三沢光晴とガチンコ勝負
6月13日、プロレスラー三沢光晴が試合中でバックドロップを受け、そのまま意識不明となり死亡した。頸椎(けいつい)損傷だったという。
そんな危ない技を歳を取った三沢にかけるなといった対戦相手への批判がネット上で起きたことに、正直驚いた。プロレスがショーであることが、そこまで当たり前だと思っていなかったからだ。
プロレスがガチンコ勝負だと思われていた時代は短くない。ただのショーだと思っていたのなら、力道山に日本中が熱狂することもなかっただろう。また、40歳である自分も少なくとも中学生ぐらいまでガチンコ勝負を信じていた。
もちろん今から考えれば不自然なことは山ほどある。真剣勝負で何十分もの試合を毎日していたら身体が保つわけないし、総合格闘技を見慣れた現在では関節技を何分も耐えることなどできないと知っている。でも、当時はそんな疑問など脳裏をかすめることもなかった。
一体いつからプロレスがショーだと認識するようになったのだろう?
新日本プロレスのレスラーだったミスター高橋が、『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』を書いたのが2001年。流血試合のためにカミソリを使うなど具体的な記述は、反論の余地すらないものだった。ただ、ショーだという認識はもっと前から広まっていた気がする。
その大きな転機となったのは87年、前田日明による長州力への顔面キックだろう。この一発で前田には無期限出場停止処分が下り、翌年3月には解雇処分となる。なぜ解雇しなければならなかったのか。その疑問は「本気で蹴ったから」という答えを導かざるを得ない。
結局、その年の5月に前田はUWFを旗揚げ。まったくのガチンコ勝負ではないもののショー的ではない技の応酬という意味で、総合格闘技の礎を築いていく。
一方、三沢は84年から二代目タイガーマスクとして人気を獲得していく。空中戦を中心とする技の数々は、きわめてプロレス的といえる。しかし当人がプロレス的で志向であったかどうかは微妙だ。彼の熱狂的なファンだったわけではないが、彼の試合はギリギリまで踏み込んでいたと感じるからだ。
例えば91年の田上線で初披露した「タイガードライバー'91」 は、腕をロックしたまま落とすため受身が取れない、かなりヒヤリとさせられる技だ。危険だからと彼が一時期封印したのもうなずける。また彼は試合でベイダーの腕を試合で折っている。
とても「お約束事」の範囲とは思えない。
プロレスの範囲を保ちつつ、ギリギリまで真剣勝負を追求する。その姿勢がファンを魅了したのも事実だが、ときに早めに試合を止める総合格闘技以上に彼は危険な領域に入り込んでいったように想えてならない。それを可能にしたのは「天才」といわれた一流の受け身だった。
初代タイガーマスクの佐山聡は人気絶頂のさなかに新日本プロレスを辞め、結局、総合格闘技へと路線を変えた。際だった格闘センスが「ショー」の権化ともいえるタイガーマスクを許せなかったかもしれない。一方、二代目タイガーマスクだった三沢光晴は、同様の格闘センスをプロレスで生かす選択をした。ブクブクに太った佐山と46歳にしてリングに上がり続けた三沢。どちらが格闘家らしいかと考えると不思議な気持ちになる。
最期に仕掛けられた技が、試合で比較的よく使われる「バックドロップ」だったことも、格闘技と「ショー」の境目がギリギリだと教えてくれた。ほんの少し間違いがあれば死に直結する。そんな世界で46歳まで第一線で闘い続けた三沢選手の冥福をお祈りしたい。(大畑)
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