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2009年7月

2009年7月31日 (金)

ロシアの横暴/第20回 賄賂で買った!?ソチ・オリンピックにテロの危険(上)

 より速く、より高くはスポーツの祭典オリンピックのキャッチであるが、これをもじった「より早く、より高く」というキャッチがある。どこの国が他よりも高い金額をより早く届けたかでオリンピック開催都市を決めるというIOCの体質を揶揄したものだ。

 2014年のオリンピック開催地がソチと決まったとき、少なからぬ人が驚いたはずだ。冬季オリンピックというよりは海辺のパラソルが似合いそうな温暖な土地という印象のほか、目と鼻の先にロシアの火薬庫といわれる「カフカス地方」があり、そこに世界中の人が集まるとなれば、テロの標的になることは目に見えているのにソチが選ばれたからだ。
 ソチは保養地としてソ連時代から有名な土地ではある。だからといっていわゆる「平和の祭典」オリンピックを開催する条件はほとんど整っていない。ある情報によると開催地決定総会に乗り込んでアピールする立候補国の大統領のなかで、いちばんウケがよかったのはロシアのプーチン大統領だったそうだ。2007年当時といえば原油高の波にのって金持ちロシアの印象を世界中に振りまいていたころである。

 各国の人権団体は「チェチェンなどで重大な人権侵害を行っているロシアでオリンピックが開催されないよう」呼びかける運動を起こした。世界人権宣言以来、その国の国民の人権が守られているかどうかもオリンピック開催地選定の重要ポイントになった。重要ポイントといいながら実際にはかなり曖昧な、つかみどころのないポイントである。
 2008年の中国北京大会が決まった時からこのポイントは宿題ポイントとなった。つまり「貴地で開催しますから、人権侵害については改善をしてくださいね」というものだ。ダメ母親が手のつけられない不良息子に「これでおしまいよ」とか、「あしたからちゃんとやるのよ」と言いながら小遣いをやるのと同じく、何の拘束力もないドロボーに追い銭宿題である。チベットやウィグルのその後を見るまでもなくわかりきったことだから、北京大会開催の前にソチ大会を決めておいたのだろう、と言いたくなる。その重要ポイントもロシアに限っては言及すらされないまま決定された。もうなにをか言わんや、である。

 それでもソチが開催地に決まることはないだろうとおおかたの人は思っていた。開催が決まったとき、ロシアの実状を知らない人々ならば「なるほど、ロシアはオリンピックが開催できるほど安定しているのか」と思い、知っている人々、およびロシア国民は「ほう、で、賄賂はいくら?」と思ったことだろう。
 ロシアは「賄賂がなければ何も動かない国」である。だからほとんどの国民がオリンピックは「買うもの」と認めているし、それが不正なこととも思っていない。ただ金額については知りたがる。そんなものがわかるはずもないからてんでに思いを巡らせ、なみなみならぬ額を「決定」したうえで「俺たちはこんなに苦しいのにオリンピックかよ」と思う少数グループと、「俺たちは苦しいけどオリンピックを開けるロシアは偉大だ」と思う大多数グループに分かれるのがロシアである。(川上なつ)

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2009年7月30日 (木)

アフガン終わりなき戦場/第20回 従軍取材で感じた住民の視線(上)

 今回のアメリカ軍従軍取材は、私の希望通りにならない点が多かった。むしろ、要望を完全に無視されたようなものだ。
 今回私は東部ホースト州での従軍を申請していた。しかし、従軍先は基地に来るまで教えられず、滞在先もRCイースト(東部戦線)の最大基地であるバグラム空軍基地に限定された。つまりニュース価値の高い地方戦線の取材はさせてくれないということだ。
 従軍を許可しておいて、希望の場所を取材させてくれないというのは腑に落ちない。私は前回の従軍取材で米軍を批判したのがバレたかな・・・と勘ぐっている。事実、在日アメリカ大使館の中には日本のメディアをチェックしている機関がある。新聞や雑誌を片っ端から英訳して本国に送っているとの話だ。

 前回の取材では米軍の傍若無人ぶりをテレビから新聞から雑誌でまでしつこく報道したのだから、目をつけられても当然だろう。事実を報道したことに後悔は無いが、「アメリカの報道の自由はその程度か!」と言いたくなる。先方としては、「住むところも飯も提供して、前線まで連れて行ってやったのに批判するとは、この恩知らず!」くらい思っているのだろうが。
 けれど、米軍はオープンな方だ。イギリス軍やオーストラリア軍は撮影した写真やビデオは徹底的に検閲すると、同業者から聞いたことがある。その点米軍は取材したものまではチェックしていない。私も軍事機密に関しては一度注意を受けたが、政治的な理由で写真のデータを消されたことは一度も無い。この辺りはアメリカの「自由な」気質が残っているのかもしれない。

 今回、私は基地周辺のPRT(地方復興支援チーム)の取材を行った。PRTとは軍の行う支援や、建設事業のことだ。現在駐留する40ヵ国の軍隊のほとんどが加わっている。2008年には民主党の小沢一郎元代表が自衛隊を派遣し、このPRTを行うと騒いでいた。その後、民主党の自衛隊派遣案は立ち消えになったが、今年から政府ゴール州チャグチャランでリトアニア軍に文民を派遣して行う形をとった。日本もPRTには実質的に参加しているのだ。
 私は米軍のPRT部隊と共に近隣の村に向かった。目的は基地周辺の村長たちと会合を持つためだと言う。装甲車3台が編隊(コンボイ)を組み、基地を出る。基地周辺は攻撃を避けるために道路が舗装されておらず、狭い装甲車の中で何度も頭をぶつけた。
 舗装路に入り、人がちらほら見え始めると、地元民が装甲車に目をやる。ただし、絶対に見つめることは無い。ちらちらと横目で、盗み見るように見るのだ。私も街中では同様にする。恐怖の対象であるが、同時に好奇心もある。そういう複雑な視線だ。
 私も見られる。
 道すがら、装甲車が自転車を轢いた。巨大な装甲車のサスペンションが少しだけ軋む。幸い誰も乗っていなかったようだ。運転をしている兵士が「オー!やっちまったぜ」とすっとんきょな声をあげる。わたしは車の後部に座っていて、遠ざかる12、3歳の少年の姿が見えた。恨めしそうな目が防弾ガラス越しに私に注がれている。けれど、少年もすぐに横目でちらちら見るようになった。車が走り、少年が遠ざかる。けれど、少年の目だけが頭に焼きついた。
 基地から一時間程度で小さな村に到着した。村人たちが兵士たちを遠巻きに見つめている。迷惑そうな顔を浮かべた老人もいれば、米兵に「1ドルくれよ」と手をすり合わせる少年もいる。(白川徹)

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2009年7月29日 (水)

麻生首相へご提言

どうせ敗色濃厚ならば

8月15日に靖国神社へ公式参拝する

というのはどうですか? きっと話題になるし、遊説の予定もないと聞くし、思い切り票を減らすかもしれない半面で右側の人が大喜びする可能性もある

話題にならなかったりして……(編集長)

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2009年7月28日 (火)

トヨタが労使一体化のツケを迫られる

 政治は大きな曲がり角を迎えているが、トヨタの状況が「カイゼン」された様子はない。先月末には、ゼネラル・モーターズがトヨタ自動車と共同出資する合弁会社「NUMMI(ヌーミー)からの撤退を発表した。
 84年に設立されたNUMMIは日本車排斥運動の人身御供だった。日本車の輸入拡大により働き口がなくなると訴えた労働者に、日米協同で工場をつくって差し出したのである。当時、石橋を叩いても渡らない社風だったトヨタは、米国進出に消極的だったが、リスクの少ない合弁会社から米国生産への比重を拡大していった歴史がある。

 そのためNUMMIは日米自動車友好の象徴といえる。その象徴さえ維持できないところに、自動車産業の不安がのぞく。GMの撤退によって、4600人が解雇される可能性も高まり、工場の継続には暗雲が立ちこめている。また従業員が全米自動車労組(UAW)に所属しているため、トヨタが自社の米工場では、数十年間、労組を回避してきた厳しい労務交渉がこれから待っている。

 本来、労働者は組合をつくって闘う権利をもっている。そうした労組の牙を労使一体化路線で潰してきた責任を、トヨタは意外な形で支払うことになりそうだ。
 トヨタ系企業が多い愛知県三河地方で3~5月に開設された「派遣村」の相談者の3割が生活保護を申請したという。派遣労働者の批判にたいして、トヨタは期間従業員への格上げを検討している。しかし、まだ不十分だ。企業が無責任に放り出した労働者を、財源の少ない地方行政が面倒をみるという構図を、もっと労働者が安心できるシステムに変えていく必要がある。

 富士スピードウェイでのF1解散撤退は、トヨタの場当たり主義の象徴といえる。ホンダ系の鈴鹿サーキットで開催されていたF1レースを強引に奪い取り、200億円をかけてコースを改修し、07年から開催した。ところが観客の輸送などで大トラブルを発生して批判を浴びることとなった。08年には観客数を制限することで事なきを得たが、バス運送費がかさみ赤字になったという。その揚げ句が開催中止である。
 そもそもトヨタがF1に乗り出したのは、F1で総合優勝を重ねたホンダに対抗したかったからだ。87年から鈴鹿で開催してきた日本GPが定着したことも、トヨタにとっては悔しかったのだろう。

 ホンダは業績の不振を受けF1への参戦をあきらめ、09年から富士と隔年で開催する予定だった鈴鹿の日本GPを維持することにした。一方、とにかく一度はF1で総合優勝したいトヨタは開催を止め、参戦を残した。
 どちらがモータースポーツへの影響を考えてかは明白だ。F1の名門でもないトヨタが撤退したところで、毎年繰り返される撤退と進出の一部に過ぎない。ところが日本でのF1開催を手放せば海外でおこなわれる可能性も高く、国内のファンはレースを生で見られる機会をなくしてしまう。
 このような企業のエゴも、いずれ「精算」を迫られる日がくることだろう。(談)

全文は→「8.pdf」をダウンロード

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2009年7月27日 (月)

ロストジェネレーション自らを語る/男性・26歳・無職 後編

(後編)

 インターネットが浪人時代に手に入ったっていうのはとにかくでかかったですね。岡山時代は外に出るきっかけがなかったけれど、ネットで外部の人とコミュニケイトする手段が出来て自分の世界が広がっていきました。人間関係には苦手意識があったけれど、浪人時代の一年間はネットで人とのやりとりがあったから、大学に入ってから実際のコミュニケーションがとるのが楽になったのかもしれない。折角田舎を出たから、人との関係をやり直そうという意識はあったので、頑張ったというのもありますが。おかげで、少し社交的な性格になることには成功しました。

 入学した大学は滑り止めのところでした。学部は社会学系でしたが、自分がどういうことをするのか正直分からないで入ったんですよ。実際、面白いところでしたけれど。メディア関係会社へのインターンシップ制度がありましたが、結局就職には結びつかないというか…業界の実情がかいま見えてしまうと、逆に行きたくないと思ってしまって。いわゆる就職活動というのは、リアルタイムではしていません。在学中、CDのインディーズレーベルでバイトをしていて、卒業後も継続して働いたんです。でも卒業して1年めあたりでバイト先が不安定になってきて、校正を主にやっている編集プロダクションに移りました。就職を一年ずらしたことで、就職事情が一時的にいいときに当たったんですね。ただ、そこは小さい会社だったのであまり教えてもらえるような雰囲気でなく、みんな自分のことで精一杯。私も手探りで作業して失敗して、ということが続いていっぱいいっぱいになってしまい、一年で辞めました。

 次は好きな音楽の会社、有線放送関係に入りました。しかしこれは2ヶ月ぐらいで辞めてしまいました。番組制作で入ったんですが、セオリーではなく感覚が大事な仕事があるんですね。それがなかなかできるようにならない。「なんでできないんだ、もっと頑張れ」と、努力でどうしようもできないようなことを求められて、追いつめられていきました。そうなると他の仕事もやれる心の余裕がなくなってきて、何をしたらいいのか分からなくなってくる。精神のバランスを崩してしまったんです。それからは一年間、働いていません。編集が職歴にあるんで、編集があればいいなとは思うんですが、自分のキャリアではまず受からないでしょうね。大体書類選考で落ちますね。諦めた方がいいんじゃないかと思うんですけどね。出版不況でもありますからね。

(聞き手:奥山)

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2009年7月26日 (日)

靖国神社/22回 みたままつり2007(下)

 こんなところで怒っても仕方ないと感じていたら参拝の案内が始まった。団体客から順番で参集殿をでる。出るとすぐに手水盤がありそこで手と口を清め、拝殿へ向かう。拝殿は畳張りで周囲には供物が並んでいる。
 かなり広い拝殿も、軽く50人……100人はいそうな参拝者が入るとかなり窮屈。そこでお祓いを受ける。お祓いを受けたら本殿へ。拝殿と本殿は少し距離があるが廊下でつながっている。階段の幅が狭く少し高めなのが気になる。参拝者の9割近くが高齢者だったので、靖国本殿はバリアフリーの観点から程遠さを感じたが、以前、バリアフリーの取材をしたときに「坂を登るくらいなんてことない」と言っていたおじいちゃん、おばあちゃんのことを思い出すと坂のみのらず、靖国でバリアフリーだのなんだのと言うのは野暮だということを改めて感じさせられた。

 本殿は拝殿の3分の2程度の広さでさらに窮屈さが増す。ぎゅうぎゅうで入りきれない人もちらほら。それから「かしこみかしこみ」と祝詞の奏上、そして玉串奉納。奉納したのは団体の代表者3名。奉納したあとは黙祷をする。黙祷が終わったら本殿から出て、直会。巫女にお酒をついでもらい本殿に向かって挨拶をしてから飲む。相変わらず辛口で、断酒して数年たつ私には少量とはいえ効いた。この直会のとき、「おー、酒酒」といって喜んでいたおっさんがいたが、儀式ということを知らないのだろうか。そそくさと飲んで行ってしまった。なんだかなぁ、という気持ちを抑えつつ参集殿へ戻ると、相変わらず例の候補者たちが新たな団体客に向かって熱い演説を繰り広げていた。
 とりあえずそれを左から右に受け流し、神饌をもらう。中身は干菓子で、原材料は砂糖、寒天、日本酒、焼酎など。「神前にお供えした御神酒を加えて調整したものです。(中略)神霊の御加護のもと御健勝にお過ごし下さい。」と書かれた紙が入っていた。さらに、小さく「この神菓には、お酒が含まれていますのでお車を運転の方やお子様は、お召し上がりをお控え下さい」という注意書きも書いてある。食べてみたところ日本酒の香りが口に広がりほのかに甘い。日本酒と焼酎の強力タッグに好き嫌いが分かれそうなお菓子である。

 そのあと、もう一つの目的である遊就館の見学へ。受付でちらしを出すと、いつもは800円で買わなければならないチケットを「これでお入り下さい」と手渡された。なんとなく得した気分。さっそく入場し、『樺太1945年夏 氷雪の門』(昭和49年制作)を見に行く。ちょうどクライマックスのあたりだったが、なかなかすごい内容だった。『仁義なき戦い』を思い出させるようなシーンの連発。しかも、公開10日前に旧ソ連の圧力によって公開中止を余儀なくされたいわく付き。
 なかなか面白かったが、『明治天皇と日露大戦争』には及ばない。映画を見終え、館内を見学。一通り見たあと売店へ。先月から気になっている「白ハトぬいぐるみ」を買おうか迷う。なぜ迷っているかというと、白ハトのぬいぐるみなのに、羽の部分が灰色。異種との混合を恐れる靖国なのに、ぬいぐるみはハーフ。本物が交わるのは勘弁だが、ぬいぐるみはかまわないということか。ぶらぶらとさまよっていたら、どこかで見たことある土産が。なんと、さっきもらった粗品が売られているではないか。値段は500円。500円もするものをちらしをだすだけでもらえるなんて太っ腹もいいところだ。さすがは靖国。

 そういうわけで2つの目的を達成し、靖国をあとにしようと思ったが、急にかけぼんぼりが気になり見に行くと、朝青龍のぼんぼりがあった。初めて見た彼のかけぼんぼりは「国」なのに、中の「、」が外に出ているという不思議なものだった。しかし、今年の彼のぼんぼりも「国」だったが、なんときちんと「国」という漢字が書けているではないか。今回の企画の中で一番感動した。無料で入れる遊就館よりも、500円の粗品よりも、熱い演説をする候補者よりもなによりも、朝青龍が「国」をきちんとうまく書けるようになっていたことが今回の企画の最大の収穫だった。
 なぜ最大の収穫かというと、「人は時の流れとともに成長する」ということを私に教えてくれたからだ。

 日々、悩みにぶち当たり落ち込んでは立ち直るということの積み重ねだが、そういったことを繰り返すことで時が過ぎていき成長する。非常に単純なことなのにそういうことはなかなか気づけない。今年のみたままつり取材は、はっきり言ってぐだぐだだったが、私にとっては意味のある取材であった。来年は、「お化け屋敷」と「見せ物小屋」のレポートをお送りしたい。エキサイティングなレポートを書けるように、これからの1年精進していきたいと誓った奥津裕美であった。(奥津裕美)

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2009年7月25日 (土)

靖国神社/21回 みたままつり2007(上)

 今年もみたままつりへ行ってきた。遊びで行けば楽しいまつりも、仕事で行くとなるとあまり気がすすまないというのが本音だ。もう何回目になるだろうか……。
 しかも今年は台風接近中で、ちょうどまつり期間中に関東に上陸するというではないか(実際には上陸せず東の方へそれて去っていった)。
 さすがにネタも切れてきたし、面倒だと思っていた矢先、奉賛会から会報が送られてきた。その中にみたままつりの案内が入っていた。いつもは靖国のホームページや、駅に貼られているポスターしかみていなかったのだが、その送られてきたものを見ていたら裏表紙の端に2ヵ所黄色いものがあるのを発見。
 何かと思ってよく見てみると、なんと遊就館無料拝観券と、粗品引換券がついているではないか。遊就館はみたままつり期間中のみ有効。粗品引換券は昇殿参拝受付でもらえるとのこと。これは数年前の福引きを思い出させるネタではないか! ということでさっそく初日(7月13日)に行ってきた。

 平日の午後2時くらいだとまだ露店も活気が少なく、客も少ない。浴衣姿の若者たちは夕方から増えるのだろう。そのかわり、高齢者が多い。
 露店で何かを買うのは取材が終わってからということにして、まずは粗品をもらいに昇殿参拝受付所へ。
 神門をくぐり受付へと向かっていると、能楽堂で奉納芸能が行われていた。だいたい30分から1時間くらいの間隔で、詩吟、マジック、バレエ、ダンス、古武道などなど、期間中たくさんのイベントが行われている。この中に、つのだ☆ひろコンサートも含まれている。このコンサートについては、2005年の記事でその模様をレポートした。どのようなコンサートなのかを知りたい方は、是非とも『誰も知らない靖国神社』(アストラ)を買って読んでください。

 自著の宣伝をしたところで本題に戻ると、ちょうど私が行った時間帯に行われていたのは浪曲だった。浪曲という名称はよく耳にするが、生で見たことはなかった。
 浪曲とは浪花節のことで、軍書、講釈、演劇、文芸作品に節をつけたもので、三味線に合わせて独演するものらしい。この日公演していたのは、春日井梅鴬さん。見た目60代のおばあちゃんだが、これがすごかった。
 年齢を感じさせない語り口、30分間ずっと唄いっぱなしなのに息が乱れない。その姿に圧倒されながら、浪曲はHIP-HOPと同じ路線なのではないかと感じた。リズムは三味線が担っているというもののほとんど自分でリズムを奏でている。さらに彼女は唄いながら少し振りも付けていた。おばあちゃんの奏でるラップ(浪曲ですが)。愛だの恋だのわーきゃー言いながら振りだけが大袈裟な昨今のジャパニーズHIP-HOPよりも浪曲の方が聞き取りやすいし内容も面白い。それに世界観も本場のアメリカンHIP-HOPに近いのではないか。とにかくそのソウルフルなばあちゃん浪曲師にしびれてしまった。
 とりあえず浪曲を見終わり、昇殿参拝受付へ。靴を脱いでげた箱に収める。ひっきりなしに訪れる人の多さに、靴が盗まれやしないか少し不安に。まぁ、靖国で盗みするヤツなんていないか。ここの参集殿は新しく、最近できたものだ。以前、霊能者と行った際は、たしか社務所で受付をしたような。

 今回の企画目的その1であるの粗品と交換するためにチラシを出す。すると出てきたのが「みたままつり ぼんぼり揮毫選集 第四十三輯」はっきりいって読めない漢字のオンパレード。頭が悪いと思われるのもなんなのでフォローすると、漢字の読み書きは得意な方だ。だが、これはない。読めない漢字を使うとは何事だ! とタダでもらったにもかかわらず心の中で文句をたれてしまった。
 中身はポストカードが10枚入っていた。ちなみに、「揮毫」とは、文字や書画を書くという意味があるようだ。たしかにかけぼんぼりは著名人が手書きで絵や字を書いている。なるほどね。

 さて、粗品をもらうだけではつまらないということで、数年ぶりに昇殿参拝をすることにした。
 申し込み方法は至って簡単。名前と住所(親族に合祀されている人がいればその人の名前を書く)を書いて、お金を入れる。お金はいくらでもよいそうだ。そして、受付の後ろにあるいすに座って待つ。これが個人参拝の申し込みの流れだ。
 それから案内があるまで待つのだが、その間に団体参拝者が一グループ表れた。彼らが団体参拝者用の待合いスペースへ座ったところへ、数人の男女が彼らの前へ立った。何事かと思い見ていたらなにやら演説を始めたじゃないか。
 尾辻秀久候補(現時点)がその団体客に対して、演説、そして、文部科学省の官僚の応援演説、さらに藤井孝男候補の演説……なんというか、いいのかこんなところで。そりゃあ、候補者にとっては団体客の顔が票に見えるかもしれないが、選挙に受かるためならどこで演説してもいいというわけではないような気もするが、尾辻秀久はあの「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」会員。靖国からすれば、靖国に好意的な人間が境内で演説することぐらいたいしたことではないということか。選挙の道具に使われても容認する靖国の懐の広さに非常に感激した。
 だがしかし、である。百歩譲って、参院選で受かった暁には国民の期待に応えることを約束したとして、なぜ団体客にしか名刺を配らない。なぜ個人客にも「よろしくお願いします」と言わない。いわれても一票入れる気はさらさらないが、本当に受かりたいならそれくらいしろ! となぜか憤りを感じてしまった。(奥津裕美)

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2009年7月24日 (金)

予算総額750億円、古賀誠がしゃぶった有明新法の陰で

Photo  諌早の干潟が淡水のヘドロに沈んで13年目の夏が来る。当初、ムツゴロウで知られている諫早湾を横切る全長7キロの大堤防計画はなかったが、80年代のバブルの盛りに、旧農林省が堤防構想を持ち出した。その結果、予算は2500億円を超え、ゼネコン13社は追加分の約1000億円の堤防工事に群がった。その後、魚介類を増やすために成立したのが有明新法という時限立法である。有明新法の別名は有明海特措法。予算総額750億円。主として有明海と八代海の魚介類の養殖に使う砂を海中に撒くための新法だった。

 赤潮被害を受けて、水揚げ量が激減。有明海沿岸の長崎・福岡・佐賀・熊本の漁師の負担を軽減するという大義の元、海砂が海中投棄された。激減した魚介類の環境回復が目的とされたが、長崎大学の海洋学専門の名誉教授は、効果がなかったと述べて、「利権でしょう。あんな馬鹿げた税金のムダ使いに乗る方がどうかしています」といった。

 この悪法を批判した結果、お上の横暴に泣く人が古賀誠の地元・福岡県大牟田にいる。名は早米ヶ浦漁協組合長の森永栄三さん(72)。古賀誠の福岡7区に住んでいる。04年の夏に森永さんの漁協に解散命令が出て、大牟田簡易裁判所で敗訴した。理由は水産業協同組合法違反。同法は年に90日から120日の漁業に従事する組合員が20人以上と定め、県によれば、森永さんの漁協は定員割れしていたが、「組合員の1人は、静岡県の建設現場に出稼ぎに出ていました。漁協から脱会せずに休退という形で籍を残していました。出稼ぎの理由は諌早干拓事業の影響で漁獲高が激減です」と森永さんは憤激する。
 福岡県庁水産林務部漁政課はその組合員に電話して誘導尋問めいた発言をさせて、返事を録音し法廷に提出し、一審の裁判官は証拠採用したのである。

Kannban  県の横暴に泣くのは森永さんだけではない。全国20万少々の漁師が構成する漁協の統廃合が加速化している。農水省は平成21年までと期限をつけて、地区単位の漁協合併を福岡県に命じたという。
 その結果か、平成17年になって福岡県内で漁協の解散処分がらみの行政訴訟が3つ起きた。県に睨まれていた結果だと異口同音に三漁協の代表はいうが、そのうちの1人の森永さんは古賀誠が県会議員になる以前から面識があった。森永さんは諌早湾の堤防に抗議して海上デモに参加。平成13年の冬には、他の30近い漁協の代表者とともに、国会に陳情に行った。すると、古賀の秘書は「古賀先生は今有明海に公共投資させる計画を作っている」と説明した。数年後、古賀が幹事長だった頃には、地元の有明漁協で会ったという。そのとき、古賀は陳情に集まった漁師を前にして有明新法に言及した。
「皆『古賀先生』と呼んでいました。私は昔のよしみで『古賀さんと呼んでよかな』と断って『国のために来たのか、漁民のために来たのか』と迫ると、古賀本人は憮然となり、SPなどの取り巻きに睨まれました。古賀がついに地元に海砂がらみの利権漁りに来たのかと内心笑いましたね。あれも解散処分を受けた原因でしょう」(同氏)

 全長7キロの大堤防はバブル最後の巨大ムダ使いだった。農水省はさらに100億円投じて、堤防内のヘドロを浄化したいとぬかす。天下り先を作りたいだけである。自民党と官僚支配の実態だが、題して「麻生渡・福岡県知事の漁協潰し」。24日発売の週刊金曜日誌上で詳しくレポートした。長崎・諫早では60億円の金が消えて、福岡では、諫早湾堤防開門命令に異を唱える漁協が連続して埠頭解散された。その陰で30人近い自殺者が出た。(李隆)

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2009年7月23日 (木)

『庄幸司郎 たたかう戦後精神』

41u4rz25k1l_sl500_aa240_  先月末、『庄幸司郎 たたかう戦後精神 戦争難民から平和運動への道』(松本昌次 編)が出版された。彼の遺稿を中心に集めたものだ。庄さんが亡くなってから、はや九年。ネット上では庄幸司郎さんを知っている方は少数派かもしれない。

 建設会社の社長であり、市民運動家であり、井上光晴氏や野間宏氏など多数の文化人と深い親交を結び、出版や映画事業などに出資を惜しまなかった人物だった。
 このWEB版の月刊『記録』も、もともとは庄さんを発行人として月1回印刷していた月刊誌だった。しかし92年に赤字のため休刊。94年から弊社が引き継いだのである。

 月刊『記録』の再刊と時を同じくしてアストラでアルバイトを始めたわたしは、月1回、雑誌の発送作業の手伝いとして庄さんの会社に通った。中野にあった事務所の出入り口近くで、ときに庄さんは昼間からビールを空け、わたしにも勧めてくれた。「大畑君は学がないねー」と、よく笑いながらしかられたものだ。一筋縄ではいかない人物で、おっかなくて、でも人懐っこく寂しげな笑みが印象的だった。

 『庄幸司郎 たたかう戦後精神』には庄さんが書いた次のような一文がある。
「一見すれば、日本の強力な軍事力に押さえこまれ、権力者や為政者のいいなりになっておとなしく従っているように見えた被支配民族の人びとでしたが、己が、その立場に立たれてはじめて、それらの人びとの長い年月の苦渋の幾分かを私は知ることができたと思っています。満足に言葉も通じ合わない為政者と話し合ったり交渉したりして自分たちの命を自分たちで守るほかありませんでしたが、私はそれで良かったし、そのおかげでいまだにこうして六十三歳になるまで生きてこられたのだと思います」
 この文に続けて、彼はもし武器を持っていたら逆に14歳で死んでいただろうと回想し、「私は非武装の日本国憲法第九条や前文の精神や理念に現実を少しでも近づける努力をするのが、大人として当然の義務だと思っております」と書く。泥棒や強姦を目的に、日本人の家へと乱入するロシア兵たちと渡り合ってきた経験が書かせた言葉だからすごい。重みが違う。

 実際、庄さんは運動においてブレなかった。自分が被るリスクなど恐れていなかったのだ。
 一度、中国人留学生の保証人を頼みに来た人を見たことがあるが、即座に彼は快諾した。訪問からわずか数分、留学生の名前すら確認しなかったと思う。旧「満州」の大連に生まれ、敗戦で引き揚げるまでの14年間に見聞きしてきた日本人の行為を謝罪したいとの思いだったのだろう。
 そうした行動の前には、左や右というカテゴリー分けなど、何の意味もないと感じたものだ。ただ人間としてかっこよかったのだから。

 本書には戦中から戦後にかけての自伝的な文章や、彼の市民運動へのかかわりに触れた文章などが収録されている。ヘビーな生活をタフな精神と行動力で跳ね返す生き様は、混沌とした時代を生きる私たちのエールにもなるだろう。(大畑)

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2009年7月21日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/猛暑の中で総選挙

 梅雨が明けた。一気に暑くなった。しかも猛暑ときたもんだ。まいった。
 例年と違っていたのは、恐怖すら覚えるような土砂降りや雷が全くなかったことだ。たとえ降ってもすぐ止むし、鳴っても遠くだから自分の腹がゴロゴロ鳴る音の方がデカイといった感じ。
 従って、自然災害による事故などはJRでも世間でも起きなかったことは大変喜ばしいことと存じます。
 それでも水不足騒動に発展しかねないかと自分勝手に心配していたのだが、先日のニュースで「ダムは問題なし」といっていたので、これも一安心である。
 しかし、油断は禁物だ。今後、雷雨がないという保証はどこにもない。そればかりか、台風が発生すれば豪雨になる可能性だってあるのだから。
 それにしても暑い。いきなりの猛暑で痛いくらいの強い日差しだ。朝から汗が吹き出してしまう。中央線や飲み屋は空調が効いて涼しいが、いつまでもいられる場所ではない。
 やっぱり、何事も無理をしないことだろう。ほどほどにがいいのだ。とにかくこの先、夏バテしないように対処しなければならない。

さて、話は変わるが、今、国民の最大の関心事といえば、何といっても政治の動きだろう。
 8月30日に総選挙が行われることが決まったが、末期症状で右往左往、異常事態に陥った自民党の終焉、すなわち、政権交代は確実な情勢となったというのが大方の見方である。
 半世紀にわたって国政を支配してきた自民党に代わって、野党第一党である民主党が政権を担い、国の舵を取る。民主党のこれまでの意欲と頑張りがいよいよ実を結ぼうとしているのだから、私もついつい応援せずにはいられなくなる。が、しかし……。
 そんな思いとは裏腹に、民主党にはそれほど大きな期待を寄せているわけではない。信用もあまりしない方がいいと思っている。世の中が良くなってほしいと願うのは勿論だが、何もかもが今すぐというわけにはいかない。政権を取ったことにより、これまで以上の強権政治になることだってないとはいえない。つまり、今の自民党の体たらくぶりを見ていると(見なくとも)、国民のことなど二の次なのだ。いつも自分たちのことが最優先なのは民主党も似たり寄ったりのはず。もうこれ以上政治に翻弄されるのは結構だといいたいのだ。
 誰もが皆、仕事も人生も与えられた時間は限られている。結局、自分を守るのは自分以外にない。また、年をとるにつれ急激な変化は好まなくなる。
 苦しいことも辛いこともいっぱいある毎日だ。つい弱気になり、心が空っぽになった時でさえ、小さな幸せを感じることもある。私にはそんな今のままが一番いいように思えるのだ。
 何はともあれ、まずはギラギラとした本格的な夏の到来に乾杯。カナ!? とりあえず。(斎藤典雄)

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2009年7月20日 (月)

書店の風格/第37回 火星の庭

 去る6月26日、仙台の「Book! Book! Sendai 2009」に参加してきた。「Book! Book! Sendai」は、詩人の武田こうじさんが代表を務める「杜の都を本の都にする会」で催すイベント名。仙台で、「人生にとってかけがえのない本との出会いを伝え、考えていこう」と発足した会だ。なぜこの素敵なコンセプトをもつ会に接触できたかというと、アストラ刊『出版奈落の断末魔 エロ漫画の黄金時代』の著者、塩山芳明氏と、本の帯絵を描いてくださった漫画家、いがらしみきおさんのトークイベントがあったからだ。司会はベテラン・南陀楼綾繁さん。

 トークイベントではいがらしさんがユーモア溢れるトークを炸裂させたり、塩山氏が地元を撮影したビデオを流したり(自作ナレーション入り!)、最後にはじゃんけん大会の優勝者にいがらしさんのオリジナルTシャツをプレゼントしたりと、賑やかな内容。それについては「Book! Book! Sendai」の公式ホームページに詳しいので、読んでみてほしい。→http://bookbooksendai.com/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=43

 今回おすすめする書店は、「杜の都を本の都にする会」のメンバーで、このトークイベントの主催となって下さった「火星の庭」。
 古本をメインとしたブックカフェで、ランチもやっている洒落たお店である。

 仙台駅をアエル側に抜けて、駅前通りに出る。5分ほど歩くと大きな通りに出る。仙塩街道だ。信号を左に曲がって一分ほど歩くと、左手に看板ともオブジェともいえない、鉄製のお鍋のような茶色いものが立てかけてあり、「火星の庭」と書いてある。気づかずにそのまま通り過ぎて錦町公園まで来てしまったら、来た道をちょっと戻ろう。
 お店に入ると、右側がカフェスペース、左側に本棚がある。真ん中の仕切はディスプレイ棚が使われていて、チラシのスペースとして活用されている。
 本は丁寧な品揃えだ。特に美術系は豊富で、美しい画集やデザインの優れているものなどが店全体に鮮やかさをもたらしている。手作り風味溢れる飾り棚や紙芝居も雰囲気作りに一役買っている。文庫は人文社会系が魅力で、一般の書店では到底お目にかかれないレアものもところどころにあり、ついついじっくり見てしまう。店主自身の蒐集家ぶりが滲み出ている棚であった。

 カフェではお茶やお菓子はもちろん、ランチメニューもあり、豆の沢山入ったココナツカレーがとても美味しかった。ライスが玄米なのも、何だか優しい。チキンなど肉類が入っているわけではないのに満足感はばっちりで、お得な気分を味わえる。女性にはたまらないメニューだと思えた。

 客層はやはり女性が中心か、と思いきや女性あり男性あり、団体客ありお一人様ありと様々な層をキャッチしている。一人新聞と古本を傍らにコーヒーを飲むおじさまの隣で、女子大生とおぼしき4人組が笑いあってお茶していたりする。選書にこだわりがあってカフェメニューも凝っていて、要するに割と個性の強い店のはずなのだが誰でも入れる気軽さがあるのは、店主のマジックかそれとも仙台マジックか。東京にも面白いブックカフェはあるけれど、客層が限定されてたり常連さんのたまり場になったり、割と内輪で成り立っているところがある。その善し悪しを問うつもりはない。でもブックカフェを特別視しないで、エキチカだからとかカレーが美味しいからとかゆっくり新聞が読めるからという理由で人が集まってきたら、きっとそこで読書の世界を変えるような動きがおこるような気がする。そんな妄想が揺り起こされる本屋さんだった。(奥山)

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2009年7月19日 (日)

日曜ミニコミ誌!/『界遊』

 5月10 日。文学フリマに参加した際、人だかりの出来ているブースを見つけた。雑誌はあっという間に完売になり、それでもなお行き交う人は絶えず、コミュニティ・ゾーンとして機能していた。ブース名は『界遊』。同名の雑誌を発行するサークルだ。この活気はただ事ではないと、代表の武田俊さんにお話を伺った。

ーーまずはこちらの『界遊』という名前なんですが、どういった意味が込められているのでしょう。ホームページを拝見すると「世界と遊ぶ文芸誌」というキャッチがつけられてますね。

武田さん(以下T):ジャンルの境界を越えて遊ぼうという意味です。僕らのキーワードの1つとして「対話」があって。それは『001 創刊号』で大きく取り上げた高橋源一郎の「小説のことは小説家にしかわからない」(『文藝』06 年冬号、保坂和志氏との対談にて)という発言に大きく影響されています。このような発言を小説家自身がしてしまうという問題を考えたいと思いました。小説は、本来は読者のために書くものでしょう。物書きと読者との有機的な関係を「対話」として記録できればという目的があります。小説、詩、漫画など表現には様々あるけれど、ジャンルごとの行き来がないという事態に不健全さを感じて、じゃあ僕らは一歩外に場所を設けて色んなものを取り入れていこうというのがコンセプトです。

ーーネット優勢の中、雑誌という形態を選んだのは何故ですか?

T:「対話」がキーワードならば、SNS やチャットなどがその機能を果たすのでは、という考え方はあります。ただ、無償で受け取るものは情報でしかないと思うんです。僕らは受け手に情報としてではなく作品として受け取って欲しい。そして、これは当たり前過ぎて気後れしてしまうのですが、やはり本という形態に愛着を持っているから、という部分もあります。なので、紙の上で記録したいという思いは強かったですね。
ただ、雑誌といっても「ミニコミ誌」を作りたかったというわけではないです。『界遊』を作りたかったんです。好きなモノばかりではなく様々なモノを取り上げる雑誌は、ミニコミ誌としては作りづらい。開かれた視点でみんなに届けようという姿勢があるので、商業誌に対してのミニコミ誌という態度では限界があります。「世界と遊ぶ」ためにも、形態に拘らず多くの人に届けたいと思っています。
『001 創刊号』の時は何もかもが初めてで大変でした。とくにDTP のソフトが使いこなせなくて、デザインの基礎も分からないままにガンガン詰め込んでしまいました。

ーーでも『001 創刊号』(08 年10 月)に比べて『002』(09 年3月)は格段にレイアウトの腕が上がっているように感じます。中身も、まさにジャンルを越境して豪華ですね。古川日出男さんのインタビュー記事のあとにアニメの特集、さらに漫画家の岩岡ヒサエさんまで登場してます。

T:『001 創刊号』を完成させた後、すぐに『002』の制作に取り掛かったんです。「もっと開かなきゃダメでしょ、世界と遊んでないじゃない」と感じる部分もあったので。先に言った高橋源一郎の発言について言及する記事が多すぎて、これでは小説に関心のある人にしか届かないんじゃないかと。このままではいけないと。『002』の制作は急務でした。そして文芸の枠も越えて漫画やアニメの特集を組みました。読み手はそのうちの何かに興味があれば、その記事を読んだついでにと、今まで自分には興味のなかったジャンルの記事も読むでしょう。そうやって読者の興味が広がっていく環境として機能していたら嬉しいですね。そのためにも、購買意欲が沸くようなアートワークとしての格好良さももっと追求していきたいと考えています。

ーーこれからの構想は。

T:『003』を7月末に発売予定です。興味を持ってくれたデザイナーさんが表紙まわりをデザインしてくださることになったので、ぐっとリニューアルしてお届けできると思います。
今回は人物ではなく、「奇書」というワンテーマで特集を組んでみました。やっぱり人は不思議なものに対して、好奇心を持つ生き物だと思うんです。そこで古今東西の「奇書」の書物としての魅力を伝えられたらと考えました。また今回は、批評家の田中和生さんをはじめ、宇野常寛さん、速水健朗さん、辛酸なめ子さん、青野春秋さんなどから寄稿を頂いています。

お笑いの企画を組んでいて、コントも言語表現ですのでその分析などをやっています。表現全体で考えれば広い世界なので、色んな企画が出来ますよね。これからは他のジャンル、例えば美術などとも関わりを持っていきたい。人と人をつないで世界で遊べるシステムを作ることができればと思っています。
ほかには、この『界遊』は私が大学3年時に立ち上げたのですが、現在ではメンバーの半数が社会人です。なので、学生の作っている雑誌というのではなく、界遊、という雑誌名だけで手に取っていただくことが目標で、そのためには雑誌だけではなく、対談イベントなど外での活動も積極的にやっていきたいと考えています。

『002』にある古川日出男氏のインタビュー記事は、他の文芸誌に全く負けない逸品。プロの小説家としての古川氏の気概が、これでもかとばかりにあふれている。…かと思うと特集の最後、古川氏に様々な犬の顔へのコメントをもらっていたりと、やはり通常の文芸誌とはひと味違ったチャレンジ精神がかいま見える。もちろん八人の編集者が織りなす小説や俳句、ごま油のレビュー(!)などもユニークで読み応えのある逸品。

(■B5判、800 円。取り扱い店舗はこちら→http://kai-you.net/)

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2009年7月18日 (土)

靖国神社/第20回 靖国デートはこう回れ!

 タイトルは前々からやってみたかった企画である。何度も書いているように最近の靖国は若者が多い。平日なのにたくさんいる。そんな人たちのためにいかに靖国を楽しく巡るかを提案してみたい(必要性の有無はこのさい無視)。
 まずデートするときに考えるのは服装。坂道や砂利道、舗装されていない道……靖国にはところどころデンジャラスゾーンがある。それらにじゃまされずスマートにデートするには、スニーカーか底が平べったい靴を推奨する。衣服は自由だ。
 さて、九段下駅1番出口を出て九段坂を上ると大鳥居と社標が見える。鳥居の大きさに驚きつつ、日陰を選んで歩こう。そして鳥居を越えたらすぐに右折。駐車場の方から回って、常陸丸殉難記念碑、慰霊の泉、戦跡の石などを見ながら森林浴。神社に来たら参道を歩くのがふつうなのかもしれないけれど、日差しが照り返す参道をわざわざ歩いて熱射病になったらタイヘンだ!
 その点、参道脇ならかんかん照りのなかでも涼しいし、マイナスイオンまで浴びられる。ところどころベンチもあるので、座ることもできてお得! 紫外線を気にする彼女に好印象を与えられること間違いなし。

 戦跡の石を越え、時計塔が見えたら少し参道へ。中央にそびえる大村益次郎像を見上げよう。ここで「この人ダレ~?」と聞かれたら、「大村益次郎って人だよ。この銅像は日本初の西洋式銅像なんだ」と説明できればいいが、あまり知識をひけらかしすぎると「ウザ~」と思われかねないので、注意が必要だ。益次郎を見たらまた右へそれ、緑を感じながら休憩所へ。ここでソフトクリームを食べよう。特におすすめなのはおでんなのだが、夏には向かない。ここは無難にソフトクリームを食べ、ほてった体を冷却したらお待ちかねの境内へ。
 第二鳥居を越えるとすぐ左手に手水舎があるので、そこで口と手を清めたら神門へ。神門横に記念撮影をしてくれる写真屋がいるので、記念に撮るのもいいかもしれない。2人の思い出を記録したらまっすぐ進み、参拝だ。その時、靖国のマスコット白ハトに出会えたらラッキー。彼らは気ままに生きる鳥だからあまり下界へ降りてこない。だからたまたま出会えなかったとしても気を落とさないでほしい。
 さて、参拝時、賽銭箱に入れるお金は、霊能者の先生によると願いを託すのであれば10円玉2枚くらいがちょうどいいらしい。そして、2礼2拍手1礼で参ろう。最近話題の某先生が、女性は手を叩かずに参るのが正式な
参拝方法だと言っていたがそれはウソである。もし彼女がその作法を信じて実行していたらやんわりと言ってあげよう。「お前はだまされている!」と。ウソの参拝方法をはびこらせないでほしいものだ。
 拝殿に参拝するだけでは物足りないという人は、そこから左へ歩いていくと小さな入り口がある。中へ入ると2つの社がある。元宮と鎮霊社だ。過去に鎮霊社を取り上げたさいは入場不可だったのに、現在は参拝可能なのだ。鎮霊社には、合祀されていない霊と、外国人の霊が祀られている。合祀される前のA級戦犯たちもここにいたのだ。または思い切って昇殿参拝をするのもいいかもしれない。厄払い祈願などもしてくれるそうなので、敷居はさほど高くない。ひと味違ったデートをしたいならばこれもおすすめである。

 参拝が終わったら神札授与所へ行き、おみくじ(100円)を引こう。お守りが欲しければ買って、絵馬を奉納したかったら願いを託してペンを走らせよう。ここで2人の未来を絵馬に託したいかもしれないが、ここは「子孫繁栄」あたりが英霊的にもばっちりかもしれない。
 そこから能楽堂前を通り、遊就館へ。遊就館へ行くなら2時間くらいはほしい。映画も見ないと損だし、館内を回るのも時間がかかる。それに800円の元を取らなきゃもったいない。ということで、2~3時間程かけてくまなく回ろう。帰りにおみやげを買うのもよし、喫茶店で横須賀ドッグと麦茶を飲むのもよし。でも、あまりお金を使たくない、というカップルには遊就館を出てすぐ隣にある靖国会館がおすすめだ。無料でお茶を飲めるスペースがある。そこで、インテリになった気分で、遊就館の感想や愛国心について、戦争についてを語り合おう。そこでお互いの価値観に違いが判明してケンカになったとしても責任はとれない。
 無事ケンカすることもなく過ごせたら、到着殿の方へ向かおう。ここは8月15日になると汗と怒号に満ちた大人たちの肉弾戦が行われる場所だ。「蒸し暑いなか大変だよね、マスコミの人たちは」などと同情しながら通り過ぎよう。
 そんな話をしながら歩いていくと、右手に相撲場と茶室。左手に神池が見えてくる。相撲場は立ち入り禁止になっているし、茶室にももちろん入れない。お茶の稽古は誰でも入会できるそうだから、大人の女性としてのたしなみをつけたいなら入会をしよう。
 さて、池といったら鯉だが、今回の取材にあたり池を見てきたら鯉はいなく、餌の販売機も中止になっていた。餌をやりながらまったりするのもデートには必要不可欠だがいないのでは仕方がない。神池庭園を愛でながらまったりするのもいいが、じつはおすすめスポットがあるのだ。

 神池を左へ進むとさっそうと木々が生い茂っている。今の時期(梅雨時)は、アジサイがきれいでたくさん咲いている。春の桜もきれいだが、裏手の小道で満開に咲き誇るアジサイもとてもきれいだ。四季折々の花や木々を見ながらベンチで和むのも日本を感じられてとてもよい。外国ではなかなか味わえない趣があって、ひさびさに癒された。
 やはりデートというと、テーマパークへ行ったり、ショッピングをしたり、映画館へ行ったりすることが多いかもしれないが、のんびり和やかに四季を感じたり、(少々偏りはあるが)歴史を学んだりすることもデートとしての醍醐味は十分にある。
 ただ神社をまわるだけならばつまらなさは否めないが、ここは靖国である。神社の枠にはまらないダイナミックなこの場所を端から端まで散策するのもたまにはいいのではないだろうか。(奥津裕美)

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2009年7月17日 (金)

池田大作より他に神はなし/第2回 ナポレオンをも凌駕する池田名誉会長の天才的先進性に驚愕!!

 やっぱり池田SGI名誉会長の力は偉大だ。今回の都議選の結果を見て心底痛感した。公明党、堂々の23人全員当選。投票率が高いと不利と言われる同党が、前回より10%以上アップした中で得た、一点の曇りもない大勝利だ。この歴史的偉業に、日顕一派も顔面蒼白だろう。

 一方の共産党。13人から8議席と激減したのに、『しんぶん赤旗』の14日付け1面は、“都議選共産党70万票 07年参院比例比15万票増やす 8議席確保 得票数で貴重な前進”と、選挙に勝ったごとくの妄言で飾る。投票率がアップしたのだから、票数が増えるのは当然。元々13議席しかないのに8議席まで激減した同党は、自民党よりも深刻な結果のはずだ。なのに全く反省がない。“蟹工船ブーム”に浮かれてるうちに、組織は上から下までガタガタ。批判しか出来ない共産党の宿命だ。

 敗因は? 共産主義自体がアナクロなのは言うまでもないが、指導者の質が一番の問題だ。借りて来たダンボみたいな志位ごときが看板の共産党に、良識ある一般市民が投票する気になると?いかにも不破哲三の“口パク操りダンボ”だし、感情のこもらない死んだ視線は、不気味なだけ。大衆が、「この人について行こう!」と思えない指導者がトップに立つ政党は、立ち枯れるしかない。

 偉大な会長のお言葉を、今回は『第三文明』8月号で味わう。連載対談第8回、「21世紀のナポレオン 歴史創造のエスプリを語る」が圧巻だ。4Cグラビアで堂々の17ページ(前回の『潮』でも感じたが、会長の対談は見開きページスタートばかり。普通は“片おこし”だが~特に漫画は~、会長のご趣味なのだろうか?余談ではあるが…)

 対談相手は今のナポレオン家当主、シャルル・ナポレオン。ナポレンの名前を取れば、単なる白髪頭のフランス人オヤジだが、鷹揚な会長は、名前や写真の扱いを同等に。筆者にすれば、永久不滅の太陽と、30ワットの裸電球を混同されたようで腹立たしいが、これも日仏親善の一環と、無理矢理納得する(努力中)。“ここ数年、私は環境への配慮(はいりょ)から、パリでの移動には、自家用車を使わず、自転車を頻繁(ひんぱん)に使用していますが、とても気持ちがいいものです”(54P)世界的宗教指導者、詩人、学者に加え、会長が先進的エコロジストなのだと思い知らされる下りだ。ただもう81歳の御高齢なのだし、万一の事を考え自転車は避け、特に体格のいい青年部有志による、人力車、あるいはカゴなどの方が無難だし、パリジャン&ジェンヌにも受けるのでは?

 ナポレオン軍ロシア敗退に触れた下りでは、軍事戦略家としても会長が、ただならぬ先見の明を誇る傑物である事を示す。“スピードが勝負です。戦いにあって、指導者の逡巡は致命傷(ちめいしょう)になります。そのわずかな逡巡も、現場では大きく増幅(ぞうふく)されて、混命(こんめい)をもたらしてしまうからです”(59P)

 日頃は先進的エコロジストライフに生きつつも、いざ国家国民危急の場合は、自ら車さえも81歳にして運転、スピードある決断で人々の礎になろう、そのためには命も投げ出すという、会長の確固たる青年のような意志が、メラメラと音をたてて燃え上がるような、感動的発言だ(これは無論編集部の責任だが、この対談がいつ、どこで、どういう形で行われたかは明示して欲しい。会長の写真が19年も前のソ連訪問時のだったり、シャルル君のは7年前のだったり、時代背景面で読者は混乱させられる)。

 もう1本必読の連載が。前原政之による、「平和・文化・教育の大道 池田名誉会長を語る」だ(これは片おこしスタート)。16回目は“「報恩」の誠につらぬかれた人生”だ。リード部分の“子どものころの恩をいまも忘れない名誉会長”“知恩・報恩の真心が育む韓国・中国との交流”等に、個人の記憶や尊厳の確保と、グローバルな世界的指導者である事の矛盾を、完璧に乗り越えている会長の人柄が感じられ、思わず膝を打つ思いだ。特に下記の部分に、先の都議選全員当選の必然性を見た。

 “名誉会長は言う。「私にとっての会員への恩返しとは、学会を裏切った輩から、健気(けなげ)な会員を断固(だんこ)守り抜く闘争であった」(中略)/宗門との闘争もまた、名誉会長にとって「報恩」の一つの形であった。否(いな)、むしろ不知恩の悪を追求(ついきゅう)することは、報恩の欠くべからざる戦いであるといってよい。それなくして、真の報恩はけっして成り立たないのだ”(76P)

 後世に残る日本語の形而上学的名文だ。左がかった知人にこの下りを示したところ、「宗教とはいえない。単なる憎しみのカルト。離脱したら徹底的に追求してやるっていう、学会員への脅し。オウム真理教とそっくり!」と、呆れ果てた感想を並べた。闘争心を失った報恩の精神など、糞の役にも立たない絵に描いたもちだという真理が、彼にはまったく理解出来ない。共産党員や日顕一派同様に、時の流れに絶滅するしかない、心の貧しい哀れな人々だ。

 ただ『第三文明』誌には不満も少し。まず高い(B5判・116Pで500円)。やたら全面広告が多く(表2/アサヒビール。表3/セコム。表4/大成建設他)、一昔前の総会屋雑誌、例えば『現代の眼』や『流動』のよう。会長の御尊顔やお言葉は、もっと落ち着いた環境で吟味したいというのは、末端の不肖の弟子のわがままであろうか?「池田大作より他に神はなし!!!」(つづく)(塩山芳明)

■塩山芳明…雑誌版『記録』にて『奇書発掘』を連載。エロ漫画編集者。著書に『出版奈落の断末魔~エロ漫画の黄金時代』(アストラ)、『嫌われ者の記』『現代エロ漫画』(共に一水社・絶版)、『出版業界最底辺日記』(ちくま文庫)、『東京の暴れん坊』(右文書院)がある。

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2009年7月16日 (木)

ホームレス自らを語る 第34回 元大手企業のサラリーマンだった/桜田康三さん(仮名・54歳)

 以前はサラリーマンをしていました。東証1部上場の大手鉄鋼メーカーで、東京・丸の内にある本社勤務でした。これでもスーツにネクタイをして、毎朝満員電車に揺られて20年間も通っていたんですけどね。
 それが直属の上司に嫌なやつが配属になって、彼は己の出世と保身しか考えない嫌われ者でした。とくに私とは反り合わなくて、ことごとくに対立し、最後はたがいに口もきかない関係になっていました。それで会社も仕事も面白くなくなって、自分から会社を辞めてしまいました。それがケチの付き始めでしてね。とうとう最後はホームレスに転落するまでになってしまいました。
 出身は宮城県です。家は専業農家で、4町歩(約4万平方メートル)ばかりの水田を耕作していました。

 私は3人兄弟の末っ子で、子どものころはおとなしい子でした。勉強はできるほうで、中学生時代には学年のトップテンから下がったことがなくて、特に数学が得意でした。高校は県立の普通高校に進みました。
 高校を卒業したのが昭和45年で、そのまま大手鉄鋼メーカーに就職して本社勤務になりました。仕事はシステムエンジニアで、ユーザー企業の工場ラインなどをシステム設計するものでした。予算と納期を守りながら、ユーザーのニーズに合ったシステムに組みあげる。それがエンジニアの腕の見せどころでした。
 仕事は忙しかったです。ちょうど高度経済成長期でしたから、どこの企業も設備投資が盛んで、生産ラインの近代化が図られていた時代でしたからね。毎日の残業と休日出勤はあたりまえで、納期前には幾日も徹夜が続くこともありました。月の残業時間が 150時間を超えるのもザラでした。モーレツ社員がもてはやされた時代です。
 ですから、独身寮と会社を往復するだけの毎日で、給料と残業手当をもらっても遣う暇がなくて、貯金が貯まる一方だったのを覚えています。そうやって貯めたカネも、都会の水に馴れるにしたがって、きれいさっぱりなくなってしまいました。何に遣ったのか覚えていませんが、みんな飲んでしまったんでしょうね(笑)。

 会社ではずっと本社勤務で、仕事もシステムエンジニアを続けていました。そのうちに例の上司が配属なってきて、職場の雰囲気が悪くなり、私自身も仕事に疲れを覚えていたこともあって、会社を辞めてしまいます。39歳のときのことです。
 鉄鋼メーカーを辞めて、宮城の田舎に帰りました。
 しばらく実家でブラブラしてから、近くの郵便局に臨時採用されて、郵便配達の仕事に就きました。しばらくして簡易郵便局の窓口業務のほうに回されて、そこで10年ほど働きます。
 ただ、簡易郵便局の臨時採用の給料というのは非常に安いんです。高校生のアルバイトに、毛の生えた程度のものしかもらえません。私は独身で実家に居候の身でしたが、それでも毎月のやり繰りが大変なくらいに安い。メーカーを辞めたときにもらった退職金がありましたから、それを取り崩しながらのやり繰りでした。
 しかし、その退職金もやがては底を突いてきます。すると、サラ金に手を出すようになっていました。最初のときに恐るおそる借りにいくと、これが驚くほど簡単に貸してくれるんです。あっけないくらい簡単でしたね。
 そうなるとカネのやり繰りに詰まると、サラ金で借りるのが当たり前のようになり、借金残高は雪ダルマ式に増えていきます。サラ金の利息は年30%近いですから、たちまち毎月の利息分の支払いにも追いつかなくなります。そのためにまた借金をしてと、悪循環に陥っていくわけです。

 結局、にっちもさっちもいかなくなり、これ以上いたら実家にも迷惑が及びそうになって、夜逃げのようにして東京に舞い戻りました。いまから4年前のことで、ちょうど50歳の年のことですね。
 東京に舞い戻っても、行くあてはないし、カネも持ってないし、その晩からホームレスになるしかありませんでした。新宿地下通路の京王線側のところで、ほかのホームレスの真似をしながら野宿をはじめました。いまも夜は同じところに寝ています。
 ホームレスになったころは、自分が惨めでならなかったです。どうしてこんなことになったのか、繰り返し考えたりもしました。

 私の場合は鉄鋼メーカーを辞めたところで、人生の歯車が狂ってしまいました。実は例の直属の上司ですが、私が辞めた1年後に左遷されて関連子会社に飛ばされているんです。彼は私以外にも職場の部下全員から嫌われていて、その部下たちの直訴で左遷されたんだそうです。あと1年。そのあと1年を、なぜ辛抱できなかったのかと悔やみましたね。
 もし、私が結婚していて女房や子どもがいたら、あんな短絡的な辞め方はしなかったとも思います。でも、いまさら後悔しても始まりません。そのときには最良の選択だと思って、自分で決めたんですからね。
 ホームレスになって4年になります。私が始めたころはドン底の不景気でしたが、最近はその景気が少し上向いてきたんじゃないでしょうか。それまで手配師は新宿駅周辺には寄り付きませんでしたが、最近はチラホラと出没するようになっています。私もその手配師の紹介で、このあいだ働きましたよ。
 このまま景気が回復していくといいんですがね。(2005年12月)

(聞き手:神戸幸夫)

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2009年7月15日 (水)

マイケルジャクソンは早死にだったのか

エルビス・プレスリー 42歳

ジョン・レノン 41歳

ジミ・ヘンドリックス 27歳

フレディ・マーキュリー 45歳

マーク・ボラン 29歳

キース・ムーン 32歳

ジョン・ボーナム 32歳

カート・コバーン 27歳

ジョーイ・ラモーン 49歳

男性アーティストで洋楽シーンに欠かせない者の多くは早死にしている。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビルボードの1位になったのが1955年7月8日。ここを基点にロックの歴史を考えると「まだ」54年。この間にこれだけの人が死んでいる。現在も存命で「欠かせない」男性といえば、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、デビット・ボウイ、エリック・クラプトンと数えることはできる。でもそれより多くが他界している……気がする。

そうだ。ボブ・ディランがいた。やはり彼はいろいろな意味で別格ですね(編集長)

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2009年7月14日 (火)

靖国神社/第19回 激突★奉納プロレス(下)

 18時12分第4試合。これは異種格闘技戦で、酔拳と截拳道の闘い。これは20分一本勝負で、箸休めのような試合に感じた。
 ちょうどジャッキーチェンの『酔拳』を見たばかり、それに截拳道のブルース・リーも同じく香港出身。やはり香港で暮らしていた者としては、かなり期待した。
 が、あまりおもしろくなかった。期待しすぎたからなのか、それとも両方の武道の神髄を私があまり知らなかったからなのか。もしくは、「燃えよドラゴン」のテーマがあまりにもベタすぎて醒めてしまったからなのか。いずれにせよがっかりしたのはたしかだ。これなら少林寺のショーのが数倍おもしろかった。
 がっかりした気分を抑え、18時20分。第5試合が始まった。高岩竜一、日高郁人(仮面をかぶっていた)、藤田ミノルのZERO1チームと、ディック東郷、折原昌夫(パイプイスを持っての登場)、マッチョパンプのFEC(ファー・イースト・コネクション)とのマッチ。
 FECはまさしくヒール! パイプイスなんてベタな物を持つというわかりやすいパフォーマンスありがとう。ヒールといえば凶器。それにしてもパイプイスで殴ってよく死なないといつも疑問に思う。死ぬまではいかないとしても、骨折ぐらいはしそうだ。デスマッチも然りだが、なぜなのだろう。やはり鍛え方か。
 このFECは私は知らなくて後日調べてみたら、ディック東郷のブログを見つけた。どれだけすごいことが書かれているのかと思ったら案外ふつうで、ヒールというのはリングの上だけということか……と納得。リングの上での姿が過激な分、素顔をかいま見るとそのギャップに驚いてしまった。というより、ヒールレスラーが以前よりも好きになった。
 結果は藤田がサスケだましセグウェイ→エビ固めでパンプをやっつけ終了。19分でかたがついた。

 ここで10分間の休憩。休憩中にダブルコロンというお笑いコンビが登場。笑ってしまうくらいおもしろくなかった。5月6日のディファフェスタ2007というZERO1のイベントでお笑い対決をすると言っていたが、どうなったかはわからない。
 寒さのせいなのか、お笑いコンビのせいなのかはわからないが少し冷えてきたところで、第6試合がはじまった。始まる直前、リング上にホスト崩れのような風貌をしたリングアナが、「赤コーナー……」と紹介しはじめたのだが、格好に似合わず声がいかにもリングアナのそれで人は見かけによらないということを実感。
 この試合は、大森隆男、村上和成、神風対高山善廣、佐藤耕平、スティーブ・コリノの対決。
 大森と高山には深い因縁があるようで、スポーツナビによると、「かつては全日本プロレス、プロレスリング・ノアで名タッグチームとして活躍していた2人だが、02年5月に解散。その後は別々の道を歩んでいたものの、昨年12・27後楽園に高山が突如乱入したのを機に因縁が再燃した。3・8後楽園では、インターコンチネンタルタッグ王座をかけて大森、中西学の王者組に高山、佐藤組が挑戦。佐藤がジャーマンスープレックスで大森を沈め、タイトルを奪取した。大森は今度は大谷と組んで3・21札幌で高山組へのリベンジに挑んだものの、高山のチキンウィングアームロックにまたも大森がギブアップ負け。初めて高山から直接黒星を奪われるというさらなる屈辱を味わわされる結果となった」ということだ。同じ奉納スポーツでも相撲とは違いプロレスではその因縁が持ち越されるらしい。
 リング外でも戦いが行われ、かなりヒートアップ。こういった背景のある試合の場合、だいたいリング外でのバトルにまで延長し、地獄絵図の様相を呈してくる。それがプロレスの醍醐味だと言われれば納得するしかないが、やはり血まみれの姿を見ると大丈夫なのかと心配にすら思えてくる。
 結果は、高山がエベレストジャーマンで神風をKOし終了。大男が大男をジャーマンスープレックスしてKOはなぜか気持ちいい。爽快感が漂いいい気持ちになったところで、最後の第7試合が始まった。

 ZERO1代表の大谷晋二郎対崔領二のマッチ。大谷の登場時にのぼりがあがり、赤いキラキラジャンパーを羽織って手には日本刀。「すごい(苦笑)」としか思えない。
 ゴングが鳴った後、さっそく崔が大谷にキックの応酬。さらにひざのテーピングをはずし右ひざを執拗なまでに攻撃。痛がりながらも(その痛がっている姿がなんというかわざとっぽく見える。本当に痛いのだろうけど)なかなかダウンしない。
 時間いっぱいあと少しで終了というところで、フルネルソンスープレックスホールドを崔に食らわせ終了。これは見応えがあった。

 試合後、大谷のマイクパフォーマンス。最初はいじめについて。ZERO1-MAXは「いじめ撲滅・元気創造」をテーマにしているそうだ。そのあとに、「プロレスの教科書2754ページ。プロレスを愛する人はたくさんいるだろう。しかしながら、プロレスを守る者は数少ない。その数少ない中の最大のプロレスの伝導者はZERO1-MAX、そして大谷晋二郎だ!」とプロレスの教科書を復唱した。
 このプロレスの教科書は、大谷の創作でプロレスへの熱き思いを語るためにあるらしい。それを約5分ほど語った後、観客の「崔コール」に応えるかたちで選手全員がリングに上がって「3、2、1、ZERO1、ウーMAX!」で締めた。
 ちょうどマイクパフォーマンスの時くらいから雨がポツリポツリと降ってきて、終了後に本格的に降り始めた。レスラーたちの気迫が通じたのか、それとも英霊のご加護なのかはわからないが、天気に見守られ無事に奉納プロレスが終わった。
 想像していたよりもおもしろく、スカパー!に加入してさらなるプロレスファン(?)への磨きをかけようと思った春の一日だった。(奥津裕美)

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2009年7月13日 (月)

●ホームレス自らを語る 第33回 気後れする性格が災いして/磯部さん(仮名・42歳)

0907  子どもの頃からおとなしくて、気後れする性格で、人前に出たり、人とうまくやっていくことが苦手なんです。よくイジメに遭って、暴力を振るわれたりもしました。ですから、学校が嫌いでね。小学生の頃から、義務教育の中学校を終えたら、高校には進まないで働こうと決めていました。

 それで中学校を卒業して働くようになりました。といっても、オヤジが工務店を経営していたんで、そこに入って手伝うようになっただけですけどね。その工務店には常雇いの社員が4人いましたから、その町では大きいほうだったと思います。仕事はやはり公共工事が中心でした。

 私が生まれたのは昭和41(1966)年、静岡県のF市です。兄弟は男ばかりの3人兄弟で、私が末っ子でした。学校ではイジメられっ子でしたが、オヤジが工務店を経営していたから、生活は裕福なほうでした。夏休みと冬休みは家族旅行に行くのが恒例で、両親と私たち兄弟の家族5人で、北海道や沖縄に行きました。

 ところが、私が17歳のとき、オヤジの会社が倒産してしまいます。オヤジが運転資金用にマチキン(町金融)から借金をしていて、それが返せなくなったからです。相手がマチキンですから、何をされるかわからないというんで、家族5人でこっそり夜逃げをしてきました。ほんとうに深夜に5人で逃げ出してきたんです。

 逃げた先は東京です。それで小さな家を借りて家族で住んで、オヤジ以下、子どもたち3人で、それぞれ働きに出ました。私はコンクリート打設用のポンプ車を、建築や土木の現場に貸し出す会社で働きました。こういう会社は我々も現場まで行って、打設用パイプの組み立てや、作業終了後の撤去作業をします。パイプは鉄製ですから重くてね。とくに、コンクリート打設後のパイプは、中にコンクリートが詰まっていて、さらに重くなっています。それを急いで担ぎ上げて垂直に立てて、コンクリートが固まる前に流し出さないといけないんです。それが重労働で大変でしたね。

 私がその会社で働くようになって3年目に、会社が不渡りを出して倒産してしまいます。あと少しでバブル経済に突入するという直前の倒産で、運のない話です。

 それからの私は上野の手配師から仕事をもらって、働くようになりました。ようするに日雇いの作業員ですね。建物の解体や土工の仕事が多かったです。

 その頃、2人の兄は家を出て独立し、私だけが両親といっしょに住んでいました。その両親が毎日のようにケンカをするようになって、そのとばっちりが私にもくるんで、たまらなくなって私も家を出ました。当時、東京都の日雇い作業者用の寮というのがあって、そこに入れました。1日2食の賄い付きで、無料という好条件でした。

 それで日雇い作業で稼いだ金は、両親の生活費に全額を渡しました。兄たちは面倒をみようとしないし、無収入の両親を放っておくわけにもいきませんからね。多い月で20万円を超えることもありましたが、平均すると月18万円くらいは渡せたんじゃないでしょうか。

 結婚はしませんでした。この性格ですから、女の人といっしょに暮らすなんて気詰まりで、考えただけでも息苦しくなりますからね。わりと早い時期から、結婚はしないと決めていました。

 あれは私が22か、23歳のときでした。ある晩、突然、激しい腹痛に襲われましてね。七転八倒するような痛みで、救急車で病院に運び込まれました。病名は急性胃炎。原因はストレスでした。寮での集団生活、稼いだ金の全額を両親に渡してしまうことがストレスになっていたようです。

 病院には2ヵ月間入っていました。退院してから、また日雇い作業に復帰しました。こんどは稼いだ金は両親に渡さないで、自分で貯金して管理をするようにしました。寮も出て、ドヤ(簡易宿泊所)を利用するようになりました。

 ところが、それから2年もしないで、バブル(経済)が弾けてしまいました。途端に、日雇いの働き口も少なくなり、みんなで争って奪い合うようになりました。私はそういう争いは苦手ですから、手配師のところには行かないようになったんです。

 そうすると、ドヤに泊まるカネもないですから、自然にホームレスになっていました。昼間はこの浜町公園(中央区)に来て、ボンヤリと景色を見たりしてしています。夜は近くの地下道に段ボールで小さな小屋をつくって寝ています。こんな生活がもう10年以上続いていますね。

 食べるものですか? この先にあるコンビニが賞味期限切れの食品を、ビニール袋に入れて出してくれるんで、それをもらってきて食べています。ただ、難点は毎日出るとは決まっていなくて、もらえない日もあるんです。まあ、贅沢はいえませんが。

 こうなったのも、私の気後れして人前に出たり、人と争そうことのできない性格に原因があったと思います。ただ、私もまだ42歳ですから、このままでいいとは思っていません。早く何とかしないといけないと考えているんです。

 といっても、この不況で仕事はないし、うっかり手配師の口車にのせらると、タコ部屋(暴力飯場)に送られたりしますからね。最近の手配師には信用できないのが多いんです。ここから脱出するにはどうすればいいのか、その方法がわからないんですよ。(神戸幸夫)

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2009年7月12日 (日)

ホームレス自らを語る 第32回 父親がヤクザの組長だった/三上裕志さん(仮名・45歳)

 生まれは青森県の弘前です。うちのオヤジはヤクザの組長をしていました。構成員20人ほどの、弘前では中堅クラスの組でした。
 オレは3人兄弟の長男で、下の2人が女でしたから、組の跡目を継ぐのは当然のようにして育てられました。小さいころは、オレ自身でもそう思っていましたね。
 子どもの目から見たオヤジは、文句なしにカッコよかったです。自宅が組事務所も兼ねていましたから、若い衆が幾人も住み込んでいて、家では下にも置かれないし、街を歩けば若い衆を従えて肩で風を切りで、ホントにカッコよかったです。
 ただ、オヤジとかヤクザを憧れの目で見ていたのも、小学校の低学年まででしたね。高学年になると、オレの周りに友だちが寄り付かなくなりました。たぶん、その親たちがヤクザの子と遊ぶのを嫌って、遊ばせなかったからだろうと思います。
 それに敵対する組との抗争が激しくなって、相手の組から殴り込みをかけられるということが幾度かありました。そんなときの闘いぶりは、ヤクザ映画のようにカッコいいものではなくて、生と死を争って血みどろになる凄惨なものでした。
 そんなことが重なると、だんだんにヤクザというものに疑問を感じるようになって、組の跡目など継ぎたくなくなっていました。ヤクザを嫌いになっていたんです。
 それで小、中学校は地元の学校に通いましたが、高校は東京の立川にあった都立高校に進学しました。オヤジには猛反対されましたが、20歳までは違う世間を見せてくれということで説得しました。でも、オレの気持ちのなかでは、20歳になっても弘前に戻るつもりはありませんでしたけどね。

 立川の高校では、はじめのうち言葉の訛りをからかわれたりして、少し辛い思いをしました。でも、半年もすると打ち解けて、あとは愉しい高校生活でした。何しろ、ヤクザの子と後ろ指を指すのはいないし、親の束縛からも解放されて愉しい3年間でした。
 ところで、オレには許婚がいましてね。相手はオレのオヤジと兄弟分の関係にあった人の娘です。彼女とオレは同じ年に生まれ、そのときに親同士で将来2人を結婚させると約束したんです。オレたち2人も、そのつもりでいました。
 その彼女が中学生のときに、白血病を発病させます。当時は不治の病でした。医者からも助からないだろうと言われました。自分の周りで、そんなドラマのようなことが起こるなんて信じられずにショックでした。
 その後、オレは東京に出てしまいますが、夏休みや冬休みには必ず帰省して、彼女を見舞いました。でも、行くたびに痩せ衰えていくばかりで、そんな彼女を励まし勇気づけるのは辛かったですね。それでも彼女はいつかは元気になって退院し、オレと結婚すると信じていたようです。
 彼女が亡くなったのは17歳のときでした。弘前から危篤だという連絡が入り、生まれてはじめての飛行機に乗って帰りました。それで彼女の臨終に間に合いました。きれいな死に顔でしたね。(三上さんは両眼にいっぱいの涙を浮かべ、しばらく口を噤んだ)
 ……17歳で人生を終えてしまうなんて、彼女があまりにも可哀想でね。オレにとっても辛い話で、これまで人にはあまり話したことがなかったんです。話してみると、やっぱり悲しくて辛くなりますね。
 その後、オレは結婚しないで、ずっと独身でした。あんなかたちで許婚を失うと、どうしてもそれを引きずってしまうんですね。

 高校を卒業して、弘前には帰らずに、こっちで就職しました。川口(埼玉県)にあった工業用ガスメーカーの大手の工場に入社して、ガス製造の現場で働きました。ガスの製造ですから、1つ間違えると大爆発につながる非常に危険な職場でした。
 実際に爆発事故が起こったこともあります。オレたちが作業をしていた同じ工場建屋にあった無人の製造装置が爆発した事故で、装置から 300メートルくらい離れていたのに、耳をつんざくような轟音と、身体が持っていかれそうな爆風が吹き抜けましたからね。幸いケガ人はありませんでしたが、工場の屋根はふっ飛んで、周辺はメチャメチャでした。
 オレがその工場に就職して2年目。19歳のときに、オヤジが突然亡くなります。原因は心臓発作でした。
 それでオレの跡目相続の問題が持ち上がりました。だけど、オレにはもうヤクザの世界に戻る気持ちはありませんでしたからね。オレは固辞し続けました。それでも組頭がしょっちゅう上京してきては、組を継ぐように説得するんです。彼が諦めて断念するまでに3年もかかりましたよ。しつこいのはヤクザの身上ですけどね。3年目にして、何とかヤクザの世界と縁を切ることができました。

 そのうちにガス製造工場を辞めてしまいます。26歳くらいのときだったでしょうか。何となく工場勤めがイヤになったんですね。
 それからは日雇い労働、トビや土工の仕事をしています。仕事があって懐の暖かいときは、カプセル(ホテル)か、ドヤ(簡易宿泊所)に泊まり、仕事にあぶれて懐の寂しいときは、適当に野宿でもする暮らしですね。といっても、これまでに野宿をしたのは数えるほどですけどね。
 いまはこんなホームレスですが、19歳のときにヤクザの世界に戻っていたら、どんな人生が待っていたんでしょうね。どちらが幸せな人生だったのかはわかりませんが……。(聞き手:神戸幸夫)

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2009年7月11日 (土)

Brendaがゆく!/日本でのコミュニケーション

昔の私だったら、道ばたとかで会った人と会話とかはしなかった。

微妙にイライラしてることが多いので。

知らない人とはなすのとかもすごい苦手だし。

しかし、ヨーロッパの暮らしの中では、うぜーよぉ~ってほどに、まわりがベラベラ、ベラベラ、ベラベラ、ベラベラ、天気のこととか、社会への害のない不満などを話しかけてきたり、井戸端会議していたり。

アタクシ、合理主義的には、会話に参加したい訳ではなく、その土地の言語を研くためにこのような場合は、あえて英語ではなくその土地の言語で自分もいいたいことをニコニコと(ここ重要!)しゃべることにしている。こうすれば、無駄な会話などない。しゃべりかたを学べる。言語学的に、しゃべりかたというのはこのような実践でしかもちろん学べんのだ。しかもネイティブ達と、無料で、願っても叶ってもないと思えば、日本では迷惑と思えるような会話も楽しめると言う訳だ。

じゃ、日本ではどうか?
話す理由がないよな。

がしかし、生活の習慣とはとてもいい意味で身に付いている物だと感じた。

先日の記事の中で書いた内容からのつづきであるが、

雨のスーパーの軒先で、天気を嘆くおばさんがいれば自然にそれに同調して会話ができる。むしろそんなことが新鮮で楽しいとさえ思える。この土地の人と会話をしている自分が嬉しい。

どこかいったさきで、わからないことがあり戸惑ったことがあればその場にいる人にきくのが一番素直で早い解決策ではないか。そんなことを相手が優しく受け入れてくれれば自然と感謝と感動が生まれる。(寿司屋での話)

日本人特有の微妙にこもった感じでそれ(会話)をするのではなく、いつものヨーロッパ的な感覚で話せば人には受け入れられるのだと感じた。(超個人的な感覚で読者諸君には理解しがたいと思うが)

あたしは、調子込んでいると思われるのがいやだから、そういう外人的な物を隠しているというのも今まではあったし。

とにかく、振る舞い(行動様式)が日本では全然違うところがネックとなって。
躊躇している自分がたくさんあったわけだ。

しかし、いつもどおりに普通に話せば日本でもいい感じになりますよって話。
これは、道ばただけの話だがな。

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2009年7月10日 (金)

告知――鎌田慧×竹信三恵子 トークセッション――

 一貫して労働現場を歩きつづけてきたルポライター、鎌田慧さん。現代日本の悲惨な状況を、歴史的な考察をふくめて描き出した新著『いま、逆攻のとき』(大月書店)の刊行を記念して、トークセッションを開催いたします。
 ゲストにお招きするのは、今年「貧困ジャーナリズム大賞」を受賞し、近著『ルポ 雇用劣化不況』も話題の竹信三恵子さん(朝日新聞編集委員)です。長きにわたって労働現場から日本社会を見つめてきた2人のジャーナリストが、いま何が問題なのか、これからの働き方はどうあるべきなのか、豊富な取材経験をもとに語り合います。
 小泉改革が吹き荒れ、国民の熱狂の中で労働者の首を絞める法案が成立いるなかでも、その危険性を指摘し続けた2人のトークセッションは必見です。

◆トークセッション名◆
『いま、逆攻のとき-使い捨て社会を越える』刊行記念
鎌田 慧×竹信三恵子
  現代の日本で働くということ
 
   

◆日時◆
2009年7月23日(木)18:30~

◆会場◆
ジュンク堂書店新宿店、8階喫茶。

◆入場料◆
1,000円(1ドリンクつき)

◆受付◆
7Fカウンターにて。電話予約承ります。
ジュンク堂書店新宿店 TEL.03-5363-1300

◆講師紹介◆
鎌田 慧(かまた・さとし)
ルポライター。主な著書に、『自動車絶望工場』(講談社文庫、1983年)、『反骨のジャーナリスト』(岩波新書、2002年)、『痛憤の現場を歩く』(金曜日、2005年)、『抵抗する自由』(七つ森書館、2007年)、『橋の上の「殺意」』(平凡社、2009年)など。

竹信三恵子(たけのぶ・みえこ)
朝日新聞編集委員。主な著書に、『日本株式会社の女たち』(朝日新聞社、1994年)、『女の人生選び』(はまの出版、1999年)、『ワークシェアリングの実像』(岩波書店、2002年)、『ルポ 雇用劣化不況』(岩波新書、2009年)など。

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2009年7月 9日 (木)

靖国神社/第19回 激突★奉納プロレス(上)

 寒さをこらえながら見てきた夜桜能から2日後の4月7日。日本の伝統文化から一転して、血と汗がほとぼしる野郎たち(女子もあるので厳密ではないが)の祭典『大和神州ちから祭り』へ行ってきた。この日の観客は約4300人だったそうだが、私には2000人くらいに感じられた。奉納相撲と違ってチケット制だからずいぶんな収益になったのだろうといやしくも考えてしまった。
 さて、格闘技の中ではプロレスが一番好きな私だが、生で見たことはないし、どちらかというと女子プロのほうが好きなので、奉納プロレスが復活をしたことは知ってはいたものの後回しにしていた。
 格闘技というと、総合格闘技(PRIDEなど)、ボクシング、柔道、空手……と挙げていけばきりがないが、なぜプロレスが好きかというと、ヒールがいかにも悪役だというアピールをするところと、なんともいえない茶番ぽさが好きなのだ。茶番というとレスラーには申し訳ないが、弱点を痛めつけたあと大げさに痛がってみたり、カウントをとられ9……と言ったところで起きあがったり。なんというか一つひとつが大げさなところがおかしいから好きなのだ。
 私の個人的な理由はここまでにしておくとして、当日は、夜桜能での寒い体験を思い出し厚着をして出かけた。暖冬のはずが3月から寒くなり、4月はまだ寒い。ピザまんをほお張りながら九段坂をあがり、一目散に相撲場へ向かった。17時開始だったので間に合うように行ったのだが、なんか騒がしい。
 どういうことだろう……と思いながら会場へ入っていくと、緑のコスチュームに緑のかぶり物(どうみてもガチャピン)をした人と、寅さんのような格好をした人の闘いが行われていた。
「人」としたのは、パンフレットを見るまで彼らの名前がわからなかったからだ。とりあえずゴングが鳴るまで観戦。その後、急いでパンフレット(1000円)を購入。さっそく誰なのかを調べると、緑の人はGha-Cha-Pingというらしく、アイルランドの児童養護施設で育った19歳。プロレスラーとしてファイトマネーを稼いで自分の育った施設に寄付をすることが夢だそうだ。いい奴だ。
 対する寅さんは、車冬次郎。プロレス界にフラリと現れたフーテンレスラーだそうだ。得意技は帝釈天落とし、葛飾柴又固め。どんな技なのか全く想像がつかない。一体どんな技なんだと悶々としていると、火入れ式が始まる。オープニング前に太鼓演奏があり、現在放映中のNHK大河ドラマ『風林火山』でも演奏している葛飾諏訪太鼓が叩いていた。

 17時18分、奉納第一試合は、プロレスリングSUN(ファーストオンステージの女子部興行名)。高橋奈苗(得意技:ナナラッカ、シャイニングヒザアッパー)、Hikaru(ラナキラーH、タワーハッカーボム)対前村早紀(花マル・どっかん、さきトンネル)、夏樹☆たいよう(たいようちゃん☆ボム)の試合。この4人は、SUNのメンバーで仲間内で戦うという形式。私の好きな女子プロの試合が見れるなんてうれしさひとしおだったが、結果はHikaruのLanakila-H→エビ固めで勝利。12分でケリが付いてしまった。
 17時33分第二試合。浪口修、高西翔太対菊池毅、谷口周平(プロレスリング・ノア所属)。前者は、今回の奉納プロレスを主催しているZERO1-MAX(ファーストオンステージの興行名)所属。両者血まみれになりながらも、浪口にジャーマンスープレックスをかました菊池の勝利。これも13分でかたがついた。
 17時49分第三試合佐々木義人(ZERO1)、関本大介(大日本プロレス)対澤宗紀(バトラーツ)、門馬秀貴(和術慧舟会)。佐々木、関本両選手がリング角に立ち上がり、両手持ったベルトを持ち上げるパフォーマンスをするのだが、何か原始的で捕った獲物を持ち上げ喜んでいるようにも見え笑ってしまった。がしかし、遠目で見た佐々木選手の顔はかなり私の好みではあった。
 この試合も佐々木がラリアット→エビ固めを澤にくらわせ勝利。これも18分程度で終わってしまった。
 基本的に30分1本勝負なのだが、かなり早く終わる。疲れるからなのか、やはりダメージがあるからなのか。どちらもなんだろうが、手に汗握る五分五分の試合だと、特に早く決着がついてしまうように感じる。ヤジは飛ばさないが、血湧き肉躍る状態になったところで終わってしまう。「ようやくのってきたのに!」と思ったところで次の試合になるので、気を取り直すことはできるのだが、精神的によくない。(奥津裕美)

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2009年7月 7日 (火)

●サイテイ車掌のJR日記/当ってしまった人身事故

○月×日
 人身事故に当ってしまった。
 中央線はいつものことだから、私達乗務員にとっていつかは誰かに必ず当る。よって、私に当ったからといって何の不思議もないのだ。といってもね……。
 発生は6月28日の13時55分。天候は小雨。東京から中央特快高尾行きに乗務していた。通過駅である武蔵小金井に差し掛かると、突然オットットットと身体が前につんのめるような体勢になりながら、急停車した。
 「急停車して申し訳ございません。原因を調べます。少々お待ち下さい」と早速アナウンス。
 「まさかアレじゃないだろうな」と咄嗟に思った。と、やっぱりその通り、「まさかのアレ」であった。
 「さぁ困った。こりゃ大変だ。あぁ、嫌だヤダよ~」と少し焦ったが、こんな時こそ職責をこえて一致協力してやれば大丈夫なのだと、半ば開き直りなのである。といってもね……。
 運転士によると、40~50代の女性がホームから飛び込んだのだという。電車は先頭車両1両がホームからはみ出し、残りの9両がホームにかかっている状態で停止していた。乗車率は約40%、乗車人数は約700人であった。
 「お知らせいたします。只今、この電車で人身事故が発生いたしました。負傷者の救出のためにしばらく運転を見合わせます。詳しい状況は分かり次第お知らせいたします。お客様におかれましては、電車から外に出ないようにお願いいたします。どうぞこのままでお待ち下さい。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません」と、今書けばこうなるが、私の場合は実際のところ「人身事故です。負傷者を救出します。止まります。すみません、すみません」ぐらいにしか放送はしていない。しかも、落ち着きを失っているからか、いつもより早口になり、お客さまには何をいっているのかさっぱり分からないというか、ただまくし立てているだけのような放送であったのだろう。
 東京方の後方を見ると東小金井を発車した後続の電車がすぐそこの駅間に止まっていた。運転士が発報した防護無線(併発事故防止のため、他列車を緊急停止させる無線)により、後続や隣接線等の列車は全て抑止されているのだ。
 そんなこんなで、知らせを受けた駅員3人が駆け付けてくれ、線路に降り、中腰になりながら車体下の負傷者を探すと、「いたぞ」と叫んだのは私の乗務員室からすぐ先の2両目の所だった。
 私はこの時、駅構内の事故でよかったと思った。駅間であれば、いずれ誰かが応援に来るにしても最初は運転士と2人きりなのだから。
 いずれにせよ、私も救助に行かなければならない。私は車両に搭載してある事故対応用のバッグをおもむろに取り出すと、防護服上下とマスク、ゴム手袋(いずれも細菌感染予防のため)を着用し、準備完了。
 すると、14時04分、指令から、同ホームの向かい側2番線の使用が可能のため、後続の列車から2番対応で運転を再開する旨の無線が入いる。従って、本電車のお客さま救済のため(長時間の缶詰状態を避けること)、ホームから外れている先頭車両のみを締切り扱い(ドアの開かない状態)にして、お客さまには後の車両へ移動してもらい、2番線に後続の電車が来る旨を案内して、残り9両のホーム側全ドアを開扉した。
 早くも、警察数人と消防隊員10人近くが到着。そして、私も現場へ直行。
 負傷者は、「大丈夫ですか~」と声を掛けるまでもない状態だった。更にいえば、男女の識別すら困難で、これが人間か、である。かわいそうに……。
 負傷者を安全な場所へ移動させるために車体下に潜るのはせいぜい3人位で十分。それはプロである救急隊にお任せすればいい。こんな所に10何人も必要なしと判断して、私は乗務員室に戻る。結局、私は殆ど何もしていない。見ているだけであった。
 14時25分、指令から再び無線連絡が入いる。本電車を回送にする通告だった。2番線には既に何本かの下り電車が来ているのに乗り換えないお客さま、また、車内は蒸し風呂状態で非常に暑いにもかかわらず(これは、車体下には1500ボルトもある機器類があり、救助の際に触れてしまうと死亡事故に至る危険性があるため、電車はパンタグラフを降ろし、停電状態にするので、空調もストップする)全く降りようとしないお客さま全員を降車させ、全ドアの閉扉。
 同33分、救助作業終了。
 同43分、最終的な安全確認がとれ、本電車の抑止解除。
 同49分、運転士と打ち合わせ、運転再開。現場54分延。
 あとは、警察による現場検証と駅員らによる遺留品の捜索、といっても、ズバリ、肉片などの後始末と消毒だが、発車した私が関知することではない。
 乗務を終え、事故報告書などを作成し終え、一息つくと、「それにしても」という感情が噴き出してくる。
 自殺した人への同情や憐れみなど微塵も湧いてこないのだった。それは何も知らない他人だからであろうか。ただただ気持ちが悪いだけである。人身事故は国鉄時代を含めるとこれで5度目だが、もう二度とごめんだ、見たくはない。と同時に、小さな怒りすら覚える。人に迷惑をかけて死ぬんじゃないよ、といいたい。世の中には生きたくても生きられない人も大勢いる。すぐに挫けないで頑張って生きてもらいたい。もっともっと年をとるまで生きろよ。誰だっていつかは死ぬんだから……。
 しかしながら、死体処理までする仕事というのは、私達の他にあるのだろうか。合掌。(斎藤典雄)

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2009年7月 6日 (月)

書店の風格/第36回 八文字屋本店

 びっくりした。
 八文字屋本店のある山形県は、記者の故郷である。幼少の頃から、父の車で街まで(市街地に行くことを「街に出る」という)遊びに行くと、必ず寄っていた八文字屋。なぜか大きなゴリラのフーセン人形がにこやかに出迎えてくれる八文字屋。専用駐車場に車が殺到するので、いつも「大沼デパート」に車をとめて徒歩で向かっていた八文字屋…。こんなに近くにあったから、気づかなかった。あなたがこんなに老舗だったなんて。

 八文字屋の創業は元禄時代。なんと300年もの歴史を持つ。紅花商人が東京で「八文字屋本」と呼ばれる類の浮世草子を仕入れてきて貸本を行った、というのが発祥らしい。山形、という名がつかぬ頃から、地域の文化の発信地として頑張ってきた本屋さんだ。

 店内は一階と二階にわかれていて、入ると棚は入り口に対して縦置きのものが多く、吹き抜けになっている部分があるため実際よりもかなり広く感じる。まず雑誌と新刊文芸が並ぶ王道の配置だ。他店に比べてシンプルでアットホームなところがないのは、POPを全く置かないから。そっけないと見るか、目線がごちゃごちゃしないで正解と見るか。本読みなら断然後者だろう。奥へと進むと左側は新書から文庫へのグラデーション、右側は一般書から専門書へのグラデーションが美しい。無駄のない構成が店内をいっそう広く見せることに成功している。本当は東京の中規模チェーン店ほどの面積もない本屋さんなのだが、洗練された品揃えが、それを感じさせない。

 二階はコミックと参考書のコーナーだ。そう、ワカモノ向けなのである。中央の吹き抜けをぐるっと囲んで展開される棚の向こうには併設されたカフェスペースがあり、購入した本をゆっくり読めるようになっている。高校生の頃、なぜか赤本を買い込んでいたことが昨日のように思い出される。受験期に赤本がこれでもかと平積みされる壮観さは、関東圏の書店ではあまり見かけられないけれど、ワカモノが日本全国どこにでも飛ぶ地方書店にとってはごくありふれた光景なのかもしれない。しかし、八文字屋に並んでいると、「参考書」もきちんとディスプレイすべき「商品」なのでは、と思えてきてしまう。
 あのころは、赤本も飽きずに眺めたものだった。本屋さんで売っているものは、全部が読み物であった。受験生なのをいいことに、受けもしない大学の赤本を何冊も買ったものだ。そんな衝動買い、きっと八文字屋でしかできないと思う。(奥山)

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2009年7月 5日 (日)

冠婚葬祭ビジネスへの視線/第33回 最近の香典返しは、どうなっておるのか?

 香典返しの種類といえば、

●茶
●海苔
●乾物
●タオル

が主流だ。

上の4品の共通点を挙げると、
1、軽い(弔問客が持って帰るのによい)
2、賞味期間が長い、または食物ではない(返品がきく)
3、単価のバリエーションがある(値段に差をつけやすい)

 どれもお返しものに不可欠な適性だ。
 とくにタオルやシーツは近親者に贈られ、「かたみわけ」の意味合いが強い。遺品として代表的な反物になぞらえているからだ。しかしこのラインナップ、評判が悪いことも確かだ。「葬式のお茶はどれもまずい」とよく言われる。そんな先入観を覆すほどの美味いお茶が出れば別だろうが、きっとそんなものは出ない。

 なお、田舎になると香典返しの種類は一変する。

●酒
●砂糖

と、利便性よりも重いもの、かさばるものをお返しものとして重宝する傾向が現れてくる。

 ちなみに都市部では逆に、軽いもの、かさばらないものが重宝され、その究極例がカタログギフトだ。

 先だって行ったフューネラルビジネスフェアでは、カタログギフトの紹介も多かった。印象に残ったのが「沙羅」。2500円から50000円までバリエーションがあり、カタログのデザインも落ち着いている。仏事を醸す繊細な色合いだ。中身も比較的落ち着いたものが取り揃えられてあり、実用的なものももちろんあるがスタイリッシュなデザインだ。もちろんファミリー向けの品物もある。25000円のカタログには自転車まである(!)。反返しだとしても40000、いや50000円を香典として持っていかなければならないが。ごく近い親戚の葬儀に夫婦で参列したときくらいしかお目にかかれない額だ。でも香典持って行って自転車もらえるなんて、なんだかお得な気がしてしまう。もらうのが楽しみな香典返しなんて、滅多にない。

 他にも挨拶状サービスあり、喪中葉書サービスあり、送品サービスあり…カタログギフト業界は激戦区のもよう。そんななかでもデザインの面で一歩出ているように感じる「沙羅」。当日返しは地元のしきたりに倣っても、あと返しはこだわって、じっくり選んでみては。(小松)

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2009年7月 4日 (土)

Brendaが行く!/日本の暮らしはどんな感じか?と言えば

日本にいます。

私としてはすごくバランスのいい感覚ですごしています(今のところ3日目)

その理由は、やっぱり少し休んでから来ているので精神的に余裕があるところかしら。

あとは、この間の長い滞在で結構免疫ができたかな。

普通の日本人らしく過ごしているし。

おのぼりさん的な感動はあるものの、どぎまぎはあまりせずに落ち着いて行動できるし。
一番幸せな感覚である。

現在のところ顕著に感じるのは下記の点
・ ショッピングが危険と思えるほど楽しいのがこの国の難点。笑
・ どうしてここまでメシがうまそうなのか?実際にうまい
・ 天気が最悪
・ あたしの知る限りの世界的(せま~)な範囲ではバカンス前のうきうき感で一杯なこの時期なのにこの国にはそれはない様子

日本人に対する感動
・ 雨の日にスーパーに行った。ヨーロッパ的感覚でやむとおもったので傘持たずに行ってしまった。ここは日本の梅雨だった。こういう面は自分でも歯がゆい。スーパーの前で傘も持たずに長靴も履かずに来たことを後悔していると、同じ場所でスーパーの開店を待つおばさんと天気の会話になった。素朴なおばさんが「お宅はこの近くなの?あたしの傘を貸してあげるから家まで行ってとって来なさいよ」って。あ~優しい人だなって思って日本人のおばさんもすごくいい味出している人もいるなと。

・ 寿司屋において。正直初めての寿司屋ではどういう風に食べるのが一番いいのか悩んだ。どういうものがこの店の売りかということと、歯に衣着せぬ勢いで書くが、アタクシにとっては迷惑なことに、外見からは安い服を着ている上に化粧もしていないのに金持ちと思われる。そのことからアタクシのような外見の者がおまかせでと初めての店で言ってその上日本に住んでいないことは会話からバレるので、会計の時に値段が・・・。アタクシの近しい友人は料亭関係のことに詳しいので、あの世界がどのように料金を決めるかアタクシはよく知っている。ただし、すべての店がそのようなわけではないもちろん。最初は、知らない人は誰かわからないので警戒するのと同じこと。

ま、アタクシは会計の値段を知らないことが多いが自身の品格の問題から、そういうことを大変気にしている。弟に忠告される「衣食足りて礼節を知る」だっけか。男目線での注意にはよく耳を傾けている。アタクシのポリシーから言えば、どうせごちそうしていただくことがわかっているのであれば、相手に迷惑のかからないよう、その食事がお互いにとって心地よい会食の場となるようエレガンスとGraceを駆使するのが女の役目。(日本人の女の感覚のそれとは随分ズレてるとは思うが)

そこで、隣に座っていたおばさんにマスターに聞こえないように聞いてみた「あの、あの、すみません。このお店初めてきたんですけど、どういうふうに頼むのが一番おすすめですか、おまかせがいいですかこの店は?」と聞いたところ。あっけらか~んとどのようにするか教えてくださって。好きな物を頼むのが一番いいと。そして「こんなふうに若い人に聞かれたら教えてあげたくなっちゃうわよね~」と。優しい人だ。しかも何を食べると健康にいいとか、マスターの仕込んだ物の中でも特においしいものとかも教えてくださった。いい人だ。

なんとなく、わかってきたことがある。
日本人の多くの人たちとも豊かなコミュニケーションをとる方法。

次回はその詳細を書く。
はっきり言って参考にならないので、読みたい人だけに読んでいただきたい。

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2009年7月 3日 (金)

アフガン終わりなき戦場/第19回 先進国の匂いがする街で(下)

 バグラム空軍基地は、ソ連侵攻時代に建設されたアフガニスタン最大の基地で、RCイースト(東部戦線)の拠点だ。また、アフガニスタンに駐留する兵士たちの生活の場でもある。
 駐留米軍を統括する司令官もこの基地にいる。私が訪れる数日前の5月、デビッド・マキャナン司令官が更迭され、首が挿げ替えられた。新任は統合参謀方部筆頭部長のスタンリー・マクリスタル中将になった。前任のマキャナンはオバマ大統領の2万1000人の増派に加え、もう1万人増兵を主張していた。オバマ大統領との戦略の違いがトップ交代の理由だと言われているが、真相は知る由も無い。何より、ここで働く兵士たちには何の影響も及ぼさないように見えた。

 喫煙所で煙草を吸っていると、3人連れの兵士が話しかけてきた。
「あんたどこからだい?」
「日本だ」
「じゃあ、アニメの『鋼の錬金術師』は知っているか?」
 白人の兵士がニヤニヤしながら聞いてくる。日本人だと言えばこの手の話題が来るのは承知の上だが、アフガニスタンとはミスマッチだ。
「アニメは少しだけ見た。マンガは読んでるよ」
「あれは面白いんだよな。母親を無くした少年二人のアドベンチャー。大好きだよ」
『鋼の錬金術師』では、軍事大国のアメストリスが宗教を篤く信じるイシュバール人の国を滅ぼすというエピソードが入っている。アメストリスの兵士の中には虐殺の罪悪感に苛まれ、自殺しようとしたり脱走する者もいた。イシュバール人の男「スカー」は戦後、復讐のために軍の中核をなした国家錬金術師を次々と暗殺していく。
 私にはアフガン侵攻やイラク戦争のオマージュに思えたのだが、アメリカ軍兵士が同作を好きだとは意外だった。
「ほら、こいつ。こいつはマンガ・アーティストなんだぜ。日本人にちょっと見てもらえよ」
 そう言って、白人兵士は横のノッポの黒人を私の前に押し出した。私の顔よりも高い肩の上に照れたような顔がのっている。私よりも少し若いだろうか。
ノッポは恥ずかしいよ、なんて言いながらポケットからipod touchを取り出した。
 画面の上をごぼうのような2本の指がスライドすると、アメリカ風ではない、日本風の絵がでてきた。さっ、さっと指を繰り、私に絵を見せる。随分と眼の大きな女の子のマンガだ。

 まるでアメリカに旅行にきたみたいだな・・・
 そう思っていると、スピーカーから大音量で何やら命令が出された。音が割れているのと、早口なので何を言っているか分からない。
 3人組が何も言わず喫煙所を離れて、基地のメインロードの端に並んだ。
 5分も立たないうちに、メインロードは兵士たちでいっぱいになった。2キロ以上はあるかという道が、先が見えないくらいまでに人の道になった。
「何が始まるんだい?」
「葬列だよ。今日殺されたんだ」
 どこからかラッパを持った楽団が現れ、ラッパを鳴らした。
「敬礼」の号令がかけられると、一列に並んだ兵士たちはドラマのように「ザッ」と音を鳴らして敬礼をした。
 兵士たちの隙間から盗み見ると、オープンカーにされた軍用車の荷台に星条旗をかけられた棺が見えた。
 1台、2台、3台。
 車が兵士たちを隔てて、私の前を通過していく。
 再度号令がかけられると、こんどは音もなく兵士たちが額から右手を下ろした。
 すると、終わるいなや、さっきの白人兵士が話しかけてきた。
「おい、アニメのDVDとか持ってないか? もう基地で売ってるのは全部見ちゃったんだよ」
 持っていないと答えると、邪魔しなた、と言って笑いながら歩いていった。
 ノッポの兵士をつかまえて、葬列について聞いてみた。
「まあ、週に2回か3回はあるね。東部戦線で死んだやつはみんなこの基地に運ばれて、それから本国に送られるんだよ」
 ノッポはニヤニヤしながら喋っている。ニヤニヤするのが照れ隠しなのかもしれない。
「こういうのって悲しくない?」
「そうでもないよ。慣れっこさ。それより、俺のマンガどうだった?」
 あいまいに答えて、私はホテル・カリフォルニアに引き上げた。途中、スーパー・マーケットでノン・アルコール・ビールを買った。アルコールは置いてなかった。

 基地での日常とはどういうものだろうか。外で殺し合いをしたと思ったら、基地に戻るとマンガの話が始まる。ノン・アルコール・ビールで乾杯して、アニメのDVDを見る。朝起きると、また殺し合いだ。
 悲しくなったり、切なくなったりしないのだろうか。
 数字は無常に結果を表している。陸軍だけで昨年は133人が自殺をした。
 外に出ると、日は完全に落ちていた。街灯が静かに基地に点々と光を落としている。光源加減か、彼らの内にあるものか、歩くもの皆皆真っ黒い影絵のように見えた。(白川徹)

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2009年7月 2日 (木)

ホームレス自らを語る 第31回 この生活も愉しい/山口さん(73歳)

 ボクの人生には語りたくないことが多いんですが、そんな中途半端な話し方でもいいんなら、話してみましょうか。
 ボクが生まれたのは東京の渋谷です。7人兄弟の下から2番目でした。
 父は外交官をしていました。この父は苦学の人で、あの松方正義(元首相で公爵)の書生をしながら大学に通い、苦労して外交官になった人です。
 その後、父は中国の領事館勤務になり、母と小学生だったボクと弟が、いっしょに行きました。ほかの兄弟は母の実家に預けられました。たぶん、学校の関係だったんでしょう。
 はじめて中国に渡ったときの印象は、怖かったですね。言葉や風俗の違う人々のなかに、いきなり放り込まれて怖かったです。慣れるのにだいぶ時間がかかりました。父親の転勤で中国国内や満州(いまの中国東北地方)の領事館を3回ほど変わりました。
 昭和20年8月の終戦は、中国国内某都市の領事館で迎えました。その終戦の日の数日前から、父はどこかの機関に出頭したまま帰ってきませんでした。いつまで待っても帰ってこないし、それで母の機転で日本に引き揚げました。小倉(いまの北九州市)にあった母の実家に弟と3人で身を寄せました。
 そのうちに父も帰ってきて、一家で東京に戻りました。その間、父が何をしていたかは、よくわかりません。
 終戦のとき、ボクは旧制中学の生徒でした。日本に引き揚げて転入し、その間に学制改革があって新制高校に変わりました。大学は学習院の政経学部に行きましたが、なぜ学習院だったのか、そのへんの事情は語りたくありませんね。
 そのころから、ボクはジャズ歌手の真似ごとをして、金を稼ぐようになっていました。都内のクラブで歌うのが主でしたが、日劇のミュージックホールで歌ったり、進駐軍のキャンプを回ることもありました。平尾昌晃はそのころいっしょにまわった仲間です。
 そんな歌手の真似ごとをしているうちに、学業との両立が難しくなって、大学はやめました。中退です。だからといって、本気で歌手になる気もありませんでした。そこまでの実力がないことは、自分でもよくわかっていましたからね。
 そのうちに世の中が落ち着いてきて、案の定、歌手の仕事は減ってきました。それでも何とかして食わなければならないから、いろいろ働きました。日雇いの肉体労働以外の仕事は、たいがいの仕事をやった気がします。
 結婚はしましたよ。相手は九州・熊本出身の女性です。子どもは女の子が2人。結婚して、子どもができたのに、職業を転々とする根無し草の生活をしているわけにもいきませんからね。それで商売を始めました。
 木材の輸入業を始めたんです。東南アジアやアメリカの木材を輸入して販売する会社です。といっても、そんなに大きな会社ではありませんよ。従業員が一番多かったときで5人の会社ですからね。商店のようなものです。
 そんな小さな会社でしたが、女房と娘たちには、不自由な思いはさせずに、世間並みのことはしてやれたと思っています。商売は地道にやりましたから、大きく儲けることもなかった代わりに、大きく損をすることもなくてね。まあ、堅実な会社でした。
 娘はふたりとも結婚して、2人とも孫がいます。女房は先年に亡くなりました。病気でしたが、これについては語ることもないでしょう。というより、この話も語りたくないな。  ボクは歴史に興味があって、それを調べるのが好きでしてね。娘2人が嫁いで、女房も亡くなって暇ができるようになり、仕事の休みを利用して神社、仏閣めぐりをするようになりました。私の場合は建物や庭園の結構を愛でるよりも、そこに所蔵されている古文書を見せてもらうのが目的でした。
 ボクの愉しみは古文書を解読すること。歴史上の特定の事件などを調べているわけではないから、古文書なら何でもいいんです。室町時代のあたりから江戸時代のものまで、脈絡なく片っ端から解読しています。
 古文書には楷書で書かれたものはむしろ少なくて、行書体や草書体のものが多い。なかには漢文のものもあります。解読には手間取りますが、それだけに読めたときの喜びも大きいわけです。
 それでボクはしだいに古文書にのめり込むようになって、仕事も従業員まかせになっていました。もう会社には出ないで、毎日竹橋(千代田区)にある国立公文書館のほうに通って、古文書三昧の生活になっていました。
 それがいけなかったんですね。ボクが最も信頼して仕事をまかせていたベテランの従業員が、店の金のありったけを持って逃げてしまったのです。それで店は倒産。ボクは住むところも失って、路上で生活する身となりまた。2年前のことです。
 こうなったのもボクの責任です。商売をそっちのけにして、古文書にうつつを抜かしていたわけですからね。悪いのはみんなボクです。誰も恨めません。
 じつは、ボクは楽天論者でしてね。こんな路上生活の身に落ちぶれながら、自分ではこの生活を愉しんでいるんです。だいいち、もう誰に気兼ねすることもなく、公文書館に入り浸って、心いくまで古文書の解読に没頭できますからね。ボクにとってはこれ以上の幸せはありません。
 身体はいたって健康、足も健脚、動けるうちは古文書を求めて東奔西走を続けるつもりです。それから先のことは、そのときに考えればいいでしょう。(聞き手:神戸幸夫)

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