は独立は武装勢力だ、と騒いだだけで巻き添えになった人々には大した補償はしなかった。なぜならばロシア政府が企画したテロだからさ、と穿った見方も出てきて当然である。
 さて、手厚い見舞金をもらった被災者は日本流にいえば焼け太りになった。その災難に羨望のまなざしを向けたかった国民は多い。だから、この説もかなり有力である。あんまりにも素っ頓狂なのでギャグと言われそうだが、プーチンが示した政府補償額は100万ルーブル(約300万円)に目が点になった遺族は、会社に対しても補償金を要求し始めた(それは当然のことだが)。500万ルーブル(1500万円)が妥当だと言っている。300万円はロシアの労働者からみれば天文学的数字だが、わかりきった原因を「わからない」と逃げざるを得ない政府の弱みにつけこんで天井知らずの金額を要求しているのだ。(川上なつ)

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2009年8月28日 (金)

靖国神社/24回 嗚呼、靖国旅情~上野駅から靖国まで~(上)〈2007年取材〉

 以前からこの連載で、「九段の母」について言及してきた。それどころか、「九段の母を探す」という企画もやっている。
 ところで、「九段の母」とは一体どこから出てきたのか。その語源は、1939年にテイチクからリリースされた歌手の塩まさるの『九段の母』という歌のタイトルで、ミリオンセラーにもなった曲だそうだ。曲構成は、一番から四番まで。内容は、戦争へ行って戦死した息子に対する母の思いが描かれている。『新 ようこそ靖國神社へ』(近代出版社)には、「靖國神社の歌といえば、昭和歌謡史上不滅の名作『九段の母』」という紹介文が書かれている。

 では今回なぜ、上野駅から靖国まで歩くという企画を立ち上げたのか。
 歌詞をご存じの方ならばすぐに「ピ-ン!」とくるかと思われるが、この曲には上野駅から九段まで杖をたよりに一日がかりというくだりがある。
 この歌詞を初めて見たときから、「上野から靖国まで1日がかりってどういうことだ?」という疑問があった。今回はその疑問を晴らすべく、実際に歩いて靖国へ行くという「九段の母体験」をすることにした。
 まず、上野駅から九段下までの行き方だが、電車を使うとどれくらいかかるのかを調べてみた。
 最も早いのが、「上野(東京メトロ銀座線)→三越前(東京メトロ半蔵門線)→九段下」という行き方で、13分。最も時間がかかる行き方でも、「上野(東京メトロ日比谷線)→茅場町(東京メトロ東西線)→九段下」で16分。だいたい15分前後に、駅から境内までの時間を合わせると、30分もかからないくらいである(九段下はJRが通っていないので、地下鉄しか使用できない)。

 とりあえず当時、電車で行くことが可能だったのかを検証してみることにした。
 地下鉄でで最も古い路線が、東京メトロ銀座線だ。全線開通したのが、1939年。なぬっ、『九段の母』リリースの年と同じではないか!? しかし、日比谷線は1961年、東西線は1964年、半蔵門線に至っては、1978年に開業している。
 とりあえず、銀座線で日本橋か三越前まで行ってから九段下まで目指すことはできる。当時の銀座線はデパートへ行くときに使われていたという資料もある。ある意味ホットな電車だったということだ。日本橋といえば、東海道五三次の始発。三越前は、日本橋三越本店があるところだ。
 しかし、いくら東海道五三次や三越が戦前からあるとはいえ、靖国に祀られている英霊たちは全員が東京都民というわけではない。日本全国の英霊が祀られているのである。地方から息子に会いにやってきた母たちが、東京の地理に詳しいだろうか。
 現在ならば、ガイドブックやインターネットを使って靖国までの簡単で楽な行き方を調べることは容易だ。しかし、これはあくまでもすべての地下鉄が開通されていることが前提であって、当時は銀座線しかない。地図を見ながら行ったとしても、そこの土地に詳しければ別だが、初めて来た人にしてみれば思ったよりも大変だったかもしれない。
 とりあえずパソコンに向かってうなっているよりも実際に、歩いて疑問を解消したほうが早いのではないかということでその歌詞同様歩くことにした。

 まず自宅から台東区内を走るめぐりんというバス(100円)で上野駅まで行く。所要時間約35分。意外と遠い。途中、合羽橋や浅草周辺を見ながら上野駅へと到着。
 このところ連日徹夜続きのうえ、体内時計が狂って不健康な私ですが、やると決めたらやらないと原稿が落ちるので、上野駅前で気を引き締める。とりあえず地図もなにも持っていないので、車の行き先を表示している看板を頼りに歩くことにした。(奥津裕美)

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2009年8月27日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第22回 語り出すタリバン政権の重鎮

 その男は私を慇懃に家に迎え入れた。握手をするとその手はゴツゴツと硬く、農具を持っていただろう跡があった。目からはなかなか警戒の色が消えない。恰幅の良い体躯に、ピッとした白いアフガン服。今は無きタリバン政権の重鎮、ワキル・アフマド・ムトワキル氏だ。
 カンダハールの農村で育ち、タリバン時代には外務省の長官にまで上り詰めた。外国メディアへのスポークスマンも務め、度々彼の記者会見が世界中で放送された。アメリカの侵攻後はバグラム空軍基地に収監され、03年に釈放された。現在、彼はタリバンとの関係を否定しているが、街では「アメリカから逃れる隠れ蓑さ」と実しやかに言われている。
 タリバンという存在は、アメリカ侵攻以来日々その形態を変化させている。誰もが「これだ」と自信を持って定義できない魑魅魍魎の様な存在になった。アメリカはそれに対して、2万1千人を増派し、武力で駆逐しようとしている。と同時に「穏健派タリバン」との対話も軸にすえた。
 オバマ政権のアフガン政策の目玉である「穏健派タリバンとの対話」について聞くと、「今は私はタリバンではないのだが」と前置きをして
「アメリカ侵攻後、『タリバン』という言葉の定義自体がが変わった。以前は『学生』という意味でしかなかったが、今は『自由と独立のためにアメリカと戦う者』に変わったのだ。戦わない者はタリバンではない。オバマ大統領は一体誰と対話するというのかね」と言う。
 また、タリバンの変化をこう指摘する。
「私のいた時代にはよく会議が開かれ、行動方針について話し合った。しかし、今のタリバンにはそれが見られない。今のタリバンは少数の集団で、一つの組織の統率の元に動いているわけではない。個々の『タリバン』が自立的に攻撃を仕掛けているように見える」
 それでは、タリバンとの交渉など不可能では無いだろうか。ムトワキル氏は現在のタリバンは組織といういよりも「主義」に近いと指摘する。それが、現在のタリバンの隆盛に関係していると言う。
「欧米はタリバンの大部分は金で雇われた傭兵に過ぎないと言うが、誰が金のために自爆攻撃をするのかね。『主義』で動くから、自爆までやるのだ。自分たちの文化と国を占領しようとする敵と戦うレジスタンスという意識だ」
 日本のPRT(リトアニア軍との共同作戦)への参加について尋ねると、ムトワキル氏は「日本はアフガニスタンの友人だと考えている」と言い、「愚かな選択だ。タリバンからすれば軍隊も支援部隊も一緒に見える。友人が攻撃されないのを祈るばかりだ」と続けた。
 タリバンは外国軍が最後の一兵までアフガニスタンを離れなければ止まらない。ムトワキル氏はそう断言する。ムトワキル氏の言うことを信じるならば、オバマ政権はアフガニスタンに対して大きな誤解を抱いていることになる。
 1839年のイギリスのアフガン侵攻に始まり、ソ連もアフガニスタンに戦争をしかけ、最終的には多大な被害を出して敗退した。アメリカも同じ轍を踏みつつあるのではないだろうか。
 ムトワキル氏の物言いには、不気味な説得力があった。(白川徹)

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2009年8月25日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/青空

 過ぎ行く夏。青い夏空は何日もなかった。
 ここに来て漸く晴れの日が続いていて、やっと夏かと思っている人も多いだろうが、高校野球も幕を閉じ、夏休みが終わる頃に夏になってど~すんだ!! というわけで、今年の夏はなかったのと同じだと私は思っている。
 今日もまた日が暮れた。いつものようにホッとする静かなひとときだ。これまで、本当に長い間、暴飲暴食に耐えてきた私の胃は、いつも決まって流し込むウィスキーを、「お待ちしておりました」と何の文句もいわずにやさしく迎え入れてくれるばかりか、身体中に程好くしみじみと染みらせてくれ、「もうおれ、今日はどうなってもいいもんね」といった、何もかもがホゲ~ッ、デレ~ッという弛緩した世界へと導いてくれるのだ。
 ああ、夜の帳が今日もせつなく降りて来たよ。もう秋の虫が鳴いているというのに、一瞬蝉の声がした。月の光を昼間と勘違いしたのだろうか。それはまるで息が絶えるかのような弱々しいもので、そこにも夏の終わりが物悲しく重なっていき、胸がキュンとして、ちょっぴりたまらなくなってしまう。

 それにしても、立秋はとうに過ぎ、時折顔を覗かせる夜風が、これまでにはなかっただけに妙に心地よい。ふと、自分の年齢を感じ、気が付いたらここまで来たのかと思う。そんな過去を振り返ってみたところでいったい何になるんだとも思う。「理由なんて何もないんだ。時が休みなく流れて、ただなるようになっただけなのさ」と無責任な風のささやきが聴こえてくるようだ。
 私はいつも待っている。本当に心から待っている。荒んだ心の中を少しでもいいから洗い流してくれるような、雲一つない青空を。

 明日も広がってくれよな、青空よ。

 あぁ、酔った。今日はこれで寝る。
 おやすみ~(斎藤典雄)

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2009年8月24日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/32歳・男性・漁師・正社員(前編)

(前編)
 生まれも育ちも東京郊外です。中学は地元の公立で、バスケットボール部に所属していましたが、釣りとか、アウトドア系の遊びのほうに熱中していました。都立の高校に進学してからも、水泳部に所属して都立の大会で優勝するなど成績は上げていましたが、基本的には地元の仲間と遊びに行くことが多かったです。

 高校受験期は人生で一番勉強した記憶があります。結構遊んでいたので先生に嫌われて内申がとっても悪く、本番でものすごい点数をとらなければならなくなって。そうやって合格した高校は校風こそ自由でしたが、進学率が95%以上の進学校でした。僕は海洋学者になりたかったんですけど、生物以外の理科と数学がぶっちぎりで出来なかったので、文系で関心に近い領域を探しました。すると文化人類学という選択肢が浮かび上がってきました。これなら色んな地域を見ることが出来るのではないかと。そしてやはり海が好きだったので海が見れる学科に絞って、受験勉強を始めました。

 1年目には希望の大学に受からず浪人しました。2年目も落ちてしまい、結局2年連続で合格した、第2志望の大学に進学しました。その大学にはスキューバダイビング部があって、それが一番の魅力でした。入学したその日に入部しました。
 大学に進学してからは、頑張って単位の3分の2を1年で取得しました。やりたい勉強があったのでそれに紐づけて選択して、教職課程もとったら最終的には卒業に必要な単位数の2倍近くを履修していました。大学はカリキュラムを自分で自由に組み立てられて、面白かったです。加えて部活にもアルバイトにも熱中しました。学費を払っていたのでアルバイトは4つを掛け持ちして、1カ月50万円以上を稼いでました。ほとんど寝ない生活で、ずっと頭が覚醒している状態でした。

 1年次が終わったときに休学しました。卒業論文のテーマに沿ってレポートを書くために、そして人生においてどれだけ本気で海に関われるか試してみるために、離島で生活しようと思い立ちました。鹿児島の離島で漁師を一年間やりました。うみんちゅ(海人)という名称で呼ばれる、魚を銛で突く仕事です。島一番の漁師さんに弟子入りをして、三食を他人の家に上がって食べるようになったら、社会人としてのルールが見えるようになりました。他人様の家には他人様の作法がある。海には海の作法がある。端から見ると理不尽な要求でも、しなくてはならないときがあることを知りました。
 そして自分は結局他人から見た姿が真実であるということも学びました。島には女性の先生が4人いるんですが、嫁不足の島にとってはみんなのアイドルなわけですよ。親しげに話していると噂が立つようになってしまって困りました。もちろん正面切って言われるということはないんですが。自分ではそういうつもりはなくとも、そう見えるように振る舞っていること自体がいけないのだと、あとになって理解しました。
 漁はしばらくしたら上達してどんどん獲れるようになったんですが、そのぶん他の漁師さんの仕事がなくなってしまうわけです。「このスポットのタコは全てあなたにとりつくされた」などと嫌味を言われるようになり、最初は「沢山獲って、何がいけないのか?」と思っていましたが、地域社会で暮らしてゆくためにうまくバランスをとるということの大事さに、途中で気が付きました。1年経って、島から大学に戻ったときには、同世代の人達がだいぶ子どもっぽく見えるようになっていました。
(前編終わり)

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2009年8月23日 (日)

日曜ミニコミ誌!/コーヒーのおともに『はなうた』1号

Hanauta  初めて見たとき、企業の宣伝チラシかと思ってしまった。思い浮かんだのはフェリシモのカタログと資生堂の「花椿」。デザインの美しさに興味をそそられ、カタログと理解しつつも誌面に惹きつけられてしまう、そんな力がどちらにもある。『はなうた』は素人離れしたつくりと、ミニコミとしての魅力を持ち合わせた雑誌だ。

 画像を見ていただくとわかるが、販売時にはこのように冊子が紐で縛られている。紐をとくと、その先端が冊子にくくりつけられており、栞として機能することが分かる。この時点で「ニクイ」という言葉が出てしまう。そして表紙にくるりとあいた円形の穴から覗くのは、靴。表紙をめくると、お行儀よく並べられた革靴がそこにある。

 一号のテーマは「深緑」だ。深緑色とリンクした衣・食・住の世界を紹介しているだけではなく、レビュー対象の映画パッケージ、本の装丁、CDジャケットまで全て緑色と徹底している。しかししつこくない。女性らしさを感じさせる繊細なデザインが、こだわりの強さをゆるりとカバーしているのだ。こんなに美しく、きびしく、雑誌というものを追及しているのに、あくまで個人で楽しんでいるという姿勢が素晴らしい。全力で楽しんで、全力でつくっていく、そんな豊かさを確かに伝えてくれる『はなうた』。2号まで出ている。(奥山)(■1号、B5判32P 定価630円)

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2009年8月22日 (土)

Brendaがゆく!/人間はどんなぐらいの苦痛なら耐えられるか

留学が一年であればもうなにがなんでもどういうもんでも、耐えられる。
ていうか耐えなさい。


別に一年すれば帰れるわけだから。


どんなにこれはもう・・・・限界と思っても、必ず最後の日が来るわけで、その日を待って暮らせば一年はすぐです。


だからこそ!
一年ぐらいの留学は良くないと私は思う。

お客様で終わる可能性があるし、そうなれば本当の「生活」とか「その国」は味わえないと思う。


しかし、反対に3年ぐらいの留学は、金銭的にも大変だし、もちろん精神的にも結構タフじゃないとやっていけないし。

3年語学留学するのもどうかと思うので、学術的にもそれなりに高められる自信のある人間でなければ通用しない。



そしてこの「生活」って部分がまったくもって1年と3年では変わってくる。


まずい飯も、あわない気候も、むかつく人間性も


1年と思えばほとんどのことは耐えられる。


しかし、3年耐えてるわけにはいかないので、3年となるとこれを受け入れて消化する必要性が出てくる。


この作業が結構人間として自分を高めていくものだったのかもしれないと思う。


そして、私の場合は、こういうネガティブな作業っていうのは1年とちょっとぐらいの時点ですべて終了していて、残りの期間は、「あー自分の留学はこんなに長期だからこそ、こうして安定して幸せを味わえる環境にあれるのだな」という快感の増大という経験として日々が進行していくことになった。



だから、私はこの経験から、幸せとか充実を腰を据えて味わいたいから、いまこの若いうちにとりあえず一生の住処を決めて落ち着くことの準備を始めていかなければいけないと考えたのだ。


そういうこともあってパリに移ったのだ。



留学に関する「一抹の恐怖」を乗り切る方法は次に持ち越しです。

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2009年8月21日 (金)

Brendaがゆく!/海外生活の根本的部分、基本的な生活のつらさについての考察など

最近人は不公平だと思って、どよ~んとした気分になることがある。

よく聞かれることがある、ポーランドで犯罪の被害にあってそれからパリに行こうとかそういうことを考えているけど怖いとか思ったことは無いの?と。
ー私の犯罪被害参照のこと。

私としてはこんなことを考えている・・・
ていうか、どこでも怖いよ。
犯罪はどこでも起きるわけで。

ものすごい精神的な後遺症もあったけれど、それはむしろポーランドにいたからこそ、いいかたちで癒された。

そこで、私にとってそのこと(犯罪にあった恐ろしい経験)と、パリに移住したことはなんら結びついていない。
じゃ、それで日本に帰ったからってなんだっちゅーの?
安全ですか日本は?
どーかなー。
ま、私は海外でも基本的に言葉に困らないというところも相当大きいと思うけど。

みんなが私に言ってくることは私にとっては、発想外の「恐怖」なのだ。

しかし、日本人の中には私の発想外の「恐怖」を感じて動けなくなる人もいるのだと。

恐ろしい話も聞いた。

若い女性がフランスに赴任して、生活の中で出会う異国の難しさ、言葉や対応の違いなどに耐えられなくて顔面神経痛(一生残りそうなほどの)病になってしまったと。

これは、本当に辛いと思う。こんなことが起きるんだと、その事実はよく理解できる。
しかし、私という個体においては、到底理解できない。

私の脳内では、それらの理不尽な苦しみ(言葉が通じなくて自分の言いたいことが伝わらない、生活が日本のように円滑に運ばない)は、特にダメージにはならず、「馬鹿野郎!!!」という言葉でそとに吹き出すだけで、私の脳の内側に向かってそれがダメージを作っていくことは無い。

ただし、汚い言葉を発すると心が汚れるので、やはりフランスに住むことで相当心は汚れるなと思う(ポーランドと比べて)
ちなみに、日本人は表面上は上品に振る舞ってるが、心の中は相当エグイ民族なので昔はもっと心が汚れていた気がする。

ここまでの話はアタクシの持って産まれた個体の強さ、個体差。
どうにでもなることでもなく、私は人より強いのだ。

しかし、私にも人より弱い部分がある。
日本に夏に帰ってくれば、このひどい気候で私の自律神経は冒され、身体は異常をきたす。
わけもわからず調子が悪くなり、突然吐くか下痢かわからなくなってトイレに駆け込んでみたり。

自分の国にいたって相当どうしようもない状況にも陥る。
出かけられずに身体を休めた方がいいと思う日まである。
しかもフランスからきたあたしが自分の国、日本の腹だたたしい気候のおかげで。
ヨーロッパの気候の中では何年も味わうことの無かった懐かしいタイプの不調だよ。

そこである人が言った。
「私はそういうのになったことがないからまったくわからないけどそれじゃ辛いね。大丈夫?きつくなったらいつでも言ってね」と。

あ、そうか。
こんな状態を味わったこともない人もいるんだと。

ここは、私の持つ個体差。
個体の弱さの部分である。

世の中って不公平なんだね。とあらためて確認。

こういう部分で無理しても自分を変えられないような気がする。
だから変えようともせずに自分を受けとめていて今は精神的には極めて健康だが。

でも、どうして自分がこんな不可抗力(に見える)状態で苦しまされているのだろう。って。本当に理不尽な気持ちにはなるよね。

ちなみに、私の論じてるレベルをわかっていない人がいるといけないので書くが、私がこのカテゴリーで書いている留学という定義の中に語学留学とか1年ぐらいの短期の留学は含まれてない。ということで、やっぱり留学も向いてないとできないよ。

だから、留学で成功したいとか思っていても生活の部分でどうにもならず自分がだめになりそうなら(特に健康)、あきらめるのもひとつの手だと思う。

だって、世の中は理不尽なものだから。→すべての人にとって。

私については、留学についてあまりにもしたかったことなので、自分の向き不向きについてあまり考えてはいなかったが、むしろ、海外生活における変化とか根本的な生活状況の継続困難な状況。自分にはそういうのって向いてないと信じていた。

だって、私は大学のオリエンテーションキャンプにいく前日には、ナーバスになって、様子を見に来てくれた彼氏やおばさんに泣いていきたくないと言っていたんだもの。幼稚園生のように。それこそ幼稚園生のように私の場合行けばがんばれるんだけど。なじむとけっこう自分の力を発揮できる感じ。

こんな人が海外に行ったからと言ってさっさといい感じで起動できるとはまったく思っていなかった。
「いきたくない~」って言ってゴネゴネ言う相手もいないんだから。
しかも初めての海外生活どころか、しょっぱなからすごい教授のクラスでピアノ弾かなければいけないという最大の難関が一番の懸念事項であったわけで。

しかし、

でも、いろいろな人と話して自分はどれだけ「平気な人」かわかった。
しかも、「平気でない」ところの部分もよく認識していてね、最近は。
私にとっては「平気でない」それが「恐怖」なのだ。

人生はそんなもんだ。

いつか私が留学前に考えていた「一抹の恐怖」を乗り切るプランを披露する。
世界中の留学してる友達がみんな同じようなことを考えていると思うから参考になるよ。
つづく

P。S
言ってることがうまく伝わってればいいんだけど、ちょっと稚拙でわかりにくいかしら?

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2009年8月20日 (木)

ホームレス自らを語る 第37回 借金まみれの人生だった(後編)/小沢政人さん(仮名・54歳)

 若いころからクラブで遊ぶのが好きで、それこそサラ金で借金しながら遊び回っていてね。ずっと借金まみれの人生だった。
 本業は仏壇・仏具の卸問屋の営業で働いていて、その給料の全額を借金返済に充てても、利息分にもならないような状態だったからね。バイトでクラブの売掛金回収のような仕事もするようになり、その関係でヤクザの知り合いもできるようになった。
 35歳のときに、働いていた卸問屋の経営が傾いてきて、事業規模を縮小することになった。希望退職が募られ、オレは率先して手を挙げて自分から辞めてやった。
 折から、都心の地価の高騰が始まって、それが全国に波及していった。いわゆるバブル経済が沸騰して、日本中がその熱狂に巻き込まれていくことになる時期だ。
 それでオレは不動産屋に再就職した。その当時、一番勢いのあったのが不動産屋だった。オレは自分の営業力に自信があったし、バブルの追い風も吹いていたしで、怖いものなし。売って、売って、売りまくった。給料は歩合制だから、バンバン稼げた。クラブでも派手に遊びまわった。だから、以前の何倍も稼ぐようになったというのに、借金もまた増えていく悪循環だったな。

 不動産屋で派手な営業活動をして、夜な夜なクラブで豪遊していれば、業界でも知られるようになるからね。で、そのころ暗躍していたある地上げのグループに誘われて、そのメンバーに加わることになる。不動産屋よりはるかにいい収入金額が提示されたからね。
 このグループは、オレのほかは全員がヤクザの組員だったよ。だから、土地買収で住民を立ち退かせるのに、手段は問わなかった。札束で頬を張るなんてのは、まだ上品なほうだったからね。それで立ち退きが成功するたびに、全員が温泉旅行に招待された。旅館の宴会では、芸者やらコンパニオンを相手にドンチャン騒ぎ。それに各自の膳の下には封筒が置いてあって、中にキャッシュで50万円とかが入っているんだ。
 月々の稼ぎだって 100万円は下らなかったし、成功報酬が加算される月はそれ以上になったからね。いまから思うと、夢のような時代だったな。
 だけど、それだけ稼ぎながら、借金は一向に減らないんだ。稼ぎが大きい分、遊びがさらに野放図になっていくからね。例えば、クラブのママに誘われて行く賭け麻雀とかね。ヤクザが胴元の麻雀だから、レートが異常に高くて、ひと晩で 100万円の負けになったこともある。そんなウソのようなことが、バブルの崩壊まで続いたんだ。

 バブル(経済)が崩壊したのは、オレが40歳のときだったんじゃないかな。地価高騰だ、財テクだと浮かれていたのが、一転して寒々しい不況の嵐に見舞われることになった。もう地上げどころじゃなくなって、オレもその仕事から足を洗うことになる。
 ただ、仕事がなくなっても、オレは相変わらず両親と実家で暮らしていたから、食う寝るの心配はなかった。それでしばらくは仕事もしないでブラブラしていたんだ。
 1年くらい遊んでからタクシーの運転手になった。だけど、バブルの狂乱に浮かされたあとだから、もう真面目にコツコツと働くことはできなくなっていたんだな。勤務態度、接客態度、運転態度、そのどれをとっても最低の運転手でね。勤めてもすぐにクビになって、タクシー会社を5つくらい代わったよ。それで運転手の仕事は諦めて、あとは無為徒食の日々を送るようになっていた。

 そのうちにオヤジが大腸ガンを患って亡くなり、オフクロも倒れて寝たきりの状態になった。このオフクロの介護が大変でね。男手一つで介護するのはとても無理で、近くに住む弟の嫁さんに手伝ってもらうようになる。
 オレがずっと実家を出なかったのは、自分は長男で跡継ぎだという思いがあったからだが、この際オフクロの面倒をみてもらうことを条件に、弟夫婦に土地と家屋敷を譲ることにした。オフクロにも弟夫婦にも異存はなかった。そのときのオレには、まだ 300万円ほどの借金が残っていたが、それも弟が肩代わりして返済してくることになった。
 それで平成16年1月21日に家を出た。弟から餞別にもらった30万円を懐に入れて、目指したのは池袋だ。池袋は昔から土地勘があったからで、そこでアパートを借りて仕事を探すつもりだった。
 ところが、世の中はそんな目論見通りにはいかないんだね。まず、アパートだけど定職があって、保証人が用意できないと借りられないんだ。それに就職のほうも、50歳をすぎているとどこも相手にしてくれないからね。
 はじめのうちはビジネスホテルに泊まっていたけど、カプセルホテルに代わり、マンガ喫茶に代わっていき、そのマンガ喫茶に泊まるカネもなくなってきて街に出た。
 街に出てもホームレスの仕方は知らないし、そんな勇気もないからね。といっても、真冬だから夜の寒さは半端じゃないし、食い物がないからひもじくてさ。3日3晩飲まず食わずで街をフラフラしていて、とうとう1軒の居酒屋に飛び込んで無銭飲食をしていたよ。
 そんなことを繰り返していると、だんだんに見すぼらしくなってくるからね。この(東池袋)公園でホームレスの人から声をかけられて、ホームレスの暮らし方をいろいろと教わってね。それでなんとか、命がつなげるようになったわけだ。

 自分の人生を人に話すのははじめてだけど、話してみるとオレの人生にもいろいろあって、ずいぶん波瀾に富んだ人生だったんだね。        (2005年10月 聞き手:神戸幸夫)

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2009年8月17日 (月)

書店の風格/第38回 ヴィレッジバンガードマルイカレン店

 マルイヤング館がリニューアルして誕生した「マルイカレン」。その中に入った本屋さんは「ヴィレッジバンガード」。このビルのコンセプトを知らない人は、きっと意外に思うだろう。比較的小ぎれいなファッションビルである「マルイ」と、「遊べる本屋」を標榜するヴィレッジバンガードとでは、イメージが結びつかないからだ。
 「マルイカレン」のコンセプトは「ファストファッション」。ユニクロ、ローリーズファーム、ジャイロなど若者向けファッションの中でも比較的安価なブランドばかりを取りそろえているのだ。キッチュなお買い物を楽しめる空間に、ヴィレッジバンガードはしっくりとハマる。

 8階を陣取るヴィレッジバンガードは、お店の真ん中にエスカレーターが配置された個性的なつくりをしている。個性的なのはもちろんつくりだけではなく、商品の配置も面白い。ヴィレッジバンガードは本と雑貨のお店である。雑貨の中に本が混じっていても、またその逆があっても、基本的には本の棚と雑貨の棚が分かれているところが多い。しかしこのお店は徹底的に本と雑貨を混ぜ込み、あくまでテーマで商品配置を決めているのだ。
 エコグッズの棚にエコの本、お弁当箱や食器のそばに料理本があるのは当然だが、タバコや灰皿のコーナーに禁煙本があると多少「おっ」と思うだろう。ゴシックな洋服やウィッグのそばに夢野久作や澁澤龍彦、嶽本野ばらが置いてあると、その遊び心にうーんと唸ってしまう。極めつけはバスグッズの真ん中に一冊だけ置いてある『アンダーカレント』(豊田 徹也、講談社)だ。どうしてだろう? と一瞬首をかしげるが、そういえばアレは銭湯が舞台だった……なんて細かい!

 本だけを扱う棚ももちろんあるのだが、そこで目立つのは読書家のための本だ。まさに「本のための本による本棚」に徹しているのだ。若者向けには欠かせないコミック棚も工夫されてある。幅が狭くて使いにくい、エスカレーターの脇を有効活用しているのだ。通路になりがちな空間の壁一面に棚を設置して、コミックを並べてある。かなり通り抜けづらいので、もしかしたら立ち読み対策なのかもしれない。

 雑貨に紛れてそこかしこに散らばる本、本、本。「本は本棚に置いて売る」という概念が良い意味で崩壊している。これだったらお客も「本」ではなく「商品」あるいは「雑貨」を買う感覚で、手にとってくれるのではないだろうか。これこそ、本当の意味での「文脈棚」だ。もしかしたら今、日本で一番「本を売る気のある本屋」なのかもしれない、と思いながら店を出た。「姉さんも三十路っすね」「彼氏募集中!」と落書きされたバースディTシャツ(商品)にシンパシーを覚えつつ。(奥山)

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2009年8月16日 (日)

靖国神社/23回 ライター奥津・英霊の日に靖国で戯れる(下)〈2007年取材〉

 午前11時05分。『記録』でおなじみの鈴木宗男衆議院議員がやってくる。公式ホームページの「ムネオの日記」によると、彼は都合がつく限り、参拝しているようだ。ちなみにこの日記は毎日更新されていて、マメな人物だということがわかった。
 午前11時06分。カメラセットが始まる。
 午前11時08分。報道陣がぶら下がり取材を始める。出てきた議員たちは、ぶらさがりに応じたり、携帯を取りだして即電話をして車を呼び出したり、議員同士で談笑したりとさまざま。いつもテレビで見ている平沢勝栄衆議院議員(以前暮らしていた小岩に彼の事務所があり、少し親近感があるので注目していた)はなぜか松崎しげる並みに黒かった。
 11時15分。被写体が一通りいなくなるとあっという間にちりぢりになる報道陣。閑散とした到着殿から南部宮司がとぼとぼと歩いて出てくる。ちなみに彼は、靖国の中で一番偉い人だ。あまり威厳がないというか、「靖国神社宮司オーラ」は漂っていないが、こういった時にしかお目にかかれないので、少し嬉しかった。
 11時50分。また報道陣が到着殿へと集まり始める。人だかりもできはじめ、「誰か来るのだろう」と思ったが、報道陣ばかり見ていてもつまらないので、遊就館前でかき氷を売っていたので、イチゴ味のかき氷(300円)を買う。火照った体に氷は最高。靖国にいる人々をぼーっとながめながらかき氷をつついていたら、かき氷屋の行列が30人に増えていた。
 体に悪そうな毒々しい赤のシロップをすすっていたら、「ピン」と何かがカラダを走った。大物が来る予感がして、大急ぎで器を捨て到着殿へ走る。そして報道陣も集まり、日の丸を持った大勢の参拝客も集まっていた。これは2年前に見た光景だ……もしやアイツがくるのか!? と思いつつ待つ。
 その間に報道陣を観察。カメラクルーは脚立に乗っているのだが、大体3段か4段と低い。その上に立って、カメラを肩に乗せる。いかにも重そうなのは分かるがそれを乗せて20分、30分と立っているのである。とりあえずカメラの重さを聞こうと、近くにいたNHKのカメラマンに重さを聞いてみたところ「これは10キロくらいかな」という答え。その時NHK関係者がやってきて、「1つの局から3台きてるんだよ」と教えてくれた。
 そんな中、ものすごく気合いの入ったテレビ局が一局。6段の脚立に乗り、カメラを肩に乗せ待っている。器用にジュースを飲みながら仕事を全うしようよしている姿に感動を覚える。取材後、脚立を見たらテレビ朝日だった。さらに、毎日新聞の女性記者もたくましく、カメラを持ち、脚立を持って男に負けず劣らない仕事ぶりをしていた。軟弱者の私には到底できない。
 午後12時50分。石原慎太郎東京都都知事が到着殿から出てくると同時にフラッシュと、石原コール。ぶら下がり取材には答えず、参拝客の前へ出てお辞儀、そして拍手の嵐。石原人気は衰えず、人気があることが分かった。
 13時14分。高市早苗大臣がやってくる。突然の参拝に、昼食中の報道陣たちが血相を変えて持ち場に戻った。だが、時すでに遅しで、入ってしまったあとだった。不意打ちにやられた……という空気が漂っていた。
 とりあえず参道の様子を見に行こうと神門へ向かったら、奉賛会の青年部あさなぎのメンバーが麦茶を配っていた。ありがたく頂戴し、外へ。軍服・もんぺ姿の人々が軍歌を歌いながら集会を開いていた。参道にいた警官に、今日の検挙・逮捕者の有無を聞くと、「いない」といわれる。
 2年前とはうってかわって静かな8月15日。神社の中では右翼もヤクザもおとなしいらしい。が、夕方に来てくれた友人から聞いた話では、午後2時ころに俎橋付近に機動隊が並んでいて、その姿に「今日この日のために警備員を配置して税金の無駄遣いですよ」というヤジがスピーカーから飛ばされていたらしい。どうやら鳥居を出た瞬間に物々しい雰囲気になることがわかった。
 15時。もう誰も来そうもないということで、一部が撤収し始める。でも3分の2は残っていた。
 16時。暑いので遊就館へ避難。涼む。さすがに暑さで疲れもピークに達し、2時間程度休んだ。
 18時。閉門時間を間違え、アイスを持ってきてくれた友人と一緒に帰る。後で母に聞いたが、閉門直前に東国原宮崎県知事が参拝に訪れたらしい。一体、何人くらいの報道陣がいたかは分からないが、閉門時間をきっちり把握してもう少し張っておけばよかったと少し後悔。
 今年の8月15日は、なんとなく穏やかな雰囲気が漂い、小泉首相時代のぴりぴりしたムードは感じられなかった。
 しかし「英霊及び靖国神社を誹謗・中傷する者の境内への立ち入り 又、参拝以外の目的を持って許可無く境内への立ち入りを禁ずる」という他の神社では絶対に見かけない威嚇ともとられかねない看板に、世論は穏やかだが、靖国だけはピリピリしていることがわかった英霊の日だった。
(奥津裕美)

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2009年8月15日 (土)

靖国神社/23回 ライター奥津・英霊の日に靖国で戯れる(上)〈2007年取材〉

8月15日。英霊の日。約2年ぶりの1日取材。年に1回この日だけは訪れてほしくない気持ちが2年前から濃厚になってきていた。真夏に1日中外取材。そして今年は、1人。孤独ここに極まれりである。
 極まってしまったものは仕方ないので、とりあえず靖国へ向かう。午前8時50分到着。前日までは、開門と同時に取材を始めるぞと己を奮い立たせていたが、前日の仕事が長引き寝たのは午前2時前。無理していったら正午には1人地獄絵図になると思い、その時間になってしまった。
 お盆、夏休み、終戦の日(英霊の日)のトリプルコンボをお見舞いされている靖国は想像通り人が多い。
 みんな物好きだな……なんて思いながら、今日の取材ターゲットたちの待つ到着殿へ。と、その前に報道関係者用のリボンをもらいに社務所へ。ちなみに社務所の受付の姉ちゃんはレギュラーなのか行くたびに見る。名刺を箱に入れ、社名を書き、リボンをもらっていたところ、一般の参拝客が報道用関係者用のバッジを貸してとごねていた。一般人は自由に撮影してもよいので、「必要ないですよ」という事務のお姉ちゃんの言葉に耳を貸さずごねて結局借りていた。

 今年のターゲットはズバリ「マスコミ関係者」である。
 今年は、参院選での自民党の大敗が原因なのか、それとも外交問題が原因なのかはわからないが、安倍首相も閣僚も来ないというニュースが、8月7日~10日にかけて流れていたので議員を対象にしてもおもしろくない。一番の目玉、小泉前首相は出かける用意をしている最中に参拝していたし。結局、彼が首相を辞めても私との間に赤い糸はなかったということを再認識させられた。
 しかし、前首相が参拝したとして、今は一私人。ニュース価値は多少落ちるからいいや、ということにした。  長年、靖国ライターとして本までだしたにも関わらず、現役首相が参拝するところを見たことがない。なんてこった。今年こそは今年こそはと思い続けてそろそろ6年目になる。参拝はしないと言った安倍首相がゲリラ参拝でもしてくれないかと少し願うことにした。
 とりあえず神社内を漂流していると、報道陣がものすごい勢いで誰かを囲んでいる。とりあえず輪に加わってみたらたばこ臭い。マスコミ人はスモーカーが多いのか。ヤニ臭さに気持ち悪さを感じてそうそうに撤退したが、まず男にも劣らない闘いぶりを見せる女性たちを見て、私のような適当な仕事ぶりではこの世界でのし上がれないということを感じた。
 さらにまた漂流していたら能楽堂前に少しの人だかりと何かがあった。近寄ってみると、木製のゲージに入った白ハトたちがいた。どうやら毎年8月15日に白ハトの放鳩式があり、そのために用意されたものらしい。
 おぉ、これが例のアレかぁ……これは参加しないともったいないということで、9時40分ころから並び始める。
 ゲージは6個あり、全部で100羽程度入っているらしい。狭いゲージの中でケンカするハトもいればおとなしいハトもいた。白ハトはなんだかんだいってかわいい。かわいいが、激しくくさい。鳥小屋の匂いがして一瞬もうろうとしたが、ハトを飛ばすために我慢した。午前10時。順番に白ハトを渡し始める。
 私もハトをもらい「飛ばすぞ、飛ばしちゃるけん!」と気合いを入れ両手で持っていた。が、私のハトは元気がいいのかなんなのか、手中で暴れる暴れる。
 暴れた末に、なんと私の手から離れ飛んでいってしまった。持っていた時間は約数十秒。20分も待ったのに、飛ぶときはあっという間で切なさを感じた。さようなら、白ハト。たぶん、誰よりも先に飛ばしたはず。
 私が飛ばしてしまっても白ハト配給は続き、全員が配り終わった後、南部利明宮司による「ありがとう」という言葉とともにハトを飛ばした。たくさんのハトが飛ぶさまはまさに「ロート製薬」のCMを彷彿とさせるもので爽快感が残った。その瞬間を奇跡的にカメラに押さえたのだが、素晴らしい、私のカメラスキルが50ポイントくらい上がったところで、放鳩式は終了。

 10時28分。警備員の「車とおりまーす」という声が増え始め、報道陣が少し動き始める。
 10時35分。黒塗りの車が続々とやってくる。11時から「みんなで靖國神社に参拝する国会議員の会」(なんど書いても、聞いても、おマヌケな名前だ)が集団で参拝するので、そのために集まってきているのだ。
 車は靖國会館のほうへ行き、議員たちはそこで待機。車を見ると、ほとんどが品川ナンバー。公用車ということだろうか。中には、警視庁のステッカーが貼られた車や、ピーポくん(警視庁のマスコット)のぬいぐるみが置かれた車。さらには、「COOLBIZ」というステッカーが貼られた車まで。個人的に気になったのが、トヨタのセンチュリー。皇室よろしく、カーテンが白レース。どうやらこの車は、トヨタの最高級乗用車だそうで、主に、皇室(だから白レースなのか!?)、官公庁の公用車などに使われている車だそうだ。車に興味のない私にも、あれは高そうだと感じさせる威厳を放っていた。
 入ってくる台数が多く、会館前での乗降ができなくなったのか、到着殿近くで下りてから会館へ行く議員も多かった。
 午前11時。議員たちがぞろぞろと本殿へ向かう。心なしか報道陣の数が少なく思えたのは気のせいだろうか。(奥津裕美)

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2009年8月14日 (金)

Brendaが行く!/受け身になるべきところと攻めるところ間違えてるって

日本人は、これらの物に受け身です。

権力
上司
選択
恋愛
勉強

特にこれら本来常に攻めの体制が整っていないといけないと思われることに関して受け身です

恋愛
仕事における自分の地位向上
家族運営

プラス間違った攻め方

必要以上の上司へのがんばっていますアピール
何の利益にもならない大人(年上)へのへつらい
意味の無い細かいことに実はかなり攻めの体制で生きてる

わかりにくいといけないので具体的な例を

(必要以上の上司へのがんばっていますアピール)

実例
日本の高級ホテルのカフェでバイトしている外人仲間が言いました。日本人は、マネージャーが来ると必ず、いつもより一生懸命やっているような勢い出そうとして、態度を変えて働く。でも、俺はいつも普通にそれなりの高級ホテルにみあったまじめさでやってるんで、マネージャーがきても何一つ変えるところはない。なんで日本人がマネージャーが来るだけで突然決そう変えて必死こきだす、「あれ」をするのか理解が出来ない。外国人だから俺はそれをしないことを許されているが、日本人だとそのようにしないといけないような、不思議な仲間意識がバイト内にあることもよく知っている。外国人で良かったぜ、ホッ。

説明
ホテルのカフェのバイトごとき、ものすごーく平たく言えばタダの労働者。普通に誠意を持ってまじめにやれば済む話。プラス素敵な笑顔があればみんなが幸せになる。そんな感じでしょうか。そこで、なにもしっかり高い給料もらってバイトをこき使ってるマネージャーにそこまでへつらう必要があるでしょうか?マネージャーの給料は、それら労働者のバイト達から搾取されていると言っても過言ではないでしょう。しかし、人生そんなもの。その場で現実的に今、自分の立場が虐げられていることを諦めて、ごく普通に働くか、それか他に人生の大きなプランがあるならこれまた普通に働いて、時間が来ればその場を去ればいい。人生、攻めの姿勢で気合い入れて乗り切らなければいけないことがたくさんある、そこに向けて実は充電しておかないといけない。時間にもパワーにも実は限りがある。それが現実。無限にあるものなんてこの世には存在しないのだ(今日はちょっと超現実ネガティブモードで言ってます)

(何の利益にもならない大人(年上)へのへつらい)

一番迷惑な人。
協力はしないけど意見を言う人。
力を貸す気もないくせに批判をする人。
こういう年上って最低だと私は思う。
自分より若い人が何かしているとき人徳のある大人は必ず協力してくれる。
そして、私も自分がそうであるよう自分をいつも戒めている。
大人になったらある程度お金持ちならないといけないのは、そうでなければなかなか人を助けることは難しいから。周りの素晴らしい大人を見て私はそう思った。
付き合いのある人すべてに対して、自分がしてあげられることは何か?いつもそんな問いかけをすることを潜在意識的にできるぐらいしていたい。
できることがないときには、たとえあり得ないと思うような話でも極力批判を避けることだってそれはすごい失礼な態度になるから。案も無いのに相手の気分を下げて何の利益になるの?そんなこと道徳的にしてはいけません。
人の批判をする(ゴシップ好きに多い)、お金のない、クズ達には、くれぐれも、年上でも頭を下げるのはやめましょう。
計算高い?
いや、そんな事では全くありません。
単純に、実力も無いくせに言いたいことだけ言ってるバカは3歳だろうと40歳だろうと終わってるねキミ!ということ。

しかし、どんな小さなことでもお世話になった人のことは一生忘れてはいけない。
礼を尽くせば尽くすほど、それは自分の血となり肉となる。

(意味の無い細かいことに実はかなり攻めの体制で生きてる)

一生懸命働きまくっている日本のような国も、やる気がほとんどないと言えるフランスやイタリアのような国も、悪の中枢アメリカも。全部の場所がいま経済危機。なんでまじめにやってる日本の貧困率がうなぎ上りなの?でも、貧しい人だってお金持ちだって日本人ってみんな超まじめじゃない?こんなに働きまくって貧しいんだから、労働力は2倍なのに!!!と言ってもいいかもよ。だって日本人ってフランス人の2倍は(時間ね)働いているって!!!
不況、不況、不況っていつも言ってるけど、ここまで限界まで働きまくって不況なのは世界中で日本と(韓国ももしかしたらそうかな)ぐらいじゃない?今月のフランス人の話題は、バカンスしかないでしょ。日本はこんなに天気暑いのに汗水たらしてみんな死んだような顔して電車に乗っているじゃない。やったぶんのその結果はどこに行ったのでしょうか???

最後の補足

疲れて恋愛するパワーも奪われ。

結婚できず。

女は子供産めないと結婚するのが難しくなるから、世の中に行かず後家が増えて。

男は、結婚できないと結婚できた男に比べて早く死ぬらしいけど。

いずれにしても結婚できた人たちだけでどんなにがんばったところで、お金もそんなにないし子供作るにも数に限りがあって。

産んだ女も働き、へろへろになって。
もう子供は増やせないとなって。

チ~ン 御愁傷様です。
(Brenda流 文末の結び型)

あ、解決策とかは、私のブログの至る所に書いてるので、どうか読んでね。
批判ばかりで終わるのは良くないからね。笑

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2009年8月13日 (木)

ホームレス自らを語る 第36回 借金まみれの人生だった(前編)/小沢政人さん(仮名・54歳)〈2005年10月取材〉

 オレの話なんか、1つも面白くないよ。それでもいいのかい?
 生まれは埼玉県のS市で、昭和26年の誕生だから、いま56歳。家は裕福なほうだったろうな。古い大きな屋敷に住んで、敷地も100坪以上はあったよ。
 オヤジは国家公務員。郵便局の本局で局長代理をしていた。兄弟は3人で、上に姉、下に弟がいる。3人とも頭がよくてね。オレだけは途中からコースを外れてしまったけど、姉も弟も大学を出て、姉は小学校の教員、弟は国家公務員になっている。オレもまじめにやっていれば、同じくらいにはなっていたと思うよ。
 オレがコースを外れるのは、中学2年生のときだ。他校の不良を掴まえてはケンカして、それに明け暮れるようになってね。オレはいつも一匹狼で、不良グループに入るようなことはなかった。それでも腕っ節が強かったから、ほとんどのケンカに勝ったよ。
 高校は工業高校で電気を学んだ。電気が好きだったわけじゃない。本当は文系志望だったけど、中学の担任に「これからは工業の時代だから、工業系の知識を身につけておけば、ツブシが効いて食いっぱぐれがない」と無理やり押し込まれたんだ。当時は高度経済成長の真っ只中だったからね。
 工業高校を卒業して、大手H製作所の系列でエレベーターのメンテナンスをする会社に就職した。都内の営業所に勤務して、納入したエレベーターの保守点検をしたり、修理するのが仕事だった。
 仕事はそんなに大変じゃあないし、上司や同僚もいい人ばかりで、職場の雰囲気もよかった。だけど、しょせんオレは文系人間だから、周りの仲間のように仕事にのめり込むことができなかった。辛いもんがあったな。
 それを逃れるために酒に走った。オレの場合は酒の量も飲んだが、クラブで遊ぶことを覚えちゃってね。といっても、銀座や六本木の高級クラブでは遊べないから、もっぱら池袋界隈の店だけどね。それでも1回遊べば2万円は取られるからね。月給が4万円のころの2万円だからさ。たちまち懐具合は窮してくる。だけど、ホステスに入れ揚げているからやめることができないだろう。借金をしてでも通うことになるよね。
 ちょうど、サラ金というのができ始めたころで、そこで借金をするようになる。そのサラ金というのが、H製作所系列会社勤務のオレの肩書を信用して、いくらでも貸してくれるんだ。オレはしだいに借金まみれになっていくわけだよ。
 30歳のとき、オレの借金残高は 200万円に膨らんでいた。当時では年収分くらいの額だからね。そうなると借金返済を督促する葉書が頻繁にくるようになる。
 そのころ姉と弟は結婚して独立し、独身のオレだけが両親といっしょに志木の実家に住んでいた。その督促の葉書が両親に見つかって、借金まみれのことがバレてしまってね。
 うちの場合、オレのほかはみんな公務員だから大騒ぎになったよ。それで身内にそんな人間がいたんじゃ具合が悪いと、すぐに借金の全額を返済してくれてね。オレは利息分を払うだけでも青息吐息だったのに、たちまち借金がチャラになってしまったんだ。
 助けてもらって言うのも何だが、そんなふうにして甘やかすから、いつまでも本人は懲りないんだよね。やがて、オレはそれ以上の借金まみれになっていくからね。
 その借金騒動があったころ、エレベーター・メンテナンスの会社も辞めてしまう。いや、借金騒動と会社を辞めたのは関係ない。
 元々が機械関係の仕事は好きじゃなかったからね。それに自分は出世コースから外れていることがわかっていても、実際に大学出の若いのに追い抜かれて、それに仕事の指図をされるようになると、やっぱり面白くはないからね。そんなこともあって辞めたんだ。
 それで次は仏壇・仏具を商う問屋に就職して、営業マンになった。まあ、借金まみれだった生活を反省して、懴悔の意味も込めて地味な仕事を選んだつもりだったけどね。
 ところが、営業の仕事には接待がつきもので、飲みに行く機会が多いだろう。それになぜか社長に気に入られて、地方出張や夜の接待のお供を命ぜられるようになってね。すると、反省したつもりでも、またゾロ悪い虫が蠢き出すことになるんだ。
 気がつくと2、3人の馴染みのホステスをつくって、それに入れ揚げて、また借金まみれになっていた。給料全額を返済に充てても、利息分にもならないような借金地獄に陥っていたわけだ。それで、そのころから別のバイトにも手を染めるようなってね。
 オレがクラブで遊ぶときにはカネ払いがよくて、ホステスたちに人気があった。内実は借金して通っていたんだけどね。で、当時のクラブではツケで飲む客も多くて、そのツケの回収はホステスの仕事だった。オレはそのツケの回収を代行するバイトを始めたんだ。これがなかなかいい収入になってね。
 ただ、その仕事はヤクザがする仕事なんだ。だから、ヤクザにバレて捕まると、寄ってたかってボコボコにされる。オレも幾度か捕まってボコボコにされた。でも、借金で追い詰められているから、やめるわけにはいかないしね。捕まっても、捕まっても、続けたんだ。
 そのうちに「おめえ、なかなか根性があるな」とヤクザに認められるようになってね。それで仲間にならないかと誘われて、ヤクザといっしょにツケ回収の仕事をするようになるんだ。(つづく)〈聞き手:神戸幸夫〉

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2009年8月11日 (火)

ホームレスのおじさんとダンス!?

 ホームレスの人々への支援のほとんどは衣食住である。最も足りないものが衣食住だから、そのような支援になるのは当然だろう。しかし、それがすべてかと言われると、事はそれほど簡単ではない。

 そもそもホームレスの人たちが、路上で暮らすようになった原因は貧困だけではない。自立生活サポートセンター・もやい事務局長である湯浅誠氏のいう「溜め」がないことの方が、より大きな問題ともいえる。
 例えばアパートを維持するお金がなくても、居候をを許してくれる親族や友人が居ればホームレスにならなくて済む。また仕事がなくなっても、貯金があれば食いつなぐことができる。そうした「余裕」を湯浅氏は「溜め」と呼ぶ。彼らの団体が、事務所を開放して地域住民や支援者やホームレスのための喫茶店を作っているのも、そんな「溜め」を取り戻す運動ともいえる。

 そして、ホームレスの運動(といってもいいのか迷うが……)に、また新しい形が現れた。「ホームレスのおじさん、または以前ホームレスであったおじさんを中心」としたダンス公演だという。
 そのダンス・カンパニーの一員で、ダンサーでもあり、プロの振り付け師でもあるアオキ裕キ氏のブログには、次のような一文がある。

  ホームレスであるという状況ではあるが、
  「俺達は大変だよ!」
  という踊りではなく、”森の踊り”を単純に踊る。

 表現もまた生きる上での必須なものとするなら、踊りもまた何かを取り戻すきっかけになるかもしれない。あるいは市民運動的な観点を除いて、踊りとしてのおもしろみを楽しめるかもしれない。いずれにしてもちょっと楽しみだ。(大畑)

●公演予定はこちら!

日時:8月23日(日) 14時と15時に2回。
場所:井の頭公園内の林
    ……吉祥寺南口を出て公園の入り口を入ってすぐ、
      右手の奥の林の中

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2009年8月10日 (月)

書評『本は志にあり ~頑迷頑迷固陋の全身出版人』 西谷能雄(松本昌次・編)

32273029  良い本を作りたいと思わない出版人は皆無だろう。心底から惚れ込んだ著者と文章を、最高の編集と最高の装丁で世に出したい。その本が最高に売れてくれれば話は簡単だが、多くの場合、そうはいかない。だから売れるテーマを追いかける。売れる著者を追いかける。そうしていくうちに、本来作りたかった書籍の有り様が心の中で擦り切れていってしまう、そんな経験をする編集者は多いはずだ。
 出版社「未来社」の創業者、西谷能雄は、生涯を生粋の出版人として闘い続けた人である。なにと闘ったか。本をモノ化する企業体質、錆びていく出版流通、出版人の理想を阻む全てと闘った。この本は、西谷のエッセイや丸山眞男氏らとの座談などを収めた伝記的書物だ。

 話の焦点はまず、西谷が未来社を創業した動機にあつまる。西谷ははじめ、すぐれた法律関係書の出版で有名な弘文堂に勤めていた。しかしその権威主義的な体質に反発し、社を辞する。きっかけは木下順二の『夕鶴』であった。『婦人公論』に発表された『夕鶴』に深い感銘を受けた西谷は、弘文堂アテネ文庫の企画に推す。しかしその頃、木下順二はまだ無名であった。かつ、戯曲は営業的に危険だと、企画会議で否決になってしまったのである。
 西谷は諦めなかった。実に10回もの提出を経ても壁は厚かった。しかし『夕鶴』の初演後、「毎日演劇賞」を受賞し大きな反響を呼んだことで風向きが変わってくる。最後の機会と企画会議に出したところ、「もし売れなかったら、一切の経済的責任は君が負え」とまでいわれ、遂にアテネ文庫に入った。生活を賭けた大博打である。しかし面白いように反応は現れ、版を重ねた。売れに売れたが、ここに独立への転機があった。

「それにしてもあれほど『夕鶴』の出版に頑迷だった人たちから一言の挨拶も出ないのはどうしたことだろう。私は静かに釈明をまった。が弁明の代りに要求されたのは重版の強要であった。万一売れないときの犠牲だけを強いて売れた場合に一言の挨拶もしない非人間的なやり口に私は唖然とした。こんな面々とつきあって青春をむしばむことの愚かしさをつくづくと考えざるを得なかった。」(p.222)

 ここから未来社の立ち上げとなるのだが、詳しくは本書を、西谷自身の言葉をぜひ読んでほしい。このはしりだけでも、西谷がどんなに出版を深く愛していたかが分かるだろう。
 未来社は戯曲など演劇系の出版から始まり、人文書や社会系を取り込んで今現在も良質な書籍を発行する出版社として活動を続けている。出版社には珍しく完全買切制だ。その事実にも、委託制度を基盤とする出版流通に大いなる批判を浴びせてきた西谷の思想が反映している。この会社が存在しているというだけで、出版の精神はまだまだ日本に息づいていると強く感じさせられる。

 本書には編者である元未来社社員・現影書房社長の松本昌次氏が書く西谷像もあり興味深い。魅力的な人間を360度楽しめる、濃度の高い本である。(奥山)

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2009年8月 9日 (日)

のりピーはなぜ逃げた?

 どうにもわからない。覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕された酒井法子容疑者の行動だ。
 3日未明、渋谷の路上で職務質問を受けて夫が逮捕。旦那に携帯で呼ばれて駆けつけた彼女は、所持品検査や渋谷署への同行を拒否し、「子供を預けているので、後で行きます」と署員に告げて行方不明となった。
 ここまではわからないでもない。混乱もあったろうし、捕まりたくないと思ったに違いないからだ。しかし、この先の行動となると、かなり不可解だ。子どもを友人に預け、ATMで計40万を引出し、下着や衣類に加えカップ麺や旅行用の化粧水まで購入したというのだから、もう完全に“逃走モード”である。

 この「逃走劇」について、覚せい剤の使用が尿検査で発覚するのを恐れ、身体から排出する時間を稼いだという報道もあった。しかし彼女は、自宅に帰りながらも吸引用のストローなどの証拠品を処分していない。夫が使ったものだと言い張れば、どうにかなると思っていたのかもしれない。しかし化粧ポーチに入っていたら言い逃れはかなり難しいだろう。まして唾液までついていたストローが残っていたとなれば万事休すだ。

 酒井容疑者に対する警察の心証は、もちろん真っ黒。任意の同行を強行に拒んで行方不明になれば、覚せい剤の使用を疑わない方がおかしい。すぐに夫の容疑で家宅捜査をし、酒井容疑者のストローを発見し逮捕状を請求している。

 結果的に見れば、夫と一緒に逮捕された方がはるかにイメージはよかった。初犯であることを考えれば、覚せい剤の使用があってもなくもて執行猶予判決である可能性は高い。裁判では起訴事実を争う可能性も低いだろうから、情状酌量を訴えることになるのに、逃亡したとの印象はマイナスに働く。

 また6日間もの失踪でメディアを引きつけたのも、最善の策ではなかった。おかげで子どもを預けた先の素性や親族の素性まで徹底的に報じられた。真偽のほどは別にして、さらにイメージが悪化したことは間違いない。

 どうして逃走していたのか正確にはわからない。ただ、7日に逮捕状が請求されたと報じられたのに、出頭が8日夜になったのは気にかかる。8日に警察は報道を通してメッセージを出していたからだ。DNA鑑定で吸引用のストローに付着した唾液が、酒井容疑者と一致したという報道がそれだ。
 NHKが報じたのが、8日の午前4時半。新聞朝刊に間に合う時間ではなかったため、新聞各紙は8日の夕刊で記事にしている。共同通信や時事通信も午後になって報じているため、もしかしたらNHKが抜いたのかもしれない。いずれにしても、この具体的な話は警察側のリークに間違いない。
 このDNA判定と同時に報じられてたのが、酒井容疑者の弟が1ヵ月前に逮捕されていたというネタだ。“時節柄”当然のように一緒に報じられていたが、この話も警察リークだろう。
 こうした一連のリークは、尿から覚せい剤が検出されなくても、覚せい剤使用での立件も濃厚ですから逃げてもムダですよ、というメッセージであるとともに、逃げ回るなら関連情報をさらに報じられますよ、という警告だと考えるのはうがちすぎか?
 
 ただ、8日夜に酒井容疑者は弁護士に付き添われて出頭した。1週間か10日で覚せい剤は尿から検出されなくなるとも報じられているから、逃亡の理由が尿検査対策だとすれば少し日数が足りない結果となった。(大畑)

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2009年8月 8日 (土)

紀伊國屋サザンシアターにて『ロスジェネ』3号刊行記念イベント開催

紀伊國屋サザンシアターにて、来たる8月10日に「近代100年の問い」と題したトークセッションが行われます。

そろそろ「ワカモノ」のレッテルすら貼られなくなる20代後半から30代前半の同時代性を問う雑誌、『ロスジェネ』3号の刊行記念イベントです。

テーマとなるのは100年前の文学と芸術。現代との類似性はなにか、そして違いは何なのか。

歴史を覗けば今の答えが見えてくる。答えを探るその場に、そっと立ち会ってみませんか?

ゲストは漱石研究で名高い小森陽一氏と、いつも刺激的な絵画を提供する美術家の会田誠氏。

この2人が同席する機会なんて、きっと滅多にありません。

以下、『ロスジェネ』HPより転記します。

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とき :8月10 日(月)19:00開演(18:30開場)
ところ: 紀伊国屋サザンシアター(紀伊国屋書店新宿南店7F)
チケット: 1000円(税込・全席自由)
定員: 300名
出演者

小森陽一(東京大学教授/国文学者)
会田誠(美術家)
浅尾大輔(作家、「ロスジェネ」編集長)
大澤信亮(批評家、「ロスジェネ」編集委員)
増山麗奈(画家、「エロスジェネ」編集責任)

サイン会 終演後、出演者によるサイン会を行います。
※会場にて書籍をご購入いただいた方対象
■チケット前売所 キノチケットカウンター(新宿本店5 階) (10:00 ~18:30)
紀伊國屋サザンシアター(新宿南店7 階) (10:00 ~18:30)

■電話予約・お問合せ 紀伊國屋サザンシアター 03-5361-3321(10:00 ~18:30)
■共催 紀伊國屋書店/ロスジェネ

■協力 かもがわ出版 

 100年前、世界の中心・ロンドンで精神を病むまで近代を味わい、高等遊民という名の「ロスジェネ」を主人公に小説を書き続けた夏目漱石。
 漱石の死の数年前に渡仏、芸術の都・パリで喝采を浴びるという日本画壇の悲願を達成しながら、太平洋戦争中その力のすべてを「戦争画」に叩き込んだ藤田嗣治。

 彼らの絶望と希望を私たちは一度でも魂で受け止めたことがあるのか。

 漱石研究の第一人者・小森陽一氏、「戦争画RETURNS」で近代日本画を問うた美術家・会田誠氏を迎え、資本主義の暴力を怒りの沸点で味わった「ロスジェネ」が、今、グローバル下の文学と芸術という「近代100年の問い」を切り開く。現実の矮小化、下らぬマッピング、偽の問題、愚劣な揶揄が許される時間はもう終わりだ。
(大澤信亮 ロスジェネ編集委員)

ロスジェネHP http://losgene.org/event/20090810.html

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2009年8月 6日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第21回 従軍取材で感じた住民の視線(下)

 隊長と一緒に一軒の民家に入った。米兵たちは家の中に土足であがりこんでいった。アフガニスタンは日本と同じで家の中では土足厳禁だ。聞こえるか聞こえないかという音で、家の若者がちっと舌を鳴らす。
 客間には近隣の村の村長たちが集まっていた。その中の代表らしい黒い服を着た四十台の男は米兵に愛想を振りまいている。他の四人の村長たちは少し怯えているように見えた。
 「出来る限りの協力は惜しみません。武装勢力が入ってきたらすぐに知らせます」
 黒服の男は協力的だ。村長の一人が「村の近くで爆弾を見つけました」と言った。隊長が、では、明日にでも一緒に見に行こうと言う。村長は「その変わり、私の息子を基地で働かせてもらうという件よろしくお願いします・・・」と手をもむ。支援を引き出したい村長側と、協力を得たい米軍側で狐と狸の化かしあいだ。

 隊長は支援の目的を「支援を通じた教育だ」と言う。
「アフガン人の多くは自分の国の状況を知らない。彼らはアメリカが悪だと教えられている。だから、支援を通じて彼らを教育し、アメリカがいい人たちだということを伝えたい」
いわゆる人心懐柔政策というやつだ。旧日本軍の宣撫工作に似ている。しかし、本当に占領している側の支援でアフガン人の意識が変えられるのだろうか。
 私は従軍終了後、バグラム基地の近くのPRT支援を受けている村に向かった。
村で取材を行ってみると、取材拒否が続いた。誰もがカメラを見るとインタビューを断る。数時間探し回り、一人だけインタビューに応じてくれた。アリさん(仮名)は英語で受け答えをした。カブールで働いていて、帰省していたのだと言う。
 「怖いからさ!米軍に僕たちがアメリカを非難したなんて知られればきっと殺される」
 アリさんは怒りをあらわにして訴えた。米兵に家の中を強制的に捜索されたこともあると言う。アフガニスタンでは女性は夫以外に顔を見せないという風習がある。そのため、家族以外が家の中に入るのを極度に嫌うのだ。
 「米兵は支援という口実で、武器を持って村に入ってくる。実際はテロリストの捜索です。私たちはテロリストじゃない。断れば何をされるか分からないから、仕方なく支援を受けて入れているだけです」

 どうもPRTは受け入れられているように思えない。けれど、支援の増加はオバマ政権のアフガニスタン政策における土台の一つだ。ブッシュ政権時代の「テロリストは殺せるだけ殺す」の政策が大失敗してかえって住民の反感を煽り、タリバン参加者を増やしてきた経緯がある。その対抗策としてきて持ち出してきたのだ。
 PRTに関わっているのは軍だけではなく、USAID(日本で言うJICA)も立案などに大きく関わっている。けれど、ペシャワール会やJVC(日本国際ボランティアセンター)を始めとするNGOを見てきたが、あまりにも支援の仕方がお粗末だ。
 支援というのはハコモノを作って、モノをばら撒けばいいという話ではない。地域の文化や風習を理解し、人々が求めて、それで初めて成立するのだ。
 PRTが道路を作っても通行の優先権は軍隊にある。救急車も消防車も、軍車両を追い越したりは出来ない。学校建設に関しても、PRTが作るのは基本的に男女共学の学校だ。市民の中には「軍隊がパトロールしやすいから作ったのさ」という声も聞かれる。
保守的なイスラム教徒が大半を占めるアフガニスタンでは学校建設も「欧米の出先機関」と建設自体に反対する声も大きい。

 アフガニスタン人は歴史的な経緯から欧米諸国を伝統的に目の敵にしている。外国軍はPRTを通じて地元住民の支持を得る狙いだが、現実的には軍の行う支援そのものに対して反感が起きているのが現実だ。
 日本もPRTに文民を派遣しているが、その点は分かっているのだろうか?見てもいない人たちの仕事を批判したくないが、私には賢い判断とは思えない。
 従軍前に、わたしはタリバンの元高官のムトワキル氏にインタビューをし、日本のPRT参加についてたずねたことがあった。
 彼は祈るようなしぐさをして、こう言った。
 「支援をするのにどうして軍服が必要なのか。住民はPRTと普通の兵士の見分けがつかない。皆怯えているのだ。PRTはタリバンのターゲットになっている。友人である日本の人たちが攻撃を受けないことを祈ろう」(白川徹)

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2009年8月 4日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/福知山線事故、裁かれるべきは誰?

○月×日

 JR西日本の社長である山崎正夫氏(66)が起訴された(7月8日)。
 鉄道事故で経営トップが起訴されるのは極めて異例ということだが、忘れもしない85年の夏、520名もの命が奪われた日航機墜落事故(御巣鷹山)でさえ関係者全員が不起訴となったことを思えば、一歩どころか大きな前進なのか。
 だが、この福知山線脱線事故は起こるべくして起きた事故であり、JR史上最悪の大惨事であったことからも、起訴は然るべきだと思うが、どうなのだろう。
 また、106名もの乗客を死亡させ、500名からの負傷者を出しておきながら、誰一人として刑事責任を問われないこと自体、どう考えてもおかしなことであり、あってはならないことでもある。
 山崎社長は辞任の意向を表明し、8月中には新社長が就任するという。
 さて、山崎社長が起訴された理由を一言でいえば、「ATSの設置を怠ったから」だ。これが業務上過失致死傷罪の構成要件を満たしていると判断されたわけだ。つまり、ATSを設置していればこの事故は防げたという認識があった。すなわち、事故を予測できたかという「予見可能性」があったからと断定されたのである。(ATSについてはこれまでに何度も説明してきたので詳しいことは省かせていただく)
 しかしながら、どうしても腑に落ちないのは、なぜ山崎社長のみの起訴なのかという点であろう。ちなみに、山崎社長以外に書類送検や告訴されていた他の11人については「予見可能性」がなく嫌疑不十分、その内の運転士だけは死亡のためというのがその理由で不起訴処分ということだった。
 ここで「ちょ、ちょっと待ってよ」といいたいのは、今回のこの事態は、私達下々の関係者でさえ「たった1人を起訴するとしたら、この人以外にいないでしょ」というのがみんなの一致した思いだからだ。それは、警察が送検しなかった歴代の経営トップの3人、後に遺族が告訴に踏み切ったのだが、とりわけ初代の井手正敬氏(74)である。それにしても、遺族の方々も皆よく知っているんですね、誰が一番悪いのかを。
 (この井手氏についてはこれまでに吐き気がするほど述べてきたが、これだけはまたいわせていただく)この井手氏こそ、「この事故の背景は」とマスコミ各社が一斉に指摘をされていたJR西日本の「企業体質」、それを築き上げた張本人なのである。
 少し詳しくいえば、旧国鉄の強権的な労務政策を引き継いだ、いわゆる懲罰的な日勤教育や絶対的な命令と服従など、挙げれば切りがないが、何よりも、安全より利益至上主義に暴走した人物に他ならない。いいかえれば、これまでにJR西日本をたった1人で牛耳ってきた最高責任者であるというのが一般的な見方となっているのだ。
 つい先日(7月26日)になるが、神戸地検は遺族、負傷者を対象に起訴、不起訴にいたる理由などの説明会を開催したという。こうしたことは、これまた異例中の異例なのだそうだが、これは遺族らの心情を汲み取った地検の特別な計らいなのだろう。
 会には約130名の参加があり、ここでもやはり井手氏の不起訴に不満が噴出したということだった。これに対しての地検側の回答は「刑法の限界」を繰り返すしかなく、遺族は神戸検察審査会に旧経営陣の処分不当を申し当てる見通しであると報道されていた。
 以上だが、福知山線事故は4年目にして法廷の場での刑事責任追及という新たな局面に入ったことになる。
 「それにしても…」と私がいつも思うのは、遺族や負傷者にとって、起訴される、裁かれるといったことは1つの区切りとなることは確かだが、それによって憤りや無念が消えるものでは決してないということだ。悲しみや苦しみ、それは理不尽にも一生涯襲ってくることなのだろう。
 しかし、闘わなくてはならない。目の前の不幸と向き合いながら闘い続けなくてはならないのだ。
 これらの気持ちは当事者でなければ本当に分からないことだと思う。あぁ、やっぱり、何ともやり切れないとしかいいようがないのである。(斎藤典雄)

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2009年8月 3日 (月)

ホームレス自らを語る 第35回 ヘルニアで働けない/Cさん(59歳)

0908  (梅雨の雨がそぼ降るある日。東京都庁第二庁舎前を走る道路下の通路に、50人ほどのホームレスが三々五々雨宿りをしていた。Cさんもそんななかの一人である)

 昼間、雨が降ると、この通路がホームレスに開放されて、雨宿りすることを許されているんだ。雨が降っていないときは立入り禁止で、潜り込もうとしてもガードマンに摘まみ出されちまうけどな。
 それに夜の11時から朝5時まで、ここで寝ることも許されている。夜のほうは天気に関係なく毎晩OKだ。オレはこんなところで寝てはいないよ。そのときの気の向くまま、好きなところに適当に寝ているんだ。
 生まれは北海道。札幌市の郊外で、家は農家をしていた。主は稲作だね。6人兄弟の3番目で、小学校に上がると農業の手伝いをさせられてな。まだ、耕運機なんてない時代で、田起こしや代掻きは馬を使ってやっていたからね。オレもよく馬を引っ張らされたよ。
 学校の勉強のほうは、まったくダメだったね。学校から帰ると、すぐに農作業を手伝わされるんだから、宿題だってロクにやっていかなかった。それで勉強ができるようになるわけがないよ。
 中学を卒業して、そのままオヤジの農業を手伝うことになった。ところが、農家というのは現金を持ってないだろう。だから、月々の給料なんてないし、小遣い銭だってロクにもらえなかった。いい若い者には、向かない仕事だよね。
 それで土木作業員になった。ダムや道路、河川の堤防などの建設工事が多かったね。そんな工事で全国の飯場を回ったよ。土木建設というのは、みんな工期が長いからね。短いので1~2年、それ以上のもあるから、一つの飯場に長く落ち着けてそれがよかったね。
 土木作業員は建築の人たちと違って、ひと通りの作業をみんなこなせないといけないんだ。基礎工事から、型枠づくり、コンクリート打ち、それに左官仕上げまでやらされるからね。それができないと一人前じゃない。
 結婚はしたよ。子どもは3人できた。だけど、結婚したときも、離婚したときも、わけありでね。それで結婚のことは話せない。かんべんしてくれ。

 40代になったばかりの頃だろうか、腰に痛みを覚えるようになってね。長い時間立っていたり、歩いたりすることが辛くなって、座った姿勢から急に立ち上がるとか、前屈みの姿勢を取ることができなくなったんだ。
 病院へ行って診てもらったら「椎間板ヘルニア」の初期段階だという診断だった。椎間板というのは背骨と背骨のあいだにあるクッションのようなもので、それを包んでいる堅い部分にひびが入って中の髄核がはみ出してくるのが椎間板ヘルニアだそうだ。医者は腰に負担のかかる肉体労働はやめて、しばらく通院治療をして直せという。けど、オレは土木作業の仕事しかしたことがないからさ。ほかでは食っていけないし、治療費も持ってなかったしね。それからも騙し騙ししながら、土木作業の仕事を続けたんだ。ところが、腰痛はひどくなるばかりでね。尻から脚にかけて激痛が走るようになり、咳やくしゃみをしても腰に響くようになっていたからな。
 そうなると肉体労働で働くのは無理だろう。それで土木作業員の仕事をやめて野宿(ホームレス生活)をするようになった。さあ? いまから10年くらい前のことじゃなかな。腰は相変わらず痛い。ヘルニアっていうのは完治しない病気らしい。
 (新宿)区役所の福祉課に医療保護の申請を出したこともあるよ。だけど、「50代といえば働き盛りじゃないですか」と担当者から嫌味を言われてね。それで医師の診断書を提出しろというんだ。で、区の指定する病院で診断を受けたら、「椎間板ヘルニアであることは認められるが、軽作業であれば就労可」と診断書に書かれた。
 区と病院は医療保護費の支給を抑制するために、グルになっているに違いない。歩行でさえ困難なオレに、軽作業であれば可だという。それよりヘルニアの治療を先にしなくちゃならないことは、中学生だってわかるだろうよ。
 区の福祉政策なんて、こんなものだからね。まったくアテにできないから、それからは一度も申請には行ってない。腹が立つばかりだからさ。
 食事? そこの(新宿中央)公園の週2回の炊き出しと、区役所が支給している乾パンだけがたよりだ。ぜんぜん足りないよ。ほかの(ホームレス)連中は、池袋や渋谷、それに上野や山谷の炊き出しに行ってのもいるけど、オレの身体では行けないからね。
 ひもじいよ。ひもじいときは水を飲んでごまかしている。水だけはいくら飲んでもただだからさ(笑)。
 北海道の実家? もうないよ。両親は亡くなっていないし、ほかの兄弟たちも散りぢりで、どこに住んでいるかもわからない。だから、たよって行けるところもない。
 いま希望すること? ヘルニアの治療だね。この病気を治療して、それこそ軽作業くらいはできる身体にしたいよ。だけど、堅いコンクリートの上に段ボール1枚を敷いて寝ているんじゃ、直るものも直らないからな。悪くなるばかりだよ。

(役所は信用できないというCさんに、民間の支援団体の所在を教えた)

 ほう? そういうのがあるんだ。相談に行っても、カネは取らないんだね。じゃあ、こんど行ってみるよ。(2009年7月 聞き手:神戸幸夫)

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2009年8月 2日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第34回 ベルコに注がれる大阪国税局の視線

 去る7月26日、冠婚葬祭業大手「ベルコ」が葬儀後の遺族に送っていたあいさつ状が、大阪国税局から「領収書」と認定され、印紙税の納付漏れを指摘されたことがわかった。

 ことの次第はこうだ。葬儀後、四十九日頃に同社は遺族にお礼の文面をしたためた「あいさつ状」を送付することにしている。文面の末尾には「○月○日付にて金○円を領収致しました」と、ご丁寧に書き記すのだが、これが領収書とみなされたのだ。過怠税額は約3000万円で、すでに納付済み。正規の領収書は別に発行しているとのことなので、単純に考えて必要な印紙税の2倍を支払ったことになる。

ただのうっかりミスに見えるが、しかしこのベルコ、過去に国税局がらみの問題を何度も起こしている。

●1999年→大阪国税局より、積立を中断している互助会会員の積立金を所得に計上していないとして、1997年3月までの3年間に計約33億円の申告漏れを指摘される
●2002年→上記と同じ理由で2000年3月までの3年間に計約28億円の申告漏れを指摘される
●2005年→上記と同じ理由で2003年3月までの3年間に計約31億円の申告漏れを指摘される

 「互助会会員」ってなに? と思う人もいるだろう。ベルコは冠婚葬祭互助会組織の業態をとる。葬儀にも結婚式にも使えるような、ひと月2~3000円程度の積立を互助会会員に行ってもらい、企業にもよるが7~10年で満期になると、セット料金で非会員よりもおトクに結婚式や葬儀が行えるという仕組みだ。積立途中で婚姻や死亡があった際でも、残金を納めれば会員価格で式をできることが多い。料金体系の中身は複雑で、不透明な印象を受ける人もいるだろうことは否めない。私も互助会出身だが、内容の理解にかなりの時間を要した。社員なのに。

 ベルコが大阪国税局から指摘を受けたのは、かなりの期間払い込みが途絶えた積立金を「預かり金」として計上し、非課税にしていたからだ。通産省は1980年に、5年以上のものについては「雑収入」として所得に計上し課税対象にするよう通達しているのだ。これに対してベルコは、保留会員でも長年経ってから利用する人もいるので計上できないとして争ったが、一回目の分については最高裁で敗訴。二回目は大阪高裁にて係争中、三回目については納税したうえで司法の判断を仰いでいる。

 払い込みが止まってしまって5年が経つ、というのは十分にありえる。自分のためにせっせと払っていたおばあちゃんが認知症になってしまった、本人は亡くなって遺族が互助会の存在を知らず違うところで式をしてしまった、すっかり忘れて転居した、等など。連絡がつかないものに関してはしょうがないのだ。解約を促したくてもできないのだから。しかし十分に予想できる事態を考慮せずに、途中で保留になった場合も施行発生までお金をあずかるという契約を交わしていることには疑問を感じてしまう。ただし結局は3回あわせて25億円分もの追徴課税を支払った。契約文面が意図的なものだったのかどうかは謎だ。

 そして2009年の今回も、なんだか風物詩のように未納国税を指摘されてしまったのだが、全く違う理由であるうえに未納額も2桁違う。今度は素直に納税したのか、それとも契約内容を変えたのか「預かり金」問題。そして一見マヌケに見える印紙税の納付漏れ。あいさつ状への金額記載は「サービスのつもりが……」と会社側は言っているようだが、うーん、領収書は発行済みなのに、わざわざお礼の文面にカネの話題を入れるって、それ自体が無粋では?

 葬儀社はリピーターとなってくれるお客様がつきづらい。そうそう何度も喪主になるものではないからだ。年賀状が出せない(その年にお世話になったお客様はみんな喪中だ)。暑中や寒中のあいさつもできない(遺族が嫌がるだろう)。だから四九日と一周忌くらいしか、あいさつのチャンスはない。有効に使いたいと思う気持ちはわからないでもないけれど、やっぱり引っかかる。払ってくれない遺族に請求をするのがメインで作られたあいさつ状なら、金額にまつわる文面が打ってあっても頷けるけれど。(小松)

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2009年8月 1日 (土)

ロシアの横暴/第21回 賄賂で買った!?ソチ・オリンピックにテロの危険(下)

 ロシアが天然ガスや石油の地下資源「エネルギー」をちらつかせて諸外国のチェチェン戦争への干渉を締め出したのは疑う余地のない事実である。別の言い方をすれば、世界はエネルギー欲しさにチェチェンで行われている人権侵害を黙認したわけだ。
 人権を重要視しているはずのIOCもチェチェンの人権侵害を黙認したから、そこに「何か」があることは確かである。
 ロシアはオリンピック開催地立候補にあたって膨大な建設予算を提示したと言われている。近年、IOCは人権問題重視とともに「ハデ大会」をいましめる傾向にあるらしいが、ロシアはここでも逆行している。
 撲滅したはずの社会主義・共産主義の亡霊の出現である。亡霊でなく本物だと指摘するむきもあるように国内が不安定な時こそ派手なことをやって、国民をだますソ連的手法だ。だますのにIOCも一役買ったというわけだ。

 思えば1980年、停滞のさなかにあるソ連がなぜかオリンピック開催国に選ばれた。当時は後進国の経済活性化というIOCのサブタイトルがあったので、おそらくこちらのポイントであろう、インフラ整備とかスタジアム建設に国民を総動員して獲得した大会である。
 やや、主題からそれるが、その国民総動員オリンピックも「ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する」という米国に同調した西側諸国の参加ボイコットというパンチを喰らった。平和の祭典に政治を持ち込んだというので、その4年後のオリンピックはソ連を中心とした東側諸国が報復ボイコットをするというおまけまでついた。幸運にも?開催地は米国ロサンジェルスだったのである。(その後の歴史の展開をみればどちらもただの言いがかりにすぎない。)
 そのあと東西冷戦はゴルバチョフのペレストロイカとやらで一旦停戦となるのだが、その停戦後初のオリンピックがソチというわけだ。大会のスリム化がポイントになっているというのにロシアは巨額のリゾート開発をぶちあげて開催を獲得した。IOCは方針とちがう決定を下したことになるが、おそらく今回に限りロシアは経済活性化が必要な後進国、という流れになったものと思われる。大風呂敷を広げても中身は後進国、と本質を見抜いているとしても、より早くより高い賄賂が決め手になったことを伺わせる場面だ。

 さて、「より早く、より高く」各ポイントを乗り越えたロシアだが、開催決定の一年後、2008年8月にはソチのおとなり、グルジアで戦争が始まった。平和が戻ってきたはずのチェチェンでは引き続きテロ・暗殺の嵐が吹き荒れている。そこに米国発の経済危機が襲った。立ちこめる暗雲を武力で吹き飛ばそうと「カフカス2009」と名付けた大規模な軍事演習をおこなったりしている。ロシアにはカネも戦車もたっぷりあるよ、オリンピックを妨害する者はネズミの子一匹だって殲滅するぞ、と言いたげだ。
 演習以外にも至るところで経済パーフォマンスを見せているが、ロシアの経済事情が深刻なのはもはや隠しようのないところにきている。キルギスタンには米国のアフガン攻撃用基地使用料の倍額にあたる資金提供を申し出て味方につけたはずだったのに簡単に寝返られた。約束したら直ちに現ナマを動かさなければ負けである。資金繰りをしている最中、アフガン攻撃を強める米国がキルギスの要塞を確保するのに「より早くより高い」使用料を払ったからだ。
 もともと原油高に乗っただけの脆弱な経済基盤である。無能な社長はクビ、国産車を保護しない知事は更迭、と大統領令を乱発しても解決にはならない。オリンピックも建設予算の大幅削減を余儀なくされ、黒海沿岸の保養地開発をあてこんだ観光資本も撤退してしまった。

 1980年のようなボイコットが起きる可能性はなくとも、またIOCの方針通りにスリム化(予算縮小)しても、となりに火薬庫があることには変わりがない。流れ弾が飛んで来そうなオリンピックスタジアムに観戦に行こうという人は少ないだろう。自国の選手に流れ弾を当てるわけにはいかない、と参加を自粛する国が出てくるかも知れない。その上カフカスの反ロシア勢力がオリンピックに照準を合わせて「支度」をしていることも周知の事実である。
 参加自粛、あるいは観衆のいない大会といった簡単な問題ではなく、オリンピックそのものの開催が中止になるかもしれない。だからこそカフカスの反政府テロ集団はどんな手をつかってでも押さえ込むべく派手な軍事演習をおこない、「ソチの安全のためにこんなに頑張っている」ことをアピールしているのだ。
 しかしいくらアピールしたところでこの軍事演習がプラスポイントになる可能性は薄い。逆にロシアの不安定さを浮き彫りにして不安をあおることになってしまっている。

  あるチェチェン人がソチの近くに土地を買った。この地方はチェチェン嫌いで有名で、住み心地はあんまり良くないがオリンピックが来るので土地が値上がりする、という計算があった。ある程度値上がりしたら転売してひと儲けしようと思っていた。ところが値上がりしないばかりか最近は値下がりしているそうだ。この人はこうなったら何でもいいから早く売り飛ばしてチェチェンに帰りたいと言っている。(川上なつ)

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